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法医学スレッド

1 :名無しさん@おだいじに:2009/05/03(日) 13:39:19 ID:gdTDJ3Vx.net
ないのでたてました

185 :名無しさん@おだいじに:2019/12/04(水) 22:56:27.67 ID:???.net
保護犬を3匹飼って良い人ぶってる伴
本当に犬が好きなら柴犬とか秋田犬とかチワワみたいな血統書付きじゃなく雑種飼えよ
特に秋田犬うるせーんだよ
狭くて壁の薄い家なんだから対策しろよ自己中

186 :名無しさん@おだいじに:2019/12/06(金) 07:32:16 ID:???.net
医療知識のある方に相談したくて、書き込むのだけど
他に良いスレが見つからないので、法医学のスレに書き込みさせていただきます

趣味で小説を書いてネットなどで公開しているのですけど
以前からTSの話を書きたかったのですが
ちまたにあるように宇宙人に女性に変えられたとか、起きてみれば何故か女性になっていたとか
そういうのではなくて、ちゃんと現実にありえそうな展開

仮性半陰陽で、男性かと思っていたら
実は女性であり
心は男性のものだが
遺伝子が女性だる以上、どんなに頑張っても、本物の男性になれないと
手術で女性に生まれ変わった人の話とか考えてみようと思います

実際のところ、そういう事例は医学的にありますか?
女性と思ったら、実は半陰陽で男性だったという話は時々聞きますが
その逆はあまりないのでお尋ねします

187 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:08:26.29 ID:???.net
人相鑑定術によせて

外面は、内部を、描いたように写し出すものだ、そして、容貌が人間の全本質を発表し顕現す
るということは、一つの仮説ではあるが、その先験性ならびに確実さは善にもあれ、悪にもあ
れ、とにかく、何事かによって―余人の及ばぬ行ないをなしたか、または、なみはずれた仕事を
やり遂げた―或る人物を見たいという、あらゆる機会に―湧きおこる一般的な渇望のうちに、明白
に現われている。だから、一方では、そのような人物がいると推測される場所に人々が押し寄せ
るのであり、他方では、日刊新聞―とくにイギリスの新聞―では、そういう人物を詳細かつ適切
に記述するのに、いろいろと骨を折っているのだし、やがては、画家や銅版師が彼の肖像をはっ
きりと描いてくれるとしても、ダゲールがついに写真術を発見したことは、このような要求を最
も完全に充たすものとしても、きわめて高く評価されている次第である。同じように、日常生活に
おいても、人々は、それぞれに、自分の前に現われる人々の人相を鑑定して、ひそかに、その人
たちの容貌から、その道徳的および知性的な本質を、あらかじめ探り知ろうと努めるものである。
もしも、若干の愚者の言うように、精神と肉体とは全く別なもので、躯が心に対する関係は、人
がその衣服に対すると同じだから、人間の容貌には何らの意味をも有たせるわけにはいかないもの
ならば、上述したすべての事実は、あのように起こり得ないであろう。

 むしろ、すべての人間の顔は、或る象形文字であり、しかも、確かに解読し得るものであって、
そのアルファベットは、もはや、わたしたちに了解されているのである。のみならず、或る人間
の顔は、通常、その口よりも、はるかに多く、さらに興味深いことを言う。すなわち、顔は、い
つかは口が言うようになることのすべての摘要を示す、言いかえると、それは、この人間のあら
ゆる思想と意図との組み合わせ文字なのだから。なお、口は単に人間の或る思想を語るだけだが、
顔は自然の或る考えを発表するのである。

188 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:08:45.71 ID:???.net
 従って、すべての人は、だれにでも相手かまわず話し
かけてみる必要はないにしても、すべての人を注意深く観察してみる価値はあるのだ。―さて、
それぞれの個体が、すでに、自然の個々の或る考えを表すものとして、観察するに足る価値を
有っているとすれあ、その価値を最高度に有するものが「美」であるということになる。なぜな
ら、美は、自然のより高い、より普遍的な概念であり、美は、「種」について「自然」が示す思想
なのであるから。それだからこそ、美は、あれほどにまで力強く、わたしたちの眼をとらえるの
だ。美は、まさしく、自然の根本的な、そして、主要な思想であり、これに反し、個体は、ただ、
一つの副次的な思想、いわば「系」に過ぎない。

 すべての人は、口に出して言わないまでも、内心には「おのおのの人は、見える通りのもので
ある」という原則を持っていて、これを拠りどころとして、他人を見ている。この原則は、どこ
までも、正しいのであるが、その適用に困難な点があるのだ。適用に対する能力を、一部分は、
だれでも生まれつきにそなえているけれども、その他に経験を積んで獲得せねばならぬ部分があ
る。しかし、何ぴとも、これを完全に修得しつくすわけにはいかず、最も熟練した人ですら、な
お、鑑定の誤りを免れ得ない。とはいえ、顔が嘘をつくことは、けっして、無いのだ、―こん
なことは、フィガロでさえ言っているだろう、―そこに現われていないことを、読みとるのは、
わたしたちなのである。

 いずれにせよ、容貌を解読することは、一つの重大な、そしてむずかしい技術であって、こ
の技術の原理を抽象的に修得することは、とても出来ない。これに達する第一の条件は、その人
を純客観的な見方で把握することなのだが、この純客観的に見るということが、そもそも、容易
ならぬ業である。というのは、もしも、嫌うとか、好むとか、恐ろしいとか、希望を有つとかい
う気持が、ほんの少しでも起こるならば、或いは、自分が今どのような印象を相手に与えている
かなどと考えるだけでも、つまり、何かしら或る主観的な因子が混入すると、たちまち、象形文
字は紛らわしくなって誤読されるからである。

189 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:08:58.35 ID:???.net
 或る国語の音調を聴きわけ得るのは、その国語の
意味を理解していない人に限られる―そうでないと、示されたもの〔意味〕が、示すもの〔音調〕を
すぐさま意識の外におし除けてしまう―のと同様に、或る人の人相を鑑定しうるのは、ただ、そ
の人といまだ親しくなっていない人、言いかえると、その人と度々会ったり話したりして、その
顔に慣れるようなことの全く無かった人だけということになる。そういう人なら、或る顔につい
て純客観的な印象がつかめるし、それによって、容貌を解読する可能性を有てるのだから、厳密
に考えると、人相の鑑定は初対面の際に限るといわねばなるまい。匂いは初めて嗅いだときにだ
け感じられ、葡萄酒の味は一杯目にのみ真に味わえるのと同様に、やはり、顔が、その完全な印
象を与えるのは、ただ第一回目にかぎられる。それゆえ、最初の印象を注意深く見きわめて、こ
の印象を記憶しておかねばならない。さらに、個人的に重要な関係を有つ人物である場合に
は、その印象を書きとめておくがよい。とりわけ、人相の鑑定について自分の感じを信頼できる
ならば。その後、交際して知り合いになると、以前の印象は、とかく消え失せていくが、いつか
は、その第一印象を証拠立てるような結果が現われるであろう。

190 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:09:12.95 ID:???.net
 しかしながら、わたしたちは、この場合、その第一印象なるものが、おおかた、はなはだしく
不愉快なものであるということを、自分に対して、つつみ隠そうと思ってはなるまい。―とに
かく、人が大勢いるなかでも、まあ合格といえるのは、どんなにか少ないことだろう!―例外
として、美しい、善良な、聡明な顔は、―ほんの時たま、ごくまれに、あるにはあるけれども、
―感覚の繊細な人々にとって、たいていの新しい顔は、おおむね、或る―驚きに近い―感じを
起こさせるであろう、というのは、たいていの顔がいまさらながら吃驚せられるようなものの
組み合わせで出来あがっていて、要するに、不愉快きわまる印象を与えるものなのだから、とわ
たしには信じられるのだ。実際、そのような顔は、通例、全く、がっかりさせる光景(英語でい
う a sorry sight)である。しかも、それらの顔のうえには、心構えの卑俗さ低劣さが、むきだし
に現われているばかりでなく、よくも、あんな面をしていながら外出することができるなあ、な
んだって、わざわざ仮面をかぶらずにいるのかしらと、怪訝の思いにたえられないほど―人間ば
なれのした―悟性の狭さ浅はかささえ、はっきりと刻みつけられている。実に、たった一と目見
たばかりでも、こちらまで汚されてしまいそうな感じのする顔もあるのだ。従って、特殊な地位
にいる人々が、いつも「新しい顔を見る」ことの苦々しい感じを全く回避するために、隠遁生活
にはいり面会を拒絶するとしても、これを一概に、曲解してはなるまい。

191 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:09:26.28 ID:???.net
 この事柄を形而上
学的に解釈すると、人それぞれの個性というものは、まさしく、彼の存在そのものによってとり
戻し、訂正せねばならぬものであるという考えへと立ちいたる。これに反して、心理学的な説明
だけで満足しようと欲するならば、みずからに問うてみるがよかろう、けだし、長い一生を通じ
て、心の中に、ちっぽけな、低級の、けちくさい考えや、卑しい、利己的な、羨ましがりの、間
違った、そのうえ性の悪い願望のほかには、ほとんど何物をも思い浮かべてもみなかったような
人間の顔に、果たして、どういう人相が期待されるであろうか、と。そのような願望や考えは、
それぞれに、それが今ある間は、顔面に、その表現を浮かびあがらせるし、その痕跡のすべては、
しばしば反復されることにより、時間の経過するにつれて、容貌に深い皺となって刻みつけ
られて、これをすっかり凸凹にしてしまう。だから、たいていの人は、初めて見たときに、びっく
りさせられるような容貌をしているのである。しかし、そんなような顔でも、だんだんと、慣れ
るに従って、言いかえると、その印象に対して鈍感になってしまうと、それはもはや何らの作用
をも及ぼさないようになるのだ。
 聡明な容貌は、長い歳月の間に徐々に出来あがるもので、しかも、老齢に及んで、初めて、そ
の高貴な表情に達するのであるが、若い時代の肖像画には、ただ、かかる表情のほんの片影しか
認められないということの理由は、まさしく、永続する容貌の形成過程が、特徴を示す緊張の現
われては消えながらも数限りなく反復することによって、ゆるゆると行われていくことで説明
されるだろう。また、反対に、前に述べたごとく、人が、初めて見た顔に対して、驚愕を感ずる
所以は、或る人の顔が、十分に正しい印象を与えるのは、最初の時だけであるという、前記の意
見と、ぴったり相応するのである。また繰り返すようだが、かかる印象を、純粋に客観的に、か
つ、誤りなく受けいれるためには、その人とほんの少しでも関係があってはならない、そのうえ、
出来ることならあ、その人と、一度も話し合わないことが必要である。

