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吉野家食べに行かんか?

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/22(木) 16:16:48.88 ID:c0uLBWM1d
広場に書いてあったんだがww
https://2ch.sc/2ch.html
食べに行こうかなww
独りだし____

215 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 00:49:57.59 ID:pfp+hxwva
 人間ってのは 本能がある。此の本能を 善とするか 悪とするかで性善説や性悪説
が産まれる。宗教は、いかようにも喧伝しいかようにも言い訳を言える。例えば食べる
行為だが、人間賛歌を推し進めて食べるを賛美すれば、カニバリズムさえ賛美される。
だろう。では逆に食べるを悪とすると、自然破壊の象徴だ食べるなと死さえもしても
貫くことが美談になろう。これらを「間抜けの論理」と称される。つまり食の本質が、
どこにあるのか。宗教の本質は、なにか。が、ここで抜けているのだ。つまり性悪説も
性善説もない。性善説で生きれる社会の建設が、人の使命で、欲あらば、善く生きれる
人を育てる環境が、人間社会の掟である。これが わかって居ない。その昔から 自然
と共に共存し 仲間を増やしてきて 人は地球上に君臨してきた。その過去からも 常
に生物は生きる為の闘いだった。襲いかかり食いに来る敵を倒して、倒す為に仲間を増
やす。突然の自然災害にも、悔やまず明日を残す。それを営々生き物はやって来たのだ
。これは何時の時代にも、どこででも行われた。アメーバーの分化から 哺乳類の生殖
、植物の毒素 虫たちの共生。こうしたものが、やがて培われて出来て、自然淘汰にも
立ち向かうのだ。自然界の掟と共存できない種は生き残れなかった。猛獣や猛禽類は
確かに強かっただろう、弱肉強食の世界では、強い事は体力では無く耐力だったのだ。
それでもしかし、人間の様に大食家なら生き残れない。恐竜は大きかった。しかし、彼
らさえも、あの巨体の維持に骨はスカスカであり、筋肉も空気だらけだった。だから鳥
に進化した。虫たちも同じだ、毒をもち細菌のいる場所で、捕食して生きるのは難しい
。そこで少量の食欲で生きる小さな個体として 専用の食生活で生きる事にした。恐ら
くは、小さな木の幹でも、数百の虫、数万の細菌が生きる。それが自然界だ。人間でも
同じである、少しづつ毒素を体内に取り込み咀嚼し順化適応して今に至ったのだ。その
歴史は 重く尊い。しかし残されているのは 細胞の記録であって、頭脳の知識ではな
い。そこが本能なのである。仕方ない 無我の境地の動きなのだ。

216 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:18:59.45 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   181

 チョコレートの原料となるカカオ豆は、もともとメキシコ南部から南アメリカが原産
である。カカオは赤道をはさんで北緯20度と南緯20度の間の高温多湿な土地が栽培に適
していると云われていて、ペルーは世界第8位の生産地である。ペルーの人達は、チョ
コレートが大好きである。カカオの名産地クスコや首都リマなどの、国内のあちこちに
、チョコレートの歴史を紹介したり、色々なチョコレートを販売する博物館があるのだ
。毎年クリスマスになると、ホットチョコレートを飲むのが習慣になっている。このチ
ョコレートの原料が、カカオの実である。カカオ豆の歴史や、チョコレートの秘密につ
いて少し語れば「チョコレート」という言葉は英語だそうだ。この語源は「ショコラト
ル」というナワトル語。このナワトル語は、15世紀頃に現在のメキシコ周辺に存在して
いた「アステカ帝国」の公用語である。かつては王の飲み物として、カカオ豆を砕いて
ショコラトルの意味である「苦い水」を飲んでいた。とされる。今でこそチョコレート
=甘いものというイメージだが、かつては「苦い飲み物」だった。なぜ飲み物か、実は
カカオ豆の原産国である中央・南アメリカは気温が高く、チョコレートが固まりにくく
、当時は砂糖がなかったからだ。基本的にカカオは、北緯20度〜南緯20度の「カカ
オベルト」でしか育たなかった。近頃は、土壌改良や温度管理で栽培することは可能と
され、小笠原諸島の母島でカカオ栽培に成功している。かつて、カカオ豆をローストし
、すり潰したカカオマスに、唐辛子などのスパイスを入れて飲んでいたが、スペインが
アステカ帝国を支配してから、カカオ豆がヨーロッパに持ち込まれ進化する。ヨーロッ
パには、豊富に砂糖が集まり、気温が低いため、現在のような甘い、ブレンドカカオの
チョコレートが生まれた。
                               ‥‥by Tomy Land

217 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:19:27.39 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   182

 チョコレートはスペイン語で「チョコラテ」、フランス語で「ショコラ」と言われる
カカオは高価なもので、この苦い飲み物は「テオプロマカカオ(かみの食べ物)とされ
、どうも薬用の食品だったみたいだ。実はカカオの実の「発酵食品」かチョコとされた
。高音多湿の熱帯雨林で育つカカオの木の幹には「カカオポッド」と呼ばれるラグビー
ボール型の実がなる。このカカオポッドの中にあるのが、カカオ豆である。「カカオ豆
は茶色」というイメージだが、加工する前は白い。この白いカカオ豆を発酵させたり、
ローストすることで茶色くなっていく。チョコレートの、製造プロセスは大きく分けて
7つもの大きな工程がある。@はカカオポッドの収穫である。カカオの木の幹になって
いる「カカオポッド」と言われるレモン〜ボンカン大の実を収穫していく。「神(theos
)の食べ物(broma)」を意味されるカカオだが、昔は すりつぶし果汁として飲んだよう
だ皮を剥き中の白いカカオ豆を、カカオポッドから取り出したら、Aの発酵にうつる。
チョコレートは発酵食品なのである。木でできた箱の中にバナナの葉を敷いて、その中
に豆を入れて、4〜7日ほど置くのだ。発酵させることで、チョコレートの香りの元と
なる物質が作られるため、非常に重要な工程は産地や地域、農家によって異なっている
。その後Bの、発酵させたカカオ豆を乾燥させる行程に進む。実はこの発酵こそが色を
コーヒー豆模様にする。発酵したら茶色にそして黒ずむ。この色で、水分が約8%以下
になるまでカカオ豆を乾燥させます。昔は発酵させた後に、すぐ色々な国に輸送した。
だがそうすると腐ってしまうのだった。こうして乾燥させるまでが原産国で行われる。
                               ‥‥by Tomy Land

218 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:20:03.26 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   183

 カカオ豆はおよそだが、紀元前三〜二千年くらい前から、食されていたと言われてい
る。カカオ豆をカカオトルと言うそうで、それを高温多湿の現地ですりつぶすと液体に
なる。これが飲み物で、ショコラトルと現地ナワトル語で呼ばれた。かなり苦いもので
気付け薬として愛飲された。1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発券して以来は欧州
は食生活に於いて、大変な変化を起こした。サトウキビのプランテーション栽培である
。今では大規模農園と訳されるが、本来プランあるいはプランタン、つまり春の事で、
計画や種まきを意味する。つまり囲いの事だ。自分の持ち物として柵をする、知らしめ
ると言う事で計画経営を意味する。つまり黒人奴隷労働者の輸入である。年4回収穫が
出来るサトウキビの出現で、それを砕き生成し干して砂糖が大量に輸入に出来るように
なった。15世紀に発見された新大陸は16世紀には、欧州に多大な富をもたらした。
その富は脳内活性化であった。これまで少量の甜菜と言うダイコン種の砂糖分しか取り
得なかった人々に、大きく糖分補給をした。こうして原産国から色々な物が欧州に輸送
されると、焙炒(ロースト)の技法が産まれた。C焙炒(ロースト)の技法は、さまざ
まな化学反応が起き、ここでチョコレートはいい香りが生まれたり、こげ茶色に変化し
た。こうしてコーヒー豆同様にDローストしたカカオ豆をすり潰し、カカオマスにする
行程が試された。ローストされたカカオ豆はすり潰されて、カカオマス(cacao mass)の
ペーストになります。カカオマスはチョコレートの原料として使われます。さらに欧州
の機械文明は、Eカカオマスを圧搾し、ココアバターを抽出する製法を生み出した。
                               ‥‥by Tomy Land

219 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:21:06.01 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   184

 カカオマスを圧搾(圧力をかけて絞り出す)し、「ココアバター」の薄黄色の油分が
出てくる。このココアバターはチョコレートの口どけや食感を決める大切な成分となっ
た。ココアパウダーはオランダ人が発明した。とされる。カカオマスを圧搾し、ココア
バターを抽出したあとに出る粉が「ココアパウダー」で、これに砂糖などを混ぜてお湯
に溶かして飲むのが、ココアである。このココアの為に西洋人は大量にカカオを栽培さ
せた。これは将軍にも献上されたし、ビールを飲み干す男性に対してココアを飲む女性
が好まれた歴史がある。対して油分であったココアバターは薬品や軟膏、化粧品などの
医療品に使用されていた。当時の不衛生な環境では香りは、重要なアメニティアイテム
であったのだ。しかし西洋でオランダ人覇権からイギリスに代わり、イギリス人は貪欲
に、綿花から始まり、コーヒー豆、砂糖、カカオ、タバコ、お茶、アヘン、と次々に、
植民地経営の独占化を果たしていった。ここで、F砂糖や粉乳を混ぜて常温で固めると
言う、固形化の発明がなされ、砂糖やココアバター、カカオマスや粉乳などを混ぜて、
さらに粉砕し、固めるという近代チョコレートが出来上がった。ちなみに、カカオマス
を加えないと茶色にならずに、「ホワイトチョコレート」ができる。つまりはカカオポ
ッドが収穫され、実がとりだされ、白いカカオ豆を発酵させる手順を踏み。発酵させた
カカオ豆は乾燥させて送られ、その後、コーヒーの様に焙炒(ロースト)されて、その
後ローストしたカカオ豆をすり潰し、カカオマスにしカカオマスを圧搾し、ココアバタ
ーを抽出され、砂糖や粉乳を混ぜて固める。という一連の行程には4千年の歴史で出来
上がった行程だったのだ。チョコレートの美味しさの秘密を科学的視点でみると、「チ
ョコレートの美味しさの秘密」と言えば、香りや味もさることながら、噛んだ時の「パ
キッと感」と、その後の「トロリ感」という食感が肝である。と言われる。これは「も
なか」や「せんべい」の口当たりに感じるが、実は大きな違いがあって、後者は水によ
る溶出だが、前者チョコは、アイスクリームと同じ温度による溶出・溶解なのである。
                               ‥‥by Tomy Land

220 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:21:31.23 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   185

 ここで少しくどいが、日本語
の「溶ける」「解ける」「熔ける」「融ける」の意味と違いを説明する。普通にとける
と言った場合、「解ける」を指す。つまり「疑問が解ける」「帯が解ける」といった、
物の開放である。これは物の形は変わらない。対して、形の変わる物を「融ける」とい
う。「雪が融ける」「アスファルトが融ける」と言った物だ。これらが限定して、高温
で液状化になるものが、「熔ける」という表現が使われる。「金属が熔ける」「蝋が熔
ける」と言った物だ。ところが、熱を伴わないものを「溶ける」と称される。さらに、
化学反応で溶けるものを「鎔ける」と称される。で、ココアバターであるが、牛乳から
作られるバターとは、分子構造や溶ける温度が異なり、それがあの絶妙な食感を生み出
している。チョコレートの食感を生み出すココアバターを構成するのは、個体状態では
、分子は「結晶」になっている。結晶は、原子が規則正しく並んでいる構造体をさす。
しかし、温度が上がると、規則正しく並んでいる結晶構造が崩れて、液体へと変化する
。乳牛乳から作れられるバターでは、冷蔵庫内の温度10℃でも、実は結晶の割合は40
%ほどしかない。残りの60%は液体状態で、40%ほどの結晶部分が何とか全体を支
えているので、固体状態を維持している。そのため、バターには「パキッと感」はない
、指で触れるとすぐに溶けて、折れないのだ。一方、ココアバターは10〜25℃で、
80%以上の結晶が存在する。指で溶けるが、バターよりもかなり固い崩れにくい。又
温度が30℃くらいで、ココアバターの結晶は急激に崩れ、35℃を超えるとほぼゼロに
なる。30℃は、人の体温より少し低いくらいだ。つまり、チョコレートを噛む瞬間は
結晶が80%以上で「パキッと感」があり、口の中でチョコレートが温められると急激
に溶け始めるので「トロリ感」が生まれるのである。この意味では、日本語の表語用解
は、全てに熱があって瓦解するが、それで「鎔ける」や「熔ける」が使われなくなった
                               ‥‥by Tomy Land

