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ああ コスタリカ戦0ー1で負けた😭

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/11/27(日) 21:14:29.71 ID:jJk9Knwya
なんでこうなるんだよ。
最悪だ
というかなんで特攻しなかったんだ‼︎

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/02(金) 18:54:39.17 ID:pWx7bO+/3
コスタリカを馬鹿にしちゃなんねぇ。
日本と同じに6:3:1の 固い防備からの ロングパス攻撃で、更にあのリズムだ。
日本人は、体力も技術も技能も劣る。 勝っているのは 集団の指向力のみ。
個人技や ボール操り方や トップスピード 暑さ対策には 向うが上手。
却って ヨーロピアンスタイルの方が 日本はくっきり明暗が解って対策してる。

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/02(金) 19:15:22.76 ID:pWx7bO+/3
スペインに勝ったようだ。 これは相当に新サッカー場に救われている。例のVARの整備である。
更にアフリカ系のジャッジが 大きな観客の声を聴かずにちゃんと 指令室にVAR判断を求めた事にある。
サッカーはテニスと違い 土に触れる部分は関係ない。真上からのボールが境界面に接するかどうかである。
僅か1cmでも1mmでも仮想の壁に接触していればINであり、外れていればOUTである。全く
旧来であれば OUTと判断され、そのまま続行で、あとで新聞紙面の記者の写真で審判糾弾といった所だろう。
正に、まぐれの神業である。もしそこでドロー試合なら、得失点差で、スペインとドイツと云う事になる。
まあ〜〜最初からだが、この森保監督というのは 強運の人だろう。あの浅野のキックもほとんど狙って打てる
という類のものではない。ただあのボレーとシュートも、修練や努力なくして生まれるものでもない。
つまりかなりの努力家の浅野なくして勝っていない。又、先に一点先取されてスペイン側に
ハードなラフプレイが無かった事も幸いしている。接触プレイのオンパレードじゃ早々選手はいない。

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/02(金) 19:19:07.72 ID:pWx7bO+/3
しかし、本当に勝った理由は、2点先取後も、攻撃力に選手交代した事だ。
攻撃は最大の防御とは言う物の、これだけ安定して1:4:4:1を完成させた
選手たちもいないだろう。

5 :田中寛喜:2022/12/03(土) 01:25:46.40 ID:Hhg6hPSmM
第一次大戦と第二次大戦の時に日本が中国を先に荒らしたのではなく、大昔から中国側が圧倒的兵力で日本の首長さんを人質に取り、
脅しそして日本を荒らさせ続けた荒らし続けていたという情報が出ている。
昔から日本は日本人の人肉を食べ放題だったと電波では中国側が数度自慢していた。
中国は昔から頭は超良い国という情報。犯罪だが。
137 :以下、VIPがお送りします:2022/12/03(土) 01:19:22.55 ID:B7gAqqxV0
電波の実在。丸野さんが一番頑張ってたか。

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 13:10:45.83 ID:SDj43YKdk
ちゃうよ。それは 朝鮮人も 日本人も同じ。って認識していた中国人の誤り、
と、いうのも、中国人の脳みそ食い輩の 大々的なフェイクニュース。
つまり 昔っから中国人は 悪人の操り人形だったから 毛沢東革命が起こった。
ふつう、こんな大国で 暴力革命なんて起こらない。が蒋介石はじめ鬼で非情だった。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 13:18:09.05 ID:SDj43YKdk
近頃の研究では、南洋人 つまり島嶼国は、みんなフローレス島の遺伝子を持つとされる。
つまり 小人族や、コロボックル アイヌ・などの民族だ。中国・朝鮮系は逆に巨人族の
洞窟人 白穴人系である。 これは食糧に人肉食が多い熊祖である。日本は草食系稲作人で
あわやひえすら食べていた沿岸国人だ。そこに勇猛な騎馬民族が入って平らげた。

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 13:20:05.11 ID:SDj43YKdk
鯨人というのは 黒肌に刺青の人間だが、じつは安曇族の民族文化で、船や海を礼拝した。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 21:48:24.17 ID:SDj43YKdk
韓国サッカーは凄い。ラフプレイやルール無視の へデングなんか、サンドバック状態
肘鉄 回し蹴り、肢踏み トラッピング選手に腹蹴りや、延髄ケリだのジャンピングボレーアタック
だから、ポルトガル戦なんかは、下手な流血プロレスより凄い。その上審判への工夫もすごいから
ポルトガル戦選手もやる気なくして とうとうラフプレイに転じたが、そもそもが戦わなくとも
勝ち点とっているポルトガルの上手さの上にこうだから もはやこれはサッカーじゃない状態。
全く ルールをどう思って接触プレイしてんだか。どこのチームも対戦にけが人続出だろうよ。
全く話にならない不良のボール遊びってとこだ。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 21:49:53.66 ID:SDj43YKdk
日本も 接触プレイに 気を付けて 出来るだけ離れた早いパスワークで技術のチームプレーで行くように

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/03(土) 22:44:00.91 ID:E2PCrcmX6
問題はクロアチア戦だ 1:2で負けるだろう。しかしスペイン、ドイツ
のような試合をするならば勝てるだろう。

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/04(日) 21:27:53.70 ID:WvCPXJPTi
しかし、三苫って早いな。 一ミリ接触パスプレーも 鎌田より後ろかダッシュで取るんだから

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 02:52:35.97 ID:bfzJzBBcY
フランス代表は現地時間12月4日、カタール・ワールドカップ(W杯)の決勝トーナメント1回戦で
ポーランド代表と対戦。エムバペの圧倒的スピードでの突破に反響が集まっている。

ゲヘー やっぱこれがサッカーだろう。 速さとボールコントロールの巧みさ、
更には、ゲーム内のシュートの高い得点率。固いシュートコントロールと威力。
個人技じゃ日本は負けてるが、そいつらが揃ってゐチームはない。所詮個人技ではある。

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 03:05:44.69 ID:bfzJzBBcY
日本もドリブルと支配率、固いシュートコントロールと威力。ゲーム内のシュートの高い得点率。
これは 大いなる課題だ。 どうしても、体格・体力・速さに 劣るので、
巧みな戦術のジャパンタイムに 頼るしかないけれども。

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 09:22:26.18 ID:uSk96a+sr
今日はクロアチア戦が見れる。 恐らく前半に怒涛の2得点 後半に1−1と言う3−1で日本が勝つ。
というのも、クロアチアも日本も 戦略的に似てるチームでありながら 南米流の個人技を重視しない。
だが 個人技の能力が最終的に点を稼ぐ事になる。となれば、疲れてない時に攻撃に転じてバックが薄い時
この時抜けた方が勝つ可能性が高い。この中で クロアチアは疲れているのでジャパンタイムは比較的早く
やってくる。まあブラボー青年の長友の体力と吉田司令官の力が 前田君を動かすだろう。がんばれジャパン

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 09:31:33.97 ID:uSk96a+sr
モドリッチvs吉田司令官 の動きに トップの前田切り込み隊長 風人伊東 雷人堂安 韋駄天三苫・・
こりゃ〜〜権田防衛大臣も 大きい肩の荷があるな

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 10:48:03.08 ID:uSk96a+sr
まあ この森保ジャパンは 縁起のいいチームなんだろう。ベスト2まで混戦する期待がある。

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 18:06:09.23 ID:uSk96a+sr
しかし、なんでかなぁ〜〜〜 インタビューにアンパンマンの名が多いよな。
やっぱ、アンパンマン せだいなのかなぁ〜〜。強い味方=アンパンマン
ブラボーポーズ= アンパンマンポーズや ジャガーポーズ・・てよ。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 19:08:53.49 ID:XBdyDOUHW
恵那市で組織的嫌がらせを受けていて、下の様な有り得ない光景を目撃しました
https://gangstalkerhigai.fc2.net/img/hentai-reader2.png/
https://gangstalkerhigai.fc2.net/img/gatihomo-tinkasu-doyagao3.png/
https://gangstalkerhigai.fc2.net/img/hentai-reader3.png/
この画像をバクサイの恵那市板に書いたらすぐに消されました
https://bakusai.com/thr_res_show/acode=5/ctgid=104/bid=3231/tid=10246964/rrid=55/

この書き込みも削除される可能性があるので必ず保存して下さい

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/05(月) 21:41:31.51 ID:AU9JbcIFL
まちBBSの恵那スレも削除の連発です

https://machi.to/bbs/read.cgi/toukai/1447494105/l50

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/06(火) 02:55:08.74 ID:yl371Oexc
惜しかったなぁもう。 今一歩及ばず。いい試合だったよ。日本選手諸君。

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/06(火) 02:56:46.55 ID:yl371Oexc
やっぱ、クロアチアも体力あるなぁ〜〜。PKは仕方ない。シュート力は日本人だから。

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/06(火) 20:38:38.20 ID:XFP8okCYq
 FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会の決勝トーナメント1回戦で敗退した
日本代表と、クロアチア代表が5日(日本時間6日)に対戦したアルジャヌーブ・スタ
ジアムで、日本代表がPK戦の末に敗れた試合後も、日本サポーターがいつも通りに、
スタンドでのごみ拾いを行う。試合を翌日に控えた4日に読売新聞などのインタビュー
に応じた大会組織委員会の広報部門責任者のファトマ・アルヌアイミ氏は「(ごみ拾い
の活動により)日本は世界へ範を示した」と称賛する。来日経験があって、「日本人に
とって、一般的な活動であることは知っていた。」と、アルヌアイミ氏は実際にW杯の
スタジアムでその様子を目にし、「開幕当初は(他国のファンは)みんな驚いていたし
、何をやっているのだろうかと見ていた。私も同じように感じていた。」と告白する。
「試合後、観客は出口へ急ぐものなのに、日本人はそうではなかった。だから多くの人
から賛辞を浴びた」と述べた。さらに、「これは、ファンが行った特筆すべき事例」と
した上で、「他国のサポーターも影響を受けている」と言及。「これこそが、ワールド
カップの美しさ。異なる文化や背景を持つ人たちが世界中から集まり、それぞれの文化
や価値観が反映されている。そうしたことを知る成果である。日本は本当に素晴らしい
模範となった」と日本人サポーターへ敬意を表した。(デジタル編集部 深井千弘)

と、ニュースは告げる。そもそもが小人(こびと)の国の住民は、ガリバーたる巨人族
に、かなう相手ではない。その頑張りに協賛があり、その知恵と働きに驚嘆と夢がある。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/06(火) 23:22:01.24 ID:P05VF0T5J
恵那市の集団ストーカーは男でフルボッキのガチホモです
https://gangstalkerhigai.fc2.net
オレを見るとフルボッキ
昼夜問わずオレの事を考えてフルボッキ
男でフルボッキ
男の風呂トイレをフルボッキで覗くガチホモ
オレにキンタマを見せたくてしょうがないガチホモ
恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ
恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ
恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ恵那ガチホモフルボッキ

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/07(水) 09:05:47.96 ID:HtX0GQbfS
おめいは 富士山の天然水買えよ そして3年間ぐらい飲み続けろ。 頭が腐ってるぞ
ちゃんと 綺麗な水と 小食で ポカリスエットででも生きろ。おかしな投稿するな。って
俺の方が おかしいかもしれんが。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/07(水) 10:27:02.53 ID:HtX0GQbfS
小食  →  少食

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/16(金) 17:50:03.94 ID:49Z8QcpiD
しかし FIFAは 交代要員を増やし ルールの厳格化にIT処理して成功したな。
ジャッジの問題は色々今でも残るが はるかに見やすくスピディーにミスジャッジが減った

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/16(金) 17:51:01.11 ID:49Z8QcpiD
経済の国際裁判所も 取り入れるべきじゃないのか。

29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/19(月) 14:37:41.83 ID:yTa1NqZrz
ああ〜〜フランス残念。サッカーのFIFAワールドカップ(W杯)カタール大会決勝が18日に行われ、
フランス代表はアルゼンチン代表にPK戦の末に敗れ、34、38年大会のイタリア、58、62年大会のブラジルに次ぐ
史上3チーム目の連覇はならなかった。それでもFWキリアン・エムバペ(23=パリSG)がハットトリックを達成して
通算8得点で得点王になった。パリSGで同僚のアルゼンチンFWリオネル・メッシ(35=パリSG)に勝利は譲ったが、
世界最高の輝きを放った。・・・・チンケに手をつかうアルゼンチンサッカーよりも強く速くたくましかったけどねぇ
ただ ポーランド審判って、わざと誤審してんだか ホントにミスジャッジなんだかしらんけど、
こんだけラフプレイにオフサイドプレイやられると、FIFAもダメだな折角VR判定持ち込んでるのに
誤審が多すぎて 王者のサッカーがみれない。優勝戦決勝戦で選手たちは有能なのに、全く小学生の草サッカー並
に下がった試合になってしまった。惜しい試合だ。だいだい メッシ崇拝が過ぎるし、アルゼンチンに忖度しすぎ。
黒人蔑視なのか 人種偏見なのか。ともかく見れない試合を、エムペパはよくやった。彼こそスターだ。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/19(月) 14:39:32.13 ID:yTa1NqZrz
バスケットボール試合より 手を使ってる。なんなんだ。これが アルゼンチンサッカーか。冗談じゃない。
アメリカン フットボールじゃんか

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 11:45:18.10 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 428   ( 日本の事情 )

 東軍の徳川家康は黒田官兵衛孝高が、キリスタンの洗礼を受けていた事を知っていた
。優れた武将で軍師だったが、秀吉の伴天連追放令でキリシタン大名は廃藩の危険があ
った。(洗礼名 ドン・シメオン)天正13年(1585年)、四国攻め時代に、讃岐国から攻
め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わって、先鋒として諸城を陥落させ、植田城に対
して、これを囮であると見抜き、阿波国へ迂回した。こうして、敵将・長宗我部元親の
策略を打ち破り、阿波国の岩倉城が攻略したところで、長宗我部軍は撤退・降伏してい
る。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信して、宣
教師情報を得る事を目的として、「シメオン」の洗礼名を与えられた信者となっていた
。しかし、ここで徳川家康が、もし大きく詮議となれば、藩取り潰し、藩主打ち首は、
免れなかった。これは九州勢を委縮させるものだった。ここで取った行動が大友宗麟と
同じ自ら九州王国の王となる事だった。尤も大友氏の様な信心はないから、防衛できる
大藩になればいいだけの話だった。中津に帰国していた如水は、早速家康方に対し、前
もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び行動する。石田三成の挙兵の知ら
せを早舟から受け取り、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、
中国、四国からも資金を聞き及び、9,000人 ほどの速ぐに集めて軍を作り上げたのであ
る。この速さは、他の藩に出来ない。既に家康軍に息子を参加させ9月9日(10月15日)
、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けると豊後国に攻め込み
、東軍の細川忠興の飛び地であった杵築城を包囲攻撃した。元の自城の奪還を欲したの
だった。しかし、城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請し即座に、如水はこれ
に応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。ここに東軍同士の戦いがあった。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 11:45:39.64 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 429   ( 日本の事情 )

 黒田は、それまでは三成の誘いに対し、西軍に与する条件として、九州7ヶ国の恩賞
を求めると言う法外な交渉をして、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせている。
、準備期間を稼いでいたというのも、既に東軍には息子黒田孝高を、兵を付けて送り出
ししていた。自らは隠居として如水と名を変え、九州平定、文禄・慶長の役で活躍した
息子の背後において、朝鮮人を雇い亀甲船を奪うなどして暗躍していた。特に関ヶ原の
戦いでは、東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万石
の封を受けた。が、如水はたった52万石ごときで喜ぶなと怒ったと言われる。更に長政
に、軍賞を貰った手は右手か左手か。と差し出す手に、扇子で思いい切り叩いたという
。つまり褒美や軍賞などは、強い力で叩かれば手放してしまうものだ。と言う訓示であ
った。長政も父の孝高と同じく キリシタン大名であったが、彼は早々と棄教宣言して
、福岡藩を立藩し初代藩主となっている。如水にしてみれば半年は続くだろう天下二分
する戦さだ。少なくとも1〜2ヶ月はあろう。それが長政の大きな働きで、一日で勝敗
を決するなどと夢にも思っていなかったのだ。道中の諸城を攻略した後、 9月13日(10
月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍
の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利し
(石垣原の戦い)9月19日(10月25日)、富来城(とみくじょう)の攻略中に、哨戒船が
東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕えて、西軍敗報に接し
た。その後、如水は藤堂高虎を通じ、家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属し
た太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城を落としていく。国東半島沖の、豊後
水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてくる島津義弘の軍船と戦い、焼き沈めた。

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 11:56:53.87 ID:gyRghF7Yk
 新ジャパン レボリューション。 430   ( 日本の事情 )

 これらを助けたのが、島津と乗り合わせて送る立花藩の帰船だった。10月14日、如水
は兵5,000をもって柳川へ派兵した。自身は、西軍に参加した小早川秀包の 居城である
久留米城攻めへと向かっていた。鍋島直茂・勝茂父子が32,000の兵を率いて久留米城攻
めに参戦し、同じに筑後攻めを行う。10月16日、柳川城の支城である海津城を落とし、
その後、取り急ぎ宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦した。碧蹄館(へきていかん)の戦
いで、命の恩人となり、秀吉の前に辞退したので、清正まで天下一双の褒美を貰ってい
た。こうして幾たびかの綿貫会談で交渉の上、立花宗茂は降伏して如水軍に下野した。
そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力の、
島津討伐に向かう手筈だった。11月12日に肥後国の水俣まで進軍したとき、家康と島津
義久との和議成立による停戦命令を受ける。関ヶ原合戦はここで事実上終了し軍を退き
解散した。参加した九州大名はいずれも、朝鮮出兵の戦費などで疲弊していた中でこう
した大きな戦費の負担は藩主の苦悩の処だった。状況を冷静に分析したうえで松浦鎮信
は最適な決断を下した。五島玄雅も、この状況で落ち着いて判断することができる優れ
た武将であった。これが、西軍に味方しないでも、五島家は本領安堵されて、従来通り
一万五千石を領することになった理由だった。『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典
』五島家が生き残れたのも束の間、五島玄雅が抱いていた海外通商による領国発展の夢
のゆくえは、多難のままだった。朝鮮出兵から関ケ原と続いた戦争の時代はようやく終
わったが、慶長8年(1603)五島玄雅は養嗣子盛利とともに 伏見城で徳川家康に拝謁
し、五島の国情の異国船渡来の地であるところの、異国船警備役を任ぜられた。江戸や
京都への軍役を免除され慶長9年(1604)の閏8月に東埔寨(カンボジア)への通交渡海
の朱印状を受け、翌慶長10年(1605)5月に西洋(サイヨウ)への通商渡海朱印状も受
けている。これは五島玄雅の才能による働きであったろうか。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 12:03:05.79 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 431   ( 日本の事情 )

