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おいおい!! 中尾だ。おいは!

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:03:15.09 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   146

釈尊の生涯で、よく知られている事は、他でもない菩提樹(ぼだいじゅ)の下で、止め
られる事(住民の批判)を聴かず「さとり」を開いた事だ。仏教の言葉で「大覚成就(
だいかくじょうじゅ)」「無上の等正覚(とうしょうがく)を現成(げんじょう)」さ
れた。と言われる。これが釈尊の「さとり」であった。断食苦行の中で。「一麻一米(
いちまいちべい)」とされ一日一粒の麻、一粒の米の断食であった。この苦行には当時
のインドの人々の布施と言う物の少なさである。つまり人間には、色々の雑念や欲が起
こり、煩悩がある。それは修行にもある。すべて我々の肉体から起こってくるもので、
わざわざ修行に行かなくとも、ここに居てくれと拝まれれば、別にここで動かずとも、
修行となる筈。と考えたに違いない。肉体力を落としても、精神力が高まる。と考えら
れていたわけで、釈尊は、当時のマガダ(摩掲陀)の国のウルヴェーラー(優留毘羅)
という村でこの苦行に励んだ。現在のビハール州ガヤー(伽耶)の郊外にあたる。釈尊
はその苦行の中で、おかしいことに気付く。だんだん体力が弱まる中、精神の力は強ま
ると言う断食苦行をしているのに、肉体の力が衰えて、頭のほうも朦朧として考える力
もまた落ちてきている。釈尊は合理的にそのことに気が付き、方法が間違っていたのだ
と悟り、断食苦行を中止した。ただちに苦行を中止すると、その近くを流れるネーラン
ジャラー(尼連禅那)という河に入浴し、垢のついた体を清めた。ウルヴェーラー村に
住む娘さんから供養された食物(乳粥)を摂って、やっと体力を回復された。それから
、一本のピッパラ(畢鉢羅)樹のもとに草を敷いて座り瞑想を続けた。そのピッパラ樹
こそは、後世、菩提樹と呼ばれた。このピッパラ樹の菩提樹なるものは、クワ科植物で
日本の桑は小さいままだが、菩提樹のほうは、はるかに大きくなって、その木陰では、
あかるく、そして涼しいので、そこで休息して体力を回復され、深い思索に入られた。

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:04:17.12 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   147

 その姿は周囲から理解されませんでしたが、やめることなく何日も瞑想を続けました
。そして12月8日に、突然お釈迦様はついに悟りを開いた。とされる。この時釈迦様
は35歳になっていた。最期まで教えを説き続けたが、この釈迦が初めて教えを説く相手
として選んだのは、一緒に苦行をしていた5人の修行者でした。お釈迦様が苦行をやめ
たことを知っていた彼らには、当初その教えを拒もう。と考えていたと言う。しかし、
瞑想の末に「悟り」を開いたお釈迦様の姿や教えは彼らの心を動かし、考えを一変させ
る。5人全員がお釈迦様の弟子になったのだ。この時が仏教の教団が成立した瞬間だ。
と言われる。その後、お釈迦様は80歳で亡くなるまでの約45年間、仏教の開祖として、
人々に教えを説き続けた。その教えは年を経るにしたがい、誰にでもわかりやすいよう
に、また、実践的になっていった。こうして現在に残された書物では、お釈迦様には、
1000人以上の弟子が出来たことが判明しています。その中の代表的な10人が「十大弟子
」と呼ばれ、お釈迦様から絶大な信頼を寄せられていた。また、お釈迦様が亡くなった
後に、弟子たちが中心となってお経をまとめ、仏教を広めた。この中で、般若心経でも
おなじみの舎利弗(しゃりほつ)と目連(もくれん)は釈迦弟子の中でも特に優れてい
た。十大弟子の中の、「二大弟子」と呼ばれる人物だ。舎利弗は「知恵第一」と言われ
るほど優れた弟子だった。もともとはインドの思想家・サンジャヤの弟子だったが、こ
の釈迦様の弟子になって、すぐに悟りを開いた。一方の目連は「神通第一(じんつうだ
いいち)」と言われた弟子で、舎利弗の親友だった。舎利弗から誘われて釈迦の弟子と
なった目連は、「神通力」と呼ばれる能力でお釈迦様の説法の邪魔をする鬼神などを追
いやったり、餓鬼道(がきどう)におちた者を見つけて供養したりした。この二大弟子
によって仏教が大きく発展した。舎利弗と目連は、その後釈迦の後継者と考えられたが
残念ながら2人とも釈迦よりも先に亡くなった。

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:10:17.71 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   148

はじめて正覚を成就したまえる世尊、ある時、ウルヴェーラー(優留毘羅)村のネーラ
ンジャラー(尼連禅那)河の畔(ほとり)の菩提樹の下にまみえる。その時、世尊一度
、結跏趺坐(けっかふざ)したまま、七日間、解脱の愉しみを享けつつ座したもう。七
日を過ぎし後、世尊はその定より起って、夜の初分(午後八時ごろ)の頃、次の様に、
順序にしたがって、縁起の法をよくよく観じた申た。「これあればこれあり、これ生ず
ればこれ生ず。」と・すなわち、無明(無智)に縁りて行(意志)がある。行によりて
識(意識)がある。識によりて名色(個体)がある。名色によりて六処(六つの感官)
がある。六処によりて蝕(対象との接触)がある。蝕によって受(感覚)がある。受に
よって愛(貪り)がある。愛によりて取(取著)がある。取によって有(欲望的存在)
がある。有によりて生(迷いの生涯)がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂
・悩がある。このすべての苦の生起はかくのごとくであると。かくて、世尊はその所得
を知って、その時、このようなウダーナ(感興の偈)を唱えたもうた。まこと熱意を込
めて思惟する聖者に、かの万法のあらわとなれる時、彼の疑惑はことごとく消え去れり
有因の法を知れるが故なり。と・・「つまり我思うに我あり、此れ見るに此れあり」で
ある。「菩提品(自説経)」の経のいうところで、この経も又、「如是我聞」で始めら
れていて「かようにわたしは聞いた」という意味で書かれる。釈尊の説法は、比丘たち
がみんな、直々に聴聞したわけではなくこうした風評表文体で書かれる。阿含(あごん
)経は、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成
」という意味の写経である。最も古い仏教経典集(スートラ)で、初期仏教の姿を色濃
く反映し、釈迦の死後に教説を、迦葉や阿難の弟子達が何回かの結集を経てまとめられ
、経蔵とされる。他方、守るべき規則は律蔵としても別にまとめられた。一般に紀元前
の4〜1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている。

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:11:47.26 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   149

釈尊にとって何よりも考えてみなければならぬことは、それは苦というものでありまし
た。なんとなれば、釈尊が、その出家以来ずっと胸奥に抱いていた課題は、この苦行の
問いかけであった。と思われます。では、その苦の問題について、釈尊はどのように考
えたのか。それは、この経文が、つづいて述べている。ながながしい連鎖の続きである
が、かれは、思想によって「苦」の分類を果たして説くのである。いわく、
「すなわち、無明に縁りて行がある。行によりて識がある。識によりて名色がある。
名色によりて六処がある。六処によりて蝕がある。蝕によって受がある。受によって愛
がある。愛によりて取がある。取によって有がある。有によりて生がある。生によって
老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。このすべての苦の生起はかくのごとくである
そこに、「此れあれば此れあり、それ生ずれば、これ生ず」という公式をあてて説明を
する。その生起の条件を順次に思いめぐらしてゆくと、そこには、無明(むみょう)・
行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・蝕(そく)・受
(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)という
、十二の条件が順次に連鎖をなしている。と考えられたのであります。それが、いう処
の十二縁起、もしくは十二因縁と称せられる処のものでありまして、そのような条件の
連鎖によって苦が生起するのだ。と称せられたのであります。「無明・行・識・名色・
六処・蝕・受・愛・取・有・生・老死」である。つまり、人は「見てない、思って無い
、考えてない、感じてない。知り得ない、触ってない、受け取らない、愛さない、生き
てない、死んでない。」ってものは気に留めない、知るから苦しむんである。と、言う
のである。という恥をどこに置くのか。と問うたのである。ここで六処とは人の五感の
事と思えばよい。つまり苦しみは自ら受けるから苦しみである。と説いたのだ。教団は
その後、三宝帰依者を中心とし、身分・性別を問わず、数多くの弟子を養成していく。
また、生涯にわたって全インドを巡錫し、国王をはじめ多くの在家信者を教化し、後代
、仏教は世界宗教となり、東洋文明の源流となった。

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:13:21.30 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   150

 アーナンダ(愛弟子)の彼の出身は仏典によって諸説あり一致しないが、一般的には
釈迦の従弟で、様々な仏典に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれているという
デーヴァダッタ(提婆達多)の弟と言われている。彼は、釈迦が成道した夜に生まれた。
といわれ、大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)
が、釈迦の実父であるシュッドーダナ王(浄飯王)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知
らせた時、父、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられた。と俗
説が伝わる。また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられた。ともいわ
れる。彼も阿那律(アヌルッダ)などの 諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった
。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれている。(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者
の説もある)『仏本行集経』によると、出家する時には、釈迦仏から許しを得ず、阿難
と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就
いて出家して、具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となった。とされてい
る。又、彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あった。と言われ、志操堅固にして
身を護り修行を全うしたと伝えられる。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を
摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には、
未だ有学の人であり、阿羅漢果(煩悩を断ち、涅槃の境地を得る最高位)にいなかった
と言われる。デーヴァダッタの属していた集団は、悪人の集団と表記されている。伝説
にあるような悪行をなしたわけではなく、ゴータマの方針とは異なる方針を持っている
異端者の集団というくらいの意味であったともされている。デーヴァダッタ(釈迦)は
当時の遊行の沙門達が守るべき厳格な禁欲主義で、林野に住み、托鉢のみ、糞掃衣のみ
、屋根のある家に住まない、魚や肉を食べないという、ゴータマの方針(定住生活に移
行)とは異なる五つの法則を定め、自ら従ったとされる。それを支持した遊行の沙門達
と共に集団を形成したようである

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:21:44.99 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   151

 この頃は、バラモンから来た四諦思想(したいしそう)を説くのが聖者とされていた
。四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を、教義的に組織したものであり、原始仏教の中
の教義の大綱が示されているとされる。原始仏教の経典にかなり古くから説かれ、特に
初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視されている代表的教説とされた
。四諦はブッダが最初の説法で説いたとされている初転法輪の因果応報の大原則である
。四諦(したい、梵:チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい
、巴: チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、)は4つの・聖なる・真理とされ、仏教
が説く4種の基本的な真理の。苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)
、道諦(どうたい)の輪廻を説く。四真諦や苦集滅道の法則とされる。苦諦(くたい)
は「迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実」。集諦(じったい)は、
「苦の原因は煩悩・妄執、」で「求めて飽かない愛執であるという真実」とされる。滅
諦(めったい)は「苦の原因の滅という真実で。「無常の世を超え、執着を断つ」こと
が、苦しみを滅した悟りの境地である。と教える。道諦(どうたい)は、人が「最後に
行き着くべき悟り」に導く実践という真実で、この悟りに至るためには、八正道による
べきである。と説くのだが、ここに苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦
と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す事で、仏教と言われた原本がある。四諦は概ね
、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したもので、原始仏教の教義の大綱が示されて
いるとされるのが、この曼荼羅の絵図である。八正道(はっしょうどう)はすなわち、
(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)を説くものである。ここに、
拝火教の 八柱の正義の戦いの変形を見る思いである。これがバラモンを飛び出ての、
仏教曼荼羅に釈迦の輪廻像や如来世界(天上界:あの世)菩薩界(具象界:この世)と
仏性世界(奈落界:地獄)との境界を作っていた。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/10(金) 13:46:40.53 ID:EnY/oW9Gz
イスラム社会のコーラン   152

 釈迦が落ち着いた尼連禅那(ヴァーラーナシー)は、インドのウッタル・プラデーシ
ュ州、ヴァーラーナシー県の都市とされる。同県の県都でガンジス川沿いに位置しての
バラモンの一大聖地として、インド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集める。
インド最大の宗教都市で街の郊外には、釈迦が初めて説法を行ったサールナート(鹿野
苑)もある。また古くは「カーシー国」と称され、波羅奈国とも言った。重要な聖地だ
。、カーシー王国ではヴァーラーナシーを首都とし、釈迦より以前の時代には十六大国
中最大の勢力を持った国であった。紀元前には、インド初の統一王朝となるマウリヤ朝
が成立しシヴァ神崇拝が旺盛を極めていたが、カリンガでは破壊神を崇める事は無かっ
た。カリンガ地域は、マウリヤ朝に対する戦略的脅威でもあった。マウリヤ朝の生活物
は、首都パータリプトラと中央インド半島のマウリヤ朝所有地の生産物輸送で成り立っ
ていて、その交通要所にあった。妨害の可能性は少なかったが。カリンガは宗教が違い
、ベンガル湾での殆どの貿易商の街で、使用される港湾や海岸線を実行支配していた。
インド歴史でアショカのカリンガ占領ほど、その激しさや結果にとって重要な戦争は、
なかった。人類史の中での戦争で、勝利者の欲求不満の残酷なものの中、その後模範的
な信心に変えたろう闘いは存在しない。計り知れない古旧の歴史上から、世界は、この
戦争に等しい物はないと言われている。そしてこれより大きい単一の戦争も又ないかも
しれない、その文物のから、当時の戦争の姿を ほんの少し見つける事が出来る。人類
の政治史に実際に戦争の歴史があり、カリンガ戦争ほど下らない欲で、戦争で荒廃した
街もなく、その後全体の平和の使命が成功した物もない。これまでの戦争で終わっての
平和は、第二次世界大戦後の日本の復興とこのカリンガ戦争ぐらいしか見る事はない。
アショーカ王の治世の8年目に起こり、おそらく紀元前 262年に彼自身のアショーカ王
碑文の建立の頃に完了した。カリンガは歩兵、騎兵、象部隊と、強力な軍隊を持ってい
た。

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 01:04:05.24 ID:XE2opx5c0
イスラム社会のコーラン   153

 戦いの地オリッサ州はベンガル湾に臨み比較的住みやすい所で、バングラデシュに近
い。ほぼ東西のインドに交易できる中心場所だ。ここからはアジアにも海を経て簡単に
行ける所になる。インド北部と南部をつなぐ地域であり、諸勢力の征服を受けていた。
5世紀末に成立した東ガンガ朝で独自の文化が形成され、オリッサ文化が栄えた。その
後ベンガル、デカン、南インドに進撃して行き、この王朝は栄えたが、16世紀後半の
ムガル帝国時代に、オリッサは支配下に置かれることとなる。19世紀初頭からは今度
はイギリスの統治下におかれた。こうして東インド会社の主要な都市に発展した。仏教
保護者として「カニシカ王」が共に並び立てられるが、カニシカ王はあまり良く解って
はいない。ホータン出身での王でカニシカが王位を得た後に根拠地としたのは、北西部
のインドでありアフガンであった。とされる。彼は北西インドの都市プルシャプラ(現
:ペシャーワル)を首都とした時代だ。カニシカは一族郎党を引き連れて、夏はアフガ
ニスタンの草原へ、冬はインドの平原へ移動した民族の長だった。地方の有力者を従属
させ、「王の中の大王」として君臨したとされる。東部領支配に今日のデリー近くの、
マトゥラーを副都とし活動した。マトゥラーのマート遺跡から出土したカニシカの立像
は、中央アジア風の外套をまとい、ズボンを履く。フェルト製の長靴を外套裾には、「
大王、『王中の王、天子、カニシカ』」の銘文が残る。カニシカはガンジス川を下って
遠くインド東部地方にまで勢力を拡張することを目指した様だ。ネパールのカトマンズ
やガンジス川中流のサールナートを支配下にいれて、パータリプトラ近辺にまで迫った
。カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されてはいるが、これが征服の
痕跡であるのかどうかは不明である。一方で仏典の記録には、カニシカはパルティアと
戦って大勝利を収めたとする記録がある。それによれば、当時のパルティア王は、甚だ
凶暴であり、クシャーナ朝の領土を侵略したのでこれを迎え撃って勝利し、パルティア
人を9億人殺したという。明らかに誇張であるが、またパルティアとは国境を接してい
て、当然紛争はあったらしい。カニシカの対パルティア戦の実態もよくわかっていない。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 01:08:59.67 ID:XE2opx5c0
イスラム社会のコーラン   154

 パルティアとは紀元前247年〜紀元後224年の頃のイランだろうとされ、古代イランの
王朝の名とされる。王朝の名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれ、日本語
では、しばしば「アルサケス朝パルティア」という名前でも表記される。前3世紀半ば
に中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国された。
欧州に蔓延ったミトラ教の発祥地で、ミトラダテス1世(ミフルダート1世)の時代に
以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、
パキスタン西部にあたる西アジアの、広い範囲を支配下に置いている。前1世紀以降に
、地中海世界で勢力を拡大するローマ帝国と衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポ
タミア、バビロニアの支配を巡って争った勢力である。末期には王位継承を巡る内乱の
中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年〜240年)によって滅ぼ
されたとされる。新たに勃興したサーサーン朝ペルシャに取って代わられた。ミトラダ
テス1世は、シリアに本拠地を置くセレウコス朝から、ユダヤ発祥の「メディア王国」
と、人類最古の都市メソポタミア、続く隣国バビロニアを、騎馬隊で奪い取りその領土
は大幅に拡大していった。最盛期は、その支配はユーフラテス川の北のトルコ中央東部
から、東はイラン高原にまで達している。パルティアの支配地は、地中海のローマと、
中国の漢朝の間の交易路であるシルクロード上に位置し、交易と商業の中心となった。
 こうした中、パルティア人は様々な地域的文化を持つ領域を支配して、ペルシアや、
ギリシア、そして更に各地の文化から、芸術、建築、宗教的信条、王権観などの様々な
要素を吸収した。アルサケス朝の治世は、宮廷はギリシア文化の要素を強く採用して、
王達は「ギリシア愛好者」という称号を、コインに刻んだ程だった。そして時代が進む
につれイラン的伝統が徐々に復活した。アルサケス朝の支配者はかつてのアケメネス朝
やセレウコス朝の王たちと同じく「諸王の王」という称号を帯びた。アルサケス朝内の
勢力が拡大すると、中央政府の拠点は「ニサ」からティグリス河畔の「クテシフォン」
(テーシフォーン、現在のイラク、バグダードの南)に移されたが、他の複数の都市も
首都と同じ機能をしていた。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 01:21:14.35 ID:MidFWXv3s
イスラム社会のコーラン   155

アレクサンドロス大王の死後には、彼の大遠征がもたらしたシルクロードの行程行路で
あった。後継者の一人とされるセレウコス1世により王朝が誕生し、これを束ねたのだ
。イラク、シリア、アナトリア、イランにまたがる広大な王国は、各地を支配していく
。しかし、その支配に不満を持っていた遊牧民ダーハ族の長であるアルサケス1世(正
確な出自は不明、死亡は紀元前211年頃)は、自分達の領土のオアシス国家の有料化に
腹をたて、パルティア住民の兄弟や盗賊たちと共に現れて、この税の取り立てに民衆を
扇動した。アルサケス1世はセレウコス朝の、パルティア総督であるアンドラゴラスを
襲撃し、彼を殺害しパルティアを奪還し、アルサケス朝パルティア王国を建国する。し
かし、アルサケス1世に悩みがあった。西のセレウコス朝と、東のバクトリアという二
つの超大国の敵対国家に挟まれて存在していたからだ。軍備増強していたバクトリアの
王ディオドトス1世を、アルサケスは警戒した。が、ディオドトス1世の死を契機に、
バクトリアとの同盟を結ぶことに成功した。東の脅威を解消したアルサケス1世は、西
にあるセレウコス朝だけを敵にすれば良くなったのだ。紀元前 227年頃、セレウコス朝
と会戦し、その王であるセレウコス2世を撤退させることに成功、イランの土地を掌握
することに成功します。アルサケス1世はこうしてパルティア王国の基礎を築き彼以後
のパルティア王はアルサケスを称号として使うことになるのでした。こうしたアレクサ
ンドロス大王以降のローマ帝国、更にこのパルティア王国のアルサケス1世時代などが
大きく、仏教やキリスト教やイスラム教の草創期時代を作っていくのである。在位紀元
前171〜紀元前138年)パルティア王国は全盛期を迎えてイラン・イラク・シリア方面を
領土にして強国となっていく。かつては敵であったギリシャ文化を受け入れ、パルティ
ア王国の独自貨幣に「ギリシャを愛する」という刻印を記す。又、ミトラやアフラマズ
ダなどイランの神々さえも、ギリシャの神々の姿で貨幣に刻まれるのだ。これはギリシ
ャ文化だけでなく王権や法律などの統治のための仕組みや、掌握したイラン・イラク・
シリア各地の宗教観、芸術、建築様式などを受け入れていく土台があった事を示す。

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 01:50:59.58 ID:XE2opx5c0
イスラム社会のコーラン   156

 アルサケス1世の出自は明らかではない。一説に彼はバクトリア人でバクトリア総督
(サトラップ)ディオドトスの支配に不満を抱き、パルティアに侵入して巧みに住民を
扇動し、反乱を起こさせたと通説にはなっている。バクトリアとは、サマルカンドなど
との中央アジアにおけるイラン系民族の居住地で、砂漠と言うよりは険しい山々の地で
通常の草原では、羊やヤギを飼うのだが、彼らは馬を飼って通行していた。勿論山羊も
飼っていたろうが、急峻な山間の生活では水と洪水が大問題である。従って同じ遊牧民
でも、平原の民とは違った部族だったと言える。このペルシア文明に大きな影響を与え
民族であろう、ゾロアスター教の開祖のゾロアスターも、古くからバクトリアの人だと
いう伝説の中にある。ザラスシュトラ(ラクダを扱う者)が語源の英語から馬でなく、
ラクダだったのかも知れない。ゾロアスターなので、拝火教とされる中この「ラクダの
住民」の意味もあったろう。この人の身体に羽根があるので鷹なども飼ってたかも知れ
ない。古来からの拝火教が廃れて無くなったのは、二親等の近親結婚を奨励し 火を崇
めて、風葬や鳥葬を起源にしていたからだとされる。つまり他民族の繋りや縁戚になる
事を、頑なに拒否した宗教だったのである。嫁を娶るも婿を取るも家族が改宗して出来
るほどの、宗教だった。よくイラン人のゾロアスターと言う人間がいる様に言うが、そ
れは違っている。拝火教は、紀元前6〜4千年頃に既にあったとされ、少なくとも遺跡
上は紀元前二千〜一千五百年前の出土品に書かれている。つまりエジプト文明より古く
からあって、アフリカやエジプトにもその痕跡が出土しているのである。まあ 諸説が
混在し不明な事も多いが、少なくともアケメネス朝時代にはバクトラがゾロアスター教
の中心地の一つであったことは明らかであろう。また、ゾロアスターの名がつく年代に
ついても諸説ある。古いペルシアの伝説では、ゾロアスターはアレクサンドロスの侵入
よりも早く、258年前の人だとされている文献もある。彼は70歳で死んだといわれている


12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 05:26:26.87 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   157

 もしこの伝説をとるならば、紀元前6世紀ごろの人物であるといえる、この時代には
ちょうどアケメネス朝の初期にあたる。つまりかれはアレキサンドリア図書館の頃の、
拝火教の編纂者と言う事になる。ラクダは良くは知らないがレースを見る限り馬よりも
早く、山羊や羊より暴れ者で、牛より飼いならせる類のようだ。こうして領土拡張し、
勝って行ったのは、遊牧民で、騎馬民族としてラクダを多く飼っていて、山岳ラクダが
いたからだろうと思われる。ラクダには牛や馬は逃げていくし、ラクダの走りも相当早
く、牛の様に乳が取れ、砂漠を超える事ができた。パルティア王国は後代にはイラン文
化の復活が進んで、中国(漢)とのシルクロードの交易地を掌握した。交易と商業の中
心地となって大きく発展した。中国は古来より織物や皮の加工やべっ甲絹製品にお茶な
どが特産品として高価で売買された。更に香辛料や漢方薬があり、乾燥フルーツや、塩
と同じに少量で高価なものが移動したようだ。パルティア王国の 中国からの呼び名は
「安息」であり、中国にまで知られるほどの広大な範囲に影響を及ぼしていた強国であ
った。ここに安世高(あん せいこう)が、後漢代に西域から渡来した訳経僧がいる。
安息国(パルティア)の太子であったとされ、王位を伯父に譲って、出家 修道に志し
、諸方を遊歴したという。部派仏教時に「説一切有部」が流行していた。世高は禅観の
法や阿毘達摩に通じていた。阿毘達摩(あびだるま)は三蔵の「尊い教えの中心書三蔵
」を意味する。桓帝代の建和2年(148年)に洛陽に来朝しその後、20年にわたっての
訳経を行い、34部40巻の部派仏教系経典を漢訳した。後世の僧は、「幅広く経典を修め
、中でもアビダルマの学問に精通しており、禅に関する経典も暗誦し、その綱要をほぼ
了解していた。」と評している。(出三蔵記集巻13)。『高僧伝』巻1の記述では霊帝
時代の末期に関中・洛中に騒乱があり、避けて老齢の身で江南に移った。会稽郡に辿り
つき、たまたま、市に入ったとき、市中の騒乱に出会って、世高は誤って頭を打たれて
死亡したという。『魏書』巻30の記述では、世高の子孫は、西晋のころに騒乱を避けて
遼東に移住し、そのまま家をなしたといわれている。

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 05:26:59.81 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   158

 仏教経典では、釈迦の説法は、単純に言えば、三蔵を構成する仏法の、律(ヴィヤナ
)、経(スートラ)、論(アビダルマ)の三つを取得して人は成長し涅槃を成す。とい
われる。これらの中の「アビダルマ」をまとめたものを「論蔵」と言うが、根本論理で
。律は自分が従うべき決まりであり、経は日頃の行うべき呪文である。その意味では、
論は正義や人生の意味とされる。安息国(パルティア)人が真理の追究に転じてかなり
に頭がよく悩んだ性格だったのかも知れない。このパルティア王国も、ローマ帝国との
対立をする。パルティア王国のライバルだったセレウコス朝は、その後ローマに滅ぼさ
れることになってしまうが、その結果において、西アジアの覇権を巡る対立の構図は、
パルティア王国対セレウコス朝から、パルティア王国対ローマ帝国という形へと変化し
することになったのです。パルティア王国とローマ帝国は各地での紛争や、傀儡国家を
打ち立てて、事実上の植民地王を任命しようとし、擁立を巡る政治闘争を繰り広げる。
さながら、古代の世界大戦であった。西アジアで勢力を拡大していった両者は、やがて
直接的な軍事衝突を行うようにもなった。紀元前53年、第一次パルティア戦争と言われ
る、マルクス・リキニウス・クラッススによる大遠征して、カルラエの戦いをやるが、
ここでパルティアが勝利を収めて以来、西暦217年 、第八次パルティア戦争での、カラ
カラ帝率いるローマ軍が、アルタバヌス4世をたてて撃退した戦いまで、イエス誕生期
に、ローマの衰退まで続いている。ギボンの書では、カラカラの治世を「人類共通の敵
」と罵倒するが、暴政が本格化してるのは東方属州移住した 213年からで、従って彼の
横暴を受けたのは殆どは、東方属州の諸都市・諸地域であった。カラカラの残りの治世
はこれらの地域に対し、略奪と虐殺に費やされた。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中
で「カラカラ帝は近衛兵を従えて不満を押さえ込み、元老院議員達は粛清を恐れて皇帝
の気分を損ねないように機嫌をとる日々を送っていた。と書いている。

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 05:38:04.94 ID:MidFWXv3s
イスラム社会のコーラン   159

 まあ〜〜人類の紀元時代には、随分と辛い時代だった訳で、ローマの暴君も流通通貨
が不足していたので 略奪や戦争それに虐殺や放火になったのだろう。と言う学者もい
る。だが、それらの事でアレキサンドリア図書館の書物がローマ兵の飯炊きや暖を取る
為の薪木や火付けにしかなってないのは、まさに「豚に真珠」「馬の耳に念仏」である
。その後、カニシカ王の時代がやってくる。クシャーナ朝時代にはガンジス川中流域、
インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となっていたが、彼の治世の後半
以降、クシャーナ朝に関する記録は、全く乏しく、その歴史の詳細は分からなくなって
しまう。カニシカの死後に、おそらく息子であるヴァーシシカが王位を継いだろうとさ
れてはいるが、カニシカの在位年については長く議論されてきている。現在に至るまで
定説と呼べる物は無い。年代推定の根拠となるのは、以下のような点である。
…『後漢書』には西暦125年頃までのクシャーナ朝の事情が記されているが、この中で
カニシカ王に全く触れられていないことから、カニシカの即位は125年より後であった。
…コインなどのクシャーナ朝の遺品の研究からカニシカの治世がヴィマ・カドフィセス
より後であると考えられること。この点はラバータク碑文にヴィマ・カドフィセスが、
カニシカの父であるとする記述があったことからも裏付けられた。
…『三国志』の記録に魏の太和三年(229年)に大月氏王波調(ヴァースデーヴァ)の
使者が訪れたという記録があること。などである。カニシカ王は、紀元74年から98年頃
がヴァースデーヴァの治世であった。とされて、前後にもっと長い可能性もある。考古
学的にみても、このインドやペルシャも又占領地になったのだろう。ここから逆算して
カニシカ紀元の第1年が西暦168年より前であると推定されている。つまりイエスの時代
だったろう。と言われるのである。この時は、アショーカ王碑文が、紀元前3世紀に王
が石柱や摩崖(岩)などに刻ませ建立した詔勅が見えてた中にムハンマドが登場している

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 05:39:25.18 ID:MidFWXv3s
イスラム社会のコーラン   160

 その後のイスラムやモハンマドも多くの事をこの碑文から学んでいたはずである。も
し、インド・ネパール・パキスタン・アフガニスタンにまでも商隊として行っていたな
ら、現在のインド・ネパール・パキスタン・アフガニスタンに残っているので、彼も又
この掟に従って商売を成したり、或いは商隊の仲間や部下の意識もその中にあった筈だ
。インダス文字を別にすれば、アショーカ王の法勅はインドに現存する文字資料のうち
ほぼ最古で、当然文字だから当時はパピルスにも記述があったと考えられる。この碑文
の中にはアージーヴィカ教(またはアージーヴァカ教とも)が出て来る。古代インドの
宗教の一つで、マウリヤ朝のアショーカ王碑文に仏教、バラモン教、ジャイナ教と並ん
で「アージーヴィカ」の名前が出ていて旺盛を極めていたらしい。仏教やジャイナ教と
同時期に生まれた宗教で、一時期はバラモン教やジャイナ教、仏教などと並ぶ一大宗教
であった。マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という、
運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた宗教だった。さらに、意志に基づく行為や、
修行による解脱をも否定している点に特徴がある。エローラにあるローマス・リシ窟(
前3世紀の石窟寺院)はアージーヴィカ教徒のためのものであったらしい。南インドに
おいて13世紀までアージヴィカ教の信徒がいたことが、碑文によって実証されているが
、その後全く姿を消し現在信徒はいない。この碑文の石柱は摩崖よりも時代が新しく、
バラナシ近郊にあるチュナールの採石場で造られ、北インド各地に運ばれた。柱の高さ
は12-15mていど、重さ約50トンの砂岩でできている。柱の上に元は獅子・象・瘤牛・馬
などの動物からなる柱頭が置かれていたが、現存するものは少ない。サールナート石柱
をかつて飾っていた四頭の獅子からなる柱頭をもとにインドの国章がデザインされた。

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 11:22:20.76 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   161

 アージヴィカ教は、仏教、ブラフマン教(バラモン教)、ジャイナ教と並んで名が刻
まれ、古代インドにおいて、四大宗教のひとつに数えられている。他の碑文によって、
十三世紀まで存続していたことがわかっている。ジャイナ教と 仏教の記録によれば、
アージヴィカ教の成立は古く、ジャイナ教開祖マハーヴィーラと、仏教開祖ガウタマ・
ブッダのふたりと同じ時代に生きていた。アージヴィカ教の指導者はマッカリ・ゴーサ
ーラであった。マッカリ・ゴーサーラは、マハーヴィーラのもとで修業を積んでから、
アージーヴィカ教の指導者になったとされる。ジャイナ教と仏教の記録では、マッカリ
・ゴーサーラはマハーヴィーラとの宗教対決があって、呪術戦に負けガウタマ・ブッダ
との呪術戦にも負けている。ジャイナ教の記録でマハーヴィーラとの呪術戦でマッカリ
・ゴーサーラが命を落とした。とあり、仏教の記録でガウタマ・ブッダの入滅時には生
きていた。とあることから、ガウタマ・ブッダの入滅後にマッカリ・ゴーサーラが亡く
なったと考えられる。アージーヴィカ教の教義は、「ニヤティ(宿命)」によって全て
が決まっているものとして、輪廻のカルマ(業)は、無因無縁で存在しない。という。
したがって、仏教の「行いによってカルマ(業)が決まる」という考え方を否定した。
では、なぜ輪廻するかというと、すべて決まっている宿命で、「八百四十万大劫。」と
いう計り知れない年月を輪廻して清められる為という。それなきにして、カルマ(業)
を清めることは不可能だとされる。そのため、すべて決まっている宿命のなかで、行い
に善悪はないと説く。しかし、それでも、アージーヴィカ教では 苦行は推奨された。
それは「ニヤティ(宿命)」によって、本人の意思に関係なく清められるものを、苦行
によって早めることができるとしたからだ。心、言葉、身体によるすべての行為が消滅
するよう食事を減らしていき、最終的に飲まず食わずで死に至る「スッダーパーヤナ」
によって、「八百四十万劫」の輪廻が終了するという。日本の籠り成仏である。

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 11:24:37.65 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   162

 マッカリ・ゴーサーラは、釈迦の活躍した時代に仏教・ジャイナ教と並んで有力だっ
た「裸形托鉢教団アージーヴィカ」を主導した自由思想家とされ。六師外道のひとりで
厳格な決定論を説いた。御釈迦様の仏教教団では、彼を最も危険で下等な教えであると
断じていた。マッカリ・ゴーサーラは、巡礼者であった両親が牛舎のなかで雨季を過ご
していたときに生まれた。とされている。成長したゴーサーラは、ジャイナ教の宣教師
ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)の弟子として、彼のもとで修行し、苦行に勤しみ、
呪力を身につけて、アージーヴィカ教の指導者になった。という。仏典やジャイナ教典
によれば、ゴーサーラは強力な呪術師である。「呪術の火(恐らく護摩行)」によって
弟子を失ってしまった。この弟子はマハーヴィーラとのあいだの呪術試合の後に死んで
おり、これはマハーヴィーラの呪力に敗れたことを意味したとされる。ミルチア・エリ
アーデは、これを紀元前485年から紀元前484年に起こった出来事だと推定している。そ
の後も、ジャイナ教の伝説によれば、ゴーサーラはマハーヴィーラと激しい論戦の結果
、没したとされる。これは、十六大国のうちで最も強力だったマガダ国の王アジャータ
シャトル(阿闍世王)がヴァッジ国に対し戦争を起こした年にあたり、この戦争では、
ブッダの最期を告げる『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』(涅槃経)に準備段階と
して登場する。このことから、ゴーサーラの没年はブッダ入滅の数年後と考えられる。
仏典の1つ『義足経上異学角飛経』上では、彼は他の五人の外道と共に語らい、舎衛城
(しゃえいじょう)で釈迦と神通を競ったが敗れたとある。舎衛城はコーサラ国一番の
商業都市で北を単にコーサラ国と呼び、南を南コーサラ国と呼ばれる程中心地であった
。「どんなものでもある」とされて、舎衛城と名づくともいわれる。一般的には南方の
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の名で日本では言われる。マッカリ・ゴーサーラはこのコ
ーサラ国のバラモンのゴーバフラの家の牛舎で生まれた。と言われ、父の名はマンカリ
と言い、母の名はバッダで、ジャイナ教の伝承によると、彼の父は禁欲主義の行者であ
ったと言われる。

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 11:26:07.79 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   163

 思想的にはマッカリ・ゴーサーラとその教団アージーヴィカは、仏教徒やジャイナ教
徒からの攻撃を受ける程の異端で、清貧裸体僧であった、その教典も現存していない事
で、教義や実践については死後に焚書とされたと考えられ、再構成は、仏典やジャイナ
教典に引用された断片によって、推測され至難の業である。しかし、その宗教活動は、
かなり古い時代からの運動だとされており、仏教やジャイナ教の成立との比較しても、
幾世代にもさかのぼりうるもので、かなりの昔に成立していたとされている。ゴーサー
ラの言動では、生けるものを構成している要素は「霊魂、地、水、火、風、虚空、」と
「得、失、苦、楽、生、死」の12種類の実体を掲げている。このうち「得」以下の6要
素は、これらの名で呼ばれる現象作用を可能ならしめる原理として、は何であるかを、
考慮しこれを実体化したものである。という。ここでは、霊魂もまた物体と同様に把握
され、すべての元素、また動植物などいっさいの生物にもそれぞれ霊魂が存すると主張
している。例えば霊魂+虚空=死 や 霊魂+水=失 地+水=得 などである。宿命
論を説き、「業(ごう)」をゴーサーラは否定する。万物は細部にいたるまで支配する
原理であるニヤティ(宿命)によって定められている。と説いた。つまり人間の意志に
基づくあらゆる行為を否定して徹底的な宿命論を説いたのである。その主張の本質では
「人間の努力は無駄である」というもので、ブッダやマハーヴィーラによっジャイナや
仏教から厳しく批判されたのだった。アージーヴィカ教によれば、いっさいの生きとし
生けるものが輪廻の生活を続けているのは「無因無縁」で、彼らが清らかになり、解脱
するのも無因無縁である。言い換えれば、存在には堕落する原因や動機というものはな
い。原因も動機もなしに堕落するし、存在の純粋さも動機も無しに成就する。そこには
原因や動機はなく、これらなしに存在は純化され得る。とし、この思想は仏教思想の、
根本縁起の説とは真っ向から対立した。ゴーサーラと、父は彼が生まれると、後継者と
すべく育てた。という。一方、仏典『サッマンナパーラスッタ』にブッダゴーシャの註
釈では、彼は奴隷であり、使役から逃れる為に行者になったと言う話である。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 11:28:13.52 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   164

 生きとし生けるもの(衆生)には、支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況
と本性とに支配され、いずれかの状態において苦楽を享受する。つまりは、人が同じ事
で、何をしても結果が異なることがあるのは、運命による物なのであり、行為その物に
は運命を変える力がなく、行為それ自体に善悪もなく、それに対する報いもまた 存在
しない、と説くのである。意志にもとづく行為は成立しえないのであるから、輪廻する
物のあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯(六道)を辿って清められ、やがて
解脱にいたる。「840万大劫」とよばれる計り知れない長大な年月のあいだ、賢者も
愚者も流転し輪廻して苦の終わりに達する。その期間、修行によって解脱に達する事は
、不可能である。ゴーサーラは、あたかも糸玉を投げると解きほぐされ、糸がすっかり
解け終わるまで転がり続けるように、賢き者も愚かな者も、定められた期間の間は生々
流転をつづけ、最後は何の努力もなく、自然に解脱に至るのだ。と主張した。こうして
ゴーサーラは、当時、汎インド的に信じられていた「業」の思想を否定し、行為以外の
もので何もかもが結果を決定している。とし、それは神ではない。とした。神では結果
の多様さ、特にその不幸な状態を説明できない。それはまた、自然の本性でもない。又
、仏教などが説くカルマ(行為の結果)でもありえず、「宿命」(ニヤティ)と呼ぶ、
他にないものであり、人は宿命との合一がなされたとき成功するのであり、宿命のみが
人の幸福や不幸のありようを説明するのだ。と説いた。アージーヴィカは、宿命を説く
一方で、苦行の励行を義務づけている。これは矛盾する様に見えるが、アージーヴィカ
教徒にとって、解脱は「転がされた糸玉がすっかり解け終わる」と比喩されるように、
心、ことば、身体によるすべての行為が消滅することであり、それは、半年にわたって
飲食を減らしていき、最後は何も飲まず、食せずして死に至る「スッダーパーヤナ」と
呼称される苦行によって現実化する。と考えられていたのである。つまり自ら餓死を選
ぶのが修行であり、得であった。まあ今のハンストの極致かもしれない・・。

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 11:34:27.47 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   165

 ゴーサーラの言う「アージーヴィカ」原義は「命ある限り」である。ともいわれてい
て「命ある限り誓いを守る」ということで進められる。出家者に苦行と放浪が義務づけ
ら、その多くは宿命を読む占星術師や占い師として活躍した。かれらはマハーヴィーラ
やゴーサーラ以前からの慣習に従って生きていく。裸で徘徊し旅をし、他の遍歴修行者
同様、乞食修行僧をやり、厳格な食事上の規則に従い、その多くは餓死することによっ
て生命を終えて行くのである。アージーヴィカは元来は「生活法に関する規定を厳密に
遵奉する者」の意で自称したが、他教団から「貶称(へんしょう:他者をおとしめてい
くこと)」として用いられ「生活の糧を得る手段として修行する者」の意味となった。
漢訳仏典では「邪命外道(アージーヴィカ道:じゃみょうげどう)」の漢字が当てられ
ている。ゴーサーラ思想は、古いインド思想史の中においてあったもので大きな地位を
占めていたが、その後の仏教などでは特異なものとしての異端的地位になった。しかし
その決定論的思考は、自然現象の解明や生命法則の研究と結びついてもいた。占星学が
その宇宙科学や物理学に発展し、地球上の航海術や暦や季節の気象学のもとになった。
アージーヴィカ教はその後、インド亜大陸のほぼ全域を統一したマウリヤ朝アショーカ
王(阿育王)の時代と、その後裔にあたるダシャラタ王の時代には、大きく保護されて
大勢力となり。アショーカ王碑文に記された。イスラム教の「すべては神の思し召しの
ままに。」ここ言葉はイスラム圏で良く使われ。「すべてはアッラーの思し召し。」と
映画の中では決めセリフを何度も聴く「神の思し召しのままにインシャラー Inshallah
」の言葉の元のような思想である。地球温暖化の流れのの中で、これはこれで現代人に
とっては、耳の痛い説話ではあるのだが、はたして今更自然体で生きられようか。この
頃も、天然の災害も多かった中で 贅沢や奢侈の奢りを捨て 喜捨を迫った修行が裸体
(はだか)の僧侶の話かもしれない。牛舎生まれで飯も食えない生活となりゃ、釈迦王
子とは感覚は違うわな

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 20:04:28.19 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   166

 厳格な決定論を説きいて人を惑わす、最も危険で下等な教えであると、釈迦が断じて
敵対したのは、マッカリ・ゴーサーラの言う乞食修行の裸体主義「アージーヴィカ教の
原義」だけではなかった。そこに、婆達多(ダイバダッタ)がいた。ダイバダッタは、
梵天とされる。もとは、釈迦仏の弟子だが、仏教では後に違背したとされる人物である
。古来からの厳格な生活規則を厳格に行い、バラモン教内では至極尤もな、行動思想の
中にあったが、仏陀になった釈迦仏からは、大きく批判され、否定されて仏教から分離
し、新たな教団を作って生活していた。彼の教団は、釈迦が死んだ後世にまでも長く存
続していた。7世紀、インドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記』に「提婆達多が生きな
がら地獄に堕していった穴がインドに残っていた。」と書かれる程憎まれた。釈迦の、
弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な阿難の兄、または耶輸
陀羅(釈迦の后)の兄弟とする説が一般的である。彼の親族及び身辺は6人の兄弟がい
る。インドの白飯王の長男として生まれ、やがては王さまの後を継ぐ、王子となった。
こうして仏陀族の長男として浄飯王となったのが御釈迦様の父で、その弟の子が王とな
った。つまり仏陀の出家後に反乱を起こし王位に付いた。しかし隣国に攻められてその
子は直ぐに逃げる。修行僧に変身して生き延びていたのである。つまり、ブッダとは、
従兄弟にあたるのだ。その後、釈迦十大弟子の一人となり、一緒に修行している阿難尊
者のお兄さんでもあて白飯王と名乗った。叔父の甘露飯(アムリトダーナ)王の子で、
阿難の兄とされ、五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦仏
を殺さんと画策を巡らした。富蘭那迦葉(プーラナ・カッサパ)と親交があったといわ
れ、プーラナ・カッサパは、善悪の業報を認めなりパーリー学派だった。これを仏教で
空見外道といわれます。因果応報の因果の道理を否定しますので相容れない宗派だった
。(大智度論)説。これが一般的に多用されている。ここにバラモン特有の護摩焚きの
技法を伝えた教団が存在していたのだ。

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 20:04:59.17 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   167

 このダイバダッタ(婆達多)は、国が滅びて、釈迦族の他の諸王子達と共に、釈迦の
弟子となったが、その後は驕慢(きょうまん)の心を起こし、サンガの教導を提案し、
釈迦に「五事の戒律」を提案した。この提案が受け入れられなかったので、分派して新
しい教団をつくり、これまで釈迦に付いて来た多くの弟子の修行僧をも連れて、分派と
して活動を始めた。彼が釈迦に提唱した「五事の戒律」はとても厳しく、そして旧態の
掟だった。@人里離れた森林に住すべきであり、村邑に入れば罪となす。A乞食(托鉢
)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。Bボロボロの糞掃衣(ふん
ぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。C樹下に座して瞑想すべき
であり、屋内に入れば罪となす。D魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
と言うものだった。この乞食5行では、村に入れず、服も着れず、家に入れず、塩も肉
も取れない。とした為大勢の病人を出した。釈迦の瞑想法に学んだものであったが、こ
れら提婆達多が提示した五事の戒律が厳しいことで多くが又仏教に戻った。ちなみに、
釈迦仏が入滅の直前に純陀から、スーカラマッタヴァという豚肉(あるいは、豚が探す
トリュフのようなキノコ)で、供養をしてから食した事などから、仏教学においては、
初期の釈迦仏教教団の戒律は、それほど厳しいものではなかった。という説も指摘があ
る。元々、教団自体も戒律が多かったわけではなく、状況に応じて戒律を決めていった
ところがあり、釈迦が強姦された尼僧を赦したこともあった。また、彼は、五逆罪(ご
ぎゃくざい)に抵触する罪を犯したため、生きながら無間地獄に落ちたといわれている
。なお彼が犯したとされる五逆罪にあたる行為は、教団を出て分派活動を行った「破和
合僧(はわごうそう)の罪」、霊鷲山の山頂から石を落として殺そうとし釈迦仏が足の
指から出血させた「出仏身血(すいぶつしんけつ)の罪」、ナーラーギリという象を酒
に酔わせて「釈迦を襲わせた罪」などだ。阿難長老は三度拒まれても、象から釈迦を庇
おうとしたという。この後、ナーラーギリは釈迦の神通力と威光に圧倒されたという。

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 20:07:06.11 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   168

又釈迦は、提婆達多が前世において商人だった頃、零落した家の祖母と孫娘が使ってい
た黄金の器をめぐって争ったと言う。提婆達多は安く手に入れるために策略を回らした
が、釈迦は正直に打ち明けて女から黄金の器を手に入れた。黄金の器を手に入れそこな
った提婆達多は怒りのあまり死んでしまい、『これがボーディサッタ(菩薩)に抱いた
最初の恨みである。』と述べられている。しかし、ベンガル地方では後期まで提婆達多
派の教団が存在しており、三伽藍を要して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉して、
過去七仏の中でも釈迦仏を除いて、賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。
また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告してい
るほどだ。その事から「増一阿含経」で、提婆達多が逆罪を犯した様子が描かれている
ものの、阿含経の中で最も古い部派仏教成立で、堤婆達多が釈尊に逆心し大罪を犯した
とする内容は、現在の仏教学においては疑問視される。この御経には、彼の末路が詳細
に述べられてもいる。彼は三逆罪を犯した後に、自身の爪に毒を塗り釈迦を殺さんとし
た。しかし、地中から炎の暴風が巻き起こり巻き込まれるのだ。この刹那に提婆達多は
悔いて「南無仏」と言おうとしたが言えずに焼き尽くされ、地獄の最下層の阿鼻地獄へ
と堕ちていった。と書かれる。彼は現在、賢劫中は阿鼻地獄に堕しているが、その後に
四天王に生まれ、幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇りつめて、最後に人間界に戻っ
て、釈迦を殺そうとして、地獄に堕ちる直前に絶句した。この所以から「南無」という
名の辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)になるといわれる。「南無」とは「帰命」とも訳さ
れ、「申し開く」と言う言葉で、「深く敬う」という意味だという。尊敬の敬語らしい
。しかしねえ、前世に・・・・って言われてもねぇ。あんまし信じられない。ってのが
本音ではある。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 20:07:27.09 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   169

サンガの教導は、古来インドより行われて来た聖者の行進であった。サンガ(梵)は、
「旅行僧心得」、或いは「行者の掟」僧伽あるいは僧と呼ばれる物で。バラモンの出家
修行者(比丘・比丘尼)により形成される組織を意味した。日本では縄文時代から、既に
伝わっていて「山窟(さんか)」と呼ばれた山の民を意味した。仏教的には、全世界の
すべての比丘・比丘尼が理念上所属する「四方サンガ」と、個々の比丘・比丘尼たちが
実際に所属している個別の「現前サンガ」とがある。とされる。漢訳仏典では、sangha
を音写した「僧伽(そうぎゃ)」あるいはその省略形として「僧(そう)」という表記
を使用している。現代の学術用語としては「サンガ」のほか、「僧団」という訳語が、
使用される。サンスクリット語でsanghaは、仏教の出家修行者(比丘・比丘尼)の集団だ
けでなく、「集団」や「組合」を意味する一般的な用語でもある。とされる。日本の中
で、民俗学者の柳田 國男(やなぎた くにお)の説では、山窟とは山岳就業の行者達で
祝いに出て来ては 大事な余興縁者で布施や華において「座敷童子」の様に大事にされ
る存在だった。一部では山伏とか行者や聖者とかされ、獅子舞いや箒売りやジビエ売り
相撲や神楽や能などを披露していく、自由な芸能集団や猟師の集落の民で、宗教文化の
違う相容れなかったボヘミアンと紹介している。日本の古代文字や拝火教は山岳信仰と
して脈々と受け継がれ江戸期まで 彼ら独自のサンガ文字も持ってた。と言われている
。政治史の領域では古代インドの一部の国に、見られた政治形態・統治形態、国の形態
を示すための用語として用いられて、専制王をもたず集会で選出された首長が行政権を
持つ、一種の共和制のことを指している。、英語で(republic)と訳され。古代インド
において有力者の集会によって指導・統治される制度を有した国々という。リッチャヴ
ィ朝やシャーキャ族(釈迦族)などが代表的に行っていた。同じように集団を意味した
「ガナ」という呼称でもこれを呼ぶことがある。

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/11(土) 20:10:08.78 ID:rEnM5mREZ
イスラム社会のコーラン   170

→ガナ・サンガ国。ガナ、及びサンガという サンスクリット語は元来は、「集まり」
「団体」「集団」などを意味する語であった。サンガに比べてガナの方がより普及した
呼称であったが、両語の厳密な違いについてはよくわかっていない。サンガという語は
後に仏教教団の呼称(サンガ 漢:僧伽)として用いられており、ガナという語はジャイ
ナ教教団の呼称として用いられていた。また、釈迦やマハーヴィーラ以前にも、ガナ、
サンガと呼ばれる団体が存在している。不思議な事に、アレクサンドロス大王の遠征で
マケドニア王軍がインドに侵入した際に、パンジャーブ地方のアケシネス川(現:チナ
ーブ川)下流域に住んでいた部族についてのギリシア人の記録があって、そこに共和制
として書かれる。この部族の事は、記録者によって呼称が異なるが、アバスタノイ、サ
ンバストイ、サバルカエ、サバグラエなどと、日記の中に記録されている。クルティウ
スでは、この部族について「王によってではなく、人民によって治められていた。」と
記し、人口、武勇においてもインドの他の部族に劣らず、民主制的な統治制度を持って
いる。と驚嘆している。またアリアノスの記録ではカタニア、オクシュドラカイ(クシ
ュドラカ)、マロイ(マーラヴァ)という3つの部族は、それぞれ「共和国」を形成し
ていると記し、このうちオクシュドラカイ、マロイについては、インドの文法学者パタ
ンジャリの記録に、「サンガ」を形成しているとするものがあり、ギリシア人がサンガ
と呼ばれるインドの政体を「民主制」と理解したこととされる。古代インドの文献に、
ヴァッジ国(ヴァッジ部族連合)のガナ・サンガ制は記録が多く残されているが、リッ
チャヴィ族では、首都ヴァイシャーリーで政治の中心とされ、サンターガーラと呼ばれ
る集会所で「ラージャー」と呼ばれた有力者達が、ここに集まって、定められた手続き
に従って国政を論じて行った。この影響で仏教教団の議事(律蔵の規定)から、整った
制度が存在し、会議による決定は全会一致で進められた。紛糾した場合には調停が試
みられ、また多数決による決定も行われた。このサンガは日本でも、文字として残って
いるサンガ文字は、基本楔形文字と殆ど同じで英彦山などの宿坊に残っている。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/12(日) 19:29:26.40 ID:xuwcrP2k0
イスラム社会のコーラン   171

  実は 日本人の多くが、これまでの話で分かったであろう。この悪人ダイバダッタ
(婆達多)と言われるが、彼は当時の習慣や宗教観の代弁者であり、いわば保守層の中
で、釈迦仏陀の様には革新的な新しい考えではなかっただけであった。更に多くの人が
バラモン教徒であり、仏教もヒンズー教もジャイナ教も 大枠のバラモン教の中にあっ
たのだ。その上、バラモンの教えであるバラモンカーストのピラミッドの中で救済の為
に色々な改訳をして庶民に教え、庶民から施しを受けていた。それが修行僧の現実だっ
た。その中でも戦争があって国が滅びて、釈迦族の他の諸王子達の様に自ら出家した者
もいれば、ゴーサーラの様に奴隷身分から得度を得て仏陀の身分になって弟子をつけた
り、運命の下でこのダイバダッタの様に身寄りの進言で修行僧として釈迦の弟子となっ
たりして自ら教義を整え生きていたのである。その中に古来からのサンガの教導を提案
し、釈迦に「五事の戒律」を提案したのは、当然集団管理の為の掟だった。と考えられ
る。5番目の塩さえ取るなはちょっとやりすぎでも、森で生活し、托鉢の乞食僧として
分をわきまえて 村の家々を勝手に訪問するな。貰ったもので新衣を着ずにボロボロの
糞掃衣(ふんぞうえ:黄色の衣)で、家人から招待されてもそんなに行くな。というの
は、姦淫や強盗など事件が多発し、裸体僧までいる世界では当然だったろう。と思う。
かれが梵天とされる理由はそこにある。ヒンドゥー教で、創造神ブラフマーは、ヴィシ
ュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)と共に三大神の1人に数えられた。仏教天部の一尊
で、古代インドの神のブラフマーが仏教に取り入れられた。創造・維持・破壊の概念は
当然古代からあった。この3神共に十二天に含まれると言われ、釈迦にとっては悟りを
開かせた神であり、維持と破壊はライバルの神であり、それをも信奉するダイバダッタ
は、離れ得ぬ因縁の悪友だったのだろう。仏法の守護神とされ、梵天と称され、釈迦は
悟りを開いたが、釈迦はその悟りを広めることをためらった。その悟りを広めるよう勧
めたのが梵天と帝釈天で、この逸話が梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される。

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 02:10:03.73 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   173

 近ごろの我が国の状況をみてみると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親
、平治の藤原信頼、これらの者はおごり高ぶる心も勢いが盛んなことも、みなそれぞれ
に甚だしいものであったが、最近で言えば、六波羅の入道で前の太政大臣平朝臣清盛公
と申した人の有様は、伝え伺うにつけても、想像することも言い表すこともできない程
である。」・・・・とあるので、つまりは既に、コーサラの国や、その歴史も サラ国
での菩提樹の悟りの話も、既に伝わり、日本の端々の庶民が理解して、物語として根付
いていたのである。まあ飛鳥時代から平安時代全ての時代と言えば700年間あるので
当然だろうが。この事からも、恐らく裸体苦行の一つとして日本の相撲ができ、それは
カースト祭の、いわゆる 破壊神のシバ神祭りなどが伝わって来ていたのであろう。こ
れらは 阿修羅などの同じ祭りが伝播して来た。ものと考えられる。阿修羅は、人々が
その怒りを恐れる、強力で荒ぶる神である。がしかし、聡明さと優しさを兼ね備えて、
人々の健康・安寧を保障する存在でもあり、医薬を司るともされた。創造神ブラフマー
、美の大神ヴィシュヌ(維持神)、怒りのシヴァ(破壊神)は共にヒンズーの三大神で
であるが、六大神となると河川の水の女神ガンガーと共に、天空の暴風雨の神として、
その1人に数えられる神でもある。魔人ルドラの姿は、赤褐色の肉体に黄金の装身具を
着け、弓矢を持つという。また、「ヴァジュラを持つ者」といわれることもあるが、彼
の姿は三面阿修羅像として日本ではなじみが深い。風水害をもたらす反面慈雨をもたら
し大地に豊穣を呼び込むモンスーンの神格化とも考えられている。人々がその怒りを恐
れ、強力で荒ぶる神であるが、聡明さと優しさを兼ね備え、人々には健康・安寧を保障
する存在で。医薬を司るともされている、北斗星の仙人のカシュヤパが牝牛プリシュニ
ーとの間にマルト神群と呼ばれる息子達がいるが、その中に産まれた暴風雨の神である
アスラ神族が悪魔とされる時代「ルドラ」と言われゾロアスター教ではダエーワ(悪魔
)とされた、ダエーワのサルワはルドラの別名だ。まあ災害は人類の敵ではある。

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 02:10:38.99 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   172

 春のお彼岸 秋の彼岸、冬の火祭り 夏の過ぎ越し 祇園精舎の鐘とされ、平家物語
の冒頭「祇園精舎」(祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり)などのの原文が日本には
残っている。文は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者
必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も
遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と説く。「遠くの異朝をとぶらへば、
秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽
しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふる処を
知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平
の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、
皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し
し人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。」と記述している。現代語訳では
 祇園精舎(節理の城、智慧家)の鐘の音は、諸行無常(如何なる世界も常ではない)
の響き(おしえ)がある。沙羅双樹(サラ国の菩提樹の二股の木)花は、盛んな者も必
ず衰える。という物事の道理を示している。奢り高ぶっている人(の栄華)も長く続く
物では世界中に無い、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。
勢いが盛んな者も、結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じであると説く。
「遠く外国(の例)を探すと、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらの者
はみな、もとの主君や前の皇帝の政治にも従わず、享楽の限りを尽くし(他人の)諌言
も気にかけることなく、天下が乱れていることを理解せず、民衆が心を悩ましている事
を認識しなかったので、(その栄華も)長く続く事はなく、滅んでいった者たちである


29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 02:11:06.44 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   173

 近ごろの我が国の状況をみてみると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親
、平治の藤原信頼、これらの者はおごり高ぶる心も勢いが盛んなことも、みなそれぞれ
に甚だしいものであったが、最近で言えば、六波羅の入道で前の太政大臣平朝臣清盛公
と申した人の有様は、伝え伺うにつけても、想像することも言い表すこともできない程
である。」・・・・とあるので、つまりは既に、コーサラの国や、その歴史も サラ国
での菩提樹の悟りの話も、既に伝わり、日本の端々の庶民が理解して、物語として根付
いていたのである。まあ飛鳥時代から平安時代全ての時代と言えば700年間あるので
当然だろうが。この事からも、恐らく裸体苦行の一つとして日本の相撲ができ、それは
カースト祭の、いわゆる 破壊神のシバ神祭りなどが伝わって来ていたのであろう。こ
れらは 阿修羅などの同じ祭りが伝播して来た。ものと考えられる。阿修羅は、人々が
その怒りを恐れる、強力で荒ぶる神である。がしかし、聡明さと優しさを兼ね備えて、
人々の健康・安寧を保障する存在でもあり、医薬を司るともされた。創造神ブラフマー
、美の大神ヴィシュヌ(維持神)、怒りのシヴァ(破壊神)は共にヒンズーの三大神で
であるが、六大神となると河川の水の女神ガンガーと共に、天空の暴風雨の神として、
その1人に数えられる神でもある。魔人ルドラの姿は、赤褐色の肉体に黄金の装身具を
着け、弓矢を持つという。また、「ヴァジュラを持つ者」といわれることもあるが、彼
の姿は三面阿修羅像として日本ではなじみが深い。風水害をもたらす反面慈雨をもたら
し大地に豊穣を呼び込むモンスーンの神格化とも考えられている。人々がその怒りを恐
れ、強力で荒ぶる神であるが、聡明さと優しさを兼ね備え、人々には健康・安寧を保障
する存在で。医薬を司るともされている、北斗星の仙人のカシュヤパが牝牛プリシュニ
ーとの間にマルト神群と呼ばれる息子達がいるが、その中に産まれた暴風雨の神である
アスラ神族が悪魔とされる時代「ルドラ」と言われゾロアスター教ではダエーワ(悪魔
)とされた、ダエーワのサルワはルドラの別名だ。まあ災害は人類の敵ではある。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 03:05:18.32 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   174

