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ああ コスタリカ戦0ー1で負けた😭

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/11/27(日) 21:14:29.71 ID:jJk9Knwya
なんでこうなるんだよ。
最悪だ
というかなんで特攻しなかったんだ‼︎

162 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:29:57.37 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 552    (ロシア皇帝と漂流民)

 彼等を預かっている高官の案内で、コツコツと石畳の部屋に足跡がこだまし、皇帝・
母后・皇后・弟君が音も無く姿を現す。絨毯の外を歩く守備兵の音と音も無く近づく帝
の、そのアンバランスさの、威圧と威儀を打たれて、漂流民たちは 床にひざまずき、
平伏する。が、傍ら(かたわら)に控える役人が、近寄り正座してる彼らの前に、すた
すたとやってきて、何やら耳打ちした。よく聞き取れない言葉だったが「この国では、
立ってご挨拶するのが礼儀であるから、平伏してはいけない。と言いっている。」と、
解るものが、隣に話した。「おお〜〜。」と、幾人か恐る恐る立ち上がり、続いて皆が
静かに立ち上がり、少し頭を下げて腰をまげ、垂れたれた。皇帝が「本国へ帰りたいか
。」と声をかけた。すると、顔をあげ、帰国希望者6人のうち2人が、「この国に残り
ます。」と翻意してしまうのであった。残る4人が、直ぐに言葉をさいて「いや10年も
異国にいて、望むことは、日本に帰ることだけでした。」と大きく言った。その後帰国
の意思を、切に願う事を滔々と述べる。と、藍ビロウドの 羅紗の高貴な装いの皇帝は
、日本帰国を表明した4人の肩に手をかけ、「その気持ちは当然であろう。」との言葉
を賜るのである。いわゆる「帝のねぎらいの良心」で、あった。こうして2人が、皇帝
に拝謁して、なぜ心変わりしたかは、実記には記述は無い。しかしこの時点で、彼等は
レザノフ率いる周航計画を理解していなかっし。日本帰国の具体案が無い時点で、彼等
の体験は、当然、苦難の連続だった思い出しかないはずだ。当時の日本人としては途方
もないことであっただろうが、この二人が特に頭の回転も切り変えも早く、ロシア語の
収得も早かった事を考えれば、これが処刑への前段階か。と訝(いぶか)しんだ心理も
、なかったとは充分に言えない。つまりこれ以上の変化を望まなかったのだ。又帰国で
もキリシタン禁止の処遇もよぎったに違いなかった。

163 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:30:26.36 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 553    (ロシア皇帝と漂流民)

 これまでの、航海の苦労もあり、友人の船上死も、トラウマだった。更に シベリア
横断での、目の当たりにした、大国ロシア国内のスケールの大きさ、高官の館での厚遇
、そして皇帝に拝謁する時に、平伏せず立ったままのご挨拶するのが、この国の礼儀だ
。と言われれば、感動と動揺があり激しく、思わずに「ロシアに留まります」と言わせ
たのではないか、とも思えるのだ。また仕方ないにせよ、ロシア語を学びロシアの風情
を理解し、当地に恋仲の女性すら持った者だったかも知れない。強制的であったのだろ
うが、彼らはロシア正教会から聖水を受けて、改宗していた。心の平穏を、この異教に
よって得られていたなら、尚更だろう。日本に帰れば、当然のように「磔の切支丹」と
同じ罪人である事も、予想出来たのだろう。そこに瞬間に未来をみてた者も少なからず
居たのだろう。その後、数分の沈黙が続き、その後に、ロシア皇帝は、これから珍しい
催しがあるからそれを見学するように、と言い、拝謁は静かに終わりを遂げ皇帝が椅子
から立ち上がった。室内のビロードの赤い緑と黄色と金銀の淵に模様をあしらった絨毯
の中央を歩いて、廊下に向かい、やがて声が次第に遠のいて行った。後ろに附いていく
縁者の周りは騎士がいた。十数人が、籠った言葉を話ながら、大きな扉が閉まり、彼ら
出て行くと、ホッとしたかの様に室内は穏やかになり、彼らは残った門兵から、案内さ
れ、別の扉から宮廷を辞した。部屋に案内されたのち、別の者が大河ネバ川に浮かぶ島
へ案内する。夥(おびただ)しい数の、群衆が蝟集(いしゅう)していた。やがて、そこへ
煌(きら)びやかな一つの集団がやって来た、皇帝の一行が姿を現したのだった。何やら
鼻ひげ男が、恭々しく近づき、従者と打ち合わせすると、離れて行った。それは 巨大
な熱気球の飛翔実験する科学者であった。熱気球には、乗員を積載した大きな籠が下が
っており、やがて空高く舞い上がると 何れもともなく飛び去って行った。漂流民達は
、ポカンとそれを熱心に見ていた。子供と同じである。周りには歓声も上がっていた。

164 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:30:54.11 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 554    (ロシア皇帝と漂流民)

 さぞかし驚いたことだろう。この熱気球の小型のものを レザノフに随行したラング
スドルフが長崎へ持ち込んで、3度ほどの飛翔実験をさせて驚かせ 役人たちを夢中に
している。翌日も同じに漂流民は、この島に案内されるが、そこは、実は博覧会の会場
だったようで 様々な珍奇なものを見物して回っている。また ある日は、皇帝の植物
園を兼ねる御涼み所へと、案内されたり、ロシアのバレー劇団や 演劇を観劇するなど
、ロシア側の厚遇が毎日続いていた。やがてある日に、見飽きて退屈し出す頃に、レザ
ノフに引き合わされた。6月17日の事だった。帰国希望の4人に、通訳役の善六の、
計5人はクロンシュタット港から、ナデジュダ号で世界周航を突然に向かう事になった
。こうして乗り込みまずは、日本を目指して出航するのであった。出発に際して、皇帝
より、金銀20枚と懐中時計を それぞれが、賜っている。これには一同 大いに驚き
て、感謝したことであった。ナデジュダ号に 乗り込んだのは、津太夫(61歳)、左平
(42歳)、儀兵衛(43歳)、太十郎(34歳)と、通訳者としての善六の計5名である。
恐らく善六などは、日本を見てみたいのは山々だが、住むのはロシアに住みたい。との
曖昧な態度であったのだろうが、それとも逆に、ロシアに住むと決めた敬虔なロシアの
敬虔な正教徒とみて、通訳に強制された命令で乗り込んだのか。定かではない。だが、
大黒屋光太夫らの、帰国の徒は、一人でも仲間が多い事は強く喜ぶことであったろう。
特に通訳としての仲間がいる事は何よりも心強かったと言える。前にも書いたが、語学
の天才レザノフは、航海の間に、この善六から日本語を、学び続けるのであるが、その
出航準備した後の、宮廷で、この同行方針が図られて、決定したのだろう。「仲が悪い
訳でもなく、民族的にもおとなしいようだ。どうだ、レザノフ、一緒に連れて行っては
、一人ぐらい日本人通訳も必要だろう。」ってな事であったのではないだろうか。航海
の先には倭寇や日本人の襲来すら考えられる時代でもあったのだから、皇帝から勧めら
れたら、断れない。「願ってもございません。」そう答えさがったのかもしれない。

165 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/08(土) 23:33:27.96 ID:LuO+GdIG1
 新ジャパン レボリューション。 555    (ロシア皇帝と漂流民)

 少し現代に戻して話せば、この光太夫らの旅を追跡しようと、現代に於いて旅跡を、
巡る企画がなされている。光太夫らが漂着した頃には、アリューシャン列島とはよばず
に、アレウト列島とよばれ、ここから、アラスカまでは、すっかり「ロシア領」だった
。1867年にロシアは、アラスカを 720万ドルでアメリカに売ったのである。あまりにも
どでかい買い物なので、どっちが得をしたのかは、いまだにわからないような気がする
が、この当時には、この不毛の北の大地をロシアもアメリカも持て余していたのである
。しかし、その後1902年頃アラスカからの、大金鉱が発見されてアメリカの大儲けと言
われていた。1942年頃の、アリューシャン列島は太平洋戦争のただなか。日本の海軍が
狙っていて、この列島の西部にあるアッツ島とキスカ島を占領して基地を置いていた。
探検隊は、7人チームでアラスカから小型機をチャーターしてアムチトカを目指してい
く。1970年代はアメリカがアムチトカで5メガトン(広島型原爆の 330倍)というすさ
まじい規模の地下核実験をおこなっていて、もう島としての存在感など何も持っていな
かった気配がある。アムチトカ探検隊の7名は、コールドベイという、もう地名からし
て、やる気のない最果ての氷の空港と、一年中ブリザードという冗談のように、どうで
もいい感じの風景の、要塞兵舎のような飛行場のところから出る飛行機をやっと確保し
た。10日分の食料と、その倍のウイスキーを買い、あとはスパゲティと缶詰がほとんど
だった。その頃、ぼくはスパゲティとマヨネーズと醤油があればあとはなんにもいらな
い、というタイドを、貫いていたので買い物も簡単だった。いざとなればアザラシなど
を捕まえて食う、という道がある。と思っていた。北極圏のイヌイットの生活を見てい
てアザラシのステーキに強い関心があり、できれば自分でさばいてみたかった。
以下 荒浮島(アレウト)の 現代記である

166 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/08(土) 23:36:35.54 ID:LuO+GdIG1
 新ジャパン レボリューション。 556    荒浮島(アレウト)の 現代記

 ところが、200年前に漂着した島へ向かうのは現代でも大変である。光太夫らの足跡
を、できるかぎり追っていこう、という計画をたてていた我々は、光太夫らのようには
千石船に乗ってアリューシャン列島に、むかうわけにはいかなかったからアラスカから
アプローチした(TBS「シベリア大紀行」1985年)快晴のち霰5万個」の過酷な島アムチ
トカには、旧日本軍が作った滑走路がある。それだけの情報で飛行機はとびあがった。
「コールドベイをでたら3層になっているブリザードで、何もみえないから、その先の
エーダックという島に降りることに変更する。」と、機長は空中にあがって15分後ぐら
いに言った。「あの機長は、さっきおれらの プレハブホテルのバーで見たけど あき
らかにバーボン満杯、という顔をしてたぜ。酔っ払い運転で大丈夫か。」と仲間が言う
。「でも機長にはなにもさからえないからなあ。」と、我々の不安は、あたってくる。
着陸したのはセイミヤというところだった。目的地に接近しているのか遠ざかってしま
ったのか。おれたちにはまったくわからない。漂流者のたどりついた島に行くのは現代
でも、大変なのだ。結局1時間ぐらいかかって、雪と氷が待っている荒涼とした島が、
目の前にあらわれた。日本軍が40年ぐらい前に作った滑走路は上空からみても、かなり
アスファルトが、上下に波うっているように見える。「春のさざ波の海と間違えて降り
ていく感じであった。」エイヤッと、着陸してから滑走路のどこかが 陥没したとして
も、おれたちはそれでおしまいなのだった。機長は、かなりの低空飛行をして40年前に
作られただろう滑走路を、検分しているようだ。地上係員というのが まったくいない
場所だから、すべてが、降りていくほうの機長に、自己責任がある。ぼくは機長の斜め
後ろにいたのだが、機長の横顔が汗で光っていた。何回かタッチアンドゴーをやって、
「もういいや、勝負!」という感じで飛行機は運命をきめて降りていった。

167 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 14:59:48.34 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 557    荒浮島(アレウト)の 現代記

 着陸後には、いそいで、我々のテント、寝袋、食料をおろして、すぐさまチャーター
機は、まるでそこでモタモタしていると 滑走路全部が陥没してしま。、というような
慌ただしさで帰っていった。北極の気候の変化が速い事を熟知していた彼は、飛べなく
なる事を恐れたのである。しかし約束の日にちゃんと来てくれるだろうか。もちろん、
どちらにも無線機はない。信じるしかない。すぐにテント(冬山用)を張ろうとしたが
、この島の風は一定方向から吹いてくることがなかった。、4人用のテントを張るのに
1時間もかかってしまったのである。ちょっとしたものを落とすと、すぐ突風でどこか
にもっていかれてしまう。そのうち テニスボールぐらいはありそうな雹が降ってきた
。というより落ちてきた。あたるとあぶない代物であった。3日もするとわかってきた
が、この島に、天気予報というものがあったらこうした予報が出るだろう。「今日は曇
りときどき晴れかと思うと、すぐに大雨。しかし、たちまち回復するでしょう。があっ
という間に、雹もしくはデタラメ方向から霰がごまんと風で叩きつけられます。その内
にいきなり快晴でしょうが、間もなく豪雨になるでしょう。風は東西南北の、風力さま
ざまです。」と。我々は、重くなるので水はまったく持ってこなかった。核実験で島の
形が変わり、山のてっぺんにいままでなかった湖ができている。という情報があった。
雨が多いから、沢山の小川が流れている。それを飲むことにしていた。ただし飛行機を
アテンドしてくれたアラスカ野郎が言っていた。「当然ながら放射能でジイジイ鳴る。
そういうところもあるよ。」と光太夫の頃にはなかったものだ。そこで飯をつくるため
に、水を汲むときガイガーカウンターで一応計測する。かなり反応があった。けれどだ
からといってどうしていいかはわからない。「よおく煮沸すれば大丈夫なんじゃないの
」などと、誰かがいったので、飲んだり料理に使った。200年前の、漂流民のやり方で
いくことにしたのだ。