 一方で、慶長15年(1610)には唐船が五島経由での駿河にまで行って、家康から朱印
状を得ての朱印船貿易の朱印状による、海外通商は、けっこうな負担になっていた。(
『三百藩藩主人名事典』)この朱印船貿易の朱印状による、海外通商は、朝鮮出兵・関
ケ原出陣での、膨大な戦費の支払いや、五島藩の財政運営を目論んでのことで五島玄雅
は、海外との通商での利益を渇望していた。ところが、先代純玄がキリスト教を保護し
玄雅も保護政策を継承していたので、五島での布教が盛んとなっていた事で、肥前大村
領から多くの宣教師がやってきて混乱を極めていたのだ。「ルイスの時代」政策を引き
での家中の混乱を避けると同時に、南蛮貿易の活性化をねらっての事だった。玄雅自身
は反キリスト教の立場で、純玄時代のキリスト教保護策に強く反対していた。『三百藩
藩主人名事典』しかし、玄雅自身がキリシタンだったとする説『海の国の記憶』もある
ので、五島玄雅はあくまでリアリストだったと考えられる。現実的政策を取り、信仰は
領国経営とは切り離して、まったく信仰心がなくても、南蛮貿易のためキリスト教信者
を保護した政策になっていたのだろう。こうして、宣教師を五島に招き続けていたが、
徳川家康に駿府に呼びつけられて、棄教とキリスト教弾圧への転換が計られた時、即座
に応じた。『海の国の記憶』家康は、日明貿易再開を模索していた。中国と長年交易し
、経験のあった五島家を交易に役立てようと考えたのだ。玄雅は家康に呼びつけられた
後の慶長17年(1612)には、幕府は直轄地での禁教令を発している。そして、家康への
拝謁の時に、幕府の意向を知った玄雅は、先んじてキリスト教弾圧へと転じているのだ
。この政策転換は、キリスト教の禁教に向かう幕府からは、高い評価を得た。玄雅にし
てみると、家康から朱印状を得たことで、貿易ルートが確保できる見通しとなり、キリ
スト教を保護する理由が無く、徳川家康からの信頼を勝ち取り、キリスト教弾圧へと舵
を切る方が得策と考えたのだろう。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 12:18:39.34 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 432   ( 日本の事情 )

 こうして五島藩は、教会を破壊し、宣教師を追放し、十字架を切り倒した。キリシタ
ン集落には僧侶を派遣し、キリスト教への迫害は徹底したものになった『全大名家事典
』『三百藩藩主人名事典』こうして五島藩の藩政確立の道も半ばの慶長17年(1612)3
月、65歳で玄雅は福江で没したのであった。玄雅が棄教してまで実現にかけた海外通商
の発展の夢は後を継いだ盛利の時代に、波乱が訪れる。異国船警備体制の負担という、
重荷である。そのことは、五島藩で十分に認識や理解されていた。異国船警備について
、隠密の目もあり、万全の体制で臨んでいた。寛永18年(1641)には五島列島内の要所
、大瀬崎・嵯峨島・岐宿・富江・黄島・祝言島・宇久島の7ヶ所に遠見番役所をつくり
、異国船の往来を監視・通報させる体制を確立させていた。さらに、その四年後は異国
船の通交が増えたために鬼岳・奈留・福見・友住の四か所を追加して整備し、遠見番所
を合計11か所と増やした。『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『海の国の記憶』五島
に漂着する異国船の中には、南蛮船の外にも中国船や琉球船の進貢船があった。琉球で
最大級の大型船である。琉球は別政府として、島津同様に、五島への中国への貢ぎ物の
負担をも求めていた。こうなると、異国船警備の費用負担もあり、五島藩は藩財政を、
改善できるどころか、収入を増やす工夫を続ける必要に迫られたのだ。手始めに、漁や
製塩に課税を広げたが、それではまったく足りないのだ。そこでさらに、手ひどい飢饉
が上方を襲った。折にふれ、京摂津の流民を京都所司代・板倉周防守(重宗)に請いて
、五島に移住させ、土地を与えて田畑を開かせるといった移住策を行ったりもしたのだ
。『海の国の記憶』。莫大な費用がかかる異国船警備役だが、藩では、この御役目は、
いわば生命線であった。税制上なんとしてでも勤め上げる必要があった。朱印船貿易の
返上どころか、藩の鞍替えや場合によれば、お取り潰しの上に天領とされる可能性も、
あったのだ。こうした事は長崎も同じだった。かつては長崎藩は長崎氏の藩であったか
らだ。

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 12:34:27.09 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 433   ( 日本の事情 )

 島原の乱は、江戸時代初期に起こった江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱とされ
る。日本の歴史上最大規模の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦であったのだが
、この見方は、まずは間違いである。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれた、
寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結と
されている。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」
が始まった。この内戦以降、禁門の変までの約230年間、死者数が3桁に及ぶ内戦は記録
されていない。これは19世紀以前の世界の他の国々では他に例がない平和の世である。
ここに答えがある。島原はキリシタン大名有馬晴信の所領であったが、領民のキリスト
教化策も盛んで、慶長19年(1614年)に幕府により、有馬氏が転封となった。代わって
大和五条から松倉重政が入封し、江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島
遠征を計画し、先遣隊を派遣したりする野望の危険人物だった。島原城を新築し、その
ために領民から年貢を過重に取り立てていたのは、周知の事実だった。厳しいキリシタ
ン弾圧も開始し、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑
を逐次行っていた。オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録
に記録が残っている。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し、過酷な取り立てを行
っていた。1630年、松倉重政はルソン島侵略を幕府に申し出た。将軍徳川家光はマニラ
へ日本軍派遣を了承することは控えた。が、重政に調査権限を与えた。軍備を整えて、
出立する事を許したのだ。1630年12月14日、重政は長崎奉行・竹中重義の協力を得て、
吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送りこみ、スペインの守備を
探らせた。彼らは商人に変装、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島に
渡航する。それぞれ10人の足軽を従えて、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡し
た。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国はしたが、1632年7月までスペイン側は
厳戒態勢をしいていて、ここにスペインの日本戦略が既に練られていたのである。

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:15:33.61 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 434   ( 日本の事情 )

 マニラ先遣隊は1631年、日本に帰国しスペイン側は厳戒態勢をしいていた事が報告さ
れた。重政は軍備として 3,000の弓と火縄銃を集め、作戦に取り掛かる。しかし侵略の
指揮官であった松倉重政は、何故か突然の死によって頓挫したのである。日本における
宣教師は、既に信者をして情報収集能力は、忍者や隠密以上であったとされる。フィリ
ピン侵略は、1637年に息子の松倉勝家の代においても検討がなされが、実行には巨大な
資金も必要だった。その後5年間はフィリピンへの遠征は考慮されてない。日本の迫害
から逃れてきたキリスト教難民が、マニラに到着し続ける一方で、日本への神父の逆流
が続いた。寛永7年正月19日 (1630年) ペトロ・カスイ岐部神父とミゲル松田神父は、
イエズス修道会援助で古船を買い、 キリシタン水夫を雇ってルバング島へと向かう。 そ
こで司祭マルチン・デ・ウレタ神父の世話で5月頃、日本へ向かった。 ところが途中、
薩摩国鹿児島に近い吐喝喇(とから)列島で台風に遭い座礁した。そこで島民から船を
買い、 目の前の坊ノ津(ぼうのつ)へ上陸した。 ペトロ・カスイ岐部神父43歳で、実に
16年ぶりの祖国であった。続いて長崎に行きクリストヴァン・フェレイラ神父に会った。
これは、長崎市中で、町奉行竹中采女重義(たけなかうのめしげよし)や代官に、末次
平右衛門(すえつぐへいうえもん)により、 キリシタン狩りの真っ最中であった為だ。
そして8月には宿主から追い出されたミゲル松田神父が、山中で亡くなり、 09月24日 (
10月29日) には、 イエズス会日本管区長マテウス・コーロス神父が、大村領波佐見村(
はさみむら)で亡くなってしまった。 63歳であった。島原で後を継いだ息子の松倉勝家は
、父に劣らず暴君でキリスト教の敵であった。勝家が島原の大名として在任中に、最後
のフィリピン侵略の企てに画策することになる。

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:16:05.13 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 435   ( 日本の事情 )

 オランダ人宣教師は、1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信して
いた。が実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直と馬場利重だっ
たと言われる。遠征軍は、松倉勝家などの大名が申請し、将軍の代理として兵員供給し
実行しなければならなかった。が、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1
万人規模の遠征軍が想定されていた。フィリピン征服の司令官は、当然、松倉勝家が有
力であったが、これをいち早く漏れ聞いた切支丹は、同年に島原の乱によって遠征計画
は致命的な打撃を受ける事になった。島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は
廃城となっていた原城を奪うために、必要な努力に苛まされる。何百マイルも先にある
フィリピンの、当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであったというマニラの
要塞の司教たちが、対抗するために同様の規模の軍と、同様の海軍で、兵の支援を計画
することを比較検討した。と言う情報を得たからだ。フィリピン侵攻のために用意した
1万人の兵力は、その後10万人に増やした。つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つため
に原城に投入しなければならない。とした兵力分析がなされ、即時の打破、平定が論議
された。乱の勃発は、過酷な取立てに耐えかねた島原の領民の、武士身分から百姓身分
に転じて、地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化されていた。
この組織化自体が一揆とされ、密かに反乱計画を立てていたキリシタン達は、スペイン
の襲撃を待っていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生してい
た浪人を中心にして一揆が組織されて、徳川幕政の転覆をはかっていた。島原の乱の、
首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気
を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞)を一揆軍の総大将とし決起
することを決めたのである。

39 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:16:46.81 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 436   ( 日本の事情 )

 ところが、ここで大きく活躍したのが、この五島の7ヶ所に遠見番役所であったのだ
。この浪人の動きや、黒船の動きは、逐一長崎奉行によって、幕府に報告されていた。
寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって、代官所に
強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。この一揆は島原半島
の、雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、組織化さ
れた集落の領民達が応援し、各所に広がった。反乱に賛成する者も反対する者も強制的
に反乱軍に組み込まれたが、しかしこれより北の、北目(きため)と呼ばれる地域の、
組織化には成功しなかった。反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層
群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しよう
として迫った反乱軍を、追い落としに成功したのである。こうして乱に巻き込まれずに
済んだ南目の集落の中に参加しなかった集落も連絡を取り合った。また北目の集落から
一揆に参加したところもあったが稀だった。こうして、寛永14年 (1637) 10月23日に、
西国地方の天草領・島原領の男女農民や、子供など2万7千人が、囚人の城となってい
た、奴隷買い付け農民と共に、島原城に立てこもってしまった。 そこで10月27日島原藩
では、隣の佐賀藩に応援を求めた際に、公式にはキリシタン扇動として要請した。 そこ
で幕府は、12万6千人の兵を動員して約5ヶ月間にわたり島原城を包囲する。翌年の2月
28日に鎮圧した。この時、幕府はスペイン軍の襲来に、援けを求めオランダ軍艦の派遣
を要請した。オランダ軍は、五島沖や吐喝喇(とから)沖で二隻の末吉船と二隻の黒船
を沈め、自軍も一隻が被弾したと言われる。しかし、この結果軍艦や大砲の威力に驚き
いずれ、南蛮人・紅毛人ともに、やがては日本を占領するだろうと予見してしまった。

40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:17:36.99 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 437   ( 日本の事情 )

 日本にやって来た、キリスト布教には4つのルートがあったようだ。一つは言わずと
知れたイエズス会ルートで、インドやベトナムや中国の教会が本部となっていた。もう
一つが、フランシスコ会である。いずれもカトリックであり、認可がスペインとポルト
ガルの違いぐらいだったが、フィリピンはドミニコ会やフランシスコ会の縄張りだった
。この二つの他に、カトリックと対峙していた、プロテスタントのイギリス系があった
。彼らは平戸を中心に、長崎・博多を制していて、薩摩・豊後・熊本・天草などとは、
時に協調し時に対峙し対抗していた。しかし、ここに第四の勢力も密かにあった。これ
がロシアからの、朝鮮を通じて流れてきてるハリストス正教会の、ロシア正教会マリア
正教会の異端の宗教の流れである。しかし、寛永15年 (1638) 、 幕府は全国的にキリシ
タンの穿鑿(せんさく)を強化し、 9月13日に嘱託金をもって訴え出させ、 9月20日には
最大の禁教布告の3回目のキリシタン禁制令を布告してしまう。 その上、 12月01日には
全国諸大名に領内でのキリシタン取り締まりを命じた。第一回の大名の禁教令、第二の
宣教師や信者の排除令に続く、国民の信心禁止令であった。その頃、 全国のキリシタン
宣教師は仙台領に4人、 山形領に1人、 大坂に1人が捕縛された。寛永15年 (1938) 2月
14日、 幕府老中は仙台藩江戸諸家老に領内での宣教師の捕縛を命じた。 そこで02月21日
在所の家老に伝えられたため4月に領内で5人組を強化し、 12月に訴人制度の、高札を
領内各所に立てさせて告げ口奨励を設けた。 すでにキリシタンに寛大であった初代藩主
伊達政宗は亡くなり息子伊達忠宗(だてただむね)の時代になっていた。ここで派遣の
使節団員も違法の徒となり、寛永15年 (1968) 4月、 ジョアン・バプチスタ・ポルロ神
父は奉行所に出頭し、 寛永16年 (1639) 2月、 マルチノ式見神父も仙台市中で捕まって
しまった。 そして12月フランシスコ会フランシスコ・バラハス神父も捕まってしまう。

41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:31:08.88 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 438   ( 日本の事情 )

幕府はこうして、スペインからの侵略に一応の安堵を得て、イギリスも排除し、オラン
ダ一本で、監視の目を長崎に集約した。五島は九州に一番近い村落のある島であった。
 この時の異国船は、嵐に巻かれ、五島に漂着したのだが、その間に船員や船客の大半
を失い、五島に着いた時には、異国人男女7名と中国人2名が生き残っていただけだっ
たと言う。長崎まで曳航された異国船は、もはや航海不可能なので、異国人7名は出島
に送り置き、中国人2名は唐人屋敷に それぞれ収容された。異国人のうち4名が女性
で、顔全面に刺青をした南洋の女性の風貌に、長崎の人々は驚愕した。とも言われる。
長崎の絵師の 石崎融資が模写しているが、それはここでの主題ではないので触れない
。この異国人の尋問に駆り出されたのが、ワルデナールであったのだ。この顛末を、ワ
ルデナールは、商館長の日誌に詳しく記している。結論を急ぐと、この異国船の死んだ
船長の名前を、ワルデナールが漂着民に尋ねると、長いポルトガル流の名前であった事
で、大通詞の石橋助左衛門からそれ以上の聞き取りを、妨害されたのだった。その後、
ワルデナールは、異国船がマカオ仕立てのポルトガル船であったことに気がつくが、助
左衛門からマカオではなくマカッサル、ルソンではなくボルネオと、奉行所での尋問の
際に言い換えるように要望(実態は要求?)されたのである。また、通詞たちはマレー
語で「死罪になる。」と言う言葉をワルデナールから聞き出して、漂着民に警告してい
たらしく、漂着民もまた尋問では口裏を合わせた。こうして奉行所の記録からマカオも
ルソンも消えたのである。異国船は、セレベス島のマカッサルを出航し、はるばる五島
まで来て漂着した。という、今なら不自然に思える結論になるのだが、当時ではそれで
通用したのだ。なぜ、このようなことが行われたのか?。それはこの異国人たちが処刑
されるのを防ぐための通詞の知恵であった。とされている。だが、それにしても、この
中国人、更にポルトガル人の組み合わせは、奴隷船の様な陣容である。

42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 14:31:39.16 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 439   ( 日本の事情 )

 人道的でもあるが、それはまた面倒なことに巻き込まれるのを防ぐ 保身のためでも
あった。キリスト教と、共に追放されたポルトガルは、以後絶対に関わってはいけない
国家、人民となっていた。ポルトガルが日本から、完全に追放(来航禁止)されたのは
、島原の乱の翌年の1639年。翌1640年、ポルトガル使節のパチェコが、貿易再開を求め
て長崎へ来るのだが、なんと幕府は、使節は以下61人を磔けの刑に処した。西坂の丘に
現在は二十六聖人記念碑がある。斬り殺した使節や磔にされた使節の地のである。2年
前に全国から軍勢を動員して、島原の乱を収束させたばかりの年である背景もあった。
島原半島では3万7千人の反乱の参加者を殺していた。(新長崎年表234p)、この半島
は無人化して、小豆島などからの移民によって、やっと再興が始まっていた時期で、こ
の頃の幕府は、スペイン船の襲撃やイギリス船の占領に大きくおののいていたのである
。著者の父方の祖先も、遠く小豆島から島原に移住した家系である。幕府成立後37年が
経過し、3代将軍家光の治世となっていた時節であったが、まだ戦国時代のそのものの
気風が世の中に立ち込め満ちていた。そう言うわけで、ポルトガルが拠点とするマカオ
、ルソン、マニラからの船も、人も、隠れてさえも、絶対に受け入れることが出来なく
なっていた。もしも、上陸すれば、たちどころに見つかり、処刑されることになるのが
常識だったからだ。1647年ポルトガルでは、再度使節シーケイラらが、2艘の船で長崎
へ来航し、通商を請うた。が、この時は5万の軍勢と兵船1500艘で取り囲こまれている
。船長以下、船員宣教師らは全て拘束され 斬殺には至らなかったものの捕縛されて、
尋問の上、獄中死となった。つまり、島原の乱以降は、厳しく異国人交流を許さなかっ
たのである。幕府行政や幕閣すらも、その趣旨に絡まっていたし、それが日本における
非力な島嶼国の防衛であったのである。恐らく五島はその最前線にいて、多くの漂着船
はついたであろう。しかし、多分に曳航や帰還は、琉球政府に頼った。そこで琉球は、
この五島藩に手間賃の要求した。と考えられる。これは幕府の執拗な詮索を逃れる為だ

43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 15:03:35.25 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 440   ( 日本の事情 )

 それから160年後、すっかり太平の世の中になったこの頃、死罪の刑は、社会的な
重大事となっていく。徳川幕政では、極めて厳格な法治主義によって運営されていた。
長崎奉行が、独断で死刑を選ぶことは許されない時代に変化している。1686年(貞享3
年)長崎奉行の、宮城監物は、江戸に伺いを立てず死刑を執行した理由で、免職と閉門
を食らう。蟄居閉門である。(新長崎年表264p)。処罰の内容は、「外に出てはいけない
」というだけで一見すると、あまり辛そうではない。が、江戸時代の「こもり罰」の、
「蟄居」と「閉門」は、大きな刑罰になるくらいで、恥の文化時代、江戸期の武士達に
とって、大きくと辛いものだった。2つの罰を合わせて「蟄居閉門」という形で、たま
に時代劇で四字熟語で使われるのだが、まず蟄居に比べると比較的軽い罰と「閉門」は
、文字通り屋敷の門を、竹の竿で固定して、窓もふさいでの人の出入りを禁じてしまう
刑罰である。江戸時代は、身分によって罰の適用が異なり、閉門は武士や僧侶といった
身分の高い人たちに適用される。もちろん外出することは原則として不可能で、基本的
に召使いすらも屋敷には入れないのだ。対象者は屋敷の中で静かな謹慎を余儀なくされ
、加えて常に見張りを置いて、外出していないかを監視される立場にも置かれたのだ。
当時、今と違って「自室でできること」には、限りがあり、ヒマつぶしも一苦労だった
と思う。加えて、詩を詠み、書をしたためるものの、見せる相手もいない。所謂現代の
更生少年の監視保護より、程度が大きく刑罰として大きな意味がある物だ。が閉門は、
普通は、期間制の刑罰で日程は限り終わりが見えていて、原則期間は50日又は 100ヶ日
で、過ぎれば処分自体は解かれる。万が一体調を崩した際に医者を呼ぶことや、火災の
場合の消火活動へ協力や、また屋敷が崩れそうなときは届け出をすれば立ち退くことも
出来たようだ。

44 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 15:12:44.86 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 441   ( 日本の事情 )

