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三国時代の文学スレッド

1 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 22:09:48.11 .net
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧   .∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )  . (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 驕@ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./..◆ <  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     .ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ   /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

まとめサイト
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/

2 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 22:17:51.76 .net
関連スレ
鄄城文学サロン
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1204710457/

3 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 22:24:49.74 .net
最近、岩波の曹植の詩集を読み返してます。
帰宅途中や部屋の窓から外を見てると、冬は東京でも月や星が綺麗だなーなんて思うんですが

「明月澄清景 列宿正参差」

の詩句を思い出してしまいます。
曹植はもっと綺麗な夜空を見てたんでしょうけどね。
でも、冷たい澄んだ空に浮かぶ月や星って本当に綺麗ですよね。

それで、また読んでみるかって感じで。
やっぱり良いなと思って、語る場を作ってみました。
解説などはできませんが、気ままに紹介していこうと思います。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 00:19:37.61 .net
懐かしいスレタイが復活してるな

5 :1:2011/12/13(火) 00:28:06.51 .net
>>4
実は私は、昔あった文学スレにはリアルタイムでは参加できなかったんです。
まとめサイトを読んでると、勉強にもなるし、良い気分転換にもなるし、
参加できなかったのが残念です。

中国文学もほとんど知らないし、いくつか詩を流し読みして「いいなあ」と思うぐらいだったので、
ここではもっと深く味わって楽しみながら勉強もできたらいいなと思ってます。

ちょっとこれから書いてみます。

6 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 00:45:55.60 .net
時代は違いますが、たしか大正天皇が諸葛亮の詩を詠まれてますよね。

7 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 01:35:04.35 .net
「明月澄清景 列宿正参差」

曹植の公讌詩の一節です。

公讌詩
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_chi/koen.html

最初に読んだときから、詩内の他の句や、他の詩を差し置いて一番印象に残っている部分なんです。
曹植の文と聞いたらまずここが浮かびます。
もしかしたら、詳しい人に言わせたら「ここはそんなに重要じゃないよ」となってしまうかもしれませんが、
なぜだか惹かれるんです。

きっと、冷たく澄んだ空に浮かぶ月や星が好きで、この詩のこの一節がそういうのを連想させるからだと思います。
詩で詠まれてるのが初秋のことだっていうのはわかります。
でも、どうしたってこれで連想するのは冬の月星です。
どうしてか、考えてみました。

曹植の公讌詩は、宴の日の流動的な光景を見事に文字で描ききっています。
静止した風景じゃなく、動画を描く感じです。
それなのに煩雑じゃなくて、すっきりした言葉で描いています。
同じ場面で詠まれたらしい、曹丕の「芙蓉池作」の宇宙の描写が印象派で、
光の美しさを創作を交えて描いているのに比べると、かなり写実的に描いています。
写実的で、すっきりとしている。
その端正さが、冬の夜空を連想させたのかな、と思います。

曹植はどんな気持ちでこの詩を作ったんでしょう。
この詩、軽く読み流すとあっという間に終わってしまいます。そして、簡潔だなあと感じてしまいます。
上に書いたように、流動的な光景をすっきり表現してるからです。
(でも、詩句から情景を想像すると、あっという間に軽疾な馬車が並んで飛ばしてるのが浮かぶからさすがですね。)
これって、感情を迸らせて書いたらこういう詩にはならないと思います。
かなり冷静に、計算して書いてると思います。

曹植は、もちろん曹丕と兄弟仲良かっただろうし(詩を兄弟で唱和してるのなんかも、いいですよね)、
宴を楽しんでいたと思うけど、この詩を作るときには、醒めた頭で、宴の熱気に流されず、
孤独な局外者、観察者になっていたんじゃないでしょうか。

現実の宴の場は、沢山の人で賑わっていた。
でもこの詩は、楽しい賑わいと、孤独な曹植の世界の、二重世界になっているように見えます。
そして、後者として世界を浮かべたとき、私は、その光景を前者の何百倍も美しいと感じてしまいます。

8 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 02:03:43.90 .net
私は、秋の夜空よりも冬の夜空の方が好きです。
冬の夜は、音が全部夜の闇に吸い込まれてしまったように、背筋がぞっとする程静かですよね。
張り詰めた空気は清澄で。
その中にいて、ひんやりした白い月光や綺麗な星を見ていると、
宇宙と自分の間に何も隔てるものがなくて、心の中を直に照らされてるような気持ちになります。

秋の月は、それに比べると弱いなと思ってしまうんです。
東京でなければ、もっと綺麗なのかもしれません。
それとも、私の感性の問題かもしれませんが。

月や星を楽しむにも色々なやり方があります。
みんなで集まって楽しむこともできるし、孤独に楽しむこともできます。
個人的には、宇宙を心が吸い込まれそうな程美しいと感じるのは、一人でいるときです。

公讌詩の情景を、孤独な曹植の世界として見ると、月や星だけじゃなくて、馬車が並んで駆ける様子も、
林立する鮮やかな蓋いも、坂を覆う蘭も、池に浮かぶ蓮の朱も、魚の立てる波も、澄んだ夜に響く鳥の声も、
車に絡んで足を速める風も、どれも背筋がぞっとするような、非現実的な美しさを帯びると感じるんです。
ほのぼのとした幸せな美しさではなく、心を抉るほど強烈な美です。
虚構の美だから、冬の月星の下に、秋の花が咲き誇ることができます。
それも、冬の月星と同じ性格を持って。

でも、そういうことができるから言葉の世界っておもしろいと思います。

確かに、公讌詩は宴会の盛大さ・楽しさや、主催者の威徳を褒めるためのものです。
でも、曹植の使った詩句は、その枠に収まらない情景を想像させてくれます。

「飄颻放志意  千秋長若斯」
(私はゆらゆらと天にものぼる心地がし、心の馳せ行くがままに任せる。
ああいついつまでも、このようでありたいものだ。)

これを素直に解釈すれば、「兄上の宴は本当に楽しい。良い日に、景色も綺麗で、気の合った仲間達と、楽しいことをして、
こんなに幸せなことはない。このまま時間が止まって、いつまでもこの日が続けばいいのに」
です。

でも、私が感じたように読むと、現実よりも美しい言葉の世界を創り上げた曹植が、
自分の言葉の世界の中で自由に解き放たれ、歓喜の叫びを上げている姿が浮かんできます。

9 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 02:14:49.81 .net
>>7-8は、建安文学や漢文学に詳しい人が見たら、つっこみ所がありすぎると思います。
詩句を見て抱いた素直な印象で、推し量っているだけだし、
あまりに自分の好みに引き付けて詩を読んでいるのは自覚しています。
つっこみはお待ちしてます。

でも、詩の読み方って一つじゃないと思うんです。
たとえ、それが古代中国人が彼らの文化の中で詠んだ詩であれ、
現代人がそれを読んで、彼らの考えもしなかった解釈をして美しいと思ってもいいと思うんです。

10 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 02:53:24.58 .net
孔融 六言詩

漢家中葉道微 漢家中葉にして道微(くら)し
董卓作亂乘衰 董卓衰えに乗じ乱を作る
僭上虐下專威 上を僭(なぞ)らい下を虐げ威専らとす
萬官惶布莫違 万官違い莫く布を惶れ
百姓慘慘心悲 百姓惨惨心悲し

漢王朝も代を重ねるとその繁栄に陰りが差して来た
董卓はその衰えに乗じて乱を起した
皇帝陛下に対しては僭越な行いをし下々の者を虐げて権力を欲しいままにする
朝廷の人間で呂布を恐れないものはなく
天下万民が無惨な有様となり心に悲しみを感じないものはいない

漢王朝は衰えた!なんていう言葉の入った詩を
献帝の前で堂々と発表しちゃうのだから孔融は凄い

11 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 02:53:26.15 .net
>>6
ええ!
これですよね。

出師表(大正天皇御製詩集より)
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/emperor_taisyo.html

今日、まとめサイトを読んでてちょうど読んでた詩です。
大正天皇は、日本史で好きな人物の一人です。
好きになったきっかけは、下のFLASHです。
たくさんの人に見てほしいと思います。
絶対に、人口に膾炙したイメージが変わると思います。

http://www.geocities.jp/flash_okiba3/flash/taishou.html


孔明の七言絶句、まとめサイトによると大正五年の作だそうなので、
第一次世界大戦の最中ですよね。
それも題材に関係してるのかな。
二音、二音、三音の音のまとまりも、「謀・表」「劉・秋」の押韻も、綺麗です。
内容も、日本人の孔明好みのツボがよくまとまってますよね。

ただ、それだけにこの詩からは天皇の人柄はあまり見えてこないかな、と感じました。
例えばこの詩を、他の日本人の有名な漢詩人の詩だと言われても納得してしまうと思うんです。
ちょっと他の大正天皇の詩をぐぐって見てみたんですけど、
他のの方が、優しくて繊細な性格が伝わってきました。

12 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 03:23:43.40 .net
>>10
漢王朝は衰えた、と言ってしまうのもすごいけど、「董卓」「布」と実名を明らかに書いてるのもすごいですね。
孔融がこれを朗唱した時、献帝とか重臣とか、恐ろしい董卓や呂布の名前にビクッとしたりしなかったのかな。
惨い事をした人物の実名が呼ばれるって、そういうことだと思うんです。
名前が出ただけで、事跡も蘇る。
まして実際に体験した人はなおさらでしょう。
この詩が優れてる理由には、それもあると思います。
(そういえば、悪人の名前を呼ぶか呼ばないかって、洋の東西で真逆だったりします。
東洋では本名を遠慮なく書く、呼ぶ。西洋では、決して呼ばないようにする。)

孔融の人柄は、この詩からよくわかります。
本当に剛直で大胆不敵。
時事問題を過去の歴史上の出来事に仮託するのは漢詩でよくありますけど、
孔融ははっきり今の時代を詩に詠んでる。
建安文学を気骨、慷慨の文学というなら、この孔融の詩はまさにだと思います。

それに、詩に詠まれるべきは政事なんだっていう信念も見えますね。
彼の世代は、まさに乱世のまっただ中で、魏の母体ができあがってから詠まれた詩とは雰囲気が全然違う。

六言っていうのも特徴的。
漢字の音として、四音が一番安定するらしいです。
五言詩、七言詩は、わざとそのバランスを崩してテンポを良くしたんですよね。
でもこの内容だと、偶数音の方が合ってると思います。

13 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 03:40:21.95 .net
同じ気骨、慷慨の詩でも、
三曹や若い世代の七子の意識には新しい魏があって、孔融の意識には滅んでいく漢があった。
だから両者の作風には隔たりがあるし、漢が魏に滅ぼされたように、孔融は曹操に駆逐されてしまったんでしょうか。
外科医の摘出手術みたいです。
曹操の集団の中で、孔融は異物と見なされてしまったと。

でも、魏のエネルギーの最盛期が王朝成立前っていうのが皮肉ですよね。
帝国になった魏は、頽廃が進んで文学も違った色を帯びてきます。

14 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 04:05:03.18 .net
ちょっと、孔融がこの詩を発表したときの場面を想像してみました。
確かに>>10の通り、初句で万座に衝撃が走りそう。漢室の衰えは誰もが感じていたと思います。
でも、誰もが思ってるだけで口にしないことを、口に出すのってすごいことですよね。
その後に続けて「董卓」「呂布」の実名。
献帝も朝臣も、董卓に蔑ろにされてた頃を思い出して苦い過去を噛み締める。
そして極めつけに「天下の万民は……」

孔融は、この詩で檄を飛ばしたんですね。みんなが現実を直視して世の中の平定に力を尽くすように。
間違っても、蒼天航路みたいににんまり得意げにポーズを決めて読んではいない。

漢が滅びそうだからこそ、孔融の詩は人の心に響いたんだろうし、
漢が滅びそうだからこそ、孔融自身も死ななきゃいけなかったんだろうなあ。

15 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 13:36:35.46 .net
七子に選ばれてない呉質ってかわいそう

16 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 21:01:08.39 .net
こんばんは。

>>15
呉質、私も気に入ってる人物なんです。
初めて名前を知ったのは、まだ三国時代の文学に興味が無かった頃。
曹真の事を調べていて、呉質に体型をからかわれたのを見つけたときでした。
えー、曹真って太ってたんだー、かっこいいのに意外だ!と思う一方で、
この呉質っていうのもつまらないことするなあって思ったことがあります。

呉質が好きになったのは、文学に興味を持つようになって
曹丕の「魏文帝与朝歌令呉質書」「魏文帝与呉質書」を読んだときなんです。
曹丕は呉質には自分の弱いところも見せられるんだなあって。
本当に親友だったんでしょうね。

昔は、人とコンタクトを取るのが今よりずっと大変だったと思うんです。
今だったらメールで一瞬だけど、曹丕は遠く離れた場所にいる呉質に、人の手で手紙を書いて送った。
「会いたい、会えない」っていうのも、現代よりずっと強かったでしょう。
建安含め魏晋南北朝の詩で「この楽しみは得がたいものだ」って言葉がよく出てきますけど、
本当にそうだったんでしょう。
だから書く手紙にも特別な思いを込めるんでしょうね。

ところで、曹丕の手紙以外で意外なところで呉質の名前を見て、笑っちゃったことがあるんです。
不意を打たれたというか。
ちょっと、紹介してみます。

17 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 21:16:46.98 .net
李賀   李憑箜篌引

 呉糸蜀桐張高秋
 空白凝雲頽不流
 江娥啼竹素女愁
 李憑中国弾箜篌
 崑山玉碎鳳凰叫
 芙蓉露泣香蘭笑
 十二門前融冷光
 二十三糸動紫皇
 女媧錬石補天処
 石破天驚逗秋雨
 夢入神山教神嫗
 老魚跳波痩蛟舞
 呉質不眠倚桂樹
 露脚斜飛湿寒兎


書き下し文

呉糸蜀桐 高秋に張り
空は白く 雲を凝らし 頽(くず)れて流れず
江娥 竹に啼き 素女 愁う
李憑 中国に 箜篌を弾ず
崑山 玉砕けて 鳳凰叫び
芙蓉 露泣いて 香蘭笑う
十二門前 冷光を融かし
二十三糸 紫皇を動かす
女媧 石を錬って 天を補う処
石は破れ 天は驚き 秋雨を逗(も)らす
夢に神山に入って 神嫗に教うれば
老魚 波に跳(おど)り 痩蛟 舞えり
呉質眠らずして 桂樹に倚(よ)り
露脚 斜めに飛び 寒兎を湿(うる)おす

18 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 21:31:58.59 .net
中唐の詩人、李賀の詩に呉質の名前が見えます。
どうやら「呉剛」の間違いらしいのですが。

呉剛は、唐代の説話集「西陽雑俎」に、次のような話が残っています。
「月には高さ五百丈ものもくせいの木があり、一人のひとがいて、常にそれを切っているが、
すぐにその切り口がふさがってしまう。
その人の性は呉、名は剛。仙人の修行の途中で過ちを犯し、月に追放されて木を切り続ける罰を受けたのだ。」

でも、呉剛の間違いだったとしても、他の呉じゃなくて呉質に間違えられたのって
運命じゃないの?とか思ってました。

この詩に出てくる李憑は、玄宗皇帝お抱えの立て琴の名人らしいです。

ちょっと、現代語訳を書いてみます。


 呉の絹糸と、蜀の桐とからなる素晴らしい立て琴。たけなわの秋、その弦が張られれば、
 空は灰色。雲が息を凝らし、くずれかけたまま動かない。
 湘江の女神たちは竹の上に涙を流し、琴の名手・素女は烈しく感動する。
 李憑が世界の中央で、立て琴をひき始めたのだ。
 崑崙山に玉が砕け、鳳凰が叫んだのか、蓮の花がこぼれ、香り高い蘭の花がほほえんだのか──と思わせて立て琴は響き、
 首都・長安の十二の城門のあたりで冷たい日差しを和らげ、二十三本の弦は天帝の心を揺り動かす。
 人類創造の女神が五色の煉瓦を作って天を修繕するところへ、立て琴が鳴れば煉瓦は割れ天が驚き、秋の雨をこぼす。
 かれが夢の中で神々の住む山に入り、老いたる神女に立て琴を教えたとき、年を経た魚が波間に踊り、
骨張った竜は舞った。
 月の世界の呉質までが音色に聞き惚れて眠りもせず、もくせいの木によりかかり、夜露が斜めに飛び散って、
寒々とした月光を濡らしている。

19 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 21:48:40.80 .net
すさまじい詩ですよね。
李憑の演奏が、天地や、宇宙や、神々の世界まで揺り動かす。
地が揺れ動くのがどんなことか、日本人は、阪神大震災や今度の震災を目の当たりにして
知っています。
この詩の情景は、それよりもすさまじい鳴動です。

この詩の世界は、どんな映像でも再現できないと思います。
現実に、これほどの力を持った音楽はないと思います。
これは、言葉の世界だからこそできることです。

李賀の詩には、パワーがあります。
二十七歳で死んだ、痩せこけて白髪が混じった頭の男の中には
計り知れない鬱屈と爆発する力があったんだと思います。
幻想的、非現実的な、すさまじい言葉の世界を創り出すことで、李賀以上の漢詩人は見たことがありません。
>>7-8で書いたようなことを、李賀は素でやっていたと思います。

で、この詩の最後から数えて二句目に呉質がいるわけですけど。
呉剛だというなら、他の神話世界の言葉と並んでスケールの大きさを感じるだけなんですけど、
呉質が一人ぽっと混じってるとなると、おもしろさを感じますよね。
神話に呉質が混じってるんですよ。
「これは間違いだ」と言っちゃうのは簡単ですけど、建安文学好きには垂涎もののシチュエーションじゃないでしょうか。

呉質さん、何してるんだろう。
生前あくどいことをやった罪で、木を切り続ける罰を与えられたのかな。
それとも、女神・嫦娥のために月で詩を作っているのかな。
ちょっと気取って、腕なんか組みながらもくせいの木に寄りかかって、目を閉じて演奏に酔いしれてる
呉質の姿が目に浮かんで、なんだか良いです。

20 :織田茉莉奈 ◆WXjra/03jk :2011/12/13(火) 22:22:12.31 .net
文学など糞!
文章は傾向の怠業というのを知らんか?

21 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 00:21:47.72 .net
孔融 六言詩

郭李分爭為非 郭李は爭い分かち非(あ)しきを為し
遷都長安思歸 都を長安に遷して帰ることを思う
瞻望關東可哀 関東を瞻望すれば哀しくなるばかり
夢想曹公歸來 夢に想う曹公は帰来し
從洛到許巍巍 洛に従い巍巍(ぎぎ)たる許に至る

郭と李カクは権力を巡って決別してお互いに悪事を働いている
長安に遷都した後も(洛陽に)帰りたくてしょうがない
関東(の諸侯)を見れば(私利私欲の輩ばかりで)悲しくなるだけで
夢にまで見ていた曹操がやって来て
洛水の流れに沿って行くと大いなる都許昌に辿り着くことができた

曹公憂國無私 曹公は無私にして国を憂い
減去廚膳甘肥 廚膳より甘肥を減去す
群僚率從祁祁 率従する群僚は祁祁(きき)なりて
雖得俸祿常飢 俸禄を得ると雖も常に飢える
念我苦寒心悲 我が苦寒を念えば心悲し

曹操は無私で国を憂いており
自分の食事は甘いものや贅沢なものを全てなくして倹約していた
(そんな曹操だから)付き従う人も多いのだが
俸禄が出たとしても(曹操が倹約しても足りず)常に飢えるようなことになってしまっている
私に甲斐性がないばかりに悔しくて悲しくなって来た

>>10の続き
実は孔融の読んだ六言詩の主観視点は献帝だったのである
ヤバイ、皇帝を主人公にした歌とかマジ不遜
そして曹操のヒーローっぷりがハンパない
何でこれで孔融処刑しちまうんだ?ってくらい美化してる
そしてオチが酷い、時代劇のおとっつぁんになってる

22 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:30:55.23 .net
こんばんは。

>>21
すごい、>>10の詩には続きがあったんだ!
勉強になって嬉しい。スレ立ててよかったです。
ありがとうございます。


ちょっと思ったんですけど、献帝、「朕の気持ちがお前にわかるのか?」って内心面白くなかったんじゃないかな。
本当は許に行きたくなかっただろうし。曹操には憤懣やるかた無かっただろうし。
最後の「念我苦寒心悲」だけが別の意味で正しくて。
もちろんそんな事公言できないから、褒めるんだろうけど、それだと余計ストレスが溜まるだろうなあ。
こういう、ナチュラルに人の神経を逆撫でするような所が、曹操に処刑された原因だったりして。

孔融って、曹操に難癖つけてるだけだと思ってたんですよ。それもメチャクチャ上手な文章で。
だけど、こうやって一方では持ち上げ、一方では難癖つけてだと、曹操も「どっちなんだよ!」って
余計心証を悪くしちゃったりして……。


それからもう一つ感じたことは、孔融の詩って感情表現が直球ストレートですよね。
「悲」「哀」「苦寒」って、感情を表す言葉を直接使ってます。
曹植が吁嗟篇でこれでもかと比喩を使って悲しみを伝えてるのとは、
対照的に見えます。

23 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:34:34.72 .net
「漢王朝は衰微した!」とか、悪人の名前を直接書いたりとか、皇帝になりかわって詩を書くとか、
詩中の感情表現だとか、それぞれの特徴を見ると孔融ってどこまでも素直な人だったんだなって感じます。
まとめサイトに載ってた文章と、それについての書き込みも見ましたが、
なんか思ってた以上に、とてつもなく面白い人に思えてきました。

24 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 03:50:53.08 .net
後漢書と三国志では同じ正史でも孔融の扱いが大分違う
前者の孔融は後漢末の忠臣であり、王朝を護持しようと曹操に抗い、そして死ぬ孔家の英雄扱いだし
後者の孔融は魏初において虚名のみを恃みに、受命の君である曹操を邪魔する孔家の恥さらし扱い

>>1氏の史観はどうも三国志の魏側の視点ばかりから孔融を見ているように思えるのだが
ちょっと発言や詩作はロックだけども、彼は後漢朝廷と皇帝からは結構好かれてるからね
献帝なんかは相談事を持ちかけたりしてて不仲と考える根拠の方が薄弱かと思う

25 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 05:25:14.77 .net
王粲 七哀詩 其二
荊蠻非我郷 何為久滯淫 荊蛮は我が郷に非ず 何為れぞ久しく滞淫す
方舟溯大江 日暮愁我心 舟を方べ大江を溯れば 日暮れて我が心愁う
山崗有餘暎 巖阿搶d陰 山岡に餘暎有りて 巌阿に陰の重なりを増す
狐狸馳赴穴 飛鳥翔故林 狐狸は馳しり穴に赴き 飛鳥は故の林に翔ける
流波激清響 猴猿臨岸吟 流波は激しく清響し 猴猿は岸に臨みて吟ず
迅風拂裳袂 白露霑衣衿 迅風は裳袂を払い 白露は衣襟を霑す
獨夜不能寐 攝衣起撫琴 独り夜に寐ること能わず 衣を摂りて起き琴を撫でる
絲桐感人情 為我發悲音 絲桐は人情を感じ 我が為に悲音を発す
羈旅無終極 憂思壯難任 覊旅に終極無く 壮んなる憂思に任り難し

荊州と言う田舎は私の故郷ではない(中原生まれ長安育ち)
それなのに何故こんなところで無駄に時間を過ごしてしまっているのか……orz
船を並べて大きな江(襄陽辺りなので恐らく漢水か)を遡れば
自分が老いていくだけで(日暮途遠:年老いるが道半ば 史記)憂鬱になる
山々にあるのは太陽の残光があるだけで(私の人生の光もこんなものだ)
川岸や崖も陰が濃くなっていく(私の人生もこんな陰ばかりだ)
(もう遅い時間なので)狐や狸ですら穴倉に走って帰るし
飛ぶ鳥も巣のある林へと急いで帰ってる(にも関わらず私は帰れない)
激流の音は綺麗だなぁ(現実逃避)、猿達が岸に向かって鳴き声上げてるのも聞こえるわぁ(田舎過ぎだろ!)
吹き荒ぶ風が服の袂を揺らし、夜露によって服はびっちょり(旅とかマジ辛い)
夜は(寂しくて)一人で寝るに寝られず、寝巻きから着替えて琴をかき鳴らす
琴は私の心が分かってるから、私の為に悲しみの音で慰めてくれるのだ
この旅は(戦乱からの逃避なので戦乱が終わらない限り)終わりがないのに
(旅のストレスによる)強い憂いにもう耐えられない(帰りたい)

相変わらずの豆腐メンタル王粲さん
当時の琴は親しい人にしか音を聞かせない楽器で自分の心情が伝わる楽器とされていました
「琴の音を知る仲」というのは義兄弟に匹敵する間柄なのです
なので某けいおんの平沢なんちゃらさんがギー太に感情移入してるかの如く
琴に惚れ込んでる、とかそういうわけではないです、そこだけは大事

26 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 10:22:47.93 .net
>>24
>>22-23はテンション上がりすぎでした。孔融を貶したかったわけじゃないんです。
新しい驚きだけで書いてしまって、献帝と孔融の関係も知らなくて。
でも、確かにずっと長い間、孔融への認識は魏の視点の通りでした。
まとめサイトと>>10>>21を読んで初めてそうではない人物像に触れたんです。

でも、そうですね。曹操が孔融を処刑してるんだから、魏としては孔融を殺されて当たり前の人間に
仕立てないといけなかったでしょうから……。

献帝が孔融にした相談も気になるので、後漢書をあたってみます。

27 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 10:31:24.50 .net
>発言や詩作はロックだけども

確かに。私はむしろロックな部分を知って孔融を面白いと思ったし、興味を持ちました。
ただの旧態依然とした儒教的常識人だと思ってたんです。蒼天はやりすぎだとは思ってたけど、
それに近いと思っていました。

旧態依然なんてとんでもない、面白い、と。
詳しく知りたいので、もっと勉強します。

28 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 18:25:15.05 .net
>>25
長く哀しい余韻を残す王粲の七哀詩を、ありがとうございます。

「方舟遡大江 日暮愁我心」

「方」の字には、「(舟を)並べる」、という意味があるんですね。
王粲は誰かと一緒だったんでしょうか。

大江に舟が浮かんでいるって、漂白の身の上とか、どこへ行くのか途方に暮れている様子が
浮かんでしまいます。
舟の小ささと空間の広漠さ。
広漠な空間は、そのまま寂寥感や虚無感の大きさに見えます。
しかもそれが黄昏時だったら、行く手は暗がり、見えなくなるんですから。
(ここ、史記が出典だったんですね)
でも、一人ぽっち、ぽつんと広漠な大江に浮かんでいるわけではないから
完全な孤独ではないんですね。

それからここ、ピンときました!

「獨夜不能寐 攝衣起撫琴」

阮籍の詠懐詩の冒頭と似た表現ですよね。

 詠懐詩

 夜中不能寐  夜中 寐ぬる能はず
 起坐弾鳴琴  起坐して鳴琴を弾ず
 薄帷鑒明月  薄帷に明月鑒り
 清風吹我襟  清風 我が襟を吹く
 孤鴻號外野  孤鴻 外野に號び
 朔鳥鳴北林  朔鳥 北林に鳴く
 徘徊将何見  徘徊して 将に何をか見る
 憂思独傷心  憂思して独り心を傷ましむ

琴は自分の心情が伝わる楽器だと知って合点がいきました。
演奏するのが他の楽器じゃなくて琴なのは、孤独な感情を表現したかったからでしょうか。

其二は、悲しみは悲しみでも、其一の悲惨で救いようのない光景とは違うと感じました。

29 :安藤菜津:2011/12/15(木) 20:17:33.25 .net
文章は傾国の怠業というし、孔融は糞賊の代名詞

30 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 01:49:24.68 .net
この詩のために、家のベランダから撮ってみました。
クレーンが邪魔ですね。

http://kie.nu/2IQ

曹丕 芙蓉池作一首

 乗輦夜行遊 逍遙歩西園   輦に乗りて夜行きて遊び 逍遙して西園を歩めり
 雙渠相漑灌 嘉木繞通川   雙渠 相漑灌し 嘉木 通川を繞(めぐ)る
 卑枝拂羽蓋 脩条摩蒼天   卑(ひく)き枝は羽蓋を拂(はら)ひ 脩(なが)き条(えだ)は蒼天を摩す
 驚風扶輪轂 飛鳥翔我前   驚風 輪轂を扶け 飛鳥 我が前を翔る
 丹霞夾明月 華星出雲間   丹霞 明月を夾み 華星 雲間より出づ
 上天垂光采 五色一何鮮   上天 光采を垂れ 五色 一に何ぞ鮮やかなる
 寿命非松喬 誰能得神仙   寿命 松喬に非ず 誰か能く神仙たるを得ん
 遨游快心意 保己終百年   遨游して心意を快くし 己を保ちて百年を終へん


今まで載せたのは、訳を本からお借りしていましたが、
今回は自分で訳に挑戦してみたいと思います。

現代語訳

車を引かせて、夕方に遊びに出た。気の進むに任せて、西園の中を歩き回った。
並んで走る小川はともに芙蓉池に流れ注ぎ、その周りをめぐるように、見事な木々が立っている。
(夫婦のように対になっている小川といい、木々の見事さといい、言うことなしだ)
その木々の低い枝は、羽飾りをつけた車のおおいをかすめ、高く伸びた枝は、天まで届くよう。
速い風が、車輪が回るのを助け、飛んでいる鳥が、私の目の前を羽ばたいてゆく。
(風と一つになったようで、気持ちいい)
夕焼けに染まった霞が明るい月を取り巻き、輝く星が雲の切れ目から顔を出した。
頭上空は、地上に美しい色合いを見せる。その色合いは、千変万化して、何と鮮やかなことだろうか。
赤松子や王子喬のような永い寿命を持っていないのに、誰が神仙になることができるだろう。
今のこの時を心地よく楽しみ、自分を保って百年の寿命を終えたいものだ。

31 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 02:09:26.13 .net
写真の夕方の空、実物はもっとずっと綺麗だったんです。
冬の夜空も好きですが、夕方も好きです。夕方は一日の中で一番空の変化が激しい時間です。
沈んでいく夕日を取り巻く雲は、薔薇色とも紫色ともいえない、微妙な色に染まります。
空は、太陽に近い所はピンクに近い色、遠い所は青や藍に近い色になって、
同じ色をしている所がありません。
夕日が山の向こうに消えると、一瞬、山の端から明るい光が漏れて、
その後、すぐに空全体が青に染まり、暗くなります。
この変化は、一瞬ごとに違いがわかるほど早く進んでいきます。
だから、見られるのはすごくラッキーなことで。
時間がある時には、ずっとベランダに立って日が沈むまで眺め続けています。

「丹霞夾明月 華星出雲間

 上天垂光采 五色一何鮮」

この部分って、その時間を全部切り取って描いたものですよね。
刻々と変化する空をひと続きで切り取って表現しています。

丁寧に想像すると、二十文字の中に好きな光景がぎゅっと凝縮されているのが広がって、
なんだか良いです。
それに、見方によっては広がるのはすごく幻想的な風景だったりします。

空には月と星が輝いているのに、それを取り巻く雲霞は夕焼けに染まった薔薇色。
空の色は夕焼けの頃から夜に近い紫色の頃まで、グラデーションになってる。
印象派の絵画みたいです。
空の綺麗な時間の中から良い所を集めた、理想の最高の瞬間です。

曹植の公讌詩の印象は>>7-8ですけど、これは対照的な、ふんわり甘美な雰囲気です。

32 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 02:22:54.37 .net
最後四句だけは、どうしてこういう締め方にしたんだろうって思うんです。
ここまでずっと楽しんで色んなものに目を向けてるのに、心を解き放ってるのに、
ふと現実に戻って心を自分の内心に戻しちゃってる、そう見えます。
個人的に、ですが、曹植の公讌詩に比べて心を抉るようなショックを受けない。
空の描写も、曹植のようにぐっと心をわし掴みにされる感じじゃなく、
あー、綺麗だなあ… ってこっちから眺めていく感じです。
大好きですけどね。

33 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 02:31:26.51 .net
曹ミ・曹鑠を見てるから死にたくねぇなぁってことでしょ

34 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 02:38:28.74 .net
>>33
そうか、そうですよね。
忘れてたけど、曹丕も曹植も戦場を知ってるし、曹丕は特に宛城から脱出してるんでしたっけ。

よく出てくる「良い日は得難い」って表現と根底の気持ちは同じなのかも。
定命だからこそ、いつでも楽しめるわけじゃないからこそ、今を楽しもう、か。

35 :織田茉莉奈:2011/12/16(金) 10:46:04.46 .net
戦場を知らぬ文弱の糞賊どもが何をほざくか!

36 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 01:22:26.13 .net
洛神賦いい
洛神賦図いい

37 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 14:11:44.44 .net
三曹は後世多大なる影響力があるしね。

38 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 16:41:04.80 .net
こんにちは。

>>36
洛神賦と洛神賦図巻、これですね。

動く洛神賦図巻
http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/luoshenfumarquee.html
洛神賦図巻と洛神賦
http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/luoshenfu.html

私もこの作品がとても好きです。
でも、この機会にもう一度じっくり読んでみたいと思いました。
下のリンクの、1〜21までの番号に沿って感想を書いていきたいと思います。
すぐには終わらないと思うので、その間に他の話題とか出しちゃっても大丈夫です。

39 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:01:24.93 .net
わたしはどちらかというと
洛人賦は修飾が過剰すぎて、読むの疲れる派だなあw

40 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:02:56.74 .net
1.

