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アンパンマン強さ議論スレ Part3
- 1 ：それいけ!ななしまん 天才です(８級)：2016/11/29(火) 21:39:21.20 .net
- 前スレ
アンパンマン強さ議論スレ Part.2
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/anichara/1377576885/
アンパンマン強さ議論スレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/anichara/1240894358/
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- 2 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2016/11/29(火) 21:46:59.68 .net
- 保守
- 3 ：現行ランキング：2016/11/29(火) 22:21:23.07 .net
- EX アンパンマン(スターライト)
SS デビルスター
S+ アンパンマン(勇気100倍) ブラックノーズ ゴロンゴラ(陸&海)
S アンパンマン(ドーリィ蘇生) スーパーカビダンダン ジャイアントだだんだん メタルグリンガ バイキンヘンテエネルギーメカ(戦闘形態)
S- ニャニイ(覚醒) アンパンマン(ヤミラの剣およびサンシャイン) アンパンマン(元気300倍) ジャイアントベアリングロボ ムウマ
A+ 元気100倍アンパンマン(りんごぼうや) スーパーダダンダンモグリンスリー ズダダンダン ヨゴスゾウ バイキンシャボンダダンダン 鋼鉄ばいきんまん スーパーダストデーモン チェンジバードロボ スーパーモグリン1号
A 黒雪姫 マジョーラ ブラック大魔王 氷の女王 ブラックココリン 黒バラ女王 化石の魔王 こおりおに(バナナ島) どくむしロボ ガラゴン ジャイアントモグリン 巨大鉄骨ホラーマン
A- ばいきんまん(大魔法) ウッドラー ばいきん大魔王(メコイス) ドロンコ魔王 バイキン大魔王(バイキン星の王) ランプの巨人 砂の魔王 モグリンゆうれい船
B+ ブラックロールパンナ(ロールとローラ) ハロウィンマン 闇の女王
B アンパンマン(元気100倍) ロールパンナ 鉄骨ばいきんまん スーパーモグリン2号
B- バイキン黒騎士 すなおとこ(虹のピラミッド) にじおばけ いわおとこ こおりおに なだれおに くらやみまん
C+ グリンガ 鉄骨ホラーマン 怪傑ナガネギマン あかちゃんまん ファイヤーモグリン
C へどろまん おばけいか ヌラ クータン ゴミラ モグリンガー2号 たぬきおに
C- ベロリだだんだん やみだんだん だだんだん ジャイアントばいきんまん(2000年) おむすびまん ニセパンマン アンパンマン 辛さ100倍カレーパンマン ゴロンゴロ もぐりん
D+ ジャイアントばいきんまん(2008年) 鉄火のマキちゃん 忍者のニャンジャ かつぶしまん
D バイキンUFO バイコング しょくぱんまん カレーパンマン アップルパイアンパンマン かぜこんこん アングリラ アンコラ ストーンマン でかこ母さん ゴールドかまめしどん
D- フランケンロボ もみじ王子 さくらもちねえさん サラダ姫 カエルリュウ
E+ アンパンマン号 しらたき姫 きりふき仙人
E やきそばパンマン ハンバーガーキッド ニガウリマン ザーマス・ボンド ひのたまこぞう ドキンUFO
E- アンパンマン(勇気3倍) かんづめカンたろう メロンパンナ こむすびまん かみなりピカタン
F+ SLマン ばいきんまん(バイキン光線の拳銃) つきのしらたま 栗のかまめしどん
F カップラーメンマン クリームパンダ アリンコキッド ハニー ショウ・ロン・ポー トリオ・デ・グー クリ・キン・トン てんどん母さん カッパのカピー ちゃわんむしまろ しかくおに さんかくまん
F- ばいきんまん(ハンマー) ドーナツマン ちびぞう ちょうちんへいじ アンパンマン(顔が〇〇〇で力が出ないver)
G+ はみがきまん ダテマキマン
G ムシバキンマン たいふうぼうや らーめんてんし みるくぼうや ちくりん だいこんやくしゃ もくちゃん
G- アンパンマン(元気3倍) かぜこぞう ミミ先生 レアチーズ チーズ ドキンちゃん ドーリィ
H+ ばいきんまん てんどんまん カツドンマン かまめしどん キャベツマン りんごぼうや
H いぬのおまわりさん ドリアン王女 ホラーマン ドンキ・ホタテ
H- ジャムおじさん バタコさん カバオ他 かびるんるん べろべろまん やみるんるん
- 4 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2016/12/01(木) 07:57:54.10 .net
- 保守
- 5 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2016/12/02(金) 17:33:51.51 .net
- 保守
- 6 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 16:20:59.71 ID:Q3I+0IU3U
- が、はっきりと見えるのは「生活、正月号」
- 7 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 16:32:45.56 ID:Q3I+0IU3U
- と云う初号活字である。
- 8 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 16:44:31.22 ID:Q3I+0IU3U
- 大きい常磐木の下にあるベンチ。
- 9 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 16:56:17.12 ID:Q3I+0IU3U
- 木々の向うに見えているのは前の池の一部らしい。
- 10 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 17:08:03.22 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はそこへ歩み寄り、がっかりしたように腰をかける。
- 11 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 17:19:49.07 ID:Q3I+0IU3U
- それから涙を拭いはじめる。
- 12 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 17:31:35.05 ID:Q3I+0IU3U
- すると前の背むしが一人やはりベンチへ来て腰をかける。
- 13 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 17:43:20.85 ID:Q3I+0IU3U
- 時々風に揺れる後ろの常磐木。
- 14 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 17:55:06.54 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はふと背むしを見つめる。
- 15 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 18:06:52.16 ID:Q3I+0IU3U
- が、背むしはふり返りもしない。
- 16 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 18:18:37.99 ID:Q3I+0IU3U
- のみならず懐から焼き芋を出し、がつがつしているように食いはじめる。
- 17 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 18:30:23.89 ID:Q3I+0IU3U
- 焼き芋を食っている背むしの顔。
- 18 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 18:42:09.91 ID:Q3I+0IU3U
- 前の常磐木のかげにあるベンチ。
- 19 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 18:53:55.59 ID:Q3I+0IU3U
- 背むしはやはり焼き芋を食っている。
- 20 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 19:05:41.34 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はやっと立ち上り、頭を垂れてどこかへ歩いて行く。
- 21 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 19:17:27.35 ID:Q3I+0IU3U
- 斜めに上から見おろしたベンチ。
- 22 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 19:29:13.13 ID:Q3I+0IU3U
- 板を透かしたベンチの上には蟇口が一つ残っている。
- 23 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 19:40:59.79 ID:Q3I+0IU3U
- すると誰かの手が一つそっとその蟇口をとり上げてしまう。
- 24 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 19:52:46.16 ID:Q3I+0IU3U
- 前の常磐木のかげにあるベンチ。
- 25 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 20:04:31.89 ID:Q3I+0IU3U
- ただし今度は斜めになっている。
- 26 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 20:16:17.58 ID:Q3I+0IU3U
- ベンチの上には背むしが一人蟇口の中を検べている。
- 27 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 20:28:03.60 ID:Q3I+0IU3U
- そのうちにいつか背むしの左右に背むしが何人も現れはじめ、とうとうしまいにはベンチの上は背むしばかりになってしまう。
- 28 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 20:39:49.51 ID:Q3I+0IU3U
- しかも彼等は同じようにそれぞれ皆熱心に蟇口の中を検べている。
- 29 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 20:51:35.26 ID:Q3I+0IU3U
- 互に何か話し合いながら。
- 30 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 21:03:21.45 ID:Q3I+0IU3U
- 男女の写真が何枚もそれぞれ額縁にはいって懸っている。
- 31 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 21:15:07.09 ID:Q3I+0IU3U
- が、それ等の男女の顔もいつか老人に変ってしまう。
- 32 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 21:26:52.82 ID:Q3I+0IU3U
- しかしその中にたった一枚、フロック・コオトに勲章をつけた、顋髭のある老人の半身だけは変らない。
- 33 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 21:38:40.82 ID:Q3I+0IU3U
- ただその顔はいつの間にか前の背むしの顔になっている。
- 34 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 21:50:26.53 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はその下を歩いて行く。
- 35 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 22:02:12.33 ID:Q3I+0IU3U
- 観音堂の上には三日月が一つ。
- 36 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 22:13:58.42 ID:Q3I+0IU3U
- ただし扉はしまっている。
- 37 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 22:25:44.25 ID:Q3I+0IU3U
- その前に礼拝している何人かの人々。
- 38 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 22:37:30.04 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はそこへ歩みより、こちらへ後ろを見せたまま、ちょっと観音堂を仰いで見る。
- 39 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 22:49:16.11 ID:Q3I+0IU3U
- それから突然こちらを向き、さっさと斜めに歩いて行ってしまう。
- 40 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:00:56.86 ID:Q3I+0IU3U
- 斜めに上から見おろした、大きい長方形の手水鉢。
- 41 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:12:42.66 ID:Q3I+0IU3U
- 柄杓が何本も浮かんだ水には火かげもちらちら映っている。
- 42 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:24:28.65 ID:Q3I+0IU3U
- そこへまた映って来る、憔悴し切った少年の顔。
- 43 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:36:14.53 ID:Q3I+0IU3U
- 少年はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。
- 44 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:48:00.66 ID:Q3I+0IU3U
- 前の石燈籠の下部の後ろ。
- 45 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/24(火) 23:59:46.47 ID:Q3I+0IU3U
- 男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。
- 46 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 00:10:33.85 ID:5jHYWhZTk
- もっとも顔だけはこちらを向いていない。
- 47 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 00:21:19.84 ID:5jHYWhZTk
- が、静かに振り返ったのを見ると、マスクをかけた前の男である。
- 48 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 00:33:05.12 ID:5jHYWhZTk
- のみならずその顔もしばらくの後、少年の父親に変ってしまう。
- 49 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 00:44:51.49 ID:5jHYWhZTk
- 石燈籠は柱を残したまま、おのずから炎になって燃え上ってしまう。
- 50 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 00:55:38.06 ID:5jHYWhZTk
- 炎の下火になった後、そこに開き始める菊の花が一輪。
- 51 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 01:07:23.78 ID:5jHYWhZTk
- 菊の花は石燈籠の笠よりも大きい。
- 52 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 01:19:09.53 ID:5jHYWhZTk
- 少年は前と変りはない。
- 53 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 01:30:55.46 ID:5jHYWhZTk
- そこへ帽を目深にかぶった巡査が一人歩みより、少年の肩へ手をかける。
- 54 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 01:42:41.54 ID:5jHYWhZTk
- 少年は驚いて立ち上り、何か巡査と話をする。
- 55 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 01:54:27.21 ID:5jHYWhZTk
- それから巡査に手を引かれたまま、静かに向うへ歩いて行く。
- 56 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 02:06:12.86 ID:5jHYWhZTk
- 前の石燈籠の下部の後ろ。
- 57 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 02:17:58.60 ID:5jHYWhZTk
- 今度はもう誰もいない。
- 58 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 02:29:44.57 ID:5jHYWhZTk
- 大提灯は次第に上へあがり、前のように仲店を見渡すようになる。
- 59 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 02:41:30.40 ID:5jHYWhZTk
- ただし大提灯の下部だけは消え失せない。
- 60 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 02:53:16.57 ID:5jHYWhZTk
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 61 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 03:05:02.28 ID:5jHYWhZTk
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 62 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 03:18:52.58 ID:5jHYWhZTk
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 63 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 03:30:38.19 ID:5jHYWhZTk
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 64 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 03:42:23.85 ID:5jHYWhZTk
- なども到底この「西遊記」
- 65 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 03:54:09.96 ID:5jHYWhZTk
- も愛読書の一つである。
- 66 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 04:05:55.65 ID:5jHYWhZTk
- これも今以て愛読してゐる。
- 67 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 04:17:41.59 ID:5jHYWhZTk
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 68 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 04:29:27.50 ID:5jHYWhZTk
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 69 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 04:41:13.14 ID:5jHYWhZTk
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 70 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 04:52:58.80 ID:5jHYWhZTk
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 71 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 05:04:44.70 ID:5jHYWhZTk
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 72 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 05:16:30.48 ID:5jHYWhZTk
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 73 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 05:28:16.26 ID:5jHYWhZTk
- だから人の事は笑へない。
- 74 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 05:40:02.13 ID:5jHYWhZTk
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 75 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 05:51:47.95 ID:5jHYWhZTk
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 76 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 06:03:33.75 ID:5jHYWhZTk
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 77 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 06:15:19.91 ID:5jHYWhZTk
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 78 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 06:27:05.56 ID:5jHYWhZTk
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 79 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 06:38:51.40 ID:5jHYWhZTk
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 80 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 06:50:37.12 ID:5jHYWhZTk
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 81 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 07:02:23.09 ID:5jHYWhZTk
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 82 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 07:14:08.84 ID:5jHYWhZTk
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 83 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 07:25:54.91 ID:5jHYWhZTk
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 84 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 07:37:40.56 ID:5jHYWhZTk
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 85 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 07:49:26.47 ID:5jHYWhZTk
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 86 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 08:01:12.11 ID:5jHYWhZTk
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 87 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 08:12:57.82 ID:5jHYWhZTk
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 88 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 08:24:43.60 ID:5jHYWhZTk
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 89 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 08:36:29.68 ID:5jHYWhZTk
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 90 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 08:48:15.39 ID:5jHYWhZTk
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 91 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:00:01.15 ID:5jHYWhZTk
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 92 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:11:47.06 ID:5jHYWhZTk
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 93 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:23:32.74 ID:5jHYWhZTk
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 94 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:35:18.48 ID:5jHYWhZTk
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 95 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:47:04.71 ID:5jHYWhZTk
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 96 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 09:58:50.91 ID:5jHYWhZTk
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 97 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 10:10:37.02 ID:5jHYWhZTk
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 98 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 10:22:22.72 ID:5jHYWhZTk
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 99 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 10:34:08.48 ID:5jHYWhZTk
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 100 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 10:45:54.36 ID:5jHYWhZTk
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 101 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 10:57:40.43 ID:5jHYWhZTk
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 102 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 11:09:26.34 ID:5jHYWhZTk
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 103 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 11:21:12.16 ID:5jHYWhZTk
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 104 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 11:32:57.80 ID:5jHYWhZTk
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 105 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 11:44:43.46 ID:5jHYWhZTk
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 106 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 11:56:29.14 ID:5jHYWhZTk
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 107 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 12:08:15.15 ID:5jHYWhZTk
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 108 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 12:20:01.42 ID:5jHYWhZTk
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 109 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 12:31:47.14 ID:5jHYWhZTk
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 110 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 12:43:32.93 ID:5jHYWhZTk
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 111 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 12:55:18.80 ID:5jHYWhZTk
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 112 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 13:07:04.47 ID:5jHYWhZTk
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 113 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 13:18:50.95 ID:5jHYWhZTk
- 一層これが甚しかつた。
- 114 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 13:30:36.70 ID:5jHYWhZTk
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 115 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 13:42:22.40 ID:5jHYWhZTk
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 116 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 13:54:08.11 ID:5jHYWhZTk
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 117 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 14:05:53.73 ID:5jHYWhZTk
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 118 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 14:17:39.39 ID:5jHYWhZTk
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 119 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 14:29:25.63 ID:5jHYWhZTk
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 120 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 14:41:11.24 ID:5jHYWhZTk
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 121 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 14:52:56.89 ID:5jHYWhZTk
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 122 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 15:04:42.77 ID:5jHYWhZTk
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 123 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 15:16:28.50 ID:5jHYWhZTk
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 124 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 15:28:14.24 ID:5jHYWhZTk
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 125 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 15:40:00.39 ID:5jHYWhZTk
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 126 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 15:51:46.06 ID:5jHYWhZTk
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 127 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 16:03:31.67 ID:5jHYWhZTk
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 128 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 16:15:17.41 ID:5jHYWhZTk
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 129 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 16:27:03.53 ID:5jHYWhZTk
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 130 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 16:38:51.58 ID:5jHYWhZTk
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 131 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 16:50:38.06 ID:5jHYWhZTk
- 松脂の匂と日の光と、――
- 132 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 17:02:23.86 ID:5jHYWhZTk
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 133 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 17:14:09.62 ID:5jHYWhZTk
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 134 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 17:25:55.28 ID:5jHYWhZTk
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 135 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 17:37:40.92 ID:5jHYWhZTk
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 136 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 17:49:26.76 ID:5jHYWhZTk
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 137 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 18:01:12.95 ID:5jHYWhZTk
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 138 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 18:12:58.64 ID:5jHYWhZTk
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 139 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 18:24:44.54 ID:5jHYWhZTk
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 140 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 18:36:30.40 ID:5jHYWhZTk
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 141 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 18:48:16.14 ID:5jHYWhZTk
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 142 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:00:02.32 ID:5jHYWhZTk
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 143 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:11:48.38 ID:5jHYWhZTk
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 144 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:23:34.05 ID:5jHYWhZTk
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 145 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:35:20.09 ID:5jHYWhZTk
