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【コント55号】玄和55【玄和会55号】

1 :名無しさん@一本勝ち:2020/06/26(金) 23:29:58.42 ID:bzC4jx650.net
玄和会スレッドも55まで伸びました。
2020年東京オリンピックで空手が正式種目となったものの、コロナ騒動です2021年に延期。
コロナのために稽古を数ヶ月できなかった方も多いと思いますが、稽古再開です!
論議も再開しましょう!

234 :名無しさん@一本勝ち:2021/03/29(月) 15:58:29.90 ID:u8fdMrh/U
227
>「中身がない」と思えるのは、お宅が中身を見て取れないから

お宅の考えは「それなのだ」とだけは述べておこう。

だが私のほうでは「中身がない」と思えるのは「中身があるとは如何なることかを知っているから」だと答えられる。

そうした「自分の中に培った「中身がある」という像を基準としてお宅の書いたものを判断したなら」ば、「この人間の書いていること、言語表現には中身が無い」と判断できるということでしかない。

自分が理解できない意味不明だということで「中身が無い」と判断しているわけでは全く無い。

235 :名無しさん@一本勝ち:2021/03/29(月) 16:36:17.07 ID:u8fdMrh/U
218の自由びと=不自由びと=奴隷びとetc. のソフィスト的な欺きが効を奏することがあるのは、日本には「雌伏雄飛」という言葉があるという現実だろう。
職人の世界だろうがサラリーマンの世界だろうが自分が主人公に非る「弟子」「生徒」という「教えを乞う立場」という時期がある。
自分で判断できないから「先生の生徒となって教えてもらう、指導を受ける」という立場である。
小学生や中学生といった義務教育課程や入社間もない新採用の社会人などがそれに当たる。

では「生徒」「弟子」とは「奴隷」なのか?
「新人として間もない右も左も分からない新卒の社会人」は「奴隷」なのか?ということだ。

これがヘーゲルの『精神現象学』ならば「主人と奴隷の弁証法」として「やがては主人に転化する存在」として実際にヘーゲルの時代に存在した「奴隷」を引き合いに出すことも的外れでは無いだろう。
そうした「主人と奴隷の弁証法」なる認識が「法の哲学」として法整備の方向に人類を進化させたとしても、21世紀の現代の日本で「個体発生は系統発生を繰り返す」とばかりに
昔の奴隷のように一人の国民を虐待することなど許されない。

その「許される領域」と「許されない領域」との分水嶺が「生徒、弟子」という言語表現と「奴隷」という言語表現との違い、「雌伏」という言語表現と「隷属」という言語表現との違いとして表されている。

236 :名無しさん@一本勝ち:2021/03/29(月) 17:11:09.40 ID:u8fdMrh/U
つまりは人類の歴史そのものが言語表現・概念を精緻なものに細分化したのであり、その精緻な概念による細かな言語表現の違いを小学生の頃から子どもたちは学校教育で身につけて行く。

それは多くの言葉を学んでいくという学びの過程を通じて。

しかし、そうした多様な概念を多様な言葉を学ぶことを通じて「潜在意識に刻みつけていく」という「人間教育」「日本人教育」があるからこそ、
私たち日本人は「何がどうとはハッキリとは言えないけれど何となく「違う」「変だ」と感じることが出来る」ものを
「南郷学派」というか「南郷氏の父権的・強権的指導」は「ハッキリとした言語による概念化」を求め、それが出来なければ自分に隷属することを求めるという
日本国内の日本国民として許された「自由権」を否定する方向に向かっていく。
それが生前の海保静子のヒステリックな罵倒指導であり、自分が結婚できない深層心理のストレスを他者にぶつけるという現実界への流出であった。
それは南郷氏においても同様で、嫁さんが大学教授、大学学長という偉い身分であったが故に「構ってもらえず」そのストレスを他流他派の空手家・武道家への罵倒
という形で発散したところに玄和会という団体の悲喜劇があった。

それを知っていた嫁さんである薄井坦子は学長退官後に「今までの手抜かりを挽回・取り戻さねば」と
旦那への奉仕に勤しむ毎日だとの真偽の定かならぬ情報もある。

237 :名無しさん@一本勝ち:2021/03/29(月) 17:45:33.13 ID:u8fdMrh/U
私がどうして斯様なことを述べるのか?

それは「弱者のための空手」という「落伍者、脱落者を作りたくない」との善意で作られた「理念」に反して
他の他団体に比べて南郷・玄和のほうが落伍者・脱落者が多い現実があるからだ。

「自分の意志で!」というならば自己の意志で判断できるだけの情報を提供するのが当然であるし、全ての情報を提示した上で「契約するや否や」を判断してもらうのが
社会人としての真っ当なやり取りであろう。

しかるに、そうした情報開示もせずに「私は真理を知っている」とばかりに「教えて欲しくば入会金と月謝を支払い然るべき年数(10年単位?)の修行をすべし」などとノタマウのは
日の光の当たる公の社会において如何なる地図上の位置であろうか?
学的地図の前に、そうした地図を描くのが「自分のために他人を振り回す」という「南郷王國」の君主としての欲求ではなく
「強くなりたい」「学力を向上させたい」という
身内・会員の夢実現のお手伝いをするという『試行』の連載開始時の理念を実現する道であったのだろう。

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