192 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:09:39.53 ID:???.net
 というのは、どんな会話で
あっても、言葉を交わすというだけで、すでに、双方を或る程度まで親しくする、つまり、或る
種の因縁を導き入れ、相互の主観的な関係が生ずる、と同時に、この関係によって、把握の客観
性は傷つけられてしまう。そのうえ、だれしも相手から尊敬されたいとか友情を得たいとか努め
るものだし、観察されていると思えば、その人は、すぐさま、すでに自分で心得ている一切の偽
装術を応用するようになり、その顔つきによって善人ぶるやら、へつらうやらして、わたしたち
を惑わすであろうから、初めて見たときには、はっきりと現われていたものも、やがて、もはや
判明せぬようになってしまうのだ。こういった見地からすると、一般に、「たいがいの人は、く
わしく知り合うほど、わたしたちをだますものだ」というほうが、正しかろう。しかも、後にな
って、悪い状況が現われてくると、おおむね、初めて見たときに下した判断が、その正しさを獲得
し、また、往々にして、その判断が嘲笑的にその正しさを主張する。そして、「親しいつきあい」
が、逆に、すぐさま、敵対しあう関係となり、同時に、親しくつきあうことによって人々は得る
ところがあるという説は、認められないことになってしまう。だが、親しくつきあえば得るとこ
ろがあるといわれることの、もう一つ月の原因は、初めて会った時に、わたしたちに警戒の念を
起こさせた人物も、話し合ってみると、もはや、単に、彼の独自な本質や性格が表われるばかり
でなく、彼の有する教義も現われてくる、言いなおすと、彼が実際に天性によって具備している
ものばかりでなくて、彼自身が全人類の共有財産から自分のものにしてしまったものまで現われ
てくるということに存する。

193 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:09:53.32 ID:???.net
すなわち、この場合、彼が話すことの四分の三は、もともと彼自身
に属するものではなく、外部から取りいれられたものなのである。そうだ、わたしたちは、或る
そのような怪物が、きわめて人間らしく話しているのを聞いて、びっくりすることもしばしばあ
るのだ。
 しかも、「親しつきあい」から、さらに一歩進めて、なおも近づいていくならば、やがて、
「野獣性」が、彼の容貌から予言していた通り、「全く支配的であったことを現わす」であろう。
―それゆえ、人相を鑑定する能力を賦与されている人は、全く近づきにならなかった前に
下した―従って少しも誤りのない―鑑定判断を、よくよく尊重しなければならない。なぜなら、
或る人の顔は、直截に、その人が何物であるかを言い表しているからである。そして、もしも、
それがわたしたちを欺くならば、欺かれることは、容貌の罪ではなくて、わたしたち自身に責任
があるのだ。ところで、或る人の言葉は、単に、その人の考えていることだけを言うか、いや、
それよりも往々にして、ただ自分の学んだことばかりを語り、さらに進んでは、何かしら考え
ているような振りをして、喋っているのに過ぎないことさえある。そのうえ、なお、次のような
ことも起きる。すなわち、わたしたちは、みずから或る人と話すとき、もしくは、彼が他の人に
話しているのを聞くときにでも、とかく、その人の真の人相を見のがしてしまうのである。これ
は、わたしたちが、主要構成基質―つまり、そのまま与えられたもの―としての人相を、そっち
のけにして、もっぱら、顔面に現われる感情の判断に関する方面、すなわち、談話の際における
その人の表情の動きばかり、気を取られているからである。しかし、この場合、その人は、よ
い顔ばかりを外部に向けるように心がけているものなのだ。

194 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:11:06.04 ID:???.net
てs

195 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:11:14.49 ID:???.net
てs

196 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:11:33.07 ID:???.net
 さて、ソクラテスが、或る青年の能力を検査するために、これと対坐したときに、この青年に
向かって、「話しておくれ、それによって、わたしは君を見るから」と言ったのは、(この場合、
ソクラテスは見るという語を単に「聞く」という意味で使ったのではなかった、と仮定するな
らば)、条件づきながら、とにかく、正当な言葉である。その条件というのは、話すときにのみ、
動きとなって現われてくるから、それによって、わたしたちは、直ちに、その人の知性の程度と
包容力とを、さしあたり評価し得るということだが、ソクラテスの目的も、まさしく、この点に
あったといえようしかし、立場を変えてみると、反対に、次のような議論も成り立つであろう。
第一に、この方法は、人間の―ごく深いところに存在する―道徳的特質を検するために適用する
ことは出来ない。第二に、人は、話をする際に、その表情の動きによって、その容貌を一層はっ
きりと展開させるが、この展開に即して、客観的に知り得るものを、わたしたちは、間もなく、
その人とわたしたちの間に生ずる個人的関係によって、主観的に、またもや失うようになる。
というのは、この個人的な関係が惹きおこす能力は、はなはだ軽微なものだとしても、やはり、
すでに説明しておいたように、私たちのとらわれない判断を、かき乱すからである。従って、
この最後の観点より推論するならば、むしろ、「話をせずにいておくれ、わたしが君を見さだめる
ために」と言ったほうが、より正しいのではあるまいか。

197 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:11:50.36 ID:???.net
 そうだ、或る人物の真の人相を、純粋に、かつ、深く把握するためには、その人が何もせずに、
ひとりっきりですわっているとき、これを観察しなければならない。あらゆる会合や、他人との
談話は、すでに、その人の上に他人の反映を投げかけるものであり、これが、たいがいの場合、
その人に有利になる。というのは、彼が、みずからも働きかけ、まあ、他人から働きかけられな
がら、動いていることによって高められるからである。しかるに、何もせずに、ひとりっきりで、
自分自身の考えや感じにひたっている、―ただ、その時にのみ、彼は全く彼自身なのである。
こういう時に、人相の鑑定にかけて深く見抜くだけの眼力をそなえた人ならば、その人の本質を、
全般にわたって、いっぺんに補足することが出来る。なぜならその人の顔の上には、おのずか
ら〔即向自に〕、その人のあらゆる思想と努力との基調―すなわちその人が将来そうならねばな
らぬものおよびその人がひとりっきりでいるときにのみそっくりみずから感じることについての、
取り消しがたき判断―が、刻みつけられたように、はっきりと現われ出るからである。
 ところで、狭い意味での、人相は、人々のいかなる変装技術も、そこまでは手の届かぬ唯一の
ものであるから、この理由だけでも、人相鑑定法は、確かに、人間を知るための重要な手段とい
える。けだし、変装技術の応用できる範囲内には、単に、感情の表わし方を変える、すなわち表
情擬態による方法だけがあるにすぎないのだから。それゆえ、誰でも、或る人物の本質を知ろう
とするならば、相手がひとりっきりで自分のことばかり考えているときを選び、なお、その人と話
をしないうちに、相手の人相を見きわめてしまうよう、せつに、わたしは、奨めるのである。そ
の一つの理由としては、そのような場合にのみ、人々は、純粋ないつわりのない人相を示すけれ
ども、会話が始まると、たちまち、表情の動きに影響されたり、そのうちに、相手はみずから習
得したもろもろの変装技術を行使するということが考えられるし、もう一つの理由として、あら
ゆる個人的な関係は、ほんの一時的なものであっても、多少とも、わたしたちを拘束するもので、
それによって、わたしたちの判断が主観的に不純なものとなるおそれもあるのだ。

198 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:12:08.51 ID:???.net
 なお、わたしは、一般に、人相の鑑定法では、或る人間の知性的な能力のほうが、その人の道
徳的な性格よりも、はるかに、よくわかるものだということを、注意しておかなければならない。
つまり、知性的な能力は、道徳的な性格に比して、ずっと著しく外部へと滲み出てくる。それは、
ただ、顔や表情の動きに現われるのみならず、歩き方にも、さらに、すべての運動に、ごく些細
な所作にさえ、現われてくる。おそらく、だれでも、愚物か、痴呆か、才能人かは、後姿だけか
らも、判別しうるであろう。船のように鈍重な動作は、すべて、愚物の特徴だし、痴呆は、その
徴候を、あらゆる身振りに示すが、才能や思慮も、やはり同様に、動作や身振りによって認めら
れる。このことにもとづいて、ラ・ブリュイエールは「どれほど巧妙に、どれほど無造作に、ま
たどれほど気づかれぬように行なわれようとも、その中に、わたしたちの本性を示す或る挙動が
少しも現われていないことは、全く無い。頭の鈍い者は、はいるにしても、出るにしても、すわ
っても、立っても、黙っていようが、つっ立っていればなおさら、才能のある人と同じように振
る舞うことなど、とても出来はしない」と記述している。
 エルヴェシウスによると、月並みの頭脳を有つ常人は、才能ある人を見つけたり避けたりす
るために、精確かつ敏捷な本能を有っているそうだが、これも、上述のことによって、説明でき
る。もっとも、これは、いささか余談にわたるかもしれない。
 とにかく、そのような事柄のもとづくところは、まず第一に、脳髄がより大きくて、その発育
が良ければ良いほど、また、脳髄に対する比例において、脳髄と神経とが、より細ければ細いほ
ど、知性ばかりでなく、同時に、四肢の動きかたや柔順さも、それだけ増大するわけだし、何と
いっても、この場合、四肢は脳髄から、より直接に、より截然と支配され、その結果、すべてが、
より多く、ただ一本の糸によってあやつられることになり、従って、あらゆる運動のうちに、そ
の意図が精密に表わされるからである。