168 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:00:12.43 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 558    荒浮島(アレウト)の 現代記

 翌日から放射能入りの水筒を持って我々7人は『北槎聞略』に書かれていたらしい。
ところを地形を見ながら調べて歩いた。クルマというものが一切ない無人島だ。簡単な
撮影機材と飲み物を持って行ったが食べ物は入れものがなく、みんな気持のどこかしら
で、ここに着くまで どこかで食い物を売っている店があるんじゃないか、と思ってい
た。その日もあいかわらず、5分ごとに天気がかわるような一日だったが、湖と湾は、
あきらかに水面の色が違うのですぐわかった。湾には、アザラシやラッコがのんびり浮
かんでいる。このアムチトカにはロシア人が、ラッコ、アザラシ、トドなどを島人たち
にとらせ、煙草や木綿、皮船を作るために用いる牛や馬の皮などと交換、というかたち
のバーター取引の貿易をしていた。光太夫は、やがてそういうロシア人らと、出会うの
だが、さすが文明国の人なので 漂流者に接する態度も親切で、なんとか日本人の帰国
に役だてればという働きをしてくれたらしい。しかし、言葉が殆どわからないので、そ
ういう親切が本格的に通じるには まだ時間がかかる。ロシア人らは、光太夫らを倉の
なかに泊まらせた。そこには 越冬用に蓄えた干し魚、雁、鴨などがたくさん入ってい
たので、あまりの臭気に 耐えがたかったらしい。アムチトカは歩いて回るにはあまり
にも広すぎるので 我々探索隊は確実に見ておくべきところを、まずはじめに探訪する
ようにした。そのひとつはアレウト族の住居だった。これは注意して見ていくと、土手
の下の斜面などで わりあい簡単に見つかった。洞穴の上に流木を使ったのだろう細い
丸太をならべただけで、その上に 蔓性の草などを葺いてあった。が、注意しないと、
落とし穴のような、屋根だったのである。しかし、獣があらしてしまったのか、その中
には人の住んでいた跡のようなものはみつからなかった。神昌丸が難破した場所らしき
ところも見にいった。岩だらけの小さな岬状のところがあり、その近くに洞穴があった


169 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:00:40.03 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 559    荒浮島(アレウト)の 現代記

 『北槎聞略』に興味深い話がある。島に着いてしばらくして、光太夫は神昌丸を見に
いった。神昌丸は錨を擦りきらせてしまい。暗礁に触れ底に穴をあけていて船の積み荷
の殆どが流失してしまったようだった。光太夫は、へたへたとちからをなくし、疲れて
しまって近くの洞穴に身を横たえていると、やがて寝てしまった。夕方ちかくに、なに
やら騒々しい音や声が聞こえる。なにごとか、と思って覗いてみると水没した船のなか
から、ロシア人が日本酒の樽をみつけてきて、それをみんなで飲んで大騒ぎをしている
のであった。その様子を、アレウト人も見ていて、自分たちも同じものを、と樽を引っ
張りだしてきた。そうして、みんなでそれを急いで呑みはじめたのだが、たちまち嘔吐
し、ぜいぜい吐きだしている。よく見ると、その樽はシケのときにふなべりからはでき
ないので、便器がわりに使っていた肥(尿)樽だったのである。厳しい毎日が綴られて
いる漂流記だけれど、ときにこういう笑い話も含まれていると なんだかホッとする。
しかし、この想像を絶する気象変化の激しい島も、慣れてしまうと 変化というのは、
それだけであって、結局はなんの希望もない打ち捨てられた 絶望の島なのであった。
我々は、たった10日間という短い期間なので毎日あちらこちらに出向いて忙しかったが
、それは(何もおきなければ)コールドベイからの 迎えの飛行機がやってくることに
なっているからである。でも、必ず迎えの飛行機がやってくるとは 実はまだ何の保証
もなかった。それでも相変わらず「スパゲティのマヨネーズと醤油かけ。コンビーフを
添えて。」が、基本の食事で、めしが続いているのだから「すまないなあ」と思うよう
になった。買い物を頼まれたぼくが いまひたすら気にいっているのだから、主食では
それだけで あとはステーキなどを個人的に焼いている。僕はデカナベに毎晩1キロの
スパゲティを茹でているだけだった。それを食うと、眠くなるまでウイスキーを飲んで
寝ておしまい。夕食が単調だからだろうか、夜はあきてしまって、ウイスキーになるの
が毎日だった。

170 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:01:15.15 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 560    荒浮島(アレウト)の 現代記

 光太夫たちは、このなにもない島に4年間もいた。そのあいだに、7人の乗組員が、
壊血病(かいけつびょう、ビタミンC欠乏症で、数週間後出血性障害で体内各器官で、
吐血が生じる病気)の症状が出現するなどで病死している。この島に漂着する前にすで
に1人亡くしているので、神昌丸の乗組員は既に9人になっていた。光太夫らは時々、
流木が独特の潮の流れを作っている湾に、でかけてている。我々が、米軍からの貰った
地図にセントマカリオウス湾というのがあり、光太夫らが書いた簡単な地図と そこが
一致する事を発見していた。行ってみると、本当にそこは夥しい数の立派な流木が漂着
していた。光太夫らの神昌丸が漂着してきた方向と一致する。我々はそこにグイと突き
出た岬の先端に行って、ケルン(積み上げた石)をつくり「望郷岬」と名付けていた。
そっちの方向が日本なのだ。しかし、そこはやがて「挑み岬」というふうに変えてよぶ
ことになった。光太夫らが、漂着して3年目には、ロシアから来ているニビヂモフらの
毛皮買い付け人が、故国に帰還する船がやってくることになっていた。けれど、この島
は果てしなく恐ろしく、そして残酷なのであった。ロシアから迎えにきた船は、湾内に
入るなり、荒波に翻弄されて転覆。ふたつに割れてしまうのである。絶望したニビヂモ
フは、その絶望を怒りに変えて、光太夫らに話をもちかけたらしい。「セントマカリオ
ウス湾に、堆積している夥しい流木を使って 新しい船を一緒につくろうではないか。
海峡を越えて、向かいにあるカムチャツカまで渡れば、あとは地続きなので 何とでも
なる。協力してそこまで脱出しないか。」と言う話だ。それは光太夫たちにとっても、
非常に魅力的な話だった。ロシア人25人と光太夫ら日本人漂流民。それに地元のアレウ
ト人も、一緒に船建造の手伝いに加わってくれた。『北槎聞略』をベースに書かれた、
井上靖の『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)には、この底無し沼のように鬱屈した島で
、光太夫らが漂着以降、はじめての希望に満ちて積極的な計画と その仕事ぶりについ
て邁進するさまを書いている。

171 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:02.62 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 561    荒浮島(アレウト)の 現代記

 「ロシア人たちは破船した帆船の船具の収容に取りかかり、日本の漂民たちは、潮に
半身を埋めたまま腐りつつある神昌丸の船体から、古釘を抜きとる作業に取りかかった
。そうした仕事が終ると、あとは全員が手分けして 周囲七里の島の海岸線を経廻って
漂木という漂木を集めた。島には、木らしい木生えてはなかったので、船材は専ら漂木
に頼る以外 仕方なかった。」船の材料集めが終わったのは9月のはじめで、ただちに
造船仕事を開始して、冬の間は地下の穴蔵住居にもぐっての作業が続けられ、船が竣工
に近づいたのは、翌年6月の終わりを告げる頃であった。――とあるので流木から船造
りに要した期間は、たっぷり10ヶ月はかかっている。『北槎聞略』によると、積載量は
600石ほどの船が完成した。と言う。現代では一石=100升(1升は1.8リットル)と規定
してる。米一石=40貫(150kg)とされ、俵2個である。通常のトラック2ton車は、
2000kgなので、三トン車で20石船、俵40個で、通常の8〜10人乗り川下り船の
小型船、小型漁船程度である。『千石船は、米1,000石分、約150トンの荷物を積める船
をいい。千石積船=150トン(米千石ぶん)』が当時一番大きいサイズとされ、600石船
だから、宴会が出来る遊覧船程度はあっただろう。ロシア人25人、日本人9人が乗船し
、ラッコ、アザラシ、トドの皮、食肉としての干した魚、干し雁などを積み込んで、波
の高い外海に出航した。こうして、天明7年(1787年)07月18日アムチトカを出航し、
1400露里(7000km)を越えて翌08月23日、カムチャツカ(の一端)に40日程で到着し
た。五〜六十あまりの人家があった。磯辺にはパラッカといって、布でかやのようで作
った 日除け葦を張って、この土地に勤務するロシア人の妻子が ヤゴデという草の実
を採っていた。光太夫は郡官の家に泊めてもらい、他の8人は郡官の書役の家に泊めら
れ、それぞれ食物を支給されたのであった。

172 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:26.83 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 562    荒浮島(アレウト)の 現代記

 到着した夜は、チェブチャという干し魚と、白酒のような汁にトラヴァ(草の名で。
不詳)の実をいれたものを、錫の鉢に盛り、食べるためにクマデのようなもの(おそら
くフォーク)と小刀、大サジを与えてくれた。この2品と麦の焼き餅(パンのことだろ
う)は、ここのロシア人が日常的に食べるものであった。宿の老女が、朝と夕方に 小
さな桶をもって牛小屋のなかに入るので不審に思って、磯吉が何をしているのか。と、
そっと様子をみると 汚い小屋にいる1頭の牛から1升5合ほども乳を絞り取るのを見て
「あの白いあまい汁は、きたならしいところからとってくる。」としきりに言いふらし
たので、その後は、誰も「動物関連のものは何も口にしない。」といって、それらは、
みんな残してしまうようになった。しかし、ここに5ヶ月ほど逗留しているうちに麦粉
は食べつくしたし、魚の干物も底をついてしまった。このような食料不足になっている
うちに、与惣松と勘太郎と藤蔵が、あいついで 股から足まで青黒く腫れあがらせて、
歯茎が腐って死ぬ病に倒れたのであった。郡官の属吏は、「あなたたちは、意味もなく
、我々が与えた乳や牛肉を食べないが、これから飢饉になっていくのに、ああいうもの
を食べて体力をつけないと、この冬の季節をこえられない。」と説教して、それ以降に
、磯吉たちみんなは動物のものも食べるようになった。と言う。極寒の地では食わず嫌
いは死を招く。という事であろう。5月になって、川の氷がなくなると バキリチイ(
蝦夷の方言でコモロ、越後では糸魚、イトヨリダイ)の、小魚が川の色が変わってしま
うくらいに、押し寄せてきた。網でとって水煮にして食べると、美味きなること例えよ
うがない。と、うまかった感動を書いている。これらが少なくなると今度はチェブチャ
という魚が遡行してきた。魚とりは、主に女の仕事でこれも網で1日で3、400尾はすく
いあげた。

173 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:57.13 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 563    荒浮島(アレウト)の 現代記

 やがてこれが去ると大きな鮭(シャケ)が、今度はもみあうように鰭(うろこ)を、
光からせてて、遡行してくるのである。冬ののち小さな魚から、次々に大きな魚が追い
春を持ち込んで来て、彼らは、ほっと旅の疲れを取った事だろう。天明8年(1788年)
0?6月15日、光太夫たちはカピタン(下郡官)の チモフェイ・オシーポヴィチ・ホトケ
ーヴィチに、連れられてその地をはなれ チギリというところにむかった。そのときの
船は、丸木をくりぬいた小さなもので、そこに光太夫ら日本の漂流民と、ロシア人15人
が3〜4隻に分乗した。チギリからオホーツクへは、さらに乗船者が増えたので、又 400
石ほどの帆船に乗り換えになった。しかし、この人数にしては積載食料が足りずに、な
んとか口にできるのは、水ぐらいで一度、チェレムチャ(松前ではアイバカマという、
行者ニンニクに似た植物)の、塩漬けだけが出てきただけだったので 一同大いに困っ
て、脱走しようかという話が、密かに出てくる頃にやっと目的地のオホーツクに着いた
。しかし、この残された6人の日本人漂流者は、これで無事帰還というわけではない。
むしろ、地図上の位置としては、日本よりも、さらに遠のいてしまって 北に向かって
来ていたのであったのだ。これから、まだ数年、彼らの帰郷への長く辛い絶望と慟哭、
ときおり、さすらいとかが かいま見える希望と絶望が織りなす旅と闘いがはじまる。
我々は、ロシアをいく漂流民、とりわけ日本人の 殆どの人が体感したことのない様な
零下50度・60度・などというシベリア原野への、流浪の旅の片鱗をほんの2ヶ月間だが
、生身で体験したのである。カムチャツカからの船で光太夫らがユーラシア大陸に上陸
した地はヤクーツクであった。そこで、我々もヤクート自治共和国(当時)の 首都の
ヤクーツクに、モスクワから飛行機で行く事にした。イリューシンという独特のキーン
という音をたてる粗末な軍用のような、簡素なジェット旅客機に乗って9時間飛行する


