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変死体

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:00:10.48 ID:+X7coeI+c
https://godtommy0913.amebaownd.com/posts/41066735

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:43:40.06 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・53

 フェニキア人と同様に、エリミ人は領土という概念に固執しなかった。このこともあ
り、他の地中海諸民族から「野蛮人」扱いはされていた。とは言うものの、エリミ人は
都市を築き、その初期においてはギリシア人やフェニキア人に征服されることは、なか
ったのである。少なくとも、紀元前5世紀になるまでは、エリミ人達は、ギリシア人、
フェニキア人、およびカルタゴ人ら、と平和裏に共存していて、ギリシア人都市と同盟
を結ぶこともあった。ギリシア化は進んでいたが、エリミ人はフェニキア人およびカル
タゴ人と交易を続けており、ギリシア人都市である島の西のセリヌス人とは、特に密接
な関係にあった。しかし、セリヌスの方が交易量が多かったのか、勢力が拡大すると、
エリミ人の最大の都市のセゲスタとの間に、境界紛争をかかえることとなる。セゲスタ
はまずアテナイと同盟を結び、紀元前415年から紀元前413年にかけて、アテナイはシケ
リア遠征を行った。が敗北する。セゲスタは、続いてカルタゴの属領となることを条件
に救援を求め、これに応えて カルタゴは、紀元前409年に 大規模な遠征軍を派遣して
セリヌスの都市を破壊したのである。これが、ポエニ紛争に結びつく。しかし、第一次
ポエニ戦争では、エリミ人は、今度は共和政ローマに味方して、カルタゴと対峙し戦っ
たのである。その後、シケリアはローマのシキリア属州となるが、エリミ人は、無税と
いう特権を獲得している。これは、エリミ人が トロイアの子孫であるという主張が、
同じく トロイアの子孫であるとするローマ人から、認められた為と観られ思われてい
る。ローマの治世下で、エリミ人は他の民族と交じり合い、民族としての存在は消えて
いった。しかし、ここでシチリアはヒメラ戦争が起こった時、テロンはヒメラを占領し
た。カルタゴからの遠征軍に包囲されてしまい 紀元前480年、テロンは、ゲロンの支援
を受けてヒメラの城外でカルタゴとその同盟軍に決定的勝利を収めた(ヒメラの戦い)。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:44:22.51 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・54

 カルタゴの、紀元前 409年に 大規模な遠征軍を派遣した時此の時は後に リパラ島の
(リーパリ)を建設することになって、ロドスとクニドスが支援した為、セゲスタが、
勝利している。つまり先住民が防衛したのだ。ロドス島は、エーゲ海南部のアナトリア
半島沿岸部に位置するギリシャ領の島で、ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4
番目に大きな面積を持つ。現在ロードス島との表記もある。島で中心都市であるロドス
の街は、古代以来港湾都市として栄えていた。世界の七不思議の一つである「ロドス島
の巨像」や灯台が、かつて存在したことでも知られている。また、その中世期の街並み
は「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録される。アトス半島(アクティ半島)が
すぐそばにあり、マケドニア地方からエーゲ海に突き出したハルキディキ半島からの、
交易ルートがあった様だ。ギリシャ語では「足」と表現する)のうちの、最北東の「足
」にあたる。この半島は、古くは「アクテ」と称された。アトス半島の幅は、8〜12km
、長さは約40kmで、面積は385平方キロメートル程度である。アトス山は アトス半島の
先端に位置し、その標高は2,033mに達する。アトス山から連なる峻険な稜線によって、
形成されるアトス半島の海岸は、ほとんどが崖か岩場から成り立っている。緑も深く、
中世からの自然がほとんど手つかずのまま残っている。つまり住み心地の好くない半島
から移り住んでいたと思われる。もう一つの友好国クニドスもアナトリア半島にあった
古代ギリシアの都市で、ドーリア人のヘクサポリス(6都市連合)の1つで、現在のト
ルコのギョコヴァ湾に面したダッチャ半島にあり、地元ではテキールと呼ばれている。
クニドスのアフロディーテと言うビーナス風の貴婦人の裸体像が有名で、恥じらいの、
ヴィーナス型とも呼ばれ、右手で陰部を隠しているのが特徴の服を脱いだ姿がある。こ
の像は、後年メディチ家のヴィーナスやカピトリーノのヴィーナスが似たポーズで参考
にされて造作され、芸術家に高評価であった。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:45:03.70 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・55

 クニドスは太古の都市で、ギリシアの、おそらくスパルタ(ラケダイモーン)人の、
植民都市だった。コス島、ハリカルナッソス(ボドルム)、それにロドス島のリンドス
、カメイロス、イアリソスといった都市とともに、クニドスは、「ドーリア人のヘクサ
ポリス(6都市連合)」を形成し、岬では同盟の会議と、アポローン、ポセイドーン、
ニュンペー(ニンフ)たちを祝う3大競技が催された。オリンピックの先がけである。
クニドスは最初、60人のメンバーから構成されている、1人の行政官が議長を務める、
寡頭制の元老院によって統治されていた。古い一族の名がかなり後の時代まで続いてい
ることが、名簿銘盤によって示されているが、その構成は、一般の人気に左右されてい
たと言う。クニドスの場所は、商業に適していて、クニドス人は相当な富を蓄えていて
、それでリーパリ島を植民地化したり、アドリア海のコルチュラ島に都市を建設したり
した。しかし、最後にはキュロス大帝に屈して、エウリュメドンの戦いから、ペロポネ
ソス戦争後期にかけてはアテナイの支配を受けている。さらに、勢力を拡大したローマ
帝国にも、クニドス人は、あっさり忠誠を誓うのであった。ローマのアンティオコス3
世に対して加勢し、その褒美として、クニドスの自治を許されている。東ローマ帝国の
時代は、まだかなりの住民がいたのだろう。ビザンティン建築に属する、数多くの巨大
な建物が、廃墟の中に含まれるためである。キリスト教の埋葬所も近隣に普通にある。
クニドスの全長は1マイル(1.6km)未満であり、城壁内の全地域は 建造物の遺跡が、
密集している。島・本土両方の城壁は、全体で環状をなしている。多くの場所、とくに
町の北の端にあるアクロポリスの周囲はきわだって完全である。この遺跡が西洋に知ら
れるようになったのは、1857年〜1858年にかけてニュートン会員による発掘によって知
られた。アゴラ、劇場、オデオン(音楽堂)、ディオニューソスの神殿、ムーサの神殿
、アプロディーテーの神殿、それにたくさんの小さな建物がこれまで確認されており、
都市の概要はかなりはっきりとわかっている。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 22:41:18.18 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・56

 こうして、アドリアのペルシャ人達の応援を受けて、何度か先住民達が防衛したもの
の、しかし、その後も、セリヌスとセゲスタは対立関係にあって、ディオドロスは、紀
元前 454年にセゲスタと、リルバイオン(マルサーラ)が戦争になった。と記述してい
る。実際には、セリヌス戦争と思われる。というのも、リルバイオンの建設が、ずっと
遅く、 紀元前 396年であるからだ。セゲスタとの、境界問題とされていた マザルス川
は、セリヌスの西方25キロメートルに過ぎず、やがてセリヌスは川の、対岸にまで領土
を広げている。その河口には砦と交易拠点を建設した。セリヌスの東側の境界は、ハリ
カス川(プラティニ川)まで広がっており、その河口に、セリヌスの植民都市ミノア(
後にはヘラクレアと呼ばれる)都市が建設されていた。このことから、セリヌスが強大
な勢力と富裕を誇っていた侵略民だったことが分かる。が、その歴史に関しては詳しい
ことは分かっていない。他の多くの、シケリアのギリシア植民都市と同じく、政治形態
は、寡頭政治から僭主政治へと移行し 紀元前510年頃には、ペイタゴラスが独裁政治を
行った。としている。つまり、セリヌスとセゲスタと対立は、このクニドスのクレタ島
のような、フェニキア文化の襲来であったのだろう。日本のどこの街もリトル東京に、
しようとしたように、この島にも、ディオニュソスの神殿、ムーサの神殿アゴラ、劇場
、オデオン(音楽堂)、、アプロディーテーの神殿、それにたくさんの小さな建物が、
この地に建てようとしたのだろう。となると宗教上の施設も不足すれば、インフラとし
ての劇場や競技場の施設も大きく場所をとる。元々が人口増加で色んな摩擦が在る処に
こうした箱物や遊戯場が3行政で行うとなれば、例えフェニキアからの援助を受けたと
しても、不足の土地は他所にしかない上に これまでの野菜などの食糧自給地も壊滅し
農地が無くなった筈であった。国家にとってこの忌まわしい風習を民衆は熱望したので
ある。

69 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 22:41:55.15 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・57

 シケリアではシュラクサイの僭主ゲロンの力が強大となっていた。が 紀元前480年に
、カルタゴのハミルカルが、シケリアに大軍を率いて遠征すると、セリヌスはこれを、
支援したのだった。さらにはカルタゴ軍に、援軍を派遣することを約束。しかしながら
、セリヌスからの援軍が到着する前に、カルタゴ軍はゲロンに敗北した(第一次ヒメラ
の戦い)であった。セリヌスが、次に歴史に登場するのは紀元前466年である。僭主トラ
シュブロスを、シュラクサイから追放するため、セリヌスは他のギリシア都市と協力し
ている。紀元前416年のアテナイによる シケリア遠征直前のセリヌスに関して、トゥキ
ディデスは富裕で、陸海双方の戦力を保有していた。ここの神殿には莫大な財宝が蓄え
られて、傭兵が雇えると記載している。また、ディオドロスはカルタゴのシケリア遠征
の記述の中で、セリヌスが、長い間に繁栄を謳歌し、多くの人口を有していたと述べて
いる。城壁で囲まれた セリヌスの面積はおよぼ100haしかなく、紀元前5世紀の人口
は14,000から19,000と推定されている。紀元前 416年に、セリヌスとセゲスタの紛争が
再発した。これがアテナイによる大規模な「シケリア遠征」を、引き起こしたのである
。セリヌスは、シュラクサイに支援を求め、また自身で セゲスタを封鎖することも、
可能であった。しかしながら、セゲスタは、アテナイに救援を求めている。アテナイは
セゲスタ救援のための、早急な行動は行わなかった。つまり、この辺の所に駆け引きが
見える。が、その後のセゲスタとの紛争に関する記録はない。一方、アテナイの遠征軍
は、紀元前415年に シケリア島に到着した。トゥキディデスによれば、遠征将軍の一人
であったニキアスは、アテナイ軍をセリヌスに向かわせ寛大な条件で降伏させるべきと
提案したが、この提案は採用されず、アテナイ軍はシュラクサイに向かった。結果その
後においてセリヌスの演じた役割は小さかったと書く。

70 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:13:59.23 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・58

 しかし、セリヌス軍が、シュラクサイに援軍を送った為、紀元前 413年春には、ペロ
ポネソス同盟もシュラクサイに、対抗のスパルタ軍を、ギュリッポス支援にセリヌスに
送って行くのであった。ここで暴風雨で アフリカに吹き流されて行く 船もあった。
と記述されている。ペロポネソス同盟は、紀元前6世紀末に、スパルタ王のクレオメネ
ス1世によって結成された同盟軍で、スパルタを盟主とするペロポネソス半島の、海洋
諸国家(ポリス)からなる同盟である。アギス朝のスパルタ王アナクサンドリデスは、
先代の王レオンの子であった。彼には一人目の妻(彼の姉妹の娘)との間にドリエウス
、レオニダス、クレオンブロトス、そして二人目の妻との間にクレオメネス1世がいた
。アナクサンドリデスには、一人目の妻との間に、長い間子宝に恵まれず、監督官に妻
を離別し再婚するように。と提案された。しかし、愛妻家の彼が妻との離婚を拒絶した
。このため、監督官は長老会と相談し、離婚せずに二人目の妻を娶ることを提案する。
アナクサンドリデスは、仕方なくそれを受け入れ。その後に、彼は二人目の妻との間に
クレオメネスを得た。が、それと時を同じくして最初の妻は妊娠し、前述の三人の息子
を授かったのである。この息子たちのうち、クレオメネスが長男であったことから、王
位を継ぐのである。クレオメネスは王位を継いても、ドリエウスは、当然自身のほうが
より有能で適任であると考えていた。従って彼の下でスパルタに留まることには、耐え
られなかった。このため、北アフリカにスパルタの植民都市を建設することを求めた。
紀元前 515年、ドリエウスと、その同調一軍は、リビュアのトリポリタニアのキニプス
川付近に上陸し、彼らは植民都市を建設した。が、その地は北アフリカのギリシア植民
都市の中で、最も西に位置したものの、西地中海に巨大な海洋権益を持つカルタゴは、
自身の影響力がある地域に、ギリシア人の植民都市が建設されることを好まなかった。
当然3年後に、カルタゴは、現地のリビュア人と連合して、スパルタ人をアフリカから
追い出した。

71 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:16:47.40 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・59