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 146 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:47:05.81 ID:5jHYWhZTk
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 147 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 19:58:51.81 ID:5jHYWhZTk
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 148 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 20:10:37.58 ID:5jHYWhZTk
- (御隠しになつてはいや。
- 149 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 20:22:23.85 ID:5jHYWhZTk
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 150 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 20:34:09.55 ID:5jHYWhZTk
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 151 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 20:45:55.24 ID:5jHYWhZTk
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 152 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 20:57:42.48 ID:5jHYWhZTk
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 153 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 21:09:28.34 ID:5jHYWhZTk
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 154 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 21:21:14.25 ID:5jHYWhZTk
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 155 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 21:33:00.52 ID:5jHYWhZTk
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 156 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 22:45:17.02 ID:5jHYWhZTk
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 157 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 22:57:02.96 ID:5jHYWhZTk
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 158 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 23:08:48.76 ID:5jHYWhZTk
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 159 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 23:20:34.49 ID:5jHYWhZTk
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 160 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 23:32:20.35 ID:5jHYWhZTk
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 161 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 23:44:06.18 ID:5jHYWhZTk
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 162 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/25(水) 23:55:52.09 ID:5jHYWhZTk
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 163 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 00:07:37.82 ID:GA2+2ZbZa
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 164 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 00:17:57.51 ID:GA2+2ZbZa
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 165 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 00:29:10.32 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 166 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 00:39:56.34 ID:GA2+2ZbZa
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 167 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 00:50:42.51 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 168 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 01:01:28.69 ID:GA2+2ZbZa
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 169 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 01:13:14.57 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 170 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 01:25:00.34 ID:GA2+2ZbZa
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 171 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 01:36:46.01 ID:GA2+2ZbZa
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 172 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 01:48:31.81 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
- 173 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:00:17.79 ID:GA2+2ZbZa
- それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
- 174 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:12:03.84 ID:GA2+2ZbZa
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 175 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:23:49.97 ID:GA2+2ZbZa
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 176 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:35:35.78 ID:GA2+2ZbZa
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 177 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:47:21.50 ID:GA2+2ZbZa
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 178 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 02:59:07.28 ID:GA2+2ZbZa
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 179 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 03:10:53.10 ID:GA2+2ZbZa
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 180 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 03:22:39.26 ID:GA2+2ZbZa
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 181 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 03:34:25.10 ID:GA2+2ZbZa
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 182 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 03:46:10.78 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 183 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 03:57:56.43 ID:GA2+2ZbZa
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 184 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 04:09:42.14 ID:GA2+2ZbZa
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 185 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 04:21:27.83 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 186 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 04:33:13.85 ID:GA2+2ZbZa
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 187 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 04:44:59.52 ID:GA2+2ZbZa
- と何時になく厭味を云つた。
- 188 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 04:56:45.20 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 189 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 05:08:31.27 ID:GA2+2ZbZa
- それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
- 190 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 05:20:17.10 ID:GA2+2ZbZa
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 191 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 05:32:02.73 ID:GA2+2ZbZa
- そんな事も口へ出した。
- 192 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 05:43:48.76 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 193 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 05:55:34.34 ID:GA2+2ZbZa
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 194 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 06:07:19.99 ID:GA2+2ZbZa
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 195 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 06:19:06.34 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 196 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 06:30:52.15 ID:GA2+2ZbZa
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 197 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 06:42:37.85 ID:GA2+2ZbZa
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 198 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 06:54:23.88 ID:GA2+2ZbZa
- と、囁くやうな声で云つた。
- 199 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 07:06:09.25 ID:GA2+2ZbZa
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 200 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 07:17:54.92 ID:GA2+2ZbZa
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 201 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 07:29:40.70 ID:GA2+2ZbZa
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 202 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 07:41:26.38 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 203 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 07:53:12.03 ID:GA2+2ZbZa
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 204 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 08:04:58.08 ID:GA2+2ZbZa
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 205 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 08:16:44.13 ID:GA2+2ZbZa
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 206 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 08:28:30.05 ID:GA2+2ZbZa
- と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
- 207 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 08:40:15.79 ID:GA2+2ZbZa
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 208 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 08:52:01.44 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 209 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 09:03:47.10 ID:GA2+2ZbZa
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 210 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 09:15:33.17 ID:GA2+2ZbZa
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 211 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 09:27:18.85 ID:GA2+2ZbZa
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 212 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 09:39:04.82 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 213 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 09:50:50.54 ID:GA2+2ZbZa
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 214 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 10:02:36.21 ID:GA2+2ZbZa
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 215 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 10:14:21.90 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 216 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 10:26:07.85 ID:GA2+2ZbZa
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 217 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 10:37:53.50 ID:GA2+2ZbZa
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 218 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 10:49:39.17 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 219 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 11:01:24.84 ID:GA2+2ZbZa
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 220 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 11:13:10.59 ID:GA2+2ZbZa
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 221 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 11:24:56.50 ID:GA2+2ZbZa
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 222 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 11:36:42.55 ID:GA2+2ZbZa
- それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
- 223 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 11:48:28.19 ID:GA2+2ZbZa
- が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
- 224 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:00:13.89 ID:GA2+2ZbZa
- なぞと、考へ考へ話してゐた。
- 225 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:11:59.66 ID:GA2+2ZbZa
- するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
- 226 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:23:45.34 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
- 227 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:35:31.03 ID:GA2+2ZbZa
- 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
- 228 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:47:16.93 ID:GA2+2ZbZa
- 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
- 229 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 12:59:02.66 ID:GA2+2ZbZa
- が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
- 230 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 13:10:48.50 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
- 231 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 13:22:34.25 ID:GA2+2ZbZa
- 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
- 232 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 13:34:19.88 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
- 233 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 13:46:05.61 ID:GA2+2ZbZa
- と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
- 234 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 13:57:51.61 ID:GA2+2ZbZa
- 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
- 235 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 14:09:37.33 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
- 236 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 14:21:23.03 ID:GA2+2ZbZa
- その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
- 237 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 14:33:08.96 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
- 238 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 14:44:54.64 ID:GA2+2ZbZa
- 夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
- 239 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 14:56:40.31 ID:GA2+2ZbZa
- 「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
- 240 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 15:08:26.35 ID:GA2+2ZbZa
- 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
- 241 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 15:20:12.12 ID:GA2+2ZbZa
- が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
- 242 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 15:31:57.98 ID:GA2+2ZbZa
- それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
- 243 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 15:43:43.74 ID:GA2+2ZbZa
- その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
- 244 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 15:55:29.69 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
- 245 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 16:07:16.01 ID:GA2+2ZbZa
- 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
- 246 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 16:19:03.52 ID:GA2+2ZbZa
- そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
- 247 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 16:30:49.28 ID:GA2+2ZbZa
- 筆の渋る事も再三あつた。
- 248 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 16:42:34.96 ID:GA2+2ZbZa
- すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
- 249 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 16:54:21.24 ID:GA2+2ZbZa
- 松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
- 250 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 17:06:06.99 ID:GA2+2ZbZa
- その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
- 251 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 17:17:52.79 ID:GA2+2ZbZa
- 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
- 252 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 17:29:39.01 ID:GA2+2ZbZa
- が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
- 253 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 17:41:24.93 ID:GA2+2ZbZa
- 「どれ、寝るかな。」――
- 254 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 17:53:10.99 ID:GA2+2ZbZa
- 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
- 255 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 18:04:56.67 ID:GA2+2ZbZa
- 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
- 256 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 18:16:42.34 ID:GA2+2ZbZa
- 「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
- 257 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 18:28:27.99 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
- 258 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 18:40:13.89 ID:GA2+2ZbZa
- 照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
- 259 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 18:51:59.62 ID:GA2+2ZbZa
- 当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
- 260 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 19:03:45.59 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
- 261 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 19:15:31.23 ID:GA2+2ZbZa
- 「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
- 262 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 19:27:16.95 ID:GA2+2ZbZa
- こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
- 263 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 19:39:02.88 ID:GA2+2ZbZa
- が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
- 264 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 19:50:48.91 ID:GA2+2ZbZa
- 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
- 265 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 20:02:34.60 ID:GA2+2ZbZa
- が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
- 266 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 20:14:20.36 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
- 267 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 20:26:06.10 ID:GA2+2ZbZa
- 彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
- 268 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 20:37:51.78 ID:GA2+2ZbZa
- しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
- 269 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 20:49:37.92 ID:GA2+2ZbZa
- のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
- 270 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 21:01:24.13 ID:GA2+2ZbZa
- すべてがどの家も変りはなかつた。
- 271 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 21:13:09.81 ID:GA2+2ZbZa
- この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
- 272 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 21:24:55.54 ID:GA2+2ZbZa
- が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
- 273 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 21:36:41.28 ID:GA2+2ZbZa
- 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
- 274 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 21:48:27.03 ID:GA2+2ZbZa
- 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
- 275 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:00:12.89 ID:GA2+2ZbZa
- 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
- 276 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:11:59.22 ID:GA2+2ZbZa
- 俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
- 277 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:23:45.01 ID:GA2+2ZbZa
- 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
- 278 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:35:30.77 ID:GA2+2ZbZa
- 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
- 279 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:47:16.46 ID:GA2+2ZbZa
- その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
- 280 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 22:59:02.17 ID:GA2+2ZbZa
- 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
- 281 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 23:10:47.94 ID:GA2+2ZbZa
- 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
- 282 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 23:22:34.09 ID:GA2+2ZbZa
- 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
- 283 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 23:34:19.81 ID:GA2+2ZbZa
- 「どうです、大阪の御生活は?」
- 284 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 23:46:05.52 ID:GA2+2ZbZa
- 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
- 285 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/26(木) 23:57:51.42 ID:GA2+2ZbZa
- 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
- 286 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 00:09:43.12 ID:CKSGAleUX
- 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
- 287 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 00:21:28.73 ID:CKSGAleUX
- 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
- 288 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 00:33:14.76 ID:CKSGAleUX
- が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
- 289 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 00:45:00.48 ID:CKSGAleUX
- それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
- 290 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 00:56:46.24 ID:CKSGAleUX
- 時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
- 291 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 01:08:31.94 ID:CKSGAleUX
- その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