 マルト神群と呼ばれる息子達はインド神話に登場する暴風雨を神格化した神々の1群
とされ、別名ルドラ神群(あるいはルドリヤ神群)。インドラ神の従者で、みな兄弟で
あり、一様に美しく若々しい好戦的な青年神の集団として彫像が残っている。これらを
従えるのが梵天とされる。サンヒターというヴェーダの元々の本体の物語部分がある。
これに付属するブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドといった、注釈・解説や
思想哲学部分とは明確に区別されて、この呼び名が用いられている。日本語では本集や
本編とも訳されるものだが。そこには「カシュヤパ」=「リシ」が登場する。「カシュ
ヤパ=リシ」とは、本来サンスクリットで、ヴェーダ聖典を感得したという神話・伝説
上の聖者あるいは賢者達のことで。漢訳仏典などでは「仙達」などとも訳され、インド
学では「聖賢」などと訳される。つまり俗にいう日本での仙人である。ヴェーダの中で
詩聖とされ、七聖賢と呼ばれる中に「カシュヤパ=リシ」が並び称されている。彼らは
北斗七星と同一視されているが、その7人の名などは資料によって様々であるという。
産んだ親の名も「カシュヤパ」や「リシ」や「北斗星仙人」など様々だ。こうしたサン
ヒターの中の聖仙で、カシュヤパ仙人とディティの中の息子と言う設定である。ダイテ
ィヤ族(「ディティの子」を意味するアスラ族の一派)の一人だが、この三界を征服し
たアスラ王ヒラニヤカシプと兄弟であるとして神力を持っている。軍神スカンダに倒さ
れたターラカや、アディティから秘宝のイヤリングを盗んだナラカ(奈落)などは、彼
の息子とされる。また苦行によって、シヴァ神からアンダカ(暗黒)を子供として授か
り、ヴィシュヌ神の敵対者であり、ヴィシュヌがヴァラーハ(猪)に化身して海中に没
した大地を持ち上げるのを邪魔をするなどの悪役ぶりだ。しかし善神のヴィシュヌから
逆に討ち取られる。別の説話では、大地を海中に沈めたのはヒラニヤークシャの仕業だ
とする神話もあるが、彼も又アスラン一族つまり阿修羅の子か兄弟なのだ。

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 03:13:32.37 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   174

 仙人の、カシュヤパなどは、インド神話に於いては、ヨーガの修行を積んだ苦行者で
あり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を
体得した超人として描かれる。また、神秘的霊感を以て宗教詩を感得し 詠むという。
俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪である。
という設定だ。一般には 温厚であるが、一度怒りを発すると手がつけられなくなり、
その超能力で、条件付きの死の宣告(「〜をしたら死ぬ」など)をしたり、雨を降らせ
ないなどの災いを引き起こしたりするという。ヒラニヤークシャの名の意味は「金の目
を持つもの」という意味である。カシュヤパ仙とディティの子供であり、ダイティヤ族
「ディティの子」のひとり。三界を征服したアスラ王ヒラニヤカシプとは兄弟姉妹の中
にある。軍神スカンダに倒されたターラカや、アディティから秘宝のイヤリングを盗ん
だナラカ(奈落)はを産んだ。また苦行によってシヴァ神からアンダカ(暗黒)を子供
として授かった。善神ヴィシュヌは、ヴィシュヌ派では形の無い形而上的なコンセプト
であるとし、善霊や霊魂のブラフマンや、至高のスヴァヤン・バガヴァンと同一とされ
る。ヴィシュヌ神は、世界が悪の脅威にさらされたときに登場し、混沌に陥ったとき、
破壊的な力に脅かされたときに「維持者、守護者」として様々なアヴァターラ(化身)
を使い、地上に現れて守護すると言う乳海の魔女である。ヴィシュヌのアヴァターラの
うち有名なものでは『マハーバーラタ』のクリシュナや『ラーマーヤナ』のラーマが、
含まれている。また、ヴィシュヌはナーラーヤナ、ジャガンナータ、ヴァースデーヴァ
、ヴィトーバ、ハリ、といった色々な異名でも知られて神となっている。まあ恐らくは
ヒラニヤカシプ=ヒマラヤの精霊であり、「神にもアスラにも人にも獣にも昼にも夜に
も家の中でも外でも、地上でも空中でも、しかもどんな武器でも殺されない体」という
ものであった。とされる。こうして無敵同然の体をもったが、息子は、宿敵ヴィシュヌ
を信仰し、問い詰めたところビュシュヌに何でも切れる円盤で殺される。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 03:18:12.03 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   175

 ビシュヌ神は、5柱善神の一人だが、ブラフマー、ヴィシュヌは、驚愕のスケールと
強さを、インド神話では放つ。甘露は、インド神話に登場する神秘的な飲料で、飲む者
に不死を与えるとされる。乳海攪拌によって醸造され、この乳海こそ現世界とされる。
マンダラ山で攪拌棒に、ヴァースキ竜王を綱として1000年の間攪拌した末に、ダヌヴァ
ンタリ神がアムリタの入った壺を携えて出現する。神々とアスラたちはアムリタを自分
たちだけのものにしようと争うが、ヴィシュヌ神の機転によって神々のものとなった。
ビュシュヌは、信仰対象の神々の1人で、偶像は、通常青い肌の色で4本の腕を持つ姿
で描かれる。下の左手にはパドマ(攪拌棒)下の右手にはカウモーダキー(地球の花)
上の左手にはパーンチャジャニヤ(混沌な乳海)、上の右手にはスダルシャナ・チャク
ラ(魂の貝)を持つとされる。また、とぐろを巻く蛇神アナンタの上に、横になって、
まどろむ姿を描いたものも 多くみられる。これは蛇属つまり龍王世界をも納めている
。と言う証だ。又、現実世界(現世)は、ヴィシュヌの夢の中に過ぎないという神話の
1場面を切り取ったものと言う。彼の配偶神である処ラクシュミーが一緒に描かれる。
実は、日本ではビシュヌ=毘沙門天=金毘羅=大物主神と言う事になっている。古代イ
ンド神話のクベーラ(音写:金毘羅)が仏教にとりこまれたとされる。ヴァイシュラと
と伝えられ、毘沙門はその音写であるとされる。また、多聞天はその訳を「すべてを一
切聞きもらさぬ知恵者」の意である。ヴィシュヌのもつほら貝は、実は世界の声を聴き
漏らさないと言う「魂の貝」なのだ金毘羅(こんぴら)は、天竺霊鷲山の鬼神である。
薬師如来の十二神将の筆頭・宮比羅大将(くびらたいしょう)を指すという。これは、
クベーラが鰐の神(わにの神)であったことから、日本では海上交通の守り神としての
信仰がなされてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に、大きな港を見下ろす山の上に
祀られている。まあ大黒神=大物主の国創りは、何故だかワニの頭を乗り越えて新天地
のスサノウの娘に会いにいって修行するので、恐らく日本の神話時代に既にあった物語
だったのだろう。

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 08:55:35.40 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   176

金毘羅=大物主神というのは「本地垂迹説」で両者は同神とされている。まあ神仏混合
の智慧なのだろう。なんせ紀元前から飛鳥時代までの事だから。金毘羅宮の説明では、
もともと大物主神が祀られていたと言われてはいる。大物主神(オオモノヌシ)は、大
国主命が国を作った際に共にいた少名彦名命(すくなひこなの神)がいなくなってしま
ったので、困っていた処に、国内安寧の役割をする神として登場して、オオクニヌシを
助けたとされる。更に日本の最古の様式は殆どが北を背にて参拝すると言う北開きの、
「艮の金神」(うしとらのこんじん)の神のようだ。オオクニ主とオオモノ主は字が似
ていて古い「艮の金神」の石碑は読みづらい。日本に古くから伝わる陰陽道の言葉で、
「金神」とは“祟り神”とされ、また、「艮」(うしとら)とは東北の意味でもっとも
恐れられている“鬼門”(きもん)の方位を守る神とされる。したがって「艮の金神」
とは数ある金神の中でも、もっとも恐ろしい鬼門の方位にわだかまる“猛悪の祟り神”
ということになっている。太陽神信仰から北からはいって南向きに参拝する。逆に、宮
参りでは南に山門を持って北を拝むのが古いとされる。玉垂れ宮や水天宮社はそうする
様にしている理由の伝説も存在する。インド神話の維持の神のヴィシュヌと日本の国内
安寧の神、大物主神が、北方を守る毘沙門天で繋がり、それらは鬼門を守る神から来て
いるとされる。ヴィシュヌ神は言う「わたしは力であり、この世を滅ぼす「時間」であ
る。ここに集まる者共を殺さんがためにここに出現した。たとえ汝がいなくとも、敵陣
に並び立つ、戦士らはみな生き続けはしないだろう。」と。これは日本の九字と呼ばれ
るものと考えられる言葉に近い。真言密教などで気合をつける「臨兵闘者 皆陣列前行」
読みは「りん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・じん・れつ・ぜん・ぎ
ょう。」なのだが、意味は「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて(ねて)前を行く」。九字
の元祖で、人によっては最も強力な九字とされる。これは古来からの呪詛の掛け声で、
陰陽道や古くは神道流派に御幣と同じに使われて来た物だ。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 09:01:41.35 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   177

 乳海攪拌(にゅうかいかくはん)は、ヒンドゥー教における天地創造神話である。こ
れがヒンズー教の基本になっている。「偉大なリシ(賢者)は、非常に短気で怒りっぽ
く、礼を失した者にしばしば呪いをかけていたが、丁寧に接する者には親切であった。
ある時、人間の王たちが彼から助言を受けるべく地上に招き、美しい花で造った首輪を
かけて手厚くもてなしたところ、リシはとても喜び、王と王国を祝福した。その後彼は
この美しい花輪を与えるべくインドラを訪ね、その首にかけて祝福した。インドラたち
は彼を丁寧にもてなし滞りなく送り出した。その直後、インドラが乗る象が花輪に興味
を示したため何気なく与えた。象が花輪を放り出すところをリシが見て激怒し、インド
ラたち神々に呪いをかけ、神々や三界が享受してきた幸運を奪ってしまう。三界の繁栄
は陰り、植物は枯れ、人間の世界は堕落し、神々は力を失った。乳海攪拌の際に誕生し
た。ヒンドゥー教の最高神の1人ヴィシュヌの妻とされており、数多くあるヴィシュヌ
の化身と共に、ラクシュミーも対応する姿・別名を持っている。幸運を司るため、移り
気な性格であるともいわれる。ラクシュミーが誕生した時、アスラたちが彼女を手に入
れようとしたが、失敗に終わる。あるアスラはラクシュミーを捕まえることに成功し、
頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。かつてはインドラと共にいたこともあった
が、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておくためには、彼女を4つの部分
に分けなければならなかったという。なお、ラクシュミーはアラクシュミーという不幸
を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌの妻になる際には「私があなたの妻になる
条件として姉にも配偶者を付けるように。」とヴィシュヌに請願し、ある聖仙(リシ)
とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという
神話も一方で残っている。まあ日本の御仏壇の飾りに花がある理由だわな。インドラは
天空の軍神で、ラクシュミーはヒンドゥーの蓮を持つ豊穣の女神である。幸運を司る。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 09:09:42.11 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   178

この機を捉えてその子、魔王族が、(アスラ阿修羅)天へ侵攻してくる。超能力を失っ
た神々はなすすべがなかった。インドラはシヴァ、ブラフマーに助けを求めた。がリシ
の呪いは彼らにも解けず、彼らはヴィシュヌを訪ねた。ヴィシュヌは、不老不死の霊薬
「アムリタ(甘露)」を飲めば良いと言う。そこで、不死の霊薬アムリタを作り出す為
に乳海攪拌を実行することにした。これは神々だけでは不可能な作業でありアスラ族の
協力も必要だったため、神々はアスラと和睦する。つまり不死の霊薬アムリタを分け合
うことを、条件にアスラは協力に応じたのである。・・・・16世紀にペルシアで翻訳・
制作された『マハーバーラタ』の写本では、乳海攪拌で、ヴィシュヌは多種多様の植物
や種を、乳海に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り、その背に、大
マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾をアスラ
はヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜ
られ無事に、乳海攪拌が行われた。とされる。海に棲む生物はことごとく磨り潰され、
大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラ
が山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ。ヴァースキが苦しん
で口からハーラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを
得たが、此の為シヴァの喉は毒によって青く変色した。1000年間攪拌が続き、乳海から
はさまざまなものが生じた。太陽の神、月の神、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイ
ヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹、
カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー、ヴィ
シュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれて行った。最後にようやく天界
の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた。と言われる。しかし、
天界の軍神すらストップさせる仙人の呪文やその子に助けを借りて地球を創るって何?
てな感じだ。

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 09:15:31.17 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   179

 タイ・バンコクのスワンナプーム国際空港の建物内にある乳海攪拌を表現した彫刻が
ある。アスラはこの不死の霊薬アムリタを要求し、神々との争いになった。アスラは一
度は不死の霊薬アムリタを手にしたが、機転を利かせたヴィシュヌ神が、美女に変身し
て誘惑し、心を奪われたアスラたちはアムリタを美女に手渡した。と言われ。その結果
に、アムリタは神々の手のものとなった。神々が不死の霊薬のアムリタを飲むさいに、
ラーフというアスラがこっそり神に化けて不死の霊薬を口にし飲んだ。それを太陽神の
スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に見かってビィシュヌに伝えたので、ヴィシ
ュヌは円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断した。ラーフは、首から上だけが
不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようと飲み
込むが、体がないためすぐに外に出てしまった(日食・月食の起源)。その後ラーフは
その体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった。その後、アスラは神々を激しく攻撃
してきた。神々の側で戦うヴィシュヌ神が、心に日輪のごとき武器を思い描くと、天か
らスダルシャナというチャクラムが現れた。スダルシャナチャクラ(縁起の良い視界の
円盤を意味する)円盤状の武器で、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌが、使用する108個の
鋸歯状の縁があるとされる武器だ。スダルシャナチャクラは通常、ヴィシュヌの前手の
右後手に描かれています。ヴィシュヌは、シャンカ(巻き貝の殻)、ガダ(メイス)、
も持っています。パドマ(蓮)。リグヴェーダは、チャクラは時の車輪としての、ヴィ
シュヌのシンボルであった。その後後期なってに、スダルシャナチャクラはアユダプル
シャ(擬人化)された中で、円盤状の武器という激しい形式として現出した。ヴィシュ
ヌの、敵の破壊に使用される武器とされた。タミル語では、スダルシャナチャクラは、
チャクラースアズワル(聖リング)神のサークレットと訳されている。この円盤の刃物
は、不死身の鎧も切るので まあウルトラセブンのアイ・スラッガーである。

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:27:25.75 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   180

 アムリタ(甘露水)は、インド神話に登場する神秘的な飲料の名で、飲む者に不死を
与える。とされる。乳海攪拌によって醸造された不老不死と伝わる飲料水のようだ。こ
れは、酒なのかもしれない。叙事詩『ラーマーヤナ』では、聖仙ヴィシュヴァーミトラ
(リシ)がラーマに乳海攪拌の経緯を説明している。クリタ=ユガの時代、というので
「悪徳の時代と」とされる頃、と言う意味だろう。インド哲学は全てが循環すると考え
ら4つのユガ(時代)を成すと言う。サティヤ・ユガ(黄金時代)、トレーター・ユガ
(銀の時代)、そしてドヴァーパラ・ユガ(銅の時代)、最後の段階である。クリタ=
ユガ(鉄の時代)とされ、本来クリタとはサンスクリット語で「達成されたもの」との
意味である。 このサティヤ(クリタ)ユガでは、人類のカーストは、ただ一つハンサ(
聖者)のみで、この時代に生まれる人々は徳しかない時代で、人生の目的を全ての達成
できる。とされる。人々は全員が自己を制御し罪からも離れ、完全な主祭神を瞑想でき
豊かに暮らせる。とされる。ゆえに人々は平和で誰にも敵意を持たず、生き物には友好
的で、すべての人を平等に眺められる世界とされる。これは、一面聖書の中にエデンの
園の中の暮らしに当たる。ベンガル暦では、スーリヤは、法輪とも解釈されるチャクラ
で描かれて13日が一週間とされた。スーリヤ(太陽)は、ヒンドゥー占星術の黄道帯
にある12の星座の1つであるシムハ(レオ)の領主賭されている。スーリヤ、または
ラヴィは、ヒンドゥー暦のラビバラ、で言う日曜日である。スーリヤ・シッダーンタ(
太陽循環暦)による、ヒンドゥー暦や仏滅紀元といった紀年法の基礎となっているのが
この天文学の論文である。まあ天文であるから宇宙の中では、仙人の息子の鬼神連合の
だダイティヤと言う悪魔のアスランも神でありアーディティヤ太陽神の無限の象徴も、
それに毒を吐く蛇属の九龍大神も同じ天界の人になるんだろう。だがこうした呼び名で
はこの仙人も無限界から有限を作った聖仙カシュヤパもブラフマーが生んだ世界創造神
の一人とされるから不思議だ。

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:27:56.85 ID:L5gvLketJ
ブラフマーは蓮から生まれた最高の創造神で礼賛されて
はいるのだが、あまり信仰されない。ここに日本の大日如来との違いがある。まあ4つ
の顔があるからね。この甘露水も日本的には慈雨とされ甘露の雨ととされる。

39 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:28:43.97 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   181

 ダイティヤ達とアーディティヤ達が不老不死を望み、乳海から「甘露の霊液(ラサ)
」を作り出すことを思いついた。彼らはマンダラ山とヴァースキで乳海を一千年間かき
混ぜたが、ヴァースキが猛毒ハーラーハラ(ハラーハラ)を吐き出し、これがアスラ達
や神々だけでなく人間を含めて世界中を傷め始めた。とされる。神々がシヴァに助けを
求めると、ヴィシュヌが現れ、彼らが最初に手に入れた毒を最初の供物として受け取る
ように、とシヴァを諭した。つまり、シヴァを命令若しくは助言する立場にある。この
助言でシヴァは「甘露を飲むかのように」毒を飲んでカイラーサ山へと戻った、ヴィシ
ュヌもその場を去った。攪拌が再開されると、今度はマンダラ山が海底にめり込み始め
たため、神々とガンダルヴァ達がヴィシュヌに助けを求めると、ヴィシュヌの化身の亀
がその背に山を載せて支え、自身も山頂を手で支えつつ攪拌にあたった。攪拌行為が一
千年間続くと、棒と水瓶を手にしたダンヴァンタリ(医学の神海の主)が出現した。続
いて「水中(アプス)をかきまぜて生じた甘露の霊液(ラサ)」から6億ものアプサラ
ス水の精が、生まれ出た。ヴァルナの娘ヴァールニー(ヴァルニー)、馬ウッチャイヒ
=シュラバス、宝石カウストゥパも現れた。そうして ついに「不死の甘露の霊液」が
出来たが、これを巡って、アスラ達と羅刹達が連合して神々と激しく戦った。しかし、
ヴィシュヌが美女マーヤーに変身して甘露を奪取し、ヴィシュヌに抗った者達も、こと
ごとく戦死した。アーディティヤ達はダイティヤ達を殺し、その後インドラが王座に就
いたという。アーディティヤはアーディティヤ神群とされる女神「無限・永遠」を意味
する神だダイティヤはその逆で当然阿修羅の元となったアスラ族の首長とディティの子
でアスラ神族の「 ディティ の息子たち」と言う意味の呼び名である。しかし竜神族を
地球に巻きつけてグルグル独楽の様に回して、海が溢れるので重しに山を蓋にしてって
よくわかんない神話で、その後ダンヴァンタリ=薬師如来が現れるから、まあヒンズー
教の経典のままでは、日本人は納得しないよな。

40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:29:09.51 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   182

 ヒンズー教の中で一番最初にダヌワンタリ神の姿で。四本の手に持っているのは円盤
(刃物なので外科学の象徴)、法螺貝(仏教では教えを広めるという意味があります)
、薬草(冩血をする蛭を持っていることもあります)ですが、いちばん前にもっている
のがヴェーダ聖典の下にある壷を持つ絵も多い。勿論壺には不老不死の霊薬アムリタが
入っている。この神様の誕生は、乳海撹拌という、ヒンズー神話の中でも一番ダイナミ
ックな場面であるという。ダヌワンタリ神は日本の音訳で、大日如来で仏座の中心仏で
ある。つまり仏教でも大日如来様が、現れなかったら 世界は出来なかった事になる。
が、ヴェーダ聖典の下にある壷には不老不死の霊薬アムリタの話を今一度整理すると、
「神々と悪魔達は協力して不老不死の薬、アムリタを作ろうとする。」「天界にも海が
あり、そこは塩水ではなくミルクで満たされているので、その中に薬草などを放り込み
、神々と悪魔達はこれを撹拌して精製し、薬を作り始めた。」「そのためには、撹拌す
る棒が必要なので、山をとってきます。これに紐の代わりに龍を巻き付けます。そして
巨大な亀を土台にして、海の真ん中に山をつきたて、巻き付けた龍の紐を両端から神々
と悪魔達がひいて、ぐるぐるまわして撹拌するのです。」「すると、いろいろないいも
の神々がその中から生まれてくる。」「それはお坊さんであったり、牛であったり、ヒ
ンズーの人達が宝物と感じるようなものです。そして 精製作業の一番最後には、一番
すばらしいアムリタをもったダヌワンタリ神がミルクの海の中から生まれてくる。」・
・・・・この神話の背景に、インドで毎日のように行われている「ギー」の精製バター
を作る過程が関わっている。と言う。インドでは牛乳を買ってきたらまず火にかけて温
め、放置して上に浮いてくるクリームを取り除く。このクリームを集めて、腐らない様
ヨーグルト種を加えて放置する。幾日かで油分の濃いヨーグルトになる。これを何日分
か集めて量になったら、冷たい水を加えて撹拌し油分を分離させる。無塩バターである
。このバターをさらに火にかけ水分とタンパク質を取り除いたものがギーである。

41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:29:48.62 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   183

ギーは命のエッセンスが詰まったすばらしい薬であるとアーユルヴェーダでは教えてい
る事になる。実際に効き目の高い薬なので、作り方やら使い方など、ギーについて語る
授業があるくらい、すばらしい物であると言う。こんな風に、牛乳を発酵させ化学的に
ヨーグルトにかえ、物理的に撹拌してバターにかえ、さらに火で精製してギーを産み出
す、固形化させてチーズとして保管する。という方法は、大雑把なものを精製して行き
、次々に良いものを取り出し、さらに精製していくと一番最後に一番精髄のところだけ
が集まり最上のものが出てくるというパターンを見る事になる。これがまさに乳海撹拌
の神話と同じとされる。インドにはベンガル医学或いはペルシャ医学とされるのがこの
アーユルヴェーダの根本病理学とされる。インド大陸の伝統的医学で、ユナニ医学(ギ
リシャ・アラビア医学)、漢方医学(中国医学)と共に世界三大伝統医学の一つであり
、相互に影響し合って発展した。トリ・ドーシャと呼ばれる3つの要素(体液、病素)
のバランスが崩れると病気になると考えられ、これがアーユルヴェーダの根本理論であ
るとされる。アーユルヴェーダでは、人間のカラダの仕組みを考える時に、まさにこの
神話と同じようなパターンで人間の生理を理解している。私たちは生きるために食べ、
食べ物をどんどん体の中に放り込む。と、カラダはそれを精製し(人間の場合には消化
と代謝を行って)そこからエネルギーと体組織が生まれる。まず体液が生まれそこから
血液が出来、肉が生まれ、そこ脂肪が生まれ、骨が生まれ、骨髄が生まれ...と考える。
どんどん精製の度合いが高いものが生まれ、一番最後に出てくるのが、オージャスとい
う生命エネルギーのエッセンスとされた。この乳海撹拌によるアムリタの作られかたや
、ミルクを材料にしたギーの作られかたに似ている考え方だ。ユガにおける4つの時代
の年季説にもつながっているのだが。

42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:43:18.82 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   183

 仏典の中には「無敵の剣」の話がある。ある時、弟子たちが仏法を説きにでかけた先
の森で、魔物がでて来て驚き逃げ帰った。釈迦が弟子たちに、「なにぃ逃げて来たの君
達。じゃあ私が無敵の剣を授けよう。今度、魔物と出会った時には、驚かずによく見て
みることだ。」と言った。 弟子たちが魔物に出会った時、 勇気をだしてよく見ると、
それは、人間が変装したものだった。日本では「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うが
、仏法では「法のことを心よく思わない者たちの嫌がらせ」だったと説く。で「勇気」
こそが「無敵の武器」とする説話となっている。これにヒーローアニメは飛びついてい
て良く表される。神話や英雄物語では、ここぞという戦いの時こそ勇気が必要だ。と謳
うし、そうした場面では都合よく善神が現れ助ける情景がよく見られる。神話、民話に
おいても、古今東西、魔力を持った剣・槍・弓などの武具は登場するし、また、兜・鎧
・盾などの身を守る為の防具や、呪文や因印や護符など呪術の個別の武器も登場する。
中には、履けば飛べる靴や、乗ればどこでも行ける筋斗雲、や空飛ぶ絨毯などもあるが
。まあ人間の脳みそは、あくまで自由を求めているもんだ。とつくづく思う。英雄物語
を飾るのにも、なくてはならない小道具とスローガンなのだが。インドの神話や民話で
はかなりに強烈だ。その威力に関して「斬られたら傷がなおらない」「なんでも斬れる
」「狙いがはずれない」など誇張表現されているし、それだけその英雄の武器が強い、
といったことが示されている。例えば鉄器と青銅器の威力の差、などはあったとしても
、物語的な表現をする。ということが前提にあるような説話である。しかしそのような
武器があったら、そもそもがファンタジーな願いは成り立たない。既に最強の武器が、
この世に孫刺し、をれを獲って支配は終わってる。と言う矛盾が出て来る。この矛盾の
言葉すら、人間的であり「なんでも貫く矛」と「なんでも防ぐ盾」という哲学的な問答
が「矛盾」という言葉の語源である。これもまた、哲学的ではあるが。そもそも哲学が
実は軍事であり、軍事が経済学であり、経済が生活実態だと、はたと感じさせる原始の
宗教ではある。ここでは「闘争=愛情」の構図が個人から集団へそして生物界や自然へ
と向かう過程がある。

43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/14(火) 10:55:57.89 ID:L5gvLketJ
イスラム社会のコーラン   184

 宗教神話=生活の糧=台所の食卓ってのは驚くが、素直に考えれば当然にも見える。
天部(てんぶ)というのは、仏教において天界に住む者の総称とされる。天、諸天部、
天部神とも言われ、サンスクリットではデーヴァとされる。こうしたインドの古来の神
が仏教に取り入れられて護法神となったものとされ、人間にとっての最強の武器が神で
あった。天部には、梵天、帝釈天、吉祥天、弁才天、伎芸天、鬼子母神、大黒天、四天
王、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆などの
天部が存在し、貴顕天部と武人天部に二分される。仏教の尊像においては、如来、菩薩
、明王、天という4区分の4番目にあたるもので、天界の田舎の部分だ。先にも言った
様に、ラテン語のデウスを創った言葉の起源と言う。天神ディアウスの名にもその面影
がある。デーヴァは主に男神に使われ、女性形はデーヴィー(女神)とされるが、古代
宗教の拝火教、即ちゾロアスター教では悪魔ダエーワと同一とされている。仏教もゾロ
アスター教も同様に、ヒンドゥー教を真理としない立場をとるが、その神々については
天部の護法神として吸収したつくりである。デーヴァはインド神話においてはアスラ(
阿修羅)と対立する神族の存在であるが、リグ・ヴェーダにはアスラが創造神としても
登場する違いがある。ヴァルナといった有力な神もアスラとされていた事もある。ここ
にミトラとならぶ最高神でもある事になる。水の神で司の裁判神で、まあ閻魔大王の様
なものだが、7柱神の一人だ。これがアスランの息子の鬼神族と同じとなると日本人は
受け入れ難いものがある。ミトラとともに太古のアスラ族、アーディティヤ神群を代表
した神である。しかし時代が下るにつれ、アスラは魔神化され、太陽神ミトラもインド
神話は、契約の神となり、盟友・友情・友愛の守護神とされる信用の商売の神となり、
イランに伝わっていく。また、インドラ神など他の神格の役割も持った。『リグ・ヴェ
ーダ』ではアディティの産んだ十二柱の太陽神(アーディティヤ神群)の一柱であり、
毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるという。ギリシャ神話の一端がある

44 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:16:26.18 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   185

阿修羅は同じアーディティヤ神群の一柱「ヴァルナ」は表裏一体を成すとされる。この
場合、ミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、契約に背いた者には罰
を与えるという。プラフラーダのような例外を除いて基本的にデーヴァとダルマ(真理
・法)に反逆する存在として定着してるのでいつの時代にどう変化したのかが興味深い
ものではある。逆に西方のゾロアスター教ではアスラと同根の「アフラ」を名に持つの
がアフラ・マズダーで、至高神として崇められる。デーヴァは絶対悪で悪魔化させられ
てもいる。古代のメソポタミアの宗教にも見られるこの7つの天国の概念は、ユダヤ教
とイスラム教に見られる。まあ北の冬将軍の星座と、南の熱い十字星群の違いかもしれ
ない。しかし同様の概念は、ヒンドゥー教などのインドの宗教でも同じで、ジャイナ教
を含む伝統的な、いくつかは、7つの秘法や神族を大事にしている。地球または7つの
地下世界の概念を持ち、両方とも形而上学的領域神々として、五芒星つまり5人のみを
絶対神で後の2人は人間的に悪魔なのだ。恒星などの天体と重なって観測される7つの
天体はそのまま7つ天国で、古代世界には知られている7つの火や五芒星などに対応し
ている。つまり割れない奇数の初期数だ。古代の観測者は、これらの天体(月、水星、
金星、太陽、火星、木星と土星)は互い関係があるとした。そしてそれらを超えた意識
で、空を異なる天空界として物語にした。警告なしに空に現れた彗星とは異なり、それ
らは予測可能な規則的なパターンで移動し、彼らの旅や位置を把握するツールだった。
彼らはまた、こうした太陽の動きが植物の振る舞いや月の動きが、海に影響や魚や獲物
の収穫に影響を与える事を知った。空の物体が地球上の物体に影響を与えることを観察
し、占星術が産まれた。潮汐表を作り植物の育ちや動物の動きが観察された。他の人々
はこれを聴きながら生活して来た。7つの天国は、西洋ではオリオン、北斗七星、リト
ルディッパー、プレアデス・セブンシスターズの7つの星に関連していると信じて古代
西洋の占星術が作られている。

45 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:17:01.59 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   186

 仏教世界では、六道の(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)を説く
。また十界として六道の上に、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたもの、といった
世界観があるのだが、このうちの、六道の地獄から人間界までは、欲望に捉われた世界
が最悪の下界とされる。つまり「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界」を欲界と
いう囲いをして、そこから精進し修行し出るのが人間の役目としている。天上界の方で
も、細部に分けられていて、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界・そして精神的無色
界(これを三界という)があるとされる。ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の
6つの天部は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、
これを「六欲天」の世界とされた。六欲天この天部を。欲界の六欲天と称した。第一の
天「四王天」、第二の天「倒利(とうり)天」、第三の天「夜摩天」、第四の天「兜率(
とそつ)天」、第五の天「化楽天」、第六の天「他化自在天」と6つの天界領域がある
。これは他化自在天(たけじざいてん)は天界の入り口にあり、最低の天界で弓を持っ
た天神の街と考えて好い。快楽を旨とし楽事をして自由に他人変現する姿からこの呼び
名がある。この堕天使は男女を相視るに見境の無い淫事を満足し得るとされ、子を欲し
欲念に随い膝の上に化現する魔裸僧の地位とされる。身長は三里、寿命は1万6千歳とい
う。ただしその一日は、人間の1600年に相当するというから、人の寿命では恐竜時代で
一日だ。武人の快楽界とも言える化楽天(けらくてん)は、自己の対境(五境)変化し
て娯楽を極める神だ。身長は2里半でまあ120kmの「だいだらぼっち」ぐらい大き
い。寿命8000歳で人間の八百年を1日1夜とする。男女が互い相向かって笑えば、交媾の
目的を果たす。とされ子は男女の膝上より化生し、その大きさは人間の12歳の童子の如
くであるといわれる。要するに欲情魔の魔裸天の一つで天界の賭博場の運営者という所
だろう。ここいらに帝釈天やら四天王の住まいとされる。

46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:31:35.31 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   187

兜率天(とそつてん)には、内院と外院があり、内院は将来仏となるべき菩薩が住む所
とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。外院には天衆が住む。兜率天
は浄土の一つで修行の天界だ。弥勒信仰の発展とともに、兜率往生の思想も生じている
。ここでやっと神の住まいとしての天界が現れてる形だ。兜率往生の思想は阿弥陀仏国
思想よりも古く、インドには兜率天に生まれ出たいと願うものが多い。中国において、
東晋以来兜率往生の信仰がさかんであって道安・玄奘・基らがあり、日本においては、
尊意・貞慶・明恵・宗性らが有名な兜率願生者であるという。日本の歴史では、阿弥陀
の信仰が盛んになってから、弥勒信仰に阿弥陀仏の浄土教信仰が多くなり、平安時代に
取って代わるようになった。こうした事実もある。兜率天信仰は、兜率上生ともいわれ
、弥勒の浄土である兜率天界に往生することである。『弥勒上生経』には、精勤にして
諸々の功徳を修し、念を仏の形像にかけて弥勒の名を称する者は、命が終えたのち兜率
天に往生することを得る。としている。また弥勒に値遇を得て、当来の弥勒に随っての
「閻浮提(えんぶだい)」に下生することを得ると、その説法の会座に到り、遂に無上
菩提を証得す。とある。つまり入り口は弥勒の一切衆生の救済で入っても、仏教を会得
した者は兜率天を拝むのである。これが上達と言う物だ。というのだ。閻浮提(えんぶ
だい)とは、古代インド(バラモン教・ジャイナ教・仏教等)の世界観では、人間が住
む意識界の大陸の事で、バラモン教・ジャイナ教でいう世界の中心に位置する円形大陸
のことだ。仏教では須弥山の傍の大陸で周囲にある4つの大陸(四大洲)の1つである
。いつでも須弥山と往来できる位置にある。この四大洲、南に位置する大陸を閻浮提と
呼ぶと言う。玄奘以降の新訳で贍部洲(せんぶしゅう)と訳され、南方にあることから
、南閻浮提(みなみえんぶだい)、南贍部洲(なんせんぶしゅう)とも称される。

47 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:32:00.72 ID:H8xjBLB1r
大き
な森が中心にあり、そこに閻浮樹と呼ばれる常緑の大きな木があるので閻浮提としてい
る。インドモデルでの風景で、雪山という山の頂にはアナヴァタプタという名前の池(
阿耨達池: あのくだっち)があり、四方に大きな川が流れる。と言う。いわゆる三途の
河だ。その後、現在ではなぜだか、人間が住む世界を指すようになった。

48 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:41:51.90 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   188

 天界もしくは天神界は、基本神々の世界だがある意味人間界の精神界を示している。
しかし、天界は修養した境地の程度での社会で、その地域は何段階かに分かれている。
大きくは人間界に近い、欲界・色界・無色界の三つに分けられその下に人間の現世界の
欲界があるとした考え方だ。欲界は一番人間の現世界に近く、地居天と空居天の二つに
分けられ、地居天は須弥山の中腹から頂上の世界であり、空居天は須弥山の上の上空と
される。これから上位の世界は地上を離れ空中にあるとしているのだ。欲界にある他化
自在天から四大王衆天までの6段階を六欲天世界といわれて神の神になる修行の世界と
いうややこしい設定である。人間よりは、とらわれの程度が少ないが、神でありながら
も、欲望にとらわれる世界である。としている。ここまでは、男女の区別があり性欲が
残る処としている。次の色界からは性別がなくなっていく。色界は性欲と食欲を離れ、
物質的な魅力、物欲の支配欲の制約だけ残る世界とされる。真理観察力と心の安定状態
で、大きく4段階に別れている。これを四禅天と言い、初禅天から第三禅天までの九つ
に分けて創造している世界だ。楽を生じて楽を受ける天なので、楽生天とも呼ばれてい
る。無色界は、真理の観察力と、心の安定状態が さらに進んだ物質を超越した世界で
人物金の本質を見抜く世界だ。物質を超越しているので、体に大きさは無く、寿命だけ
があるとされる時間軸のみの空間である。色界や欲界では上位の世界ほど広がりがあり
、そこに住むものは身体も大きく寿命も長くなる。兜率天(とそつてん)は、その内院
が屋敷とされると考えられ、その屋敷で修行を積む者は次の世界の、夜摩天(やまてん
、焔摩天=えんまてん)を、観たり行けたりする。逆に家内に出入りが出来ず現世界に
天助や天女で現れてはポイントを稼ぐと言う、神の使いを行うものを天衆や天使衆とさ
れていて森にたむろしている。とする。つまりこれらが天界の主な住民の天の衆生と言
う事になる。

49 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 01:56:25.56 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   189

 須弥山の頂上で陸上には、12由旬の処にある天部にして、七宝の宮殿があると言わ
れ、無量の諸天が住している。これに内外の二院がある。外院は天衆の欲楽処にして、
内院を弥勒菩薩の浄土や兜率浄土としている。弥勒は、ここに在して説法し閻浮提には
下生成仏する時の来るのを待っている受付官である。この天界は下部の四天王、傾利天
、夜摩天の3つの天が、欲情に沈み、また反対に上部の化楽天・他化自在天の2天が上
に浮逸の心が多いのに対して、沈に非ず、浮に非ず、色・声・香・味・触の五欲の楽に
おいて喜足の心を生ずる。として、向学心があり上達を目指すが、欲にかられる神の迷
いをもよく表している。まあ人間もこんなものだろう。弥勒などの「補処の菩薩」の、
止住する処となる。というので補佐官や相談所として弥勒がいるんだ。と主張してる。
ここの天人の身長は2里、衣重は一銖半、寿命は4000歳である。人間の400年を この天
の1日1夜とする。つまり人間では 4000x400年で辿りつく1日を過ごすのが神だ。と
言うわけである。1億6千年生きるって、地球じゃ恐竜時代である。人間は煩悩から脱
せずに、輪廻を繰り返して産まれ、世界全体を欲界・色界・無色界の三界(さんがい)
をさ迷い駆け巡る。その為欲界が、性欲や食欲などの欲望を持つ衆生が住む領域が現世
であると説く。現世で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6種の領域(六道。六趣と
も)からなるとされるので、此の世にも地獄はある。と強く言う。欲界の天を六欲天。
その最後の3番目の天が夜摩天で一番天界に近い。夜摩天の名前の由来は、立世阿毘曇
論によると「日夜時節分 分度時に是の如きの言を説く、咄なる哉、不可思議の歓楽や
、と。故に夜摩と名づく」とされる。不思議と言う魅力と麻薬の様な永遠の快楽の夜と
言う名だから「分」つまり身の丈を忘れる世界が広がっている。と言う訳だ。その地は
須弥山の上空に、人の住む大陸から離れて16万由旬、須弥山山頂から8万由旬の空中に
あり光明にあふれ、昼夜がなく、歓楽を受ける世界とされる。また、夜摩天の1日は、
人間界の200年にあたるとされる。

50 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:26:55.62 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   190

 夜摩天界に棲む神々は、身長は1由旬、寿命は夜摩天の時の流れの速さ(1日が人間
界の200年)で2000年とされる。これが 天女の舞う世界で飲めや歌えのバカ騒ぎの閻魔
宿とされる、閻魔大王が主人となった処の、上部天界へ行く待合室であったのである。
この第4層目の閻魔の受付を過ぎたら 本当の天上の三界において、六欲天の第3天に
辿りつく。時という快楽を受くる世界にくるという。傾利天、夜摩天を過ぎて化楽天・
他化自在天となれば、六欲天を過ぎて、第3天となる閻魔もいない世界であり、六欲天
の第2天は須弥山の頂上の上にあるものだとされる。つまり閻魔宿や閻魔城は須弥山の
頂上である有頂天にあるのだが、同時に地獄への穴もある。しかし後の2天界は雲の上
なのだ。この閻浮提の上、8万由旬の処にある最初が、帝釈天の世界、まあフーテンの
寅次郎の名セリフで御馴染みの仏様がいる場所である。四大王衆天(しだいおうしゅて
ん)という四天王の住む場所で六欲天の第1天の護りとして、持国天・増長天・広目天
・多聞天の四天王が住む場所。と言う事になる。第二天界にいる帝釈天はバラモン教・
ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイトの条文にも見られる神だ。
インドラの同一の神で、意訳と音訳で、釈と音訳し、devaを天と意訳して後部に付け足
して、indraを帝と意訳して冠した名だ。天主帝釈・天帝・天皇 とも訳されている程で
創造主の一番番頭と言う立場だ。つまり「会社の社長」の立ち位置で「会長の守り神」
という背景だろう本来では、インドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神である
。仏教に取り入れられてからは、成道前から釈迦を助け、説法を聴聞して、梵天と並ん
で仏教の二大護法善神つまり仏法守護神となったとされる。四天王などを配下にとし、
須弥山の頂上・傾利の善見城(喜見城)に住むとされる。インドにおける「仏伝図様」
においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。『涅槃経』巻33や『大智
度論』巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は矯尸迦(きょうしか)であると説かれ
ている。

51 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:27:30.65 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   191

 帝釈天は。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を矯尸迦という、福徳と
大智慧あるバラモンがいた。彼には知人友人が32人いて、共に福徳を修して命終して、
須弥山の頂の第2の天上界に、新たに生まれ出た。と輪廻が記録された。と言われてい
る。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人をして
、三十三天という。これゆえ釈迦仏は彼の本名である「矯尸迦」(きょうしか)と呼ぶ
という。また、このために彼の妻・シャチーを矯尸迦夫人と呼ぶこともある。と記され
てる。妻は阿修羅の娘であるシャチー(舎脂)。梵天と一対の像として表されることが
多く、両者で「梵釈」ともいう。釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載されるとさ
れる。帝釈天の日本最古の遺存例は、法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代)に描かれた「施身
聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものであるという。同寺の食堂(じきどう)に
は梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されていた。今は大宝蔵院に安置されている
。東大寺法華堂(三月堂)には、乾漆造の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。本来の
インドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神である。『ラーマーヤナ』では天空
の神として登場する。特に『リグ・ヴェーダ』においては、最も中心的な神であり、ヴ
ァルナ、ヴァーユ、ミトラなどとともにアーディティヤ神群の一柱とされて、デーヴァ
神族に属する雷霆神、天候神、軍神、英雄神である。ディヤウスとプリティヴィーの息
子とされる。別名天帝であるから、ギリシャ神話ではゼウスであり、旧約聖書で唯一神
のヤホバの神のような存在である。紀元前14世紀にヒッタイトとミタンニとの間で結ば
れた条文の中にも名前があることから、このインドラ神のルーツは古く、アーリア人の
移動とともに小アジアやメソポタミアなどでも信仰されていた神であったことが確認さ
れている。雷霆神(らいていしん)の性格が強く、その容姿は皮膚も髪も髭も茶褐色で
、ギリシア神話のゼウス、北欧神話のトール、スラヴ神話のペルーンと比較される。

52 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:47:57.77 ID:H8xjBLB1r
つまりなんだな

53 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:51:39.46 ID:H8xjBLB1r
つまりなんだな・・・生まれは葛飾柴又 帝釈天の産湯を使い・・・ってのは

西洋式に言えば、ゼウスにお湯持って来させるほど大事な待ち焦がれられた命なんすよ私の身体は。
って 偉ぶっている訳だぁあな〜〜〜

54 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:54:30.19 ID:H8xjBLB1r
つまり 何言ってんだ。おいらは、イエスやモハンマドと同格なんだよ。って啖呵きってんだ日本人は

55 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 02:55:27.69 ID:H8xjBLB1r
つまり「 何言ってんだ。おいらは、イエスやモハンマドと同格なんだよ。」って啖呵きってんだ寅次郎は

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 04:39:30.65 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   192

クシナガラは日本では盧舎那仏と置き換えられる。有名な東大寺大仏も東大寺盧舎那仏
像(とうだいじるしゃなぶつぞう)である、奈良県奈良市の東大寺金堂の本尊である仏
である。一般に東大寺大仏、奈良大仏として親しまれている。日本では頭上に宝髻を結
び、大衣や天衣を着た二臂像・立像、あるいは白象に乗った子供状態の絵が多い。手に
は金剛杵や蓮茎などを持ち、着衣下に甲冑を着けることもある。密教においては、一面
二臂で宝冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を持つ例も見られる。仏教は29
歳で出家、35歳で悟りを開き真理に目覚めたという釈迦が始めたとされる。この釈迦仏
がクシナガラで、人々に説法を続けて沙羅双樹の下、80歳で入滅(死去)したと伝えら
れている。釈迦は、80歳になって生まれ故郷へ向かう途中に、お布施でもらった茸に
中毒症をして、クシナガラの沙羅双樹のもとで亡くなりました。その土地の名をとって
盧舎那仏(るしゃなぶつ)としている。未来も予見した涅槃時のその様子は「涅槃経」
という経典に記され、それを絵にしたのが仏涅槃図です。涅槃とは梵語でニルバーナと
いい、「吹き消す」「消滅する」という意味で日本で言う罪のない人の禊状態である。
全ての煩悩が消滅して悟りを完成される境地を指し、釈迦の入滅を「涅槃に入る」とも
言う。釈迦は「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)」という、俗にいう北枕
の臥伏の横向きで、両脚を重ねるというスタイルである。釈迦を取り囲み、菩薩、天部
、弟子、大臣などのほか52種類の鳥獣までが泣き悲み、樹上には飛雲にのって息子の
臨終にやって来る仏母摩耶夫人の一行が描かれているのが一般的の図柄である。人だけ
ではなく、生きているもの全てに慈悲の心の釈迦尊像の徳性がこの絵には表わされる。
仏教が誕生して、約500年間インドには仏像はなかった。釈迦の教えは、自分で至る
「悟り」の涅槃の境地が目的ですから、自分以外のもの(他力)に身を任せて救われる
という偶像崇拝は、当初はヒンズー教団すら無かったのだ。

57 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 04:39:58.14 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   193

 釈迦の涅槃後には、釈迦の遺骨の舎利塔や昔かぶっていたターバン、坐っていた玉座
、足跡、悟りを開いた時の菩提樹、遺骨を埋葬した墓(ストゥーパ、卒塔婆)など崇拝
して回っていた。それが法輪であり五重の塔の由来である。つまり精神世界の到達点の
後押しして救う事に特化した仏像であるが、仏教の偶像崇拝の最初の仏様でもあるのだ
。これには戦争が起因している。前にも言った様に、入滅後100年ぐらいで 大きな
戦争が人々の心を塞いでしまった。この救済に仏像や絵姿を求めたのである。人は目の
前現実で、過去の苦しみや未来の不安が削がれる性質を持っている。この事で仏教布教
は大きく広がった。といわれる。時代の流れから、あまりにも偉大で、人間と同じ姿で
表現するのは恐れ多い。という偶像否定の観念が弱まって、カンダーラ美術が産まれた
。この人物像に模した清仏像は、中国を経て日本に伝播し紀元1〜2世紀に美術的嗜好
は好まれたとされる。仏教世界では、地獄の世界も天界であり、人は地獄の釜茹でも、
磔の獄門でも、痛みを負いながら何回も生き返りて、無限に苦しむとされる。仏教界は
こうした教えで、お盆のことを正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という、と触れ回
る。その起源に『盂蘭盆経(うらぼんぎょう)』の仏教教典にあると言われている。その
御経に、釈迦の弟子である目連(もくれん)は、自らの神通力で、亡くなった自分の母親
の姿を探し出し、地獄の餓鬼の世界に堕ち、逆さまに吊るされ、毎日死に、毎日生き返
る事を繰り返し、大変な苦しみを受けていることを見る。食物が口に入る前に炭火とな
って燃え、喉を枯らし飢えている母親を、なんとか助けたい。救い出したいと思って、
目連尊者は釈迦に相談する。のである。

58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 04:40:22.30 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   194

 相談を受けたお釈迦さまは、すると「夏の修行を終える7月15日に、すべての修行僧
に食べ物や飲み物を施せ、功徳により母を救うことができる。」と説いた。目連尊者が
、教えに従い実行すると、その功徳で母親は極楽往生を遂げたという。この亡き母への
供養の言い伝えが日本に伝えられ。旧暦の7月15日に先祖供養の行事として、盂蘭盆会
が行われるようになった。という。しかし、それは、釈迦の夢想の世界であり逸話解釈
に他ならない。もともと、この功徳の茶会が昔からガンダーラ地方にはあったし。日本
でも、この種の夏越しの祭りは行われていたので、吉田神道他も山岳信仰でも、夏の行
はおおい。釈迦の夢物語のの説法の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」をその起源と触れ回る
のは、それは随分な嘘である。拝火教(ゾロアスター教)の盛んだった紀元前10世紀
の時代に、既に夏の先祖供養があり、ペルシャの「ウラヴァン」が由来であろう。意味
は「霊魂」の「行」である。人に施すのが徳者責務としたイランで、死者の魂を祀る時
に、杜松(ねず)というヒノキ科の針葉樹を燃やし、先祖の霊は、その香をたよりに、
子孫の家に帰って来る。と信じられた。風葬の火のお参りで、犠牲牛を捧げて大地の恵
みを感謝するのである。なぜ夏かと言えば、その頃がアフガンやヒマラヤの周辺で、水
や牧草の一番育ち、市場が立つからである。つまり、集まり親族縁者が部族と巡り合い
、情報共有して新たに放牧の旅に出る。等しく拝火教の祭壇で祈って、共に食卓を囲む
事が習わしだったのだ。この行事が中国に入り、道教や仏教と結びつき、後に日本に伝
わり、そしてお盆の起源になった。それに仏教が乗っかって布教した。これが「盆礼」
「盆の礼賛」という行事になっていた。貧者や人への施しが代わりに僧へのお布施に変
わったのだ。七夕の由来とほぼ同じである。まあ正月の年玉はまだ家庭行事のようだが

59 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 04:53:41.28 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   195

 仏教界では、この毘盧遮那は、サンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」
の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味するという。「毘盧舎那仏」と
も表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される
。史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理
を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説か
れている。毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つである。華厳
経において中心的な存在として扱われる尊格でもある。密教においては大日如来と同一
視されてもいる。尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」
の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。『華厳経』は大乗仏教仏典の代表の1つで経名
は「大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え」の意味だ。「大方広仏」つま
り時間も空間も超越した「絶対的な存在」としての仏という存在について説いた仏典で
ある。元来は『雑華経』(ぞうけきょう: ガンダヴィユーハ・スートラ)、すなわち
「様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え。」とも呼ばれていた。
華厳経の全体のサンスクリット語原典は未発見で、「十地品」「入法界品」などは独立
したサンスクリット仏典があり現代語訳されている。という。「十地品」には、菩薩が
踏み行なうべき十段階の修行が示されていて、そのうち六番目までは自利の修行が説か
れ、七番目から十番目までが利他行が説かれている。「入法界品」には、善財童子(ぜ
んざいどうじ)という少年が、人生を知り尽くした53人の人々を訪ねて、悟りへの道を
追究する物語が述べられている。大乗仏教は、出家者に限らず、在家者を含めた一切の
衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称で、小乗はその出家研磨する仏僧のみの救済を意味
している。

60 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 10:31:06.76 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   196

 そうした事の為、日本のお盆の記録は、既に飛鳥奈良時代に歴史書「日本書紀」でも
確認できる。推古天皇の606年に寺ごとに4月8日と7月15日に斎会をする。4月8日は花祭
りの麦の収穫や水稲の作付期だったのだ。7月を釈迦生誕として、15日に仏教行事が行
われている。斉明天皇時代には、仏教世界にあるとされる須弥山(しゅみせん)世界を
説き、飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記される。こうして宮中の行事として
お盆を行うのが聖武天皇の 733年には恒例になった。恒例の仏教行事として供養が毎年
行われる事で、貴族社会や武家社会へと広がり、先祖供養の概念が一般化したのである
。こうして夏の風物詩・お盆。家族揃ってお墓参りをし、提灯や精霊馬を飾って、故人
や先祖の霊を迎えるのが、日本人に深く親しまれる「お盆」という年中行事になった。
とされている。ところがこのガンダーラ地方でも日本でも、そもそもが夏祭りはあった
のだ。それを否定していたのは釈迦そのものであった。中国の夏王朝は(かおうちょう
)は紀元前1900年〜紀元前1600年頃の王朝だ。史書に記された中国最古の王朝で夏后氏
ともいう。夏・殷・周を三代の王朝の民族だ。『史記』『竹書紀年』などの史書には、
初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間 続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されて
いる。「タイ系の言葉を話す夏人の伝説上の最古の王朝」である。長らく伝説とされて
きたが、近年の考古学資料の発掘により実在の可能性が出てきた。この夏王朝の祭りが
お盆であった。これまでは史書には記されていたものの、夏の実在性を示す考古的発見
が無く、伝説上の王朝と言われていた。今のところ二里頭の発掘に、文字の出土資料が
なく、概念的に王朝・国家の性格は不明である。ただ考古学的に「夏に当たる年代に、
政治勢力らしきものが実在した事」が証明された事と、『史書』などの記述の「夏王朝
が実在した事」を示唆したのみに留まっている。つまり今の盆の様な親類縁者の通夜の
様に集まるのは夏王朝時代に 既に習慣化されていた。と言うのが、史書などにあった
が、伝説だったのが 本物としてあった事になる。だから決して仏教伝来の話ではない。

61 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 10:31:28.86 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   197

 こうして、中国国内における中国史・考古学界では、夏王朝は実在したものという
コンセンサスが存在すると、史書の再研究が行われることになる。これまでも、中国内
モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃〜紀元前5400年頃に存在した新石器
時代の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)が、紅山文化に先行して遼河流域の文明とし
て遼河文明の一つとしてあったとされる遺跡が出ている。興隆窪文化では、ヒスイなど
の玉製品など中国最古のものが出土している。ここで龍の出現する文化も中国最古の物
とされる。興隆窪文化の遺跡からは櫛目文を施した平底円筒土器やけつ状耳飾りが出土
し、黄河文明のほかに、先史中国の新石器文化が南の長江流域および北の遼河からあっ
て発見されているが、興隆窪文化は遼河文明の一つとして重要都市である。興隆窪文化
の遺跡においては、集落が計画的に築かれた痕跡や、住居が列をなしている状態が3つ
の遺跡から発見される。いくつかの遺跡ではひときわ大きな建物が発見されたほかに、
堀に囲まれた環濠集落も見つかっている。興隆窪文化の標式遺跡である興隆窪遺跡は、
内モンゴル自治区赤峰市の敖漢旗(ごうかんき、アオハンき)丘の南西麓にある。遺跡
は南東1.3kmの位置にある興隆窪集落から名付けられた。遺跡からは竪穴式住居が120箇
所が発見され、各住居の中央にはかまどがあった。興隆窪遺跡の中央には大きな建物が
あったほか、中国でも初期の環濠(堀)も発見されており、環濠の中は2万平方mと、
かなりある大集落である。埋葬の風習も独特のものであり、いくつかの遺骨は住居の下
に埋葬されていた。興隆窪文化の他の遺跡同様、興隆窪遺跡の墳墓などからもヒスイで
できた玉が発見され、ある墳墓からは玉製品のほかに、ブタのつがいとともに葬られた
遺骨もあった。近年発見された興隆溝遺跡では雑穀があった証拠が発見されており興隆
窪文化における唯一の農業の存在の証拠となっている。

62 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 10:39:39.55 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   198

 夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人鯨の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後
の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり
、功績をなし大いに認められたとされる。2016年発表の研究結果によると、この大洪水
は紀元前1920年に起こったという。舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の
崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとした。が、文字通
り「ヒョンキン者」だった。悪くはないが良くもない。で、諸侯は商均を舜の後継者と
認めなかった。その為に「禹」が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた
。禹は治水工事に埋没した。その家に帰還して歩く姿が「トボトボ」歩く形容詞になっ
たと言われる。姓は似(じ)と称していたが、この王朝の創始後に、氏を夏后とした。
禹は即位後の暫くの間は、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を
苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りにした。関所や市場にかかる諸税を免除して、
地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の国内は
もとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。こうして貿易で繁栄した。更に禹は
河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して開墾を勧め草木を
育成し、中央と東西南北の違いを、旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を
分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動する。『竹書紀年』に依
れば、45年間も帝であった。という記録だ。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、こ
の皋陶は早くして死に、死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。尚、「禹」という
文字は本来蜥蜴(さそり)や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲
む水神だったといわれている。この神話から、禹及び夏人は南方系の海洋民族であった
と想定する説もあり、その観点からの多数の研究書も存在する。こうした書物は柳川の
伝習館に収蔵し 研究結果は柳城中学校に発刊書があった。又福厳寺はそうした黄檗宗
の習元でもあった。

63 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 10:41:06.53 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   199

 この後、最初の世襲王朝の禹の崩御後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れ
ていない事もあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王
位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている
。啓の崩御後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った(これを
太康失邦という)」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちには
「五子之歌」を残す。「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛納、作五子之歌」
『史記』「夏本紀」より『竹書紀年』に依れば、太康を国から追い出したのは翠である
とされる。五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が
恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放された
のだと解釈されている(孔安国)。太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。都は斟郡、
元年は己丑、在位年数七年。在位五年秋九月庚戌朔に日食が起こり、また諸侯の羲氏と
和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和
氏を討伐している。『史記』は、中康の後の帝達についての事跡は 特に記述はない。
『竹書紀年』に依ると、中康の子である相が跡を継いだ。都は商丘と斟郡、元年は戊戌
、在位年数は二十八年。 その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた。が 妻・玄妻
(純狐氏)と臣下の寒促に殺された。二十八年には相自身も寒促とその子供の澆によっ
て殺された。相の遺児である少康は母である緡が都でのクーデターから逃れたために、
彼女の出身地である有仍国で生まれた。少康はやがて成長すると、その息子である予や
夏王朝の遺臣である伯靡、有仍氏、有鬲氏などと共に寒促や澆、エイを討ち滅ぼした。
これを「少康中興」という。顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』
を正当化する為に漢人が作った話である。」という説を提唱している。まあ事実は別に
して、書物ではそうなっている。

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 10:59:13.37 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   200

 少康の子である「予」の都市制圧は強く、原と老丘、元年は己巳、在位年数は十七年
。在位八年に東海と三壽を征伐し、九尾の狐を得た。と書かれる。予の子は槐である。
都とした場所は不明である。「槐より始めよ」の槐でボートのオールの意味だ。元年は
戊子、在位の年数は四十四年。在位二年に九夷が来訪する程の治世だった。槐の子は芒
である。都は不明だが元年は壬申、在位年数は五十八年。在位十三年に東海にて大魚を
得た。「茫然自失」の茫である。恐らくは東海に出たが領地は小さくなったものと思わ
れる。芒の子は洩である。この人も都は不明、元年は辛未。在位年数は二十五年。在位
十二年に有易氏を討伐した。洩の子は不降である。都は不明、元年は乙亥、在位年数は
二十五年。在位六年に九苑を討伐した。不降の子はケイである。都は不明、元年は戊戌
、在位年数は十八年。ケイの子はキンである。都は不明、元年は己未、在位年数は八年
。在位八年に太陽が十つ同時に出現した。この。槐→茫→洩→不降→ケイ→キンと言う
流れは、繁栄したが、以降は夏の衰退と滅亡の流れを創った。不降の弟でキンの従兄弟
14代目の夏王朝は孔甲で破滅が起こる。都は西河、元年は乙巳、在位年数は九年。性格
が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていった。と記録
される。夏朝の徳治に翳りが出た。孔甲の子は皐である。都は不明、元年は庚辰、在位
年数は三年。在位元年に孔甲が滅ぼした豕韋氏を復国させた。皐の子は発である。都は
不明、元年は乙酉、在位年数は七年。在位七年に泰山で地震があった。発の子は桀であ
る。都は邯鄲、河南、元年は壬辰、在位年数は三十一年。人徳に欠け、武力での諸侯や
民衆を押さえ付けた。人心の離反を招き暴動も多発した。又、商の天乙 (湯) を呼び出
し夏台に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり
、遂には桀を倒す。(鳴条の戦い)。桀は鳴条に逃げ客死した。この桀に関する伝説は
殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 11:03:59.37 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   201