 追い出されスパルタに戻ったドリエウスは、シケリア(シチリア)に植民都市を建設
するという新しい計画を考え実行する。ヘロドトスによると、ドリエウスは、シケリア
に向かう途中、南イタリアの、ギリシア植民都市であるシバリスのクロトーン(現在の
クロトーネ)占領(紀元前510年)に 加わっていたようである。スパルタ人は、シケリ
アに上陸すると、シケリア西部のエリュクスの近くに、ヘラクレアと呼ばれる植民都市
を建設しようとした(南岸のミノア近く)しかしながら、シケリア西部に居住していた
カルタゴ人とセゲスタ(現在のセジェスタ)は連合し、ドリエウスとその軍を打ち破っ
たのだった。ドリエウスと指揮官クラスのスパルタ人はほとんどが戦死した。ヘロドト
スは語る。クレオメネスは子も 儲けずに早死にしたため、もしドリエウスがスパルタ
を離れずにいたら、やがてはスパルタ王になれたであろう。と、述べている。ドリエウ
スが戦死していたために、弟のレオニダスが王位を継ぎ、ペルシア戦争の英雄となった
。続いて弟であるレオニダスが生まれているが、レオニダスはテルモピュライの戦いの
英雄となって死亡した。もう一人の弟クレオンブロトスは後にスパルタの摂政となって
いる。アナクサンドリデスが没すると、ドリエウスは王座を求めたものの失敗し、長兄
であるクレオメネスが王位についたのであった。テルモピュライの戦いは、兵力差のあ
った戦いの歴史で、7つの逆転勝利の一つとされる。アケメネス朝ペルシアの王であっ
たダレイオス1世を、きっかけにこの戦争は起こった。ペルシア戦争である。ペルシア
戦争の直接の原因は、アケメネス朝の影響力拡大に対するイオニア地方の都市国家群の
反発から起こったイオニアの反乱への、アテナイの介入であった。とされる。当時に、
ペルシアは絶頂期にあった。キュロス2世が、紀元前 547年に、小アジア随一の強国で
あったリディア王国を併合、ダレイオス1世はトラキア、マケドニア王国を勢力下に置
く事に成功した。

72 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:18:17.66 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・60

 その後 紀元前518年、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼
ばれる総督府を置いて、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などの
エーゲ海東部の、島嶼国を、その支配下に次々に置いた。ダレイオス1世は、政治の力
点を、経済活動に置いての「王の道(貿易・航海の道)」を整備すると共に金貨を鋳造
して、交易を積極的に推進したのである。彼の治世において ペルシアは最盛期を迎え
、ここで帝国の領土的野心も膨らんだのだった。こうした勢力下でギリシア本土の、諸
都市にまでペルシアの影響が及ぶのは、もはや時間の問題だったのである。ギリシア側
で、主導的役割を果たすアテナイでは、紀元前6世紀末から紀元前5世紀中期までの、
資料が少ないため判然としない。ようやく有力なポリスになり始めた頃に。小アジアに
陶器とオリーブ油を輸出する一方で、人口の増加にともなった、黒海沿岸からの多量の
穀物を輸入するようになった。と考えられている。穀物輸入を容易にするため、アテナ
イ近傍のファレロン湾の安全が急務であった。この海域ではアイギナによる海賊行為が
横行し、アテナイとアイギナ、アイギナを保護するアルゴスとの関係は険悪であった。
また、政治体制を、貴族政治から民主制議会政治に移行させたことによって、アテナイ
はスパルタに対抗しうる強力な国家へ成長することに成功した。が同時に、スパルタは
同盟諸都市と共に警戒心を抱かせることにもなる。北方のボイオティアとも戦争状態に
あり、アテナイは文字通り四面楚歌の状況に陥った。この孤立状態を打開するために、
アテナイから、クレイステネスによる使者が、ペルシアのサルディス総督アリスタゴラ
スのもとに送られ、恐らくは話し合いの場の提案がなされた。このアテナイの使者は、
ペルシアとの同盟を求めたものの、ペルシアが完全な服従を求めた為、アテナイ民会は
これに反発した。当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に、傀儡の僭主を
擁立し、彼らを介して内政に干渉する。という体制であったが、民主制をとるアテナイ
に受け入れられるものではなかったのである。

73 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:39:34.80 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・061

 ペルシア帝国は、イオニアの反乱を鎮圧した 翌年の紀元前 493年,ヘレスポントス
海峡から黒海に至る地域の征服に乗り出した理由は、実は功臣ゴブリュアスの提言であ
る。小アジアの沿岸部は、内陸部からの攻撃ですでにペルシアの支配下にあった中で。
ヘレスポントスは、現在のダーダネルス海峡のことである。つまり エーゲ海から黒海
に至る入り口の海峡である。ここでペルシア軍は、課税を処していたのだ。アケメネス
朝は、キュロス2世により繁栄しし、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国
を滅ぼして、新バビロニア王国により 移住させられたユダヤ人奴隷に、バビロン捕囚
を終焉させた。とされる。此の時の要因は、基本はメディアやリディアが隣国であった
為の領界領地の諍いであったが、と同時に多民族国家の成立の中での、文化統一に苦慮
していたからである。先に述べた様に、キュロス王は、世界で初めてでは無いにしろ、
金貨発行と通貨と言う物を考えた最初の王とされている。言語や楔型文字、羊皮紙の書
、音楽や式典様式や宗教など、貪欲に彼は吸収し、学習し、決して強制することなく、
国家統一と拡大を目指した。キュロス2世の息子カンビュセス2世(カンブジャ)によ
って、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一し、ここでエジプト式の税金の
貢物、特に交易の代償に、朝貢貿易のやり方に着目した。既にエジプトのナイル川交易
には、スーダンやその奥の村民でも、貢ぎ物の上納によって、交易が認められる。とい
うシステムが開始され、時にはそれが女性であったり、金貨であったり、小麦粉であっ
たり、色々な産品であった。そしてその産品の価値、つまり代価を決めるのはファラオ
率いる官僚、即ち王の役人だった。ここに宗教家つまり村の長老や奉納で生活する祭祀
者との対立があった。そこで神の序列として、一切の風土神を除いた太陽神アテンラー
を最高位とし、絶対神としたのである。

74 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:04.80 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・062

 ダレイオス1世の時代になって、エーゲ海進出を目指した時、ペルシア戦争を起こし
たが、ここで戦争では敗北した。その後ダレイオス3世の時マケドニアの、アレクサン
ドロスにより征服され滅亡させれらた。この間に凄い速さで、このキュロス体制文化が
人口増加と共に伝わり、騎馬による戦車戦も、鉄器による剣の優位さも、税収とインフ
ラ整備による国民統一も、みんな真似されて、世界の広がりにユダヤ的商法がオントレ
ード、ワンワールドの意識が浸透し蔓延し、国力が拮抗して戦争が頻繁に起こって行く
。フェニキア軍を中心とするペルシア海軍は、イオニアを離れて、こんどはヘレスポン
トスの向かって、左側に当たる(西海岸)地域をことごとく占領したのであった。この
ケルソネソスのギリシア人の植民都市をことごとく、ペルシアの支配下に置いたので、
逆に、ペルシアの力は、本国より、この海運や航海の安全に力を入れざるを得ず、軍隊
は急速に、草原の騎馬兵の活躍時代から、海上の海賊退治の時代になり、力を削がれた
のであった。前 492年に入ると、ペルシアはギリシアへの侵攻を本格化した。「春にな
って、他の諸将は、大王によって司令官の職を解かれたが、「一人ゴブリュアスの子の
マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下る。」と言う判断をしたのであった。
彼は、まだ年も若く、ダレイオスの娘アルトゾストラを妻に娶ったばかりであって、国
内での次の勇者たる名声は、実の処は何もなかったのであった。マルドニオスはこれら
の軍勢を率いて、キリキアに着くと、自身も乗船して艦隊とともに出発し、陸上部隊は
他の指揮官がこれを率いてヘレスポントスに向かったのであった。( ヘロドトス『歴史
』巻6の43 )マルドニオスは,ダレイオス大王の娘婿であり結婚したばかりであった。

75 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:27.68 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・063

 ここに、ダレイオス大王からも、大きく期待されていたのであろう事が、彼に、この
判断をさせたのであろう。つまり、単なる反乱の鎮圧としてではなく、ギリシア本土へ
の侵攻以上に、国内への名声を期待されての遠征であったという事になる。それは、自
ら、このイオニアの反乱を踏まえて、自身の遠征の要請を名乗り出た為の、出撃でもあ
ったことが、そこにある。これを象徴するのが、ヘロドトスが「世にも不思議な事。と
しか思えぬようなことが起こった。」と記述している。「マルドニオスは、イオニアの
独裁者を、ことごとく排除して 各都市に民主制を敷かせた。」ことである。ペルシア
帝国は、イオニアのギリシア人都市に、自己の支配下において以来、自分たちの代理と
しての僭主を据えることで 間接統治していた筈だった。イオニアの反乱ではその僭主
の追放から始まっているのだ。ここで、国内と同じに、国外に僭主政に代わる民主政治
の樹立を望んだのであり、ここで大衆たる民衆のエネルギーが燎原の火のように広まり
、イオニアから遠く離れた キプロスのような所まにまでも反乱が拡大したのである。
このような事情を受けて、ペルシア本国の判断であろう。イオニアの反乱の鎮圧で一旦
は復帰した僭主を追放し、ここに強制的に民主政の体制を、何故か樹立させたのである
。ここでマルドニオスは、「海陸の大軍の終結を終えペルシア軍は海路ヘレスポントス
を渡り、ヨーロッパに入って進撃した。」が、目指すところはエレトリアとアテナイで
あった。」とヘロドトスは書く、そして、続けて次のように述べている。「もっとも、
この二都市は、ペルシア側にとっては単にギリシア遠征の口実に過ぎず、彼らはできる
限り多くのギリシア都市を征服する魂胆が含まれていた」ので、陸上部隊によっての、
マケドニアを攻略した時点で、マケドニアより手前のペルシア寄りの民族は、既に「こ
とごとく隷従していた。」と書いている。

76 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:58.84 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・064

 しかし、当然ながら、マルドニオスのギリシア遠征は不調に終わる。そもそも軍隊に
民主制は似合わない。自由と個人の尊厳と権利を言うなら、軍隊は造れない。各々の僭
主達や領主の独裁によって、現地招集の兵や、現地調達の食糧があるので、民主主義の
為の闘いと言うのは、矛盾であり、外交交渉とその威嚇の為軍隊でしか達成できない。
そこに、実力行使や内政干渉が起こって僭主の追放など起これば、収拾などつく訳がな
く、挙句に人気と要望の声に、自身の地位を無くすのは必定で、典型的独裁政治の国の
苦悩がある。マケドニアに陣を張っていた時に、「トラキアの部族であるブリュゴイ人
の夜襲」を受けて、大打撃を受ける。ペルシア兵の多数が殺戮されたのである。当然の
住民の反発であり、そこの征服される民衆の民意が一様にある。と勘違いするペルシャ
軍の、言わば平和大国の和平ボケの大国病の感覚であったのだ。アトス沖でも、海軍が
大きな被害を受けた。ここで「この遠征軍は、悪戦苦闘の末にアジアに撤収した」ので
あった。つまり、ペルシア本土に、一旦は撤退したのであったのだ。これが、マラトン
の戦いの前の、ペルシア帝国側の様相で、初のギリシア遠征を遂げたマルドニオスの姿
であった。凱旋どころか、不評に苛まされる未来予想に、打ちのめされた事であろう。
このマルドニオスのギリシア遠征は、ヘレスポントス海峡から ヨーロッパ側に入り、
隷属しない都市を、順々に攻略していき、エレトリアとアテナイを陥落させ、そして、
最後にギリシア全体をペルシアの支配下に置く。と言う壮大な、大きな意志であった。
それは、イオニア反乱の鎮圧の余勢を駆ったような、ある意味お手軽な感じのギリシア
遠征では済まないものであった筈だ。この遠征の失敗を受けて、ダレイオスは、方針を
転換した。攻め落とすのは、エレトリアとアテナイと、目標を絞って決めると同時に、
本格的な遠征に切り替えたのである。これが、マラトンの戦いに象徴される 第一次の
ペルシア戦争である。

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:41:43.69 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・065