 現代からすれば「いや、どれも楽。」と見えるが、当時の感覚はこの辺りが罪人に対
する、ギリギリの妥協ラインだったのだろう。そう考えると、基本的人権が保障された
現代では、なんとも生ぬるい処罰である。江戸時代の蟄居閉門のように自由を奪う刑は
「自由刑」とも呼ばれ、紹介する2つ以外に軽いものは沢山あった。基本は閉門と同じ
だが、夜間外出のみ許される「逼塞」や、客人にあってもよい「遠慮」などの刑だが、
私たちが思っている以上に、江戸時代の刑罰は、細かくあったことがよく分かる例だ。
この閉門よりもさらに重く、自由刑の王様とも呼べるのが「蟄居」である。閉門と同じ
く外出を禁じられ、環境的には変わない。が、大きな違いがある。範囲が「屋敷の一室
」から外に出られないことだ。部屋から出られないので、風呂にも入れませんし、マゲ
結いやヒゲ剃りすらもできなかった。と考えられている。所謂牛込め、屋敷牢状態だ。
食事は家族が部屋まで運んでくるので食べれるし、トイレには行けたのだろう。が、そ
れは介護状態の、ほぼ牢状態である。これで相当な罪だというのは伝わったと思うが、
重い処罰なだけあって、対象者は限られていた。罪の内容として、主に政治的なものに
適用されている。エリート街道を歩んでいた家老や任官という場合である。誰もが知っ
ている偉人も、蟄居を経験している。田沼意次・吉田松陰・徳川慶喜(慶喜は自主的に
蟄居した)あたりがよく知られ、その蟄居隠居よりもさらに厳しい処分が「永蟄居」で
、これは読んで字のごとく、一生ずっと蟄居の状態で生きる事だった。当然、押し込ま
れる部屋には、格子がはめられるので、牛込とも呼ばれた。もはや現代の終身刑と大差
なく、ただ自分の家だったのみの違いだ。もちろんこの厳しさにも理由がある。永蟄居
まで行く場合には、相当に重い罪を犯している。実際、永蟄居の次に重い処分には改易
(武士の身分を剥奪されること)しかなく、その上が切腹である。とにかく「メンツ」
は、つぶれるのが辛かった時代で、一見すると単なる引きこもりの罰に見えるが、中身
は生活がガッシリと拘束される代物だった。まあフェートン号船員は、これに「労働」
がついた状態にもみえるのだが、そこらは、時代の要請なのだろう。

45 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 15:22:57.51 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 441   ( 日本の事情 )

 現代からすれば「いや、どれも楽。」と見えるが、当時の感覚はこの辺りが罪人に対
する、ギリギリの妥協ラインだったのだろう。そう考えると、基本的人権が保障された
現代では、なんとも生ぬるい処罰である。江戸時代の蟄居閉門のように自由を奪う刑は
「自由刑」とも呼ばれ、紹介する2つ以外に軽いものは沢山あった。基本は閉門と同じ
だが、夜間外出のみ許される「逼塞」や、客人にあってもよい「遠慮」などの刑だが、
私たちが思っている以上に、江戸時代の刑罰は、細かくあったことがよく分かる例だ。
この閉門よりもさらに重く、自由刑の王様とも呼べるのが「蟄居」である。閉門と同じ
く外出を禁じられ、環境的には変わない。が、大きな違いがある。範囲が「屋敷の一室
」から外に出られないことだ。部屋から出られないので、風呂にも入れませんし、マゲ
結いやヒゲ剃りすらもできなかった。と考えられている。所謂牛込め、屋敷牢状態だ。
食事は家族が部屋まで運んでくるので食べれるし、トイレには行けたのだろう。が、そ
れは介護状態の、ほぼ牢状態である。これで相当な罪だというのは伝わったと思うが、
重い処罰なだけあって、対象者は限られていた。罪の内容として、主に政治的なものに
適用されている。エリート街道を歩んでいた家老や任官という場合である。誰もが知っ
ている偉人も、蟄居を経験している。田沼意次・吉田松陰・徳川慶喜(慶喜は自主的に
蟄居した)あたりがよく知られ、その蟄居隠居よりもさらに厳しい処分が「永蟄居」で
、これは読んで字のごとく、一生ずっと蟄居の状態で生きる事だった。当然、押し込ま
れる部屋には、格子がはめられるので、牛込とも呼ばれた。もはや現代の終身刑と大差
なく、ただ自分の家だったのみの違いだ。もちろんこの厳しさにも理由がある。永蟄居
まで行く場合には、相当に重い罪を犯している。実際、永蟄居の次に重い処分には改易
(武士の身分を剥奪されること)しかなく、その上が切腹である。とにかく「メンツ」
は、つぶれるのが辛かった時代で、一見すると単なる引きこもりの罰に見えるが、中身
は生活がガッシリと拘束される代物だった。まあフェートン号船員は、これに「労働」
がついた状態にもみえるのだが、そこらは、時代の要請なのだろう。

46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 15:23:24.06 ID:kYjsSiw5A
 新ジャパン レボリューション。 442   ( 日本の事情 )

 江戸時代の武士達にとって、この罰で一番つらかったポイントは、自由やキャリアを
奪われることではなかった。蟄居閉門は、武士が最も大切にしていた「メンツ」がまる
潰しの罰だった事だ。太平の世の江戸で、武士たちが重視した「強さ」ではなく「面目
」や「格式」に変わっていた。とにかく武士らしい振る舞いをすることが重要視され、
時には命を捨ててでも、この「面目」や「格式」「伝統」を守ろうした時代になってい
た。つまり、彼らにとって「面目躍如」は、命に等しい感覚が生まれていた。「年役」
が「厄」と揶揄されても続いた。これらはお祭り文化の、終局成果で、当時は隣組も、
ずっと連帯していたし、「誰それが蟄居閉門の処分を下された。」の噂は、瞬く間に、
町人にも共有されて大きな恥だったのだ。「悪いことして罰された。」と巷で噂される
家柄は、この上なく生活苦を強いる。面目が潰されてしまう事は地獄に等しかった。彼
らにとってこれは致命的な問題で、現代で「メンツってそんなに大事。ただカッコつけ
」とは随分違っていた。実は当時は対極には、即身仏の話もある。仏法はその逆を問い
、千日行などを得て、食事を切り5年かけて土の中に籠る。これにも許可を得るのだ。
水や漆さえも食して、作法に則り、世の太平を願いミイラになる。数年の乾燥期間を得
て寺に仏として奉納される身分を得る。当時即身成仏は、栄誉な事だった。命を賭して
これを行う。エジプトにミイラとの違いがある。普通にミイラは、死んだ者を弔い、墓
化粧するもので、その時使われる手法がミイラという「没薬(もつやく:ミルラ)」と
の言葉がミイラと呼ばれた。「腐る内臓」と取り「乳香(フランキンセンス)」を入れ
、乾燥させ、肢体が崩れ止め、アスファルトの包帯で巻いて御棺に収める。つまり火葬
の代わりの土葬の手法である。アロマ香料で、古代は薬を塗布していた歴史ある薫香を
入れた葬り方だった。その後盗掘されて何百体も薬として、江戸の将軍に購入された。
というから不思議なものだが、この精神文化こそ、他の国の神風特攻隊との、大きな違
いで、全く自爆テロとは程遠くある、チベットの焼身自殺に似た抵抗なのだ。敵の攻撃
に注目されたが、実は守りの抗議、究極の世界平和の祈りの行動なのである。

47 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/03(火) 16:32:38.29 ID:ZRBuOrA5H
米国で新たなオミクロン株の下位系統XBB.1.5が急速に拡散している。現存する
オミクロン下位変異株のうち免疫回避力が最も強いといわれ、米保健当局が緊張してい
る。2日(現地時間)、米疾病管理予防センター(CDC)によると、先月31日基準
でXBB.1.5が新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)の全体感染例のうち40。5
%を 占めることが明らかになった。これは先月24日基準の21.7%から1週間で倍
近くに増えた数値だ。専門家が憂慮しているのはXBB.1.5の強い免疫回避力だ。
XBBは免疫回避力の面で「現存する最悪の新型コロナ変異株」に挙げられてきたが、
XBB.1.5がこれを凌駕するという分析だ。CNBCなどによると、ウイルス学者
アンドルー・ペコス氏は「XBB.1.5は他の変異株よりも細胞と結合する力が強い
追加的な突然変異がある。」と説明した。北京大学の曹雲龍(Yunlong Cao
)教授は「XBB.1.5はわれわれが今まで知っている変異株のうち最も伝染性と
免疫回避力が強い」と話した。何だこりゃ。

・・・・だってよ。

48 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/03(火) 16:37:24.51 ID:ZRBuOrA5H
北京大学 と 米国CDC・・・・このつながりが、今回中国コロナの解放蔓延と関係性があるようにも見える

49 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/08(日) 00:01:18.53 ID:6v/qlSPNz
 新ジャパン レボリューション。 443   ( 日本の事情 )

 そんな江戸期の長崎で、通詞たちが漂着民が死罪に処せられるのを嫌ったのは、十分
理解できることであった。長崎は、この時日本有数の豊かな街であり、当時の江戸時代
を通じては、長崎の街は、科学最先端に触れることが出来るという、特別な最先端の街
であり、江戸時代のシリコンバレーみたいな都市でもあった。1786年の田沼時代に平賀
源内は、長崎へ遊学して、最新鋭の壊れたエレキテルを 江戸へ持ち帰っているのも、
その為だった。それを可能にしたのは通詞社会が生み出した数々の優秀な人材である。
ちなみに、そのエレキテルは、手代に回させ電気の火花をして暗闇を視る光源にした物
で、時の電灯や電球の様な役割だったらしい。この長崎から地動説やニュートンの引力
を紹介した本を仕入れて、志筑忠雄や本木良永、外科医としては著名な吉雄耕牛などが
彼の名声で、長崎は医術修行のメッカとなっていて、医学も又ここで頂点とされていた
。(『長崎通詞物語』49p)幕府に呼ばれて活躍した語学の天才馬場佐十郎など、日本
の科学や語学の進展に大いに寄与した通詞たちもいて、日本有数の知識人を挙げれば、
枚挙にいとまが無い。だが、大通詞となれば、年三千両の収入があった時代でもある。
オランダ渡りの 高価な珍品奇品に囲まれ、豪勢な別宅を拵えることも出来た。そうし
た生活をしていれば真実の追求より、今の安寧の保持が優先する者が大勢いたのは当然
だろう。通詞社会の支配者たちは、ことを起こさず、国際社会の真実より彼らの特権を
保障する体制の維持することが第一であって、集団の会議となれば尚更である。そして
それは、歴代の長崎奉行にも共通するところがあったろう。だが当然にそれに異議を挟
む人物はいる。清廉潔白の志、福岡藩の聞役、青木興勝である。この聞役(ききやく)
を設置したのは、1648年で、前述のように1647年ポルトガルの2番目の使節が来航し、
九州各地から5万人の軍勢を動員して港を封鎖した翌年で、必要に迫られたからである。

50 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/08(日) 00:01:47.56 ID:6v/qlSPNz
 新ジャパン レボリューション。 444   ( 日本の事情 )

 1647年再度使節のシーケイラらポルトガル使節が、2艘の船で長崎へ来航し、通商を
請うた事件で、この時5万の軍勢と兵船1500艘で取り囲こみ、船長以下、船員宣教師は
全て捕縛獄中死となった頃は、実は長崎で朱印船貿易により財をなした出自不明の商人
村山等安が、初代長崎奉行を辞して、代わって二代目の末次平蔵政直が長崎代官となり
、以後4代に渡って代官職を務める時代の移行期だった。延宝4年(1676年)に密貿易
が発覚し、4代茂朝とその一族や関係者は処罰されて、末次家の処罰後、代官職は長崎
の町年寄が代行した。しかし等安時代に、末次平蔵の訴えで、キリシタンの擁護と大坂
の豊臣方に内通した嫌疑で、元和5年(1619年)江戸で斬首。彼の一族も、長崎におい
て処刑されている。こうした記憶が残っていた時代だった。代官は、支配地長崎の徴税
を執行し、海外貿易の輸入貨物の検査、南北瀬崎の米蔵・御用物蔵・武具蔵・御船蔵の
ほか、長崎の寺社を管理した。それ以外にも牢屋と人足寄場の管理、人口移動や旅人の
取り締まり、米不足の解消、産業の奨励など、業務は多岐にわたっていた。1637年10月
の島原の乱が勃発からもたったの10年である。1638年2月に幕府は総攻撃で収まったもの
の、その後の踏み絵などで、隠れキリシタン狩りと、伊豆や伊豆諸島の移民船からの、
外国船の出没や侵攻は情報がもたらされていたのであった。さらに松倉重政の子の松倉
勝家が、密かに外国の大船を黒田と共に購入し外国貿易を企てたり、先の天正遣欧少年
使節団の報告でスペインとの友好航海の航路を開く事も確約している事が判明して行く
のである。江戸から派遣され鎮圧にかかっていた松平信綱はその後知恵伊豆として本領
発揮して具申した。1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に
要請して援護射撃をさせ、2月28日までに原城を陥落させ、総大将 天草四郎の首実検を
行い、さらし首としたが、彼の直近の家来も多く討死にしていた。

51 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 03:48:07.55 ID:nT6xeBAFu
    新ジャパン レボリューション。 445   (レザノフ来たる)

 これは、いささか聞き捨てならないこと である。長崎奉行を動かして福岡藩の人事
にまでも影響を及ぼすことが、通詞社会では可能であった。ということになるからだ。
これは、世界情勢の真実の把握より、通詞社会の都合を 長崎奉行が優先した証拠でも
ある。もし、漂着船がポルトガルの支配する港から 来航したものであったり、船籍が
ポルトガル船であったりしたらならば、江戸表への急使の派遣、漂着者の扱いと、尋問
が必要となり、更に必要なら、近隣の藩への軍勢派遣命令などを、長崎奉行にとっては
、一気に緊迫した事態になる事を覚悟しなければならない。その間に手続きなどにミス
でもあれば、容赦無く幕閣から処分を下されるだろう。と、予測できる。そうでもなれ
ば、奉行達は、長崎在勤(通常1年〜3年)の間は、面倒なことが多々起こる事は間違
いない。これが起きないように、通詞たちの報告には、異を唱えなかったのだろう。と
推測できる。結局、その積み重ねが、世界情勢についての、無知な幕府を作り上げた。
とも言えるであろう。夜郎自大(やろうじだい:力量を知らずに、いばっているたとえ)
で、上から下まで腐り切った官僚制の清王朝と比べると、規律に厳正で優秀な人材を、
的確にきちんと引き上げた徳川幕府の体制には、多少の現実感覚はあったろうが、自慢
出来るレベルまでに体制を築いたとしても、その情報が中国やオランダ以外での取集は
、とても出来なかったのである。しかし、著しく変転する世界情勢の中で、幕府の無知
さの理由が、良く分かるもう一つの例が、遅れてやってくる黒船、ロシア国使レザノフ
の来航である。それをここで、取り上げてみたい。歴史の表には出てこないが、幕府が
、対外政策を巡って右往左往したのは、アメリカのペリー来航が初めてではなかった。
1804年、ロシア国使レザノフが来航した時も、幕府はその通商要求を巡って混乱してい
たのである。それも、やはり幕府の無知に由来するものであった。そのことを詳細に見
ていく。

52 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 03:48:51.18 ID:nT6xeBAFu
    新ジャパン レボリューション。 446   (レザノフ来たる)

 1803年、ロシアの若き提督クルーゼンシュテルンは2隻の艦隊で、世界周航を企て
ロシア皇帝のアレクサンドル1世の許可を得て出航準備をする。その艦隊に、日本との
貿易を目指すレザノフが 国使として、また遠征隊の指揮官としての乗船したのだった
。 クルーゼンシュテルン提督のナデジュダ号と世界周航航路図が残っている。1804年
8月、長崎に到着したマリア・スザンナ号が、ドゥーフへのバタビア総督シーベルフの
訓令を持って来訪していた。「ロシアが世界周航に出る。その中には日本への国使派遣
が含まれる。その旨を風説書で、幕府へ報告せよ。」というのだ。シーベルフは、この
情報をヨーロッパからの船便で届いた新聞記事で知った。という。ドゥーフは、これを
別段で風説書として長崎奉行に提出している。だが、奉行成瀬正定はロシア船の来航は
、長崎市場での輸入品の価格下落をもたらすものと考え、この情報を市中に公開せずに
いた。ただし、警備の強化を、佐賀・福岡両藩に命じている。がそれのみだったという
のだ。これはどうしたことだろうか。これは最初の謎である。長崎は、当時にして日本
唯一の世界につながる窓口である。朝鮮通信使もあったが、これの情報はオランダから
の情報の鮮度に比べるべくもない 噂すら持ち得ない人達だった。長崎奉行でこの程度
の判断力であった。ということは、幕府は世界情勢に無知だっただからである。情報の
価値を判断できないのでいたのだ。長崎奉行と言えば上級旗本の中で特に優秀な人材を
配置する部署であり、江戸へ戻ると勘定奉行などへ出世してゆく登竜門でもあったのだ
が。それでもこれだった。赴任前に世界情勢について 何らかのオリエンテーション、
もしくは学習機会があった人物とは限らなかった。幕府の中での、プロトコル(手順・
しきたり)だけに通じた官僚だった。これも鎖国が190年続いた弊害だったのだろう。

53 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 03:51:10.37 ID:nT6xeBAFu
    新ジャパン レボリューション。 447   (レザノフ来たる)

 レザノフの船が実際に長崎港外に現れたのは10月9日、検使たちが下調べした後に、
ドゥーフが、幕府の決めた奉行の要請によって 上検使に同行してレザノフが乗船して
いるナデジュダ号に赴いた。これから先はドゥーフが残した秘密日記(「長崎オランダ
商館日記」に収録 117P)されている。「検使たちが、レザノフの乗るナデジュダ号に
乗船したのだが、まるで言葉が通じないので、奉行の要請で、ドゥーフが夜10時に同船
に、役人や大通詞に伴われて赴いた。」船室で待っていたレザノフの様子を、ドゥーフ
が日記に詳述しているので引用すると、「『金の垂れ飾り』のある青い上着に、ローズ
形のダイヤをつけた勲章帯、右胸に星、上着の背の左の結び目に金の鍵をつけていた」
とある。上質の羅紗の服であったろう。堂々とした『ロシア使節としての正装』である
。さらに「騎士にしてロシア阜帝陛下の侍従レザノフである。と告げ、同時に私に、彼
が私宛ての書面を持っている。が、しかし 彼はそれを、私に日本人がいないところで
渡すように注意しなければならない。と命ぜられている、と告げた。」と続く。これは
、レザノフが、ドゥーフが幕府の通訳を務めるであろうことを予期していたことを示し
ている。実は、レザノフは ロシア・ロマノフ王朝が送り出した最初の国使ではなかっ
たのである。12年前に「ラクスマン」が通商を促す国書を携えて、北海道の根室港を訪
れている。ゴローニンの日本幽囚記 (にほんゆうしゅうき「日本幽隠記」)や映画(お
ろしゃ国酔夢譚)にもなっていて、有名な大黒屋光太夫が帰国できたのは、このラクス
マンが彼を伴ってやってきたからであった。この時、 幕府は、長崎が唯一の世界のへ
の窓口であるから長崎へ行くように、と指示して長崎入港の許可書を渡していたのだ。
それを携えてレザノフが再び国使として、長崎へ来航したのである。それだけに、今回
はロシア側の準備は周到なものだったのである。