近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が
起きていたことがわかっており、史書にも桀王年間の天候不順が記録される。合わせて
、夏の遺跡である望京楼遺跡からは、殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外
は全て破壊され、出土する遺骨も多く手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するな
ど、深い加害の痕がしのばれる。このようなことから、実際には力によって、殷は夏に
とって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅
の武器も出土する。天乙は帝位に即位すると、夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』に
よる)に封じた。周代に於いては、杞に於いて諸侯に封じられている。『墨子』五巻に
、夏と三苗(ミャオ族)に関する伝説が記載されている。三苗(サンミャオ)時代に、
夜に太陽が現れ、血の雨が三日間降った。龍が寺に現れ、犬は通りで吠えた。夏の水は
氷になり、大地は裂け、水が噴き出した。五穀は変異した。天はミャオ族に克服を課し
た。雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。後、夏王国は建国した
。とある。このミャオ族と夏の建国に関する伝説については、他の史書での記載と対応
させると、以下のようになる。紀元前26世紀頃、神農時代、華夏民族の 君主・黄帝が
蚩尤民族の討伐作戦を行い(タクロクの戦い)で破った。タクロク戦いは黄河の台地で行われた
。蚩尤は濃霧を起こして華夏軍を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤
民族を破ったのだ。この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族、巨体の
夸父族だった。敗れた蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。一部
は周代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国である楚や呉の建国に関わった。
とされる。まあ紀元前2500年であるから、知る由もないが、天変地異の類があって
国民が貧窮し 夏王朝が出来たとされる。これがノアの洪水とも思われる。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 12:08:11.49 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   202

 中国では楚は異民族の国とされている。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は
北方民族の侵入に苦しめられた。ミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部
の破壊で、ミャオ族が大量に南朝の領域に逃げてきて漢民族と同化する。先秦時代苗族
は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域住民だった
。長江文明に属すると見られ、三苗は屈家嶺文化や石家河文化の中心付近が本拠地だ。
。三苗は母系集団で、黄河流域の中原に依拠した為、父系集団の龍山文化と対立した。
この相対した龍山文化が夏王朝に繋がる集団と見られている。中原地域は黄帝と炎帝の
活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族
を征服する。夏王朝を興しており、黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力
争いを描いたものとされる。長江中流域の屈家嶺文化は紀元前3000年〜紀元前2500年と
され、下流域の良渚文化の紀元前3300年〜紀元前2200年の時代に最盛期を迎え後は衰退
した。中流域は、黄河流域の二里頭文化がその後の文化を担って紀元前2100年頃〜紀元
前1500年頃に先の屈家嶺文化が移植されたと考えられる。夏の後継民族といわれ、また
そのように自称した民族は多々ある。禹の時代は、河南省禹州市が中心で紀元前1世紀
の頃の夏人の町として有名だったと『史記・貨殖列伝』では言う。潁川(えいせん)と
南陽は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移した。南陽は西は武関に通じ、
東南は漢江、長江、淮河を受ける。宛(えん・南陽市)は亦都会で、その風俗は奇矯、
職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれている。と記され
る。杞国は、杞県に在った。越国は、福建省、広東省、広西省からベトナム北部にかけ
て活動していた。こうした越人も又、夏人の末裔を自称していたという。また禹の墓が
あると伝承される会稽山はこの越人達の聖地でもある。紀元前 333年、越国は楚に滅ぼ
され越人は四散している。その四散している中に日本の倭人のいる百越国がある。とさ
れている。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 12:09:21.84 ID:H8xjBLB1r
本来中国漢民族は東夷西戎(とういさいかい)南蛮北狄(なんばんほくてき)の意識が
国の周りだった。東も西も知らない者、南は聞きいれない北は敵だという事である。
この南蛮とは当然滅ぼされた越国だったからだ。更西戎は西には(宗教的に)住めない
意味がある。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 12:10:45.68 ID:H8xjBLB1r
本来中国漢民族は東夷西戎(とういさいかい)南蛮北狄(なんばんほくてき)の意識が
国の周りだった。東も西も知らない異民族、南は聞きいれない北は敵だという事である
。この南蛮とは当然滅ぼされた越国だったからだ。更に西戎は西には(宗教的に)住め
ない意味がある。

69 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:26:47.75 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   203

 百越や倭についても夏人の、末裔と考えられている。倭人・倭族は百越の一族とも、
され、越人の一部は倭国に渡来したと考えられている。匈奴(きょうど)はモンゴルの
遊牧民とされているのは「史記」「漢書」「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏
であり、この夏后氏は夏王朝の一族であると記述される。名を淳維といい、夏后淳維と
いったという。すなわちこの夏后氏は夏王朝の子孫とされている。百越国については、
現在の浙江省東海岸が起源と見られている。言語は、古越語を使用し、北方の上古漢語
を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。という。秦および漢の時代に
は「北方胡、南方越」といわれており、「越」は南方民族の総称ともなっている。韓語
、呉語、閔語、粤語は、百越の百越語と関連が深いといわれて研究されている。周王朝
の春秋時代には、この呉や越の国を構成する民族が胡族と越族とされる。秦の始皇帝の
中国統一後は帝国の支配下に置いた。漢の時代にこうした戦から、2つの越国が確認で
きる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越
である。もう1つは、中国の閔江(福建省の川)周辺の閔越(びんえつ)である。この
時代に中国秦に取り込まれた越人の地域だ。越人の南方を占めた漢人と言う形態である
。北方民族による力の支配がぶつかり、しばしば、反乱がおきている。徴姉妹の乱は、
現代に伝わるその当時の反乱の1つである。こうした中国に思想家はかなり排出した。
百家繚乱という思想の大家は、古代中国戦国時代を中心に活動した諸子百家の一派が、
名家とされた。百家と言う思想形態も科挙の試験問題に登用される物を名家の系譜とさ
れ、それ以外を雑家と分類されている。しかし重なる部分も多く大きい。現代に雑家に
分類されることもある雑家の書物の『呂氏春秋』の審応覧の諸篇や『淮南子』に、名家
の学説や逸話が記録されている。まあ日本的は銘家という後世で記録されるのが名家ら
しい。つまり銘菓と同じに上等なもの。と言う意味で日本の歴史ある家柄とは違う。

70 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:27:10.03 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   204

 名家は道家の『荘子』と深く関わった思想で。『荘子』は複数の章に名家の学説と似
た表現を用いている。また、恵施は『荘子』に度々登場し、荘周の友人あるいは好敵手
として描かれている。また、恵施の著作は完全に散逸したが、『荘子』天下篇にはその
学説が記録されているおかげで、恵施の思想は現在に伝わっている。一方で、公孫龍は
『荘子』秋水篇において、「井の中の蛙」として嘲笑的に描かれている。しかし他方で
、その秋水篇にも登場する道家の魏牟(魏の公子牟)は、『列子』仲尼篇に公孫龍の学
説を弁護している。名家は墨家の『墨子』とも深く関わる。墨家が「兼愛」「非攻」と
いった博愛主義・平和主義を説いたのと同様に、恵施や公孫龍もまた「氾愛」「兼愛」
「偃兵」といった博愛主義・平和主義を説いたという。また、『墨子』墨弁には、名家
の術語や学説と似た表現が頻繁に出てくる。名家は儒家の『荀子』とも深く関わり。『
荀子』は複数の篇で、恵施とケ析を奇説・邪説を説く者達、あるいは「礼」にそむく者
達として非難している。とりわけ『荀子』正名篇では、名家や宋の学説を邪説として同
時に、荀子自身の学説を述べている。また名家は法家と重なる部分も大きい。『ケ析子
』は法家に分類されることもある。『尹文子』では「名」と「法」の両字が重要な術語
として扱われている。『孟子』は、名家との関わりは薄いが、孟軻は邪説と闘う手段と
して「辯」を好んだ人物だと伝えられる。名家および上記の『墨子』墨弁、『荀子』正
名篇などの思想は、近代以降「名学」または「名弁」(名辯)と通称される。まあこの
思想体系や思想内容はここでは論じないが、多くの場合3つの事から成り立っている。
要するに戦国時代に如何に勝ち残るか、を方士として時の武将達に金を貰って説く事で
就業を得たのである。そこで如何に地政学的優位を生かす道や、人民や臣民を食わせる
道とか国家経営の仕方とか宗教の様に六韜三略(りくとうさんりゃく)孫六兵法(へいほ
う)とかが中国の戦国時代に特に発展した知識となり、君主や将軍達が兵士達を使って
効率良く戦う方法として、また戦う場合の定石を学ぶために生み出された。

71 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:27:43.88 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   205

 ここらで生まれたのが、大概の経済「大概の政治」や「おおかたのすう勢」という考
え方であろう。言わば寄らば大樹の影の思想が濃い。ここに西洋主義と、東洋主義の違
いがある。このインド仏典の「バラタ族の物語」という意味である「マハーバーラタ」
も。サンスクリットで書かれた、「ラーマ王行状記」の『ラーマーヤナ』もヒンドゥー
教の聖典とは言え、ただの大長編叙事詩である。旧約聖書でも、長編物語でしかない。
「ヴェーダ」ですらインドで編纂された一連の宗教文書の総称であり、「知識」の意味
の文書で、単にバラモン教とヒンドゥー教の指導者が「聖典」であるとして教えてる本
に過ぎないのだ。だが、ヒンドゥー教やバラモン教をヴェーダ宗教思想を継ぐものとし
て、ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)と呼んでいるのは、その聖典の魔力にあろう。神々
への賛歌『ヴェーダ』を聖典として、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝する。
司祭階級が行う祭式を中心とする習わしで。そこでは人間がこの世で行った行為につい
て(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。と
転生輪廻(サンサーラ)のバラモン教の思想を説いて、衆生を落ち着かせることに専念
した。当時にそれが熱狂的に受け入れられた。今はTVやラジオがあって娯楽も多いし
携帯電話すらあってゲームが出来る。しかし当時は何もなかったから解らないでもない
。紙は中国で発明された物だが、紙の出来る前からずーっと羊皮紙や樹木や織った布や
欄間の彫り物や、織物や天井絵などで、後世にこうした教えや言葉は口頭伝承を行って
いたに違いない。それらの文字の読み書きや文書物語を後継者が広め博識者が長老とし
て始動し生活が出来上がった。それが一千年や二千年間続いて来たのである。実はここ
が大きな問題でコーランの成り立ちにも恐らくは そうした大方の物語や大体のストー
リや大体の思想大体の経済で、問題なく大体の経済が出来、生活が確立していた。これ
がさらなる宗教になって行ったと思われる。

72 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:28:21.68 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   206

 その後中国は、徐々に北方の人々が南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また
他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分
かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっている。北部ベトナムは中国王朝の支配が
後退すると、939年に 最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。「越」の
国を失い、次第に「越人」としてのアイデンティティーを失っていったものの、現在で
も広東省一帯の方言である広東語を「粤語」と呼び、広東省の車のナンバープレートに
は「粤」と記載され、南方のベトナムは漢字で「越南」と書き表している。文化面では
、稲作、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰など、百越と倭人(特に海神族)の類似点が、
中国の歴史書に見受けられる。また百越に贈られた印綬の鈕(甜王の金印など)と倭王
の金印(漢委奴国王印)の鈕の形が蛇であることも共通する。現代の中国では廃れた、
なれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に、長江下流域から日本に
伝播したと考えられている。中国復旦大学・黄穎、李輝、高蒙河らは、百越はY染色体
ハプログループ「O1a」であるとしている。これは台湾先住民に多いタイプである。
崎谷氏は、百越がY染色体ハプログループ「旧O2」(旧O3が現O2となり、旧O2は現O1の
サブに置かれ現O1b。これにより旧O2aは現O1b1、旧O2bは現O1b2)の系統に属していた
としている。現O1b1/現O1b2は、長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い
、「現O1b1」および一部の「現O1b2」は南下し百越と呼ばれ、残りの「現O1b2」は西方
及び北方へと渡り、山東省、日本列島、沖縄、朝鮮半島へ渡ったとされ、この「現O1b2
」系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。「現O1b1」系統はオーストロアジア語族
と関連していることから、この説に則れば、百越はオーストロアジア語に近い言語群を
話していたと考えられる。「現O1b1」と姉妹関係の「現O1b2」系統(倭人)が日本に多
く見られることは、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高い。と
するデータとも符合する。

73 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:28:53.13 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   207

 ここに不思議な「百越国」の文化が出て来る、荘子外篇 刻意第十五に「干越(于越)の
剣を持つものは、箱に入れて使うこともなく 至宝とする。」とあり、剣が有名であっ
たことが示されている。越人の剣匠には、伝説的な欧冶子や干将・莫耶、徐夫人がいる
。また、越人が鍛えた剣で現存するものとして、越王勾践剣、呉王夫差矛などがある。
呉王夫差矛とは、中国春秋時代後期の呉国の王であった夫差が持つ青銅槍であるのだが
、ここには、鳥蟲書という書体で矛先に「呉王夫差 自作用ニ(さく)」と記されてい
る。つまり呉王が自ら作ったことを示しているとされる。呉王夫差がライバルであった
のは越王勾践である。彼が所持した八振りもある剣の一つも出土している。先の勾践剣
である。そしてそれも呉王夫差矛と同じように全く錆びていない。夫差とは、中国春秋
時代の呉の王で、最後の王でもある。越の王である勾践によって討たれたとされており
、勾践によって呉王夫差矛などの名剣や矛は取られたとされる。勾践は一度は命を助け
ますが、助かった命で勾践に復讐をされる。勾践とは、春秋時代の後期の王で、呉の王
である夫差の最大のライバルでもあった。一度は夫差に敗れた後、情けをかけられて、
夫差に仕える。しかしこの時、勾践は大変悔しい思いをした。この時の事を「会稽の恥
」と言って、勾践は復讐を思うことを日々忘れなかった。また「越王勾践剣」と呼ばれ
る八振りの剣を所持いていた。八振りのうちの一つが同じ湖北省で見つかっています。
この剣も錆びておらず腐食が進んでいなかった。ここに書かれる鳥蟲書(ちょうちゅう
しょ)は、古代中国で使われた漢字の書体の一つだとされるが、突然ここに出て来る。
中国大陸の南方の方で使われたとされ、字体に鳥をなど人獣の姿が抽象的な装飾として
融合されている特徴がある。この造形表現に重じる書体である。とされる。闔閭(うり
ょ)は、春秋時代の呉の第六代王で、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えた。越王勾践
に敗れて没したが、その子である夫差に復習を引き継ぐように。と伝えこの世をさった
。こうして復讐の連鎖が始まった。

74 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/16(木) 20:29:25.98 ID:H8xjBLB1r
イスラム社会のコーラン   208

 ここで特異な文化が現れる。鳥蟲(ちょうちゅう)書である。突然の文字は疑問が多
い。鳥蟲書(ちょうちゅうしょ)は、古代中国で使用された漢字の書体の中で、主には
中国の南方で用いられた装飾書体で、インド洋式に近い。鳥蟲篆(ちょうちゅうてん)
などの名でも呼ばれるこの書体は、鳥蟲書、鳥蟲篆、鳥蟲文などとも呼ばれる。鳥のよ
うな頭と尾を追加した鳥書(鳥篆)と、曲がりくねった蟲書(蟲篆)を合わせた名称で
ある、がベンガル地方のサンスクリットのコーランのアラビア文字を彷彿させる漢字で
もある。なお「蟲」とは、あらゆる生物を含む概念である(虫とは古代中国での虫や蟲
小生物全て、を意味する。鳥蟲書は春秋時代中期に初めて登場した書体(広義の篆書体
)の一種である。金属器に鋳造されたという点で金文の一種とみなす見解もある。鳥は
鳳凰を模したものとされ、長江流域の3国では氏族の神として鳥が神聖視されたことと
関連付けられる。線の屈曲には、龍や蛇を霊獣として尊ぶ思想と関連があると考えられ
、宗教的な意味合いを持つ装飾文字と考えられている鳥書は、越の青銅器や鉄器に使用
されている。特に剣など武器に、所有者や完成の日付を示すのに用いられた。越王勾践
剣に刻まれた文字はその代表例である。鳥書は青銅製の容器や玉器にも刻まれることが
ある。漢代の印章や、瓦当や煉瓦などにも用いられることもあった。黄河流域で用いら
れた金文に比べて、字角が大きく歪められ屈曲していることや縦長のプロポーションを
持つこと。字画に鳥をはじめとする人獣の姿が抽象的な装飾として融合されていること
などがあり同じ文字であっても、字体や書体が全く違う場合もある。鳥蟲書で記された
銘文は、王の手許を離れない儀器に、由来や所属といった定型的な内容を記している。
言語を伝達するという文字の機能が形骸化しており、造形表現を重視したものと捉えら
えられている。

75 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 00:46:25.35 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   209

アラム―トの民は 遠くは麻薬の里でアラム―ト河の住民だった。紀元前11世紀頃まで
に、ユーフラテス川上流に定住した。その拠点としては、ティル・バルシップ、サマル
、アルパド、ビト・アディニなどが挙げられる。その後、シリアに進出して新たな都市
国家を形成した。と言われる。当初はハマ、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心
となった。アラム―トの民、これがアラム人だラクダを用いてシリア砂漠などを舞台に
隊商貿易を行った。その後、さらに交易網を拡大し、古代オリエント世界には商業語と
しての古代アラム語を定着させた。と言われている。また、シリア沿岸部のフェニキア
人が用いていたフェニキア文字からアラム文字が作られ、その後の西アジア・南アジア
・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。ハサン・サッバーハはイスラム教の伝承に
残る「山の翁」の一人だ。暗殺教団の教主として若者たちを連れ去って、麻薬によって
饗宴を催しては暗殺部隊を作った。1200年代に「呪腕のハサン」の異名をとる暗殺者で
砂漠の民の汗人と、森の民として死闘を繰り広げた。山の翁の座は、その代の暗殺者達
の頂点であった。彼は万事をそれなりにこなせるものの、誰にも真似できない「特筆す
べきもの」がない平凡な暗殺者だった。だが生あるが故の焦りか、何としても山の翁の
名を求めた。己を偉大なる者、優れた者として名を残した。その手段として体を犠牲に
した、魔神の暗殺集団を作り上げた。ハッサン・サバ―のアラム―トは血にまみれた。
キャラバン・サバイブをして、1094年、ファーティマ朝第8代目カリフのムスタンスィ
ルの死後に、カリフの後継者問題で廃嫡されたニザールを支持した。その代理人を称し
ニザール派を形成してテロ集団になった。主に城砦の奪取や要人の暗殺といった手段で
セルジューク朝に抵抗して止まない教団を作り上げた。その独特の暗殺の戦術をして、
「アサッシン教団(暗殺教団)」と称された。教団はタアリーム理論の絶対服従を持っ
「新教説」で組織の結束に成功した。極めて禁欲的な生活を守り、それを犯した息子達
も処刑した。という。ハシッシの生産でトルコ・メン=男の中の男=「土耳古」を従え
た。トルクメン人のいわれだ。

76 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 00:46:48.23 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   210

 古代アラム語は、かつてシリア地方、メソポタミア近くで発祥していた言語で、遅く
とも 紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ、現在もレバノン
などで話されている語源体である。アフロ・アジア語族セム語派の言語とされ、系統的
にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語などと同じ 北西セム語に属す
言語である。アラマイ語とも呼ばれる。もともとアラム語は今のシリアを中心として、
その周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だったという
。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあっ
た。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが
、7世紀頃にアラビア語に押されて衰退した。現在でも アラム系諸言語の話者は存在
するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けていて変容したといわれている
。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は一段と縮小した。アラム語は新アッシリ
ア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用
の公用語としてもアラム語は使われた。近隣のセム語圏内の話者たちは、その文章語、
口語のアラム語化といった直接的な影響を受けていた。アラム語によって書かれた文献
は3000年間近くにわたる長い歴史を持ち、その間に大きな変化を経ている事がわかる。
また地理的な違いも大きい。大別すると古代アラム語は(紀元前850年〜紀元前612年)
各地の碑文によって我々は知る事ができる。当時アラム人は中東で重要な役割を果たし
た。アラム語はアケメネス朝の公用語となり、アケメネス朝継承者を自称するパルティ
アでもアラム語を採用する。この為、非常に多くの言語でアラム文字そのものがアラム
文字に由来する文字体系の基が創られる。アラム文字系統のパフラヴィー文字、アヴェ
スター文字、ソグド文字が使われだした。ソグド文字からはウイグル文字、モンゴル文
字、満州文字が派生した。突厥文字もアラム文字系統である可能性が高いとみられる。
インドのカローシュティー文字はアラム文字の系統であるが、アブギダに変化している
。ブラーフミー文字についてもアラム文字由来説がある。

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 00:47:18.51 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   211

 アラム語は新アッシリア王国の外交のための国際語として使われていて、エジプトか
らメソポタミアに至る広い地域で使われたが、まだ標準語としてはは成立していなかっ
た。とおもわれる。大帝国が出来てアラム語(紀元前600年〜紀元前200年)にアラム語
は新バビロニアとアケメネス朝の行政のための公用語として、エジプト、アナトリアや
インド亜大陸に及ぶ広大な地域で整理され用いられた。また各地に標準アラム語の文章
語が成立する。この時代の文献は殆ど残っていない。が幾つかが、主にエジプトなどで
パピルスや革に書かれた文章が発見されている。その代表のエレファンティネ・パピル
スに、聖書のエズラ記の中に引用されているアラム語の手紙がありこの時代に属する。
ほかにわずかな碑文が残る(ペルセポリスのものやアラム語で書かれたアショーカ王の
碑文などだ)。中期アラム語は(紀元前200年〜西暦250年)に整えられたものだ。この
時代、中東世界の行政語としてのアラム語の地位はギリシア語に取ってかわられた様だ
。地域ごとの方言への分岐が起きて各国の言語が出来た。しかし、帝国アラム語以来の
文章語は地域差を越えて使われ続けている。パルミラ、ナバタイ、ハトラなどの碑文や
、死海文書のアラム語文献、聖書のダニエル書の一部で使われているアラム語、オンケ
ロスおよびヨナタンによるタルグーム(聖書の翻訳)はこの時代に属する。後期アラム
語(または古典アラム語、西暦200年〜1200年)は、東西の2方言あるいはパレスチナ、
シリア、バビロニアの3つの方言に大別されている。ユダヤ教、サマリア人、キリスト
教、マンダ教などで、その文献が書かれた。とくにシリアのキリスト教徒の文献の言語
をシリア語と称する。この時代の後半になると話し言葉としてのアラム語は大部分が、
アラビア語によって駆逐されている。

78 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 00:48:40.23 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   212

 初期に天帝の釈迦仏である絵は、仏弟子一人舎利子を従えた釈迦が右手を胸の前に挙
げ、4人の信者たちからの布施の申し出を受ける情景で。これが最初の釈迦像でした。
小乗仏教の、出家をした修行僧であっても、なかなかたどり着けない悟りの境地である
のに、ましてや出家していない庶民が救われないのは、間違っている。という新たな考
えに至るようになった仏教は、こののち誰でも救済される大乗仏教へと発展していく。
釈迦如来の見た目・見分け方はガンダーラ仏の中では、釈迦如来も、他の如来像と同様
の特徴が見られます。釈迦如来の真言では「ナウマク・サマンダ・ボダナン・バク」。
である。つまり立像では時空をも越えてきた姿の、あの世を救う為の救済の立像であり
、座像では印を結んであの世への時空を超えて救う事を約束する瞑想の祈り座像である
事が多い。涅槃の臥像は先に言った通りの最初の旅立ちの別れの姿である。大乗仏教で
は、だれにでもご利益が得られる。という考えから、病気を治したり、智慧を授けたり
する仏像が増えて釈尊や大日如来像は少なくなる。又、大乗仏教の登場よっての歴史の
古い釈迦如来が、何かに特化したご利益の変化もない。それは釈迦如来にはもっと根本
的な部分で、「悟りを開くためのご利益がある。」「社会的大きな幸福を守る。」「未
来やあの世や過去さえ守る。」と言われた根本救済の思想が揺るがなかったからと言え
る。これは現地での、このガンダーラ地方において、侵略者による大殺戮が起きての、
人々は仏教に救いを求めたという。その苦しい状況の中で「祇園布施」と呼ばれる行為
が発祥した此の為に今の映画の様に仏伝図浮彫を造って飾った。このビジュアルで伝え
た救済で消えゆく仏教が盛り返したその原動力が昔からあった「夏越の祓」の祭りであ
る。

79 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:04:01.10 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   213

 「夏越の祓」を盛り上げたのは裸僧文化である、この先祖供養と、あの世の清算は、
仏教以前に既にあったものだ。この事から、恐らく裸体苦行の一つとして日本の相撲が
あり、そうした催し物や夜店も宿坊も、僧達の奉仕活動で、送り火や焚き祖霊送りも、
灯籠流しや、供え物や飾り物を川に流す精霊流しの風習もやったのだ。昔からの話であ
ろう旅人の柿である。卑彌呼の時代の三世紀頃の日本を記述した『魏志倭人伝』でも、
倭人(日本人)は死ぬと、十日あまり遺体を安置して、肉食を慎んで、喪主はその前で
哭(な)き、他の者は集って歌舞飲食し。そして葬送がすむと全員が禊(みそぎ)をし
て穢(けがれ)を祓(はら)う。とあるのだから、仏教伝来でなく拝火教時代からの、
梵行とか葬斎の祭祀があったのだ。安土桃山時代に日本を訪れた宣教師ザビエルなどは
、本国の報告にこう書いている。「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私たち
(キリスト教の宣教師の事)が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、全然救われない事
を非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や先祖への愛の故に、彼等の
悲しんでいる様子は哀れである。死んだ人のために大勢の人が泣く。そして私(ザビエ
ル)に尋ねるのである。祈りをもって死んだ人を助ける方法はないものかと、尋ねるの
であるが、私はただ助ける方法はないと答えるのみである。」と記している。日本人が
如何に天上界、すなわち天国を深く意識していた文化であった。と言う事だ。インドの
バラモンの教えから、仏教やジャイナ教やヒンズー教や裸体主義「アージーヴィカ教」
や古来からのゾロアスター教を比べて、仏教では現世の救いは善行にあるとするので、
天国や天上界はあるが、キリスト教と同じに聖人しか辿り着かない。ところがジャイナ
教とかゾロアスター教では、死んでも善行によって闘い続ける先祖がいるのでお供えし
祈って、それを助ける事が必要とされる。ヒンズー教やアージーヴィカ教では、ここに
運命論がでる。つまり現世でも来世でも、全く運命であり何も変わらない決まっている
ものだ。と言う話で、あの世で一回ずつ清算されて記録がなされて、その記録が輪廻の
終わりに向かってラジオ体操の記録簿の様に成就し卒業していく事に大事があるとする
考え方も、残っていたのだ。

80 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:06:53.10 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   214

 実は日本を救ったのは、この聖フランシスコ・ザビエルが嘆く様に、現世よりは先祖
の智に感謝して、先祖を位の高い地位に置く事の祈願が、日本の古来宗教、山岳系仏教
つまり国家神道として備わっていた事だ。大乗仏教が伝播してる日本に、拝火教も又、
日本では山岳信仰がより自然崇拝の強さがあり、裸体苦行の裸僧まではいかないものの
行者僧を産んでいた。聖(ひじり)山伏の伝承も残っていた。それが四国のお遍路の行
である。本来全国にあった物で「作善追善供養」善根をする事つまり「作善」は、本来
は生前に行っていくべき善行を、家族や子孫が、本人の死後代って行なう。つまり追加
して善を行なう「追善」で先祖を敬うと言う考え方である。追善は僧侶に頼んでお経を
読んでもらうことだけでなく、社会に対して善根を積む事を目標にしている。これが「
行を積む」作業なのである。よく仏教の『慈悲』の教えと説かれるが元来仏教に、人の
慈悲はなく仏に慈悲があるものが仏教である。仏教はあくまで三蔵の律(ヴィヤナ)、
経(スートラ)、論(アビダルマ)での人間の成長であり、知徳と知識と知恵の教えで
これを行動する。と言う事が主眼である。ところがこの釈迦仏陀の教えが日本仏教では
、伝来後か伝来途中にかアージヴィカ教、仏教、ブラフマン教(バラモン教)、ジャイ
ナ教の全てが仏教になってしまったのである。日本人の運命共同体の意識は、アージヴ
ィカ教に馴染みよく、過去の報いる転生輪廻の思想はジャイナ教の教えと同じだった。
また国家神道の、社会全体と共に生き、集団往生しようとする日本人の精神生活には、
死者の霊に、死の直後は、祟りやすく荒れる魂であって、滅罪鎮魂供養を重ねるにした
がって、だんだんと鎮魂されて一周忌、三回忌と滅罪追善供養の贖罪儀礼を経過する事
で浄化されていくと考えたしそれを信仰した。死者すら神もしくは仏に近づいていく。
というのは、殆どヒンズー教の偶像崇拝の世界だったのだが、日本人はうまく翻訳した。

81 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:08:24.27 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   215

 こうした、インド神話と日本神話そしてその間にある中国神話とその文字や言語との
関わりを、考えていくとかなりに昔の事になる事が判明する。つまり紀元前3千年位の
前の時代の話で神話と語り継がれる物と遺物の痕跡と文字や文章との繋がりである。こ
遠い世界の遠い年代の生活と文字と遺物が重なりあう事が大事な物証になって発展する
。ところがそうした「物」の証拠は大事だが、思想の中に大事な物が含まれている場合
も多い。それが宗教であり哲学であり政治だった。で時の政治から抜け出した形の物が
そこにいつの世にも存在する。と言う事に気づかされれる。その中に神仙道と言う物が
ある。「健康で長生きしたい」という願いは人々の共通のようだ。永遠の生命を得る。
という超現実的なところまでふくらませたものが神仙という観念である。ここに道教が
出来上がる。道教では理念的には神仙になることを最終目標としている。インドの神も
恐れぬ魔法の力は、裸僧のカシュヤパなどは、インド神話に於いてヨーガの修行を積み
苦行者で、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力「苦行力」と呼ばれる物
を持つに至った。とされる。その後に子供も神族の一部になるのだ。中国皇帝が霊薬を
求めて保護して来たのも、人の欲が永遠に変わらない証でもあろう。「神仙」は、東の
海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、不老不死などの能力を持ってい
る。また、戦国時代から漢代にかけては、神仙は羽の生えた人としてイメージされる。
このことは神仙は天へと飛翔する存在とされる起源である。神仙は、『荘子』において
は「真人」「神人」「至人」などとも呼称される。日本で言う所の天狗である。天狗は
まさしく「天=神」の「狗(犬)=下僕」を表している。道教(どうきょう)は、中国
三大宗教の、「儒教・仏教・道教」の一つにある。中国の歴史記述においては「道家」
「道家の教」「道門」「道宗」「老子」「老子の教」「老子の学」「老教」「玄門」な
どとも呼称され、それぞれ若干の違いがある。

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:28:22.70 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   216

 道教とは、漢族固有の宗教で、中国の三大宗教の一つに数えられている。時には外来
宗教を除いて、その後の中国の宗教形式をすべて「道教」の名で呼称する場合もある。
多神教でありその概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である。と
されている。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖と
なって教団が創設されたと語られることが多い。一般には、老子の思想を根本として、
その上に不老長生を求める神仙術や、符撰(おふだを用いた呪術)・斎醸(亡魂の救済
と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに、
様々な要素が積み重なった宗教となっていく。他にも、『墨子』の鬼神信仰や、儒教の
倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想
)なども道教とされ、道教の構成要素として挙げられる。道教は中国のさまざまな伝統
文化の中から生まれており、中国で古くから発達した「金属精錬技術」や「医学理論」
との関係も深く生活の中にも溶け込んでいる。道教成立は後漢末頃とされ、魏晋南北朝
時代を経て成熟して定型化していく。兵法が重んじられたからだ。隋唐から宋代にかけ
隆盛の頂点に至る。その長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い・姓名判断・風水
といった巫術や迷信と結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあ
った。詐欺た方士の活躍である。一方、社会上層にも浸透し、道士は皇帝にも不老長生
の欲求に奉仕した。皇帝が道教の力を借りて 支配を強めることもあった。また、隠遁
生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多く、こうした醸成された道教と
その文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している。という。現代
、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人とされ、台湾や東南アジアの華僑・華人
の間で信仰されている。また、中国大陸のみならず中国文化の影響下にあった朝鮮半島
・東南アジア・日本といった地域では、道教的な文化を多く受容している。中国本国に
おいては、五四運動や日中戦争、また中国共産党の宗教禁止政策などで下火になったが
、近年徐々に復興しているとも言われる。

83 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:28:58.27 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   217

 我々の先祖に、多くの宗教民俗学者は説くのは、庶民はこの霊魂説だけでは満足せず
、その魂や罪には、重量があると考え。子孫に追善供養もしてもらえない魂はいつまで
も軽くならないで、生前の罪を背負ったまま、地獄の底に沈殿して文字どうり、うかば
れないでさ迷い続けるのだ。と信じた。ザビエルに地獄から救われる方法は、ない。と
軽くあしらわれた事の解答が、日本人自身で日本を助けている。と言う現実がここにあ
ったのである。日本人が、死者の霊魂の存在を強く信じ、慰めたり、鎮めたりしていく
、やがてその恩恵を受ける事を祈念民族になり、現在・過去・未来と続く系譜的霊魂の
実在を信じて疑わなかった。葬式や供養に代表される「葬式仏教」が、日本の在家義務
を負い、社会を支える姿が寺を作った。インドの乞食坊主の、寄宿場所提供の寺院と違
い、自己欺瞞的な衆生欲求が今の門人寺の仕組みである。これは皇道神道の仕組みとの
融合でもあった。これが日本の社会秩序と歴史の根底をなした。よく宗教は個人の自由
である。と言われるが絶対権力者に帰依し、庶民にとっては、極めて抽象的な難解な物
を説話で納得させるのは極めて難しく日本の庶民は、集団生活に共生と霊魂観によって
それを理解させたのである。人間は肉体を持つ故に有限で、しかし霊魂は有限を解放ち
うち捨てる為に、無限大で万能になる。仏教の説く「ほとけ」は、覚者で正覚を得た者
、悟り者として、無限で永遠に万能の霊魂を持つと教えた。これにより死者・祖先の霊
・仏教の説く「仏」の三者同格とみなし、平易で解る庶民仏教の理解にもっていった。
かくして、僧侶の側の精進や行者の、魂の救済、絶対者への帰依といった要素を欠く者
の救済との、宗教的不都合に革命が起こる。それが親鸞の悪者の救済仏法である。そも
そもが仏教は経済救済の方法として伝来した。魂の救済とは言うものの、キリスト教の
布教に宣教師が商売した様に、仏教もイスラム教も商売において精神を囲う事を決めた
のだ。

84 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:31:49.09 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   218

 道教や東洋医学に造詣が深いエッセイストは健康科学の観点から、辟穀とそれに関連
する神仙術について語っている。日本には「玄古之人所以壽考者造次之阨s食穀也」と
書かれている古書がある。玄古の人(昔の)の壽考なる所以の者(老人)は、造次の
、(少しの間)穀を食わざればなり。と言うのだ『農耕生活以前、大昔の人々は穀物を
食わなかったゆえ、長壽であった』という意味である。辟穀(へきこく)とは、断穀(
だんこく)、絶穀(ぜっこく)、絶粒(ぜつりゅう)とも呼ばれる穀物を食べないこと
ある。中国では、穀物は不要であるという考え方が、前漢初め(紀元前 200年頃)から
確立していた。古代中国では、既に狩猟・採取時代から定住・農耕時代の移行期になり
、人々の健康状態が悪化した。このことに気づき、その原因が穀物であることをすでに
突きとめていたのだ。医食同源を旨とする中国人は、食=健康=生活、に関する驚く程
鋭い観察力と判断力により導き出されたのが「辟穀」であった。他の古代文明に見られ
ない科学的精神に基づく養生法と考えられている。さらに、この辟穀は中国古代の神仙
術も関係してくる。神仙となり不老不死を目指すには、「辟穀」と「呼吸術」はとても
重要であった。清らかな気を呼吸術で体に取り入れても、穀物の気で体内の気が濁って
いては意味がない。と考えた。ゆえに、穀食を断つことは神仙術には必須だったのだ。
気の思想から有毒と判断したものが、現代になって科学的に、それが糖質であると説明
されたのはつい最近だ。かつて日露戦争時代に、兵士には白飯ぐらい贅沢させよと、森
鴎外は盛んに陸軍に取り入ったが、それが日本の戦地での脚気患者の大量患者を産んだ
そんな歴史もある。もともと東南アジアをはじめ、日本など水の多い所は風土病も又、
多かったと言える。健康被害からわが身を守る事は集団や民族の教育の要だった。

85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 04:41:09.49 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   219

 現在の糖質制限を神仙術に照らし合わせると、糖質制限は食事だけに着目しているが
、神仙術は、「辟穀」を入口として、呼吸法としての吐納、服気、体操としての導引、
瞑想法としての座忘などの身体技法によって、健康と長寿を目指そうとした点が優れて
いる。との指摘もある。神仙術を含めた老荘思想での位置は、ギリシア思想やキリスト
教のように、人間は神の姿に似せて作られた崇高な存在ではない。人間は病気や運命に
翻弄され、のたうち回る存在だからこそ、逆に健康と長寿を目指していた。と分析して
いる。かつては高級な金属の金や銀や胴も健康の神薬とされていた様だ。中でも外丹と
内丹と内服薬に水銀すら飲ませた。神仙術は方士として皇帝に仕えていたからだ。辟穀
だけでなく呼吸法などの行法も取り入れる理由はそこにあった。神仙術の中で不老不死
の目的で、こうした劇薬は高価で水銀(丹)を主原料とした丹薬を服用する長生術を、
外丹と呼び与えた。今で言うワクチンの様な菌殺しである。回虫のいる庶民には効いた
話も度々出て来る。しかし虫もない健康な体では丹薬を服用した皇帝達は命を落とした
。そこで、外丹の代わりの「不老不死の素」となるものを体内に求める内丹という考え
が生まれた様だ。様々な行法が探求・実践されたが、インドのヨーガが伝わったのだろ
う。こうした内丹とされた呼吸法は、10年程前ならば一種のオカルトと見られていたが
、糖が外部から摂取しなくても、体内で合成できる「糖新生」や「ケトン体代謝」が見
つり、体内燃焼がわかって一般に知られて美容に取り入れられた。人の体に有効な薬効
成分を自ら創成できる点で、新しい発見だった。その上絶食状態に近くあれば体内の、
緊急免疫体になる緊急代謝ホルモンがでて、より体細胞が活性化させられる事が解って
いる。スムーズな新陳代謝にこうしたホルモン分泌は欠かせない条件であり、体内には
多種多様なホルモンが存在しており、絶妙に関連し合って体内のバランスを調節してい
る。それはどのホルモンにも言えることで、正常な分泌を促すために必要なのは、規則
正しい生活習慣や栄養素とバランスのとれた食習慣、水分摂取、運動であった。

86 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 09:21:02.52 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   220

さて、糖質制限では、穀物は控えますが、脂質とたんぱく質はたっぷり摂りながら痩せ
ていきます。はたして、断穀の神仙術では「草と露を食べる」仙人のイメージどおり、
肉食はタブーだったのだろうか。採取・狩猟時代においては、肉は主食ではあった筈で
、その実狩りが成功しない限り食料とはならなかった。つまり貴重な食料でありご馳走
で隔日の栄養だったのだ。そして、その狩には、神々への敬意を込めて肉をお供えする
風習が、定住農耕時代前、神々の時代や狩猟採取時代から続いていく。道教も、太古の
神々が食べていたとされる肉はシンボル化されていて、お供えとして『五牲(牛・羊・
豚・犬・鶏)』になったと理解される。『牲(いけにえ)』は、他の古代文明での生贄
の儀式にも通じた似たような物だが、根本思想が全く違っている。人間や動物が犠牲と
して捧げられるのではなく、神と共同の食卓で、会食なのだ。『五牲』は人間にとって
の食用肉である。このことがポイントで、馳走としての肉類が選ばれている。供養食膳
なのだ。現在の台湾などの道教の祀りでも、祭壇に丸々と太った豚を捧げるが。道教の
神々うちの一人神農は、牛の頭と人の体を持つ半獣半人の姿をしています。信仰の対象
である神の姿が牛というのも、自分たちのご馳走のシンボル化ではない事を示している
。これが辟穀修行になると、肉食は避けるべき行為な訳だが、修行の為に人里から離れ
た深山幽谷では、食料の調達は非常に困難で、たとえ食糧がなくとも、穀物は生存には
不要な食物という知識をもつ道教修行者は、餓死を避け、生きのびることが優先され、
肉食を肯定する現実的な対応が行われた。と考えるられる。供物という概念を操作して
、神々に供えた後のおさがりの肉は、修行中でも有難く食用に正当化して、実際には肉
を食べていた。だろうと推測できる。

87 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 09:32:09.39 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   221

 日本の精進料理の感覚では、肉食はタブ−視されがちだが、酒すらも般若湯としたの
だから、肉があっても不思議ではない。肉食に関しては、辟穀が現在の糖質制限より劣
る点があると指摘される。辟穀が観察と実証による養生法ならば、肉食についても明快
に肯定されるべきはずなのがそうではない。現代科学で糖質制限に肉食を積極的に肯定
している点では、一貫性のない辟穀より優位性がある。紀元前に中国で養生法と確立し
た辟穀は、その後中国医学の主流から外れた。漢方医ですら糖質制限を西洋医学の治療
法として考えていたからだ。「先人の知恵」から学ぶ最新科学の知見に基づけば実践的
に糖質制限を現代人は行える。辟穀について考えを巡らせると、過去の記録をもとに、
糖質制限の他にも別の視点から見直そうとするアプローチがある。中国考古学史上最大
の発見である馬王堆漢墓墳からも、辟穀のことを書いた文章『却穀食気』が出土した。
これら過去の記録からも学ぶべきことができる。こうした2000年以上前から「穀物は、
うまいぞ、みんな食おうや。」という罠にもめけず、定住人類すべてがハマってはいな
かったのだ。こうした不老不死を目指していた人達が、いわゆる糖質制限の第一世代と
言える。という。現実に仙人ではないが、サモア諸島やオーストラリアで、アボリジニ
などの食生活は、肉食でも穀物食でもない昆虫さえ食べる古代食である。それが簡単に
肉でも穀物が手に入り飽食文化になると、豆やイモのでんぷん粉でも大きく肥満体と、
簡単になってしまっているのである。彼らの、昔の写真や生活では、スリムで辟穀食で
あったが、決して肉を食べて無かった訳でもない。生命活動の基本となっている代謝活
動は、ホルモンバランスによって制御され、それらは飽食によって壊されるとしている
。ホルモンバランスを意識した健康管理の基本とも言える生活習慣や、食習慣の改善、
ストレスレス社会で、充分にミネラルの水分摂取により、ホルモンバランスの良好な状

88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/17(金) 09:33:26.27 ID:g7qkfaLyR
イスラム社会のコーラン   222

 不思議なのは、明治以降も神道擁護の立場からは、神仏習合が行われ廃仏毀釈があっ
た。又それは、日本の歴史全体では一度や二度ではない。幾度もあった。ただ中国とは
違って、祈りの慣習を全く捨てなかった。人は死して、肉体は朽ちはてて、跡はなくと
もなお、この郷土に留りて、その縁絶ちがたく毎年日を生活し、子孫の世に出る姿を見
てる先祖がいる。と固く信じた。そうした祈願は捨てなかった。つまり国家神道も仏教
も道教もキリスト教も、こうした日本人の願いを受けつけてる事が、基準であったのだ
。極楽往生や成仏などと言ってる戯言よりは、真に草木や山の風景や情景をより信じた
のである。此の世に出てくる事が、さも心得違いの如く、「罪深い人間世界」だから、
懺悔して生きなさい。などと説いた西洋とは違っていた。その為の蕃神批判はしなかっ
た。(蕃神:ばんしん:外来の神)世界の智慧や合理性が押し寄せ、多くの習慣に排撃
を受けた。しかし、そうした排除は日本人だけではなかった。仏教信仰の対象として仏
を礼拝して、その加護を願うアジアの国の全てに起きた。奇跡を祈る聖檀と同時に先祖
供養して加護を祈る場所が整う家の中に「先祖供養の祭壇」の地位は高かくあったのだ
。それを捨てずに、朝に礼拝夕べに感謝を無心に行っていた、そこには、死者の御霊と
共に生活している。と言う心ではない。自然との共生の豊かさがあったからだ。仏壇を
介して、見えない行為の存在の象徴を説く僧は、少なからず無意識に商売の勧めしか言
わない。そしてまた「より良く生きたい」と言う願望を利用して、葬式仏教に象徴され
布施や寄付を要請した。それでも仏教に、自然に託した心構えや気構えをして寛容にも
受け入れられた。現在の自分・過去の霊魂・未来子孫全ての者が「朝夕崇拝」に属して
「良く生きることへの切実な祈り」の姿を見せて、斎場や僧の売り上げに寄与した。無
名の庶民、とりわけ日本人の霊魂観は、仏教の言う極楽往生、成仏などという仏法選択
を思っていない。たくみに根付いた日本人固有の自然崇拝であり、霊魂観を習合・同化
・融合して造りあげてしまった習慣だけなのである。

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 05:36:12.00 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   223

小乗仏教ではマッラ国もガナ・サンガ制を採用しており、集会所を中心とした政体を持
っていた。ヴァッジ国と比較して残存記録が 圧倒的に少なく詳細はわかっていない。
釈迦の出身部族である釈迦族(シャーキヤ族)も、後世の仏典では王政の国であり釈迦
はその王子であった。とされるが、最も初期の仏典の記録は、釈迦族の政治も隣接部族
との戦争や外交問題に際して「ラージャーの集会」で行動を決定しており、ガナ・サン
ガ政体を持っていたと考えられている。このような、ガナ・サンガ国の特徴は 初期の
仏教徒達には理想的な政体と見なされた。仏典はヴァッジ国の政体の特徴として、以下
の点を上げている。@共同で行動して、A伝統的な法を破らず、いたずらに新法を定め
ない。B老人を敬い彼らの言葉を聴くし、Cしばしば会議を開いて多くの人が集まる。
D家族の婦女を暴力を持って連れ出し、捕え留める(同棲する)事はしない。E都市の
内外にある祠廟(チャイティヤ)を崇め供物を絶やす事がない。F阿羅漢を歓待し保護
する。としている。阿羅漢=聖者であり、少なくと中央アジアにイスラム教の前までは
強奪婚の習慣などなかったようだ。これらの法は釈迦がヴァッジ国に対し教示したもの
であるとされているが、実際には釈迦以前より整備されていたと考えられている。仏典
ではこれを、国の衰亡を避けるための7つの法と呼んでいる。そしてガナ・サンガ国の
政体的特長は仏教教団の構成に大きな影響を与えた。恐らく初期の仏教教団の組織は、
ガナ・サンガ国のそれを手本として形成された。と考えられる。が、不思議にも地中海
に既にアテナイの民主主義として、紀元前8世紀前後から、アテナイとアッティカなど
の周辺地域において発展していた。世界で初めての民主主義言われるが都市国家(ポリ
ス)のギリシアの都市では、アテナイの方式に倣った民主主義が成立していた。アテナ
イの民主主義は、直接民主制で、市民が法律や法案に直接投票したが、すべての住民が
投票に参加できない、大人の男性で市民権を持っている必要があった。そのため外国人
居住者、奴隷、女性には投票権はなく、その数は「成人の総人口の30%未満であった」

90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 05:40:10.14 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   224

 宗教的に大事な事は、このイランもしくは、東欧から、インドパキスタンにかけて、
紀元前八世紀ごろまでは、殆どが、拝火教もしくはジャイナ教で覆われていて、国家を
国教を超えて、このガナ・サンガ制を似せた集合体なり集落が各地にあった事だ。古代
ギリシア時代の、地中海の都市国家にもそうした仕組みがある。ところがかなり変容し
て国防の様相に変化する。例えば、スパルタという都市国家がある。彼らはいつも海賊
に襲われる沿岸国だった。最強兵士を育てる為に。スパルティ地方でスパルタクス団の
兵士人間を教育していく。この国は世界最強の重装歩兵軍を揃えた。スパルタ国内では
3つの身分の「ヘイロータイ」という農奴「ペリオイコイ」の市民権のない市民。旧来
のスパルタ人の3つのピラミッド層を持った国だった。その中に軍事義務があり参政権
を持たない偽装市民や商人、そしてその上の「スパルタ人」に最強兵士を育成プログラ
ムがはかられる。「スパルタ教育」として名高いが、その生命は6割以上が死に至る物
であった。生を受けた時から検査が行われ、未熟児や形態などに異常が確認され「健康
体」と認められなかった場合は、「生まれたばかりの我が子」を 洞窟に放置してくる
命令が父親に出される。時には時の領主から「崖から投げ落とす」よう命じられる。事
もあった。更にこの検査でクリアしても、生き延びられない。乳幼児は検査後、すぐに
ワインで洗われ ここで痙攣を起こして虚弱児であると判断されても捨てられるのだ。
この、スパルタ検査によって、生まれた内の約半数は殺されて行く。厳しい検査を乗り
越えて成長した子供も試練は続く。男の子は7歳で、強制的に軍隊の駐屯地に集められ
、規律の下で共同生活を始めさせられる。規律は「命令に服従すること」「試練に耐え
る事、闘いとなったら必ず勝つこと」の3つである。そこで5年間鍛えられ12歳で、
今度は村から追い出され、森で全裸からの生活をはじめ、沐浴も禁止される。この生活
は30歳になるまで続く。意図的に食べ物を与えないで、仲間の食事や、駐屯地の畑から
作物を盗んだり殺人者に仕向けられる。境界の森の護りで農奴の拡大を止めるのである


91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 05:40:36.77 ID:LncckBvaA
これは、兵士にとって大切な大胆さなどを身に付けさせる物で、当然、境界の暮しで
は、向こう側を襲う事になるのである。盗みが見つかることは決して許される事はなく
、村人に見つかった場合は、居住地側では厳しい鞭打ち、隣国の場合殺される事もしば
しばあった。と言われている

92 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 22:22:34.58 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   225

 これは、兵士にとって大切な大胆さなどを身に付けさせる物で、当然、境界の暮しで
は、向こう側を襲う事になるのである。盗みが見つかることは決して許される事はなく
、村人に見つかった場合は、居住地側では厳しい鞭打ち、隣国の場合殺される事もしば
しばあった。と言われている。この後も、成人になると短剣を一本だけ持って町を追い
出され、1年間は町に戻ってはいけなかった。と伝えられている。この期間の食料は、
自身で、奴隷の集落から奪うことで生き延びる事になる。こういった慣習や体制は、国
作りという世界では、何処にでもあった習慣の様だ。スパルタの場合には、軍事国家と
しての高い地位の一面で強い面はあるが、普通のオアシス国家やインドやエジプトの様
な国家でも、そう大して変わりなく奴隷を支配し、土地を守る兵士は必要だったようだ
。過酷な教育を受けたスパルタの戦士達は、古代ギリシアの中で最強の名を欲しいまま
にしていた。「スパルタに攻め入ることは自殺行為」とも言い伝えられ、当時の敵国の
常識であったと言う。紀元前 371年に起きた“レウクトラの戦い”で敗れるまで、スパ
ルタの支配地に侵入できた軍隊は存在しなかった。とされる。生まれた瞬間から試練を
与えられ生き抜いてきたスパルタ人だが、最期を迎える時もまた厳しい。スパルタでは
、老齢で死ぬことに栄誉はなく、墓石すら与えられない。墓石を得ることができるのは
、戦闘で死亡した兵士だけだった。闘いのために生き、闘いのために死んだ気高き、ス
パルタ人の伝説が、現代まで語り継がれている。紀元前 430年代にアテナイを中心とす
るデロス同盟があったが、対抗してスパルタを中心とするペロポネソス同盟があった。
これは欧州大陸とアジア大陸の商人戦争であった。古代ギリシア世界全域を巻き込んだ
戦争で、ペロポネソス戦争と言われる。紀元前 435年、コリントス人によって建設され
たギリシア北西部の植民市ケルキュラは、当時には既にコリントスと離反して、植民都
市エピダムノスで覇権争いし、取り合っていた。こうした内紛と周辺民族との抗争の為
疲弊し、内部の仲裁と兵隊の援助を、母市ケルキュラに求めたのだがケルキュラ人は何
の援助も与えなかった。

93 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 22:23:02.25 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   226

ケルキュラ人は、ベネツィアを建てたケルト人とも思われるが、紀元前 590年頃の世界
でアルテミスを祀る神殿が建てられた土族のようだ。ギリシア神話に登場するアルテミ
スは、狩猟と貞潔の女神である。いわゆる森の魔女的位置だ。アポローンがヘーリオス
と同一視された太陽神であるように、後世ではセレーネーと同一視された月の女神とも
されている。また月と森を守る女神である事から、闇の女神ヘカテーと同一視される。
、この森・月・闇の三通りの登場に姿を変えるものだ。とも信じられている女神である
。こうした夜の女神を祀るのは日本では月読み姫があるが、基本的に太陰暦の世界の、
特に海の民族ではごく当たり前の信仰であった。対してコリントス人は紀元前9世紀の
、ドーリア人(ドリス人)がやって来て建設された、アドリア海の名のもとになったと
される海洋民族である。商業都市として繁栄し、アプロディーテーを守護神とし祭祀を
していた。アプロディーテーはビーナスでお馴染みの、愛と美と性を司るギリシア神話
の女神である。オリュンポス十二神の一柱で、美において誇り高く、パリスによる三美
神の審判で、最高の美神として選ばれているという神で、ギリシャ文化の基になった神
である。ヘーシオドスの『神統記』によれば、クロノスによって切り落とされたウーラ
ノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれ、生まれて間もない彼女に、
魅せられた西風が彼女を運び、キュテラ島に運んだ後、キュプロス島に行き着いた。と
いう神話を述べている。この山と海の狩猟生活の土民と、奴隷の労働者を使って商業や
貿易をやっている海洋商人とは、それは食糧や労力での諍いがあっても当然だったろう
。アプロディーテーが男性器から生まれるという猥雑な誕生の仕方をしているのは歴史
的にそうした男性的な山の民の兵士を狩りをして奴隷や労務者として従えてきた事から
であろう。又、侍女を従い、アプロディーテーのつけた魔法の宝帯で「愛」「憧れ」や
「欲望」とが秘められ、自らの魅力を増して、神や人の心を征服することが出来る。と
いうので、宝石や真珠や金などをエジプトに売って、小麦や食糧を入れていたのかも知
れない。

94 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 22:23:38.36 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   227

 ビーナス=アプロディーテの女神の神話は、古くは東方の豊穣・多産の女神アスタル
テー、イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神であるとされる。『神統記』に記
されている通りとすれば、キュプロスに最初上陸し、ここを聖地として信仰が広がった
。オリエント的な地母神で、且つ金星神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、
幾多の庭園や公園に祀られて、その名残を留めている。そして愛の女神としての性格を
強め、自ら恋愛をする傍ら神々や人々の情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出
しているとされる。まあ慈愛の慈母の観音の愛染明王状態である。こうした形態を地母
神と言われ、日本神話でもイザナギとイザナミは、それぞれ天父と地母であるとされる
。また、縄文時代の遺物である土偶は、地母神を象って製作されたもの。とする考えも
ある。ただし、女性を写した可能性のある資料は土偶全体の半数に過ぎない。そうした
理由で土偶=地母神という見方は批判もあり定着していない。聖書の中でもコリント人
への手紙の分があり、コリント教会内の紛争や不道徳な行為などについてや結婚や処女
・献金などについて寄せられた種々の質問に関してのパウロの教示や伝道の指導書が残
っている。エフェソス伝道中に伝えられ、具体的な諸問題に与えた彼の実践的な解決は
異教世界の中での教会の置かれた位置やかかえる困難に対する伝道姿勢が垣間見える。
しかもそのなかには愛の必要,復活の信仰などについて確固とした教説が示されている
。ケルト神話にも地母神の典型例は見られる。「ダヌ神」はケルトの神殿トゥアハ・デ
・ダナーン(古アイルランド語でダヌの民の意)の神々の先祖で、その名の元になった
古い女神で、生命の源であり、火、竈、命、歌といったものの神であるとされている。
母なる神は豊穣の女神、戦いと破壊の女神といった性格で定義され、生命を産み、奪う
という性質が日本神話のイザナミと同様に一般的な要件となっている。ケルト神話では
、女王メズヴがその性格を持っていて、メズヴは戦をよくし、「クアルンゲの牛捕り」
の中で指導的な役割を果たす。この点で、戦の女神の性質を継いでいる。メズヴは後に
豊穣神としても扱われ、エウヘメロス的な豊穣神としての性格は常に「親しい腿達」と
妥協して、浮気な性格でも有名となる。

95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/18(土) 22:24:08.18 ID:LncckBvaA
イスラム社会のコーラン   228

 当初は、このペロポネソス戦争に勝利したスパルタでは、他の地方都市国家のポリス
に対して盟主となって、スパルタ主導の寡頭政(かとうせい)を強制導入した。寡頭制
または寡頭政は、大半の政治権力を少数の人々が握っている状態をいう。少数者支配の
体制で、対比語は多頭制(多数支配)である。寡頭制では、君主制や独裁制とは限らず
共和制や民主制でも存在し、権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、
4名の場合はテトラルキアともいう。恐らく当時の三権分立に似て幾つかに分けた権力
が存在し祭祀をして中央集権的に指導していたのだろう。全ギリシアを支配していくこ
のスパルタに対して、アテナイ側は征服されることを恐れてペルシアから資金援助され
てギリシア連合軍がスパルタに立ち向かった。とされるコリントス戦争である。ところ
が、強大な陸軍力に支えられたスパルタの覇権が揺らぐことはなかった。こうして対抗
すべく、テーバイのエパメイノンダスとペロピダスが立ち上がり、テーバイをスパルタ
に並ぶ強国にするために中部ギリシアボイオティア地方で統一を急いだ。スパルタは、
このテーバイの野望を打ち砕くために、懲罰の名目でペロポネソス同盟軍をボイオティ
ア地方へと派遣する。ペロポネソス同盟軍とボイオティア同盟軍はテーバイ近郊のレウ
クトラで対峙し、テーバイはこの一戦は絶対に負けられないとして、士気を大いに高め
めてレウクトラの戦いに挑むのである。が、テーバイの精鋭部隊は国費によって生活を
保証されていた彼らは、常日頃から訓練に励むことができる様にスパルタ式に共同生活
者であった。その実力はスパルタに次ぎギリシア最強と謳われていた。ここに「神聖隊
」がいたが、同性愛者によって構成されており、愛する者と共に戦うことで士気が高ま
り十分に力を発揮することを期待されていたと言うから、かなり異様だが、軍隊成立の
初期はそうしたものだったのだろう。

96 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 11:59:28.50 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   229