199 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:12:32.95 ID:???.net
 なお、これはすべて、動物が、生物としての段階をよ
り高く昇るにつれて、一層たやすく、或る唯一の場所だけを傷つけることによって、これを殺す
ことができるという事実に類似している、というよりもむしろこの事実と関連しているのだ。実
例を、蝦蟇類にとってみると、彼らの運動が鈍重で怠慢で緩慢であるがごとく、彼らは愚昧でもあ
り、と同時に、きわめて粘りづよい生活力を有っているが、これらすべての事柄は、彼らが、は
なはだわずかばかりの脳髄に対して、著しく太い脊髄と神経とをそなえていることから、説明が
つく。しかも、一般に歩行と腕の運動とは、主として、脳髄の佐用によるものである。詳しく
いえば、外部に出ている四肢でも、脳髄から神経を介して、その運動とそれらのあらゆる変更と
の―ごく微細な修正にいたるまで―支配を受けるのである。それゆえ、随意運動をすると、わた
したちは疲れを覚えるのだが、この疲労感は、ちょうど痛みの感じと同様に、その座は脳髄の中
にあるので、わたしたちが思い違いしているように、手足のうちにあるのではない。だから。疲
れると眠気を催すのである。これに反して、有機的生活の運動で、脳髄によって喚起されないも
の、すなわち、不随意運動、たとえば、心臓・肺臓などの運動は、疲れることなく継続している
のだ。さて、思考と四肢の管理とは、ともに同じ脳髄の任務であるから、個人の素質の如何に
従って、脳髄の働きかたの性格は、その両方にひとしく現われることとなり、そこで、愚鈍な人
間は、あたかも、あやつり人形のごとくに運動するが、才能豊かな人々では、あらゆる関節が、
きびきびと動くのだ。―しかしながら、精神的な特質は、態度や動作からよりも、はるかによ
く、容貌から認められる。詳しくいえば、それは、額の形と大きさ、顔のあらゆる道具の緊張と
運動、とりわけ、眼から認知される。―だが、眼にも、いろいろの種類があって、豚の眼のよ
うに、小さく鈍くぼんやり見ているのから、あらゆる中間の段階を経て、天才の光り輝き電の射
るがごとき眼にまで昇りつめる。

200 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:12:49.30 ID:???.net
 悧巧者の眼つきは、その最も巧妙なものでさえ、天才のま
なざしと異なる所以は、前者が意志に奉仕していることの歴然たる証拠を示すのに反して、後者
はそのようなものの片影さえとどめていないというところに存するのだ。(『パレルガ・ウント・
パラリポメナ』第二巻六四ページ〔『哲学入門』第三章〕で「天才の容貌」について述べた条を
参照せられよ)―それゆえ、スクァルツァフィキィが、その著『ペトラルカ伝』のなかで、彼
がペトラルカと同時代にいたヨセフ・プリヴィウスから伝え聞いた話にもとづいて記述した逸話
は、そっくり信じてもよかろう。それによると、或る時、ペトラルカが、多くの紳士や貴族の間
に立ちまじって、ヴィスコンティの宮廷に同候していた時に、ガレアッツォ・ヴィスコンティは、
当時まだ少年であった―ミラノの第一公爵となった―息子を顧みて、その場にい合わせてい
た人々の中から、最も賢明な人を探し出せという課題を与えた。少年は、すべての人たちを、し
ばらく眺めていたが、やがて、ペトラルカの手を握って、父のもとへ連れていったので、列席者
一同は非常に驚嘆したという。そうだ。自然は、人間の中でも特に傑出している人には、その品
位の印章を、少年でさえも認め得るほど、明瞭に捺しておくものなのである。そこで、わたしは、
ふたたび、ひとりの平凡人を三十年間も、偉大なる思想家として吹聴してみいたくなったとしても、
その折には、どうぞ、ヘーゲルみたいなビヤホールの親爺然たる人相の持主を、そのために択び
出さないようにお願いする。自然は、この男の顔に、読みやすい書体で、その得意とする「平凡
人」という文字を、はっきりと記しておいてくれたではないか。

201 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:13:06.09 ID:???.net
さて、しかし、人間の知性的な面に関することを、その道徳的な面、すなわち人間の性格に関
して、そのままあてはめるわけにはいかない。人相の上から、その人の道徳的な性格を察知す
ることは、知性の程度を知るのと比べて、はるかに困難である。というのは道徳的な性格は、
形而上学的なものとして、知性とは比較にならぬほど、より深いところに潜んでいるし、なるほ
ど、体質や生活機能と関係はあるけれども、知性のように、これと直接に結びついてはおらず、
また、その或る一定の部分や系統と関連しているものではないのだから。のみならず、たいてい
の人は、自分の悟性に、通常、はなはだしく満足しているらしく、これを公然と示しているし、
なお、あらゆる『機会に、認められようと努めるけれども、道徳的な性格を、そっくり、あけっぴ
ろげて、さらけ出すことは、はなはだ稀である、というよりむしろ、たいていの場合、故意に隠
匿する、そして長い間の練習は、この隠匿方法をきわめて巧妙なものにまで仕上げるからでも
ある。しかしながら、すでに述べた通り、下劣な思想と没義道な努力とは、徐々に、顔面に、そ
の痕跡を刻みつけていくが、特に、それは眼に現われてくる。それゆえ、わたしたちは、或る人
を、人相鑑定の上から判断して、、その人がけっして不朽の業績を発表し得ないということを保証
することは、たやすく出来るけれども、その人がけっして大罪を犯さぬであろうという保証を与
えることは、けだし、全く不可能であろう。

202 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 09:13:36.49 ID:???.net
 性質の遺伝性

 生殖のさいに結合される両親の種が、種族の特質のみならず個人の特質まで伝えるということは、身
体の(客観的、外面的な)特質について言えば、つね日ごろ経験の教えるところであり、また昔から承
認されてきたことでもある。

 人はそれぞれ、自然が彼に与えた素質に従う。 (カルトゥス)

 ところでこのことが精神上の(主観的、内面的な)特質についても同じように言えるかどうか、した
がってこの精神上の特質もまた両親から子供に遺伝されるかどうかということも、これまですでに再三
にわたって提起され、まず一般には肯定されてきた問題である。ところがこの場合に、父親に属するも
のと母親に属するものとが分けられるかどうか、父親と母親からそれぞれわれわれが受け継ぐ遺伝の部
分が何であるかという問題になると、これはかなり難しくなる。意志が人間における本質そのものであ
り、核心であり、根本であるのにたいし、知性はかかる実体における第二次的なもの、外来的なもの、
偶有性であるというのがわれわれの根本的な認識であったが、われわれがこの認識の光によって前述の
問題を照らすならば、生殖にあたって父親が価値の優れた性、産み授ける原理として新たな生命の基盤
であり根本であるもの、つまり意志を授けるのにたいし、母親は価値の劣った性、単に受けいれる原理
として第二次的なもの、つまり知性を授けるのであり、したがって人間はおのれの道徳性や性格、好悪
心や心情を父親から受け継ぎ、これにたいしおのれの知能の程度や質、傾向を母親から受け継ぐと規定
しても、この規定は少なくともあまりまちがってはいないということを、疑問に問う以前にわれわれは
認めるであろう。ところでこういう規定は実際に経験によって確証されるものであるが、ただこの場合、
これを物理的な実験によって机上で決定することは不可能で、一部は多年にわたる最新で綿密な観察か
ら、一部は歴史上の事実から確証されるのである。

203 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP :2020/06/14(日) 10:06:52 ID:???.net
 自分自身の経験には、完全に確実できわめて独特なものであるという長所があり、この長所は、この
ような経験の範囲が限られたものでありそこに示される実例が周知のものではないということから生ず
る不利な点を補って余りがある。そこでわたしは、すべての人にそれぞれまず自分の経験に訴えるよう
に薦めたい。まず第一に、自分自身を観察し、自分の好悪の念〔傾向性〕や激情、精確上の欠点や弱点、
また悪徳を、それにもし自分にそれがあれば長所や美徳をもみずから認め、つぎに自分の父親を顧みる
がよい。そうすればかならず、これらの性格上の特徴を父親にも認めるであろう。ところが母親を見る
と性格がまったく違っており、母親と道徳的に一致するものはきわめてまれである。つまりこの一致は、
両親の性格がたまたま等しいという特殊な事情によってのみ生ずるのである。たとえば、こういう検査
を、怒りっぽいとか、忍耐、貪欲、あるいは浪費とか、淫欲、暴飲暴食癖、賭博癖、酷薄、あるいは慈
悲とか正直、あるいは欺瞞とか高慢、あるいは愛想よさとか勇気、あるいは臆病とか温和、あるいはけ
んか好きとか協調性、あるいは怨みっぽい等々について行なってみることだ。つぎにわれわれがその人
の性格と両親をよく知っているすべての人びとに同じ検査を行なってみればよい。正確に判断し、注意
深く真面目にこれを行なえば、われわれの主張はかならず確証されるであろう。たとえば、虚言癖はか
なり多くの人に固有な独特なものであるが、これも兄弟二人に同じように存在することがわかる。それ
は、彼らがこの癖を父親から受け継いだからである。したがって『詐欺師とその息子』という喜劇も心
理学的に正当なことである。――しかしこの場合二つのやむをえない制限のあることは銘記しておかね
ばなるまい。この制限を逃げ口上だと言うなら、それは明らかな曲解以外のなにものでもなかろう。す
なわちまず第一に、父親というものはつねに不確かである、ということである。父親との身体上の相似
が決定的である場合にのみ、この制限は除かれるが、表面的な相似では不十分である。

204 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP :2020/06/14(日) 10:07:10 ID:???.net
というのは、以前の受胎のなごりというものがあり、そのため往々にして、再婚してできた子供でも先夫
と、また姦通 で生まれた子供が正式の夫と、わずかながらも似ていることがあるからである。動物の場合、
このなごりはもっとはっきり認められている。第二の制限は、息子には父親の道徳上の性格がたしかに現
われるが、しかしそれは、しばしば非常に違った別の知性(母親からの遺伝分)によって変化して現われ、
そのため観察を修正する必要があるということである。この変化は、知性の相違に応じて顕著なこともあ
れば、些々たるものであることもある。しかし、この変化はあまり大きくはないので、こういう変化の
もとでも依然として父親の性格の根本的な特徴はじゅうぶん見分けられる程度には現われる。それは
まったく違った衣装とかつらとひげで仮装した人間のようなものである。たとえば、母親から遺伝され
た部分のおかげでひとりの人間の優れた知性、すなわち、反省し熟慮する能力をそなえている場合に
は、父親から遺伝された激情は、この能力によって制御されるものもあれば隠蔽されるものもあり、そ
のため意図的・計画的に、あるいはひそかにしか現われない。そこで父親がたとえばまったく偏狭な頭
しかもたない場合には、父親と非常に違った現象が現われることになる。これと同様に逆の場合も起こ
りうる。――ところが母親の好悪や激情が再度子供に見いだされることはけっしてない。しばしば母親
と反対の好悪や激情が現われることさえある。

