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【コント55号】玄和55【玄和会55号】

553 :名無しさん@一本勝ち:2021/07/10(土) 16:30:25.20 ID:tIZF752Qc
禅で自己の体現を重視したのは道元で、それが「修証一致」という言葉に現れているのではないかと私は思う。

そもそもが「言語を使う」のが人間の特徴であるし、その人間の特徴たる言語を赤子の頃からの成長過程から抹消してしまったならば人間として成長できない。

他人の言葉を理解することもできないし、自分自身が言語を使って考えることもできない。
「考える」ということは「言語的なもの」だからだ。

ならば、どうして道元は「不立文字」という「文字を、言葉を立てるな」などと説いたのか?

しかも『正法眼蔵』などという「書物」つまりは言葉で綴ったものを残しながら。

そこから素直に受け取るならば「不立文字」というのは「禅の全体、隅から隅までの全部じゃない」と理解されるし、
それが道元の説く「修証一致」つまりは「修」とは言葉の世界ではないが、「証」とは言葉の世界であり、

その「言葉の世界でないもの」と「言葉の世界」とが一体となっていることを求めた、と。

「証」とは日蓮や親鸞も説いているように「証文」つまりは「悟りに至ったとされる者が書き残した経文」であり、
その先達=覚者の思考と一致することが「悟った」ことの一つの証明だと考えられたわけだ。

しかし、道元は経文=証文を理解するばかりでは不足だと説き、己の身を張って修行せねばならぬと説いた。

まあ、この辺は私の解釈であって、まだ確かな裏はとってないが(笑)。

だから、私が考えるのは、南郷が『武道講義』の「哲学編」で説いていたように、「時代の哲学」であるから如何なる時代背景でそうした言語表現となったのかも考えずに、数学の方程式のような時空を超えて普遍的に使えるものだと
切り捨て御免が許されていた時代の言葉を、
そのまま言語表現はそのままに、中身の解釈だけ変えて使うという論者が現れたということなんだろう。

なるほど、そうした人間は歴史的にも存在したな。お宅が強要するように、古い表現のまま指示対象だけ変わっているという事例が。
これは科学ではないな、何の分野だ?文学か?

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