 レウクトラの戦いではペロポネソス同盟軍は数ではボイオティア同盟軍に勝っていた
ものの、精鋭となるスパルタ重装歩兵は既に少なく 700名となっていた。これは、当時
のスパルタは、先の様に出生時から選別され、戦さに駆り出され、戦後も所帯がないの
で、人口減少と富の増大による平等精神の崩壊で、スパルタの戦士共同体が弱体化して
いた。そこで要員は奴隷に据え替わった。スパルタ軍の少なさはボイオティア同盟軍に
も伝わっており、エパメイノンダスはそこに目を付けて立ち上がったのだった。初めの
うちはスパルタ軍が優勢であったが、敵戦列の分厚さに次第に劣勢となり、最終的には
ボイオティア軍左翼集団の戦列の厚みに押し潰される形で敗走し、ペロポネソス同盟軍
を率いたスパルタ王クレオンブロトス1世は敗戦に死を遂げた。まだ充分に戦力のあっ
たペロポネソス同盟軍は再戦しようとする。が、スパルタ王の遺体をこのまま野晒しに
しておくのは耐えがたいとして、休戦協定を結んだが、これが他の同盟国に揺らぎを産
んだ。今まで侵攻されたことが一度もなかったスパルタの地「ラコニア」が蹂躙され、
スパルタの隷属地であるメッセニアが解放された。スパルタの経済は大打撃になった。
ペロポネソス同盟は解体されたが、テーバイがペロポネソス半島を支配することはでき
ず、スパルタはアテーナイと対テーバイ同盟を結び、再び立ちはだかったのだ。そして
、マンティネイアの戦いが勃発する。テーバイの将軍エパメイノンダスは四度目となる
ペロポネソス半島への遠征を開始した。アテナイ軍をネメアで待ち構えたが、アテナイ
軍は海路を取ってアルカディアへ向った。そのためにそれを捕捉することができない。
スパルタの新王アゲシラオス2世はスパルタ軍率いて、全軍をアルカディアに出撃した
。これを知ったエパメイノンダスはがら空きのスパルタを攻撃しようと考えた。夜を徹
してスパルタに進軍して包囲したが、いち早く察知し、到着したアゲシラオスはこれを
迎え撃ち、スパルタを守り抜いた。まあ秀吉の大津返しや中国大返しのようなものだ。

97 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 11:59:50.14 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   230

 こうした、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同
盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争をペロポネソス戦争とさ
れる。トゥキュディデスはこの戦争が歴史的な戦争になることを予感してか、その顛末
を書き綴り、それは後に『戦史』として結実した。しかし、理由は不明だがトゥキュデ
ィデスの筆は、紀元前411年の記述で止まっている。それ以降も彼は生き続けた事は確か
なので、この断筆を彼の死とは結びつけられない。後にクセノポンが中断部分から筆を
起こして紀元前362年までを記録した『ギリシア史』(『ヘレニカ』とも)を著して、
この戦争の記録を完成させた。とされる。紀元前435年〜紀元前404年のアテナイが降伏
して、ペロポネソス戦争が終結する。ペロポネソス戦争の後、スパルタは他のギリシア
諸国とペルシアの協力を得つつエーゲ海の島々を支配下に収めた。しかし、スパルタは
敗戦国やアテナイの、旧属国から貢納を要求し、さらに戦時中にスパルタに敵対行為を
行ったエーリスを攻撃したため、コリントスとテバイが対エリス戦でスパルタへの援軍
を拒否するなどの同盟諸国の間でのスパルタの支持率は下がった。反スパルタ同盟は、
平和への道を模索しだし、紀元前 387年に締結されたアンタルキダスの和約によって、
50年以上の戦争の歴史は終結した。この条約でペルシアはイオニア全域の支配権を確立
し、またスパルタの覇権が確立された。紀元前 400年頃に起こった戦争はアテナイの無
条件降伏を以って終わった。こうした、アテナイの拡大に警戒したペルシアは、路線を
変更し、スパルタ側についた。この大帝国の寝返りによってスパルタ王アゲシラオス2
世の下でスパルタは 紀元前399年に小アジア遠征を行い、ペロポネソス戦争時の協力者
であったペルシアと袂を別った。この遠征においてテバイ、コリントス、アテナイは、
参加を拒否したが、アゲシラオスは小アジアの太守たちを相手に優勢に戦い、撤退直前
にはペルシア王の元への進軍すら計画した。この体制の維持に責任を持つ二国ペルシア
とスパルタはこの条約で絶対王政を敷いていくのである。

98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:00:27.07 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   231

スパルタで名高かったリュクルゴスという人物は、神託を乞うためデルポイに行った。
そのとき奥殿に足を踏み入れるやいなや、巫女が次のようにいった。「リュクルゴスよ
、わが豊かなる社に来たりしよな。そなたはゼウスをはじめ、オリュンポスに住まう、
八百万の神の寵児じゃ。わが託宣を授くる。そなたは、そも神か人か。いやそなたは神
であるぞ。」と巫女はさらに、「現在あるスパルタの国制をリュクルゴスに伝授した。
」とも伝えられる。しかし、スパルタ人自身の伝承に拠れば、これはリュクルゴスが、
彼の甥で当時スパルタの王であったレオポテスの後見役となった後、クレタ島からもた
らしたものが「リュクルゴス制度」であったという。すなわち彼は甥の後見役になると
すぐに、法律をことごとく改変し、新法の違反を厳重に取り締まったのである。リュク
ルゴスはその後さらに、兵制を改めて、血盟隊、三十人隊、共同食事などの制度を定め
、また監督官や長老会を創設したのである。このようにしてスパルタは変貌し、国制が
大いに整ったが、スパルタ人はリュクルゴスの死後、彼のために聖廟を建て、深く尊崇
して今日に及んでいる。(ヘロドトス『歴史』巻より)リュクルゴス制度の成立時期は
紀元前7世紀初め頃、スパルタが隣国のメッセニアを征服し、その土地をスパルタ市民
に分配した事で始まったとされる。メッセニア人をヘイロータイ(奴隷)やペリオイコ
イ(半自由人)としているが、そのころからスパルタ独自の支配体制づくりが始まって
、前6世紀半ばまでのあいだに徐々に整備された国制である。と考えられる。国家主権
は民会にあり、二人の王を含む三〇人の長老からなる長老会が民会にかける提案を用意
する。ギリシア最強の重装歩兵ファランクス陸軍をもち、その軍は地縁的五部族に立脚
し支配層を構成する。スパルタ市民は、食事に至るまで厳格に共同生活を行い、青少年
を共同で育成にあたった。スパルタ市民の経済的基礎をなす土地(クレーロス)は平等
に分割され、その売買譲渡は禁止され、特徴的に、貴金属貨幣は製造されず、成文法も
持たなかった。自由民であるスパルタ市民が戦士団として軍事的指導者にたち、半自由
民のペリオイコイと奴隷であるヘイロータイを支配する国家体制であった。

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:07:24.26 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   232

ヘイロータイはスパルタ隷農での農奴とおもわれる。ヘイローテース又はヘイローテス
・ヘイロースは「捕らえる」の意ハイレオや地名のヘロスから出たとされる。前1000年
にラコニアに侵入したドリス人のうち,スパルタの地を占領した一団がその地の先住民
であるアカイア人を征服して、これをヘイロータイとしたのが最初とされ前8世紀後半
に、スパルタ人がラコニア全域の占領を完了するまでに征服されたアカイア人という。
とくにエウロタス川の河口付近のロス地方のアカイア人がヘイロータイにされて、さら
にメッセニア戦争によってメッセニア全域がスパルタに併合されるまでの間、征服され
たドリス系のメッセニア人の大部分が,ヘイロータイ身分に落とされた。スパルタ市民
に所有され、そのクレーロス(持ち分地)を耕作して現物貢納を義務づけられてた奴隷
身分。スパルタ人に征服された先住民(アカイア人)で、たびたび反乱を起こして抵抗
した。と言われる。そのため厳しく武力で押さえつけられていた。また、「スパルタの
青年は、時々田園を見回って、疑わしいヘイロータイを見ればその場で殺してよかった
法律があった。」とされプルタルコスの『英雄伝(対比列伝)』に拠れば、スパルタに
おいては若者教育の一環として、「ヘロット殺し」が平然と行われていた。「役人たち
が若者たちの中で最も賢明であると思われている者たちを、時々田園地方のあちこちに
送り出し、彼らは短剣と必要な食糧の他には何も持たなかった。彼らは昼間はまったく
人目につかない場所に分散して身を隠し休憩をとったが、夜の間に道を下って行って、
捕えたヘロットを殺した。また、しばしば彼らは畑を横切って、ヘロットの中で最も体
が丈夫で力が強い者たちを殺した。」と書かれる。アカイア人は、古代ギリシア人で、
紀元前3千〜2千年前からバルカン半島から南下し初め東方方言種に属する一派である
。前1800年にはギリシア本土からエーゲ海に広く活動し定住していたという。

100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:07:54.92 ID:j+K31JKCA
  イスラム社会のコーラン   233

 メソポタミア文明の影響を受けて青銅器文明段階に入った時ギリシア本土に定住した
アカイア人は前1600年ごろ、先行のクレタ文明に代わってミケーネ王国などを形成し、
彼らは独自の線文字Bを使用してギリシア語を表記し、オリエント的な専制権力を持つ
国王のもとに貢納王政という体制を作り上げていた。また王国成立と共に、豊かな文化
がミケーネ文明として開いたが紀元前12世紀頃崩壊し、ギリシア人の別の一派ドーリア
人が鉄器の使用をテコに有力となると暗黒時代に陥る。先住民のアカイア人は征服され
てしまい被支配層になったのだ。スパルタのヘイロータイ層人はアカイア人と考えられ
ている。このドーリア人は西北系方言のギリシア人であるのに対して、アテネを建設し
たイオニア人とテーベなどを建設したアイオリス人は東方系方言のギリシア人とされて
いる。線文字Bはギリシア語の有声・無声・帯気音の区別のうち、t と d 以外は区別さ
れない。r と l の区別もなく、母音の長短も区別されてない。子音結合も 前後の母音
を補う場合もあるが、一部の子音は書かれない。語末の子音も省略されるので日本語に
近い。この「表意文字」と呼ばれる記号はミケーネ・ギリシア人の経済にとって重要だ
った資産を絵にしたものである。その総数ははっきりせず、今後も増える可能性がある
。というのも主に粘土板の上に左から右に書かれ、音節文字と「表意文字」と呼ばれる
れて、実際は文字ではない絵画的な記号、および数字と単位記号から構成されていて、
文などには使用されず、また、文字が書き留められた粘土板は、人為的に焼成されてい
ないことから、単純に記録を伝えるためだけに用いられたものと考えられているのだ。
ここで[ku]は「九」に近く、[ e]は「家」に近い標記である。[wi]は「風」に近くて、
ここに線文字Bの資料は 3000枚に上ることが知られている。子音結合をふくむ音節を表
したと見られる16の文字がある。そのほかに11の文字があるが、使用頻度が少ないため
に音価がわかっていない。この線文字Bとキュプロス文字の間には形と読みの両方が一
致する文字がいくつかある。線文字Bに対して線文字Aがある。

101 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:08:24.03 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   234

 線文字Aの資料は線文字Bと異なり、クレタ島のミノア文化地帯全体に広がっていて
ファイストスに近いアヤ・トリアダで発見された約150枚の粘土板が出ている。最多で
あるが、ほかにもハニアなどでも発見されている。周辺の島からも数々発見されている
。音節文字は60のうち50ほどが、表意文字は60のうち40ほどが線文字Bと共通するという
。ほかに線文字Bと異なって多数の合字があり、また分数を表す文字が存在する。ゴダ
ールとオリヴィエの文字一覧には単純文字(音節文字・表意文字)として178字、
合字164字、分数文字47字を載せている。この中にファイストスの円盤と言う物がある。
そこには、日本的には改訳できる。(A01) 王・時・武器・兵士・拡大(王の時武器と兵
を持って領土を拡大した。(A02) 家・分断・時 家若しくは国が2つに割れて時が流れ
た。(A03) 貢・河・会合(約束)貢物で境界を決めて条約を果たした。(A04) 貢・貢・
栄 生産が高まって潤い栄えるに至った。(A05) 王・時・使者・分断・魚 新しい王の
時代に使者が来て魚=群れ=集団がやって来た。(A06) 祈り・河・会合・時 宗教が出
て呪術師がこの国に境界を立てて神に誓いを立て時が流れた。(A07) 祈・貢・手 宗教
によってそうした貢物(豊穣)を手に入れた。(A08) 王・時・?・拡大・?又新たな王
の時代に?が?して拡大した。(A09) 飛・水・草 新たに開拓し水を引き農業を興した
。(A010) 王・時・町・枝・草 又新たな王の時代に多くの農業が栄えて沢山の街が出来
た (A011) 兵・町・分・会 兵を持って分断してる町に会合(祭祀)をもった。(A012)
王・時・鳥・印・華 新たな王に自然神を崇めて繁栄の平和な時を過ごした。(A013)
芽・亀 天候不順で雨が続いた。 (A014) 王・祈・船・矢・杖・拡大 そこで王は祈り
船を出し(貿易)矢を持ち(武力)印(会話)で国を拡大した。 (A015) 土・兵 反乱
が起こって兵を出した。 (A016) 王・時・飛・水 又新たな王は治水工事を果たした。
(A017) 王・時・貢・貢・草・蛇杖・路 次の王は繁栄を極めて 幾つもの街を従えた。
(A018) 魚 印 群れは教育が果たされた。 (A019) 王・時・飛・水、次の王も治世が果
たされた。(A020) 王・貢・船・矢・印 次の王も貿易で栄え砲艦外交で徳を得た。

102 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:17:55.15 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   235

 線文字Bと同様、大部分は財産管理のための目録を記した粘土板だが、いくつかは石
や金属に刻まれており、これらは表意文字を含まない。としている。しかし日本語的に
は物語であって、文章のようだ。人の頭はリーダー。やヘッドの「O」を示し王と思う
。五曜紋は神秘にも文字に書けない「時」や「時代」を示しているようだ。他にも着物
様な形は「毛皮」であり、供物や貢物を示し、「草」は麦や米であり 水草や昆布の様
なものは「水」や「生活」の意味であろう。「人の整列」や「人の行進」は、人勢であ
り、兵士や奴隷を示すものと思う。「犬の頭」や「動物の頭」は獲物の事で神でなく王
への貢物で「税」の様なものだったのだろう。杖が4つ出てくるが一つは矢で戦争の事
だとすれば、蛇を巻いた杖は、権威で収めた事で、四角い杖は口で収めた証であろう。
もう一つが棍棒のようなパンの練り棒の様な杖が書かれるがこれは一つの武器の事と思
われる。つまり、一つは約定や条約で収め、もう一つは武力で収めた事をいみする。鳥
も飛ぶ姿と立つ姿がある。一つは飛躍で、一つは神の象徴だろう。そして花は平和の象
徴だろう。家と神殿と二つある。家は王朝であり、冠のある家は神殿である。又河も、
溝と川が出て来る。溝は水路や道路であり 川は境界である。草も麦の穂と 穂の粒と
が出て来る 豊作と不作である。あとグローブの様な手は得た事を意味し 三角の入口
は一つの部屋の入り口で共和や協調や協力を得た事を意味し、二つに別れたものは分離
した事を示す。「>」は拡大を意味し、魚がうろこの付いた魚と只の魚がある。これは
集団を意味している。つまり只の集団と団結を意味する集団だろう。あとは米粒や麦を
大きくした絵文字も、トウモロコシの絵文字もブドウの絵文字も出て来る。こうした絵
文字で読める歴史は、今日水と入り口(和)で平和になった。と終了するまで、代々の
王朝の遺訓なり業績なりが語られる。その中でも祈祷師が出て加工業や農業が発展して
国は豊かになるが それぞれに分化して武力で制圧し、その内天候事情で不作になって
王の権威を保つ為に他国にまで侵略戦争する。というパターンが永延と語られ綴られて
いる。そしてそこにはやはり、宗教で納まると言う時期が度々あらわれるのである。

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:18:42.56 ID:j+K31JKCA
・・・・と 私は読み解いた。・・・・つもりである。

104 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:19:34.97 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   236

 古代遺跡の中では、ドルメンという巨石記念物が現在にまで残っている。3〜4個の
巨石で側石を囲み,上部に扁平な1個の巨石をのせたもので,中から土器,石器,人骨
などが出土するところから一種の墳墓と考えられている。ヨーロッパの特にフランスの
ブルターニュ地方に多く出現している。しかし世界中のインド、北アフリカ、中国東北
、朝鮮、日本にと、類似のものが分布する。構築年代は色々あるがヨーロッパでは、紀
元前3000年〜期限前2000年が多くあり、インドでは前3世紀〜後1世紀で支石墓として
取られられる。日本の中でも古墳の形態はこの支石墓形で土をかぶせた状態に、室内側
に装飾が施されて残ってる。と言う物が多い。ドルメンの名はケルト語で「dol」は机
、「men」は石を意味している。大きな天井石と それを支える側面の数個の石からなる
。支石墓と訳されているように、そのほとんどが墓と考えられている。新石器時代から
鉄器時代にかけて世界的に分布しており、形態もさまざまである。朝鮮では、3〜4個の
大石の上に1個の大きな天井石をのせる卓子式支石墓や、支石が小さくて墓室を構成し
ない基盤形支石墓などが知られている。またヨーロッパの羨道(せんどう)墳や通廊墳、
日本の横穴式石室をドルメンとする考え方もある。イギリスの考古学者は、ドルメンと
いうことばが、原形が何かわからない崩壊の著しい巨石建造物に使われる場合は、モン
テリウスの分類した「1枚の天井石が2個以上の側石によって支えられる単純石室」と
(デス)を意味する場合や、またすべての巨石建造物をドルメンとよぶ場合などを分類
し、実に多様にドルメンと呼ばれている。その為学術的用語としてはこれを用いるべき
でないとしている。アジアでは、朝鮮のほか中国東北部やインド、ベトナムなどで調査
が進み、南米のサン・アグステンなどもよく知られている。このドルメンが数多くあっ
たとされるのが九州地方だが、今は田畑の集積事業で数少くなくなっている。

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:20:47.23 ID:j+K31JKCA
まあ 九州人 特に福岡県政なんか 糞のような行政して 歴史や観光資源を壊している

106 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 12:27:01.08 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   237

ドルメンは井石とも呼ばれ、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見ら
れる巨石墓で基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石
を載せる形態をとる。もっとも早く発祥したのは西ヨーロッパだったと考えられている
。しかし、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの地方で
社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥した。とする見方が、
非常に有力である。大西洋・北海・バルト海沿岸に見られる。紀元前4000年〜3000年頃
の西ヨーロッパでは、支石墓などの巨石建造物に代表される巨石文化が興っているが、
農耕の伝播との関連性を指摘する説が有力である。紀元前6500年〜4500年にかけてヨー
ロッパ全域に今や農耕が普及しているが、農耕の開始時に大西洋沿岸で人口増加が顕著
となり、社会的不平等が生じ、上級階層の墓制として土盛りの素朴な墓が発生し、その
うち巨大な支石墓へ発展したのだ。と考えられている。その後、紀元前3500年頃に巨大
な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行する。このことは上級階層を中心とする社会
構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられたことを示唆していると説明される。
最終的に紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅した。都市や町の建設の際に、
建築や道路の材料として墓の巨石が使われ、多くのドルメンが失われたが、それでもヨ
ーロッパには数千基のドルメンが現存しており、フランスに4000基、イギリスに2000基
、ドイツのリューゲン島だけで1000基以上が残されている。ヨーロッパにおける支石墓
の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)と考えられている。アジアでは比較的
後期の物で、朝鮮半島では 紀元前500年頃(無文土器時代)の遺構が、半島のほぼ全域
で見られて(約4〜6万基)があるとされる。私の考えは、この紀元前7〜600年頃鉄器の
時代が木の加工が出来て第一の大航海時代があったと考えている。この頃盛んに山林の
木が利用され砂漠化と温暖化の大洪水を引き起こしたのではと推測する。

107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:31:32.50 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   238

こういう事からドルメンは、私は 私見なのだが墓ではなく 葬祭上の風葬の火葬場と
見ている。基本的に風葬は鳥葬だったり獣葬や虫葬としているのだろう。と思われる。
エジプトではわざわざ王様に防腐処理してミイラ化させる技術が確立されている。が、
これは、宗教観が拝火教の月星神信仰から変化し、暗黒神や太陽神に変わった事を示し
ている。基本的に風葬の伝統からして、頭蓋骨以外を飾る風習には違和感がある。通常
は、恐らく洞穴での活動時代から人が住むので、それ以外の所で風葬を行った。と私は
思ってる。拝火教いわゆる、ゾロアスター(ラクダ使い)が作った物とされているが、
文字通り火を祀る宗教なので、火が容易でない時代、つまり拝火教の、それ以前に自然
崇拝の風葬の宗教があったとしても不思議ではない。エジプト時代は火を使い、煉瓦が
作られ、殺菌処理した醸造で、ビールやアロマなど御香や香りの風習が出来てより文化
が高まっ時代だ。朝鮮半島で(約4〜6万基)があるとされる支石墓だが世界の支石墓の
半数が朝鮮半島にあるとさえいわれている程、忽然とこのエジプト戦国期にでてくる。
これは逃げて来た民の移動連鎖のドミノが起こったとも考えられる。このドルメンでは
北方式と南方式のその境界が全羅北道付近で分れるとされている。天井石が碁盤状を呈
するものから、崩壊した物まで多様な類型をドルメンとしていることも、朝鮮半島の中
の支石墓の特徴である。紀元前後になって、銅剣(細型銅剣)が副葬され、朝鮮半島に
おいて、分布が特に顕著な時期になり半島南西地域(全羅南道)に集中する。同地域で
もっとも多い場所で500〜600基の支石墓が群集して、支石墓には朝鮮半島の先史時代の
特徴を大きく持つ。その為2000年には高敞、和順、江華などの支石墓群が、世界遺産に
登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり
、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:33:42.13 ID:j+K31JKCA
まあ 金属器が無かった時代の 鳥居代わりの礼拝堂だった。と考える感じだ

109 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:36:25.37 ID:j+K31JKCA
呪術師が 祈りの最中に火が消えたり 雨にぬれたりしてもいかんでしょう。
今でも 神主の祝詞場所は 離れてちゃんと防風雨状態で行うからね。まあおもてなし文化なのか知れないけど

110 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:41:18.02 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   239

 日本では、中国浙江省の石棚墓群とよく似た支石墓が、縄文時代晩期の長崎県や福岡
にかけて出現しており(原山支石墓群や大野台支石墓群など)、持徴的な屈葬や箱式の
石棺を伴うことなど、日本仕様の一定の独自性も認められる。日本の支石墓では、弥生
時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えているとも見られている。その意味では大牟田
の甘木山の石棺盗掘での、調査と管理の不備には、大きな落胆が残ってしまうのだが。
このドルメンが数多くあったとされる九州地方だが、今は田畑の集積事業で数少くなく
なっている中で残るのが、福岡では芥屋地区にも少し残っている。芥屋(けや)や可也
(かや)の名は朝鮮半島の、伽耶(かや)国、或いは、加羅(から)国または加羅諸国
(からしょこく)から来ている。とされる。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の
中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す名である。広義
には、任那政府に含まれるが狭義の任那と位置が異なっているが、これは戦乱期に民族
が動いた可能性もあるとされている。芥屋の可也山は、糸島半島の西部に位置し、唐津
湾に接する。標高は500mにも満たないものの、形の整った独立峰であり、糸島平野部の
ほぼ全域から望むことができる。その山容から筑紫富士(つくしふじ)、糸島富士(い
としまふじ)、小富士(こふじ)などと呼ばれてきた。山体の大部分は花崗閃緑岩から
なり、昔から良質な石材の産地として知られる。中腹部には福岡藩時代の採石場跡が残
され、採石場から切り出された石が、福岡藩主・黒田長政公により、栃木の日光東照宮
に寄進された。日本最大の石鳥居の原石として使用されたのである。山頂から北西200m
地点に可也山展望台があり、ここからは芥屋の大門や弊の松原、能古島や博多湾が望め
る。いわゆる海戦の眺望台とされた。ここに支石墓があったのである。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:41:42.84 ID:j+K31JKCA
イスラム社会のコーラン   240

 ここは船戦さの為にも使われた。と思われる。無文土器時代(むもんどきじだい)は
、朝鮮半島の中での時代区分で、 紀元前1500年〜300年頃に及ぶとされていて、ちょっ
と疑問である。この時代の典型的な土器類は、表面に模様を持たない様式で無文の土器
であることから命名された名称である。ここに奇妙さがある。ほぼ4千年前の文化様式
の支石墓の欧州のドルメン様式が突然2千5百年前に朝鮮に出現するのである。朝鮮の
考古学の意識が不明で何人も死んでいるから信用できないのだが、少なくとも農耕が始
まるとともに、社会に階級が生じた時代である事のようだ。朝鮮半島北中部と南部の間
では住居や墓制に違いが見られ、時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから
影響を受けた可能性すらある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見ら
れ日本の方が古いとも思われる。かつては、朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが
、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから前 500年頃
であり韓国の年代測定や時代考証は不適格であり正確とは全く言えないのである。葬制
としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や
甕棺墓までもが見出されていて整理すらもなされていないので、今後の日本考古学考査
には大きな脅威とも言える。古代の一般人の社会にも宗教の闘いがあった。と考えられ
変化がある。世界的に趨勢を握ったジャイナ教とされるが、このジャイナ教と拝火教に
闘いを見る事が、今や時代考証に不可欠の要素である。イスラムにハッジの儀式(メッ
カへの巡礼)でカーバの祭りがあるが、最後の預言者ムハンマドが、最後の偶像を祀る
る一族「クライシュ族」を包囲しメッカを戦争を行わずして征服した。その際何百もの
神の彫刻が壊されて残ったのは黒石だけだったのである。このムスリムの横暴を始めて
悲しんで約束をたがえて済まないと、ムハンマドがこれを函に詰めて参拝する事を協力
したのが始まりなのである。

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:43:41.65 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   241

 この頃までムハンマドは、恭順を示す民には、他の信仰を侵さないとの方針を示して
いた。既に布教の時期は終わって、税の取り立てを了承した部族には侵略を行わない。
信仰の破壊をやらない事を誓わせていたのである。ところがこのメッカを包囲し戦争を
行わずして征服したムスリムの軍隊は、街に入ってその際何百もの神の彫刻が壊したの
である。此の為時の将軍と兵士数十名は処刑された。この時の処刑の中にもムハンマド
の親交のあった友の子供が入っていて、その弔いにもこのカーバの祈りを自分の戒めと
して殉教巡礼を勧めたのであった。ソロモンの聖櫃(アーク)も色々な説はあり聖書に
も書かれている。しかし、祈りの信仰対象としての柩であったとされる。つまりは聖人
を想う対象物に他ならない。更に驚くのはこのカーバの祈りの中に、欲望の禁戒を厳守
する苦行・禁欲主義のインドの宗教「ジャイナ教」の裸体僧の思想が埋め込まれている
。ハッジはイスラーム教の5本の信仰の柱の1つに数えられるもので、男性の巡礼者は
、普段着は一切身に着けてはならず、縫い目のない2枚の布で身体を披う。一枚の布を
腰に巻きつけ、下腹部を披う。もう一枚は、右肩と頭が出るように、左肩にかけ、斜め
に下げるのだ。女性は簡素な衣服を身に着け、顔は披う必要もない。カーバ神殿の周囲
を反時計回りに7周し、預言者アブラハム(彼に平安のあらんことを)が4千年前に唱
えた言葉を唱えるのだ。また、巡礼者は、サファーとマルワ(カーバ神殿の近くにある
2つの丘)の間を、徒歩か駆足で7回往復し、日本の祈願行みたいな事をする。預言者
アブラハムの妻ハガーが、彼女の幼い息子イスマエルに与える水を探したことを再現す
るとはなっているが、神社の水掛け祈願と同じである。翌日、ファジュルの礼拝を終え
、アラファートの平原へ行き、そこで露営するのだ。巡礼者は、正午過ぎにそこへ着き
、全員でゾフゥルとアッスルの礼拝を行い、日没までアッラーを念じることに没頭する
。露営するつまりまさしく野営の事だ。その夜は、全能の神アッラーを褒め讃え、瞑想
して過ごす。翌朝、巡礼者は、ファジュルの礼拝の後、日が昇る直前に出発し、ミナー
へ戻る。この旅自体か 重要な儀式で、日本の巡教である四国参りや霊山参りと同じだ

113 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:44:34.94 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   242

 歴史的背景に、預言者アブラハムは、神の友と見なされ、彼の子孫から多くの預言者
が出た。その預言者の始祖(長老)として知られている。最終の預言者としたアブラハ
ムの「捧げた犠牲の意義」を理解するには、聖書やクルアーンで言及されている出来事
を詳細に見直す必要がある。預言者アブラハムは、夢の中で自分が一人息子イスマエル
を殺すところを見たと伝えられている。預言者アブラハムは、彼が年老いてからやっと
授った一人息子を犠牲にするように神から命じられたと悟ると、すぐに主の為に犠牲を
捧げる用意をした。預言者アブラハムは夢の事を息子のイシマエルに告げ、「お前は、
この事をどう思うか。」と尋ねた。すると、イシマエルは、次のように答えた。「お父
さん、神があなたに命じられた通りにして下さい。神がお許しくださるなら、私は全く
動じないことがわかるでしょう。」と言った。かくして、預言者アブラハムは、必要な
準備に取り掛かった。準備がすべて調い、彼が神から命じられたと信じていた事を遂行
しようとしたが、その時に、彼は再び天啓を受けた。それは「現実には既に神との約束
を果たしてしまったので、代りに子羊を一頭殺すように」という神のお告げであった。
預言者アブラハムの見た夢の真意は、夢の中で見た方法で自分の息子を犠牲に捧げると
いうことではなかった。全能の神の喜びを得る為に、遠く離れた不毛の谷に、自分の妻
ハガーと息子イシマエルを置き去りにするようにというのが本当の意味であった。その
場所で、イシマエルは、神への真の信仰を確立する為の道具となって力を尽した。と、
言われるのである。当時は廃墟であったが、ここが最初のアッラーの家が置かれた場所
であったと伝えられる。預言者アブラハムによって、捧げられたこの偉大な犠牲の行為
は、毎年、世界中で祝われる行事となり、余裕のあるムスリムは、この神への帰依の行
いを祝う為に、動物を屠ると言われる。だから、犠牲祭は、すべてのムスリムを預言者
アブラハムの例に倣い、神の命への絶対的な服従を示そうという気持ちに駆り立てるの
である。・・・と書かれる

114 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:45:59.01 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   243

 イードル・アドハの祝典は貧乏人の祭りである、ムスリムは、生涯に最低一度は巡礼
の旅に出ることを義務づけられているという。ただし、それは、富裕の旅の費用を出す
余裕があり、誰にも借金がなく、ハッジの旅に支障がない場合である。とされる。巡礼
を行うことのできない者は、そこで自分の住む場所で、イードル・アドハの祝典に加わ
るのである。このイードは、世界各地で、たいへん厳粛に尊厳に祝われる祭りとされる
。イードル・フィトルと同様、ムスリムは、祭りの数日前から準備に取り掛かる。犠牲
を捧げる余裕のある者は、イードの前に動物を買い、十分に手入れをする。動物には、
体に傷一つなく、十分に育っているものでなければならない。羊や山羊の場合は1家族
で1頭を犠牲として屠らねばならない。牛やラクダであれば、1頭を7家族まで、共同
で屠ることが許されている。イードの祭りの当日は、ズルヒッジャ月の10日とされて
、すなわち、新月が出てから10日目に当たる。新月が出たことが告げられると、人々
はイードの準備を熱心に始めていくのだ。イードの前夜は、いつもたいへん忙しい為、
多くの国々では、商店等が夜遅くまでも営業することがある。イードの当日、ムスリム
は、朝早くから身体を洗い、持っている中で一番良い晴れ着を着て、礼拝に出る。どの
家庭からも、広野や町の大きなモスクに集まって来るのである。このイードの礼拝は、
2ラクアから成り、イードル・フィトルの時と全く同様に行われる。このイードの祭り
の際には、朝食をとらないのが一般的であり、犠牲を捧げる者は、動物を屠るまでは、
食べ物を一切口にしない。礼拝が終わると、イマームが説教を行う。この時の説教では
、預言者アブラハムと妻のハガー、息子のイシマエルによって捧げられた犠牲を詳細に
伝えることで、この祭りの意義が説明される。往路は行程とは別の道を通って退路とし
、全能の神を讃える歌を歌いながら、ムスリムたちは家に戻り、それぞれに自分たちの
動物を屠る。イードの日には、ムスリムは次の聖句をできる限り何度も繰り返して唱え
る。

115 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:52:34.51 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   244

 徹底したアヒンサー(不害)の精神で、禁戒を厳守する苦行・禁欲主義のインドの宗
教「ジャイナ教」だが。今でも仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかっ
た。それでも 今でも残っている。その上イスラムにまでこの裸体僧の思想が、いきわ
たっている。この不害の禁欲姿勢は、一般人も宗教との闘いがあったのだろうとは思う
。世界の趨勢を握った。と言われるジャイナ教だが、僅か紀元世紀ぐらいの成立と言わ
れる。が、はたしてそうだろうか。と言うのもそもそもがこの宗教には、子孫繁栄や宗
教的布教拡大の体裁を成してはいない。妻帯していたとしても禁欲を旨としてるのだか
ら子供を増やしり子沢山の生活者はいない。例え一人 産まれて居ても次の世代に恵ま
れる事はない。それでも有神論と無神論という対立を超越して存在しているとしたジャ
イナ哲学が、形而上学、真理、宇宙論、存在論、認識論、神学といった問題を広範囲に
扱ってこの世に出きている。ヴェーダ哲学と同時期にジャイナ哲学教は存在していた。
ジャイナ哲学は、魂と肉体がそれぞれ独立した存在で、世界の創造主、所有者、維持者
もしくは破壊者といった超越的存在を認めていない。世界に始まりがない事で(無始)
終わりもない(無終末)。業の果報、非暴力を重視し、相対性と多面性の中真理がある
。解脱目的の禁戒が特徴的であり、魂の本性が個人主義的なと個人的な自立を奨励した
、真理は相対の中にしか無く多様であると主張し、自制、克己、禁欲といった物を非常
に重視した。二大宗派のディガンバラ派と、シュヴェーターンバラ派の、二大宗派の宗
教戦争があったが、もっと前から、実在主義はあったと思われる。紀元前10世紀ぐらい
の時に、古参のディガンバラ派の出家者は服を着ないで、マハーヴィーラ(偉大な勇者
)の慣習に従った生活とされた。自分が裸だとは、考えないで生きたとされる。むしろ
、彼らは環境を 典型的には、「アーカーシャ」である空間を身にまとっている。との
考えて生きていた。仏陀と同じ時期に 紀元前500年位の人の話だ。この人達の考え方が
朝鮮にもやって来たとも考えらられる。ディガンバラ派はこの慣習は、「身体の快楽」
「私的所有権」と言った「欲求」に屈することの拒絶である。ここに真理がある。と信
じられていたのだ。

116 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:53:56.84 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   245

ディガンバラ派では「出家信者」は衣服を捨てることが要求されており、在家信者で
はそういった義務はなかった。ディガンバラ派の出家信者は、クジャクの羽で、できた
「箒」と水を入れるための「ヒョウタン」という二つの所有だけが、許されていた。一
方、シュヴェーターンバラ派の出家者では大抵白い衣を身にまとっており、裸でいる事
は もはや実際的でないと主張している宗派である。いくつかの違いが慣習にはあるが
、マハーヴラタ(古代インドの神話的叙事詩。)、アヌヴラタ(神への誓い)などや、
その他の基本的な原理や教えは、二つの教派の間ではあまり変わらない。ここに異様さ
がある。孤高孤立を旨とし 子を設けず 森の中の隠遁生活で どうして思想を繋げて
現代まで残るのだろうか。確かに本や書物、更に加護された寺院は存在し出家信者を、
受け入れる仕組みはある。がしかし、禁欲で餓死寸前まで高めた摂食主義での裸の生活
である。通常が100歳生きる中では 50歳ぐらいの寿命と考えられて、布教宣伝の
意欲的活動がない社会である。日本にもジャイナ教寺院はある。頭戸北野の風見鶏の館
から南の北野通り西へ行った山側にインド的な大理石の建物がそれだ。これが日本での
唯一のジャイナ教寺院であるとされるバグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院であ
る。特徴的な外観は、エキゾチックな神戸異人館街でも、ひときわ異彩を放っている。
日曜日の午後だけは、誰にでも拝観許可は降りる。接する機会のないジャイナ教寺院の
内部見学が出来る。白い階段を上って2階のホールに入ると、シンプルなホールにで、
賽銭箱に小銭を投じて、「ジェイン哲学」というジャイナ教の教義を解説した小冊子が
発行されている。さらに、横の階段を利用して3階の聖堂室に至ると、中央には、開祖
マハーヴィーラの像が祀られており、独特の線香の匂いがたちこめている。信者の方の
祈りを妨げないよう、脇のほうから静かに見学できる。寺院内で騒ぐことや飲食、喫煙
、撮影は禁止とされる。この寺院は、神戸に住んでいるジャイナ教徒28家族の浄財によ
って1985年に建設された。商業に従事する人が多いジャイナ教は、日本では神戸の街に
比較的多く住んでいたことから、ここに寺院の造営と日々の運営が実現している。

117 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 16:58:56.02 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   246

 アーチャーリヤ・バドラバーフがリーダーシップをとるまでは、はっきりした区別は
存在しなかった。彼以降は何らかの区別が徐々に生まれてきた。一般にディガンバラ派
の出家者が服を着ないのに対して、シュヴェーターンバラ派、つまり「白衣派」の出家
者は大抵白い布を纏っている。ディガンバラ派はジャイナ教の宗派。ジャイナ教の二大
教派の一方である、ディガンバラの意訳から空衣派とも呼ばれ、さらに裸行派と呼ばれ
ることもある。「空衣」はインドの宗教の中で様々な意味付けがなされる言葉である。
そういった宗派においては多くの場合、例えばヤブユムのサマンタバドラ・サマンタバ
ドリーのように神々が空衣で描かれる。ある教派でもディガンバラがインド中の多くの
サドゥーによって生涯を通じての習慣として実践されている。ジャイナ教として成立し
たのは、紀元前6〜5世紀ごろとされ、ゴータマ・ブッダ(釈迦)とほぼ同時代のマハ
ービーラによって創設され、今日もなおも生命を保つインドの宗教ではある。とくに、
アヒンサーの生きものを傷つけないこと、不殺生(ふせっしょう)の誓戒を柱とする、
厳格な禁欲主義で知られている。マハービーラは、当時バラモン教徒の間で行われてい
た犠牲祭を批判し、またあわせて、彼らの依拠していたベーダ聖典の権威も否定した。
彼は、動植物はもちろんのこと、地・水・火・大気をよりどころとする大小さまざまな
生物の存在を認め、生命の尊厳を訴えている。加えて、新たに合理主義的な立場からの
独自の教えを示した。サンジャヤやゴータマ・ブッダなど当時の自由思想家たちと同様
に、彼もまた真理とは何かについて深く模索し、事物の認識には多くの観方(みかた)。
(ナヤ)が必要であり、つねに一方的な判断を避けて相対的な考察を行うべきである。
真理はことばによって多様に言い表されるべきものであると主張した。これがマハービ
ーラの思想を特徴づける不定主義・相対主義(アネーカーンタ・バーダ)であった。こ
ここに相対観念が誕生した。物事は常に相対である。という。実は日本でも、こうした
裸体研鑽は幾つかある。東北地方の愛染明王や男根信仰(マラ信仰)歓喜神や裸体行は
実はインド様式を真似た形も多い。

118 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:20:36.43 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   247

 不思議な事に紀元前1千年前までは、人は等しく拝火教と死者の祭壇で、哲学も宗教
もほぼ、似たり寄ったりで仲良く暮らして来ていた。と言う事だ。紀元前百年頃までは
狩猟であれ農耕であれ平和だったことが、遺跡で見える。かつてはエジプトのピラミッ
ドは奴隷がむち打ちされて構築したかの様に言われていたが、近年の研究では、ビール
を飲みパンを食べ、大らかに意気揚々とやって来た日記が出てきている。その内容分析
では、天候不順で食糧不足にエジプトに集まって来る大量の移民に、移民対策として、
公共事業の様にピラミッドを作り出して、ギザの王朝の頃皇帝の権威は最高潮になり、
あのような巨大ピラミッドに至ったと言うのである。このピラミッドを挟んで、地中海
の王国群も、インドを始めとするペルシャ民も多神教で寛容な宗教世界であった事だ。
まあ拝火教が中心軸ではあったろうが、そんなに宗教で争いのあるものでは無かった。
ところが。である。領土領域の勢力地図に関しては、先のアレクサンダー大王もしかり
大きく戦争していくのである。古代イスラエル民族のユダ王国は、新バビロニア王国に
よって征服され、多くの住民がバビロンへ強制移住させられた事件が紀元前 597年に起
こる。新バビロニアの王ネブカドネザル2世の攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し
、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行された。いわゆ
るバビロンの捕因事件である。その後、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシア
の王キロス2世の時代に、前 538年に「民族解放令」を発して帰還を許された。まあ、
食糧が無かったのか、人口過多だったのか、とっとと出て行きやがれ。と言う訳である
が、帰る所もないのでエジプトの奴隷になって生き延びるのだ。エジブト王はそこで、
国民の乱れを感じたのか、戦争強国の為か、意思統一や集団や軍隊の統一化に太陽神の
一神教の制度を作ると、このユダヤ人もモーセ―と共にエジプトを出てヤフェ―の一神
教に入ったのだった。もともと、バビロン捕囚はイスラエル人にとっては大きな民族的
苦難であり、既に一神教であったみたいなものだったのだが、どうゆう訳かこれが一大
勢力の下地をつくるのである。一神教自体は古代宗教では異端中の異端である。

119 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:30:05.49 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   248

 この古代宗教で異端中の異端である一神教の発端のユダヤ教の中には伝説的奴隷を創
る話が、特徴的である。通常はどこの神話でも神が産まれる話は多い。しかし人間が神
に近い奴隷を産む話は稀で、殆ど何処にもない。産まれ出たのでなく呪文で出でるのだ
。ユダヤ神話の中にはゴーレムと言う怪物を作る神話がある。またはゴレム。ゴゥレム
はユダヤの伝承神話だ。この名はもともと、神がアダムをつくるため息を吹き込んだ形
のない粘土に与えられ名である。後世、魔術によって生命が注ぎ込まれる泥人形を指す
ようになった。名前は「不定のもの」「形のないもの」の意味だ。セーフェル・イツェ
ーラー(創造の書)では、山で掘り出してきた、生(き)のままの土を新しい泉の水で
練って、体の各部分に応じた言葉を 唱え続けながら人の形につくるのだ。また何度か
人形のまわりを時計まわりに廻ると動き出すが、まわる方向を間違えると土に戻ってし
まうとされる。伝説では、ゴレムの額か、あるいは台の下に秘めてあるシェームという
金属片に「エメト emeth」(真理、神の真実の意)という言葉が記されている。ゴレム
は日ごとに体重をましていき、大きくなるので、恐れてこのエメトの最初の一文字を消
すと「メト meth 」(彼は死んだ)の意になり、ゴレムは瓦解して粘土にもどるのだ。
といわれる。ポルスカ(ポーランド)の伝説では、ある種の祈祷を唱え、何日か断食の行
をした後、粘土か膠(にかわ)で人の形を作り、奇跡を起こす シェムハムフォラス(神
の名)を語りかけるとゴレムは命を得て、あらゆる家事労働を行う召使いになる。ある
伝説では、レーヴというラビはモルダウ河の泥をすくってゴレムを作り、ヨッセルと名
づけ薪割りや掃除、会堂の番人など仕事をやらせ、週末のサバトの日にはシェムを取り
去り土にもどした。ある時シェムを取り去るのを忘れるとゴレムは狂暴になり暴れた。
レーウ師はゴレムからシェムを取り去り土に戻した。これが白人優位主義の極論であろ
う。メンデルが見つけゴルトンが「優生学」の言葉を作り出しフィッシャーが進言して
ヒトラーが利用し、ナチスが人種絶滅政策を担った冷酷無比の考え方の種となった。

120 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:32:51.06 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   249

 また、ある民話に語られるゴレムでは、レイヴという名ラビにより、ユダヤ民族への
誹謗中傷を防ぐために造られたものとしている。土の人形ゴレムを造るには土、水、火
、風の4大素が必要で、水、火、風の力、が、具わっている人間3人で仕事を行う必要
があった。粘土で人の形をつくり、背丈は3エレ、顔の細かいところまでつくり、次に
手足をつくり、仰向けに地面に寝かせる。そして3人は足元に立ち、ラビの作った呪文
を唱えながら人形のまわりを7回まわる。最初に火の力を具えた者が回る。人形は熱し
た石炭のように赤くなる。次に水の力を具えた者が回る。熱が冷め湿り気を帯び、湯気
をたて、指の先に爪が生え、頭は毛で蔽われる。最後に風の力を具えた者が回り、3人
で声をそろえ「神、生気をその鼻に吹き入れたまえリ、人すなわち生ける者となりぬ」
という創世記の中の句を唱え終わると、ゴレムは目をあける。ゴレムに服と靴を着させ
ると、人間と変わらないという。また、言われたことを聞いて理解するが、話す力だけ
は与えられないようだ。要求されたことは、たとえ火を潜り、水に入り、高い塔から飛
び降りることを命じられても、すべて果たさなければならない、と命ぜられる。普段は
部屋の隅で、魂が抜けて世の中のことは一切関心がない者のようにじっとしている。こ
のレーヴの神話は、16世紀のボヘミア王国(現チェコ)で国王ルドルフ2世の宮廷に
仕えたラビの事だ。当時のユダヤ人社会で非常に尊敬されていた人物で、皇子や大使と
交友があった。カバラに関する著作があるほどのラビである。東欧チェコでは、今でも
ゴーレム伝説があり、その中ではシェームは舌の台の上におかれているという。これを
安息日にとり忘れたためゴーレムが暴れ、シェームをとった。今でも「動かない巨人」
ゴーレムが旧新シナゴーグの屋根裏には隠されているという言い伝えは多い。こんな、
作り話で育てられて、黒人を口の利ける家畜と教え込まれるのだから、人間がバカにな
って王様気分でしがみつくのも 仕方ない世界ではある。

121 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:33:13.67 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   250

 プロイセン地方の伝承では、エリヤ・ヘルムとヤッフェという2人のラビがゴーレム
を正式な礼拝の人数合わせに使おうと議論した結果、彼らのゴーレムが見るものすべて
に火を付け始め、簡単な命令すら理解できていなかった。と書かれる。製造後は自然に
巨大化するとされている。まあ宗教家の作ったピノキオである。ある伝承では男がゴー
レムを作ったが、大きくなりすぎて額に手が届かなくなり、止められなくなった。そこ
で男はゴーレムに自分の靴を脱がせるように命じ、ゴーレムがしゃがんだ時に額の文字
を消した。その途端、ゴーレムは大量の粘土となって男の上に崩れ落ち、男は圧死した
と言う伝説が残る。一般的なゴーレムは土(粘土)で作られるが、神話や伝説には石や
金属で作られたものも登場する。ギリシア神話の鍛冶の神ヘパイストスによって作られ
た青銅の巨人タロースも、ゴーレムの一種と見ることができるという。ここで少し視点
を変えて、何故ゴーレムが出来たか、何故ゴーレム必要だったか。もっと言えば何故ゴ
ーレムと言う考え方が必要になって物語が産まれたのか。を考えたい。ゴーレムとは、
意思の結晶である。そして意思の塊とすれば、日本人からすれば「号令」と言う名称が
思い出される。すなわち「号」と言う考え方だ。これは日本では分類上の最低単位を、
「号」としているが、西洋では集団単位を言う。ここに日本は神話や伝説上船を「丸」
と呼び集団も「丸」と振った。五郎丸選手の屋号ないし名字と同じだ。ところが海外で
は細目を号とした。かつては文士が書画を創作発表する際に使用され、歴史上初めて号
を用いた人物が、中国北宋の欧陽脩とされる。一万巻の蔵書・一千巻の拓本・一張の琴
・一局の碁・一壺の酒・一人の居士ということから「六一居士」と号した。とあるのだ
。創作活動に本名とは別の称号を使用する習慣は日本にも輸入され、現在に至るまでも
継続している。いわゆるペンネームや筆名で、俳句や日本画などの分野は「号」の呼び
方をしていたのだ。こうして屋号や称号・尊号と集団の最小単位とした。つまり家や船
などを西洋や大陸で号とし、集団を日本は丸とした。これの考え方の違いが召使や奴隷
の考え方の和洋の違いであろう。

122 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:39:45.10 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   252

 デミウルゴスや諸アルコーンが愚劣な「下級の神」というのは、あくまで完全なる
アイオーンやプレーローマの至高者に比較しての話である。人間の悲惨さの原因である
「肉体」や「心魂」は、デミウルゴスの創造したものなれば、人間はこれらの部分では
アルコーンの支配下にある。とされる。まあ、創った主人の命令だけを忠実に実行する
ゴーレムと言う土人形が、召し使いかロボットのような存在なので、魔王デミウルゴス
で作られた人間じゃ同じだろう。ゴーレムには運用上の厳格な制約が数多くあり、それ
を守らないと狂暴化する。とされる。ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式
を行った後、土をこねて人形を作る。呪文を唱え、「 emeth、(真理、真実)」という文
字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成する。ゴーレムを壊す時には、「
meth、(死んだ、死)」という「emeth」の「 e 」の一文字を消して貼りつければ良い
とされる。この言葉遊びのような考えは、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラ
−ムにせよ、「この世界は一神の創造の産物」とされる意識の上である。そして、かか
る創造の営みは時間的過程に属する。実際、『聖書』でも神の世界の創造に7日間を要
した。とあるのは周知の事である。一方、多神教のギリシャ神話などは、アリストテレ
スによれば、時間とはものの運動の尺度とされるから、時間はこの世界に属するもので
ある。そして、運動とは動かされるものの完全現実態というのが、アリストテレスの中
の定義である。全て「動いているもの」は何ものかによって「動かされている」事にな
る。という考え方だ。すると、この世界の現象は諸運動の系列であり、かかる諸系列の
果てに第一動因が想定される。とされ、心も同じとされる。いわゆる複雑系の中に命が
ある。唯一神の信仰のようには、単純に動かす、命令する「アッラーの他に神はなし:
ラー イラーハ イッラッラー(フ)」なんて事はない。まあムハンマドも唱えていなかったらしいが。
ここに 時間の観念やら、未来への負担や債券や保証などが出て来る。未来が解る絶対
の創造神がいるからだ。ここに違いがある。

123 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:40:15.15 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   251

 これに似た話が天地創造神話である、厳密にはユダヤ教のヘブライ語聖書、キリスト
教の旧約聖書『創世記』における世界の創造の語りである。宗教絵画などでよく題材と
なっているし、今の一週間の曜日の元になった物だ。神は1日目に「光あれ」と叫び、
混沌とした暗闇世界に、天と地をつくられた。つまり、宇宙と地球を最初に創造した。
暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができた。と言う語りである。2日目 神は空
(天)をつくられ月を昇らせた。3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をは
えさせられた。4日目 神は雨を降らせて森を築いた。5日目 神は魚と鳥をつくられ
果実を実らせた。6日目 神は獣と家畜をつくり、最後に神に似せた人をつくられた。
そして7日目 神はお休みになった。と言う物だがキリスト神話では雨や水は出てこな
い。又グノーシス主義では、人が作られたのは、他の理由で作られた。つまり獣を管理
してもらい神が眠る為である。こうしたキリスト神話では、創造神は土地のちりで人を
形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。とされる
。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き
入れられた。人はこうして生きる者となった。」としている。ところがユダヤ教では、
少々異なっている。『旧約聖書』に登場するヤハウェの神は呼称デミウルゴスとされる
固有名詞で「ヤルダバオート」で『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行い
や傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。
これらはギリシャ神話と等価の物語に置かれている。ヤルダバオートはデミウルゴスを
「第一のアルコーン」であるとされた、つまり全知全能の神が愚劣な下級神を作り、そ
の筆頭下級神が人を作った。下級神でも地上の支配者である。愚かで傲慢な下級の神で
あるが、人間にとっては恐るべき存在でもあった。獣の監理に怠ける為に泥人形を造っ
たけど命が吹き込めないので、この全知全能の神を騙して命を吹き込ませた。

124 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:40:40.10 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   252

 デミウルゴスや諸アルコーンが愚劣な「下級の神」というのは、あくまで完全なる
アイオーンやプレーローマの至高者に比較しての話である。人間の悲惨さの原因である
「肉体」や「心魂」は、デミウルゴスの創造したものなれば、人間はこれらの部分では
アルコーンの支配下にある。とされる。まあ、創った主人の命令だけを忠実に実行する
ゴーレムと言う土人形が、召し使いかロボットのような存在なので、魔王デミウルゴス
で作られた人間じゃ同じだろう。ゴーレムには運用上の厳格な制約が数多くあり、それ
を守らないと狂暴化する。とされる。ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式
を行った後、土をこねて人形を作る。呪文を唱え、「 emeth、(真理、真実)」という文
字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成する。ゴーレムを壊す時には、「
meth、(死んだ、死)」という「emeth」の「 e 」の一文字を消して貼りつければ良い
とされる。この言葉遊びのような考えは、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラ
−ムにせよ、「この世界は一神の創造の産物」とされる意識の上である。そして、かか
る創造の営みは時間的過程に属する。実際、『聖書』でも神の世界の創造に7日間を要
した。とあるのは周知の事である。一方、多神教のギリシャ神話などは、アリストテレ
スによれば、時間とはものの運動の尺度とされるから、時間はこの世界に属するもので
ある。そして、運動とは動かされるものの完全現実態というのが、アリストテレスの中
の定義である。全て「動いているもの」は何ものかによって「動かされている」事にな
る。という考え方だ。すると、この世界の現象は諸運動の系列であり、かかる諸系列の
果てに第一動因が想定される。とされ、心も同じとされる。いわゆる複雑系の中に命が
ある。唯一神の信仰のようには、単純に動かす、命令する「アッラーの他に神はなし:
ラー イラーハ イッラッラー(フ)」なんて事はない。まあムハンマドも唱えていなかったらしいが。
ここに 時間の観念やら、未来への負担や債券や保証などが出て来る。未来が解る絶対
の創造神がいるからだ。ここに違いがある。

125 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/19(日) 23:41:07.45 ID:j+K31JKCA
 イスラム社会のコーラン   253

 この第一動因が神に比定されるアリストテレス哲学を受容した、イブン・シ−ナ−ら
のイスラ−ム哲学においては、第一原因としての神は新プラトン主義的な万有の存在の
流出源として解される時間の観念がある。その当時、イスラ−ム世界に知られていたの
が、アリストテレス哲学だったので、新プラトン主義的脚色を多分に帯びていたものだ
った。だから、やむを得ない面はあっただろう。複雑系の作用反作用の概念は、又、神
と「世界の万有の関係」は、時間的因果関係ではなく、存在論的な因果関係においての
み理解された。というのは、神は永遠の存在であって超時間的であるから、時間的過程
に在る事は有り得ない。という概念からである。従って、イブン・シ−ナ−らのイスラ
−ム哲学においても、創造とは時間的過程における出来事ではなく、専らの、論理的な
因果関係を指すことになる。つまり7日目というのは人間の概念で、日数や時間がない
処から天地創造したので、単なる7番目に神が寝る事、体を休む事をした。と言う事に
なる。ところが、一日寝て起きるので、その結果、世界は時間的には神とともに在る。
ことになり、それ故、世界の存在も永遠であると結論づけることとなった。無論、上述
の結論は『コ−ラン』と矛盾するものであるし、神は世界の創造以降、常に創造の営み
を続けているというスンニ−派の正統派神学とも対立するものである。自らも哲学に、
精通し、又、哲学に対して『コ−ラン』の記述を擁護しようとした正統派神学の代表で
あるガザ−リ−は時間概念を問い直すことから始めた。神は言われた、「光あれ」。こ
うして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び
、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。『旧約聖書』「創世
記」の天地創造において、アダムもヤハウェによって土(ヘブライ語:アダマー)に鼻
からルーアハを吹き込まれたことから、アダムもまたゴーレムであったのではないかと
言われている。これが正しい説だとすれば、アダムこそが世界で最初に生まれたゴーレ
ム(それも自我を持った)ということになる。

126 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:02:42.55 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   254

ギリシャ神話でも、混沌(カオス)から天地創造されて世界が始まったとされる。大地の
ガイアは、単独で天空ウラノスを産み出した。天空は大地と同じ大きさなので、大地は
天空で覆われました。つまり天も地も半分づつって事だそして次に海ポントスを産みま
した。これにより天地創造ができ、新しい「天空」「大地」「海」「陸」のある世界の
始まる。大地神のガイアと天空神のウラノスは何度も交わり、大地の割れ目から初めて
の子供が産まれる。この子供たちが原始の神々で人間に似せた神となる。ガイアとウラ
ノスの子供たちをティタン神族と呼びます。まあ一部じゃタイタンとも呼ばれてるが。
ティタン神族は男6神、女6神の12神の子沢山だった。巨人キュクロブス族も産んで
いました。キュクロブス族は頭の中央に目が1つだけある怪物のような見た目でした。
ウラノスは、キュクロブス(一つ目怪人)が産まれるたびに奈落タルタロスへ落として
いました。大地神に母ガイアは自分の子供が不当な扱いを受けてるのを見て、ウラノス
に罰を与えることにしました。それはウラウスの陰部を刈り取ってしまう作戦でした。
これにより悲しむ子供がいなくなると考えたからです。生殖機能の失ったウラノスは、
王の座を息子クロノスに奪われてしまいます。クロノスの息子はゼウスであり、その後
ゼウスもまたクロウスから王の座を奪ってしまいます。ヘーシオドスの『神統記』に。
よればウーラノスとガイアの息子でティータンの末弟。レアーの夫であり、ハーデース
、ポセイドーン、ゼウスおよびヘーラー、ヘスティアー、デーメーテールの父でもある
。また、愛人であるニュンペーのピリュラーとの間に半人半馬の賢者ケイローンをもう
けたとされる。父であるウーラノスの性器を、刃が魔法の金属・アダマスでできた鎌で
切り取って追放するが、自身も父親と同様ギガースたちをガイアの胎内に押し込めてい
たためガイアの怒りを買い、後に息子であるゼウスに討たれた。最後に生まれたゼウス
だけは、母のレアーが偽って石をクロノスに食わせたために助かったクレタ島で密かに
育てられたゼウスは、クロノスに神酒を飲ませて兄弟を、飲み込んだ時とは逆の順に吐
き出させ兄弟の序列が入れ替わり、末子であるゼウスが最高神となった。

127 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:03:05.44 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   255

こうした天孫降臨がスムーズでなく闘いによって開かれる話は多い。日本でも、最初は
カオスを固めて於の頃島に恐る恐る降り立つのだが、その後の子供は冥界に旅立ちて、
逃げ帰ってくる。そして子孫への呪いの掛け合いである。孫の時代などでも天照大神と
スサノオとの戦いや大国主や大事主などの国造りに変わっていくのだがこの時も同じだ
。ガザ−リ−によれば、時間とは人間の認識形式の一つであり、本質的に主観的なもの
である。つまり、人間は認識において時間というものを意識する様にできていると言い
、「意識活動」において常に「時間」がつきまとっている。そして、かかる 主観的な
時間は存在者の「客観的存在態様」とは無関係である。それ故、コ−ランにおける「神
の世界創造」に関して哲学者の様に創造以前の客観的実在としての時間を考える必要は
ないという。だから、「コ−ランにある神の世界創造」もそのままで受け入れるべきで
あると主張する。実際のガザ−リ−の哲学批判はかなり複雑で、此処で書き尽くす事は
できないが、創造をめぐる議論の概略から、その一端を伺えるものと思われる。欧州で
アルガゼルのラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。神学者であった。「
ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒。」と名声と敬意を集め、スンナ派が
イスラーム世界の中で多数派の地位を確立する過程の中で、最も功績のあった人物のに
数えられている。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学
への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を
形作ったと言う。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界
には、神の言葉の様に、思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を
発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)
やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されて模範解答にされている
。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、神秘主義の
思想の構築には弟の影響があったと考えられている。

128 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:03:27.48 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   256

アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリーは1058年にイランの、
ホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。幼少期に父親を亡くして、兄弟とともに
父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーに弟のアフマドのほかに数人の姉妹
がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっていない。父の遺産によ
ってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学
校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、
アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。1085年にジュワイニーが没した後に、
ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を
受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した。1091年にバグダードのニ
ザーミーヤ学院の教授に任命される。300人 の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義
や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた
。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たさ
れず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った。スーフィーの著書を読んで知識を
得て、修行の実践を決意する1095年、世俗執着と来世羨望に葛藤するガザーリーにニザ
ーミーヤ学院の講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を
口にすることができなくなった。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えた
ガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11
月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った。およそ2年の間シリア、パ
レスチナ各地を巡り歩き、1096年11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った。メッカ巡
礼を終え子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。宰相ファフルル・ム
ルクの要請を受け、1106年に再びニザーミーヤ学院の教壇に復職した。隠遁生活への憧
れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、預言者ムハンマドの「神は世紀の始ま
りごとに共同体の中に改革者を派遣する。」に突き動かされ講義内容をまとめた法学書
『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著した。

129 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:05:11.57 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   257

 スーフィズムに回心する前にガザーリーは、「自分がイスラム教徒であるのは、たま
たまイスラム教徒の子として生まれたため」であり、「信仰によるものではない」と考
えていた。事実ガザーリーは自分の思想を揺るぎない「確実な知識」に行き着くため、
様々な学問を追究していった。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起
する余地すらない 「知の対象を明らかにする知」を得る為である「確実な知識を獲得
する手段を検討する為には全てを疑うことから始めよ。」とした。エスファハーンの宮
廷出仕時代、理性の優位性を疑う第一の危機に陥った。ガザーリーは知識を感覚による
知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が、
天文学的証明によれば地球よりも大きい事を認識できない例を述べ、理性が感覚の誤謬
を指摘する点を明らかにした。つまり「感覚知」と「理性の知識知」が混在して実相の
現世界を創っている。としたのだ。そして、高次の世界には、「高次の理性」を否定を
する判断者が存在し「確実性を無くる可能性」事に思い至り、懐疑に陥った。「理性の
認知世界」と「夢想の逃避世界」と同様の物と捉え、理性の上にある世界は「忘我境地
」に達したスーフィー(神秘主義論者)が見る世界、あるいは死と考えた。やがては、
「理性の権威」が及ぶ範囲に限界がある。と結論付けた、理性が及ぶ領域のみ「知」と
命名し疑いようのない自明な領域である「知の領域」に対して、神に接近できる人間の
最もな精神に存在する領域を「信」と定義した。ガザーリーは「理性・知」と「感覚・
信」の間に優劣をつけず、コーランの章句を、理性で解釈しようと試みる哲学者達と、
「思惟と信仰の矛盾」を解消しようと試みる神学者達といった、二つの領域を混同する
人間を批判した。「理性への疑い」を抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリ
ーは、こうしてスーフィズムの「神秘主義の世界への回心」と「世俗への執着」に葛藤
する第二の危機を産んで、スーフィーとしての放浪の旅に発った。

130 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:09:40.50 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   258

 それまで完成されたイスラーム哲学では、イスラームの教義から外れる主張は保守的
なウラマーから攻撃を受けていた、批判の論拠になるのは感情的で論理性を欠いた物で
はあったが、反論にも同じ論拠だった。それで哲学者の理論を崩すことはできずガザー
リーは、西洋の哲学を研究した上での 反論を書き、ニザーミーヤ学院の講義の合間に
書物から哲学者理論を取り入れ、イスラム哲学が中に含む矛盾を導き出した。1094年に
哲学の概説である『哲学者の意図』を著し、翌1095年に批判書『哲学者の自己矛盾』を
著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学
はイスラームの思想家の批判の対象だったが、神学者たちが出した反論は、コーランや
ハディースの章句を引用する不完全なものになった。ガザーリーは、哲学を神の啓示に
代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明
を試みる。ガザーリーは哲学を数学、論理学、自然学、形而上学、政治学、倫理学の6
つに分類した。イスラームが算術、幾何学、天文学を含む数学、論理学、自然学を共存
しうる宗教と考え、それらの学問に求められる「理性知」と宗教が抱える「信の真理」
の混同を戒めた。政治学はコーラン(聖典)やハディース(言行録)を基礎とするもので、
倫理学では哲学者の誤った主張が混ざり合う。魂の本質と性格、改善を追及する学問で
あるため、基本的に否定されるものではないと述べている。哲学者の犯す誤りの大部分
は形而上学(けいじじょうがく)にある。と主張して、『哲学者の自己矛盾』の中で20
項目を列挙してその思想を批判した。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学の
すべてを否定してなかった。イスラーム経典と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判
に際して論理学的手法を利用した。12世紀のアシュアリー学派はガザーリーのこの思想
の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していく。

131 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 02:10:12.35 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   259

 アシュアリー学派の神学に取り入れて、ガザーリーは哲学の論理学は『中庸の神学』
を著した。『中庸の神学』では世界は原子で構成されるアシュアリー学派の原子論、と
神を「非物質的なもの」とする哲学の論理で、神と世界の隔絶性が強調されている。先
人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させて、アシュアリー学派は哲学論理
を形而上学の批判的に受容して、より哲学に近づいていく工夫をした。しかしガザーリ
ーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論
を展開する中の「神学の限界」を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムの神秘
主義へのアプローチが必要である。と述べた。ガザーリー哲学の、哲学批判は、一般の
イスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激して哲学者の著書が焼き捨てられる程だっ
たた。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でもガザーリーの
批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家イブン・ルシュド達は「
不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともにガザーリーの哲学批判を再批判
し、アリストテレス思想を擁護した。ガザーリー哲学の論理学は『中庸の神学』で述べ
られてはいるが、そもそもが神とは人間が作った物で 人間の脳の幻影と幻覚である。
この答えによって、彼は大々的に思想と言う哲学で、イスラム主義の慣習法に正義を持
ちこむ事に成功した。つまり知性という知は、あくまでも貪欲に知識を求めるのだが、
身体はそれらについて来れない為に神秘のベールをまとって身体を防御する。そこで、
我々はできるだけそのベールをはがしやすい様に、日々信仰をし苦行をし鍛錬を欠かさ
ない事が心身の訓練であり知の探究に欠かせないものだ。と主張したのである。そこに
信仰の大事さと正義を求め、イスラームの正しさを整えたのである。言うなれば信仰は
知の探究の準備体操であり日課であるので、それによって体力が付くと言う訳である。
アシュアリー学派はガザーリーのこの言い分をそのままに、神秘も必要と論じたのだ。

132 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:37:47.23 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   260

 こうしたガザーリーの揺れは、著した自伝『誤りから救うもの』に自身の内面の記述
に割かれて書かれている。スーフィズムの教えは、信仰の確信を約束することが示され
多くの研究者は1095年から始まる遍歴の旅の動機を、『誤りから救うもの』の記述に従
ってスーフィズムへの回心と受け止めている。『誤りから救うもの』で述べられた動機
に疑問を呈して、旅の動機を 名声欲に憑りつかれ、自伝の執筆の動機を離職の正当化
した「ガザーリーの告白」の著したバカリーや、要人暗殺したニザール派の刺客から逃
れるため。と考えたジャブルらが批判した。ダンカン・ブラック・マクドナルドなどは
、ガザーリーの生涯を、「野心と出世欲に満ちた利己的な人間」でありながらも、内面
では葛藤が起きていた半生だったが、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、
イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生を生きた。と分けている。回心し
た後のガザーリーは、イスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学
の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの多くの作品で日常の生活
、来世で神に会うための準備について議論を重ねている。ガザーリーはスーフィズムの
修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の
修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの
二つの修行方法を紹介している。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦は
サマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていた物だった
が、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた。従って、
このサマーの中に自慰行為も含まれていた。ところがとんでもない事に、それが物議と
なったのである。キリスト教世界では、例えば先のスパルタの様に、同性のホモ行為は
国務とされて強制され、自慰行為は死刑であったが、その流れが中東にもあったのだ。

133 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:38:08.16 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   261

 ガザーリーは神を人間の愛の対象と考え、完全な存在である神を、唯一の愛の対象と
認めて書いた。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうると
した「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神とは「直接・間接的に個人と関係を
持たない全く異質な存在」であるため愛が成立しないとしていた。「神への愛」を神へ
の服従の比喩として見なすことが主流になっていたのだ。こうした一般の通説に対して
、ガザーリーは「服従」は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に、
主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無い。と説明する。ガザーリーの唱
える愛は自己や、自己と関連のある人間の生命の維持、による愛、完全であると認めた
ものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、と3種の
本質が異なる愛に分類されている。そして3種類の愛を同時に体験する至上の愛こそが
「人間が神に向ける愛」と定義し、神への「愛」は造物主である神に属するもの全てに
拡大して論じている。12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは神と人間
の合一を、男女間の恋愛関係に例えていた。が、ガザーリーでは、二つの存在に類似点
は存在しないもの。と見なしていて、神を人間から隔絶された存在と位置付けている。
このガザーリー以前のスーフィー(心霊学派)の中にはイスラーム法の遵守よりも、神
との合一体験を重視して、飲酒、同性愛といった反イスラーム法の行為や反体制的姿勢
をとる人間を、「神との合一体験」で直接得られる知識を、コーランとハディースでの
通しての間接的に得ている「ウラマーの知識」よりも上位に置く考えを持った人間がい
たのである。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人からは当然
快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった。ガザーリーは信仰の確信
は「神との合一体験」によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守し
た生活の必要性から得られるという中間的な姿勢を示した。ガザーリー、クシャイリー
らが出したスーフィズムの理論は、スーフィーとウラマーの和解に貢献し、これにより
スーフィー集団は、公に活動することができるようになった。

134 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:39:46.97 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   262

 イスラム教で、ガザーリーの「スーフィズム」の根幹にある愛の思想の理解、修行法
の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によって「スーフィズム思想」は、多数の
人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立され
た。こうして、一通りの最後の宗教であるイスラム教現出の背景としての、世界の宗教
を簡単に並べてきたのであるが、以下近時のイスラム世界を考えたい。イスラーム主義
過激派の一派である「イスラーム国」の活動が、最近何かと耳目に飛び込んで来るのだ
が、彼らのイスラーム法の概観が、根本思想に当たっての極めて初歩的な間違いを犯し
ている。まず慣習法のイスラムの中には、基本は朗読であるが、これはアラーを讃えよ
としてるだけで、他人を殺せ聖戦しようと呼び掛けていない。それはムハンマドも同じ
で、ムハンマドは自分の言葉を聖書と同じに書き手を創って伝えよなど言っていない。
4大学派とされるスンニー派を始めとするイスラーム法学の学派も嘗(かつ)ては以下
に述べる様に、4大法学派以外にもザーヒル派、アウザーイー派等の学派も存在してい
た。が、スンニー派のイスラーム世界において今や現存するのは、4大法学派が主流で
ある。シーア派の主流を成している12イマーム派では第6代イマームに由来するジャー
ファル派の法学も行われているが、現実的ではない。
1 ハナフィー派
  8世紀の法学者アブー・ハニーファに由来する学派。事案の解決に類推(キヤース
  )を多用する。トルコ、中央アジアや南アジア、エジプトなどで主流を成す。今回
  崩壊したイラク、リビア、シリアなどの親英米路線を引いたバアス党の前身である
  。かつてはオスマン・トルコ帝国の公認学派でもあった。

135 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:40:16.86 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   262

 イスラム教で、ガザーリーの「スーフィズム」の根幹にある愛の思想の理解、修行法
の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によって「スーフィズム思想」は、多数の
人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立され
た。こうして、一通りの最後の宗教であるイスラム教現出の背景としての、世界の宗教
を簡単に並べてきたのであるが、以下近時のイスラム世界を考えたい。イスラーム主義
過激派の一派である「イスラーム国」の活動が、最近何かと耳目に飛び込んで来るのだ
が、彼らのイスラーム法の概観が、根本思想に当たっての極めて初歩的な間違いを犯し
ている。まず慣習法のイスラムの中には、基本は朗読であるが、これはアラーを讃えよ
としてるだけで、他人を殺せ聖戦しようと呼び掛けていない。それはムハンマドも同じ
で、ムハンマドは自分の言葉を聖書と同じに書き手を創って伝えよなど言っていない。
4大学派とされるスンニー派を始めとするイスラーム法学の学派も嘗(かつ)ては以下
に述べる様に、4大法学派以外にもザーヒル派、アウザーイー派等の学派も存在してい
た。が、スンニー派のイスラーム世界において今や現存するのは、4大法学派が主流で
ある。シーア派の主流を成している12イマーム派では第6代イマームに由来するジャー
ファル派の法学も行われているが、現実的ではない。
1 ハナフィー派
  8世紀の法学者アブー・ハニーファに由来する学派。事案の解決に類推(キヤース
  )を多用する。トルコ、中央アジアや南アジア、エジプトなどで主流を成す。今回
  崩壊したイラク、リビア、シリアなどの親英米路線を引いたバアス党の前身である
  。かつてはオスマン・トルコ帝国の公認学派でもあった。

136 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:40:40.68 ID:G5Jo7SxVK
イスラム社会のコーラン   263

2 マーリク派
  8世紀の法学者マーリクに由来する。預言者ムハンマドの言行録である『ハディー
  ス』を重視し、事案の解決に類推(キヤース)の使用をなるべく抑制する。北アフ
  リカや西アフリカなどで多い。ハディースは、ムハンマドの言行録でクルアーンが
  ムハンマドへ天使を通して神が語った言葉とされるが、ハディースは、ムハンマド
  自身の語った言葉やその行動の証言書である。クルアーンが第一聖典で、ハディー
  スが第二聖典とされる。そこでこの二つとも ドンドンと書き足しや変更される。
  そうした改訳者がマーリク派学者であった。
3 シャーフィー派
  マーリクの弟子であった法学者シャーフィーに由来する。マーリクの伝統を継承し
  つつも、ハナフィー派の方法論を導入したシャーフィーにより確立された。又、「
  イスラームの知性」と称されたガザーリーは神学者であると同時に同派の法学者で
  もあった。東南アジアやエジプトなどで多い。先に言った様に異端の神秘派学説と
  権力者構造のイスラムの融合と選択をした。
4 ハンバル派
  シャーフィーの弟子であった法学者イブン・ハンバルに由来する。預言者ムハンマ
  ドの言行録である『ハディース』を重視し、かつ『コーラン』『ハディース』など
  聖典における記述を論理的整合性よりも優先する。類推(キヤース)に関しても極
  めて消極的で保守的傾向にある。今日、サウジアラビアの国教となっているワッハ
  ーブ派の祖であるムハンマド・ワッハーブも同派に属し、又、サウジアラビアも、
  同派の法学に依っている。イスラーム主義過激派の思想的源泉とも言うべき13世紀
  の法学者イブン・タイミーヤも同派に属していた。古典的野心のイスラム許容派

137 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:47:43.13 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   264

5ムアタズィラ派
  アッバース朝の勃興(749年)とともに盛んになり、アッバース朝の振興策やそれに
  伴うヘレニズム諸学問の流入の影響を受けてムアタズィラ派は思索に磨きをかけて
  諸学派は互いに威勢を競い合った。ヘレニズム的教養を活かし、自らもムアタズィ
  ラ派神学を修めていた第7代カリフのマームーン(在位813年−833年)はムアタズ
  ィラ派をイスラームの公式神学とし、絶頂期を迎える。ムアタズィラ派が公式神学
  になる事でアッバース朝の要職はムアタズィラ派系の人々によって占められる事と
  なり、ムアタズィラ派のウラマー達はイスラームを同派の教義で統一すべく、異端
  審問所(ミフナ)を設置した。ここで、イスラムに於いての異宗派の思想や言論を
  弾圧していく行為が初めて始まった。

 イブン・ハンバルの父の ムハンマド・ブン・ハンバルはホラーサーン軍に属して、
軍命に従ってホラーサーン地方からバグダードへ移住し、移住から数か月後の西暦780年
12月に「イブン・ハンバル」ことアフマドが生まれた。なお、父ムハンマドはアフマド
が3歳ぐらいのときに亡くなった。イブン・ハンバルはバグダードで教育を受け、諸学
の中でもハディース伝承の研究に一生を捧げる。と決心して、ヒジュラ暦179年 に旅に
出た。「イブン・ハンバルは青年期にイラク、ヒジャーズ、イエメン、シリア、イラン
、ホラーサーン、マグレブと遍歴して学問を続けたと言われる。ブン・ハンバルは、イ
ラク、ヒジャーズ、イエメン、シリアを訪れ、特にバスラには何度も立ち寄った。さら
に訪問の頻度が高かったのはメッカで、計5回、巡礼のために訪問している。イブン・
ハンバルはイスラームの歴史の中では、特に精力的に活動した人物であると評価されて
いる。彼が交流し、教えを受けた先達の人数は極めて多い。

138 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:48:06.60 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   265

ヒジュラ暦179年から183年まで、
バグダードで彼を日常的に教え導いたのは、フシャイム・ブン・バシールである。同地
には法官長アブー・ユースフがおり、イブン・ハンバルもその講義に参加したが、深く
影響を受けるには至らなかった。183年以後 当時のヒジャーズ派の法学の重鎮、スフヤ
ーン・ブン・ウヤイナが主にイブン・ハンバルを導いた。自著によるとそのほかにも、
クーファ、バスラ、それぞれに重要な師匠を持った。しかし、イブン・タイミーヤの、
指摘によると、イブン・ハンバルの法学の形成には、これらイラク学派よりもはるかに
、ヒジャーズ学派、ハディース派の思想が決定的に影響を与えている。とされる。とこ
ろか、ここで有名な闘争家の詐欺師にムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー
に出会う。イドリース・シャーフィイーはイブン・ハンバルより年上の同時代人である
。その為弟子である。などとと言われることがよくある。たしかに、イブン・ハンバル
はシャーフィイーの教説の内容をある程度は知っていて理解したと、みられる節がある
。ヒジュラ暦195年には バグダードで彼らの生涯で ただ一度だけ、となる直接の面会
も果たしている。しかしながら、Laoust (1960) によると、「イブン・ハンバルはヒジ
ャーズの伝承重視の思想に他の何よりも強い影響を受けている。」という。イブン・タ
イミーヤの指摘に鑑みれば「イブン・ハンバルはシャーフィイーの弟子であった」とい
うのは不適当で、事実を単純化しすぎた言説ということになる。イスラム法学歴史には
、こうした思い上がりの伝説は多く出る。しかしアッバース朝のカリフ位にマァムーン
が在位した時代の、終盤から次代のムゥタスィムの在位年間にかけて、イブン・ハンバ
ルは迫害された。マァムーンはムゥタズィラ派の学者のビシュル・マリースィーの意見
を取り入れ、ムゥタズィラ派の教説を国家公認の思想としたからだ。

139 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:51:25.57 ID:G5Jo7SxVK
 歴史上は、ムアタズィラ派の理性主義神学が隆盛を極めていた最中においても、神の
神秘的な人格神としての側面を強調していた。コーランやハディースの伝統を守ろうと
する考えは、一般大衆のレベルで根強く残っていたのだ。スンニー派イスラーム法学の
一派のハンバル派(ハンバリー派)の祖であるアフマド・イブン・ハンバル(855年没)
はそうしたこの時代の伝統的イスラームを代表するウラマーであった。彼は強烈な個性
と、その学識、清貧、敬虔、剛毅さで大衆の人気を得たウラマーで、イスラーム伝統の
信仰を代表してムアタズィラ派神学を拒否して、コーランやハディースを神意の現れと
して、極力、そのままで受け入れるべきであり、それらに理性的論証を差し挟むべきで
はないと、体現派の主張した。それ故、アフマド・イブン・ハンバルは捕らえられ投獄
されたが、それでも自説を曲げる事は無かった。

140 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 04:52:40.47 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   266

 ハンバル派を創ったイブン・ハンバルは、「クルアーン=被造物」説というムゥタズ
ィラ派の説に激しく反発していた。同説が正統に反すると説く。このことは当時タルス
ースにいたマァムーンの耳に入り、バグダードにいたイブン・ハンバルはムハンマド・
ブン・ヌーフという別の批判者とともに鎖で繋がれてカリフの面前に引き出されること
になったのである。ところが、アッカを過ぎたあたりでマァムーン病没の報を受けて、
二人ともバグダードへ戻されることになった。しかもこの過酷な旅でムハンマド・ブン
・ヌーフは死に、生き残ったイブン・ハンバルもバグダードの複数の牢獄をたらいまわ
しにされる憂き目に会うのだった。新しいカリフのムゥタスィムは異端審問(ミフナ)
を廃止するつもりであった。けれども、「国家の体面を保つため」というムゥタズィラ
派の法官長の意見を容れてしまい、イブン・ハンバルを呼び出したものとおもわれる。
ヒジュラ暦219年 ラマダーン月にカリフの前でイブン・ハンバルは、クルアーンが作ら
れたものであると信じることを頑固に拒み続け、鞭打の刑に甘んじて受けた。そして2
年間投獄された。出獄後もムゥタスィム治世の間は、自邸に隠棲し個人的なハディース
の教授にとどまった。次代のワースィクの間も同様に過ごし、その次のムタワッキルの
即位(847年)になって 以後、公の場に姿を見せるようになった。ヒジュラ暦266年第1
ラビー月(西暦879年10月)に筆写され、イスラーム教の歴史の中で、現存する 最古の
写本群のひとつ。アブー・ダーウードはイブン・ハンバルに法学的見解を尋ねている。
イブン・ハンバルはヒジュラ暦241年第1ラビー月(西暦855年7月)に病気になり、その
後まもなくバグダードで亡くなった。ユリウス暦換算で75歳である。葬儀には、何万人
もの人が参列し、数千人のユダヤ教徒やキリスト教徒がその日に改宗したと伝えられて
いる。

141 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 05:03:14.85 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   267

 ここで、少し聖書を整理しよう。キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる
。旧約聖書は、「創世記」や「出エジプト記」のように、物語性が強く、読んでいても
面白い。一方、新約聖書はイエスの生涯と教えが中心で、読むには気合いがいるようだ
。新約聖書はさらに「4福音書」「使徒の言行録」「使徒の手紙」「ヨハネの黙示録」
からなる。中でも、キリスト教会にとって重要なのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
の「4福音書」の様だ。これらを含む27の文書が、聖書、つまり、キリスト教の正典
となっている。問題は正典以外にも多くの聖書が存在したことだ。しかも、その内容は
、正典と大きく食い違う。つまり、イエスの言行録や、神のとらえ方に、異なる解釈が
存在するということ。中でも有名なのは、イエスの神性論争だ。325年に この論争には
決着をつける為に、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、ニカエア公会議を開催する
。これは歴史の教科書にも載っているキリスト教世界の大事件である。この会議での、
アレクサンドリアの司祭アリウスはこう主張する。「神は絶対の存在であるがゆえに、
始まりはなく、生まれることもない。しかし、キリストは生まれた者であるゆえ、神と
同一ではない。キリストは神の子、つまり、神の意志によって存在するのであり、神の
ような絶対的な神性をもつものではない。」と、単純明快な回答であった。が恐ろしい
程に説得力である。さすが、ニュートンが信奉しただけのことはある。これに対して、
アレクサンドリアの主教アタナシウスは、父である神と、子であるキリストが同じ神性
をもつと、ただtだ反論した。これは、父と子と聖霊という3つの位格が1つとなって
神の存在とする三位一体を支持するもので、以後、キリスト教の主流となったものだ。
つまり、一方、先のアリウスが主張したアリウス主義は異端とされて、アリウス自身は
リビアに追放されていくのである。実はこのリビアの布教が、イスラムを創っていく。

142 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:37:28.40 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   268

 既に旧約聖書の世界は、多くの国に流布されて信仰があった中だった。取り立てて、
カトリックとプロテスタントを言うまでも無く、この旧約聖書の物語も、数々の史料で
色んな改訳で流布され信じられ、他の宗教の例えば拝火教やジャイナ教などと共存して
信仰されていた。と考えられる。ではなぜイスラム教がわざわざ布教するに陥ったのか
。それはキリスト教が出来たのと殆ど同じ理由である。つまり、帝国であるローマ市民
を一括りに指導する為に王が決めたのである。旧約聖書の物語をそのままに都合の良い
改訳をイエスに代表して行いまでも信仰する集団を盛り立てて、ローマ帝国の繁栄を、
導いたのだ。イスラム社会も同じようにビザンチン帝国を作り上げる為にモハメッド、
つまりムハンマドをたてて、神輿に載せて祀る事を指導したのである。ここに信仰の危
うさと人間のもろさがある。人は信じる信じないに関わらず、信仰なしには生きられな
い。この信仰が自然崇拝でも科学崇拝でも人間崇拝でも何でもよい。産まれながらに、
歩いたり食べたり出来ない人間は、その生い立ちの環境からも母にすがり父の仕事に支
えられて成長する。これは馬でもライオンでも象でも変わらない。生きる術を持ってい
ても、親や集団の中に群れとして付き添わなければ生きていく事は出来ない事を本能と
して知るのである。生物世界ではほとんどがそうである。植物ですら、親の環境があっ
て育ち開花する。魚や鳥の様に地球を回れる者も、そうして生きながらえるのである。
この習性を利用して宗教なり哲学なり主義主張が産まれて居る。共産党の言う共生主義
の破綻もここにある。自由主義や平等主義の見せかけも同じ理由である。何処かの誰か
が先人や先達として動き その監視や調整或いは外敵要因の排除が、本能的に行われる
。アリであろうが渡り鳥であろうが魚であろうが昆布や草木であろうが、同じである。

143 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:40:23.34 ID:G5Jo7SxVK
 イスラム社会のコーラン   268

 既に旧約聖書の世界は、多くの国に流布されて信仰があった中だった。取り立てて、
カトリックとプロテスタントを言うまでも無く、この旧約聖書の物語も、数々の史料で
色んな改訳で流布され信じられ、他の宗教の例えば拝火教やジャイナ教などと共存して
信仰されていた。と考えられる。ではなぜイスラム教がわざわざ布教するに陥ったのか
。それはキリスト教が出来たのと殆ど同じ理由である。つまり、帝国であるローマ市民
を一括りに指導する為に王が決めたのである。旧約聖書の物語をそのままに都合の良い
改訳をイエスに代表して行いまでも信仰する集団を盛り立てて、ローマ帝国の繁栄を、
導いたのだ。イスラム社会も同じようにビザンチン帝国を作り上げる為にモハメッド、
つまりムハンマドをたてて、神輿に載せて祀る事を指導したのである。ここに信仰の危
うさと人間のもろさがある。人は信じる信じないに関わらず、信仰なしには生きられな
い。この信仰が自然崇拝でも科学崇拝でも人間崇拝でも何でもよい。産まれながらに、
歩いたり食べたり出来ない人間は、その生い立ちの環境からも母にすがり父の仕事に支
えられて成長する。これは馬でもライオンでも象でも変わらない。生きる術を持ってい
ても、親や集団の中に群れとして付き添わなければ生きていく事は出来ない事を本能と
して知るのである。生物世界ではほとんどがそうである。植物ですら、親の環境があっ
て育ち開花する。魚や鳥の様に地球を回れる者も、そうして生きながらえるのである。
この習性を利用して宗教なり哲学なり主義主張が産まれて居る。共産党の言う共生主義
の破綻もここにある。自由主義や平等主義の見せかけも同じ理由である。何処かの誰か
が先人や先達として動き その監視や調整或いは外敵要因の排除が、本能的に行われる
。アリであろうが渡り鳥であろうが魚であろうが昆布や草木であろうが、同じである。
コーランの祈りも、このピラミッド建設も、実は目的は同じだったのではないか。・・
・と私は砂漠の地の治世と言う物を考える

144 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:40:47.73 ID:G5Jo7SxVK
イスラム社会のコーラン   269

 人間の作った物にピラミッドがある。最近の調査ではこのピラミッド作りが移民難民
の対策として行われた。と言う学説が、付近の発掘調査で証明されたようである。この
古代エジプトのピラミッド建設には、「ビールの醸造所」が併設されていたといわれて
いたが、それが証明されたからだ。そしてそれはビールが労働の報酬でもあった。とさ
れている。ビールの専門考古学者達は「ビールは栄養源であり、気分転換のための清涼
飲料であり、重労働のごほうびでもあった。十分な量のビールがなかったならば、ピラ
ミッドは永遠に建たなかったかもしれない。」とまでいうのである。これはどう言う事
かと言えば、ちょっとした計算からもビールの量やパンの量が膨大だからだ。クフ王の
ピラミッドは紀元前二六〇〇年から二五五〇年のあいだ、二〇年をかけて建設された。
というのがエジプト学者の一致した見方だという。その中で一日一万人が動員されて、
毎日五リットルのビールが支給された。とされる。つまり一万人×五リットル×三六五
日×二〇年=三億六五〇〇万リットルが消費されたのである。クフ王のピラミッドの、
この工事だけでこの量が消費された計算である。労働者のほとんどはこのビールとパン
の給料をもらっていて、奴隷ではなかった。その多くはナイルの氾濫で手もちぶさたの
、失業状態の農民たちだったのである。なぜビールが必要だったか。それは、ビールが
勤労意欲を高めるだけでなく、賃金がわりでもあったことは、発見された粘土板から明
らかだが、理由は簡単にも反乱防止策として工事であり、同じように反乱防止の為の、
ビールだったのである。先述の様に、人に宗教が必要だったのは、お祭りの様に恍惚感
が必要で、そこには集団行動の先導として宗教が必要だったのだが、この集団にも、操
る催眠術の道具が必要だったのだ。それが麻薬の様なビールやワインだったのである。
多くの国家で悩んでいるのは、経済や食糧よりも人々の行動であり行動の規制である。
それは人口増加抑制も逆に人口の減少抑制も悩みの種であり、暇で集団での暴動が困る
のである。

145 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:45:03.47 ID:G5Jo7SxVK
イスラム社会のコーラン   270

 古代エジプトで、当時は何百ものピラミッドや何千ものモニュメントが建造された。
もしビールが、そんなに大きな影響を持って、貨幣の代わりに使われたとするならば、
このナイル川の流量は平均毎秒三〇〇万リットル。したがって一三〇〇年ものあいだ、
ファラオの地にはもう一本の川、すなわちビールの川が流れていたといっていい程であ
る。ピラミッド建設に必要だったビールの量は、それはそのままビール麦の量でもある
。この頃ファラオ達には既にバビロンの地からワインの醸造法も伝わっていたと言われ
るので、もっと高級な食卓にワインを飲んでいた事であろう。それほど酒は盛かえた国
には大事な物だったのである。考えてみれば、女と男はほぼ半数生きている。家庭を持
ち食糧生産が出来るなら、他には戦争の理由がない。家を持ち暮らして行くのに貨幣が
要らない状態を想像すれば、後は面白い事を探しまわるのが日課になる。そうして不要
な軍備や技術が持ち出されるが、此れだけでは王制が保たれない。こうなると偉大なる
王として偉大な事業が必要となる。これが他国占領だったり、ジグラット築造だったり
するのだろう。では一体ジグラットから何故ピラミッドの様な大きな物を建てたのか。
大ピラミッドは石灰岩製の石板を並べて作られた基壇の上に建てられ、その底面の誤差
は水平2.1p、南北の方位0度3分6秒、側面長さ4.4pという 驚異的な精度で建造されて
いる。この事からも、既に充分な科学的見地や、数学的計算が出来る文化があった。と
言えるだろう。見た目でも解るだろうが、実は中心の断面で、ほぼ45度傾斜、頂上角
は、90度の二等辺三角形であり、角の傾斜角が底面正四角形 √2=54°44′の
理想角とほぼ同じ実測値を出す均等な綺麗な正4面立法体である。岩盤の上に、正確に
水平な基壇を作った理由はここにある。ここに地下の石棺はこの外接内接円の中止に、
ほぼ位置しているのである。これには理由がある。実は「屈折ピラミッド」が下段傾斜
角54度で作られて、120mほどの高さの物が存在する。つまりジグラット型で高く作ろう
として失敗し途中で傾斜角を変更している形の建造物が残ってる。つまり一つの到達点
だったのである。オベリスクも日本の鳥居の様な物で結界を意味したのだろう。

146 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:47:13.03 ID:G5Jo7SxVK
イスラム社会のコーラン   271

 「屈折ピラミッド」は、実際は100mほどの高さを有する。 しかしエジプト王はこの
「屈折ピラミッド」で、満足行かなかった。 もう一度ピラミッドを作成に当たる。 そ
れが赤い石灰岩を利用して作られた。このことから「赤いピラミッド」と呼ばれるもの
で、傾斜角43度で105mほどの高さを持つ真正ピラミッドが完成している。こうして2度
程の狂いで誕生して、より正確でより大きいピラミッドが作られるのであった。頂角は
90の、すなわち直角二等辺三角形になって、同様に底面を正四面体の形として完成さ
せる。スネフェル王のピラミッドの失敗を教訓にしたと考えられている。クフ王のピラ
ミッドに話を戻すと、周辺には、少なくとも一個所の醸造所跡が発見されている。この
事から、ピラミッドの建設現場は労働者が働き、食べ、眠り、飲む、まるで一個の都市
のような街があった。古代エジプト時代では、ファラオから庶民にいたるまで、ビール
はだれもが飲む国民的飲料だったという。とくに古王国時代(前2700〜前2200年)の、
マスタバ(葬祭用の食具)によく登場する。エジプト人はビールに関しては大真面目で
、農耕神で冥界の支配者の神、オシリスが発見した飲み物と考えていた。ビール考古学
の専門家パトリック・マクガヴァンは「ビールは栄養源であり、気分転換のための清涼
飲料であり、重労働のごほうびでもあった。ビールという給料。それがなければ反乱が
起きていただろう。十分な量のビールがなかったら、ピラミッドは建たなかったかもし
れない。」と。これまで見つかったビール製造に関する文書は、醸造所の責任者や経理
担当者が会計・管理・技術を記したものがほとんど残っている。具体的に、労働者は、
一日あたり三、四個のパンと、ジョッキ二杯分(計四〜五リットル)のビールを受けと
っていた。ということは、酔っぱらってもめごとを起こした者もいただろうが、実は、
支給されたビールの度数はせいぜい二〜三度と推定されている。度数は低いが、最高の
飲み物として重宝されて、労働と共に集団の反乱を止める役割をした。そしてその統治
もやはり、失敗を重ねた上の到達点の治世であったのだろう。実はこの屈折ピラミッド
が建てられた頃から、急速に森の木が切られて砂漠が広がるのである。

147 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/20(月) 13:50:54.85 ID:G5Jo7SxVK
  イスラム社会のコーラン   272

 神が発見した飲み物は労働のごほうびとしてのアルコールは、バビロンでも中国でも
或いはインカでもヨーロッパでも、神として祀られた物語から、労働対価と受け取れる
ものとして登場し「人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせる」ものとして登場する。
 ギザの工事現場の街では、労働者や職人の墓が六〇〇基以上発見されている。病院も
あり、四肢を切断する者も多かったとみられる。王家の谷の墓廟を掘削していた労働者
たちは、年間10週の休暇の他に、ビール自家醸造用の大麦の支給を受けられるという
特権を得ていた。つまり360日に70〜80日は休みが取れたのである。12ヶ月で
4週と考えても48日である。つまり週2日の休みが可能なぐらいゆったりと工事して
いたのだ。これは、毎週土曜半ドンとして、盆正月の休みがあった昭和期と同じである
。この高級な水だったアルコールは、労働者たちの墓場にまでも、もちこまれた。エジ
プトで、ギザのピラミッド建設に雇われた労働者の、四千年以上昔の墓が公開された。
日干しレンガでできたこれらの墓には、乾燥した砂漠に十数の遺体が埋まっていて、傍
らには、来世での生活のためにビールやパンを入れた容器が置かれていたという。当時
のビールは非常に腐りやすかったため、材料や製造法を記した文書まで埋められていた
。あの世でも作って飲める様に願ってるのだから、よっぽど好きだったに違いないのだ
。アメンホテプ二世の大侍従ケンアメンのフレスコ画(前一六世紀)には、地ビールの
製造が描かれている。ことアルコールにかんしては、貴賎の区別はなかった。と見られ
ている。こうして、建設現場で、ビールやパンが貨幣がわりに使われ、書記が酒・パン
・穀物の交換比率を決めていた現実がここに浮かびあがっている。書記たちはかなり恵
まれていた。主人が書記に書き送った手紙には「聞くところによると、おまえは筆記の
仕事を怠り、快楽に身をまかせて酒場から酒場をわたり歩いていると聞く。ビールが、
おまえの人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせている。ビールのことばかり考えず、
外国の酒を忘れるであろうに。」と嘆いている。このビールとパンの労働報酬は多くの
移民を引き寄せたようで、バビロンやアフリカの奥地やイエメンからもやってきている

148 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 12:58:02.48 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   273

 クフ王の治世を記したウェストカー・パピルスには、110歳の男が毎日500個の
パンと牛半頭分をたいらげ、100本のビールを飲み干していた話が感嘆とともに語ら
れている。また高級ビールは地位の高い人々のためのものだった。アビドスにあるファ
ラオ・スコルピオン一世(前三二〇〇年)の墓からは、ワインやビールを入れる壺が、
多数発見されている。つまり一方で、酒に強い者は大いに尊敬されていた事実もあった
。当時のビールの製造方法は、パンを焼いて、パンをお湯の入った壺に入れ、水に浸し
たものを空気中の酵母で自然発酵させて造られた。と考えられていた。この方法で出来
上がるビールは酸味がとても強く、ハチミツや果汁を混ぜて飲んでいたのだ。と言われ
ていた。しかし、麒麟麦酒は吉村作治と早稲田大学の協力で、サッカラのニアンククヌ
ムとクヌムヘテプという兄弟の墓の壁画に描かれていた図から、まったく異なる以下の
ような古代エジプトのビール製法を明らかにしている。大麦麦芽、小麦を乳鉢に入れて
突き、殻を取る。サドルカーン(すり臼)で、大麦、小麦を粉にする。酵母を培養する
。現在のビール醸造には該当する作業工程では存在しないが、日本酒の醸造などには、
酒母造りと呼ばれる酵母を増やす作業工程がある。粉にサワードウ(パン種)を加えて
、パン生地を作り、乳酸発酵させる。寝かせたパン生地を焼いて、パンにする。ブドウ
、干しブドウを水に浸す。ナツメヤシの果汁を加える。細かくしたパンを上記のブドウ
などを漬けた水に加え3日ほど置いて酵母を増やし、ザルでろ過する。これから麦汁を
作る。壺を熱し、大麦麦芽の粉と水を混ぜた入れ、もろみを作る。もろみをろ過して、
麦汁とする。上記で作った酵母と麦汁を壺に入れ、蓋をして3日ほど発酵させる。麒麟
麦酒では、この製法を用いて2003年に「エジプト新王国時代のビール」を再現すること
に成功していた。現代のビールと違ってホップは用いられず、白ワインのような味わい
の醸造酒となった。従来説で3%程度に対し、再現醸造法では度数が約10%と高い。

149 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 12:59:02.91 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   274

こうした古代の醸造法は、恐らく進化して行っての事だろう。クセノポンやアテナイオ
スの記述と一致する再現法も、恐らく先の従来説の後出来たと思われる。というのも、
麒麟麦酒が再現した方法は、現在の方法でビールを作る場合より、倍の量の原料が必要
であったからだ。つまり高級ビールの作り方としての需要であり普通に大きく食糧が余
る豊作時代ならそれでよかったのだろうが、不作時代では行えるはずも無かったと思う
。加えて、ビールは結構、神聖な飲み物だった。当初はヘネプトとよばれ、前四世紀の
プトレマイオス朝以降はズトスとよばれるようになる。原料は大麦、小麦、ナツメヤシ
で、エジプトの文献にはすくなくとも17種類のビールが記され、「美しく旨い」とか
「天空」とか「喜びをまくもの」「食事のお供」「豊穣」「発酵」など、シュワシュワ
とはじけるようなネーミングがなされて、今で言う品名がなされている。ビールには、
おもに四つの系統があった。「大麦ワイン(ザイトゥム)」は、もっとも普及していた
ライトビールで、「より強いビール(デザイトゥム)」「甘いビール(カルミ)」「ジ
ンジャービール」などである。エジプト南部のヌビア人のあいだでは、知らず知らずに
ビールが病気の治療に役立っていた。ミイラの骨の分析でも、ビールの原料である穀物
から生成される抗生物質のテトラサイクリンが多く検出されている。建築事業でも有名
な王は、ビール作りでも傑出していたようで、ラムセス二世(前1304〜前1213)は、エ
ジプト学者の間に「醸造家ファラオ」とあだ名がついた程。このファラオはビールを、
神聖視し、黄金の杯でこれを飲んでいだ。アモンラー神を崇拝し、アンフォラ(ビール
用の水差し)46万6308個分のビールを奉納したこともある。約100万リットル
に相当する量である。ピラミッドの石量ぐらいある。水質が悪いため、エジプト人は好
んでビールを飲んだ。エジプト人は、自宅でもビールをつくり、建設現場で働く労働者
たちが通うビアハウスでに、中近東のエキゾティックな雰囲気の、キャバレーや売春宿
でも楽しむ暮しをしてた。腰や太ももに入れ墨をした妖艶な遊女たちの 体にしたたり
落ちるほどに、ビールがふんだんに供されていただろう。

150 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 12:59:34.47 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   275

 こうしたエジプト神話におけるビールは生活に密着していて、強い高級なビールから
弱い安いビールまで、水代わりに飲んでいたので品種類豊富ではあったが、今の酒税法
の様に公共の福祉事業と同じに保護もあり検査も厳しく、違法や品質の取り締まりもあ
ったようだ。従ってこの職業に失敗は許されなかった。悪質な醸造家は、自分のつくっ
たビールのなかで溺死刑に処せられたり、粗悪な酒を売った者は、死にいたるまでこれ
を飲まされた。との記録がある。またカイロのエジプト博物館を訪れる機会があれば、
ギザで発見された前二三六〇年頃の「ビールをつくる女性像」も見れる。その恍惚とし
た表情には、ナイル川のほとりでいまも醸造されている古代ビール「ブーザ」を飲みた
くなる程の愛想がある。エジプトの東隣バビロニアの『ハンムラビ法典』には、「女性
がビアハウスに入るのは不道徳な行為」と戒めている。恐らくはアルコールのにおいが
充満する建築現場であったろう。しかし、ビールから得られる収入を確保するために、
ラムセス二世は、国営の醸造所をつくってビールづくりを独占したという。南部にある
ヒエラコンポリスの醸造所では、前四世紀に日産一〇〇〇リットル以上のビールを生産
して稼いでいた。こうして、ファラオは建築現場の監督や兵士、神官に無料でビールを
与えることができたという。ラムセスの建設事業の、テーべ、カルナック、メンフィス
、ブバスティス等々を中心に、テーべに建てられた王家の葬祭殿「ラメセウム」とか、
古代エジプト学の父シャンポリオンは「数百万年の城」と呼んでいる。その建設に何千
人もの労働者が動員され、文字どおりビールやワインの創った酒で、城砂上の楼閣であ
ったともいえる。何故ならこの後エジプトの為に アフリカの天候は変化し砂漠は増え
農業も干ばつばかりで、他国に攻め入って兵糧を得ていく エジプト・中東の戦国時代
といった様相に入るのである。

151 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 13:01:23.67 ID:JLcqDpNMl
こうしてビールが 消えると共に エジプトの栄華も消えて言った。

152 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 18:26:33.36 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   276

 大ピラミッドは、古代世界の七不思議に記される古くからの世界的な遺跡で観光地で
もある。見る者に驚愕と尊敬の念を与え続けてきたし、数多くのエジプトのピラミッド
の中で最大であるだけでなく、その複雑な内部構造など異質な点も多く、それゆえに、
特別視される。特に19世紀から神秘科学・オカルトなどと結びつける人々による謎解き
はピラミッド学と揶揄される程多い。彼らは古代エジプト人が大ピラミッドを築いた事
に、聖書的・神知的・天文学的・数学的な論理を用いて説明しようと幾つもの試みをし
、大ピラミッドを、王墓・天文台・日時計など主張したり超古代文明や宇宙人と結びつ
けられる事もある。これらは否定されながらも、一方で考古学者の中にも未知の空間を
や謎の解明を期待し、現在でも様々な調査が行われている。しかし、現実においてこの
ピラミッド建設はエジプト文明のごく一端であり、ナイル川流域で出来た文明ははるか
紀元前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生し
ておりその後のキリスト時代まで王朝が残っていた。つまり4〜5千年の王国だったの
だ。紀元前4千年紀末に、広いアフリカ大地に上下エジプトを統一する王朝(エジプト
第1王朝)が成立したと見られている。以降の紀元前三十年のローマ帝国の征服まで、
およそ30期ぐらいに分類されている。これは膨大な期間の王朝政権社会が存続した事
を示している。古代エジプト王朝が神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エ
ジプトの王は、一般的にファラオと呼ばれる。古代エジプト王朝は大きくは、古王国(
前27世紀〜前22世紀)、中王国(前21世紀〜前18世紀)、新王国(前16世紀〜前11世紀
)に分けられて分類される。エジプト文明の象徴的建造物とされるギザの大ピラミッド
はクフ王によって建造された。これは古王国の時代であり、「黄金のマスク」で知られ
たツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)王墓は新王国時代の遺構である。とされる

153 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 18:26:57.05 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   277

 知られているツタンカーメン王の新王国時代が崩壊して後は、エジプトではリビュア
人やヌビア人など周辺諸国からの流入者による王朝が、複数建てられたという。やがて
紀元前 671年には、メソポタミアで勢力を拡張するアッシリアの支配下に入っている。
以降には地中海勢力となった、ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)、アレクサンドロス
3世などの帝国が、順次エジプトを支配していくのである。こうして紀元前前 305年に
アレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者ディアドコイの一人の、プトレマイオス
1世がプトレマイオス朝を建て、その首都アレクサンドリアは、東地中海における学問
の中心として栄える。前30年にプトレマイオス朝の実質的な最後の王クレオパトラ7世
がローマの執政官(コンスル)のオクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れてのち、
その栄誉も消えて、エジプトはローマ帝国に組み込まれてしまった。以降、1000年近く
にわたり、エジプトはこうして、より巨大て強大な大きな帝国の一部としてその歴史を
歩んでいく。ローマ領となったエジプトは、皇帝の属州アエギュプトゥスをリーダーと
して、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人のパンとサーカスを支えた。といわれる
。パンとは当然小麦粉の輸入と水の供給と燃料の木材・葦などの輸入である。そして、
此処で言うサーカスこそ、奴隷まで含めた仕事であり劇場などのエンターテイメントの
話であったのだ。その後、ローマ帝国は拡大に戦争や遠征を行うのだが、恒常的に複数
の皇帝に分割されるようになる。此処でも人々は森の木の乱伐に於いて焼き畑農業で、
一時期は莫大な収穫と豊かさを得るがその数年後には、獲物も木も豊かさの元が無くな
り衰退するのだ。こうして 紀元395年の最後のローマ帝国の分割の後、エジプトは東ロ
ーマ帝国の管轄下に入ってビザンツ帝国の一員となったが一緒に衰退をするのである。
この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めていく。

154 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 18:27:30.21 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   278

 550年にフィラエ島のイシス神殿が閉鎖されて、古代エジプト文明時代の古い神々
はたちまちの内に忘れ去られた。エジプトは618年にホスロー2世の治世下だったが
サーサーン朝によって征服され、ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功するもの
の、間もなく新興宗教のイスラームを奉じるアラブ共同体(ウンマ)によって646年
まで、エジプトが完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に
入っていく。正統カリフ(ハリーファ)時代、ウマイヤ朝、アッバース朝といった歴代
のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれたが、アッバ
ース朝末期に入ると、イスラーム世界は徐々に「地方化」が進み分裂していった。エジ
プトでも868年にトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く、独立
派勢力が誕生した。その後エジプトの支配権はチュニジアで興ったファーティマ朝の手
に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ(アル=カーヒラ)に拠点を遷し、事実上
エジプトの王朝としての歴史を歩んだ。12世紀に入ってファーティマ朝の内部紛争が激
しくなると、西欧諸国による十字軍の侵入や、権力者の争いの中で、頭角を現したサラ
ーフッディーン(サラディン)によって12世紀後半にアイユーブ朝が建てられた。エジ
プトはイスラーム世界における学問や経済の中心として栄えたが、それ故に外敵の攻撃
にも晒され、特に13世紀には十字軍の主要な攻撃目標となったようだアイユーブ朝では
13世紀半ばにマムルーク(奴隷軍人)が政権を握り、新たにマムルーク朝が成立した。

155 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 18:28:38.57 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   279

 テュルク人やチェルケス人など「白人」の奴隷軍人によるこの政権は、シリア地方も
支配下に置き、モンゴル帝国の侵入も排して16世紀初頭までエジプトを支配した。マム
ルーク朝の支配は1517年にセリムのオスマン帝国の攻撃によって終焉を迎えた。以降、
オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配した。マムルー
クや有力軍人など在地の権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治
的自立性を維持している期間が長かった。オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国
が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。1798年にフランス
で権力を握ったナポレオンがエジプトに侵入し蹂躙した。フランスによるエジプト支配
は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であった
ムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上
げた。ムハンマド・アリーは、オスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し
、新たな帝国の形成を目指したが、これが「国益上の障害」と見たイギリスの軍事介入
によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権
を得た(ムハンマド・アリー朝)。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド
・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設
などの開発政策が実施されたが、スエズ運河建設に伴う対外債務の負荷や、アフマド・
オラービーによる「外来の王朝」に対する革命などの対応に追われる中で、名目的には
オスマン帝国の「宗主権の下」にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった
。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされて、
オスマン帝国の宗主権から脱した。

156 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/21(火) 18:29:16.76 ID:JLcqDpNMl
  イスラム社会のコーラン   280

 イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後に
は激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールら
が独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年に
エジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保を
つけるなど、エジプトの「独立」は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権
の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵に
こぎつけた。1937年に国際連盟に加盟し、また、同年には猶予期間を置いての治外法権
の撤廃も勝ち取った。現代のエジプトは、カイロ市街を首都として、第二次世界大戦が
契機となって、パレスチナにユダヤ人国家イスラエルが成立したが、エジプトは認めず
周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争を起こしてパレスチナに侵攻した。が敗れた。
この敗戦によって、ムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター(
エジプト革命)が起こった。王は追放され、翌年に公式に王制の終了が宣言され共和制
への移行をする。この時、ナーセル(ナセル)は、当初幼帝を在位させ混乱を鎮めて、
大統領として主導権を握って共和党移行を果たしたのである。1956年には武力危機の末
にスエズ運河の国有化(スエズ動乱)を実現し、アラブ民族主義の台頭の下経済運営で
一定の成果を見た。そうしてナーセルが中核となって1958年にシリア、イエメンと合邦
してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かなかった3年で瓦解し
解体した。以降1967年に第三次中東戦争でのイスラエルに対する敗北によってナーセル
の権威は失墜し、1970年にはナーセルが死去した。

157 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/22(水) 02:37:21.84 ID:W2dWR7nLQ
 イスラム社会のコーラン   281

 エジプト文明は、ナイル川の地域で花開いた文明であるが、ナイル川は、水源地の、
エチオピア高原での季節的な豪雨によっては、7月になると下流で増水が始まり、11月
までは氾濫した水が流域の平地を覆う大地であった。水がひいたあとの耕地には、上流
から運ばれた肥沃な泥土が残されたのだが、ナイル川の氾濫は定期的に繰り返されて、
エジプトの農地は生産力がきわめて豊かであった。このナイル川と同様にシナイ半島を
越えるとユーフラテス川があり、その向こうのシリアやイラクにはチグリス川がある。
共にペルシャ湾に注いでいるが、この3本の平行に流れる川は、中国の黄河揚子江長江
と同様に、各流域に大きく集落が栄えていた事を示している。従って交通路も早くから
発達し、このエイジプトとメソポタミアとは繋がっていただろう。ナイル川の氾濫で、
上流から運ばれた肥沃な泥土が残された耕地は、水がひいたあとの耕地にはエジプトの
農地の比較的高い生産力があったのだろう。ナイル川はエジプト全体のの各地を結んで
交通路としての役割も担い、散らばった各地との交易が進んだ。ナイル川には、ノハム
系民族の多くのノモスと呼ばれる集落があったが、ナイル川の有効な治水と用水の公平
な分配のために住民を統括する指導的な権力が必要で、次第に統合に向かい、多くのノ
モスはそれぞれが、時間とともに大規模な共同体をつくり、下エジプト(ナイル下流の
デルタ地帯)と上エジプト(ナイル上流)の2つの王国を形成した。前3000年ころに、
上エジプトの王メネス(別名ナルメル)が下エジプトを征服し統一国家を建国しアブシン
ベル神殿が出来た。高さ20mの虚像で、4体のラメセス2世像がエジプト民の上下統合
の象徴で過去も未来も救ったとして祀られた神殿である。ファラオとは「大きな家」を
意味しており、エジプト文明では通年で、一時的に異民族の侵入や外国の支配を許した
。基本的にはファラオ(王)によって安定統治が実現された豊かな社会を築いていた。

158 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/22(水) 02:48:21.00 ID:W2dWR7nLQ
 イスラム社会のコーラン   282

 古代エジプト時代の宗教は多神教であった。そこにはいろいろな種類の力をもつ神々
がいた。自然の動きや原理の化身としての神々を崇拝した。ラーやアモン、オシリス・
などの神々がいた。それぞれの時代、地域、文化、政治情勢により、その神々の地位や
形態は変化する。エジプト文明の歴史では、酒は欠かせない成分で、豊穣の象徴だった
。ラー(Ra)は古くからの古代エジプトの多神教の中の主神であって、太陽神である。
ハヤブサの顔をもち、その頭の上には、太陽を象徴する円盤をのせて描かれるている。
象徴する元素は火であり、象徴する色は赤とされていた。此処に拝火教の多神教の精神
があった。アモン(アメン)はエジプトの大地の守護神であったアモン(アメン)はもとも
とはナイル川中流の都市テーベの守護神であった。が、中王国建立期以来最高神とされ
、新王国時代に、ラーと結合し、アモン・ラーとして広く普及した。「見ることすら、
できないもの」との意味を示し、創造神にして天空の神、大気の守護神、豊穣の神とし
て、合体神として出来上がった神である。しかし8人の神と協力して世界を創造させた
伝えられてる神の伝統を持っていた。この、アモン(アメン)・ラーが合体した創造神
となった事で、他の地方の守護神の中で、中心の太陽神として祀られた。その後これが
更に統合し「アトン」が出来た。アトンも又太陽で表される神である。アメンホテプ4
世時代に、アモン・ラーを主神とする多神教に反対して、唯一神の太陽神信仰を強制し
合体させて唯一神にした。つまり、アモン・ラーが統合の多神教を認める神々のリーダ
ー的存在だったが、「アトン神」は、同等の存在でありながら、神々の仲間も部下も敵
もこの世にいない「絶対の唯一神」にすり替わったのだ。世界初の唯一神の始まりであ
る。又、アメンホテプ4世時代と言う独裁も又世界初だった。この時代神官が横暴を極
め、実政を動かしていた。祝詞や神の預言で様々な事に壁があった上に、不作に陥った
のが他の神の祟りとされたのだ。この神官達に対抗するために普及し、遷都をしようと
までしたが、アメンホテプ4世の方が死んでしまい、その想いは途絶えた。

159 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/22(水) 03:01:35.85 ID:W2dWR7nLQ
 イスラム社会のコーラン   283

 オシリス神は、恐怖の暗闇の大神で、夜や死と復活を司どる神だ。いわゆる冥界の王
で、死後の世界を牛耳っていて、死者の守護神の役割を果たしている。死後の審判を行
うので、日本での閻魔大王である。エジプト語ではアサル、アセル、アウサルと呼ばれ
て、各地にもあった神のようだ。太陽の船やピラミッド信仰やスフインクスの問いかけ
を聴く限り、彼は大ボスとしての支配神だ、太陽神が祈りの対象だがオシリスは呪いの
願掛け対象である。オシリス神は冥界の神となる前はもともと穀物を育てる豊饒の神で
絶大な人気があった。とされる物語がある。これを妬んだ弟神セトに謀られて殺害され
てしまい冥界に行く羽目になった。遺体はエジプト全土にバラバラに投げ捨てられた。
それでも妻でもあった妹神イシスの努力で、くまなく探し、身体のひとつひとつを見つ
けられ、それを拾い集めて、遺体をつなぎ合わせて、命を吹き込まれ復活させたのであ
る。しかし残念な事に復活したのが、この世ではなくあの世(来世)であった。ミイラ
を包帯で巻かれるのは、この神話で言う繋ぎ合わせのオシリスに由来するともいわれる
。こうして冥界の王として新しく誕生する。しかし、この絶対神オシリスを妻のイシス
神が産むのだからイシス神の方を普通は拝みそうなものだがと思うと、マリア信仰は、
その流れかも知れない。此処での冥界とは対岸の欧州だったとも言われる。この2人が
産んだ子の一人がホルス神である。イシスはオシリスが冥界の神となってしまい、その
代わりにホルスを現世のエジプトの王に、太陽神ラーをだまして絶対権力を我が子に授
けさせたと伝わる。太陽神すら騙せる妻であった。こうして現世の エジプトの地は、
はホルスが治め、冥界の地は妹ネフティスに治めさせ、永遠にオリシスに護られた。と
いう設定だが、になっている。初期のホルス神は太陽と月を両目に持つ天空神とされて
おり、彼は、原住民の神と習合されてハロエリス(「大ホルス」の意)または、ハルウ
ェルという名の光の神である。ハロエリスは、天空に浮かぶ月の神でもあり眼病を癒す
神だ。砂漠の眼病患者の信仰を集めた。またハロエリスは、エジプトの北と南の両方に
ある聖域を定期的に往復する。とされハトホルの息子が王となり小ホルスとされた。

160 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/22(水) 03:07:25.69 ID:W2dWR7nLQ
 イスラム社会のコーラン   284

 この「大ホルス」に対してオシリスを父、イシスを母に持つ子供は、「小ホルス」と
されエジプトの王とされる。妻は、愛と美の女神ハトホルで母イシスともむつみあう。
ハトホルとの間に音楽の神イヒを成し、イシスと間には「ホルスの4人の息子」と呼ば
れる四柱の神々を成した。これが東西南北の神でこの神々がエジプトを守ったという。
 古代エジプト信仰を支えるエジプト神話でも、かつて、世界は光のない混沌の海の中
に世界があった。その混沌とした世界を「ヌン」と言われるものだった。その中から、
突如にして「太陽神ラー(アトゥム)」が現れ、そこから時間が最初に始まったとされ
る。ラーは「大気の神シュウ」や「湿気の女神テフヌト」を産んだ。シュウとテフヌト
は、結婚して後、「大地の神ゲブ」と、「空の女神ヌト」を産んだ。これは殆ど日本の
天孫降臨と同じである。こうしてゲブとヌトによって、4人兄弟が産まれる。「豊穣の
神オシリス」、「女神イシス」、「砂漠や厄災の神セト」、「死者の守護神ネフティス
」である。こうしてイシスと結婚したオシリスは婚姻を結んでエジプトの王となった。
この太陽神・大気神・蒸気神・大地神・天空神・豊穣神・女神・砂漠神・冥界神をして
エジプト8神とされる。この時知恵の神トートの力も借りて、人々に小麦の栽培法など
を教え、法律をつくり、秩序をもたらした。とされる。この人間に尊敬されるオシリス
に面白くないのがセトだった。嫉妬からセトは宴で美しい棺を用意し「ぴったり納まっ
た人にこの棺と褒美をあげよう」と言い、オシリスが箱に入った瞬間、棺を閉じて鍵を
かけて、ナイル川に投げ込んで殺してしまうのだ。夫を亡き者にされたイシスは、直ぐ
に王宮を飛び出し、捜索してビブルスの王宮で柱となっていた棺を見つけ出て、引き揚
げてくるが、隠れていた弟のセトが、隙をみてオシリスの遺体を14に切断して各地に
ばらまいてしまう。柩を開けての居ない事で、イシスはまた捜索の旅に出ることになっ
てしまう。こうして方々から拾い集めて、ようやく集めた遺体を繋ぎ合わせ、包帯にく
るみ魔法の言葉を唱え、オシリスは復活を遂げる。というのがエジプト神話のあらまし
である。

161 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/22(水) 03:26:04.46 ID:W2dWR7nLQ
 イスラム社会のコーラン   285