174 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:08:36.45 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 564    荒浮島(アレウト)の 現代記

 驚いたのは、シートベルトがない席もあるし、自分の席そのものがない(立ちのり、
実質的にしゃがみ座りのりの)客が十数人いることであった。モスクワはマイナス20度
。ロシア人は、「今日はナマヌルイ」、と言っていたので笑った。着陸したヤクーツク
の空港はなんと、マイナス48度であった。同じ地に、200年前に カムチャツカからやっ
てきた大黒屋光太夫達。彼をはじめとした日本人漂流民達には、ご苦労さまでした、と
心からお迎えする心境だった。光太夫らが、オンボロの手作り船でこのヤクーツクに、
到着したときと 少し季節が違っていたが、当初17人いた漂流者が ここにたどりつく
まで次々に死亡し、結局着いたのはは6人しかいない。しかも、さきほど書いたように
故郷からは、さらに遠のき、ロシア政府からの帰国の許しは まだ出ていない。光太夫
の不屈の闘志と、それこそ たゆまぬ努力による日本帰郷への、あらゆる糸口をたどる
苦難の10年間は、これからが もっとも内容の濃い血みどろの闘いになるのであった。
かれらの 想像を絶するようなマイナス50度などという原野で、キビツカ(馬橇そり)
による移動や、馬での移動など ぼくも凍傷にやられながら闘ってきたが、考えられな
い過酷さだ。原野での、拷問のような寒さに、生きるために食べる体験で、一番驚いた
のは、「水をのんだら死ぬ」という 地元の人からの、本気の注意だったのだ。体の中
に、あまりにも冷たいものが入ってくると、臓器が持たないらしい上に、アルコール分
の無い体質は死を呼ぶらしいのだ。この頃から、三十数年後に ぼくは同じ場所に行き
ついたが、やはり水を、そのまま飲むと死ぬ。といわれた。「嘘だと思ったらやってみ
ろ。」と、いわれた。少し考え、嘘だと思わないからやらない、と答えて、その時を過
ごした。気温もマイナス50度などになると、飛んでいる鳥が、突然落ちてくる。そう言
われる。日本の童話でも、水田の鴨が脚が凍り付き、稲刈りと同じに手に入れる話があ
る。つまり、狩りと刈りが同じである理由らしい。

175 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:31:25.71 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 565    荒浮島(アレウト)の 現代記

 長く辛い絶望にかいま見える希望の旅の片鱗を体験した。そしてマイナス50度の地で
は「水を飲むと死ぬ」と言う常識があった。人間は、空中で口をあけるのが辛くなる。
野外食に 二度焼きのパンなどをあたえられても、芯まで凍っているからだろうか、持
って口に運ぶのが重たい、ということも驚きだった。重たい野外のパンを食べるには、
狼の歯と同等の健康が必要だ、とも言われた。でも、胃の中に 何か入れないと、ひた
すら体力は落ちていく。日々体力が落ちるのが、身を持って実感する。このジレンマが
辛かった。その頃、ヤクーツクの外を歩く人は、必ず毛皮の外套をつけ皮の帽子を被り
、狐の皮の「底なし袋」と、呼ばれるものに両手を差し込んで、鼻から下を覆ってから
、外を歩くのである。こうでもしないと、凍傷にかかり、そうなると 迅速かつ的確な
治療をしないかぎり、どうかすると鼻や耳が落ち、頬のあたりがただれ落ちてしまう。
だから用心しろ、といわれた。『北槎聞略』にはキビツカの寒さのことが書いてある。
馬車に、客車がないタイプのものでは 牙のような向かい風にたちむかわなければなら
なかった。それよりは乗っているほうも、絶えず体を動かす馬乗りでの移動の方がまだ
楽だった。と書いている。だけれども、僕らが驚いたのは、乗った馬は間違いなく黒毛
だったのだが、30分ほど走らせて小休止するときには、降りたら乗っていた馬は、まっ
たくの白馬になっていたのである。この黒毛の馬も、汗が凍ってしまい白馬に変わって
いた。馬は、いつでもハダカであり、マイナス60度でも50度でも走ると汗をかく。汗は
全身の毛について瞬時に凍るのだ。そうして束の間での変身を起こす。夢のような白馬
の誕生であった。椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)椎名誠『漂流者は
何を食べていたか』(新潮選書)では、こんなふうな極寒のシベリアを2ヶ月ほども、
オロオロ動き廻っているうちに 光太夫の残していった一冊のノートを見せてもらう機
会にであっている。

176 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:32:05.41 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 566    荒浮島(アレウト)の 現代記

 1780年、ベズボロドコはエカチェリーナ2世の時代、ノヴォロシア巡幸に随行してい
た。その途中で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世から外交を学ぶよう促される。そして外交
任務を終えて、コペンハーゲンから帰国し、『政治事務についての回想録』なる著作を
エカチェリーナ2世に示し、墺露間の戦争の、オスマン帝国分割案をはじめて提示した
。この提言は、ほとんど何の変更せずロシア案としてウィーンに提出される。『モルダ
ヴィアに関する 典型的な歴史情報』を提出する為、外務省の「全ての交渉の全権公使
」と郵政大臣に任命され出世した。この時期より、公式には宰相イワン・オステルマン
伯爵の部下であるのに、エカチェリーナ2世と全ての外交に関わって、外国駐在大使に
命令を下して、条約締結など国務大臣職務の全て行った。彼は、エカチェリーナ2世の
孫のコンスタンチンをギリシャ帝国の皇帝にするという夢をも支持した。エカチェリー
ナ2世も、多くの領地や年金をベズボロドコに与える。1786年元老院議員になり1787年
に実質的な外務大臣として、エカチェリーナ2世の、南ロシア巡幸に同伴する。途中で
カニウに立ち寄ってポーランド王のスタニスワフ2世アウグストと交渉し、エカチェリ
ーナ2世がヨーゼフ2世と会ったときには女帝の馬車の中にいた。と言う。再び勃発し
た露土戦争(1787年〜1791年)と、ロシア・スウェーデン戦争(1788年〜1790年)は、
ベズボロドコに、さらなる激務と重圧を与えた。エカチェリーナ2世の、新しい愛人の
アレクサンドル・ドミトリエフ=マモーノフなどの政敵が、ベズボロドコを攻撃したの
だった。ベズボロドコは2つの戦争の講和に尽力する。1790年08月14日スウェーデン王
グスタフ3世とヴァララ条約を締結したが、露土戦争の方はグリゴリー・ポチョムキン
が急死し、ベズボロドコは急遽ヤシに派遣されて、1792年1月9日にロシアに極めて有利
なヤッシー条約を締結した。この功績で、エカチェリーナ2世から5万ルーブルを与え
られ、聖アンドレイ勲章を授与された。

177 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:32:31.46 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 567    荒浮島(アレウト)の 現代記

 しかしながら、ヤッシーから帰国したベズボロドコは外務大臣ポストを、女帝の最後
の愛人プラトン・ズボフに奪われてしまっていた。ベズボロドコは1793年を通して私的
な回想録でこの「尊厳の減損」について抗議し、エカチェリーナ2世は1793年9月2日の
ヤッシー条約締結祝賀式で、ベズボロドコにさらなる栄典を与えた。その後、エカチェ
リーナ2世はベズボロドコとズボフを和解させ、ベズボロドコは再び外交を主導した。
彼は第三次ポーランド分割を主導して、エカチェリーナ2世から多くの褒賞を与えられ
、彼は内政でも 手腕を発揮して、郵便局を改革、銀行制度を改善、財政を引き締め、
道路を建設したのである。エカチェリーナ2世が死去してパーヴェル1世が即位すると
、パーヴェル1世は、ベズボロドコにエカチェリーナ2世の私的文書を調べるよう命じ
、続いて彼をクニャージに叙した。さらにオステルマンが引退するとベズボロドコを、
ロシア帝国宰相に任命した。ベズボロドコは、最後までパーヴェル1世の寵臣で、あり
続けた唯一の大臣であり、彼はパーヴェル1世の治世でも引き続き外交を主導した。こ
の時期、ベズボロドコは、フランス革命の最中にあるフランス第一共和政を含む ヨー
ロッパ諸国との平和を目指したが、パーヴェル1世はその政策を支持しなくなり、ベズ
ボロドコは辞任を申し出た。パーヴェル1世はベズボロドコの辞任を拒否して、外国へ
の療養を許す予定だったが、ベズボロドコは突如脳卒中で麻痺を起こし、1799年4月6日
にサンクトペテルブルクで死去した。光太夫は漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)
に根室港入りして帰国した。1789年(寛政元年)にイルクーツクに至る。道中イルクー
ツクで、日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い1791年(寛政3
年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、
ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見して、帰国を許されていた。既
に光太夫は、もうロシア語はなんでも理解し、なんでも書けていた。あちこちに「憎む
べきはベツボロドコ」という日本語の、怒りのこもったなぐり書きがいくつもあった。

178 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:33:03.42 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 568  (漂流10年光太夫は生き残った)

 この醜悪政治家がぺートルボルグにいるエカテリーナに帰国嘆願にいかせて下さい、
という光太夫の請願をことごとく闇でつぶしていたのだった。それから別のページにも
っと優しい筆致でひっそりと「おしま」という名前がある。勿論これも日本語である。
 ナデジュダ号は、英仏海峡からスペイン沖 そしてアフリカ沿岸を経て赤道を越え、
南米へと南下し、ホーン岬では暴風に会い、難破しそうになりながらなんとか太平洋へ
出て北上、マルケサス諸島では、全身刺青をした身長2メートルの島人たちに驚いたり
しながら、ハワイを経由してカムチャツカのペトロパブロフスクに至っている。ここは
漂流民4人がアリューシャン列島の小島からイルクーツクに行く際に、立ち寄った場所
であるから、彼等にとっては世界一周となった。ここで善六は下船する。彼は、ロシア
正教の洗礼を受けているため、キリスト教を禁教とする 日本への同行には都合が悪い
のである。この一事を見ても、ロシア側は周到にこの日本寄港に備え、充分に考慮てい
たことがわかる。それから、日本沿岸を航行し、薩摩沖でも遭難しそうになりながら
なんとか九州南端をクリアして長崎へ現れたのである。その後の、レザノフ一行が上陸
し、船を停泊させて起こったことは前の章でみたとおりだ。レザノフによると、漂流民
たちは 長崎について以来、一言も発しなくなった。日本の港へ着いて 懐かしさより
先に、異国へ渡って異国の生活を経験した人間への、幕府の仕打ちを思い出して 恐怖
に捕らわれていたのだ。外界に固く扉を閉ざした母国の法では、自分たちは許されざる
存在であることを認識して「我に返った」というべきでもあろう。それを裏付ける出来
事が長崎到着直前に起こっていた。朝、長崎沖で9人が乗り組んでいた小舟を発見し、
漂流民たちを使って話しかけたのだ。びっくりしたが 興味をそそられて、小舟の民は
、彼等は招きに応じてナデジュダ号に乗船している。長崎港へ入港するのは(周りには
島が多い)難しい。と彼らが言うので、パイロット(水先案内)を頼むと、顔色を変え
て断ったのあった。この小舟は恐らく近くの北廻船か漁船であったのだろう。

179 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:35:08.35 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 569  (漂流10年光太夫は生き残った)

 その姿や言動のそれは、漂流民たちを、さらに萎縮させたようだ。その年の暮れには
(文化元年12月17日/西暦1805年1月17日)漂流民の一人だった 太十郎が、喉に剃刀を
突っ込み自殺を図ったのであった。その動機を、レザノフは「ラクスマンによって日本
に送還された 大黒屋光太夫と、磯吉の二人は、牢獄にいる。と聞いてノイローゼにな
ったから。」と、書いている。漂流民たちは 親戚に会えるどころか同じような運命が
待っていることを知らされ、ここでロシアを捨てたことを 大きく後悔した。というの
だった。(「レザノフ日本滞在日記」195p)。世界周航実記は、太十郎には 元々少し
陰気で偏屈の性があった。と書かれている。従って、将来を絶望した挙句のことには、
間違いない事実だった。彼は、懸命の手当てを施された。「長崎の医師 吉雄幸載の外
科医としての処置にロシア人の医師が、感嘆した措置」(世界周航実記)であったが。
一命をとりとめたが ほとんど人と口を利かなくなったそうだ。彼等の悲劇は これだけ
で終わらない。最終的には、ようやく漂流民達が、日本側に引き渡されてレザノフ一行
が長崎を離れた後、彼等を待っていたのは、またまた苦難の道であったようだ。7ヶ月
も長崎で取り調べが行われて、その間には、詰問と踏み絵を行い、白州での取り調べを
受け、揚屋(病人など特別な雑居牢)入りを果たし、持ち帰り品が改められて、箝口令
(かんこうれい)敷かれ、聴聞などが行われた。という。ここで、信心深いロシア正教
の洗礼を受けた善六を、ペトロパブロフスクで下船させた レザノフの判断は正しかっ
たと言えよう。実は日本には、緘口令と箝口令がある。両方ともかん口令と読むが少し
違っていて、後者は話して行けない。口外が御法度であるが、前者は書物はおろか手紙
にして書いてもいけない。という厳しい物だ。この時彼らには、すこし緩い後者の方だ
った。ここで、持ち帰った書物、地図、金銀銅は没収されたが、外国銭は同価値の銀に
しての返却が、なされたという。その年の暮れ、江戸の仙台藩上屋敷で藩主の伊達周宗
の引見を受け、その後2ケ月間 大槻玄沢等の審問を受けた。その内容は「環海異聞」
として、まとめられている。鎖国と言う言葉は、ここに意義がある。