205 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP :2020/06/14(日) 10:07:32 ID:???.net
 天分の豊かな息子なのにその母親が優れた精神の持ち主ではなかった例がときとして見られるとすれ
ば、それは次の事情から説明されるであろう。すなわち、この母親自身その父親が粘液質であり、その
ため彼女の頭脳はもともと異常に発達していたにもかかわらず、この頭脳がこれにふさわしい血液循環
の力でしかるべく刺激せられなかったということである。―この要件は、わたしがまえに第三十一章で
述べておいたものである。ところが、それにもかかわらず彼女の非常に完全な神経組織と脳髄組織が息
子に遺伝されたのであるが、これは、息子の父親が活発で情熱に富み、心臓の鼓動も強力であったとい
う事情が加わり、そのためここにようやく偉大な精神力を生みだすもうひとつの身体的な条件が生じた
からである。おそらくバイロンの例がこれであったと思われる。というのは、どこにも彼の母親の精神
上の長所について言及されていないからである。――天才的な息子自身の母親は衆にすぐれた天分の持
主であるのに、彼女の母親はべつだん才女でもなかったという例の場合も同じように説明されるであろ
う。つまり、彼女の母親の父が粘液質だったのである。

 たいていの人間は性格が調和を欠き、むらがあり、動揺しやすいが、これはおそらく次の事情にもと
づくものであろう。すなわち、個人の出生の起源が単純なものではなく、父親から意思を、母親から知
性を受け継ぐということである。両親がたがいに異質的で肌が合わなければ合わないほど、この不調和
と内的な分裂はますます大きくなるであろう。心情で卓越している者もあれば、頭脳で卓越している者
もあるのにたいし、さらにその長所がもっぱら人柄全体の或る種の調和と統一にある人たちもいるが、
これは、次の事情から生ずる。すなわち、彼らの場合には心情と頭脳がたがいにきわめて調和を保って
おり、たがいに支えあい、高めあっているということである。この場合に想像されるのは、彼らの両親
がさぞかし琴瑟あい和していたろう、ということである。

206 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:07:48.07 ID:???.net
 ただいま述べた理論の生理学的な面に関しては、次の点だけをあげておこう。ブースダッハは、同一
の精神的特質が父親から来ることもあれば母親から来ることもあると誤って想定しているが、それでも
(『経験科学としての生理学』第一巻・第三〇六節で)、「全体として見れば、男性的要素は発動的な生活
の規定に影響し、女性的要素は感受性に影響する」と付言しているということである。――さらにリン
ネが『自然の体系』第一巻八頁で述べていることもここであげるべきであろう。いわく、「子を孕んだ
母親は、出産以前に、この新しく生まれる動物の生きた、髄質の原型を生みだすが、この原型は母親に
酷似しており、マルピーギの龍骨と称されるもので、植物の幼茎に似ている。出産後にこれに心臓が加
わり、この原型を分岐させて身体を形成する。というのは、鳥が孵化する卵のなかの跳点のなかに、ま
ず骨髄とともに、鼓動する心臓と脳髄が現われるからである。この小さな心臓が、寒気のために静止し
ているが、暖気に刺激されて動きはじめ、しだいにひろがる気泡によって体液をその輸送管に沿って圧
迫するのである。生物のなかの生命力の根源となる点は、いわば、髄質が分岐する生命運動であって、
これが当初の生殖いらい継続して行なわれるのである。というのは、卵は母親のなかのこれから花を開
くつぼみたる髄質であって、それが独自の花を営むのは、父親から心臓が授けられてからであるが、も
ともと最初から生きているからである」と。

 われわれはまえに、自然が道徳の点でもまた知能の点でも人間と人間とのあいだに設けた巨大な距離
を考察し、また、性格と精神能力がまったく不変であることを知ったのであるが、これに、性格は父親
から知性は母親から遺伝されるというここで獲得した確信を結びつけるならば、われわれは、人類を根
本的に真に純化するには、外部からよりはむしろ内部から、すなわち、説教や薫陶よりはむしろ生殖と
いう方法によらねばならないという見解に達するであろう。

207 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:09:14.74 ID:???.net
           動物磁気と魔術

 一八一八年、わたしの主著が刊行されたころ、動物磁気ははじめておのれの存在を確保したば
かりであった。しかしこの現象の説明にかんして、たしかに消極面では、つまり患者がどのよう
なありさまになるかについてはいくらかはっきりしてきた。それというのも、ライルが強調した
大脳組織と神経組織の対立が、説明のための原則とされたからである。これに反し、積極面、つ
まり磁力所有者という治療師にこうした現象を起こさせる動因は、いぜんとしてわからないまま
である。そこでありとあらゆる物質による説明原則がさがしだされた。そのなかには、メスマー
のいう万物に浸透する世界エーテル、シュティーグリツが原因としてかかげる磁力所有者の皮膚
からの発汗などが含まれた。それに、神経霊なども説明原則にされたが、これなどは、たんにわ
からない事柄につけられた名称にすぎない。たといこの道に熟練した人の実際のやり方を知った
としても、やっと真相がわかりはじめたというだけのことである。しかしわたしは、こうした磁
気現象から、わたしの学説の直接の保証を得ようなどという気持ちはさらさらない。

 しかし「過ぎ去った日は、これから来る日を教える」ということもある。あの当時から、偉大
な師である経験は、例の現象の深奥にひそむ動因はじつは磁力所有者の意志にほかならないこと
を明らかにした。――もともと磁力所有者から発生した現象は、法則どおりの自然の経過にあま
りにも反する結果を生むために、これはおかしいという疑いがもたれ、絶対に信じないとする者
が出てきたばかりか、かのフランクリンやラボワジエを委員とする委員会によって断罪された。

208 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:09:31.65 ID:???.net
もっとも、この動物磁気に対抗して、第一期および第二期に行なわれたことはすべて、完全に許
容されるべきものであろう。(ただし、イギリスでつい最近まで猛威をふるった、調査ぬきの粗暴
かつ馬鹿げた断罪は別である。)ともかく今日では、洞察をもって治療にあたる者のなかで、現
象の動因が磁気所有者の意志であることについて疑いをさしはさむ者はいないとわたしは信じて
いる。したがって、このことを確証する磁気所有者の無数の発言を例挙するのは余計なことであ
ろう。「欲せよ、そして信ぜよ!」というピュイセギュールおよびフランスの古い磁気所有者の
解答は、たんに時を経ても正しさを保っているばかりでなく、現象自体についての正しい洞察に
まで発展した。キーザーの『大地主義』は動物磁気についての最も基本的かつ詳細な教科書だ
が、この本は、磁気の動きが意志なくしては生起しえないこと、これに反し意志は外的行為なく
してもあらゆる磁気的作用を起こすことができることを、じゅうぶんに指摘している。触診は意
志行為とその方向を固定し、いわば具体化するための一手段にすぎないように思われる。この意
味でギーザー(『大地主義』第一巻三七九頁)は次のように述べ江いる。「人間の行為する活動
(つまり意志〔ショーペンハウアー〕)を最もはっきり表現する器官としての人間の手が、磁気をか
けるさいの活動する器官であるかぎり、磁気的な触診が発生する。」この点については、いっそ
う正確にフランスの磁気所有者ド・ローザンヌが、『動物磁気年刊』一八一四〜一六年・第四刷
のなかで、次のように述べている。

209 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:09:46.16 ID:???.net
 「磁気所有者の活動は、もちろんただ意志によって拘束され
ている。しかし人間は外的な知覚できる形態をもっている以上、人間の使用に供せられるものす
べて、人間に作用するものすべてが、やはり外的な知覚できる形態を必ずもっていなくてはなら
ない。しかも意志が作用するためには、意志は一種の行為を利用しなくてはならない。」わたし
の学説にしたがえば、生体は意志の単なる現象、可視性、客体化、すなわちもともと頭脳のなか
に表象として直観された意志そのものである。したがって、触診という外的行為は内的な意志行
為と一致する。したしたとい触診が行なわれないとしても、同じことを迂路をつうじて人工的に
生起させることができる。空想が外的行為を、ときには人の存在を代用することもあるのだ。し
たがって触診なしで事を行なうのはずっと困難であり、めったいに成功しない。こうした事情から
してキーザーは、夢遊症患者に向かって、大声で「眠りなさい!」あるいは「そうしなくちゃい
けない!」と叫ぶほうが、磁気所有者の単なる意志よりも強力に作用すると述べている。――こ
れに反し、触診や外的行為一般は、もともと、磁気所有者の意志を固定させ活動させるうえで、
誤つことのない手段であう。それというのも、身体やその器官は意志の可視性自体である以上、
意志のまったくない外的行動などはありえないからである。このことからして、磁気所有者がと
きには、意識された意志の努力もなくほとんど無考えに磁気療法を施しても効果を生むことが説
明できる。一般に、磁気的に作用するのは、意志の意識や、それについての反省ではなく、純粋
にすべての表象からできるだけ分離された意志そのものである。したがってキーザーが書いた
(『大地主義』第一巻四〇〇頁以下)磁気所有者のための規則のなかにも、医師および患者が両者
の行為や苦しみについて行なうすべての思考や反省、もろもろの表象がよび起こすあらゆる外的
な印象、医師・患者間のあらゆる会話、あらゆる第三者の介在、それに日光のはいることなどが
はっきりと禁止され、すべてが、共感治療についてもあてはまるように、できるだけ無意識に行
なわれるよう奨められているさまがうかがわれる。