221 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/03(月) 19:10:29.90 ID:79OkcBAh0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   185

 ペルー北部の街、カハマルカは、標高2750mの山々に囲かこまれたぼん地で、インカ
帝国が栄えた街であったそうな。ここは、温泉の街として知られており、郊外の広大な
土地には、酪農風景が広がって、気楽に厳しい生活している人の生活がある。産業とい
えば、殆どなく、近くの街に降ろす、乳製品の製造が盛んである。チーズやバターなど
、欧州とは違う菌で、ヨーグルトがおいしいと大評判らしい。特にヨーグルトの種類は
、かなりに豊富にある。各戸が離れているので各家庭での温度差や空気に差があるのだ
ろう。ペルーの人達は、茹でたとうもろこしをチーズといっしょに食べたり、さまざま
な料理にチーズやヨーグルトを使う。逆にいえば、ヨーグルトは欠かせない食材なのだ
。他の国でも近くだと、習慣や食生活は似ている。主食は、海岸地帯は米、山岳地帯や
ジャングル地帯は芋である。ペルーでは主食もエリアによって違い、首都リマの近郊の
海岸地帯は、お米が主食で安心できる。まあぱさぱさで脂っこいが。刻んだにんにくや
玉ねぎを入れて、煮込みや焚くことが多く、日本のごはんよりパラパラしている。山岳
地帯の主食は、いもですが、食用のじゃがいもだけでも、この地帯では、3000種類以上
もある。というから驚きである。またジャングル地帯ではユカイモ(キャッサバイモの
一種)が主食で、味付けは微妙である。ペルーでは、大きなお皿に主食やおかずを盛り
つける「ひと皿料理」が一般的。お米を食べる地域では、ほぼ毎食が、お皿にごはんと
じゃがいもが盛もり付けられられ、毎日同じものと同じ酒で過ごす事が多い。日本は、
そういう意味では「今夜は何にする。」と訊く女性は贅沢極まりない発言であろう。ま
あ、寿司みそ醤油に ご飯に揚げ物、汁物、炒めもの、麺にふりかけ、海苔、沢庵、と
バラエティ豊富だから 日本人の食生活は 世界一の豊富さだから仕方ないのだが。

222 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/03(月) 19:10:56.64 ID:79OkcBAh0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   186

 ペルー北部の街、カハマルカは、標高2750mの山々に囲かこまれたぼん地で、インカ
帝国が栄えた街であったそうな。ここは、温泉の街として知られており、郊外の広大な
土地には、酪農風景が広がって、気楽に厳しい生活している人の生活がある。産業とい
えば、殆どなく、近くの街に降ろす、乳製品の製造が盛んである。チーズやバターなど
、欧州とは違う菌で、ヨーグルトがおいしいと大評判らしい。特にヨーグルトの種類は
、かなりに豊富にある。各戸が離れているので各家庭での温度差や空気に差があるのだ
ろう。ペルーの人達は、茹でたとうもろこしをチーズといっしょに食べたり、さまざま
な料理にチーズやヨーグルトを使う。逆にいえば、ヨーグルトは欠かせない食材なのだ
。他の国でも近くだと、習慣や食生活は似ている。主食は、海岸地帯は米、山岳地帯や
ジャングル地帯は芋である。ペルーでは主食もエリアによって違い、首都リマの近郊の
海岸地帯は、お米が主食で安心できる。まあぱさぱさで脂っこいが。刻んだにんにくや
玉ねぎを入れて、煮込みや焚くことが多く、日本のごはんよりパラパラしている。山岳
地帯の主食は、いもですが、食用のじゃがいもだけでも、この地帯では、3000種類以上
もある。というから驚きである。またジャングル地帯ではユカイモ(キャッサバイモの
一種)が主食で、味付けは微妙である。ペルーでは、大きなお皿に主食やおかずを盛り
つける「ひと皿料理」が一般的。お米を食べる地域では、ほぼ毎食が、お皿にごはんと
じゃがいもが盛もり付けられられ、毎日同じものと同じ酒で過ごす事が多い。日本は、
そういう意味では「今夜は何にする。」と訊く女性は贅沢極まりない発言であろう。ま
あ、寿司みそ醤油に ご飯に揚げ物、汁物、炒めもの、麺にふりかけ、海苔、沢庵、と
バラエティ豊富だから 日本人の食生活は 世界一の豊富さだから仕方ないのだが。

223 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/06(木) 10:20:42.39 ID:dyJ3IGKKu
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   187

 ペルー人の朝食は小食で、ペルー風サンドイッチも、学校へ持って行って食べる、働
くお父さんやお母さんも、朝は、ばたばたといそがしいもの。だから毎日の朝食は、本
当にジュースやミルク、コーヒーにパンや卵たまご料理、果物くだものなどが一般的で
、日本で言う、みそ汁とご飯程度である。ま、肥えていないのが、ペルー人の特徴だが
、そこに朝食にあるのかも知れない。日本人も昔は二食生活で、9時ごろ起きて10時
の食事で3時には店が終わる4時に食事すれば、5時には遊女屋に泊まり込んで、夜食
と夜会で明け暮れる。と言うのが一般的で、夜這い風習の拡大版の潜り込み生活だった
。江戸期の日本は日照性時間単位なので、冬も夏も太陽位置が時間だったのだ。従って
冬の夜は長かったのだ。ペルーでは時間のある週末の朝なら、ペルー風サンドイッチの
「パン・コン・チチャロン」を食べる家もあります。ゆでてから、油で揚げた豚肉と、
薩摩芋のような甘い芋と玉ねぎなどを挟み込んだサンドイッチです。ジューシーで外は
カラッとした豚肉と野菜のハーモニーが絶妙に美味いのです。また、アボカドを潰して
パンにはさむ「パン・コン・パルタ」やペルー風ちまきの「タマル」も定番の味。調理
済みのものや冷凍物は外で買えますが、タマルなどは、年末年始に遊びに来る親せきや
友達に振舞われるため、家族全員で沢山作る事もあります。練ったとうもろこしの粉に
ぶた肉やとり肉、オリーブの実、赤ピーマン、人参、ジャガ芋などの具を入れ、バナナ
の葉でくるんで蒸むして作ります。ペルーの通常の食事はお母さんが子供たちによく作
るのは、「アヒ・デ・ガジーナ」のスープである。とり肉と黄色いトウガラシを使った
唐辛子のシチューのような料理で、ご飯と調理したじゃが芋と一緒に一皿に盛もって、
いただきます。見た目が黄色く、黄色いトウガラシのアヒ・アマリージョを使っている
。まあカレー味と違って香りはフルーティーで、そんなに辛くはない。

224 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/14(金) 20:15:18.68 ID:1w1yvp/+c
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   188

 同じくアヒ・アマリージョを使う家庭料理に「ロモ・サルタード」もあります。牛肉
とじゃがいも、玉ねぎなどの炒め物で、子供たちが大好きなおかずです。その他にも、
普段の食事は焼いたり煮込んだりした鳥肉や牛肉、パスタ料理、マッシュポテトなどが
一般的です。ペルーでの、ポピュラーなおやつといえば「ピカロン」であろう。材料は
カモテ(ペルー原産のオレンジ色の薩摩芋)、サパージョ(カボチャの一種)、小麦粉
、卵などを混まぜ合わせて揚げたものだ。仕上げにチャンカカという甘い蜜をかけて、
いただくと、これが美味い、甘いポテチとで言うべきで、気候のせいか水によく合う。
さつまいものドーナツである。ペルーの首都リマには、「セニョール・デ・ロス・ミラ
グロス(奇跡の主)」と呼よばれるキリストの壁画がある。この壁画は大地震が起こり
付近の家屋が崩れても、此処だけは崩れなかったそうで、熱心な信者の、病気の治癒や
治療に効果があったと言う言い伝えがあり、10月に その壁画を祝う、御祭りがある。
この日には、「トゥロン・デ・ドニャ・ぺパ」を食べる。トゥロンはもともとスペイン
のヌガーのような御菓子の名で、ペルーのトゥロンは全く違いう。ビスケット生地を、
何枚も重ねて、ここでも蜂蜜を沁み込ませ、砂糖菓子などでカラフルに 飾っている。
見た目の通りとっても甘い御菓子で、よくまあ歯が持つものだ。と感心するが、ここで
は、標高差で空気が薄く虫歯も繁殖しないらしい。そのほか、お祝いの日や人が集まる
時、ペルーでは「パリジャーダ」や「パチャマンカ」を食べる。パリジャーダは、さま
ざまな種類の肉をあみ焼きにするペルー風バーベキュー。パチャマンカは地面を掘った
穴に焼いた石を入れ、肉や野菜などの蒸むし焼き料理。ワイルドなアンデスの伝統料理
です。どちらもペルーの人々にとっては、御馳走であり、大勢食べると盛上がる。

225 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/21(金) 02:03:24.53 ID:f+Rsqo8iX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   189

 今ペルーでは公立の学校の学力を上げたり、学校の仕組みをより良くしようと、政府
や地域のコミュニティが努力している。給食もその1つである。特定の学校には給食を
出して、子どもたちが学校に行きやすくしている。この方法はアフリカでの教育援助や
東南アジアでも、よく使われる、貧困集落の教育対策である。だがペルーで違うのは、
学校は朝8時から、午後1時までなので、給食が出るのはなんと朝なのだ!朝食が出る
んです。おなかが一杯になる麦(オート)のクラッカーや飲み物など、栄養のバランス
を考えたメニューが出されています。一部ではありますが、昼食も出る学校もあります
。西洋に多くの野菜を伝えたのは、16世紀の大航海時代になって、スペイン人によって
統治が始まった事で欧州世界に食事のバラエティを産み貧困から救った。がインカ帝国
は滅亡しました。しかし当時に破壊され、西洋風に整備された街や美しい建物は残され
、そこにカトリックの教会が建てられ残る。19世紀に入って、ヨーロッパの政治体制の
変化や、南米大陸の解放運動などの影響で、その後に独立運動が起こり、ペルーも1821
年に独立を果たした。その後、日本が明治時代に、貧困や仕事不足などの理由で日本か
らの移民船の就航が相次いでが集団での日系移民としてペルーに渡ってきたのである。
現在では、ペルー渡って来て、ペルーに在住の日系人は3世、4世になっていきている
。今でも推定10万人の日系人がいるといわれていて、その規模は、世界で3番目という
。1990年にはペルーで初めて日系人のアルベルト・フジモリ氏が大統領になったことも
あり有名になった。現在ペルーでは、世界中から多くの旅行者が訪れて、観光化立国で
来ていた。最近は希少鉱物資源の鉱山が活況で、特にリチュウムの塩田が稼ぎになって
いる。さまざまな文化と、歴史が交わった文化遺産やアンデスのゆう大な自然が人々を
ひきつけてやまない。と言った処だ。

226 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:08:35.67 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   190  維新の頃の風景