この賦に感情移入できるのって、やっぱり「曹植の体験」として書かれてるからだと思います。
具体的な年号とか、地名を入れて真実味を出していますよね。
これがないと、普通のお伽噺みたいになると思います。
楚辞はそういう感じだったと思います。

儒教のイメージが強い中国ですけど、幻想的な文学はそれこそ古代からたくさんありますよね。
曹植も影響を受けてるだろうし、幻想文学は魏晋南北朝時代に志怪小説として大いに花開くようになります。
母体はきっと楚辞です。
この部分に出てくる「宋玉」は屈原の弟子で、楚辞関係の人だし。

その中で、人と神や仙女は恋愛的な接触をします。
「九歌」の「湘君」とか「湘夫人」とかで、シャーマンが神の降臨を求めるけど降りてきてくれない、なんていうのは
気まぐれな女性に振り回されてる恋する男の姿そのものです。
(ちなみに恋愛的発想は、儒学的文学にも取り入れられて、その場合は臣下が主君を思う描写に使われます)

恋愛的接触の形態は、時代によって異なってきます。
ざっくり言うと、時代が古いほど結ばれず、時代が新しいほど一度結ばれることが多くなります。
古い時代の作品に出てくる神女は、人間の男とくっつきません。
姿を現さなかったり、求愛に応じる振りをして気づくと姿を消してしまっていたり、
そういうのばっかりです。
人と神の住む世界は違う、と考えられていたからかもしれません。

新しい時代になると、道教が興隆します。
人外の世界へのシンパシーがぐっと強まり、仙人へのあこがれが生まれます。
そこで、仙郷に迷い込んで、桃を食べて仙人の力を得るとか、
仙人に出会って修行をして自分も仙人になるだとか、
仙女に出会ってエッチして夢のような時間を過ごすとか、そういう作品が山ほど出てきます。
ただ、ずっと仙境で暮らしました、とはならないことが多いです。
一度帰って、もう一度戻ろうとしてもできなかった、という結末が多いです。
浦島太郎の物語もこの話形です。

曹植の洛神賦で、登場するのは神女ですよね。
そして、曹植は自ら結ばれない結末を選びます。
結ばれなかった甄皇后のことが頭にあったという説は、私もそうだと思います。

41 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:06:14.51 .net
>>39
修飾過剰、わかりますw
事実、私も>>38で「もう一度じっくり読んでみたいと思いました。」って書いたとき、
「よし、やるぞ!」って気合いを入れました。
丁寧に、気長に、気を配って読もうと思いました。
なんか、さらっと読むような作品じゃないですよね。
大好きなんですけど、忙しい時には……という感じではありますよね。

42 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:10:33.13 .net
そうなんですよー。曹植好きがこうじて図書館で
洛神賦の邦文を読んだんだけど、文章長すぎてウボァーとなりましたw

43 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:29:33.94 .net
洛神=甄皇后説はなんというか、曹植独身でもないのに未練たらしいなーと思ったりする。
甄后が結婚したのが204年で死んだのが221年。曹丕と結婚する前に曹植が親父に甄皇后くれー
といったハナシ(信ぴょう性ははてな)を聞いたことがあるけど、それにしても横恋慕期間が長いような。

44 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:35:29.86 .net
その人が死ぬと気持ちが溢れ出すってのはあるかもしらんね

45 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:41:15.28 .net
>>43
それ俺も思った!
でも、妻子がいても初恋?の女性が忘れられないのが三国時代の男なのかな

46 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:46:07.72 .net
曹操 ←初恋とか何だとか気にしなさそうな人w

47 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:46:43.83 .net
曹植の初恋w
wiki調べ(wによると生年が192だから12歳のころかw青いのうww

48 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 17:50:21.01 .net
曹叡の父親は曹丕袁煕でもなく、じつは曹操だったりしてwと無茶苦茶言ってみるw
あのエロおやじなら、十分やりかねない。もちろん甄夫人には口封じをするw

49 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 18:25:48.82 .net
ただでさえ自分が袁氏の子なんじゃないかって悩んだだろうに
そんな説まで加えたら曹叡が可哀相だろ…

50 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 19:09:03.52 .net
卞氏:よちよち。この子はおじいちゃん似でちゅねー。
曹丕:はははは、わたしの血を濃く受け継いだみたいだなw
曹操:( ………。)
甄氏:( ………。)

51 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 19:56:45.94 .net
曹操実子説の判断材料:
・曹操「このいくさは子桓のためにしてやったようなものだな(おれさまも狙っていたのに!)」
・曹操は未亡人に目がない。杜氏(秦朗の母)、尹氏(何晏の母)、鄒氏(張済の嫁)
・曹操はたしか若いころに花嫁泥棒をしたことがある
・曹丕が死の間際まで曹叡を正式な後継者に定めなかったこと。

あとはテレ東の歴史珍説番組なみのトンデモ妄想を重ねていけば論になるかな?

52 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 20:02:20.49 .net
>>51
そもそも曹叡は後継者じゃなかった
母親が皇后じゃなくてただの妾だからな

曹丕が死んだ段階で成年した男子が郭皇后との間になく
繰り上がりで皇帝になったのに過ぎないという状況を無視して
「曹丕が死の間際まで曹叡を正式な後継者に定めなかった」というのは暴論
論拠にならない

53 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 20:02:32.89 .net
あとマンガで悪いんだけど、
蒼天航路で夏侯惇の娘を嫁にクレ言っていたのは元ネタあるんだっけ?

あれが本当なら近親者にも手を出すクセの悪さの証明になるんだがww

54 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 20:40:10.49 .net
マンガだろ

55 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 02:59:24.59 .net
質問です
この時代の文学を研究するための必須事項ってありますか?
これは必ず読めとか
こういう考え方ができなきゃいけないとか
指導教官なんてものもなく、趣味で論文でも書いてみたいんです

56 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 02:33:02.26 .net
>>52
甄氏が妾だというソースが知りたい

57 :56:2011/12/21(水) 02:49:47.87 .net
曹丕没時点で、ということか
すまん

58 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 02:53:29.98 .net
>>56
曹丕の正式な妻、皇后は郭氏
これはしっかりと正史三国志に書いてある

そして、明帝紀には「追諡母甄夫人曰文昭皇后」とあって
甄「夫人」を文昭「皇后」と諡を追加したことがバッチリ書かれてる
追諡されるまでの甄氏はただの夫人
しかも本人の伝を見る限りちゃんとした官位である夫人ではなく
一般的に結婚してる女性という意味の夫人のようだ
(郭氏の場合は貴嬪になったりして出世の経過が見える)

つまり甄氏は妾

59 :56:2011/12/22(木) 00:43:18.61 .net
>>58
詳しくありがとう
ずっと気になっていたことが解決した


と、これだけだとスレチなので何か話題をと思ったが
まだまだ勉強中の身なので何も投下できないわ
ただ、今日は旧暦換算で曹植の命日だよな

60 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 02:46:03.51 .net
こんばんは。
少し間が開いてしまいました。

>>42
しかも、じっくり読んでみると、結構深読みできてしまうんですよね……。
今回、隠喩に着目して解釈してみました。

>>43-47
>洛神=甄皇后説の是非

ちょっと実際にどうなのかを探りたいですね。
今日これから投下する内容も、それを考える一端になればいいんですが。
真面目に考えたので、よかったら放置しないで意見とかもらえると嬉しいです。

>>48-51
>曹操実子説

俺の中の甄氏のイメージが……。

>>52-58
待って、郭氏の立后は甄氏の死後じゃありませんでしたっけ。
確かそうだったと思うんですが、それじゃあ、曹丕はそれまで正妻を誰も置かなかったということですか?
甄氏の前に結婚した誰かが正妻だった、という記述はありましたっけ。
あと、夫人である以上は妾じゃないのでは……。
妾は、公式に結婚してないけど関係のある女の人のことだと思うので。

>>59
今日、曹植の命日だったんですね……。
家にあったお酒を出してきて、曹植のために追悼のお酒を飲むことにしました。
空を見ながら曹植のことを考えます。
文人は死ぬと白玉楼に登るそうです。
曹植も、今いるのかなあ。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 02:47:24.93 .net
http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/luoshenfu.html
2.

ここには、四つの注目すべき点があります。

@具体的な旅の経路が書かれている

曹植は、洛陽から藩国に帰るために、伊闕を後にし、轘轅山を越え、通谷を通り、景山に登ります。
曹植好きとしては、曹植が旅をしている姿が浮かんでいいなと思います。
が、私はここでちょっと突っ込んだ視点を提示してみます。

「人生は旅である」

という隠喩は、文学の世界だけではなく、人間一般に自然に共有されているものだと思います。
生誕は旅の始点。死は到達点です。
曹植が旅の描写をしたのは、もしかしたら死へ至る人生の旅を仄めかしたかったのかも、なんて思いました。


A日がすでに西に傾いている

「一生は一日である」

という隠喩も、広く無意識に理解されているものです。
生誕は夜明け、成熟は正午、老年は黄昏、死は日没、死後は夜です。

@を前提にして話すと、人生という旅の中で、曹植は斜陽、つまり自分自身の衰退期を見たのではないでしょうか。
年齢的には若いですが、実際、40年余りの人生の中では黄昏時ですしね。

車は傷み、馬は疲れている。
これは人生の困難と挫折を思わせます。
ぱっと思いついた具体例が西洋文学で申し訳ないのですが、

「人生の道半ばにして、
わたしは暗い森の中に我を見出した。」(ダンテ『神曲』)

と似たような雰囲気を感じます。
人生の成熟期に及んで、明確な目標やそこへのはっきりした道筋を持たない、迷った状態にあった、
と気づいたということですからね。

62 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 02:51:14.36 .net
B香草、霊芝、柳

どれも、神を思わせる植物です。古代中国の祭祀では、シャーマンは香り草を用いていました。
「楚辞 九歌 東皇太一」でも、「盍将把兮瓊芳(巫女はまた、美わしい芳り草の束を手に取り持って)」とあります。
霊芝は、「巫山の夢」の故事の神女が身を変えていたものです。
柳も、強い陽の気を持つ植物として縁起の良いものです。
この時曹植は、この世ならぬ領域(霊界ではなく、神界)に半ば身を置いていると考えられます。


Cこころは別世界に誘われ、思いは遥か彼方に飛翔していく

これは、漢詩によく使われる表現で、いいな、と私も思っていたんですが、この「心」「思い」とは何でしょうか。
原文では「精」「神」「思」という漢字で表されています。
精神、とは中国人の考え方としては、肉体に宿るものです。つまり、魂です。
思考も、生きている人間のするものですよね。

@ABと併せて考えると、魂や思いが肉体から解放された自由な状態、つまり、死に近い状態に
なっているんじゃないでしょうか。
死はネガティブなイメージが強いですが、

「生は束縛であり、死は解放である」

という考え方もあります。

63 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 02:52:29.54 .net
こうやって見ると、曹植は、気まぐれに降臨した神女と逢ったんじゃないんです。
彼が神女と出会うタイミングは、この時でなければいけなかったんです。
死という到達点に向かう人生の旅の中で、自分の衰えを自覚し、困難と挫折を噛みしめている最中に、
ふと人ならざる世界、神の世界へ足を踏み入れてしまわなければ、会えなかったんです。

だから、蒼天航路で、少年曹植が洛神賦を披露して孔融をやり込めるなんてシーンは、
不適切だったんです。
(蒼天は、前に出た孔融の人物像からみても、間違いが多いですね)

だとすれば、曹植が神女と結ばれなかったのは良かったんです。
結ばれていたら、曹植は命を落とさなければならなかったと思います。
そういう発想があるからこそ、古代中国文学で、人と神は「絶対に結ばれない」ものだったんだと思います。

私が洛神=甄皇后説を支持するのは、「人と神」、つまり結ばれない関係が、「生者と死者」と重なるからなんです。
甄皇后が死んですぐに作られたっていうのは、関係があると思います。

64 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 03:20:07.26 .net
そうだ、大事なことです。

>>59
>まだまだ勉強中の身なので何も投下できないわ

ここは、「知っていることを書く」のではなく、「好きなことを書く」っていうのを
コンセプトにできればいいなと思って立てたんです。
知識を書くんだったら、基礎知識のない私も辛くなってしまうし
本を読めばいいわけだから、スレとしても面白くないじゃないですか。

書いてて面白いスレって、「この詩が好き、どうして好きかってそれは…」って
全部さらけ出せるスレじゃないですか。
で、好きなこと書いてたらスレも盛り上がって、気づきも増えて、
学びは後から付いてくるわけじゃないですか。

だから、何でもどんどん書いてください。
できるだけ沢山の人、話題、作品、視点がスレの肥やしになるから。

65 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 13:15:25.32 .net
>>60
郭氏は貴嬪として甄氏生前から正式な妻の地位を得てるよ
正妻はこっち

妾ってのは現代日本だと結婚をしてない存在というイメージが強いけど
三国時代は本妻、側妾を区別せず全部後宮などに入れて夫人としてる
皇帝や王侯の場合、妻の後宮での地位を見て判断しないとダメだね
現代日本とはそもそも結婚システムが違うんでね

そうして見た場合、甄氏は女性としての地位を認められてないただの妾
郭氏は女性として正式な地位である貴嬪として、曹丕が魏王になった時に認められてる
(それ以前の曹丕にはそもそもそういう地位を女性に与える権限がない)
ここで甄氏がこの郭氏の地位向上に対して文句を言ったことが
賜死の原因の一つと正史三国志では述べられてるな
立后が甄氏の死後なのは単純に曹丕が皇帝となって
皇后を立てられる地位になるのが甄氏の死後だから

曹叡による名誉回復運動があったからこそ、我々は甄氏を「皇后」として認識し
曹丕という癇癪持ちの気紛れに殺された悲劇の女性として認識してしまうが
妾が分をわきまえず他の女性が正式な妻としての地位を得たことに対して
宮中人事に口出しをするという時点で、処刑されても当然の行いをしてるんだよ

66 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 16:51:45.05 .net
>>61-63

この作品を「死という到達点に向かう人生の旅」というように解釈するのは
素晴らしい発想だと思います。
ひょっとしたら曹植が洛神賦を着想した時、彼の中で
自殺願望的な何かが渦巻いている精神状態だったのではないでしょうか。
しかし、「やはりまだ自分は死ぬべきではない」という思いが強くなって
女神は曹植に別れを告げて去って行くという筋書きになったのではないかと思うのです。
そう解釈すると、女神は「あなたはまだ生きている。自ら死を選んではならない」と
曹植を諭してくれた命の恩人だったのかなと思います。


自分も過去の文学スレにリアルタイムで参加できませんでした。
復活させてくれたスレ主さんに感謝です!

67 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 22:06:14.67 .net
>>55
誰かに教えられるほど、知識ある人間ではないんだけど、応援したい。
先行研究の参考文献を片っ端から当たるのは論文の基本かとおもわれる。
役に立たなくてスマヌ。

68 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 23:04:40.77 .net
>>67
ありがとう
先攻研究って研究書とかでいいのかな
それなら図書館行けばいいか
論文はどこをどうやって探せば見つかるんだろ

69 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 00:26:10.87 .net
論文ならここで探すと便利よ。建安文学の論文もあって勉強になりますw
http://ci.nii.ac.jp/
CiNiiに本文ありをクリックすればPDFファイルで読める。

PDFない論文がほしい場合は、近所の一般公開している大学図書館に潜入してみるのも手。


70 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 02:44:41.24 .net
>>69
>>68じゃないがありがとう
良いサイトを知った

うむむ、だが読んでて反感というか、そうじゃないだろうと思うのが多いな
かといってどう違うのか上手く説明できないんだがorz

71 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:24:14.52 .net
人文系の学問なんて論拠さえしっかりしてればある程度言ったもん勝ち
論拠さえあるならいくらでも反論していいし
逆言うと論拠なければどんなに荒唐無稽なこと言われても黙るしかない

まあ違和感あるなら、しっかり言語化して批判する材料探して
論理立てて反論してくといいと思うよ

72 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 20:20:28.72 .net
こんばんは。

>>65
詳しいご説明、ありがとうございます。「後宮佳麗三千人」重きも軽きもみんな「夫人」なんですね。
甄氏としては、自分の方が先に嫁いでいるし、家も代々二千石の名家なので、
恨み言を言う気持ちもわかります。
彼女の生涯が、苦労続きだったことを考えると、どうしても同情してしまいます。
当時、儚いのは本当に女性の身ですね。

曹叡のことも調べてみました。曹丕生前、諸侯として封建されているのは、やはり後継者から外されていた
証拠とみなしてよさそうですね。
魏の諸侯王はみんな藩国に赴任しなければいけなかったと思うので、
曹叡も都を出ていたでしょうし。
即位まで公の場に出なかったというのも、そのあたりが理由でしょう。

曹叡の心境はどんなものだったでしょうか。曹叡は206年の生まれだといいます。
生母を失ったのは15、6歳の時です。
このあたりで、確か狩りの鹿のエピソードがあるんでしたっけ。
多感な時期、史書にあるような理由で生母を殺された息子は、たぶん用心深さを習得しようとするでしょうね。
長子でありながら、嫡子ではなく、都を離れなければならない境遇に置かれても、
不満を見せて不興を買うことはしなかったでしょう。
そしてその後の数年は忍従の数年間だったと思います。
曹叡の英邁な資質はそのたまものだったのかもしれません。
始皇帝と漢の武帝の風があるというのは、境遇も併せて言われたことかもしれません。

73 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 20:40:18.20 .net
>>66
素晴らしい発想だと言っていただき、ありがとうございます。
これから洛神賦を読んでいく、励みになります。

74 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 23:00:10.03 .net
傍論ですが、『酉陽雑爼』にある『妬婦津』の記事に洛神賦が登場するのでご紹介。

==
臨清に妬婦津(とふしん)がある。伝説によると、晋の大始年間(265〜275)のとき
劉伯玉の妻、段氏は字を明光といい、嫉妬心が強かった。
伯玉は曹植の『洛神の賦』を愛誦して、その妻に語った。
「こういう女を妻にできたなら、心残りはないね」
ところが明光は
「あなたはよくも水神が美しいからといってわたしを馬鹿になさいましたわね。わたしは死にます。
 きっと水神になってみせるから。」 と言って、その夜、河に身投げをして死んだ。
それから七日目の夜に、彼女は伯玉の夢にあらわれた。
「あなたは神をご所望でしたね、わたしは今、神になりました」
伯玉ははっと眼が醒めた。それからは一生涯、河川を渡ろうとはしなかった。
以来、その河は妬婦津と呼ばれるようになった。
ここを渡る婦人たちは、皆、衣裳をつくろわず、化粧を剥がして渡った。
美服美粧して渡ると、神が嫉妬してたちまち風波を起こすからである。(後略)

いかにもなつくり話っぽさがありますが、洛神賦が引き合いに出されるあたりに
曹植の詩聖としての評価を感じざるをえませんw
でも曹植の洛神への修辞麗句はやっぱり、過剰だと思います。
それこそ、段明光がヒステリーを起こして身投げしてしまうくらいにw
(ついでにかつてつくった妬婦津ネタ)
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1298380310/225-238
他にもこれと似たような言い伝えに「妬女泉」というのがあって、
これも、婦人が美服美粧をして渡ろうとすると、嫉妬した神が
大雨を降らせて、必ず稲妻を光らせるらしいですw(泉の場所は董卓の塁の近く)


75 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 10:15:27.33 .net
>>74
『酉陽雑爼』の話、初めて知りました。ありがとう。

でもこの話に甄氏のことは出てこないんですね。
段氏は河に身投げして死んだっていうから、本来の宓妃を意識して行動しているようにみえます。
つまり、晋の大始年間には、洛神=甄皇后説はあまり認知されていなかった?
 ↓
洛神=甄皇后説は、残念ながらあとから作られた話の可能性が高いのではないかと思いました。

76 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 14:11:38.70 .net
三国時代の2ちゃんねらーのスレか
まあ確かに2ちゃんねらーと魏晋の文人どもとは感性が合いそうだな
発想も似てるし

77 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 14:13:21.79 .net
三国時代の文学スレは腐臭と患者臭がするのは何でなんだろうな

78 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 14:23:12.58 .net
>>76
2ちゃんねらー→匿名掲示板で何かを叩いて優越感に浸りたがる
文人→政治の担い手

全然違う

79 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 14:34:17.78 .net
お前らの大好きな二つを掛け合わせてやったのに否定しやがるのかw
時代の中心者ぶってる所が似てるだろw
ひろゆきは曹操だな
早くひろゆき様に御子息が生まれるといいなw
曹否や曹植と比較できるし讃えられるからなw

80 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 21:47:43.70 .net
>>77
曹操が醸造酒の発明者とか言い出さなけりゃ別にどうでもいい

81 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 22:39:12.78 .net
>>75
『妬婦津』では、洛水で溺死した宓妃と河に身投げした段氏が対になっているんですよね。
わかりますwでも、甄氏についての言及がなにもないのは、
つくり話のなかで、特に登場させる必要性がなかっただけなんじゃないのかな〜という気がw

>つまり、晋の大始年間には、洛神=甄皇后説はあまり認知されていなかった?

どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注でそういう説を唱えているらしいのですが(658年頃)。
でも誰がなんのために、李善注の引く『感甄記』なる物語で曹植と甄夫人を両思いにしたんだろう…。
そもそも、曹植が甄夫人に横恋慕をしていたと最初に言い出したのは誰? 『感甄記』ていつ成立したんだろう?という疑問も。
皇室ゴシップ記事が大好きな正史裴松之注でさえ、曹植と甄夫人のチョメチョメに関しては、一言も拾い上げていない…(見落としがなければ)。
神霊記事も大好きな裴松之(372-451)なら、甄夫人の霊が枕を介して曹植の夢に現れたというホラー話を
真っ先に取り上げてくれるような…。誰も聞いていないのに、『明帝、袁煕の息子説』を否定してくれるような裴松之が
曹植と甄夫人の関係に触れていないのは信ぴょう性が全くないと判断したから?それとも裴松之の時代には『洛神=甄皇后説』が
生まれていなかったからなのか?(謎)
でも、曹植の漢詩を全部、正史の注にのっけてくれるようなハッスルする人でもないから、裴松之至上主義に走るのもどうかとは思うんだよねw

東晋以降、異民族に中国の北半分を取られてしまったのを契機に高まった蜀漢正統論も気になる。
曹植、甄夫人は、「後漢を滅ぼした大逆賊」の曹丕に迫害されて悲劇の死を迎えたから、徐々に「判官贔屓」が芽生えていった?
でも、曹植は既に文人としての声望は集めていたはずだから、関係ないのかなw

あと歴史ロマン的に気になるのは、曹植の「感婚賦」と「洛神賦」、モデルは同じだったりするのかな〜、ということ。

82 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 22:42:47.50 .net
全然、違う意味になっていたので訂正。
× どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注でそういう説を唱えているらしいのですが(658年頃)。
● どうなんでしょう(謎)。李善という人が、文選の注で洛神=甄皇后説を唱えているらしいのですが(658年頃)。

83 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 22:59:22.64 .net
おまけ。
AA板でみつけた洛神賦の二次創作のご紹介。
現代劇になっているけど、洛神賦のかみくだきかたが実にみごとで、
元ネタを知っている側としてはニヤニヤになりましたw
http://www.toofectarts.com/videoshelf/bcd/2007/allofcstory17/034.htm @
http://www.toofectarts.com/videoshelf/bcd/2007/allofcstory17/036.htm A
http://unkar.org/r/aastory/1188994502 BC
AA厨以外はあんまり、興味わかないですよね、うん。

84 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 13:52:10.13 .net
こんにちは。

>>74
『酉陽雑爼』の話、ありがとうございます。AAスレも拝見しました。こんな良いスレがあったのか……。
うーん、こんなAAネタが作れるなんて、すごい。実は私はAA厨でして。綺麗なAAを集めたり、
「やる夫」の歴史ものを色々読んだりしていて。
女神=曹丕説は、曹植の忠孝に篤さを強調したい、という意図が見えますね。

ところで、妬婦津の話、知らないはずなのにどこかで聞いたことがある気がしたんですが、
以前、岡本綺堂の『中国怪奇小説集』を借りて読んだときに、中に入っていたのでした。
この怪奇小説集、「六朝・唐・五代・宋・金・元・明・清の小説筆記の類から二百二十種の怪奇談を抄出した」ものです。
不勉強にして、それぞれの原典を読んでいないので完全体の知識はないのですが、
二百二十読むだけでも、中国の怪奇小説って面白いなあ、それに、三国志ってやっぱり人気なんだな、
と感じたことがあります。
今読み返したら、紹介してくださった『酉陽雑爼』にも、妬婦津の話以外に

・墓荒らしを呪う劉備の霊
・阮籍の絵
・若い才人に恋して殺す呉質の娘の霊

の話が出てきました。
青空文庫で読めるので、私もご紹介します。

凡例 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/33217_11889.html
開会の辞 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/33218_11890.html
捜神記(六朝) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1298_11892.html
捜神後記(六朝) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2235_11894.html
酉陽雑爼(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1299_11895.html
宣室志(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1300_11896.html
白猿伝・其他(唐) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_11897.html
録異記(五代) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1302_11898.html
稽神録(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2236_11899.html
夷堅志(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2237_11900.html
異聞総録・其他(宋) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.html
続夷堅志・其他(金・元) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2239_11902.html
輟耕録(明) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2240_11903.html
剪灯新話(明) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2241_11904.html
池北偶談(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2242_11907.html
子不語(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2243_11908.html
閲微草堂筆記(清) http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1303_12030.html

85 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 13:59:40.89 .net
妬婦津の話に出てくる、地名の臨清を調べたら、昔の魏郡にあたるそうです。
そしたら段明光が身を投げたのは清河かも。
この地は時代が下っても隋の大運河が通って、水に関わる街だったので、
こういう話ができたのかもしれませんね。

「よい嫁を貰おうと思ったら、妬婦津の渡し場に立っていろ。渡る女のよいか醜いかは自然にわかる」

これってなんか面白いw

>いかにもなつくり話っぽさがありますが、洛神賦が引き合いに出されるあたりに
>曹植の詩聖としての評価を感じざるをえませんw
>でも曹植の洛神への修辞麗句はやっぱり、過剰だと思います。
>それこそ、段明光がヒステリーを起こして身投げしてしまうくらいにw

確かにw一つ言えることは、この劉伯玉は想像(妄想?)を爆発させることのできた人みたいですねw
これでもか、これでもかと詰め込まれた装飾を全部イメージしてたんですかね。
それで妄想で頭がいっぱいになって、出てくる話題といえばそれで、近くにいる奥さんに吐き出す……とまあ、
はた迷惑な感じかもしれませんw
自分の奥さんの性格ぐらい知ってただろうになあ。
私が伯玉なら、美人を形容する文章が好きなら、段明光を題材に装飾を凝らした文を作ってみるんだけど。
装飾系男子。

そういえば、同じような装飾過剰な文章といえば、こんなの思い出しました。

「さてこの妖精の現身なる乙女は、月をも凌ぐ美しさでございます。
ヴェールの下に冠をいただき、新月のように夜に映え、黒い瞳は闇の底にある生命の水さながら。
なよやかな姿は白銀の棗の木、その木の頂で二人の黒人(下げ髪)が棗を摘んでおります。
この甘き唇の女人ーー棗の実さながらの彼女を思い出すだけで口には甘いつゆが満ちるほど。
まばゆく輝く彼女の歯は真珠とも紛うばかり。その鮮かさは真珠貝を遥かに凌駕しますが、
この歯をくるみこむ唇は艶やかな紅玉髄の色をしております。
両の捲髪はさながら円を描く輪縄で、それが、人という人の心を惹きつけます。
緑なす黒髪は、バラの頬にうちかかり、捲髪から立ち上る芳香に、その水仙の瞳は夢見るように悩ましげ。
彼女の眼は魔術師をも邪視をも呪文で封じてしまいましょう。
蜜のように甘い百の言葉を秘めているのか、彼女の唇は、魔術で人々の胸の火をさらに燃え立たせますが、
爽やかに微笑むときの唇もまた魅力的で、塩は甘くないのに彼女の塩(魅力)は甘美なのです。」

(ニザーミー『ホスローとシーリーン』)

(ちなみに、このシーリーンは「かなり」気の強い女性です)
(最後の一文は、訳だとよく意味がわかりませんが、原音だと言葉遊びになってるみたいです)

86 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 14:41:02.33 .net

>>81

>でも誰がなんのために、李善注の引く『感甄記』なる物語で曹植と甄夫人を両思いにしたんだろう…。

これは永遠の謎ですね〜
曹植と甄夫人、最初に「二人をくっつけよう!」と思いついた人は大発見だと思います。
でも、これは別の人でも置き換え可能ですよね。
例えば、曹彰と甄夫人をくっつけたり、明帝は曹操の子だ!なんて妄想する方もいらっしゃいますし。
みんな甄夫人の貞操を何だと思っているのかwww

>あと歴史ロマン的に気になるのは、曹植の「感婚賦」と「洛神賦」、モデルは同じだったりするのかな〜、ということ。

「感婚賦」も思わせぶりな作品です。
これも見方によっては、甄夫人のことを想っているように見えてしまうw
個人的には、「感婚賦」の「これから妻を娶る」という状況は、
自分が成人してこれから社会に出ていく状況と重ね合わせていて、
その不安な気持ちを象徴的に表現しているのかなあと思います。
曹植は比喩表現を好む人なので、あまりストレートに自分の状況を描かないのではないかと思います。

でも、もしモデルを想定するなら、「感婚賦」の場合、曹植と曹丕がともに欲しがった邯鄲淳なんて如何でしょう?
曹操に「感婚賦」を示して、「僕はこんなに邯鄲淳先生のことを思っているので、ぜひ僕に下さい」と説得してたら面白いw

87 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 14:42:32.52 .net
>>75>>81-83
その謎、知りたいなあ。
多分、「曹植が甄氏に横恋慕していた」という説がそもそもの元凶じゃないかと思います。
それがなければ、洛神賦の女神のモデルが甄皇后なんて言われませんよね。
普通に楚辞とかの影響を受けているか、曹丕のことだって言われるだけじゃないかなあ。

李善以前に成立したと(思われる)『感甄記』にせよ、その説がなければ作られないと思います。
推測ですが、きっと作者の心境には曹植への同情があったと思うんです。
曹植に少しは救いを、と。
救いの手段として、曹植が恋い焦がれた甄皇后と結ばれるようにしてあげよう、と。
「曹植が甄氏を好きだった」という説がなければ、ただの曹丕への嫌がらせにしかなりませんよね。

曹植と甄氏を結ぶあらゆるエピソードや説は、上記の説が潜在的に醸成され、共有されていた中で
生まれたものなんでしょうね。

>そもそも、曹植が甄夫人に横恋慕をしていたと最初に言い出したのは誰?

これが一番核になる謎だと思います。

東晋以降の蜀漢正当論は、晋は魏の後を継いだ以上は、魏を正当と見なさなければならなかったけれども、
同時に魏の非も主張しなければ禅譲を迫った理由が立たないということなのかな。
蜀漢正当論は、裏を返せば曹丕批判だから、曹植正当論が同じように勃興してもおかしくない。
文人としての声望はむしろ判官贔屓の理由だと思います。
才能がありながら、迫害された、というのが判官贔屓されるポイントだから……。

感婚賦、知らなかったのでぐぐってみました。
http://sikaban.web.fc2.com/kankon.htm
http://www23.atwiki.jp/3000aa/pages/91.html
出てきました。

なんか思春期っぽくていいなw
そういえば、この時代の詩賦って、帰らぬ夫を待つ妻に仮託したものは溢れてるけど
未婚の男が(神とかじゃない)未婚の女に叶わぬ恋をするのは珍しい気がします。
私が知らないだけかな。

88 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 14:46:04.56 .net
>>83
これ、私は好きでした。青い鳥みたいな、幸せは実は近くにあった、みたいな終わり方がほのぼのします。

89 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/27(火) 14:53:21.39 .net
>>86
>感婚賦

なるほど!
>>87で疑問を書いたけど、

>「これから社会に出て行くことへの不安」
>「邯鄲淳が欲しい気持ち」
>「曹植は比喩表現を好む人なので、あまりストレートに自分の状況を描かないのでは」

と考えると、納得できます。

90 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/29(木) 02:29:40.65 .net
>>86
感婚賦が「邯鄲淳が欲しい気持ち」という考え方は好きだな
それを読んだ曹操が「そうかそうか!」と
笑いながら頷いている姿を想像してしまうw

91 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/11(水) 09:23:41.83 .net
復活。

92 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 00:18:47.99 .net
復活オメ。
歴ゲ板で細細やってた身としちゃ、このスレがあると嬉しいんで続けて欲しく

93 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/15(日) 09:44:41.61 .net
止まってるみたいなんで、話題投擲
お題は「応援合戦」。この時代、戦のときに、太鼓や笛を鳴らして、兵に歌わせた軍歌
楽府詩集にも、魏、呉、晋の鼓吹曲が掲載されていますな
本文は台湾の中央研究院でも見ていただくとして、まず各題だけ並べます

(以下、台湾楽府詩集から。誤引用あったらスマソ)
・魏鼓吹曲 曹操が、漢の鼓吹曲をベースに、繆襲に作らせたもの
《楚之平》、《戦栄陽》、《獲呂布》、《克官渡》、《舊邦》、《定武功》、《屠柳城》、《平南荊》、《平關中》、《應帝期》、《*熙》、《太和》
(*=蔡文姫の父の名前「ヨウ」の字)

・呉鼓吹曲 韋昭に作らせたもの。同じく漢の鼓吹曲がベース
《炎精缺》、《漢之季》、《*武師》、《伐烏林》、《秋風》、《克皖城》、《關背コ》、《通荊門》、《章洪コ》、《従暦數》、《承天命》、《玄化》
*てへん+慮。チョと読み、発表するの意

・晋鼓吹曲 魏の鼓吹曲をベースに、司馬炎が傅玄に作らせたもの
《霊之祥》、《宣受命》、《征遼東》、《宣輔政》、《時運多難》、《景龍飛》、《平玉衡》、《文皇統百揆》、《因時運》、《惟庸蜀》、《天序》
《大晉承運期》、《金霊運》、《於穆我皇》、《仲春振旅》、《夏苗田》、《仲秋*田》、《順天道》、《唐堯》、《玄雲》、《伯益》、《釣竿》
*けものへん+爾

 内容はいずれも君主自慢ですが、正直、こんな歌が流れる戦場を想像しますと、
「うちの君主様はこんなに凄いんだどー!」
「嘘こくでねぇ、お前んとこの君主なんて○×$%#、うちの君主様はもっと凄いやーぃ!」
みたいなノリにしか見えません。

 ちなみにこの時期は、他にも朝廷が郊外で神々を祭るときに歌われる郊祀歌、舞の伴奏である舞曲歌など、「歌」と共にあった時代でもありますね。
 舞曲歌は、魏では、曹操の命で王サンが作ってますか、あと曹植もだったかな。
 晋代には曹操の歩出夏門行が、碣石舞として編纂されなおし、晋楽所奏として歌われています。

 まぁ当時の文学は、現代のマスコミ代わりといいますか、「情報戦の発露」としての一面もあるんでしょうな。
 調べると調べるほど、奥が深いもんだと思います。

94 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/15(日) 19:42:25.08 .net
>>93
魏鼓吹曲と呉鼓吹曲の詩の部分を以前読んだことがあります。
魏は曹操と歴戦の勇士の名シーンが主体、
呉は孫権と歴戦の勇士の名シーンおよび孫堅の名シーンを扱っているのですが、
孫策の活躍を扱ったものが一切無いあたりに、
孫策に対する江東名士の感情への配慮のような物が見えるような気がするのですが。

95 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 21:05:31.74 .net
>>94
 おっしゃるとおりです。
 ただそれだけではなく、孫策に関する名士への配慮というだけでなく、孫策ではなく、孫権こそが孫堅の正当な後継者である、という意思の表れ、と見るのは穿ちすぎでしょうかね?