210 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:10:05.05 ID:???.net
 これらすべてについての真の基礎は、ここで
は意志がその本源性において物自体として活動しており、意志からは異なった領域にある第二次
的なるものとしての表象ができるだけ除外されることが要求されている。磁気をかけるにあたっ
てもともと作用するのは意志であり、あらゆる外的な行為は、意志の運搬具にすぎないという真理
を事実のうえから裏づけするものは、磁気に関する最新・良質のすべての著作のなかに見いだ
される。このことをここで繰り返すのは、不必要な脱線であろう。それでもわたしは、そのうち
のひとつを掲げておくことにする。それというのも、この文献がとくに異常だからではなく、意
外な人によって書かれており、そうした人の証言として独特の関心がもたれているからである。その
人とはジャン・パウルである。彼はある書簡(『ジャン・パウルの生活の真相』第八巻一二〇頁
に転載されている)のなかで次のように述べている。「わたしはある大きな会合でK夫人を、だ
れにも悟られないうちにたんに意欲をこめて見ただけで眠らせてしまった。しかもそれ以前に、
K夫人は動悸がしたうえに顔面蒼白となり、S氏が助け舟を出さなくてはならなかった。」今日
でも通常の触診では、患者の手をたんにつかんで保ち、それとともに患者をじっと見つめる方式
が大きな成果をあげている。それというのも、こうした外的な行為が、意志を一定の方向に固定
するのに適しているからである。だが、意志を他人に向かって行使しようというこうした直接の
力を、他のだれよりもまずデュポテ氏とその弟子たちが、奇妙な実験をつうじて明らかにした。
デュポテ氏らは、さらにパリで公開実験を行ない、その間に彼は、いくらかの身ぶりに支援され
た単なる意志によって、縁もゆかりもない人間を思うがままに操縦し、さらには、こうした人び
とに前代未聞の奇妙な体形をとらせるにいたった。このことについての簡単の報告を、一見した
ところきわめてまじめに作成されたカール・ショルの小著『磁気の奇妙な世界への最初の一瞥』
(一八五三年)が行なっている。

211 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:10:29.35 ID:???.net
 いま問題にしていることの正しさを別な角度から保証するものに、『ドレースデンにおける女
夢遊症患者アウグステ・Kにかんする報告』(一八四三年)がある。アウグステは、五三頁で次
のように述べている。「わたしは半分眠っていた。弟が彼の得意な曲を演奏しようとした。しか
しその曲はわたしの気に入らなかったので、わたしは彼に演奏しないように頼んだ。それでも彼
は演奏しようとした。そこでわたしがこれに反抗する賢固な意志をかためたところ、弟はいくら
努力しても、問題の曲を想起することができなくなった。」――しかしこの意志の直接の力は、
生命のない物体にまで及ぶときに最高潮に達する。このことはたしかに信じられないように思わ
れるけれども、ぜんぜん別の方面から伝えられたこれにかんする二つの報告がある。すなわち、
いま紹介した『アウグステ・Kにかんする報告』の一一五、一一六、および三一八の各頁はでは、
証人の引証つきで次のようなことが述べられている。アウグステというこの女夢遊症患者は、磁
石の針をいちどは七度、つぎは四度、四回にわたってくりかえし動かしていたが、そのさい彼女は手
をいっさい用いず、単なる意志の力で、眼を針に注ぐだけで、こうしたことをやってのけたので
ある。――つぎにイギリスの雑誌『ブリタニア』は、一八五一年十月二十三日付の『ガリニャー
ニ通信』にのった次のような記事を紹介している。パリから来た女夢遊症患者プリュダンス・ベ
ルナールは、ロンドンで開かれた公式会議の席上、たんに彼女の頭をあちこちに回すだけで、磁
石の針をそうした頭の動きをそのままに運動させた。そのさい物理学者の息子であるプリュースタ
ー氏と、観衆のなかの二人の紳士が、みずから審査委員の役にあたった。

212 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:10:52.56 ID:???.net
 わたしが物自体、すべての存在における唯一の現実、自然の中核としてかかげた意志が、人間
個人から出発して動物磁気のなかで、さらにはこれを越えて、因果の結合すなわち自然の法則に
よっては説明できないようなこともなしとげるばかりか、自然の法則をいわばご破算にして、現
実に遠隔への作用を行ない、それとともに超自然的な、つまり自然に対する形而上学的支配を行
なうことを、われわれは考察してきた。したがってわたしはこれ以上に、わたしの学説を事実の
うえではっきり裏づけするものを望むことができない。そればかりか、磁力所有者のソパリ伯爵
は、疑うまでもなくわたしの哲学についていっさい知らず、おのれの経験を積み重ねてゆくうち
に、『動物磁気、魂の身体、および生の精髄』(一八四〇年)という自著の題名を説明するため
に、次のような熟考すべき言葉をつけ加えた。「本書の副題はいうなれば、動物磁気の流れはす
べての精神的・肉体的な生の要素であり意志であり、原理であることを物理学的に証明するものと
いうことになろう。」――こういうわけで、動物磁気はまさに実用的形而上学として登場する。
すでに、ヴェルラムのベーコンも諸科学を分類するにあたって(『学問の一大改革』第三巻)、魔
術を、この種のものとして記述した。魔術は経験的あるいは実験的な形而上学ということにされ
たのだ。――さらに動物磁気においては、物自体としての意志が登場するために、単なる現象に
属する「固体化の原理」(空間と時間)はやがて適用しなくなり、個人を分かつ境界は突破される。
磁気所有者と夢遊症患者とのあいだでは、空間はなんの境界でもない。思考および意志運動の共
通性が登場する。透視の状態は単なる現象に属し、空間と時間によって制約された関係である遠
近や、現在と未来を超越する。

213 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 10:11:09.05 ID:???.net
 このような事実があるために、まったく正反対の主張や偏見があるのにもかかわらず、動物磁
気とその現象はかつての魔術の一部と同じであるという意見が出てきたばかりか、これは確実な
ことだとされるようになった。もともと魔術は悪名高い秘儀で、これをきびしく迫害したキリス
ト教成立後の各世紀ばかりではなく、未開人をも含めた地球上の全民族によって、あらゆる時代
をつうじて信奉されて伝えられてきた。しかも魔術の悪用を、ローマ人の十二表、モーセの五
書、それにプラトンの『法律』第一一章さえ、死罪に値するとしている。アントニウス治下の最
も啓蒙された時代のローマでも魔術がいかに大まじめに受けとられていたかは、アプレイウスが
自分に向けられた、彼の生命をもおびやかす魔術師という訴えに対して法廷で行なった、美しい
自己弁護の言葉が証明している(『魔術についての弁明』ビポンティウム版一〇四頁)。この弁明
のなかで、彼は、おのれに向けられた非難を取り除こうとけんめいに努力したけれども、魔術の
可能性をいっさい否定せず、むしろ中世の魔女裁判で行なわれるのを常としたように、ばかばか
しいほど微に入り細をうがった話をした。ただ十八世紀のヨーロッパだけが、こうした魔術信仰
について例外を形づくっている。しかもそれは、バルタザール・ベッカー、トマジウス、それに
他のいくたりかの人びとが、残忍な魔女裁判を一掃しようという善意から、あらゆる魔術は不可
能であると主張した結果である。十八世紀の哲学にも認められたこうした考えは、学者や教養あ
る階層の人びとの支持を得ただけである。民衆が魔術信仰をやめなかったばかりではない。とく
にイギリスでは、動と反動の法則、酸とアルカリについての法則をこえるようなすべての事実を
とり扱うにあたって、教養ある階層の人びとは、宗教問題についての彼らの品のない炭鉱夫なみ
の信仰と、トーマスあるいはトマジウス流の抜きがたい不信仰とを結合させた。

214 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 12:38:34.52 ID:???.net
そして彼らは、天上・地上には彼らの哲学が夢想する以上のものがあることを偉大な同国人にはっ
きり語らせようとはしなかった。――往時の魔術の一部は、民衆のあいだではいまでも大っぴらに、
毎日実施されている。こうした魔術は福祉に役立っている。つまり感応療法に使用されているが、
この種の治療の有効性については疑う余地がない。最も普通に実施されているのは疣の感応療法で、
これが効果があることを、慎重で経験的なヴェルラムのベーコンも、すでにおのれの経験にもと
づいて確証している(『森また森』第九九七節)。さらにこれは顔面に生ずる丹毒の治療にもしば
しば効果的であるために、これなら大丈夫という確信をもつことができる。また同様に発熱のさ
いの治療にも成功した例がある。――このさい本源的な動因となるものは無意味な言葉や儀式で
はなく、磁気療法のときと同じく治療にあたる者の意志であることは、すでに磁気について述べ
てきた以上、詳細な説明を必要としないだろう。感応療法の実例は、この種の治療となじみのな
い人でも、キーザーの『動物磁気のための記録』第五巻・第三冊一〇六頁、第八巻・第三冊一四
五頁、第九巻。第二冊一七二頁、それに第九巻・第一冊一二八頁に見いだすことができる。『感
応的手段と治療について』(一八四二年)と題するモスト博士の著書も、この問題と、当面なじ
みになるうえで役立つ。――したがって、動物磁気ならびに感応療法という二つの事実は、経
験のうえから、物理的なるものとは対立する魔術的作用の可能性を確証してくれる。前世紀にお
いては、物理的なるもの、すなわち把握できる因果の結びつきから導かれた作用以外のものが
まったく承認されなかったために、魔術的作用は決定的に非難された。