しかし、残念な事に、不完全な体のためか現世には留まれなかったオシリスは、冥界の
王となっていく。やがてイシスはオシリスとの子、ホルスを出産しイシスは、成長した
ホルスこそが王にふさわしいと訴え、何十年かにわたる戦いの末に、時の王のセトが破
れ、ホルスがエジプトの王として君臨した。以来、地上を統治する王(ファラオ)は、
ホルスの化身と見なされるようになった。また冥界も兄セトの妻であったネフティスに
任せた為に末っ子のネフティスは冥界神の座についた。とされる。かつて長兄オシリス
に恋焦がれ、オシリスと関係を持とうと必死になり、酒でオシリスを酔わせたり、妻の
イシスに変装したり、と 様々な手段を使った妹神ネフティスだったのだが。その結果
、オシリスとの子を得ることに成功はしている。オシリスとネフティスとの間に生まれ
た不義の子が、ミイラづくりの神のアヌビスであるとされる。しかし、セトの怒りを恐
れたネフティスはアヌビスを見捨ててしまう。この姉イシスと妹ネフティスの間には、
オシリスを巡っての大きな確執があるようにも見えるが、実はこの頃の思想は近親婚や
混交や性交に大らかで、近親相姦(きんしんそうかん)は反って勧めている。近親相姦
(きんしんそうかん)近い親族関係にある者による性的行為であるが、エジプトに限ら
ず多くの物語で認められているどころか、家系存続には欠かせない要素であり、日本で
でも明治の頃まで勧められた同族婚であったのだ。こうしてこの姉イシスと、妹ネフテ
ィスの二柱は、オシリス復活のため共闘関係にあると言える。つまりセトだけが敵対の
相手であったのだ。オシリスがセトに殺害され身体をバラバラにされ旅にでた際には、
これを探すイシスにネフティスは同行し進んで手助けをしている。オシリスの復活に、
協力したことから、死者の守護神となり、葬祭の女神となったとされ、その前までは、
「城の女主人」で門番や留守番の地位だったらしい。姉イシスが「玉座(王権)」の神
の存在であるのに対して、妹ネフティスは、城を神格化した家の護り神の存在であった
のだ。しかし、こうした神話の背景には、エジプトと他の文明との歴史が物語になった
と言えそうだ

162 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 00:52:59.48 ID:46hs5okI1
 イスラム社会のコーラン   286

『死者の書』は、オシリスの審判に備えられる、死者の生前の善行さや呪文を神聖文字
(ヒエログリフ)で記した、副葬されているパピルス文書である。ミイラとともに納め
られている。冥界の王オシリスの前で、山犬の神「アヌビス」が、死者の心臓と真理を
象徴する羽根を秤にかけ、知恵の神トトが記録している壁画もある。心臓が真理より重
いと、邪悪と判定されるので、怪物に飲み込まれてしまう。無実と判定される人間では
再生できる。と言う物だ。これは、古代エジプトの人々の死後の世界の案内書といえ、
彼らの来世観・宗教観・道徳観を 表している。ミイラは霊魂不滅の信仰から加工保存
された遺体で、後世での復活を願い、その時の用意の為に作られたとされる。乾燥した
風土とすぐれた保存技術によって可能となったものだ。ミイラは、死体から心臓以外の
すべての臓器を取り除かれて作られる。肝臓、肺臓、胃、腸はそれぞれ専用の箱『カノ
ポス』に入れられてミイラと一緒に保管される。なお、古代エジプトのミイラは、王族
だけでなく庶民のミイラも作られていた。ピラミッドは、支配者の遺体(ミイラ)を保存
するための巨石墳墓である。第3〜第5王朝時代のファラオの遺体(ミイラ)を納める為
に出来た巨大墓墳である。マスタバとよぶ、遺体格納の玄室へ階段または縦穴が通ずる
巨石墳墓が原型として存在する。エジプト古王国の代表的建造物で、第4王朝でもっと
も発達し、クフ王のピラミッドが世界最大である。クフ王のピラミッドは世界最大で、
現在では 高さ約137mm、底辺の一辺約230m、斜辺約180mm、総重量約580万トンで、建設
には10万人を動員して20年を要した。といわれる。ファラオ権力の絶大さを示すもので
あったが、第5王朝以降小型化し、その後消滅した。その死者の書に書かれた内容は、
多くが神への畏敬と王の賛歌であると言われる。

163 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 00:53:23.23 ID:46hs5okI1
 イスラム社会のコーラン   287

 この「最初の神ラー」と共にエジプト8神の他に、「知恵の神トート」が出て来る。
トトや、テウトとも言われ、古代エジプトの知恵を司る神。古代エジプトでの発音は、
完全には解明されていないがジェフティと呼ばれる。人の姿に鳥の顔で日本的にはトキ
やサギの頭をしている。聖獣とされ、トキとヒヒで、数学や、計量をつかさどる女神で
あるという。セシャトを妻(または妹)としている。と言われる。この物語での冥界と
されるのは地中海対岸の欧州の事と言われるので、貿易商人の事かもしれない。トート
は、魔法に通じておりイシスに数多くの呪文を伝えたとされ、病を治す呪文も熟知して
いた。という。ことから医療の神の面もある。ホルスに頭を切り落とされたイシスを、
牝牛の頭に挿げ替えて復活させたのはトートであると言い、さらに彼は魔法の書物を書
き、この世のあらゆる知識を収録する42冊の本も書いたと考えられている。多くの信仰
を集め、長い間、様々な広い地域で信仰され、知恵の神、書記の守護者、時の管理人、
楽器の開発者、創造神などとされて、トートは王族民間人の問わず信仰された。その為
ある程度の規模を持つ神殿には、必ずトートのための神殿が一緒に作られているという
。またエジプトの外でも信仰を受けて、新バビロニアや古代ローマ帝国でも信仰された
。エジプト人の守護者として、「遊牧者の主」、「アジア人を征服するもの」と呼ばれ
ている事から遊牧民の対象であったのかもと研究されている。聖獣のトキから、渡り鳥
信仰から来てるのかもしれないが、ここに拝火教や風葬や鳥葬の要素がある。いわゆる
日本の鳥居文化と同じである。同じ様にスフィンクスは、エジプト神話やギリシア神話
、メソポタミア神話などにも登場する聖獣だとされている。ライオンの身体を持ち人間
の顔を持った神聖な存在あるいは怪物とされるスフィンクスは、古典ギリシア語でスピ
ンクスでこれの英語読みとされる。運命の門番の意味合いの様だ。

164 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 00:53:58.97 ID:46hs5okI1
 イスラム社会のコーラン   287

 この「最初の神ラー」と共にエジプト8神の他に、「知恵の神トート」が出て来る。
トトや、テウトとも言われ、古代エジプトの知恵を司る神。古代エジプトでの発音は、
完全には解明されていないがジェフティと呼ばれる。人の姿に鳥の顔で日本的にはトキ
やサギの頭をしている。聖獣とされ、トキとヒヒで、数学や、計量をつかさどる女神で
あるという。セシャトを妻(または妹)としている。と言われる。この物語での冥界と
されるのは地中海対岸の欧州の事と言われるので、貿易商人の事かもしれない。トート
は、魔法に通じておりイシスに数多くの呪文を伝えたとされ、病を治す呪文も熟知して
いた。という。ことから医療の神の面もある。ホルスに頭を切り落とされたイシスを、
牝牛の頭に挿げ替えて復活させたのはトートであると言い、さらに彼は魔法の書物を書
き、この世のあらゆる知識を収録する42冊の本も書いたと考えられている。多くの信仰
を集め、長い間、様々な広い地域で信仰され、知恵の神、書記の守護者、時の管理人、
楽器の開発者、創造神などとされて、トートは王族民間人の問わず信仰された。その為
ある程度の規模を持つ神殿には、必ずトートのための神殿が一緒に作られているという
。またエジプトの外でも信仰を受けて、新バビロニアや古代ローマ帝国でも信仰された
。エジプト人の守護者として、「遊牧者の主」、「アジア人を征服するもの」と呼ばれ
ている事から遊牧民の対象であったのかもと研究されている。聖獣のトキから、渡り鳥
信仰から来てるのかもしれないが、ここに拝火教や風葬や鳥葬の要素がある。いわゆる
日本の鳥居文化と同じである。同じ様にスフィンクスは、エジプト神話やギリシア神話
、メソポタミア神話などにも登場する聖獣だとされている。ライオンの身体を持ち人間
の顔を持った神聖な存在あるいは怪物とされるスフィンクスは、古典ギリシア語でスピ
ンクスでこれの英語読みとされる。運命の門番の意味合いの様だ。

165 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 00:54:27.83 ID:46hs5okI1
 イスラム社会のコーラン   288

エジプト・ギザの大スフィンクスが尤も有名であるが、スフィンクスは、日本に伝播し
て、シンガポ−ルでマーライオン、沖縄でシーサー、日本で狛犬になった神社の守護神
とされる。エジプトでは地中海の対岸の欧州を冥界としていたと言われ、ギリシャ神話
に伝わるスフィンクスは、女性の姿で謎かけをすることで登場する。スフィンクス」の
語源は、古代エジプト語の「シュセプ・アンク(生ける像・復活の像)」に由来して、
ギリシャ語「スピンクス(Sphinx)」の英語読みとされる。スフィンクスはライオンの
体と人間の顔を持つ怪物で、その起源は古代オリエントのライオンへの信仰思想にある
。古代オリエント世界でライオンは「聖獣」だったと言われ、オリエントの古代世界の
百獣の王であるライオンを聖獣として畏敬し、王はライオンの霊力や威を持つ。という
思想が蔓延していた。玉座や墓所には、守護神として必ずあしらわれた。とされる。ま
あ日本の鬼瓦みたいな物だろう。従って古代エジプトにおいては、ファラオの守護神の
役割を持った。ギリシャ神話のスフィンクスは、下半身がライオンで胸から上が女性と
なり、翼を持つ姿で表現されている。ファラオの守護や権力の象徴として、神殿や墳墓
の入り口の石像として置かれたその姿は、体がライオンで頭部が人間の半身半獣だが、
他にファラオ(王)の顔を模したり、動物の顔、女性の顔などバリエーションがある。
エジプトのルクソール東岸にある古代エジプトの神殿群の中に、ルクソール神殿がある
。ルクソール神殿から2mほど離れた所はアメン神殿があって、2つの神殿をつなぐ、
参道の両脇には多くのスフィンクスが並ぶ。古代オリエント世界に聖獣ライオンが守護
神とされ、大スフィンクスの他にも小さなスフィンクス像も数多く作られた。ギリシャ
神話においては古くは、子供をさらう怪物となり魔除けにされた。、妖しい性格を持つ
怪物で「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足となる生き物は何か」というなぞかけをし、
消えていく。

166 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 00:55:55.69 ID:46hs5okI1
 イスラム社会のコーラン   289

 百獣の王であるライオンが、力と聖なるものの象徴として古代世界では特別な存在で
あり、古代オリエントの聖なるライオン像は、インドにおいて仏教と習合し、シルクロ
ードを通じて中国に入って唐獅子となり、日本にやってきて狛犬となった。ライオンが
いない日本においては犬に分類された狛犬も、エジプトのスフィンクスと同じように、
聖獣として神社仏閣を守護している。一般にギリシャや都市国家と言えば、イタリアと
ギリシャの間にあるイオニア海クレタ海が地中海として登場する。それは、話題のエー
ゲ海は、地中海外の場所との意識からだが、実は古代神話の世界ではエーゲ海こそが、
戦闘の中心だった。リビアの海のシトラ海からイスタンプールのボスポラス海峡を越え
て黒海に入る事の航路が、その昔の神話の世界の交易ルートだったのだ。このエーゲ海
には小さな島が点在する。この島が海賊の根城だったり海の航路の守りだったりする。
その中にアトス島がある。アトスの山は守護聖人「生神女マリヤ」を祀っている。古来
「神の母」が宿る霊峰として信仰を集めた山である。その由来がアトスの名を冠した。
伝承によれば、マリヤが旅の途中で嵐に遭いアトスの海岸に避難したとき、その美しさ
に惹かれて、自分の土地とした。とされる。下船したマリヤは、アトスの異教の偶像を
一瞬にして打ち倒し、この地に祝福を与えた。とされる。なお、アトス山頂には十字架
が立てられ、救世主顕栄聖堂が建てられている。ギリシャ国内にありながら同国より、
治外法権が認められ、各国正教会の20の修道院・修道小屋(「ケリ」と呼称される)に
よって自治がおこなわれる共和国である。首都はカリエス。ギリシャ共和国では正教会
の一員たるギリシャ正教会が主要な宗教であるが、アトスでは、正教会で第一の格式を
持つ総主教庁であるコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあり、現在も中世より
受け継がれた 厳しい修行生活を送る修道士が暮らす。こんにち、約2,000人の修行僧
が女人禁制のもと、祈りと労働の生活を送っている。という。

167 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/23(木) 17:30:30.17 ID:+7DjFY5Qd
ああああああああ400言ってたけど 資料無くなっちまって新しくかえるわい

168 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/24(金) 10:45:55.50 ID:FYZLagjPg
 イスラム社会のコーラン   291

『ユダヤ戦記』(ユダヤせんき)は、1世紀にユダヤ人フラウィウス・ヨセフスによっ
て書かれたユダヤ戦争の記録で、全7巻ある。都合に合わせて事実をゆがめている。と
の批判はあるが、ユダヤ戦争の目撃者による、貴重な記録という。もともとギリシャ語
で書かれていたが、古代においてラテン語に訳され、さらに近代に入ると各国語に訳さ
れて多くの読者を得た書物である。ここには、「巨人がいた、普通の人より大きく見た
目も違う、見るのも恐ろしい。」などとと古代エジプトの巨人兵の存在を示唆する文章
が書かれている。ヨセフスの書物の通り古代エジプトに巨人兵団が存在していたとする
と、エジプトの巨大なピラミッドは巨人が建てたのも、頷ける。例え象や滑車を使うに
しろ、巨石の築造にはかなりの難問が横たわっているからだ。アメリカでも過去に巨人
の骨が何十体も発見されており、有名なメディアであるニューヨークタイムズでも何回
も取り上げられた。その中には政府やスミソニアン博物館などが引き取り廃棄されたり
ある教団やら、サーカスの興行師が買い取ったりだとかそんな事件が絶え間なくあった
。その中にこんな事件がありました。1912年にウィスコンシン州にあるデラバン湖付近
で2.3〜3メートルにもなる巨大な人骨が発見されます。また、この白骨死体は1体だけ
でなく、なんと18体も掘り出された。さらに、この人骨は当時存在していたどの人種
よりも巨大な頭蓋骨であった。巨大な骨は以下のような特徴を除けば、すべて、人間の
男性と酷似した骨の形をしていたため、当時この場所では男性のみが埋葬される墓地だ
った。と推測された。手足の指が6本ずつ生えて、巨人の口の中には上下に2列の歯が
生えていた。前歯がすべて太い形をしていて奥歯のようだったという特徴があった。こ
ういった理由からこの骨の持ち主たちは、遺伝子異常で体が大きくなった病気の人間で
はなく、人類とは違う進化をとげた種族だということが分かる。

169 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/24(金) 10:46:27.21 ID:FYZLagjPg
 イスラム社会のコーラン   292

 しかし、発見されたのが時代が古く、年代を計測する技術が低かったため、巨人たち
の生きていた時代を特定するに至っていない。ところが、その後もたびたびウィスコン
シン州では巨人の骨が、発掘されていた。その後1891年スミソニアン博物館の関係者が
マディソン郊外で巨人の痕跡を収集、1897年メープルクリークで巨人の骨を発見と続い
ていたが、現在はこれら巨人の骨格はすべて紛失してしまった。とされる。世界は広い
。ジョージアの秘境アッパー・スヴァネティの背後には、標高5000mを超えるコー
カサス山脈。この山の向こうは、ロシアです。ここでは昔から巨人伝説が残る地方だ。
2014年、超常現象を取り扱うテレビ番組の中で巨人が築いたとされる古代文明を紹介す
るコーナーがあった。その中でジョージアのコーカサス山脈で発見された巨人の骨格が
紹介された。2008年、牧場を経営していた夫婦が、巨大な骨格と墓を見つけたという。
当時のジョージア州の研究グループが調査していた。不審な地下室を見つけ入ってみる
と2つの巨大な頭蓋骨と、数本の骨がテーブルの上に置いてあった。という事である。
また、調査の結果2.5〜3メートルほどの大きな人間の骨だということが分かりました。
しかしながら、その後調査を担当した大学教授が不審死で亡くなってしまう。骨も貯蔵
されてあったはずの博物館から消えてなくなってしまった。このため調査続行は不可能
として打ち切りになってしまったのである。また、この骨の発見された地下室も、完全
に崩落してしまったため番組スタッフは、地下室内部の残る骨も回収することが出来な
くなってしまった。ですが、この番組スタッフは地下室からの骨の回収をあきらめてい
ないと伝えられる。

170 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/24(金) 11:04:43.68 ID:FYZLagjPg
俺って  なんで書いてたんだろ。・・・・

171 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/25(土) 17:26:40.75 ID:MAUTanwGg
 イスラム社会のコーラン   293

 そもそもがこうした巨人を倒す物語に、資本主義がある。聖書で言う様にエデンの園
でアダムとイブは林檎を喰って追い出された。蛇=しめ縄とされ、ロープを創って木に
あった腐った果実に酒を、猿の様に飲んだ為、にエデンの園の管理をしなくなったから
だ。と言う学説もある。この学説はこれが資本主義の始まりで、熟れた果実を獲ってい
たのが、熟れる前に獲り、宗教さえ産んだの。勿論こうなると人以上に増えた樹木も、
増えなくなって、奉仕の社会から、大事な物や欲しい物との交換の社会になって貨幣の
社会に変わった。とされたのが、このビールの醸造でのピラミッド建設は、この仮定の
学説が証明された事になる。で問題は、エデンの園を失った住民は果てしなく修羅社会
に入っていったのである。つまり聖人の競争は天国だが、一度ルールを破る盗賊の競争
社会では、盗徒の天才を産むだけで、地獄の社会に置き換えるのである。というのが、
今の社会学の理論である。つまりそうした盗徒社会を産まないために、道徳と言う概念
が産まれ、ルールと言う物が出来て、規律と規則が王の基に宣言された。だからエジプ
ト社会が繁栄した。とされる。ところがこれがユダヤの背伸びに害にない足かせや壁と
なって王と対立する。そこでモーセはエジプトを出た。此れが十戒の正体なのだがその
モーセの進言に従った人々は 女子供含めて60万人とされる。そこを追いかける兵は
海に飲まれたとされるが、旧約聖書によれば、目的のカナンの地にには着かなかった。
エジプトの属国であったイスラエル王国に拒否されて 足止めを食うのだ。そうして、
植物もないシナイ山で野営し、ここで何年間も野営を行う。そしてモーセが死んだのち
に晴れて入国を果たしたのは2人だったとされる。つまり、あとの59万9998人は
野坊の果てに死んで行ったとされる。神との約束をし、新たなナンを喰って生き延びた
が結果は追いかけた兵士の如く無念のまま死んでいったのである

172 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/28(火) 00:37:45.63 ID:L56trxkc9
イスラム社会のコーラン   294

 旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後にはエデンの園が現れる。幾つもの、
実のなる植物が創造されて地上に現れた。アダムが作られた時にはエデンの園の外には
野の草も木も生えていなかった。因みに、アダムとはヘブライ語で「土」と「人間」の
2つの意味を持つ言葉とされる。又イヴはヘブライ語でエバは「生きる者(ハヴァ)」
または「生命(ハーブ)」という意味であるという。アダム達は、エデンの園に置かれ
ていた。そこにはあらゆる種類の木があった。中央には、生命の木と知恵の木と呼ばれ
る2本の大木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたのだ。主なる神は
アダムに対し知識の実だけは食べてはならない。と固く命じていた。この時他の木の実
には、この時は食べてはいけないとは命令されてはいなかった。その後に、女(エバ)
が創造される。そして女に蛇が近付き、知識の木の実を食べるよう唆(そそのか)す。
女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達
が裸である事に気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという。この結果で、
蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われ
ることによって、額に汗して働かなければ、食料を手に出来ないほど、地の実りが減少
することに主なる神は、言い渡した。アダムが女にエバと名付けたのはその後のことで
あるとされ、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人
を園から追放するのだ。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめ
いて回転する炎の剣を置いた。その後、アダムは 930歳で死んだとされるが、エバの死
については記述はない。また「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などに
リンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。
17世紀のイギリス人作家ジョン・ミルトンは、この物語をモチーフにして『失楽園』を
書いていたとされる。

173 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/28(火) 10:36:54.27 ID:Hl1Kz9SnF
イスラム社会のコーラン   295

 アウグスティヌスは『神の国』14巻11章で、エバは惑わされて罪を犯したが、アダム
はエバに譲歩したために罪を犯したと解説している。また『神の国』22巻17章で、女(
エバ)が男(アダム)からつくられたのは、イエス・キリストについての預言であり、
アダムの眠りがキリストの死を表し、十字架につけられたイエス・キリストの脇腹から
血と水が流れ、そこから教会が立てられたのであり、女が男から作られたことは教会の
一致を表しているとしている。そして『神の国』22巻24章で、人間が堕落したにもかか
わらず、神は子供を産む祝福を奪われなかったと教えている。また、福音派でも「女の
真の定義は男からとられた者」「男の一部」であり、パウロはアダムとエバの類比を、
キリストと教会の関係に当てはめているとされる。「女はアダムのわきからとられた。
教会が出てくるのは、主の傷ついて血のにじむわきからである。」そのため人は妻と結
ばれて「一心同体」になるのであり、教会はキリストの花嫁と呼ばれている。エバは頭
であるアダムに相談せずに、自分で判断したために堕落した。創造の秩序から女性が上
に立ってはならないと教えられている。『神の国』は、神の禁を破って「善悪の知識の
実」を食べ、最終的にエデンの園を追放される話だが、楽園喪失、楽園追放ともいう。
イギリスの17世紀の詩人、ジョン・ミルトンによる旧約聖書の『創世記』をテーマにし
た創作神話で、壮大な初期近代英語の叙事詩。ヤハウェに叛逆し敗地にまみれた堕天使
のルシファーの再起と、ルシファーの人間に対する嫉妬、およびルシファーの謀略によ
り楽園追放に至るも、その罪を自覚して甘受し楽園を去る人間の偉大さを描いている。
とされる。ジョン・ミルトンは全盲の詩人とされ、口述筆記されたこの本は、発刊と共
に英詩史上冠絶する最高の叙事詩と絶賛された。

174 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/28(火) 10:37:15.65 ID:Hl1Kz9SnF
イスラム社会のコーラン   296

 ユダヤ教においては、アダムとイブは全人類の祖とみなされてはいない。天地創造の
際に、神は獣、家畜、海空の生き物と同時に神の似姿の人間を創造し、アダムの誕生は
、区別して記述されている。アダムはあくまでもユダヤ人の祖であり、その他の人類は
魂(命の息)を吹き入れられていない、つまり本当の理性を持たない人であり、ゴイム
とされる。神の民族がその他人類と交わり、子孫を残していく記述が聖書に散見される
が、その中でも律法を守り、神に従う者がアダムの直系であるアブラハムの民であり、
イスラエル(ヤコブ)、ユダヤの民とされる。外典として、『ヨベル書』などによれば
、アダムとエバはエデンの園で7年間手入れと管理を行っていた。4月の新月に追放さ
れ、エルダ(アダムとエバ起源の地)に住みつき農耕を始める。長男カイン(第二ヨベ
ル3年週誕生)は長女アワン(第二ヨベル5年週誕生)と、三男セト(セツ、第二ヨベ
ル第5年週の第4年誕生))の子は、次女アズラ(第二ヨベル第6年週誕生)と結婚した
。なおアベル、エノクの他男女8人の子がいた。『アダムとイヴとサタンの対立』によ
れば、アダムとイブの間に最初に生まれた娘はルルワであり、彼女は、カインの双子の
姉妹として生まれた。とされる。『アダムとエバの生涯』(『モーセの黙示録』)など
によれば追放の際サフラン、カンショウコウ、ショウブ、シナモン他の種を持っていく
ことを許可された。また追放後も大天使ミカエルにより種をもらったり、エバの出産を
助けてもらうなどしている。息子30人と娘30人もうけたという。追放後の18年2ヶ月後
子供が生まれた。

175 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/29(水) 12:04:41.27 ID:awqMPiL0Y
イスラム社会のコーラン   296

 ユダヤ教においては、アダムとイブは全人類の祖とみなされてはいない。天地創造の
際に、神は獣、家畜、海空の生き物と同時に神の似姿の人間を創造し、アダムの誕生は
、区別して記述されている。アダムはあくまでもユダヤ人の祖であり、その他の人類は
魂(命の息)を吹き入れられていない、つまり本当の理性を持たない人であり、ゴイム
とされる。神の民族がその他人類と交わり、子孫を残していく記述が聖書に散見される
が、その中でも律法を守り、神に従う者がアダムの直系であるアブラハムの民であり、
イスラエル(ヤコブ)、ユダヤの民とされる。これが選民思想と言われる所以である。
自らのイスラエル人以外は 家畜同様の神が作った泥人形に命が吹きかけられたゴイム
の操り人形で、我等こそが神が特別に思し召しになった人類である。との考え方である
。外典として、『ヨベル書』などによれば、アダムとエバはエデンの園で7年間手入れ
と管理を行っていた。4月の新月に追放され、エルダ(アダムとエバ起源の地)に住み
つき農耕を始める。長男カイン(第二ヨベル3年週誕生)は長女アワン(第二ヨベル5
年週誕生)と、三男セト(セツ、第二ヨベル第5年週の第4年誕生)の子は 次女アズラ(
第二ヨベル第6年週誕生)と結婚した。なおアベル、エノクの他男女8人の子がいた。
『アダムとイヴとサタンの対立』によれば、アダムとイブの間の長子は娘はルルワであ
り、彼女は、カインの双子の姉妹として生まれた。とされる。『アダムとエバの生涯』
(『モーセの黙示録』)などによれば追放の際サフラン、カンショウコウ、ショウブ、
シナモン他の種を持っていくことを許可されエデンを出た。また追放後も、大天使ミカ
エルにより種をもらったり、エバの出産を助けてもらうなどしている。息子30人と娘30
人もうけたという。追放後の18年2ヶ月後子供が生まれた。先に言ったように選民であ
るから、多民族との雑種交配は認められず、近親交配となって子孫をつないでいく事に
なる。

176 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/29(水) 12:21:13.11 ID:luPSNcKsw
イスラム社会のコーラン   230

 グノーシス主義オフィス派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒム(万物
の父)の天使が、第三の女性原理エデン、またはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の
女性体の部分の土から アダムを創り(蛇身の土から動物を創った)とされる。ここで
イスラエル人とは魔物を指す人種だった事が伺えるのだ。日本で言えば南に天狗や北の
なまはげの人種と言った処である。エデンが魂を入れる為、エロヒムが霊を置く。イヴ
も同様にエデンに似せて創られエデンが魂を、エロヒムが霊を置いた。そのあと産めよ
増やせよ地に満ちよと命じられた。エロヒム又はエロヒームは神霊の事で神の事だが、
その最強の霊と言う意味合いでコーランではアッラーである。この言葉は、セム語系で
神または判事を意味する。エールの複数形であり、ウガリット語のイルとも同根である
とされる。イルは「最も高きもの」の意とされるが、慣習的に「エロヒム」と発声され
る。つまり審判を下せるもの、最高の霊なるもの。とされる。彼が魂を入れたと言う。
『アルコーンの本質』によれば、イヴはアルコーンから恋情を抱かれるが、これを相手
にしなかったイヴは、セトを産んだ後に、娘のノーレアを産んだ。としている。イスラ
ム教では、アラビア語で書かれた『クルアーン』で、エロヒムはアッラーフ、アダムは
アーダムと呼ばれ、人の祖にして最初の預言者として登場するほど創作される。イスラ
ム教ではアーダム=人の父と言う事で、人を総称するときは「アーダムの子ら」という
語が使われる。アーダムのといえば「人の」という意味にもなる。ハヴァ=イブすなわ
ちアーダムの妻はハウワーと呼ばれるが、『クルアーン』にはその名前は直接に言及さ
れない。アーダムはアッラーフの地上における「代理人(ハリーファ)」として土から
創造されたという。つまりアダムは神の代理人として創られたと言う設定で、天使たち
は、人を地上に降ろすと地上で悪をなす。と大反対したが、アッラーフは最初の人とし
てアーダムを創造し、万物全ての名称を教えた。そのため天使ですらも 万物の名はア
ーダムから教わり、彼に平伏したという。最初の人に天使がひれ伏す。と言う話だ。

177 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/30(木) 02:19:28.40 ID:RYhgUN+wl
イスラム社会のコーラン   231

 しかし、アーダムはイブリースの言葉に惑わされて、妻とともにアッラーフに食べる
ことを禁じられていた楽園の果樹の実を食べてしまった。二人はこれを悔いて アッラ
ーフに悔悟し、罪は許されたものの、楽園を追放されて地上に下された。とされている
。『クルアーン』の伝える物語は、『創世記』の失楽園物語と比較すると、果実を食べ
るよう誘ったのが蛇ではなく悪魔である事になっている点、妻がアーダムを唆したので
はなく 夫婦揃って悪魔に騙された事である点、アーダムの妻がいつ作られたかが明示
されていない、等の違いがある。その後、2人は地上で子をもうけ、人類の祖となった
とされる。なお、『クルアーン』には記述されていないが、イスラム教の伝承によれば
、地上に降りた2人は初め別れ別れであったが、地球に落ちてから20年のちに、やっと
メッカ郊外のアラファート山で再会することができたという逸話になっている。ここで
アダムを先に作り、アダムの恥骨から出来たとする神話とアダムもイブも同時に土から
作られた。とする神話と、アダムの子としてイブはそもそもがエデンの園の草刈などで
荷役者の天使として産まれた。とする神話の3つがある事がわかる。この3つ内アダム
の骨からと言うのは、明らかに男尊女卑の、教会内に女性の地位を置かない意図が古来
より培われていた事を示す物だろう。とすれば、天使として産まれて居た中で、命令や
掟や禁じた行為をしたのがアダムとイブだった。と言う事か、神が同時にアダムを作り
その相方として時期はずれてもアダムの為にイブが作られた。という2つの話が本筋で
ある事になる。此の二つにしろ「アッラーフ」なる絶対神や命令する神霊がいて命を、
授けられると言う事になっている設定である。

178 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/09/30(木) 02:25:50.19 ID:RYhgUN+wl
イスラム社会のコーラン   232

 ここで エデンの園を考えると、神即ち絶対神や命令する神霊「アッラーフ」なるが
いて護られた世界からの追放が言われるのだ。この設定でエデンの園とはどう言う所か
。と言う事である。旧約聖書の『創世記』2章〜3章間に登場する理想郷で、西洋におい
ての、言う所の楽園(パラダイス)である。『創世記』の記述によれば、エデンの園は
「東のかた」(2:8)にあり、アダム とエヴァ達は、エデンの園を耕させ、守らせる為
に絶対神や命令する神霊の、ヤハウェによってそこに置かれ(2:15)、食用の果実の木
が管理され、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられていた。と言う事になる。こ
の生命の木と知恵の木と言うのが、まあぁ解んない。また、エデンから流れ出た1つの
川は、園を潤していて、そこから4つの川「良質の金とブドラフと縞メノウがあった」
ハビラ全土を流れるピション川と、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流
れるヒデケル川(チグリス川)、ユーフラテス川)に分かれていた。(2:10-2:14)と、
言われている。ヤハウェはアダムとエバが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)
を食べたことを咎め、エデンの園から追放する(失楽園)。生命の樹に至る道を守る為
、ヤハウェはエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣を置いた。とされる。
そもそもがエデンと言うのがアッカド語で平地や平野の意味を持つとされる。つまり、
東の国或いは平地の国で、四方に川があるデケル川(チグリス川)・ユーフラテス川が
流れる所だった。となれば今のイラクでありバクダットの街近くと言う事になるのだ。
つまりここに農耕の民と 大きな木を管理された国が存在した事になる。その意味では
トルコのギョベクリ・テペ遺跡の謎を西洋社会が最も注視しているのは当然ともいえる
。世界最古の建造物として今だ発掘出来ていない。ギョベクリ・テペの石造構造物は、
放射性炭素年代測定で、紀元前1万年〜紀元前8000年に建造されたと特定されている。
しかも、石柱には複雑なレリーフが施されており、この時代に考えられない高度な技術
が使用されている。鉄もない石器時代に、なぜこのような建造物が造られたのか。いや
造れたのか。謎だ。

179 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/01(金) 19:06:47.96 ID:GsRd1aH3h
イスラム社会のコーラン   233

 現代では人工衛星ランドサットからの静止画像が見える。涸れ川となっている、アラ
ビア半島(ハビラ)を通り、現在のチグリス・ユーフラテス河口付近は、当時は陸地で
あり、現在はペルシャ湾になってるが、昔は注いでいたらしい事が言われている。古代
の川のことと共に考察すると、現在の、チグリス・ユーフラテス河口にある三角州は、
「アラビア河ヘソ」と呼ばれていた部分にあたる。ハビル全土はアラビア半島全土とい
う事になり、「金とブドラフと縞メノウ」の産出は、恐らく金貨代わりに流通したもの
だったんだろう。「ブドラフ:没薬(もつやく)」とは、ムクロジ目カンラン科コンミ
フォラ属(ミルラノキ属)の各種樹木から分泌される樹液の乾燥粉末である。赤褐色の植
物性ゴム樹脂で、外国語の転写からミルラとも呼ばれるとされる。このブドラフとは、
どうも香料のようで、金もこの粉末も縞メノウも、食べ物とは関係ない産地と言う事に
なる。で、これらを考察すると、今のクルド人の地の事の様である。事実、トルコ政府
などは、クルド語を「公的な場」で使用することを法律で禁止していたほど文化が違う
。さらには、「クルド語などというものは存在せず、トルコ語の一方言にすぎない。」
と否定された時代もあった程敵対している。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族の、
イラン語派西イラン語群に属す言語の一つで、ペルシャ系古代語とされる。トルコ語と
クルド語は語族が全く違い、全く別の言語で、現在のクルド語での放送、出版は細々と
ではあるが行われている。イラン側では「ペルシャ語の一方言」とされ、シリアも同様
にクルド語の存在を認めていないが、国内使用はイランと同じく自由としている。イラ
クでは、クルド人自治区で公用語とされ、此処ではクルド語での放送、出版も公認され
ている。この事からトルコ語はロシア系でクルド語はインド系と言える。又「ヤハウェ
はエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣を置いた。」と言う。ケルビムは
天使の一種で偽ディオニシウス・アレオパギタに由来する。「天使の階級」では第二位
に位置づけられる。とすると神の使いなのだ。ここに聖書の中の簡単に移植された物語
であったことが示された。とも言える。

180 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/01(金) 19:28:49.33 ID:GsRd1aH3h
イスラム社会のコーラン   234

「ケルビム」と「きらめいて回転する炎の剣」については、西方教会が継承し、後者を
正教会が継承した。これらの転写の違いが少しある。日本において教派ごとの異なるが
「契約の箱の上には、この天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることが
できる(=智:ソフィア)」ことから「智天使」という訳語をあてられた。エゼキエル
書の10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなも
のがある。ルネッサンス絵画では、そのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい幼
児風の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。エゼキエル書1章によると
、ケルビムの姿は、「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもの
で、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようで
あり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわら
には車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによっ
てこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。…ケルビムの「全身、す
なわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた」(知の象徴)…ケルビ
ムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおってい
た。(体をもっていないから隠しているという)…またケルビムにはその翼の下には、
人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている。なお絵画表現にお
いて、セラフィムと混同されて描かれているものもある。「神はケルブに乗って飛び、
」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)と
いった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。と、書かれる。
先ず4っつの顔である。中心に人、左右に獅子と牛、後ろに鷹、である。更に翼と手を
持つ。次に乗り物である。車輪の中に車輪があり、それらは目が付いていたというのだ
。通常尻尾や脚が怪物の様に言われるのだが、単なる晴れ上がった顔の横の耳や髪やら
が異常に大きかったのかも知れない。剣の話なので火傷(やけど)の痕かもしれない。

181 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/01(金) 19:33:57.12 ID:GsRd1aH3h
イスラム社会のコーラン   235

 エデンがどこであったのかについては、古来より様々な場所が主張され、議論されて
きている。しかしその中には『創世記』に典拠が認められないものも少なからずある。
多くの説では、チグリス・ユーフラテス川の源であるアルメニア付近のザグロス山脈一
帯にあったとしている。ユダヤ教の伝承によれば、エレバンにあったという。エレバン
の近くにはノアの箱舟が流れ着いた場所との伝説があるアララト山がある。つまり東欧
の事だと言う説である。その他にも、紀元前3000年代〜紀元前2000年代には、メソポタ
ミアーインダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがモデルとする説もあ
る。ディルムンの位置についても諸説があり不明だが、バーレーンのバーレーン要塞は
その首都の跡地であるとする説がある。多くはウガンダ近くのアフリカ大陸の説が多い
。他に、紀元前26世紀(紀元前2600年〜前2500年頃)、メソポタミアにおいてラガシュ
とウンマが「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境
界の意)」という肥沃な土地をめぐって、戦争を繰り返しており(エアンナトゥム、エ
ンメテナなど)、このどちらかがモデルであるとする説もある。日本の邪馬台国論争よ
り幅広く科学的で大きい論争である。他に環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)など
の視点から、7万年前〜1万2000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在
は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有るほどだ。最終氷期のピーク時には
海面は現在より最大で約120mほど低かったとされ、現在のペルシャ湾の海の平均水深は
約50mほどである。その為、海面が現在よりも低かった時代に、現在はペルシャ湾の海
の底となっているエデンの地で4つの川が合流してひとつの川となって、現在のホルム
ズ海峡(海峡を境に東側は急に水深が深くなる)にあった河口から、オマーン湾に流れ
出ていたと考えられている。「エデンから流れ出て分かれて四つの川となった」とは、
高低差を考えず平面地図上の概念としてエデンから上流に遡った見方とする説もある。
そうなると噂の、キョベクリテペの遺跡は、エデンの園の地と言う話に近づく。

182 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/01(金) 22:16:25.95 ID:GsRd1aH3h
 イスラム社会のコーラン   236

 キョベクリテペは、トルコ南東部にあるシャンルウルファの丘の上に位置している。
1960年代には、アメリカのシカゴ大学チームとトルコチームで発掘調査を始めていまし
た。しかし、その場所は長い間耕作地として使われていた。耕作に邪魔な石などは運び
出されたり破壊されたりして、遺跡としての姿は全くありませんでした。その後ドイツ
の考古学チームが発掘を続けている最中に、ある農夫が畑を耕しているときに、大きな
石が見つかりその除去の為、石を掘っていくと、石柱であることがわかったため、本格
的な発掘調査に入った。掘り続けると、巨大なT字型の石柱が見つかっていく。また、
付近に大規模な遺跡群があることも判明しました。ギョベクリテペ遺跡は、放射性炭素
年代測定による調査の結果、地球上で最古の高度な文明であるといわれていたメソポタ
ミア文明をはるかにしのぎ、7,000年も 古い文明の遺跡であることが判明した。この中
の一番古いものは今から1万2,000年前に建造されたものとして認められている。エジプ
トのピラミッドで 最も古いものが、7,000年前の建造物であることから、遥かに古い昔
に建造されたものであることがわかる。その後、埋められたり、新しい建物が作られた
りを繰り返し、最終的には 紀元前8,000年頃には埋められたままで放棄されていたこと
がわかった。石柱や石壁には動物のレリーフが多く刻まれている。これは狩りの成功を
祈ったものと考えられ、今はこの地は荒地ですが、当時は動物も多く生存する緑豊かな
土地であったとも考えられている。また、様式化された腕や手、腰布といったモチーフ
の彫刻も見つかっている。その手の掘り込みも南洋のイースター文様にそっくりなのだ
。ギョベクリテペは神殿遺跡の説が強い。がこれが神殿では、作るには長い歳月がかか
る。多種多様なモチーフが刻まれた石柱はひとつで10トン以上もある。石を切り出して
運んだり、繊細な彫刻を施したりするには、多大な人手が必要な事が予測される。この
事で、謎のままである。

183 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/01(金) 22:16:49.86 ID:GsRd1aH3h
 イスラム社会のコーラン   237

 神殿であるならば、普通は周りに、この神殿に携わった人々が生活する住居などがあ
るはず。とされ発掘されているが紛争もあって進まず今だ住居跡が見つかっていない。
このギョベクリテペでは、世界最古の頭蓋崇拝が行われていたとみられてる跡がみつか
った。ギョベクリテペで発見された3つの頭蓋骨の破片に、死後に加工された痕跡が分
かったからだ。祖先の頭蓋崇拝はよくあることですが、この時代から頭蓋崇拝があった
という考え方はこれまでの学説が覆される。他にも人の形をしたと思われる石像が幾つ
か発見されている。頭部や口が無いものがあり、生贄信仰があったものではないかとい
われているものの、農耕が始まる前や、文明が始まる前に、すでに宗教が存在していた
様相が見つかった事は、これまでの定説の見直しが迫られる。更にギョベクリテペ遺跡
で謎とされているのが、本来神殿を建造したのであれば、移住することを考えて、周辺
に村が建設されているはず、という点です。しかし、ギョベクリテペ遺跡の場合は、近
くに村落が発見されておらず、謎が残されたままである。すぐに他の場所に移住したに
しても、大規模な建造物に村落がないのは不思議である。少なくとも建造物が完成する
までの間は、生活していた痕跡がなくては、おかしいのである。研究の中では、紀元前
8,000年前には「ギョベクリテペ遺跡」は放棄されて、建造されて2,000年ほどで野晒し
になったことが判明、周辺には人が住んでいる気配が残っていないのではないか、とい
う諦めた説も出ている。最近になってギョベクリテペは「地域の人々の集会場所だった
のではないか?」という説も出ている。ギョベクリテペと似た小さな遺跡が、200km ほ
ど離れた別の集落でも見つかったからです。そこでは、ギョベクリテペ遺跡で出土した
ものと同じような石柱も発見されて周辺地域の人が集まる大聖堂だった説は否定された

184 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 16:54:26.55 ID:EnmAWSgxX
 イスラム社会のコーラン   238

 遺跡からは、ガゼルや鹿、オーロックス(既に絶滅している牛)などの動物の骨や、
初期のビールが入っていたと思われる石の容器なども発掘されました。周辺の狩猟採集
民が宗教施設としてのギョベクリテペ遺跡に食料を持って集まり、定期的に情報交換を
していたのではないか、とみられている。これまでの考古学史の定説を覆す歴史的発見
以前は、文明は農業から始まると常に考えられていました。人々はまず農業コミュニテ
ィに定住し、地域社会の構造が複雑化したあとで、さまざまな信仰を持ち、巨大な寺院
や建物を建設するために協力し合ったというのが定説だった。しかし、ギョベクリテペ
は、人々が最初の農場を作る500年前に 建てられている。つまり、宗教が農耕に先立っ
て、宗教や儀式という概念を人間が有していた。という可能性を示している。この地で
ドイツの考古学チームを率いた故クラウス・シュミット氏は、神殿を建てるために多く
の労働力が必要になり、その働き手の食料を確保する手段として、農業を始めるに至っ
たと主張している。ギョベクリテペ遺跡は、「人間の文明がどのように始まったか」と
いうことについて、これまでの常識を覆す歴史的意義を持っている。遺跡からは、日本
での土偶のような人をモチーフにした石像も発見されている。その中には、頭部や口が
意図的に作られていない石像が見つかっている。これは人身御供の代替品として製造さ
れたのではないかとも言われている。また、ギョベクリテペ遺跡から出土した石像の手
の彫刻については、モアイなどの石像と共通する部分が発見されているのです。その為
、何らかの関係性があるのではないかとも噂されていて、未だに謎が多い遺跡である。
いずれにせよ、まだ発掘は全体の5%ほどしか進んでいないため、色々な解釈がされて
いて、建築され、埋められ、また他の場所に建築され、これらは一体何を意味している
のか、なぜ住居跡が無いのか、誰が作ったのかなど、憶測が飛び交うのみだ。これから
さらに発掘・研究が進み、真相がわかってくる、大変興味深い遺跡となること間違いな
いかと思います。

185 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 16:54:55.88 ID:EnmAWSgxX
 イスラム社会のコーラン   239

 アトランティス文明は、伝説上の超古代文明とされていますが、およそ1万年前ほど
で、大陸ごと海に沈んで滅亡したと伝えられている。ギョベクリ・テペ遺跡は、そうし
たアトランティス文明と重なる時代にある。こうした伝説の文明は超古代文明とされ、
オカルト科学や科学もどき、疑似科学(ぎじかがく)と呼ばれ、科学的で事実に基づい
てはいるものの、そうした主張しているにもかかわらず、科学的方法と相容れない言明
・信念・行為のこととされる。似非科学(えせかがく)や偽科学(にせかがく)などと
も呼ばれて、科学とは別の形態だった。ところが近年では、ペンタゴン(米国国軍)が
UFO映像を流したり、燃える水のブラウンガスが発明されたり、水の泡の殺菌作用と
しての洗い流しが見直されたりしている。又、ピラミッドやモアイ像などの世界中に散
らばる謎に満ちた建造物や遺跡、あり得ないほどの技術で作り上げられたオーパーツな
どが、超古代文明の存在を今に伝えている。が、超古代文明が仮にあったと言いつつも
、いつ頃に文明が栄えて、いつ頃に滅びたのか。全く不確かな事だった。そのヒントと
なるのが、人類史における「空白の10万年」といわれている部分だ。かつて地上には、
人間(ホモ・サピエンス)以外にも様々な人類が存在していた。と推測されている。中
でも骨格標本から、ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人などが分類され、この
人種は自然淘汰され、絶滅し、現在は私たちホモ・サピエンスしか現存していない。と
され、これらの絶滅した人類とホモ・サピエンスの間に交流があり、種としては交雑も
していて、大きくは「適者生存」での持続不可種が途絶えたとされる。「人類のアフリ
カ起源説」と呼ばれる現在最も有力な説では、ホモ・サピエンスが最初に誕生したのは
、これは約20万年前のアフリカであったとされる。そう考えると、人類最古の文明を、
5〜6千年前に限定するのは、本当は正しくない事になる。ギョベクリ・テペ遺跡の発見
によって、1万年前に超古代文明が存在しているので、不思議ではなくなった。と考え
られる

186 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 16:55:26.69 ID:EnmAWSgxX
 イスラム社会のコーラン   240

ギョベクリ・テペは、ストーンヘンジよりも、さらに古く実際に発見されている遺跡だ
。ギョベクリ・テペ遺跡では、巨大なT字型の石柱が、いくつも円を描くように並べら
れています。各石柱は6メートル以上、重さは20トンあります。この巨石の配列を見る
と、イギリスのストーンヘンジが真っ先に思い浮かびますね。しかし、トルコのギョベ
クリ・テペ遺跡はストーンヘンジよりも、さらに古い時代に造られています。ストーン
ヘンジは、紀元前2500年〜紀元前2000年の間に建造されたと考えられているので、ギョ
ベクリ・テペ遺跡は、それよりも7〜8千年も昔に建造されているのです。しかも、スト
ーンヘンジよりも、ギョベクリ・テペ遺跡のほうが高度な技術を用いているのですから
、さらに驚きです。ストーンヘンジは、場所も時代も異なりますが、円を描くように並
べられる巨石の配列とT字型の石柱に、ギョベクリ・テペ遺跡との共通点が見られます
。ギョベクリ・テペ遺跡のT字型の石柱は、人間の姿を象った彫像と考えられています
。T字の上が横顔であり、下の石柱が体になっています。いくつかのT字型の石柱には
、下半分に人の腕の彫刻が彫られているのが確認できます。少数ですが、ふんどしの施
された石柱も発見されています。ギョベクリ・テペ遺跡の石柱は、祀るべき祖先なのか
、崇拝者の代理なのか、あるいは神などの超常的な存在なのかは、はっきりと分かって
いません。石柱の上の顔は、なぜか描かれていないため、別の世界の存在を意味してい
るとも考えられます。要するに、この石柱は人類が初めて造った神の彫像であり、ギョ
ベクリ・テペ遺跡は世界最古の聖地の可能性があるのです。ちなみに、ギョベクリ・テ
ペ遺跡に見られる石柱の腕の彫刻は、イースター島のモアイ像と似ているという指摘も
されています。腕と手の彫刻に注目して見てください。動物の複雑な彫刻ギョベクリ・
テペ遺跡の石柱には、複雑なレリーフの彫刻が見られます。絵を浮き彫りにするために
は、細かい作業を丁寧に施さなければなりません。

187 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 16:55:52.16 ID:EnmAWSgxX
イスラム社会のコーラン   241

 思い出してほしいのは、建造されたのは鉄の道具を持たない石器時代だということで
す。ギョベクリ・テペ遺跡を造った人々は、石器時代に生きながら、驚くほど高い技術
力を持っていたのです。石柱に刻まれた動物は、多いものからヘビ、キツネ、イノシシ
、鳥の順となっています。これらの動物はギョベクリ・テペ遺跡から出土している動物
の骨の多さとは、必ずしも一致していません。このことから、狩猟の成功を祈った神殿
ではないようです。ヘビ、キツネ、イノシシなどは、ユーフラテス中流域の他の遺跡に
も認められるため、当時の神話の世界を象徴しているのではないか?と考えられていま
す。ギョベクリ・テペ遺跡を造った人々は、燧石(フリント:非常に硬質な岩石の一種
)の刃物によって、石灰岩の岩盤から石材を切り出していたと考えられています。実際
に当時の石切場には、何かしらの理由により、途中で放棄された石柱が残されています
。ギョベクリ・テペ遺跡調査チームのシュミット氏は、石柱を1本を切り出して 運ぶ
ためには、成人男性で 500人くらいが従事したのではないかと推測しています。しかし
、巨大な石を切り出して運搬するために必要なのは、単に労働力だけではありません。
多くの人々を統率できるリーダーの存在も必要なのです。定説では、そのようなリーダ
ーが現れる高度な社会が形成されるのは、ずっと後の時代になりますが、ギョベクリ・
テペ遺跡の発見によって、石器時代の社会の見方を変えなければいけなくなりそうです
。この点だけでも、トルコのギョベクリ・テペ遺跡は人類史を覆す大発見なのです。ト
ルコのギョベクリ・テペ遺跡からは、人間の石像も発掘されています。2メートル近く
もある大きな石像です。あまりの古さに、「ギョベクリ・テペ遺跡は、本当に人間が造
ったのか」とも言われる。この石像には、なぜか口のない顔やX字が描かれた胸の模様
などが彫られており、私たちがイメージする石器時代の人々とは全く異なる雰囲気が、
ぷんぷんと漂っています。先祖の石像なのか、当時のリーダーの石像なのか、あるいは
彼こそがギョベクリ・テペ神殿の主神なのか。見方によっては、宇宙服を着た宇宙人っ
ぽい。

188 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 21:39:27.33 ID:EnmAWSgxX
イスラム社会のコーラン   242

 近年の研究で、古代アンデスでは 神殿が先に建てられて、神殿を中心にして文明が
発展したと言われている。これは農耕社会の誕生によって、冨を蓄えた権力者が現れ、
神殿が建てられていくという定説とは、逆である。そもそもの最初から神の存在がある
事の結果に集落が産まれている。古代アンデスと同様、トルコのギョベクリ・テペ遺跡
においても、その用途は祭事を行う神殿であった可能性が高いと考えられる。その証拠
に、周辺には人々が暮らしていた痕跡が、今だほとんど見つかっていない。近くに水源
や耕作地もない丘に建造されている。この2点からも、ここが人々の集落ではないこと
が分かる。ギョベクリ・テペの丘は聖地であり、そこに神殿が建てられたと考えられ、
農耕社会となり、古い神殿が放棄された様に見える。先に神殿が造られて、そこに人々
が集まり、定住するようになって高度な社会が出来上がっていったのならば、ある意味
、本当に神が世界を創造したことになる。逆説的に考えれば、神殿に多くの人々が集ま
って来たために、集団生活を営む手段として農耕や畜産が必要になったのかもしれない
。理由は不明ですが、ギョベクリ・テペ遺跡は、何故か1層、2層、3層があり、意図
的に埋められた形跡が残されていて、その為、保存状態も良いとされる。古い地層の上
に、新しい建造物が積み上がっているわけですが、最期には放棄されている。これは、
狩猟社会から農耕社会に変わり始め、新たな神が祀られるようなったことを意味してい
るのかもしれない。社会が変われば、崇める神も変わるのは当然で、他の集落からの、
蕃人がまつる神の部族として攻撃があって、神殿が埋められた。という宗教戦争が起き
て、旧宗派が弾圧を受けた結果なのかもしれない。ギョベクリ・テペ遺跡には、今だ、
栽培植物や家畜の痕跡が見つかっていない。このため、人々は1年のうちのいずれかの
期間をどこかの村で暮らしていた、という仮説も成り立っている。何しろ、建造された
のは石器時代なのですから、普段は狩猟採集の生活をしており、神殿を建てる時には、
どこからともなく人々が集まって来て、作業をしたわけで。そう考えないと、従来の学
説との整合性が取れない。

189 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/02(土) 21:40:17.72 ID:EnmAWSgxX
イスラム社会のコーラン   243

 衝撃的だった事は、1万年以上前から人間は、目に見えないものを崇めて信仰してい
る実体があるということである。それは、今の時代も変わらない。ここでいう信仰とは
、何も宗教とは限らない。日本人感は、「神なんて信じてませんよ」「宗教なんて怖い
」というが、TVでは、お盆には祖先の霊が帰ってくるだとか、お墓参りをサボるとバ
チがあたるだとか、自然や祖先の魂といった多様なものを信じ御触れをだす、1万年前
の人間というと、ちょっと想像がつかない。けれども、ギョベクリテペ遺跡を見ている
と、1万年前の人間も、現代の我々も何かを信じながら生きているのだ、ということが
わかる。現代の人間は、テクノロジーを駆使して何やら進化しているように見えるが、
「スマホ脳論」によれば、人間の脳は1万年前から進化していない。という説もある位
退化している。時々、テクノロジーの進化についていけず、疲れてしまうこともあるが
道具が進化する度に脳も身体も退化するらしい。人間という生命体で考えた時に1万年
前の人間と、現代の我々との間に、違いはあるのだろうが、歴史的記憶すらも残せない
現代事情にはちょっと呆れる。普段なら1万年もの前の人間のことなどこれっぽちも考
えられないのが、それでも実際はそこに今があるから現代も今がある。本来ならそれぐ
らい考える事が出来るぐらい文明は発達してるはずなのに、ギョベクリテペ遺跡はそこ
を考えさせる。ギョベクリテペ遺跡の驚きはこれだけではない。遺跡がある場所にも、
注目が集まっている。遺跡発掘の中心的存在のドイツの考古学者クラウス・シュミット
氏は、TEDトークで「黄金の三角地帯」というワードを使った。黄金の三角地帯、又
は「ゴールデントライアングル」である。一般的にこのネーミングはタイ、ミャンマー
、ラオス周辺の麻薬製造地帯のことを指す。しかしここでは、トルコ、シリア、イラク
などにまたがる地域のことを指している。クラウス氏いわく、考古学者たちの間では、
非常に注目されるアツい地域なのだ。という。

190 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/04(月) 14:13:42.24 ID:29AWB5Ltc
イスラム社会のコーラン   244

 この考古学者たちがいう「黄金の三角地帯」は、「肥沃な三日月地帯の上部」を位置
する。と言うこの遺跡の場所だ。つまり肥沃な三日月地帯というのは、古来から土地が
肥沃で、農業も栄え、いろんな文明が発達した地域のことである。ギョベクリテペ遺跡
はカスピ海から、地中海への一直線上にある。この平地部分が、黄金の三角地帯又は三
日月状になっているのが「肥沃な三日月地帯」と言われる。その中心部に位置するのが
、「黄金の三角地帯」だ。肥沃な三日月地帯の中には、イスラエル、レバノン、シリア
、イラクに広がっている。今では、戦闘地域で、物騒な危険地域といるが、その下には
実に豊かな土地で、この肥沃さが砂漠の都市を養っている面がある。イスラエル、レバ
ノン、シリアは、地中海に面している、イラクは中東=砂漠地帯というイメージに反し
て、湿地帯や田園風景が広がっている場所でもある。この地帯は、天候も穏やかで、彩
り豊かな果物や野菜が市場にこんもりと並んでいる。メソポタミア文明が生まれた土地
沼地地帯が広がるイラク南部の様子。かつてマーシャ・アラブと呼ばれる人々が沼地に
家を作って住んでいた。メソポタミア文明を作り上げたユーフラテス、チグリス川には
イラクの川というイメージが強いが、その源流はここのトルコにある。この遺跡には、
シャンルウルファの町から80キロほど言った場所には、ユーフラテス川の源流が流れて
いるのだ。トルコの国土は広い。日本の2倍の面積はある。よって地中海側、黒海側、
内陸部などで天候もずいぶんと違う。トルコ南東部は、冬であっても気温はそこまで低
くならず、晴れの日が多い。オフシーズンの冬にトルコを旅すれば、一番過ごしやすく
あるだろう。アナトリアやレバノンやバグーの油田などは、古くから交流の基点であっ
たのだ。肥沃の三日月地帯の恩恵を少なからず受けているであろうこの場所である。

191 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/04(月) 14:14:12.15 ID:29AWB5Ltc
イスラム社会のコーラン   245

 紀元前1万年〜8千年前のギョベクリテペの時代から、シュメールの紀元前3千前ま
でには、3千年ほどの開きがある。その間に文明が途切れたとは考えにくい。別の文明
や国家が存在しても不思議ではない。考古学者たちのいう「黄金の三角地帯」論には、
これからも人類の歴史を変えるような、新しい発見が出てくることを予感させる妄想と
歴史ロマンがある。シュメール文明についての、基礎的な知識をおさらいしましょう。
よく知る世界四大文明。その一つにメソポタミア文明がある。中学の教科書にも出てく
る有名な文明で、現在のイラクやシリアの一部にあるチグリス・ユーフラテス川の流域
一帯をメソポタミアと呼び、そこに栄えた文明をメソポタミア文明と呼んでいる。この
ギョベクリテペ遺跡がその中に入るとするとかなり古く、三大文明から抜きん出てしま
う。メソポタミアのあったと呼ばれる一帯は、大きく分けると3つの地域に分かれてい
る。インドに近いペルシア海沿岸南部のシュメール、更にペルシア海から地中海にかけ
た通路の川に挟まれたアッカド、そしてこの交差する中心盆地にあるアッシリアである
「アッシリア」はアッシュルの地を意味するギリシア語表記に由来する。ヨーロッパに
おける呼称で、本来のアッカド語北方方言で、メソポタミアとアナトリア半島、シリア
、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地で、アッシュルの地と呼び、
そこに成立した古代国家群を指した。さらにはその国家群がオリエント一帯を征服して
成立した大帝国を指す言葉だった。つまり、ただ漠然と欧州社会から呼ばれていたのだ
。その3つのうち、初めて都市国家が形成されたのがシュメールとされ、楔形文字の解
読と共にシュメール文明と呼ばれた。ここで文明の定義とは、人知が進んで世の中が開
け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態を指すとされる。特に宗教・道徳・学問
・芸術などの「精神文化」に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる、
経済的「物質的文化」をさす。としている。

192 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/04(月) 14:14:40.71 ID:29AWB5Ltc
イスラム社会のコーラン   246

 文明の定義にあるように、シュメール文明は経済的・物質的に豊かな生活をしていた
ことが伺えここに文明開化論で最古の古代文明とした。ここを現代文明の最初の礎だっ
論が生じたが、それでもシュメール人は謎だらけといわれている。それが今又、超古代
文明が出て来たのである。シュメールが謎だと言っても果たして何が謎なのか。前置き
として、話す言語が特定されていないのである。シュメール人やシュメール文明につい
て解明されていない理由が、このシュメール語が解読できていないということがあげら
れる。楔形文字であるシュメール語の解読は少しずつ進んでいるものの、完全には、わ
かっていない。文字の書かれた粘土板は遺跡から多数見つかっており、欧米の博物館を
中心に40〜50万枚あると言われるが、しかし、ほとんど解読は進んでおらず、その言語
自体がシュメール語なのか、まったく別の言語なのか、それさえもわかっていないのが
実情なのである。粘土板に書かれた言語が読解できればシュメールの謎は解き明かされ
る可能性が高い。ITを駆使してそれが解明されたとしても、それでもシュメール人が
謎多き人間であることは変わりはない。シュメール人に最初から高度な知識があった。
という様な文化である。シュメール人が、人知を超えた存在にしか思えてならない結果
が遺跡として残っている。驚くことに、これほどまでに高度な文明だったにも関わらず
、シュメール文明は19世紀までは誰にも知られていなかった。1849年、イギリス人貴族
は考古ブームで、ヘンリー・オースティン・レイヤードらは、現在のイラク北部である
古代アッシリアの首都ニネベの遺跡から多数の粘土板が発掘した。これが、世界最古の
図書館とされ、アッシリア王アッシュールバニパルによって作られた王立の図書館であ
ったことが解った。ここからかの有名な「ギルガメッシュ叙事詩」が発見されたのであ
る。

