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菅原文太の妻・文子さん「一億玉砕を復活させず反戦の声をもっと大勢に上げてほしい」 [771738842]
- 1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 2b48-DadZ):2016/08/15(月) 03:20:59.35 ID:nwPPClKi0?2BP(1000)
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映画「仁義なき戦い」シリーズなどで知られる俳優の故・菅原文太さんは集団的自
衛権の行使容認に異を唱え、反戦運動に力を注いだ。
文太さんの死後、集団的自衛権の行使容認を軸とする安全保障関連法が三月に
施行された。
文太さんの同志でもある妻、文子さん(74)は戦時中や終戦直後の体験を振り返
りつつ、反戦の声が広がることを願う。
小学校の遠足で行った上野公園(東京都台東区)は戦争孤児でいっぱいでした。
お弁当を広げると、ばっと寄ってくる。先生はほほ笑んで「分けてあげて」と。
戦後しばらくは今と違い、みんな等しく貧しかった。でも、助け合う時代でもあった。
太平洋戦争が始まった翌年の一九四二年に生まれ、戦中は静岡県の山村に疎開
していた。
シイタケばかり食べて、防空壕(ごう)に避難する生活。
家々には「一億玉砕」などと書いた紙が張ってあった。
国は、国民を一くくりにして、ためらいなく戦地へ送った。
東京・表参道の店主が戦中を語った本には
「空爆による黒焦げの死体が二階の高さまで積み上げられた」
とあった。
大きな穴を掘り、みんなで埋めたが、その場所には今、高層ビルときれいな道路が。
これは日本の姿を象徴している。
今日の豊かさは、大勢の犠牲の上に築かれたことを忘れてはいけない。
菅原(文太さん)とは五十年近く、苦楽をともにした。
菅原が時代への危機感を強くしたのは、第一次安倍政権の終わりごろ。
長く生きた者の勘というか「人を大事にしない時代はおかしい」と、二〇一二年に国民
運動グループ「いのちの党」をつくった。
菅原が反戦を訴えたのは戦争体験があったから。
叔父の一人は南方戦線で死に、生き残った父はぼうぜんとした様子で戻ってきた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081402000127.html
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