180 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:37:44.70 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 570  (漂流10年光太夫は生き残った)

、4人が故郷へ帰ったのは、文化3年の春だった。寛政5年11月27日(1793年12月29日
)陸上に上陸後1人が亡くなり、15人になった漂流民はキスカやアッツ島の近くで一年
近く過ごし、その後イルーツクに移り住んで、ルクーツクに滞在すること8年。宮廷の
要人が訪ねてきたのが2月で、ひたすら49日間も馬車道(ばしゃみち)を走ってサン
クトペテルブルクの都につき、宮廷で皇帝に謁見したのが4月末だった、そして1803年
6月17日に出航し1804年10月9日長崎に到着したナデジュダ号一行で、更に半年間
ここに泊まり置きになっていたのだそうして、開放されたのが、長崎来航後1年半後の
ことである。その年のうちに自殺を図った太十郎と儀兵衛は亡くなっている。なんとも
辛い話である。太平洋戦争時の捕虜になった日本兵と同じに、扱いがぞん在であって、
既に江戸期にあったことになる。鎖国という政策がいかに当時の日本人を冷酷に扱った
かがわかるし、徳川幕府の法治に酸いも甘いもあった(犯科帳などの判例)と主張する
身としては、索漠とした思いを禁じ得ない。この項では、日本にレザノフを派遣するに
あたって、ロシア側の周到な準備があったことを考えていきたい。そこにロシアの本気
度が現れていたからだ。本論に入る前に、あるエピソードを紹介する。12月16日、レザ
ノフのために用意された「梅香崎仮館」にレザノフ一行が入って行く様子を見ていた男
がいる。オランダ商館長のドゥーフである。梅香崎から数百メートル離れた出島から、
ドゥーフは一行が上陸して仮館へ入ってゆくのを海越しに見ていた。その様子を、彼は
回想記 Recollection of Japan(56P)に記している。 肥前公(佐賀藩主、鍋島肥前守
治茂)差し回しの大船(御座船)で、レザノフ一行は、ナデジュダ号から梅香崎へ移動
するのだが、ドゥーフは レザノフの従兵たちが掲げる軍旗を掲揚するポール先端の、
地球を掴む鷲の像(Signum)から十字架が取り外されているのに気が付く。そのことは
日本人も、もちろん気が付いていた、とドゥーフは書いている。つまりロシアは日本が
禁教令を敷いていて、仏教国であると言う事知っていて、周到な準備をしていたのだ。

181 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:29:51.38 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 571  (漂流10年光太夫は生き残った)

 その場にいた人の日記や手記など、その時の息遣いが分かる資料の醍醐味は、このよ
うな細部のディテールである。歴史書では「ロシアが通商を求めた。」と言うことだけ
の簡素な単語のみで あしらわれる記述だろう。その歴史的背景は語られるのだが、こ
こにどのような、準備をして、どのような姿勢で日本に臨んだかは、その時そこにいた
 人の目や口や耳のみが、なによりも雄弁に語る。ロシア側の準備と心構え、日本に、
通商を求める熱意は生半可ではない。このことをよく知らせるエピソードの一つである
。ロシア正教という皇帝が、教皇をも兼ねた独自の宗教を持ちながら、十字架という極
めてシンボリックな、印しさえも、日本側を警戒させないために外した。誇りの象徴た
る国旗をわざわざ作って訪日していたのである。こうして難癖をつけられるのを避け、
外国船との接触でも日本側の攻撃を避けたかったのだろう。双頭の鷲の中心の、十字架
を取り外したことは、レザノフの想いからも、大きな意思を皇帝が持っていた証しと言
える。決して屈しない国の、威厳を重んじたその国の使節が、日本の事を充分研究した
うえ、熟慮した皇帝の許しがないと出来ないことであろう。双頭の鷲は、最古の宗教の
ゾロアスター教の光(善)の象徴としての、純粋な「火」を崇めて頃の名残りである。
紀元前4千年前頃は、世界を席巻し君臨していた宗教で、その正統支配者の意味合いを
持って双頭の鷹を用いていた。中央アジアの象徴だ。その中心の十字架も同じに、紀元
前ローマ帝国しか認められていない、威厳を示す巨大権力そのものだったはずである。
したがって軍旗や国旗としてハクスブルク家さえも掲げられず、一の横棒のみ、大英帝
国や他の諸侯の王家は、似せたはたすき掛けのX点でしか紋章には出来なかった。つま
り、ロシアは唯一、キリスト教のローマ帝国の正統後継第三帝国としての誇りだった、
十字架の双頭の鷹が許される国家だった威厳を、日本との通商の為に隠したのである。
ちなみに、ナチスはクロス万時で有名だが、卍は実は時の神スケッルス(Sucellus)の
マークで、北欧ブリテン人の水車の知恵の象徴だった。

182 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:30:19.70 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 572  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ところで、ロシアの周到な準備の模様はは、レザノフに与えられた指令書を、「レザ
ノフ日本滞在日記」で 大島幹雄氏が収録して書いているので参照してください。その
前にロシアの、この頃の地政学的状況をそれこそ歴史書の大局から見て、初代ピョート
ル大帝(1672年〜1725年)のもとに、やっとヨーロッパの諸大国に伍してゆく体制が、
出来上がり完成に近づけた頃のロシアだった。という事を知らねばならない。しかし、
この時に大きく立ち遅れたもの、海への進出や海軍であった。と言う事を知る。それが
、どんなにロシアの熱情で欲望であったかがここにある。北方にあっては、バイキング
時代に既に早くから交易であった。しかし西洋の大航海時代に、パルト海や北海沿岸の
向こうでは、竜骨の船のバイキングの作りの大型船を造り活躍していた。アスファルト
の止水材で大型船を造りイスラムの技術とが相成って、結構な物流の利益を貪っていた
。モスクワ大公は、それとはほぼ無縁で傍観する事に歯ぎしりがあった。ソリの物流と
された為、冬の氷上輸送にロシアは頼っていた。西インド(カリブ海の諸島)にアジア
に、全く進出できず、従って植民地もなく、東インド会社のような貿易会社の経営も、
出来ないで、投資して資金を投資し見返りがくるのみだったのだ。しかしそれはそれで
、人的資源も兵力も、リスクを持たずにリターンは転がり込んでくるロマノフ家は、大
きな資産家になっていた。遵って当時は、世界一の発展する豊かな国だったにも拘わら
ずピヨトルは、じりじりしながらも南下進出に燃えていたのだ。そこに、レザノフが、
露米会社を作って、毛皮ビジネスなどに乗り出し、満を期して、オホーツク、アリュー
シャン列島、アラスカなどの新天地経営に成功した。結果は成功と言えども、尻すぼみ
で、あまり良くなかったが、それしか交易資源が無かった。というのが現状であったの
だ。

183 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:30:49.89 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 573  (漂流10年光太夫は生き残った)

 それはひとえに自国内に造船技術と、海軍力が無かった以上に産業がなかったからで
あるのだが、実はその産業でも逆に、造船と海軍が無いための結果だと、国王は考えて
いたのだった。その海軍力創設の象徴こそが、ナデジュダ号の航海であったのである。
このナデジュダ号は、造船技術の著しいイギリスから、購入したものであり。提督の、
クルーゼンシュテルン船長は、若いが故の引き入れに成功した最初の船乗りで、彼を、
雇っての、世界周航計画で 初めて世界の海に乗り出していた。そこに皇帝以下の国民
の、その意気込みはかなり強かったと言えた。その強さは そのまま、レザノフの肩に
のしかかっていたのだった。その海軍力の増強の夢は、第2次大戦後、ソ連海軍の建設
でこの海軍力増強は、ようやく叶うのだが、この19世紀初頭の頃では、「不凍港」を求
めての、南下する動きは、先行の欧州各国から封じられ、共産組織の世界制覇を匂わせ
る物はは全くなかったのだ。その為、ウラジオストック建設も、サハリン樺太の開発で
も、まだ手がつかなかいで、空想世界にいた頃だった。しかし、ロシアを変えたのが、
鉄道敷き設を進めた頃で、先のベズボロドコ大臣の開発進言だったのだ。1768年に始ま
ったオスマン帝国とロシア帝国との、クリミアタタール戦争(露土戦争)での講和条約
が成功し、1774年7月、現在のブルガリア北部のカイナルジャで結ばれたこのキュチュ
ク・カイナルジ条約が締結される。露土戦争が終結すると、ルミャンツェフはベズボロ
ドコを、女帝エカチェリーナ2世に推薦した。彼女は1775年にアレクサンドル・アンド
レエーヴィチ・ベズボロドコ公に、官職を与え大臣や相談役にしたのだ。旅行公爵と言
われる程物好きで鉄道の魅力も世界の広さも当然知っていた。シベリアに鉄道を建設す
る案は早くからあったが、ロシア帝国でモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成し
たのは、その後後の1850年代で、ベズボロドコ公の忠告や遺言みたいな事だった。実は
このエカテリーナ時代は鉄道と言っても線路と言ったがよく、鉄路の上に鉄車輪のバス
を馬で走らせると言った方式の提案だった。しかし、氷とソリの発達したロシアには、
不要の物と思われ。そこで氷の川の利用と、石畳が発達したのである。

184 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:31:13.26 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 574  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口を
占拠し、その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾とアムール江岬のソフィ
ウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終わった
。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルムを経て
、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。同年、
アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク〜チタ間に鉄道を
敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。その他計画、請願は多数に登
ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で優れたものと
しては、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路(ペルムよりニジ
ニ・タギルを経てチュメニに達するもの)があった。1860〜1870年代こうした頓挫にも
かかわらず、1860年〜1870年代は重要な進展を見せた。1864年のヴャトカ飢饉の救済法
を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を、
大体終えた03月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を、防御する
唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへの
鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達する
に及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう。」と述べた。この報告は、
いくらかの注意を引くことになった。・・・とされている。つまり、ロシア国内では、
帝国と言えども、日本の様に流通事情は良くなく、当然の様に毎年の様にどこかで誰か
が、餓死や疫病で死んでいたのである。そして1864年のヴャトカ飢饉はかなり酷かった
のである。そうした、普段からの貧困の国がロシアだったので、光太夫達へのもてなし
は最高の儀礼であったと言える。

185 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 02:49:25.05 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 574  (漂流10年光太夫は生き残った)

 とはいえ、新方式の蒸気機関を開発したのは1769年である。その後1850年代にシベリ
ア鉄道の計画は1850年から始まり、その初期段階は1860年代まで続いた。つまりこの頃
の鉄道とは、馬で引くレール仕様の事だったのだ。しかし馬に比べ、トナカイはスピー
ドは速いが、力はなく、その為に軽く引く必要があったからだろうが、ソリで代用が出
来たので、必要性は少なかった。それでも、春と秋の雨季があり、その時は難儀であっ
た。ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口
を占拠し、その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾と、アムール江岬の、
ソフィウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終
わった。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルム
を経て、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。
同年、アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク〜チタ間に
鉄道を敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。その他計画請願は多数
に登ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で、優れた
ものが、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路(ペルムよりニジ
ニ・タギルを経てチュメニに達するもの)があった。1860〜1870年代こうした頓挫にも
かかわらず、1860年〜1870年代は重要な進展を見せた。1864年のヴャトカ飢饉の救済法
を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を、
大体終えた03月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を、防御する
唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへの
鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達する
に及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう。」と述べる報告をしたのだ


186 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:08:19.41 ID:+0l7tWZxv
 新ジャパン レボリューション。 575  (漂流10年光太夫は生き残った)