 インドにスイス系のパリ国立銀行(BNP)が1848年に創設された。「1848年革命」は、
パリで革命が勃発し国王ルイ・フィリップが追放されたのだ。02月26日に、フランスは
第二共和政が宣言した。これを受けて国立パリ割引銀行から民間銀行に格下げされた。
丁度この年の01月24日に、米国カリフォルニアの鉱山の川で、ジェームズ・マーシャル
が砂金を発見したニュースが欧州でも見聞できた。ゴールド・ラッシュの始まりである
。この事は、欧州各国の革命動乱ラッシュと共に、新大陸移民の心を多くくすぐった。
鉱山掘りの民衆と、新規の儲け話に浮足立つ資本家の組織だった移住さえ起こっている
。100年以上を経て 1966年に国立商工業銀行と合併したBNPは、ソシエテジェネラル
系の、バンク・オブ・ザ・ウエスト(1874年設立)、イタリアのBNL(1913年設立)ベル
ギーのフォルティス(1822年設立)など、投資銀行がいたのである。ソシエテジェネラ
ル系は、1863年、同シンジケートのネットワークの大部分がジェネラル・クレジットを
資本金2億5千万フランで、ロンドンを拠点にしていた。トーマス・ブラッシーがリー
ダーシップをとって、ジェネラル・クレジットを創設、エジプト・近東で活躍し、運河
建設や鉄道投資をして稼いた。そんな中で、グラバーは日本にやって来て、貿易業を営
みながら、薩摩・長州・土佐の討幕派を支援し、武器や弾薬を販売したのだ。幕末維新
期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への銃売り渡しに関わっていたが、その中で
グラバー商会の販売量は突出していた。彼はのちに「三菱財閥」(岩崎家)の後ろ盾と
なり、キリンビールや長崎造船所を作ったのである。日本初の蒸気機関車の試走、高島
炭鉱の開発など行ったが、全てマセソン商会の本社が横浜に支店を出し、兵器商売を横
取りしたからであった。しかし、其の事で、兵器商売から離れ、日本の近代化に貢献し
て利益を得て生活した。日本にとってこの役割は大きく、後に1908年、グラバーは勲二
等旭日重光章を明治天皇から授けられほどの功績である。この3年後(1911年)に亡く
なったのだが、墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。

227 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:25:29.35 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191  維新の頃の風景

 当然このバリバの持つ、ソシエテジェネラル銀行に対抗したのが、上海・香港銀行で
ある。ロンドンに拠点を置いたとはいえ、バリバは、フランス・ベルギー系銀行である
。上海屈指の豪商となったサッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダードに出現し
たスペイン系ユダヤ人であった。とされる。当時の大英帝国の東方進出に協力し、まず
インドのボンベイに拠点をかまえ、やがて東インド会社が支那に阿片の密輸を開始する
と、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。19世紀半ばに、阿片戦争に破れた清朝が
上海に租界の設置を認めると、途端に時を移さず上海に進出し大商人になった。阿片を
含む物資の売買を中国販売をしたからだ。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融・
不動産・交通・食品・重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。
その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』 『ファーイー
スタン・インベストメント・カンパニー』 『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海
プロパティーズ』 『イースタン・エステート・ランド』 『キャセイ・ランド』、重機械
製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』 『中国公共汽車公司』 『中国鋼車製造
公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれていた。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、
カドーリなどと共に『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。1930年頃、
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達
男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。と言ってよかった。ここでグラバーは
武器をうる死の商人と言われる噂を払拭するかの様に、サッス―ン商会と対抗したのだ
った。つまり『上海碑酒公司』というビール会社に対抗して、バターフィルド・スワイ
ヤに近づき、三井・三菱を、渋沢栄一と引き合わている。この、仏国系バリバと英国系
のHSBC(香港上海銀行株式会社)は、熾烈なシェア争いがあった。更に、幻の合衆
国第一銀行と朝鮮銀行が存在している。これは、アメリカの名を冠したものの、ロシア
系、中東系とも言える物だった。これらは、日本の各藩が連れて来た銀行だった。

228 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:25:55.51 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   192  維新の頃の風景

 香港を舞台にした映画は、いろいろと沢山あるが、『将軍』の原作者、ジェームズ・
クラベルによる『ノーベル・ハウス(Noble House)』は あまり知られていないのでは
ないであろう。『将軍』と同じテレビドラマシリーズだったそうで、このDVDも2枚組。
主演は若き日のピアース・ブロスナン。ジェームズ・クラベルものが割と好きな部類で
DVDは、随分前に売っていたものですが、これがもう、すごいんです。すごい事件が
次々に起きる(ネタバレしてもいいくらい歴史に忠実に書かれた)と言われている物。
最近の映画では『バトルシップ』で確か中国銀行が派手に倒されていたような気がしま
すが、このドラマでの犠牲者は日本のキリンビールのスワイヤー家の御曹司で、ビール
中国では清朝時代以降の近代化のプロセスで、サッス―ン商会を初めとする 香港のイ
ギリス植民地支配に、英国資本と関係が深かった。スワイヤー・グループの中核企業は
香港の「スワイヤー・パシフィック社(Swire Pacific Limited)」で、現在でも 香港
証券取引所に上場している。ピアース・ブロスナンは、1816年にジョン・スワイヤーが
(John Swire(1793年〜1847年)がイギリス・リバプールでスワイヤ商会(John Swire
 & Sons Limited)を創業して後、香港へ進出した頃の話の主人公として模写している。
「・・・・・よくこんなあらすじが許されたなーと思うような・・・・・。」という意見は大間違
い。現実のサッスーン商会やロスチャイルド家と敵対し、悪行をされた記録から出来て
いる。若きイケメンのタイパン、ピアース・ブロスナンのオフィスは、セントラルのジ
ャーディン・ハウスにあります。そう、あの丸い窓のビルです。1972年築の「超高層ビ
ル」という立ち位置にあった。作家のクラベルは、第二次世界大戦で王立砲兵隊に入隊
、1940年にマレー半島に従軍し、日本軍の戦争捕虜となっている『アジアン・サーガ』
シリーズを出し、ドラマ化作品や映画『大脱走』や『いつも心に太陽を』の脚本などで
知られている。まあ、麻薬批判のスワイヤー家は、災難続きの日本進出だったのだ。

229 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:15:12.12 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   190

 この大航海時代に、ペルーを荒らしまくったスペインは、数々の西洋文化をもたらし
、言語さえもスペイン語を公用語にして歴史を織りなした。スポーツの移入も同じであ
る。元々インカ文明に蹴鞠の文化はあって、領土や王の死や処刑を賭けての試合がそこ
にあったと言われる。その為か、ペルー共和国のスポーツではサッカーやバレーボール
が大好きで、ペルーで人気のスポーツといえば、サッカーである。ワールドカップ2018
ロシア大会には、9大会ぶりに5度目の出場となり、国民が熱く応援して熱狂でスタジ
アムが潰れ、死人すら出ている。男の子の多くはサッカーが大好きで、女の子に人気が
あるのがバレーボール。1965年から日本人の監督が厳しく指導したバレーのナショナル
チームがとても、強いチームになって知られた。ペルーと日本は本当に深い関係がある
。今でもペルーに暮している多くの日系移民たちは、野球も大好きだそうです。ペルー
には、国の中央にアンデス山脈があり、そこにいくつもの文明が発展していきミステリ
アスな「ナスカの地上絵」で知られるナスカ文化も、この地に栄えた。12世紀前半頃に
なって、いくつもの文明の集大成ともいえるインカ帝国が築かれて、多くの遺跡発掘が
なされた。広大なアンデス地域を統合したインカ帝国の都クスコは、南アメリカ最大の
都市として発展をとげた。また、標高2280mの 空中都市遺跡、マチュピチュは、インカ
帝国の遺跡で、誰が何の為にこんな標高の高い山中に都市を築いたのかは、今でも謎に
包まれている。06月24日の冬至の日には、世界遺産の街クスコではインカ帝国の祭りが
ある南米三大祭りの1つ、インティ・ライミと言う物だ。インティはケチュア語では、
「太陽」、ライミは「お祭り」の意味で、作物の豊作を太陽神に願うお祭りである。見
どころは、色とりどりの衣装を身につけた人々の踊りと音楽、そして7色のインカの旗
が街中にはためく。もう一つがスペインから独立した記念日である。07月28日はペルー
の独立記念日は、28・29日が国民の祝日で、7月27〜30日はすべての建物で ペルー国旗
がはためく。大統領スピーチ、パレードやライブなどで国中が各地で式典があり盛もり
上がる。

230 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:15:33.44 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191

 古代ローマの最高執政官「コンスル」は、今でいう大統領である。しかし、当時の、
最高執政官は、独裁権を持っていた。共和政成立時に2人代表官として設置されていた
。互いに同等の権利をもって、執務を交代し,その期間は1年で権力の集中がなされた
。寡頭政の復活を妨げ、国政の最高官として「政治・軍事・裁判」の最高権力を有した
上に、元老院を主宰し、兵員会の招集や法案提出を行なう事が出来た。また外国に対し
て、国家代表であり、条約・協定の執行者だった,必ず付人を随伴させた。兵員会から
選出され,前4世紀までは貴族(パトリキ)が就任していたが、この頃は、前 367年の
リキニウス法により1人は貴族、1人は平民(プレプス)から選ぶこととされていた。
ポンペイウスは、コンスルへ野心を露にして貴族代表で就任したのに対抗して、自らも
コンスルへの立候補を表明。結果、ポンペイウスと共にクラッススは平民代表として、
コンスルに選出された。クラッススは、ローマ市民1万人を食事に招待して祝い、各家
族に3ヶ月生活を持続できるくらいの食事を分配し、富を示した。クラッススは当時の
政界で、人並み以上の弁舌の才能を持っていた。ポンペイウスが市民人気の高さから、
市民集会に勢力基盤を持つのに対して、クラッススは元老院内で最も勢力を持った人物
になった。紀元前66年、当時アエディリス(按察官)であったガイウス・ユリウス・カ
エサルは、首謀者となり、クラッススを独裁官とし、カエサル自身がマギステル・エク
ィトゥム(騎士長官)となる事を企てた。反対派の元老院議員を殺害した上で、国家を
壟断しようとする計画が持ち上がったものの、未遂に終わる。紀元前65年、クラッスス
はオプティマテス(元老派)代表のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスと共に、
ケンソル(監察官)に選出されてエジプトを、私物化しようと策略した。食糧供給が、
ひっ迫していたからだ。が、カトゥルスが抗議して 辞任に追い込まれ、職共々野望も
諦めざるを得なかった。こうして、元老院の一議員としての地位に下った。

231 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:17:30.25 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191

 同じ南米の古代文明には謎が多いが、エジプトには、かなりに解読出来た時代がある
。古代ローマの最高執政官「コンスル」は、今でいう大統領である。しかし、当時の、
最高執政官は、独裁権を持っていた。共和政成立時に2人代表官として設置されていた
。互いに同等の権利をもって、執務を交代し,その期間は1年で権力の集中がなされた
。寡頭政の復活を妨げ、国政の最高官として「政治・軍事・裁判」の最高権力を有した
上に、元老院を主宰し、兵員会の招集や法案提出を行なう事が出来た。また外国に対し
て、国家代表であり、条約・協定の執行者だった,必ず付人を随伴させた。兵員会から
選出され,前4世紀までは貴族(パトリキ)が就任していたが、この頃は、前 367年の
リキニウス法により1人は貴族、1人は平民(プレプス)から選ぶこととされていた。
ポンペイウスは、コンスルへ野心を露にして貴族代表で就任したのに対抗して、自らも
コンスルへの立候補を表明。結果、ポンペイウスと共にクラッススは平民代表として、
コンスルに選出された。クラッススは、ローマ市民1万人を食事に招待して祝い、各家
族に3ヶ月生活を持続できるくらいの食事を分配し、富を示した。クラッススは当時の
政界で、人並み以上の弁舌の才能を持っていた。ポンペイウスが市民人気の高さから、
市民集会に勢力基盤を持つのに対して、クラッススは元老院内で最も勢力を持った人物
になった。紀元前66年、当時アエディリス(按察官)であったガイウス・ユリウス・カ
エサルは、首謀者となり、クラッススを独裁官とし、カエサル自身がマギステル・エク
ィトゥム(騎士長官)となる事を企てた。反対派の元老院議員を殺害した上で、国家を
壟断しようとする計画が持ち上がったものの、未遂に終わる。紀元前65年、クラッスス
はオプティマテス(元老派)代表のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスと共に、
ケンソル(監察官)に選出されてエジプトを、私物化しようと策略した。食糧供給が、
ひっ迫していたからだ。が、カトゥルスが抗議して 辞任に追い込まれ、職共々野望も
諦めざるを得なかった。こうして、元老院の一議員としての地位に下った。