- 292 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 01:20:17.62 ID:CKSGAleUX
- 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
- 293 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 01:32:03.30 ID:CKSGAleUX
- すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
- 294 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 01:43:49.29 ID:CKSGAleUX
- 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
- 295 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 01:55:34.93 ID:CKSGAleUX
- が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
- 296 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 02:07:20.69 ID:CKSGAleUX
- その内に照子が帰つて来た。
- 297 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 02:19:06.65 ID:CKSGAleUX
- 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
- 298 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 02:30:52.39 ID:CKSGAleUX
- 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
- 299 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 02:42:38.18 ID:CKSGAleUX
- 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
- 300 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 02:54:24.21 ID:CKSGAleUX
- 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
- 301 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 03:06:10.10 ID:CKSGAleUX
- 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
- 302 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 03:17:55.78 ID:CKSGAleUX
- 其処へ女中も帰つて来た。
- 303 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 03:29:41.63 ID:CKSGAleUX
- 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
- 304 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 03:41:27.29 ID:CKSGAleUX
- 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
- 305 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 03:53:12.93 ID:CKSGAleUX
- 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
- 306 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 04:04:59.45 ID:CKSGAleUX
- 「ええ、俊さんだけ。」――
- 307 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 04:16:45.11 ID:CKSGAleUX
- 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
- 308 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 04:28:30.78 ID:CKSGAleUX
- すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
- 309 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 04:40:16.51 ID:CKSGAleUX
- その茶も僕が入れたんだ。」
- 310 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 04:52:02.25 ID:CKSGAleUX
- 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
- 311 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 05:03:47.90 ID:CKSGAleUX
- が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
- 312 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 05:15:33.94 ID:CKSGAleUX
- 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
- 313 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 05:27:19.62 ID:CKSGAleUX
- 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
- 314 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 05:39:05.37 ID:CKSGAleUX
- 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
- 315 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 05:50:51.27 ID:CKSGAleUX
- 小はこの玉子から」――
- 316 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 06:02:36.96 ID:CKSGAleUX
- なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
- 317 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 06:14:24.74 ID:CKSGAleUX
- その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
- 318 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 06:26:10.85 ID:CKSGAleUX
- 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
- 319 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 06:37:56.48 ID:CKSGAleUX
- 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
- 320 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 06:49:42.37 ID:CKSGAleUX
- 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
- 321 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 07:01:28.15 ID:CKSGAleUX
- 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
- 322 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 07:13:14.05 ID:CKSGAleUX
- その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
- 323 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 07:24:59.95 ID:CKSGAleUX
- 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
- 324 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 07:36:45.86 ID:CKSGAleUX
- すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
- 325 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 07:48:31.51 ID:CKSGAleUX
- それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
- 326 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:00:17.17 ID:CKSGAleUX
- 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
- 327 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:12:02.83 ID:CKSGAleUX
- 「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
- 328 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:23:48.54 ID:CKSGAleUX
- アポロは男ぢやありませんか。」――
- 329 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:35:34.20 ID:CKSGAleUX
- 照子は真面目にこんな事まで云つた。
- 330 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:47:20.13 ID:CKSGAleUX
- 信子はとうとう泊る事になつた。
- 331 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 08:59:05.86 ID:CKSGAleUX
- 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
- 332 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 09:10:51.58 ID:CKSGAleUX
- それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
- 333 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 09:22:37.49 ID:CKSGAleUX
- 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
- 334 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 09:34:23.24 ID:CKSGAleUX
- 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
- 335 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 09:46:08.99 ID:CKSGAleUX
- 月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
- 336 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 09:57:54.95 ID:CKSGAleUX
- 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
- 337 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 10:09:40.77 ID:CKSGAleUX
- 「大へん草が生えてゐるのね。」――
- 338 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 10:21:26.43 ID:CKSGAleUX
- 信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
- 339 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 10:33:12.12 ID:CKSGAleUX
- が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
- 340 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 10:44:57.83 ID:CKSGAleUX
- と呟いただけであつた。
- 341 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 10:56:43.54 ID:CKSGAleUX
- 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
- 342 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 11:08:29.47 ID:CKSGAleUX
- 鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
- 343 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 11:20:15.34 ID:CKSGAleUX
- 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
- 344 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 11:32:01.05 ID:CKSGAleUX
- しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
- 345 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 11:43:46.67 ID:CKSGAleUX
- 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
- 346 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 11:55:32.39 ID:CKSGAleUX
- 「玉子を人に取られた鶏が。」――
- 347 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 12:07:18.08 ID:CKSGAleUX
- 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
- 348 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 12:19:04.11 ID:CKSGAleUX
- 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
- 349 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 12:30:50.25 ID:CKSGAleUX
- 青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
- 350 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 12:42:35.87 ID:CKSGAleUX
- 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
- 351 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 12:54:21.71 ID:CKSGAleUX
- 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
- 352 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 13:06:07.37 ID:CKSGAleUX
- 午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
- 353 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 13:17:53.22 ID:CKSGAleUX
- 彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
- 354 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 13:29:39.25 ID:CKSGAleUX
- が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
- 355 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 13:41:25.16 ID:CKSGAleUX
- 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
- 356 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 13:53:10.78 ID:CKSGAleUX
- 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
- 357 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 14:04:56.57 ID:CKSGAleUX
- その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
- 358 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 14:16:42.40 ID:CKSGAleUX
- が、信子の心は沈んでゐた。
- 359 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 14:28:28.14 ID:CKSGAleUX
- 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
- 360 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 14:40:14.52 ID:CKSGAleUX
- それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
- 361 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 14:52:00.20 ID:CKSGAleUX
- 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
- 362 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 15:03:45.85 ID:CKSGAleUX
- と尋ねてくれたりした。
- 363 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 15:15:31.48 ID:CKSGAleUX
- しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
- 364 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 15:27:17.16 ID:CKSGAleUX
- 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
- 365 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 15:39:03.09 ID:CKSGAleUX
- 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
- 366 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 15:50:49.44 ID:CKSGAleUX
- とだけしか答へなかつた。
- 367 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 16:02:35.19 ID:CKSGAleUX
- 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
- 368 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 16:14:20.88 ID:CKSGAleUX
- さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
- 369 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 16:26:06.57 ID:CKSGAleUX
- 「照さんは幸福ね。」――
- 370 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 16:37:52.28 ID:CKSGAleUX
- 信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
- 371 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 16:49:38.01 ID:CKSGAleUX
- が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
- 372 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 17:01:24.91 ID:CKSGAleUX
- 照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」
- 373 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 17:13:10.59 ID:CKSGAleUX
- それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
- 374 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 17:24:56.23 ID:CKSGAleUX
- と、甘えるやうにつけ加へた。
- 375 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 17:36:41.88 ID:CKSGAleUX
- その言葉がぴしりと信子を打つた。
- 376 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 17:48:27.62 ID:CKSGAleUX
- 彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」
- 377 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:00:13.60 ID:CKSGAleUX
- 問ひ返して、すぐに後悔した。
- 378 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:11:59.71 ID:CKSGAleUX
- 照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
- 379 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:23:46.53 ID:CKSGAleUX
- その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
- 380 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:35:33.44 ID:CKSGAleUX
- 信子は強ひて微笑した。――
- 381 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:47:19.91 ID:CKSGAleUX
- 「さう思はれるだけでも幸福ね。」
- 382 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 18:59:05.71 ID:CKSGAleUX
- 二人の間には沈黙が来た。
- 383 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 19:10:51.45 ID:CKSGAleUX
- 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
- 384 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 19:22:37.64 ID:CKSGAleUX
- 「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
- 385 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 19:34:23.46 ID:CKSGAleUX
- やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
- 386 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 19:46:09.21 ID:CKSGAleUX
- その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
- 387 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 19:57:54.92 ID:CKSGAleUX
- 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
- 388 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 20:09:40.71 ID:CKSGAleUX
- 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
- 389 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 20:21:26.42 ID:CKSGAleUX
- その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
- 390 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 20:33:12.50 ID:CKSGAleUX
- 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
- 391 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 20:44:58.18 ID:CKSGAleUX
- 「泣かなくつたつて好いのよ。」――
- 392 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 20:56:47.20 ID:CKSGAleUX
- 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
- 393 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 21:08:32.87 ID:CKSGAleUX
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 394 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 21:20:18.70 ID:CKSGAleUX
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 395 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 21:32:04.46 ID:CKSGAleUX
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 396 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 21:43:50.53 ID:CKSGAleUX
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 397 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 21:55:37.82 ID:CKSGAleUX
- と、低い声で云ひ続けた。
- 398 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 22:07:23.61 ID:CKSGAleUX
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 399 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 22:19:09.34 ID:CKSGAleUX
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 400 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 22:30:55.19 ID:CKSGAleUX
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 401 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 22:42:41.05 ID:CKSGAleUX
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 402 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 22:54:27.34 ID:CKSGAleUX
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 403 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 23:06:12.98 ID:CKSGAleUX
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 404 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 23:17:58.64 ID:CKSGAleUX
- 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
- 405 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 23:29:44.44 ID:CKSGAleUX
- 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
- 406 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 23:41:30.15 ID:CKSGAleUX
- 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
- 407 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/27(金) 23:53:15.89 ID:CKSGAleUX
- もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
- 408 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 00:05:00.53 ID:MkabDul3X
- 彼女の心は静かであつた。
- 409 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 00:16:46.17 ID:MkabDul3X
- が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
- 410 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 00:28:31.76 ID:MkabDul3X
- 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
- 411 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 00:40:17.44 ID:MkabDul3X
- しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
- 412 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 00:52:03.29 ID:MkabDul3X
- 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
- 413 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 01:03:49.17 ID:MkabDul3X
- 信子はふと眼を挙げた。
- 414 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 01:15:35.13 ID:MkabDul3X
- その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
- 415 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 01:27:20.86 ID:MkabDul3X
- それともこの儘行き違はうか。
- 416 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 01:39:06.54 ID:MkabDul3X
- 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
- 417 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 01:50:52.28 ID:MkabDul3X
- が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
- 418 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 02:02:37.97 ID:MkabDul3X
- 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
- 419 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 02:14:23.62 ID:MkabDul3X
- さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
- 420 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 02:26:09.64 ID:MkabDul3X
- 実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
- 421 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 02:37:55.30 ID:MkabDul3X
- が、彼女は又ためらつた。
- 422 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 02:49:41.04 ID:MkabDul3X
- その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
- 423 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 03:02:26.70 ID:MkabDul3X
- 薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――
- 424 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 03:14:12.46 ID:MkabDul3X
- 後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
- 425 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 03:25:58.23 ID:MkabDul3X
- 信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
- 426 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 03:37:44.18 ID:MkabDul3X
- やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
- 427 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 03:49:29.87 ID:MkabDul3X
- いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨
- 428 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 04:01:15.61 ID:MkabDul3X
- ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」
- 429 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 04:13:01.55 ID:MkabDul3X
- の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)
- 430 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 04:24:47.26 ID:MkabDul3X
- 戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり
- 431 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 04:36:32.97 ID:MkabDul3X
- なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく
- 432 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 04:48:18.92 ID:MkabDul3X
- 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)
- 433 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:00:04.67 ID:MkabDul3X
- 片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり
- 434 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:11:50.47 ID:MkabDul3X
- 恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ
- 435 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:23:36.28 ID:MkabDul3X
- 麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく
- 436 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:35:22.03 ID:MkabDul3X
- 五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
- 437 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:47:07.72 ID:MkabDul3X
- 刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋
- 438 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 05:58:53.75 ID:MkabDul3X
- うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ
- 439 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 06:10:39.54 ID:MkabDul3X
- 桐 (To Signorina Y. Y.)