193 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/09(土) 00:44:19.69 ID:LDnikuoi6
イスラム社会のコーラン   247

 「ギルガメッシュ叙事詩」は、簡単に言うと古代メソポタミアの伝説の王「ギルガメ
ッシュ」をめぐる放浪物語なのですが、この伝説の王こそがシュメール人ではないか。
と言われている。しかし、確たる証拠がなく、あくまでシュメールがあったのではない
かという仮説にとどまるのみで大英博物館に展示されていた。そんな中、1877年にフラ
ンス隊によって古代都市国家であるラガシュ(:テルロー)の遺跡が発見され、シュメ
ール文明の存在が明らかとなった。19世紀ということは、近代になってやっと発見され
たということですから、長い忘却期間が、世界大戦後もイスラム世界に戦闘があって、
発掘調査は今も行われずにいる。従って今もシュメール人が、どこからやってきたのか
全くわかっていないのが現状だ。それは、どの民族系統にも属していないということに
もなる。シュメール人が栄えた時代、シュメールの都市の北側にはセム語族であるアッ
カド人が住んでいました。前置きとして、シュメール人は、セム語族ではありません。
セム語族とは、アフロ=アジア語族の一つとされ、西アジアに広く分布している言語グ
ループで次第にアッカド人が優勢となり、シュメール人はいつの間にか吸収され消滅し
てしまった形で終了している。高度な文明を誇っていたのに、なぜアッカド人に吸収さ
れてしまう形になったのでしょうか。また、地球上にシュメール語系統の言語グループ
が存在していないことから、どこからやってきたのかも、まったく不明な民族なのです
。しかし驚くことに、シュメール人やエジプト人などは、高度な医療技術を持っていた
。白内障の手術の方法を知っていて、白内障は水晶体の混濁部分を除去すれば治ると、
彼らはそれを知っていたのです。更に、お墓からは発掘された頭蓋骨には、脳手術を受
けた痕も見つかっています。古代の人になぜこのようなことができたのか、驚きである。

194 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/09(土) 00:44:51.33 ID:LDnikuoi6
イスラム社会のコーラン   248

 古代人と言えば、病気は呪術で治すというイメージしかないのが現代人だが、実は、
相当に違っていて、古代の方が現代より相当な調合薬に長けていた。精製や細菌研究は
現代の方が上手であろうが、滋養強壮の点では古代の智慧から進んで来た現代薬なのだ
。この粘土板には薬の記述もあり、植物性の薬は250種類以上、動物性の薬は180種類以
上、鉱物性の薬も120種類以上もあったことがわかっている。手術の技術だけではなく
薬も駆使していて治療していたのだ。天も学でも太陽系の惑星をほぼ正確に把握してい
た。この最大の謎は、太陽系の惑星をほぼ正確に知っていた上に、肉眼ではほぼ捉える
ことのできない天王星、海王星、冥王星までをも、知っていた事にある。望遠鏡が作ら
れた中世すらガリレオ裁判があり、天王星、海王星、冥王星などは暗くて見つかっては
いない。なのに粘土板には既に、惑星の配列、軌道、相対的な大きさや色などが正確に
記述されていたのである。肉眼では捉えられないのに知っていた。これがどう考えても
宇宙人説の言う、どこかの文明との繋がりがあったのではないか、との推論の元になっ
ている。ちなみに現代知識では、天王星は1781年、海王星は1846年、冥王星は1930年に
それぞれ望遠鏡の発達によって発見されている。こうしたシュメール人の統率する法も
整っていたようだ。というのもシュメール人の法律制度は、現代の法律にある損害賠償
制度が使われているからだ。これは裁判と保証会社と政府と言う三つの成分からしか、
存在できない。つまり貸付制度や貨幣制度の安定した平和社会で成立する物だからだ。
ひとむかし前までは、最古の法典は「ハンムラビ法典」だといわれていた。「目には目
を、歯には歯を」という一節である。やられたらやり返すという「ハンムラビ法典」に
対し、「シュメール法典」は、殺人、窃盗、傷害、離婚などに刑罰を課して賠償を払わ
せるものでした。賠償といっても硬貨はなかったため、銀が使われていたとされる。現
存する最古の法典である「シュメール法典」は、「ハンムラビ法典」により 350年も前
に作られたものである。それにも関わらず、ずいぶんと進んだ法律制度だった。

195 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/09(土) 00:45:27.27 ID:LDnikuoi6
イスラム社会のコーラン   249

 さてさて、話を戻せば、旧約聖書のなかに「エデンの園」や「ノアの方舟」があるの
で、イスラム教と旧約聖書からこれを探っているのだが。この「エデンの園」や「ノア
の方舟」こそ、シュメールの神話だったのである。旧約聖書の創世記は、このシュメー
ル神話を模倣して作られたと考えられている。そこでこの共通点を見ていきましょう。
エデンの園は、最初の人類であったアダムとイブ(エバ)が居住していた園とされる。
知恵の木の実を食べたことでヤハウェの怒りを買い、エデンから追放されるという物語
だということは前述の通りだ。「エデン」と聞くと楽園をイメージしてしまいますが、
実は「エデン」は、シュメール語ある。「平らな土地」を意味し、はっきりと「エデン
の園」がどこにあったのかはわかっていない。メソポタミア地方の平地にあったのは確
かだろう。その後人口が増加したことを懸念して、神は人類を想像したことを後悔する
。そこでノアの方舟が出て来る。神は、この人類を滅ぼすために、大洪水を起こした。
しかし、清く正しいノアだけに、神の中の背信者がこっそりと大洪水が起こることを告
げる。ノアは正しく注意を聴いて、木で方舟を作り、すべての動物のつがいとノア一家
を乗せ、大洪水から生き延びました。めでたしめでたし。と言う話だ。改めてみると、
滅茶苦茶な話である。シュメールの粘土板からも大洪水に関する記述が見つかっている
。チグリス・ユーフラテス川では、しばしば洪水が起きていて、シュメール人によると
、これは神による怒りだと考えられていた。「ギルガメッシュ叙事詩」の中でも大洪水
の物語があり、神が大洪水を起こし、方舟で動物たちが生き延びる。この酷似して話で
聖書の元ネタはシュメール神話だった事が証明できると言われる。

196 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:19:32.77 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   251

 ウルクの王として『シュメール王朝表』に、エンメルカル(治世420年)、ルガルバ
ンダ(治世1200年)、ドゥムジ(治世100年)に続いて記載される(治世126年)が、神
としても扱われ、その存在は極めて神話的である。もっとも、シュメール語の「ビルガ
メスとアッカ」に登場する、アッカ(キシュの王でビルガメスのライバル)の父親の、
エンメバラゲシに言及する碑文の断片が見つかっているので、エンメバラゲシは紀元前
2650年頃に実在した人物と考えられている。、実在したかの様に語られてもいるとも考
えられるのだが、実はギルガメシュを主人公とする物語は古くから存在する為幾つもの
物語がある。現在『ギルガメシュ叙事詩』として知られているのは前1300〜1200年頃に
まとめられた「標準バビロニア語」で、記されている「標準版」と呼ばれるもので、新
アッシリア時代のアッシュルバニパルの図書館から出土したものである。12枚の書版か
ら成る『ギルガメシュ叙事詩』というタイトルは近代学者により付けられた名だ。古来
は作品の出だしの言葉を取って題名とする習わしがあったことから、翻訳上の原題は、
『深淵を覗き見た人』もしくは『すべてを見たるひと』となる。この意味深なタイトル
がいつ頃何の為にどういう原因で付けられたかは不明だが紀元前時代には、相当に古代
世界の良き童話であったようだ。エデンの園と共に、旧約聖書の創世記に登場するのは
、他に伝説上の塔とされるバベルの塔である。バベル塔のバベルとはバビロンのこと、
ではないかと言われ、発音が似ている所からバビロニアの塔だろうとされるとされる。
事実、古代バビロニアには、ジッグラトと呼ばれる塔がたくさん作られている。ジッグ
ラトとはシュメール時代から作られていた7層の塔の神殿のことで、宗教祭儀用の施設
とされる。数あるジッグラトの中でも、マルドゥク神殿の中心にあるエ・テメン・アン
・キがバベルの塔の有力候補となっている。と言う。

197 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:20:02.49 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   252

 シュメール文明には何故か驚くべき共通点が日本との間にある。シュメール人やシュ
メール文明について調べて、おやおや日本との共通点が多数あることに気づく日本人は
多い。偶然の一致かもしれませんが、信じるか信じないかは自由だが、海の民シュメー
ル人のペルシャ人の源流と山の民アッシュールアッカド人、バビロン人と言ったアラブ
人の源流との闘いがあったとすればそこに逃れて日本に漂着した可能性も捨てきれない
。まあ文化の漂着だからDNAではみつからない可能性も強い。日本との共通点のその
一つは言語の構成が似ている事だ。シュメール語と日本語にはいくつかの共通点が存在
し、元々は縄文人がシュメールに渡ったという説や、反対にシュメール人が日本へとや
ってきたという説まで存在する。シュメール語は古代言語が、どの言語グループにも属
さないと先ほどいいましたが、語順や構成で考えると日本語とほぼ同じになっている。
日本語は、主語−目的語−動詞の語順で、SOV型文法と言われれる。シュメール語も
同じに、このような文法構造を持つ。膠着語と呼ばれていてトルコ語や朝鮮語、フィン
ランド語にも見られる独特の物ので世界の言語から見るとごくわずかだが、それは珍し
い事ではありません。しかし、加えて日本では古来より天皇を「スメラ」や「スメラミ
コト」と呼んでおり、これが「シュメール」という発音と似ている。という指摘がある
。「シュメール」は本来の発音は「シュメル」や「スメル」が近く、シュメールの巫女
がスメラミコの呼び名になり、「スメラミコト」=「シュメルのみこと」すなわち天皇
はシュメルの王だという学説である。実は戦前、戦中に流行った説でその頃は、シュメ
ール学の権威であった京大名誉教授の中原与茂九郎が、混同されないように音引きを入
れて表記し、それが今でも残っているのです。また、「ミコト」は日本独特に「尊」や
「命」と表記され神を意味している。ますが、これがシュメール語の「ミグト」という
説もある。シュメール語の「ミグト」は天降る開拓者、すなわち神です。もし、天皇が
シュメールの王だとしたら、日本史が根底から覆されてしまうわけで、戦前・戦中は致
し方ない措置だったのでしょう。

198 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:20:34.01 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   253

 日本との共通点その2は、風葬鳥葬と十六弁菊花紋や十六弁菊花紋にある。菊花紋と
いえば、日本の天皇家の家紋として知られている。ところがこの菊花紋も菊水紋や日足
紋となると、独特の意味もある。天皇家はもともと「日月紋」であった。幕末の時代に
「錦の御旗」として使われたことで有名な紋でこれが、戦さ紋としてを使っていたのだ
。鎌倉時代に、後鳥羽上皇が菊の花がとても好きになり、家紋として色々なものに菊の
紋を使うようになったのがきっかけで菊の御門が天皇家の紋に変わった。昔は、日本に
は野菊のような小さくてかわいい花しかなかった。仁徳天皇の時代に中国から大輪の花
を咲かせる菊が入ってきて、これを皇族や公家は大事に育てた。靖国神社の門扉で使わ
れているのは菊の御紋である。これは弔いの意味を持つが。身近なところでパスポート
表紙にも使われている。楠木正成が使った紋は「菊水紋」と言われている。これは忠義
に厚い正成に、後醍醐天皇が感謝の気持ちを込めて菊の紋を下賜したことによる。が、
元々は日足流水紋が、菊地一族の家として使っていた。つまり、流水紋の中の日足紋を
菊紋に変えて使う事が許可されたのである。菊池一族も当初は掬智族で古代豪族という
より、古墳時代の九州王朝の一大部族であった。日足紋にしたのは阿蘇の豪族と英彦山
の豪族に人流が出来て一つの国となったからだ。紀元前後に大陸から唐船(からぶね)
と戦っている。この時日本の船団は紅白の旗で前進し、白で退き赤で前進したと言う。
これが神功大戦と言われる。朝鮮戦争だ。これに勝って日足紋から日足紋流水紋になっ
たと言われている。日足紋は元々は英彦山系の紋だったからだ。ここで佐賀・長崎には
仏教と共に移民が押し寄せて来て、末慮国がなり松浦氏が出来た。これが柿麻呂伝説で
は板橋氏の起こりとして、大和朝廷と九州王国の戦乱になったが、この時に鷹の羽根を
持って、突厥(とっけつ)族の作った柔然から攻められる契丹から使者がきた。

199 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:36:22.42 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   254

穢(わい)河は黒竜江の事と思われこれより北は穢国であった。契丹は今の満州近くで
あったろうが、扶余韓国として高句麗が北朝鮮近郊の川のほとりは中国の勢力だった。
契丹(きったん:キタン:キタイ)は、4世紀から14世紀にかけては、満州から中央ア
ジアの地域に存在した半農半牧の民族で大きくあったらしいが、勢力を持って現れるの
は10世紀頃であって、現在の中華人民共和国に相当する地域の 北部に帝国を建国し、
国号を遼と号した。しかし12世紀に入って次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、
挟撃された為に、遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は
中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。『遼史』伝承によれば、土河(老
哈河)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、黄河(西拉木倫河)西岸
の平地松林から、青い牛の牛車に乗った天女が、両河の合流地点にある木吐山で出会い
結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になった。とあるそうだ。まるで七夕神話
である。しかしこれは公式に、中国の歴史教科書は紹介されている。また、永州木吐山
に始祖・奇首可汗の祖廟がみつかり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。契丹
の起源は拓跋部(たくばつぶ)ではない、宇文部(うぷんぶ)から古くに分かれた東部
鮮卑の後裔で、庫莫奚(こばくけい)もしくは室韋(しつい)と同系になる考えられて
いる。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫としている。魏書
・北史・隋書・などによると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、とも
に4世紀半ばに前燕の慕容に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年
に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。つまり、いつの
頃かは不明だが日本の神話の時代に既に中国大陸は戦乱に明け暮れて、突厥に責められ
て、味方を求めて何処の王朝も交渉に出かけていたのである。伝承、黄帝に滅ぼされた
炎帝神農氏の子孫であり、北方の荒地に隠れ住んでいた。と言われるので中国の神話時
に匈奴であり、鮮卑族と混在して暮らして殷や周の国民となったようだ。華北に建設し
た国家。北魏,後魏,拓跋魏などの祖先である

200 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:36:47.64 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   255

周書によれば、突厥人は「匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏と
いう。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10歳の男児がい
たが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がい
て肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存
を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌
狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな
土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生
んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一
つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て、
茹茹(柔然)に臣従した。彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工とな
る。金山の形が兜?に似ており、俗に兜?を突厥と言うため、それを号とした。或いは云
う」とある。周のこの時代に鉄を持ったこの部隊が、アルタイ山脈の奥から攻めて来た
のはたしかな様だ。この時鷹の羽根を送ったとされ、それは貴重な羽根で鷹一羽に2枚
しか取れない羽根だったとされる。この話は、東北の中尊寺伝説にも奈良の東大寺伝説
に黒と白の鷹の羽伝説を持つ、これらは拝火教「火炎崇拝」の光神アフラ=マズダ人獣
神からの守りや約束の高級な王の権威の品であった。とされる。では菊はどうだったの
か。日本においては、菊は元々は外来種であり、薬草や観賞用植物として中国から伝来
した。平安時代に用いられ、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)
が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観菊御宴)として行われている。日本で
菊の栽培が盛んになったのは、栽培のプロセスが冬に芽をとり、春に植え、夏に成長さ
せ、秋に観賞するといった具合が、イネの栽培と類似していることが影響している。と
の説もある。

201 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:38:30.76 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   256

 この菊の栽培も菊花紋も、実はよくは解っていない。菊の原産地は中国で3,000年余
の歴史があり、日本には中国で改良されたものが、奈良時代中期に遣唐使などによって
もたらされたと言われているものの、野菊の中には日本が原産地と言われた物もある。
北村四郎氏によると、中国地方のチョウセンノジギクと南方のハイシマカンギクが交雑
して2n27ができ、その倍数体2n54となって現代の菊の原形ができたと言いう。蚊取線香
でお馴染みの除虫菊は、シロバナムシヨケギクで、その1種が赤花虫除菊です。日本に
明治初年に渡来し、1943年頃までは世界第一の生産国で、その90%が輸出され、
重要な特産物の1つでした。主産県は、和歌山県、愛媛県、岡山県、広島県、北海道で
、特に瀬戸内海沿岸の段々畑で多く栽培されていた。しかし、戦中戦後は輸出出来ず、
わずかしか栽培されていません。分類上は、以前は、キク亜科とタンポポ亜科に分けら
れていましたが、12の亜科に分類された。つまり菊科でもタンポポでもないちゃんと
した亜科になったのだが、これらは高地に咲く。除虫菊の中で日本国内で最も一般的な
「アカバナジョチュウギク」。白花除虫菊を含め、これら除虫菊の持っているピレトリ
ンという成分によって、害虫駆除の農薬や蚊取り線香がつくられている。初夏から夏に
かけて「菊に似た花」が咲く。蚊取り線香などに使われるのは、クロアチア地方原産の
「シロバナムシヨケギク」で、どちらも花に「ピレトリン」という殺虫成分を含む。本
種はその含有量が少なく、主に観賞用として栽培されています。高さは40〜70cm程
になり、根生葉は羽状複葉または羽状深裂です。茎上部の葉は欠刻中裂で10〜30cm
、6月〜7月に5〜7cmの頭状花を単生し、花色は淡紅色から濃紅色ですが、白色また
は淡紫色の品種もあります。一般的には、一重咲きですが、八重咲きの品種もあります
。と説明される。つまり、鑑賞菊は紀元後なのだが 鑑賞にならない除虫菊は早くから
野辺に咲いていたかも知れない。日本タンポポはあるから。名前が菊でもタンポポの紋
といえるのかも知れない。

202 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:39:11.33 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   257

「菊花家紋」においては、実は、これはシュメールの王の紋章と同じである。鷹の文様
がその後も入って来たというなら、先に菊花紋が入って来てもおかしくはない。花の紋
章なら他の国にもありそうだし、偶然ではとはと思うだろうが、菊の花の弁が16弁ある
ことが完全に一致している。シュメールの王と日本の天皇とは何んらか関係がありと、
探る向きには興味深い。現実に日本の鳥居がこのシュメールの鳥葬や風葬の名残りとさ
れ、神社の狛犬も又スフインクスの守り神神話からのもので、松のうろこ状や波文字が
そうした大陸文化との交流の証(あかし)とされている。この理由に祇園祭の背景生地
やら横断幕の縦じまは、横幕(よこまく)懸垂幕(けんすいまく)垂れ幕などという。
しかし冠婚葬祭様に使われて、お祭り用の紅白幕(紅白幕)天孫降臨神事用の浅黄幕(
あさぎまく)お通夜や葬儀の仏事用の鯨幕(くじらまく)歌舞伎や落語界などの公演用
の幕引き、幕開き用の定式幕(じょうしきまく)と、庶民の通称に置き換えられて使われ
ている。又、綱(つな)、縄(なわ)の他に紐(ひも)もありますが、太さの定義は特
にないようですが、太さの順として「綱(つな)」→「縄(なわ)」→「紐(ひも)」
→紬糸(つむぎ)→糸となるが、これらも羊など羊毛・綿花・絹などを産出し機織りが
発達したこの地方から伝わったのだろうとされる。他にも日本との共通点に三種の神器
がある。2020年に新天皇が皇位につき、令和の時代が幕を開けした。その際の即位儀礼
のなかに「三種の神器」を引き継ぐ「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」とい
うものがあった。「三種の神器」は天皇さえ中身を見られないと話題になったのは記憶
に新しい。そんな「三種の神器」は @八咫鏡(やたのかがみ) A八尺瓊勾玉(やさ
かにのまがたま) B草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされる。この「三種の神器」が、
シュメールの「三種の神器」とほとんど同じだ。 @日像鏡 B月像の首飾り B剣
なのである。

203 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/13(水) 16:48:45.38 ID:DcKvmn2R7
イスラム社会のコーラン   258

この不思議さは何とも言いようがない。かつて鳥葬だったのが高地で腐れず火葬になり
鳥を神と信じていた為鳥居を立てて結界を敷いた。その上三種の神器が飾りと鏡と剣だ
 シュメール人は、元々からのメソポタミアの原住民ではない。紀元前3500年頃にメソ
ポタミア南部のバビロニアへ移動してきたと考えられている。しかし、シュメール人の
発祥地は未だにわかっていない。シュメール人は、目が特徴的であった。と言われてい
る。その理由としてシュメール文明の遺跡においての、発掘された男子像の造形に見ら
れる特徴は、大きく見開いた目あるからだ。シュメール人は宗教、学問、医療など技術
や文化において、多くの画期的な発明をした民族という。その中でも、宗教的な文化は
、人々の日常生活に深く根付いていた。当時、シュメール人の社会では宗教や呪術など
の神秘的な思想が、当然のように存在して、自然界に宿る様々な神々を守護神として崇
めていた。シュメール人は自然神を崇拝することで川の氾濫は鎮まり、豊作が約束され
ると信じていた。また、病気や悲観的な感情の原因は悪魔や悪霊によるものである。と
考えられていた。しかし、シュメール人の間では、ネガティブな思想や自身の将来に対
する不安などが社会に蔓延していた。という記録も残っている。紀元前3500年頃に始ま
るバビロニアのシュメール人の都市文明は、紀元前2000年頃に滅亡を迎える。シュメー
ル人は歴史の表舞台から忽然と姿を消のである。その原因は、異民族の侵入にあった。
シュメール人による最後の国家であるウル第3王朝は、アラム人やエラム人などの周辺
異民族の台頭に苦しみ、これに対して当時の王は異民族の侵入を防ぐために、防壁を築
くなどの対策を行っている。しかし、最終的にはエラム人の侵攻によってウル第3王朝
は陥落する。その後、異民族による国家が乱立していく過程で、シュメール人は異民族
の中に埋もれていく。アラム人はアッカド人で今の匈奴であったろうと思われる。文化
を重んじ文字を作った有色人種で、目が大きくすこし垂れた頭の大きいシューメールの
民は、恐らくは船で出て行ったとも思われる。

204 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:24:39.18 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   259

エルム人は、ラクダを用いてシリア砂漠などを舞台に隊商貿易を行った民族で、現代の
モロッコのベルベル人系統だろうと思われる。カルデア人としてヘブライ語のルーツに
ある。ティル・バルシブなどで栄えた。ユーフラテス川の左岸(東側)にあった古代都
市の遺跡があり。現在のシリア西部、トルコとの国境から南へ20kmほどの位置にあった
。と思われる。シリア近くで大きくなりその後、さらに交易網を拡大し、古代オリエン
ト世界に商業語としての古代アラム語を定着させた。とされる。またシリア沿岸部の、
フェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字が作られてもいる。その後の
西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。という。このエルム人
の傭兵としてアラム人が居てこれが今のイランやアフガンの山岳ではないかと目される
。イラン人のルーツである。今のアラブ人とペルシャ人と言った所だろう。湾岸地方は
、「エラム」と呼ばれたこの部族は、バビロニア地方に移住し、ウバイド人と混血しな
がらシュメール文明を継いだ。イラクの原型となったウルク、ウルなどの都市国家群を
継いで、ペルシャのスサを中心にエラム帝国を築き、エラム人→イラン人となったよう
だ。セム語圏の湾岸地方に、突如シュメール語やエラム語といった膠着語に属する孤立
した言語を使う部族が現れたのが、シュメール人という異民族であったのだ。日本の、
九州・沖縄辺りに、エラブ(永良部、伊良部)と呼ばれる海人族が、ペルシャ湾沿岸か
ら住み着きました説もあるくらいに日本人に近い様だ。元々エラム人達は冒険好きで、
セム族と混血しながら西や東へ移動し、ヘブライ人やアラブ人の原型となるアラム人と
呼ばれる部族に分かれて行きます。エブス人やフェニキア人も「エラム」の一族と思わ
れる。シュメール人は、楔形文字を発明して、アッカド人とともにメソポタミア文明の
基礎を作り上げ、古代エジプト人と並んで人類の中でもっとも古い歴史記録を残したが
、このシュメール人の起源をめぐる未解決の課題は「シュメール人問題」と称される。
はたして 砂漠の民なのか海洋の民なのか。はたまた大和民族の祖先なのか。不明である

205 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:37:00.78 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   260

 古代シュメール文明を形成したシュメール人たちは、神殿を中心とした都市国家を築
きあげ。そして、その神殿に奉納していたと考えられて、シュメール人の信者を模した
男子像が出土している。この像は、大きく彫りの深い不気味な目、高い鼻、巻き毛、豊
かな髭などの特徴がある。そして、この特徴はセム系民族に近いとされていますが、詳
しい関係性は未だにわかっていません。このシュメールの民の興したバビロン帝国は、
王国ではない。いわゆる共和国だった。対してアラム人のアッカド帝国は約4600年前の
メソポタミアに出現した帝国で非常に残酷であった。中央政府を樹立し官僚制度を導入
したアッカドは、現在のイラクやシリア、イランの一部およびトルコ中部までの広大な
地域を支配し、「史上初の帝国」とも呼ばれている。それでも、そのアッカド帝国は、
わずか 200年という短い期間で消滅した。学術誌「ジオロジー」に掲載された論文によ
ると、その背景には気候変動があって、信心しない民でノアの箱舟みたいな事だった様
だ。中東では、日本の台風の様に、年に数回発生する「シャマール」と呼ばれる強風が
大規模な砂嵐を引き起こしている。アッカド帝国の首都であったテル・レイラン周辺の
当時の気温や降雨パターンを分析するため、日本の北海道大学の研究チームが渡った。
そして、オマーン北東部の海岸に津波の影響で流れ着いた3000〜4600年前のハマサンゴ
の化石のサンプルを採取し調査した。ハマサンゴは霰石という炭酸カルシウム(CaCO3)
を使って石質の骨格を形成する。サンゴに含まれる炭素や酸素の化学的特質や同位体の
特性を分析することで、海上の気温が推定できる。さらには周辺の降水量と蒸発量のバ
ランスを確認し推測することができる。その結果、アッカド帝国が滅亡した約4100年前
の冬のメソポタミア地域は、極度に乾燥し、寒冷な気候だったことが分かったのである
。これらから推測できるのは、天候不順が作物に深刻なダメージを与え、飢饉やら社会
不安を、引き起こしていたことが認められる。「メーガーラヤン(完新世後期)」と呼
ばれる時代である。

206 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:37:29.70 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   261

弱体化したアッカド帝国も、又周辺の部族の餌食となり、侵略により滅亡したと考えら
れている。アッカド帝国の滅亡と同じ時期には世界規模の干ばつが起こっているからだ
。複数の文明が破滅した「メーガーラヤン(完新世後期)」と呼ばれる時代が、始まっ
ていたとされている。「メーガーラヤン(完新世後期)」期はインドの地層の名前だ。
 国際標準模式層断面及び地点 (GSSP) は、インド北東部 メガラヤ州チェラプンジに
あるマウニノン洞窟 (Mawmluh Cave;洞口座標 北緯25度15分44秒 東経91度42分54秒)
で、世界標準の推積地層とされた。KM-A と名付けられた二次生成物(石筍)の7.45 mm
の深さがその下底(下限)に定義される。その模式標本はスミソニアン博物館に展示さ
れているに至った。この二次生成物 KM-A の安定同位体の分析(U-Th年代測定)から、
4303年前(BP)から3888年前までの415年間に渡って、同位体の値が2段階に分けて増加
していることがわかり、この中間点である4200年前(紀元前2250年、人類紀元7750年)
がメガラヤン階の下底と定義された。「δ18O」の値から、約12000年前から6000年前ま
でにモンスーンが低頻度での強まりだったが、4071年前〜3888年前までの 183年間では
、モンスーンは弱まったことがわかる。「δ18O」の値が1.5‰上昇すると、モンスーン
の降水量が、20-30%減少する。「U-Th」の年代測定において、メガラヤン階層の下底が
位置する4200年前に近い3654年前と4112年前の間には、二次生成物 KM-A は、直線的に
成長を続けており、4200年前に気候変動があったことを示している。これは、インド亜
大陸から東南アジアにかけてモンスーンが弱まり、降水量が急激に減少したという気候
変動を反映し、これが4.2 kイベントの始まりを示している。このメガラヤン期は2018
年、グリーンランディアン・ノースグリッピアンとともに、国際層序委員会で批准され
た。 また、国際補助標準層序はカナダ・ローガン山の氷床コアでも示されて存在する。
4.2 kイベント期、と呼ばれる地質年代におけるイベントは、低緯度地域でよく記録が
保存されているため、この場所のメガラヤ州国立公園の洞窟には良く適している。二次
生成物「 KM-A 」の記録は「δ18O 」の変動がモンスーンの強さの指標となることに基
づいている

207 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:37:54.18 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   262

 このメガラヤン期は、2〜3世紀に渡って乾燥化が突然始まったことが示されているが
、より湿潤な状態への遷移を示している記録もある。東アジアでの夏季モンスーン、お
よびインドの夏季モンスーンの 大幅な転向または弱体化は約4200年前から発生した。
 オーストラリアにおける「世紀規模の旱魃」も、インド・オーストラリアモンスーン
変動とともにこの時期に始まっている。北部高緯度地域では、氷河が顕著に前進する、
ネオグラシカル(新氷河期 :neo-glacial)という状態が約4200年前で顕著になり、日
本では、後期完新世(こうきかんしんせい)と訳されている。一方で、南極大陸の海面
温度の低下と、海氷被覆の増加は約4200年前以降に突然始まる。長江・黄河流域や中国
北部での重要な新石器時代の文明崩壊と同時期に、スペイン、ギリシャ、パレスチナ、
エジプト、メソポタミア、インダス川流域、チベット高原などの広い地域に亘(わた)
って、天水地域の放棄、河岸のレフュジアへの生息地の移動や、文明崩壊が考古学的に
確認されている。この期に、人類の多くは死滅の危機が起き、文明崩壊が起こっている
のである。中央アフリカでは、バンツー族の拡大の第一段階が4.2 kイベントと一致し
て、アメリカ南西部やユカタン半島では農耕が大きく変化したりしたのと同じ時期であ
るとされる。国際地質科学連合事務局長の スタンレー・フィニーは、「メガラヤンの
開始と、地球規模の気候変動に伴う文化の変化が、一致しているという事実が、これを
独特のものにしている。」と語っている。その後、新バビロニア帝国がカルデア人の手
(バビロニア人)によってアッシリア帝国を滅ぼして再建した帝国 (前 625〜539)が
出来上がる。アッシリア王アッシュールバニパルの死後,ナボポラッサル(在位前 626
〜605) がバビロニアを掌握しメディア王国と結んでニネベを陥落させた(前 612)。
続いてネブカドネザル2世 (在位前 605〜562) はカルケミシュの戦いで エジプト王
ネコ2世を破り,シリア,パレスチナを通ってエジプト国境にいたる領域を支配した。

208 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:38:16.54 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   263

 つまりシュメール期は紀元前3000台に忽然と現れ忽然と消える。そして前500ぐらいま
で経てからにバビロニアが築かれているのである。この不思議さはちょっとないのだ。
 その後紀元前7世紀になって、当時の中東全域を支配し世界帝国として栄えた。「新
バビロニア帝国」(625年〜539年)の誕生だった。ところが、この帝国が頭角を表す百
年以上前の時代に、聖書の神ヤハウェに仕える預言者イザヤは、この帝国の興亡につい
て、以下のように預言していた。と言う。「わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い
立たせる。・・・・こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロン
は、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のように。そこには永久に住む者もなく、代々に
わたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこ
には群れを伏させない。」(イザヤ13:17-20)と、この預言書では、主に以下の三つの
出来事が予告されている。これから順を追って、これらの預言がいかにも成就していっ
たかの如く語られる、その詳細を取り上げてみる。バビロンは、大王ネブカドネザルが
治めたその最盛期には、富と権力のスケールにおいて空前の繁栄を遂げ、他のいかなる
都市の追随も許さぬほどで、あったという。彼が造ったバビロンの空中庭園は、その美
しさと荘厳さから、古代世界の七不思議の一つにも数えられている。しかし、その後に
メディヤ人によって滅ぼされる。バビロンは栄華を誇ったバビロニア帝国の首都であっ
たが、BC539年に、メディア・ペルシャ帝国の侵入を許し、難攻不落と言われてい
た帝国も、あっけなく没落してしまうのである。この時代に占星術,天文学をはじめと
するカルデア文化が、バビロンを中心として開花したが、ナボニドス王(在位前 556〜
539) の時にアケメネス朝ペルシアの王キュロス2世の率いるペルシア軍は戦わずして
バビロンの中に入城させ(前 539)新バビロニア帝国はあっけなく滅亡した。

209 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:44:42.35 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   264

 このメディヤ人が分盲のユダヤ人とされる。主としてヘロドトスなどギリシア人作家
の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が
存在しないからだ。考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっている
ことは少ない。兎も角文字も言葉も自分達の文化も無かった。商業主義で商売で合わせ
たとされる。簡単に、バビロンはなぜ滅ぼされたか。キュロスの軍隊が城壁に近づいて
いたその夜には、バビロンの宮殿では建国の大宴会が行われていた。その時突如不吉な
しるしが起こり、王は恐れおののくようになった。宴会場の壁に突如として人の手が現
れ、文字を書いたのだ。当惑した王は、バビロン捕囚で連れてこられていたユダヤ人の
預言者ダニエルを呼び出し、その文字の解き明かしをさせた。その文字は「メネ、メネ
、テケル、パルシン」、意味を要約すれば、「天の神がバビロンの王の治世を数えて、
それを終わらせた」というものであった。ダニエルは、王の治世の終わりの理由をこの
ように説明した。ダニエル書によると、「ベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべ
て知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり
、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻も側女達
も、それを使って葡萄酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ること
もできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなた
のすべての道を その手に握っておられる神をほめたたえませんでした。それで、神の
前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。」(ダニエル書 5:22−24)
バビロンの王が滅ぼされた理由は、天の主に対する傲慢と、見ることも聞くこともでき
ない偶像に礼拝を捧げたことであった。という。まさにその日、バビロンは没落し、彼
の治世は終わりを遂げた。聖書の預言の言葉が成就し、神の裁きが下されたのである。

210 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:45:46.36 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   265

新バビロニアの王でナボニドゥスの息子、ベルシャツァルについては、遠征で国内を空
ける事の多かった同王によって国内統治を任されていた。 旧約聖書ダニエル書の第5巻
と第8巻では彼が最後のバビロニア王として記録されている。 (バルタザール)とも言
われる。新バビロニアの歴史を著した史家たちは、ベルシャザルという名の王を記録し
ていなかったため、旧約聖書のダニエル書のみが主な情報源となっていたベルシャザル
の実在については、ダニエル書と共に疑われていた時期があった。が、1854年にナボニ
ドゥスの円筒形碑文が発見され、その内容からベルシャザルという名の王族の実在と、
彼がナボニドゥス治世下にバビロン市においては、実質的な統治権を託されていたこと
が確認される。「カルデアの王ベルシャザルが1000人の貴族や後宮の女達とともに宴会
を開きワインを飲んでいた最中、突然人間の手の指が現れて壁に字を書いた。ベルシャ
ザルは恐れ慄いてその字を読める者を探した。しかし誰も読める物は見つからず途方に
くれていると、王母が進言した。「父王ネブカドネザルの時代に神々の如き知恵を持っ
たダニエルと言う神官長がいました、父王はベルテシャザルと呼んでいました。彼なら
ばこの字を読めるでしょう。」と。ベルシャザルは、ダニエルを呼び、字を解釈させた
。ダニエルの解読によれば「神は父王ネブカドネザルに権勢と栄光を与えた。しかし、
彼は尊大、横暴に振る舞い思うがままに人を殺したので王位を追われ栄光は失われた。
父王は野獣の如き有様となり雨に身を濡らし、ようやくこの世を統べるのは神である事
を知った。ベルシャザル王、あなたはこれを知りながらなお神に従おうとしなかった。
祭具で酒を飲み、石や木で作られた神々を讃えた。だから神はあの手を遣わして文字を
書かせたのである。文字は「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」である。メネは数え
るの意、あなたの治世を数えたてそれを終えた。テケルは測るの意、あなたは秤にかけ
られ不足であると判定された。パルシンは分けるの意、あなたの王国がメディアとペル
シアに分けられる事を意味する。」と言う事であった。そしてその日の夜、ベルシャザ
ル王は殺された。(Wikipedia)

211 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 13:52:30.56 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   266

 ダニエル書第8章には、ダニエルが幻を見た年としてベルシャザル王の治世第3年目
とある。その上でこれは史実との相違点がある。旧約聖書の記述のうち、明らかに事実
と反するのはベルシャザルが王であると言う記述と、ネブカドネザル2世の息子である
と言う記述があって相違がある。しかしながら、聖書には高位権力者を指して「王」と
いう語を用いることがあるため、代理統治者としての意味で用いられたとすれば、これ
は誤りではない。と言う意見もある。またヘブライ語には祖父や孫を表す語が存在せず
、子孫を「子」、祖先を「父」という。この意味でも「父王ネブカドネザル」が「父祖
である王ネブカドネザル」という意味で記述された。とすれば、これは決定的な誤りだ
とも言えない。大宴会中に現れた指が王宮の壁に文字を書くのを見て、恐怖に駆られた
ベルシャザルが、「文字を読み解き明かす者には王国の『第三の位(第三の権力)』を
与える。」と宣言している。その謎解きを果たしたダニエルに、ベルシャザルから『第
三の位(第三の権力)』が与えられた。と聖書には記されている。ベルシャザルの布告
で、『第三の…』とことわり書きされていることが、ナボニドゥス(第一)およびベル
シャザルの権力(第二)を前提にした「位の授与」とみることも可能であるという。又
、ダニエル書5章でダニエルのことをベルシャザルに進言した、王母をネブカドネザル
2世の娘ニトクリスとみるなら、ダニエル書の中の物語の論理的整合性と、史実との整
合性を量る可能性は大いにある。つまり、ネブカドネザル2世の妻はアッシリアの憎し
みを持って嫁に来ていた事になる。この聖書に記された「ベルシャザールの饗宴」の、
エピソードは、さまざまな芸術作品の題材ともなって。こうした書き換えは、死海文書
(しかいぶんしょ/しかいもんじょ)の発見によっても書き換え言い換えがわかる。

212 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/15(金) 14:05:16.86 ID:FHqIyKH3a
イスラム社会のコーラン   267

 死海文書あるいは死海写本は、1947年以降死海の北西(ヨルダン川西岸地区)にある
クムラン洞窟などで発見された 「972」の写本群の総称である。主にヘブライ語聖書(
旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。死海文書の発見場所は1947年当時イギリ
ス委任統治領であったが、現在では、ヨルダン川西岸地区に属している。「二十世紀の
最大の考古学的発見」ともいわれるものだ。なお、広義に死海文書という場合は、クム
ランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベル
の洞窟から見つかった文書断片なども含むと言う。なので、文書数にはもっと幅が生じ
るのであるが一般的に死海文書と呼ばれる。この文書はヘブライ語聖書の最古の写本を
含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の
実情をうかがわせるものでもある。文書は大部分がヘブライ語で書かれており、2割ほ
どのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言のナバテア語
の文書を含んでいる。多くは羊皮紙であるが、一部は砂漠では生産されない牛皮であっ
た。また一部はパピルスもある。文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代
測定、質量分析法などから 紀元前250年ごろから紀元70年の間に書かれたものと考えら
れている。死海文書を記したグループを、クムラン教団と呼ぶが、これについては伝統
的に エッセネ派と同定する意見が主流である。固有な暦を持ち、日々の生活は、祈祷
・律法研究・農工作業・祭儀的な沐浴と共同の食事などの日課に従って整然と営まれた
とされ4000人ほどの会員がパレスティナ内外の多くの土地に居住していた。1945年死海
沿岸で遺構が発見され紀元前2世紀の後半、ここに集まり、ローマの支配に対しての、
ユダヤ人の大規模な反乱「第一次ユダヤ戦争」で紀元後68年ごろに四散したものと推測
されている。彼らは「義の教師(メシア)」に率いられ、12人の平信徒と3人の祭司か
らなる教団会議で、10人ごとのグループに分かれ生活のあらゆる面で清浄さを強調し、
後の修道士とよく似た団体生活を送った。

213 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/18(月) 23:15:07.23 ID:L3Gdj0BbM
イスラム社会のコーラン   268

 死海文書の内容は大きく分けて 3つに分類することができる。第1は「ヘブライ語
聖書(旧約聖書)正典本文」で全体の4割、ほぼ半分だ、第2は「旧約聖書外典」と「
偽典」と、よばれる文書群(エノク書、ヨベル書、トビト記、シラ書などでユダヤ教の
聖書正典としては受け入れられなかったもの、全体の3割)、第3に「宗団文書」と呼
ばれるもので、クムラン教団の規則や儀式書、『戦いの書』(1QM、1Q33、4Q285、11QSM
)と呼ばれる書など(全体の3割)である。「死海文書の戦いの書」は、闇の息子たち
に対する光の息子たちの戦争の巻物とされている。「光の子と闇の子のあいだに、最後
の戦いが生じ世界が崩壊する・・・」と書いた死海文書の中でもっとも有名な予言の書
といえる。内容は、ユダヤがひとつになった70年後に、ユダヤ民族と他民族(非ユダヤ
、ローマ人)が戦争を引き起こすというもの。そのときには、40年戦争が起こるという
ことも記されています。つまりユダヤがひとつの70年後は、1948年のイスラエルの建国
後の70年となり2018年からそれは始まるという予言とされて、その方向に動いた組織が
米国にあった。その書では、5年間の前哨戦があり(2018〜2023年)6年間の準備期間
の後(2024〜2030)29年間の戦争(2031〜2060)が起き世界は終末を迎える。と今は
なっている。この期間は発表期に次々と当てにならないが少なくとも911の首謀者に
は2000年から、即ち21世紀からだったらしい。特徴として、戦闘の配列、兵器、参加
者の年齢、および軍事行動について説明されいる。

214 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/18(月) 23:21:10.27 ID:L3Gdj0BbM
イスラム社会のコーラン   269

 「死海文書の戦いの書」の内容の要約が以下である。「荒野に追放されたレビの息子
、ユダの息子、およびベンジャミンの息子は、光の息子の追放者が荒野から戻ったとき
、彼らのすべての軍隊に対して彼らと戦う。イスラエルの神の前では、戦いと恐ろしい
大虐殺が起きるであろう。なぜなら、それは古代から彼によって暗黒の息子たちの全滅
の戦いとして指定された日だからである。その日、神の会衆と男性の会衆は互いに交わ
り、大虐殺をもたらす。光の子と闇の勢力は、大勢の轟音と、神と人の叫びで神の力を
示すために戦う。災害の日に。それは神に贖われた人々にとって苦痛の時となったので
ある。彼らのすべての苦難は、そのようなものは存在せず、永遠の贖いとしてその完成
を早めていく。キッティムとの戦いの日に彼らは戦いで大虐殺を繰り広げる。3つの区
画では、光の息子たちが邪悪に打撃を与えるようにしっかりと立ち、3つでは、ベリア
ル軍が力を後退させるように自分たちを強化します。光の歩兵の旗が彼らの心を溶かす
とき、神の力は彼「光の子・孫の芸術」を強化するでしょう。35年間の奉仕の間、戦争
は行われる。6年間、衆全体が一緒に分割戦争は残りの29年間行われる。最初の年に
彼らはメソポタミアと戦い、2番目にルドの息子たちと戦い、3番目に彼らはアラムの
残りの息子たちと戦う。第四と第五に彼らはアルパクシャドの息子たちと戦う。6番目
と7番目に、彼らはアッシリアとペルシャのすべての息子と大砂漠までの東部人と戦う
。8年目に彼らはエラムの息子たちと戦い、9年目に彼らはイシュマエルとケトゥラの
息子たちと戦い、その後の10年間で戦争はハムの息子たちと戦い、彼らの領域に残りの
10年間、戦争は彼らの領土に従ってすべての『ジャフェの息子』に対して分割される。


215 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/18(月) 23:25:48.73 ID:L3Gdj0BbM
イスラム社会のコーラン   270

 「邪悪を一掃する神の神秘」追跡のラッパには、「神はすべての闇の息子たちを打た
れ、彼らが滅ぼされるまで彼の怒りを和らげてはならない」と書くであろう。又、彼ら
が戦いから戻ってフォーメーションに入るとき、彼らは退却のトランペットに「神が集
まった」と書く。敵との戦いからエルサレムの会衆に入る帰路のラッパには、「平和な
帰還における神の喜び」と書くでしょう。レビの息子とは、イスラエル12氏族の事を
指し、祭司階級レビ族(レビ氏族・レビ支族・レビ人)の祖となったレビの子孫で聖書
を崇める民全てである。ユダの息子は当然ユダヤ教でありベンジャミンの息子はダビデ
王の支配地の人々即ちイスラム教徒とされる。ベリアル=ペルシャ「光の子・孫の芸術
」は、欧州と米国を指す物と目される。孫とは王の最初からいない国で、芸術とは兵器
を意味する。メソポタミアと戦い、ルドの息子たちと戦い、アラムの残りの息子たちと
戦う。第四と第五に彼らはアルパクシャドの息子と戦う。ルド=ヤコブ=富める者で、
大富豪達である。アラムはアラブ人・アルパクシャドはノアの子孫で、アフリカ人もし
くは黒人と目されジャングルの民である。アッシリアとペルシャの全ての息子と大砂漠
までとは当然砂漠の民を示し、エラムの息子たちと戦い、イシュマエルとケトゥラの息
子は当然残る大陸人と島嶼国の島人、更に南方の熱帯の人を指す。つまり世界大戦が起
こると言う示唆である。当然死海文書の「戦いの書」の予言書はその他に口伝の伝承も
ある。戦争に勝ち残るとされる光の子に対して、後世の書や口伝はメシア(救世主)が
登場し「アロンのメシア」や「イスラエルのメシア」がいるが、実際の死海文書には、
黙示録のようなメシアの登場はない。ここで問題の光の子とするのは、国旗からみても
どうも日本の様だ。と言うのである。これは日本人にとってはとても迷惑な事だ。

216 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/19(火) 00:38:40.15 ID:zYo5WwbZN
イスラム社会のコーラン   271

 紀元前の古文書の、1947年以降死海の北西(ヨルダン川西岸地区)にある クムラン
洞窟などで発見された 972の写本群の総称なのだが。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)
と聖書関連の文書からなっていて「二十世紀最大の考古学的発見」ともいわれていた。
現在は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争の後で 考古学博物館にあったこの死海
文書を回収し、イスラエル博物館内に新しく作られた「聖書館」に移されて研究されて
いるという。そしてこの死海文書はロックフェラー財団が所有し、保管しているものも
ある。エルサレムにも彼らの博物館は古くからあって、この死海文書通りにこの世界を
動かしていたとしてささやかれてもいる。2020年の発見されて、アメリカの聖書博物館
が所蔵していた16の断片では、すべて偽物であると判定している。死海文書を記した者
は、当時のクムラン教団のユダヤ人のグノーシス派と言うのが定説だ。このクムランで
共同生活を送り、修行により超能力を駆使して、さまざまな予言を行ってきた教団とも
いわれている。この説ではイエスキリストも、実はこのクムラン教団にいた教徒の集団
ともいわれる。バビロンが栄華を誇り、メディヤ人によって、滅ぼされれ、バビロンが
荒廃して行く中で、そこは今や人が住まない場所となっている。メディヤ人によって滅
ぼされたバビロンはバビロニア帝国の首都であったが、BC539年に メディア・ペルシャ
帝国の侵入を許し、あっけなくも没落してして、そこの宗教がムクランにやって来たと
も推測される。この時代には、占星術,天文学をはじめとするカルデア文化がバビロン
を中心として開花していたからだ。いわゆる神秘主義のクムラン教団で預言者から予言
者に変化する。この事からもその流れにそって発祥したのだろうとも思える。この時代
に日本なんて言う意識は当然ないはずだが、そこは神秘主義である。日本の国旗の起こ
りも不思議だが、各国の国旗も不思議だ。先ず縦筋か横筋かで大きく民族性がある様だ
それに色である。特徴的な赤と青と白と黒だ。この使い方に宗教性がある。

217 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/19(火) 00:52:06.15 ID:zYo5WwbZN
イスラム社会のコーラン   272

 中東地域はその特徴にアジア的な部分を残す。死海のある場所は地図で示す通りだ。
 ヨルダンとイスラエルの国境線上にある、地球上で最も低い海抜マイナス420mに位置
する、生物が棲まない不思議な塩湖として有名な場所が、死海の場所である。字の如く
かつて海だった場所とされ、海の干上がった塩分の高い湖が存在する。ただただ死海に
入るだけで不思議と体が浮き上がり、読書だってできる。それほど塩分濃度が高い所だ
。ハリウッドセレブも美容のためにやって来ては、泥パックして流行してるそうだが、
歴史的には、絶世の美女クレオパトラが死海に訪れ、化粧品工場を造ったことでも有名
である。こうした美容や癒やし効果がある死海の魅力もあるが、この死海の近くで見つ
かった文書は、直ぐに欧州に伝わり、読んだ内容に恐れおののいたのがキリスト教の総
本山のバチカンの法王庁であった。公表を差し止めに動いたといわれる死海文書には、
羊飼いが発見した1947〜1956年の間に11の洞窟から、次々に発見されて、ヘブライ語の
聖書の断片まであって、約850巻もの文章が発見されたという。銅板に書かれたものが
一つだけあって、ほとんど羊皮紙巻物に書かれたものだ。恐らくは銅板は印刷用に幾つ
かあったが盗掘されたのであろう。ヘブライ語と、ギリシャ語やアラミック語で書かれ
た貴重な発見であった。ダマスコ教団と密接に関係するクムラン教徒のものとされたが
、この中で完全体の7つの巻物があって、内『イザヤ書』や『ハバクク書注解』『共同
体の規則』『外典創世記』の4巻がその年の3月に、エルサレムにある聖マルコ修道院
の院長が、シリア正教会の大主教アタナシウス・サミュエルに渡ったのを、現在の価値
で約100ドル、24パレスチナポンドで買い取って保管した。『戦いの書』『感謝の詩篇』
と『イザヤ書』の断片の、3巻については、死海文書の発見を知った ヘブライ大学の
考古学教授のエレアザル・スケーニクとビンヤミン・マザールが買い取ったとされて、
後にアタナシウス達は、4巻の文書を売りたいとWSJ紙に広告を出して、イスラエル
政府の意を受けたマザール教授とスケーニクの息子イガエル・ヤディンが匿名で買い取
り、やっと7巻が全て揃って公的保管に至った。

218 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/22(金) 08:06:18.22 ID:nuebWt3Hd
イスラム社会のコーラン   273

 宗教論争では、エッセネ派について、彼等は、肉体は滅びるものであり、それを構成
する物質は永遠ではないが、霊魂は不死で滅びないと確信していた。そして肉体の復活
、いわゆる死者の復活があることを信じていた。「死海の西側で、岸からの有害な蒸気
の達しない所に、エッセネ派の孤立した部族が住んでいる。それは、世界中の他の全て
の部族が及びもしない驚嘆すべき部族である。女性を入れず、性欲を断ち切り、金も持
たず、棕櫚(しゅろ)だけを伴侶としているからである。来る日も来る日も人生の試練
から逃れた者達の群れが、受け入れられてそれと同じ数の、人生に疲れ、彼等の生き方
に倣うために運命の大波によってそこに追いやられた者達が生活している。こうして何
千年もの間、語るに信じがたいことだが、そこにおいて誰も生まれない種族が永遠に生
き続けている。彼等にとっては、他の者達の人生の疲れが、豊かな実りとなっている。
これらの者達の住む下に横たわるのは、土地の豊かさや、棕櫚の森などでエルサレムに
つぐ聖都である。だが今はエルサレムのように灰土の山となったエン・ゲティの町だっ
た。」と紀元後に訪れたローマの地質学者大プリニウス(27〜79年)は伝えている。この
エジプト人の様に死後を侵攻しインド人の裸僧の様に修行し「僧伽(さんが)」を行う。
『死海文書のすべて』によれば、エッセネ派の信仰で、運命についての教えは、予定論
的神学であって、ユダヤ教の3つの宗派はそれぞれの見解をもって接していた。パリサ
イ人見解は、「ある出来事は、すべての出来事ではない。運命による業の結果である。
」その他は、それが起こるのも起こらないのも、我々人間側の自由意志にかかっている
。つまり本人の意思で本人の運命が決まるのでそんな宗派は受け付けられない。と言う
のである。一方、エッセネ派の宗団は、運命こそが一切の出来事の支配者であり、我々
人間の経験するすべてのことは、運命の定めあるところに従って生起したもうのだ。と
説明し神を崇めた。つまりある部分は運命である部分は本人の意思だ。という主張も、
受け入れなかったので、当然パリサイ人とは混じり得なかったのだ。

219 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/22(金) 08:17:21.17 ID:nuebWt3Hd
イスラム社会のコーラン   274

 一方でサドカイ人は、この運命というものを一切認めない。即ち、この世にそのよう
なものは存在せず、人間の営みが運命に支配されるということはあり得ない。とした。
一切のものは、我々自身の自由な意思で定まり、我々の幸福は 我々自身が創り出し、
不幸に苦しむのはこれまた我々自身の無思慮の結果である、と主張した。対してエッセ
ネ派は、今存在しているものや、これからするもの、それらすべては知識の神から来る
。神はそれが存在する前に、それらの全体的な構想を考えられ、定められた通りに存在
する。それらは神の栄光ある構想に従い、何の変更もなしで、己の働きを成し遂げる。
として説いていた。彼等の著者は「闇の天使は義の子等すべてを迷わせ、そして終わり
まで、彼等の罪や、不義、悪のすべてが、また彼等の不法な行いのすべてが、神の秘密
に従って、闇の天使の支配によってもたらされる。」と言っています。つまり生活全て
が「自業自得」「「因果応報(いんがおうほう)」「撒いた種の収穫」の連鎖として、
全く相いれなかった。こうしてエネッセ派は「戦いの書」を書いた。のシナリオ全体も
、予定論の教えを前提にしています。神は歴史がどのように展開するかを悠久の昔から
定められておられた。神はすべてを掌握されておられるのだから、最終戦争はただ神の
永遠の青写真に従って起こるのだ。というわけです。そして、死後の生について、歴史
家ヨセフスによれば、この問題について、ユダヤ教の3つの宗派は見解を異にしている
として、パリサイ派は死者の復活を信じましたが、サドカイ派はそのような奇蹟を一切
否定した。つまりエネッセ派は神に戦争があり終末思想に洗脳され、パリサイ派は否定
し物笑いをし、サドカイ人は困って一部認め一部否定したのだ。ここで不思議なのは、
エネッセ派とパリサイ派となっているのは白人アジア人共にいたからだろうが派となっ
ているのに中間のサドカイはサドカイ人と人種としている点だ。修行がないので当然で
はあるのだが、ユダ戦争でエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派の、
司教の一団とされ、かれらが放浪の末にたどり着いたのが佐渡ヶ島とも言う者もいる。

220 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/22(金) 08:17:57.65 ID:nuebWt3Hd
イスラム社会のコーラン   275

 エッセネ派の神学的特徴は、モーセの律法を規範として神に啓示され、宗団が、伝え
発展させた律法の伝統に絶対服従することで、この厳格な律法主義はパリサイ派よりも
強かった。そして、律法以外にも彼等は祭司的教派であったので、イスラエルの預言の
伝統を非常に重んじていた。よってエゼキエル書やダニエル書も重要な書として扱い、
第2イザヤ書も重要視されていた。ここで、終末観が強く支持され持っていた。といえ
る。その終末観とは、この地上にエルサレム及びその神殿を中心とした永遠に続く新し
い神の国の出現を期待することであった。ここで重要な、戦争の為の終末論が出来上が
るのである。それは「新しい創造」であって、全ての罪を知らざる堕落以前のエデンの
状態への回復ではあったのだが。そして説かれる最後の審判とは、最後の戦いであって
、光の子が闇の子に最終的に勝利を得るものとされた。彼等の教徒は、一人一人この戦
いの戦士であり、「戦いの書」に出て来るこの戦いの敵である「キッティーム」との闘
いをし、地上の敵が滅ぼされるのみならず、悪そのものを徹底的に滅ぼし、光と正義と
が永遠に支配するようになるのです。(:「キッティーム」と称せられるのはローマ人か
どこかの種族かと問われるが、キッティームの語は、年代や場所によって解釈が違う。
ここでは闇の天使ベリアルの軍らしい。)また、上記説明と同じく彼等は霊魂の不滅、
あるいは永遠の生命を信じていましたから、この生命が死によって中断されないことは
楽園回復と結びついている。彼等にはこうした考えから天使信仰にも結び付き、天使の
存在を信じ、「天使のように生きるべきであり、天使と交わり更に天使のようになるべ
き」と考えていたようである。そこで回復されたエルサレム神殿に、神と天使が共に降
って来て人と共に住み給う。と唱えた。クムラン宗団はメシア思想で、新しいモーセ的
預言者、レビの種族から出る新しい大祭司、ユダの種族から出る新しい王の3人の救出
者、すなわち1人の預言者と2人のメシアを期待していました。

221 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/22(金) 08:21:34.47 ID:nuebWt3Hd
イスラム社会のコーラン   276

 発見された写本を調べてみると死海文書は3種類に分類でき、1つ目は「旧約聖書外
典(正典には加えられていない文書)」「偽典(正典と外典にも含まれていない文章)」、
2つ目は「旧約聖書正典」、3つ目は「戦いの書(光と闇の終末戦争に関する内容)」で
あった。中にはクムラン教団という死海文書を書いたと思われる宗派の戒律も含まれて
いる。これら聖書に関連する写本の中で最も奇妙なものは「戦いの書」とされている。
問題の戦いの書は、旧約聖には存在しない内容で、何らかの理由によって意図的に削除
されたのか、あるいは後世に伝わらなかった。と考えられている。「戦いの書」は終末
戦争について、事細かに描かれた記述がある。世界にはヨハネの黙示録や、北欧神話の
ラグナロクを筆頭とした終末戦争の伝説が数多く存在するが、「戦いの書」に書かれた
終末戦争はさらに細かく記されていることが判明している。「全ての神の民に救いが訪
れ、神の側の者達には栄光が訪れ、サタンの側の者達は絶え間ない破壊に苛まれる。」
「世から不平等が消え去り、闇の子が持つ特権は全て消え去るだろう。」「キッティー
ム(世界を征服する民族)による支配は終焉を迎える。」「光の子と闇の子の対決は最後
の戦いである。」「両軍とも天使の助けを得て戦いを続けるが、神の意志は光の子に向
くだろう」といった内容で、さらに細かい描写も存在する。「貧しい者の命は混乱の中
で弄ばれ、迫りくる災厄が同調している。」「滅びの罠があちこちで開き、邪悪な網が
全ての水面を覆い尽くす。」「滅びの矢が一斉に放たれ全て命中するだろう。」終末論
者の中にはここで登場する滅びの矢を核兵器と解釈する者もいるようだ。死海文書では
これまで存在していなかった終末論だけでなく、キリスト以外の救世主の存在を示唆し
ていることも特筆するべきものであろう。この「戦いの書」がキリスト教聖書から消え
ていたにも関わらず、なぜだか、死海文書の発見前に既に口伝伝承で「終末思想が」大
きく出回っているのである。

222 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/24(日) 21:22:05.63 ID:SOABfcu+R
イスラム社会のコーラン   277