 鼓吹曲は、都合のいいものだけ扱い、都合の悪いところは無視するために、国の内情というものが透けて見えます。
 楽府詩集に、蜀の鼓吹曲がないのはなぜか?
 この板の方なら大体お分かりかと思いますが、漢の後継である蜀で、鼓吹曲がなかったということは考えられない。
 後の晋書以降で現れる音楽の項が、三国志にはなかったことから、陳寿が何らかの理由で鼓吹曲を残さなかった、もしくは残せなかった可能性もあります。
 なぜかは無学なので判りませんが、諸葛亮が資料を残さなかった可能性。漢代の鼓吹曲をそのまま使用していた可能性が考えられます。

 また、魏の鼓吹曲をちょいと見てみましょうか。量が多いので、訳というには投げやりです。

1、楚之平
「初之平」とも言う。《晉書?樂志》によると、「漢の《朱鷺》をベースにしたもの」
 義兵が世を平定せんと、金鼓を鳴らし武を振るう。武帝の示す道を往けよ、名を轟かせよ。
漢の気は尽き、社稷は傾く。皇帝は道を失い、桓帝や霊帝を出す。宦官は世を乱し、群雄争う。
辺章と韓遂が蜂起し、金城の地は乱れる。中国は騒擾し、古の聖なる教えは忘れられた。
武皇赫き,旗旌を起てる。天下なびき,天下は平らか。九州済りて,九州安寧となる。
武功を作りて,武功成る。いにしえ五帝を超え、三王をもとおく。礼楽おこりて,紀綱定まる。
あまねく日月,輝光を行き渡らせる。

2、戦?陽
「漢の《思悲翁》をベースにしたものである、曹公言うものなり」
戦うは?陽、?水の堤。兵士らは憤怒し、甲を身につけ馳せり。陣いまだ成らず、徐?の地に退いた。
二万騎ありて、堀を壁を平らにするも。軍馬傷つき、六軍驚き慌て、軍勢集わず、隊列は幾度となく傾く。
白日沒して、時は晦冥、中牟の地を顧み,心は營に息をひそめる。同盟を疑い、計は未だ成らず。
我らが武皇に頼って、萬國を寧す。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 21:09:24.58 .net
3、獲呂布
「漢の《艾如張》をベースにしたものである、曹公、呂布を生きて捕らえたるなり」。
呂布獲った、陳宮斬った、大悪人の首を草のように刈った。天下統一して、掌中に運ぶ。

4、克官渡
「漢の《上之回》をベースにした、曹公、袁紹と戦い、官渡の地でこれを破る」。
 袁紹を官渡に破る、白馬を由とす。屍は硬直し血は流れ原野をおおう。賊はむれること犬羊のごとし、王師は尚寡(すく)なし。
 黄砂は丘のごとく積もり、風に飛び揚がる。転戦すれば不利で、士卒は傷つく。今日勝たずんば、後に何を望む。
 袁紹軍の掘った土山地道、われ等を破ることはできず。ついには勝って勢いを駆り、冀州を震わせ。城をほふり邑を破る,神武は遂に章らかならん。

 まぁこの後も続くんですが、見てのとおり、三国志演技やゲームでは、物語の始まりを示す黄巾の乱や、青州兵が出てきません。
 うたう人である名士への配慮か、それとも黄巾賊や青州兵が、魏が禅譲を受けた後も少なからぬ影を落としていたのか。当時と後世の視点の違いによるものなのか。
 いずれにせよ、このへんの重点の置き方というのは、考えさせられるものがあります。

97 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 21:11:14.92 .net
っと、文字化けが多いけど、そこは勘弁。
あと、歌うのは名士とは限りませんので、そこは訂正しときます。

98 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/18(水) 19:08:24.42 .net
再度復活

99 :ジャイアニズム:2012/01/18(水) 22:39:14.49 .net
お前らいい加減にせい!
乱世に文学など無用じゃ!
そんなことより富国強兵に努めよ!

文章は傾国の怠業じゃ!

100 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/18(水) 23:27:58.77 .net
項羽さん乙

101 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/20(金) 23:10:05.69 .net
途中までというのも気分が悪いので、人を気にせず投げ槍する。間違っても気にしない。

2、戦栄陽
追加:長安遷都の際に董卓を追撃し、徐栄に敗北したときの話。

5、舊邦
古き国は寂しく静かに、心傷つき悲しみ。孤独な魂彷徨いて、またいずこに依るのか。遊士は故を恋し、涙は砕くが如し。
兵は起ち戦に対し,命令と願いを違え。親戚に伝え求む、在りし者は誰ぞ。廟を立て後に置き,魂は帰り来る。

6、定武功
武功を定めんと、黄河を渡る。河水は湯湯、旦つ暮れればに流波あり。
袁氏は衰を欲するも,兄弟は干戈を尋ねる(戦を求める)。
ゆえに?水を決(決壊)させれば、水は滂沱と流れ、ああ城中は魚の流るるが如し、誰(た)ぞ能(よ)くまた室家を顧みんか。
計は窮(つ)き慮は盡(つ)き,連和を求め来る。
されど和する時にあらず,心中憂(うれ)い戚(かな)しむ。賊衆内潰し,君臣は北に奔る。
ギョウ城を抜き,魏國を所有す。王業の艱難なること,古今を観覧すれば,長嘆するべし。

7、屠柳城
柳城を屠り,功誠は難し。隴塞を越えしとき,路は漫漫たり。北は岡平を越え,但悲風正酸たるを聞く。
?頓の首を授け,遂には白狼山に登る。神武海外を不動のものとして,永く北に患を顧みることなからん。

8、平南荊
南荊の何ぞ遼遼たる,江漢は濁りて清まず。菁茅は久しく貢がず,王師は赫く南征す。劉jは襄陽に拠り,賊たる劉備は樊城に駐屯す。
六軍は新野を廬(いおり)とす,金鼓は天庭を震わせ。劉子面縛して至らしむ,武皇其の成を許す。
許して與其は成り,其の民を撫す。
陶陶たる江漢の間,普ねく大魏臣となす。大魏臣,風に向かいて思うところ新たなり。
自ずと新と思えば,功のとどくこと古人にひとし。
昔虞(帝舜)與唐(帝堯)あり,大魏の得ること與に均し。
多く忠義の士を選び,喉唇と為す。天下は一定し,万世までも風塵無し。

9、平関中
関中を平し,路を潼関に向かう。濁水を渡り,高山に起つ。●韓、馬,群凶を離れ。驍騎を選びて,両翼をたてれば,虜は崩潰し,挙げた級は万億たり。

10、應帝期
帝期に應し,於いて昭らかなり我が文皇,暦を數き天序を継承す,龍は自ずと許昌を飛び。聰明なること四表に昭かなり,恩コは遐方を動じ。
星辰は垂耀となり,日月為に光を重ねる。河、洛は符瑞を吐き,草木は嘉祥を挺す。麒麟は郊野を歩き,黄龍は津梁に遊ぶ。
白虎は山林に依り,鳳皇は高岡に鳴く。考圖は篇籍を定め,功配は上古羲皇。羲皇に遺文無し,仁聖相因りて循り。
期運三千歳,一生聖明君。堯は舜に萬國を授け,萬國は皆附き親しむ。四門は穆穆と為り,教化すること常に神の如し。
大魏は興盛し,與之鄰と成す。

102 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/20(金) 23:15:41.39 .net
11、*熙
和して光行き渡り,君臣コを念じ,天下治まる。帝道を登れば,瑞寶を獲る,頌聲並びて作りなし,洋洋浩浩たり。
吉日高堂に臨みて,置酒して名倡ならぶ。歌聲一に何ぞ紆余たる,笙簧いりまじる。八音諧に、紀綱有り。
子孫永く万國を建て,壽考(長寿)樂しむに央(おわり)無し。

12、太和
惟太和元年,皇帝を践祚す,聖にして且つ仁,コの澤は流布と為る。災蝗は一時絶息し,上天時に雨露を降らす。
五穀は田疇に溢れ,四民相率いて軌度に従う。その事務は信にして清、天下の獄訟を情を以って察す。
元首明,魏家此の如し,どうして太平にならないものか。

まとめサイトに司馬懿の漢詩がありますが、10と同じ文句が出てきますな。
後はまぁ、やっぱ民への哀れみも、自分とこの敗北も書いているわりに、黄巾関係が出てこない事に違和感。
呉が出てこないだけになおさら。

103 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/21(土) 21:18:38.31 .net
長くスレを放置してしまって、すみませんでした。
昨日、北京の故宮博物院展を観に上野に行ってきました。
南宋の皇族で元に仕えた、趙孟頫の筆の洛神賦がありました。
本当はじっくり一字一字を追いたかったのですが、後ろから「早く行けよ」みたいなプレッシャーをかけられて
断念しました。
すごく混雑していて、何度ぶつかられ、押されたことか!
平日だし寒い雪の日だったのに。
二月末に台湾に行って来るので、そっちの故宮博物院にも行き、
このスレで出せそうな話題を探してきます!

>>93
すごく興味ぶかい話題、ありがとうございます。
新版のドラマ三国演義を観ていて、戦のときに「ホウ! ホウ! ホウ!」「(太鼓)ドン、ドン、ドンドンドン!」
とやっているのが印象的でしたが、実際には歌も歌っていたんですね。
紹介していただいたタイトルや本文を見ると、これって、物語で開戦前に将帥が陣頭に出て自国の正当性を主張したのの
元ネタなのかな? と思いました。
「歌と共にあった」のは、やっぱり、歌は人の口に歌われて歌い継がれていくものだし、
文字を書けない民衆の歌が、歌われてからずっと後に本にまとめられているのを見ても
「どれだけ残るものなのか」がわかるし、
政事や祭祀などに活用するにはもってこいだからでしょうね。
近代ヨーロッパでも、ラ・マルセイエーズだとかファシズム国家の軍歌とかありますが、
中国は遙か昔にそれをやっていたのがすごいですね。

ただ、いつも思います。
どうして当時の中国人は歌詞を記録しながら、メロディーを記録することはなかったんでしょうか。
音の配列から、どう歌われていたのかを類推する、ということは今されていると思いますが、
結局答えはわからず、楽府も、韻文として鑑賞するしかないじゃないですか。
楽譜という発想がなかったんでしょうか?


魏の鼓吹曲ありがとうございます。
確かに、黄巾の乱がないのは不思議です。
前王朝の衰微と曹操の華々しい登場を一度に書けて一石二鳥だと思うんですけどね。
辺章、韓遂の乱を書くなら、なおさら黄巾の乱のほうがインパクトがあるのに…
それに比べて、河北平定にはかなり重点が置かれていますね。

歌い方として、「楚之平」、「克官渡」、「應帝期」なんかはすごく勇ましく歌われ、
「舊邦」はあえて兵の悲憤を煽るために余情・悲哀たっぷりに歌われたんじゃないかと想像します。

104 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/23(月) 19:11:33.16 .net
>北京の故宮博物院展を観に上野に行ってきました。
雪の中お疲れ様でした。上野は中身はいいんだけど、混むのが大変ですな。

>二月末に台湾に行って来るので、そっちの故宮博物院にも行き、
いいなー、暖かい島で、ぜひともリアリティ溢れる白菜の彫像をご覧くださいw

>>93
>新版のドラマ三国演義を観ていて、戦のときに「ホウ! ホウ! ホウ!」「(太鼓)ドン、ドン、ドンドンドン!」
>とやっているのが印象的でしたが、実際には歌も歌っていたんですね。

 んー、三国演義を見たことがないので、具体的にどういうシーンか判りませんが。

 ちょいと気になって調べなおしました、楽府詩集鼓吹曲の項から抜粋
「漢楽四品,其四曰短簫鐃歌,軍楽也。黄帝岐伯所作,以建威揚コ、風敵勤士也」
「師(軍隊)功あり、則ト楽を献ずる、社において」
「又孫権は魏武軍を観て、鼓吹を作り而るに還る、此応是れ今の鼓吹曲。
 魏、晉の世、又假諸将帥及び牙門曲蓋鼓吹す,斯則、其時方謂之鼓吹とした」
「漢大駕祠甘泉、汾陰,備千乗萬騎,有黄門前後部鼓吹」
「班超拝長史,假鼓吹麾幢」
「魏、晋之世,鼓吹を給すること甚だ軽く,牙門督将五校悉く鼓吹あり」
「馬上奏樂之意」

 軍楽であるのは間違いない、戦場というか出先(城、砦、陣地)で奏でるのは推測できる。
 孫権が曹操軍を見て鼓吹を作ったのは、単に鼓吹のネタが出来ただけではなく、おそらく曹操軍が鼓吹を奏でていたからでしょう。
 >>103がおっしゃる名乗りの一種、というのはありかもしれません。
 漢代、皇帝や王の軍、上位のものにだけ同行していた鼓吹隊が、魏、晋代になって、より多くの牙門、督将の軍にも同行するようになったと。

 実際に戦中どこまで歌われたか判りませんが、部隊が門から出て行くとき、門で楽人が鼓吹曲を奏で、歌って鼓舞したというのはありかと思われます。

105 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/23(月) 19:40:30.42 .net
>どうして当時の中国人は歌詞を記録しながら、メロディーを記録することはなかったんでしょうか。

 これも言わんとするところが、ちょっと判らないので、知っている内容を挙げてみます。

 まず、最古の楽譜例としては、礼記投壷篇に太鼓のリズムがあるので、楽譜という発想はあったと思われます。
 現存する世界最古の文字譜があるのは日本とされています。東京国立博物館所蔵の国宝琴楽譜「碣石調幽蘭第五」ですね。
「中指を耶臥(斜めに伏)せて●上半寸許ばかりに商を案じ、食指中指〜」(●は読めない)というように、文字で書かれた楽譜です。
ttp://www.emuseum.jp/detail/100229?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=65&num=4&mode=detail¢ury=
 中国・魏晋南北朝時代、梁末期の弾琴の名手、丘公の作を抜粋、とあります。
 減字譜が発達したのは、唐代の曹なんとか?(名前忘れた)が登場してから。

 さらに、中国の漢詩は、詩のタイトルがそのまま曲調や文字数を指定します。
 中世ごろから詩牌、詩格と言われ、中国の漢詩に同じタイトルが多い理由のひとつです。
 逆に言えば、当時は一定のお約束さえ学べば、楽譜がなくてもある程度弾くことは可能だったのではないかと。
(まぁ、このお約束が凄いんですが。琴だけでも琴首琴尾額承露臨岳軫池起項肩頸腰冠角龍齦雁足徽、
音の散按泛走、吟の長短略細定遊走蕩綽注急緩少雙落指飛、露鋒起筆蔵鋒終筆逆鋒提頓顫筆転鋒回鋒……
 中国でもこのお約束をマスターできた人は少ないようです)

 以上のことから、

・漢代末期から三国時代は、音楽史の中でも、まだ楽譜が発達する途中にある
・ある程度のお約束を学べば、いちいち楽譜にする必要が無かった
・基本的に楽の演奏は楽人集団によって受け継がれたもので、集団外へ伝え残す概念が希薄
・戦乱で、元々少ない楽譜が、完全に失われた

 のではないかと、考えます。

106 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/23(月) 19:52:52.88 .net
 追記。

 漢代になると音楽は色々な変形をとげますが、琴などは本来、無差別的に聞かせるものではありません。
 香を焚き心身を清め、世俗から離れ、独りまたは知音なる友と、琴を通じ己の人格を完成させることが本来の目的です。
 さらに文字譜は演奏の自由性が高いのですが、演奏者は技術だけでなく、作曲や編曲の技量も要求されるようです。
 少なくとも、漢詩なり文字譜なりをもとに、奏者が自分なりの音楽を奏でることを前提にしています。

 だから奏者を慰めうるのは、奏者自らが弾き奏でる琴のみ。
 同じように、魏武帝の志操を完全に演奏できるのは、魏武帝本人のみ。
 当時一流の楽士による、今や手に届かない、神話の音楽。
 再現も大切ですが、それもまた歴史の醍醐味だと、個人的に解釈しています。

 ……長々とうろ覚えで書いたけど、記憶とか間違ってたらスマソ。自分でも調べてみてくださいな

107 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/29(日) 23:30:12.65 .net
楽譜が残されていない理由について、追記。
まず、>>105で挙げた、お約束が戦乱で消滅した説。蔡文姫が復元した蔡?の作品も、現代どんだけ残ってるか判らんしな。

次に、楽府詩集から曹丕について
>‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”,貴官即魏文也。此曲聲製最美,辭不可入宴樂。

曹丕は自分で作った詩を楽人に歌わせ、自分は伴奏していた…でいいんかしら?
曹丕の場合、詩に他人視点のものが多いのは、他人に歌わせることを前提にしているんじゃないかって話もあるし。
この場合、曹丕が曲を残せていなければ、どうしようもない。

最後に曹操。自分が別のところで挙げた訳の引用になるけど

《宋書 志第十一 樂三》
> 無弦節,作伎,最先一人倡,三人和。魏武帝尤好之。時有宋容華者,清K好聲,善唱此曲,當時特妙。自晉以來,不復,遂?。

てけとー訳:
件奏はなく、伎人だけが歌う。最初に一人が歌いだし、三人が和する。魏武帝はこの形式をもっとも好んだ。
(略)
晋よりこのかた、復興されず、遂には絶えた。

「楽府詩集」相和歌
>「古曰章,今日解,解有多少。當時先詩而後聲,詩敘事,聲成文,必使志盡於詩,音盡於曲。

てけ訳:
 いにしえに言う"章(一章、二章〜)"というものは、今日の"解(一解、二解〜)"である。"解"には多少がある。
 当時は先に詩があり、後に声があった。詩とは叙事(事柄を述べる)であり、声とは成文(文を成す)である。
 必ず、志は詩において全うされるものであり、音は曲において全うされるものである。

以上のことから推測として、
・昔の考え方として、詩と曲は別々だった。
・曹操は彼の作品にみられる"歌以詠志"などから、詩を志の発現体として重視していた。
・そのためか、曹操は詩の発表形式として、余計な伴奏なしを好んだ。

で、曹操の漢詩に楽譜がない理由のひとつとして。
そもそも伴奏をつけないので、楽譜に記すような曲自体がなかった説をあげておく。

で、思うんだが、曹丕が伴奏メインなのは判らんが、曹操の声ってかなり良かったんじゃなかろーか。
音楽は良く判らんが、歌の技巧だけじゃ評価されないんじゃないかと、まとめサイトを見てたら、
オペラ歌手ばりに歌い上げる竹中直人を連想した。

108 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/29(日) 23:47:04.47 .net
掲示板に向かって一人書きなぐるのも空しいので、曹操ついでにつ( ´・ω●)?投げて帰りま
(芸文類集74巻 弾棋の項を意訳。誤訳御免)

晋夏侯惇、弾棋賦にて曰く
深宇の美しきこと以って舒情たり。衆芸にまみえんこと以って広く?(たの)しむ。
奇巧を観ること、これ瑰麗。偉なるかな弾棋の殊妙
碁盤は則ち?山の宝 華陽の石
あるいはうねりくねる龍藻 あるいは班駮を帯び分け
あるいは玄黄に発色し あるいは鱗白のように純白
ことごとく魯匠が精魂をこめ 工心を傾け、彫り削ったもの
形は方隆にして矩に応ず 萌え輝くこと霞を以ってたちまち鑠(よわ)め……

 とりあえず前半だけ。後半は実際に遊んでいる様子の描写といったところかしら
 弾棋はおはじきの一種で、魏文帝が大好きだったらしい。日本でも平安時代は遊ばれてました。

 種を明かしますと、ここの夏侯惇は、夏侯淵の子孫の夏侯淳ではないかと言われています。
 インターネットアーカイブにうpされている芸文類集だと、もろに「惇」ですが、
 書体によっては、淳のさんずいが小の字に見えるんで、惇と書かれているのだと。
 詩も6言ですし、まぁ間違いなく魏後期〜晋代の、おそらく夏侯氏による作品でしょう。
 ただ漢詩はどーも改変の後が見られるので、ま、ちょっとは覚悟しとけってことも無きにしもあらずはべりいまそかり。

 しっかし、三国志って人気あるようで全然人気ねぇな。曹操の秋胡行じゃねぇが、ただ物語だけが一人歩きしていく。

109 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/30(月) 22:51:29.46 .net
芸文類聚七十四のおはじき項といえば、
曹丕と丁ヨクの弾棋賦がいっしょに収録されてるのがおもしろい。
史実だと険悪そうなお二人さんなんだけど、共通趣味なんよねww
運命の糸が多少、もつれれば良い友人関係になれたのかもしれないのにw

110 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/31(火) 22:49:46.48 .net
あるあるw
親父さんが囲碁強かったから、周辺で育った連中も碁石を使っての遊びは多かったんだろうけど、
>彈棋始自魏、宮内装器〜
とあるから、あるいは碁で親父に勝てないガキ同士、
丕「俺らが親父に勝てる遊びキボン」
丁「おはじきどーよ」
丕「ソレダ!! m9(・∀・)ビシッ」……という経緯により(PANG)

曹丕と丁ヨクのおはじきに限らず、詩での古典引用に似たような傾向があったりすると、
「お前ら仲いいなぁ」と言いたくなることも、しばしばw
それだけに、一見仲よさそうなコンビが史書で仲が悪いように書かれていると、哀しくもある。

111 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/02(木) 07:58:02.20 .net
芸文類聚三十四にも曹丕と丁ヨクの妻の寡婦賦が一緒に収録されてます。
きっと二人は家族ぐるみのマブダチっすよw

112 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/03(金) 00:53:14.14 .net
曹丕の寡婦賦の題材となった阮ウが死んだのが212年。
丁ヨク妻が同じ題材でつくったとは限らないけど
たぶん、後継者争いはまだピークじゃなさそうだし、
この頃はおはじきつながりで丁ヨクとも仲がよかったのかもw
たしか曹丕は典論で「俺のおはじき天下一!若年のころは弾棋賦までつくったんだぜ!」
と自慢していたから、青春時代に丁ヨクとおはじきの賦を競作していた可能性もありそうww

113 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/03(金) 01:02:22.33 .net
清河公主の婿候補が丁儀でなくて、丁ヨクだったら後継者争いも
うまくいったのではないかと妄想してみるww

@兄貴と違って容貌が麗しいと魏略に書いてある丁ヨク。
  曹丕の「アイツはすがめだから」という幼稚な拒絶理由も生まれない。
A曹丕を根に持つ第一理由がなくなるので、丁儀の悪質なロビー活動も縮小。
B曹丕即位後の一族イジメもやんわりになる。長生きする曹彪あたりの権力がつよくなりそう。
C司馬一族の曹魏乗っ取りが回避できる。ヤッタネ(・∀・)!!

導きだした回答→曹魏が滅んだのは曹丕が丁儀の婚約をくだらぬ理由で破談にしたのが原因。
まぁ、現実は@の段階で跡目争いが一気に曹植有利に傾きそうな気がするんだけど…w

114 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/03(金) 01:05:26.57 .net
あと>>111の寡婦賦が気になったので調べてみたら、寡婦賦の直上に
曹丕の悼夭賦なるものが載っていました。

魏文帝悼夭賦曰.族弟文仲.亡時年十一.母氏傷其夭逝.追悼無已.
予以宗族之愛.乃作斯賦.氣紆結以填胸.不知涕之縱.時徘徊於舊處.(略

十一歳で亡くなられた族弟・文仲て誰なんでしょうね。気になる。

芸文類聚三十四
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%97%9D%E6%96%87%E9%A1%9E%E8%81%9A/%E5%8D%B7034

115 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/18(土) 16:53:30.56 .net
一見、曹休(文烈)の系統かなって思いますけど、どうなんでしょうな。
曹操の子供って「子〜」って字が多いけど、それ以上に不明なのが多いとゆー。

古詩十九首を調べていて思ったのですが
・三曹の作品の元ねた?っぽい作品が多くみられる
・引用の方法に違いがある?
 曹操、曹植は「規定の文字内に気持ちを込めきれないから、単語を引用して、解説を省略するわ」みたいで、
 曹丕は、「おい作者! 歌う楽人が可哀相だから、もっと救いのある歌にしてやれお!」みたいな…

例えば、其の一には「越鳥巣南枝」という一文があり、曹操の短歌行では「烏鵲南飛。繞樹三匝、無枝可依」とある。
つまり「鳥は南の枝に巣くう」という考え方の元ねた、ということです。

で、其の六「渉江採芙蓉」は、「芙蓉蓮華を採り、美しく着飾ったところで、花を贈りあうべき夫は遠方に旅立ち、
同じ喜びを抱きあえる両親もなく、花はただ枯れ散って、この美貌も老いさらばえるのみ」という内容。

其の六をベースにした曹丕の「秋胡行 其の三」は、「芙蓉蓮華を採り、誰に贈ろうか。庭に居る、あの方にしよう」
花を送る人が、目前に居る。そんな救いがありますな。

数をこなしていないんで、どこまでどうなのか言い切れませんが…

116 :無名武将@お腹せっぷく:2012/03/26(月) 17:02:47.48 .net
そういや、原文の引用ってどうしてる?

1.本から転載
2.ネットから引用
3.自分で古典を探して入手

117 :無名武将@お腹せっぷく:2012/03/27(火) 01:23:17.65 .net
>>116
1と2かな

古典を原書で読むだけの力はないので現代の活字に頼りっきり
基本となる知識そのものは本からだけどさすがに手打ちは面倒なのでコピペする
ネットで探したものを手持ちの本と突合して字をいくつか修正するけどね

118 :無名武将@お腹せっぷく:2012/03/27(火) 22:48:13.08 .net
私は2で、国会図書館、インターネットアーカイブ、維基文庫、台湾中央研究院の4つがメイン
維基or台湾からコピペして、国会図書館とアーカイブで付き合わせて修正というやり方

これでサイトをやってたんだが、
1.国会図書館のサイトで公開されているデータは、著作権が切れていても、サイトへ転載するとき申請がいるのか?
2.問い合わせ
2.3週間たっても返事来ず

なもんだから、ひょっとしたら違法部分があったのか? 他に何か方法を考えたほうがいいか?と思ったもんで。
結局返事が来て(「翻刻」に該当しない限り、申請不要とのこと)無駄になったけど、著作権法って、まじめに考えると微妙に頭抱えるぜ

119 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/03(木) 09:51:57.55 .net
何晏の身になって漢詩を作ってみたり。
ちょっと曹家をバカにするような感じで。


『壺中天』

何晏

ツァオ グー グァン イー バン
操  觚  官  一  邦

ツァン イー ヂー ウェイ チィェン
参  議  徴  微  銭

フーア ワン  ピー ピー イェ
鶴  望  丕  丕  業

チォン ウェイ フー ヂョン ティェン
称  為  壺  中  天


○操觚して………文章を作って
○一邦に官たり………一国の官職に就き
○参議して………政治を執って。参議朝政して
○微銭を徴す………僅かな金を稼ぐ
○鶴望す………鶴のように首を長くして待ち望む
○丕丕たる業………大いなる働き
○称して為す………〜と言う。〜と呼ぶ。
○壺中天………きわめて狭いことのたとえ

■詩意
世の中の人間は、文章を作しては一国の官吏となり、
参議朝政しては僅かな身銭を稼ぎ、
それでいて、自分が大いなるいさおしを収める日を、
鶴のように首を長くして待ち望んでいる。
何と滑稽であろう。
このような了見は、壺中の空間を指して天だというように、非常に狭いと言わざるを得ない。

120 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/05(土) 22:41:31.23 .net
一時は文学で身をたてざるを得なかった何晏の作品にしては、なんとも自虐的だなぁ
しかも義父のいみなを堂々と使った作品では、人前にはまず出せない

どんな状況の時に、どんな心境で歌ったと想定してるんだ?

121 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/28(月) 21:53:54.53 .net
>>113
遅レスになって申し訳ないが、その姉君の婿選びのエピソードって面白いよね
個人的に気になるのが、曹操がお気に入りの曹植ではなくわざわざ曹丕に尋ねてるところなんだよね
丁儀の友達の曹植だと贔屓目に判断するかもしれんが、曹丕なら公正に判断するかもしれんとでも思ったんだろうか?
もしくは一応子供たちの中で一番上の兄貴だったから?

とはいえ、腹違いとはいえ姉の婿選びなんてえらい難しい問題についていきなり質問されて曹丕も驚いたんじゃないかな
答え次第では自分の素質どころか曹家全体の問題に発展しかねないし
だから親戚の夏侯家の若い未婚のやつのがいいんじゃないんですかー?みたいな答えになったんじゃないかと
内心「会ったこともないような男に姉上くれてやるとかこの親父どんだけ人材マニアなんだksg」とか思ってたりしてな


122 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/29(火) 00:03:56.11 .net
>>121
単純に曹丕が後継者だから
後継者が家についての判断を求められるのは至極当然
元々後継者はほぼ確定してた
それを引っ繰り返そうとしたもので老境に入った曹操が判断を迷った時に
ロビー活動が大々的に行われて効果が出た
それ以前は普通に曹丕が後継者扱い

それと丁氏は昔から曹氏と仲良くやってるご近所さん
会った事ないどころか夏侯氏と同じような身内に近い存在
曹氏政権の準皇族として丁氏と夏侯氏の争いの結果、夏侯氏が勝って丁氏が消滅したんだよ

123 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/29(火) 00:49:01.70 .net
>>122
ちくまの曹植の伝の該当箇所読んでみたんだけど、曹操が丁儀が優秀だという噂を聞いて「顔も見ないのに」丁儀を後継者にしようとしたって書いてあるんで
曹操は本当に噂でしか知らないで面識が全くなかったってことだと思ってたわ
まぁ当時は噂が一番大事な情報ツールだったろうから、噂だけで人を雇ったり結婚したりなんでザラだったんだろうけど・・・

あと少し気になったこと
この注だと曹丕のことを五官中郎将って呼んでるから中郎将就任の211年から太子に立てられる217年の間の出来事ってことでいいのかな?
そのとき公主っていくつぐらいだったんだろう・・・曹丕より10歳くらい年上の曹昂の妹だから1〜9歳くらい上のはずで、211年だと曹丕は24歳
この当時って権力者の娘はかなり早く結婚するイメージなんだけど、その基準だとだいぶ晩婚だったのかなと気になった

124 :無名武将@お腹せっぷく:2012/05/29(火) 01:08:46.91 .net
夏侯楙が散々愛人作ってたこと考えると結構トウが立ってるのかもね

125 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/05(木) 01:20:17.94 .net
そろそろ、七夕
文帝陛下がアップをはじめたようです

126 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/09(月) 21:30:32.84 .net
端午節が終わったばかりなのに、もう七夕の準備か。陛下の仕事とはいえ大変だな

127 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/24(火) 01:28:27.78 .net
蒿里行 曹操

關東有義士,興兵討群凶。
初期會盟津,乃心在咸陽。
軍合力不齊,躊躇而雁行。
勢利使人爭,嗣還自相?。
淮南弟稱號,刻璽於北方。
鎧甲生?蝨,萬姓以死亡。
白骨露於野,千里無?鳴。
生民百遺一,念之斷人腸。

蒿里行 曹操
関東に義士有り、兵を起こし群凶を討つ。
初めに盟津に会して期し、乃ち心は咸陽に在り。
軍は斉しく力を合わせず、躊躇而して雁行す。
勢と利は人を争わせしめ、還りて嗣ぎ自ずから?(ころ)し相う。
淮南の弟は号を称し、北方に於いて璽を刻す。
鎧甲は?蝨(きしつ)を生じ、万姓は以って死亡す。
白骨は野に於いて露(あらわ)れ、千里に鶏鳴は無し。
生きる民は百に一つを遺し、之を念えば人腸を断つ。

レクイエム 葬送
関東の義士は挙兵して多数の凶賊達を討とうとした。
初めは盟津に集まって計画を練ろうとしたものの、
(集まったらもう誰もそんなことは考えず)長安を攻略して自分が天下人になることを考えていたのだ。
軍が集まってみると皆は協力もせずに、
お互いを牽制し合って当初の目的とは全く違ったことをするようになった。
権力や利益によって人が争うことになり、結局すぐに殺し合いが始まったのだ。
淮南に勢力を張った袁術は帝号を名乗り、北にいる袁紹は玉璽を勝手に作って劉虞を擁立し始めた。
(戦乱が長く続くので)(鎧や甲を兵士がずっと着っ放しで)鎧や甲にはシラミが沸き、
万民は死んだり逃げてどこかに行ってしまった。
死体は野ざらしで誰も埋葬することはなく、千里の遠くまで(人家には大概鶏がいるのに)鶏の鳴く声もない。
生き残った人々は精々百人に一人と言ったところであり、このことを考えると私は断腸の思いだ。

128 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/26(木) 19:56:24.77 .net
これだけ読むと、奸雄と呼ばれた人とは
とても思えないお (´;ω;`)

129 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/26(木) 20:35:00.70 .net
徐州人からすれば最後ニ行はお前が言うな、だろうなw

130 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/26(木) 21:24:58.10 .net
やっぱ曹操様は部下思いですねぇ
自分のために命を張ってくれる人たちへの愛情はすごい強い人だなぁ、と


そういやこの間芸文類聚で曹植が書いた『黄初六年令』って文章を見つけたんですけど(曹植の仲達宛の手紙とかも発見)
芸文類聚だと省略されてる部分が多そうだなぁ、と思ってネット漁って他の部分を探して補完してみた
(全文載ってる本もあるらしいんですが自分の手元に無いので…一部変換できない漢字は現代日本の漢字とか同じ意味の他の漢字とかに変更してます)


黄初六年令曰、 
吾昔以信人之心,無忌於左右、深爲東郡太守王機、防輔吏倉集等任所誣白、獲罪聖朝。
身輕於鴻毛、而謗重於泰山。ョ蒙帝主天地之仁、違百寮之典議。赦三千之首戻。
反我舊居、襲我初服、雲雨之施、焉有量哉。
反旋在國、ノ門退掃、形景相守、出入二載。
機等吹毛求瑕、千端萬緒、然終無可言者。
及到難,又為監官所擧,亦以紛若、於今復三年矣。
然卒歸不能有病於孤者,信心足以貫於神明也。
昔熊渠、李廣,武發石開、鄒子囚燕、中夏霜下。杞妻哭梁、山為之崩。固精~可以動天地金石、何況於人乎。
今皇帝遥過鄙国,曠然大赦、與孤更始,欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。
豊賜光厚,[言比]重千金,損乗輿之副,竭中黄之府,名馬充厩,駆牛塞路。
孤以何徳、而当斯恵。孤以何功、而納斯。
富而不吝、寵至不驕者、則周公其人也。
孤小人爾、深更以榮為戚。何者.將恐簡易之尤、出於細微、脱爾之愆、一朝復露也。
故欲修吾往業、守吾初志。欲使皇帝恩在摩天、使孤心常存入地、將以全陛下厚コ、究孤犬馬之年。
此難能也、然固欲行衆之難。
詩曰、コ軽如毛、鮮克舉之。此之謂也。
故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉。


「犬馬の年」という言い回しの典拠として結構有名らしいこの文章ですが
全体の意味としては、曹丕が黄初6年に曹植の国に行幸して泊まってった時のことを回想しつつ、曹丕の情け深さや徳の高さを讃えている文ってことでいいんですかね?(全訳できるほど漢文スキルが無い)
「欣笑和楽以歡孤,隕涕咨嗟以悼孤。」のところを読んでちょっと驚いてしまいました
日本語訳すると「(曹丕兄上は)楽を和して楽しそうに笑い私といることを喜び、涙を流し嘆息し私の境遇を哀れんだ。」って感じでしょうか
やっぱり、文帝陛下はただの冷酷ドSじゃないんだろうなぁ、としみじみと思いました(私の読みが間違ってる可能性もありますが…)
この半年後に曹丕が死んでしまうことを考えると、曹植の『文帝誄』での嘆き悲しみの激しさの理由がなんとなくわかったような気がしました



131 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 20:55:57.96 .net
>>127うp乙
そういや、こっちのまとめサイトには未掲載なんだな。意外だった

董卓の移転した長安がでているが、長安は当時の呼び方として西京(王粲)等が使われ、咸陽を使う意味合いは薄い
また、連合軍が成立した当時、董卓はまだ洛陽にいた
ではなぜ、ここで咸陽を使っているか?
咸陽といえば秦の都であり、前漢の成立期、反秦連合が咸陽を攻めた。そこで先に入った劉邦が、やがて漢を建設した
部下や民衆思いというだけでなく、「我こそが現代の劉邦となり、乱れた時代を正さん」とする野心の詩、という分析も出来る。実際、曹操は董卓を追撃しているしね

咸陽という単語を使うことで、古代と現代を重ね合わせ、作品に含みをもたせる
曹操の詩はそういう「一見こう、しかし裏は……」という作品がちょこちょこある

132 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 21:11:41.45 .net
>>131
多分韻を踏んでるからだと思うよ
凶、陽、行、ショウ、方、亡、鳴(ミョウ)、腸
綺麗に揃えてある

あと文字化けしまくりんぐだな
?はそれぞれ以下のURLの文字ね
>嗣還自相?
http://www.weblio.jp/content/%E6%88%95
>鎧甲生?蝨
http://www.weblio.jp/content/%E8%9F%A3
>千里無?鳴
http://www.weblio.jp/content/%E9%9B%9E

133 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 21:12:29.81 .net
>>130
乙。よくここまで補完したな
書籍によって使われている漢字がちょっと違うんだが、ここでは無視してこちらなりの分析を

私は昔は人の心を信じていた、左右を忌むことはなかった。
東郡太守の王機、防輔吏の倉集などによる任務先での無実の罪で、罪をえてしまった。
身の軽さは鴻毛、そしりの重さは泰山。ョ蒙というのは敬語で、「幸いをこうむる」といったニュアンス。幸いにも帝主の天地を覆う仁を受け、百寮の典議を違える。「赦三千之首戻」てのが微妙に判らん。連座で罪をこうむった連中が許された?
我旧居に帰り、我初服を襲う、雲雨の施しに、限りがあるでしょうか(いや、無い)。
国に戻り、門を閉ざし(人を?)払い、このままにして、二年たった。
王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし、しかしついに言うべきこともなく。
んでまた監官に何か言われて、3年たったんかな?
「然卒帰不能有病於孤者,信心足以貫於神明也」てのは病気と称して篭ってたんか?