- 440 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 06:22:25.19 ID:MkabDul3X
- 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける
- 441 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 06:34:10.86 ID:MkabDul3X
- 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも
- 442 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 06:45:56.56 ID:MkabDul3X
- 広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか
- 443 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 06:57:42.24 ID:MkabDul3X
- いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも
- 444 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 10:11:01.90 ID:MkabDul3X
- 病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする
- 445 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 10:22:48.10 ID:MkabDul3X
- 夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて
- 446 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 10:34:33.84 ID:MkabDul3X
- 草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる
- 447 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 10:46:19.47 ID:MkabDul3X
- くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花
- 448 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 10:58:05.12 ID:MkabDul3X
- 青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも
- 449 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 11:09:51.12 ID:MkabDul3X
- その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ
- 450 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 11:21:37.43 ID:MkabDul3X
- いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや
- 451 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 11:33:23.08 ID:MkabDul3X
- すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は
- 452 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 11:45:08.75 ID:MkabDul3X
- 香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし
- 453 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 11:56:54.36 ID:MkabDul3X
- にほひよき絹の小枕薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓
- 454 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 12:08:40.00 ID:MkabDul3X
- 夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ
- 455 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 12:20:26.03 ID:MkabDul3X
- 其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは
- 456 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 12:32:12.33 ID:MkabDul3X
- わが足に膏そゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)
- 457 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 12:43:58.25 ID:MkabDul3X
- ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり
- 458 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 12:55:44.10 ID:MkabDul3X
- うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時
- 459 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 13:07:29.95 ID:MkabDul3X
- ほのかなる麝香の風のわれにふく紅燈集の中の国より
- 460 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 13:19:15.67 ID:MkabDul3X
- かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき
- 461 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 13:31:01.77 ID:MkabDul3X
- うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ
- 462 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 13:42:47.81 ID:MkabDul3X
- 薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり
- 463 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 13:54:33.58 ID:MkabDul3X
- 初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな
- 464 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 14:06:19.23 ID:MkabDul3X
- 海は今青きをしばたゝき静に夜を待てるならじか
- 465 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 14:18:04.90 ID:MkabDul3X
- 君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ
- 466 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 14:29:50.67 ID:MkabDul3X
- 都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと
- 467 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 14:41:36.41 ID:MkabDul3X
- 黒船のとほき灯にさへ若人は涙落しぬ恋の如くに
- 468 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 14:53:22.56 ID:MkabDul3X
- 幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと
- 469 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 15:05:08.79 ID:MkabDul3X
- 憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも
- 470 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 15:16:54.51 ID:MkabDul3X
- かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帯よりや来し
- 471 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 15:28:40.29 ID:MkabDul3X
- 二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな
- 472 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 15:40:26.18 ID:MkabDul3X
- 何をかもさは歎くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつゝ
- 473 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 15:52:12.25 ID:MkabDul3X
- ともしびも雨にぬれたる甃石も君送る夜はあはれふかゝり
- 474 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 16:03:58.39 ID:MkabDul3X
- ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ
- 475 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 16:15:44.30 ID:MkabDul3X
- うら若き都人こそかなしかりけれ。
- 476 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 16:27:30.37 ID:MkabDul3X
- 失ひし夢を求むと市を歩める。
- 477 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 16:39:16.35 ID:MkabDul3X
- 橡の花もひそかにさけるならじか。
- 478 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 16:51:02.16 ID:MkabDul3X
- 夢未多かりし日を思ひ出でよと。
- 479 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 17:02:47.97 ID:MkabDul3X
- たはれ女のうつゝ無げにも青みたる眼か。
- 480 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 17:14:33.98 ID:MkabDul3X
- かはたれの空に生まるゝ二日の月か。
- 481 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 17:26:19.66 ID:MkabDul3X
- しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる。
- 482 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 17:38:05.37 ID:MkabDul3X
- 初恋のありとも見えぬ薄ら明りに。
- 483 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 17:49:51.22 ID:MkabDul3X
- さばかりにおもはゆげにもいらへ給ひそ。
- 484 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 18:01:37.02 ID:MkabDul3X
- 緋の房の長き団扇にかくれ給ひそ。
- 485 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 18:13:22.69 ID:MkabDul3X
- なつかしき人形町の二日月はも。
- 486 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 18:25:08.81 ID:MkabDul3X
- 若う人の涙を誘ふ二日月はも。
- 487 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 18:36:54.53 ID:MkabDul3X
- いとせめて泣くべく人を恋ひもこそすれ。
- 488 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 18:48:40.25 ID:MkabDul3X
- 黄蝋の涙おとすと燃ゆる如くに。
- 489 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:00:26.02 ID:MkabDul3X
- 湯沸器の湯気もほのかにもの思ふらし。
- 490 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:12:11.77 ID:MkabDul3X
- 我友の西鶴めきし恋語りより。
- 491 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:23:57.52 ID:MkabDul3X
- ほゝけたる花ふり落す大川楊。
- 492 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:35:43.65 ID:MkabDul3X
- 水にしも恋やするらむ大川楊。
- 493 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:47:29.79 ID:MkabDul3X
- 香油よりつめたき雨にひたもぬれつゝ。
- 494 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 19:59:15.56 ID:MkabDul3X
- たそがれの銀座通をゆくは誰が子ぞ。
- 495 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 20:11:01.36 ID:MkabDul3X
- 恋すてふ戯れすなる若き道化は。
- 496 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 20:22:47.21 ID:MkabDul3X
- かりそめの涙おとすを常とするかも。
- 497 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 20:34:33.01 ID:MkabDul3X
- 何時となく恋もものうくなりにけらしな。
- 498 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 20:46:19.20 ID:MkabDul3X
- つめたくなりまさる如。
- 499 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 20:58:05.08 ID:MkabDul3X
- うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母のごとくまばゆくもあるか
- 500 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 21:09:51.27 ID:MkabDul3X
- 八百日ゆく遠の渚は銀泥の水ぬるませて日にかゞやくも
- 501 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 21:21:37.24 ID:MkabDul3X
- きらゝかにこゝだ身動ぐいさゝ波砂に消なむとするいさゝ波
- 502 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 21:33:26.11 ID:MkabDul3X
- いさゝ波生れも出でねと高天ゆ光はちゞにふれり光は
- 503 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 21:45:15.30 ID:MkabDul3X
- 光輪は空にきはなしその空の下につどへる蜑少女はも
- 504 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 21:57:01.51 ID:MkabDul3X
- むらがれる海女らことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも
- 505 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 22:08:47.25 ID:MkabDul3X
- うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海は息をひそむらむかも
- 506 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 22:20:33.24 ID:MkabDul3X
- 荘厳の光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか
- 507 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 22:32:19.26 ID:MkabDul3X
- いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 508 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 22:44:04.95 ID:MkabDul3X
- きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 509 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 22:55:50.86 ID:MkabDul3X
- 雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麦は青みふすかも
- 510 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 23:07:37.10 ID:MkabDul3X
- 雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
- 511 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 23:19:22.89 ID:MkabDul3X
- 支那の上海の或町です。
- 512 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 23:31:08.82 ID:MkabDul3X
- 昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。
- 513 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 23:42:54.61 ID:MkabDul3X
- 「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
- 514 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/28(土) 23:54:40.38 ID:MkabDul3X
- 亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
- 515 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 00:06:27.26 ID:iuoab05v3
- 占いは当分見ないことにしましたよ」
- 516 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 00:18:13.24 ID:iuoab05v3
- 婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。
- 517 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 00:29:59.27 ID:iuoab05v3
- 「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」
- 518 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 00:41:45.04 ID:iuoab05v3
- 「そりゃ勿論御礼をするよ」
- 519 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 00:53:30.76 ID:iuoab05v3
- 亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
- 520 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 01:05:16.46 ID:iuoab05v3
- 「差当りこれだけ取って置くさ。
- 521 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 01:17:02.11 ID:iuoab05v3
- もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
- 522 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 01:28:47.95 ID:iuoab05v3
- 婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。
- 523 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 01:40:33.94 ID:iuoab05v3
- 「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――
- 524 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 01:52:19.65 ID:iuoab05v3
- そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」
- 525 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 02:04:05.52 ID:iuoab05v3
- 「私が見て貰いたいのは、――」
- 526 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 02:15:51.19 ID:iuoab05v3
- 亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。
- 527 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 02:27:36.85 ID:iuoab05v3
- 「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。
- 528 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 02:39:22.87 ID:iuoab05v3
- それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」
- 529 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 02:51:08.58 ID:iuoab05v3
- 「じゃ明日いらっしゃい。
- 530 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 03:02:54.52 ID:iuoab05v3
- それまでに占って置いて上げますから」
- 531 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 03:14:40.17 ID:iuoab05v3
- じゃ間違いのないように、――」
- 532 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 03:26:25.86 ID:iuoab05v3
- 印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。
- 533 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 03:38:11.51 ID:iuoab05v3
- 「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。
- 534 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 03:49:57.68 ID:iuoab05v3
- 何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」
- 535 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 04:01:43.51 ID:iuoab05v3
- 亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、
- 536 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 04:13:29.26 ID:iuoab05v3
- その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。
- 537 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 04:25:14.89 ID:iuoab05v3
- が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。
- 538 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 04:37:00.61 ID:iuoab05v3
- 「何を愚図々々しているんだえ?
- 539 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 04:48:46.29 ID:iuoab05v3
- ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。
- 540 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:00:32.55 ID:iuoab05v3
- きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」
- 541 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:12:18.49 ID:iuoab05v3
- 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。
- 542 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:24:04.16 ID:iuoab05v3
- 今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」
- 543 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:35:49.83 ID:iuoab05v3
- 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。
- 544 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:47:35.48 ID:iuoab05v3
- 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。
- 545 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 05:59:21.10 ID:iuoab05v3
- 「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。
- 546 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 06:11:07.20 ID:iuoab05v3
- お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」
- 547 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 06:22:52.97 ID:iuoab05v3
- こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。
- 548 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 06:34:38.64 ID:iuoab05v3
- ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。
- 549 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 06:46:24.87 ID:iuoab05v3
- 「何を見ているんだえ?」
- 550 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 06:58:10.53 ID:iuoab05v3
- 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。
- 551 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 07:09:56.43 ID:iuoab05v3
- 「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」
- 552 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 07:21:42.52 ID:iuoab05v3
- 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。
- 553 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 07:33:28.33 ID:iuoab05v3
- 誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
- 554 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 07:45:14.03 ID:iuoab05v3
- その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。
- 555 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 07:56:59.68 ID:iuoab05v3
- それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
- 556 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 08:08:45.31 ID:iuoab05v3
- そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
- 557 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 08:20:31.29 ID:iuoab05v3
- あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
- 558 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 08:32:17.47 ID:iuoab05v3
- 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。
- 559 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 08:44:03.14 ID:iuoab05v3
- 支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか?
- 560 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 08:55:48.80 ID:iuoab05v3
- あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」
- 561 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 09:07:34.49 ID:iuoab05v3
- と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。
- 562 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 09:19:20.12 ID:iuoab05v3
- そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
- 563 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 09:31:05.99 ID:iuoab05v3
- が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。
- 564 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 09:42:52.80 ID:iuoab05v3
- まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」
- 565 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 09:54:38.69 ID:iuoab05v3
- 支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。
- 566 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 12:26:26.96 ID:iuoab05v3
- 日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。
- 567 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 12:50:50.12 ID:4GncjASwQ
- そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
- 568 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 13:02:36.16 ID:4GncjASwQ
- 戸は直ぐに開きました。
- 569 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 13:14:22.19 ID:4GncjASwQ
- が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
- 570 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 13:26:07.92 ID:4GncjASwQ
- 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
- 571 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 13:37:53.72 ID:4GncjASwQ
- 「お前さんは占い者だろう?」
- 572 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 13:49:40.27 ID:4GncjASwQ
- 日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。
- 573 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 14:01:26.46 ID:4GncjASwQ
- 「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか?