54 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 04:01:40.66 ID:nT6xeBAFu
    新ジャパン レボリューション。 447   (レザノフ来たる)

 そうした事で、周到な計画の元に、一行は訪日していた。その理由の一つが、ドゥー
フと出会うことにあったのだった。二人の会話はフランス語で行われ、日本人のいる中
で、堂々と話せたようだ。ドゥーフ自身は、アムステルダムの、フランス学校の出身で
あり、この頃のロシアの宮廷でも 皇帝夫人の産まれが、フランスの出自であった関係
からも、フランス語も公用語となっていた国情の国柄だった。レザノフが、日本人に、
気付かれないようにドゥーフに渡した手紙がそこにあった。駐ロシアのオランダ共和国
の全権大使であったファン・ホーヘンドルプからの書簡である。そこに書かれていた
その内容には、「レザノフと友好的に接し、レザノフが『日本へのロシア大使』として
認証されるよう、そして、使節団の目的が達成されるように、出来る限りの 丁重さと
援助を惜しまぬように、力を貸して欲しい。」という要請の文面であった。これには
レザノフが、たぶん遠征中に会うであろう。と言う予想の下に 全てのオランダの総督
たちや、司令官たち宛の、訓令でもあった。しかしこの訓令を出したホーヘンドルプと
いう人物は、実は、「スチュワートの登壇」の章で登場している人物である。それを、
ここに引用すれば「オランダの駐ロシア大使 ホーヘンドルフ(1761〜1822)急進改革
派の、駐露のオランダ大使ハーヘンドルフ」となっている。」又「さて、マサチューセ
ッツ号はその後バタビアへ到着した。ここからもガレー(Gourley)教授の論文を参照す
れば、バタビアの政治的環境は激変していて、本国オランダで親仏派のリフォーマー(
改革論者)であるホーへンドルプ(Horgendorp)が、『アメリカ人と自称するスチュワ
ートは、本当は敵国イギリス人であり、東インド会社は、敵性人物を長崎貿易に使用し
ている。』との会社を非難する本を出版し『彼は従来から東インド会社を敵視しており
、そのうえ次期バタビア総督に就任するのでは、という観測まで出ている。」といった
具合だ。本は大きな影響をもたらし後に、一時的にジャワ総督にスタンフォード・ラッ
フルズに、スチュワートはイギリス人と思いこませることに、苦労する事になったので
ある。」・・と上の文章を書いている。

55 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/10(火) 16:21:12.87 ID:C0MsmTxIR
    新ジャパン レボリューション。 448   (レザノフ来たる)

 ここで取り上げられるホーヘンドルプは、「スチュワートは英人だ。」と主張したと
した文脈で紹介されている。だがここでは「親仏派のリフォーマー(改革論者)である
」ということを取り上げる。というのも、イギリス、フランス、プロシャという強国に
取り囲まれた小国オランダは、とりわけイギリスとフランスのどちらを選ぶかの運命に
あって、弄ばれた国であったのだ。地政学的に、この物語のこの時期には、はからずに
も彼が産まれ育った時期に、イギリスは革命に敵対する保守(守旧)であり続けたのだ
。一方で、宗教革命・市民革命・と王制廃止で議会を作り、大革命が進行中のフランス
であった。改革の旗印を掲げたこの大国は、一方で大砲の砲弾さえ革命中だったのだ。
結果、小国オランダの内部は守旧派と改革派の真っ二つに、分断された国論の中にいた
。フランス革命軍が、オランダを侵略して、この革命を世界に広げるというミッション
に転じた時、オランダ共和国の元首である国王は、イギリスに逃れ住んで、フランス派
は、侵略革命軍を喚呼して協賛し、隣国フランスを迎えた。この中でホーヘンドルプは
フランス派の中心的人物であり、フランスの革命思想に倣って、オランダの国体のリフ
ォーム(改革)を訴え、更に実行し成し遂げようとしていた。この彼の主張の一つが、
アジア貿易を独占する「東インド会社解体」の道であったのだ。彼は海軍士官として、
1784年にアジアへ赴いている。ジャワ(インドネシア)で東インド会社に勤務している
が、植民地経営をつぶさに見るうちに、オランダ式(東インド会社方式)の、封建的な
システムを糾弾するようになって行った。多くの制限で思ったような行動が取れなかっ
た彼は、主張は一言で言えば「インド経営のイギリス流のやり方と比べると、ジャワの
経営システムは、簒奪するばかりで 地域の将来の発展可能性を、全く阻害している。
」というものだったのだ。本国に阿く(おもねく:忖度)挙句に遅れを取った。という
ものだったのだ。

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/10(火) 20:06:07.62 ID:C0MsmTxIR
    新ジャパン レボリューション。 451   (レザノフ来たる)

 こうしてオランダ東インド会社は17世紀の繁栄は遠くなり、18世紀後半には、慢性的
な赤字に悩んで、政府の補助が必要な存在となったのだった。ホーヘンドルプの主張に
ついてはインドネシア史の代表的な研究家永積昭博士の『オランダ東インド会社』から
引用すると、「会社が強行する専売制度は、それ自身が不合理であるばかりか、国家に
も悪い作用を及ぽした。ユダヤ人や外国人を含む、貧欲な株主に利益を与えているだけ
で、弊害である。国家が、一個の商業団体に このような特権を与えた例は今までなく
、今こそ国家が、全体の直接植民地の統治を行なって、その莫大な利益を得ると共に、
領土保全の義務を負い、利益を享受すべきである。胡板・香料・コーヒー・阿片、など
の、重要な農産物は国家の独占貿易に委ね、その他の生産物に関しては オランダ船を
使用する限り、東インド内の貿易を 全住民に開放していく。会社への特許状が、期限
切れとなる1799年には、この特許状なるものを更新せず、これを解体しなければならな
い」と息巻いている。(「オランダ東インド会社」永積昭 240p )読めば分かるように
、これは改革案というよりは、このシステムの「会社を潰せ」という過激な案であった
のだ。このために彼は、本国からの調査員に逮捕されて、本国へ送還されて行った。も
ちろん、彼の提案した改革案などは、本国政府の主要な首脳部には、一切顧みられなか
ったのである。それどころか、太平洋戦争が始まっても尚、日本がインドネシアを占領
するまでも、旧態依然とした、この植民地経営システムがなされていて、人種差別やら
旧態の封建制度は大手を振って生き残り、「オランダは何も学ばず、(インドネシアが
発展する可能性を)何も残さなかった。」と、解放されたインドネシア人から手厳しく
評価されることになったのだ。彼が帰った本国では、奇妙な事に既に、バタビア共和国
となっていた。つまるこの事が暗示するのは、オランダ本国は新フランス派(改革派)
の天下になった事なのだが、植民地ジャワでは、守旧派思想が 今だ生き残っていた。

57 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/10(火) 20:06:45.74 ID:C0MsmTxIR
    新ジャパン レボリューション。 452   (レザノフ来たる)

 この、なんとも複雑な構造が、江戸期から、明治・大正・昭和になっても生き続いて
いた。と言う、なんと生の強い制度だった。オランダ東インド会社は、1798年にバタビ
ア共和国憲法が成立すると解散の憂き目に合った。1799年、特許状はホーヘンドルフの
主張通りに更新されなかったからだった。国家が、主張の様にその経営を引き継いだが
、ジャワでは、守旧派が生き延びた形を取ったのだった。その証拠は後に論ずるとして
、そして 1800年後半には、スチュワートがバタビアへ連行されると、ホーヘンドルフ
はジャワで、生き延びている守旧派攻撃の一環として スチュワートを敵国イギリスの
手先と主張したのであった。この辺りの事情は、実に非常にややこしい。因みに長崎の
ドゥーフは、日記にも、「会社」と記するなど 体制の変化を感じさせない記述で収め
ていて、長崎奉行に「体制の変化」を、知られるとまずい。という状況判断がありあり
と見える。バタビアでも、同様であった様だ。1801年から1806年まで総督であったであ
ろうシーベルフは、頑固な守旧派で知られた人物であった。フランス寄りの本国政府は
イギリスに対抗して、陸軍兵力の大増強や 数々の改革を指示してきた。が、彼は改革
に一貫して抵抗し続けたのである。本国と、植民地既得官僚との温度差は大きかった。
互いの往来に、半年以上かかる帆船時代の どこにでもある特徴かも知れない。しかし
このシーベルフは、1804年夏に、ドゥーフにレザノフの来航予定を幕府へ伝えよ、と、
訓令した総督でもあった。この人物の存在こそ、ジャワでは 旧体制派が生き延びた。
と言う証拠の人物となる。さて、ホーヘンドルフはフランス寄りの バタビア共和国で
重職を得続けた。その最初の業績が、帝政ロシアの首都ペテルベルグへのオランダ全権
大使としての赴任である。当時のオランダ(バタビア共和国)は、フランスの一陣とし
て見做されていて、オランダ船は、英海軍から拿捕されるなど敵視されていた筈なのに
、対仏大同盟のメンバーであったロシアに、ホーヘンドルフは大使として赴任できた。

58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/10(火) 20:11:38.23 ID:C0MsmTxIR
    新ジャパン レボリューション。 453   (レザノフ来たる)

 この頃、オランダ船は、英海軍から拿捕されるなど敵視されていた。なのに、筈なの
に、対仏大同盟のメンバーであったロシアに、ホーヘンドルフは、大使として赴任でき
たのである?何故か?これが国際社会の面妖なる仕組みで、ロシア・ドイツに大戦前の
日本の政府や、首相や外交官が驚く国体と国情の真の姿だった。つまり、今でも行われ
ている、欧州の二枚舌外交の、国際社会の二面性が見え隠れする場面である。それは、
一時的な休戦協定である「アミアンの和約」が、英仏間で成立したからであるが、現場
の意向と下々の意向には、右でも左でも、勝手に判断して良い。と言う、現場優先主義
の一端がある。そもそも1802年のフランス北部の都市アミアンにおいて締結されたこの
条約は、ナポレオン戦争中3月25日に、グレートブリテン及びアイルランド連合王国 (
イギリス)とフランス第一共和政との間で締結された講和条約で、要旨はオーストリア
が同盟戦争を辞めた事で、イギリスが拳を降ろす事に、国民に恰好を付ける為の条約で
あった。これまで、優先的専有した後発のイギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジ
プトといった占領地から軍を撤収すること約束し、マルタ島はヨハネ騎士団へ移され、
ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還された。フランスはそれに応じて
、ナポリ王国やローマ教皇領からの軍を撤収することを約束した。つまり、国民総動員
でフランスは敵だ死守しろ!!奪還だ!占領だ!と言っていた事が、その後ろ盾だった
大国のオーストリアが、我が国は抜ける。と宣言した途端に、いやいや、ちょっとまて
今条約で、引き揚げることを決めたんだ。解ってくれ。と兵に電報を送った形であった
。そこで、もしそうした本国の意向に添えないときは、賊軍として、兵站である食糧は
消え、さらに海賊の様に追われる事もある。更に追われる立場となれば現地人からの、
大きな暴動や迫害も考える必要に迫られる事もあった。こうした年にホーヘンドルフは
バタビア共和国全権大使としてペテルブルクへ着任しているのであった。

59 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/10(火) 20:16:16.46 ID:C0MsmTxIR
    新ジャパン レボリューション。 454   (レザノフ来たる)

 レザノフは日本へ旅立つにあたって、日本と唯一国交のあるオランダの、全権大使で
あるこのホーヘンドルフに助言と協力を求めたのだった。ここで、一つの疑問が湧く。
レザノフへの、完全協力を求めたホーヘンドルフだが、実は 日本事情がよくわかって
いなかったのではないか?、という疑問だ。彼のジャワでの経歴などの詳細は明らかで
はない。だが、東インド会社の 独占的貿易権を批判する彼だ。長崎との貿易実務には
携われなかった。と 考えるのが自然だろう。ジャワ総督府にとっては、ホーヘンドル
フの様な反抗的社員は、獅子身中の虫的な存在だからである。例えば、「長崎オランダ
商館日記」には、レザノフが ドゥーフに渡した 公式書簡の宛名書きには『バタビア
共和国の、日本国の長崎の商館長宛 』となっていたのだ。と ドゥーフは書いている。
(121p)。レザノフは、ホーヘンドルフの指示通りに、日本人の検使や通詞に悟られな
いように密かにドゥーフに文書を手渡しした。したのだが、ドゥーフは、冷や汗を流し
ながらも、慎重に読んだはずだ。彼が隠し通しているもの、それは現在の母国オランダ
が家康から御朱印を下された「オランダ共和国」とは別物の、「バタビア共和国」の話
である。という事実の下でである。もしも、この文書が 通詞たちに明らかになると、
「このバタビア共和国とはなんなのか」と、追求されることになるのは必至だったろう
。真実が明らかになれば、オランダは、かつてのポルトガルやイギリスのように、長崎
から追放されることにもなりかねない。ドゥーフを又、「絶体絶命の淵」にまで追い込
みかねないのだ。この宛名書きには、改革派の新国家を代表するというホーヘンドルフ
の自負と同時に、この国家名を用いることが長崎商館長に、どれほどのリスクになるか
を理解していない。と言うことになる。また、この書簡を書いた時点で、長崎商館長が
誰であるのか(1803年にワルデナールからドゥーフに交代)を知らなかった。という傍証
にもなっていた。

60 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:49:02.65 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 454   (レザノフ来たる)

 レザノフは日本へ旅立つにあたって、日本と唯一国交のあるオランダの、全権大使で
あるこのホーヘンドルフに助言と協力を求めたのだった。ここで、一つの疑問が湧く。
レザノフへの、完全協力を求めたホーヘンドルフだが、実は 日本事情がよくわかって
いなかったのではないか?、という疑問だ。彼のジャワでの経歴などの詳細は明らかで
はない。だが、東インド会社の 独占的貿易権を批判する彼だ。長崎との貿易実務には
携われなかった。と 考えるのが自然だろう。ジャワ総督府にとっては、ホーヘンドル
フの様な反抗的社員は、獅子身中の虫的な存在だからである。例えば、「長崎オランダ
商館日記」には、レザノフが ドゥーフに渡した 公式書簡の宛名書きには『バタビア
共和国の、日本国の長崎の商館長宛 』となっていたのだ。と ドゥーフは書いている。
(121p)。レザノフは、ホーヘンドルフの指示通りに、日本人の検使や通詞に悟られな
いように密かにドゥーフに文書を手渡しした。したのだが、ドゥーフは、冷や汗を流し
ながらも、慎重に読んだはずだ。彼が隠し通しているもの、それは現在の母国オランダ
が家康から御朱印を下された「オランダ共和国」とは別物の、「バタビア共和国」の話
である。という事実の下でである。もしも、この文書が 通詞たちに明らかになると、
「このバタビア共和国とはなんなのか」と、追求されることになるのは必至だったろう
。真実が明らかになれば、オランダは、かつてのポルトガルやイギリスのように、長崎
から追放されることにもなりかねない。ドゥーフを又、「絶体絶命の淵」にまで追い込
みかねないのだ。この宛名書きには、改革派の新国家を代表するというホーヘンドルフ
の自負と同時に、この国家名を用いることが長崎商館長に、どれほどのリスクになるか
を理解していない。と言うことになる。また、この書簡を書いた時点で、長崎商館長が
誰であるのか(1803年にワルデナールからドゥーフに交代)を知らなかった。という傍証
にもなっていた。

61 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:49:31.94 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 455   (レザノフ来たる)

 館長のドゥーフにとって、日本側の 誰にも知られていないこの母国の秘密こそが、
ナポレオンが敗北した後、晴れてオランダの政体が旧に復帰して 1817年に次期商館長
ブロムホフがドゥーフへのオランダ国王の最高勲章の知らせをもたらすまで、ドゥーフ
を懊悩(おうのう)させ続けたことだったのだ。レザノフに助言したホーヘンドルフが
長崎入港プロトコルの詳細を、知らなかったことがレザノフに 意外な齟齬を来たし、
長崎奉行所の不信感につながっているのである。「長崎オランダ商館日記」によれば、
レザノフは、ドゥーフを通して検使たちに翌日長崎奉行に6人の随行員とともに面会し
たい。ついては、長崎湾内に停泊したい旨を伝えた。現在は長崎港口から5kmの伊王島
近辺になる所に停泊中だった。ここでこう述べると、検使たちが「湾内に入る外国船は
火薬と帯剣を、全て引き渡さなければならない習いである。」と伝えた。こう言うと、
さすがにレザノフは、少し怒っていて、「火薬とサーベルは渡すが、彼自身の帯剣や、
従者たちの帯剣12本、さらには、彼らを護衛する兵士たちの銃7挺は引き渡せない」
と強く大声で断るのであった。火薬を渡してしまえば、銃を保持していても意味が無い
、との見解もある。従って、船としての交戦の兵力はない。だがレザノフはドゥーフの
自伝(Recollection of Japan)によれば、検使が 「自分達は将軍の名代であるから、
椅子に座っていたレザノフに、立ち上がられよ」との命令口調で、促されても。これを
拒否したのである。レザノフには、ロシア皇帝のから全権を負託された国使である、と
言う自負が、そこにはあったのである。ここで、ショウグンの下僚である検使に敬意を
払えば、ロシア皇帝の権威を損なうことになる。との同様の考えで、彼は皇帝の国使で
ある自分の警護兵の武装解除には、例え弾薬は無くとも、これにに応じることは皇帝の
権威を損なうことになる。との考えであった。結局、警備兵と帯剣は許され、船の停泊
地も、長崎港の入り口までは許可されるのであるが、この武装解除に応じなかった件は
長崎奉行にとっては、密やかな恥辱であったに違いない。こうした様子を見聞して、こ
の日ドゥーフは午前2時に出島に戻ったのであった。

62 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:52:21.48 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 456   (レザノフ来たる)

 翌10月10日、レザノフが持参した 将軍宛の国書の内容を確認するために、再びドゥ
ーフに立会い要請が来たのだった。ロシアとの交渉のリスクを負いたくないドゥーフは
、そこでこう応対した。「外国船との交渉は、自分の義務ではないこと、またロシア船
の船長と、船医には、かなりオランダ語を話す者がいたのだから、私は必要ないだろう
。」と断っている。ここで注目すべきは、オランダ語の堪能なスタッフが乗船している
ことを見抜いていた事だ。この船医とは、ドイツ人の「ラングスドルフ」のことであろ
う。彼は、この航海後に『世界周航記』を誌すことになって、世界で一躍有名になった
。ドイツ人の医師・博物学者ラングスドルフだけでなく、レザノフ自身も、オランダ語
を話せた事が、のちに明らかになる。だが、結局奉行への気遣いから ドゥーフは再び
ナデジュダ号に行く羽目になった。この日は検使とのやりとりが終った後、レザノフは
ドゥーフを 夕食に誘っている。ドゥーフは、検使の許可を得た上で船上に留まって、
饗応を受けた。午前4時に、出島に戻った。随分な夜更け時期である。恐らく満月に近
い月見の中で、酔った様なドゥーフは、船に座り込んで、月に照る静かな美しい小波を
観ながら「どうしたものかのう。」と考えてただろう。オランダ国が消え、バタビア国
がある事は、どうしても伏せねばならない上に、このレザノフがいる限り、その危険性
は高い。ましてこのショーグンが治める長崎で、あまりに気安くレザノフに近づいては
、身に危険が及ぶし、さりとて ほったらかしでは、更にリスクは大きい。困ったもん
だ。」と、しかし、以降、この二人は二度と会えることは無かった。奉行が異国人同士
の連絡を遮断したからだ。また、ドゥーフの力を借りなくてもオランダ通詞を介しての
レザノフと交渉可能だったからである。この10月10日以後の商館日記は全て大通詞
からの報告をもとにして記述されたものでは、ここで終わっているのである。だから、
この後の話は、どこからかの伝聞ということになる。それでも大いに参考になる事柄は
多い。