 前述の様に、元々ペルシアは、傀儡の僭主をして、神に奉納してるものを、税収とし
て、母国に献金し、朝貢貿易で更に商人からの流通を押さえて、国が栄えれ拡大すれば
それで良かったのである。ところがマルドニオスはこの父親の作った仕組みに、バイト
テロ如くに、奉納の僭主たちを逆心・反心あり、として謀反の恐れから次々に 切って
殺したり、通報したりして行ったのだ。当然これまで贈り物を持ってきて 納税してい
た国はやってこない。国の独裁者には陰りが起こり、そうした地方を反逆者とも見て行
くのである。出撃の1年前の、紀元前 491年、ダレイオス大王は、「ペルシア王に『土
と水を献ぜよと要求』する使者を、ギリシア各地に派遣した。」「ダレイオスとしては
、これを良い口実にして 彼に土と水を献じようとせぬ ギリシアの町々を平定しよう
という腹」であった。ギリシア本土においては、ペルシア王の要求に応えるポリス(都
市国家)がすくなくなかったが、エーゲ海の島嶼部では、「使者の訪れたことごとくの
島は、その要求を受けいれていた。」のである。それだけでなく,「すでに王に朝貢し
ている沿岸の町々へも、使者を送って軍船と馬匹輸送船(うまひきゆそうせん)の建造
の、追加要求を命じた。」つまり、小アジアのギリシアの植民都市に対して、軍事力で
はなく、軍船と輸送船の建造を命じたのである。このマルドニオス遠征の失敗は、国内
に微妙な政治バランスを壊した。翌年の紀元前 490年、ダレイオス大王は民主的にも、
独裁的にも、ギリシア遠征に失敗した娘婿のマルドニオスを、当然乍ら司令官職からの
解任し、別の司令官2人を任命し、アテナイとエレトリアを討伐することを命じたので
あった。これは痛し痒しであった。解任は当然として、もし、この代替えの司令官が、
華々しく成果を遂げ凱旋しても、又逆に、アテナイ討伐に失敗しても、このダレイオス
政権の、一家の政治的力は、著しく下がるだろう。と予想されるのである。

78 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:27:55.99 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・066

 新たに任命されたのは、メディア出身のダティスと自分の従兄弟に当たるアルタブレ
ネスの両名であった、ダレイオスはこの二人に,アテナイとエレトリアを隷属せしめ、
奴隷とした者たちを 自分の面前に曳き立ててくるように。との命令を下し出発させた
のであった。(ヘロドトス『歴史』巻6の94)当然遠征軍は、次期有力の息子と、政敵の
将軍であった。「十分に装備を整えた陸上部隊の大軍を率いて進発」した。キリキア(
キプロスの対岸部)のアレイオン平野に到着して陣を張る。そこに、「かねて諸民族に
供出を命じてあった海上部隊」が合流して、前年ダレイオスが自国の朝貢国に調達方を
手配しておいた馬匹輸送船も到着。」陸上部隊も艦船に乗せて,600隻の 三段櫂船で、
ギリシアに向けて出発した。途中、エーゲ海のギリシア本土と 小アジアの間に浮かぶ
ナクソスを攻め「捕らえただけのナクソス人を奴隷にし,聖域と市街に火を放って焼き
払った。」そこからエーゲ海を越えて最初の攻撃目標であるエレトリアに渡る途中で「
次々に島に接岸して、そこから軍兵を徴用し、住民の子どもを人質にとった」のである
。「その後 ペルシア軍はエウボイア島の南端の町カリュストスに到達した。ペルシア
軍はカリュストスに、エレトリアとアテーナイを 攻略するための兵を提供することを
求めた。カリュストスは、これを拒否した。するとペルシア軍は、カリュストスを攻撃
して無理やり服属させた。」エレトリア人はペルシア軍が自国に向かって大軍で押し寄
せて来ているのを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは、直接の支援は拒んだ
が、カルキスのヒッポポタイに入植している4000人を援軍として送ることを了承した。
ところが、エレトリアの国論は、街を見捨ててエウボイアの山地に籠ろうとする一派と
ペルシア方に擦り寄る一派と、二分されて激論に至る。「エレトリアを牛耳っていた、
ノトンの子アイスキネス」は、このような現状をアテナイに率直に告げ「エレトリアと
破滅の運命を共にせぬために、母国に引き上げるように要請した。」その為アテナイ人
はその忠告に従ったのである。

79 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:28:22.70 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・067

  ここで、ペルシア軍の攻撃を受けたエレトリア人達は、「出撃はもとより迎撃する
意図もなく、町を放棄せぬ説が 大勢を制するのである。何とかして城壁を守ることの
みに専念した。」、ここで激しい攻撃を6日間は耐えて、双方に多数の死者が出る。7
日目になって「町の有力者であったアルキマコスの子エウボルボスとキュネアスの子、
ピラグロスの二人がペルシア方に寝返り」ここで開城した。「ペルシア軍は町に侵入し
て」、「聖所を掠奪した上で火を放ち」「ダレイオスの命じたとおり市民達を、全員を
奴隷にした。」のであった。ペルシア軍は、エレトリアを陥した後 数日の間を置いた
だけで、アッティカ領を目指して艦隊を進めた。「大いに気負ってアテナイ人にも、エ
レトリア人同様の憂き目に遭わせんもの。と、意気込んでいた。」が 上陸したのは、
アッティカ地方の北部のマラトンであった。そして、そこに誘導したのは 20年前に、
アテナイを追放された前僭主のヒッピアスであったのだ。「マラトンが騎兵の行動に最
も好都合であり、かつエレトリアにも至近の位置にある」というのが、その理由であっ
た。しかし、普通に考えれば,アテナイの中心部から30数キロも離れているマラトンの
地ではなく、市部から数キロのピレウスに上陸するのが妥当である。にもかかわらず、
ヒッピアスはペルシア軍をマラトンに誘導したのだ。なぜか。実はアテナイの僭主の座
を追放された父とともに、亡命生活11年目に、亡命先のエレトリアから帰国し上陸した
ところで、ペイシストラトスは、56年前の前 546年マラトン僭主の座から追放され、2
度目の追放にあっていたのだ。亡命地のエレトリアで息子たちと、今後どうするかを、
相談しその時に、アテナイへの帰国と、再び僭主になることを提案したのが、この案内
役のヒッピアスなのである。つまり、この案内役と言う接触は、言語問題もありながら
、何かのつてでヒッピアスの方から寄り付いて、マラトンの地に連れて行ったのだ。

80 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:28:46.06 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・068

 「独裁権を奪回せよ。」というヒッピアスは意見をいい、それが通ったので、彼らに
何らかの恩義を感じている町民から、義捐金が募りはじめた。」その金額は莫大なもの
になり、その資金で、亡命から11年目に帰国の途についた。ペイシストラトスは54歳,
息子のヒッピアスは 前560年生まれということだから14歳であった。実は、マラトンと
その周辺は、もともとペイシストラトス一門の地盤の一つであったし、ダティスやアル
タブレネスは、前任者マルドニオス遠征の失敗を、充分知っていたのであって、戦闘の
みがこの遠征の目的ではない。と思っていたのだ。彼らがここに陣営を張っていると、
アテナイの町から一味の者たちが馳せ参じてくるし、また地方の各区(デーモス)から
も、自由よりも独裁政治を歓迎する連中が合流してきたのだった。ここで語弊なく言え
ば、自由社会よりも独裁政治と言うのは、野蛮な暴力が跋扈する民衆政治よりは、昔の
秩序ある王の法制の中の暮らしを求めたのである。ここで一同勢揃いをした。(ヘロド
トス『歴史』巻1の60)ここマラトンの地で、体勢を整え アテナイ軍を破ってペイシス
トラトスは僭主の座に返り咲く。そういう意味ではマラトンの地は、縁起の良い場所な
のであった。ヒッピアス自身も、前 510年に僭主の座から追放されて、20年ぶりの帰国
を果たした。この時ヒッピアスは、すでに70歳である。ペルシアのダレイオス大王と、
アテナイを下した後に、僭主の座に返り咲くことを約束されていた。アテナイ内部には
、依然として前僭主に好意的な勢力や、ペルシアに好意的な勢力が、数多くいたので、
マラトンに上陸すると内応者が出現するだろうと期待していた。のである。ペルシア軍
の上陸地点のマラトンは、ヒッピアスにとって「夢よもう一度」という期待の地であっ
たのだ。更にペルシア軍にとっても、戦果の前線を離れた、比較的安心して徴集徴兵の
出来る好意的な、前線基地であった。

81 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:29:09.37 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・069

 前節で,ペルシア帝国は,イオニア海の島嶼国の反乱を鎮圧した後で、黒海周辺の、
ヨーロッパ側を攻めて征服したことを紹介した。その時に、黒海からエーゲ海に出る時
の狭い海峡、ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)のヨーロッパ側の、ギリシアの
植民都市ケルソネソス僭主だったキモンの子、ミルティアデスが「ある限りの資産を、
5隻の三段櫂船に満載して、アテナイ目指して出帆」し、命辛々 何とか生き延びて、
アテナイに30数年ぶりに逃げ帰ってきていた。紀元前 493年のことである。ケルソナス
の植民都市に、キュプセロスの子ミルティアデスの叔父貴が、前 550年代頃から僭主と
して君臨していた。よって、その地は半世紀以上も、アテナイの植民都市であったのだ
。もともと ケルソネソスには、トラキア部族のドロンコイ人が住んでいた。そのケル
ソネソスの僭主にミルティアデスがなった経緯を、ヘロドトスは,次のように紹介して
いる。ケルソネソスのドロンコイ人はアプシントス人との戦いで劣勢に立っていた。そ
こで神託を受けるために,デルフォイまで出かけた。巫女の言葉は,デルフォイの聖域
からの帰国の途中で、ドロンコイ人を客人として遇してくれる人を「国家再建の指導者
にすべし」と、いうものであった。ドロンコイ人がアテナイに立ち寄った時に、客人と
して遇してくれたのが、キュプセロスの子ミルティアデスだったのである。そこで彼に
、ケルソネソスに来て国家指導者になってくれるように頼んだ。という次第であるのだ
。このキュプセロスの子ミルティアデスは,「大いに勢力をふるっていた」有力貴族の
フィライオス家の出身であった。「4頭立ての戦車を仕立てる財力のある資産家。」の
家柄に属するだけでなく、彼自身が「オリンピックの4頭立て戦車競技で 優勝した、
輝かしい経歴」があったのである。しかしして、アテナイではすでにペイシストラトス
がクーデタを起こして、僭主となっていた。ミルティアデスも、有力な家系であるだけ
でなく、彼自身がオリンピックでの英雄だったこともあって、ペイシストラトスから疎
まれていた。

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:29:40.86 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・070

 そうしたようなこともあり、ミルティアデスは、「もともとペイシストラトスの支配
にあきたらず、国を離れたい希望があった。」ので ドロンコイ人の申し出を快く承諾
したのである。ミルティアデスの家系は、生粋のアテナイ人ではなくて祖先には、ヘロ
ドトスによれば アイアコスとアイギナに遡り、「アテナイの国籍に入ったのは比較的
に新しい家柄」であったようだ。「女系を通じて当時有力なポリスのひとつであった
コリントスの僭主を曽祖父にもつ血筋」の有力貴族でもあったので,ケルソネソスの地
に赴き、そこの僭主になることにそれほどの抵抗はなかったのであろう。ミルティアデ
スは、移住を希望するアテナイ市民すべてを引き連れて,ドロンコイ人たちと一緒に、
ケルソネソスの地に赴いて行った。同行したアテナイ人は,武装自弁の市民戦士である
から、ミルティアデスにとっての暴力装置となっている。それゆえ、キュプセロスの子
ミルティアデスを「招致した、かのドロンコイの首領たちは、彼を独裁者に樹てた。」
と称した。つまり、ミルティアデスを ケルソネソスの僭主にした理由なのである。彼
が最初に手掛けたのは、ドロンコイ人がアプシントス人の侵略に悩まされていたので
それを防ぐために「ケルソネソスの地峡に、カルディアの町からバクテュエにかけての
 城壁を築く」ことであった。「ケルソネソスの頸部に城壁を築き」,「アプシントス
人の侵入を阻んだ」後で、ランプサコス人と最初に戦いを交えたが,ランプサコス軍の
待ち伏せに遭って、ミルティアデスは生け捕りにされてしまったのだ。ミルティアデス
は,「リュディア王クロイソスと懇意であったので」クロイソスはランプサコスへ使者
をやって、ミルティアデスを赦免するように脅迫し 釈放させた。というエピソードが
残る。

83 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:47:16.19 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・070

 「独裁権力獲得とソロンの抵抗」での、アリストテレスの『アテナイ人の国制』に、
この時のペイシストラトスの権力掌握と、それに対するソロンの抵抗について簡潔にだ
が、記載されている。引用すれば、「最も民主的との聞こえがあり、メガラ人との戦い
に多いに名声を挙げたペイシストラトスは自ら身体を傷つけ、反対派によりこんな目に
あった。と称して民衆を説き伏せ騙して、アリスティオンの動議によって、自分の回り
に護衛を与えさせた。そこで「棍棒持ち」と呼ばれた輩を得て、これをもって、民衆に
抗して立ち、(ソロンの)法律制定の後、32年目コメアスのアルコンの年(前561
年)に、アクロポリスを占領したのである。ソロンはペイシストラトスが護衛を求めた
時、これに大いに反対し、自分は或る者より賢明であり、或る者よりは勇敢である。と
言った。と伝えられる。すなわち、ペイシストラトスが僭主政を企てていることに気づ
かぬ者よりは、賢明で、これに気づきながら黙っている者より、勇敢である。との意味
であった。しかしこう言っても、人々を説き伏せ得なかった。このとき、武具を戸口の
前に取り出して、自分は、できる限り祖国のために働いてきた。との意志を見せた。当
時、既に彼は、大した高齢であった。しかし他の人々も、自分と同じように行うことを
望む。と述べた。さてソロンは、かくの如く当時に、精一杯の勧説したが無駄であった
。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.33-34>
 ペイシストラトスは、僭主となるとむしろ合法的に国事を司った。しかし、その支配
がしっかり根を下ろす前に、政敵によって、一時的にアテネを追われた。その後、謀略
をもって復帰した。が、再び党派間の争いから亡命に追いやられた。だが、亡命先で、
資金を蓄え兵士を雇い、パルレニス付近の戦いに勝ってアテナイ市を占領したペイシス
トラトスは、民衆の武器を取り上げてついに僭主政を実現した。とされた。

