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アイヌってなんで「先住民族」に異常にこだわるの(´・ω・`) [134367759]

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイW 9f27-RujB):2024/03/09(土) 09:07:59.12 ID:ogfdv2ca0.net
成川式土器圏(出水市~伊佐市~薩摩川内市~日置市~霧島市~鹿児島市~指宿市~)
薩摩半島の成川遺跡(4世紀~8世紀末)では390体分に上る人骨が発見されているが、成人骨が多い・男性が多いという特徴がある。
装飾品は刀装具・刀子・やりがんななどがあり、蛇行剣・曲身剣が多く含まれるのは特異である。
人骨を調査した金関丈夫博士は「古墳時代でありながら、縄文時代人の様相に近い。北九州地方の渡来系弥生人とは非常に異なっている」
と述べているが、隼人を異人とした当時の記述と一致するものである。

南九州は、火山噴出物の厚く降り積もった土質で、水田に向いていなかったので、狩猟や漁撈と畑作を主な生業としていたと思われる。いわば自然の恵をもとめて、平穏に暮らしていたのである。
といっても既に、王子遺跡や釘田遺跡をはじめ、この地方の河川の流域等では、弥生時代から水稲耕作が行われていたことは明白で、狩猟や漁撈と畑作のみが行われていたということではない。

弥生後期200年の南九州の人口は六万五千人とされており、それは当時の日本列島の総人口六十万一千五百人の一〇%になり、全人口に占める割合は、他の時代と比べると驚く程高かった。
なお、当時の住居跡についての調査に依れば、その数からみて、南九州では古代の成立期から古墳前期にかけて人口は大幅に増加したものと考えられている。

第一章で述べた通り、四世紀以後にも地下に穴を掘って埋葬する地下式墳墓制度をとっていたことは、北九州地区や近畿地区と大いに異なっているが、これを単純に先進地帯の北九州・近畿より遅れていたとのみ評価してはならない。
いわば南九州の人々は当時の技術によってこの土質にふさわしい生活様式を生み出していたのであり、当時南九州の人々は、それなりに平穏な生活を満喫していたのである。
それ故に、人口も大幅に増加したのであった。(吉田町郷土史-鹿児島市)

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