63 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:52:50.61 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 457   (レザノフ来たる)

 翌11日に、ドゥーフは早速奉行に「オランダの貿易特権」を、念押しするための手紙
の執筆にかかっている。「(レザノフが日本にロシアとの通称を企図しそれを要求し、
実現させるための全権を 彼が持つという貿易に関しては、私は、私の義務に従って、
日本側に 次のことを指摘すべきである。と思った。」と書き出している。「(したが
って、手紙の大意は)『日本(徳川幕府)は、他のすべてのヨーロッパの 国民を差別
なく排除していながら、われわれには、当地で 今やほぼ160年も通商することを許して
きたことは有難い事だ。」「そして昨年は、2隻の異国船(スチュワートとトリ―船長
筆者注)を追い払うことによって、自らその明証(あかし)を立てたことであったが、
また、そのお返しに我々は、常に日本の法を忠実に守ってきた。が、今年も我々の船が
来た際には、このロシア人が、かならず来航するという事を、我々が、彼らに知らせた
事は、そのことの確証で、忠誠心からであること。を知ってもらいたい。』(長崎オラ
ンダ商館日記4 130p 10月11日)といった内容であった。という事は、ドゥーフ側は、
レザノフへの対応に、既にロシアが長崎にやって来る事を、前もって長崎奉行を通じて
知らせていた。という事になる。その上で、こうして手紙を書いています。と言う事だ
った。ここでは、ホーヘンドルプの指令通りに 極めて誠実で丁寧であり続けた対応で
あったが、オランダの国益と、会社の社益に忠良で、敏感であることは寸時も揺るがな
かったが、同時に極めて繊細に幕府と連絡を取っていた事を示している。まあ大通詞や
長崎奉行を通じてではあったものの、年末年始の年賀の日には、直接の将軍対話も許さ
れているので、かなりに、ひしひしと考慮を重ねていたのであったのだ。

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:53:12.83 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 458   (レザノフ来たる)

 また、同日の記述の中に、現職の奉行成瀬因幡守は、もうすぐ着任予定の次期奉行の
肥田豊後守の到着を待っており、一緒に協議することになる、と通詞が述べた、とある
。これは得川幕府の統制手法の一つである。決定権者の一人の独断を許さずに、協議を
優先させる。と判断するのは綺麗事に過ぎる。必ず二人以上に関わらせると言うのは、
相互監視と、牽制を意味する物であって、責任逃れやミスのなすりつけを許さない姿勢
が、この相互監視体制には、ある。徳川幕府に限らないのかも知れないが、武家社会で
独特の人間性悪説の最たるものである。これによって、何が起こってるのか?何が起き
るか?又何を決めるべきか。にしても、まずはリスク回避優先、決定のスピードは後回
し、先例のない判断はしない、と言う、後ろ向きの態度を鮮明にさせるのである。戦闘
におけるもので、功績が褒美としても、領地の獲得につながった時代は情勢判断には、
リアリズム優先で独裁先行だったのが、大坂夏の陣以降に、190年間平和な時代を続
けさせる。その体制に、相互監視や相互互助を藩や体制に築いた。この幕府の意思決定
の要因から、リアリズムや、対処の切れが、どんどん失われてゆくのである。その最大
の被害者が、レザノフ事件と言う事ができるだろう。江戸中期まで恐らくは独裁と命令
で武将各々の思考で動いていた世界だった。ところが、こうした事で意思疎通や思惑の
誤算は致命傷であった。そこで時間を掛けてでも、会話なり命令遂行なりが必要となる
。江戸も中期になると、こうした、急がば回れ的要素が必要となった。というのも天変
地異や飢饉が襲い、人々に何が与えうるかが試されたからだ。ここで結論を急げば、単
に「No」と言う返事を聞かされるだけのために、彼は実に半年間も長崎に幽閉され続け
た。という事になるのである。では日本側にYesの可能性はあったのだろうか。実は
ちょっと遅かったのである。。

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:54:40.95 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 459   (レザノフ来たる)

 レザノフは、実に半年間も長崎に謹慎され続けた。という事になる。日本側にYes
の可能性はあったのだろうか。実はちょっと遅かった。当時、樺太の南部には松前藩の
影響が及んでいましたが、樺太北部は謎に包まれた未知の世界であった。そこで幕府は
、1808年に樺太に調査団を派遣している。樺太は、ロシアと蝦夷地の間にある。国防上
大事な場所でもあった。にもかかわらず、樺太は厳しい自然のために調査すら困難で、
謎の包まれた未開の地のままであった。江戸幕府では、ロシアよりもはやく樺太の全容
を把握し、あわよくば樺太を日本の支配下に置こう。と、田沼時代に考えたわけです。
ラクスマンが来航した時も、実はこれと似たようなことが択捉島で起きていた。日本と
ロシアの勢力の中間に位置していた択捉島で江戸幕府は、ここに最上徳内(もがみとく
ない)と近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)を送り込んで、「大日本恵登呂府」の標柱を
立てた。要するに、「ロシアに取られる前に択捉島を日本の支配下におく」と考えた標
を打ったのである。今回の樺太の調査でも、これと同じことが行われた。この大任を任
されたのは先ほど少しだけ登場した間宮林蔵であった。間宮林蔵は、1799年に伊能忠敬
(いのうただたか)から測量技術を学んでおり、1803年には蝦夷地測量を実施。おまけ
にアイヌ事情にも詳しいため、樺太探索にはうってつけの人物で、大日本地図を作った
。私の本棚には、日本幽囚記(岩波文庫初版)と言うのがある。これはゴローニン事件
文化8年(1811年)に、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長の、ヴァ
シリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、
約2年3ヶ月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコ
ルドと共に彼に拿捕、そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力で、事件が
解決され、帰国後にゴロヴニンが執筆したのを和訳され『日本幽囚記』として広く知ら
れる。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 22:57:08.88 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 460   (レザノフ来たる)

 実はこのゴローニン事件の前に、1792(寛政4)年10月20日、ロシアの使節として、
ラクスマンが根室港に来航していた。日本人漂流民・大黒屋光太夫ら3名の、日本人の
返還という名目で、国書を持参し日本に通商を求めてきた。このラクスマンの根室来航
から12年後の1804(文化元)年の9月、ラクスマンに交付した信牌の写しとロシア皇帝
アレクサンドル1世の親書を携えて、ロシア使節レザノフが長崎に来航したのだが、こ
こでは、江戸幕府は、妖怪田沼の時代は終わっていたのである。実は日本の歴史におい
て、この江戸時代中期の、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を、田沼時代と称
されるほど、改革された時代はない。時代区分の史学上は、宝暦・天明期(ほうりゃく
・てんめいき)として、「宝暦・明和・安永・天明期(1751年〜1789年)」は特殊な時
であった。享保の改革と、寛政の改革の間、のわずか「約半世紀の時代」を指す。意次
が権勢を誇った期間を基準とするものの、定義がいくつかあるが、概ね御側用人職での
昇格した1767年(明和4年)から意次が失脚する1786年(天明6年)までと説明されて
いることが多い。単に「田沼期」や「田沼の改革」「田沼の政治」といった呼ばれ方も
ある。しかし、この時代の特徴として、通俗的には伝統的な緊縮財政策を捨てていき、
それまで見られなかった「商業資本」「貿易の利用」など「積極財政的な政策」を取っ
たとされているのだ。一方で、政治腐敗が進んだ時代、暗黒時代などともみなされるが
、賄賂政治の代名詞としても有名になり、その商業化日本をあざける様な論文もある。
しかしして、現代の様な商業的生産社会を目標としており、その中で火山噴火の飢餓期
が産まれて、農業生産がほぼ全滅した様な天変地異が起こっていて、かなり残念な時代
となった。その一つがゴロ―ニン事件でもあった。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:10:07.74 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 461   (レザノフ来たる)

 1754年(宝暦4年)日本は松前藩に、道東アイヌの住む国後島・択捉島・得撫島を、
管轄する国後場所を開設していた。泊に拠点の運上屋を設置しアイヌとの交易を開始し
その後1759年(宝暦9年)には、松前藩は、厚岸場所で、択捉島および国後島のアイヌ
から、北千島に、赤衣を着た外国人が番所を構えて 居住しているという報告を受けた
。そこで日本側も、ロシア人の千島列島への進出を認識する。その後、1776年にロシア
の、毛皮商人の大胆な殖民団が、得撫島に移民団を送りこみ、一時的に居住するなど、
道東アイヌからの掠奪や占領があって、領域の最東端へ到達していく。1778年(安永7
年)に、イルクーツク商人シャバリンは、この蝦夷地のノッカマップ(現在の根室市)
に来航し、交易を求めている。応対した松前藩士は、来年返答すると伝えて、藩上層部
に報告している。翌1779年(安永8年)厚岸に来航した折。松前藩は幕府に報告せずに
独断ではあったが、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝えて、
引き取らせた。これは公然の幕府方針でもあった。一方で、日本側も老中・田沼意次の
時代になって、幕府が蝦夷地探検隊を派遣する。1786年(天明6年)に最上徳内が幕吏
として、初めて択捉島へ渡島、同島北東端のシャルシャムで在留ロシア人と遭遇した。
こうして両国の接触が増えていく。この中で、1792年(寛政4年)アダム・ラクスマン
が、シベリア総督親書を所持した使節として、神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを伴いて
蝦夷地に来航したのである。ラクスマンは、江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代
わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。この時長崎に立ち寄れば、それな
りの回答と許可が与えられていたであろう。しかし、彼らにその気は無かったのである
それは、食糧と水と、更に商売上の事で07月16日に箱館を出港し、長崎へは向かわずに
オホーツクに帰港したのであった。ここで日本史のトピックスは終わったかに見えた。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:10:37.24 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 462   (レザノフ来たる)

 その後、ラクスマンに渡された「信牌」は、露米会社を設立したニコライ・レザノフ
が預かって、通商を求める事になった。皇帝・アレクサンドル1世の親書と、および、
ラクスマンが入手した「信牌」を所持した使節として、若宮丸漂流民の津太夫一行を、
ともなって1804年(文化元年)9月に長崎へ来航してくるのであった。しかしながら、
半年以上も上陸を許可されず、翌1805年(文化2年)3月に、長崎奉行所で目付・遠山
景晋から通商を拒絶されるのであった。レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、
ロシアに帰国した後に、武力を用いれば、日本は開国するとの考えを伝え、皇帝に上奏
するとともに、部下のニコライ・フヴォストフらに日本への武力行使を命令したのであ
る。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、亜庭湾の偵察を行い、アメリカに向か
え、という命令を残しての サンクトペテルブルク行きだったが、先の命令は撤回され
ては、いないと考え、フヴォストフは1806年〜1807年(文化4年)にかけて、先に日本
に向かい、択捉島や樺太、利尻島を襲撃しアイヌの子供らを拉致し、略奪や放火などを
行ったのである。幕府は、1806年1月に、ロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに
帰帆させる「ロシア船の撫恤令」を出して穏便策を行っていたが、フヴォストフの襲撃
を受けて、奥羽諸藩に出兵を命じ、蝦夷地沿岸の警備強化と、1807年12月に、ロシア船
打払い令を立て、近づいた者は容赦なく、逮捕もしくは切り捨てよ、漂着船はその場で
捕縛、監視の上獄中送りにする。という「ロシア船打払令」を出す。また1808年(文化
5年)に、長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していくのだ
った。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であったのである。これは悲しい
事に、ロシア皇帝にとって、日本との国交を断絶させる行為になって行き、この後に、
対馬露冠に繋がっていくのであった。とは言え、元々今のウラジオストックには、日本
からのアイヌ移住者が多く住んでいたのに、エカテリーナの命令で排除されている。

69 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:13:37.26 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 464   (レザノフ来たる)

 さてそのレザノフの長崎での日常はどうであったのか?それについての日本側の資料
が殆どないのである。また長崎育ちでも、当時の伝承も聞いた事がない。ふと思い立っ
てレザノフ来航に関してもっと資料はないか。と探索し、なんと国宝級の第一球資料が
見つかった。それがレザノフ自身が記述した、大島幹雄訳の「日本滞在日記」である。
不思議な事に、この日記は、早くにソ連では、発禁処分とされていた。当時の、樺太や
北方領土の記述が、ソ連にとっての不都合な真実であったことと、江戸幕府からロシア
皇帝の大使が、拒否されたこと。などが公にしたくなかった、などが理由のようだが、
ソ連崩壊後にシベリアで出版された。この日記を入手した大嶋幹雄氏が、早速全訳して
岩波文庫から、2000年8月に出版されたものである。この岩波文庫版も、絶版ではない
ものの、再版もしていないので、図書館か古本で入手するしかないのである。私は地元
の市立図書館の蔵書を読んで、あまりにも価値が高いので新品同様だった古本を入手し
たのである。ナザレフは、機知と語学才能に満ちた人物で、日本が読み書きできた人。
であった。彼の長崎滞在半年間の日記には、彼と接する役人たち(長崎奉行所)、通詞
たち、警護兵たち、長崎の名もなき人々、とのやりとりが生き生きと描かれ、幕府の、
公式文書にはない様な雰囲気と味わいを書いている。又、幕府側との 正式交渉の場の
詳細までもが、明らかになる。のである。これほどの、一級の資料でありながら洋学史
研究会(2021年に休会)に、取り上げられることは無かった(最も活動盛んな時期に間
に合わなかったからだろう)私は、この本の存在に迂闊にも全く気がつかなったのだ。
このIT進化に日本政府は。膨大な予算をつぎ込んでも、ソフトの面で人財がないのだ

70 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:14:18.30 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 464   (レザノフ来たる)

この本が入手困難であることは、岩波書店の責任でもある。現下の情勢のネット社会で
の読書離れによる出版社や本屋の経営難での、苦境にあるのは理解できるが、岩波茂雄
氏は、岩波文庫創刊にあたり『生命ある不朽の書を少数者の書斎や研究室に解放して、
街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめる。』と、昭和2年に高らかに宣言した精神が
岩波書店の内の、立志精神であったはずだ。このような貴重な書は電子書籍として出版
するとか、オンデマンド出版の道を開くべきであろう。
 これはもちろん岩波書店に限らないのだが。このサイトにずっとあとに出現する章で
語られるであろう 英国領ジャワの時代のラッフルズがドゥーフに撤退を迫る秘密使節
を送った事件などは、関連資料を'Google'の'PlayBooks'で 電子版として無料で手に入
れることが出来る様になっていた。原書を、スキャンしてPDF化しただけであるのだ
が、こうした資料としての価値は、全く計り知れない価値がある。そのような時代であ
ることを、日本の出版社にも 文化を担う事業者としても、考えてほしい。経営が苦境
になり、貴重な出版物まで一緒に消えると言うのはあまりにも無責任ではなかろうか。
大嶋幹雄氏は、ナザレフが連れてきた若宮丸の漂流民たちの出身地石巻の方で、石巻学
など活発に活動されている方のようだ。この方がレザノフ日記を発見し、翻訳の労を、
取られたことは大変な功績である。と思う。『復元!江戸時代の長崎』(惣町復元図)
の布袋厚もそうであるが、時間と労力を注ぎ込んでなされた事業には、実に偉大である
と感服する次第である。では、次の章でそのレザノフの滞在日記について記していこう


71 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:24:23.89 ID:QgeHC5FSH
    新ジャパン レボリューション。 465   (レザノフ来たる)

 1803年ロシアの若き提督クルーゼンシュテルンは、2隻の艦隊で世界周航を企て、ア
レクサンドル1世大帝の許可を得た。その艦隊に、日本との貿易を目指すレザノフが、
国使として、また遠征隊の指揮官として、乗船していたのだった。ナデジュダ号での
クルゼンシュテルン提督の世界周航航路には、マゼラン海峡を通過する太平洋横断も、
視野に入れた航海であった。とされる。1804年8月長崎に到着したマリア・スザンナ号
が送って来たドゥーフへの手紙で、バタビア総督シーベルフからの訓令の中にその状況
の情報はあった。つまり、「ロシアが 世界周航に出るので、その中には、日本への国
使の派遣隊が含まれている。その旨を、風説書で幕府へ報告せよ。」というものだった
。バタビア総督のシーベルフ側は、この情報をヨーロッパからの船便で届いた新聞記事
で知った。と書かれている。ドゥーフでは、これを別段の風説書として長崎奉行に提出
している。つまり別書きとしたのは、幕府内の意見や組織がどう動いているのかを知ら
ない事で長崎奉行の措置に任せたのである。奉行成瀬正定は、ロシア船の来航は、長崎
市場での輸入品の価格下落をもたらすもの。と考えていて、この情報を 市中には公開
せずにいた。ただ警備の強化を佐賀・福岡両藩に命じたのみだった。という。これは、
どうしたことだろうか?これが最初の謎である。長崎出島は、当時の日本唯一の 世界
につながる窓でもあった。朝鮮通信使もあったが、これの情報は オランダからの情報
の鮮度や幅には比べるべくもないくらい狭く古い。長崎奉行が、この程度の判断力であ
ったということは、世界情勢に無知だったからである。情報の価値を、判断できないで
いたのだろう。長崎奉行と言えば上級旗本の中で特に優秀な人材を配置する部署であっ
て、江戸へ戻ると、勘定奉行などへ出世してゆく登竜門でもあった。しかし、だからと
いっても井の中の蛙の日本だった。赴任前に世界情勢について 何らかのオリエンテー
ション、もしくは、学習機会があったとは思えない。単なる幕府の中での、プロトコル
だけに通じた官僚だったのだ。これも自由のない鎖国が190年続いた弊害だったのだろう。

72 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 23:44:03.12 ID:Z5gZao+CW
    新ジャパン レボリューション。 466   (レザノフ来たる)

 レザノフの船が実際に長崎港外に現れたのは、10月 9日、検使たちが下調べした後、
いつもの様に、ドゥーフは奉行の要請により、上検使に同行して レザノフが乗船して
いるナデジュダ号に着いた。これから先は、ドゥーフが赴いて残した秘密の日記「長崎
オランダ商館日記」117pに添って見て行くとする。「検使たちが、レザノフの乗った
ナデジュダ号に乗船したが、まるで言葉が通じないので、奉行の要請で使いがはしり、
ドゥーフは、夜10時に、同船に役人や大通詞に伴われて赴いたのだった。船室で待って
いたレザノフの様子を ドゥーフが日記に詳述しているので引用すれば、『金の垂れ飾
りのある青い上着に、ローズ形ダイヤをつけた勲章帯、右胸に星、上着の背の左の結び
目に金の鍵をつけていた。』とある。上質の羅紗の服であったろう。堂々としたロシア
使節としての正装である。さらに『騎士にして ロシア阜帝陛下の侍従、レザノフであ
る。』と告げて、『同時に私には、彼が私宛ての書面を持っているが、しかし、彼は、
それを私に 日本人がいないところで渡すように、注意しなければならない』と命ぜら
れている、と告げた。」と続く。これはレザノフが、ドゥーフが幕府の通訳を務めるで
あろうことを 予期していたことを、示している。もし映像が出るのなら、恐らくは、
大きくとも、狭苦しい船内に、ランプでちりばめれた金の縁や飾りの勲章が、威厳を醸
し出すように工夫され、一見して地味な日本人検使や自分が惨めな貧乏人に見える構図
で話し合いが行われていたであろう。ロシアのロマノフ王朝からの最初の国使ではない
。12年前にラクスマンが通商を促す為の国書を携え、前にも根室に訪れていた。映画の
(おろしゃ国酔夢譚)にもなり、大黒屋光太夫が、帰国できた有名な話である、この時に
ラクスマンに、幕府は、長崎だけが唯一の世界のへの窓口であるから 長崎へ行くよう
に、との指示を出し、この時に長崎入港の許可書を渡している。