昔熊渠や李広は,武を発し石をも貫きました。(熊渠は夜にトラと見間違えて石を撃ちぬいた、李広も虎に似た石を弓矢で撃ちぬいた)
鄒子は燕の恵王に仕えた、五行思想で有名な鄒衍かな? 讒言のため捕えられたが、天を仰いで慟哭したところ、夏五月に秋の霜がおりた。
杞梁の妻は夫のために泣き、ゆえに山は崩れた。固き精~は天地や金石をも動かすもの、ましてや人を動かせることは言うまでもない。
今、皇帝は遥かに鄙国を過ぎ,広く大赦してくださいました、孤の古きをあらため?,欣笑和楽を以って孤を歓待し,隕涕咨嗟を以って孤を悼みました。
中黄之府(皇帝の在庫)は尽き,名馬は厩に満ち,駆牛は路をふさぐ。
豊かな財産を賜り、千金を給与してくださり([言比]は資ともする)、
孤に何の徳があって、このように恵んでくださるのか。孤に何の功があって、このように収めてくださるのか。
富を惜しまず、寵をえて驕らぬものは、すなわち周公その人である。

詩曰:「コ軽如毛、鮮克舉之(徳のかろきこと羽毛の如し、良く之を挙げるは少なし)」は詩経の大雅。徳は言うのは簡単だが、実行するのは難しいと

「故為此令,著於宮門,欲使左右共観志焉」てのは「以上、宮門にて記しますので、どうぞご覧ください」という感じで、本文というか末尾だな

……どうも真面目に分析すると時間がかかるんで、とりあえず抄訳すると↓こんなか

昔は純粋だったから、変なやつに冤罪をくらってヒッキーしてました。
うるさい連中にあれこれ詮索されたけど、陛下に無実といわれて嬉しいです。
世の中、やっぱ神様ってのはいるもんですね。
昔から偉い人がいましたが、陛下は古の偉人にまさるとも劣りません。
なんか許されるだけじゃなくて、色々して貰っちゃってすみません。
昔から言うは易し、行うは難しいといいますが、難しい行いができる陛下はやっぱスゲーです。
兄孝行を尽くしたいのに、何もせんで年月だけ重ねてしまい情けないです。
重ね重ねお礼を申し上げます、皆様にもよろしく。

で、ここの人物が「王機」で正しいならば、王昶の兄など同姓同名が居るんだが、同一人物なんだろうか?
他だと「玉」を使っているケースもあるんで不確定だが

134 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 21:29:33.62 .net
>>132
ぁ、そっち(韻)の視点を忘れてた。指摘感謝します

文字化けは困ったなー。現代の字に直すのも面倒だし、どっか原文へのリンクで済ませたくなるのココロ

135 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 21:38:45.47 .net
>>134
中国語版ウィキソースが最近充実して来たのココロ
残念ながら黄初六年令はなかったが

136 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/27(金) 21:55:21.24 .net
>>135
つ【ttp://zh.wikisource.org/wiki/曹子建集/卷八#.E9.BB.84.E5.88.9D.E5.85.AD.E5.B9.B4.E4.BB.A4】はダメ?

あそこは色々と助かるねぇ
OCA使ってるんだかで誤字脱字欠損があるのが玉に瑕だが

137 :130:2012/07/27(金) 23:30:34.68 .net
補完&訳ありがとうございます!
抄訳がめっちゃ詩聖様らしくて笑ったwww

曹植伝だと曹植への弾劾といえば、黄初2年の灌均による使者脅迫の件についてのものぐらいしかありませんが
どうもこの令に書かれてるのは曹植がけん城侯orけん城王(変換できない…)の頃のものっぽいので黄初2年の国替え後〜黄初3年の頃みたいですね
あと黄初4年の参内の記述の注で、曹植が自分に罪があると考えて密かに参内し許しを請うた話がありますけど
「王機たちは毛を吹き瑕を求め、雑多なことを言いふらし〜」はこの事なのかなぁ、と推測

王機については王沈の父の王機が東軍太守だったという記録が晋書にあるらしいのですが、他にも同姓同名は多そうなので…

138 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/28(土) 00:22:48.32 .net
>>136
簡体字で検索してなかったから見つけられなかった

139 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/28(土) 21:11:39.80 .net
>>137
黄初五年令はどんなんなってます?

この頃は諸侯王を県王に降格させたり、かと思えば「反逆と大逆罪以外はチクるな嘘つくなゴルァ」詔が下ったりしてたような
史書に明確に記されていないだけで、皇族の扱いを巡っても、かなり激しい政争があったんだろうね

140 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/28(土) 21:28:19.64 .net
>>139
黄初六年令と一緒に芸文類聚に収録されてたっす
でもこっちも省略部分とか多そうなんだよなぁ…とりあえず置いときますね
白丸と黒丸は判読不能文字かな?


魏陳王曹植黄初五年令曰.
夫遠不可知者天也.近不可知者人也.
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
諺曰.人心不同.若其面焉.唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
詩云.憂心悄悄.慍于群小.自世關l.或受寵而背恩.或無故而叛.
○本集叛上有入字.違顧左右.曠然無信.大嚼者咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞○文館詞林六百九十五二字無.
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎.唯無深瑕潛釁.隱過匿.乃可以為人.
諺曰.穀千駑.不如養一●.○文館詞林作驥.
又曰.穀駑養虎.大無益也.乃知韓昭使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.不足以導之.
則當以刑罰使之.刑罰復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.
吾知所以待下矣.諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.功之宜賞.
於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.

141 :ジャイアニズム:2012/07/29(日) 08:20:40.20 .net
このスレは無用。
なぜならば、乱世に文学など無用だから。

142 :ジャイアニズム:2012/07/29(日) 12:48:06.54 .net
乱世に文学など無用なのだ。
こんな糞スレを立てたのは誰だ!

143 :ジャイアニズム:2012/07/30(月) 20:12:44.17 .net
文学より兵学だ

144 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/01(水) 23:08:44.20 .net
そんなら魏武注孫子を全文翻訳してくれ。以上、無視する。

黄初五年令の自己流分析。分析が間違ってたら指摘願います。

夫遠不可知者、天也.近不可知者、人也.
#遠きにして知るべからざる者は、天である。近きにして知るべからざる者は、人である。
傳曰.知人則哲.堯猶病諸.
#尚書・皋陶謨「知人則哲.能官人」人の品行や才能をこまかに観察することができるもの、即ち賢人
#論語憲問篇「尭舜其猶病諸」伝説の聖人である尭舜でも難しい
諺曰.人心不同.若其面焉.
#『春秋左氏伝』 「人心之不同也、如其面焉」人の心はそれぞれ違う。人の顔とおなじ
唯女子與小人為難養也.近之則不遜.遠之則怨.
#論語陽貨篇「唯女子与小人、為難養也、近之則不遜、遠之則怨」
#『ただ女子と小人が、取り扱いにくい。これを近づけると礼を失い傲岸不遜、疎遠にすると恨まれる』
詩云.憂心悄悄.慍于群小.
#詩経国風の柏舟。まとめサイト
ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/shikyou_hakusyu.html
#憂いしょんぼりする。「群小」の状態に対し腹を立てる
自世關l.或受寵而背恩.或無故而(入)叛.違顧左右.曠然無信.
#世間の人は寵愛されても裏切り、あるいは理由もなく叛乱し、左右に違顧し、曠然として信無し
大嚼者、咋斷其舌.右手執斧.左手執鉞。
#咋は「どのように」。大嚼者はよく噛みつく者、罵詈雑言しか言わない者といったニュアンス?
#口で治世を乱すものは、その舌をどのように断つべきか。右手に斧をとり.左手に鉞をとるのだ。
傷夷.一身之中.尚有不可信.況於人乎?
#傷夷(けが)、一身の中にあり、なお有にして信じられないもの、いわんや人を於いてをや?
#怪我や病巣が体内にあっても当人は案外気づかなかったり、信じなかったり。まして組織内の人についてはなおさらだ、という感じか
唯無深瑕潛釁.隱過匿愆.乃可以為人.
#深瑕は深い裂れ目、深い傷。釁は生贄とか仲たがいとか。
#見えるような傷ではなく見えない(生贄を求め)仲たがいをつくり、瑕疵を隠し過ちを匿し、これこそが人のありようだ?
(君上行刀鋸于左右耳,前後無其人也。)
#この行は出典によってはあったり、無かったり。
諺曰.穀千駑(馬).不如養一驥(驢とも).又曰.穀駑養虎.大無益也.
#穀は谷とも書く。養育の意。驥は驢とも書く。
#千の駄馬を養ったところで、一の良い駿馬を養っていることにはならない。同じように虎を養ったところで無益だ。

続く

145 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/01(水) 23:11:48.95 .net
乃知韓昭(侯之)使藏弊?.良有以也.使臣有三品.
#韓昭侯は戦国七雄の韓、釐侯。この人も酒の飲みすぎで遅刻した逸話あるっぽい
有可以仁義化者.有可以恩惠驅者.(此二者)不足以導之.
#仁義で人を教化する者、恩恵で人を動かす者、この二者は人を導くには足りない。
則當以刑罰(使之).(刑罰)復不足以率之.則明所以不畜.故唐堯至仁.
#刑罰を用いるべきだが、刑罰もまた人を率いるには足りぬ、すなわち明ゆえに人を育てぬ。ゆえに唐堯は、敢えて「仁」という手段もとった。
不能容無益之子.湯武至聖.不能養無益之臣.九折臂知為良醫.吾知所以待下矣.
#不能容:容るること能わず。受け入れられず。
#無益之子は不肖の子、愛していない子供といったニュアンスの方が近い。《墨子・親士》 か?
#九折〜:たくさん臂を折る=多くの治療方法をためし、みずから良医となること。多くの経験を積むこと。
#『楚辭』屈原・九章の惜誦「九折臂而成醫兮、吾至今而知其信然。」
#愛さぬ子は受け入れず、ゆえに 湯武(殷の湯王、周の武王)は聖となった。
# 無益の臣は養わず、九たび肘を折れば醫者となることを知る。我は知るゆえに、待つを「下」とする。
諸吏各敬爾在位.孤推一概之平.
#推は平らにするとか。概ってのは古代の糧食を量る枡の木。派生的な意味として、標準。
#気力が尽きたのもあって、このへんのニュアンスは不明
功之宜賞.於疏必與.罪之宜戮.在親不赦.
#功を賞賛するときは些細なことでも褒め称え、罪を裁くときは、親がいても赦すべきではない?
此令之行.有若皎日.於戲群司.其覽之哉.
#この令を行えば、…駄目だ、集中力尽きた。群が戯れていても太陽のように睥睨できる、管理できる?
#皎日は明るい太陽。古代は誓いの言葉として多用されている


146 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/01(水) 23:46:34.98 .net
 穴埋め部分は、文館詞林から行われたものを、維基文庫から又引き。
 諺の出典がいくつか不明だが、客家の諺に「養子不教不如養驢、養女不教不如養豬(男の子を養うも教えなければロバを養うのと同じ,女の子を養うも教えなければ猪を養うのと同じ)」というのはある。
 細かい部分は正直判らん。詳しい人に降臨願いたい。

 ただ、表立った内容は、賞罰に関する意見だと思う。
 罵詈雑言しか言わないものは、組織の病巣である。組織を運営するには、人格や報酬だけでは駄目だし、罰だけでも駄目だ。
 人間の体に巣くう病巣を手術で切り取るように、正しい人材を見極め、飴とムチを上手く使い分けて、という感じかな? 芸文類集でも、分類は刑法の項目だし。

 で、作品というのは、たいてい作者が置かれた当時の状況が反映される。特に「罪を得て」苦労している人物が、罪について論じるというのは、無視できない。
 この作品を逆にみれば、ほぼ曹植が置かれた(と本人は認識している)環境であり、作者なりの現状改良案かな。
 組織を食い潰す無能の群に殺されるのを待つよりは、組織を正すため、何度でも文を出そう。理解されないならば、いっそ魏国のために殺してくれ、という感じの。

 で、父にせよ兄にせよ、曹植を理解していた。
 曹操の(一時とはいえ)溺愛っぷりは酷いし、曹丕も曹丕なりに理解していたからこそ、(多分この作品が)黄初六年令の内容に繋がるんだと思う。
 しかし曹丕が死ぬと、曹植は単に家族を失うだけでなく、いざという時には庇ってくれる理解者が居なくなってしまう。
 それは残された家族としても、芸術家としても、政治家としても辛いわな。

 ここまで書き連ねて、実際の内容が分析と正反対だったら大笑いorz

147 :140:2012/08/02(木) 00:03:33.26 .net
>>146
ありがとうございます!

黄初五年に曹丕は結構大事な法令を出していて
一つ目は諸王を県王にするというもの、もう一つは有名な謀反・大逆以外の密告禁止
ココらへんもこの曹植の令につながってくるんじゃないかなーと思いました(刑罰や家臣への君主としての接し方についてなので)」
暗に曹丕の周りにいる側近たちを批判してる?ように読める気もしましたが…

曹叡の頃になると曹植が積極的に上奏してたのは記録に残ってますけど、曹丕の頃だとそういう記録ってあんまりないんですよね…
周囲(曹丕も含む?)の目が厳しくてそんな政治的な意見を述べることが一切出来なかったのか
曹叡の頃は公式の上奏として意見を出していたから記録が残ったけれど、曹丕の頃は私的な手紙として出してたので残らなかったかはわかりませんが

148 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/05(日) 10:34:47.48 .net
両方とも5年だったのか。そのへん疎いんでちと調べた。

年表:弟の方
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで)。作品『請祭先王表』(父を供養したい)、『上九尾狐表』(瑞兆の九尾狐が出た)?
●黄初2年
灌均、「劫脅使者」を上奏。植、爵位を安郷侯に落とされる、同じ年のうちに□城侯に改封(正史版)。
(□=ケン。以下同じ ttp://www.weblio.jp/content/%E9%84%84)
魏書載詔曰:「植,朕之同母弟。朕於天下無所不容,而況植乎?骨肉之親,舍而不誅,其改封植。」+王機らの告発?2年隠遁?
●黄初3年
夏四月戊申、□城王となる。
●黄初4年
『応詔詩』(都へ来いの詔に応じる)『責躬詩』(自責)「上責躬應詔詩表」(詩二首を受け取ってお願い)を提出→文帝に拝謁
『任城王誄』『贈白馬王彪』(兄弟へ贈った詩)



次は兄の方
●黄初3年
三月乙丑,叡を平原王に。弟の彰ら十一人を皆、王にする。夏四月戊申,植を□城王にする。
皇后をたてる、「女は政治に口出すな」詔
●黄初4年
夏五月,有鵜*鳥集靈芝池,詔曰:「此詩人所謂汚澤也。
曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺。」
(*は「胡鳥」の字。ここの「曹詩」というのは、《詩經-国風-曹-候人》。この詔を分析している所はない? )
植を雍丘王とする(植伝)。其の年、朝京都で植により、上責躬應詔詩表等の上疏あり。褒める(植伝)。
●黄初5年
春正月、例のチクるな令。五月、有司は公卿が朔望日の朝、疑事の奏により、大政を聴断し〜
秋七月、東を巡る。幸許昌宮。
八月、水軍。潁や淮、寿春等をうろうろ。揚州界隈で五年以下の犯罪に服していた将吏士民を赦す。
九月,九月、廣陵に至り、青、徐二州で大赦。諸将守を改易した。
魏書載癸酉詔曰:「近之不綏,何遠之懷?今事多而民少,上下相弊以文法,百姓無所措其手足。
昔太山之哭者,以為苛政甚于猛虎,吾備儒者之風,服聖人之遺教,豈可以目翫其辭,行違其誡者哉?廣議輕刑,以惠百姓。」
(近きを綏(安んじ)ずして、何で遠きを抱けようか? 今、事多くして、しかるに民は少なし。上下は法文のせいで互いに疲弊しており、百姓は手足をおくところもない。
苛政は虎より猛しというが、私は儒の気風を備え、聖人の残した教えに服したい。もちろん孔子様の辞から学習したいし、教えと違う事をしたくない。つーわけで刑罰を軽くするんでヨロ)
●黄初6年
帝は東征し,雍丘を還過し,植の宮に行幸し,五百戸を増やした(植伝)。
●その他
景初中詔曰:「陳思王昔雖有過失,既克己慎行,以補前闕,且自少至終,篇籍不離於手,誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状,公卿已下議尚書、秘書、中書三府、大鴻臚者皆削除之。撰録植前後所著賦頌詩銘雜論凡百餘篇,副藏内外」

149 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/05(日) 13:48:57.12 .net
って、途中でうpってた('A`)
●黄初1年(220年)
植與諸侯並就國(ここで、いったん□城侯になった可能性あり)。

5、6年令はまだ調べてる部分もあるけど、記述を正しいとすると、
2年
罪により(□城侯から?)安郷侯に、爵位を落とされる
→初服を着る=未做官(まだ出仕していない、平民)時期の服。官をやめ、隠退することの比喩
→爵位は戻ったが、2年間屋敷に篭った
4年
雍丘王に任ぜられる→任地に向かう→また監官にいろいろ言われた。
黄初六年令の「於今復三年矣」については、雍を雍丘王(黄初4年〜)とみなした場合、「(4年から)三年たった」じゃおかしいので、罪を獲てから今まで三年という感じか。
5年9月に植の恩赦?皇族の扱い云々が出た?で、6年に兄弟の再会を受け、六年令が出る。

で、三国志自体はこの板の猛者ほど詳しくないので、文帝と明帝の時代で、曹植の上奏数がどれだけ変わっているかは分からない。
まぁ曹丕みたいな返しはないだろうし、その分数が増え、内容も悲痛になるわな。

ただ、兄の黄初4年の曹詩詔(「遠」君子而「近」小人)、弟の黄初五年令文頭(「遠」不可知者天也、「近」不可知者人也)、兄の癸酉詔文頭(「近」之不綏,何「遠」之懷)。
兄の癸酉詔「苛政甚于猛虎(厳しい政治は虎より酷い)」、弟の黄初六年令の「武発石開(固い精神は石の虎をも貫く)」。
「遠近」も「虎」も、非常にありふれた表現ではあるが、妙に似た言い回しだよね。

曹丕の詔は「遠く(呉)を攻める前に、近く(足元)を固めたい」など為政が主で、命令を実行するには弟を無視できなかった程度かもしれない。
が、この兄弟ほどの文人なら、その気になれば幾らでも違う表現は出来たと思うし、少なくとも植の方は、そういう意図を含んでいる可能性はあるかな。

150 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/07(火) 21:09:02.64 .net
んー、ちょこちょこ調べたけど、植の真意は判らん。
本人を直接批判したら流石にやばいから、周囲を批判したことで間接的な批判を行ったとも言えるし。
呉との戦争を前に仲たがいしても為にならないから仲直りのポーズをとったのか、素直に読んでいいのか。

ただ兄弟の言動が妙にリンクするのは、やっぱ気になるな。皇后に政治を奏上するな、と女子供は扱いが難しいとか。
当時の他の作品も読めば、もう少し違う意見が出てくるかもしれない。
気力ゲージが回復したら、『応詔詩』『責躬詩』「上責躬應詔詩表」と黄初4年の曹詩詔に挑戦してみるか

151 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/10(金) 20:02:49.94 .net
225年に兄貴と腹を割って話ができたと思った半年後にその兄貴が死亡。
228年には「曹叡死亡、後継曹植」のデマが飛び(出典魏略)、おそらく曹叡からは警戒。
ますます政界からは遠ざけられる。つくづくツイていないなあ、曹植は。

152 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 17:03:44.29 .net
 気力ゲージが半分ぐらい復旧したので、黄初4年の曹詩詔について

 まず、「此詩人所謂汚澤也」てのが判らん。
 他の分析例だと「曹詩の郭璞注にある汚澤のこと」とあるんだが、郭璞は晋代の人なのよね。曹丕が先なのか、郭璞が先なのか。
 曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,については、《詩經-国風-曹-候人》をあげる。

読み下しもどき
序:此の詩は、曹の君、君子から遠ざかりて、小人に近づくことをそしれり。
その昔、晋の文公が曹国にはいったとき、当時の曹の共公は国の賢者禧負覊を用いず、小人三百人を軒車(大夫の車)にのせた。文公、これを責める。このことを指す。

彼の侯人,戈と?(矛)とをになう。彼の其之の子,三百の赤(せき)?(ふつ)。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の翼を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其の服に稱(かなわ)ず。
維(こ)れ鵜の梁に在って,其の?(くちばし)を濡(ぬらさ)ず。彼の其之(こ)の子,其(の)媾(いつくしみ)遂(かなわ)ず。
薈(わい)たり蔚(い)たる,南山朝(あした)に?(のぼ)る。婉(えん)たり?(れん)たる,季女斯(これ)飢(うえ)たる。

適当訳
警備兵が、戈と矛とを肩にかけ持っている。彼らが護るのは高位高官とは名ばかりの小人、三百人。
水に入らず、翼をぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、高位高官の服は似合わない。
水に入らず、クチバシをぬらさず、ただ梁上にあるペリカンは、ペリカンではない。同じように、何もせず高位に居るだけの小人に、支配者の寵愛は似合わない。
小人の類が多く、威勢もさかんにしている。うるわしの乙女、ために飢えに苦しむ。

【侯人】つかさひと。道路を往来し、賓客を迎送する官人。
【之子】少子(小人)とする。
【赤?】?(フツ。http://www.weblio.jp/content/%E8%8A%BE)は?(ヒツ。前掛け。http://www.weblio.jp/content/%E9%9F%A0)なり。祭服のときは、これを?と言い、諸侯の大夫以上のフツの色は赤。古代中国では、地位によって身につける衣服の色が違う。
ちなみに当時の諸侯の大夫は、基本的に定員5人。これが曹の国は300人も大夫がいる。しかも全員小人だ、という嘆き。
【鵜】水鳥。ペリカン。 【媾】寵愛
【薈・蔚】どちらも樹木の生い茂る様。
【南山】曹の南方にある山
【朝?】朝、雲が空のぼる。朝の次に来る字はttp://www.weblio.jp/content/%E9%9A%AE。雲のような数の小人が、高位についていることの例えとされる。
【婉・?】婉は若い、?(れん・ttp://www.weblio.jp/content/%E5%AD%8C)は顔の形がいい。
【季女】末娘。年頃の娘さん。身を守り、みだりに男に従わないために、却って飢餓に苦しむ。賢者が暴君に従わず、そのために権力者に追従する小人から批判され、中央から追放され、貧賤に苦しむことの例え。

今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁コ茂才、獨行君子,以答曹人之刺

 これについては、この場に賢者がどれほど居るのか?鳥はなんのためにここに居るのか?人材をあげよ、独り君子のもとへ行きて、もって曹人の風刺に答えん。という感じ。

この詔を分析しているサイト自体は幾つか見つかったんだが、自分が無能を重用していないか自戒の意をこめたものだ、人材がいないことに対する、文帝の余裕のなさだ、という段階で止まっていた。
そりゃそうだが、これが皇帝の詔ということは、高位高官=自分の周りにいる連中の前で、「おまえら小人じゃね?」って堂々と明言したようなものでもあると思うの。つまり周囲に不満がある、曹植の作品に繋がってしまう。


153 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 17:20:12.67 .net
次に、植の上責躬應詔詩表関連。原文はttp://zh.wikisource.org/wiki/上責躬應詔詩表。もうひとつの参考書だと違う字もあったので、()で追加。
我流の読み下しもどきと大意。

臣植、言す。臣、?(釁)を抱き藩を歸りしより,刻肌刻骨。罪戻を追思し,晝分に而食し,夜分に而寢す。
誠に以しに天網の重罹すべからざる,聖恩再恃すべ難し,相鼠之篇を感じ,無禮?死之義に竊し,形影相弔し,五情愧赧す罪を以って生を棄てんとすれ,則ち古賢夕改之勤に違ふ。
垢を忍を苟しくも全うせんとすれば,則ち詩人胡顏之譏を犯ふ。
伏し惟れは陛下,コは天地に象り,父母より恩隆なり,春風を施暢ひ,時雨は澤如し。
是を以て荊棘を別れざる者は,慶雲之惠也。
七子均養する者は,?鳩(かっこう)之仁也。
功を責し罪を舍き者は,明君之舉也。
愚を矜み能を愛する者は,慈父之恩也。
是を以て愚臣の恩澤に徘徊,而るに敢を自棄せざる者也。
前に詔書を奉し,臣等朝を絶つ,心離れ志絶ふ,黄?を自分とす,永く執珪之望み無く。
聖詔図らず,齒召を猥垂せんと。至止之日,心を輦轂に馳す,西館に僻處し。闕庭に,踊躍之懷て未奉,瞻望反(及)側,犬馬戀主之情に勝ちえず。
謹ふ拜表し并ら詩二篇を獻す,詞旨淺末,采覽するに足らず,下情を露すを貴ひ,冒顔以聞す。
臣植、誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

【釁】不和
【?鳩之仁也】詩経・曹風・?鳩(侯人の次の作品)。
茨城大学の解説:ttp://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/36sikyu.htm
【舍罪】朝廷が赦免令を下し、罪を許すことだったと思う
【黄?】年老いる。後述の犬馬戀主之情とで、後の「犬馬の年」に繋がるか
【執珪】高官。その国ナンバー2クラスの地位、君号をもつ封君相当とも言われる。
【齒召】採用、召集、【猥垂】みだりに垂れる、【輦轂】天子の乗り物、【闕庭】宮殿の庭

意味としては、不和となり郷里に帰り、色々と考えた。かってのような恩赦を再度望むことは難しいし、色々考えた結果自殺しようにも、旧い教えはそれを許さない。
陛下の徳は、父母を超え、天地に行き渡るもの。その徳は、私をして自殺を思い留めさせた。
かって上奏し、官を辞し、志は絶え、老人とならん。長く出世活躍の望みもなし。
しかし図らずも、陛下はわが身を招集してくださった。即日、心は陛下のもとへ馳せ、身は西館の片隅に至った。踊るように宮廷に至るも御身にあえず、犬や馬が主人を慕うように、空の玉座をそっと仰ぐ。
ここに詩2編を認めました。浅学非才の作ゆえ、わざわざ御覧に為らなくて結構ですから、どうか私の感情吐露を慮ってください。
ほんとスミマセンスミマセン、偉そうな事ゴメンナサイこの通り、死罪死罪。


154 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 17:33:37.07 .net
責躬詩の訳は、既存のものをぐぐってくれ。数が少ないし多分大意は変わらないので。

躬を責る詩
於穆たる顯考,時れ惟れ武皇。命を于天に受け,四方を寧濟す。
朱旗拂わん所,九土披攘す。玄化滂流し,荒服來王す。
商に超え周に越え,唐與蹤を比す。我皇を篤生し,奕世聰を載す。
武は則ち肅烈,文は則ち時雍。禪を于漢に受け,萬邦に君臨す。
萬邦、既に化し,舊則に率由す。懿親に廣く命し,以って王國を藩とす。
帝曰、爾侯,茲青土(上)に君とし。海濱を奄有し,周に于魯に方ふ。
車服に輝有り,旗章に敘有り。濟濟たる俊乂,我が弼にして我が輔。
伊し余小子,寵を恃み驕盈たり。舉は時網に挂り,動は國經を亂る。
蕃と作り屏と作り,先軌是?る。我皇使に傲り,我朝儀を犯す。
國に典刑有り,于理にゥて,元兇是率んと將に我を削し我を黜す。
明明たる天子,時し惟し類を篤ふす。我を刑め之を朝肆に暴すに忍ばず。
彼執憲に違ひ,予小臣(子小子)を哀す。?邑に改封す,河之濱に于す。
股肱置か弗,君有りて臣無し。荒淫之闕,誰か予(余)が身を弼ひん?
煢煢たる僕夫,彼冀方に于。嗟余小子,乃斯殃に罹る。
赫赫たる天子,恩物を遺さず。我に玄冕(晩)を冠せしめ,我に朱?を要にせしむ。
光光たる大使,我を榮し我を華す。符を剖ち土(玉)を受け,王爵是加ふ。
仰て金璽に齒ひし,俯め聖策を執る。皇恩過隆,祗承し?タ。
咨我れ小子,頑凶是嬰す。逝を陵墓に慚ち,存め闕庭に愧つ。
敢て傲るに匪ざるコに,寔に恩是恃む。威靈改加し,以って齒を沒ふるに足れり。
昊天罔極,生命不圖。嘗(常に)顛沛を懼る,罪を黄?に抱んを。
願くば矢石を蒙,旗を東嶽に建てんを。庶くは毫?を立て,微功自ら贖んを。
身を危ふし命を授けは,?を免るに足るを知れり。江湘に赴き,戈を呉越に奮んを甘ふ。
天、其衷を?き,京畿に得會するを。聖顏に奉せんを遲つ,渇の如し飢の如し。
心之云に慕る,愴矣め其れ悲む。天高め卑に聽く,皇、微を照し肯ぜよ。

155 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 17:42:35.84 .net
文字化けが酷いが、原文とつき合わせるかして推測してくらさい。読み下しは間違ってるところもあると思いますので、参考程度に。

詔に應ずる詩
明詔に肅承し,皇都に會す應に。星陳夙駕し,秣馬脂車す。
彼掌徒に命じ,我征旅を肅す。朝に鸞臺を發し,夕に蘭渚に宿す。
芒芒たる原隰,祁祁たる士女。彼公田を経し,我が稷黍を楽む。
爰に樛木有り,重陰息すに匪ず。?糧有りと雖ども,飢を遑食せず。
城を望みて過せず,邑に面ひ遊ばず。僕夫警策し,平路是由む。
玄駟藹藹と,?を揚げ沫を漂す。流風衡を翼(冀)く,輕雲蓋に承く。
澗之濱を済り,山之隈に縁り。彼河滸に遵り,黄阪是れ階す。
西の關谷に濟り,或は降り或は升る。({馬非})驂路に倦む,再(載)ち寢再(載)ち興く。
聖皇に朝せんと將に,敢て晏寧せ匪ず。節を弭き長?し,日を指し?征ん。
前驅燧を舉け,後乘旌を抗す。輪は運を輟めず,鑾に廢聲は無し。
爰に帝室に?て,此の西?に税す。嘉詔賜はざる,朝覲從ふ莫し。
城閾を仰瞻し,闕庭を俯惟す。長懷永慕,憂心酲の如し。

詔に応じ、酷道険道辿って、寄り道もせずに来たけど、陛下からお言葉頂けません。拝謁すら叶いません。
城を仰ぎ、庭を俯き、長旅の間募らせたこの思い、憂いに心は濁っていきます、という感じ

以上。
思ったんだけど、後に曹植に関する資料が処分されている→逆に言えば正史に残った作品というのは「残す価値があるほど重要だった」のでは→残す価値があったのはなぜか→皇帝に関わる文章だったから?
曹植の家系は曹志など、晋代で当初はそれなりの立場を得ているので、そちらで保存されていたものが出た可能性もあるけどね。次で最後。

156 :無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 18:08:26.55 .net
最後。作品だけを見た個人的感想。

曹操の時に酔いすぎて援軍に行けなかったり、普段の言動から、曹丕(もしくは周辺)の機嫌を損ねることは、あったかもしれない。
そうした兄弟喧嘩はあっても、兄思いの純真な弟と、世間知らずの弟に振り回されつつ嫌いになりきれない兄にも見える。

(例として、諸祭先王表は、曹植が「父親を祭りたい」と言うもの。結局、曹丕に却下された。
 下手すると、自分が父を祭る⇒一族の祀を継ぐ≒曹氏の家長という宣言にも受け取られかねず、稚拙な気がする。
 ただこの頃、植は鍾ようと《大饗碑》を合作している。
 鍾ようは曹丕が曹操のあとを継ぐと復活しているので、諸祭先王表は問題にはならなかったのかもしれない)

どういう意図で残されたのか判らないけど、この二人の文章と関係に関しては、注をうのみにせず突き合わせたほうが良いのでわ。
というか、既に論文ありそうなもんだが。

というわけで、もし読んだ方がいらっしゃったら、お疲れ様でした。

157 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/02(日) 15:28:54.32 .net
上で言った、兄弟に関する論文について。支那文学大綱巻14にあった。
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871686/36
この筆者は、文帝に厳しい立場。今でも、この考え方は結構多いみたいね。

話は変わって。
楽府詩集、相和歌・平調曲の項に「銅雀臺」もしくは「銅雀妓」「雀臺怨」というタイトルの作品がある。
どれも曹操が去った後の銅雀台を歌ったもの。
この項目に載っている作品の数が、中央研究院だと「銅雀臺」10、「銅雀妓」16、「雀臺怨」2。「三臺(銅雀台の三つの台を指すという説あり)」も含めると、あと1増える。
ちなみに他は多くても、せいぜい5〜10。
あまりの多さに、銅雀台の項を「銅雀台愛好会メンバーリスト」と名付けてしまった。勿論、陸機さんは名誉会員で。

しかし何で三曹の作品は、よく後に「同前(前と同じタイトルです)」の字がずらずら並ぶんだ。や、無いものもあるけどさ…

158 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/09(日) 19:31:33.56 .net
葡萄と梨のスイーツが売ってた。グルメ皇帝が喜びそうだなぁ

159 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/15(土) 19:11:39.02 .net
スレが沈んで再建されても、相変わらずのアイドルっぷりだな>某皇帝陛下

160 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/15(土) 20:15:10.10 .net
残ってる文学的史料一番多くて面白いからねぇ

161 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/16(日) 14:25:54.84 .net
面白いのは認めるが、残っている資料が一番多いってのは初耳だ

162 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/16(日) 19:09:31.33 .net
皇帝だから多いのかな?
いや実際多いか知らんけどさ

163 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/16(日) 20:34:33.59 .net
漢詩が好きだけど、良し悪しはまだわからないorz
下手って言われる司馬懿の詩は何をもって下手とされるんですか?