232 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:20:22.49 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   192

 こうして、ポンペイウスとクラッススの関係は、ローマ中で知れ渡ったぐらいの犬猿
の仲となっていたのだ。実際に、ポンペイウスがオリエント遠征から帰国して独裁政治
を行うだろう。との噂が出たのは、権力と人気が落ちたからだ。この際に、クラッスス
は、家族・財産を持ってローマを離れた生活したさえと伝えられている。此の時にカエ
サルの仲介によって、紀元前60年に、クラッススは宿敵ポンペイウス、及びカエサルを
交えた三者間でとの政治同盟を組むことに工作した。この合意によって、ローマの政治
は二頭交代制から三頭政治と言われた形で進んだ。コンスルの任期が終わらないうちに
クラッススは、ローマを離れ、ブルンディシウム(現:ブリンディシ)よりガラティア
を経由して、シリア属州へと入り、アンティオキアで冬を越した。と言う。クラッスス
は、ポンペイウスやルクッルスが成し遂げられなかったパルティア征服の野望を抱いた
。その正式名をルキウス・ルキニウス・ルクッルスは、クラッススの養父である。共和
政の神聖ローマの軍人で政治家であるだけでなく、美食家としても良く知られた有名人
であった。現在でも豪華な食事のことは「ルクッルス式」と呼ばれ、西洋料理にはルク
ッルスの名を冠した料理がたくさんある。実はルクッルスは執政官と云うより、軍人と
して大きな成果を上げた人物である。紀元前74年、執政官に就任にルクッルスは、紀元
前75年から始まっていた第三次ミトリダテス戦争に赴いて「カビラの戦い」でミトリダ
テス6世を破りアルメニアへ逃亡させた。またミトリダテス6世の逃亡を追いかけて、
それを匿っていたアルメニア王ティグラネス2世と戦い「ティグラノセルタの戦い」に
おいて決定的な勝利を得た。さらに「アルタクサタの戦い」でもティグラネス2世と、
ミトリダテス6世を敗走させた。このような戦果から見てもルクッルスはローマを勝利
に導いた有能な軍人で、隣国を蹂躙した執政官であったとみなして良いだろう。この、
「ブルータスよお前もか」と言ったローマ時代の頃に、美食家クルックスがいた。

233 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:20:59.34 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   193

 実際キケロは『アカテミカ前書』第二巻で、「ルクッルスは、白兵戦、攻防戦、海戦
について、またそれぞれの戦闘に必要な武具や装備について、尤も心得た優れた指揮官
であった」と評価し、キケロの証言でもルクッルスの有能さを証するものとなっている
。それでも、賄賂や忖度の腐れた議会政治の蔓延で、紀元前66年に、ルクッルスの軍隊
は、大部分が彼の命令に従うことを公然と拒否した。軍隊内反乱である。直ぐに指揮官
はポンペイウスに交替させられて、さらに略奪を重ね私腹を肥やしているという悪評も
立つようになった。此の事で結局、戦い半ばにしてローマに召還されることになった。
 こうした悪評の為、ローマに戻ってからも軍事的な功績は、評価されることなく紀元
前66年の凱旋式は、ローマ市民から歓迎されないまま催された。ルクッルスは凱旋式の
後に、全市民を自費で賄った大宴会を開いている。が、これも自身の過小評価に対する
反動から行ったのではないか。とされた。こうして元老院は、台頭したポンペイウスの
対抗馬で、ルクッルスを共和制再建の旗手に押し上げようとしたがしかし、ルクッルス
には元老院の権威を守るための政界の欲はなく、元老院議員としての議席を残したまま
にして、事実上政界から引いた。これはルクッルスは、元老院に幻滅した為だと言われ
る。ローマ市民と元老院に対するルクッルスの幻滅は、引退後これ見よがしな豪奢な暮
らしに繋がっていった。事実、クラッススとポンペイウスからは「晩年のルクッルスは
快楽と贅沢さに屈した。」として嘲笑した。と書かれる。政敵のルクッルスの贅沢さは
恰好な批判対象だった。クラッススとポンペイウスの言葉は、『プルターク英雄伝』で
著者のプルタコスが引用したものだが、プルタコスもそれを受けて、ルクッルスが年老
いて奢侈に耽った事は「年齢にふさわしからざる行為」として批判的な見解を述べてい
る。しかし、中途半端ではなく、ずば抜けた贅沢で、それはある種の伝説にもなった。
ここで後の文化や哲学にも大きな影響を残したのだ。

234 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:21:38.46 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   194

 ルクッルスは幾つかの邸宅を持っていた。ローマの郊外のトゥスクルムにも邸宅があ
ったが、それは装飾された回廊や見晴らし台からの眺望がすばらしい邸宅でホテル並み
だった。ポンペイウスがそこを訪ねた際には、その邸宅の壮麗さを褒めると同時に、夏
は快適だが、これだと冬は住めない家であると指摘した。ルクッルスは「鶴や雁でさえ
、季節で棲家を変える。あなたは私をこれらの生き物よりも劣ったものとみなしている
のか。」と笑った。と『プルターク英雄伝』には述べられる。他にも 幾つかの豪華な
邸宅を持っていて、季節ごとに棲み分けていたようである。ナポリの海際にあった別荘
には堀や池があり、そこには運河から、海水が引き込まれるようになっていた。その池
や堀で魚が飼われ、遊覧船と美女もいた。この家を訪れたストア派の哲学者のクイーン
トゥス・アエリウス・トゥベロは、ペルシャのクセルクセスが、運河を掘ってそこから
内地の湖に戦艦を引き入れようと試みたことにちなんで、ルクッルスのことを「トーガ
を纏ったクセルクセス」と呼んだ。トーガとはローマ人の纏う衣装であり、クセルクセ
スはアケメネス朝ペルシアの王だ。ローマ人でありながらクセルクセス王のような生活
をしていたルクッルスに対するこの名称は、正に当を射た表現だったと言える。また、
これがその邸宅と同じものか、あるいは一部かは分からないが、現在でもナポリにある
、カステルデローヴォが、ルクッルスによって建てられた城で、別名で卵城と呼ばれ、
今では観光地になっている。海に向かって岬のように張り出した先端にあるこの建物は
、『プルターク英雄伝』にあるナポリの邸宅を連想させるようなもので、後の時代には
要塞としても使われ、今ではその痕跡の方が多く見られる。が、いずれにせよルクッル
スの贅沢さを現代に垣間見ることが出来る建築物であることには間違いない。

235 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:16:18.68 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   195

 さらにルクッルスの贅沢さを現代でも物語っているのは、ローマにある「ルクッルス
の庭園」であった。有名なスペイン広場(坂)の上部に「ピンチョの丘」にあるボルゲ
ーゼ公園になっている場所には、当時、ルクッルスは、庭園と屋敷を築いていた。ルク
ッルスは、アジアへの遠征を経験からペルシャ文化や美術に造詣が深く、その庭では、
ペルシャ式庭園のスタイルで作庭されて、手入れがなされていた。とも言われている。
これは、邸宅そのものだけでなく、屋敷の内部に、戦役の後に中近東からの持ち帰った
膨大な美術品や書物並べられている事にも関連し、彼は非常な冒険家で野心家で興味の
尽きない科学・文学少年の学者肌の軍人だった事になる。当時のローマでもずば抜けて
、合理的で高度な資産家で、非常に豪華で、かつ贅沢であったのだろう。ポンペイウス
はルクッルスを嘲って「ローマのクセルクセス」と呼んだが、それはルクッルスの資産
が、ローマ人でありながら、ペルシアの美術品に囲まれたクセルクセス王のような贅沢
な暮らしを送っていた事に羨望を抱いていたからである。中でも器用な調理人を集めた
見事な料理は、贅沢な食事であったとされる。「ルクッルス」の名は、今でも、豪華な
食事の代名詞にもなっている。現在でも豪華な食事を「ルクッルス式」というが、これ
はルクッルスが食通としての贅沢な生活を送っていたことに起因している。ルクッルス
は良質な材料を確保するために、海水を引いた池で魚を育てるだけでなく、鳥や牛をも
、飼育していたし、野菜や果物やチーズを自家の農園で作らせていたのだ。いつでも、
新鮮な食材を得た食事が用意された。また、食事をとる部屋の装飾や、食事中の音楽や
詩文、交わされる会話、これらにふさわしい客の選別などにも、こだわって人員と物を
配置させた。

236 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:18:18.92 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   196

 つまり、「食」そのもにも注意を払っていたが、それと同時に、文化や芸術的なもの
も、食卓において実現させようとしていたのである。ルクッルスの食通ぶりを裏付ける
ような、次のようなエピソードが『プルターク英雄伝』にはある。ある日、ポンペイウ
スが、病にかかり、医師が 晩餐にツグミ(鶫)を食べるようにと命じた。だがしかし
、ポンペイウスの下僕は、「夏にはツグミは手に入りません。唯一、ルクッルスの城の
養鳥園で、手に入れられますが、ルクッルス様は、恐らく他の者のために鳥は取らせな
いのでしょう。」と言ったところ、ポンペイウスは、医師に「ルクッルスが、美食家で
なければ、ポンペイウスは死ななければならないのか。」と文句を付けて、他の入手し
やすい食材を、変えて云わせて食事をした。という逸話が記述されている。これは、ル
クッルスが単なる食通であった。というだけでなく、自らが良質で珍しい素材を求めて
、それを自らの敷地で育てていたことが、裏付けられた記述となっている。珍しい食材
は単に買い求めるだけでなく、自身で育てるのも、ルクッルス流の こだわりだった。
と思われる。ポンペイウスは、「ルクッルスが、晩年は食べることや、飲むことに拘り
、贅沢に堕した。」と、嘲笑や批判を行っていたので、どんなことがあったとしても、
ルクッルスに頭を下げてツグミを譲ってもらうことは、出来なかったに違いない。と、
後世の批評家は分析している。自分の生死が、ルクッルスの美食と贅沢にかかっており
、ツグミを譲りうけるならば、すなわちルクッルスの贅沢な暮らしを肯定したことにな
る訳で、故に、ポンペイウスは医師の言うことには構わず、より入手しやすい食材に変
えて食べることにしたのであろう。また『プルターク英雄伝』には以下のようなエピソ
ードも記されている。

237 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:18:40.03 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   197

 ある時に、ルクッルスが1人で食事をする。と言ったところ、従者は今日は1人だか
ら、いつもより簡単な食事でよいだろう。気を抜いて、判断して食卓に出したところ、
ルクッルスは、「今日は、やっとルクッルス様が、ルクッルスと一緒に食事することが
分からないのか。」と言って叱責したという。つまり、一人で料理を楽しみ、珍味でも
耽る時間があるのに、それにふさわしい豪華な食事を用意を何故できない。という事だ
ったのだ。さらに、哲学者のキケロとポンペイウスが、ルクッルスに急な訪問を申し出
た際の エピソードも記録されている。彼らは、豪華な食事を用意させては申し訳ない
と、「特別な用意は必要ない。食事は あなたがいつも食べているもので構わない。」
と釘を刺しておいた。しかも、召使に来客用の食事を指示させないようにしていたが、
ルクッルスが、「食事をとる部屋だけは 指示させて欲しい。」というので、その願い
だけは聞き入れた。そこでルクッルスは、従者に「今日はアポロンの部屋で食事する。
」とだけ伝え、三人は屋敷に向かった。それでも、ルクッルスの屋敷に着くと、次々に
豪華な料理が運ばれ、キケロとポンペイウスは目を丸くし通しだったのである。実は、
「今日はアポロンの部屋で食事する。」という指示は隠語となっていて、ルクッルスは
通常に、食事をとる部屋によって食事の費用や内容は決めていた。と言われる。この為
に、従者や召使は、部屋の指定だけでどんな食事を用意すべきか、を悟っていたのであ
る。アポロンの部屋は、この屋敷では、最も豪華な食事をする部屋で、庶民の年収が5
千ドラクマの時代に、この部屋での食事では、1回で庶民の年収の10倍の5万ドラクマ
が費やされたと『プルターク英雄伝』には記録されている。