73 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 13:57:04.94 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 467   (レザノフ来たる)

 用意のその一つがドゥーフと出会うことであった。二人の会話はフランス語で行われ
たのだが。ドゥーフはアムステルダムのフランス学校の出身であり、ロシアの宮廷では
フランス語が公用語である。レザノフが、日本人に気付かれないようにドゥーフに渡し
たのは、駐ロシアの、オランダ共和国全権大使であるファン・ホーヘンドルプからの、
書簡であったのだ。その内容は、「レザノフと友好的に接して、レザノフが日本への、
ロシア大使として認証されるように、そして使節団の目的が達成されるように、出来る
限りの 丁重さと援助を惜しまぬように。」という内容の要請であった。これはレザノ
フが遠征中に会うであろう 全てのオランダの総督たち司令官たち宛の訓令であった。
実はこのホーヘンドルプという人物、スチュワートの登壇で、登場している人物である
。それをここに引用しよう。オランダの駐ロシア大使 ホーヘンドルフ(1761〜1822)
は、急進改革派の駐露オランダ大使であった。まあ、オランダとロシアの間を持つのが
大使だから、仲良くするために友好親善と協力要請するのは、当然の成り行きでのある
。その少し前、マサチューセッツ号は、その後バタビアへ到着した時の事だ。ここから
も Gourley 教授 の論文を参照すると。バタビアの政治的環境は例の如く激変していた
のだ。本国のオランダで、親仏派のリフォーマー(改革論者)であるホーへンドルプ(
Horgendorp)が「アメリカ人と自称するスチュワートは。本当は敵国イギリス人であり
、東インド会社は 敵性人物を長崎貿易に使用している。」と会社を非難する本を出版
したのだ。彼は、従来から東インド会社を敵視しており、そのうえ次期バタビア総督に
就任するのでは、という観測まで出ている。という話である。余談ながらこの本は意外
な影響をもたらした。後に一時的にジャワ総督に就任(イギリスのジャワ短期統治期)
したスタンフォード・ラッフルズに、スチュワートはイギリス人と思いこませることに
成功したのである。

74 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 13:57:38.63 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 468   (レザノフ来たる)

 上の文章で見たようにホーヘンドルプは、スチュワートが、英人だと主張した文脈で
紹介されているのである。だがこの章では、「親仏派のリフォーマー(改革論者)」と
いうことを取り上げたい。イギリス、フランス、プロシャ(ドイツ)という強国に取り囲
まれた小国オランダは、とりわけイギリスとフランスのどちらを選ぶかの運命に弄ばれ
た国である。この物語のこの時期、イギリスは革命に敵対する保守(守旧)であって、
大革命が進行中のフランスは、改革の旗印を掲げ、結果小国オランダの内部は 守旧派
と改革派の真っ二つに分断されていた世論だったのである。フランス革命軍がオランダ
を侵略し、市民革命を世界に広げる、というミッションで進出した時、オランダ共和国
の元首であった国王は、イギリスに逃れて、フランス派は侵略革命軍を喚呼して迎えた
。ホーヘンドルプはフランス派の人物であり、フランスの革命思想に倣ってオランダの
リフォーム(改革)を、成し遂げようと主張していた。彼のその一つの行動が、アジアの
貿易を独占する、東インド会社の解体であった。彼は、海軍士官として1784年にアジア
へ赴き、ジャワ(インドネシア)で、東インド会社に勤務していた。が、植民地経営を
つぶさに見るうちにオランダ式(東インド会社式)の封建的なシステムを、糾弾する様
になる。彼の主張を一言で言えば、「インド経営のイギリス流のやり方と比べてみると
、ジャワの経営システムは、簒奪するばかりで地域の将来の発展可能性を阻害している
。」というものだった。オランダ東インド会社は17世紀の繁栄は遠くなり、18世紀後半
は慢性的な赤字に悩み、政府の補助が必要な存在だったので、その中身も容相もそうで
あった。ホーヘンドルプの主張については、インドネシア史の代表的な研究家の、永積
昭博士の『オランダ東インド会社』から引用しよう。

75 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 13:58:17.62 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 469   (レザノフ来たる)

 会社が強行する専売制度は、それ自身不合理であるばかりか、国家にも 悪い作用を
及ぽし、ユダヤ人や外国人を含む 貧欲な株主に利益を与えているだけである。国家が
商業団体に、このような特権を与えた例は過去に今までなく、今こそ、国家が直に直接
植民地統治を行なって、その莫大な利益を得ると共に、領土保全の義務を、負うべきで
ある。胡椒、香料、コーヒー、阿片などの 重要な農産物は、国家の独占貿易に委ね、
その他の生産物に関しては オランダ船を使用する限り、東インド内の貿易を全住民に
開放する。会社の特許状が期限切れとなる 1799年には、特許状を更新せず、これを、
解体しなければならない「オランダ東インド会社」永積昭 240p 読めば分かるように、
これは改革案というよりも、「会社を潰せ。」という過激な案でもあった。このため、
彼は逮捕されて、本国へ送還された。もちろん 彼の提案した改革案は一切顧みられる
事はない。それどころか太平洋戦争が始まって 日本がインドネシアを占領するまでも
、旧態依然とした植民地経営システムは生き残ったのである。「オランダは何も学ばず
、インドネシアが発展する可能性を、何も残さなかった。」と、その後に 解放された
インドネシア政府や現住民から、手厳しく評価されることになるのだった。彼が帰った
本国では、既にバタビア共和国となっていた上で、彼は解放された。この事が暗示する
のは、オランダ本国は新フランス派(改革派)の天下になったが、植民地ジャワでは。
守旧派が生き残っていた。という複雑な構造になる。つまり、イギリスの植民地経営の
行き詰まりより、はるか百年も前に行き詰まり、植民地経営の再建が、急務になってい
たオランダであったのだ。そして、不幸な事に小国の呪縛は、ホーヘンドルプの主張が
ホーヘンドルプ自身すらも 守れない国家構造で壁であった事である。ここに厚い壁は
その後も200年は続いて第二次世界大戦の原因ともなっていた。改革・解放のいかに
難しいものかを 物語るものである。

76 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 15:18:16.06 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 470   (レザノフ来たる)

 オランダ東インド会社は 1798年にバタビア共和国憲法が成立すると、解散の憂き目
に合う。1799年、特許状は ホーヘンドルフの主張通り更新されなかったのだ。国家が、
その後の経営を引き継いで、ジャワでは、守旧派が生き延びた。その証拠は後に論ずる
が、1800年後半になってスチュワートが、バタビアへ連行されると、ホーヘンドルフは
、ジャワで生き延びている守旧派の代表の一環で攻撃した。スチュワートの敵国イギリ
スの手先と主張するのであった。この辺りの事情は、非常にややこしい絡みがある。因
みに長崎のドゥーフは、日記にも「会社」と記するなど 体制の変化を感じさせない。
長崎奉行に、体制の変化を知られるとまずい。という状況判断もあったのだろう。と思
われる。バタビアでも同様であった。1801年から1806年まで総督であったシーベルフは
、頑固な守旧派で知られた人物であった。が、それでも、フランス寄りの本国政府は
イギリスに対抗しての陸軍兵力の大増強や、数々の改革を指示してきていて、彼はその
改革に一貫して抵抗し続けた。本国と 植民地の既得官僚との 温度差は大きかった。
のである。がこれは互いの往来に、半年以上かかる帆船時代の特徴かも知れない。この
シーベルフは、1804年夏に、ドゥーフにレザノフの来航予定を幕府へ伝えよ、と訓令し
た。総督権限である。この人物の存在こそ、ジャワでは旧体制派が生き延びた証左でも
あった。ホーヘンドルフはフランス寄りのバタビア共和国内で、重職を得続けた。その
最初が、帝政ロシアの首都ペテルベルグへの オランダ全権大使としての赴任である。
当時のオランダ(バタビア共和国)は、フランスの一陣と見なされていて、オランダ船
は英海軍から拿捕されるなど敵視されていた筈だが、対仏大同盟のメンバーであった。
このロシアに、ホーヘンドルフは大使として、なぜか赴任できた。それには理由がある

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 15:18:38.24 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 471   (レザノフ来たる)

 それは、巧妙な国家の仕組みと、一時的な休戦協定のなせる技でもあった。「アミア
ンの和約」が、英仏間で成立したからである。イギリスは1793年に第一次対仏大同盟を
結成して、対フランスへと宣戦して、以来フランスとの間で戦争状態にあった。だが、
オーストリアが1801年にリュネヴィルの和約を締結して 第二次対仏大同盟から脱落す
ると、イギリスのみが、戦争を続けることになったのだが、ここで 1802年3月25日に、
親仏派の侯爵を派遣し外交を進め、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギ
リス)とフランス第一共和政との間での、一旦休戦の協定が締結されたのである。つま
り講和条約である。これが1802年のことで、この年にホーヘンドルフはバタビア共和国
全権大使としてペテルブルクへ着任した。つまり、和平の機運の中で、敵国英国と広伝
を繰り返す愛国主義に危険性を見て、忸怩たる思いながらも、首謀者たる彼を左遷して
、その信奉者達と離して和平交渉に挑んでいたのだ。英国も又、孤立化を嫌い、アイル
ランドの対スペイン戦を通じた共闘作戦にいた者を同席させた。フランスでナポレオン
も、これ以上の対外戦争よりは、自分地位を揺らがす国内の安定を重視し、講和は望む
ものだった。こうして講和条約において、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジ
プトといった占領地から、軍を撤収することを約束して、マルタ島にヨハネ騎士団へ、
ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることで、合意に至ったのだ
った。フランスは、この時代わりにナポリ王国、ローマ教皇領からの、軍を撤収する事
を約束し、バチカンの聖職者たちの反発も、ここで強力に抑える協力も得たのである。
ここで、レザノフは、日本へ旅立つにあたって、日本と唯一国交のある オランダの、
この全権大使であったホーヘンドルフに助言と協力を求めたのであった。

78 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 15:19:08.67 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 472   (レザノフ来たる)

 ここで一つの疑問が湧く。レザノフへの 完全協力を求めたホーヘンドルフなのだが
、実は日本事情がよくわかっていなかったのではないか、という疑問だ。彼のジャワで
の 経歴の詳細は明らかではない。が、東インド会社の独占的貿易権を批判する彼が、
長崎との貿易実務には携われなかった。と考えるのが、普通に自然だ。ジャワ総督府に
とっては、ホーヘンドルフは、獅子身中の虫的な存在だからである。例えば、この「長
崎オランダ商館日記」には、レザノフがドゥーフに渡した公式書簡の宛名書きにおいて
 「バタビア共和国の日本国長崎の商館長宛 となっていた。」とドゥーフは書いている
(121p)。レザノフは、ホーヘンドルフの指示通り、日本人の検使や通詞に悟られない
ように密かにドゥーフに文書を手渡ししたのだが、ドゥーフは、冷や汗を流しながら、
送られた手紙を預かったのである。彼が、隠し通しているものが、それは、現在の母国
オランダが、家康から御朱印を下された「オランダ共和国」とは、全く別物の「バタビ
ア共和国」であるという事実からでも、隠す必要があった。もしこの文書が通詞たちに
明らかになると、このバタビア共和国とはなんなのか、と追求されることになるだろう
。真実が明らかになれば、オランダは、かつての、ポルトガル商館やイギリス商館の、
ように長崎から追放されることになるか、もしくは、一から家康の朱印状と同じものを
、説明し納得させて発行してもらう事になるか、しかなくなる。そんなに江戸の幕閣が
、理解ある、オランダに味方の政府ではない。ドゥーフを、絶体絶命に追い込みかねな
いこの「宛名書き」には、改革派の新国家を代表する。というホーヘンドルフの自負と
同時に、この国家名を用いることが長崎商館長にどれほどのリスクになるかを理解して
いないかった事が見てとれるである。さらに「商館長『ドゥーフ』様あるいは『ワルデ
ナール』様ではなかった事だ。

79 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/18(水) 15:19:35.98 ID:djZUW9633
   新ジャパン レボリューション。 473   (レザノフ来たる)

 またこの書簡を書いた時点で長崎商館長が誰であるのか、1803年にワルデナールから
ドゥーフに交代している事をも、を知らなかった傍証にもなる。ドゥーフにとって日本
側の、誰にも知られていないこの母国の秘密こそ、ナポレオンが敗北した後、晴れての
オランダの政体が、急に復帰しての1817年に、次期商館長ブロムホフが ドゥーフへの
オランダ国王の最高勲章の知らせをもたらすまでの間中、ドゥーフを懊悩させ続けた事
だった。この時レザノフに助言したホーヘンドルフが、長崎入港プロトコルの詳細を、
全く知らなかった。日本の幕府も、日本の幕府の仕組みもそして、入国のプロトコルも
。このことが、レザノフに意外な齟齬を来たして、長崎奉行所の不信感につながるので
あった。「長崎オランダ商館日記」によれば、レザノフは ドゥーフを通して、検使達
に、翌日長崎奉行に、6人の随行員とともに面会したい、ついては長崎湾内に停泊した
い。」と、(現在の長崎港口から5kmの)伊王島近辺に停泊中の船の中で述べた。検使た
ちが、「湾内に入るには、外国船は火薬と帯剣をを全て引き渡さなければならい。」と
言うとレザノフは、「火薬とサーベルは渡すが、彼自身の帯剣、従者たちの帯剣12本、
さらに、彼を護衛する兵士たちの銃7挺は引き渡せない。」と断ったのである。火薬を
渡してしまえば銃を保持していても意味が無い、との見解もある。だが、レザノフは、
ドゥーフの自伝で(Recollection of Japan)は、検使が “自分は将軍の名代である。
だから(椅子に座っていたレザノフに)立ち上がられよ。”と促されても、これを拒否
していたし、レザノフには、自負があった。「私は、ロシア皇帝のから全権を負託され
た国使である。ロシア皇帝の権威を阻害されてはならなぬ。」と言う自負があったのだ
。当然である。更にこの大きな船には、隠し船倉にも火薬の予備があって、見つけられ
ない筈だ。と言う様な事も、想像は出来る。

80 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 12:12:52.51 ID:Zj0GIekbx
   新ジャパン レボリューション。 474   (レザノフ来たる)

 ここで「ショウグンの下僚である検使に、敬意を払えば ロシア皇帝の権威を損なう
ことになる。」とも思っていた。同様の考えで、彼は皇帝の国使である自分の 警護兵
の武装解除(例え弾薬は無くとも)に応じることは、皇帝の権威を損なうことになるの
である。更に言えば、日本を知らないし日本を信じていなかった。結局、警備兵と帯剣
は、許されて、船の停泊地も、長崎港の入り口までは許可されるのであるが、この武装
解除に応じなかった件は、長崎奉行にとっては密やかな恥辱であったが、ドゥーウたち
の立場にもショックだった。に違いない。この日の内の、午前2時にドゥーフは出島に
戻った。ドゥーフにとってもレザノフにとっても、この日本の意向の掴み取り切れない
物があって、逆に日本にもそれがあったのだ。翌10月10日、レザノフが持参した、将軍
宛の国書の内容を確認するために、再びドゥーフに対して 立会い要請が来る。ロシア
との交渉の、リスクを負いたくないドゥーフは「外国船との交渉は自分の義務ではない
こと、またロシア船の船長と船医は、かなりの オランダ語を話すのだから。」と断っ
ている。ここで注目すべきはオランダ語の堪能なスタッフが乗船していたことだ。この
船医とは、ドイツ人のラングスドルフのことで、彼はこの航海後『世界周航記』を誌す
ことになる人物だった。ドイツ人の医師・博物学者ラングスドルフだけではなく、レザ
ノフ自身も、オランダ語を話せた事がのちに明らかにする。だが結局、奉行への気遣い
から、ドゥーフは再び、ナデジュダ号に行く事になった。この日は、検使とのやりとり
がひとしきり終った後で、レザノフはドゥーフを夕食に誘い、ドゥーフは検使の許可を
得た上で、船上に留まり饗応を受けて、午前4時に出島に戻っている。以降に、この二
人は、二度と会えることは無かった。奉行が異国人同士の連絡を 遮断したからだ。ま
たドゥーフの力を借りなくても、オランダ通詞を介してレザノフと交渉可能だったから
である。

81 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 12:18:40.60 ID:Zj0GIekbx
   新ジャパン レボリューション。 475   (レザノフ来たる)

 この10月10日以後の商館日記では、全て大通詞からの報告をもとにして記述され
たものである。だから伝聞ということになる。それでも大いに参考になる事柄は多い。
翌11日、ドゥーフは、早速奉行にオランダの貿易特権を念押しするための手紙の執筆に
かかっている。「レザノフが、日本にロシアとの通称を企図し それを要求し実現させ
るための全権を、彼が持つという貿易に関しては、私は、私の義務に従って、日本側に
、次のことを指摘すべきである。と思った。(したがって、手紙の大意は)『 日本(
徳川幕府)は、他の すべてのヨーロッパの国民を差別なく排除していながら、われわ
れには、当地で 今や ほぼ160年も通商することを許してきたこと、そして昨年は2隻
の異国船(スチュワートとトリ―船長)を、追い払うことによって自らその明かしを立
てたこと。」が気され、「また そのお返しに、我々は、常に日本の法を忠実に守って
きたが、今年も、『我々の船が来たその際には、このロシア人が、かならず来航する。
』ということを、我々が、彼らに知らせた。」事が、そのことの 証拠になること。(
長崎オランダ商館日記4 130p 10月11日)という内容を書いたのである。ドゥーフは、
レザノフへの対応はホーヘンドルプの指令通りに、極めて誠実で丁寧であり続けたが、
オランダの国益と 会社の社益に忠良で敏感であることは、寸時も揺るがなかった事を
示している。つまり、実直にあり、ちゃんと季節的来航にあっては、国交を開く交易を
認める事は、オランダ船の来航時には、当然ロシア船も同じ時期にに同じようにやって
来るので、通詞や防衛の仕組みはこのままではいかんでしょう。更に他の国も、一緒に
やって来る事になりますよ。と、それとなく書いて、一緒に昨年まで、交易の無い異国
船を追い払いましたが、それが、出来なくなるのですよ。いった事を書いたのである。

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 15:57:11.37 ID:5VXK7utFU
  新ジャパン レボリューション。 476   (レザノフ来たる)

 また同日の記述の中に、現職の奉行の成瀬因幡守は、もうすぐ着任予定の次期の奉行
、肥田豊後守の到着を待っており、一緒に協議することになる、と通詞が述べたとある
。これは徳川幕府の統制手法の一つである。決定権者一人の独断を許さずに協議を優先
させる。と、判断するのは綺麗事に過ぎる。必ず二人以上に 関わらせると言った様な
事は、相互監視と牽制を意味するのであった。徳川幕府に限らないのかも知れないが、
武家社会独特の 人間性悪説の最たるものである。これによって何が起きるか?何を決
めるにしても、リスク回避優先、決定のスピードは後回し、先例のない判断はしない、
と言う後ろ向きの態度が生まれているのである。戦闘における功績が褒美として領地の
獲得につながった時代は、情勢判断はリアリズム優先だったのが、大坂夏の陣以降では
190年間平和な時代が続いていて、幕府の意思決定の要因からリアリズムがどんどん
失われてゆくのである。その最大の被害者が、レザノフと言う事ができるだろう。ここ
で結論を急げば、単に「No」と言う返事を聞かされるだけのために、彼は実に半年間も
長崎に幽閉され続けたのである。さて、そのレザノフの長崎での日常はどうであったか
?。それについての 日本側の資料が殆どないのである。また私は長崎育ちであるが、
当時の伝承も聞いた事がない。ふと、思い立ってレザノフ来航に関してもっと資料はな
いかと探索したら、なんと国宝級の第一球資料が見つかった。レザノフ自身が記述した
「日本滞在日記」である。(大島幹雄訳 日本滞在日記)

83 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 15:57:41.62 ID:5VXK7utFU
   新ジャパン レボリューション。 477   (レザノフ来たる)

 しかし、この日記は ソ連では発禁処分とされており(当時の樺太や北方領土の記述
がソ連にとっては不都合な真実であったことや、江戸幕府からロシア皇帝の大使が拒否
されたことを公にしたくなかった事、などが 理由のようだ)、ソ連崩壊後にシベリア
で出版されたこの日記を入手した大嶋幹雄氏が 全訳して岩波文庫から2000年8月に出版
したものである。この岩波文庫版は、絶版ではないものの、再版をしていない。ので、
図書館か古本で入手するしかない。私は地元の市立図書館の蔵書を読み、あまりにも、
価値が高いので古本(幸い新品同様だった)を入手した。ナザレフは日本が読み書きが
できた機知と語学才能に満ちた人物であり、彼の長崎滞在半年間の日記には、彼と接す
る長崎奉行所の役人たちの、通詞たち、警護兵たち、長崎の名もなき人々とのやりとり
が逐一生き生きと描かれ、幕府の公式文書にはない 幕府側との正式交渉の場の 詳細
なやり取りまでもが、明らかになるのである。これほどの一級資料でありながら、洋学
史研究会(2021年に休会)でも取り上げられることが無かった。(最も活動盛んな時期
に間に合わなかったからだろう)ので、私はこの本の存在に迂闊にも全く気がつかなっ
たのだ。この本が、入手困難であることは、岩波書店の責任でもある。現下の情勢での
ネット社会は、読書離れによる出版社や本屋の経営難で苦境にある。これは理解できる
が、岩波茂雄氏は岩波文庫創刊にあたり『生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室と
より解放して、街頭にくまなく立たしめ 民衆に伍せしめる』と昭和2年に高らかに、
宣言した精神は岩波書店内にはもう息づいていないのだろうか?