84 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:47:37.53 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・071

 そうしたようなこともあり、ミルティアデスは、「もともとペイシストラトスの支配
にあきたらず、国を離れたい希望があった。」ので ドロンコイ人の申し出を快く承諾
したのである。ミルティアデスの家系は、生粋のアテナイ人ではなくて祖先には、ヘロ
ドトスによれば アイアコスとアイギナに遡り、「アテナイの国籍に入ったのは比較的
に新しい家柄」であったようだ。「女系を通じて当時有力なポリスのひとつであった。
コリントスの僭主を曽祖父にもつ血筋」の有力貴族でもあったので、ケルソネソスの地
に赴き、そこの僭主になることにそれほどの抵抗はなかったのであろう。ミルティアデ
スは、移住を希望するアテナイ市民すべてを引き連れて、ドロンコイ人たちと一緒に、
ケルソネソスの地に赴いて行った。同行したアテナイ人は,武装自弁の市民戦士である
から、ミルティアデスにとっての暴力装置となっている。それゆえ、キュプセロスの子
ミルティアデスを「招致した、かのドロンコイの首領たちは、彼を独裁者に樹てた。」
と称した。つまり、ミルティアデスを ケルソネソスの僭主にした理由なのである。彼
が最初に手掛けたのは、ドロンコイ人がアプシントス人の侵略に悩まされていたので
それを防ぐために「ケルソネソスの地峡に、カルディアの町からバクテュエにかけての
 城壁を築く」ことであった。「ケルソネソスの頸部に城壁を築き」,「アプシントス
人の侵入を阻んだ」後で、ランプサコス人と最初に戦いを交えたが,ランプサコス軍の
待ち伏せに遭って、ミルティアデスは生け捕りにされてしまったのだ。ミルティアデス
は,「リュディア王クロイソスと懇意であったので」クロイソスはランプサコスへ使者
をやって、ミルティアデスを赦免するように脅迫し 釈放させた。というエピソードが
残る。

85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:50:47.85 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・072

 なぜミルティアデスが、ランプサコス人に捕縛されたエピソードを紹介したのか。と
言えば、そもそも、キュプセロスの子ミルティアデスがいつ頃,ケルソネソスに赴いた
のかは、実ははっきりしないからである。ペイシストラトスの僭主制に心楽しまずにい
て、それでドロンコイ人の依頼を快諾したということから ペイシストラトスが政権を
握った 前 561年以降であるだろうということは推測できるのだが。リュディア王のク
ロイソスによって、その命を救われているので、クロイソス王の統治期間で、その期間
は短く、前560年から前546年までの、14年間の間である。当然のことながら前 546年の
以降ではない。更に、マラトンの戦いの英雄のキモンの子ミルティアデスが、生まれた
のが、前 550年であると言われている。その名は「ケルソネソスの開拓者 ミルティア
デスの名をとって、『ミルティアデス』と命名した。」とヘロドトスは書いているので
。とすると、キュプセロスの子の ミルティアデスがケルソネソスに 赴いたのは、前
560年〜前550年の間ではないか。ということなる。ケルソネソスの僭主の、キュプセロ
スの子 ミルティアデスには「後継ぎの実子がなかった。」ので異父兄弟キモンの長子
ステサゴラスを養子として迎えている。キモンの長子は、キモンの祖父の名をとって、
ステサゴラスといい、「ケルソネソスに在った母方の叔父ミルティアデスの許で、養育
されていた」のであった。ここでキュプセロスの子ミルティアデスが亡くなると「政権
と財産は、異父兄弟のキモンの子ステサゴラスにゆずった」のである。ところが、その
兄が「市会堂にいたとき頭を斧で打たれ」殺された。彼にもまた後継者がいなかった。
ペイシストラトス家と有力貴族のフィライオス家との関係は,微妙なものであった中で
、叔父ミルティアデスがケルソネソスに赴いたのは、ペイシストラトスが僭主になった
ことを心楽しまなかったからである。それは、アテナイに残っていたフィライオス家の
キモンにしてもそうであったようだ。逆に,ペイシストラトス家にとっては、目の上の
タンコブであったのだ。

86 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 17:01:03.93 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・073

 紀元前 427年に僭主のペイシストラトスが亡くなる。この後ペイシストラトスの息子
達は、「暮夜市会堂のあたりに刺客を忍ばせておいて」ミルティアデスの父のキモンを
、「暗殺した」のだった。ここから、少しややこしいのであるが、自分たちが暗殺した
キモンの息子に対しては 非常に親切にしていたのである。「ペイシストラトス家の、
一族は,ミルティアデスの父キモンの横死については、何喰わぬ顔をして行い、ミルテ
ィアデスがアテナイにいる時から、彼を厚遇していた。」のだった。僭主のヒッピアス
は、キモンの息子ミルティアデスを、前 524/523年には、筆頭アルコン(執政官)にま
で 任命しているのである。ケルソネソスの僭主であった兄の、ステサゴラスが 敵方に
よって暗殺されると、僭主ヒッピアスは,ステサゴラスの弟だったミルティアデスに、
「ケルソネソスの事態を収拾させるべく、三段櫂船で、かの地に派遣を命令した。」の
である。アテナイの筆頭アルコンまで務めた キモンの子ミルティアデスを、わざわざ
アテナイから遠く離れたケルソネソスまで派遣し治めさせたのだ。が、そのことを理解
するには、アテナイの食糧輸入事情と その食糧を確保するための航路の戦略的位置と
しての、ケルソネソスについて押さえておく必要がある。トゥキュディデスによれば、
「アッティカの地は、痩せ地であるために最古の時代から内乱がなく、同一の人びとが
住み続けたのである。」と説く。つまり、アテナイに同一民族が、ミケーネ時代以前か
ら、住み続けているのは、そもそもアテナイが不毛の地であり、襲撃するほどの魅力が
なかったのである。というのだ。痩せた乾燥した土壌で、食糧を育てることができたの
は,ウィリアム・バーンスタインの『交易の世界史』によれば、大麦の中のライ麦のみ
である。大麦の生産量だけで、アテナイ人の腹を満たすのには十分だった。のであるが
。ここで、少しづつ美味しい小麦粉のパンが出回り、市民の美食と贅沢が徐々に蔓延し
、食糧事情の変化が起きた。「ギリシア人の舌がだんだん肥えてきた」ことによる要求
が、日増しに高まったのだ。

87 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 17:10:14.54 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・074

 大麦と小麦の「味の違いが分かるようになると、小麦への需要が高まり始めた。」の
であって、アッティカで、小麦栽培もおこなわれるが、全く育たなかったのである。こ
の地の痩せた土地の 土壌と乾燥した気候は,「発芽させるには水やりのタイミングが
重要な小麦栽培には、全くむいていない気候だった」のだ。当然のことながら、それは
、外国からの輸入に頼るしかない事情を産んだ。では何時頃からアテナイ人は、小麦の
輸入をする様になったのだろうか。それを問う前に、米を主食とする日本人に、現代の
米すら品種を、よく判らず 問わない方も多い中なので、少し説明したい。大麦と小麦
は、名前が似ていることから同じ種類と考えられがちだが、実は、まったく異なる性質
をもつ植物であって、ここに、生育と仕様用途の違いがある。更に大麦と小麦の違い、
大麦、小麦以外のライ麦やエン麦の特徴、ムギからできる健康的な食品など、似ている
ようで違う麦の種類について、詳しく解説したい。本来 米も麦の草目的に同じである
。外見の類似するイネ科穀物やその子実の総称とされるようにイネ科なのだ。麦では、
大麦、小麦、ライ麦、燕麦(エンバク)など、見た目の似たイネ科の穀物でも、「〇〇
ムギ」「〇〇バク」と呼称される様に分類される。日本では大麦も小麦も麦の仲間だが
、英語では、「麦」をあらわす言葉は存在しない。大麦は“Barley”(バーレイ)で、
小麦は“Wheat”(ウィート)と 別の植物として、認識分類されている。これはかなり
古い時代から区別され、用途も違って生活して来た事を意味している。大麦はイネ科に
属し、古くから栽培されてきた穀物で、日本では主に「二条麦」や「六条麦」、「はだ
か麦」「もち麦」などが、栽培されている。二条大麦は、非常に穀の粒の一つ一つが大
きいことが特徴で、大粒大麦とも呼ばれ、生育に2条であっても大粒で収量が増した事
で命名される。主にビールの製造に使われ、ヨーロッパで栽培される大麦の大部分は、
この二条大麦である。落穂ひろいの名画でも、恐らくこの麦だろうと思われる。

88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:35:33.63 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・075

 この「条」というのは、穂が何列(条)あるかということではない。オオムギの穂は
基本的にすべて6列で穂は生育する。二条と六条の差は、実る穂が何列あるかの違いで
、読んで字のごとく結果的に2列が実るのが二条大麦であり、6列すべてが実るのが、
六条大麦である。見た目が実るのが2列だけである分、二条大麦の種子は大きく、大粒
大麦とも呼ばれた。これに対し六条大麦は、全ての列に種子が実るため種子が小さく、
小粒大麦と呼ばれる。ただし、基本全ての列に、種子が実るため、全体の収量としては
六条大麦のほうが多くなるのであるが、皮を剥き精麦すれば、殆ど同量となるようだ。
二条大麦は主にビール生産用に栽培され、ヨーロッパで栽培される大麦の多くは二条種
で造られる。これは、二条種は種子の一粒一粒が大きく、しかも、大きさがよく揃って
いるので、醸造の管理がしやすく、大粒の分空間も広く取れ、微生物の酵母にもいいか
らである。と思われる。それに対し六条大麦は収量が多く見え、オオムギを穀物として
食べる地域においては、六条種を主に栽培している。二条種と六条種の進化については
、議論も又歴史がある。かつては六条種は二条種から分化してできたと考えられてきた
。が、チベット高原において野生の六条種が発見され、一時は二条種と六条種は別々に
栽培化された。との説となった。その後、遺伝子情報の解析で、現在では二条栽培種の
変異によって六条種が成立したとされる。二条種はチベットより東には到達せず、この
ため中国や日本など、東アジアの在来の大麦はほぼ全て六条種である。これら諸国に、
おける二条種の大麦は、近代になってヨーロッパなどから導入されたものであるからだ
。ちなみに コメの場合 稲であり稲穂であるので、実の付き方が違うが枝の先の籾は
よく見れば、まだ実る前は二条麦穂の様になっている。こちらは雲南省周辺からインド
のアッサム州周辺の河の中の 長茎米の水稲からの進化と言われているので水草の種の
発達の様だ。詳しくは知らないが、米の品種もかなり多い。

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:36:00.57 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・076

 大麦を穀物として食べる場合には、六条大麦が使われる。二条麦、六条麦ともに実と
皮に糊状の物質で接着されて居る為に、簡単に皮を剥がせないのが大きな特徴である。
はだか麦は、六条麦の突然変異版とされる。つまり、皮が簡単に剥がせるものが、長年
選別生育され、遺伝的区分け栽培で、はだか麦が出来た。この麦はもむだけで、簡単に
皮がはがれるため、食用として、広く栽培されるようにった。古代の特許品だっただろ
う。二条麦、六条麦、はだか麦はうるち性で、精白した麦を、ローラーで押しつぶせば
「押し麦」になる。「押し麦」は精米後や加温や加湿で、簡単に柔らかくなるので圧力
ローラで押しつぶした半加工品の事を言う。これは「うるち性」と言う粘っこさの性質
と、そのままでは食用に加工しにくく、食べても消化が悪い。と言う要因がある。ここ
に「もち麦」が登場する。二条麦、六条麦、はだか麦と異なり、更に大きな「もち性」
のある、もちもちした食感をもつ、性質の大麦が「もち麦」である。もち米の代用品と
して、使用され、もち麦の粉で団子が作られる。近年では、健康的な雑穀として、この
もち麦入りのご飯も人気である。とされる。大麦は、米と同じように、「うるち性」の
大麦と、「もち性」の大麦があり、そのうち「もち性」の大麦のことを、「もち麦」と
呼んでいます。もち麦は、独特のもっちりした食感と、水溶性食物繊維を摂れることか
ら、メディアで話題になることも多いようです。そもそも大麦には、「うるち性」と「
もち性」の大麦があって、土地の栄養状態で遺伝的に変化した。もっちりした食感と、
水溶性食物繊維の多さから、水に浸かったものでも、もち麦は炊かずにそのまま食べら
れる性質を持つ。成分的に、うるち性の大麦は、でんぷんの成分のうち「アミロース」
の難消化成分を比較的多く含むが、粘り気が少ないのが特徴です。もち性の大麦では、
でんぷんの成分のうち「アミロペクチン」のうま味成分を多く含んで、もっちりした粘
り気があるのが特徴となっている。