238 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:19:07.49 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   198

 ルクッルスがもたらした食へのこだわりや贅沢は、最高の秀逸な贅沢を及ぼしていた
。食通だったルクッルスは、ローマに東方からの胡椒や香辛料は勿論、新しい食材を、
ジャンジャン取り入れ、食の革命をもたらしていた。これはルクッルスの経験した戦争
によるペルシャとの関わりから生じたもので、文化理解や憧憬によって、もたらされた
ものだった。のだろう。それは、ローマに帰還後でも、ペルシャ様式の庭園を作らせた
り、ペルシャの美術品に囲まれた暮らしをしていたことからも、望郷と憧れにこだわり
があった事が明らかである。そしてそれは、食においても同様であったと考えられる。
ルクッルスに関連した食用野菜に「フダンソウ」料理がある。フダンソウ(不断草)は
、暑さにも強く、真冬の1月、2月を除いていつでも栽培・収穫できることから付けられ
た和名であるのだが、英語名では、スイスチャード(Swiss chard)とつけられている。
葉柄や葉脈が赤や黄色、ピンク、朱色など、鮮やかな彩りが特徴であり、幼葉はベビー
リーフとしても使われる事が多い。サラダとして取り入れられてヨーロッパでは食べら
れている。このフダンソウには、「ルクッルス」という名前の付けられた物があって、
葉脈が白い品種で、これはルクッルスにちなんで命名されている。「スイスチャード:
ルクッルス(Swiss chard:Lucullus)である。又、ルクッルスはローマに、初めてのサ
クランボを持ち込んだ人物である。とプリニウスは『博物誌』第15巻30項で述べている
。博物学者のプリニウスは、ルクッルスがミトリダテス戦争に勝利する前、つまり西暦
前74年よりも前に、イタリアには桜の木がなかった。と述べている。ルクッルスがそれ
を現在はトルコ領になっているポントス王国から、船便で持ち込み、120年の間に イギ
リスにまで伝わったと述べている。 しかし、実はイタリアには、以前から、在来種の
野生のサクランボはあった可能性が 植物学者からは指摘されている。ルクッルスの持
ち帰ったものは栽培種の野生種よりも果肉の多いもので、食用に出来た新品種であった
のではないか。と考えた方が良さそうである。

239 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:19:35.67 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   199

 ルクッルスは サクランボを、ポントス王国の「Cerasus」という都市(現:トルコ領
ギレスン)から持ち帰ったので、その都市名が、Cherrry :サクランボの語源となった
。と、考えられている。これもまた、食通のルクッルスならではのエピソードである。
他にも ルクッルスは、アプリコット(杏:あんず)も 最初にローマに持ち込んでいる
。アレクサンダー大王が、杏をギリシャに持ち込んだとされているが、ローマには、ギ
リシャ経由ではなく、ルクッルスがアルメニアから持ち込むことで広がった品種がある
。アプリコット(杏)の学術名「Prunus Armeniaca」は、ヨーロッパにおいては近世に
いたるまでアルメニア(Armenia) が原産地と考えられていたためである。現在、ローマ
にあるボルゲーゼ公園は、もともとルクッルスの庭園だったところである。ここに、桜
の木や、杏の木が植えられたことから、ローマで桜や杏が普及するようになり、貴族達
の庭園にはこうした果実樹木を植えることが大流行することになった。と言う。先に、
ルクッルスはツグミも飼っていたことを述べたが「さくらんぼ」や「あんず」といった
ローマには無かった植物を持ち込み、栽培し、それを珍しい食材として食していた。と
いう、グルメのルクッルスならではの こだわりがここにはあった。と言えるだろう。
後の食文化辞典のオーギュスト・エスコフィエの記した『ル・ギード・キュリネール:
Le guide culinaire』の中には、「ガルニチュール・ルクッルス」というソースレシピ
や、「コンソメ・ルクッルス」というスープについて言及されている。これは美食家で
あった ルクッルスにちなんで付けられた 名前であり、ヨーロッパでは美食家として
のルクッルスの存在がかなり大きく、様々なところにルクッルスの名前は残っている。

240 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:41:15.36 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   200

 『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』以降に誕生した料理で、クッル
スの名前を冠した料理に、Lucullus de Valenciennes(ヴァランシエンヌのルクッルス
)という料理がある。この料理は1930年に、フランスの「ヴァレンシエンヌ」で誕生し
た名物料理である。葬儀の食事のために、ヴァランシエンヌを訪れた2人のパリジャン
が、牛舌の「洗練された」バージョンをオーダーしたところ、フォアグラを売り出そう
としていたシェフが出した料理とされている。料理は、燻製した牛タン、コートブイヨ
ン、フォアグラの混合物で、牛タンとフォアグラが、層になっているのが特徴である。
フランス料理に残るルクッルスの名・・・(11) Lucullus de Valenciennes「ヴァラン
シエンヌのルクッルス」(葬儀に用いられた 燻製牛タンの 厚切れのブイヨン料理)
この料理にも、フォアグラが使われており、とても華のある料理になっている。が、こ
うした高級素材が使われているのが、ルクッルスの名を冠していることの理由だろうと
思われる。美食を尽くした生活の ルクッルスについて、セネカが、「ルクッルス…が
料理を求めたのは、食欲を満たすためではなく、むしろ、食欲を掻き立てるためだった
のだ。」と、述べている。これは、大変に意味深い意見である。ルクッルスは私財を肥
やしていると批判されることになったが、政界の一線から退いて、他の政敵やライバル
を嘲笑うかのような、これ見よがしの贅沢三昧生活は、ルクッルス流の、逆説的な彼ら
に対する批判だったのでは、ないだろうか。豪勢な酒宴に明け暮れ、贅沢な食事をして
いたルクッルスの死んだ目の奥には、底知れぬ諦めと共和制ローマへの絶望が漂ってい
たに違いない。そこには厭世的な感情が漂っている。と、そう感じられるのである。

241 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:42:44.95 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   201

 ここで、しばし、クルックスの晩年を書き足したい。『プルターク英雄伝』で、ルク
ッルスの死について、言及している。ルクッルスが、人生の終わり頃には心を失って、
年齢と共に精神異常の症状を発症した。と、報告している。この原因に関してプルタル
コスは、まず、この時代の伝記作家だったコルネリウス・ネポスの説を引用している。
コルネリウス・ネポスは、ルクッルスが 年齢や病気によって 精神異常の症状を発症
したのではなく、その原因には、ギリシャ人の自由奴隷のカリステネス(Callisthenes)
が、ルクッルスの愛情を得ようと、意図的に薬物の(Pharmaka:Love potion)を投与し
ていた為に、その作用を受けて、ルクッルスは生きながらにして、心が不安定になった
のである。と述べている。だがこの意見に対して、プルタルコスは懐疑的な意見を述べ
ている。その狂気が本当に、媚薬(ファ−マカム)や(ラブポーション)の効果だった
かどうかに関しては曖昧であるとしている。その当時、キケロも追放されていて、政治
的な立場を同じくしていた親友カトーも、キプロス島に送られていた。こうしたローマ
の政治的敵の勢力の高まりに対して、自己防衛のために、ルクッルスは都合よく狂気を
装っていたのではないか。というのがプルタルコスの見解である。そうした中にあって
、特にライバルであり、政敵でもあるポンペイウスが、何度もルクッルスのエピソード
に登場し、豪華な食事をご馳走になったり、またルクッルスの贅沢な美食がなければ、
病気治療のためにツグミを手に入れられないという状況に置かれるあたりは皮肉なもの
がある。

242 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:43:25.97 ID:KPtJh0np4
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   202

 ルクッルスについて記述していると、竹林の七賢人の一人であった阮籍のを思い出さ
せられる。阮籍とは、魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため
、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をした人物である。阮籍は俗物で礼法
を重視した。気に入らない人物に対しては白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対し
た。という逸話がのこる。白眼とは「白目をむく」と言う事でも解る様に怒った態度を
言う。青眼とは、清々(すがすが)しいとか、清(ほほ)えましいで判るように、にこ
やかである事を言う。歩兵校尉(こうい:律令制下の官職)の役所に、酒が、大量に貯蔵
されて、思う存分飲んでいると聞いて、希望してその官職につき、竹林の七賢の一人の
劉伶と、酒を常に飲んでいた。という。このように阮籍は既成の枠に捉われない人物で
あったのに七賢人になった。以下に阮籍が詠んだ「詠懐詩」を示す。ここから、阮籍の
本当の胸の内が読み取れる。【 詠懐詩 】
 夜中不能寝  夜中寝(しず)ぬる能わず
 起坐弾鳴琴  起き坐して鳴琴(こきん)を弾(ひか)ず
 薄帷鑒明月  薄き帳に、名月の鑑(て)り
 清風吹我襟  清風は 我が襟(えりも)を吹く
 孤鴻號外野  孤鴻(ここう)は 外野に号(さけ)び
 朔鳥鳴北林  朔鳥(しどと)は 北の林に鳴く
 徘徊将何見  徘徊して、将(は)た何をか見る
 憂思独傷心  憂思(ゆう)して独り心を 傷(いた)ましむ

243 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:44:07.31 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   203

 阮籍は、常に酔っていた。が、それは 当時の偽善と詐術に満ちた社会に憂思して、
独り心を傷めていたからであった。そして 酔いながらも、常に冷め切っていた。と、
言われるのである。なぜなら、当時の偽善と詐術に満ちた者たちが 権勢をふるい驕り
高ぶっていた世の中だったのだ。阮籍とルクッルスは、必ずしも同じような人物である
とは言えない。というより、全く違った人物だったが、しかし、阮籍が、なぜ酒を飲み
続けていたのか?と考えると、ルクッルスが、そこまで贅沢に美食を追求した理由と、
酒を至宝の様に飲んだその理由は、阮籍にもルクッルスにも共に共通して、その時代の
権力者に対するシニカルな冷めきった目線があったからではないだろうか。と理解する
ような気がする。ルクッルスは、遠征の激戦の中で、私財を肥やしていると批判され、
ローマに連れ戻されることになったのだが、実際のところはどうだったのだろうか。と
疑問が残る。長期におよんだ遠征の中では、補充が途絶えたり、ローマからの軍資金が
滞ることが度々あったのだ。ルクッルスは、将軍として軍隊を維持して、ローマの拡張
の為に人生の大半を、戦いの中で費やしてきたのだった。こうした中で、占領した都市
の富を確保して、兵士に再分配し、うまく軍隊を維持し続けることも、ルクッルス軍に
とっては、重要で難しい役割だったことは間違いない。例えどんな批判があろうと生死
をさまよう軍隊は、維持する事が最大の目的の場合もある。批判によってルクッルスが
ローマに帰還した後、ポンペイウスが、軍を引き継ぐことになるが、ルクッルスには、
ポンペイウスの約半分の兵士の軍隊で、敵に対して勝利し続けていたことを考えても、
ルクッルスの戦略家としての有能さは証明されていると言えるだろう。

244 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:44:30.41 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   204

