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【三戦板】 自治新党その389【新秩序】

736 :無名武将@お腹せっぷく:2024/01/23(火) 19:51:29.30 .net
2回目の朝鮮出兵となった慶長の役では、慶長2年(1597年)、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにして大いに破り、敵将・元均を討ち取った。続く南原城の戦いにも参加し、諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下。その後、泗川の守備についた。


慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは董一元率いる明軍・朝鮮の大軍(島津報告20万人、諸説あり)を、7000人の寡兵で打ち破り、島津家文書では敵兵38717人を討ち取ったと書かれている。徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評している。


秀吉の死により戦役を続ける意義が失われた日本軍は、朝鮮からの撤退を決定した。そして、朝鮮の役における最後の大規模な海戦となった露梁海戦でも、義弘は順天倭城に孤立した小西軍救出の為に出撃。明・朝鮮水軍の待ち伏せによって苦戦するも、明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げている。この海戦の結果、海上封鎖が解けたため小西軍は退却に成功、義弘の活躍により日本側の戦略目的は達成された。


帰国の際にも義弘は、小西行長らと一番危険な殿軍(しんがり)を務め、無事退却させることに成功。これら一連の義弘率いる島津軍の勇猛な戦いぶりから、明軍には「鬼石曼子(グイーシーマンズ:鬼島津の意)」と呼ばれて大いに恐れられたという。


義弘の朝鮮での功により、帰国後の慶長4年(1599年)、それまでの功績として島津領内に設けられていた太閤蔵入地など5万石の知行を加増された。また同年に剃髪・入道、祖父忠良の号「日新斎」にあやかり「惟新斎」と号している。

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