164 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/16(日) 23:28:58.77 .net
文才ゼロの自分から見ても司馬懿の詩は下手というか、詩に見えないと思った。

ただの状況説明にしか見えないというか…全く心に訴えかけてこない。
「ふーん、そうですか」という反応しか出来ないというか…

165 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/22(土) 21:44:01.07 .net
>>163
 漢詩作成ルールの解説本を探すのも手かもしれない。
 個人的に分類しているポイントは、文法、全体構成、影響力の3つかな。

・文法
句の構成:五言、七言などの文字数を守っているか。押韻、平仄の規則を守っているか
上記以外の構造上の基本法則、禁止、例外事項:畳言と呼ばれる特定の単語以外では、同じ字は使用禁止など

・全体構成
対比の有無:視覚と心境、具体と抽象、対句、前半と後半の比較など
決め台詞:詩眼?季語みたいなもの、殺し文句(一樹梅花一放翁など)、古典引用
全体構成:起承転結、5w1h、最初に情景描写→心理描写という順を踏んでいるか、句同士による相乗効果
テーマを絞っているか、テーマを描写しきっているか

・影響力
革新性、後世への影響

現代の評価方法だと文法を重視するので、ルールにそぐわないと評価が厳しくなる。
ただルールが成立したのは唐代からで、それ以前の古体詩はルールを守っているとは限らない。よってルールより全体構成を重視する。
ためしに例の詩を評価する。本文はまとめサイトさんを見てもらうとして、

1.句の構成、押韻、平仄規則等→まぁ一応、守っている。

2.全体構成→対偶表現が不明。どれとどれが、対応しているのか?
引用はしている。日月重光は、魏の軍楽曲(>101の10)から。帰老は史記の孟嘗君列伝。引用しただけで使いこなせていない。悪く言えば、つぎはぎ。
起承転結が判りにくい。そもそもテーマは何よ?

3.影響力→後世への影響:知らん。

総合評価としては、「形式さえ守れば良いってもんじゃねぇぞゴルァ」という感じかね。

166 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/22(土) 21:50:03.62 .net
例をもう1つ、古詩源から。
寡婦
序:友人の阮元瑜は早くに亡くなってしまった。その妻が寡居せるを傷んで、為にこの詩を作った。
A: 霜露粉として、こもごも下り。木葉落ちて、淒淒たり。候鴈は雲中に叫び。帰燕は翩として、徘徊する。
B: 妾が心感じて惆悵し。白日たちまち西に頽(くずれ)る。長い夜を守って君を思い。魂は一夕に九たび背く。
C: 悵として長く佇み仰ぎ観るに。星月随って天にめぐる。いたずらに衿を引いて房に入り。ひそかに自ら孤栖を憐れむ。
D: 願わくば死して、黄泉の君に従わん。生ある限り付きまとう憂いを、どうして久しく抱かねばならぬのか。

A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める。
B:情景から、登場人物(一人残された妻)の心理に視線を移動させる。
「魂は一夕に九たび背く」は楚辞-九章-抽思からの引用。愛しい人を思うあまり、一晩に9回、魂が身を離れるの意。
C:荒涼とした情景と、妻の寂しい心理をひとつに融合させる。
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。
「人の運命は天に定め付けられており、星が落ちれば人の命も終わるという。
 天よ、その孤独な星を終わらせよ。彼の星は、黄泉の月に従って巡るべきなのだ」

まぁいろんな作品を比較すると、色々な違いがあって面白いよね。
え、作者は誰かって? そりゃこのスレのアイドル。

167 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/22(土) 22:14:11.48 .net
>>166訂正
A:情景描写。晩秋〜冬の描写により、雰囲気を高める
B:情景から登場人物に視線移動。引用によりCへ繋ぐ
C:天の月と星、地の孤独な妻一人の対比
D:A~Cまでの流れを踏まえた上での、作者の決め台詞。だな

168 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/05(金) 22:49:31.49 .net
一つ対比があるかもしれない
「告成」と「待罪」が対比する。罪〜のくだりは、論功恩賞を待つことの言い回し。功を報告し、恩賞の宣下を待つ。と。

批判だけじゃ気の毒なんで。
同じ作品でも、評価要素のうち、どの要素を重視するか変わる。
当時の基準でいうと、シバイの作品が平均であり、人によってはシバイ>曹操かな。
曹操の、特に後期の作品は突き抜けすぎて、伝統や文法を重視する側から見ると厳しい。
文法や詩経の伝統など、当時の決まり事を重視したのがシバイで、決まり事を重視する名士を意識するなら、これで正解。
ちなみに評価要素をバランスよく備えているのがそう植で、だからこそ詩聖と呼ばれたんだと思う。

……うん、まぁ頑張ったけど、これ以上の擁護は無理。

169 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/07(日) 17:09:57.15 .net
司馬懿の詩に関しては、既に曹丕が七言の詩を作ってたり、五言の詩も多くなってる時期だというのに今更四言かい!と突っ込んでしまった

170 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/08(月) 22:31:20.95 .net
確かに減ってはいるんですが、魏明帝の作品や晋代でも、四言の作品はありますぜ。
特に宮廷の儀式音楽と、元歌(多分)に四言がある作品の一部。

宮廷音楽
晉郊祀歌(天命有晉 穆穆明明〜)、晉天地郊明堂歌(皇矣有晉 時邁其コ〜)、
正旦大會行禮歌(天鑒有晉 世祚聖皇〜)、晉江左宗廟歌(於赫高祖 コ協靈符〜)、
上壽酒歌(於赫明明 聖コ龍興〜)、食舉東西廂歌(天命大晉 載育群生〜)他、めがっさ多数

元歌の一部が四言
短歌行:傅玄(長安高城 層樓亭亭〜)、陸機(置酒高堂 悲歌臨觴〜)
秋胡行:陸機(道雖一致 塗有萬端〜)
隴西行(歩出夏門行):陸機(我静如鏡 民動如煙〜)

宮廷音楽では、周から続く王朝の正当な後継者、という意味合いで、形式の古さこそが評価される部分もあるのかなと。
元歌のほうは、元曲にあわせる為かと。
もし楽師も居ない場所で歌うなら、旧いリズムに合わせて簡単な作品にならざるをえないですし。

まぁ、そういうのを差っ引いても、庇いきれないんですけどね。
曹操の歩出夏門行が晋書楽志に登場するのに対し、仲達タソの作品は楽志に出ませんし。
晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

171 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/12(金) 12:57:35.46 .net
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

確かに目を逸らしたくなる出来だもんね

172 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/17(水) 23:39:45.76 .net
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

ある意味晋王室最大の黒歴史ですものね……

173 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/19(金) 16:51:41.80 .net
>晋宮廷の人たちも、見なかった事にしたかったのかもしれません。

晋王室の人たち「曹丕の四友とかいわれてたのにどうしてこんな出来なん…?(愕然)」



174 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/19(金) 23:25:26.95 .net
仲達「教えてくれなかったのだ。詩作の技術は一族秘伝だと」
曹丕「最低限のマナーとコツは教えた筈だが? 周りから学ぶ機会もあって、この出来だ。凡愚め」
仲達「『凡愚め』は私のモノです」カエセ


175 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/20(土) 18:56:26.20 .net
もうやめたげてよぉ!ww

176 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/21(日) 11:28:18.23 .net
駄作なのに、どうして後世まで残ってしまうん?


177 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/21(日) 12:19:46.32 .net
>>176
誰かが記録に残したのさ…
「こんな駄作があったんだぜ」と周囲に広めるために…

178 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/21(日) 20:55:40.09 .net
>>176
「よい詩人はこんな詩を作っちゃだめだよ☆」という
反面教師=駄作の一例を示すためではないかと…

179 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/22(月) 00:15:37.46 .net
日本の話だが、「あんな尻軽だから簡単にやらせてくれるって評判ですよ」って内容の和歌が残っちゃったしなぁ


180 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/22(月) 04:25:25.94 .net
1ヶ月に渡りじわじわとdisられる宣帝ェ…

181 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/23(火) 21:15:53.34 .net
>>176
宣帝配下「宣帝様のお言葉だ、記録に残すぞ!」キリッ
歴史家「歴史に残すのが仕事です」キリッ
朝廷音楽担当「詩の収集は義務です」キリリッ
後世の文人「面白いから、とっとけ」

>>179
和歌kwsk

>>180
スレ回転に貢献しているという意味合いじゃ、いいネタ芸人っぷりじゃないか
まぁ、他のネタが出ない限りは…?

182 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/23(火) 21:29:27.21 .net
もうやめて!宣帝のライフはゼロよ!

このスレ住人、「建安マエストロ!」とか好きそうだな。

183 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 00:02:04.28 .net
>>181
清少納言と藤原行成の逸話ですよー

藤原行成は書の名手で三蹟の一人に数えられる人だが、当時の基本教養である和歌がさっぱりだった
そんな彼が清少納言と恋の和歌のやり取りをしてたが
清少納言の「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
(夜中に朝を告げるニワトリの鳴きマネをしても大阪の関は越えられませんよ=私との逢瀬はなかなか難しいですよ)という歌に
行成は「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鶏鳴かぬにも あけて待つとか」
(大阪の関は簡単に越えられるのでニワトリなんか鳴かなくても開けてるらしいですよ=あんたホイホイ男と逢瀬をする軽い女だって噂だから別にいいでしょ)
という直球すぎてデットボールな詩を返した

ちなみに清少納言の歌は百人一首に入ってるくらい有名でいい歌だったりする
行成さんは政治方面も優秀で男気がある方だったっぽいんだけど、誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

>>182
今でも続き待ってますよ
曹植系男子も結構好きだったりする

184 :ジャイアニズム:2012/10/24(水) 18:08:00.96 .net
文学など軟弱者のすることぞ!
文学よる富国強兵に努めよ!

185 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 20:09:33.20 .net
項王様は該当スレにお引き取り下さい

186 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 20:17:12.05 .net
>>183
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

魏武帝陛下   チビガリ
蜀昭烈帝陛下  ヒゲなし
呉大帝陛下   酷い酒乱
呉桓王殿下   酷いイケメソ自慢

デキる漢でも欠点ぐらいあるさ、にんげんだもの

187 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 22:23:49.02 .net
>誰にも欠点ってあるもんですねw(宣帝陛下を見ながら)

まぁまぁ…変な詔で遊んでる何処ぞのスイーツ皇帝に比べればまだボロは出してない方さ…

188 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 22:25:52.19 .net
>>187
だがスイーツ()皇帝は名文家である。
たとえどんなに内容が下らなくても文章は名文である。

189 :無名武将@お腹せっぷく:2012/10/24(水) 22:26:48.55 .net
>>183
ありがとう、そういうことか。
てっきり「宣帝みたいな奴は信用できるか」みたいな和歌があるのかと思った


190 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/05(月) 17:36:16.49 .net
まあ仏教文化のパクリってとこかな
洛神賦の洛神は経文における天女のようだし

191 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/08(木) 21:32:47.15 .net
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /

192 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/09(金) 19:02:37.37 .net
いやこの時代って本当にある種仏教文化の全盛
中国文化は根底から変わり飛躍的に進歩した
曹植は仏教についての論も書いてるし

その後の時代は胡人達も仏教だけを信奉していればよかったのに
変に、遅れたシナ文化の圧力に負けて、仏教を素直に受け取れなかった
そのくびきが後にまで影響を与え中国が進歩できなかった理由だろう

日本は対照的に仏教の研究に励んだので先進国になれた

193 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/09(金) 19:11:06.07 .net
>>192
あなた創価学会員ですか?

194 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/09(金) 19:19:30.28 .net
仏教を弾圧、儒教を国教化した中国・朝鮮
(朝鮮は近世以降キリスト教を受容)

キリスト教をを弾圧、仏教を事実上国教化した日本
(儒教は必要最低限のみ受容。
ちなみに神道は宗教というより祖先霊の祭祀ならびに
処世道徳という方が近い)

これが進歩できない国と進歩できる国の差ですね

195 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/09(金) 22:20:10.05 .net
               .|   |  | |   |    |  | |   |   |   || | |
               .|   |  | レ  |    |  | |   |  J   || | |
    ∩___∩    |   |  |     J    |  | |  し     || | |
    | ノ\   ,_ ヽ  .|   レ |      |  レ|       || J |
   /  ●゛  ● |   .J      し         |     |       ||   J
   | ∪  ( _●_) ミ             .|    し         J|
  彡、   |∪|   |              .J                レ
 /     ∩ノ ⊃  ヽ
 (  \ / _ノ |  |
  \  "  /  | |
   \ / ̄ ̄ ̄ /
      ̄ ̄ ̄ ̄

196 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/18(日) 22:31:46.23 .net
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・謡俗詞オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |


     ♪  Å
   ♪   / \   甕中無斗儲♪
      ヽ(´Д`;)ノ    發篋無尺潤
         (  へ)    友来従我貸♪
          く        不知所以応♪


   ♪    Å
     ♪ / \   甕(かめ)の中には 食いものが無い♪
      ヽ(;´Д`)ノ   箱の中には 着るものが無い♪
         (へ  )    トモダチ来てさ 貸そうとしてさ♪
             >     モノを貸すにも モノが無い♪


   | \
   |Д`) <こんな作品を作っちゃう曹操。息子の上留田行も遺伝ですね。
   |⊂    この親子相手に、そんな畏まった評価は要らないと思うデスヨ。
   |


   |
   | ミ  ピャッ!
   |

197 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/20(火) 02:58:41.12 .net
>>196
ワロタww

ところで曹丕の呉質書について的な論文で、後世で影響を受けていると思われる書簡に
南朝の蕭統、蕭綱兄弟のものと陳後主のものが例としてあって面白かったので
ほかにもそういうタイプの書簡があるなら見てみたいのでもし良ければお願いしますorz

グルメ皇帝はやっぱり人気者だな〜

198 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/21(水) 23:37:08.27 .net
んーと、対象は与呉質書だけ? ほかの書簡てことは詩なども含む?

影響を及ぼした対象というのが、曖昧すぎて…
該当するだけなら、謝霊運の「擬魏太子?(ギョウ)中集詩八首」もそうだし

199 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/22(木) 02:09:46.20 .net
197です。言葉足らずで申し訳ない

模擬詩は含まずに実際の君→臣への書簡で亡くなった臣下について触れていて
呉質書のように身分差を感じさせない親愛や懐かしい思い出、文人としての批評などを1つに含むものがあれば…ということです

これでも曖昧でしたらすみませんorz

200 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/23(金) 14:02:13.86 .net
>>197の言う論文をざっと見た。
この論文で言う、「文学批評」「文雅の遊」「身分を越えた連帯感」「失われた悲しみ」
この4つを受け継いだ文章が他にもあるか? ってこと?

それは、悪いけど判らない。
魏以降、皇族が芸術家集団を率いて宴会を行うケースは非常に増えてはいる。
文選以外で、文学集団を率いた皇族の手紙を片っ端から探せば、あるかもしれない。六朝だと、竟陵王の八友かね。

201 :無名武将@お腹せっぷく:2012/11/23(金) 19:36:20.06 .net
>>200
そうですそうです!
なるほどー、宴会が増えているのなら希望はありそうですね
文も歴史も最近興味を持ち始めたので、自分で探すにもどこから手をつけるべきかと思っていたのですが
ひとまずその竟陵王の八友周辺から当たってみます。お答えいただきありがとうございました

202 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/05(水) 07:07:03.47 .net
もうないだろうと思いつつ検索してみたら…このスレまた立ってたのかー、嬉しい!

まとめにある司馬懿の作品ってポエムwひとつだけだけど、確か遺言なんかも残してたよね
内容が「曹丕(または曹叡)と同じ所に葬れ、他の奴を入れるな」というような感じで、
曹丕にも司馬懿にも無双のイメージが強い自分はエッと驚いた記憶があるんだが、どなたか詳細ご存知の方おられないだろうか
内容は私の勘違い記憶違いかもしれないし、ちゃんとした司馬懿の遺言内容が知りたい…

203 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/05(水) 21:50:56.34 .net
>>202
一番有名なのは、晋書巻一
>先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。
>晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

「作顧命三篇」というのが曲者で、下記のリンク先(日本語訳)にあるとおり、諸説ある。
ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html#P4

あと、「同じところ」については、
三國志魏書巻二 魏文帝
>六月戊寅,葬「首陽陵」。自殯及葬,皆以終制從事。

隋・唐王朝は司馬懿の研究もしており、その成果として「晋宣帝文集」というのが十巻(五巻?)あった
残稿があるらしいので、全三国文・全晋文を探せば見つかるかも試練
あとは、曹植が司馬懿に送った手紙などは現存しているので、当時の常識程度には文筆家だったと思われ

204 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/05(水) 21:56:33.85 .net
っと、隋王朝が5巻つくって、後から唐が追加して十巻になったんだったか>「晋宣帝文集」
気力ゲージ切れとるんで、後は他の方のレスでもお待ちください

205 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/07(金) 20:41:53.13 .net
ありゃ、誰も来てないか

206 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/08(土) 23:08:32.04 .net
人がいないよーなので、ちゃんとした遺言とやらを書きなぐってみるテスト。

まず遺言について、晋書の記述を中央研究院から引用。
>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,
>(A)於首陽山為土藏,(B)不墳不樹;(C)作顧命三篇,(D)斂以時服,(E)不設明器,(F)後終者不得合葬。

訳:九月庚申、河陰で弔われた。文(文貞という説もある)と諡し、のちに改めて宣文と諡した。あらかじめ、終制を作り、預けていた。
A.於首陽山為土藏 (墓は首陽山に作れ)
B.不墳不樹 (土盛り、植樹をするな)
C.作顧命三篇(?)
D.斂以時服 (平服で納棺しろ)
E.不設明器 (祭器を副葬するな)
F.後終者不得合葬 (後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな)
これらの遺命どおり、執行された。

ここでの「C.作顧命三篇」について、>>203のリンク先では、魏皇帝の手紙三篇を、司馬懿の墓に納めたとする。
しかし、この顧命は、「司馬懿の遺言」が正解だと思う。台湾も、Bでいったん区切ってるし。
同じ晋書の列伝第五十三に、司馬懿が「顧命終制」と呼ばれる遺言を出したと、発言している。

>「以宣皇顧命終制,山陵不設明器,以貽後則。景帝奉遵遺制。
(宣帝陛下(司馬懿)は顧命終制で、山陵に明器を設置するなと仰せになったので、後の皇族もこれに従ってます。以下略)

よって、前もって作られた「終制」の内容が、「A.於首陽山為土藏」「B.不墳不樹」。
(曹丕も、黄初7年に亡くなる4〜5年前、黄初3年に終制を発している)
死ぬ時に発した「C.作顧命三篇」の、「顧命」が、「D.斂以時服」「E.不設明器」「F.後終者不得合葬」の三篇(3つ)。
このA.B.D.E.F.が司馬懿の遺言であり、魏皇帝の手紙を自分の墓に埋めろと言ったわけではない。
晋書における晋皇帝の記述なので、皇帝の遺言扱いでも問題ない。よって、

「墓は首陽山に作れ、土盛り、樹をするな」
「平服で納棺しろ、祭器を副葬するな、私の後に死んだ者(妻や妾、殉死者)と合葬するな」

というのが、晋書に記された遺言ということになる。内容としては、魏晋代の考え方としては普通ね。

ただ、正史曹操の遺言と、陸機が記した曹操の遺言との内容が、違うからなー。
陸機が記した曹操の遺言は偽作だという説もあるが、司馬懿の遺言が他にもあるとしたら、そっちまでは判らない。調べれば判るかもしれないけど。

207 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/08(土) 23:18:38.37 .net
いずれにせよ、司馬懿は遺言通り、首陽山に葬られた。この首陽山の東(北)に、曹丕と郭皇后が合葬された首陽陵があるとされる(>>203)。
司馬懿が直接、「自分を曹丕の近くに葬れ」と遺言したのではないが、まぁ曹丕の近くであることは判っていただろう。

ただ、洛陽の北は、有名人の墓が多い。
土や景色、風水の配置もよかったから、洛陽の著名人が死ぬと、まず洛陽城の北(北芒、もしくは北?{亡β})に葬られた。
後漢の建武十一年に皇族の城陽王が葬られて以来、洛陽北部は、後漢の皇帝王侯の墓地になった。後漢光武帝の墓も漢魏洛陽の北にある。
あの辺は、他にも、秦の呂不偉、曹魏、西晋、北魏などの皇族、大臣、唐代の杜甫などの墓があった筈。

死んだら洛陽の北に葬るのが、当時の王侯貴族の流行であって、曹丕と司馬懿の墓が近い=特別な事情があるとは断言できない。
逆に、特別な事情はない、とも断言できないし、しない。想像するぶんには面白いだろうしw

以上、どっかミスってたり、すっぽ抜けてたらスマソ

208 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/09(日) 15:31:25.10 .net
おお、暫く来ない間に面白い話題で盛り上がっているw

>>202
無双の司馬懿の「凡愚がはびこるくらいなら自分が天下を取る(ただし曹操や曹丕は凡愚じゃないから逆らわない)」というキャラも結構好きだけど
個人的には司馬懿ってそんなに野心的な奴だったのか?という疑問が多々あったりする

曹爽一派へのクーデターだって今まで隠していた野心をついに表に出した結果だという意見もあるが
クーデター当時の司馬懿は72歳と超高齢で同年に死去するくらいのお年寄りだし、待ってたというよりは曹爽達のバカっぷりに
「隠居しようと思ったけどあのバカ共には任せられん、陛下への最期の奉公に奸臣共を一掃しよう」という感じだったような気もする
唐の太祖の意見に皆流されすぎじゃね?と思ってしまうひねくれ者がここにいますよ

>>203-207
なるほど、直接曹丕の近くに埋めてくれと言ったわけではないのか
それでも当時の認識として魏の初代皇帝の墓が首陽山の近くにあるのは一般常識だろうし、司馬懿に何か思うところがあったのは確かかなーという印象を受けた
ただそれが明確な忠義からくるものなのか、曹爽一派一掃は野心のためではなく曹丕たち魏への忠義からくるものであると示すパフォーマンス的なものなのかはわからないけど

陸議が言う曹操の遺言は曹瞞伝的な感じが強くするんだよなぁ、呉の人だしそういう嘘っぱちがまことしやかに語られててもおかしくないかな、とww

209 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 19:09:40.65 .net
>>208
いやぁ、別にひねくれてはいないんじゃね?

曹操の作品は、作品中やラストを昔の有名人の名前や言葉を出すものがあるのよ。
(少なくとも短歌行其の一、苦寒行、秋胡行、薤露)
中でも、周公、斉桓、孔子(論語)がやや多い印象。個人的なものだが。
後世では、これは作者本人の意思を仮託しているとされる。(個人的にはこうありたい、という理想を表したものと考えているが)

で、曹操の短歌行其の2は、周文王の聖徳→斉桓公の徳→晋文公の詐称と読み上げていく内容。
そして、司馬懿の勢力は晋。偶然にしては出来すぎだと思わん?
また、王朝の称号を、偶然で片付けていいものか? そこに意図があるなら、何か?

曹爽一派へのクーデター、首陽山の近くの墓、いずれもパフォーマンスだとしたら、
>>208の意見だけでなく、短歌行其の2を踏まえた上で、漢→魏→晋と続く正当性というか、「自分のほうが、あんな若造より魏を知っているんだぞ」みたいな主張もあると思う。
と同時に、「自分の威は、曹操や曹丕の徳には追いつけない。所詮は詐称者に過ぎない」という一種の謙遜でもあるかもな。
まぁ、魏晋代は過去の作品を弄っているんで、曹操の作品を、上記の考えにあわせて作り変えた可能性も否定しないけど。

陸機はねぇ。張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」みたいなことを言われてるからなぁ。
ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。

210 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 20:44:49.97 .net
>>209
>陸機はねぇ。
>張華に「わしらは言葉がでなくて困ってるのに、君は言葉が出すぎて困ってる」
>みたいなことを言われてるからなぁ。
>ちょっと口が過ぎて、敵を作ってしまう事もあったんだろう。

何せ陸機さんの曾祖父様は
「軽はずみというか、「爽やかー!」な性質の人だったのでしょうw」
「遺言は悲愴感ないねー(笑) 」
「もうすこし悲愴になれww 」
とまとめサイトで言われているあの御方ですからw

211 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 21:23:11.41 .net
>>209
…アカン曹髦が司馬昭を晋公に任命しようとした意図とかそれをきっちり断った司馬昭とかそういうの思い出していろいろ勘ぐりたくなってきた
曹操の魏公就任→魏王就任→曹丕の皇帝即位の流れから司馬昭は断ったんだろうと単純に思ってたけど、もしかしてそんなレベルの話じゃなかったのか、これ…

>>210
義兄弟はもう涙なくして読めないような悲壮かつ感動的な遺言残してるあのお方っすねwww
…まぁ信頼出来る義兄弟に将来有望な弟を託す人と
そんな義兄弟の期待に答えようとしたけど結局果たせなかった人じゃ悲壮感が違うのは無理ないけど

そういやそんな爽やか兄さんの後継いだ弟さんはどんな遺言残してたのかな

212 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 22:16:39.72 .net
あぁ、>>209でひとつ忘れてた。司馬懿の諡だが、台湾中央研究院の晋書から引用

>九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。
(諡は文という,後に諡をあらため、宣文とした)

すなわち、「晋文」だ。

>>211
あぁ、そっかそっか……言われてみれば、司馬昭が晋公を断ったのか。あいまいになってた

確かに勘ぐりたくなるわ。結局は晋を名乗った、しかし高祖の諡を文→宣文→宣帝にしている。
曹髦の最後の嫌がらせなのか、それでも晋を名乗らざるを得ないほど、当時の司馬一族が不安定だったのか、
「晋」が持つ意味は、想像以上に重いのかもしれん

>>210-211
…なんという説得力orz>爽やかさんは、子孫もやっぱり爽やかですたw

弟さんこと孫権の顧命終制を探してみたけど、どちらも出てこないなぁ。

213 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 22:52:16.00 .net
>>212
王朝の名称はその王朝が起きた場所で決まるらしい
例えば蜀漢は春秋・戦国の頃の古蜀などあの西地域を指す蜀から来てるし
孫権の呉も春秋の呉から来てるし、曹操の魏も戦国の魏と同じ地域だから
司馬昭が晋公に任命されそうになったのは、司馬氏が河南省(春秋の晋の地域)出身の豪族だったからだと思うよ
うろ覚えだから違うかもしれんが、名前が晋なのは当然なんだけどいろいろ勘ぐれる名前なのは事実
そもそも春秋の晋が分裂して出来たのが戦国の魏だし…

214 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/10(月) 23:57:42.72 .net
>>213
うん、本当に色々勘ぐれる名称だは

晋という称号自体は、213の言う通り、古い地名説が一番妥当だと思われ
逆に、漢魏の前例や、出身地の古名から、司馬一族が王朝を開くなら、まずは晋が来ることは判っていたと思う

では、司馬懿の諱が変わっているが、よくあることなのか?
変えるぐらいなら、なぜ文と言う諱をつけたのか?曹丕と同じだからか?
文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
司馬一族が実権を握っていたなら、晋以外の称号に出来なかったのか?
調べてみないとわからんが、六朝時代以降、王朝名イコール地名とは限らなくなっているのは、異民族だから名乗れそうな地名がない、それだけの理由なのか?