- 574 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 14:13:12.17 ID:4GncjASwQ
- 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
- 575 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 14:24:57.86 ID:4GncjASwQ
- 「何を見て上げるんですえ?」
- 576 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 14:36:43.64 ID:4GncjASwQ
- 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。
- 577 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 14:48:29.32 ID:4GncjASwQ
- 「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。
- 578 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:00:14.99 ID:4GncjASwQ
- それを一つ見て貰いたいんだが、――」
- 579 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:12:01.11 ID:4GncjASwQ
- 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
- 580 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:23:46.78 ID:4GncjASwQ
- 「私の主人は香港の日本領事だ。
- 581 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:35:32.42 ID:4GncjASwQ
- 御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。
- 582 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:47:18.21 ID:4GncjASwQ
- 私は遠藤という書生だが――
- 583 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 15:59:03.93 ID:4GncjASwQ
- その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
- 584 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 16:10:49.84 ID:4GncjASwQ
- 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。
- 585 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 16:22:35.89 ID:4GncjASwQ
- 「この近所にいらっしゃりはしないか?
- 586 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 16:34:21.58 ID:4GncjASwQ
- 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――
- 587 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 16:46:07.22 ID:4GncjASwQ
- 隠し立てをすると為にならんぞ」
- 588 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 16:57:52.97 ID:4GncjASwQ
- しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。
- 589 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 17:09:38.66 ID:4GncjASwQ
- 見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。
- 590 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 17:21:24.30 ID:4GncjASwQ
- 「お前さんは何を言うんだえ?
- 591 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 17:33:10.35 ID:4GncjASwQ
- 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
- 592 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 17:44:56.09 ID:4GncjASwQ
- 今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」
- 593 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 17:56:41.74 ID:4GncjASwQ
- 遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
- 594 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 18:08:27.49 ID:4GncjASwQ
- 「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
- 595 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 18:20:13.15 ID:4GncjASwQ
- 「あれは私の貰い子だよ」
- 596 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 18:31:58.77 ID:4GncjASwQ
- 婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。
- 597 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 18:43:44.84 ID:4GncjASwQ
- 「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。
- 598 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 18:55:30.51 ID:4GncjASwQ
- 貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」
- 599 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 19:07:16.27 ID:4GncjASwQ
- 遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。
- 600 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 19:19:02.20 ID:4GncjASwQ
- 見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」
- 601 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 19:30:47.98 ID:4GncjASwQ
- 遠藤はピストルを挙げました。
- 602 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 19:42:33.64 ID:4GncjASwQ
- いや、挙げようとしたのです。
- 603 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 19:54:19.80 ID:4GncjASwQ
- が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。
- 604 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 20:06:05.49 ID:4GncjASwQ
- これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、
- 605 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 20:17:51.18 ID:4GncjASwQ
- と罵りながら、虎のように婆さんへ飛びかかりました。
- 606 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 20:29:36.89 ID:4GncjASwQ
- が、婆さんもさるものです。
- 607 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 20:41:22.66 ID:4GncjASwQ
- ひらりと身を躱すが早いか、そこにあった箒をとって、又掴みかかろうとする遠藤の顔へ、床の上の五味を掃きかけました。
- 608 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 20:53:08.34 ID:4GncjASwQ
- すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。
- 609 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 21:04:54.36 ID:4GncjASwQ
- 遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風に追われながら、転げるように外へ逃げ出しました。
- 610 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 21:16:40.02 ID:4GncjASwQ
- その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。
- 611 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 21:28:25.86 ID:4GncjASwQ
- 「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。
- 612 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 21:40:11.58 ID:4GncjASwQ
- 一そ警察へ訴えようか?
- 613 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 21:51:57.27 ID:4GncjASwQ
- いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。
- 614 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 22:03:42.96 ID:4GncjASwQ
- 万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。
- 615 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 22:15:29.06 ID:4GncjASwQ
- といってあの魔法使には、ピストルさえ役に立たないし、――」
- 616 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 22:27:17.76 ID:4GncjASwQ
- 遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。
- 617 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 22:39:03.41 ID:4GncjASwQ
- 「おや、紙切れが落ちて来たが、――
- 618 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 22:50:49.12 ID:4GncjASwQ
- もしや御嬢さんの手紙じゃないか?」
- 619 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 23:02:34.81 ID:4GncjASwQ
- こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。
- 620 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 23:14:20.47 ID:4GncjASwQ
- すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。
- 621 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 23:26:06.96 ID:4GncjASwQ
- コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。
- 622 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 23:37:52.67 ID:4GncjASwQ
- 時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』
- 623 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/29(日) 23:49:38.33 ID:4GncjASwQ
- トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。
- 624 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 00:01:24.11 ID:uuW/p31MN
- 私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。
- 625 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 00:13:09.83 ID:uuW/p31MN
- デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』
- 626 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 00:24:55.46 ID:uuW/p31MN
- ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。
- 627 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 00:36:41.44 ID:uuW/p31MN
- 今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』
- 628 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 00:51:36.84 ID:uuW/p31MN
- ノ神ヲ乗リ移ラセマス。
- 629 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 01:03:22.54 ID:uuW/p31MN
- イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。
- 630 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 01:15:08.21 ID:uuW/p31MN
- ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』
- 631 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 01:26:53.89 ID:uuW/p31MN
- ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。
- 632 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 01:38:40.25 ID:uuW/p31MN
- オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』
- 633 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 01:50:25.99 ID:uuW/p31MN
- ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。
- 634 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 02:02:11.73 ID:uuW/p31MN
- ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。
- 635 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 02:13:57.46 ID:uuW/p31MN
- コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。
- 636 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 02:25:43.11 ID:uuW/p31MN
- 遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。
- 637 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 02:37:28.78 ID:uuW/p31MN
- 時計は十二時五分前です。
- 638 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 02:49:14.75 ID:uuW/p31MN
- 「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」
- 639 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 03:02:23.87 ID:uuW/p31MN
- 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでしょう。
- 640 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 03:14:09.56 ID:uuW/p31MN
- 今まで明るかった二階の窓は、急にまっ暗になってしまいました。
- 641 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 03:25:55.22 ID:uuW/p31MN
- と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。
- 642 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 03:37:40.87 ID:uuW/p31MN
- その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻に呪文を唱えていました。
- 643 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 03:49:26.94 ID:uuW/p31MN
- 書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。
- 644 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 04:01:12.66 ID:uuW/p31MN
- 婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――
- 645 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 04:12:58.30 ID:uuW/p31MN
- いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。
- 646 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 04:24:43.94 ID:uuW/p31MN
- さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか?
- 647 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 04:36:29.64 ID:uuW/p31MN
- あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――
- 648 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 04:48:15.60 ID:uuW/p31MN
- そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。
- 649 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:00:01.58 ID:uuW/p31MN
- しかし今うっかりそんな気ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの家から、逃げ出そうという計略は、すぐに見破られてしまうでしょう。
- 650 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:11:47.52 ID:uuW/p31MN
- ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。
- 651 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:23:33.31 ID:uuW/p31MN
- 婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。
- 652 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:35:19.14 ID:uuW/p31MN
- 或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。
- 653 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:47:04.82 ID:uuW/p31MN
- もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまわってでもいるように見えたでしょう。
- 654 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 05:58:50.70 ID:uuW/p31MN
- その内に妙子はいつものように、だんだん睡気がきざして来ました。
- 655 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 06:10:36.87 ID:uuW/p31MN
- が、ここで睡ってしまっては、折角の計略にかけることも、出来なくなってしまう道理です。
- 656 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 06:22:22.62 ID:uuW/p31MN
- そうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違いありません。
- 657 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 06:34:08.26 ID:uuW/p31MN
- 「日本の神々様、どうか私が睡らないように、御守りなすって下さいまし。
- 658 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 06:45:54.05 ID:uuW/p31MN
- その代り私はもう一度、たとい一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしゅうございます。
- 659 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 06:57:39.84 ID:uuW/p31MN
- 日本の神々様、どうかお婆さんを欺せるように、御力を御貸し下さいまし」
- 660 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 07:09:25.80 ID:uuW/p31MN
- 妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。
- 661 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 07:21:12.02 ID:uuW/p31MN
- しかし睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。
- 662 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 07:32:57.73 ID:uuW/p31MN
- と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声が、かすかに伝わり始めました。
- 663 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 07:44:43.48 ID:uuW/p31MN
- これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。
- 664 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 07:56:29.50 ID:uuW/p31MN
- もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。
- 665 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 08:08:15.30 ID:uuW/p31MN
- 現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せてしまうのです。
- 666 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 08:20:00.98 ID:uuW/p31MN
- 「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
- 667 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 08:31:47.26 ID:uuW/p31MN
- やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないように、いつかもうぐっすり寝入っていました。
- 668 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 08:43:32.95 ID:uuW/p31MN
- 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。
- 669 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 08:55:18.61 ID:uuW/p31MN
- しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。