 日本が明治維新により近代国家へ歩み始めた時、ともに帝国主義に乗り遅れたロシア
と日本が満州平野と朝鮮半島を巡って、激突するのだが、この大きな歴史の構図となっ
たのは中国の清露戦争の元となった大陸横断鉄道の建設であった。日露戦争は、その後
のロシアの共産革命で、日本はロシアを仮想敵国ととらえて「北方の熊」という悪印象
が固定化したが、それは19世紀後半以降のことであり、何度も言うが、この頃ロシアは
、税の取り立てもなく、現代とは違う感覚で動いていた様な平和な国家であった。豊饒
な大地が育む、豊かで素朴な人々(ショーロホフの「静かなドン」の世界)という様な
、パリの宮廷文化に追いつこうというロマノフ王朝の世界が、そこに広がっていた時代
であったのである。宮廷では公用語としてフランス語を使い、まさに広大な領土に匹敵
する、奥の深い「他民族交差」する土地を指導する国として帝国化をはかり、諸侯や小
公国の集まりの文化を持った多民族国家だったのだ。そもそもロマノフのオスマンとの
闘いは、税の徴収や支配権がオスマン側にあったからであり、今の ウクライナ状態の
傀儡化の制服国家の中で、やっと解放された頃だった。が食料事情で、共産革命、労働
者階級だけでなく世界中のインテリ層が、共産主義に大きな影響を受けて「かぶれた」
と言ってもよいかもしれない状況になった。日本も、例外ではなく、むしろ共産思想の
礼賛が主流となっている。革命前の馥郁たるロシアの記憶は、日本は勿論、ロシア国民
さえも、忘れ去られた。ソ連崩壊後共産党が生き延びているのは、中国北朝鮮ベトナム
そして日本だけとなっているが、第2次大戦前の、共産主義の各国への浸透は、それほ
ど凄まじかった。例えば、スペインに フランコのファッショ政権が樹立しての、スペ
イン内戦となったが、ヘミングウェイ等世界中の、「自由を愛する」人々がスペインへ
義勇兵となって参戦した程だった。その義勇軍はソ連作った国際旅団だったのである。
当時の世界中の人が、その事に疑問も抱かないぐらいの寛容さが共産支配にあったのだ。

187 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:16:25.05 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 576  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかし、ボルシェビキ革命成就後、海外に亡命したトロツキーの暗殺や、秘密警察の
創設と、スターリンによる大粛清と続いて行き、ロシアのイメージはすっかり陰湿な、
愛国主義的ものに変わったのである。ブルジョワ主義打倒を掲げて技術革新を否定して
いったのである。それはさておき、軍旗を掲揚するシグナムの旗から十字架を取り除い
たことに象徴される ロシアの周到な準備を現す資料だが。「レザノフ日本滞在日記」
の375p付録一に収容された「ルミャンツェフからレザノフへの指令書」がそれである。
日本来航の前年、ロシアを出航する前の1803年7月に作成されたものだ。詳細極まった
長い指令で、全文は、同封写真をご覧いただくとして、ポイントを紹介する。(1) 長崎
以外には、入港上陸しないこと。(2) 長崎に着いたら役人たちが大勢やってくるだろう
が、ロシア皇帝の国書と、献上品は直接将軍に謁見する時に渡すこと。(3) 日本人は、
すべてのことに正確であるから、答弁は、注意深くかつ正確に行い 記録を取ること。
(4) ロシアが70万人の軍隊を有していること。日本と同じ専制国家であること。ロシア
正教について正確な説明を行うこと。(5) 滞在中は側近や従卒も礼儀正しく振る舞い、
日本側の扱いが期待通りでなくても、それは将軍の指示に基づくものだから 不満を言
わないこと。(6) 将軍と謁見するまでは、豪華な服を見せびらかさず 謁見の時は側近
も靴と靴下を脱ぐこと。日本人は 尊敬に値するものの前では、脱帽して 立つ習慣が
あるからこれに従うこと。謁見に向かう際は、皇帝の代理人としてふさわしく 天蓋付
きの駕籠をもちいること。(7) 謁見の後は、通商関係の役人たちに 尊敬の念を払い贈
り物をすること。また 使節団に関わった人々に、過不足なく 贈り物を贈呈すること。
(8) 長崎奉行にも同様に注意深く接すること。ロシアと皇帝を代表する大使として尊厳
ある立派な態度をとること。(9) 最も重要な任務は、日本と通商を結ぶことであって、
バタビア(ジャカルタ)の オランダ東インド会社が崩壊した今は、有利な状況である
筈だ。・・・と非常に事細かな助言を皇帝は行っていた命令書であったのだ。

188 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:22:41.98 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 577  (漂流10年光太夫は生き残った)

他にも (9) 長崎以外にも松前やウルップ島(ロシア領)で通商することも可能である
こと。(10) サハリンの住民と日本の関係を調査すること。(この辺りが、ソ連時代に
この日記が発禁になった事情だろうと思われる)、(11) 日本と中国朝鮮琉球諸島との
関係の調査をすること。など、実に手取り足取りと言えるほどに 綿密な指令書であっ
た。知りうる限りの情報を基に、レザノフに、丁寧かつ礼儀正しい交渉を求めている。
そんな内容である。これにより90年後の1895年日清戦争に勝利した日本が、清から割譲
された遼東半島を変換せよと求めた三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)時の、強欲
傲慢な 近代ロシアと同じ国家とは思えない程、慎重かつ権勢を誇示しない近世ロシア
だったことが分かるのである。日本についての情報の多くは、大黒屋光太夫の一行や、
若宮丸の一行を 首都サンクトペテルブルグに招いてから、ロシア皇帝に謁見させた時
に収集したものであろう。これら首都に招かれた漂流民は、前章で見たように、客人と
して遇され、皇帝から金銀を下賜して日本の着物も仕立てて 立派な身なりで日本へ送
り返したのである。そこには 異邦人への正常な関心と、漂流民たちが遭難した悲劇へ
の哀れみが、滔々と流れにじみ出る感情があるのだった。外国に関わったからと厳しく
詮議し、海外の生きた情報を漏らさないように、殆ど罪人に近い扱いをした幕府とは、
大きな違いが見て取れる。大黒屋光太夫一行も、若宮丸の一行も日本に帰国せずロシア
に残留を望んだ者が多くいたが、日本に帰国すれば罪人扱いされる。という予感も相当
にあったろう。が同時に、厳しい身分制度の、日本社会よりは、今のロシアの方が生き
やすい。と思って帰化同化した。という面もあったのだろうとも思える。

189 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:26:26.34 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 578  (漂流10年光太夫は生き残った)

さて、既にいくつかの章に渡って、レザノフ来航時のことを 取り上げて来た。これは
当初の予定にはなかったことで、レザノフについて言及するつもりは元々なかったので
あるが、大島幹雄氏訳の「レザノフ日本滞在日記」の衝撃があまりにも大きかったため
に大きな紙面を割くことになってしまった。そろそろ フェートン号の物語に戻らなけ
ればならないが、その前に、レザノフの 長崎での日々の最終局面を語らなければなら
ない。我々は、既に幕府がレザノフの通商要求を拒否したこと、通詞や江戸から下向し
た役人、警護兵たちが、その処置を残念がったこと、ドゥーフが宴会を開いたことや、
レザノフは首都サンクトペテルブルグに戻る途中で、シベリアに客死したことを知って
いる。だが、レザノフを、半年も幽閉・軟禁した挙句に、要求を拒否したのが、検使の
遠山金四郎景晋と二人の奉行との会見であった。この模様を記さずして、レザノフ物語
に終始譜は打てない。タイトルを日露(魯)会談としていいほど 当時はロシアを露国
ではなく魯国と表現して、話し合いをしていたからである。江戸から遠山金四郎景晋の
一行が到着したのは、3月30日(西暦)である。だが 31日、4月1日、2日の3日間に
、何の連絡もしていないし、奉行所にも連絡していない。通詞にも姿を見せていない。
外国の賓客には、礼を欠く態度であったはずだ。だが、レザノフは耐えるしかなかった
。例の通り警護兵たちと語らう時間が続き、レザノフは、自分の肖像版画が、長崎の町
で出回っていると知らされる。長崎には川原慶賀、石崎融思など江戸にも鳴り響いた、
作家がいて、長崎絵として評価が高いが、その中の一人が、どこかでレザノフを観察し
たのだろう。当時の絵師は、今の報道カメラマンのように記録者として、いろんな場面
に立ち会うことを許可されたのかも知れない。まあ人相書きって言うのは、番所の本分
だろうから、最初から長崎番所が送り入れて書かせたものかもしれないが、見事にまで
描いている。

190 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:29:20.38 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 579  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかし、この肖像画の流布も また長崎でレザノフの人気が高かったという一因だろ
う。先に触れた様に、80歳を超えた老婆が、ひ孫を連れてレザノフに会いに来たのも、
この肖像画を見たせいだろう。ササキ・イツジという 警護兵との語らいでは、一般の
武士たちが通詞たちに反感を持っていることに驚く記述もある。通詞たちの 特権に対
しての妬みだと言う。また4月2日は旧暦の3月3日で雛祭りであるが「モモノシェク」と
レザノフは呼んでいる。桃の祝日をそう呼んだんだろう。レザノフの訛りが分かる一端
でもある。警護兵たちは、酒を飲んでほろ酔いだ。とも記している。 4月 3日になって
ようやく中堅の通詞が来て、2日後に会見が決まったと教え、彼が奉行所に向かう沿道
や町中の門や窓が閉じられる。と教えてくれる。会見は2度だけだった、とのことだ。
大通詞3人が揃って正式に、レザノフに 検使の 江戸からの到来を伝えに来たのは、
4月4日のことであった。翌5日、会見に決まったという事だった。レザノフが「ヨーロ
ッパでは、6ヶ月も待たされた人物には、着いたその日に報告するのが礼儀だ。」と、
責めると、大通詞たちは、「到着を報告した後で 会見を待たせることの方が、日本で
は非礼にあたる。」と、言い訳にもならない言葉で返している。このヨーロッパの常識
と日本の習慣の争いが、実際の会見まで ことごとく表面化する。レザノフにはロシア
皇帝の全権大使の地位がある。検使は、将軍を体現する只の使者であった。つまりは、
会見に際しての、プロトコルの詳細がロシア皇帝と 将軍の権威を巡っての闘いが、一
大事となっていたのである。大通詞とレザノフとの間で、長いやり取りが続くが、剣を
外すこと、レザノフの随員は5人まで、梅香崎仮館から、肥前の殿様の御座船を使って
 出島のそばを通り大波止(波止場)に上陸する、そして検使(遠山金四郎景晋)と二
人の奉行には対等に対峙することとなった。

191 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:34:39.49 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 580  (漂流10年光太夫は生き残った)

 会談で、使用する言語について面白いやり取りが起きた。通詞たちは、レザノフに、
オランダ語で話せ、というのだ。それを自分たちが通訳する、と。レザノフは呆れて「
私はロシアの大使だ、ロシア語で話すのが当然であり、それを私の随員がオランダ語に
訳す」と言うと「それは絶対に許されません。」と通詞は言う。この時であるレザノフ
が「ならば私は日本語で話す。」と言ったのだ。すると通詞たちは猛反発し「我々の掟
に反することであり、そんなことをすれば、私たちが必要なくなります。」と通詞たち
の本音が出てくるのである。海外の言葉を、絶対に習得しようとしない幕府の官僚と、
世界で唯一通商を 許されたオランダ人の間での、通訳という特権の旨味を独占してい
た集団、それが、日本の幕府の通詞の世界だったのである。通詞たちへ、の妬みや反感
をあからさまにした警護兵の心情も、それを分かってのことの恨み節だったのだろう。
こうして、ようやく翌日の正式会見となる。4月5日、朝7時、レザノフ一行は梅香崎
仮館から出発した。肥前公の御座船が用意され、深紅の絹で、縁取りされたその絢爛さ
に レザノフは驚いている。船は出島のそばを通ったが、それを観察していたドゥーフ
とレザノフは互いに、軽い挨拶を交わしている。出島とレザノフの乗船とは、100mも
ない距離の近さで あった。ドゥーフによると、レザノフは素晴らしい正装であった。と
書いているので、羨ましそうに見える記述だ。大波止に着くと、駕籠(ノリモン。乗り
物の長崎訛りか?)が、用意されていたが、実はこれは奉行所がドゥーフから拝借した
ものだった。この時の絵図を見ると、相当に豪勢な行列だったことがわかる。レザノフ
一行は、高級将校ら随員が5人、ロシア皇帝旗の旗手、靴持ち、儀仗兵6名である。こ
れらを、大勢の役人・警護兵が、一行の前後を2列で囲んだ。通りには いたるところ
に哨所があり、その哨所ごとに警護兵の集団がいた。大波止からは丘の上の西役所(今
の県庁所在地)への緩やかな坂を上り、そこから北東に転じて大通りを奉行所に向かう。

