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【コント55号】玄和55【玄和会55号】

431 :名無しさん@一本勝ち:2021/06/23(水) 08:53:54.18 ID:FYdkTz7nF
まあ、多くの論者がいて多様な発言をしていくのは結構なことだから、南郷が個性的な武道論を説くことも戦後の現代日本では「表現の自由」なわけだけど。

それでもやはり、南郷の考え方は今も昔も武道に関する主流派の考え方ではなく、あくまでもマイノリティでオルタナティブな個性的な考えだということは確認しておきたい。

やはり、主流な考え方は、各流派・各流儀で武技として名前がついている立ち方や動き方、突き方、打ち方、叩き方、蹴り方は、それぞれがそれ自体で「技」であり「技術」だということで。

前屈立ちでの移動は長い距離を一気に縮めることを可能にする技・技術なのだし、背後から近寄ってきた敵に後ろ蹴りで対処するのも技術を知らず稽古したこともなければ出来ない動きなわけだから。

四方八方から攻めてくる敵に孤拳や裏拳、横蹴りや回し蹴りで対応するのも「技・技術」であり、動物や未開の土着民にそんな芸当は出来ない。

当然に、技・技術にはレベルの高低というものがあるから高い技術と低い技術とを区別する言語表現も必要だろうが、それは一般的には「習熟」という言葉が当てられているように思われる。

南郷が書いている「無意識で放たれる」というのは「習熟している」ということで、英語では「master」となるだろう。
つまりは「達人」だとか「師匠」を意味する「Master」に繋がる「習熟」だ。

ところが、ここを「習熟した技こそが真の技であって、それ以前は技ではない」などとハードルを上げるというか、言葉の範囲を南郷の個性のままに不当に狭くしてしまうと、非常におかしな事になる。

いわく「技でないものから技への技化」などという(笑)

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