- 670 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 09:07:04.38 ID:uuW/p31MN
- それは一体誰でしょうか?――
- 671 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 09:18:50.39 ID:uuW/p31MN
- 言うまでもなく、書生の遠藤です。
- 672 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 09:30:36.08 ID:uuW/p31MN
- 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。
- 673 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 09:42:22.10 ID:uuW/p31MN
- が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。
- 674 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 09:54:07.78 ID:uuW/p31MN
- そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。
- 675 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 10:05:53.45 ID:uuW/p31MN
- しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。
- 676 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 10:17:39.11 ID:uuW/p31MN
- その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。
- 677 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 10:29:24.97 ID:uuW/p31MN
- しかし嗄れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。
- 678 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 10:41:10.73 ID:uuW/p31MN
- 「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
- 679 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 10:52:56.82 ID:uuW/p31MN
- 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始めました。
- 680 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 11:04:42.81 ID:uuW/p31MN
- しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。
- 681 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 11:16:28.60 ID:uuW/p31MN
- 「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない。
- 682 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 11:28:14.41 ID:uuW/p31MN
- お前はおれの言いつけに背いて、いつも悪事ばかり働いて来た。
- 683 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 11:40:00.22 ID:uuW/p31MN
- おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。
- 684 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 11:51:46.21 ID:uuW/p31MN
- いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」
- 685 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 12:03:32.40 ID:uuW/p31MN
- 婆さんは呆気にとられたのでしょう。
- 686 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 12:15:18.12 ID:uuW/p31MN
- 暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。
- 687 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 12:27:03.82 ID:uuW/p31MN
- が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。
- 688 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 12:38:49.69 ID:Kh2vGA0e0
- 「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。
- 689 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 12:50:36.79 ID:Kh2vGA0e0
- もし命が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが好い」
- 690 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 13:02:23.43 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。
- 691 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 13:14:09.13 ID:Kh2vGA0e0
- すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。
- 692 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 13:25:54.77 ID:Kh2vGA0e0
- 「人を莫迦にするのも、好い加減におし。
- 693 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 13:37:40.73 ID:Kh2vGA0e0
- お前は私を何だと思っているのだえ。
- 694 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 13:49:26.91 ID:Kh2vGA0e0
- 私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。
- 695 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 14:01:12.68 ID:Kh2vGA0e0
- 早速お前を父親へ返せ――
- 696 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 14:12:58.35 ID:Kh2vGA0e0
- 警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」
- 697 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 14:24:44.30 ID:Kh2vGA0e0
- 婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
- 698 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 14:36:30.02 ID:Kh2vGA0e0
- 「さあ、正直に白状おし。
- 699 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 14:48:15.74 ID:Kh2vGA0e0
- お前は勿体なくもアグニの神の、声色を使っているのだろう」
- 700 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:00:01.93 ID:Kh2vGA0e0
- さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。
- 701 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:11:47.69 ID:Kh2vGA0e0
- ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を躍らせました。
- 702 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:23:33.31 ID:Kh2vGA0e0
- が、妙子は相変らず目蓋一つ動かさず、嘲笑うように答えるのです。
- 703 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:35:18.97 ID:Kh2vGA0e0
- 「お前も死に時が近づいたな。
- 704 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:47:04.62 ID:Kh2vGA0e0
- おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。
- 705 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 15:58:50.70 ID:Kh2vGA0e0
- おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。
- 706 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 16:10:37.50 ID:Kh2vGA0e0
- それがお前にはわからないのか。
- 707 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 16:22:23.21 ID:Kh2vGA0e0
- わからなければ、勝手にするが好い。
- 708 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 16:34:08.84 ID:Kh2vGA0e0
- おれは唯お前に尋ねるのだ。
- 709 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 16:45:54.57 ID:Kh2vGA0e0
- すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」
- 710 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 16:57:40.31 ID:Kh2vGA0e0
- 婆さんはちょいとためらったようです。
- 711 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 17:09:26.18 ID:Kh2vGA0e0
- が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
- 712 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 17:21:12.21 ID:Kh2vGA0e0
- まだ剛情を張る気だな。
- 713 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 17:32:59.26 ID:Kh2vGA0e0
- よし、よし、それなら約束通り、一思いに命をとってやるぞ」
- 714 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 17:44:44.96 ID:Kh2vGA0e0
- 婆さんはナイフを振り上げました。
- 715 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 17:56:30.60 ID:Kh2vGA0e0
- もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。
- 716 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 18:08:16.31 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤は咄嗟に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。
- 717 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 18:20:02.10 ID:Kh2vGA0e0
- が、戸は容易に破れません。
- 718 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 18:31:48.62 ID:Kh2vGA0e0
- いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。
- 719 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 18:43:34.33 ID:Kh2vGA0e0
- その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。
- 720 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 18:55:19.97 ID:Kh2vGA0e0
- それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。
- 721 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 19:07:05.90 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
- 722 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 19:18:51.78 ID:Kh2vGA0e0
- 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――
- 723 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 19:30:37.53 ID:Kh2vGA0e0
- 戸はとうとう破れました。
- 724 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 19:42:23.53 ID:Kh2vGA0e0
- しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、人気のないようにしんとしています。
- 725 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 19:54:09.31 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤はその光を便りに、怯ず怯ずあたりを見廻しました。
- 726 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 20:05:56.36 ID:Kh2vGA0e0
- するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子です。
- 727 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 20:17:42.02 ID:Kh2vGA0e0
- それが何故か遠藤には、頭に毫光でもかかっているように、厳かな感じを起させました。
- 728 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 20:29:27.83 ID:Kh2vGA0e0
- 「御嬢さん、御嬢さん」
- 729 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 20:41:13.52 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。
- 730 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 20:52:59.61 ID:Kh2vGA0e0
- が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。
- 731 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 21:04:45.39 ID:Kh2vGA0e0
- 妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。
- 732 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 21:16:31.07 ID:Kh2vGA0e0
- もう大丈夫ですから、御安心なさい。
- 733 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 21:28:16.83 ID:Kh2vGA0e0
- さあ、早く逃げましょう」
- 734 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 21:40:02.68 ID:Kh2vGA0e0
- 妙子はまだ夢現のように、弱々しい声を出しました。
- 735 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 21:51:48.43 ID:Kh2vGA0e0
- 「計略は駄目だったわ。
- 736 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 22:03:34.54 ID:Kh2vGA0e0
- つい私が眠ってしまったものだから、――
- 737 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 22:15:23.30 ID:Kh2vGA0e0
- 「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。
- 738 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 22:27:09.37 ID:Kh2vGA0e0
- あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑った真似をやり了せたじゃありませんか?――
- 739 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 22:38:56.10 ID:Kh2vGA0e0
- そんなことはどうでも好いことです。
- 740 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 22:50:41.90 ID:Kh2vGA0e0
- さあ、早く御逃げなさい」
- 741 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 23:02:28.22 ID:Kh2vGA0e0
- 遠藤はもどかしそうに、椅子から妙子を抱き起しました。
- 742 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 23:14:14.39 ID:Kh2vGA0e0
- 私は眠ってしまったのですもの。
- 743 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 23:26:00.21 ID:Kh2vGA0e0
- どんなことを言ったか、知りはしないわ」
- 744 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 23:37:46.01 ID:Kh2vGA0e0
- 妙子は遠藤の胸に凭れながら、呟くようにこう言いました。
- 745 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/30(月) 23:49:31.63 ID:Kh2vGA0e0
- 「計略は駄目だったわ。
- 746 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 00:01:17.63 ID:V5W1i5H8P
- とても私は逃げられなくってよ」
- 747 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 00:13:03.74 ID:V5W1i5H8P
- 「そんなことがあるものですか。
- 748 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 00:24:50.56 ID:V5W1i5H8P
- 私と一しょにいらっしゃい。
- 749 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 00:36:36.98 ID:V5W1i5H8P
- 今度しくじったら大変です」
- 750 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 00:48:22.68 ID:V5W1i5H8P
- 「だってお婆さんがいるでしょう?」
- 751 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:00:08.48 ID:V5W1i5H8P
- 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。
- 752 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:11:54.38 ID:V5W1i5H8P
- 机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――
- 753 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:23:40.33 ID:V5W1i5H8P
- その下へ仰向きに倒れているのは、あの印度人の婆さんです。
- 754 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:35:26.44 ID:V5W1i5H8P
- 婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。
- 755 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:47:12.06 ID:V5W1i5H8P
- 「お婆さんはどうして?」
- 756 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 01:58:57.81 ID:V5W1i5H8P
- 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
- 757 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 02:10:43.54 ID:V5W1i5H8P
- 「私、ちっとも知らなかったわ。
- 758 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 02:22:29.37 ID:V5W1i5H8P
- お婆さんは遠藤さんが――
- 759 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 02:34:15.09 ID:V5W1i5H8P
- あなたが殺してしまったの?」
- 760 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 02:46:01.26 ID:V5W1i5H8P
- 遠藤は婆さんの屍骸から、妙子の顔へ眼をやりました。
- 761 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 02:57:47.09 ID:V5W1i5H8P
- 今夜の計略が失敗したことが、――
- 762 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 03:09:32.77 ID:V5W1i5H8P
- しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――
- 763 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 03:21:18.68 ID:V5W1i5H8P
- 運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。
- 764 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 03:33:04.60 ID:V5W1i5H8P
- 「私が殺したのじゃありません。
- 765 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 03:44:50.38 ID:V5W1i5H8P
- あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です」
- 766 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 03:56:36.40 ID:V5W1i5H8P
- 遠藤は妙子を抱えたまま、おごそかにこう囁きました。
- 767 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 04:08:22.08 ID:V5W1i5H8P
- 伴天連うるがんの眼には、外の人の見えないものまでも見えたさうである。
- 768 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 04:20:07.80 ID:V5W1i5H8P
- 殊に、人間を誘惑に来る地獄の悪魔の姿などは、ありありと形が見えたと云ふ、――
- 769 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 04:31:53.81 ID:V5W1i5H8P
- うるがんの青い瞳を見たものは、誰でもさう云ふ事を信じてゐたらしい。
- 770 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 04:43:39.47 ID:V5W1i5H8P
- 少くとも、南蛮寺の泥烏須如来を礼拝する奉教人の間には、それが疑ふ余地のない事実だつたと云ふ事である。
- 771 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 04:55:25.22 ID:V5W1i5H8P
- 古写本の伝ふる所によれば、うるがんは織田信長の前で、自分が京都の町で見た悪魔の容子を物語つた。
- 772 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 05:07:11.22 ID:V5W1i5H8P
- それは人間の顔と蝙蝠の翼と山羊の脚とを備へた、奇怪な小さい動物である。
- 773 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 05:18:56.88 ID:V5W1i5H8P
- うるがんはこの悪魔が、或は塔の九輪の上に手を拍つて踊り、或は四つ足門の屋根の下に日の光を恐れて蹲る恐しい姿を度々見た。
- 774 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 05:30:42.71 ID:V5W1i5H8P