215 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 12:38:59.68 ID:???.net
 現代になって行なわれたこの種の見解の修正が薬学からはじまったことは、幸運であった。な
ぜならこのことは同時に、意見の振り子が、まったく逆の方向にむかう強い衝動を再びもつこと
はなく、われわれが粗野な時代の迷信にまたもや投げ入れられることがないことを保証している
からだ。しかも、よくいわれているように、動物磁気ならびに感応療法によってその有効さが救
いだされたのは、魔術のなかのごく一部分である。同じ魔術といっても数多くある。その大部分
はさしあたり、昔と同様に有罪の判決を受けたままであるが、それとも死滅したものとみなされ
る。しかし他の一部は、動物磁気と類似していることからも、少なくともありうることだと考え
なくてはなるまい。ということは、動物磁気と感応療法は、治療を目的とする福祉的な作用を及
ぼすのだ。これらの作用は、魔術の歴史のなかで、スペインでいわゆる「サルダドレス」の仕事
として出現したもののやはり教会の有罪宣告をうけた作用と類似している(デルリオ『魔術論』
第三巻二〜四頁および七頁およびボディヌス『悪魔の魔術』第三巻・第二章)。これに反し、魔
術は、ずっとひんぱんに、腐敗した意図のもとに利用されてきた。類比推理をした結果によれ
ば、他人に直接作用しつつ効果的な影響を与えることのできる内在的な力は、少なくとも、他人
に有害に、破壊的に作用する点でも同様に強力であることは確かだ。したがって、動物磁気なら
びに感応療法にもとずくもの以外の古い魔術が有効であるときは、これはまさしく「妖術」、
「たぶらかし」として特筆されているものであり、ほとんどの場合、魔女裁判のきっかけをつ
くっている。前掲のモストの著書のなかにも、明らかに妖術とみなすべき二、三の実例がのって
いる(四〇、四一頁、それに第八九号、九一号、九七号)。またキーザーの例の記録のなかにも、
第九巻から第一二巻までつづく、ベンデ・ベンドセンの病歴をあつかったくだりに、転移させら
れた病気、とりわけこれがもとで死亡したイヌの症例がたくさんのっている。

216 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 12:39:14.69 ID:???.net
デモクリトスは「たぶらかし」をすでに知っており、これを事実として説明しようと試みたことが、
プルタルコスの『疑問の饗宴』のなかにうかがわれる(第五問、七の六)。もしここに書かれた物語
が真実であるとされるならば、魔法使いによる犯罪の謎を解く鍵となろう。この物語によれば、熱心
な魔女迫害はけっして根拠のないことではない。たしかに、魔女迫害は、ほとんど大多数の場合は誤
謬にもとづくものである。そうはいってもわれわれは、祖先の人びとが、じつはなにごとでもな
い犯罪をあのような残忍なきびしさで何世紀にもわたって迫害するほど眩惑されていたとは、考
えるべきではあるまい。こうした観点からすれば、今日にいたるまで、すべての国において、な
ぜ民衆がある種の病気をがんこに「妖術」のせいであるとし、かたくなにこの考えを変えよう
としないのかがわかってくる。――したがって、たといわれわれが時代の進歩の波に乗って、例
の悪名高き技術の一部を過去数世紀におけるように無益・無価値なものと考えないとしても、
ネッテスハイムのアグリッパ、ヴィールス、ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトらの
著作にふんだんに見うけられるような、いんちき、いかさま、でたらめのごみ箱から、一条の真
理を見いだそうとするときには、他のどんな場合よりも用心が必要である。なぜなら、世界いた
るところにある嘘いつわりでも、自然の法則から離脱し、ひいては自然の法則が廃止されたと宣
言されるところほど、自由に闊歩できる場所はないからである。したがってわれわれは、同じ魔
術でも真であるとされるわずか少数の魔術の貧弱な基盤の上に、このうえもないほどひどい冒険
で埋められた童話と、とてつもないしかめっつらの装飾がついた天までとどくような高い魔術と
いう高層建築が立っているのを見ることになる。しかもこうした魔術のおかげで、血なまぐさい
残忍さが、数世紀にわたって大手を振って行なわれてきた。このように観察してくると、まった
く信じられないそれこそ無限に無意味なことを人間の知性が受け入れている点や、こうしたもの
をひたすら残虐・非道な行動によって封じこめようとする人間の心のあり方を、ぜひ深く心理学
的に研究してみなくてはなるまいという気持ちになる。

217 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:26:40.71 ID:???.net
 動物の保護は、したがってそれを目的とする協会や警察の仕事になるわけだが、両者とも賤民ども
のあの一般的な無道な仕打ちに対しては、ほとんどお手あげのかっこうだ。なにぶんにも訴えることの
できない動物相手のことであり、百の残虐行為で見つかるのは一つあるかないかであり、とりわけその
刑罰が軽きにすぎるからである。最近イギリスでは苔刑が提案されたが、わたしには至当のことと思わ
れる。しかし、人間と動物が本質的には同一であるという熟知の事実さえ承認せず、誠実で理性的な仲
間の者が、人間を動物の当該部門に編入したり、あるいは人間がチンパンジーやオーラン・ウータンに
酷似していることを証明したりすると、それこそ躍起になって反駁したりするほど、はなはだ頑迷・愚
昧な学者どもや動物学者までいるありさまでは、何を賤民どもから期待できよう。

しかしほんとうに腹が立つことは、きわめてキリスト教的な考えをもった敬虔なユング=シュティリングが、
その著『幽界の光景』第二巻・第一景一五頁で、次のような比喩をあげていることだ。「突如として骸骨は
収縮して、 言いあらわしようのないほど不気味な小さな侏儒となった。それはちょうど、大きな女郎蜘蛛を
沸騰点 にあるビーカーに入れて、膿のような血が灼熱のなかでぐつぐつと煮えたぎったときのようであった。」
つまりこの神のしもべは、こういう恥さらしの行為を自分でやったか、あるいは平静な観察者として傍
観したのだ。――この場合、どちらでも同じことだ。――じっさい、彼はそういうことを悪いともなん
とも思っていないから、話のついでに淡々として語っているのだ! これは創世記第一章、一般にユダ
ヤ的自然観の影響である。これに反して、インド教徒や仏教徒にあっては、偉大な言葉「それはおまえ
なのだ」(Tat-twam asi)が重んじられる。これは動物と人間んお内的本性が同一であることを銘記する
ために、われわれの行動の基準として、どういう動物に向かってもたえず口にする必要のある言葉なの
だ。――まことにいたれりつくせりの道徳ではないか!――

218 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:27:07.32 ID:???.net
 わたしがゲッティンゲン大学で勉強していたとき、ブルーメンバッハは生理学の講義で、生体解剖の
おそろしい面について切々とわれわれに語った。それがいかにも残忍でおそろしいことであること、し
たがってめったに用うべきではないこと、ごく重要で、直接役立つ研究にだけこの措置に踏みきるべきで
あること、それを行なう場合には、科学の祭壇にささげられた残忍な犠牲が最大の利益をもたらすよ
う、大講堂で最大限に公開し、あらゆる医学者を招待したうえで行わなければならない、と説明して
くれたのである。

――ところが今日では、どんな藪医者でもいろいろな問題を決定するために、その拷問室で残忍きわまる
動物虐待をやる権能があると思っている。じつはその問題の解決はとっくに書物に載っているのであって、
ただ彼らがあまり怠惰・無知であるために、その書物をのぞかないだけのことなのだ。昔の医者は古典的
教養によって、ある種の人間性と気品をそなえていたが、いまの医者はもはや古典の素養をもっていない
のだ。いまはできるだけ早く大学に行って、そこでせめて膏薬塗りだけでも覚え、それで世間的成功を
得ようというわけだ。

219 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:27:39.93 ID:???.net
 生体解剖ではフランスの生物学者が先例を示したように思われる。そしてドイツ人はフランス人と張
り合って、しばしば大量に、罪のない動物に残虐きわまる拷問を加えるのであるが。その目的とすると
ころは純理論的な、往々愚にもつかない問題を決定するためにすぎない。わたしはここにとくに憤慨に
たえない二つの実例をあげたいと思うのであるが、それはけっして散発的なものでなく、似たような例
は百をもって数えることができる。マールブルクのルートヴィヒ・フィック教授はその著『骨の形の原
因について』のなかで、幼い動物の眼球を摘出したことを報告している。それは何のためかといえば、
そのあとの間隙に骨が成長していくという彼の仮設を確証するためなのだ!(一八五七年十月二十四日
付「中央新聞」を見よ。)

 ニュルンベルクのエルンスト・フォン・ビブラ男爵が行なった非道の仕打ちは、特記するに値する。
彼がその著『人間ならびに脊椎動物の頭脳にかんする比較研究』(マンハイム、一八五四年、一三一頁
以下で、いかにもしたり顔に、不可解なほど素朴に、読者に語っているところによると、二匹の兎を
計画的に餓死させたというのだ! しかもそれは餓死によって脳髄の化学的成分に比例的変化が起こる
かどうかという、まったくのんびりした無益な研究のためなのだ! 学問のために――とおっしゃるの
でしょ? いったい解剖刀や坩堝のこの先生がたは、自分がまず人間であること、科学者であることは
二の次だということを、夢にもお考えにならないのか?

220 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:28:06.57 ID:???.net
――母親の乳を飲んで育っている無邪気な動物を南京錠やかんぬきをかけて閉じこめ、拷問にも似てじわり
と餓死させながら、どうして高枕で眠れるのか? 眠っていてもびくりととび起きはしないのか? こうい
うことがバイエルンでは起こるとは? バイエルンでは王子アダルベルトの保護のもとに、尊敬すべき功績
顕著な宮中顧問官ペルナー氏が、粗暴・残忍から動物を守るために全ドイツに範をたれているではないか。
ニュルンブルクには、大いに成果をあげているミュンヘン動物愛護協会のごときものがないのか? ビブラ
の残虐行為は、たとえ阻止されえなかったとしても、罰せられずにすんだのであろうか?――このフォン・
ビブラ氏のように、まだまだ多くのことを本から学びとらねばならぬような人は、自分の知識を豊富にしよ
うとして、つまりはおそらくはとうの昔に知れわたっているような自然の秘密をしぼりだすために、残忍な
方法で究極の答えをしぼりだそうと考えたり、生き物を拷問にかけようと考えたりしてはいけないのだ。と
いうのは、この種の知識のためならば、哀れなよるべない動物を拷問で殺す必要はさらさらなく、まだ他に
罪のない宝庫がいくらもあるからである。いったいなんのために哀れにも無邪気な兎を捕えて、徐々に餓死
する苦しみをなめさせるような罪なことをするのか? 研究されるべき関係について書物に記載されている
ようなことを、完全にすべて熟知していないような者は、生体解剖をする資格はないのである。

 すくなくとも動物にかんするかぎり、たしかにいまこそユダヤ的自然観に終止符をうつべき時であ
り、われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質を正
しく認識し、保護し、尊重すべき時である。わたしはそれを本気で言っているのであり、たとえ全ヨー
ロッパがユダヤ人の教会堂で蔽われようとも、一歩もゆずる気のないことを銘記しておいてもらいたい!

