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ソ連共産党「女の子を誘拐して結婚したらアカンで」 キルギス人「はい」→ソ連崩壊後キルギス人「よっしゃ誘拐婚復活や!」 [519023567]

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2021/04/16(金) 18:08:53.12 ID:vonKTxfU0.net
ジャップの略奪婚

平安時代においては源俊房と娟子内親王、小野宮実資、常陸掾平維幹、
蜻蛉日記における藤原遠度などが具体例として挙げられている。

物くさ太郎で語られる「辻取り」が文化としてあった。

戦国時代においては、徳川秀忠の娘である千姫が大阪城を救った坂崎出羽守と結婚するはずが、
それを良しとしなかったために、本多忠刻に誘拐したことにして嫁がせた千姫事件が挙げられる。

柳田は著書にて、折口信夫との会話にて登場したボオタ(奪ったの意)について触れている。
ボオタは明治時代の初期まで大阪の木津、難波、今宮にて行われていた。
経済的事情によって結婚が難しい場合、
女性が夕方着飾って男性を待ち、男性は黙って女性を連れていく。
この際ボオタ、ボオタと大声で言いながら男性の家に向かい、後日仲介を挟んで親子の対面をする。
柳田はこれ以外に九州の長崎や博多の報告があることについても触れている。

高知県大豊町ではかたぐという言葉で誘拐婚が存在した。
当時家の繋がりとしての意味合いが強かったが故に両親の承諾が得られない結婚に対する対抗手段として用いられた。
明治時代以降には当人同士の同意に依るものが多かったとされる。
この時直接夫側の家に妻となる女性を入れるのではなく、
仲介者の家に預けることで家名に瑕がつかず、
その後の両親との交渉が上手く行く場合が多かった。

京都府京都市左京区の田中部落(京大の近く)では、1928年1月1日、
朝田善之助が「あの娘すきや、ぜひ嫁にもらいたい」という知人男性の希望で拉致行為に手を貸し、
警察に逮捕された。このとき朝田らは娘が母親と連れ立って風呂に行くところを集団で待ち伏せ、
やってきたところを羽織を脱がせて頭からかぶせ、集団で担いで行ったが、
当の娘が暴れて逃げたため未遂に終わったという。

長野県の同和地区でも「寝連れ」(ねつれ)という誘拐婚の習慣があった。

1959年に鹿児島県の大隅半島串良町で発生した強姦致傷罪の裁判で、
弁護士は被告が「おっとい嫁じょ」もしくは「オツトリ嫁」という、
姦淫によって強制的に婚姻に同意させる慣習の存在により
法を侵していないと認識していたとして無罪を主張した。
しかし鹿児島地方裁判所は違法性への認識だけが故意か否かを判別する要素ではなく、
また被告の供述と検察官に対する供述調書から、
被告はその慣習の内容が反社会的性質を持つと認識しているとして、弁護士の主張を退けた。
本件は鹿児島県内のメディアで報じられ、
『南日本新聞』では日曜特集のシリーズ「希望する話題」の中で風習そのものについて調査、掲載された。
それによるとおっとい嫁じょは第二次世界大戦前までは鹿児島県の一部地域で残っていたものの、
事件発生当時はほぼ失われていたとされる。また風習自体は本来略奪婚ではなく、
家庭の事情や経済的な問題からくる合意の上での駆け落ちであったことなどが記されている。
また、本件はこの駆け落ちであった風習を歪曲したものだとする考えも紹介される。
この件を通じて当時の教育委員会の主事、現地の青年団長、
青年団連絡協議会副会長は改めて対話を通じて違法性を認識し、
この因習をなくすことに注力することを語っている。

また『鹿児島毎日新聞』では「実刑三年でも軽い これを許す社会にも罪」と題した
人々の事件や判決に対する意見をまとめた記事を掲載した他、結婚観に関するコラムを掲載している。
本件は被告人の計画的な姦淫に関する事実誤認や
被害者の負傷の回復に必要とされた日数とその根拠が不適切であること、
風習の認知度や周囲の勧めもあったことによる違法性の認識の欠如、
被告の背景や周囲の様子から量刑が重すぎることなどを挙げて控訴され、最高裁判所まで争われる。
しかし昭和35年5月26日に棄却され、三年の実刑となる。

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