 「立法会議から離れて、心のかたくななままに歩んではならない、アロンおよびイス
ラエルのメシアが現れるまでは。」という記述があり、イスラエルのメシア=キリスト
と解釈した場合にアロンというキリストと同格に位置づけられている人物の存在を示唆
する内容がある。確実視されているわけではないものの、旧約聖書に登場するモーセの
兄としてアロンという人物の名が出てくることから、最も偉大な預言者モーセの兄こそ
がメシアであると記している。という説もある。これらの記述はキリストが、現存する
聖書の内容での、唯一絶対な存在である。と考えるカトリック教会の教えとは異なって
いる。この点などから「失われていた真実」とされ一時的にもてはやされたことがある
。一方で、現在では「隠された真実」という見方をする場合も多く、壺に密封されてい
た点などから「未来の世代に向けた真実」という解釈をする学者もいる。仮に隠された
真実であった場合、何故隠す必要があったのかという疑問が浮かぶ。そこで専門家たち
が出した仮説は、アロンという人物がメシアであることを隠す為に死海文書を隠したと
している。今後世界のどこかに救世主としてキリストではない人物が現れるのではない
かという説も囁かれている。実は宗教学的には自己収束理論から、サタン=キリスト=
「キッティーム」とも出来る。となると、壮大な攪乱ゲームをキリスト教がやってきて
「嘘だよ〜〜ん。」と書いた死海文書が出た感じだが。果たして「両軍とも天使の助け
を得て戦いを続けるが、神の意志は光の子に向くだろう。」といった内容である。この
中のモーセの兄としてアロンとは何か。

223 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/24(日) 21:22:35.97 ID:SOABfcu+R
イスラム社会のコーラン   278

民数記では、イスラエル人の民の全体は,第1の月にチンの荒野に入り,民はカデシュ
にとどまることになった。ミリアムはそこで死に,葬むられた。そこには民の為の水が
なく民はモーセとアロンに逆らって集合した。民はモーセに不平を言いった。「兄弟が
エホバの前で死んだ時に、私たちも死んでいればよかった。どうしてエホバの会衆を、
この荒野に連れてきて,私たちと家畜をここで死なせるのか。どうして私たちをエジプ
トから連出して,こんなひどい場所に連つれてきたのか。ここでは種たねをまけず、イ
チジクやブドウやザクロも育そだたない。飲水さえもない。モーセとアロンは会衆の前
から離れ,会見の天幕の入口に来きてひれ伏した。するとエホバの栄光が現われ始じめ
た。エホバはモーセに言いった。「つえを取とって民を呼集め,あなたと兄のアロンが
民の目の前で大岩に話して,水を出させなさい。あなたは民の為に大岩から水を出し,
民と家畜に飲ませなさい。モーセは命じられた通りにエホバの前からつえを取とった。
モーセとアロンは会衆を大岩の前まえに呼び集め,モーセが民に言った。「さあ聞きな
さい反逆者たち!、この大岩から私たちが貴方達の為に、水を出さないといけないので
す。」モーセは手を上げ,つえで大岩を2度ど打った。すると,たくさんの水が出てき
て民と家畜は飲みだした。その後ごエホバはモーセとアロンに言いった。「あなた達は
、私に信仰を示めさず,イスラエルの民の目の前まえで私を神聖なものとしなかったの
で,私が与える土地にこの会衆を連れて入いることはない。」これがメリバの水である
。イスラエル人がそこでエホバに不平を言いい、神は彼らの間で自分を神聖なものとし
た。

224 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/27(水) 23:28:53.46 ID:4eEkbjEk+
イスラム社会のコーラン   279

「モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主
の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り兄弟
アロンとともに共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。
あなたは、その岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。』
モーセは命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆
を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水
を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとば
しり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」(20:6〜11)
主はモーセに、「杖を取り、共同体を集め、岩に向かって、水を出せと命じなさい。」
と言いました。そしてモーセは、主が命じられたとおりに杖を手に取りました。二人で
、会衆を岩の前に集めました。そこまでは良かったのです。しかし次の行為が神様の意
に反した行為でした。それは、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのため
に水を出さねばならないのか。」と言ったことです。そして次に、「杖で、岩を二度も
打った」ことです。この言葉と行為が、神の御心に反しました。
神様はこのモーセの言葉の中に、あたかも今まで自分が民を率いて来たかのような傲慢
な心を態度や言動に見ました。神様からすれば、「ああ、モーセ、お前までも私をない
がしろにし、自分をまるで神のようにふるまうのか。」と思ったに違いありません。主
の御心を悲しませる言葉でした。民の不信仰が、指導者モーセまで襲ってしまっていた
のです。詩編106:23と32〜33(P.946)までを読んでみましょう。
「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれたモーセは、破れを担って御前に立ち、
彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。・・・彼らはメリバの水のほとりで主を怒
らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセの心を苦しめたので、彼
がそれを口に乗せたからであった。」とあります。

225 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/27(水) 23:29:40.26 ID:4eEkbjEk+
イスラム社会のコーラン   280

 終末予言では、「滅びの矢が放たれて命中し、炎に襲われ地上は焼き尽くされ、水を
飲むものは消え失せ、地上の者は気が狂う。」「エルサレムの 荒廃の時が終わるまで
には、主(しゅ)が予言者エレミヤに告げられたことを悟った」「1.全ての神の民に救
いが訪れ、神の側の者達には栄光が訪れ、サタンの側の者達は絶え間ない破壊に苛(さ
いな)まれる。2.世から不平等が消え去り、闇の子が持つ特権は全て消え去るだろう
。3.キッティーム(世界を征服する民族)による支配は終焉を迎える。4.両軍とも
天使の助けを得て戦いを続けるが、神の意志は光の子に向くだろう。」戦いの最後には
、世界を破滅から救ってくれる「2人の救世主(メシア)が現れる」と記されています
。「アロンの救世主」と「イスラエルの救世主」です。かつての日本人ユダヤ同祖論が
再び脚光を浴びて「イスラエルの救世主」=日本人である。という考えが強まっている
理由はここにある。ここでアロンとは誰か。死海文書やユダヤ教聖書、ポールソロモン
の預言によると、エルサレム発の中東戦争は、世界大戦に発展して。核ミサイルも使わ
れ、「光と闇の最終戦争」となると信じている様で、「エルサレムの丘/神殿の丘で、
悲劇が起こり、それをきっかけとしてイスラムの人々が決起し、日本も含めて世界中の
国々が戦争に巻き込まれるだろう・・・。」「日本から光が来る、そして世界の啓蒙を
手助けとなるだろう」などと言っている。ここで1に「全ての神の民に救い」と言うの
で全地球上の民であろう。ここでサタン側と神の者側に分れる。そして苛まされる。と
いう。2、で世の不平等が消える。となっている。更に「キッテーム」だからキックの
人群れ、つまり「蹴りつける集団」である。テロ分子や極右や極左、と言う事だろう。
4は神の意思は光の子に向く。と言うのは正しい人に、神は味方する。と言う単なる、
当たり前の歴史的収斂である。そして最後はとってつけたメシアを書き加えたのだ。

226 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/30(土) 15:53:42.97 ID:u2WLc2T6c
イスラム社会のコーラン   281

 出エジプト記では、彼(モーセ)が山にいる間、民の心は堕落した。彼らはアロンの
もとに集まって言った。「私たちが仕えることができるよう、他の民族も持っているの
と同様に、神々を私たちのために造ってください。なぜなら、モーセを通して私たちの
面前で驚くべき業が行われましたが、あのモーセは私たちから奪われてしまったからで
す」。そこでアロンは彼らに言った。「落ち着きなさい。モーセは来るであろうから。
そして彼は私たちに定めをもたらし、私たちのために法を明るく照らし、神の至高を、
自分の口から告げ、我が民族のために掟を定めるであろう。」彼はこう語ったが、彼ら
は聞き入れなかった。〔…〕さて、民に非常に力があったのでアロンは恐れ、彼らに言
った。「私たちのもとにあなたたちの妻の耳飾りを持ってきなさい」。そこで男たちは、
各々自分の妻に頼み、彼女たちはすぐに渡した。そして彼らがそれらを火に入れると、
それらはある型に形造られ、鋳造された子牛が出てきてそれに向かって祈った時:さあ
、私をほうっておけ。私の怒りは彼らに対して熱く燃え上がり、私は彼らを消滅させる
。そしてお前を大いなる民としよう」。:モーセは彼の神、主の顔をなだめ、言った。「
主よ、なぜあなたの怒りは燃え上がるのでしょう。あなたがエジプトの地から大いなる
力と強き手で導き出したあなたの民に対して・・・と言う。つまりモーセと違いアロン
は、偶像崇拝をして、神は許すのである。「お前を大いなる民としよう。そしてアロン
に対して主は激しく怒り、彼を滅ぼそうとした。そしてモーセはアロンのために祈った
。」のである。その後モーセは顔をなだめ言った。「主よ、なぜ あなたの怒りは燃え上
がるのでしょうか。あなたが強き腕で(エジプトから)導き出したあなたの民に対して
。とモーセも又神に、ちゃんと理由を示せ。と問いかけている。

227 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/30(土) 15:54:06.31 ID:u2WLc2T6c
イスラム社会のコーラン   282

 そもそも死海文書とはなんなのか?。そして、そこに書かれた予言とは何なのだろう
か?。死海文書を読み解くと、キリスト教発生の根幹にかかわるような重大な事実や、
イエス・キリストの正体がわかってきた。アロンにはアロンの杖と言う魔法の杖の伝承
がある。「 神が選んだアロンの杖は、『芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモ
ンドの実を結んだ。』」とある。実は日本のアルプスの山頂 アルプスの槍ヶ岳には、
太陽の神紋を持っている。誰が置いたのか、法師の杖とされるアーモンドの紋なのだ。
これは、日立のマークの盾に楕円の紋だ。五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)
が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業を行った。まずその初めに朝廷に祀られ
ている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の
起源とされている。この坐摩神は、磨裸神でありそれは男性器を神としている。対して
太陽の神紋はその相手である女性器を神とする紋である。つまりこれは大地や水などの
雄々しい雄叫びに女性がなだめる様な行為を行い、神の怒りを鎮める。と言う決意を、
ここに表しているのである。でそれが鎮魂できて第26代天皇として即位をされ越前を発
たれる時に、「末永くこの国の守り神とならん」と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮
めて旅立たれて行かれた。として足羽神社が作られた。足羽神社の御神紋は「三光(さ
んこう)の紋」といい、これは非常に珍しい紋章で、「日(太陽)」と「月」と「星」
を組み合わせて丸で囲んで標されている。天空に昼を輝かす太陽と、夜に全ての物を照
らし、命と力を与える月。そして闇夜でも方角の導きとなり、その不動の輝きから天皇
を象徴する星(北極星)としている。第14代仲哀天皇の皇后、神功皇后の三韓攻略の
御旗に描かれた紋にちなんでいるともいわれています。継体天皇も朝鮮半島の任那(み
まな)の援軍派遣に際し、同じ紋章を使っていた。といわれてもいる。つまり菊の御門
以前は月星太陽紋だったのである。いわゆる月星紋に輪を描けた紋である。壮大な宇宙
全体の大きな力に御威光の無辺を表し、まさにご神徳神に相応しい御神紋でと言う。

228 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/10/30(土) 15:55:33.46 ID:u2WLc2T6c
イスラム社会のコーラン   283

 メシア思想を持ちこんだクムラン教団の、死海写本と新約聖書を読み解くと、裸体僧
の修行僧の暮らしをしていた事が解る。ここに恐らくは出エジプト記から出でた奴隷層
は居を構えて生き延びたのだろう。そして交通の要所だった街にたまには買い付けやら
御布施をもらい寄進寄与で生きていたのだろう。そこの街が段々と進化し贅沢になり、
少し嫉妬しては、憎らしくなり、結局は終末思想を送り出した。この紀元前からの流れ
で現代まで生き続ける終末論は、NWO(新世界秩序/人口削減後の世界統一政府)を
言い説き、それを目指し、エルサレムを荒廃させ戦争させ、世の終わりを説きキッカケ
に、闇の勢力は大規模な世界戦争(人口削減戦争)を引き起こしてきた。フリーメイソ
ンやら、黒い教皇などの、いわゆる陰謀論とされる物も、一般の人には架空の話だが、
暇を持て余す貴族や王には、心湧き踊る未来よもやま話で、知の冒険活劇に違いない。
かの、予言者のアルバート・パイク(1809〜1891年)は、予言ではなく実行できる計画
書をつくり、ここ数百年の間、その計画通りに実行してきて、いよいよ最終段階・仕上
げがある、という事にした。そして新薬聖書はもとより旧約聖書も少しずつ書き換えら
れて世に広がっていく。申命記では「出エジプト記 32 章の金の子牛像事件」をモーセ
が語り直している。19:主が、お前たちに対して燃え上がらせてお前たちを滅ぼそうと
した怒りと、その憤りのために、私は恐れたが、主はこの時も私のことを聞いてくれた
。20:そしてアロンに対して主は激しく怒り、彼を滅ぼそうとした。私はその時、アロ
ンのためにも祈った。21:お前たちが子牛を作ったというお前たちの罪を、私は取って
火で燃やし、打って粉々につぶして塵とし、その塵を山から流れる川に投げた。…と。
これは不思議な記述である。金の子牛をアロンが作ったが、私が捨てさせて許しを乞う
た。だから命があるのだ。と言うのである。

229 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/11/09(火) 17:36:18.05 ID:7IleT0BJk
イスラム社会のコーラン   284

 終末の預言者を期待する時代が来た事は、明らかに申命記(18:15、18)や、新しい時に
当たり、マカベア第一書(4:46、14:41)に新しいモーセのような預言者的立法者を期待す
る言葉から現出をこの頃に見る。さしずめ聖書と仏教との融合でキリスト教が作られた
事を示している。モーセ的預言者の待望論は、キリスト教以前のユダヤ教において最も
鮮明な一般信仰の一つであったようだ。つまりは紀元前に旧約聖書を書く時に既に語ら
れ、信仰されていたと言う事になる。また、新約においてもこの消息を伺うことが出来
る。ヨハネ(6:14、7:40)特にヨハネ(6:14)の 5000人の給食の奇蹟においては、イエスは
マナの奇蹟を再現する第二のモーセとして描かれている。その後に、新約聖書とクムラ
ン文書との間に、重要な一致、類似、相違が記入されて出回ったと推定される。しかし
、類似や一致があったとしても、これが直ちに新約聖書がクムラン文書に拠っている。
ということとは限らない。しかし「出エジプト記」によると、神に選ばれたの一家族が
、ヨセフの死後、エジプトにおいて400年間にわたって 奴隷となりながら、膨大な数の
大家族(400〜600万人)とも言われる人口に膨れ上がり、神が その人々をそこから救い
出す。と言うまやかしに乗って「出エジプト」する物語を行い。僅か3人がイスラエル
、つまりカナンの地の中に入り、一人のみが子孫を持つと言う境遇である。300万人
に一人の生存率を、聖書は褒め讃えるのだ。その上に更にイエス時代に求めるのだから
狂信としか言いようがない。新約聖書には、パリサイ、サドカイの2派の他に、神の国
を待望するグループがいるとしている。すなわちバブテスマのヨハネグループ等である
。もちろん前2派の如くにまとまった1派ではなかったろう。メシア待望という終末的
な面においてのみ、大雑把に前2派と区別されている。エッセネ派はこのグループの中
に含まれていたのではないか。という説だ。ヨハネの福音書で、イエスの最初の弟子が
バブテストのヨハネであったとされる。ヨハネの弟子が、全てイエスの弟子となった訳
ではないが、イエスの伝道の時代に、ヨハネの弟子のグループは数多く存在していた。
そして、ヨハネのこの宗団は原始キリスト教の成り立ちでは、ライバルでもあった。

230 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/11/09(火) 17:36:42.14 ID:7IleT0BJk
イスラム社会のコーラン   285


 マンダヤ教の文書によれば、彼等はイエスの死後でも、ヨハネを、真のメシアと考え
て信仰していたし、イエスを偽りのメシアとも考えていたようだ。ヨハネの福音書は、
このような状況を背景としていたので、ヨハネの弟子は、イエスがヨハネの後に来たが
故に、ヨハネを上位と置くのに対して、かなり酷く反対した記述がある。福音書では、
イエスは創造の始めより存在した。と言ったが、ヨハネの前よりも在ったとも述べてい
る気遣いである。しかし又、福音書は、ヨハネは光ではなく真の光であるイエスを証し
せんとする為のものであった。と論じた。つまりわき役だからであって、信仰の中での
上位戦争をし、それを許さなかったのである。また、ヨハネ派とエッセネ派との関係に
おいては、双方とも儀式にこだわり、聖杯の水であるバブテスマ運動の中枢を担ってい
た。けれども、ヨハネは1回のバプテスマに対して、エッセネ派は何回も繰り返してい
た。とされている。又、エッセネ派のバブテスマでは、教団への強制入会も意味してい
たのである。バプテスマ、即ち洗礼の儀式は、キリスト教の礼典の一つであることで、
バプテスト教会を含むプロテスタントが用いるが、当時に本当に今の形だったかは、大
きな疑問だろう。修行僧、つまり当時に裸僧にとって、布施を乞うのが一般的で、金を
与える一般人に、功徳の行いとして優位に貰う立場は、変える事は出来ない秘儀だった
ろう。やっと苦しい苦行の過去の世界から人々の救いの御経や経典の僧が、またくいっ
ぱぐれの世界に戻る事になる。それは貧民の暮らしに戻る事になる事を意味し。それで
は苦しすぎる。そこで修行僧のエッセネ派は大きく支援者取り込みに動いて、金を稼い
で生き残る形だろう。かつての天下一下の会のネズミ講である。信じれば救われる式で
何回でも気が済むようにように信者に洗礼を施したのである。

231 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/11/09(火) 17:37:09.72 ID:7IleT0BJk
イスラム社会のコーラン   286

 だがエネッセ派のそれに対して、ヨハネの運動は個人的であり、今で言う、茶会やテ
ィパーティの様な富裕層の選挙戦の後援会クラブの様な物だった。宗団をなさず、規律
も設けない主義だった。ヨハネは確かに弟子を集めて、祈りの場を与え、訓練をなした
。しかし、それはあくまで旧約聖書を信仰と言うより学習の場としての教育施設の様な
計らいだったと思われる。宗団の様な、強制集団行為や加入攻勢をさせる様子はなく、
あくまでも穏やかに「平和の持続」と街の周辺まで「知識や教養が溢れて豊かな暮らし
」が出来る様に 守っていた宗教と言える。ブッダが生まれたのはこのキリストより少
し前だ。ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)が生まれたのは、紀元前五六〇年頃(諸説有
)とみられる。現在のネパールとインドの国境付近にあった カピラヴァットゥという
シャカ族の小国家の王子だったが、ある時出家する。この頃も衣一枚の裸形僧や裸体僧
は数多く流行してた。と言うより、ちゃんとした衣服その物が無かった時代の僧の決ま
りとも言えるかもしれない。グノーシス主義は、そうした中で、紀元前後、特に紀元後
2世紀頃に中東で発展した、ある特徴を持った宗教の総称である。その特徴とは大まか
に言うと霊の存在であった。曰く「この世界の創造神は無知な悪神、否定的な存在であ
る。人間には、この世界の外にある『光』が一部残されている。知識(グノーシス)を得
たものだけがこの世界から逃れられる。」と言う物だ。その起源はイランのズルワーン
教だとか、新プラトン主義だとか、密儀宗教だとか、ユダヤ・キリスト教だとか色々な
説がある。が、とにかく、この宇宙、そして宇宙の創造神を否定的に見ていることが他
のどの宗教とも違った異様な特色である。「この世からの解脱を目的」とする仏教には
、けっこう近い信仰だ。だからといって、人間まで否定的に見られているわけではなく
、人間のなかには、「光のかけら」と呼ぶ宇宙に属する「肉」や「魂」とは対比されて
「霊」といわれる物があるから、私たちは世界の真実を「知る」ことによって、この悪
の世界から「光」へと戻ることができるのである。と言う教義である。

232 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/11/17(水) 16:45:33.10 ID:noSg/3fQ2
イスラム社会のコーラン   287

 2世紀頃は勢力を伸ばしつつあったしたキリスト教グノーシス主義派(マルキオン、
バシレイデス、ウァレンティノスなど)は、同じ時代に、ローマ帝国を中心として力を
つけて行くキリスト教正統派(後のカトリック)と激しく神学論争を繰り広げ、そして
結局は消滅してしまった。3世紀半ばに誕生したマニ教では、イランから中央アジア、
そして中国へと勢力範囲を伸ばしていったが、結局8世紀ごろに廃れてしまった。ただ
しマニ教の教えそのものは、中世ヨーロッパ時代のボゴミール派(ブルガリア)、カタリ
派(フランス南部)に強く影響を与えている。このどちらも正統派キリスト教会と激しく
論戦をはり、激しく弾圧されて、そして消えていった。ユダヤ教の「異端」から派生し
たと考えられているマンダヤ教(またはマンダ教)だけは、キリスト教の影響はほとんど
なく、現在でもイラクで細々と、小さな集団が生きながらえているようである。湾岸・
イラク戦争後の現状で、若者が随分と離村して行っているが、現代の哲学や思想にも、
グノーシス主義的なものは多い。紀元前後中東のグノーシス主義と系統的なつながりが
あるわけではないので少し型破りだが、このマンダ教文書から、キリスト生誕の歴史が
見える。マンダ教徒の使うマンダヤ教の文書はマンダ語で書かれていて、セム系言語(
東アラム語)で、「マンダ(manda)」とは その言語では「知識、認識」を意味するも
のだ。なので日本語の曼荼羅と同じなのかもしれない。日常的にはアラビア語を用いて
いる民族だが、宗教文書は全てマンダ語で書かれ、最大の教典は『ギンザー(財宝)・
ラバ』と呼ばれる。その中に『ヨハネの書』、典礼集『コラスター』というのも存在す
る。文書に描かれる象徴画は、独特の印象を抱かせるものである。創始者はマンダ教の
伝承ではザザイ(Zazai-d-Gawazta:一〜二世紀頃)とされる。

233 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/11/17(水) 16:45:55.07 ID:noSg/3fQ2
イスラム社会のコーラン   288

 彼らは、イラクの南部に少数の信者が現存し、またアメリカ合衆国やオーストラリア
にも、コミュニティが存在する。信者数は正確な統計がないが、総計5万から7万人と、
推定されている。現地での信者はイスラム教徒に比べ少数で、報告された数では1977年
に15,000人(K・ルドルフ)、1986年に5000人(C・コルベ)、1991年に2000人(上岡弘
二)といわれ、今も尚厳しい状況下に置かれている。21世紀初頭前後の度重なる戦災に
より、隣国イラン・フーゼスターン州のカールーン川流域に5千人から1万人が集団移住
し、信仰をやっと維持している。このマンダ教徒は今日もイラク南部の大湿地帯から、
アラブ系住民の多いイランのフーゼスターン地方にかけて分布する。現在のイラク情勢
に関する文脈で登場するサービア教徒は、おおむねマンダ教徒のことであるという話だ
。イエス・キリストの先達である洗礼者ヨハネを指導者と仰ぐことから、イエスが洗礼
を受けたヨルダン川との繋がりが指摘され、キリスト教の起源に近接したものとして、
注目されるようになった。日曜日を安息日とする。教義が変わっていて、グノーシスに
にて、典型的なグノーシス的二元論で、光の世界の下等神プタヒルが自らを創造主であ
ると錯覚し、闇の世界の助けによって、地上と人間を創造したとされる。闇の世界では
物質から作られた人間の肉体は闇に属しているが、それだけでは動かなかったため、光
の世界に起源を持つ魂がプタヒルにより封入された。これらの所業により、プタヒルは
光の世界の最高神から追放を受けた。とされる。アブラハム、モーセ、イエス、ムハン
マドなどを、闇の世界から送られた偽の預言者とみなし、人類最初の人間であるアダム
とエヴァは、同時に誕生したとする。最高神の命を受けたアベル、セト、エノス、洗礼
者ヨハネが、真実を伝えようとしていた。とする。またエジプトでモーセを迫害した、
ファラオを正義の王としている。イスラーム支配下に置かれた後は、啓典の民としての
体裁を整えるために、洗礼者ヨハネを教祖に仮染にも位置付けている。マンダ教自身が
安全保障上の理由でサービア教徒を自称したか、もしくはイスラーム側の誤解によって
いつしかサービア教徒と見なされるにいたったのか不明だ。

234 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/20(月) 13:15:17.55 ID:pL7sgef/7
やっと 戻って来た・・・・・んだが

235 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/20(月) 13:16:00.86 ID:pL7sgef/7
イスラム社会のコーラン   289

 中世のビールーニーの著作のひとつでは、マンダ教徒をサービア教徒と見なしている
。ここでは、死後の魂は、第3位の神アバトゥルの審判を受け、認められると光の世界
に帰ることができる。世界の終末には、エノスがイエスと対決して打ち破って、地上と
惑星は地獄に落ちて世界が浄化される。と終末を説いている。洗礼儀式に関しては天界
の水は、地上では「活ける水」すなわち流水として流れている。として流水による洗礼
や信仰儀礼の遵守を生きているうちから行うことによって、死後光の世界に帰りやすく
なると説く。その意味で洗礼はキリスト教のように一回限りのものではなく、何度も行
うものである。当初の教義では天界の水はヨルダン川に注ぐとされていたが、現代では
マンダ教徒はユーフラテス川などをヨルダン川に見立てて洗礼を行っている。マンダヤ
教などのグノーシス主義では、宇宙を取り巻く世界には、世界を覆う蛇の役割を果たし
ている悪魔がいる。レヴィアタンであるが、一方のマニ教などのの聖典『巨人たちの書
』においては少し異なる。どちらかというと伝説や民話的な位置づけがなされている。
 『巨人たちの書』は、開祖マニが書き記した9つの書物のうちの一つで、もともとは
シリア語で書かれていたらしい。それは中世ペルシア語とパルティア語ではカワーン、
コプト語ではトグラフェンギガス、プチョーメンギガス、プチョーメンサラシレ、アラ
ビア語ではシフル・アルージャバービラ、中国語では倶緩(カワンの音訳)と呼ばれる。
『巨人たちの書』は、幻想動物という視点から見るとマニ教の聖典のなかでもひときわ
面白い内容を有している。根本的には、物語は旧約聖書『創世記』の次の下り(第6章第
1〜4節) に由来する。「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、
人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。……当時もその後にも、
地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた
者であり、大昔の名高い英雄たちであった。後にこのネフィリムは巨人であるとされ、
そして「神の子」は天使であるとされた。

236 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/20(月) 13:19:26.70 ID:pL7sgef/7
イスラム社会のコーラン   290

こうした、他宗徒が良く歴史を記録してる事は多々ある。特にイラクにおいては、かな
りの宗教の坩堝であった。その中に巨人族もいた。たとえば聖書内でも、『民数記』第
13章にはネフィリムの子孫が大きかったということは明確に書かれている。おそらく、
もともとの神話のなかでもネフィリムたちは巨人だったのだろう。仏教にも仏陀は巨人
族で、大きな体格であったらしい。紀元前560年の昔に、人間関係のイザコザはあっ
たた。2500年前も前でも、ブッダとその弟子たちは、「僧伽(さんが)」という森の住民
の集団を、形成して修行に励んでいる。そうした中で、妬くも恨みも買っている。一般
的な山の暮らしで、鶏や兎ぐらいは飼っていただろう。が、しかし、農業や牧畜などの
集団内での 生産活動の痕跡はなく行っていなかったとされる。生きていくのに必要な
最低限の物資は布施などによって支えられていたのである。王様や富豪たちから土地の
寄進を受け、山の木の実や、どうしても食べれない時には教会寺院に立ち寄り施しを受
け修行暮しが続けられる仕組みである。施(ほどこ)しを受ける中で、悩みごとの相談も
受け、姓名診断や星占い足りない人手の補充、子守りや、話し相手、家族内改革など、
多くをやっていた。こうした暮しは、戦後の山の開拓の暮らしと何ら変わらない。自立
支援であり、夫婦が山で野菜作って暮し、猪肉で暮らしていて、時々山を降りて布施を
もらって街の買い物をしたのでしょう。日本でお遍路が残っているが、TVが普及して
村の寄りが無くなっていったが、ブッダや弟子たちのまわりには、僧俗を問わず、さま
ざまな人たちが集まって来て、話を聞いていた。そうした中でも、人間関係のトラブル
も、しばしば発生していたようである。有名な逸話としては、「美男子ゆえにそのモテ
っぷりが群を抜いた」のがアーナンダだったが、それは修行の妨げになった。というも
のだった。アーナンダは仏陀の叔父に当たる。従兄弟とも言える。この頃のインド宗教
は、ヒンズー教を含めたカーストピラミッド世界の教えである。

237 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/28(火) 11:56:05.38 ID:6T6HgmeTo
イスラム社会のコーラン   291

 ダイバダッタは 釈迦族教団のブッタが率いる集徒や門徒の乗っ取りを画策していた
。名僧の名を大きくする為に行動するので、アーナンダと共に疑惑と嫌悪感を持ってい
た仏陀で、最後の最期にの頃はそう思って接した。そうした話が綴られている。「仏説
観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)」のお経の中には、マガタ国(紀元前
413〜395年)という国で起こった、親子間の争いの話が語られている。シチュエーショ
ンこそ違うだけで、問題の本質は現代と何も変わってい無い事がわかる。ブッダには、
直接教えを聞くことができた時代でも、トラブルが起こっていたのである。こうした、
仏自身の声であっても、嫉妬や欲望に駆られた人間の耳には入らなかったということを
物語っている。仏典上の摩訶陀国は 紀元前800年頃から、ガンジス川の下流域(現在の
ビハール州辺と北ベンガル)に位置し繁栄した国である。この地域にアーリア系の住民
が浸透して、インドにおいて、ちょうど鉄器時代が始まりった時期で、当時インド大陸
で最大の鉄鉱石の産地である。ガンジス川を介した水運と森林資源が存在したこの地方
は、急激に発達した。一説には鉄器はここは他から技術の輸入がなくインド発祥かもし
れない。とも言う学説もある。紀元前2000年前ぐらいの層に硝子や鉄などの塊がすでに
発掘されているからだ。ともあれ、マガダ国の起源は、バラモン教文献に伝説的な説話
が残されている。クル族の大王のヴァスが、5人の息子に領土を分割した時に、長男の
ブリハドラタがマガダ国の統治者となった。としている。プリハドラタが創設した王朝
はブリハドラタ朝は、インドの二大叙事詩の1つといわれる『マハーバーラタ』の王朝
物語で出て来ており、後継者ジャラーサンダ王やサハデーヴァ王等の王達は主要な登場
人物である。とされる。マガダ王の中で釈迦にまつわる説話で登場するビンビサーラ王
やアジャータシャトル王の時代、隣国アンガ国征服などを通じてマガダ国が大きく拡大
し一大勢力となった。

238 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/28(火) 11:57:26.50 ID:6T6HgmeTo
イスラム社会のコーラン   292

 実は仏教もヒンズー教も拝火教もジャイナ教も一括りの、バラモン教の中にある。こ
こでバラモンと言うのが不思議な宗教である事をちょっと知らねばならない。バラモン
とは、ヴェーダを権威とする宗教を指しヴェーダの宗教とされる。古代インドの聖典の
ヴェーダ群を起源とする書物や物語で、その伝承宗教が、ヒンズー教であるとされる。
ヒンドゥー教は、広義ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて
、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるという。アーリア民族
のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統全部を指すとまで言われる。ヴェー
ダ教は、仏教以前に存在したバラモン中心の宗教をバラモン教、バラモン教のヴェーダ
時代の宗教思想をヴェーダ教と呼んでいる。ここでアーリヤ人の聖典である4ヴェーダ
の一つで、最も古いとされる聖典である事を記録しておきたい。リグは「賛歌」をいい
、ヴェーダは「聖なる知識」を意味している。紀元前1200〜1000年頃に編纂さ
れ、「神々に捧げられた美しい賛歌」をサンスクリットの古い言葉であるヴェーダ語で
伝承されてきている。インドに侵入してきたころのアーリヤ人の社会を知る上での唯一
の資料となっているものの、このサンスクリット語が難解とされる。また、インド史で
ヴェーダが作られていた時代はヴェーダ時代と言っているが、『リグ=ヴェーダ』で語
られる前1500年〜前1000年頃を前期ヴェーダ時代。『リグ=ヴェーダ』を中心
とするアーリヤ人侵入後の宗教儀式を発達させて、ヴェーダを暗唱し儀式を司る、祭祀
階級が成立し、バラモン身分が最上位に置かれるようになった時代をバラモン時代とさ
れてヴェーダ時代とは分けている。そして彼ら祭祀が司る宗教がバラモン教である。こ
の宗教は日本にも伝わり、リグ=ヴェーダの神々はその後漢字に代えられ日本の中に、
に色々とある。

239 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2021/12/28(火) 12:04:36.89 ID:6T6HgmeTo
イスラム社会のコーラン   293

 しかし、リグ=ヴェーダに登場する神々には、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター
』の神々やギリシア・ローマ神話の神々と共通するものが多い。天神ディヤウスはギリ
シアのゼウス、天空と友愛の神ミトラはゾロアスター教の太陽神ミトラに相当する。又
その神々は仏教に伴い、わが国にも伝来に及んでいる。軍神であり雷神であるインドラ
神は仏教世界を守護する帝釈天、河神(女神)サラスヴァティーは弁財天、地獄の支配
者ヤマは、闇王や閻魔大王などだったり、ナラカ・ナラクは、奈落という日本語が生ま
れた。などとなっていて、今でも民間信仰の対象になっている。 アーリヤ人というの
は、良く言われるが、定義すらよくわからない。しかし、インド侵入のアーリア人は、
自然現象に神秘的な力を認める信仰を持ち、「天・地・火・太陽・風雨・雷・川」など
を 神として崇拝する多神教であった。彼らの有する最古の聖典をヴェーダ(本来「聖
なる知識」を意味する)と言い、リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァの四集から成っ
ていた。その中でも最も古いものがリグ=ヴェーダである。リグ=ヴェーダ、サーマ=
ヴェーダ、ヤジュル=ヴェーダはいずれも神々の伝承であり、アタルヴァ=ヴェーダは
呪術を伝えている。リグ=ヴェーダはアーリヤ人がインダス流域に移住した前1500
年ごろより後の、前1200〜前1000年頃に編纂され、他の三ヴェーダはガンジス
川流域に移住した前1000年〜前500年頃に作られた。とされている。ある意味で
は、言葉が産まれた頃からの伝承を集めて出来た、最初の詩集や物語とも言える。ヴェ
ーダの聖典(文献)は、4種類あり、それに付随する文献が3種類ある。それぞれに、
役割を持つ流れを持っている。もしヴェーダ=上意や天意とするなら、リグ=理・具と
訳され、サーマ=様、模様、ヤジュル=夜知る・闇智慧とでも言えるだろう。

240 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/11(火) 23:46:32.17 ID:AK4IumQMu
【ブリュッセル=畠山朋子】欧州連合(EU)のダビド・サッソリ欧州議会議長が11
日、イタリア北部アビアノの病院で死去した。65歳だった。昨年から体調不良で入退
院を繰り返しており、12月下旬から免疫機能障害による合併症で入院していた。
 伊中部フィレンツェ出身。イタリアで記者、テレビキャスターとして活躍後、政治家
に転身し、2009年に 欧州議会議員に初当選。中道左派の会派「社会民主進歩同盟
(S&D)」に所属し、19年7月から議長を務めていた。今年1月に任期満了の予定
だった。AFP通信によると、欧州議会は来週にも次期議長の選出投票を行う。

彼は 投票に際して人気度NO1で40%の得票数だった。その上一番若い。・・・・
ちょっと信じられない。TVアンカーマンのキャスター議員の死である。又中国か??

241 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/18(火) 15:27:03.92 ID:fQFPe+E1g
イスラム社会のコーラン   294

『リグ・ヴェーダ』は、叙事詩で、紀元前10世紀頃に編さんされた最初の聖典である。
『リグ・ヴェーダ』は古いサンスクリット語で書かれていて、1,028篇の詩から成り、
10巻に分かれた長い大著である。紀元前1200年頃を中心に賛歌が作られたと考えられて
おり、インド最古の文献で、その中には暴風雨や太陽などの自然現象を神格化した多数
の神話上の神々が登場し、神への賛歌の他に婚礼や葬儀など儀礼の際に詠う詩も収めら
れている。その中にノアの箱舟やアダムとイブ或いは天地創造の聖書が物真似の物語で
ある事が解る部分が多々書かれている。『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』
が他にある。『リグ・ヴェーダ』は、次いで古く祭詩の集成である『ヤジュル・ヴェー
ダ』と、歌詠の集成である『サーマ・ヴェーダ』が編さんされた。この二つは祭祀を取
り持つ御経の位置付けががなされる。『リグ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『サ
ーマ・ヴェーダ』は三ヴェーダとして大きな権威を持って、その中身まで指定した文献
といえる。『アタルヴァ・ヴェーダ』は他の三ヴェーダよりやや遅れて紀元前1000年頃
に呪句の集成である『アタルヴァ・ヴェーダ』が編さんされました。ヴェーダのサンヒ
ター(本集)に付随する文献では、ヴェーダは主要部分を「サンヒター」といい、一般
にヴェーダという時はこれを指します。サンヒターに付随する文献が、紀元前 800年頃
前後から紀元前500年頃に成立しました。
ブラーフマナ (祭儀書):祭式の規定と祭式の規定の神話的解釈を与える文献
アーラヌヤカ (森林書):人里離れた森の中で伝授される秘儀的祭式や教義を説く文献
ウパニシャッド(奥義書):宇宙の原理や人間の本質に関する哲学的な教説
こうしたヴェーダから生まれたのが、ウパニシャッド哲学だとされる。

242 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/18(火) 15:27:39.37 ID:fQFPe+E1g
イスラム社会のコーラン   295

 ウパニシャッド哲学は「ヴェーダ文献の総仕上げ」とされる。この奥義書とも呼ばれ
るウパニシャッドは、ヴェーダ文献の総仕上げとしての最終部門で、祭式主義から主知
主義への移行が表れた哲学的教説である。オウム真理教での大きな治験はこの主知主義
との闘いである。主知主義は感性よりも知性や理性の働きを重視する考え方のことです
。ウパニシャッドの最古の文献は紀元前六世紀頃に成立している。ウパニシャッドは、
婆羅門(バラモン)の哲学者が編さんし、婆羅門文化以外の諸民族で信仰や呪法が取り
入れられて、雑多な思想と見えるが、このインド発祥で他に盛り込まれた。とも言える
。思想の中心はブラフマンとアートマンの合一説「梵我一如」であり、その思想の中心
は、宇宙原理(宇宙我)である「ブラフマン」と、個体原理(個人我)にある。「アー
トマン」の合一説「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想で結実する。業と輪廻の教説
でもあり、仏教が興隆する以前に成立していたものだ。ウパニシャッドを研究している
「ヴェーダーンタ学派」は、ヴェーダ聖典の教説を 統一的に解釈しようとするのが、
ヴェーダンタ学派だ。ヴェーダーンタとは「ヴェーダの最終」を意味し、ヴェーダ聖典
の最終部のウパニシャッドを研究する学派のことをヴェーダンタ学派と呼んでいる。私
が高校の頃は、ブラフマンとアートマン我の、外世界と内世界の統一は、精神世界の中
の主要部分と解説されていた。1世紀頃のバーダラーヤナの開祖で、宇宙の根源原理の
ブラフマンを、唯一の実在とする一元論を確立した『ブラフマ・スートラ』は5世紀頃
に出来上がった。ヴェーダーンタ学派の哲学者としてシャンカラが8世紀に著書を残し
ているが、シャンカラは、人間は無知を原因として輪廻を続けている。説に固執して、
、現象世界に実体はない。として仏教の中観思想につながる思想を持って布教している。

243 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/27(木) 16:12:45.17 ID:dddcqs3J7
イスラム社会のコーラン   296

 こうして、旧来の「輪廻」と「業」の思想の原型が固まって、仏教にもみられている
「輪廻(りんね)」と「業(ごう)」の思想は、王族から婆羅門達にとって、口伝伝授
される。という形でウパニシャッドにおいて はじめてのその定形源流となって行った
。輪廻の説では、善悪二元論からの、二道説が説かれ、人が死んで光の道を行った者は
月を経て不死の世界に赴くが、闇の道を行った者は雨となって再び戻ってくる。として
、前者が神の道であり、後者が祖霊の道である。と説く。これが輪廻説の原型ですが、
次第に不死のアートマン哲学と結びついて、枝葉が付き、真理が探求されてゆきます。
さらに、輪廻説は深化して、人間は自らの行いの善悪に応じて その果報を受ける。と
いう因果応報論で、「業」の思想の原型もウパニシャッドの中にも現れます。業の思想
もアートマンと結びつき、後の哲学諸派の学説の基礎が築かれた。インド二大叙事詩の
『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が成立が、紀元前2世紀〜2世紀の間であったが、
インド二大叙事詩である『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』もそれによって成立し
ている。吟遊詩人によって民間に伝えられていた戦争や魔王を征伐する物語が整理され
、400年頃に、こうして 物語は継ぎ合わされて、現在の形に整いました。『マハーバー
ラタ』は王位継承をめぐる争いの物語を骨格として、話は進むが、様々な神話や哲学的
、宗教的教説などを盛り込んで進む童話となっている。全体の思想としては、ヴェーダ
時代とは異なり、この時代に婆羅門教から、ヒンドゥー教への移行が見られたと言われ
る。『マハーバーラタ』に収められた宗教詩である『バガヴァッド・ギーター』では、
神を称え神を信じる者は、行いや生まれの貴賤にかかわりなく「神の恩寵」によって、
解脱に至ると約束されると説かれ、今日まで愛誦され続けている。これはどう言う事か
と言えば、神は存在しないとするか存在してるが見えないものと考えるか自由だが、こ
こで神を信じる者は、神が見ている。と言う事になる。と言う事は悪い事は因果応報と
して捉える事で、善処を自分に強いるからだ。ここに解脱がある。善き事をする。困難
があっても壁があっても善き事を信念をもってする。それが社会をつくるのである。

244 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/27(木) 16:22:10.43 ID:dddcqs3J7
イスラム社会のコーラン   297

 こうして婆羅門のしきたりから外れる流行で ヒンズー教に移って行くのだが、ここ
にその掟に反対する宗派が仏教だった。ブッダが「仏教」を興していくが、王子の座を
捨ててまで入信して苦行を積む理由は、家長制度にあったようだ。およそ戦争や紛争と
言うのは、単なる領土争いや宗教争いではない。雌雄を決する権力争いで、生死を分け
た身分争いである。言わば凄惨な兄弟げんかとも言える。第一次世界大戦で、ロシアの
皇帝もイギリスの皇帝もドイツもスペインも皆んなが縁戚状態、つまり従兄弟繋がりで
領土争いし、その後に第二次世界大戦をしている。此の因果応報が今の世界史にある。
自由思想家として仏教を興したゴータマ・ブッダは 紀元前500年頃に生まれた。ブッダ
は、アートマン(自己)を形而上学の実体とみなして、諸学派が論争が繰り広げていた
当時の状況を否定し、真理を求める実践的な理法を説いた。理想世界を説くのに現実の
世界に実践する。この事は、戦争でも発明でも行われる行為だが、あらためて人の行動
が、その前に思想や考えが導く動きや活動である。と思い知らされる。それでも、なか
なか一筋に貫く事は難しいし、特に思想を説くと言う事での生活を維持するのは、特に
難しいのだった。仏教はアートマンを否定した無我の立場で輪廻と業の思想を説きまし
たが、アートマンの思想の否定は、当時の人々にとって画期的なものでした。仏教では
自由思想の新しい思想集団として立ち上がっていったのです。この新しい考えに共感し
ていたとしても、最低十数人のパトロンつまり支援者を持たねば食っていけないのであ
る。こうしてバラモンとされるインド慣習は、頑なにカ−スト制の身分差別ピラミッド
を守るヒンズーと、その醜悪な権力を批判する仏教と、更に宗門のしきたりを一切排除
して自然主義、無殺生主義のジャイナ教とに分かれて行った。キリストが産まれる前の
インド・パキスタン或いはアフガンでの話である。特に今回爆破されたバーミヤン渓谷
の石窟像は古代以来の都市で、この分化した頃のバラモンの中心とされる。

245 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/27(木) 16:23:08.82 ID:dddcqs3J7
イスラム社会のコーラン   298

 では、実際のところ、ブッダは人間関係についてどのように考えていたのだろうか。
基本仏教は「悪い友と交るな。卑しい人と交るな。善い友、尊い人と交(まじわ)れ。」
である。『ウダーナヴァルガ』第25章3節には、シンプルに、力強い言葉で、こう言う。
きっとブッダも、悪い友や卑しい人に苦労させられた。そうでなければ、こんな実感の
こもった言葉は出て来ないと思われる。ここに重要なポイントがある。それは、ブッダ
が「気の合う人とだけ、つるんでいればいい。」とは言っていないことです。私達は、
自分と気の合う人、つまり自分と似た意見を持つ人を肯定的に捉え、「善い人」と考え
がちである。しかし逆に、気の合わない人は「間違った人」として遠ざけられ、その人
自身に対しても、否定的な見方をしてしまうところがある。しかし、自分自身の意見が
必ずしも正しいとは限らない。人は間違いがあるのが常だ。貴方が無自覚の内に、邪な
考えを、色眼鏡や偏見で正しい判断だ。と考えているとしたら、気の合う人もまた、邪
な意見を持っている人になっているのが現実だ。それならば、耳が痛くても正しい意見
や違った意見をしっかり聞いて、それを言ってくれる人の話を聞いて考察すべきなのだ
。私たちは、物事を自分の都合のいいようにねじ曲げて捉えてしまう。これは人間にあ
る様々な仕組みから本能的な防御システムだ。だから、実は「自分は正しい」と思って
いる時こそ、落ち着いて考えてみることが必要となる。それでも思い違いや情報の曲が
りや油断などに遭遇して心に隙が生まれると、ブッダの言葉でさえ自己肯定や言い訳に
利用されて間違いの道に突き進む。気の合う人と過ごす時間は愉快で快適だ。何より楽
で、多少うるさく感じる友こそが、あなたの本質をよく知り必要な気付きを与えてくれ


246 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/01/27(木) 16:23:29.07 ID:dddcqs3J7
イスラム社会のコーラン   299

 本当に必要なのは「気が合わない人」が大事なのはブッダも知っていただろう。この
仏陀の示したのが「卑しさ」の醜さである。ブッダが残した言葉の中には、短くて簡潔
なものが多くあります。けれども、その背景には深い意味が込められている。ここから
、その事についてまず言えるのは人生や生きる事の本質である。ブッダが言う「卑しい
」という事ついては、『スッタニパータ』の「蛇の章」で詳しく語られている。この章
の背景は、以下の通りです。托鉢をしていたブッダが、火を崇(あが)める司祭の家を訪
れた。そこには聖火が灯され、多くの供物がそなえられていた。近づいてくるブッダの
姿を見ると、司祭は、「卑しい奴め、聖なる火が汚れるからこれ以上近づくな!。」と
横柄な態度を取ります。ブッダの 質素な身なりを見て、見下したのである。すると、
ブッダは応える。「司祭よ、あなたは卑しい奴と言うが、そもそも卑しい人とは何か知
っているのですか? 人を卑しい人たらしめる条件を知っているのですか?」これには
司祭もたじろいで、こう思ったでしょう。「この人はタダ者じゃない!」と。ブッダに
諭(さと)されて、さすがの司祭も素直になった。「ブッダさん、私は人を卑しい人とす
る条件を知りません。どうか、私に教えてくれませんか。」そして、ブッダは卑しい人
の条件について語る。ブッダは、この教えを請われて初めて冷静に語り出すのですが、
普通は絶対に無理である。最初の発言で怒り、即座に言い返してケンカになる。ただ、
よく考えてもらいたいのは当時、つまり高々千年前でも、食べる物は充分でなく衣服は
特に不足し、家については洞窟に暮らしているのは一般的であったのだ。今や五輪の為
のダイニングセンターで食材が浪費されたとされるが、より以上に浪費されたのは建物
である。いつからこんなに日本人が勿体ない事をして来たのか知らないが、古今の議員
の放伐な無駄予算は目に余る程のものだ。いずれは耐用年数が来て消える物をわざわざ
資金を掛けて壊し、ちょっと一部を使ったから志摩サミット会館のように再資源化した
なんて嘘は止めて欲しい物だ。

247 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/10(木) 00:36:09.76 ID:H5UPQ4gBk
イスラム社会のコーラン       300

 ところで、此の様に、ブッダは自分が答えを持っているとわかっている。その時でも
、その答えをむやみに振りかざしたりはしません。相手が受け取ってくれるタイミング
をしっかりと見極めて、粛々と説いたのである。仏教では、教えの中身もさることなが
ら、この「(タイミングを)見極める」という姿勢を大切にしている。いくら正しい事
を言っていても、それがまっすぐに伝わらなければ意味がないからだ。タイミングを、
間違えてアドバイスをすれば、それは相手にとって嫌味なお説教になってしまう。それ
を聴きたいと思った時に替えて卑しい人の条件を話したのである。怒りやすくて恨みを
いだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、彼
の人を賤しい人であると知れ。と言ったのである。『スッタニパータ』で、自分をほめ
たたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、此れを賤しい人であ
ると知れ。『スッタニパータ』は、実際は尊敬されるべき人ではないのに尊敬されるべ
き人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である。かれこそ実に最下の賤し
い人である。わたくしがそなたたちに説き示した。これらの人々は、実に〈賎しい人〉
と呼ばれる。この他にも『スッタニパータ』の「蛇の章」で、卑しい人を説明する言葉
がいくつも出る。この場で紹介することはできませんが、「ああ、こんな人、いるなぁ
」と納得すること間違いなしで言う。自分こその基準が正しいと信じる怖さ、ここで、
ちょっと疑問が出る。なぜ、ブッダはこんなにも悪い人の特徴に詳しいのか。それは、
悟りに至る過程で人間の心の作用を深く観察したから。とされる。ブッダをブッダたら
しめた所以(ゆえん)の1つは、この観察による客観性であった。

248 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/10(木) 00:37:11.45 ID:H5UPQ4gBk
イスラム社会のコーラン       301

 死海文書描かれた知恵の木、エディヌの庭園。シンエヴァで登場した死海文書と思わ
れるものは、シュメール、メソポタミア文明で作られた楔形文字(くさびがたもじ)で書
かれている。アダムスや人類、書物に描かれたもののデザインが、シュメール、メソポ
タミア文明に登場する神々のレリーフと同じように描かれています。@知恵の木、特に
死海文書後半のリリスと思われる存在の足元に、よく見ると二つの木の実が生えた木、
見上げるヒトがかかれています。これは知恵の木であると考えます。生命の木は、死海
文書の序盤ですでに登場しており、木の下に、翼の生えていないヒトと思われる存在が
いる。そして、このシーンでは、よく見ると最低でも4人。存在しています。アダムと
イヴ以外にも人がいたという事です。つまり知恵の実を食べるシーンは、単純に聖書に
書かれたままのシーンではない。ということを示すものだ。また、アダムとイブ、知恵
の実を食べてしまうエピソードの失楽園には、シュメール神話が、元になっていると言
われています。シュメール神話には、ニンフルサグという植物、大地の女神がいます。
角のついた頭飾りをつけ、段々のスカートをまとい、つながれたライオンの子を伴った
姿で書かれることがある。ニンフルサグのレリーフに描かれた木は、シンエヴァで書か
れた知恵の木とそっくりです。エデンの園とイブの話はシュメール神話を元にしている
と言われている。リリスの足元の聖書の挿し絵でも複数人、エデンの園にいたことから
も、聖書のエデンの園に加えてシュメール神話のエディヌの庭園での出来事が融合され
ていると考えられます、

249 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/21(月) 22:32:16.92 ID:8btN7P28e
イスラム社会のコーラン       302

この絵にえがかれています。それは足元にライオンがいるということです。これはシュ
メール神話の大地の女神ニンフルサグの特徴と一致するとともに、金星、愛、豊穣、の
女神イナンナと一致します。イナンナもニンフルサグ同様の特徴を持ち、つながれた
ライオンの子を伴ったレリーフが有名です。イナンナは後にバーニーの浮彫というレリ
ーフでリリスと共にモデルとされました。しかし、イナンナの有名なエピソードである
「イナンナとフルップの樹」ではイナンナが育てた生命の木にリリスが、住み着く話が
あり、明確にイナンナとリリスは別の存在として、登場している。またニンフルサグの
夫であるエンキは知恵をつかさどります。人間に肩入れすることが多く、下半身が蛇で
えがかれることもあり、リリスと同一と扱われる事があります。ニンフルサグの場合も
イナンナ同様に明確にリリスとは異なる存在となります。他にも「イナンナとフルップ
の樹」ではライオンの頭を持つワシの怪物「ズー」が登場します。少し見えにくいです
が初号の絵の後ろに羽の生えた生物がいることからこれがズーを表しているならますま
すイナンナがモデルの可能性が出てきます。初号窟にはニンフルサグ、特にイナンナを
意識的に模している可能性が高いと考えられ、その場合 明確にリリスと異なる存在で
あると言える。またニンフルサグは全ての生物の母として知られ、イヴ=エバ、と同じ
人間と言われています。もしも初号の絵で「リリス」を表したいのであれば、エンキ、
エンリルなど他の神の方が適切であった。と言える。初号の絵が示す者、イヴ又はエバ
の存在とアダムと関係ありそうなアダムス5人と、対極の位置に描かれていることから
、初号の絵はリリスではなく「イヴ」つまり「エバ」を明確に表している可能性が高い
と言われる。死海文書で、人類の後ろに神の姿として「イヴ又はエバ」が書かれている
ことから、エバは人類の味方をする神であると死海文書を見た人はとらえたはずです。
葛城博士がゴルゴダオブジェクトの中に人類を救済することができる虚構の神がいる。
と予測するならば、名づける名前はアダムスでもリリスでもなくエバ(イヴ)である。な
のでエヴァイマジナリーという名前をつけたのではないでしょうか。

250 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/21(月) 23:06:22.29 ID:wOsmoPdHT
やい!にゃかお!😾
本スレに来ないと思ったら別スレ立てやがって😾

251 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/22(火) 11:01:45.67 ID:EaiR8ME4u
イスラム社会のコーラン       303

 ここで、ニンフルサグは全ての生物の母として知られ、イヴと同じ位置を占めるよう
だ。この話はアダムの肋骨からのイヴの創造の話と重なっているが、「肋骨」と「生命
」が同じ単語で表されるのはシュメール語のみである。古代メソポタミア全史で、シュ
メル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで伝説は伝わってここに来た(中公新書)
更に、死海文書にはまだまだ謎が隠されていそうで、あまり解明は進んでいないようだ
。神話によると、ペルセポネー(当時のコレー)は、アテーナーとアルテミスのように
永遠の処女であることを誓ったため、アプロディーテーはエロースの矢で、冥界の王の
ハーデースを射ることを画策する。ちょうどペルセポネーは、ニューサ(山地であるが
、どこであるのか諸説ある野原)でニュムペー(妖精)達と供に花を摘んでいた。する
とそこに一際美しい水仙の花が咲いていた。ペルセポネーがその花を摘もうとニュムペ
ー達から離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗ったハーデースが現れ、彼女は冥府
に連れ去られてしまった。まあ水仙の毒を意味するのか、そのまま文字通り冥界という
異境の地を指すのかは、又大きく意味が変わるが、この女神は冥界王を操ったのである
。ところが神々の国のオリュムポスでは、母デーメーテールがさらわれて、ペルセポネ
ーの叫び声を聞きつけた。そして娘の姿がどこにもないことに気づくと、悲しみにくれ
ながら、松明を片手に行方の分からない娘を探して地上を巡り歩いた。そして十日目に
灯火を手にした月神ヘカテーと出会って、ペルセポネーが誘拐されたことを聞くのだ。
そこで二柱の女神は太陽神ヘーリオスのところに行き、ヘーリオスから、ハーデースが
ペルセポネーを冥府へと連れ去ったことを知る事になる。一説にはアレトゥーサが教え
てくれた。とされる。女神はゼウスの元へ抗議に行くが、ゼウスは取り合わず、「冥府
の王であるハーデースであれば、夫として不釣合いではない。」と容認発言した。

252 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/22(火) 11:02:06.97 ID:EaiR8ME4u
これ
を聞き、娘の略奪をゼウスらが認めていることに、妻のデーメーテールが激怒し、オリ
ュンポスを去り大地に実りをもたらすのをやめ、地上に姿を隠す。まあ天照の岩窟隠れ
みたいな話である。大地の豊穣の女神デーメーテールの娘である、ペルセポネーの誘拐
は、彼女を結局冥界の女王とさせている。

253 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/22(火) 11:02:40.48 ID:EaiR8ME4u
イスラム社会のコーラン       304

 冥府に連れ去られたペルセポネーは丁重に扱われ、冥府の宮殿に迎え入れられるも、
自分から進んで暗い冥府に来た訳ではないため、ハーデースのアプローチに対しても、
首を縦に振らなかった。 一方、その後ゼウスがヘルメースを遣わし、ハーデースに、
ペルセポネーを解放するように伝え、ハーデースもこれに応じる形で ペルセポネーを
解放した。その際、ハーデースが ザクロの実を差し出す。それまで、拒み続けていた
ペルセポネーであったが、ハーデースから丁重に扱われていたことと、何より空腹に耐
えかねて、そのザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒(または6粒)を食べてしまう
。そして母であるデーメーテールの元に帰還した。家についたペルセポネーであったが
、冥府のザクロを食べてしまったことを母に告げた。冥すると界の食べ物を食べた者は
、冥界に属する。という神々の取り決めがあったため、ペルセポネーは冥界に属さなけ
ればならない事を知った。デーメーテールはザクロは無理やり食べさせられた。と主張
してペルセポネーが再び冥府で暮らすことに反対するものの、デーメーテールは神々の
取り決めを覆せはしなかった。そして、食べてしまったザクロの数だけ 冥府で暮らす
事で裁決が下り、1年のうちの1/3(または1/2)を冥府で過ごすこととなって、彼女は
冥府の王妃ペルセポネーとして、ハーデースの元に嫁いで行く事に なったのである。
そしてデーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止め
るようになった。これが冬(もしくは夏)という季節の始まりだという。農作物の消長
の原理はこうした神話によって説明されている。これがデーメーテールの怒りと言われ
四季の始まりちされる。また、ペルセポネーが地上に戻る時期は、母である豊穣の女神
デーメーテールの喜びが地上に満ち溢れるとされる。これが「春」という季節である。
そのため、ペルセポネーは春の女神(もしくはそれに相当する芽吹きの季節の女神)と
される。ペルセポネーの冥界行きと帰還を中軸とするエレウシース秘儀は死後の復活や
死後の世界における幸福、救済を保証するものだったと考えられている。

254 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/22(火) 11:09:09.37 ID:EaiR8ME4u
なんかさ〜〜最近さぁ〜3chってのが公開されたけどさぁ〜^
ニャ😺かおは思うにさぁ〜〜
辛口批評も人間だに。限度があると思うんだ。 でニャ😺かおは、あっちが見やすいなぁ〜
 書きやすいんと ちゃうんかな。〜〜と正直な想いが よぎるんだわさ〜〜〜
    どう。 全部移転しちゃって 1から書いてもいいかな。(笑)

255 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/02/26(土) 23:05:13.15 ID:eGuIMCfoO
顔認証システム誤登録問題
万引きなど問題行為をやってないにも関わらず顔認証システムに登録される客が沢山います
その誤登録された客が店に来たらシステム会社から店に連絡が行き
(実際は入店前に組織から店などに連絡がいく)
更にその誤登録された客のすぐそばにいる別の客にもピンポイントでSNSで連絡が行きます
店員だけではなくすぐ近くにいる無関係の客にも誤った情報が伝えられます
これはある組織が監視カメラの映像に写る客の顔や位置情報、連絡先など個人情報を全て把握しているから出来る事で
誤登録された客だけでなく連絡を受けとる人達も監視していないと出来ません
この情報をあるママ友グループが教えてくれましたが
その人達は自分自身も監視されている事がわかり怖かった様です
この様な監視は何年も前から行われていて、組織的嫌がらせに利用されています
gangstalkerhigai.fc2.net

***追加情報
この書き込みの後、自分に憑きまとう奴等がオッサンばかりになった
だから極秘に入手した貴重な防犯運用情報は事実です

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