90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:36:32.68 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・077

 大麦からできる食品はかなり多く、ビール・ウィスキー・焼酎・麦みそ・はったい粉
・ポン菓子・麦茶・麦芽飲料・青汁(大麦若葉)など多様である。これらはそもそもの
酵母材料として好適で、安い価格であったからだ。対して小麦とは、食糧としてパンの
原料が主用途で、皮の剥きにくさや粒の細かさが扱いにくさを産んでいた。「人類最古
の作物」といわれる小麦だが、小麦はイネ科コムギ属の一年草、世界三大穀物の一つで
、生産量は、「米」以上であった。小麦の種子を収穫し、粉状にして小麦粉として使用
し、主に食用としてパン、ケーキ、麺類などに加工される。小麦からできる食品として
は、うどん類・麩(ふ)・パスタ類・中華麺。グルテンミート・クスクス・小麦胚芽油
 など、色々だが、それに合った、硬質・中間質・軟質小麦の生産が必要になるのであ
る。品種も多く、大まかに小麦の種類は、硬質・中間質・軟質小麦にわかれる。硬質に
なるほど含まれるタンパク質の量が多く、中間質、軟質になるほど減少し、タンパク質
を多く含む硬質小麦ほど、グルテンの形成力が強くなり、パンに適した小麦粉(強力粉
)ができる。強力粉の用途がパン、ピザ生地などであるが、日本の水に比べても硬質水
が多くあるので、中間質小麦の中力粉でうどんなどが出来る文化とは異なった。最近は
軟質小麦の薄力粉でケーキ、菓子類など作られる様になったが、これらは中世以降の、
品種改良による美味さの演出である。小麦種にデュラム小麦と言うのがある。マカロニ
小麦とも呼ばれ、パスタ(スパゲティ、マカロニなど)の原料となっている。製粉工程
の中で、セモリナという黄色い胚乳の部分が取り出され、パスタに加工されます。デュ
ラム小麦は、タンパク質が豊富で、粘り気が少ないのが特徴です。粘り気がないため、
パンにする場合はパン用の小麦を混ぜる。いわば、海外産の「菌入りうどん」だろう。
 こうした説明通り、大麦と小麦の大小は、穀粒の大きさによるものではありません。
「大」は用途の範囲が広い、質のよい、「小」は代用品、質がおとる、という意味を、
もちますが、現在では小麦が多く使われます。

91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:37:13.92 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・078

 伝来当時は、皮を取り除いて粥などとして簡単に食べられ大麦が上質と考えられたし
、製粉し大麦が食料に供され小麦は食べ方が合わなかった。この小麦も紀元前1万年頃
に、栽培が始まり、食事の主食になり得たのは、紀元前九千年頃とされる。現在の栽培
されている品種は、DNA解析や、植物学者の研究で、現在イラク周辺に生えていた、
二条オオムギに似た野生種が改良されたものともいわれる。当初の調理法は、炒って、
麦粉にしたものを水に溶かしたり、または粗挽きにした粥だったと考えられている。こ
れが、やがてそこから大麦パンの製法が開発された。古代エジプトでも、主食のパンに
使われて、ヒエログリフにも描かれている。此の頃には、既にビールの製造も開始され
ており、パンとビールはエジプトの食生活の中心であった。このビール製造は大麦パン
製造の過程で、大麦を粉にしやすくするため発芽させた時に、偶然製法が発見され製造
され始めたと考えらている。大麦は、本来、冬季に比較的降水量が多い地域を原産とし
ていた作物で、秋に発芽して冬を越し、春に大きく生長し、初夏に結実して枯れる、い
わゆる冬草の一種である。そのため、種を秋に蒔き、苗の状態で冬越しさせ、春に出穂
(開花)・結実させて初夏に収穫する(秋蒔き)。しかし、春に積算温度の足りない様
な寒冷地向けの品種で、発芽に低温を必要とせず、種を春にまいて、盛夏に収穫可能な
春蒔き品種が開発された。日本は、北海道で主に栽培され、世界的に、ロシアやカナダ
といった北方の寒冷な地域では春蒔きが中心となっている。この2国は大麦の大生産国
で、世界的な大麦生産量としては春蒔き品種のほうが多くなっている。これに対して、
本州以南、特に関東から九州にかけての地方では、夏草の性質を持つ稲の裏作として、
秋蒔き品種の栽培を行う。稲の収穫が終わった秋に播種し、田植え前の初夏に収穫する
。麦の穂が実る初夏の麦畑は、淡い茶色に染まり秋の稲田に似た光景で、麦の結実期の
ことを、麦秋と呼ぶ。

92 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:37:55.84 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・079

 一方小麦も、人類は 紀元前1万5千年〜紀元前3千年頃に栽培しはじめ、世界では特に
生産量の多い穀物の一つであり、世界の年間生産量は 約7.3億トンもある。これはトウ
モロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)とされ
る。コムギは播種時期によって、秋播き小麦と春播き小麦の2つの品種群に分かれる。
秋播き小麦は、発芽するのにある程度の低温期間が継続する春化を必要とするため、秋
に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫する。低温が必要なため、やや寒冷な地域
では秋播き小麦が主に栽培される。一方春播き小麦は、春に播いて夏の終わりに収穫す
る。春播き小麦は、寒さが激しく種が、冬を越せない地方や、逆に、冬に低温にならず
春化のできない温暖な地域で作られる。さらに、本来の収穫期に雨季を迎えて、収穫が
困難になるような地域でも、栽培される。麦が熟して収穫を迎える頃には、広い畑一面
が黄金色になる草紅葉が見られる。つまり、大麦と違って小麦は、辺鄙な処で二毛作が
出来る穀物であったのである。ただコムギの実は、硬い外皮に覆われ、その中に可食部
である胚乳と、胚芽が存在する。この3部分の体積の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、
胚芽が2.5%である。主に食用とするのは胚乳部分であり、製粉して小麦粉とするのは、
この部分である。果皮(「ふすま」「ブラン(bran)」)や胚芽部分も食用とすることは
できるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなる。このために、
一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と食物繊維
など有用成分があるため、販売されることもある。これを取り除かずそのまま粉にした
全粒粉も存在する。

93 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:38:45.72 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・080

 大麦と小麦の大きな違いは、生産にも違いがあるが、加工でも違って。グルテンが多
く含まれる点で、小麦粉が練るとグルテンによりネバネバし、この性質が、パンやケー
キ、麩などに、美食加工される高級品になった。一方、大麦粉はグルテンはないので、
大麦粉でパンを焼く場合には、全粉では出来ず、小麦粉やグルテンで補う必要がある。
グルテンが豊富な小麦でのパンは、フワフワの食感がと香りも楽しめるが、大麦で作る
パンは、硬く重く食感も味も特殊だ。大麦粉でつくるパン生地は不安定であり、扱いに
くく、小麦粉に比べパン作りには、職人でも難しく適さない。エン麦は 英語で“Oat”
(オート)から、加工品には oatmeal(オートミール)の名が付く。エン麦を脱穀して
乾燥させ、加熱してローラーにかけるとフレーク状ロールドオーツとなり、シリアルな
どに利用される。エン麦には、タンパク質・ミネラル・食物繊維など、豊富な栄養素が
ある。エン麦は、ウィスキーやビールの原料にも使われ、グラノーラもエン麦からでき
ている。ロールドオーツの粉も、牛乳や水で粥状にしたものはオートミールで、健康的
な朝食としてお勧め品らしい。エン麦のフスマ(オートブラン)も、食物繊維が豊富で
シリアル加工される。エン麦のオートミルクは牛乳の代用品として人気だが、実は戦中
戦後のパンの代用品だった。エン麦の代表的な用途が、通常は馬の餌で、牛馬の飼料で
あった。エン麦の食物繊維の豊富さが、馬が好む飼料の代表格となっていた。エン麦を
畑で育てそのまま、すき込み利用する緑肥にも使われる事も飽食時代には起こる。元々
エン麦の新芽を好んで、ネコさえ食べる「ネコの草」として販売された。放牧場に撒い
たままで、刈込しないで牛馬に食べさせていた。ライ麦は、別名はクロムギ(黒麦)で
、黒パンといえば、ライ麦パンである。国によっては、ライ麦と小麦粉の配合と挽き方
によってパンの名前が変わり規格があるが、北アメリカやヨーロッパで手ごろに栽培さ
れ、小麦の栽培に適さない土地や、やせた土壌でも育つ特性があり、寒さにも強くあっ
て、人類はライ麦で救われていた。種子などはウィスキーやウォッカにも醸造された。
つまり一番の多用途麦だったのだ。

94 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:48:20.57 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・081

 この、アテナイの穀物事情と交易の実態を別の観点から明らかにしているのが,グレ
ン・E・マーコウの『フェニキア人』である。グレン・E・マーコウによれば、フェニキ
ア人のエーゲ海交易の最盛期は。紀元前8世紀から7世紀の初期であるが、この時代に
東方からギリシア世界に、たくさんの品物がはいってきた遺跡があるが。アテナイでは
僅かしか見つかっていない。エジプトの小間物や製品が、周囲の海岸都市では幾つでも
見て取れる。が、アテナイでは一つも出て来ない。なぜか。考察するに,アテナイでは
市場経済が前7世紀まで、ほとんど無く「外国との接触」が日本の鎖国の様な状態にい
た。つまり、弱小都市であったからである。アテナイにおいて、ようやく市場経済が、
発展、経済的成長をし始めるのは,前7世紀の後半となった。社会が豊かになる中で、
やっと世界に追いついたのだ。此の時ライ麦から小麦の美味味の違いがアテナイ人にも
もたらされ、小麦を輸入するようになる。それと引き換えに、洗練された陶器や織物、
オリーブオイルやワインなどを提供し始め、やっと通貨の流通を得たたのである。まさ
に、この時期はソロンの改革が行われる前夜であり、アテナイに経済発展が訪れること
で貧富の格差が大きくなる。没落した市民が債務奴隷になり、輸入と共に海外商人が、
跋扈し問題が発生した。「貴族と大衆は久しく抗争」し、「抗争は激しく行われた。」
人々は互いに、久しく反目を続けた。彼らは合意の上の調停者として「アルコン(最高
権力施政官)として、ソロンを選んで(前 594年)。ここで彼に国事を委ねた。」ので
あった。こうしてソロンの改革が、前594〜3年に行い、ペイシストラトスが僭主になっ
た、前 561年頃には、交易経済が芽生えていく。つまり、前6世紀になってアテナイの
穀物事情が変わったのであり、とりわけ小麦を輸入する為に,アテナイでは、オリーブ
油やワイン。そして、洗練された陶器や織物の輸出に、とりわけ励むようになったので
ある。

95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:48:42.07 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・082

 アテナイにとって、自国で出来ない小麦の供給は黒海沿岸に頼るしか無かったであっ
た。黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地で供給基地で
もある。古代でエジプトにも供給できる増産は図られていたが、それほど毎年の作育が
順調ではなく、また海路にも危険が付きまとっていた。従って、地中海方面の穀倉地帯
として重要視され、ギリシア人は早くからビザンティオン(後のコンスタンティノープ
ル,現在のイスタンブール)などの植民都市を黒海沿岸に設けていった。穀物の為の、
重要な交易路がエーゲ海からヘレスポントス海峡を抜け、マルマラ海を経てボスボラス
海峡を通り黒海へ至るルートとなっていた。そこは,アテナイの生命線とも言えるもの
であった。ヘレスポントス海峡は、狭い海峡であるだけに攻撃を受けやすかった。そこ
の安全性を確保するためには、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のケルソネソスを抑
えておくことは必須であったのだ。前 550年代に、キュプセロスの子ミルティアデスが
、ケルソネソスに、アテナイ人を引き連れて植民都市を建設した事は、まさにアテナイ
の国策に適ったものであった筈だ。前 535年には,アテナイの僭主ペイシストラトスが
、黒海周辺の植民地化と海峡の要塞化という大事業に着手して、ペイシストラトスは、
またヘレスポントス海峡への南西からの進入路を見渡す、テネドス島・イムブロス島・
リムノス島など航路の島嶼国を、確保していくのであった。この黒海ルートがアテナイ
にとっての、非常に重要な生命線であったのである。「アテナイの存亡そのもが、地上
でも 有数のか細い供給ルートにかかっていた。」のである。だからこそ、ミルティア
デスの兄が殺された後に、アテナイの、この穀物輸送の死活を制する黒海からの海上路
を、アテナイの支配下に置くようにと、僭主ヒッピアスが、筆頭アルコンまで務めた、
ミルティアデスをケルソネソス半島に派遣するのは、当然のことであったのだ。