 多分に、遠征中のルクッルスにとっては、常にいつでも使える潤沢な資金を、手元に
蓄えて置くことで、戦いに勝ち続けるための軍を維持する。という目的の意味において
、彼にとって、何らかの大義に直結する事であった。しかし、それが批判され突かれた
ことで、将軍の座からも ルクッルスを引きずり下ろされ、しかも、凱旋式すら行われ
ることに対しても、異議が差し挟さまれた訳なのである。結局は、ルクッルスは、罪に
問われたり、追放させられることもなく、軍人としての役割を解任されることになるが
、こうした中で、ルクッルスは、軍のために 自らが捻出して使うはずであった莫大な
資金に、どういう訳か、個人の手元に残る運命になってしまった。この事で批判された
可能性や引退した可能性がある。引退後のルクッルスには、これ見よがしの贅沢で美食
を追求した生活を送り始めたが、それは、セネカの言う通り「食欲を満たす為ではなく
、むしろ食欲を掻き立てるため。」の料理の追求だった可能性も捨てきれない。という
のもカリステネスの薬物投与やポンペイウスの栄養の為の鳥肉や香辛料の取り寄せなど
考えると、結構に風土病的疾患は蔓延し、体調不良で食べたくない料理もあったとも、
思われる、日本には、米、水、餅、うどんと言う、味ではない食感の文化があるが、肉
が主要な西洋にあった料理は、そんなに多くなかったと思える。現に海に恵まれている
地方でも、日本の様なタコやイカ、ナマコに海藻、極めつけに毒をもつフグさえ食べる
日本は、世界広しと言えどない。芋もトマトもなく、豆とトウモロコシようなもので、
残る小麦のパンが主食であった中に焼き肉焼き魚はあっても醤油はない。となると後は
ワインにビールの肉料理でウインナーとパンにレタスと目玉焼きとおかしぐらいである
。手元に残った意味のない金銭を、批判した者たちの前で、これ見よがしに豪勢な酒宴
に使うことは、それらの批判に対して、それを凌駕する贅沢でもって応じたといえる。

245 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:51:33.86 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   205

 それは冷めきったシニカルな行為であった。、それゆえに、このルクッルスの姿が、
阮籍にダブるのを感じてしまう。そう考えると、邸宅や公園をペルシャ風にすることや
、あるいはペルシャからの食材を ローマに持ち込むこと。また「トーガを着たクセル
クセス」あるいは「ローマのクセルクセス」と呼ばれるようになることも、ルクッルス
の、ローマに対する嫌悪感から もたらされたもので、いっそかつての敵国のテイスト
に、耽溺した生活することいいのだ。と半ば開き直り、政敵や批判者のいる「ローマ」
という都市にいながら、彼らに抵抗し続けていたようにすら、感じられるのであった。
こうした視点からも、キケロとポンペイウスが参加した食事を検討すると、そこには、
非常に意味深いものが見えてくる。つまり、ルクッルスを 批判した政敵の、ポンペイ
ウスは何としても、意地ででもルクッルスから豪華な食事を ご馳走になってしまうと
いう、借りを作るようなことは、絶対に避けたかった違いない。一方のルクッルスは、
逆に、何としてもポンペイウスを 贅沢な食事でもてなすことで、逆説的にもポンペイ
ウスを 無言で批難しようとした。とも考えられる。つまり、ポンペイウスが批難した
、その財と贅沢さでもって、ポンペイウスは、もてなされるのであれば、ポンペイウス
は顔を潰されることになる。これをもって思想の攻防があった。ポンペイウスが、ルク
ッルスに、召使いに指示を出させないようにしてまで、普通の食事をと望んだ事は、単
に、ルクッルスが行う普段の食事を確かめたかった。という好奇心のような、一般的な
ものからではなく、むしろ、ポンペイウスにとっては、それが自分のスタンスを守る為
には何としても必要であったからに、違いないものだった。

246 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 14:02:52.20 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   206

 しかし、「アポロンの間での食事を行う」という召使いに対するルクッルスの指示に
より、結局は、豪華絢爛な、大変な食事が準備されていることになる。しかもそれは、
庶民の年収の、10倍の金額が一回の食事で費やされる様なことになったのである。これ
はルクッルスの、「矜持」のような意志が、そうさせたのである。と思われる。現に、
この為に、いつもの「宴会以上のもの」が、明らかに準備されたのである。と考えた、
そんな料理が出たと言ったが良いだろう。それは見栄を張る。とかいうようなレベルの
ものではなくて、何としても、ポンペイウスに対して 金を使い浪費することに、経済
を説くルックルスの、説明の目的があったからである。こうして、「ルクッルスは贅沢
に堕した」と、批判ばかりしたポンペイウスは、自分もまた、自身が批判したその中に
、つまり 贅沢な宴に同席することによって 結果的にその恩恵を享受することになっ
たのである。まあ、日本で言えば、質素倹約の松平定信を、長崎帰りの幕閣田沼意次が
側用人・老中として振舞ったみたいな事であったろう。人は他人の贅沢は批難するが、
政界を引退したルクッルスには、莫大な富とその贅沢さの浪費によって逆に、批難する
者たちに、批難し続けようとしたものと思われる。それは冷めた視線であり、彼にとっ
ては、浪費し贅沢することそのものには、関心や楽しみのようなものはすでに無かった
のだろう。

247 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/31(木) 05:34:04.83 ID:hvew7XxxE
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   207

 パンとサーカスは、詩人ユウェナリス(西暦60年 〜130年)が古代ローマ社会の世相
を批判して詩篇で使用した表現である。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)
」と「サーカス(=娯楽)」によってローマ市民が満足し、政治的無関心になっている
ことを指摘した。物質主義の例えとして、独裁主義国家建設に、しばしば 用いられる
名言であり警句である。現在では、民主主義や資本主義社会でも、愚民政策の比喩とし
て用いられることも多い。日本語では「パンと見世物」とも表記され、植民地政策での
運用の鉄則とされる、帝王学中にでてくる。言わば飴と鞭の話である。地中海世界の中
で支配を確立したローマ帝国は、広大な属州を従えた。それらの属州から搾取し莫大な
富は、ローマに集積して、ローマ市民達を労働からの解放と共に批判が公けに出来る様
な公民権が出来る。その為、権力者は、市民を政治的無関心の状態にとどめるための、
「パンとサーカス」の方策を市民サービスとした。食糧の無償提供し、現在の社会福祉
政策の様な様相もあるが、あくまでも、食料配給は市民権利ではなく、為政者の恩寵と
好意であり、税収の対象でない。また食料配布が公の場で行われ、受給者は受け取りの
際には、物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクがある。この配給の仕組みによって
無限の受給対象者の拡大を防ぐ。まあ日本の生活保護が、勝手に市職員で追い払う様な
行為と、似たような感覚だろう。

248 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/31(木) 05:34:25.05 ID:hvew7XxxE
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   208

この警句のいう「サーカス」とは、見世物小屋で催される曲芸や動物遣いの見世物では
ない。古代ローマの競技場(現代でいうサーキット場)で行われた、複数頭立て馬車(
クアドリガ)による競技(ラテン語: circenses(キルケンセス))であり、闘技場で
行われた剣闘士試合などを含めたスポーツ観戦などの、戦闘競技の意味で用いられてい
るのである。ちなみに、オットリーノ・レスピーギの『ローマの祭』はこの「キルケン
セス」に由来する。「panem et circenses」という定型句で定着しているのだが、これ
には、いずれも対格形がある。この日本語訳としては「パンとサーカスを」のほうが近
い。実際、ユウェナリスの原文では 「パンとサーカス(見世物)を求める(optat)」
という表現になっているからだが。主格形にすれば、「panis et circenses」となる。
つまり、違うけど、意味合いとしては同じだったのである。地中海世界を支配した時の
ローマ帝国は、広大な属州を従えていたので。それらの属州から、搾取した莫大な富を
ローマに集積していく。、ローマ市民は、この搾取によって労働から解放されていくの
だが。権力者側では、搾取される農奴や、市民の政治的関心そらしに、無関心状態に、
とど置くために、「パンとサーカス」を市民に無償で提供したのである。現在での社会
福祉政策に似ているのだが、あくまでも、食料の配給は市民の権利ではなく為政者によ
る進呈や恩寵として理解されていて、また食料の配布が公の場で行われ、受給者には、
受け取る際には、物乞いのポーズと行為が強要された。一般大衆の視線の中で晒される
貧民のリスクは、かなり大きかった。この配給の仕組みによって、無限の受給対象者の
拡大を防ぐことが出来た。

249 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/03(日) 23:17:34.00 ID:5n4LsWrhx
ふざけんな ミヤネ屋 こんなリブロースのミディアムレアの
 焼けてない赤身を90歳の年寄りに食わせるから ボケになって動けない。
  大体冒険家って 山に歩けない身体で行く物ではない。オカシイだろう。
   歩けない死にそうな老人が 過去の名声をカサに引き連れて霊峰富士に登るが
    なんで ニュースなのだ。 走れない長嶋に聖火リレーさせるような醜態である

250 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/03(日) 23:19:31.17 ID:5n4LsWrhx
しっかり焼いた肉や 野菜食を 案内しろよ 細菌に弱いんだから

251 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/04(月) 00:19:17.09 ID:PttOhPLXU
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   209

 この時代、食糧に関しては、穀物の無償配給が行われていた。大土地所有者や政治家
が、大衆の人気を得る為に、しばしば食糧配布を行っていた。皇帝の中にも、処刑した
富裕市民での、没収財産を手続きを以て、広く分配したネロ帝や、実際に金貨をばら撒
いたカリグラ帝の例があるようだ。食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求
めていた。これに対して、権力者はキルケンセス(競馬場)、アンフィテアトルム(円
形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合と
いった、奴隷を使った見世物を開催することで市民に娯楽を提供した。こうした娯楽の
提供は、当時の民衆からは、支配者たるものの当然の責務と思われる習慣がついてしま
うようになり、これを、エヴェルジェティズム(恵与行為)と呼ぶもので、日本で言う
守役、あるいは報徳とされたものの様になった。パンとサーカスは社会的堕落の象徴と
して、後世では、しばしば話題にされる。ローマ帝国の没落の一因とされることもある
。また、「パンとサーカス」に没頭して、働くことを放棄した者(これらの多くは土地
を所有しない無産階級のローマ市民)で、プロレタリーと呼ばれた。(プロレタリアー
トの語源)この行為で、幅広く富を求めて働く者との、貧富の差が拡大した時代とされ
、ローマ社会に歪みをもたらすことになった。しかし、これらの給付の恩寵を、実際に
受けられたのは、広大な帝国人民のなかでも、数割にも満たないローマ市民権保有者の
、なかでも都市に住んでいる者の、さらに一部でしかない。この噂や夢を追って、中央
集権や一極集中の人口移動に、繋がって行く。

252 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/04(月) 00:19:48.55 ID:PttOhPLXU
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   210

 共和政の中期、マリウスの軍制改革までは、ローマ市民はすべての男性が従軍義務が
あり、故郷で、パトロネジの庇護を受けるのは、男手を奪われ(あるいは生命を奪われ
)困窮しがちの、中小地主階層であった。彼らは軍団兵の家族で、そして 実際に配給
されるのは焼かれたパンではなく穀物(小麦粉)で、当然ながら食べるために調理器具
や燃料が必要であったのだ。帝国化してのちに、述べられるようになった「働く事を、
放棄する」というのは大げさな表現であって、召使いが不足する中で、そういう身分に
堕ちない貴婦人に対する嫌味だった。統治者側の視点からみれば、ローマにとって穀物
給付は、大貴族や皇帝が気まぐれの 恩寵的に与え始めたものではなく、前123年 ガイ
ウス・グラックスによって、細かに治安や自治の形態が検討され、提案された 穀物法(
低価格で全市民あるいは貧窮市民への売却)の提案によるのが、起源で、前58年にクロ
ディウス護民官により、初めて実施されたローマにとって伝統的な意味合いをもった、
画期的新政策であった。また、当初はポエニ戦役の勝利で、急速に拡大したローマ世界
において支配階層となっていった、大貴族・騎士階層と、ローマ近在の没落しつつあっ
た中小地主階層との、「格差問題解消」という 緊張関係宥和の、提案された法案でも
あった。もっとも、実際に穀物給付が政策として行われ始めた共和政末期には、すでに
ローマ軍政では、給付付きの志願制に変更されていた為、この穀物給付政策は、軍団兵
家族の救済といった当初の目的からそれて、遺族市民や没落市民の恩給へと変貌し、護
民官や皇帝の権威を、鼓吹する手段へと変質していった。この「パンとサーカス」政策
は、ローマ帝国の東西分割後も存続した東ローマ帝国で、しばらく維持されていたが、
7世紀のサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によってエジプト・シリアの穀倉地帯を失
うと穀物の供給を維持できなくなり、終焉した。しかしその慣習は儀式として残った。