- いやそればかりではない。
- 775 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 05:42:28.34 ID:V5W1i5H8P
- 或時は山の法師の背にしがみつき、或時は内の女房の髪にぶら下つてゐるのを見たと云ふ。
- 776 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 05:54:14.00 ID:V5W1i5H8P
- しかしそれらの悪魔の中で、最も我々に興味のあるものは、なにがしの姫君の輿の上に、あぐらをかいてゐたと云ふそれであらう。
- 777 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 06:05:59.67 ID:V5W1i5H8P
- 古写本の作者は、この悪魔の話なるものをうるがんの諷諭だと解してゐる。――
- 778 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 06:17:45.62 ID:V5W1i5H8P
- 信長が或時、その姫君に懸想して、たつて自分の意に従はせようとした。
- 779 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 06:29:31.30 ID:V5W1i5H8P
- が、姫君も姫君の双親も、信長の望に応ずる事を喜ばない。
- 780 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 06:41:17.07 ID:V5W1i5H8P
- そこでうるがんは姫君の為に、言を悪魔に藉りて、信長の暴を諫めたのであらうと云ふのである。
- 781 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 06:53:02.72 ID:V5W1i5H8P
- この解釈の当否は、元より今日に至つては、いづれとも決する事が容易でない。
- 782 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 07:04:49.17 ID:V5W1i5H8P
- と同時に又我々にとつては、寧ろいづれにせよ差支へのない問題である。
- 783 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 07:16:34.94 ID:V5W1i5H8P
- うるがんは或日の夕、南蛮寺の門前で、その姫君の輿の上に、一匹の悪魔が坐つてゐるのを見た。
- 784 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 07:28:20.97 ID:V5W1i5H8P
- が、この悪魔は外のそれとは違つて、玉のやうに美しい顔を持つてゐる。
- 785 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 07:40:06.99 ID:V5W1i5H8P
- しかもこまねいた両手と云ひ、うなだれた頭と云ひ、恰も何事かに深く思ひ悩んでゐるらしい。
- 786 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 07:51:52.80 ID:V5W1i5H8P
- うるがんは姫君の身を気づかつた。
- 787 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 08:03:38.50 ID:V5W1i5H8P
- 双親と共に熱心な天主教の信者である姫君が、悪魔に魅入られてゐると云ふ事は、唯事ではないと思つたのである。
- 788 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 08:15:24.16 ID:V5W1i5H8P
- そこでこの伴天連は、輿の側へ近づくと、忽尊い十字架の力によつて難なく悪魔を捕へてしまつた。
- 789 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 08:27:09.86 ID:V5W1i5H8P
- さうしてそれを南蛮寺の内陣へ、襟がみをつかみながらつれて来た。
- 790 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 08:38:55.78 ID:V5W1i5H8P
- 内陣には御主耶蘇基督の画像の前に、蝋燭の火が煤ぶりながらともつてゐる。
- 791 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 08:50:41.58 ID:V5W1i5H8P
- うるがんはその前に悪魔をひき据ゑて、何故それが姫君の輿の上に乗つてゐたか、厳しく仔細を問ひただした。
- 792 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 09:02:27.24 ID:V5W1i5H8P
- 「私はあの姫君を堕落させようと思ひました。
- 793 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 09:14:12.89 ID:V5W1i5H8P
- が、それと同時に、堕落させたくないとも思ひました。
- 794 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 09:25:58.56 ID:V5W1i5H8P
- あの清らかな魂を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢す気がするでせう。
- 795 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 09:37:44.30 ID:V5W1i5H8P
- 私はその魂をいやが上にも清らかに曇りなくしたいと念じたのです。
- 796 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 09:49:30.47 ID:V5W1i5H8P
- が、さうと思へば思ふ程、愈堕落させたいと云ふ心もちもして来ます。
- 797 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 10:01:16.13 ID:V5W1i5H8P
- その二つの心もちの間に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。
- 798 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 10:13:01.83 ID:V5W1i5H8P
- もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂き目に遇ふ事は逃れてゐた事でせう。
- 799 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 10:24:47.46 ID:V5W1i5H8P
- 私たちは何時でもさうなのです。
- 800 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 10:36:33.22 ID:V5W1i5H8P
- 堕落させたくないもの程、益堕落させたいのです。
- 801 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 10:48:19.12 ID:V5W1i5H8P
- これ程不思議な悲しさが又と外にありませうか。
- 802 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:00:05.14 ID:V5W1i5H8P
- 私はこの悲しさを味ふ度に、昔見た天国の朗な光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな気がします。
- 803 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:11:51.15 ID:V5W1i5H8P
- どうかさう云ふ私を憐んで下さい。
- 804 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:23:36.80 ID:V5W1i5H8P
- 私は寂しくつて仕方がありません。」
- 805 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:35:22.57 ID:V5W1i5H8P
- 美しい顔をした悪魔は、かう云つて、涙を流した。……
- 806 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:47:08.29 ID:V5W1i5H8P
- 古写本の伝説は、この悪魔のなり行きを詳にしてゐない。
- 807 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 11:58:53.94 ID:V5W1i5H8P
- が、それは我々に何の関りがあらう。
- 808 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 12:10:40.11 ID:V5W1i5H8P
- 我々はこれを読んだ時に、唯かう呼びかけたいやうな心もちを感じさへすれば好いのである。……
- 809 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 12:22:25.81 ID:V5W1i5H8P
- 悪魔と共に我々を憐んでくれ。
- 810 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 12:34:11.50 ID:V5W1i5H8P
- 我々にも亦、それと同じやうな悲しさがある。
- 811 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 12:45:57.13 ID:V5W1i5H8P
- 浅草の仁王門の中に吊った、火のともらない大提灯。
- 812 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 12:57:42.79 ID:V5W1i5H8P
- 提灯は次第に上へあがり、雑沓した仲店を見渡すようになる。
- 813 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 13:09:29.54 ID:V5W1i5H8P
- ただし大提灯の下部だけは消え失せない。
- 814 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 13:21:15.55 ID:V5W1i5H8P
- 門の前に飛びかう無数の鳩。
- 815 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 13:33:01.40 ID:V5W1i5H8P
- 雷門から縦に見た仲店。
- 816 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 13:44:47.06 ID:V5W1i5H8P
- 正面にはるかに仁王門が見える。
- 817 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 13:56:33.06 ID:V5W1i5H8P
- 樹木は皆枯れ木ばかり。
- 818 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 14:08:18.74 ID:V5W1i5H8P
- 外套を着た男が一人、十二三歳の少年と一しょにぶらぶら仲店を歩いている。
- 819 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 14:20:04.38 ID:V5W1i5H8P
- 少年は父親の手を離れ、時々玩具屋の前に立ち止まったりする。
- 820 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 14:31:50.52 ID:V5W1i5H8P
- 父親は勿論こう云う少年を時々叱ったりしないことはない。
- 821 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 14:43:36.17 ID:V5W1i5H8P
- が、稀には彼自身も少年のいることを忘れたように帽子屋の飾り窓などを眺めている。
- 822 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 14:55:21.80 ID:V5W1i5H8P
- こう云う親子の上半身。
- 823 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 15:07:07.44 ID:V5W1i5H8P
- 父親はいかにも田舎者らしい、無精髭を伸ばした男。
- 824 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 15:18:53.12 ID:V5W1i5H8P
- 少年は可愛いと云うよりもむしろ可憐な顔をしている。
- 825 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 15:30:39.05 ID:V5W1i5H8P
- 彼等の後ろには雑沓した仲店。
- 826 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 15:42:25.12 ID:V5W1i5H8P
- 彼等はこちらへ歩いて来る。
- 827 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 15:54:10.78 ID:V5W1i5H8P
- 斜めに見たある玩具屋の店。
- 828 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 16:05:56.68 ID:V5W1i5H8P
- 少年はこの店の前に佇んだまま、綱を上ったり下りたりする玩具の猿を眺めている。
- 829 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 16:17:42.34 ID:V5W1i5H8P
- 玩具屋の店の中には誰も見えない。
- 830 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 16:29:27.99 ID:V5W1i5H8P
- 少年の姿は膝の上まで。
- 831 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 16:41:13.88 ID:V5W1i5H8P
- 綱を上ったり下りたりしている猿。
- 832 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 16:52:59.88 ID:V5W1i5H8P
- 猿は燕尾服の尾を垂れた上、シルク・ハットを仰向けにかぶっている。
- 833 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 17:04:46.60 ID:V5W1i5H8P
- この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり。
- 834 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 17:16:32.26 ID:V5W1i5H8P
- この玩具屋のある仲店の片側。
- 835 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 17:28:17.91 ID:V5W1i5H8P
- 猿を見ていた少年は急に父親のいないことに気がつき、きょろきょろあたりを見まわしはじめる。
- 836 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 17:40:03.54 ID:V5W1i5H8P
- それから向うに何か見つけ、その方へ一散に走って行く。
- 837 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 17:51:49.30 ID:V5W1i5H8P
- 父親らしい男の後ろ姿。
- 838 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 18:03:35.60 ID:V5W1i5H8P
- ただしこれも膝の上まで。
- 839 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 18:15:21.92 ID:V5W1i5H8P
- 少年はこの男に追いすがり、しっかりと外套の袖を捉える。
- 840 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 18:27:08.03 ID:V5W1i5H8P
- 驚いてふり返った男の顔は生憎田舎者らしい父親ではない。
- 841 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 18:38:54.30 ID:V5W1i5H8P
- 綺麗に口髭の手入れをした、都会人らしい紳士である。
- 842 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 18:50:39.97 ID:V5W1i5H8P
- 少年の顔に往来する失望や当惑に満ちた表情。
- 843 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 19:02:25.64 ID:V5W1i5H8P
- 紳士は少年を残したまま、さっさと向うへ行ってしまう。
- 844 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 19:14:11.65 ID:V5W1i5H8P
- 少年は遠い雷門を後ろにぼんやり一人佇んでいる。
- 845 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 19:25:57.41 ID:V5W1i5H8P
- もう一度父親らしい後ろ姿。
- 846 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 19:37:43.17 ID:V5W1i5H8P
- 少年はこの男に追いついて恐る恐るその顔を見上げる。
- 847 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 19:49:28.89 ID:V5W1i5H8P
- 彼等の向うには仁王門。
- 848 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 20:01:14.63 ID:V5W1i5H8P
- この男の前を向いた顔。
- 849 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 20:13:00.59 ID:V5W1i5H8P
- 彼は、マスクに口を蔽った、人間よりも、動物に近い顔をしている。
- 850 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 20:24:46.71 ID:V5W1i5H8P
- 何か悪意の感ぜられる微笑。
- 851 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 20:36:32.33 ID:V5W1i5H8P
- 少年はこの男を見送ったまま、途方に暮れたように佇んでいる。
- 852 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 20:48:18.03 ID:V5W1i5H8P
- 父親の姿はどちらを眺めても、生憎目にははいらないらしい。
- 853 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:00:03.81 ID:V5W1i5H8P
- 少年はちょっと考えた後、当どもなしに歩きはじめる。
- 854 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:11:49.82 ID:V5W1i5H8P
- いずれも洋装をした少女が二人、彼をふり返ったのも知らないように。
- 855 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:23:40.05 ID:V5W1i5H8P
- 近眼鏡、遠眼鏡、双眼鏡、廓大鏡、顕微鏡、塵除け目金などの並んだ中に西洋人の人形の首が一つ、目金をかけて頬笑んでいる。
- 856 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:35:26.58 ID:V5W1i5H8P
- その窓の前に佇んだ少年の後姿。
- 857 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:47:12.41 ID:V5W1i5H8P
- ただし斜めに後ろから見た上半身。
- 858 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 21:58:58.15 ID:V5W1i5H8P
- 人形の首はおのずから人間の首に変ってしまう。
- 859 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 22:10:44.13 ID:V5W1i5H8P
- のみならずこう少年に話しかける。――
- 860 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 22:22:29.89 ID:V5W1i5H8P
- 「目金を買っておかけなさい。
- 861 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 22:34:15.67 ID:V5W1i5H8P
- お父さんを見付るには目金をかけるのに限りますからね。」
- 862 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 22:46:02.15 ID:V5W1i5H8P
- 「僕の目は病気ではないよ。」
- 863 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 22:57:47.85 ID:V5W1i5H8P
- 斜めに見た造花屋の飾り窓。
- 864 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 23:09:33.51 ID:V5W1i5H8P
- 造花は皆竹籠だの、瀬戸物の鉢だのの中に開いている。
- 865 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 23:21:19.68 ID:V5W1i5H8P
- 中でも一番大きいのは左にある鬼百合の花。
- 866 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 23:33:05.47 ID:V5W1i5H8P
- 飾り窓の板硝子は少年の上半身を映しはじめる。
- 867 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 23:44:51.17 ID:V5W1i5H8P
- 何か幽霊のようにぼんやりと。
- 868 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/07/31(火) 23:56:37.26 ID:V5W1i5H8P
- 飾り窓の板硝子越しに造花を隔てた少年の上半身。
- 869 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 00:08:24.90 ID:UvjzMChUo
- 少年は板硝子に手を当てている。
- 870 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 00:20:10.90 ID:UvjzMChUo
- そのうちに息の当るせいか、顔だけぼんやりと曇ってしまう。
- 871 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 00:31:56.61 ID:UvjzMChUo
- 飾り窓の中の鬼百合の花。
- 872 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 00:43:43.33 ID:UvjzMChUo
- ただし後ろは暗である。
- 873 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 00:55:28.96 ID:UvjzMChUo
- 鬼百合の花の下に垂れている莟もいつか次第に開きはじめる。
- 874 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 01:07:14.94 ID:UvjzMChUo
- 「わたしの美しさを御覧なさい。」
- 875 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 01:19:00.64 ID:UvjzMChUo
- 「だってお前は造花じゃないか?」
- 876 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 01:30:46.57 ID:UvjzMChUo
- 角から見た煙草屋の飾り窓。
- 877 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 01:42:32.50 ID:UvjzMChUo
- 巻煙草の缶、葉巻の箱、パイプなどの並んだ中に斜めに札が一枚懸っている。
- 878 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 01:54:18.15 ID:UvjzMChUo
- この札に書いてあるのは、――
- 879 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 02:06:03.81 ID:UvjzMChUo
- 「煙草の煙は天国の門です。」
- 880 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 02:17:49.75 ID:UvjzMChUo
- 徐ろにパイプから立ち昇る煙。
- 881 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 02:29:35.74 ID:UvjzMChUo
- 煙の満ち充ちた飾り窓の正面。
- 882 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 02:41:21.70 ID:UvjzMChUo
- 少年はこの右に佇んでいる。
- 883 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 02:53:08.19 ID:UvjzMChUo
- ただしこれも膝の上まで。
- 884 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 03:04:53.94 ID:UvjzMChUo
- 煙の中にはぼんやりと城が三つ浮かびはじめる。
- 885 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 03:16:39.67 ID:UvjzMChUo
- 城は Three Castles の商標を立体にしたものに近い。
- 886 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 03:28:25.86 ID:UvjzMChUo
- この城の門には兵卒が一人銃を持って佇んでいる。
- 887 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 03:40:11.51 ID:UvjzMChUo
- そのまた鉄格子の門の向うには棕櫚が何本もそよいでいる。
- 888 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 03:51:57.29 ID:UvjzMChUo
- そこには横にいつの間にかこう云う文句が浮かび始める。――
