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証拠を隠滅した財務省 → 森友を無事に終結< [524061638]

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 12:52:36.58 ID:3Kqpnoet0.net ?2BP(1000)

https://news.yahoo.co.jp/byline/masanoatsuko/20170530-00071505/
森友学園面談記録の廃棄根拠:佐川理財局長答弁の「細則」も自由自在ルールだった

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 12:53:47.94 ID:Ws89yKXr0.net
証拠隠滅したら籠池に訴えられたとき戦えないじゃん
アホだなぁ

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 12:54:52.49 ID:gX4VZZ2w0.net
隠滅したこと自体も含めてポスト安倍政権できっちり法廷で裁かれるよう望む

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:00:57.08 ID:Hbufgnb60.net
訴えられてもその時は当事者退官してるから

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:02:24.89 ID:TFmz/M+sa.net
佐川氏は今度の人事で大出世だもんな
もはや正義も何もあったもんじゃねえ

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:05:10.48 ID:gX4VZZ2w0.net
>>5
恥も外聞も無く、人道を外してまで安倍のために無様な姿を晒すと大出世します。
人道を貫くと事務次官でも実質的に解雇されます。天下り先はありません。
これが日本です。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:08:11.51 ID:zsQlS0gVM.net
財務官僚と文科官僚の性質の違いだろうな

財務省には銭ゲバや権力欲の塊みたいなのが集まり
文科省には教育者が集まる

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:12:03.54 ID:zsQlS0gVM.net
金と地位をチラつかせればいくらでもなびくのが財務官僚だが
文科官僚はそうは行かない
曲がりなりにも教育者だからな

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:27:58.13 ID:wK7EF2Rj0.net
「消費税増税の時に叩かれたくないんです!」

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:29:30.37 ID:bO03scJh0.net
>>5
佐川君が理財局長じゃなくなったら臨時国会で戦えなくね?
出世はまだお預けだろ

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:30:16.96 ID:GSZDvB7A0.net
正義はなく悪が勝つ日本社会
ズルをしたものが勝つ

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 13:32:24.04 ID:oVPgS4r8K.net
籠池は敢えて改竄した議事録出して財務省の反応を確かめて欲しい

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 19:53:11.34 ID:kk0UKZmSK.net
なぜ財務省を捜査しない?クソ検察!

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 20:27:59.84 ID:DWI9gt/QM.net
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
YOMIURI ONLINE まとめ

占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 2015年08月11日 05時20分

「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。
「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。
だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。
会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

◇役所一転「上司」はGHQ

奥野誠亮さん

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。
広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷(しょうい)弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕(ごう)へ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。
もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。
7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音(ぎょくおん)放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。
そして最後は阿南惟幾(これちか)陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。
 

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2017/06/21(水) 20:28:58.92 ID:DWI9gt/QM.net
 
・・・15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

▼占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城(きゅうじょう)の前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。
 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。
 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)


軍刀を手に座る東条英機首相(前列右端)。左端に国民服姿の奥野さんが立っている(1941年、鹿児島県庁で)

「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。
 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright ©

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