84 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 15:58:03.39 ID:5VXK7utFU
   新ジャパン レボリューション。 478   (レザノフ来たる)

 ドゥーフの「オランダ商館日記」は、のちに、バタビア(ジャカルタ)の政庁にいる
総督や上司が閲覧することを念頭に置いて記されている。その例は、レザノフが半年の
滞在(実際は幽閉)のあと、出港した日の日誌には 『以上をもって私は、この重大な
事件において起こったことの すべてに関する秘密の報告を、会社上役各位が当地で私
のとった措置を、好意をもってご承認下さることを望みながら、閉じる。(ヘンドリッ
ク・ドゥフ・ユニア:署名)』と終わっている。ドゥーフ「商館日記」と、記している
ように、日記の体裁でありながらも、それは業務報告書でもあった。だから、例えば、
奉行の要請でナデジュダ号へ赴く際には商館内の委員会で了承をとったことを書き留め
るなど、自分の行為が業務規則に反していない事を 注意深く言葉を選んだ記録として
残しているのである。ドゥーフに止まらず、他の商館長も同じであって。それだけに、
通詞の発言、その他の役人との折衝、長崎の街の人々の交わり、には彼らの素顔や息遣
い、表情が語られることは無く、イマイチ状況が綺麗ごとで 語られるきらいがある。
商館内の他のスタッフの エピソードや妾とした丸山遊女との私生活などプライバシー
に類することも触れられていない。そういう意味では、レザノフの日記や記録も、意識
したものであることは同じであるのだが。19世紀初頭は、15世紀後半に始まった大航海
時代の尻尾とも言える時代である。啓蒙思想や百科全書などヨーロッパ社会から見て、
未知の世界の動植物や 人間の暮らしぶりの発見 探求に熱狂した時代が4世紀、350年
間も続いた。探検家や遠征隊の一団は、必ず画家や博物家を同行して記録させる行くの
が、スタンダートとなっていた。

85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 15:58:31.56 ID:5VXK7utFU
   新ジャパン レボリューション。 479   (レザノフ来たる)

 ジャワ統治時代のラッフルズもジャワの生活についての詳細なグラフィカルな資料、
記録と報告を作成している。ナデジュダ号は、ロシア王朝初の世界一周を目指したもの
だから、船長のクルーゼンシュテルンも、船医として同行したラングスドルフも帰国後
にこの遠征についての本を出版している。当然、レザノフの日記も 歴史的価値を意識
して記録されたものである。だがその語り口は率直であり、ロシア皇帝の全権大使とい
う立場から、誰にも遠慮がない。また長崎奉行所とのやりとりや 将軍代行である幕府
の使者との謁見においても、常に対等を求める。そこから逆に オランダ商館の「オラ
ンダ政府の大使的役割でありながら、商売のために忖度し、屈辱的立場に甘んじている
。」そんな常態化した実態が浮き彫りになるのである。更にに注目したいのは、通詞達
たちの姿や肉声が、イキイキと語られていることである。「オランダ商館日記」に出て
くる通詞たちの群像は、常に奉行所のスパイの役割をも併せ持つ組織内人間としての顔
が描かれ、オランダ人が用心深く接していることが、特徴的に網羅されてでいるのであ
るが、常時の日常生活に際して接してないレザノフには、そのような意識のないままに
、通詞たちの実相を そのまま記しているので、膨大な数に上る通詞の研究や 本では
知ることの出来ない 通詞たちの日常の息遣いが少し覗けるのである。例えば、本木
庄左衛門を見てみよう。通詞の名門本木家に生まれた庄左衛門は、レザノフが来航した
時、37歳の筆頭小通詞であった。大通詞4人、その次の小通詞4人の筆頭であるから、
幹部クラスである。しかも、世襲により大通詞に昇格するのは約束されているサラブレ
ッドの人物である。のちに詳細に紹介するが、「(レザノフに連れて来られた若宮丸の
漂流民が)羨ましい!彼らは世界を見ることが出来たんですよ。」と言ったり、レザノ
フが帰国する段になると、明け透けに自由への渇望を口にし、また幕閣の対応が、どう
迷走したか、正直にぶちまけるのである。

86 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/24(火) 09:37:00.04 ID:BJXFVPI7x
   新ジャパン レボリューション。 479   (レザノフ来たる)

 ジャワ統治時代のラッフルズも ジャワの生活についての詳細なグラフィカルな資料
や記録と報告を、作成している。ナデジュダ号は、ロシア王朝初の世界一周を目指した
ものだから、船長のクルーゼン・シュテルンも、船医として同行したラングスドルフも
帰国後に、この遠征についての本を出版している。当然、レザノフの日記も歴史的価値
を意識して、記録されたものである。だがその語り口は率直であり、ロシア皇帝の全権
大使という立場から、誰にも遠慮がない。また 長崎奉行所とのやりとりや 将軍代行
である幕府の使者との 謁見の場においても、常に対等を求めていた。そこから逆に
オランダ商館の「オランダ政府の 大使的役割でありながら、商売のためには忖度し、
屈辱的立場に甘んじている。」そんな常態化した実態が、時々に浮き彫りになるのであ
った。更にに注目したいのは、通詞たちの姿や行動や肉声が、イキイキと語られている
ことである。「オランダ商館日記」に出てくる通詞たちの群像は、常に奉行所のスパイ
の役割をも併せ持つ「組織内人間」としての顔が描かれていて、オランダ人が用心深く
接していることが、特徴的に網羅されてでいるのである。が、常時の日常生活に際して
、接してないレザノフには、そのような意識のないままに、通詞たちの実相をそのまま
記しているので、膨大な数に上る通詞の研究や 本では知ることの出来ない 通詞たち
の、日常の振舞い、考え方、息遣い、などが少し覗けるのである。例えば、本木庄左衛
門を、見てみる。通詞の名門本木家に生まれた庄左衛門は、レザノフが来航した時には
、37歳の筆頭小通詞であった。大通詞4人、その次の小通詞4人の上に立つ筆頭である
から、幹部クラスである。しかも、世襲により大通詞に昇格するのは約束されている。
そうしたサラブレッドの人物である。のちに詳細に紹介するが、「(レザノフに連れて
来られた若宮丸の漂流民が)羨ましい!彼らは世界を見ることが出来たんですよ。」と
言ったり、レザノフが帰国する段になると、明け透けに 自由への渇望を口にし、また
幕閣の対応が、どう迷走したか、正直にぶちまけているのである。

87 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/24(火) 09:37:27.44 ID:BJXFVPI7x
   新ジャパン レボリューション。 480   (レザノフ来たる)

 このような「通詞の本音」の資料は。まずない。今でも知ってる限り他の資料には、
まあ全く存在しない、極めて貴重なものである。この後に「自由への渇望」が語る事に
なるが、上記の庄左衛門の証言などによって、実は幕府の中にロシア受容論があった事
が、ここに証明される。従来、半年も返事しなかったのは、レザノフらを放って置く事
で、焦らせば諦めるだろう、との時間稼ぎだった。という見方が定説だったのだが、ど
うやら、これは幕閣内でも、全く強固に国交樹立派と鎖国継続派との意思統一が出来ず
、朝廷に意見を求めたり、200年もの前の 事例を調べようと駆けずり回ったりと、迷走
した実態が、浮かび上がってくる。通詞のトップクラスとなれば、長崎へ来たであろう
一級の知識人の、大槻玄沢・平賀源内・大田南畝・と言った彼等との交遊歴や、オラン
ダ渡来の舶来品に、目が無かった諸大名などとの付き合いは、歴代の長崎奉行の「耳と
口」としての機能があったが、逆に、江戸から派遣された検使の遠山金四郎一行の接遇
などを通して、幕閣の重大な機密情報にまで、接することが出来たのだろう。と言える
。これらもまた、他の資料には見られない、幕府の対外政策研究を塗り替えるほどの、
極めて貴重な情報である。そこには実は、レザノフは日本語が出来ていた。事も書かれ
ている。彼はどうやら日本語を話すロシア大使でドゥーフと同じく、言語に特別な才能
があったようなのだ。まあ、ロシア宮廷の公用語は、フランス語であったから、当然に
堪能なバイリンガルの能力を持ってはいただろう。オランダ語も理解できた。ロシア、
フランス、日本となると、4ヶ国語を自由に話したという事になる。恐らくドイツ語も
英語も堪能であったはずだ。「レザノフ日本滞在日記」の訳者である大島幹雄氏が主宰
した石巻若宮丸漂流民の会が発行した「若宮丸漂流民物語」が貴重な情報を提供してく
れている。これによると、若宮丸漂流民の一人である善六がロシア語に堪能になったら
しくレザノフ遠征隊に同行し、1年2か月の間『レザノフに日本語を教え、露日辞書を
作った。』とまである。

88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/24(火) 09:52:43.38 ID:aREAEJd62
   新ジャパン レボリューション。 481   (レザノフ来たる)

 石巻に在しただろう若宮丸漂流民は、その後の子息達が若宮丸漂流民の会がを興し、
自分達の記録を含めて「若宮丸漂流民物語」が史実として出来て、貴重な情報を提供し
てくれている。これによると、若宮丸漂流民の一人「善六」はロシア語に堪能になった
。善六は、洗礼を受けたために キリスト教を禁教とする日本へ行く直前、ペトロパブ
ロフスク(現カムチャツカ州)での、下船を申し出ている。レザノフの素晴らしい処は
、臆すること無く、誰にでも、カタコトの日本語で 話しかけていたことでもあった。
この世界周航計画の発案者であり、ナデジュダ号の艦長でもあるクルーゼンシュテルン
は、「仮館での護衛警戒が凄まじい。」と、書いているが、ロシア人贔屓(びいき)に
なった警護兵たちは、レザノフが近所を歩き回って 日本人と接し話するのを見ても、
見しらぬふりをして ほとんど妨害していない。のである。例えば西暦 1月20日(文化
元年12月20日)の日記には、『門があけっぱなしになっていたので、外に出て、戻って
みた。警固兵たちは、何も言わなかった。彼らを少しずつ慣らすために、次の日まで、
そのままにしておいた。』という記述がある。そのため、彼は実質上は、仮館に「幽閉
」されていながらも 近所の日本人たちと語らう事が出来た。という稀有な体験を重ね
ている。子供たちと なぞなぞ遊びをしたり、法華経の僧侶の読経を聞いたり、既婚の
夫人の鉄漿(お歯黒)をからかったり、飴細工屋からも美しい飴を振舞われたり、とい
う、至って素朴な体験を重ねてゆくのである。加えて彼は、かつてのスチュワートと同
じように、とても人懐こい性格だったようで、誰からも慕われることになる。当時この
長崎の街は、極めて狭い。私は、長州の萩を訪れた時に、街の小ささに驚いたのだが、
海辺の小さな街から、維新のエネルギーが噴き出たことに驚嘆する。長崎にしても当時
の社会で、果たした役割に、比べると、街は恐ろしく小さいのである。十数分も歩けば
長崎のほとんどの人がこの仮館を見ることが出来た筈だった。また逆にレザノフが探訪
や探究するのに、一年や半年で、充分であって、日本に飽きたのであろう。逆にレザノ
フ時代には、スチュワートによって、怖がる事無く接する事が出来たのだろう。

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/28(土) 15:52:37.50 ID:fGkD6+n6O
   新ジャパン レボリューション。 483   (レザノフ来たる)

 日本は結構に親ロシア派の国だったのだが、この開国以降はだんだんと離れて行った
特に、太平洋戦争後は学界、特に歴史学ではロシアの研究者も少なくなり、ソ連派学者
が、圧倒的になり、革命前のロシアなどは、すべて悪と決めつけられて研究も進まなく
なったように思われる。太平洋戦争は、日本を徹底研究した アメリカ側からルース・
ベネディクトの『菊と刀』を生み出したが、一方でGHQは多くの書を発禁処分とし、
家族制度、相続制度など多くの『日本的』なものを破壊して行った。しかし、ボルシェ
ヴィキの、革命後の破壊活動は 量的質的に凄まじく徹底していた。反革命と見做され
れば、即、銃殺されるかラーゲリ(強制収容所)送りになる環境だった。人々の間から
ロマノフ王朝時代の、良きことは瞬く間に消えていったのである。レザノフの、「日本
滞在日記」の発禁処分は そのささやかな事例のたった一つである。そのため日本から
も、世界からも、ロマノフ王朝の 文化や生活様式は消え去られ、日本には ソ連への
反感だけが残った。大平洋戦争後のソ連の 違法かつ理不尽極まる日本兵俘虜の扱い。
と、北方領土問題が、その反感に輪をかけた。歴史は常に勝者が嘘をつく、という観点
をもっと踏まえていい筈だし、もういちどロマノフ王朝時代のロシアの魅力をも考える
べきだろう。焦点を当てたいのは、「ロシア皇帝の全権大使」というレザノフの立場の
これまでにない特異性である。自分の帯剣や警護兵の銃引き渡しを拒んだ。浦賀に来た
マシュー・ペリー提督はその『日本遠征記』で、このことを無用な摩擦を生じた愚かな
行為、と批判しているが、レザノフにとってはロシア皇帝の権威を守る行動であったし
、自分自身は砲艦で号砲を撃ってまで、摩擦を大きくしている。こうした感覚の行き違
いは、欧米文化と東洋文化と違いは大きく、日本は小さな島だがアメリカ・中国・欧州
共に大きな大陸で、欧州では国々が分かれているものの、他の大陸同様境界作って護る
事でも、戦争が起こっていたからであって、日本の様に中央集権化し千年二千年と存在
して来た国は皆無とも言える。

90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/28(土) 16:06:59.96 ID:fGkD6+n6O
   新ジャパン レボリューション。 484   (レザノフ来たる)

 しかしして、その文化の摩擦は、ある意味、奇妙に人を刺激し魅了する。普段の行為
で船内調査に来た奉行所検使へのお辞儀を拒否したり、幕府検使の遠山金四郎景晋(か
げくに)との会談で、全く同等の扱いを要求したり、と、長崎奉行所や幕閣にとっては
、初めての経験となったのである。当惑させられることの多っかた交渉となったろう。
通詞たちにとっても、奉行所にも、そして幕閣にとっても、オランダ人が、商いの第一
の商人、という見識や頭がある。それゆえに、何かの拍子には、その本音が出る。その
本音の一端は、レザノフ長崎来航わずか2週間後の10月27日、大通詞の石橋助左衛門(
通詞団のトップ)が、思わずして言ってしまう。『 彼ら(オランダ人)は私たちは、
我が将軍に、年貢を払っているのです。幕府直下の我々でしたら彼らに命令を下すこと
ができるのです。しかも、彼らは商人です。』こうした認識は、のちにレザノフがロシ
アに帰国する直前に、本木庄左衛門が、もっと明快に言いのける。『私たち通訳達は、
ここではとても大きな力を持っているのです。したがってオランダ人達でもは、私達の
言う事には 従わなくてはなりません。』つまりは、命令が下せる、言いなりになる、
商人である。それが外国人だ。これが、オランダ人を、飯のタネにしている通詞団の、
図らずも本音であったのだ。彼等は、長崎奉行とその背後の幕閣とが、オランダ人の間
に立って、調整に奔走する姿がオランダ商館日記に多く述べられているのだが、実は、
「オランダ人を操っているのは自分(通詞)たち」という尊大さと、オランダ貿易での
莫大な利益を、共に得ている利益共同体のオランダ人を「商いの優先の商人なのだ。」
とは心の奥底では、見切っていて軽く見ていることが、このレザノフの出現によって明
らかにされたのである。そこにはオランダ商館長(カピタン)も同じく、オランダ国の
代表であったが、それと違い、全く受け入れない 大国ロシアの全権大使への畏敬と、
レザノフがもたらすかも知れない大きな貿易チャンスを、彼らをして、オランダ人と同
じにを軽く見てしまう言動をして、歴史的に取り逃がしてしまう結果となった。

91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/28(土) 16:19:59.93 ID:fGkD6+n6O
   新ジャパン レボリューション。 485   (レザノフ来たる)