- 889 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 04:03:42.97 ID:UvjzMChUo
- 「この門に入るものは英雄となるべし。」
- 890 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 04:15:28.75 ID:UvjzMChUo
- こちらへ歩いて来る少年の姿。
- 891 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 04:27:14.37 ID:UvjzMChUo
- 前の煙草屋の飾り窓は斜めに少年の後ろに立っている。
- 892 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 04:39:00.28 ID:UvjzMChUo
- 少年はちょっとふり返って見た後、さっさとまた歩いて行ってしまう。
- 893 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 04:50:46.06 ID:UvjzMChUo
- 吊り鐘だけ見える鐘楼の内部。
- 894 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 05:02:31.86 ID:UvjzMChUo
- 撞木は誰かの手に綱を引かれ、徐ろに鐘を鳴らしはじめる。
- 895 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 05:14:17.49 ID:UvjzMChUo
- 一度、二度、三度、――
- 896 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 05:26:03.14 ID:UvjzMChUo
- 鐘楼の外は松の木ばかり。
- 897 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 05:37:49.08 ID:UvjzMChUo
- 斜めに見た射撃屋の店。
- 898 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 05:49:35.14 ID:UvjzMChUo
- 的は後ろに巻煙草の箱を積み、前に博多人形を並べている。
- 899 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 06:01:20.91 ID:UvjzMChUo
- 手前に並んだ空気銃の一列。
- 900 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 06:13:06.68 ID:UvjzMChUo
- 人形の一つはドレッスをつけ、扇を持った西洋人の女である。
- 901 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 06:24:52.31 ID:UvjzMChUo
- 少年は怯ず怯ずこの店にはいり、空気銃を一つとり上げて全然無分別に的を狙う。
- 902 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 06:36:37.97 ID:UvjzMChUo
- 射撃屋の店には誰もいない。
- 903 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 06:48:23.64 ID:UvjzMChUo
- 少年の姿は膝の上まで。
- 904 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:00:09.77 ID:UvjzMChUo
- 人形は静かに扇をひろげ、すっかり顔を隠してしまう。
- 905 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:11:55.56 ID:UvjzMChUo
- それからこの人形に中るコルクの弾丸。
- 906 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:23:41.22 ID:UvjzMChUo
- 人形は勿論仰向けに倒れる。
- 907 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:35:26.98 ID:UvjzMChUo
- 人形の後ろにも暗のあるばかり。
- 908 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:47:12.61 ID:UvjzMChUo
- 少年はまた空気銃をとり上げ、今度は熱心に的を狙う。
- 909 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 07:58:58.32 ID:UvjzMChUo
- 三発、四発、五発、――
- 910 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 08:10:44.69 ID:UvjzMChUo
- しかし的は一つも落ちない。
- 911 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 08:22:30.35 ID:UvjzMChUo
- 少年は渋ぶ渋ぶ銀貨を出し、店の外へ行ってしまう。
- 912 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 08:34:16.00 ID:UvjzMChUo
- 始めはただ薄暗い中に四角いものの見えるばかり。
- 913 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 08:46:01.90 ID:UvjzMChUo
- その中にこの四角いものは突然電燈をともしたと見え、横にこう云う字を浮かび上らせる。――
- 914 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 08:57:47.57 ID:UvjzMChUo
- 上のは黒い中に白、下のは黒い中に赤である。
- 915 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 09:09:36.37 ID:UvjzMChUo
- 火のともった窓が一つ見える。
- 916 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 09:21:22.63 ID:UvjzMChUo
- まっ直に雨樋をおろした壁にはいろいろのポスタアの剥がれた痕。
- 917 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 09:33:08.43 ID:UvjzMChUo
- 少年はそこに佇んだまま、しばらくはどちらへも行こうとしない。
- 918 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 09:44:54.07 ID:UvjzMChUo
- それから高い窓を見上げる。
- 919 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 09:56:39.73 ID:UvjzMChUo
- が、窓には誰も見えない。
- 920 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 10:08:25.44 ID:UvjzMChUo
- ただ逞しいブルテリアが一匹、少年の足もとを通って行く。
- 921 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 10:20:11.09 ID:UvjzMChUo
- 少年の匂を嗅いで見ながら。
- 922 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 10:31:57.13 ID:UvjzMChUo
- 火のともった窓には踊り子が一人現れ、冷淡に目の下の往来を眺める。
- 923 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 10:43:42.81 ID:UvjzMChUo
- この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない。
- 924 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 10:55:28.46 ID:UvjzMChUo
- が、いつか少年に似た、可憐な顔を現してしまう。
- 925 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 11:07:14.10 ID:UvjzMChUo
- 踊り子は静かに窓をあけ、小さい花束を下に投げる。
- 926 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 11:18:59.79 ID:UvjzMChUo
- 往来に立った少年の足もと。
- 927 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 11:30:45.54 ID:UvjzMChUo
- 小さい花束が一つ落ちて来る。
- 928 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 11:42:31.78 ID:UvjzMChUo
- 少年の手はこれを拾う。
- 929 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 11:54:17.88 ID:UvjzMChUo
- 花束は往来を離れるが早いか、いつか茨の束に変っている。
- 930 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 12:06:03.64 ID:UvjzMChUo
- 掲示板は「北の風、晴」
- 931 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 12:17:49.30 ID:UvjzMChUo
- と云う字をチョオクに現している。
- 932 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 12:29:35.00 ID:UvjzMChUo
- が、それはぼんやりとなり、「南の風強かるべし。
- 933 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 12:41:20.85 ID:UvjzMChUo
- と云う字に変ってしまう。
- 934 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 12:53:06.79 ID:UvjzMChUo
- 斜に見た標札屋の露店、天幕の下に並んだ見本は徳川家康、二宮尊徳、渡辺崋山、近藤勇、近松門左衛門などの名を並べている。
- 935 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 13:04:52.44 ID:UvjzMChUo
- こう云う名前もいつの間にか有り来りの名前に変ってしまう。
- 936 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 13:16:37.25 ID:UvjzMChUo
- のみならずそれ等の標札の向うにかすかに浮んで来る南瓜畠……
- 937 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 13:28:23.05 ID:UvjzMChUo
- 池の向うに並んだ何軒かの映画館。
- 938 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 13:40:08.71 ID:UvjzMChUo
- 池には勿論電燈の影が幾つともなしに映っている。
- 939 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 13:51:54.42 ID:UvjzMChUo
- 池の左に立った少年の上半身。
- 940 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 14:03:40.37 ID:UvjzMChUo
- 少年の帽は咄嗟の間に風のために池へ飛んでしまう。
- 941 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 14:15:26.06 ID:UvjzMChUo
- 少年はいろいろあせった後、こちらを向いて歩きはじめる。
- 942 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 14:27:11.80 ID:UvjzMChUo
- ほとんど絶望に近い表情。
- 943 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 14:38:57.46 ID:UvjzMChUo
- 砂糖の塔、生菓子、麦藁のパイプを入れた曹達水のコップなどの向うに人かげが幾つも動いている。
- 944 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 14:50:43.29 ID:UvjzMChUo
- 少年はこの飾り窓の前へ通りかかり、飾り窓の左に足を止めてしまう。
- 945 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 15:02:29.23 ID:UvjzMChUo
- 少年の姿は膝の上まで。
- 946 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 15:14:15.06 ID:UvjzMChUo
- 夫婦らしい中年の男女が二人硝子戸の中へはいって行く。
- 947 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 15:26:01.03 ID:UvjzMChUo
- 女はマントルを着た子供を抱いている。
- 948 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 15:37:46.85 ID:UvjzMChUo
- そのうちにカッフェはおのずからまわり、コック部屋の裏を現わしてしまう。
- 949 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 15:49:32.52 ID:UvjzMChUo
- コック部屋の裏には煙突が一本。
- 950 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 16:01:18.26 ID:UvjzMChUo
- そこにはまた労働者が二人せっせとシャベルを動かしている。
- 951 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 16:13:03.98 ID:UvjzMChUo
- カンテラを一つともしたまま。……
- 952 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 16:24:50.32 ID:UvjzMChUo
- テエブルの前の子供椅子の上に上半身を見せた前の子供。
- 953 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 16:36:36.02 ID:UvjzMChUo
- 子供はにこにこ笑いながら、首を振ったり手を挙げたりしている。
- 954 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 16:48:21.66 ID:UvjzMChUo
- 子供の後ろには何も見えない。
- 955 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:00:07.30 ID:UvjzMChUo
- そこへいつか薔薇の花が一つずつ静かに落ちはじめる。
- 956 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:11:52.98 ID:UvjzMChUo
- 斜めに見える自動計算器。
- 957 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:23:38.61 ID:UvjzMChUo
- 計算器の前には手が二つしきりなしに動いている。
- 958 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:35:24.76 ID:UvjzMChUo
- 勿論女の手に違いない。
- 959 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:47:10.47 ID:UvjzMChUo
- それから絶えず開かれる抽斗。
- 960 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 17:58:57.31 ID:UvjzMChUo
- 抽斗の中は銭ばかりである。
- 961 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 18:10:44.11 ID:UvjzMChUo
- 前のカッフェの飾り窓。
- 962 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 18:22:30.64 ID:UvjzMChUo
- 少年の姿も変りはない。
- 963 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 18:34:16.90 ID:UvjzMChUo
- しばらくの後、少年は徐ろに振り返り、足早にこちらへ歩いて来る。
- 964 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 18:46:04.06 ID:UvjzMChUo
- が、顔ばかりになった時、ちょっと立ちどまって何かを見る。
- 965 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 18:57:49.72 ID:UvjzMChUo
- 人だかりのまん中に立った糶り商人。
- 966 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 19:09:35.42 ID:UvjzMChUo
- 彼は呉服ものをひろげた中に立ち、一本の帯をふりながら、熱心に人だかりに呼びかけている。
- 967 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 19:21:21.20 ID:UvjzMChUo
- 彼の手に持った一本の帯。
- 968 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 19:33:06.96 ID:UvjzMChUo
- 帯は前後左右に振られながら、片はしを二三尺現している。
- 969 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 19:44:57.88 ID:UvjzMChUo
- 帯の模様は廓大した雪片。
- 970 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 19:56:43.83 ID:UvjzMChUo
- 雪片は次第にまわりながら、くるくる帯の外へも落ちはじめる。
- 971 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 20:08:29.55 ID:UvjzMChUo
- シャツやズボン下を吊った下に婆さんが一人行火に当っている。
- 972 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 20:20:15.41 ID:UvjzMChUo
- 婆さんの前にもメリヤス類。
- 973 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 20:32:02.06 ID:UvjzMChUo
- 毛糸の編みものも交っていないことはない。
- 974 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 20:43:47.96 ID:UvjzMChUo
- 行火の裾には黒猫が一匹時々前足を嘗めている。
- 975 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/01(水) 20:55:34.26 ID:UvjzMChUo
- 行火の裾に坐っている黒猫。
- 976 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 01:09:26.06 ID:1hq7jld7i
- 左に少年の下半身も見える。
- 977 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 01:21:11.98 ID:1hq7jld7i
- 黒猫も始めは変りはない。
- 978 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 01:32:57.79 ID:1hq7jld7i
- しかしいつか頭の上に流蘇の長いトルコ帽をかぶっている。
- 979 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 01:44:43.49 ID:1hq7jld7i
- 「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」
- 980 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 01:56:29.24 ID:1hq7jld7i
- 「僕は帽子さえ買えないんだよ。」
- 981 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 02:08:14.88 ID:1hq7jld7i
- メリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。
- 982 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 02:20:00.90 ID:1hq7jld7i
- 少年は涙を流しはじめる。
- 983 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 02:31:46.84 ID:1hq7jld7i
- が、やっと気をとり直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩きはじめる。
- 984 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 02:43:32.65 ID:1hq7jld7i
- かすかに星のかがやいた夕空。
- 985 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 02:55:18.40 ID:1hq7jld7i
- そこへ大きい顔が一つおのずからぼんやりと浮かんで来る。
- 986 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 03:07:04.03 ID:1hq7jld7i
- 顔は少年の父親らしい。
- 987 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 03:18:49.71 ID:1hq7jld7i
- 愛情はこもっているものの、何か無限にもの悲しい表情。
- 988 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 03:30:36.56 ID:1hq7jld7i
- しかしこの顔もしばらくの後、霧のようにどこかへ消えてしまう。
- 989 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 03:42:22.37 ID:1hq7jld7i
- 少年はこちらへ後ろを見せたまま、この往来を歩いて行く。
- 990 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 03:54:08.21 ID:1hq7jld7i
- 往来は余り人通りはない。
- 991 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 04:05:54.00 ID:1hq7jld7i
- 少年の後ろから歩いて行く男。
- 992 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 04:17:39.71 ID:1hq7jld7i
- この男はちょっと振り返り、マスクをかけた顔を見せる。
- 993 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 04:29:25.52 ID:1hq7jld7i
- 少年は一度も後ろを見ない。
- 994 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 04:41:11.80 ID:1hq7jld7i
- 斜めに見た格子戸造りの家の外部。
- 995 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 04:52:57.72 ID:1hq7jld7i
- 家の前には人力車が三台後ろ向きに止まっている。
- 996 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 05:04:43.40 ID:1hq7jld7i
- 人通りはやはり沢山ない。
- 997 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 05:16:29.05 ID:1hq7jld7i
- 角隠しをつけた花嫁が一人、何人かの人々と一しょに格子戸を出、静かに前の人力車に乗る。
- 998 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 05:28:14.81 ID:1hq7jld7i
- 人力車は三台とも人を乗せると、花嫁を先に走って行く。
- 999 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 05:40:00.49 ID:1hq7jld7i
- そのあとから少年の後ろ姿。
- 1000 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 05:51:46.59 ID:1hq7jld7i
- 格子戸の家の前に立った人々は勿論少年に目もやらない。
- 1001 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 06:03:32.25 ID:1hq7jld7i
- 「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」
- 1002 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 06:15:17.94 ID:1hq7jld7i
- これもこの板を前後にしたサンドウィッチ・マンに変ってしまう。
- 1003 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 06:27:03.72 ID:1hq7jld7i
- サンドウィッチ・マンは年をとっているものの、どこか仲店を歩いていた、都会人らしい紳士に似ている。
- 1004 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 06:38:49.59 ID:1hq7jld7i
- 後ろは前よりも人通りは多い、いろいろの店の並んだ往来。
- 1005 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2018/08/02(木) 06:50:35.21 ID:1hq7jld7i
- 少年はそこを通りかかり、サンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚貰って行く。
- 1006 ：１００１★：Over 1000 Comments
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