96 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:49:10.81 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・083

 こうして、アテナイの港町ピレウスを発着点に、海上を行き来する、サロニコス湾の
出口を形成する島々のあいだを、慎重に通り抜けなければならなかった。前 506年にア
テナイは、エーゲ海西部に浮かぶ「エウボイア島」の肥沃な西岸を選び、カルキスとい
う都市国家から、奪いとった。これによって穀物の供給を増やしたばかりでなく、ピレ
ウスとヘレスポントス海峡のあいだを邪魔されずに帆走できる「海上スーパーハイウェ
イ航路」を完成させたのである。先史時代は、ピレウス中心部の、ミューニキア(現在
のカステラ)は、あかつて、浅瀬で本土と繋がっていた。この浅瀬は、一年の内、殆ど
長い期間は、海水に浸かっていて、干上がる時期には、天然の塩田になったのである。
この塩田を意味する「ハリペドン」と呼ばれて、長らく塩の街として栄えていた。が、
泥濘によって複雑な浅瀬となり。徐々に地形が変化した結果、古典古代初期には安全な
土地になった。紀元前26世紀にはピレウス周辺に人が移り住んた。古代ギリシャ時代は
、水深の大きい3つの港を持って、海運の港を作り、ピレウスは重宝される。古く浅い
ファレルム港から徐々に役割を奪い3つの港は、大規模なカンタルスと小規模なゼア、
ムニチアに集約された。紀元前 511年、ヒッピアス来て、ミューニキアを要塞化する。
紀元前 507年、クレイステネスがピレウスをアッティカ地方に組み入れ、紀元前 493年
、アテネの政治家テミストクレスが、ファレルム港にかわる海軍基地として建設した。
紀元前 483年、アテネ海軍は、ピレウスに移転し本拠地とした。紀元前 480年、アテネ
海軍は、アケメネス朝ペルシア相手にサラミスの海戦で、大きな役割を果たす。以降、
ピレウスは海軍基地として使い、ペルシアの第2次ギリシャ侵攻(紀元前480〜479年)の
後、テミストクレスはピレウスの3つの港を要塞化し、ネオソイコイ(舟屋)を建てた。

97 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:49:31.24 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・084

 紀元前 471年、テミストクレスの壁が、完成した事により、ピレウス港は軍事的にも
商業的にも、重要な港になっていった。ここにミレトスの都市計画家ヒッポダモスが、
彼によって完成市街地が、碁盤の目状に整備された街に変化する。彼の名前は中心部の
広場に今も残っている。またピレウス港を、拠点とする海上貿易を 生命線とする、ポ
リス政治の経済最前線である都市間交易と、そのアテネ地域を防衛する軍事戦略基地と
して、キモンとペリクレスが 都市アテネと都市ピレウスの間の街道を両都市を囲む、
城壁から延長・要塞化し、一種の双子都市としての大きな機能となった。しかしながら
紀元前 430年、ペロポネソス戦争中に、ペスト病たる黒死病の大発生に至る、これによ
って、ピレウスは、双子都市として機能した歴史で、初めて衰退した。紀元前 404年、
スパルタのリュサンドロス提督が、そのピレウス港を封鎖し、アテネは、スパルタ国に
降伏するしかなく、デロス同盟はここで終了したのである。ピレウスの城壁とアテネと
の間の長い壁はスパルタ兵によって破壊され、アテネ海軍の三段櫂船や舟屋も、一部が
破壊された。その結果70年間の平和は終えたと思われた。防御力を失ったピレウスは
繁栄するロドス島に地位を譲る事になったのである。その地位を奪われる前の、地位を
創っていく時代においての戦いである。今だ、ピレウスには、天然の濃い海水から水を
運び、塩田に入れて、天日によって塩を得る塩田で、塩を作り小さな樽に詰めて商売を
していた時代である。かくして、マラトンの戦いを制し、ギリシア軍の、勝利に導いた
英雄は、先の将軍ミルティアデスであった。前で紹介したように,彼はケルソナソスの
僭主をしていたが、紀元前 493年に突如アテナイに凱旋帰国する。およそ30年ぶりの事
である。

98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:50:05.45 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・085

 ペルシア帝国の傘下にあったフェニキア海軍が突如として、ギリシア本土を攻め、露
払いとして、小アジアのポリスの役割して、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のギリ
シア植民都市が、次々に征服・占領されてきている中で。ミルティアデス自身も、すぐ
に身の危険を感じ、財産をまとめて、命辛々何とか生き延びてアテナイに逃げ帰って来
ていた。僭主のヒッピアスの要請で、出かけた時には20代の若者であったが、帰国した
ときには、すでに57歳にもなっていたのである。古代ギリシアにおける僭主政治では、
僭主(せんしゅ)は、基本的に貴族政をとるポリスにおいて、政治的影響力を増大させ
、平民の支持を背景に、貴族の合議制を抑えて独裁的権力を振るった政治指導者である
。古代ギリシアのポリスで、非合法に独裁政を樹立した支配者であった。本来の皇統、
王統の血筋によらず、実力・武力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者
。とされ暴君、圧制者。僭帝、僭王など日本に訳されると、色んな言葉とはなるが背景
に、時の大国から軍隊を呼び寄せたる者、或いは持って来た者の政権であった。多くの
王が神話時代に遡る正統な血統を継いで、その支配を正当化していた王政から、共和制
の形態をとりつつ、貴族階級が実質的にポリスの主導権を掌握する貴族政に移行してい
く。此の時、貴族が貴族である為に、血統や出身地のほかに、戦争に際し、武器・防具
・食糧などの軍需物資とその輸送手段を、自費で準備し、家族の生活や臣下まですべて
含めた兵役を負担できるための経済力を持つものが僭主(せんしゅ)であり、僭主によ
る政治が、僭主政治であった。

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 17:36:38.74 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・086

 「このミルティアデスが当時ケルソネソスから帰還後アテナイ軍の指揮に当たってい
たのであるが、この男は二度までも、死を免れてきたのであった。一度はフェニキア軍
が、彼を捕らえてペルシア王の許へ連行しようと必死になり過ぎて、彼をインブロス島
まで追跡した時、インプロス島の縁故もって捕縛後も放免となった。もう一つは、フェ
ニキア軍の追跡を逃れて帰国し、もはや危険はない。と思った矢先に、反対者の者らが
、彼を迎えて裁判にかけて、ケルソネソスにおける統治に専制の罪を弾劾した時である
。この弾劾裁判は、しかし、支持と反支持が拮抗する中で、成り立たない。辛くもこの
反対派の追求の中、弁舌爽やかに強力に不可避を叫ぶ声は、多くの市民の支持を得る。
こうして、無事に切り抜け民会において選出されて、アテナイ軍の司令官に任命された
のである。(『歴史』巻6の104)元々、「将軍(ストラテゴス)」の職は、前508年の、
クレイステネスの改革で、新たに設置された軍事職であった。アリストテレスの『アテ
ナイ人の国制』によれば、「将軍たちや、騎兵長官たちや、その他の軍事関係の役人達
の全てが、選挙や民会で 民衆の決定する仕組みと仕方で行われる」のである。この、
戦士組織でも、過去にあった契約の、10部族制に則って、行われていて、再編成される
。つまり、定量の部族の徴集兵と、一般からの公募兵が、国軍となり、各部族の部隊長
格として、各部族から1名の将軍が、総司令官として議会で任ぜられた。のであった。
前 501年以降は長老議会から、民会の市民全員の投票で、選ばれるようになって、より
期待度や信用度が増して、その防衛の重みさえ増した。前5世紀に入ると、アルコン(
代議員)などは、ほとんどの役職が抽選によって選ばれるようになったが、この役は、
挙手によっての、多数決の選挙が適用され,そのうえ,在任期間には、制限がなく重任
が認められた為、最盛期のアテナイでは,アルコンに代わってもっとも重要な役となっ
た。

100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:18:51.14 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・087

 紀元前 590年に、ペルシア軍のマラトンへの上陸が伝わると、直ぐに民会が開催され
る。ミルティアデスの建議に従って、マラトン平野での防衛と、迎撃は決定された。が
、このアテナイの最高決定機関の民会であったが、民会で、戦争をするかどうかの最終
決定はなされたのであるのだが、地場宗教、恐らくは拝火教の流れの、ギリシャ宗教の
巫女や神主、つまり、聖職者や宗教家の意見も加付された。そこが王政とは、全然違う
処であるが、この時に、アテナイに王が居なかった訳ではない。この聖職者こそ王だっ
たのである。しかし、ペルシア相手に戦うかどうか、そして、マラトンまで出かけて行
って戦うのかどうか、の決定には、大勢を見守るしかない。此の時の王とは単なる部族
の長であったり、教徒や信徒の長であり、乱立した王権の集まりの議会は、時代を超え
、残されて来た会議だったはずだ。そうした中ミルティアデスが、大きな役割を果たす
。ペルシアと戦うべし、という決定に従い、具体的な、手順と現実的内容である。基本
的に、アテナイの食糧事情は、此の時既に輸入小麦の確保がこの国の生命線であった。
黒海ルートがペルシアによって断たれる。そうしたことも、大きな説得材料になった。
筈だ。民会決議後、すぐに、アテナイはスパルタに使者を送って、援軍を依頼するのだ
。スパルタは、援軍を送ることは了承したが、スパルタではカルネイオス月(現在の8
月後半〜9月前半)の7日から15日に至る9日間は、例年、アポロンを祭神とするカル
ネイア祭が営まれていたために、「兵を動かすには月齢が満ちるまで、待たねばならぬ
から、9日には、出征ができない。」とアテナイからの使者に、返答している。カルネ
イア祭はアポロンの英雄カルネイオス神の栄光を称えるペロポネソス同盟の、古い神格
の大事な共通文化だった。カルネイオスは「家畜の神」であり、「(穀物や葡萄などの
)収穫の神」だったのだ。この祭りは、過去に疫病を退散させ、ヘーラクレイダイと、
その末裔であるドーリア民族に受け継がれた、葡萄酒での清めの儀式を持っていた。

101 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:56:49.65 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・088

 カルネイア祭は、今では、農業と軍事の祈願祭になって伝わる。およそ元々アポロン
への贖罪のために開催された。と言われる。贖罪の理由は、予言者カルノスがヘーラク
レイダイによって、殺害されたことによるものだ。カルノスは、アポロンのお気に入り
の孫だったが、スパイ容疑をかけられて、命を落とした。この祭りは、このカルノスの
あらぬ罪を着せられて死んだ彼を悼み、アポロンに贖罪するために始まった。と考えら
れている。アカルナーニア人(ギリシャのエトリア)の予言者であったカルノスは、ア
ポロンのお気に入りであった。しかし、カルノスはナウパクトスからペロポネソスへ、
移動する最中だったヘラクレイダイによってスパイ容疑をかけられ、殺されてしまう。
アポロンは激怒し、ヘラクレイダイの軍船を尽く破壊し、疫病を降り罹らせた。神託に
よって、アポロンの怒りを知ったテーメノスは、カルノスの殺害者であるヒッポテース
を追放して清め、鎮魂のためにカルネイア祭を創始した。と言う、ヘラクレイダイは字
義どおりに解釈するならば「ヘラクレースの後裔」の意であり、神話時代のヘラクレス
の子孫と、その末裔を称する歴史時代の諸王家を指すが、ギリシア神話では通常、ヘラ
クレスの嫡流であるディアネイラの子供たち(特に長男ヒュロス)の家系をいう。とさ
れる。ヘラクレスの死後、子供たちはミケナイの王エウリュステウスから迫害を受け、
ペロポネソス半島を去る。此の為ヘラクレイダイにとってペロポネソス半島に帰還する
ことは、英雄の育ての父、アムピトリュオーンがミュケーナイを追放されて以来の長き
にわたる悲願となった。と言う。このヘラクレイダイの帰還の物語は、ギリシア神話の
世界で起きた最後の大事件で、トロイア戦争をはさんだ長期間に渡って語られ、歴史時
代には、ヘーラクレイダイの帰還はドーリア人の侵入と結びつけられた。古代悲劇作家
たちは、この物語をしばしば題材に取り上げる。

102 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:57:11.72 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・089