253 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:09:16.70 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   211

 ナポレオン時代に、ネルソンはトラファルガー海戦の総指令官という特別な階級にあ
った。この時代、遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬される
のが一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦で、ナポレオンの英国上陸
を妨げた「英雄」でもあった。このことから、遺体は本国へ送還すべきであると考えら
れた。もちろん当時、冷蔵設備などは 船に備えつけられておらず、船員たちは遺体の
腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人が、ひとり入るほどの大きさの酒樽に遺体を
保存し、英国まで運ぼうとした。と言う。1805年10月21日、満タンのラム酒に浸された
ネルソンの遺体と共にトラファルガー岬を出航した。ヴィクトリー号は、同28日、ジブ
ラルタル海峡までたどり着く。しかし、その時に遺体と共に樽にたっぷり入っていた筈
のラム酒が、半分に減っていることに気づき、蒸留ワインを更に補充したという。ラム
酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、「
樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったから。」と伝えられている。
この出来事から、英海軍仕様の隠語 「Tapping the Admiral(提督の栓を抜く=お酒を
盗み飲む)」が生まれ、海軍で飲まれるラム酒を「Nelson's Blood(ネルソン提督の血
)」と呼ぶようになった。なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒
でなくブランデーだったという説(ヴィクトリー号が係留しているポーツマスのヒスト
リック・ドックヤードでは「ブランデー」と解説されている。)や、ジブラルタル海峡
の時点で、アルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコール
を大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、「ネルソン提督の血
」は200年以上経った今も、ラム酒として英海軍兵たちに愛飲されている。

254 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:12:07.53 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   212  維新の頃の風景

 インドにスイス系のパリ国立銀行(BNP)が1848年に創設された。「1848年革命」は、
パリで革命が勃発し国王ルイ・フィリップが追放されたのだ。02月26日に、フランスは
第二共和政が宣言した。これを受けて国立パリ割引銀行から民間銀行に格下げされた。
丁度この年の01月24日に、米国カリフォルニアの鉱山の川で、ジェームズ・マーシャル
が砂金を発見したニュースが欧州でも見聞できた。ゴールド・ラッシュの始まりである
。この事は、欧州各国の革命動乱ラッシュと共に、新大陸移民の心を多くくすぐった。
鉱山掘りの民衆と、新規の儲け話に浮足立つ資本家の組織だった移住さえ起こっている
。100年以上を経て 1966年に国立商工業銀行と合併したBNPは、ソシエテジェネラル
系の、バンク・オブ・ザ・ウエスト(1874年設立)、イタリアのBNL(1913年設立)ベル
ギーのフォルティス(1822年設立)など、投資銀行がいたのである。ソシエテジェネラ
ル系は、1863年、同シンジケートのネットワークの大部分がジェネラル・クレジットを
資本金2億5千万フランで、ロンドンを拠点にしていた。トーマス・ブラッシーがリー
ダーシップをとって、ジェネラル・クレジットを創設、エジプト・近東で活躍し、運河
建設や鉄道投資をして稼いた。そんな中で、グラバーは日本にやって来て、貿易業を営
みながら、薩摩・長州・土佐の討幕派を支援し、武器や弾薬を販売したのだ。幕末維新
期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への銃売り渡しに関わっていたが、その中で
グラバー商会の販売量は突出していた。彼はのちに「三菱財閥」(岩崎家)の後ろ盾と
なり、キリンビールや長崎造船所を作ったのである。日本初の蒸気機関車の試走、高島
炭鉱の開発など行ったが、全てマセソン商会の本社が横浜に支店を出し、兵器商売を横
取りしたからであった。しかし、其の事で、兵器商売から離れ、日本の近代化に貢献し
て利益を得て生活した。日本にとってこの役割は大きく、後に1908年、グラバーは勲二
等旭日重光章を明治天皇から授けられほどの功績である。この3年後(1911年)に亡く
なったのだが、墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。

255 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:12:54.61 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   213  維新の頃の風景

 当然このバリバの持つ、ソシエテジェネラル銀行に対抗したのが、上海・香港銀行で
ある。ロンドンに拠点を置いたとはいえ、バリバは、フランス・ベルギー系銀行である
。上海屈指の豪商となったサッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダードに出現し
たスペイン系ユダヤ人であった。とされる。当時の大英帝国の東方進出に協力し、まず
インドのボンベイに拠点をかまえ、やがて東インド会社が支那に阿片の密輸を開始する
と、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。19世紀半ばに、阿片戦争に破れた清朝が
上海に租界の設置を認めると、途端に時を移さず上海に進出し大商人になった。阿片を
含む物資の売買を中国販売をしたからだ。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融・
不動産・交通・食品・重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。
その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』 『ファーイー
スタン・インベストメント・カンパニー』 『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海
プロパティーズ』 『イースタン・エステート・ランド』 『キャセイ・ランド』、重機械
製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』 『中国公共汽車公司』 『中国鋼車製造
公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれていた。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、
カドーリなどと共に『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。1930年頃、
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達
男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。と言ってよかった。ここでグラバーは
武器をうる死の商人と言われる噂を払拭するかの様に、サッス―ン商会と対抗したのだ
った。つまり『上海碑酒公司』というビール会社に対抗して、バターフィルド・スワイ
ヤに近づき、三井・三菱を、渋沢栄一と引き合わている。この、仏国系バリバと英国系
のHSBC(香港上海銀行株式会社)は、熾烈なシェア争いがあった。更に、幻の合衆
国第一銀行と朝鮮銀行が存在している。これは、アメリカの名を冠したものの、ロシア
系、中東系とも言える物だった。これらは、日本の各藩が連れて来た銀行だった。

256 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:14:56.69 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   214  維新の頃の風景

 香港を舞台にした映画は、いろいろと沢山あるが、『将軍』の原作者、ジェームズ・
クラベルによる『ノーベル・ハウス(Noble House)』は あまり知られていない作品と
言えるだろう。『将軍』と同じテレビドラマシリーズだったそうで、このDVDも2枚組。
主演は若き日のピアース・ブロスナン。ジェームズ・クラベルものが割と好きな部類で
DVDは、随分前に売っていたものですが、これがもう、すごいんです。すごい事件が
次々に起きる(ネタバレしてもいいくらい歴史に忠実に書かれた)と言われている物。
最近の映画では『バトルシップ』で確か中国銀行が派手に倒されていたような気がしま
すが、このドラマでの犠牲者は日本のキリンビールのスワイヤー家の御曹司で、ビール
中国では清朝時代以降の近代化のプロセスで、サッス―ン商会を初めとする 香港のイ
ギリス植民地支配に、英国資本と関係が深かった。スワイヤー・グループの中核企業は
香港の「スワイヤー・パシフィック社(Swire Pacific Limited)」で、現在でも 香港
証券取引所に上場している。ピアース・ブロスナンは、1816年にジョン・スワイヤーが
(John Swire(1793年〜1847年)がイギリス・リバプールでスワイヤ商会(John Swire
 & Sons Limited)を創業して後、香港へ進出した頃の話の主人公として模写している。
「・・・・・よくこんなあらすじが許されたなーと思うような・・・・・。」という意見は大間違
い。現実のサッスーン商会やロスチャイルド家と敵対し、悪行をされた記録から出来て
いる。若きイケメンのタイパン、ピアース・ブロスナンのオフィスは、セントラルのジ
ャーディン・ハウスにあります。そう、あの丸い窓のビルです。1972年築の「超高層ビ
ル」という立ち位置にあった。作家のクラベルは、第二次世界大戦で王立砲兵隊に入隊
、1940年にマレー半島に従軍し、日本軍の戦争捕虜となっている『アジアン・サーガ』
シリーズを出し、ドラマ化作品や映画『大脱走』や『いつも心に太陽を』の脚本などで
知られている。まあ、麻薬批判のスワイヤー家は、災難続きの日本進出だったのだ。

257 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:07:07.67 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   215  維新の頃の風景

グルームとパートナーシップを結び、グラバーはアーノルド商会を吸収し、「グラバー
商会」を設立し同年、グラバーは南山手3番地の借地権を獲得した。此の時の友人だっ
たアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、)は、1846年9月22日、イン
グランド・ブライトン郊外のベルノン・テラスで生まれた坊ちゃんだった。イギリスの
沿岸都市ブライトンアンドホーブの一部であるブライトンのモントピリアは、イタリア
風のリージェンシースタイルのアパートメントハウスである。中流家庭用の日本で言え
ばニュータウン式の集合住宅の事だ。ここで育ってウィルトシャーのマルボロ・カレッ
ジで学んで、この時の学友のトーマス・ブレーク・グラバーとともにグラバー商会を、
設立した兄のフランシス・グルーム(Francis Arthur Groom)の勧めで同商会に勤務する
ことになった。つまり、就職口が自国になく、兄を頼って日本にやって来たのだった。
訪日した後気に入って長崎での勤務を経て、1868年4月に支店を開設するための出張員
として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。と言う。順調にいくかと思われた
グラバー商会は、実は、ドイツ系のエドワルド・スネルのスネル兄弟やら、仕入れ本社
のマセソン商会の横浜支店やサミエル商会やフランス系アメリカ系と、商社は殺到して
横浜居留区が出来る頃には大赤字で、とうとう破産する。1870年にグラバー商会は倒産
すると、元同僚と 共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立した
。ここで、まだ高利潤があり人気だった「チッゴチィ:日本茶」の輸出と、中国紅茶の
輸入などを手掛けた。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが、業績が
思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の
輸出を続けている。

258 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:08:05.04 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   216  維新の頃の風景

 「チッゴチィ−」の銘柄は、実は八女茶の事であったが、グルームの商売の頃には、
既に嬉野茶が生産され、静岡でも育てられようとしていたころだった。そこで唐津陶器
や河内磁器も輸出した。この時の包み紙が、浮世絵の版画氏だったようだ。1897年神戸
外国人居留地内にあった、オリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターら
と共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。
ゲオルグ・デ・ラランデの設計で完成した。この新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ば
れ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエ
ンタルホテルの経営状態は悪化する。1913年に現在の阪神電鉄青木駅近くで横屋ゴルフ
・アソシエーションのあった土地をサミュエル商会に売却。1916年にはホテルの経営権
を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。1917年末、神戸外国倶楽部(神戸倶楽部)で
開かれたクリスマスパーティーに、来賓で出席したグルームは泥酔して玄関の石段で、
転倒し脳震盪を起こした。翌1918年1月2日、同じ神戸倶楽部で 開かれた新年会に出席
したグルームは、またもや泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口からの
破傷風に感染したことが原因で9日に死亡したのであった。遺言によって葬儀は仏式(
日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の
墓に葬られた。戒名は英知院具理日夢居士。妻の実家・宮崎家は、出は大牟田であって
宮崎滔天が縁戚にいた。また、数多くの革命家を輩出した黒田藩の互助会の玄洋社の、
支援もした様だ。しかし1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体と
変貌し日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれた。グルームは六甲山の開発に力を注
いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことで、趣味の狩猟で多くの動物を
殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうと
したことにあった。とされる。しかし、杉山龍丸に出会った事も大きかったようである


259 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:09:14.74 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   217  維新の頃の風景

