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【福井県】 福井県立藤島高等学校 【No.1】

261 :実名攻撃大好きKITTY:2020/08/01(土) 14:24:45 ID:N+DKWDfq0.net
鈴木商店とは - 鈴木商店記念館 http://www.suzukishoten-museum.com/about/suzukishoten/鈴木商店とは
大正期に日本一の年商を誇った“幻の総合商社”

「幻の総合商社・鈴木商店」は大正6(1917)年、売上は当時のGNPの1割に匹敵し、
日本一の総合商社となる。
大番頭の金子直吉は、
「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」と発した。

鈴木商店は、明治7(1874)年に洋糖引取商を創業した。
当時神戸は開港間もない頃であり、金子直吉は、外国人居留地にて海外の商品・技術にいち早く触れる一方、
外国商館の高圧的な態度に屈辱と日本の地位の低さを痛感し、以来、金子直吉の思想の根底には常に国益志向が流れる。

主家岩治郎の急死により鈴木よねは経営の一切を金子直吉と柳田富士松の両番頭に託す。
金子直吉は樟脳の相場に失敗するが、鈴木よねは咎めることをせず、金子直吉は鈴木家に対する忠誠を強める。鈴木商店の第一の飛躍は下関条約により台湾が日本領土となり、鈴木商店が台湾樟脳油の販売権を獲得した時である。
この時、台湾総督民政長官である後藤新平と出合う。また土佐出身であることから、浜口雄幸らとの親交を深め、金子直吉は政商とも呼ばれるようになる。

歴史の教科書にもある通り、日本は日清戦争から日露戦争にかけて軽工業から重工業中心の経済発展を遂げていく。
鈴木商店もまた同様な道を辿り、製糖、樟脳、薄荷からセルロイド、鉄鋼、造船、人絹と重化学工業へ多角化していき、製造業を次々と立ち上げたことから金子直吉は“煙突男”とも呼ばれるようになる。
そのモーレツぶりは渋沢栄一にさえ「(金子直吉は)事業家としては天才だ」と言わしめた。

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