192 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/03(水) 09:43:35.55 ID:m2RKc7jJ1
 新ジャパン レボリューション。 581  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ちょっと歩いてみた。1.2qの道のりである。15分程度の行程。奉行所の所在地は、
長崎を見下ろす立山の裾だ。長崎で最も有名な神社諏訪神社の隣にある。長崎奉行所は
、現在の長崎歴史文化博物館の一部として、ほぼ 当時のまま再現されており、城郭の
ような威容を誇っている。レザノフの記述通りに、階段を上り巨大な門をくぐると広場
がある。その両側に兵士が座っていた。大きな玄関で 靴を脱ぎ中に入ると大きな部屋
には40名ほどの高官たちが座っていた。広く長い廊下を、さらに渡ってゆくと控えの間
で帯剣(サーベル)を渡し、ようやく会見場に通される。二人の奉行と検使(レザノフ
は“大名”と呼んでいる。恐らく通詞たちが検使の遠山金四郎景晋のことを大名と呼ん
でいたのだろう)が座っており、この広間にも、大勢の役人が控えていた。長崎代官、
徒目付、勘定方、普請役もいたというから 大田南畝も列席していたろう。レザノフは
、これらの人々を見て、顔見知りが多いと書いている。が6ヶ月も同じ長崎にいながら
奉行二人が、レザノフと対面するのは、この時が初めてである。ここでレザノフは3人
が長刀を持っていることに気が付き、早速 通詞に「約束が違う」と文句を言うのだが
、これは太刀持ちのことと 思われる。奉行二人、検使との距離は畳2枚である。レザ
ノフが、通詞に 帯剣のことで文句を言ったのは、日本語で言ったのではないかと推測
される。と書く。と言うのもレザノフが話すのを聞いて奉行の肥田豊後守が、まるで、
なだめるかのように口を開き、「日本の習慣により 長崎で随分と退屈させてしまった
ことを深く遺憾に思っている。」と切り出したからである。これに対しレザノフは、こ
こで「このような退屈は初めての経験。・・・」と辛らつな本音を言う。が、一方で「
これまでたくさんの厚意も授かった。」と、謝辞も述べてつないだ。

193 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:35:59.61 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 582  (漂流10年光太夫は生き残った)

 この辺りは、まずは順調な滑り出しと言えよう。もう一人の奉行、「成瀬因幡守」が
江戸から来た将軍の名代であり(ここでも原文では 奉行は検使のことを大名と表現し
ている。)に、「もう一度あなたの来日の目的を話していただけないか。」と尋ねられ
ているる。わかり切ったことを あらためて言わせるのは煩わしくも感じるが、当時の
この奉行達の世界の プロトコルだったのだろう。レザノフは、「喜んで」と言って、
改めて訪日の目的を述べた。これに対し 成瀬は「将軍はロシア皇帝が、『通商の意思
を持っている』ことに驚いている。ラクスマンに、『通商の許可を認めない。」と、念
を押して、既に伝えていたからである。」と述べる。この成瀬の発言を 記述したレザ
ノフの文章は、非常にわかりにくい。原文はおよそ次のようである。「『将軍は、ロシ
ア皇帝の 通商のことに触れ、それに対して感謝をしてる。ことに、驚いている。通商
の許可を認めてはいない。が、将軍に書簡を出すことだけは許した。ラクスマンにも、
このことは 念を押して申し伝えたはずだし、誰も決して、日本と書簡のやりとりは、
できないことを、直接 言い渡しており、そのことは彼も承認したはず。』であった。
ただこの前提を 認めたうえで、将軍(クボウ)に書簡をだすことだけは、許したので
あった。これにより、最初交わした約束が 反故にされたことになる。しかし、将軍は
、それについては 寛大に処してきた。」と言う言葉だった。この意味が、現代人の私
には良くわからない。恐らく レザノフにもよくわからず、そのために 上記のような
記述になったのではないか、と 思われる。当時の日本人の、持って回った言い方、の
せいかとも思われる。前の章で触れた様に、ラクスマンに渡した文書は、実は、許可証
だったという見方が当時からあったことを考えれば、理屈を、こねまわして それを、
否定する言い方だったのだろう。だが、要は使節も受け入れないし、貿易も望まない、
と言う意図は、レザノフに伝わったようだ。しかし、それは長崎にとっておかしな事だ

194 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:36:23.88 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 583  (漂流10年光太夫は生き残った)

 レザノフには「『これがなにを意味するのか、私に理解できません。このような失礼
な対応に驚いている。これは、特別な名誉を もつ者を、侮辱することにはならないだ
ろうか。ヨーロッパでの皇帝や女王たちは、ロシア国と、書簡のやりとりすることを、
身に余る光栄と見なしている。』また 『ロシア皇帝の名誉に関することを、将軍が、
ラクスマンに果して、命令できるのでしょうか。皇帝も将軍も同等であり、どちらが偉
いかは今ここで、決められることではないはずです。』と、私はこうしたことを かな
り激烈な調子で言った。」と書いている。ここまで見てきたように、推測では、レザノ
フは、恐ろしく温厚であり、礼義を重んじ、かつユーモア感覚の豊かな人間であったの
だが、そのレザノフが、自ら“激烈な調子で言った”のだから、これは今の言葉で言え
ば「完全に切れた」という状態と言ってよい。幕府側に、そういう意図は無かったろう
が、外交上の儀礼として、レザノフは ロシア皇帝が侮辱されたと、感じ取ったのであ
る。これは、当時の幕府の外交感覚が、清王朝のそれと五十歩百歩であった証左でもあ
った。奉行の肥田が、これを見て「お疲れでしょうから、今日はここまでにして また
明日会見をいたしましょう。」と、とりなすと、レザノフは「結構」と言って退出した
。はらわたは煮えくり返っていた筈だ。夕方に、本木庄左衛門と、馬場為八郎という、
レザノフと、極めて懇意の二人の通詞が、「明日もう一度謁見においでいただきたい。
」という奉行と検使のメッセージを伝えると、「もう行かない。」と断ったのである。
それに加えて「彼らは、自分たちの言葉に対して あやふやであるし、会見の作法から
いっても、なっていない。」と、怒りを露にする。これに対し二人の通詞は、「すべて
は古くからの習慣に依存している作法だから。」といなしている。レザノフの怒りをや
わらげ、「明日の7時に、出発するのでよろしく。」との言葉を残して退出したのだ。
この日の、ドゥーフの商館日記にはこの日のことを「たっぷりと一時間、そこ(奉行所
)に滞留した後に、一行は同様の方法でふたたび引き返した。」とある。

195 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:36:57.23 ID:g9tLESoP4
新ジャパン レボリューション。 584  (漂流10年光太夫は生き残った)

 6ヶ月も待たせた挙句の、初日の対談はわずか1時間にも満たないものだったことが
わかるのである。この夜のことは、記述が何もない。だが私は思うのだ、梅香崎仮館に
はロシア人たちの、憤怒が渦巻いていただろう、と。これまでレザノフの指示に従って
じっと耐えていた側近たちも、6ヶ月もほったらかしにした挙句に、鼻をくくったよう
な回答に、怒らないはずがない。ヨーロッパ一の 大国強国を自負するロシア帝国の、
エリートたちなのだから、その怒りは凄まじかったろう。何の記述も無いところには、
私はかえってレザノフを 取り巻く不穏な空気を感じてしまうのだ。明けて4月6日に、
夜のうちから、雨風が強くなり、朝には嵐となり、滝のような雨が降った、とレザノフ
は日記に書いている。この天候を、検使遠山金四郎景晋と二人の奉行はレザノフの怒り
、と思ったのではなかろうか。彼等の気持ちが レザノフに好意的であるのは疑いよう
のないところだからだ。風雨が、少し納まった9時に奉行所の高官が迎えに来た。天候
のせいで、道もぬかるんでいるだろうから 随員たちの駕籠を要求する、さもなければ
一歩も動かない、との レザノフの強硬な要求に、役人たちが折れて駕籠が用意される
ことになった。が、それを待つ間、絵師がレザノフをスケッチしていた、とある。礼服
の刺繍の図柄合わせに 手間取るのを見たレザノフは、絵師をそばに読んで、細かくス
ケッチ出来るようにさせると、絵師は、ロシア人は本当に親切だ、と感謝するくだりが
ある。これは、やはり当時の絵師が 今の報道カメラマンの役割をはたしていて、この
ような賓客の傍らで、絵をかくことを許可されていたことを 物語るのである。午後1
時なって、準備が整い奉行所に赴いた。結果は、予想通りのもので、あった。

196 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:37:18.59 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 585  (漂流10年光太夫は生き残った)

 内容は、幕府の書付(かきつけ:公式文書)と長崎奉行所の書付を、二人の奉行が、
それぞれが読み上げたのである。
(1) 幕府の異国船打ち払い政策によりロシア皇帝の国書、献上品は一切受け取らない。
(2) 大御所(徳川家康)の遠祖以来、オランダとしか、通商しないという決まりである
  から、その古来からの伝統的祖法に従って、通商要求は、とても受け入れない。
(3) 航海のための、必要な食料を提供するが 二度と日本に来ないこと、帰国の際、ど
  の港へ立ち寄ることも許されない。長崎に長期滞在できたのは、ロシア人への慈悲
  である。
・・・・・という、上から目線の通達であったのだった。レザノフが前の日に予期した
回答そのものが、そうだった。これに対して、レザノフは、日本が他国を受け入れない
ことは、世界中が承知しているが、偉大なロシア皇帝が 友情を約束するための献上品
は受け取るべきである、と主張して、真っ向から対立する。皇帝からの豪華な献上品の
数々を、「断られました」とおめおめと持って帰れるはずも無かったのだ。議論が膠着
すると、将軍が、米・塩・真綿を、薪水料(航海費)として渡すことを申し渡される。
今度は、レザノフが断る番になる。「『私たちに六ヶ月も苦しみを与え、皇帝の好意に
対して、不遜な態度をとりつづけるような人たちから 食べ物を恵んでもらうなどは、
もっての他、御免被る』(313p)というのだ。通詞たちは動揺した。多吉郎(大通詞)
はレザノフの副官である フリードリッヒに『私たちの条件を受け入れるよう使節に、
お願いしてください。使節は知らないのです。日本では、たったひとつの火花がもとで
、おそろしい、あとで消すことのできない、大きな炎になることがある』と懇願する。
これは会見の、一部始終の中で 最も緊迫した場面であった。奉行も検使も武家である
。彼等を追い詰めると 最後の手段は武力行使になる、という意味だった。」

197 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:37:59.11 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 586  (漂流10年光太夫は生き残った)

  200年前とは言え、ポルトガルの国使一行の、60数人が皆殺しにされた例もあるのだ
からやぶさかではない。レザノフは、気を取り直して言い方を変える。「善意でやった
、全てのこれ迄が、全く反対に受け取られるほど やり切れないことはないでしょう。
だから、奉行らは、私たちに友好の証を示すために、少なくとも本当に取るに足らない
ような 品物を受け取ることだけは、拒絶しないでいただきたい。」と語る。奉行らは
外国人からの 贈り物を受け取れるのは通詞だけであり、許可を取るには江戸に問い合
わせる必要があり、そうなれば、また2ヶ月の時間がかかる。と言って執拗に同意を求
め、結局、その場の返事をレザノフは留保する。レザノフは、ロシア人が漂流して日本
に辿り着いた時の保護と、今後日本人の漂流民を どこに届ければいいのか、の回答を
要求し、2日目の会見は終わった。午後5時半であった。この日、レザノフ一行への扱
いは、とても丁重で、日本側では、実はロシアとの戦争が起こるのでは、との危惧が
つのっていたのである。それだけに、幕府の回答が理不尽だと思う人が多かったのだ。
レザノフ一行が、宿舎に戻ると警護兵たちは 結果を聞いて泣き出した。「幕府は一体
全体、なんということをしたのでしょう。私たちを、ロシアに連れていって下さい。ロ
シアだったら、ずっと幸せに暮らせることでしょう。」(317p)。これが歴史書には残
らない当時の日本人の感覚だったのである。長崎の町では、戦争が起こるとの噂が流れ
、港では番船の動きが活発になった。レザノフは火薬をすべて没収されていることから
戦闘しようがないことを 思い知り、密かに 一行が殺害されることにも考えが及び、
話し方にも気を使い、用心深くせねば、と思い始めて、この日は無事に終わるのである。

198 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:39:05.15 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 587  (漂流10年光太夫は生き残った)

 4月7日。3人の大通詞たちは、このような結果になることは予想もしていなかった。
検使が来て 初めて幕府の意向を知った、それは二人の奉行も同じだ、と、レザノフに
言う。レザノフの 長崎の町でお土産を購入したい、寺を見学したい、オランダ人とも
別れの挨拶をしたい、との願い出は、すべて幕府から拒否されたことを知らされる。又
うかつに異国人からモノを受け取ると死罪になる。という法の存在も知らされる事にな
った。4月8日。最後の会見が設定され、レザノフ等の心中を慮って(おもんばかって)
か、雨が降っているわけでもないのに、随員たちにも駕籠が用意された。奉行所では、
役人全員が 悲しげな表情であった。ロシア皇帝の、献上品が認められなかったことの
残念さと、今後寄港するロシア船の保護や、帰国するレザノフ一行の安全保障について
話が及び、再び レザノフは自分が日本語で話すと提案するが、通詞たちからはそれは
自分たちの仕事だと断られる。そして、最後に奉行肥田豊後守から、「思いもかけない
決定が下され、そして、ここで六ヶ月も、無為に過ごさしながら、お互い望んでいた様
な結果を得られなかったことに対して、私、およびほかの二名も、深く遺憾に思って
おります。ロシア人の安全をはかるため、どんな書面でも出したいのはやまやまなので
すが、厳しい法律のためそれはできません。」と言う。しかしこの先、日本沿岸での、
安全が図られるようお触れが出ます、というのだ。レザノフは、「彼らに日本語で謝辞
を述べた。友情の継続を確信しながら、私の側で働いてくれた高官たちや、他の役人達
に、彼らから受けた数多くの親切に対して、私から贈り物することを許してもらいたい
。さらに加えてもし彼らのために、何か記念品をここに置いていくことが出来なければ
、これは私にとって侮辱以外のなにものでもない。」と主張した。