 1895年、長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など、3つの村
から納涼遊園場敷地として借りると、まず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を
建て、その後別荘地を、外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てら
れた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。彼はスポーツマンで 神戸
の外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸リガッタ・
アンド・アスレチック・倶楽部(KRAC)の設立に深く関与した。グルームはKRACに高齢
のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立つ。
工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもと
に1903年、初の会員制ゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が発足した。グルームは植林や桟道
の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いている
。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は 100人以上を数え、別荘地一帯は
「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼
ばれた。倉場富三郎は、1871年、父・グラバーと母・淡路屋ツルとの間の子に、トミサ
ブロー・アワジヤ・グラバーがいる。イギリス系日本人で倉場富三郎で名を通し苗字に
あたる倉場はグラバーのもじりであった。1881年(明治14年)、メソジスト派キリスト
教の宣教師C・S・ロング博士によって創立された加伯利英和学校を経て学習院をに入学
した。が直ぐに中退、アメリカに渡り、オハイオ・ウェスリアン大学とペンシルベニア
大学で生物学を学び、1892年に帰国後、父・グラバーが起こしたグラバー商会から分か
れたホーム・リンガー商会に入社。同時に、長崎汽船漁業会社も設立。深紅丸という船
を輸入。日本にトロール船と底網を使用したトロール漁業を導入した。長崎魚市場の新
たな始まりである。一方、大学で生物学を学んだことから水産学者としての一面もあり
、『グラバー図譜』と呼ばれる水産動物の図譜の本を編纂したり、同じメソジスト派の
学校として青山学院(東京)、関西学院(兵庫)などの設立にも寄付している。

260 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:30:26.81 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   218  維新の頃の風景

父・グラバーよりも多才な富三郎でしたが、晩年は芳しくありません。日英のハーフで
ある富三郎は第二次世界大戦中にスパイ容疑をかけられ、不自由な生活を強制された。
さらに、愛する妻の死別と、故郷・長崎の原爆投下と度重なる不幸の結果、終戦後に、
入牢から解放されたが、身寄りもなく自死した。だがそこにやって来たのは小森氏だっ
た。小森のおばちゃんと揶揄されるが、当初に茶や生糸を扱っていたグラバーの世話係
で、佐賀の小森野を管理しさせていた下女であった。その後、日本の情勢を見て武器商
人へと方向転換し、多くの藩と取引を行いに出かけ横浜まで行ったわけであるが。明治
維新後は、蒸気機関車の開通、肥前藩との契約による高島炭坑の経営に着手し、日本の
近代化を一気に進め、晩年にはグラバー商会が破産するも、高島炭坑の経営者として、
日本の長崎に残って過ごしていた。その後も三菱財閥の相談役をしたり、国産ビールを
開発したりなど、精力的に活動した。明治の時世の頃。グラバーと日本人女性との間に
生まれた息子が、倉場富三郎だった。しかし、親子の性格は、まるで異なっていたのだ
。富三郎からグラバーに宛てた手紙には、“偉大な”父に対してコンプレックスを抱く
息子の姿が、大きく浮かび上がる。日本の近代化に貢献して、東京で栄達を重ねていく
闘魂化した経済人のグラバーと、故郷・長崎で父の影のように、ひっそり生きる事で、
自分を守る富三郎。グラバー家の愛と葛藤の日々がそこにあった。しかし友人渋沢敬三
に出会ってから、人格が変わる。渋沢敬三は、日本の実業家の祖父渋沢栄一から、渋沢
子爵家当主及び子爵位を引き継いだ、郷辣な男だった。1896年(明治29年)08月25日、
渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれるていた。敬三の下に弟が2人が
いた為に優しい親分肌があった。敦子の父、つまり母方の祖父方は、羽林家の公卿の出
であり、元老院議官を務めた伯爵橋本実梁だったのだ。第16代の日本銀行総裁、第49代
大蔵大臣(幣原内閣)を務めていて、経済にうるさい有力者だった。

261 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:31:15.87 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   219  維新の頃の風景

 渋沢敬三の父の渋沢篤二は、全く病弱であって、渋沢栄一と妻の千代の次男であった
。神田裏神保町で生まれてながらにして病弱なのは、1862年に誕生した栄一の長男の、
市太郎も同じで、長男は夭逝した。この頃こそは、全く日本中は、開国騒動の中で貧困
で食糧不足にして、一番の不景気だった。1876年、渋沢家は深川福住町に転居。1882年
、9歳の時に母に千代までが病没、その後は姉たちに育てられた。と言う。学習院を出
て、私塾龍門社を作って塾長を任せられた。当初は、渋沢栄一邸に寄宿する門下青年達
の、勉学や成果発表の場として発足したが、1886年(明治19年)に組織化された。命名
者は、栄一の旧師にして、従兄かつ義兄の尾高惇忠である。鯉が滝を登り成長して龍と
なるとの 中国の故事にちなんだ名だという。所謂登龍門の龍門社なのであった。渋沢
栄一の活躍に伴って、次第に栄一を慕った 経済界で活躍する人々が集い始め、会員数
は著しく増加していく。その中での、我が子渋沢篤二の留守居役としての起用だった。
1924年(大正13年)に、栄一が唱える「道徳経済合一主義」の下に、経済人の、知識や
徳性の向上を目的に掲げる財団法人となり、講演会、談話会を開催し、会誌の発行など
を精力的に行った。太平洋戦争中は、軍部の目があって中断を経たが、戦後には活動を
直ぐに再開させている。渋沢栄一資料館の所蔵資料の中で、判明するのは、最古の総会
は、明治22年4月7日に、曖依村荘で開催された第2回総会である。その様子は雑誌の『
竜門』 第12号に記されており、総集会には渋沢栄一夫妻を始め、渋沢篤二社長ほか 百
十数名の会員が参加し、また十数名の来客で、演説会、園遊会、演劇、という内容で、
あったことが分かっている。 この演説会では、まず 渋沢篤二社長による挨拶、次に
社員の尾高次郎、阪谷芳郎ほか17名が熱弁をふるい、最後に、渋沢栄一により「商人の
本務を示す。」と題して演説が行なわれたようだ。

262 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:31:41.52 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   220  維新の頃の風景

 この演説会の次は、渋沢栄一主催による 園遊会でこれは静かに。桜を眺めながらの
「菓子、蜜柑煮込、甘酒」から、「立食の饗応」に移り、和やかな時間が流れた。とし
午後6時の夕刻からは演劇が催され、「碁太平記白石噺」「奥州安達原」そして幕間に
「鶴亀の舞」「元禄の舞」などの、芸妓(げいし)の舞曲がありました。この総会は、
「帰るを忘れしむる程」の大盛況で終了したのが、午前1時過ぎだった。当時龍門社員
たちの熱気が伝わってくるも、渋沢栄一の不満も伝わる。又、『竜門雑誌』第24号には
、明治23年04月20日に開催された第四回春季総集会にて、余興として運動会が催された
記事が見える。同誌には、曖依村荘の庭に「球灯及各国の国旗」が装飾されたとの記述
があり、渋沢家に仕えた芝崎確次郎の日記には「惣出賑々敷候事」と、当日の賑やかな
様子が記されている。運動会は「旗奪競争、片足競争、幼年徒競争、角力、巾飛、高飛
、撃剣、障害物競走、徒競走、来賓競争、拾菓競争」などが行なわれ、入賞者には靴下
、手帳、鉛筆、サルマタ、参考書、タオルなどの賞品が授与された。社員はもちろんの
こと、子供や来賓も参加して、「観者をして或ハ笑ひ或ハ怒り或ハ驚き或ハ惜しましむ
るありてい。と、興多かりき」雰囲気であった様子が『竜門雑誌』の記事の文面がある
。『竜門雑誌』における過去に開催された総会の様子が現在までの開催場所や、プログ
ラム内容が公開されているが、一貫して渋沢栄一の考えを受けつぎ、それを広めようと
する活動であった。総会は、関東大震災や諸事情により中止されたこともありましたが
、120年の 伝統ある当財団が現在も受けつぎながら継続している。この澁澤倉庫本社の
経済啓蒙の竜門社創立は、元々は書生以下弟子や門下生の発表の場のはずであった。

263 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:32:19.34 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   221  維新の頃の風景

 この澁澤倉庫本社の経済啓蒙の竜門社創立は、元々は書生以下弟子や門下生の発表の
場のはずであった。渋沢篤二の趣味は幅広く義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真
、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と多岐にわたる。どれもこれも、
栄一にとっては、金持ちの道楽にしか見えなかった。その上1911年、篤二が芸者玉蝶の
遊女屋に入り浸りであった事で、スキャンダルとなり、問題が表面化する。これを仕掛
けたのは、配送・輸送・倉庫業務で競り合っていた、三菱の関係者であるのは間違いの
ない事実だった。1912年1月に、株主の突き上げを恐れた渋沢栄一は、篤二の廃嫡方針
が渋沢同族会で決定された。1913年1月、篤二の廃嫡が正式に届出され、澁澤倉庫取締
役会長も退任する事になる。『東京朝日新聞』は「澁澤男(爵)の廢嫡訴訟篤二氏身體
繊弱の故を以て」という見出しで「篤二氏は明治40年3月頃より脳神経を病み、暫く、
治療服薬する内腎臓炎を併発し、それよりやや異状を呈し時折暴言を吐くなどの事が、
あった。」などと伝えている。栄一は、1915年、渋沢同族会を渋沢同族株式会社に改組
し、篤二に代わり跡継ぎとなった嫡孫・敬三を社長とし、翌1916年には第一銀行頭取も
退任し完全に引退する事にした。熊本第五高等中学校、つまり今の大学に行くも、1892
年に病のため自主退学する。家長であった父の栄一の勧めより、栄一の郷里の血洗島で
蟄居謹慎という処分を命じられた。篤二と芸者玉蝶のスキャンダルは渋沢を隠居に誘い
こんで孫の渋沢敬三と共に年帰京した。帰京後は家庭に良師を招聘して、英漢および、
法律経済の学を修めたぐらいであった。東京高等師範学校 附属小学校(筑波大学附属
小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業
。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には、祖父の栄一に
よって、澁澤同族株式会社が設立されて、同社の初代社長に就任した。

264 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:45:21.15 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   222  維新の頃の風景

 当初、動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していた。この敬三
に期待する祖父・栄一が、羽織袴の正装で頭を床に擦り付け、第一銀行を継ぐよう懇願
したため、第二高等学校の英法科に進学した。1918年(大正7年)、第二高等学校卒業
後、東京帝国大学経済学部入学。1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて
「ビュッヘル氏の所謂、工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業
した。しかし、1913年(大正2年)渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡し。
祖父の栄一は、突然に、敬三を後継者に指名したのだった。がこの時、他にも兄弟姉妹
あるいは、有力な門下生がいない訳ではなかったはずだったが、懇願されて、大叔父の
天下に知れた栄一卿の独断を、誰一人も、断れず、敬三も断り切れなかったのである。
1914年(大正3年)柳田國男と初めて出会い、民俗学や自然科学に魅せられてしまう。
次の年大正4年4月に、東京高等師範学校附属中学校を卒業すると同時に、渋沢同族株
式会社が設立されて、同社の社長となった。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し
、9月に同校に入学した。この当時は、大学に行く者らは殆ど有力者で、会社の代表と
なっていたのが普通であった。高額な学資の資金と新時代に知識を求めるものしか大学
に入れなかったからだ。1918年(大正7年)7月第二高等学校卒業し、9月に東京帝国
大学法科大学経済学科に入学した。この法律や万国共通法の講師に、晩年のグラバーが
いたのだった。明治維新の立役者として幕末に何を成し遂げたのか、は話していない。
ただこの時、国際裁判として中国人奴隷の横浜裁判があって、非常に大きく新聞沙汰に
なったのだ。1872年7月9日の、清(中国)の壕鏡(マカオ)から、南米西岸のペルーに
向かっていたペルー船籍の、マリア・ルス号事件だ。航海中の悪天候から帆先を破損、
横浜港に、この修理のために入港し同船の清国人(中国人奴隷)苦力231名が乗船してい
たが、過酷な待遇から逃れるために木麗(モクヒン)をはじめとする数人の清国人が、
監視の目を欺いて海中へ逃亡し、イギリス軍艦(アイアンデューク号)に救助を求めた。

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