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【NGT48】 佐藤杏樹 応援スレ★1

1 :名無し48さん(仮名):2015/08/23(日) 15:50:12.00 ID:qiTAu0o80.net
佐藤 杏樹
SATO ANJU
ニックネーム
あんじゅ・シュガちゃん
生年月日
2001/11/5
出身地
新潟県
血液型
A型

NGT48 佐藤 杏樹 (ANJU SATO) プロフィール映像
https://www.youtube.com/watch?v=7e9xP3ayHUo

画像
http://imageshack.com/a/img537/6108/RLZ5pg.jpg

381 :名無し48さん(仮名):2016/01/31(日) 23:39:35.89 ID:/Jxy2fiC0.net
http://ngt48.com/photolog/detail/100006847
2016.01.31
つぐたぁぁぁ〜ん💓😭😭
唯一の年下ちゃんだからかわいすぎて💋💋💋💟
”しゅがすきー😊”っいってくる(笑)
みーとぅー💓
おやすみ〜✨👄👄
http://ngt48.com/ngt48/artist_photo_stream/100006847/ngt_1454245084241.jpeg

382 :名無し48さん(仮名):2016/02/01(月) 06:33:59.16 ID:/Mdezz150.net
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/T/ToshUeno/20150403/20150403081216.jpg

383 :名無し48さん(仮名):2016/02/01(月) 12:11:05.80 ID:FjibL8BD0.net
モバメスレ立てました
どなたか報告・集計お願いします

NGT48モバメスレ★1
http://mastiff.2ch.net/test/read.cgi/akb/1454221819/

384 :名無し48さん(仮名):2016/02/01(月) 14:46:06.69 ID:+bzTkL3k0.net
                  /:::::::::::::::::::::::::::::::::`‐、
                 /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
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                l::l::;イ__, ヽ、ト、::::ヽ、\:',ヽ〃l::::::
                  ';l l::l      ` ‐-   l:::::l::::::
                 l::::l == 、    ,.ィ== l:::::l:::::::::
                 l:::::li //////////// l:::::l::::::::::    こ、ここ、これ読んで下さいっ!
               , -ーl::::lヽ、  r....::´`ヽ /l:::;'> 、:::::
           , -ー 、'´`ヽl::::l// ` ‐-r‐ァ' ´ ,':/ー、  ';
            /  , ノ `   l::::l   li /ニく /⌒ヽ  \.i
        , └ '´  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ノ__  ',  ,イ:
      /     \ (⌒⌒)       ,  └ '´ /   i/
    /            ヽ / ー '       /  /,.イ
   ∠ __                    /  / /
          ̄ ̄ ̄プ ー r── -------/-‐'´ /


      | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
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      /    ̄ ̄ ̄ ̄      /_____
      /   お断りします    /   //
    /      ハ,,ハ        /  / /
    /     ( ゚ω゚ )     /  /  /
   /   ____     /  /  /
  /             /  /  /
/             /    /  /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /  /

385 :名無し48さん(仮名):2016/02/01(月) 15:13:43.20 ID:l5vhZQyA0.net
ひまりん、はいたわーは初日企画の企画費を横領した

386 :名無し48さん(仮名):2016/02/01(月) 18:11:51.53 ID:Z22LxvKs0.net
http://ngt48.com/photolog/detail/100006930
2016.02.01
やっほ〜い💟
三つ編みちゃん。このあと、のえぴーが凄い女子力を発揮😏😏
きょうも1日がんばろ〜う!😳😳
http://ngt48.com/ngt48/artist_photo_stream/100006930/ngt_1454308118653.jpeg

387 :名無し48さん(仮名):2016/02/02(火) 10:37:22.83 ID:Zs0Av3Vd0.net
正規メンバーで完売しなかった人たち
北原   *0/25
荻野   *0/15
小熊   *0/*5     
佐藤杏 *0/*5     
菅原り *0/*5
太野   *0/*5
長谷川 *0/*5

メンバーは恥じて下さいね

388 :名無し48さん(仮名):2016/02/02(火) 18:53:10.90 ID:7sZqGaMj0.net
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。
また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能、638-713年)から採られている、
という解釈がなされている。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(?-902年)につながる系統であったためである。)
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。
曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
洞山良价から5代下った大陽警玄(943 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032-1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷(1043 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - ?年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(?-1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1088-1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089 - 1163年)と対立したことや、
多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、
「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永?(1285‐1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081 - 1149年?)、大明僧宝(1114 - 1173年)、玉山師体(? - ?年)、雪巌慧満(? - ?年)を経て、金代に万松行秀(1167 - 1246年)が登場することで隆盛した。
彼の弟子には、雪庭福裕(?−1274年)、耶律楚材(1190 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。
現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
日本における曹洞宗は道元(鎌倉時代)に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗? - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。
このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。
宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275 - 1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。
天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248−49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。

389 :名無し48さん(仮名):2016/02/02(火) 19:10:49.36 ID:tuyL26X50.net
>>387
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。
また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能、638-713年)から採られている、
という解釈がなされている。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(?-902年)につながる系統であったためである。)
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。
曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
洞山良价から5代下った大陽警玄(943 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032-1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷(1043 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - ?年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(?-1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1088-1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089 - 1163年)と対立したことや、
多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、
「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永?(1285‐1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081 - 1149年?)、大明僧宝(1114 - 1173年)、玉山師体(? - ?年)、雪巌慧満(? - ?年)を経て、金代に万松行秀(1167 - 1246年)が登場することで隆盛した。
彼の弟子には、雪庭福裕(?−1274年)、耶律楚材(1190 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。
現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
日本における曹洞宗は道元(鎌倉時代)に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗? - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。
このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。
宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275 - 1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。
天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248−49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請によ

390 :名無し48さん(仮名):2016/02/02(火) 19:11:21.83 ID:8vi2gk1i0.net
>>386
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。
また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能、638-713年)から採られている、
という解釈がなされている。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(?-902年)につながる系統であったためである。)
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。
曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
洞山良价から5代下った大陽警玄(943 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032-1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷(1043 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - ?年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(?-1119年)の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1088-1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089 - 1163年)と対立したことや、
多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、
「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永?(1285‐1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081 - 1149年?)、大明僧宝(1114 - 1173年)、玉山師体(? - ?年)、雪巌慧満(? - ?年)を経て、金代に万松行秀(1167 - 1246年)が登場することで隆盛した。
彼の弟子には、雪庭福裕(?−1274年)、耶律楚材(1190 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。
現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
日本における曹洞宗は道元(鎌倉時代)に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗? - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。
このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。
宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275 - 1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。
天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248−49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化

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