221 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:28:26.87 ID:???.net
動物は本質的に、また主要な点で、われわれ人間とまったく同一なものであり、その差はたんに
偶有的属性、すなわち知性にあるだけで、意志という実体にあるのではない。こういうことがわからぬ
のは、あらゆる感官がめくらであるか、ユダヤ的悪臭のクロロホルムで完全に麻酔にかかっているに相
違ないのだ。世界はわれわれが使うためにこしらえたものではなく、動物はわれわれが使うための製品で
はない。こういう見解はユダヤ人の教会堂や哲学の講堂にまかせておけばよい。この二つは、べつに本
質的に大差はないのである。これに反し上述の認識は、動物を正しく取り扱うための規則をわれわれに
手渡してくれる。狂信的にいきまく連中や坊主どもに対して、この問題ではあまり反対しないようにわ
たしは勧告する。というのは、この場合、真理だけではなく、道徳までもわれわれの味方についている
からである。

 鉄道がもたらした最大の恩恵は、そのおかげで何百万の輓き馬が苦役を免れたことだ。――
 イギリスには菜食主義者というのがいるけれども、北方に押しよせて行って、そのために白色になっ
た人間が動物の肉を必要とするということは、残念ながら真実である。しかしその場合でも、クロロホ
ルムを用いたり、致命的な急所をすばやく一撃を加えたりすることで、動物たちがその死を感じないよ
うにしてやるべきだ。しかもそれは旧約聖書が言いあらわしているような「憐れみ」からではなくて、
われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質に対する
どうしようもない責任からである。屠殺されるあらゆる動物にはあらかじめ麻酔をかける必要があろ
う。これこそ人間の名誉をそこなわない高貴なやり方と言えるだろう。西洋の高度な科学と東洋の高度
の道徳が、このやり方ならば手に手を携えて行けるであろう。バラモン教や仏教はその掟を「隣人」に
限定することなく、「生きとし生けるもの」をその保護のもとに包容する域に達しているからである。

222 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:28:45.02 ID:???.net
 ユダヤ的悪臭のためにその頭が朦朧となっていない人、倒錯した考え方をもっていない人ならば、だ
れにでもおのずからわかる真理、端的に確実な真理が、あらゆるユダヤ的神話や坊主どもの威嚇をしり
めにして、いいかげんヨーロッパでも認められるべきであり、これ以上握りつぶされるようなことがあっ
てはならない。それは動物が、主要な点で、本質的に、われわれとまったく同一なものであり、その差
はたんに知性の度合い、すなわち頭脳の活動にあるだけだということだ。もちろん知性の程度は、動物
の種の異なるに応じて非常なひらきがあるけれども、この真理を認めることによって、もっと人間らし
い取り扱いを動物たちにあたえることができよう。というのは、あの単純であらゆる疑問をこえた真理
が民衆にしみわたったときになってはじめて、動物たちはもはや権利をもたないものとして放置された
り、粗暴な悪童どもの意地悪い気まぐれや残忍性の犠牲になったりすることもなくなるからである。
――そして今日行なわれているように、あらゆる藪医者どもが、自分の無知からくる冒険的気まぐれ
を、無数の動物の身の毛のよだつ苦痛によって実験するような勝手なまねもできなくなるだろう。もち
ろん今日では動物もたいがいの場合クロロホルムで麻酔がかけられることを頭におく必要はある。おか
げで手術中も苦痛をまぬかれるし、手術後は急速に死をあたえて彼らを救うこともできるのである。し
かし今日しばしば行なわれている、神経系統の活動とその感受の度合いをしらべる目的の手術では、麻
酔という手段はとうぜん使うことはできない。つまりまさに観察しようとする活動が停止するからであ
る。そして残念なことには、生体解剖に最も頻繁に用いられるのは、あらゆる動物のなかで道徳的に最
も高尚な動物、すなわち犬である。しかも犬はその神経系統が非常に発達しているため、苦痛の感受度
は他の動物よりも高いのである。良心のやましさを感じるような動物の扱い方は、ヨーロッパでもこの
あたりでやめなければならない。――

223 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 15:28:58.10 ID:???.net
 犬について: 犬を鎖につなぐことの残虐さについて。人間のこの唯一真実な仲間、最も忠実な友、Fr.キュ
ヴィエのことばで言えば、かつて人間が獲得したなかでもいちばんだいじなこの腹心、しかも最高にものわ
かりがよく感受性も鋭敏なこの生き物を、まるで犯罪者のように鎖につなぐとは! つながれた犬は朝から
晩まで、自由と運動にあこがれるばかり。その切なる願いもかなえられることなく、その一生は緩慢な拷問
と化すのだ! こうした残虐さのために、はては犬も犬の本性を失って、かわいげのない、野性むきだし
の、忠実さの欠いた畜生となり、また人間という悪魔にいつもおののいて、びくびくはいつくばる姿に変
わってしまうのである! このようなみじめな姿がもしわたしのせいであり、あけくれその歎きを見ていな
ければならないとしたら、むしろわたしは犬など飼うのをやめて、泥棒にあったほうがましだと思う。(あ
る貴族と彼の鎖につないだ犬については、第一五三節参照。)籠の鳥も恥ずかしいおろかな残虐行為だ。こ
んなものは禁止されるべきで、この場合も警察が人間性の代役をなすべきだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 動物界についてのユダヤ的見解は、道徳にそむいているから、ヨーロッパから一掃される必要があ
る。本質的に、また主要な点で、動物がまったくわれわれと同じものである、ということ以上に明白な
ことがあろうか。そういうことを見誤るようでは、五官のすべてがめくら同然であるにちがいないか、
あるいはむしろ見ようという気がないにきまっているのだ。それというのは、だれでも真理よりは飲み
しろのほうがありがたいからだ。

224 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:38:47.53 ID:???.net
    第三二章 狂気について
         (本章は正編第三六節の後半と関係する)


 精神の真の健全さは、追憶が完全であるという点にある。追憶が完全であるとはいっても、もちろん
これをわれわれがすべてを記憶にとどめているという意味に理解してはならない。というのは、来し方
を顧みる旅人には、たどり来った道もその空間が収縮するように、われわれの人生行路も、たどり来っ
たあとではその時間が収縮するからである。個々の年を区別するのが、ときとしてわれわれには困難に
なる日になると、たいていは知るよしもなくなってしまう。しかし事の真相は、まったく同じ出来事が
何度も繰り返され、その像がいわば重なりあって記憶のなかで合流し、個々に識別することができなく
なるにすぎない。これに反し、なにか独特の、あるいは重要な出来事なら、どういう出来事でも記憶を
さぐればふたたび見つけだすことができるに相違ない。もっともこれは、知性が正常で力があり、まっ
たく健全な場合のことであるが。――わたしは正編で、記憶というものは、このように内容がますます
空漠としたものになり、ますます不明瞭なものになりながら、むらなく継続するものであるが、この
記憶の糸の寸断されたものが、すなわち狂気にほかならぬと述べておいた。次の考察が、その確証に役立
てば幸いである。

 健全な人間の記憶は、彼がその目撃者であった出来事に関して、それが確実であることを保証する。
そしてこの確実性は、現に彼が或る事柄を眼前に見聞きしているのと同じぐらい確実で動かしえないも
のと見なされる。そこでこの出来事は、彼が誓言すれば法廷で確認されることになる。

225 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:39:00.56 ID:???.net
これに反し、狂気ではないかと疑われるだけでただちに、証人の陳述は無効になる。すなわちここに、精神が
健全かそれとも発狂しているかを判断する基準がある。わたしが、自分の記憶している出来事が実際に起こっ
たかどうかを疑うやいなや、わたしは自分自身に狂気の疑いをかけているのである。もっとも、それが単
なる夢でなかったかどうか自分に確信のない場合は別であるが。他人が、わたしが目撃者として語って
いる出来事の真実性を、わたしの言葉に嘘のないことを信じながら疑うならば、彼はわたしを気違いだ
と考えているのである。がんらい自分が捏造した事件をなんども繰り返して話すうちに、ついに自分自
身の言葉を信ずるようになれば、その人はほんらい、この一点ですでに狂っている。気違いにも、気の
きいた思いつきとか、ひとつひとつをとってみれば賢明な考えとかあるいは正確な判断さえ不可能でな
いことは認めてもよいが、過去の事件に関する彼の証言だけは認めるわけにはいくまい。周知のように釈
迦牟尼の伝記である『普曜経』には、釈迦生誕のおりに、全世界の病ある者はすべて癒え、盲たる
者はすべて物が見えるように、聾せる者はすべて音が聞こえるようになり、狂せる者はすべて「その記
憶を回復した」と語られている。記憶の回復に関しては、二個所にもわたって述べられている。

 これは、わたし自身の多年にわたる経験から推測するようになったことであるが、狂気は、俳優の場
合に比較的もっともひんぱんに現われる。じっさいまたこの連中は、彼らの記憶をなんと濫用すること
であろう。彼らは毎日、新しい役を覚えこむか、古い役を思い出さねばならない。ところがこれらの役
は、すべてなんの関係もなく、それどころか相互に矛盾撞着することさえあり、彼らは毎晩まったく別
な人間になるために自分自身を完全に忘れ去ろうと努力している。これがまさに狂気にいたる道を開く
のである。