「晋」は想像以上に重いと言うのは、由来もだけど、むしろ、上でいう諱問題や、晋の名がもたらした(かもしれない)結末の方だな。
どれも大した問題じゃないと言えばそうなんだが、そういうのを考えていたら、ちょっと混乱した

215 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 00:08:05.83 .net
投稿した後で気付いた、連投スマソ
今ちょっと確認できないんだが、司馬懿の諱については別の字だという(貞?忘れた)説もあった気がする
2つあるなら、どっちが正しいか、間違っている方は、なぜ、その字が出てきたのか?という問題も出てくる

216 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 00:27:10.13 .net
>>202です

>>203-207
うおーすごい!ありがとうございます!!
そもそも洛陽の北に墓を作るのが当時のトレンドだったんですね
当時の時代背景などは考えてなかったので、その辺りすごく参考になりました

曹丕・司馬懿の主従が好きな身としては、実際のところがどうだったかは分からないにしても、余白を読んであれこれ想像を巡らせることの出来る遺言でよかったですw


それにしても、てっきり人少ないものと思ってスレ覗くの怠ってたら何やら興味深い流れに…
三国時代初心者の私としては、このスレは本当に勉強になるので有り難いですー

217 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 00:34:39.59 .net
そもそも諡号の宣ってどういう意味だっけ?って思ってググったけどいまいちわからんなぁ
で、調べてるうちにこんなん見っけた↓晋書の記述らしいけどどこの話なんだろ。

文帝(司馬昭)が上表して謙譲した。
「わたくしの亡き父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖(曹操)がつねづね区別をしていたからでございます。
いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」
詔勅により許され、忠武と諡された。
この文章で諡号が与えられたのが誰なのかイマイチわからんが、司馬懿の諡号に関してヒントが出てるような気がする

で、ここで出てくる霍光(諡号は宣成)って人なんだけど、『晋書』の宣帝紀にこんな記述を発見

(司馬懿の)葬儀の格式は漢の霍光の故事にならったものとされた。

この漢の霍光さん、漢の武帝の命で幼帝を補佐した政治家らしいが
そういう政治家にありがちな権力欲に取り付かれて国を滅ぼすようなマネは一切せず幼帝は成人しても霍光を信任し続けたらしい
昭帝への反乱の企てを察知して処理したりもしてる非常に有能な補佐役
まぁ昭帝が子供が出来ずに亡くなった後、次に選んだ皇帝を27日で廃して新しい皇帝を建てるなんてこともしてるけど
で、その次に選んだ皇帝の諡号は宣帝
多分当時の人(司馬昭含む)は司馬懿を野心家の逆臣ではなく、幼帝を補佐した清廉潔白な政治家と考えてたんじゃないかな
ちなみにこの霍光さん、宣帝に政権を委ねるって言われた時の返事に「関(あずかり)り白(もう)す」って言ったらしい
これが日本の関白の元ネタらしいよ

>>216
私もまだまだ勉強不足なんでいろいろ助かります
皆さんの意見聞くとほんとに目からウロコ落ちるんですよね

218 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 00:45:07.19 .net
連投すみません

文帝(司馬昭)が上表して〜の文相は晋書景帝紀で司馬師の話でした
司馬師が死んだ時に、曹髦が司馬師の諡号を武侯にしようとしたのに対して司馬昭が辞退した時の上奏文だったようです
司馬師の葬式の時も司馬懿の時と同様霍光の故事に倣ったらしい

司馬懿が霍光の故事に倣った葬式だったのは幼帝を補佐して反逆者を一掃したからだけど
司馬師が霍光の故事に倣った葬式だったのは皇帝を廃して新しい皇帝を立てたから
…のように見えなくもないんだけど邪推かな

219 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 22:36:45.77 .net
>>217-218 資料探索乙っす。>>214-215のうち
>文では都合が悪かったなら、どのように都合が悪かったか?諱の変更以外に解決法はなかったのか?
についての、司馬氏側の動きが、>>217-218ですな

晋書の帝紀第1から引用
>天子 素服臨弔,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。

晋帝紀第2から引用
>二月,帝之喪至自許昌,天子素服臨弔,詔曰:「公有濟世寧國之勳,克定禍亂之功,重之以死王事,宜加殊禮。其令公卿議制。」
{司馬師がなくなると、許昌から都へ運ばれ、天子が喪服で葬儀にのぞんだ、詔にいわく、「公(司馬師)は国を安定させた功績(ry)王事に殉じたのであって、特別な礼を加えるべし。公卿の協議で決めよ」}

>有司議以為忠安社稷,功濟宇内,宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍,摎W五萬戸,諡曰武公。
(協議の結果、天下を救った功績により、霍光の故事に従うのがよろしいと決まり、諡を武公とした)

で、司馬昭の言う、>>217の内容が続く。
司馬懿、司馬昭ともに霍光なんだな、確かに…宣帝により一族どころか縁者関係者のきなみ皆殺しにされてるねぇ。
晋書だけで見るなら協議の結果が霍光に習ったもので、司馬昭の言葉だと司馬昭が霍光に習って変更するよう提案しているし
両方とも霍光にならったんなら、協議は何をを霍光に習ったか
漢書の該当項を見たんだが、眺めただけじゃ、判らなかったorz

諱のつけ方としては、基本的にその人物の人となりを表すものだと思ってたんだが何で文にしたか?が判らん。師は「協議の結果」だけど
司馬懿なら、文より宣の、広く公開する、古代の皇帝が座する部屋、皇帝の命令、そんな意味合いの方が、正直確かに似合…失礼

220 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 22:41:44.12 .net
ただまぁ、晋が、「魏を補佐した功績」を強調しているのは確かだな。
「晋鼓吹曲二十二篇(軍歌曲みたいなもの)」以下一部引用

*霊之祥
>序:(ry)「《霊之祥》は,宣皇帝(司馬懿)の魏を補佐すること,昔の舜が堯に仕えるがごときであった事を(ry)」

>繼大舜,佐陶唐。讚武、文,建帝綱。
(大舜の意思を継ぎ、陶唐を補佐する。武文を讃え、帝綱を建てる)

大舜(舜)、陶唐(尭)は神話上における五帝の名前。
舜は尭を補佐して天下を治め、尭から禅譲を受けた。また、陳・田斉の祖でもある。実はこれも微妙なんだよなぁ…幽閉説もあるし

*宣輔政
宣皇輔政,聖烈深。撥亂反正,從天心。
(宣皇は政を輔佐し,聖烈深し。反乱をはねのけ反を正し,天心に従う)

あと>>215の司馬懿の諡についてだが、晋書の注に
>諡曰文後改諡宣文 各本皆作「諡曰文貞,後改諡文宣」。考異:「按禮志,魏朝初諡宣帝為文侯,景帝為武侯。文王表不宜與二祖同,於是改諡宣文、忠武。然則初諡文,無『貞』字也。禮志及文帝紀並稱舞陽宣文侯,宋書禮志同。此云『文宣』,亦轉寫之誤。」今據改。

というわけで、「文貞」をのちに「文宣」に変えたという説もあるが、文帝の上奏内容から、貞は誤字だろうというのが今の考え方らしい。

221 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/11(火) 23:52:39.94 .net
霍光の葬式は準皇族並の規模で盛大に行われたらしいけど、司馬懿も司馬師もそれくらいでかい規模で送られたってことかな

そもそも後半生(というか曹叡以降)西から東へ戦場を駆け巡った大将軍に文って諡号はどうなんだこれ
本人が文が良いとか遺言したわけじゃないだろうし

222 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/12(水) 01:46:55.88 .net
久々に三戦見てみたら懐かしいスレが復活してたんだな良かった

文って字は諡号としては格が高い方じゃ無かったっけか
歴戦の大将軍と言っても降したり領域拡げたわけでは無いし官職の一つなんだから文が相応なのではないかね

223 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/13(木) 19:28:54.23 .net
アク禁イヤンバカン
>>222
なるほど、皇帝なら周文王と武王、臣下なら周文公の文がまず最初に来る
司馬昭の上奏にもあるとおり漢でも重要だから、事実上のトップに最高級の称号を贈るのは、普通にありうるのか

224 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/13(木) 21:58:00.30 .net
あ、解除されてら。既に判っている内容も含むけど、大目に見てくれ

まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
原文と日本語訳は、「短歌行 其の二」で検索すれば出てくるので、ここでは略する。
この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による晋王朝、司馬懿の諡号である文と一致している。

で、前に「周西伯昌」を訳したときは、
(まぁ偶然かもしれんが、当時も気づいた人はいただろう。晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

ところが「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の文を変えるよう上奏している」
つまり、「周西伯昌」が、作者の意図とは別に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。

この問題に対し、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諱変更問題」側からのアプロ−チが考えられる。

まずは「周西伯昌」についてだが、謎といえば謎が2つある。

1)史書の掲載
まず、晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。
(曹操の作品自体、「歩出夏門行」のうち、「艶」を削除した晋楽所奏《碣石篇》が、名無しさんとして掲載されているだけ。晋楽所奏として「對酒當歌」が改変されたものはあったようだが、掲載はない)

宋書楽志だと、其の一と其の二が逆。
ためしに、宋書楽志第三から、同じタイトルが複数ある作品を、掲載順に並べてみる。
左からタイトル、作者、歌いだしの部分を、宋書の掲載順に並べたもの(内は楽府詩集等、後世の主な掲載順)

短歌行 魏武帝詞 周西伯昌(2)>對酒當歌(1)
燕歌行 魏文帝詞 秋風蕭瑟天氣涼(1)>別日何易會日難(2)
秋胡行 魏武帝詞 晨上散關山(1)>顧登泰華山(2)
善哉行 魏文帝詞 朝日樂相樂(1)>上山采薇(2)>朝游多高臺觀(3)
善哉行 魏武帝詞 古公亶甫(1)>自惜身薄?(2)


善哉行 魏明帝詞 我徂我征(1)>赫赫大魏(2)

短歌行のみが、1と2が逆なんだよ。
まぁ宋書楽志自体、他の本が甄夫人作とする塘上行を曹操作と言ってたりと、詩集としては異質ではあるんだが。
なぜ逆なのか? については、後述。

225 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/13(木) 22:16:51.28 .net
2)「周西伯昌」に込められた志
当時の詩は、基本として、志(どうしても詩にしたいと思った理由、思いのたけ)を詠む。
曹操の短歌行其の一であれば、人材を求める志。歩出夏門行なら一応、「幸甚至哉!歌以詠志」。

「周西伯昌」の場合は、これが判りにくい。一見、故事の羅列だから。
なので、後世では忘れられた。文選、古詩源もそうだけど、「周西伯昌」の登場しない詩集が出てくる。
これが1)の掲載順に対する回答1。

しかし、曹操の作品は楽府、つまり宴会など人前で奏でることを前提に作られた。また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、ある意味重要な曲だ。
曹操の居城で、重要な曲を使って、歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?

先行論文として、「正当性の主張と、自戒をこめたもの」とする説、「受命(漢魏禅譲)問題に対する、曹操の己の苦悩する志」とする説がある。
私が訳したときも、上記の論文と、孫盛説の「周囲に帝位をすすめられたとき、曹操は『天命が我にあれども、我は周文王となろう』といった」説から、「曹操の理想が周文王、現実が斉桓、晋文にだけはなりたくない」と解釈した。
あるいは、善哉行其の一や董卓歌詞、「宦官を滅ぼしても天下は変わらん」みたいな発言から、皮肉かと思った。

ただ、上記の説だと、曹操が自分のほかの作品で、周文王と周武王をとりあげないのは何故か?
(分析対象となる作品の母数が少ないけど、周文王と晋文は「周西伯昌」でのみ登場、周武王は登場0)
短歌行、苦寒行、で周公をあげたり、最晩年によまれた秋胡行其の一で「周西伯昌」にも出てくる斉桓の「正而不譎」を使って自分を慰めるあたり、曹操は初期は周公、後期は斉桓に親近感を懐いていたのではないか?
何より、自戒や自分の苦悩を、人前で、重要な曲を使って、歌う必要があったのか?

私なりに考えるのは、上記の説に加え、「臣下に対し、『禅譲の意義、漢魏禅譲の覚悟』を問いかけるもの」
この詩を発することで、魏を詐称者にしないよう、周囲に協力することを求めた。
この詩に答えるように、臣下から連判状や上奏が出て、曹操も受命問題に関する自分の敵味方を見分けられる。

だとすると、漢魏禅譲が済んでしまえば用済み(というか皇帝にとっては邪魔)だし、曹丕が自分の短歌行を、父への鎮魂歌にした理由もまぁ解決?
これが、1)の掲載順に対する回答2。

と同時に、こんな曲がぶんがぶんが流れていた朝廷で、「晋文」をそのまま名乗るのは、勇気がいる。
晋が成立した後も、詩に詳しい人間ならこの詩を思い出し、晋の詐称を思うだろう。特に八王の乱以降は。

ここで「司馬懿の諱変更問題」にみる、魏晋の禅譲問題が出てくる。
これについては、魏晋禅譲の時系列と、霍光の葬儀問題をまとめないと混乱するorz

先行論文も探したいけど、手がまわらん…また後で。

何にしても、この「周西伯昌」、下手すると漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになるぞ。
正直、何でこの作品があの「對酒當歌」と同じ短歌行なんだ?と思っていたが、違うね。對酒當歌とは別の意味で、短歌行に相応しいわ。

226 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/14(金) 00:26:38.45 .net
うーん…曹操の漢魏禅譲への考えは諸説あるからねぇ
その人がどの説に立つかによってかなり解釈は変わってくるのがまた大変だ…

素直に曹操の発言や詩の内容を読めば、自分はあくまで漢の忠臣でありたいと言ってるように読める
しかし荀ケの発言について正史で「不快に思った」という記述があるからそういう発言は建前だったと考えることも可能だ
ただ個人的に正史の「〜と思った」という記述については疑問がある(思っただけのことがどうして記録に残るんだ)
実際曹操は散々群臣たちから勧められつつも自分の代では禅譲に応じてないからな
禅譲にむけて水面下でいろいろやってる群臣たちへの心の叫びだったんじゃないかな、というのが個人的な意見

で、疑問なんだけどこの詩本当に魏王朝でしょっちゅう詠われてたのかな?
皇位簒奪の意思なんかなかったのに息子の代で奪っちゃいました☆って親父の意思に反してるからいろいろ問題があるような気がするんだけど…
むしろ積極的に詠われてて曹操に簒奪の意思はなかったって言うことが周知の事実だったら晋の時代陳寿が「荀ケの発言を不快に思った」なんて記述はありえない気がして
それとも曹丕が禅譲した時点で口ではああ言ってたけど実際は簒奪の意思が合ったと思われてたのかな?


あと司馬懿の諡号はいつ変えられたんだっけ?
司馬師の代か司馬昭の代かでまたいろいろ変わってくるような気がする

227 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/14(金) 23:33:43.89 .net
おっしゃるとおり、解釈は人によって異なる。
だから曹操の詩も、本来の意味と周囲の受け取り方両方を検討する必要があるが、特に秋胡行が曲者なんで、ちょっと置いとく。

ここでは、「周西伯昌」のうち、斉桓にもとづいて、「小白不敢爾,天威在顏咫尺」をベースにしている。
神聖な肉を賜わるとき、周の使者は「堂下で拝礼しなくてよい」と伝えた。これを桓公は断って、堂を降りて拝し、 堂に登って胙を受けた。あえて近づかずとも、天威は常に顔の傍らにあった。
この解釈で正しいならば、天子=皇帝とは限らない。天子の臣下に、もう一人の天子を置くのも答えだ。
「わざわざ皇帝にならずとも、天子にはなれる。それでもオマイらが禅譲させたいなら、禅譲を起こすことで何を天下に示すか、その意義と覚悟を決めろ」、曹丕の代は「その覚悟を忘れるな」、と言えばいいか?

何にしても、曹操は禅譲問題に関しては、これ、という自分の意見を明確に決めてないと思うよ。「俺的に」レベルの話だが、必要ではない事項を曖昧にしといて後は臨機応変、というのは法治的によくある話なので。
だから周囲は、曹操には簒奪の意思がないとも考えるし、あるとも考える。

斉桓も後世の評価がさまざまで、上記の肉を賜った話も、謙譲と言われたり、逆に野心のあらわれとも言われる。封禅の儀を行おうとして、管仲に止められたって話がある。
同じ儒でも孔子は斉桓を褒め称えているが、孟子はけなしているし、荀子は一応評価したうえで、小人の英雄であって見習うべき大人ではないと言っている。


短歌行が実際に魏で演奏されていたかについては、それが「周西伯昌」のことならNoだな。演奏するなら、まず曹丕の「仰瞻帷幕」、次があるとしても、「對酒當歌」だろう。
だけど、短歌行の曲が変わらない限りは、イコール「周西伯昌」の曲が流れることになると思う。

曹丕の「仰瞻帷幕」については、楽府詩集からの又又引きだが、

>“王僧虔《技?》雲:‘《短歌行》“仰瞻”一曲,魏氏遺令,使節朔奏樂,魏文製此辭,自撫箏和歌。歌者雲“貴官彈箏”

,貴官即魏文也。

あと、陸機が弔魏武帝文で言う、

>月朝十五[日]、輒向帳作妓。汝等時時登銅雀(爵)臺、望吾西陵墓田。

この二つが本物とするなら(偽説もあるので仮定になっちまうが)、曹操の遺言で、月はじめと15日には、それなりの規模の演奏があったことにならんか?
この全部で短歌行を奏でていたわけではないだろうし、曹丕が自ら奏でた理由や「しょっちゅう」の定義にもよるが、
まぁそういう環境では、「周西伯昌」を知らない人が新たに知ることはないが、知っている人は忘れにくいだろう、と思ってた。

228 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/17(月) 19:34:27.63 .net
>>224の件についてだが、晋書帝紀の1、2巻だけじゃ判らん
司馬懿の諡号・魏晋禅譲がらみの時系列を上げてみるテスツ。晋書 帝紀第1、第2から抽出。あくまで晋書ということに注意

嘉平
元年
 春正月、曹爽が魏皇帝とともに高平陵へ。司馬懿、司馬師、対曹爽クーデター。
 冬十二月、九錫の礼を加えられ、朝会において拝礼せぬことを許された。九錫は固辞。

二年
 春正月、魏皇帝が司馬懿に「洛陽に廟をたてる」よう命じる。司馬懿が病みがちのため、大事があるときは、魏皇帝が司馬懿の屋敷に訪れた。

三年
 春正月、王?の乱。
 夏四月、司馬懿が王?の乱を鎮圧。
  皇帝が使節を派遣、「司馬懿を相國となし,安平郡公に任ずる」。司馬懿は相国を固辞し、安平郡公を受けず。
 秋八月、司馬懿死去。
  皇帝は喪服で弔問。葬儀の威儀は漢の霍光の故事にならった。相国と郡公を追贈。
  弟の司馬孚は、故人の遺志を理由に、郡公および??車(始皇帝陵からも出土した銅車馬)は受けなかった。
(葬儀について、漢書霍光伝の該当部分抄訳:喪は皇帝、皇太后他お偉いさんが臨席した。色々賜った。棺を??車にのせた。諡を宣成侯にした。祠には村を置き、長く旧法のごとく守らせた)

 司馬懿が死去したとき
  議者「伊尹既卒,伊陟嗣事」、天子は司馬師に命じて、撫軍大将軍として政を補佐させることとした。
 九月庚申、司馬懿を河陰に埋葬。文と諡し、のちに改めて宣文と諡した。司馬懿の遺言>>203

四年
 春正月、司馬師が大將軍に。侍中,持節、都督中外諸軍、録尚書事。
  百官に命じ賢才をあげ,年齢の少長を明らかにし,窮者獨人を思いやり,廢滯(廃棄品、もしくは人)を整理。
  制度を変えようという意見があったが、詩経の故事をあげ、魏の制度のうち、軍事以外のものは変えないとした。

五年、呉、諸葛恪の侵攻。

229 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/17(月) 19:35:11.39 .net
正元
元年
 春正月、天子、李豊、張緝らにより、補政を司馬師から夏侯玄に移そうとする動き。
  司馬師、首謀者の李豊を捕らえ、また関係者を三族まで皆殺しにした。
 三月、司馬師、魏皇帝に皇后張氏を廃するよう密上奏。
  これを受け、魏皇帝は「周勃が呂氏を亡ぼし、霍光が上官桀を捕らえた」ことになぞらえ、司馬師の増邑を詔する。
  司馬師は受けず。
 ?、正月春の事件を受け、司馬師、密かに魏皇帝廃立を皇后に申し出る。
 秋九月、皇后、「今の皇帝が政治に親しまず、女色や芸人に溺れており、宗廟を奉るには相応しくない」とし、皇帝廃立の令を下す。
  皇后の令をうけ、司馬師は霍光の故事にならい、皇帝の印綬を取り上げ〔帝を〕斉王に。
  曹氏最年長の曹拠を皇帝にしようとするが、皇太后の意見により曹髦を皇帝にする。皇帝の格好や振る舞いを諌める。
 癸巳の日、曹髦、司馬師の位を相国とし、邑九千戸加増、大都督・仮黄鉞に昇進、参内の際には小走りしないこと、上奏の際には名前を名乗らないこと、履剣上殿を許す。銭五百万、帛五千匹を下賜。相国を固辞。
  司馬師、帝を諌める上奏文。皇帝は受け入れる。

二年
 二月、毋丘倹と文欽の乱。司馬師、死亡。
  司馬昭の上奏>>217
  大將軍に位をすすめる。輔政、劍履上殿。帝固辭不受。

甘露元年
 春正月、大都督,奏事不名。
 夏六月、高都公,地方七百里,九錫, 斧鉞,大都督,劍履上殿。又固辭不受。
 秋八月庚申、加假斧鉞、摯侮O縣。

二年
 夏五月〜 諸葛誕の乱
三年
 諸葛誕の乱鎮圧
 五月、晋公に封じられる。九錫,相國,晉國置官司焉。九譲し、止む。
 秋七月,先世名臣元功大勳の子孫を,才能に応じて登用するよう上奏。

五年
 夏四月、甘露2年5月と同じ詔。九讓して受けず。
 五月、曹髦が殺される事件。曹奐が皇帝になる。
 六月、改元。

230 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/17(月) 19:42:16.68 .net
景元
元年六月、二年秋八月甲寅、甘露2年5月と同じ詔。受けず。
四年
 春二月丁丑、甘露2年5月と同じ詔。受けず
 夏、蜀攻略開始
 冬十月、詔で司馬氏の功を称え、晋公とする

>故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大コ,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、〜。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け〜)

  翼戴之労というのは、周宣王の臣下、山甫の話。晋盧湛《贈劉昆》「伊陟佐商。山甫翼周」。曹操の善哉行にも出る。
  司馬師はいったん晋公を固辞するが、司空鄭沖の発言を受け、受諾
 十一月、蜀降伏

咸熙元年
 三月己卯、公→王に進む
 夏五月癸未、天子は舞陽宣文侯に追贈して晋宣王とし、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王とした

二年
 八月、司馬昭死去、9月に諡文王

武帝授禅
 司馬懿を宣皇帝、司馬師を景皇帝。司馬昭を文皇帝。

読む限りでは、>>218の葬式の理由は、それでいいと思う。
司馬師が霍光の故事にならって皇帝を廃したことを、皇帝も天下も認めたことだと言える品

司馬懿が死去したころは安平郡公(これも判らん。宗室の諸王に与えられた爵位、郡王に準じるってことか?)の話が出ていた。
まだ晋とあまり関係がなかったため、文でも問題はなかった。
司馬師の死後、司馬昭が>>217を上奏し、晋公になり、死後に司馬昭が文王となった。
司馬昭を晋公にする詔の中で、周西伯昌で別々に分けていた斉桓晋文を同列にしている。
それを元に「周西伯昌と関係がある。晋文の名が斉桓と対等になることで、晴れて晋を名乗ることが出来た」とか言う事もできるが、ビミョー。

霍光伝「霍叔(霍叔処)封於晋。晉即河東,光豈其苗裔乎?」
史記と違い、霍光から晋が興るという立場であれば、司馬懿の時点で、晋は予測されうる事項になっている。
司馬師の斉王廃立のくだりが、漢書霍光の記述に似てるんだよなー。

つまり、偶然にしては色々とあてはまりすぎている。司馬師がなぞったんでもなければ、偽造を疑う。
資料が足りないので、正史や他の本(詩や文章)も探す必要があるんだが、気力ゲージ尽きてきたので保留。そのうちまた挑戦する

231 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/17(月) 19:45:40.25 .net
っと、誤解がありそうなので。
>>228
??車が化けているので、wikiへのリンク:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/銅車馬
>>229
甘露3年の晋公は、まだ拒否している。

他にも間違ってたらスマソ

232 :無名武将@お腹せっぷく:2013/01/23(水) 21:33:42.24 .net
ここやまとめ読んでると自力で漢文読みたくなってるくるね
ただ日本も漢字文化圏だからこそ、漢文読めないなりに何となく意味は分かったりして、それも楽しいww
漢字って奥深いよなあ
とりあえず前スレの時からドキドキ五熟釜が気になってるから、自分はそれからだw

233 :無名武将@お腹せっぷく:2013/01/24(木) 19:58:44.29 .net
私は自分で読みはじめてみたよ
わからないことばかりではあるけど
少しずつ理解出来るようになってきてすごく楽しい!

234 :無名武将@お腹せっぷく:2013/01/28(月) 08:25:04.98 .net
>>232
ドキドキ五熟釜ってなんぞw

235 :無名武将@お腹せっぷく:2013/03/06(水) 05:16:17.40 .net
独りで三国時代の漢詩を訳していると、時々投げ出したくなると同時に
三国志って本当に人気あるか?って思う

何で三国時代の文学を取り扱っている日本語サイトは、質量ともに少ないんだろう
昔はもっとあったけど消滅したのかな

光栄さんとか三国志検定とか、あんなに反応を掘り起こせるのは凄いわ
たとえ悪い反応であってもね

236 :無名武将@お腹せっぷく:2013/03/06(水) 21:05:04.51 .net
三国志が人気あるとかじゃなくて歴史系講談が三国志以外全部死んだってのが正しい

237 :無名武将@お腹せっぷく:2013/03/08(金) 10:42:14.57 .net
>>236
一文で言い尽くされてしまった。

必要とされるのは、歴史講談としての三国志というガワだけか

238 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/20(土) 22:14:37.47 .net
最近知ったんだが「画餅」って曹丕の言葉だったんだな
曹丕の時代から現代にまで伝わってる言葉があるのって、考えてみればすごいことだよなあ
典論で書いてたのはまさにこのことなんだね

そしてやっぱり食い物なのかwとなんか笑ってしまったよw

239 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/21(日) 03:02:01.77 .net
>>238
「画餅」は曹叡の言葉だよ
出典は正史の盧毓伝にある詔
『全三国文』では曹叡の言葉として載せていて
『通典』で曹丕の詔とされているのは誤りだとしている

でもまさしく曹丕が『典論』で言いたいことは
そういうことでもあるのだろうね

240 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/23(火) 08:42:24.05 .net
>>239
曹叡の方だったのか……訂正ありがとう!
食べ物関連だからって安易に曹丕だと思ってたww

でも伯仲の間とか左顧右眄とか、当時の人の言葉が今の時代にまで残っているっていうのはやっぱりすごいね
そういうのはある意味、その人がその時代を確かに生きていた証でもあるのかなって考えさせられるよ

241 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/23(火) 13:00:31.45 .net
たまに偽作が紛れ込むけどね

242 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/25(木) 22:26:31.87 .net
改変も作者混同も多いしな
七歩詩の3パターンとか曹操と曹丕の善哉行とか魏晋楽所奏とか

243 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/25(木) 22:42:02.86 .net
昔の人は今ほどは原典を重んじないから「この方がいい」って
自分で勝手に手直ししちゃう場合とか結構あるんだよね

244 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/27(土) 12:30:18.77 .net
そうだね
しかも正統な後継者と自負している場合ほど、書き足すから質が悪い
注ならともかく、原文部分を追加するから、さぁ大変

そういう面では、儒教も邪魔だな
青青子衿は学生同士の親交を詠んだとされていたが、朱子注等で男女の密会を詠んだものとされたせいで、曹操短歌行の対酒當歌まで女への思慕が隠されているとか言われることになる
詩繋がりで言うなら、浮雲翳日も、孔融と古詩19首の行行重行行、古詩19首の方が古いのに、中には孔融が出典とか言う例もでてくる

245 :無名武将@お腹せっぷく:2013/06/07(金) 14:38:14.01 .net
   | \
   |Д`) ダレモイナイ・・オドルナラ イマノウチ
   |⊂
   |

     ♪  Å
   ♪   / \   童子、又童子
      ヽ(´Д`;)ノ    刀を銜んで游いで江を渡る
         (  へ)    岸上の虎を畏れず
          く        但水中の龍を畏れる


   ♪    Å
     ♪ / \   わらべ、わらべ、また、わらべ
      ヽ(;´Д`)ノ   刀を口にくわえて江を泳いで渡る
         (へ  )    陸上の虎なんてコワクナイ
             >     ただ水中の竜だけがコワイノサ

   | \
   |Д`) <晋書五行志等に掲載されている、孫皓の時代に歌われた童謡ですね。
   |⊂    これを聞いた晋武帝が、呉討伐総司令官の王濬に龍驤将軍を与えてみたら
   |       呉討伐軍が、破竹の勢いになっちゃったと。

   |\
   |`) <童謡のノリで追加されちゃった将軍位ってのも、アレですな
   |
   |

   |
   | ミ  ピャッ!
   |

246 :無名武将@お腹せっぷく:2013/06/07(金) 18:26:42.68 .net
>>245
童謡のノリで追加されたんじゃなくて
「童謡を流行らせてその童謡の予言を実現させて住民の動揺を誘う」という
古代〜中世では有名な謀略だろ

247 :無名武将@お腹せっぷく:2013/06/08(土) 21:28:03.32 .net
| |д゚) マジレスktkr。
| と ) 童謡が政治工作を兼ねた例については、古くは堯の鼓腹撃壌(康衢童謡)からして有名ですな。

| |Д`) でも全部が全部、当時の皇帝や権力者が主人公と言うわけではないし、
| と /  勿論彼らにとって、都合が良かったわけでもないデスナ。

| |-`) 何にしても調べてみると、歴史の裏面、童謡が広まった背景も見える気になれマスね。
      よく笑い話になっている司馬懿の讌飲詩も、景初中童謠と合わせると、合わせなくてもチョイ意味深トカ、でもナイトカ。

| ミ  ピャッ!

248 :無名武将@お腹せっぷく:2014/02/25(火) 22:07:37.40 .net
ど、動揺・・・  ((( (;゚д゚) )))

249 :無名武将@お腹せっぷく:2014/02/26(水) 12:40:38.38 .net
>>248
どうよう違い(´・ω・`)

250 :無名武将@お腹せっぷく:2014/03/02(日) 22:31:53.26 .net
杜預「どよどよ」

鯖復活して、やっと口をきけるように

251 :無名武将@お腹せっぷく:2014/03/03(月) 09:19:04.79 .net
今日はひな祭りだな
事実かどうかはともかく、上巳と重陽の日付を定めたのが曹丕と知ったのはこのスレのまとめがきっかけだったw

252 :無名武将@お腹せっぷく:2014/03/06(木) 16:55:40.48 .net
そのせいでだっけ、自分の詩を元ネタに菊の歌舞伎だか作られたね文帝さん

253 :無名武将@お腹せっぷく:2014/06/09(月) 16:48:27.84 .net
典論の
譬諸音樂、曲度雖均、節奏同検、至於引氣不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。
という部分は色々考えてしまうね

254 :無名武将@お腹せっぷく:2014/06/26(木) 21:38:04.70 .net
ふむふむ、たとえば?

>>253と言ったお兄さんと、辞賦を小道と言った弟さんの違いはあるけども

255 :無名武将@お腹せっぷく:2014/07/12(土) 14:48:43.20 .net
曹操の短歌行を受けて曹丕が詠んだ短歌行比べると
雄大かつ高らかに大志を歌いあげる曹操とその父を喪った悲しみとそれを継がなければならない苦悩を繊細に綴る曹丕の作風の違いがわかるし
同じ宴会の時に詠んだ曹丕と曹植の歌を比べても
こんなに楽しい日々が永遠に続けばいいのに!という前向きな曹植と人間は有限だからこんな楽しさも一瞬のことなんだなぁという無常感を感じる曹丕の視点の違いが分かる


骨は何も感じないんだから派手な葬式や大きな墓は不要という薄葬令の記述や
人間なんてすぐ死んでしまう有限なものっていう詩や手紙に書かれてる曹丕の考え方が
なんとなく仏教的な無常感に近いように思えてならない
それくらい人間をちっぽけで無常なものだと考えてるからこそ、その人間の考えや存在した証を未来に伝えることができる文章の無限さを大きく評価した結果が
例の>>253の言葉なんじゃないかなぁ、と久しぶりに長文で語ってみる

256 :無名武将@お腹せっぷく:2014/07/27(日) 16:19:08.10 .net
 んー。こちらも長文でいくか。言ってることはあんまりかわらんけど

●無常の認識について
 仏教の雪山偈や三法印(四法印)の諸行無常について。
 単に命が短いというだけなら、古今東西よくある認識にすぎない。
 形ある物は変わる現実を正しく認識しよう。認識せず、若さや美しさが永遠に続くと思うから、考えを裏切られて苦しむ。
 古詩十九首で言う「生年不満百、常懷千歳憂」、ここまでが、仏教の無常。

 曹丕の作品は、感情的な面はあるが、折楊柳行(西山一何高)の後半を見るに、現実を認識した上での悲しみであって、裏切られて悲しむ無常とは違うな。
 むしろ寿命の限界を認めた上で限界まで生きようという、曹操に似たというか、似せた印象を持っている。
 芙蓉池作(乘輦夜行遊)の「壽命非松喬。誰能得神仙。遨遊快心意。保己終百年」、百年というのも、左氏伝の中寿をさすもので、つまり古典から引用する当時の風潮から来るものともとれる。

 仏教、曹操、曹丕とも、無常という事実を認識してはいる。違うのは、どうすれば乗り越えられるか、という回答。
 文章に不朽不変を見出したのが曹丕だと。

257 :無名武将@お腹せっぷく:2014/07/27(日) 16:21:18.68 .net
●典論-論文の特徴
 まずは以前にこのスレであがった訳 ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/tenron.html
 特徴は、「六朝芸術論における気の問題(ttp://hdl.handle.net/2433/66784)」でも指摘されたように、気の概念を文に持ち込んでいること。

・人は何らかの「気」を、生まれつき持っている
 「徐幹は時に斉気有り」「孔融は体気高妙、人に過ぐる者有り」、「輿呉質書」の「逸気」
・気は、人によって違う。>.503で指摘されているとおり、親子兄弟でも違うし、勉強してどうこうというものでもない
 「文は気韻を以て主となす。気韻の清濁は始めより定体あり」
 これは努力しても父親のようにはなれないという考えもあるか。曹丕は父親作と疑われる作品(善哉行)があるぐらいで、似せた説の根拠のひとつ。
・気は文章に反映される
 たとえば斉気を持つ徐幹の作品には、斉気が反映される。

 最後に、おなじ文でも栄達目的の文は駄目で、後世に残すには、千年後に残そうという意思が必要とある。
 これは詩人玉屑(宋代)では、「魏文帝曰『文、以意為主、以気為輔、以詞為衛』」、ようは意志を主とし、気を補佐とし、詞文が周りを囲む(容器)という概念だと指摘されている。

 曹丕がここで触れたのは、文章にも、人間の体と魂のような概念を見出せる、というもの。
 曹丕の作品は短歌行、寡婦、秋胡行など、楚辞の単語を引用している。
 楚辞は、国殤に「身は死ぬも精神は霊となり、魂は鬼雄となる」とあるように、肉体と魂の違い、魂や精神の永続性を基点に置いている。
 文章は、翰墨という体と、意気という魂を持つ。
 人の体は朽ちるけど、文学は不朽の形に永遠の魂がこもるから、不朽であり大業となりうる。
 なのに人間の寿命と一緒に消えてしまう栄楽をもとめて書くから、文章に魂がこもらず、脱け殻だけが残り、散逸していく。
 あるものを、あるがままに評価できるからこその、合理的な文章だと思っている。
 居るかどうかも判らない仙人と違い、文章が実際に千年以上受け継がれてきたという意義と実績を認めるから、その不朽と大業を評価したのが典論だとね。

 ちなみに曹植が論文の章で挙がっていないのは、記述された時は曹植が生存しているため、肉体の定命と魂の永遠を対比させる例として不適切だからという一面もある。
 まとめに掲載されていないぽい折楊柳行、善哉行の原文と訳、解釈は、今回は長くなるのではしょる。必要ならうpるけど。

258 :無名武将@お腹せっぷく:2014/09/09(火) 23:46:24.17 .net
保守がてら重陽記念カキコ

259 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/13(月) 12:45:36.28 .net
人のいる気配もないが、取り敢えずまとめサイトに無かった曹丕のやつ置いていく
白文だけでスマンけど
訂正やら補足やらあったらしてね

「善哉行 其二」
有美一人,婉如清揚。
研姿巧笑,和媚心腸。
知音識曲,善為樂方。
哀弦微妙,清氣含芳。
流鄭激楚,度宮中商。
感心動耳,綺麗難忘。
離鳥夕宿。在彼中洲。
延頸鼓翼,悲鳴相求。
眷然顧之,使我心愁。
嗟爾昔人,何以忘憂。

「猛虎行」
與君媾新歡,托配於二儀。
充列於紫微,升降焉可知。
梧桐攀鳳翼,雲雨散洪池。

「丹霞蔽日行」
丹霞蔽日,彩虹垂天。
谷水潺潺,木落翩翩。
孤禽失群,悲鳴雲間。
月盈則沖,華不再繁。
古來有之,嗟我何言。

「清河作」
方舟戲長水,湛淡自浮沈。
弦歌發中流,悲響有餘音。
音聲入君懷,淒愴傷人心。
心傷安所念,但願恩情深。
願為晨風鳥,雙飛翔北林。

「於明津作」
遙遙山上亭,皎皎雲間星。
遠望使心懷,遊子戀所生。
驅車出北門,遙望河陽城。

260 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/14(火) 21:39:24.52 .net
乙です
とりあえず「善哉行 其二」は、其二ではないとも言える
宋書樂志には記載されておらず、あとから追加されている説もあるから

ちなみに樂府詩集では其の一、其の二といった区分はされていない
中央研究院漢籍電子文獻での順番は、朝日樂相樂→上山採薇→朝遊高臺觀→有美一人の順

(以下、樂府詩集からの又引き)
>《荀氏録》所載十五曲,傳者九曲。武帝「朝日」「自惜」「古公」,文帝「朝遊」「上山」,明帝「赫赫」「我徂」,古辭「來日」,並《善哉》
《樂府解題(樂府古題要解とも)》
>魏文帝辭云『有美一人,婉如青揚。』言其妍麗,知音,識曲,善為樂方,令人忘憂。此篇諸集所出,不入樂志。

261 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/14(火) 21:46:38.15 .net
ネット上をざっと検索して訳がなかったもののみ、訳。前に別のwikiで仮訳したもので悪いが

*善哉行(有美一人)瑟調曲
美しき一人あり。婉如にして清揚。
うるわしき姿にして巧笑を浮かべ。心膓をなだめ和ませる。

音を知り曲を識り。善く樂方を為す。
哀弦のひびきは微妙にして。清気は芳しさを含む。

鄭曲は流れるように、楚曲は激しく。宮音が過ぎ商音へと変わる。
心に感じ耳を傾ければ。綺麗な調べは忘れがたい。

離鳥の宿る夕べ。彼の中洲に在り。
くびを伸ばし、翼で身を叩き。悲しく鳴いて相求める。

心引かれて、顧みれば。我が心を愁いに沈ませる。
ああ、なんじ、いにしえびとよ。何をもって憂いを忘れしや。

*於明津作
遙遙たり山上の亭,皎皎たり雲間の星。
遠景は心をして懐古せしめ,遊子は生まれし所を恋しがる。
車を驅せ北門を出で,河陽城を遙望す。

262 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/14(火) 21:52:56.63 .net
おお、乙です!
wikiというと三國志7の漢詩大会の項を編集しているお方には敬服してまう

263 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/14(火) 22:02:13.82 .net
( ゚∀゚)・;'.、グハッ!!

