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「マッサン」の視聴率が急落中  「マッサン」はなぜ失敗したのか? [転載禁止]©2ch.net [159320776]

258 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です:2014/11/25(火) 11:16:54.18 ID:p1b07gwN0.net
( ;∀;)イイハナシダナー

http://sakezo.web.fc2.com/colum/taketuru_rita/rita5.html
リタに寂しい思いをかけたくないと、当時は関西で外国人も多い高級住宅地
であった大阪帝塚山に家を借り、摂津酒造に再び通い始めました。

ところが、スコットランド出発前とは事態は大きく変わっていました。
第一次世界大戦後の大正大恐慌によってウイスキー製造計画は棚上げにされてしまっていました。
銀行破綻、企業倒産などの状況下では、製品化できるまでに少なくとも3年も5年もかかり
莫大な資金を寝かしておくような事業に着手することは不況下にはとてもできませんでした。
阿部社長も本格ウヰスキー造りを断念せずにはいられなかったのでした。

「何のために自分は、スコットランドで寝食を忘れてまで、ウヰスキー造りを学んできたのか…」・・・。
失意と苦悩。1922(大正11)年、ついに同社を退社しました。

人生で初めてお酒に関係のないいわば浪人生活の1年間の日々を過ごすこととなりました。
桃山学院中学での化学の臨時講師の職にありつき化学を教えていました。
リタは帝塚山学院でピアノや英語の教師をして過ごしていました。
リタは少しでも早く日本に馴染もうと熱心に日本の習慣や日本語を学びました。

そうして翌1923年の春、竹鶴家に思いもよらぬ来客がありました。寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎だったのです。
順調にいっている薬商経営の中でも、赤玉ポートワインが大成功しており、本格ウイスキーを日本で造りたいと計画していました。
スコットランドに技師を打診したところ、ウイスキーの権威ムーア博士に
「日本にはミスター・タケツルというスコッチを知っている適任者がいるはずだ。」と答えたのです。
「竹鶴君、(摂津酒造の)君だったのか!」
こうして二人は運命的な再会を果たしました。
日本で本格ウイスキーや洋酒を製造するための男同士が、大阪で再会し結集した瞬間です。

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