199 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:41:51.58 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 588  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかしながら、それもねんごろに断られる。奉行肥田豊後守が「「ロシア人の善良な
心はよくわかります。私たちは、感謝の意を込めてこの気持ちを受け取りたく思います
。幕府からの許可なしで、このような贈り物を、頂戴するわげには いかないのです。
しかしながら、一般の役人たちに 贈り物することに関しては、許可しましょう。法律
で受け取ることが 認められている通訳たちには、なにかささいな品物を置いていって
下さい。しかしながら これは、あなたの優しいお心に 応えるためだけに特別に許さ
れることです。わが国では、通訳だけが、唯一外国人から贈り物を 受け取れる資格を
持った役人なのです。」と、事情を話すのである。こうして お世話になった人々への
お礼も受け取らない結末となる。「長崎犯科帳」(森永種夫)には、庶民の犯す犯罪に
対して、奉行の判決には 人情溢れる例が多いが、異国が関わる案件になると恐ろしく
硬直した、法治主義前例主義を 幕府が一歩も譲らないことの多さに、驚かざるを得な
い。一方で、ロシア人の世話になった人への、贈り物へのこだわりも これまたとても
強く、帝政ロシアの人々の、人付き合いが、日本人に非常に近いとも感じるのである。
これは 恐らく共産国家になって失われた信条ではないか、と思われる。日本に対して
用のなくなった(というより、皇帝から授かった任務を拒否された)レザノフは帰国の
準備を急ぎ始める。その、レザノフに警護兵たちが「巷の、民衆の聞では不満が広がり
、長崎の住民、特に商人たちや職人たちは、とても不満を感じているという。そして京
(みやこ)からたくさんの商人たちが、貿易しようという思惑を抱いて ここに集まっ
ているとのことだ。また奉行たちや、大名も今回の幕府の決定には、まったく満足して
いなかった。」(326p)という話をするのだ。これまた歴史書には全く残っていない話
である。

200 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:42:14.65 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 589  (漂流10年光太夫は生き残った)

 1804(文化元)年の9月の来航以来、船から降りる許可をもらうのに2ヶ月もの時間
を要した。その上、長崎の地を踏んだ後も丁重にもてなしてはくれるものの、常に厳重
な監視を受けることになっていた。レザノフは、自分の置かれた状況を「名誉ある捕虜
」と皮肉を込めて言っている。江戸幕府がこの皇帝使者だったレザノフを厄介者扱いし
たのは、誰の目にも明らかで時の老中だった。おまけに、翌年(1805年)3月まで軟禁
状態が解かれる事無く、待たされた挙句に、江戸幕府の回答は「通商交渉の余地なし。
むしろ、もう日本に来るな。早くロシアに帰れ!」という非情な内容であったのである
。それに加え、帰りの装備や、食料も十分に補給できないまま、レザノフは長崎からの
出港を強いられている。レザノフは「失望」と「憤怒」の中、こんなことを思いながら
日本を離れた。とりあえずレザノフ一行は、世界旅行の拠点として、1805年4月、長崎
を出港した後は、自身の統治するカムチャッカに戻って思案する。そして、幕府の対応
に不満をつのらせたレザノフは、部下のニコライ・フヴォストフに命令をして1806年に
樺太(からふと)、1807年に択捉島(えとろふとう)の襲撃に出たのであった。特に択捉島
のシャナという地域は、銃撃戦の戦場となっている。最新のロシアの武器の前に、日本
の武士たちは、全く歯が立たず撤退を余儀なくされ、シャナはロシア兵によって徹底的
に略奪されました。シャナには、間宮海峡を発見したことで有名な間宮林蔵の姿もあっ
た。ロシア兵に敗れはしたものの、間宮林蔵はこの時に目覚ましい活躍をしたと言われ
ている。しかし、このロシアの攻撃は、ロシア皇帝アレクサンデル1世に無断で行われ
たものであり、事後に樺太・択捉島の襲撃を知ったアレクサンデル1世は、これには、
多いに不快感を示し、戦闘の中止を命令している。そこで、ロシアの襲撃は終わりを遂
げた。

201 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:42:44.86 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 590  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかしながら、江戸幕府からすれば、本土への攻撃ではなかったものの、不幸中の幸
いだったと言う感は拭えなった。というか、レザノフは意図的に、北方の国境の曖昧な
樺太・択捉島を狙ったのだろう。と言われれる。こうして、江戸幕府はレザノフの来航
を通じて起こる一連の騒動に、「通商を拒み続ければ、他国と戦闘になることもある。
国防を強化しなければならない。」と、普通の想いを考えるようになり、大きく2つの
政策を実施しました。1792年にラクスマンが蝦夷地(北海道)の根室にやってきた頃か
ら、江戸幕府は北海道にはロシアに強い警戒感を持っていた。1799年、蝦夷地の東側を
幕府の直轄領としていましたが、レザノフの一件により、幕府は蝦夷地すべてを幕府の
直轄領とすることを決定したのである。そして、蝦夷地の管理やロシア対策をする組織
として松前奉行(まつまえぶぎょう)を設置した。松前奉行は東北諸藩(津軽藩、南部
藩、仙台藩など)の協力も得て、蝦夷地の防衛力強化に全力を注ぎました。さらに既に
当時は、樺太の南部には松前藩の影響が及んでいましたが、樺太北部には謎に包まれた
未踏の世界であった。そこで幕府は、1808年に樺太に調査団を派遣することにします。
樺太は、ロシアと蝦夷地の間にある国防上とても大事な場所です。それにもかかわらず
、樺太は厳しい自然のため、調査すら困難で、謎の包まれた未開地である。江戸幕府は
、ロシアよりもはやく樺太の全容を把握し、あわよくば樺太を日本の支配下に置こうと
考えた。ラクスマンが来航した時も、実はこれと似たようなことが択捉島で起きている
。というのも、日本とロシアの勢力の中間に位置していた択捉島で、江戸幕府は、ここ
に最上徳内と近藤重蔵を送り込んで、「大日本恵登呂府」の標柱を立てていた。要する
に、「ロシアに取られる前に択捉島は日本の支配下」と考えていたからだ。

・・・・・・おわり。

202 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:44:36.52 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・01

 今回の、幕府が命じた樺太の調査でも、これと同じことが行われた。この大任を任さ
れたのは先ほど少しだけ登場した間宮林蔵であった。間宮林蔵は、1799年に伊能忠敬の
測量技術を学んだ秀才でおり、1803年には蝦夷地の測量も実施した。おまけにアイヌの
事情にも詳しいため、樺太探索にはうってつけの人物でした。厳しい寒さと生茂る木々
によって探索は困難を極めますが、間宮林蔵はその困難を乗り越え、樺太を踏破する。
当時、世界中で「樺太は島なのか?大陸の一部なのか?」が議論になっていましたが、
間宮林蔵は「樺太は島である。」とはっきりと証明した最初の人物になった。間宮林蔵
の樺太踏破によって、世界から未開の地が1つ無くなり、世界地図に新たに樺太が書き
加えられることになりました。そして、その偉業を称するため大陸と樺太の間の海峡は
間宮海峡と世界的にも名付けられている。間宮林蔵が、幕府のロシア対策のために樺太
探索を開始したのと同じ1808年、次は、長崎にイギリスのフェートン号という軍艦がや
ってきてトラブルを起こしていた。これがフェートン号事件である。欧米の列強各国の
アジア進出は、当然ながら日本にも影響を与えるようになり、江戸幕府は時代に合わせ
た大きな変革を迫られるようになります。そうして、この時代のうねりが幕末の動乱に
つながっている。フェートン号事件については、このジャパン レボリューションに、
主軸の物語として書いているので、前述の通りであった。加えて重ね書きすれば、英国
の私掠船を襲っていた海賊を、スペイン艦隊の襲撃に備えて、海軍として議会が雇って
アルマダ海戦をし、停泊していたスペイン無敵艦隊を昔ながらの夜の襲撃火矢で焼失さ
せて勝って、これまでの雇われていた 商船海軍と海賊海軍の流れが英国海軍に出来て
いて、二重の提督艦隊が出来ていたころだった。

203 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:45:44.59 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・02

 インドへの出発が遅れた ドーニ(Drury)将軍は、バーノル(Bertie)将軍との対立
もそのままに、エドワード・ペリュー提督の任務を引き継ぐべくして、インドへやって
来たのだが、エドワード・ペリュー提督は彼の着任が遅れたので、カルカッタ経由での
マレー半島のペナンへ向かい、そこで ドーニ(Drury)との任務を引き継ぐことになっ
ていた。ここでこの物語のマラッカまでで記しているようにフリートウッド・ペリュー
率いるフェートン号は7月の末には、マラッカにいた。しかし、エドワード・ペリュー
提督の行動上、ここでは、飛んで10月以降のフェートン号事件(フェートンごうじけん
)は、文化5年8月(西暦1808年10月)の起こったその頃から始める。例の如く、鎖国
体制下の日本の長崎港出島で起きた、イギリス軍艦侵入事件で、被害も微々たるもので
あったが、幕藩体制には大きく響いた。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が、
ここ極東の日本にまで、及んだものである。とされる事件である。カローデン艦隊の乗
艦は、インド艦隊の旗艦のカローデン(Culloden)は、砲74門も搭載した、堂々たる
戦列艦であった。艦隊同士の決戦用に設計された砲70門から120門を備えた、巨大
戦艦の一つである。艦長はあのフリゲート艦フランシス・ドレーク卿の船長代理になり
戦績を残したパウノール・ペリュ(Pownoll Pellew)であった。ペリュー提督の、若き
長男である。この時22歳。戦列艦を率いるには、いかにも若いがただ、このあと翌年3
月カローデン(Culloden)がインドからの船団を率いて帰国の途上ハリケーンに遭遇し
て船団もカローデンも大被害を被った。この際の航海日誌には“パウノール(Pownoll)
艦長と、船長(the master)が操船指揮”(Storm and Conquest)とあることから 老練
な船長( master)masterは王国海軍(Royal Navy)誕生以前の船長の称号を持つ身で、
あったようだ。

204 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:46:33.21 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・03

 英国の国王海軍(Royal Navy)が 成長するにつれ、艦長(キャプテン:Captain)の
呼称は、戦闘指揮を行う海軍艦艇指揮者を指すようになっていく。このカローデン号(
Culloden)の場合は、master=航海長という感じだろうか。カローデン号には、パウノ
ール船長の新妻であるエルザも乗艦していた。この事実と言い、かつてのエドワード・
ペリューが若き頃乗艦していたジュノー号(Juno)でのストック(Stott)艦長が、情婦を
乗艦させていた事件と言い、日本海軍しか知らない日本人には実に不思議というしかな
い光景であろう。が、それはともあれ、父と長男は10月24日にBengalへ向かって出航、
風向きのせいで3週間かけてカルカッタへ到着、ここで2週間にわたって、インド総督
と離任の宴を繰り広げた。12月6日、後任のドーニィー(Drury)が待つ マレー半島の
ペナンへ向かった。ドーニィー(Drury)とともに待っていたのは、日本遠征を終えた帰
港に向かったフリートウッド・ペリュー、フェートン号の艦長である。再び言うがこの
物語はマラッカにいるフェートン号の5ヶ月後の姿であった。父と次男フリートウッド
・ペリューは、7月9日のフェートン号マドラス出航以来半年ぶりの再会の筈だったが、
スチーブンタイラー(Stephen Taylor)の “Storm and Conquest”には、何のコメント
も無い。”Storm and Conquest”はエドワード・ペリュー提督を軸に、インドとインド
洋を舞台にしたドキュメント大作であるがにもかかわらず、である。これは次男フリー
トウッド・ペリューに日本遠征を命じたエドワード・ペリュー提督の真意に関わってく
るので、後に詳細に論じたい。この時、長男パウノールの新妻エリザとフリートウッド
・ペリューは初めて会ったのだが、エリザは、自分の夫の弟を見て一目惚れしたようだ
。フリートウッド・ペリューはハンサムぶりに傾倒したのはエリザだけではなかった。
この年のイギリス本国へ向かう 船団の一つに乗船していた ある夫人は『これほど美
しい男性を見たことはない』と驚嘆したと日記に書き記している(Storm and Conquest)

205 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:47:23.98 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・04