……はい、その三國志7の漢詩大会の項(+三国志の漢詩wiki仮)でやんす>前に別のwikiで仮訳
閲覧および過大評価有難うございまつorz

264 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/15(水) 00:51:38.55 .net
すげースレに人がいるww
乙です!

>心引かれて、顧みれば。我が心を愁いに沈ませる。
>ああ、なんじ、いにしえびとよ。何をもって憂いを忘れしや。
漢詩には全く詳しくないけどこの辺読むといかにも曹丕っぽい感じだなーと思うw

曹丕の詩なら於玄武陂作が好きだ、何となく

265 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/15(水) 19:53:01.25 .net
>>264
兄弟で一緒に出かけて、アチコチの景色をみてたら、悩み事が吹き飛んだよ、って作品でしたっけ

曹丕はあと二十年は長生きして欲しかったです
史書の記述も違っていたでしょうし、老境に入った曹丕の作品も見たかったし、
陳琳に代筆してもらった手紙を曹丕にあっさり見抜かれた上にpgrされて、言い訳を陳琳に代筆して貰った曹洪さんみたいな被害者が他にも…

266 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/31(金) 18:46:31.09 .net
>陳琳に代筆してもらった手紙を曹丕にあっさり見抜かれた上にpgrされて、言い訳を陳琳に代筆して貰った曹洪さん
曹洪ワロスww
借金の話しか知らんかったけどそんなエピソードまであるのか

曹洪と曹丕ってそもそもあんまり相性よくないんだろな
逸話見る分には面白いけどw

267 :無名武将@お腹せっぷく:2014/11/09(日) 19:22:46.42 .net
>>266
文選に掲載されている為曹洪與世子書(為曹洪與魏文帝書)という奴ね
じっさいには曹洪か陳琳か断言できないけど、文選の編集者は陳琳の代筆と判断したってこと

ちなみに仮訳はこんなん↓

 十一月五日、洪が申しあげます。さきに初めて賊を破り、ついつい喋ってしまい、誇大報告が過ぎたようです。
 九月二十日の書を戴き、拝見し喜笑し、手に取ったまま飽きず、陳琳に頼み返事を書いてもらおうと思いましたが、琳も多事多忙にして作ることができません。
 ただ若君に楽しんでいただきたく、ゆえに自ら老夫の思いを尽くします。
 言いたい事が多すぎて、いちいち述べるのも何ですから、おおまかな要点だけあげます。笑い話の話題にして下さい。

 漢中の地形は誠に堅固なこと、四方の嶽や三塗山も及ばないほどです。
 敵側は、数万の精兵が高所にたてこもり要所を守っております。一人が戟を振れば、万人が進むことも出来ません。
 しかし我が軍がこれを進むこと、鯨が小さな網からはみ出し、元気の良い獣が魯の薄絹を破るが如し。などといっても、この容易さを表現するには足りません。
 王者の軍隊は出征あり戦いなしと言えども、不義にして強いものも、古から常にいるとおりです。
 故に唐虞の時代、蛮族が夏の地を乱し、周宣王の最盛期ですら、大国に仇なすものがおりました。詩書に掲載された欺きも、その難しさを言うものです。
 いずれも険阻の地を拠点として、中原からの遠さを当てにしていました。ゆえに難しい、全く良く言ったものです。
 ここで改めてこの地形を察するに、中才(中ほどの才能)の武将が篭れば、一挙に落とす事はほとんど不可能と言えましょう。

268 :無名武将@お腹せっぷく:2014/11/09(日) 19:24:45.24 .net
 頂いた手紙には敵の妖感の罪が陳列され、我が王軍の広く溢れんばかりの徳があがっております。いや全く手紙に記された通り。
 これこそ夏殷の滅びた理由、三苗氏が討たれ有扈氏が夏啓に征服された理由、吾々の勝つ理由、敵の破れる理由であります。
 そうでなければ殷と周はどうして敵対したでしょうか。
 昔、鬼方は聾味、崇虎は護凶、殷辛は暴虐、三人ともみな罪人の中でも下に置くべき存在です。
 しかし殷の高宗は三年かけて異民族を討伐し、周の文王は退脩の軍を率い、武王は盟津に再戦して勝利し、しかる後に戎を倒し殷に勝ちました。
 いまだ星流景集、旋奮雷撃、山河を長駆し朝に到着して暮れに勝つこと、我が軍のごとき者はおりません。
 こうしてこの他を見ますに、敵はもとより下愚に及ばず、すなわち中才の守りではないことは明らかです。

【来命】曹丕からの手紙?
【鬼方聾昧】鬼方は旬奴、聾味は暗愚
【崇虎護凶】殷の臣、崇侯虎
【殷辛】殷最後の暴君
【文王〜】崇侯虎の乱を聴き、文王は征伐に向かったが、三旬たっても降伏しなかったので、いったん退いて徳を修め力を蓄え、また討伐した

 敵将が中才か否かと言われれば、否と言えます。
 しかるに若君の手紙を拝見しますに、「思うに敵の悪は熟しており、古の孫武、田単、墨子、?の類がいたとしても、これを救う事はできまい」と。
 密かにこれを疑うております。
 なんなれば古の用兵は、敵国が乱れたと言えども、なお賢人が居れば討伐しなかったものです。
 ゆえに三仁が未だ去らないうちは武王は軍を返し、宮奇が虞国にいるうちは晋国も軍事を行なわず、季梁が在るうちは楚も謀略をかけませんでした。
 賢者らが他国に、或いは野に出奔し退いたとき、三国は廃墟となりました。
 国に道がなくとも、人がいれば救うべきことは明らかです。
 墨子の守りは、帯をめぐらせて作った垣でも、高くして登ることも出来ないものです。箸を折って作った械としても、硬くて入ることも出来ないでしょう。
 もし陽平関に防ぎ、石門鎮に拠り、八陣の列を並べ、斉将田単が牛の尾に火をつけ敵に走らせれば、どうして敵の崩れ崩壊しないことがあるでしょうか。
 もし(若君の手紙にあるように)守将の巧拙は関係なく、城を攻めるに全軍で一気に城壁をよじ登るべしと言うならば、公輸はとうに宋城を凌ぎ、楽毅は即墨を落としていたでしょう。それが出来なかったのは何故でしょう。
 墨子の術、田単の智が賞賛するに足らないといった評価は、私はまだ聴いたことがありません。

269 :無名武将@お腹せっぷく:2014/11/09(日) 19:28:39.18 .net
 さて。高唐(斉国の都市)を過ぎるものは王豹の歌に習い、唯換に訪ぶ者は藻?の綵を学ぶ(郷に入れば郷に従う)と聞いたことがあります。
 このごろ益州に入ってからは、司馬楊王の威風を仰ぎ、子勝の仁徳をもって文をしたためたいと志しております。ゆえにすこぶる文辞をなすこと、昔と異なります。
 もしや、魯人が孔子を知らずに軽んじたように、私の文章は人を雇って書かせたものだと言い合っていませんでしょうな。どうしてそんなことを言うのですか。
 それは駿馬が耳を野外で垂らし、鴻雀が翼を湿原に休ませるようなものです。
 これらの誤解をするものは固より庭園の凡鳥、厩の外にいななく駄馬のようなものです。
 馬の筋肉を鍛え、或いは強く翼を奮い、高く飛び、清い空に身を浮かべ、千里を見下ろすに及んで、ようやく他人は翼を晨風に借り、足を六駁に借りたのではないと理解します。私の文辞も同様です。
 恐れるのは、若君が、いまだ私の言を信じないで、大いに笑い飛ばすようなことであります。以上、洪が申し上げました。

【高唐】孟子「綿駒高唐に処りて云々」
【推換】唯河、換河。この間の地域では、藻績(あやぎぬ)が特産
【司馬楊王】司馬相如、楊雄、王褒。いずれも蜀の文人
【子勝斐然】子勝は墨子公孟篇、斐然は文章。論語に「斐然として章を成す」

原文はタイトルで検索すれば出るから略。適当に入力したものなので、誤字とかあったらスマン

270 :無名武将@お腹せっぷく:2014/11/09(日) 22:52:15.25 .net
曹洪の曹丕への謝罪文もそうだけど、
どこか人を食ったようでもあり、近しい関係でなければ出来ないような文面だと思う。
例の曹洪死罪事件てさ、ブック説ってないのだろうか。2代目当主権力誇示のための。

皇帝「アイツを死刑にしてやるーーッ」→家臣や親族による諫言「◯◯は先代よりの功臣」→皇帝「じゃあ、やーめた♪」
って結構、お決まりのパターンじゃないかな。実際に鮑ナントカさんみたいに殺されてしまったヒトもいるけどww

271 :無名武将@お腹せっぷく:2014/11/10(月) 14:15:26.75 .net
>>270
>近しい関係でなければ出来ないような文面

同感です。

>例の曹洪死罪事件てさ、ブック説ってないのだろうか。2代目当主権力誇示のための。

ブックなど政策上の態度+権力抗争の一環でしょうね。

前漢に王族の反乱が起きたことから、後漢は王族抑制政策上をとりました。
後漢は外戚と宦官の抗争がおきたことから、魏は王族や宦官の抑制政策をとりました。
曹丕は夏侯氏、曹叡は血の繋がりが弱い曹氏に権力を与えているので、外戚によってバランスをとろうとしたのかもしれません。

これに対し、曹植は周代の宗族政治に戻れ、兄弟のなかで不満をもった者が謀叛をおこすぞと恫喝めいた文章を送っています。
これも同族に甘えた馴れ合いの一種と言えます。
こうした馴れ合いは必要な面もありますが、ある程度は厳しくしないと、他の家臣に示しがつきません。

272 :無名武将@お腹せっぷく:2014/12/12(金) 22:09:14.66 .net
ttp://zh.wikisource.org/
何となくしか分からなかったけど色々読めて面白かった

273 : 【かん吉】 :2015/01/03(土) 09:58:52.89 .net
>>267
遅ればせながら乙です
何かこれだけ読むとそんな仲悪いって感じしないなw

手紙って人柄なり本音なり思いっきり出てて、詩歌とまた違う面白さがあるから好きだ

274 :無名武将@お腹せっぷく:2015/03/04(水) 07:34:49.35 .net
上巳記念カキコしようと思ってたのに忘れてた

酒にむかいてはまさに歌うべし(´・ω・)ノ▽甘酒ウメェ

275 :無名武将@お腹せっぷく:2015/07/26(日) 10:00:34.97 .net
>>255
>こんなに楽しい日々が永遠に続けばいいのに!という前向きな曹植と

それ前向きっていうんだろうか…

276 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/01(土) 20:24:52.68 .net
>>275
当時の公讌詩は、宴の見事さを詠んだうえで、宴の主人の栄光を詠んで〆る傾向があるから、前向きだと解釈するのは普通にアリだと思うよ

ただこの作品が場面上前向きなのであって、曹植の作品傾向が前向きなものかどうか、などとは別の話だな

277 :無名武将@お腹せっぷく:2015/09/09(水) 06:41:28.46 .net
重陽記念カキコ

(´・ω・)ノ▽菊酒飲むぜ

278 :無名武将@お腹せっぷく:2015/12/29(火) 00:39:16.42 .net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1263390388/l50

279 : 【1等組違い】 【664円】 :2016/01/01(金) 01:48:45.37 .net
あけおめ(´・ω・)ノ▽

280 :無名武将@お腹せっぷく:2016/01/01(金) 06:59:54.51 .net
謹賀新年

281 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/12(金) 07:49:12.58 .net
三國志13で、演義の「遷帝于長安,以應童謠。近日街市童謠曰『西頭一個漢、東頭一個漢、鹿走入長安、方可無斯難』」を元にしたイベントがありました

探せば他にも文学関連の会話があるかもしれないけど、演義を根拠にしているみたいだから、三國時代の文学と、ずれてしまうのかな

282 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/29(月) 00:58:56.26 .net
保守

283 :無名武将@お腹せっぷく:2016/03/03(木) 23:00:14.42 .net
  (⌒)
 (⌒※⌒)
 /(_人_)⌒)
_//(⌒(⌒※⌒)⌒)
三(⌒※(_人_) ※⌒)
( (_人_(⌒)(_人_)
(⌒※ (⌒※⌒) )
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      (_人_)、

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                    _,,..,,,,_  zzzzz
                   ./ ,' 3/⌒ヽ-、_
傘 傘  傘 傘       /l.  /____/ 傘   傘 傘
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284 :無名武将@お腹せっぷく:2016/03/18(金) 01:25:20.97 .net


285 :無名武将@お腹せっぷく:2016/03/20(日) 13:09:27.73 .net
何か保守する必要ができたの?

286 : ◆WpEgOxXb5Y :2016/03/20(日) 13:31:47.58 .net
すぐ落ちるんだって

287 :無名武将@お腹せっぷく:2016/03/20(日) 19:47:31.85 .net
dクス
それで2週間に1回ぐらいの保守なのね

288 :無名武将@お腹せっぷく:2016/03/21(月) 13:41:18.29 .net
糞スレが乱立して良スレが大量に落ちてしまった

なんか色々と良スレが落ちてる [無断転載禁止]2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1457098678/

289 :無名武将@お腹せっぷく:2016/04/02(土) 22:49:41.71 .net
保守

290 :無名武将@お腹せっぷく:2016/04/14(木) 01:16:05.17 .net
     キ        //   /::::: //O/|      /
      ュ     / |''''   |::::://O//|     /
      .ッ       \ |‐┐ |::://O/ ノ   ヾ、/
       :       |__」 |/ヾ. /    /
         ヽ /\  ヽ___ノ / . へ、,/
        /  ×    /  { く  /
        く  /_ \   !、.ノ `ー''"
  /\        ''"  //
 | \/、/           ゙′
 |\ /|\ ̄
   \.|

291 :無名武将@お腹せっぷく:2016/04/26(火) 01:27:28.82 .net
ダンソン!
フィーザキー!
ドゥーザディーサーザコンサ!

…ニーブラ!

アパーアナァーガァーマーポー!

292 :無名武将@お腹せっぷく:2016/05/08(日) 18:55:54.51 .net
ちまき食べ忘れました

293 :無名武将@お腹せっぷく:2016/05/09(月) 23:02:18.17 .net
菊と保守を忘れなければ良いんじゃないかな

294 :無名武将@お腹せっぷく:2016/05/22(日) 11:03:27.55 .net
保守だわ

295 :無名武将@お腹せっぷく:2016/05/25(水) 20:49:49.25 .net
ネットの同人訳で、明らかに訳が間違っている本が見受けられるけど、こんなんでも評価する人がいるのか…
検索したり少し中国語をかじれば、もっと質がいいものを只で読めるのに

296 :無名武将@お腹せっぷく:2016/06/10(金) 14:05:43.37 .net


297 :無名武将@お腹せっぷく:2016/06/17(金) 19:43:25.06 .net


298 :無名武将@お腹せっぷく:2016/06/28(火) 08:32:45.23 .net


299 :無名武将@お腹せっぷく:2016/06/30(木) 10:15:06.86 .net
 
 
    膨張する集団の頂点に君臨

300 :無名武将@お腹せっぷく:2016/07/16(土) 22:17:33.77 .net
ホシュ

何かこの人の漢詩読みたいって居るのかな
手持ちはソウソウとかオウサンとかショウカイとか魏面子になっちまいます

301 :無名武将@お腹せっぷく:2016/07/16(土) 23:22:37.93 .net
紹介してみて欲しい
自分かたよっているので色々な人の作品を読んでみたい

302 :tester:2016/07/22(金) 20:54:03.22 .net
うーん。量が多いので誰か絞れるといいかなと思ったんですが。ためしに幾つかリストあげてみます?例として曹操楽府

短歌行
  其之一:短歌行(對酒當歌) 其之二:短歌行(周西伯昌)
 歩出夏門行(隴西行、碣石篇)
  序:艶(雲行雨歩)
  其之一:觀滄海(東臨碣石)
  其之二:冬十月(孟冬十月)
  其之三:土不同(郷土不同)
  其之四:亀寿雖(神亀寿雖)
 善哉行
  其之一:善哉行(古公亶甫)
  其之二:善哉行(自惜身薄祜)
  其之三:善哉行(朝日楽)※作者を曹丕とする説あり
 気出唱
  其之一:気出唱(駕六龍)
  其之二:気出唱(華陰山)
  其之三:気出唱(遊君山)
 秋胡行
  其之一:秋胡行(晨上散關山)
  其之二:秋胡行(願登泰華山)
 薤露(惟漢廿二世)
 苦寒行(北上太行山)※作者を曹丕とする説あり
 蒿里行(関東有義士)
 却東西門行(鴻雁出塞北)
 對酒(對酒歌)
 度關山(天地間)
 精列(厥初生)
 陌上桑(駕虹蜺)
 謡俗詞(甕中無斗儲)
 董卓歌詞(徳行不虧鈌)
 塘上行(蒲生我池中)※作者は曹操他諸説あり
 滄海賦
 登臺賦
 鶡雞賦序
 有南篇
 城窟行

303 :tester:2016/07/22(金) 21:00:06.86 .net
訂正
 城窟行→飲馬長城窟行

304 :tester:2016/07/22(金) 21:11:17.52 .net
みたいな感じで、手持ちは
 曹操、曹丕、曹植、曹叡
 王粲、応瑒、阮瑀、徐幹、陳琳、劉
 応璩、阮籍、何晏、繆襲、鍾会、甄夫人、左延年
 韋昭
 前漢武帝、李陵他、古楽府、古詩十九首
 張衡、宋子侯(馬子侯)、蔡邕、孔融
 諸葛亮、関羽
 傅玄、陸機、潘岳、羊祜他

以上、文選と古詩源、あとは楽府詩集から銅雀台の初音ミクとか

305 :無名武将@お腹せっぷく:2016/07/23(土) 08:48:14.06 .net
乙!
自分は文選と古詩源と玉台新詠、あと三曹集と陸機・陸雲の詩集なら手元にあります

306 :無名武将@お腹せっぷく:2016/07/23(土) 17:00:35.94 .net
急に人が現れた感w

ぼんやりした意見で申し訳ないけど
個人的にその漢詩を読んだ人の特徴や人となりが表れてるようなのがあれば読んでみたいな

307 :無名武将@お腹せっぷく:2016/07/24(日) 14:45:43.93 .net
>>302
すごい量ですねw
全部...は無理だと思うので、まず曹操と何晏が読みたいです

308 :tester:2016/07/30(土) 18:10:14.14 .net
何晏の手持ちは、まとめさんにある3つ+注釈(論語や史記の注釈)で、
詩や賦の類で全文だと景福殿賦のみ
あと楽府詩集で、引のひとつ「烏夜啼」は、何晏が獄に繋がれたとき、
何晏の娘が作成したという伝承が掲載されている

景福殿賦は文選にも掲載されているので、文選もちの>>305さん、どうですかね?

手持ちというか自分の主な参考元:文選
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912763/216

曹操の作品で、特徴や人となりが出ているもの…やっぱ短歌行かなぁ
あとは駕六龍 、願登泰華山?

単純に個性だけで言うなら代筆屋陳琳タソや真面目な羊祜タソが面白いかしら

309 :無名武将@お腹せっぷく:2016/08/07(日) 13:22:10.36 .net
楽府詩集の烏夜啼について
李勉《琴説》曰:「《烏夜啼》者,何晏之女所造也。
初,晏繫獄,有二烏止於舍上。女曰:『烏有喜聲,父必免。』遂撰此操。」
按清商西曲亦有《烏夜啼》,宋臨川王所作,與此義同而事異。

私の知識程度で訳すると、

李勉という人の《琴説》によると
「《烏夜啼》は、何晏の女が作ったとされる。
初め,何晏が監獄に入れられたとき,二羽の烏が屋敷の上に止まった。
女は『烏の喜聲が聞こえる,父は必ずや免(免職)される。』
遂に此の操(曲調)を撰んだ。」

みたいな感じですね。ちなみに楽府詩集で、紹介されている作品(烏夜啼引/張籍)

秦烏啼啞啞,夜啼長安吏人家。吏人得罪囚在獄,傾家賣産將自贖。少婦起聽夜啼烏,知是官家有赦書。下床心喜不重寐,未明上堂賀舅姑。少婦語啼烏,汝啼慎勿虛,借汝庭樹作高巣,年年不令傷爾雛。

秦烏は啞啞と啼いている,夜に長安は吏人の家で啼いている。
吏人は罪囚となり獄にある,家は傾き財産を売っては罪をあがなう。
少婦が起きて夜啼烏を聽く,この官家に赦しの書あるを聴く。
下床に心喜び眠りを重ねず,未明の上堂に舅姑は賀す。
少婦は啼烏に語る,汝啼き慎みて虚なかれ。
かりに汝が庭樹に高巣を作らば,年々お前の雛を傷めろと命じまい。

310 :無名武将@お腹せっぷく:2016/08/23(火) 21:34:24.94 .net
>>308のリンク先をもとにサックリ訳したものになります。適当すぎて何かとちってたらすんません

まこと思うに魏は大いなる国家で、時代にあった聖人が現れたものであります。
武帝は魏国を創始なさり、文帝は天命を受け天子となられ、制度を定められました。今の陛下にあらせられましては、ますます繁華隆盛を遂げられました。
遠くは陰陽自然に、近くは人情にもとづき、上は太古からの王道を尊重し、下は後世へと続く善道を開かれ、民衆に安寧をもたらし、天の秩序をはなはだ明らかになさいました。
故に年号を定めて6年にして、国は富み刑罰が下されることもなくなりました。
陛下は今年三月に東へ巡行なさり許昌へ到り、山川を祀られ、時を選び方角をはかり、老人を慰問せられ、民衆を率いて農耕に励まれました。
6月16日、星辰の配列正しく、月の暮れにはアンタレスが南方に輝き、桑梓は生い茂り、時には大雨が降りました。
しかし三公九卿から大学者にいたるまで、皆が蒸し暑過ぎると感じ、この暑さが生命に等しく訪れることを危惧しました。
蜀呉定まらず、遠征いまだ終わらずと言えども、よき言葉を選び奏上しました。
「蕭何、荀子ら古の賢者は、『宮城は壮麗でなければ宮城をもって民をまとめ威光を示すに足らない。飾らず美しくなければ、後世に名を示すことは出来ない』と、城を壮麗にするよう進言しました。
為政者のうち、かの発言を取り入れ功績を評価することで、後世に英名を示さなかった者はおりません。
かつ許昌は天運がやどり、吉兆あらわれた地であります。まこと徳義とは、かくの如し。どうして宮城を建築せずにおれましょう」
その上奏を陛下は「よし」となさいました。
孟冬の月、陛下は礼記に従い身なりを整え、責任者に命じ、日程費用をはかり、農閑期に造営のための庶民を集め、東征軍および呉からの献上品を材として、景福殿の建設を命ぜられました。高殿は奥行、高さを兼ね備え…

あとはまとめサイトにもあるのと、何晏らしいとは言え、宮殿描写の羅列なので中断。こういうのも調べて訳するあたり、プロの翻訳はすげーと思います。

司馬懿との派閥抗争に何晏らが敗れた結果、何晏らの奏上による宮殿造営も曹叡の悪行として残されたのか、曹叡の悪行が過ぎて言い訳しないといけないくらいだったのか判りませんが、曹叡の造営を臣下の上奏によるものと明言してますね。

311 :無名武将@お腹せっぷく:2016/08/23(火) 21:48:19.48 .net
あと、

>故に年号を定めて6年にして、国は富み刑罰が下されることもなくなりました。

のくだりは、曹操の作品ぽいですなあ
当時の文学は、意図的に長いものに巻かれる必要があったでしょうが、何晏は古典だけではなく曹操からの影響も強い印象っす

312 :無名武将@お腹せっぷく:2016/09/09(金) 22:41:20.22 .net
菊酒じゃ菊酒じゃ〜(´・ω・)つ▽

313 :無名武将@お腹せっぷく:2016/09/26(月) 22:06:17.97 .net
菊といや曹植の菊賦、鍾会の菊花賦ですかね、他にもあるけど(文帝陛下のアレとか)
鍾会の菊花賦いってみますか

出典は以下、漢魏六朝百三名家集のアドレスです
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551361/123
主に参考にしている出典なので、今後も基本的にここから引用します
いずれも、もっと長い文章の一部ですね
出典による違いはやりません、即興で訳したので適当です


何秋菊之可奇兮、獨華茂乎凝霜。提威?於蒼春兮、表壮観乎金商。
延蔓蓊鬱、緑坂被岡、縹幹緑葉、青柯紅芒、芳寔離離、暉藻煌煌、微風扇動、照曜垂光。
於是季秋九月九日數并、置酒華堂、高會?情。百卉彫瘁、芳菊始榮、紛葩曄曄、或黄或青。
乃有毛?西施、荊姫秦?、妍姿妖艶、一顧傾城。擢纖纖之素手、雪皓腕而露形。仰撫雲髻、俯弄芳榮。

秋菊のなんと不思議なこと、一輪咲き誇るのだ!霜にこごえてなお。
春さかりに華麗な姿を見せ、壮観な姿を現すのだ!秋の風音と共に。
のびゆくさまは鬱蒼として、緑は土を覆い、縹(はなだいろ)の幹と緑の葉、青い枝に紅のつぼみ、香りは遠くまで広がり、姿は煌々と光かがやき、そよ風は姿を揺らす扇、差し込む光はスポットライト。
秋の終わり9月9日、酒を華堂に置き、高きに登り菊を楽しもう。
百草の丘に苦しみ、菊の芳香に喜ぶ。乱れ咲くさまよ、或いは黄色、或いは青く。
毛?や西施ら古の美姫、姿は妖艶にして、一たび省みれば城を傾けた。
繊細な素手、新雪のような腕もあらわに、仰げば髪をなで、俯けば花をもてあそぶ


(故)夫菊有五美焉、黄花高懸、準天極也。黄不雜、后土色也。早植晩登、君子徳也。冒霜吐穎、象勁直也。流中輕體、神仙食也。
これについては、ネットに良訳があるので勝手にリンクさしていただきます
ttp://blog.nagano-ken.jp/kamiina/nature/8609.html

>菊花賦:鍾會賦以五美
>謂圓華高懸 準天極也 純黄不雜
>杯中體輕
などと違いがあるんで、別のソースなのでしょう。ご存じのかた教えていただけると助かります
菊酒というのは杯(体)中を流れれば体軽く、ということから酒という訳を選んだかと


維基文庫によると《初學記》に
>?以纖手,承以輕巾。揉以玉英,納以朱脣。服之者長生,食之者通神。
があるそうですが、漢魏六朝百三名家集には掲載されていないので、今のところノータッチです
単語から見るに、菊を扱うさまを神仙術になぞらえた感じがします

314 :無名武将@お腹せっぷく:2016/09/26(月) 22:13:31.57 .net
化けてる…まあいいか
つぎの保守にしようかと思いましたが、めんどくさいので同じ作者の葡萄ネタもいきます

余植蒲桃於堂、嘉而賦之、命荀勗並作、
美乾道之廣覆兮。佳陽澤之至淳。覽遐方之殊偉兮。無斯果之獨珍。
託靈根之玄圃。植崑山之高垠。
緑葉蓊鬱。曖若重陰翳義和。秀房陸離。混若紫英乘素波。
仰承甘液之靈露。下歙豐潤于醴泉。總衆和之淑美。體至氣于自然。
珍味允備。與物無儔。清濁外暢。甘旨内遒。滋澤膏潤,入口散流。

余は蒲桃を堂前に植えた。記念に賦を作り、荀勗に命じて同様に蒲萄賦を作らせた。
美しきかな、ひなた道を廣く覆うさまよ。佳きかな陽澤の至淳たること。
ご覽よ遐方の殊に偉なるや。斯果の獨珍なる無く。
果物の一粒だけが良いということもなく。
靈根を玄圃(仙人の庭)に託し。崑山の高垠に植え。
緑葉は蓊鬱として、曖(あいまい)なること重陰の義和を翳す若(ごと)く。すぐれた一房がぶら下がるさまは、紫英の素波に乗るごとく混じる。
仰げば甘液の靈露を承け,下れば豐潤なる醴泉の水を飲む。
總衆和之淑美、體(からだ)は自然の気に至り。珍味をまことに備え,與物に儔(ともがら)無し。
清濁が外に暢び,甘み旨みが内に遒(せま)る。滋澤膏潤,口に入るや流れ散じる。


同じ葡萄で賦を作らされた挙げ句、一部が残存してしまった荀勗さんが気の毒な気もします
というか何やらしてんでしょうかショーカイさん

315 :無名武将@お腹せっぷく:2016/09/26(月) 22:29:22.72 .net
>>313
> 春さかりに華麗な姿を見せ、
と何となく訳しちまいましたが、提は見せるというよりささげ持つ、隠し持つといったニュアンスですかね
このへんは春に準備し、秋に一気に見せつけるといったイメージのほうが近いかも

316 :無名武将@お腹せっぷく:2016/10/06(木) 00:27:56.31 .net
鍾会好きなので嬉しい、乙です
これでもか!ってくらい装飾的なのがいかにも彼らしくて良いよね

317 :無名武将@お腹せっぷく:2016/10/20(木) 18:55:48.87 .net
装飾的、表現の華美性は前漢や蔡ヨウそれ以降の作品にも見られるという、指摘はあります
それでも単純に派手というのではなく、鍾会には鍾会なりの派手さが出ているのが良いですよね

318 :無名武将@お腹せっぷく:2016/10/22(土) 07:17:35.18 .net
>>313-314
遅ればせながらおつです!蒲萄賦でワラタ
荀勗とばっちりw

曹丕もだけど、食べ物を熱心に讃えてる詩を見ると何となく可愛げを感じてしまう
誰だか失念したが柿を詠んだ人とかもいたよね

319 :無名武将@お腹せっぷく:2016/10/24(月) 12:25:29.86 .net
柿の作品は三国志の方ですか?
唐代以降でしたらあるようですが、三国志の作品だと誰だったかな

《文選》で柿を見たようなうろ覚えを辿ってみたら、こんなのがありました
潘岳《閑居賦》梁侯烏?之柿
左思《蜀都賦》林檎、枇杷,橙、?(柿)
《齊民要術》張衡曰、山柿。左思曰、胡畔之柿。潘岳曰、梁侯烏?之柿。
全三國文だと呉の韋昭《御覽》九百七十一引《陽武賦》
あと柿で忘れちゃあかんのが晋書王濬伝の「濬造船於蜀,其木柿蔽江而下。呉建平太守吾彦取流柿」
晋が蜀で船をつくり呉征伐を狙っていた時,柿(木材)を長江に流していたという話ですね
|∀゚)φ..蜀は柿の産地っと
柿をワードにさっくり携帯検索しただけですので、?(柿別字)でしらべれば足元にあるかもですが

うろ覚えついでに、古典的に十月は新酒を試し飲みしたり柑橘類をたべる月だったとか、蔡文姫の父親蔡ヨウが酒で酔いつぶれて「酔虎」という称号を頂いた、という記憶も時間があったら確認してみます
蔡ヨウを酔い潰したのは、このスレの酒ネ申だったりするんでしょうか

320 :無名武将@お腹せっぷく:2016/10/24(月) 22:41:11.52 .net
↑下部について手持ちを確認したところ、「中国飲食文化(青土社)」に、季節ごとの食事を紹介している章がありました
周代から朝廷では初物を祖先に供える決まりごとがあったので、季節の初物、特に歴代皇帝の好物が朝廷に沢山集まるため、臣下もおこぼれに預かれたようです

民間では宋代《賞心楽事》だと9月は菊、新酒を飲む、10月は暖炉で蜜橘をなめる、11月は冬至の饂飩
《荊楚歳時記》10月朔日に黍羮(詳細不明)を食べる、北では麻羹(あつもの)と豆飯を作る。初物を食する為だろう
…少なくとも南北朝時代には10月1日や雪の初めて降った日など、特に今年初めて火を起こしたときには、暖炉を囲んで一族や仲間と餅や熱いもの、甘いものを食べる慣わしがあったようです
後には、葡萄やむかごなどを串にさしたものに、氷糖をかけて食べたとか

酒の章に、蔡?が途中で酔いつぶれたので「酔虎」と呼ばれた、という伝承も載っていました
漢代、投壷の礼で負けると罰ゲームに酒を飲まされたという話もありますが、詳しくは蔡先生の名誉のために伏せますん


中国史全体からネタを取り上げているので、三国志ネタはあまり無いですが、それでも面白い本ですね

321 :無名武将@お腹せっぷく:2016/11/05(土) 00:13:06.87 .net
>>319-320
わざわざありがとう!
柿は魏の人だった気がするんだがうろ覚え過ぎてぁゃιぃww申し訳ないw
三国時代でも見てると結構色んなものを食べてたりして面白いね

罰ゲームに酒といえばスレチだが日本でも平安貴族の日記で
「罰ゲームで酒飲む事になった奴がずっと拒否ってて白けた」とか
作法として「下戸なら酌人に目配せしろ、気付いて貰えなかったらその時は諦めろ」とかあったりして
酒絡みの話は尽きないなあ…(蔡先生を見ながら)

322 :無名武将@お腹せっぷく:2016/11/12(土) 09:30:32.37 .net
魏の人(かもしれない)かー、うわあ気になるw
こちらこそ教えてくれて有難う、漢詩を語り合える場所って少ないから嬉しいw


>酒絡みの話は尽きないなあ…(蔡先生を見ながら)

平安の方はあまり知らないから、勉強になります
酒とメシの話は、どこでも盛り上がるもんですね(その辺のグルメ面子を眺めながら)

323 :無名武将@お腹せっぷく:2016/11/12(土) 09:50:26.43 .net
ついでに蔡先生の漢詩を置いてみます
当時は「張蔡」と称えられる文学的な有名人だったことに加え、関係者の努力もあってか結構な数の作品が残っていますね
曹操、建安七子の孔融、王サンサンや阮ウも関係者だと言われてますし、当時の文人の多くはすくなからぬ影響を受けているようです
無理せず昔に訳した有名どころから二つ。例によって誤訳御免でヨロです