 ヘラクレイダイの最大の協力者、ドーリア人の王アイギミオスは、国難をヘラクレス
に救われたことに感謝して、英雄の息子ヒュロスを養子とした。さらに国土を3分して
、自分の2人の息子デュマース、パムピューロスと、ヒュロスに分け与え、王の2人の
息子達もヒュロスらヘラクレイダイの帰還に協力した。しかしヘラクレイダイがペロポ
ネーソスに帰還を果たしたのはヒュロスから3代後のことだった。何故だかこの祭りは
国事とされて、国家の共通意識に大事な物だった。従ってこうしてスパルタからの援軍
は、結局、マラトンの戦いには 間に合わなかったのだ。スパルタ軍の到着が、遅れて
いたこともあって、将軍たちの 戦略の軍会議では、「見解が二つに分かれ、一方は
ペルシア軍と戦うには、自軍の兵力が少ない。という理由での交戦することの不可を説
き、ミルティアデスを含む他の一派は、交戦すべきことを、主張した。ここは生きるか
死ぬかの決断である。司令官達は真剣に、真顔の話し合いである。住民や市民をバック
に戦うミルティアデスは、占領に至っては悲惨な虐待が待っている事を、ミティアデス
は知っていた。しかし、それにも関わらず、司令官たちの見解が二つに割れ、しかも、
好ましからぬ方の説が、勝ちを制する気配となった。」と書く。戦いを指導した司令官
は、各部族1名ずつの選出の10人の将軍と、アルコンの一員であるポレマルコス(軍事
長官)とで構成されていた。部族の中には戦争に迷惑顔の者や、ペルシアとの関係のあ
った部族もあったのである。ミルティアデスは、このポレマルコスのカリマコスを説得
することにした。実はわれら十名の司令官の意見が二つに分かれ,一方は交戦を主張し
他方はこれに反対している。と訴え、しかしながら、もし我らが戦わぬならば,必ずや
我が国に激しい内部分裂が起こって、アテナイ国民の士気を動揺せしめ,その結果は、
ペルシアに利することとなり、屈することになるに違いない。(ヘロドトス『歴史』巻
6の109)

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:57:43.36 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・090

 ミルティアデスは、軍事長官のカリマコスに、「戦えばわが祖国は独立を保つのみな
らず、ギリシア第一等の国となる。」と、説得して味方につけてから、軍議を制した。
要するに、スパルタの援軍の到着をまたずに 戦うことを決定したのである。戦いを引
き延ばせば延ばすほどに,内部分裂はひどくなるとの見立てがミルティアデスにあった
。ということである。ペルシアとの戦いに勝利するまでのアテナイは、決して大国とは
言えず、国内政治は、親ペルシア派と親スパルタ派との争い、それに反僭主政がからん
でいる。という状況であった。僭主政を倒して、民主政の基礎を築いたクレイステネス
は、スパルタ、及びスパルタの援助、のもとで力を奮っていた寡頭派との対抗上、ペル
シアと親密にしていたのだが。前 508年のクレイステネスの改革の後も、僭主派の残党
がなお健在であって、彼らは今や、クレイステネスが属した旧敵アルクメオン家と、反
スパルタ親ペルシアという一点で手を結んでいたのである。そもそも、アテナイの場所
は、全く、農作物に適していない、痩せた大地である。対してスパルタには、スパルタ
平原で、自国で、地産地消の自給生活はとりあえず出来る場所だ。アテナイのごつごつ
した岩場の、日本で言えば秋吉台の様な場所は 人があまり住まないと言うより住めな
い事で、国の侵攻が少なかった。過去には、何回もアテナイを上陸基地として、そのま
ま、スパルタに何回も侵攻があったのだ。それ故に、スパルタを蔑んでみていただろう
し、近所付き合いの、挨拶の返事であった。どうせ小さな村で、兵力のない国で、そう
急いで戦う事もないだろう。ぐらいで見ていた。カリマコスはギリシアの植民地キュレ
ネ(現リビア)の高貴なギリシア人家系で、ファラオのプトレマイオス2世とプトレマ
イオス3世がパトロンとした家系とされる。つまり、この頃はエジプトの小麦粉に頼っ
て暮らしていた都市だったのだ。

104 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:02:10.57 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・091

 そうした事は、戦場での、軍議にも反映しており、それだけにミルティアデスは、ス
パルタの援軍を待つという口実で、戦いを先延ばしすれば、内部分裂でアテナイは自壊
すると判断したのである。しかし、時は過ぎ、いよいよマラトン平野で、ペルシアの、
遠征軍とアテナイ・プラタイアの連合軍が対峙したのである。ペルシアの遠征軍は軽装
歩兵、弓兵、騎兵を展開した。中央部に主力を配し、陣を張る。戦いに参加したのは、
ペルシア軍25,000と推定されている。これに対して、弱小アテナイは、約九千人。一万
にも満たない、プラタイアからの援軍約千人の連合軍を足しても、半分である。その差
は2倍以上あったのだ。強制動員された臣民、対自由な市民軍の対決である。アテナイ
・プラタイア連合軍の指揮官は,ミルティアデスであったが「ミルティアデスに、指揮
当番が巡ってきた時」と、ヘロドトスが述べているように、10人の将軍は日替わりで、
全体の指揮権を持っていた。ミルティアデスは、アテナイ・プラタイア連合軍の、戦闘
隊形の横の長さを、ペルシア軍と同じにし,兵士の少なさを密集方陣の厚みで工夫した
。この時にマラトンに布陣したアテナイ軍の、陣形には次のような特異点があった。ア
テナイ軍は戦線の幅を、ペルシア軍を等しく張ったのである、,その中央部は僅か数列
の厚みしかなかったのだ。アテナイ軍の最大の弱点はここにあった。ただし両翼は十分
の兵力を具えて強力であった。(ヘロドトス『歴史』巻6の111)中央部分を薄く両翼を
厚くという陣形こそが,ケルソネソスの僭主として、ペルシア軍の戦いにも同行した、
ミルティアデスが、ペルシア軍の戦い方を熟知した上でのものであった。というのは、
ペルシア軍の戦い方は、騎兵によって敵の両翼を圧迫して中央の方に追いやり、そこに
集まってきた敵を中央の強力な歩兵部隊によって撃破するというものと、熟知していた
からである。

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:02:33.65 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・092

 ミルティアデスによるアテナイ・プラタイア連合軍の陣形は、このようなペルシアの
戦いの逆手をとったものであった。その人員によって圧倒的に不利なアテナイ・プラタ
イア連合軍が、ペルシア相手に圧倒的な勝利を収めることができたのかについての考察
は後ほど行うことにして、戦いの推移を簡単に語れば。ヘロドトスによれば,「陣立て
を終わり、犠牲の卦も吉兆を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足で、
ペルシア軍に向かって突撃した。」両軍の間の距離は,8スタディオン(およそ1500m)
であったという。「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て、迎え撃つ
態勢を整えていたが、数も少なく、それに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるの
を眺めて、「狂気の沙汰じゃ。全く自殺的な、狂気の沙汰じゃ」と罵っていた。しかし
、「一団となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに
足る目覚ましい戦いぶりを示した。「マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。」戦
線の中央部は、「ペルシア軍は、敵を撃破して内陸に追い進んだ。」が「両翼において
はアテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。」まさにミルティアデスが予想した通り
であった。勝利を得たアテナイと、プラタイアの両軍は、潰走する敵部隊は逃げるにま
かせて、両翼を合わせて、中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制
するところとなったのである。(ヘロドトス『歴史』巻6の113)ペルシア軍は2倍以上
の戦力をもっていた。にもかかわらず、なぜこういう帰結になったのであろうか。ペル
シア軍は、騎兵・弓兵・重装歩兵から構成されていた。ペルシアの重装歩兵の槍は、ギ
リシア兵の槍よりも短く使いやすいが,集団戦というよりは個人戦向きであった。その
ことを明確に述べているのが,第二次ペルシア戦争の前のクセルクセス王と前スパルタ
の王デマラトスとの対話である。

106 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:00.75 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・093

 そこでは、クセルクセス王は、「わしの親衛隊のペルシア人の内には、一時に3人の
ギリシア人を相手にしても、喜んで戦う。と、申し出る強つわもの者もいる。のだぞ」
と述べている。ペルシア軍は、騎兵で相手の両翼を攻めて中央に寄せ、そこを弓兵によ
って、相手方の損害を招き、士気を落としたところで、中央から撃破するというもので
あった。が、基本は個人の武勇に頼る個人戦であった。これに対して、ギリシア兵には
、「ホプロン」と呼ばれる 直径約80〜100cmで、つまり1m弱の 浅い鉢のような独特
の盾を持っていたのである。彼らの俗称が「ホプリタイ」と呼ばれていたのは、この盾
に由来していた。ホプロンは、腕と手の二箇所で支えるダブル・グリップ盾で、中央部
に取り付けられた。つまり握る通常の盾でなく、腕にバンドで取り付ける盾であった。
細長い革か、金属の輪によって左腕を肘まで通している。縁の部分についた紐あるいは
革の握りをもつようになっている。盾を前腕でしっかりと固定することが可能であった
。盾は身体の左側に大きく出て右側はかなり露出される。その露出された部分を、自分
の右側にいる人の盾に入れて守り、他方自分の盾で左側にいる人の身体を守り、自分の
右側を隣が守る。と言う戦法が行われた。こうして、おのずから隊列が形成されたし、
それが乱れない限り、兵士の身体はびっしりと蛇の鱗の様に、隊列は守られた。その上
に、利き腕の右の剣は自由にあった。更に彼らは鉄皮のお面と胸当て脛隠しと、かなり
鎧に近い姿で参加し、並んだ盾に守られていた。又剣は、腰にして、重装歩兵は直径約
1mの円形の木製大盾で身を守り,2〜3mもある長く太い槍を手にして攻撃する形で
あった。重装歩兵の密集陣に、個々ばらばらに突進して来た場合に、最前列の槍だけが
戦いの相手ではない。それを払いのけて盾で身を守っている最前列の兵を倒そうと近づ
いていくと、左からのみではなく、後列からも槍が繰り出されてくるのであった。

107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:21.10 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・094

 これを防ぐのは容易ではない。ペルシア兵の槍はギリシア兵の槍よりも短いので使い
やすいが、こういう戦闘戦術に長けて、充分に防御され更に、計算された攻撃には不利
であった。幾重もの槍ぶすまを作っている密集陣を、突破するのは至難の技で、ペルシ
ャ軍には不可能であった。このギリシアの密集方陣の戦いとペルシアの個々の兵との戦
いの様子を、プラタイアの戦いについてヘロドトスが書いている。ペルシア兵は勇気も
力も劣らなかったが、ギリシャ人の様な堅固な武装を欠いた上に、戦法を知らず戦いの
巧みさでは、到底相手の敵ではなかったのだ。彼らは単身または十人、乃至その前後の
人数が一団となって飛び出してゆき、スパルタ軍中に突入しては、次々と討ち果たされ
ていったのである。(ヘロドトス『歴史』巻9の62)結局 これは組織的に構成された力
と、ばらばらな個人の力との戦いで、勝敗は自ずから明らかであった。数時間の戦闘で
ペルシア兵の戦死者は6400人であったが、アテナイ軍の戦死者は わずかに192名であり
、プラタイア軍の戦死者はそれよりも少なかったという。戦死者率は 30対1という、驚
くべき結果だった。この数値は,隊列を組んで平坦な地形で戦う重装備の槍兵の破壊力
のすさまじさを物語っている。ここで、大きな問題となってくるのは、ヘロドトスが、
両軍が対峙し、その距離が8スタディオン(およそ1500m)になった時に、「アテナイ軍
は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。」と書いている。この
ことは、重装歩兵という名のように、その装備は,30kgから40kgと言われている装備で
。1〜1.5kmも走ったら,激突する前に疲労困憊に なっている可能性があるし、編隊
も崩れて組織的に構成された力を発揮するどころではない。という疑問が生じる。そん
な疑問に答えるような面白い記事が長田龍太氏の『古代ギリシア 重装歩兵の戦術』に
あった。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:42.99 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・095

  重装歩兵の密集方陣の戦いが意味をもつのは,それが隊形を崩さず密集したまま、
整然と敵にあたる時である。コンピュータシミュレートで研究で、駆け足突撃によって
,隊列は最大で35%の、整然性を失う結果に至る。この戦い方では、威力はかなり失わ
れる。さらに興味深いのは、1973年に、10人の体育大学の学生を使った実際の実験結果
で、学生に6.8kg の装備と4kgの盾を持たせた状態での隊列を組み1kmの距離を走ら
せる実験が行われた。その結果では、誰一人として盾を胸の前に構えた状態で、78.5m
以上を走れなかったのである。274.3m の地点で隊列が崩壊し、最終的にゴール1,4km
に到達したのは、長距離選手ただ一人だった。翌年に同じ実験を繰り返したところでも
230m 地点で、隊列が崩壊し、完走者はいなかった。つまり人力からも予想できる結果
で、このことから考えても当時のアテナイの重装歩兵がいくら丈夫であったとしても、
実験に参加した体育大学の学生よりも、3倍から4倍も重い装備をもって、1,500m も
駆け足で突撃することは、例え超人であっても、土台無理なようだ。となると、これは
ペルシア軍とアテナイ軍と間違えて記述した可能性が高い。一方ペルシア軍の戦術は、
両軍の重装歩兵が衝突する前に、弓兵が多数の矢を射て敵兵に損害を与え、敵の中心を
叩いて意気阻喪させることであった。安藤弘氏は、『古代ギリシャの市民戦士』の中で
、実際の駆け足突撃は「敵の弓兵の射程距離( ほぼ180m)に、入ってから、始められ
た」と推定されている。体育大学の学生の事例を紹介されている長田龍太氏は,「当時
の突撃可能距離は,精々50〜100m 程度であった」と、推測されている 安藤氏がが言う
180m であっても、正直厳しいのではないか、と思う。当時のギリシアの重装歩兵は、
実地訓練を積み重ねていたので、長田龍太氏の推定のように、50mから100mぐらいなら
、隊形を崩さずに突撃できたのではないか。とは思われるが、弓矢攻撃の被害がそこに
あれば、障害物レースになる。とても考えられない。