 この本からは、エリザがうっとりしたのは間違いないようだ。ペナンでは、それがど
う発展したのかは何らわからない。やがてカローデン号は、インドからイギリス本国へ
向かう第2船団を護衛するために、セイロンへ向かい、翌1809年2月セイロンのゴール
で船団と合流することになる。ペリュー親子がマドラスを出航した2日後の10月26日、
インド洋を西へ向かって吹く貿易風の シーズン到来を待ち望んでいた東インド会社の
第1船団9隻がフリゲート艦あるアルバーン(Albion)に護衛されてケープタウンへ向
け出航した。各船800トンから500トンの積載量だがそれぞれ船腹一杯の硝石を積載して
いる。当時は、ポルトガルでナポレオン軍と戦っている英陸軍の火薬補給が必要だった
ためだ。過積載に近いために、全くノロノロと進むこの第1船団はマダガスカル沖での
、発生するハリケーンの只中に突入して大被害を被ることになる。第2船団はそれから
数か月後にもかかわらず、ハリケーンシーズンはまだ真っ盛りでエドワード・ペリュー
提督のカローデン(Culloden)も辛うじてケープタウンへ到着したが、第1船団9隻、
第2船団18隻のうち大半が 遭難して沈没するという事態になった。英軍の兵卒から
インド随一の富豪と言われるほど成功したナビヴ(Nabob)の第一人者ウィリアムホップ
(William Hope)もまた、本国へ持ち帰る莫大な財宝とともに海の藻屑と消えたのであ
る。なお現在はインド洋ではサイクロン、太平洋ではタイフーン、カリブ海ではハリケ
ーンと呼び方が変わるが、この当時はすべてハリケーンと呼んでいた。

206 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:50:58.98 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・05

 この後、ペナンに残ったフリートウッド・ペリューは、父の後任のドゥルーリー提督
とともにフランス艦の捜索任務にあたったが、ドゥルーリーの、フリートウッド・ペリ
ュー評は、実に辛辣で、『命令を受けるということの認識や 理解が極めて乏しい。』
と酷評していて、暗に父エドワード・ペリュー提督の甘やかしと、えこひいきによって
早すぎていた昇進を批判している。このドゥルーリーは 先述したがケープタウンを、
イギリスがオランダから奪い取った後のケープタウン海軍基地の司令官となったBertie
提督との、共同司令官を海軍省(Admiralty)が発令したため、DruryとBertieとは激し
く憎みあい、お互い一歩も譲らず軍法会議に提訴しあうほど対立したのである。この当
時の海軍省もしくは海軍本部は、このような共同司令官を発令するという奇妙な軍政が
数多く見うけられる。同じことが実はエドワード・ペリュー提督にも起こっていたのだ
。1804年インド艦隊の司令長官に就任したエドワード・ペリュー提督の後を追っての、
トラウブリッジ(Tourbridge)提督が、同じ職位に発令された事があった。エドワード
・ペリュー提督は憤激し、『こういう(自分の)名誉を汚すことがお行われるのなら(
自分は)本国へ帰国してフリゲート艦の艦長になる』との強硬な文書を海軍本部送った
ので、Tourbridge提督の、職務重複はのちに解消されている。このことでエドワード・
ペリュー提督とTourbridge提督の間柄も終生の敵同士となる。このような 重複人事の
発生は海軍省内の派閥によるものらしいが現時点では筆者には詳しいことは分かってい
ない。いかにも発展途上の海軍らしい出来事である。それにしてもDrury vs Bertie の
提督対立、エドワード・ペリュー提督 vs Tourbridge提督の対立と憎悪の激しさは、ど
うしたものだろう。

207 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:51:23.00 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・06

 フリートウッド・ペリューの略歴は、後のエクスマス子爵のエドワード・ペリューの
息子とされている。フランス革命戦争とナポレオン戦争に従軍し、父ペリューは、海軍
での自分の影響力を利用して、年長の息子2人に軍人としての地位を約束した。という
。フリートウッドは17歳で初めて任務についたが、任務を勇ましく、大胆にこなし、父
から称賛された。フリートウッドの軍歴は、フリゲート艦フェートンの指揮官として、
長崎港で起こした一時的な紛争(フェートン号事件)にとどめを刺す。この紛争により
、日英関係がより重要なつながりを持つようになった。フリートウッドを溺愛する父の
ペリューは、彼が短期間で出世できるように後押しをしたが、このためフリートウッド
の指揮官としての任務は緻密さを欠くようになり、その後の挫折へとつながることにな
った。1814年にはフリートウッドに対する水兵の反乱事件が起こり、1818年に指揮官に
復帰したにもかかわらず、その後30年間、海上で指揮をまかされることはなかったのだ
。少将に昇進してから、インドと中国で総司令官として任務についたが、まもなく旗艦
で別の反乱が起こり、召喚された。その後海で指揮を執ることはなく、1861年に大将の
地位で死去した。「サー・エドワード・ペリュー」と呼ばれたフリートウッド・ペリュ
ーは、1789年12月13日に、エドワード・ペリューと妻スザンナ・フロウドとの間に第4
子、次男として生まれ、タイバートンのブランデルズ・スクールで短期間教育を受けた
。父エドワード・ペリューはフランス革命戦争とナポレオン戦争で昇進を重ねた。その
影響力を利用して、フリートウッドと兄のポウノルの海軍での地位を、世話した。フリ
ートウッドは父親の艦である74門艦インペテューズに、1799年3月、1799年、父エドワ
ードの74砲の軍艦HMS Impetueuxに乗り、士官候補生(midshipman)として参加した。

208 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:51:52.54 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・07

 1803年、軍艦 HMS Tonnantに乗る。8月27日ネルソン提督と合流し、フランス船の、
略奪を行う。1804年、父が東インド地区 総司令官(Commander-in-Chief,East Indies)
となり、軍艦カロデンHMS Cullodenに乗って東インドに向かう。1802年に結ばれたアミ
アンの和約が1803年に破棄され英仏の植民地への双方の攻撃が開始され、1804年のプロ
・オーラの戦いにおいて、イギリスと中国の貿易を守るための制海権を維持するのに、
東南アジア領地の確保する必要を実感したことにより、東インド地区へ重点が置かれた
。このための人事である。1804年9月8日、エドワードはセプター艦 HMS Terpsichore上
でフリートウッドを海尉に任命した。1806年、バタヴィアの襲撃(Attack on Batavia)
では、フリートウッドは軍艦 HMS Terpsichore、後に軍艦 HMS Culloden に戻り、バタ
ヴィア経路のオランダ貿易路の攻撃を仕掛けた。フリートウッドは間もなくカローデン
で帰国の途に就いた。1806年にこの艦で、バタビアに停泊していたオランダ軍への攻撃
を先導して、功績を立てたのである。父親のサー・エドワードは、イギリスにいる友人
のアレックス・ブロウトンにこういう手紙を送っている。息子は実にすばらしい判断で
戦隊を率いた…自分の艦を敵のフリゲート艦にも砲台にも 対等に うまく配置して、
敵艦乗り込みのためボートに移った…確かに、今まで見たこともない偉業だった。君は
言うだろう、わかったよ、君は父親だからね。でも言っておく。他の者たちが、彼に、
ついてどう評しているか、その半分も話していないことを。カローデン艦上で 大きな
歓声が湧き上がった時、胸がいっぱいになった。よくやった、フリートウッド、よくや
った。すばらしい。私がやったことは周囲と共に叫ぶことだった。どうして父親が涙を
流さずにいられるだろうか?私は望遠鏡をのぞきこむ前に、再び両眼を拭わざるを得な
かった。

209 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:52:24.23 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・08

 1807年、サー・エドワードはフリートウッドに、スループ艦ラトルスネークの指揮官
を任じた。この時フリートウッドはわずか17歳だった。フリゲート艦タープシコールで
任務につき、その後はサイケに移った。軍艦 HMS Psyche において、おそらくグリーシ
ーの襲撃(Raid on Griessie)に参加している。イギリスが東南アジアにおいて、オラ
ンダに対しての勝利が決定的になる兆しとなった。このころサー・エドワードはフリー
トウッドを、このように書き記している。「戦隊の中でもたとえようもないほどすばら
しい青年である、皆から愛されている」「真の宝である」「一群(フロック)の花であ
り、艦隊(フリート)の華でもある。」と1807年10月12日、フリートウッドは父により
指揮官の地位を承認され、74門艦パワフルの指揮官代理となる。1808年にはコーンウォ
リスを指揮した。軍艦 HMS Cornwallis(1805年にエドワードが発注)に乗り、父エドワ
ードが主導で、デンマークとイギリスが衝突を起こした情報を耳にして、デンマークが
インドに最初に交易所を設けたトランゲバーの基地を敏速に襲撃した。この頃から東南
アジアは制圧気味になり、フランス領が多いインド洋諸国にベクトルが向いて行った。
その年の7月には38門艦フェートンに配属された。この年の10月、フリートウッドは、
長崎に投錨し、そこでオランダ人士官を何人か捕虜にして物資を要求するという事件を
起こしたが、短期間でけりがついた。日本が抵抗するのは不可能であったため、物資が
フェートンに届けられた。オランダが委託してアメリカ船において出島で貿易をしてい
るという情報を聞いてか、フェートン号はアメリカ船を装いオランダ国旗を掲げて入港
している。ただし、日蘭貿易の時期と少しづれていたため、オランダが委託したアメリ
カ船は見つけることができなかった。またこの事件はオランダ商館長ドゥーフが関わっ
ている。

210 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:52:49.80 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・09

 1808年10月には勅任艦長に昇進し、1810年のアイズル・ド・フランスの侵入と1811年
のジャワ侵入に立ち会った。1812年8月、フリートウッドは フェートンで、イースト・
インディアマンの船団を護送しつつ帰国した。この任務でフリートウッドは 500ギニー
の贈り物と東インド会社からの謝礼を受け取った。その後フリートウッド・ペリューは
、36門艦イフィゲニア(英語版)の指揮官となって地中海へ向かった。1813年1月に、
46門艦レジスタンスの指揮官となって、その年の10月の攻撃に参加し、ポルトダンソの
砲台を静まらせ、逃げ出した29隻の護送商船団を拿捕した。しかし、1814年2月には、
レジスタンスに、帰国命令が出た。このため反乱がおこり、鎮圧されたものの、何人か
の水兵が死刑になり、または鞭打ちにされた。この一連の反乱行為は、厳密な法解釈に
よって無効となったが、フリートウッドの苛烈な性格により、水兵が反乱を起こしたの
だと広く噂された。これが、ペリューの軍人生活の挫折の発端となった。1815年6月に
バス勲章を受け、引き続き地中海でレヴォリューショネアを1818年8月〜1822年6月まで
指揮したものの、以後は艦上で指揮を執ることはなく、その後30年間は半給生活を送っ
た。1850年代の香港(ヴィクトリア・ウエスト)時代は、ペリューはその後も昇進を受
け、先任序列に応じて勲章を授与された。1836年1月にはナイト爵となり、グールフィ
ック勲章を受けた。ヴィクトリア女王の海軍補佐官となり、1846年11月09日には少将に
昇進した。そして1852年12月にはついにインドおよび中国艦隊最高指揮官として、指揮
官復帰を果たした。この就任は波紋を呼んだ。ペリューの年齢と過去の背景、不安定な
気候と第二次英緬戦争後の緊張した外交状況を考えると、彼を就任させることが適切で
あるかということが、疑問と共に大きな話題となった。

211 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:53:18.80 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・10

 1853年4月、ペリューは自分の旗をウィンチェスターに掲げ、1854年9月には香港沖
にいた。ペリューはここで、熱病と感染症が蔓延する危険な時期が過ぎるまでは、乗員
たちに、上陸許可を出さないことに決めた。とされるが、その理由を水兵たちに知らせ
るのを怠った。乗員は明らかに反抗的になっており、そのために、ペリューは、乗員を
戦闘配置に着かせた。彼らが拒否したため、下部甲板で士官たちに剣を突きつけさせて
脅した。水兵の何人かが負傷し、初期段階の反乱は鎮圧された。このことに関する知ら
せは、本国にはわずかにしか伝えられなかった。ザ・タイムズは、主な記事としてこの
反乱を書き立て、人々の注目を惹いた。この新聞はかつてのレジスタンスの反乱のこと
も書いていた。ペリューは海軍本部から正式に召喚され、2度と海で任務に就くことは
なかった。1853年4月22日は中将に、1858年2月13日には大将に昇進した。サー・フリー
トウッド・ペリューは、1861年07月28日に、71歳でマルセイユで死去する。1816年に、
サー・ゴドフリー・ウェブスターとレディ・ホランドの娘ハリエット・ウェブスターと
結婚し、一人娘が生まれた。1849年にハリエットが亡くなり、セシル・ドラムンド・ド
・メルフォールと1851年に再婚した。しかし1859年に離婚した[8] ペリューはフィレン
ツェの「イギリス人用」墓地に、最初の妻ヘンリエットと共に埋葬された。


・・・・・本当の終わりです。次は、ジャパン レボリューション(2)

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