出典《古詩源》
翠鳥
庭陬有若榴。緑葉含丹栄。
翠鳥時来集。振翼修容形。
回顧生碧色。動揺揚縹青。
幸脱虞人機。得親君子庭。
馴心托君素。雌雄保百齢。

庭の片隅にザクロの木が有り、緑葉に紅色の花が混じっている。
翠鳥が時に集いきて、翼を振って身なりをととのえる。
首を回せば碧色を生じ、身をふるわせては淡い水色をみせる。
さいわいにも狩猟官の刃から逃げ、良い人の庭にやってきた。
心穏やかに名君のもとにあって、雌雄ともに百歳までも生きよう。

琴歌
練余心兮浸太清。滌穢濁兮存正霊。
和液暢兮神気寧。情志泊兮心亭亭。
嗜欲息兮無由生。
☆宇宙而遺俗兮。眇翩翩而獨征。
☆=「足卓」


余心を練り、混沌自然に同化し。
精神の汚れをすすぎ、あるべき姿に戻す。
呼気も血流ものびやかに、精気の流れも規則正しく。
感情も理想も休ませ、心は凛として威儀を正し。
欲望が消え、生まれ出ずる必要もなく。
時を空を踏みこえ、俗世間を忘れ。
高く遠く翻り、ひとり旅に往こう。

兮は楚辞の技巧ですね
而に切り替えるタイミングが巧いということになるのでしょうか

次あたり、この作品に関する、前に訳した曹操の作品を見直してうPできたらと思います

324 :無名武将@お腹せっぷく:2016/12/01(木) 12:44:21.23 .net
まずは忘れていたので、↑の古詩源のリンク先
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958952/1

というわけで曹操の陌上桑ですよ
漢魏六朝百三名家集と黄節戔を元にざっくり訳したものです。誤訳御免

駕虹?。?赤雲。登彼九嶷。歴玉門。
濟天漢。至崑崙。見西王母。謁東君。
交赤松。及羨門。受要秘道。愛精神。
食芝英。飲醴泉。柱杖桂枝。佩秋蘭。
絶人事。游渾元。若疾風游?飄翩。
景未移。行數千。壽如南山。不忘愆。

訳っぽいもの
虹の神獣を御し。赤雲の車に乗り。かの九嶷山をめぐり玉門を通る。
天の河を渡り。崑崙に至る。女王西王母に出会い、東君に拝謁する。
仙人の赤松と交わり。羨門の前にいたり。神仙の奥義を受け。精神を鍛錬する。
長寿の茸を食し。不老の醴泉を飲み。仙界の桂枝を杖とし。秋蘭を腰に吊り下げる。
人の営みを絶ち。渾元に遊ぶ。疾風や火の粉が舞うように各地にあそび。
陽光のうつろうよりも速く。数千の地を行けば。壽は南山の如く。ゆるぎなし。

単語の扱いがいまいち難しいです
羨門は「墓の入口」、仙人の「羨門高」の二つの意味があると思われます
柱杖桂枝。佩秋蘭。のあたりは楚辞ですね
寿如南山は詩経小雅。南山は、以前は終南山だと書いていましたが、その後調べたところ他にも南岳衡山や、城から不老長寿を司る寿星(南極老人星)を観測するとき南にある山を目印にしたことから、後に南極星に結びつけられた山など、時代や背景によって色々あるようです
不忘愆は今風に直訳すると「忘れや誤りは無い」。黄節は詩経大雅からとったのだろうと言っています

325 :無名武将@お腹せっぷく:2016/12/15(木) 22:30:03.73 .net
文字化け対策や読み下し説明のために原文を画像にしようかと思ったのですが、upロダを探すのがめんどくせーので、しばらくはこの形式でgdgdといきます

對酒(對酒歌)/曹操
對酒歌。太平時。吏不呼門。
王者賢且明。宰相股肱皆忠良。咸禮讓。
民無所爭訟。三年耕有九年儲。倉穀滿盈。
斑白不負戴。雨澤如此。百穀用成。
郤走馬以糞其土田。
爵公侯伯子男。咸愛其民。
以黜陟幽明。子養有若父與兄。
犯禮法。輕重隨其刑。路無拾遺之私。
囹圄空虚。冬節不斷人。
耄耋皆得以壽終。恩澤廣及草木昆蟲。

酒に対して歌おう。太平の世。官吏が戸を叩き、呼ぶこともなく。
王者は賢明、宰相や股肱の臣は皆忠良であり。ことごとく礼儀を尽くしては謙虚であり。
民に争いの種はなく。三年耕せば九年の収穫があり。穀物は倉に滿ち盈(み)つ。
白髪の老人よ、重い荷物を背負わずとも良いのだ。雨はこの地を潤し、五穀はみのりを成す。軍馬を御し、もって田畑を耕そう。
公侯伯子男の爵位をもつものは。ことごとく其の領地の民を愛する。
人材の評価を、適切に行い。父のように、兄のように、その子らを養う。
礼法を犯さず。罪の軽重に従い適切な刑罰を下せば。道路の落し物を拾い、自分のものとする輩は居ない。
牢屋に誰も入ることなく。刑罰を下すべき冬至に誰も斬ることなく。
いついつまでも皆が長寿を謳歌し。天寿を全うし。治世の徳が草木昆虫にまでも行き渡らんことを。

自分の理想、理想とかけ離れた現実への憂いを読み込んだ作品ですかね
最後のは漢書成帝紀に昆蟲草木、漢書杜周伝の杜欽にも草木昆蟲という言い方が出ます
問題は杜欽が盲杜子夏と呼ばれた人で、ネット上には盲夏侯の元ネタという説もあるんですが、だとしたら
・この作品が作られた頃には、夏侯惇もいちいち気にもかけてなかった
・左目を怪我した後の夏侯惇に、大将軍を支えた盲杜子夏のように自分を支えろみたいなニュアンスを持たせた。
詩に特定の人物への思いを込めたという説は黄節戔にもみられます。例えば短歌行は曹操が荀イクと対立した頃に、仲直りを意図した作品みたいな説もあげられてます
とまあ自分で書いといて何ですが、個人的にはナイナイモードです
・その他
さあ実際はどうでせうね

326 :無名武将@お腹せっぷく:2016/12/18(日) 17:12:07.81 .net
(´┌┐`)あげてに

327 :無名武将@お腹せっぷく:2016/12/26(月) 01:32:57.99 .net
疑問の多かった短歌行。
何故、三度も回った鳥を乞うのか?
三顧の礼に対し、曹操らしい気質が描かれてるのか?と思いましたが

もしや、私らの対酒当歌。
演義同様の創作なのでしょうか?
対酒当歌では旧知の劉備・関羽らに和睦と割譲を解きながら曹操の隠れたライバル孔明に対するジェラシーが歌われているのですが、、、

328 :無名武将@お腹せっぷく:2016/12/26(月) 06:29:44.16 .net
……(どうコメントしようか、いっそクマーAAを貼ろうかorzドコヲドウヨメバソウナルンダ)

329 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/01(日) 07:53:24.52 .net
曹操の気出唱(駕六龍)、誤訳御免です
出典《漢魏六朝百三名家集》

駕六龍。乗風而行。行四海外。路下之八邦。歴登高山。臨谿谷。
乗雲而行。行四海外。東到泰山。仙人玉女。下来遨遊。驂駕六龍。飲玉漿。
河水盡。不東流。解愁腹。飲玉漿。

奉持行。東到蓬莱山。上至天之門。玉闕。
下引見得入。赤松相對。四面顧望。視正焜煌。
開王心正興。其氣百道至。傳告無窮。
閉其口但當愛氣。壽萬年。

東到海。與天連。神仙之道。出窈入冥。常當専之心恬憺。無所?欲。
閉門坐自守。天與期氣。願得神之人。乗駕雲車。驂駕白鹿。
上到天之門。来賜神之薬。跪受之。敬神齊。當如此。道自来。

訳っぽい
六龍を駆り、風に乗り、さぁ行こう。行こうか四海の外へ。
天の道から見下ろせば東方の八の国々が見える。
あちこちの高山を登っては巡り、天の高きを知る。谷間に臨んでは地の深さを知る。

雲に乗り、さぁ行こう。行こうか四海の外へ。
東は泰山に至ると。仙人や玉女が降りてきて気ままに戯れる。馬車を六龍にまかせ、玉漿を飲もう。
黄河の水も人の命も尽きて、もはや流れ行かぬ。腹の憂いを解こう。玉漿を飲もう。

そのまま行けば、東は蓬莱の山につく。登れば、天門のひとつ玉闕につく。
馬車から降りて門内に入れば、仙人の赤松と出会うだろう。四方をぐるりと見れば、まさにきらびやか。
歳星、天王星、青龍心宿など春の星座は配列正しく。その気は宇宙のすみずみまで届き、命令の伝わること限りなく。
その口を閉ざし、ただ気を養い、寿命は万年にして終わりなし。

東海の果て、大海原と蒼穹の交わるところ。神仙の道は天地の狭間を過ぎて、冥界に入る。
気を養うことに専念しよう。心やすらかにして貪欲に従わず、門を閉ざしては座して守ろう。
時を読む虎や気の流れに乗る龍のように、天と我が身を共にしよう。

願わくば神人となり、雲車に乗り、白鹿に引かせたい。のぼりては天門に至り、神薬を賜ろう。跪いて之を受け取ろう。
神を敬いつつしむ。かくのごとくあれば、道はおのずと開かれる。

330 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/01(日) 08:11:34.40 .net
 昇ったり下ったり、上上下下東西東西……1800年前のコナミコマンド。
 というのはさておき、古典での解釈としては「詩経の『君子、万寿無期』から駕六龍は王業を意味する。理想をとげて、皆で長生きしようという作品」とか、
「漢武帝の心と魏武帝の心は等しく、ただ漢武はそれを外に求め、魏武は内に求めた。
道教では陰気を極めねば仙人にはなれないと考えられており、そして魏武は陰気を求めきれず、陽気(人としての寿命)が尽きるまでに間に合わなかった」とかですね。

 最後に薬を賜るのは誰かってことですが、淮南子では、女仙を統べる西王母は不老不死の薬を持つとあります。男仙の統括者である東王父も同じように考えられていたのではないかと思います。
 東=春ということで、開(歳星)、王(天王星?)、心(青龍心宿)など春の星が使われています。
 漢書天文志「歳星正月晨出東方」「東宮蒼龍,房、心。心為明堂,大星天王,前後星子屬。」
 出典のように戦前のテキストで「開王心。」と区切るのは、「草木昆虫。」など三文字以上の長い名詞は、それひとつで区切る流派があったためだと思います。
 王心を開くと解釈する場合は「過去に王心という単語が使われていた」「曹操が王になることを求めていた」「かつ、その野心を隠さず堂々と表に出していた」ことになるのですが、そっちでの分析は略します。

 同じ曹操気出唱の他作品は宴会の詩と推測できるので、この作品も新年の宴会などで歌われたと推測します。
 戦乱を共にすごし、冬を越え遠くから馬車に乗り都に来た参加者に、春盛りの夜空の下で酒を飲み交わし、長寿を共にしようと呼びかける歌として解釈してみました。

 というわけで、あけおめです。詩の意味する季節は、もっと後ですけどねw

331 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/01(日) 15:32:29.26 .net
曹操の太行山と李白の蜀道難が似てるぞ!!!

嗚呼、何年 虚構を追い掛けたのか、、、

332 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/08(日) 07:08:02.05 .net
>>329
>馬車を六龍に任せ、

>六龍の手綱をひき、
の方が原文に近いかな?まあいいや

333 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/17(火) 07:39:41.82 .net
・作者の意図が全く違う蜀道難と魏武苦寒行を同じ扱い
・李白や蘇子が蔡パハや曹操らの作風を取り込んでいたと考えない件
・文選や晋書など複数の古典資料を無視して、いきなり後世の創作扱い
・三匝=3顧の礼で諸葛亮へのジェラシーなら、魏略で諸葛亮が自分から出ているくだりはジェラシーで歴史を捻じ曲げたのか
・繞樹三匝は周公吐哺と対比している件について(周公は髪を洗っている途中にお客さんがきたら三回髪を掴んで水気を切っただけで、食事中にお客がきたら吐き出して会うことを三回もしたから、天下の人々は集まってきた)
・三匝しただけで三顧なら、魏で複数作られている三良詩や三老公も劉備関羽張飛のことだと?それ何てファンクラブ?

……二、三行に突っ込みどころが沢山。その才能がある意味羨ましい。

334 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/19(木) 04:14:34.53 .net
考えたら、短いからむしろ判りにくいのか
短歌行について、今のところ知っているのは以下のとおり(他にも細かい派生はある)。

作者:現存している作品が、曹操の読んだ本辞であるという保証はない
A)曹操
B)曹操を主とする、宴会の参加者

本文
・本辞(もしくは魏楽所奏)今よく知られている文
・晋楽所奏
・藝文類聚

解釈
1)荊州で劉備を破り、意気軒昂として歌ったもの(一般的な説)
2)作者B)に準じる。曹操が奇数句、部下が偶数句を歌った(現在の一仮説)
3)自分の公就任に関し、人材や配下を求めるもの(黄箋1)
4)荀いくに対し、旧知のつながりと、自分の公就任に対する理解を隶めたもの(黄箋2)
5)作者B)に準じる。呉への怨念から始まり、状況の変化によって頻繁に書き換えられた(唐代あたりからの仮説)

1)劉備関連脱は、劉備があちこちを放浪していることを指す。
南へ飛ぶかささぎを劉備に、木を三たび巡っても拠点が無いと例えている(以下のリンク先の左下部分など)。
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898785/46

 これに対して出た意見。
 考証の結果、鳥は詩経や古詩十九首の一首など、七夕や離ればなれの恋人を繋ぐ架け橋を意味するかささぎだと考えられる。
 曹操の一族と劉備の間に、結婚絡みの明らかな記録があったっけ?
(献帝との繋がり次第ではある。夏侯氏は姻戚と言えなくもないが曹の氏姓ではないし、表立った同意の上での結婚ではない)。
 本来の對酒當歌は、劉備と関係ないのでは?過去の書で劉備との関連性が言われるのは、蜀漢正統論に引きずられたものではないか?
 …という意見が、蜀漢正統論の見直しと共に?出てきた。それで2)以降の説が、改めて見直されたのかな。
 この辺はまだ判らない点も多いので、ご存じのかたがいらしたら解説お願いしたいなと。

2)は、「大学の教員によるミニ講義 短歌行」でググれぱ判りやすいページが出るので、そちらに。
3)かささぎは、人材欲求に絡めた例えとして解釈したもの。
4)荀いくとは古い繋がりがあり、子が曹操の娘と結婚しており、後に曹操の公就任に関して対立したという説がある。仲を修復するために詠んだ説。

335 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/19(木) 04:57:14.59 .net
5)孫氏は、曹操の氏族と複数の婚姻関係にある。曹操の妹が孫匡の妻、曹操の子(曹彰)の妻が孫賁の娘とも言う。
 また孫賁は曹操が荊州を破った時、人質を出して帰順しようとしている。

ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551360/12
 阮?の「為曹公作書輿孫権」は、身内が曹操と婚姻関係にあるはずの孫権が、劉備と婚姻関係を結ぼうとしていることに対して送られたと言われる。
 負け惜しみを言いつつ、何だかんだで孫権との誼を強調している。
 文内の鄭武は韓非子など。鄭の武公が胡に子を嫁がせ歓心を買った後、胡を討伐せよと進言した臣下を殺した。
 これによって胡が油断して鄭への備えをしなくなった所で、鄭は胡を滅ぼした。
 曹操が婚姻で孫権を騙そうとしていたんだと天下が噂するのを恐れる、というのは、逆に、孫権が婚姻で曹操を騙したと疑っていることの裏返しではないか?

 古い誼、婚姻関係、現在の対立など内容が、短歌行と共通する。この視点から對酒當歌を解釈すると、以下のような感じ。

原典?(藝文類聚)
1 對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
2 明明如月。何時可?。憂從中來。不可断絶。
3 月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝,無枝可依。
4 山不厭高。水不厭深。周公吐哺。天下歸心。

・対酒〜
人生のはかなさに対する憂い
・明明月光〜
月光=曹操政権をいつ完全なものにできるのか。憂いは止むことが無い。
・月明星稀〜
かささぎは七夕、天の川に架かる橋として知られる。曹一族と孫一族の、何人かが既に結婚していることを指す。
月が明るい夜=曹操と仲良くするのが良いことは明らかだ。
カササギが依る場所を見つけられない=何度も婚姻し、友好を申し出ながら、孫家は曹氏を騙し裏切り、長江に、魏との間に橋をかけることはなかった。
・山高不厭〜
いかな困難も拒否するな。周公が天下を従えたように、いつかは江南の心も従えよう。
これは4)の公位にも繋がる。公位につくのは私欲ではなく、天下を統一するためだという話。

336 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/19(木) 05:22:23.46 .net
 ちなみに阮うは上のリンクにあるとおり劉備にも送っているらしいけど、殆ど残ってない。

 その後、魏晋代に改変があった。タイミングとしては、
・孫権の臣従
5)説なら、この時点で宴会の部分が追加され、周公に重点がおかれる。月明星稀の解は、劉備などまだ臣従しないものを指す文章となった
・曹丕の代
1)説なら、このあたりで純粋に人材欲求の詩になった。
5)説なら、鹿鳴の解は、曹丕短歌行では親から子への教えを意味する。為曹公作書輿孫権では、呉王夫差がたてた姑蘇台は、子鹿の遊び場となった。子鹿たる私が呉を征服し、遊び場としよう。
曹丕が呉への動きを見せたのも、短歌行を曹操の陵に対して奏でたのも、曹操に対し呉への恨みは忘れないという宣言。
・晋代
魏も蜀も呉も滅んだだめ、純粋に人材欲求の詩になった

 つまり初期の對酒當歌は、一見風流ではあるが複雑なもので、状況によって書き換えられた。
 書いてて、また幾つか別の説があったのを思い出したけど、今すぐ論文を探してよみなおす気になれないので、このあたりで。

 現在の短歌行は魏晋代に政治目的で改竄されてるよ説は大昔からあるし、これを言うなら判る。
 いきなり演義と同じレベルの創作扱いにするなら、それなりの根拠を示して欲しかった。

337 :無名武将@お腹せっぷく:2017/01/19(木) 07:49:38.46 .net
あー、グダグダ書けばいいってもんでもないやな。
細かいところに書き損じもあるけど、大意は書いたし止めとこう。
>334-336はあくまで一説だから。

338 :無名武将@お腹せっぷく:2017/02/26(日) 21:22:03.90 .net
曹操秋胡行「晨上」解釈、省エネモード

出典 宋書、楽府詩集、漢魏六朝百三名家集

1解
晨上散關山。此道當何難。晨上散關山。此道當何難。
牛頓不起。車墮谷間。坐磐石之上。弾五弦之琴。作為清角韻。意中迷煩。
歌以言誌。晨上散關山。

・節戔「當何難=不難」
・歌以言誌→尚書の「詩言志、歌永言(詩は志を言い、歌は言を永くす)」など。
 この辺は日本でも言志録など有名ですし、日本語の論文がネットで見られるのでそちらに

明け方上る散関山、此の道の何が難しい
明け方上る散関山、此の道の何が難しい
牛は伏して起きず,車は谷間に堕ちるとも。
(穆天子と同じく)磐石の上に座し、(帝舜も鳴らした)五弦の琴を弾く。
(黄帝が作った)清角韻を奏でつつ、煩悩に迷い惑う。
歌に志を永くのこそう、最上散関山。

2解
有何三老公。卒來在我旁?有何三老公。卒來在我旁?
負揜被表。似非恆人。謂卿雲何困苦以自怨。徨徨所欲。來到此間?
歌以言誌。有何三老公?

・「負揜被表」の「表」:宋書・楽府詩集では「裘」

何事ですか三老公、わが傍らに来たり在る
何事ですか三老公、わが傍らに来たり在る
長衣を負い毛皮を被り、いかにも常人ならざるお方
言うに「卿(きみ)こそ何に困苦して怨み、さまよい求め、此所に来たのかね?」
歌に志を永く遺そう、有何三老公。

339 :無名武将@お腹せっぷく:2017/02/26(日) 21:22:30.11 .net
3解
我居崑崙山。所謂者真人。我居崑崙山。所謂者真人。
道深有十得。名山歴観。遨遊八極。枕石漱流飲泉。沈吟不決。遂上升天。
歌以言誌。我居崑崙山。

・「道深有十得」の「十」:宋書・楽府詩集では「可」
・孫盛の「漱石枕流」の出典候補のひとつ

我が住居(すまい)は崑崙山、いわゆる真人なるもの。
我が住居(すまい)は崑崙山、いわゆる真人なるもの。
天地の道を深く究めつくし、名山を歴観(めぐりみ)て。
八極すみずみまで旅しては、石を枕とし流れに漱ぎ泉を飲んで。
沈吟して決めざるが、遂には高きへ天(あま)昇らん。
歌に志を永く遺そう、我居昆侖山。

4解
去去不可追。長恨相牽攀。去去不可追。長恨相牽攀。
夜夜安得寐。惆悵以自憐。正而不譎。乃賦依因。経傳所過。西來所傳。
歌以言誌。去去不可追。
・「乃賦依因」の「乃」:宋書・楽府詩集では「辭」

去去して追うはできず,長く恨む相牽攀(のぼ)らんと。
去去して追うはできず,長く恨む相牽攀(のぼ)らんと。
夜な夜な何処に横たわったものか。惆悵(うらみなげき)を以て自ら憐(あわれ)む。
「正にして譎(いつわら)ず」、ゆえに逸材が(私を重用してくれと)歌い集まった。
それは東西を馳せた、斉桓の英雄譚(モノガタリ)。
歌に志を永くのこそう、去去不可追。

340 :無名武将@お腹せっぷく:2017/02/26(日) 21:26:05.47 .net
以前に訳した時は注釈をつけていない辺りを中心にコメント

○作品の特徴
1)韻の踏み
 現代語でも構わないので、自分で実際に読み上げるのが早いかと
2)繰り返し
・曹操以前の古秋胡行として「在昔」という歌があったが現存しないという記述あり
・同じ時代の秋故行で、繰り返しを使う例もある

○三老公は諸説あり
・天地人、三皇など人を越えた存在
・漢代の制度(三老五更)から、自分より年老いた存在
・1解から、神話混じりの過去の英雄(穆天子、帝舜、黄帝)
・特に統治に長けた人材。漢書陳勝項籍伝「三老豪傑」など、

○4解について
・節戔は、全て斉桓公の逸話によると解釈した上で、建安十九年十二月乙未令と関連づけて、
人材欲求の詩とする
・以下、節戔に追補
「正而不譎」
→論語憲問で、孔子が斉桓を評した言葉
「晉文公譎而不正,齊桓公正而不譎(晋文は偽にして正しからず、斉桓は正にして偽らず)」
「管仲相桓公,霸諸侯,"一匡天下",民到于今受其賜(斉桓は天下をひとつにまとめ〜。曹操の短歌行「周西伯昌」にも出る)」

「乃賦依因」
→角を叩き商歌を歌い来た寧戚という人物を、斉桓が採用した逸話

「経傳所過。西來所傳」
→斉桓が封禅の儀を行おうとして言った台詞と、自分の戦歴を重ねたもの
史記の齊太公世家
「(略)北伐山戎、離枝、孤竹、"西伐"大夏、渉流沙、束馬懸車登"太行"、至卑耳山而還。(略)九合諸侯
、"一匡天下"。昔三代受命、有何以異於此乎?吾欲"封泰山、禪梁父"」

このとき管仲は、幾ら止めても斉桓が聞かないので、「遠方から奇怪なものを得てからにしろ」と"後回し"
にすることを提案して止めた

341 :無名武将@お腹せっぷく:2017/02/26(日) 21:36:36.93 .net
この作品の解釈は、三老公、及び4解の解釈次第
まずは斉桓の末路(兄弟の後継者争い)から、曹丕と曹植に対する警告
次に、三老公の意味から他の解釈へ飛ぶこともできるが、今回は人材欲求の詩歌として解釈

a)謙遜
 三老公を登用できなかった自分は、過去の聖天子、人材が集まった斉桓に及ばない

b)欲求
 自分は聖天子たる三老公の地へたどり着き、覇を唱えた斉桓と同じように東西を馳せた。
 だが三老公や斉桓と並ぶには、あと一歩、ただ一つ、人材が足りない。

 次にこの秋胡行が出来たのは、正史によれば散関山に居た建安20年4月前後
 建安24年、侍中陳羣、尚書桓階が漢魏禅譲を上奏したときの夏侯惇の反応として、二つの説がある

・魏氏春秋
 上奏に対し夏侯惇も同意
 曹操「若天命在吾、吾爲周文王矣(もし天命が我にあろうとも、我は周文王たらん)」と答えた
・曹瞞傳と世語
 上奏に対し夏侯惇が「以爲宜先滅蜀、蜀亡則呉服、二方既定、然後遵舜、禹之軌
(蜀を滅ぼし呉が降伏してからにしろ)」と"後回し"を勧め、曹操が従った

 上記の秋胡行で曹操が残したがったのは、周文王ではなく"斉桓"
 斉桓が"禅譲"をしたがったとき、"管仲"が"後回し"を進言した

 当時の夏侯惇は曹操に近く、この時点で、既に禅譲に対する曹操の本心を知っていた可能性がある
・さまざまな特権持ち(常與同載。特見親重、出入臥内)
・夏侯惇の駐屯地
 壽春(荀ケが亡くなった地なので、荀ケの権限を一部引き継いでいたかも?)
 召陵(六年三月に討虜渠開通で曹丕が来た事から、討虜渠絡みもあり?)

→秋胡行を曹操の禅譲に関する考えとして見た場合、実際は魏氏春秋より曹瞞傳と世語に近い?

・自分を止めてくれる管仲こそ、命の終わりまで常に求めていた人材
・その管仲が居ないことに対する感情

 曹操や夏侯惇の本心として、管仲の台詞を言って欲しかった人物はもっと他にいたのではないかと愚考

以上

342 :無名武将@お腹せっぷく:2017/02/26(日) 22:38:25.34 .net
書いてて思ったこと
・ネット検索可能な原文が充実してきた件
・機械処理によるクロール&スクレイピング結果を適当に照合しているだけだと、当然ながら4解みたいなケースの意味は掴みきれないことを再確認した罠
・漢文素人の私がやらなくても誰かやるだろアフィにコピペされるぐらいなら辞めた→やっぱ某wiki書き直そう

343 :無名武将@お腹せっぷく:2017/04/30(日) 20:09:49.85 .net


344 :無名武将@お腹せっぷく:2017/04/30(日) 20:51:45.18 .net



345 :ジャイアニズム:2017/04/30(日) 22:46:53.13 .net
文章は傾国の怠業

346 :無名武将@お腹せっぷく:2017/05/08(月) 21:26:26.70 .net
にょろたんの話題は

347 :無名武将@お腹せっぷく:2017/05/20(土) 16:29:01.87 .net
魏文帝大墻上蒿行の仮翻訳完了ついでに、三国演義の曹操が死んだところに出るギョウ中詩の適当すぎる訳
原文は色々とありますが、台湾研究院系

城即ギョウ城水ショウ水,定有異人従此起。
雄謀韵事与文心,君臣兄弟而父子。
英雄未有俗胸中,出没豈随人眼底?
功首罪魁非両人,遺臭流芳本一身。
文章有神霸有気,豈能苟爾化為群?
横流築台距太行,気与理勢相低昂。
安有斯人不作逆,小不為霸大不王?
霸王降作兒女鳴,無可奈何中不平。
請祷明知非有益,分香未可謂無情。
鳴呼!
古人作事無巨細,寂寞豪華皆有意。
書生軽議塚中人,塚中笑爾書生気!」

城といえば即ちギョウ城、水といえばショウ水。さだめし非常の人が此に起ったというところ。
雄謀、風流、そして文心。君臣、兄弟、そして父子。
英雄は今も胸中にいるではないか。どうして人々のまぶたの裏に現れないことがあろうか。
功績の筆頭と罪人の首魁とは別人ではない。汚名も芳名もルーツをたどれば一身にいきつく。
文章には神霸の気あり,どうしていやしくも群衆の中に埋没できようか?
矛(旗)を横たえ銅雀台を築き太行山を踏み越え。気と理の勢いを音楽の高低に乗せた。
どこにこの人が「反逆者ではない」あるいは「小にしては霸ならず大にしては王せず」と言うものがいようか?
今や霸王が降りれば(ガキ大将のように)子ども達をして泣かせるばかり。いかんともしがたい不公平を憐れむ。
死者への祈りは明らかに益をもたらさず。弔香の煙は未だ無情というべし。
ああ!
古人のなす事に大小など無い。栄枯盛衰の全てに意義がある。
書生が軽々しく塚中の人を議論すれば,塚中の人は書生の空回りを笑うだろう!

小不為霸大不王は、史記の大不王小不伯
無可奈何も史記の樊於期が自殺したときの表現ですな
最近の中国では覇王は乱暴者みたいなニュアンスもあったと思いま

348 :ジャイアニズム:2017/06/01(木) 18:27:54.57 .net
文書は傾国の怠業

349 :ジャイアニズム:2017/06/03(土) 09:23:32.74 .net
>>3
曹植は糞賊

350 :無名武将@お腹せっぷく:2017/06/03(土) 14:47:34.76 .net
劉禎は甄氏の裸を見たのかな?

351 :無名武将@お腹せっぷく:2017/08/21(月) 22:06:43.92 .net
>>347作者の人は、古詩帰でも
此老詩歌中
有覇気而不必其王
有菩薩気而不必其佛
と書いているので、曹操は覇気や悟りといった才能や資格を持っていたが、王や仏になる意欲や必要がなかった…みたいな見方をしていたっぽいですね

歩出夏門行の機械分析処理がうまくいかなかったので、バグ取りついでにタイトルの見直しもやっているのですが、機械翻訳含む翻訳の限界も感じて鬱々とします
出典によりタイトルがメチャクチャ。単語の意味が色々ありすぎ。古楽府君子行が曹操の作品だとする説もあるし
せめて相談相手が居れば、まだ良いんですがね…

352 :無名武将@お腹せっぷく:2017/09/03(日) 10:55:12.52 .net
☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆

353 :無名武将@お腹せっぷく:2018/01/01(月) 22:02:17.65 .net
文字化けテストついでに、過去に見たいというレスがあった何晏の作品
翻訳や訂正などはご自身で良きようにお願いします

【私がタイトル忘れた】
若稽古帝魏武。睿(or淩)哲欽明文思。罄民生之俊徳。懿前烈之極休。
先天而天弗違。後天而奉天時。聿迪明命。肇啓皇基。
夫居高聴卑。乾之紀也。靡徳不酬。坤之理也。故霊符頻繁。
衆瑞仍章。通政辰修。玉燭告祥。和風播烈。景星揚光。
応龍遊於華澤。鳳鳥鳴於高岡。麒麟依於圃籍。䖑虎類於坰疆。
鹿之麌麌。載素其色。雉之朝雊。亦白其服。
交交黄鳥。信我中霤。儵儵嘉苗、吐頴田疇。

【擬古】
双鶴(鴻鵠)比翼遊、群飛戯大清、
常恐失(大)網羅、憂禍一旦并、
豈若集五湖、順流唼浮萍、
逍遥放志意(永寧曠中懐)、何為怵タ驚

【祈猛獣刀銘】
徒搏不兵作戒宣丘造斯器螭獣是劉制禽良昆明亶時末釐厥後蠲民之災

【失題】
轉蓬去其根、流飄従風移、𦬆𦬆四海涂、悠悠焉可彌、
願為浮萍草、託身寄清池、且以楽今日、其後非所知

354 :無名武将@お腹せっぷく:2018/02/21(水) 14:15:57.11 .net
羽生結弦選手が冬季五輪で金メダルとった演技を、中国のメディアが
曹植の「洛神賦」を引用して讃えたそうだ

355 :無名武将@お腹せっぷく:2018/02/22(木) 20:00:56.91 .net
誰でもできるPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
念のためにのせておきます
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

RGO83

356 :無名武将@お腹せっぷく:2018/04/27(金) 07:14:49.14 .net
文選買った人おりゅ?

357 :無名武将@お腹せっぷく:2018/04/27(金) 07:44:34.57 .net
どの文選のこと?明治?中華?広文選や広広文選のこと?

358 :無名武将@お腹せっぷく:2018/10/01(月) 18:04:43.77 .net
少し落ち着け

359 :無名武将@お腹せっぷく:2019/04/02(火) 22:43:40.62 .net
新元号のおかげで張衡さんが話題になってるぞ

360 :無名武将@お腹せっぷく:2019/04/02(火) 23:01:12.07 .net
あれは張衡より儀礼や王羲之の蘭亭序も出典の可能性が濃厚な件

しかも清代の文選考異にある説が帰田賦の本意のように書く奴とか、ニワカだらけで草生えた

361 :無名武将@お腹せっぷく:2019/05/04(土) 07:26:51.62 .net
年号をきっかけに漢詩を学ぶ、改めて漢詩を読みなおすなんて人は居るんだろうか

362 :無名武将@お腹せっぷく:2019/10/05(土) 17:12:02.61 .net
まとめサイト消えたか

363 :無名武将@お腹せっぷく:2019/10/05(土) 19:34:44.43 .net
ジオシティーズが終わったからね

ttps://web.archive.org/web/20190330045442/http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/

魚拓系サイトを漁れば複製はできる、元スレログもネット上にあるだろうし

364 :無名武将@お腹せっぷく:2019/10/11(金) 01:03:24.17 .net
アンジェ出てこぉ!島から出てこぉ!

365 :無名武将@お腹せっぷく:2020/01/27(月) 05:32:17.36 .net
https://i.imgur.com/5qlacaS.jpg

366 :ジャイアニズム:2021/12/07(火) 12:42:27.70 .net
>>1
建安七子か…
揃いも揃って糞賊どもではないか

367 :ジャイアニズム:2022/05/20(金) 18:13:12.23 .net
文学は糞賊の嗜み

368 :無名武将@お腹せっぷく:2023/01/24(火) 20:18:40.67 .net
>>366
お前は糞子

369 :無名武将@お腹せっぷく:2023/09/14(木) 09:01:42.70 .net
>>363
ありがとう
愛読してたのに保存忘れてどうしようかと思ってた

菊酒飲むぜ

370 :ジャイアニズム:2023/09/23(土) 15:09:17.21 .net
こんなクソスレがまだ残っていたのか

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