226 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:39:13.51 ID:???.net
 われわれの利害や誇り、あるいは願望をひどく害する事柄を考えるのが、われわれにとっていかにい
やなことであるか、こうしたことを自分自身の知性でいっそう厳密かつ真剣に調べてみようと決心す
ることがわれわれにとっていかに困難であるか、ところが無意識のうちにそこから飛びだすか、あるい
はこっそり逃げだすほうがわれわれにとっていかに容易であるか、またこれと逆に、愉快な事柄はまっ
たく自然にわれわれの心に浮かび、追い払えばまたしても忍び寄ってきて、そのためわれわれが数時間
もそのことを反芻することがある、などということを思い出せば、狂気の発生に関して正編で述べてお
いたことが、いっそうよく理解できるであろう。意志は、自分の心に染まぬことを知性によって照らし
だすことに抵抗するのであるが、この抵抗が、狂気が精神に襲いかかることのできる場所である。すな
わち、新しい出来事はどんないやな出来事でも、知性によって同化せられねばならないとしても、つま
り、その出来事のために、いっそう満足な事柄が、その事柄のいかんを問わず追いだされねばならない
としても、われわえの意思とその関心に関係のあるもろもろの真理の体系のなかに、このいやな出来事
も席を獲得しなければならない。これがなされてしまえば、この出来事の与える苦痛は、はるかに減少
する。ところがこの同化の操作そのものがしばしば非常に苦しいもので、しかもそれがたいてい、抵抗
を受けながらおもむろにしか逆行しない。ところで、この操作がそのつど正確に遂行される場合にか
ぎって、精神が健全だと言いうるのである。これに反し、或る特殊な場合に、認識した事柄の受容にた
いする意志の抵抗ともがきが激しくなりかの操作が障害なく遂行されなくなると、そのため或る種の出
来事や事情が知性に完全に隠蔽されることになる。それは、意志がそれを見るのに堪えることができな
いからである。そしてつぎに、このために生じた空隙が、関連が必要なため勝手に埋められることにな
る。

227 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:39:28.40 ID:???.net
 ――こうして狂気が現われる。というのは、知性が意志の歓心を得るためにその本性を放棄したか
らである。人はいまや、ありもしないものを想像する。とはいえ、こうして生じた狂気が、いまは、忘
れがたい苦悩を忘却させるレーテの河となる。狂気こそ、苦悩を性とするもの、すなわち意志にたいす
る、最後の救治療であったのだ。

 ついでながら、わたしの見解にたいする注目すべき証拠を、ここで述べよう。カルロ・ゴッツィは、
戯曲『トルコの怪物』第一幕・第二場で、忘却をもたらす魔法の飲料を飲んだひとりの人物を登場させ
ているが、この者の所作を見れば、まったく狂人同様である。

 そこで以上述べたところに従って、なにか或る事柄をむりやり「自分の頭から叩きだす」ことが狂
気のもとである、と見ることができる。ところがこの「自分の頭から叩きだす」のは、なにか或る他の
事柄を「自分の頭のなかに押しこむ」ことによってのみ可能なのである。これより稀なのは、経過が逆
になることである。すなわち、「自分の頭のなかに押しこむ」のが第一で、「自分の頭から叩きだす」の
が第二になる。しかし、こういう経過をたどるのは、そのために発狂するにいたった誘因となるものを
つねに念頭に置き、それから脱れることができない場合である。たとえば、多くの恋狂い、色情狂の場
合がそうである。この場合には、誘因となったものが終始頭にこびりついて離れない。また。とつぜん
生じた驚愕すべき出来事から起こった狂気の場合もそうである。こういう患者は、一度思いこんだが最
後、偏執的にそれに執着し、そのため、ほかの考えが、少なくともそれに対立する考えが、どうしても
思い浮かばないのである。しかしこの二つの経過を見ても、狂気の本質は同じである。すなわち、追憶
がむらなく連なりあうことが不可能なのである。ところでこのような追憶が、われわれの健全な、理性
的な思慮の基礎である。――ことによると、ここで述べた、狂気の起こり方に見られる対立は、よく判
断して用いれば、真の妄想を鋭くかつ深く分類するための証拠の代わりにならぬものでもあるまい。

228 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:39:42.23 ID:???.net
 ところでわたしがこれまで考察してきたのは、もっぱら狂気の精神的な起源、すなわち、外的・客観
的な誘因によって生ずる起源であった。しかし狂気はそれよりも、純粋に身体的な原因、すなわち、脳
やその外皮の畸形、あるいは局部的な解体とか、また他の病的に衰弱した部分が脳髄に及ぼす影響な
どにもとづく場合のほうが多い。まちがった感覚的直観や幻覚が現われるのは主として、のちにあげた
種類の狂気の場合である。しかしこれら両種の狂気の原因は、たいていは互いに関係しあい、とくに精
神的原因は、身体的な原因を伴う。これは自殺の場合と同様である。自殺が外的な誘因のみによって生
ずるのは稀であって、或る種の肉体的な苦痛が自殺の根底にあり、この苦痛が達する程度に応じて、必
要とされる外部からの誘因が大きくもなれば小さくもなる。苦痛が最高度に達した場合にのみ、外部か
らの誘因がまったく不必要となる。したがって、どれほど大きな不幸であっても、すべての人に自殺を
決心させるとはかぎらず、また、どれほど小さな不幸であっても、それだけでもう自殺へ導く場合があ
る。わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ
た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ
られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ
れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ
ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無
理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変
敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に
は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。

229 :幸ちゃん :2020/06/14(日) 22:39:55.13 ID:???.net
 発狂を伴わない躁病があるということは、ピネルが説き、エスキロルがこれに反対したが、爾来これ
にたいして、賛否両論が大いに戦わされてきた。しかしこの問題は、経験によって決定する以外方法は
ない。ところで、こういう状態が実際に現われるとすれば、それは次のことから説明できる。すなわ
ち、この場合には、意志は知性の、したがってまた動機の支配と指導から完全に脱れ、そのため意志は
盲目的で凶暴な、破壊的な自然力として登場し、途を塞ぐいっさいの妨害物を壊滅せずんばやまない執
念となって現われるのである。そうなると、このように解放された意志は、堤防を破った河や、騎手を
振り落した馬、制動するねじを抜きとられた時計に等しい。しかし、こういう休止状態に見舞われる
のは、理性すなわち反省的な認識だけであって、直観的な認識までそうなのではない。というのは、直
観的な認識までそうだとすると、意志にはなんの指導も与えられず、人間は動くことができないからで
ある。むしろ躁病患者は、客観〔事物〕に向かって襲いかかるのだから、客観を知覚しているのである。
また彼は、現在の行為を意識もしておれば、あとになってこれを思い出すこともできる。しかし彼に
は、反省、すなわち理性による指導がいっさい欠けており、そこで、現に存在しないもの、すなわち、
過去と未来に関する事柄を熟慮したり顧慮したりすることが、いっさい不可能である。発作が終わり理
性が支配を回復すると、理性の機能は正常に帰る。というのは、この場合には理性自身の活動は狂って
もそこなわれてもあらず、ただ意志が、理性からしばらく脱れる手段を発見したにしぎないからである。

230 :名無しさん@おだいじに:2020/06/15(月) 11:06:20.43 ID:nhSH9UdY.net
法医学者の内藤道興さんの経歴について知りたいです。
https://research-er.jp/researchers/view/416463
この人です。
藤田保健衛生大学で教授をされていたようですが、何年から何年まで在籍されていたのかなど大学に問い合わせても答えてくれませんでした。
どこに問い合わせればわかるでしょうか?

231 :名無しさん@おだいじに:2020/09/19(土) 00:27:05.52 ID:???.net
https://i.imgur.com/bKwQWPa.jpg
乗車用ヘルメット着用義務違反(ノーヘル)
杉原克幸
愛知県田原市池尻町

232 :名無しさん@おだいじに:2021/06/19(土) 23:58:33.11 ID:Rzyj4nCO.net
法医学教室に入ろうと思っているんだけどもし別の大学の法医学教室に転職しようとしたらほぼ不可能?

233 :名無しさん@おだいじに:2021/07/06(火) 22:32:58.23 ID:???.net
昨日は薄晴れだったので今朝はたっぷりと庭に水やりと門扉出て
ホース持って水だしたところでマスミが出てきて水やりしだした
こいつほんと真似するんだよ
コッチは散々こいつの動向見て行動してるのに真似してくる
洗濯物は日の出る4時台に干したり一番を取ってご満悦の顔する癖に
水やりや庭周りの掃除となると合わしたように出てくる
お前がいなくなるとこの近隣は穏やかになるよ

あ、お前んちの東隣の男ヤモメと洗濯戦争やってるだろう
みんな笑ってるよ

234 :名無しさん@おだいじに:2023/08/08(火) 15:12:53.18 ID:zRuor66dt
ビックモ‐夕━を非難するのが犯罪者だけという滑稽な事態になってるな,樹木を枯れさせたとか,麻薬賭博暴力贈収賄税金泥棒バカひき逃げ
差別主義猥褻セクハラJКレイプ地球破壞犯罪者の代名詞スポ−ツという犯罪推進のために明治神宮外苑のЗ千本もの巨木を伐採するデ夕ラメ
小池百合孑や,力による−方的な現状変更によってクソ航空機倍増させて都心まて゛数珠つなき゛て゛鉄道の30倍以上もの莫大な温室効果ガスまき
散らして気候変動させて海水温上昇させてかつてない量の水蒸気を曰本列島に供給させて土砂崩れ,洪水.暴風,突風、猛暑にと災害連発させ
てる世界最惡殺人テ囗組織公明党天下り犯罪集団国土破壊省斉藤鉄夫が何寝言ほざいてんだか,曰本に原爆落とした世界最惡のならす゛者國家や
欧州なんて森林火災に氣温4Ο度超え連発.曰本列島も4Ο度超え連發させて國民をさらに殺す氣満々のテ囗政府を放置するのは自殺と同義な
渋滞て゛環境破壊しまくり清瀬市のように歩道の樹木とか税金無駄にするた゛けて゛クソの意味もない,そこを自転車レ‐ンにするのか゛環境対策だろ
フランスとか車道を‐方通行にして自転車レ―ン作ってるくらいだわ,このテ囗政府をぶっ潰さないとお前らの生命と財産は奪われるー方だぞ

創価学会員は,何百万人も殺傷して損害を与えて私腹を肥やし続けて逮捕者まで出てる世界最惡の殺人腐敗組織公明党を
池田センセ一が囗をきけて容認するとか本気て゛思ってるとしたら侮辱にもほと゛か゛あるそ゛!
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