109 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:41:47.54 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・096

 隊形を崩さずに突撃、突進し、弓矢攻撃の被害と、駆け足での体力の消耗や、隊形の
乱れを天秤にかけて、敵弓兵の攻撃による味方の損害が大きくならない絶妙なタイミン
グでの、駆け足突撃の距離は、あったろう。しかし、勝った理由は他ではないだろうか
。ミルティアデスの戦術は、この駆け足突撃だけでなく、ペルシア軍と陣形の長さを同
じにしながら、中央部分を極端に薄くし、両翼を厚くという陣形をとった。このことで
、多分充分に攻撃できる歩兵の弓隊を両翼に於いたのであろう。つまり、相手の弓兵の
効力を弱めるために、駆け足突撃を行い、比較的遠くに射る事の出来るボーガンを用意
したものと思われる。こうなると中央の鉄壁の隊列は多少弓が来ても届かない,その上
両翼から、凄まじい威力の矢が届いてくる。ペルシア軍の戦いが、中央を突破であるの
を想定し、だからこそ両翼を厚くして、騎馬隊が先行し中央の薄い守りを鉄壁に固めて
そこにペルシア軍を追い詰めて撃破する。つまり鶴の両翼で囲って、横から弓を射て、
騎馬隊が後ろに回って勝つことができたのである。両翼のアテナイ・プラタイア連合軍
は、防備も少なく、すり抜けて逃げる敵を追撃することなく、中央深く入り込んだペル
シア軍を両側から挟み撃ちしたのである。想定外の事態に、慌てふためいたペルシア軍
と、指揮官の号令一下で、まさに一糸乱れず戦ったアテナイ・プラタイア連合軍との差
は歴然としており,それが,数時間の戦闘でペルシア兵の戦死者は 6,400人,アテナイ
軍の戦死者はわずかに 192名という圧倒的勝利になったのである。日中の激戦で疲労し
ていたアテナイ軍であったが,重装歩兵は隊列を組んで山間の難路に向かった。8時間
の行軍だった。ペルシア軍が「残りの船の向きを変えて沖に逃れていき」「スニオン岬
を廻って船を進め」、アテナイ市に向かっていた。からである。ペルシア軍がスニオン
岬を廻っている一方,アテナイ軍は町を救うべく足の続く限りの速さで急行し、ペルシ
ア軍の到着以前に帰国することができた。そしてマラトンでもヘラクレスの聖域に布陣
したのであった。

110 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:45:48.66 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・097

 「古代ギリシャのホプリテス」の項目では、古代ギリシャにおける兵士の多くは、「
ホプリテス」と呼ばれる重装歩兵だった。ホプリテスという名は、彼らが使用した木製
の盾「ホプロン」に由来する。ホプロンは幅約1mもあり、青銅で覆われていた。と書
かれる。つまり、基本木製であり、青銅で覆った物なので、神社仏閣の腐れ止めにつけ
る薄膜の銅で、そんなに重くないだろう。又、戦闘に欠かせない高価な装備を、自前で
用意しなければならないため、ホプリテスは財産をもつ階級から選ばれた。とあるので
恐らく規格品があって、それに自分なりにフィットさせて使ったと思われる。アテナイ
のホプリテスは必要に応じて臨時で招集されたが、スパルタのホプリテスは、7歳の時
から厳しい訓練を受けたプロの兵士だった。と言うので相当な鍛錬をしていた。と思う
。又、完全装備の場合は、左腕にホプロン、右手には先端に青銅の穂先がついた2m級
の木槍(やり)を持つ。予備に鉄製の短剣を持ち、兜(かぶと)、胸当て、すね当て(
いずれも青銅製)まで装着する。これは学者は27キロにも及ぶ重装備だったというが、
先の実験でも、恐らく10〜15kgの軽い物であったろう。通常、ホプリテスは縦8列に
ぎっしりと並んで「ファランクス」という密集隊形を組み、一丸となって敵を攻撃した
。ファランクスは、古代において用いられた槍を持つ重装歩兵による密集陣形である。
集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。最も古い、
ファランクス陣形、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアで
、確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時から存在して
いた。その後、中東では複合弓の発明され、戦場の主役の座は弓兵となった。如何に、
丈夫で速く鋭く的確に射貫くかを極めたボウガンと弓矢であったろう。ピタゴラス同等
の知恵者が、命令によって開発された筈だ。それがしなりを歯車で変化させ、簡単に矢
をピン止めできた工夫があったのだろう。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:46:11.61 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・098

 その後、紀元前 700年頃のアッシリアでも同様の隊形が用いられていた石版が、確認
できる。が、鎧兜を着用した重装歩兵を用いた ファランクスを大々的に用いたのは、
紀元前7世紀以後の古代ギリシアにおいて、ファランクスを構成していた一定以上の富
を持った、市民階級で使用した。当時の地中海交易の発達から、甲冑が普及していき、
重装歩兵部隊を編成することが可能となった。この頃出たのが、ライザー弓であろう。
ライザー(ハンドル)のついた弓である。似たものに、コンパウンドボウ(化合弓、稀
に複合弓と訳される)は、滑車とケーブル、てこの原理、複合材料など力学と機械的な
要素で組み上げられた近代的な弓とされた。実は複合弓は、弓の中に骨や金属が含まれ
、弓の弾きに相当な腕力が必要とされるものだった。しかし、このライザー弓は恐らく
土に弓の柄を突き足すもので、3人係りで弓を引いた逆弓構造だったと言われるものだ
。つまり、初期の投石器構造であった。M型に長く折り返しのある弦の中でV型の中央
の2本の弦の中に矢を置き、矢も又特殊で矢の真ん中辺りに、横に金属棒が短くあって
そこに弦を当てて、弦の糸を二人で引っ張って矢の羽根の後ろが、弓部に当たるまで引
いて離したのである。この仕組みは縦型だが横にすれば、ボーガンや投石器になった。
彼らは、マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、ペロポネソス戦争などの重要な戦闘
で目覚ましく活躍した。が、その内戦争が進化し、より熟練した軍隊が誕生したりする
と、従来の重装歩兵戦術は次第に影が薄くなり、騎馬戦に変化した。このギリシャ時代
の、陶片追放(とうへんついほう)の制度で市民が僭主の独裁者になる恐れのある人物
を投票により国外追放にした頃から次の古代ローマ時代は、逆に独裁者を希求した時代
を創る、古代ローマ軍団(レギオン)は、共和政ローマとローマ帝国の最盛期(およそ
紀元前3世紀から紀元5世紀)にローマ軍の中核となると。彼らは職業軍人として定期的
に給与が支払われ、十分な訓練と支給を受けた。

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/02(木) 15:24:46.88 ID:JVzC5ND6w
 海上の金貨 ・・・・099

 ローマ時代も軍団兵は、2mの投げ槍と重い剣を携行し、防具として兜、盾、胸当て
を装着した。同じ様に戦いでは横1列ごとに攻撃を仕掛け、槍を投げつけた後に剣を振
るって敵に襲いかかった戦法を行った。ローマ軍の敵に対する残忍さは、かなり強く、
伝説的にも、この残忍さを競って行わせた。又、軍団内部の欠陥に対しても容赦なかっ
た。「十分の一刑」と呼ばれる処罰では、違反をしたコホルス(歩兵大隊)の10人に、
1人を死刑にした。此の為、国の仕組みとしても、パンとサーカスの国とされるほど、
剣闘士の本物の死闘を見世物にした。その為、兵士たちは士気が高く有能だった。部隊
に同行する工兵は、長く続く道路、要塞、橋の建設に従事し、今日でもその遺跡が残っ
ている。当初は牛やライオンと 人間との闘いを見世物にしたが、その内政敵同志の、
公けな死闘ゲームまで見世物として 皇帝が認めたのであるが、それは、ずっーと後だ
。話をもどすと、ダレイオス大王が即位する以前に,ペルシアは、オリエント世界を、
統一していたが,ダレイオスの時代にペルシア帝国は,東は現在のパキスタンのあたり
まで西はギリシアのマケドニアにまでその版図を拡大していった。まさに超巨大国家で
あった。それに対し、アテナイはギリシアそのものが小さい上に、その中におさまった
国で、無数の都市国家に分かれている中の市民の数が数万しかいない小国家であった。
ハンセンによれば,「ペルシア帝国の予備兵のマンパワーはギリシアの20倍から50倍は
あり、支配下の領土は70倍〜100倍に達していた。」のであり このような「巨大な帝国
がとなりの小国を屈服させるのに失敗した例は、めったにない。」のであったのだが、
知恵と勇気と鉄剣で勝ったのであった。ここでローマ時代に移行する下地になった。

113 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/04(土) 08:30:58.41 ID:fYrBe1U+p
 海上の金貨 ・・・・100

 基本的にファランクス(盾の隊列戦法)は、激突正面に対し、衝撃力と殺傷力を保持
していたため、一旦乱戦になると転回機動は難しく、機動力を使った戦術としては、用
を為さなかった。そこで時代が下ると、会戦において数的劣勢にあった側はファランク
スに、改善と改良を加え、戦力を補完していった。テーバイの将軍エパメイノンダスが
使用した、斜型密集隊形はロクセ・ファランクス(loxe phalanx, 斜線陣)と呼ばれ、
レウクトラの戦いにて、勇名を轟かせたスパルタ軍を、数で劣勢にあったにも拘らず、
打ち負かした。実は、紀元前390年、アテナイの将軍 イフィクラテス(イピクラテス)
は、本来では補助戦力でしかなかった軽装歩兵(ペルタスタイ)を用い、レカイオンの
戦いでスパルタの重装歩兵を、機動力を活かして打ち破った。その経験を踏まえ、従来
の重装備の甲冑と短槍を装備したファランクスから、比較的軽装で、機動性を増した、
ベルスタイファランクスへと大きな軍制改革を行った。金属製の脛当てを廃止して、踝
までのブーツに変え、盾は、大盾から小型の盾を腕に装備するようにし、盾から紐を伸
ばして首にかけるようにした。鎧が、軽装になったことによる不利は、槍を3メートル
ほどの、両手で扱う長槍にかえて、リーチを延ばすことによって補完した。長槍を構え
ると、ちょうど盾が前を向くようになっている。この装備の変化は、後のマケドニア式
ファランクスに大きな影響を与えたと言われている。古代マケドニア軍は、縦深が8列
程度であった従来の密集方陣を改変し、2〜3m級の槍に対抗し、6メートルの長槍(
サリッサ)を持った歩兵による陣営で、16列×16列 の集団を1シンクタグマとして構成
させた。このシンクタグマが横に並ぶことで、方陣を形成させた。

114 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/04(土) 08:32:36.40 ID:fYrBe1U+p
 海上の金貨 ・・・・101

 何とも異様で重装備で歩兵に重い負担だが、このマケドニア式ファランクスの歩兵は
、イフィクラテスのファランクスの流れを汲み、対抗したと言われ、比較的軽装の鎧と
、首から架けて腕につける小さな盾を装備して戦っている。また、両手で長槍を支える
事ができるようになったのも効果が大きい成果を得た。しかし逆に言えばサリッサでは
、その長さと重さゆえに、両手でなければ扱えなかったのである。3年間テーバイで、
人質生活を送ったピリッポス2世は、軟禁生活で、試行錯誤して改良型ファランクスの
戦い方を勘案し、マケドニア式のファランクスを創始した。とも、言われている。マケ
ドニア式のファランクスが用いられた「カイロネイアの戦い」では、本隊の歩兵右側に
 常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突撃に勝る
ヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と、軽
騎兵が担当した。左翼で防御している間に、右翼での敵戦列破壊を行う。マケドニア式
のファランクスは、側面からの攻撃に弱い。しかし従来のファランクスを、圧倒した。
このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれる
。このマケドニア式のファランクスを以って、ピリッポス2世はアテナイ、スパルタ、
コリントス、等々の ギリシアの諸都市を打ち破り、彼の子アレクサンドロス3世は、
アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたのである。その後、マケドニア式のファランクスは、
アレクサンドロスの後継者の座を争った。そしてディアドコイ(後継者)に受け継がれた
。ディアドコイ同士の戦いは必然的に、マケドニア式ファランクス同士の戦いとなり、
彼らは、槍をさらに長くしたり、防御力を上げるために鎧を重装備にする。などして、
他より優位に立とうとした。

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