 ここまでへりくだったオランダ人達、は恐らく一番辛坊強い民族なのかもしれない。
ヨーロッパの中で小国、今や世界地図からも消されたオランダ人が、耐えてきた屈従を
知らなさ故の傲慢さであった。これは通詞だけでなく、隣国をロシアに持つ日本民族の
能天気な外国情報に甘んじて、手痛い歴史的な見えないつまずきでもあった。つまり、
これは、日本全国の無知であり、長崎奉行にも同じことが言える。これまでスチュワー
トにしろ 漂着民にしろ、日本の祖法に従って退去を求めれば、これまでに従順にも、
全てが従った相手だったのだ。それとは違って、重々しく、礼節を持ったまま 自国の
作法ではあったが、伝統的な挨拶礼法の拒否、武器の引き渡しの拒否、何を取っても、
前例のない拒否事態ばかりが、出来(しゅったい)する。レザノフはエカテリーナ2世
、ついでアレクサンドル1世の、宮廷侍従高官だけあって、武威をひけらかすことはな
かった。更に部下たちの統制も行き届いていたし、常に礼儀正しく更に優雅に、奉行所
役人と接するのではあるが、自分が軽く見られているのではないか、時間稼ぎをして
自分を愚弄しているのではないか、と思ったときの言動は、カミソリのように鋭い言葉
で、「世界の半分を領有するロシア皇帝が相手だとわかっているのか?」と凄む。ので
あった。事実当時、北米アメリカの、カルフォルニアからカナダ、アラスカ一帯から、
ネバダ山脈から以西は、そこら周辺はロシア領として、事実上逃げて来たインディアン
を相手に、支配と交易をしていたのであったのである。交渉の中で、弱間のリュウマチ
を病むレザノフは、長い航海の後、上陸も許されず、健康を甚だしく害していった様だ
。運動も出来ず、小範囲の散歩が違法にも認められるぐらいで、これが、身体を病ませ
ていた。更に時間は、長崎奉行達の新旧二人の奉行が共に長崎に赴き、対応に当たった
レザノフの、心胆を、寒からしめることになった。のである。いかに、外交音痴の幕府
の官僚である長崎奉行でも、風説書の情報などから、ロシアがヨーロッパ列強の一角で
あり、強大な帝国という認識はあった筈だったのだが、強固な不問方針となったからだ


92 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/28(土) 16:36:42.37 ID:fGkD6+n6O
   新ジャパン レボリューション。 486   (レザノフ来たる)

 事実、通詞達の一団と、幕閣や藩主の一部は、この8年後の1812年のナポレオンの、
ロシア遠征の敗北しての、フランスの凋落が始まっているのが、大いに中国まで伝わり
即時にその風説を知っていたので、それなりの北米事情も大国ロシアと言う認識をも、
色眼鏡の情報であっても認識はあったはずで、その全権大使が、もし「病死する」など
取り返しのつかないことが起こったら、どうなるのか。ぐらいの心配はあったはずだ。
その事項に 取扱い不注意の咎で、切腹を申しつけられる可能性すらも簡単にあった。
だから奉行二人は、レザノフを出島に収容できないか、あるいは、格式の高い寺院を、
宿舎として用意するなどの対案を考えていた。だが、前例のないことには、幕府命令の
無しは、絶対にできないのである。が、この頃の徳川幕府のシステムは丁度変節の時期
であり、許可を得るために、頻繁に急使あるいは急便が江戸へ送られたものの、しかし
その度に、待てど暮らせど、指示が帰って来ないのであった。この事象は奉行等はもと
より、彼らよりも、もっと外交音痴の幕閣が、これまでにないほど、意思決定が迷走し
ていた証左でもあったのだ。江戸城内の大広間で繰り広げられた鎖国派と開国派の戦い
は、知る由もないが、これにレザノフは、大きく焦(じ)れたまま待ちぼうけをしてい
て、しびれを切らしていたのである。あの広大なロシアすら2ヶ月もあれば情報や結果
は届くのである。この時期に板挟みになって、一番苦しかったのは奉行たちであった。
とも思える。では幕閣では、なにが起こっていたのか。これまで幕閣の対応については
詳細な研究はないようだ。だが、レザノフを通じた新しい貿易の機会を夢見ていた。と
される通詞方の本木庄左衛門は、レザノフが空手形で帰国することに決まると、途端に
失望と落胆で、3月10日(西暦4月9日)本音や知り得た機密をぶちまけた。

93 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:42:37.27 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 487   (レザノフ来たる)

 内容は要約すれば、将軍(家斉)などが、ロシアとの通商に、ポジティブであった。
つまり強く推し進めたいとのことで、幕閣の意見を聞いた。しかし、老中が通商か鎖国
維持を強く願い、通商派との対立があって、次々と左遷や引退、死亡者がでた事。その
上、通商派の有力者が亡くなったため、戸田采女ら鎖国維持派が、結局勝利したこと、
などである。ロシアとの通商について、朝廷にまでも伺いを立てたこと、など、多くの
驚くべきストーリーが、レザノフの前に明かされ、披露されるのである。ところがその
5日後、更に馬場為八郎がレザノフにその事情を詳細に解説する。この時馬場為八郎は
当時35歳。庄左衛門の二つ年下で 同じく通詞の名門家に生まれた男だった。ロシア
が、レザノフに一行の扱いに 報復のために起こした魯寇事件の後に、同僚の名村多吉
郎とともに、幕府勅命よって、蝦夷へ派遣された男だ。為八郎が選ばれたのはロシア語
をレザノフ一行から、習得したからに違いない。とも言える。レザノフの日記には、為
八郎がロシア語の綴りを、すぐさま使いこなすことに驚く描写がある。彼もまた、通詞
の中での俊英であって、蝦夷から帰った後は庄左衛門とともに 日本初の英和辞書を、
編纂している。後にシーボルト事件によって 連座しているが、その後出羽亀田藩預り
となった。まあぁ逸物だった。幕末の語学の天才 馬場佐十郎の養父である。その為八
郎が語ったことは、実に詳細で、徳川幕府の外交史研究を塗り替えるほどの内容である
。ここで全文を紹介しよう。とも思う。
「 ラクスマン様が、受付取ったものが許可書であったこと。を知る必要があります。
その時の、委任状を出した重臣は、出羽様といいます。出羽様は 将軍の側近でしたの
で、将軍には、ロシアと通商関係を結ぶことが どれだげおおくの利益をもたらすか。
と説得していました。将軍様も御熱心にも このことに、取り組みました。出羽様は、
ここで勝利を収めた。のであります。もう一人の重臣で、出羽様の仲のいい友人でもあ
る 蝦夷様も、この意見で彼を支持し、三人目の飛騨肥後さまも、支持したの時代だっ
たのです。ですが今から このあと何が起きたかを 簡単に説明いたします。

94 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:42:58.19 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 488   (レザノフ来たる)

「ですが今から このあと何が起きたかを 簡単に説明いたします。」とまじまじと、
レザノフを見た。その時の馬場為八郎の目は、涙さえ浮かぶように澄み切ったものであ
ったろう。そして、しばらく後の、つぶやくような低い声は「時遅し、ロシア大使よ、
私は無念である。」とレザノフを攻める様な言葉であった。・・・・・・・「こうして
私たちは、五年間も 首を長くしてロシア人を待っていました。六年目(寛政十年1798)
に 不幸にも出羽様は御亡くなりになりました。ここで、反対勢力が力を持ち始めまし
た。蝦夷様には、この勢力に立ち向かうだけの カがありませんでした。彼は、二年後
(寛政十二年:1800)に、幕閣から、引退に追いつめられました。その後は飛騨肥後様、
御一人だけになって、ますます立場が弱くなったのです。民衆は、ロシアとの通商を待
ち望んでいましたが、あなた方は来ることなく、幕府の騒ぎは静まりましたのです。」
「あなたが 日本に到着してすぐに、将軍は、通商に同意することを明らかにしまして
いました。しかし、一人の狡い重臣、出羽様の敵がいました。つまりは ロシアの敵が
、将軍を思いとどまらせて、『この国の根幹に関する法令に関しては、まず天皇の勅意
をもらわねば、ならないでしょう。』と、言い出したのでありました。今回は、特に新
しくキリスト教の強国を、受け入れるかどうかに、関わる大事な問題だ。と言うのです
。さらには、彼は、『天皇に対して、彼を精神的な皇帝といってもいいと思いますが、
将軍が、天皇の最後の権力を奪うことはならない。』としており、将軍を悩ましたので
ありました。『ラクスマンに許可書を渡した時も、天皇には、何も知らせなかった事が
、周りの幕閣に、手落ちがあった。』と、働きかけたのです。実際に、何も知らせなか
ったのは本当の事であり、決断力をお持ちだった出羽様は、その時に、天皇に知らせる
必要がない。と見なしていました。前のエゲレスとの通商破棄もオランダ商館や、出島
建設や鎖国も伴天連禁教令も、過去には一度も朝廷に相談した事は無かったからです。

95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:43:28.13 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 489   (レザノフ来たる)

 しかし、ついに天皇は、この唆(そそのか)しにのって、重要な案件を決定するには
、朝廷に相談するか、幕府閣僚の同意が必要になった。とのことです。集められた幕府
閣僚たちは、この狡い重臣の、策略に丸め込まれてしまったのです。彼の名前を、私達
に聞かないでください。私たちは、彼から厭われているんです。ただひとつだけ、吾首
(ごしゅ)違えず(たがえず)いえることは、将軍は、あなた方の味方だということ。
です。しかし、いまは、内乱が起こらないように、譲歩しているのです。しかし飛騨・
肥後さまが、犠牲になりました。何故ならば 天皇に報告しなくてもいい。と主張した
一人だったからです。あなたもご承知のように、私たちの国では、約束はそんなに厳格
に守られていません。日本の法律は、外国でも同じでしょうが、狭滑な解釈によって、
いかようにも変えられるのです。」(レザノフ日本滞在日記 347p)レザノフが日本へ
やってきたのは1804年である。蝦夷地北海道は、千島からロシアの南下を知った幕府が
、天明5年(1785年)以降、調査人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主・
松前章広から蝦夷地の大半を取り上げている。享和2年(1802年)05月24日に7年間に
及ぶ上知の期限を迎えていた。が蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)
02月22日には、最終的に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封と
なっているのだ。なお、これ以前に、前藩主であった 松前道広が放蕩を咎められてい
る。永蟄居を命じられたのだ。遊び好きで、対外強硬派であった。ロシアの通商要請を
拒否し。寛政元年(1789年)に、国後島や目梨地方で起こったアイヌの反乱(クナシリ
・メナシの戦い)に新井田正寿・松井広次らを派遣して鎮圧した強者だ。のち寛政8年
(1796年)イギリス船・プロビデンス号がアプタ沖(北海道虻田郡洞爺湖町)に出没した
時も、隠居していたにも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣した。

96 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:44:14.23 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 489   (レザノフ来たる)

 W・R・ブロートンは、1792年には“チャタム号”を指揮して、英国探検隊に参加した
。アメリカ大陸北西海岸を測量し、コロンビア川を溯る探検を行ない、ワショウガルと
いう地にたどりつき“バンクーバー(フオトバンクーバー・バンクーバー砦)”と命名し
た。現在のワシントン州のバンクーバー市である。つまり、アメリカの大西洋がわから
、太平洋に川を遡って抜けたのである。カナダと米国の国境線の長さより長い距離を、
この「プロビデンス号」での探検日誌は、北太平洋探検航海記として1804年ロンドンで
発行された。彼はこの後「バタビア号」「ペネローぺ号」「イラストーリアス号」、と
歴任して艦長であった。1815年に大佐となって「ロイヤルソブリン号」を、指揮した。
1818年海軍を退役し、1821年03月13日、イタリア、フィレンツェ近郊で生涯を終えた。
この、W・R・ブロートンを知る人が、日本人にはどのくらいいるだろうか。甚だ疑問だ
。「室蘭のうつりかわり」(室蘭市史編集室 1977年 )という冊子の中には、「ユーカ
ラにのこるプロビデンス号」という節がある。(pp.58 )から引用すれば、プロビデンス
号のブロートン船長は「ブロートンの探検航海」という著書のなかに、噴火湾や絵鞆(
室蘭)での出来事などを記述しています。一方で、こちら側のアイヌや和人の側からの
みた来訪時の様子や、顛末はユーカラという叙事詩の中にみつかり,驚きと喜びを感じ
ました。と書いてある。「礼文華からチパドイエニ川に水汲みにきたところを、ベンベ
(豊浦町)の酋長にみつかって、「無断で木を切ったものに水はやれぬ」と断られた。
虻田沖まできてイカリをおろした処に、幕府の会所の役人が、虻田の酋長のところへ来
て、戦争になる前に早く船を沈めろ。と命令するので、毒矢と大槍をもって浜に集まり
、二列、三列になって進み、赤人船に毒矢を向けた。船では、陸に向かって 手をす
り合わせ大声で泣いている。のが遠くに見えた。

97 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:44:46.69 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 490   (レザノフ来たる)

 すると、沖の船からは、小さい舟が降ろされて、二、三隻波打ちぎわまでやってくる
。そして、酋長の前で泣きながら、手用手真似で話した「何日も飲まず食わずに追われ
ている。米でも、菓子でも、酒でも、布でも、たくさんやるから、どうか助けてくれ。
というのである。酋長は、船長に会わねばわからない。と、五、六人の仲間をつれて、
今度は小船に乗り込み、本船の方へと進んで行った。そこでは、日本人通詞の通訳で、
水と酒、菓子、布とを交換する約束をして水汲みを許る事を了承し、手伝いもしたのだ
った。その後に、水を汲んで安心した外国船は、オタモイの岬をかわして下の方へ向か
って姿を消した。安心した酋長は、浜に積まれた米だの菓子だの、いろいろな物を、集
落の中心の、家の前に族の者に運ばせて、みんなで分け合い、その夜は楽しい酒盛りで
歌ったり踊ったりした。」この時、勝手に木を切り出したブロートン達を、アイヌは、
当然助けなかった。人数の差や、ブロートン達の、数日食事をろくにとっていない体力
などの状況を考えれば、おそらく戦って船を沈めることも可能だった。かもしれない。
しかし、ここで酋長は、穏やかな交渉に移った。向うの通訳であったろう男の身を挺し
た訴えに感動したのかもしれない。船の中が「命も危ない状況」であるということを、
船長みずから、直接聞いて同じ酋長としての共通のなにかが琴線にふれたのかも知れな
い。こうして日本の幕命の船を沈めるどころか、結局外国人達の水を汲むのを手伝って
さえいて協力した。こうした事もわかりました。英国の探査船PROVIDENCEプロビデンス
号はこのあと、1797年05月17日に、沖縄の宮古・池間島北方で 座礁沈没した。が船長
や乗組員は全員、島民達によって助けられ無事英国へ帰還する。帰国後に、プロ―トン
船長は「北太平洋探検航海記」を書くのだが、ここで宮古(琉球)の民を「もてなしを
して代償を求めない民」と、高い評価し紹介している。

98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:45:09.80 ID:LqlpiTICn
  新ジャパン レボリューション。 491   (レザノフ来たる)

 探検航海・全航跡の中で、「プロビデンス号」は当初、パンの木の運搬船として1791
年誕生した。とされる。その後1794年、スループ型軍艦に改修され探検船として活躍し
た。1796年09月28日、初めて室蘭港を訪れました。この時、松前藩藩医、加藤肩吾らと
面会し地図の交換を行なっている。この時また、デンマーク人水兵ハンス・オルソンが
事故で亡くなり、大黒島に埋葬しています。今から 約200年以上前の1796年のことであ
る。英国軍艦「プロビデンス号」がキャプテン・W・R・ブロートン中佐に率いられ室蘭
港へ初入港した。当時のヨーロッパ諸国にとっては日本を含む、北太平洋・アジア大陸
・東沿岸部は、まだ実測されていない未知の世界であったのであった。10月01日に、「
プロビデンス号」は、そのまま室蘭を出港し千島列島へ向かい、シンシル島へ到達した
。しかし、この時の天候は、厳冬のための地吹雪と海氷で、困難極まりなく探検継続を
断念した。こうして越冬のためのマカオ行きを決めた。進路を東南東に決めて向かいま
す。マカオでは、次の探検に備え伴走用船のスクーナー船を購入す、2隻に荷物を詰め
ての、再探検を開始した。しかし、1797年05月17日「プロビデンス号」は春の嵐、つま
り小さな台風の波と黒潮の変流にあい、沖縄、宮古島沖で座礁し沈没してしまうのであ
った。希望と挫折の中で彼を救ったのは、八重山島民であったと言える。その後乗組員
全員は、並走していたスクーナー船でマカオに戻り、体制を整え、又新たに06月26日に
スクーナー船で出港、08月12日に室蘭港に再来、再び加藤とブロートンは地図を交換し
た。08月22日、室蘭港を出港し、津軽海峡をヨーロッパ人として初めて津軽海峡の実在
を証明すると共に横断した。蝦夷地が日本の一部として独立した島であることを実証し
、日本海を北上したが、間宮海峡までは到達できずに北上を断念した。中国大陸沿岸を
南下し、マカオ、マラッカ海峡を経てスリランカ、喜望峰を越えて1799年02月には、イ
ギリスへ帰還し報告を果たし陸にあがった。

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 22:45:50.84 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 492   (レザノフ来たる)

 こうした事を、レザノフが、知っていたか知らないかは不明だが、「スクーナー船」
「プロビデンス号」がイギリスの海軍調査船だと考えれば、知らなかった事だろう事の
方が大きい。つまり既にイギリスは多くの大戦を得て、諜報部や法規制が取られていた
だろうからだ。そこに、レザノフへの更に馬場為八郎の説明であったのだ。この辺りの
事情は、私が知る限り、まったくこれまでの常識を 覆すことばかりである。大島幹雄
氏によると(「レザノフ日本滞在日記」420p)出羽様とは、水野忠友(1802年没=田沼
意次派重商主義者)、ところが蝦夷様という幕臣は存在せず、飛騨守とは、当時の勘定
奉行・中川忠英(ただてる)、だ。という。中川忠英は寛政7年〜9年に長崎奉行を務
めて、勘定奉行に栄進し、その後レザノフとの交渉に幕府検使に任命された遠山金四郎
・景晋(かげくに)とともに、「文政の三傑」と呼ばれたた人物である。そうTVで盛
んに人気のある遠山の金さんである。戯曲童話の金さんが歌舞伎演目で語られたのを元
にした江戸芝居なのだが、ある意味彼の名を知らしめている。馬場為八郎は、長崎奉行
時代に、近藤重蔵(近藤重蔵の探索)を、手附で役として長崎へ赴任させて、ヘンミイ
が絡んだ抜け荷を、探索させてて実態を暴いた成果もあげさせた賢人でもあった。彼な
ら、ロシアとの通商に 積極的であっても不思議はない。為八郎の言ったことに訳者の
大島幹雄氏は、彼等の当時の立場や 力関係を考慮して慎重論を展開しているがしかし
、私は積極的に支持したい。と思う。と言うのも、「ロシア受容論の存在」にも書いた
が、為八郎らの、当時の通詞のネットワークと情報収集力は、尋常ではないのである。
長崎奉行、有力大名、江戸から遊学する一級の知識人、こういう人々と 日常的に接し
ているのが、長崎の通詞団である。長崎にいて江戸が分かる存在だっただけではなく、
長崎の通詞、だからこそ知っている 機密事項が多かったはずである。

100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 23:11:55.97 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 493   (レザノフ来たる)

 そうした情報源の中で、注目するのは大田南畝である。天明3年(1783年)に、共著
『万載狂歌集』がヒットした。田沼政権下の勘定組頭土「山宗次郎」に経済的な援助を
得て、吉原にも通い出す。天明6年(1786年)頃は、吉原の松葉屋の遊女三保崎を身請
けし、妾とし自宅の離れに住まわせている。栄華を得ていた田沼時代と言われた時は、
潤沢資金を背景に商人文化が、花開いる時代。南畝は、時流に乗ったとも言えたが南畝
の作品には、自ら学んだ国学、漢学の知識を 背景にし人気があり、これが当時の知識
人たちに受けたのだ。交流を深めるきっかけにもなっていて、当時のマスメディアの顔
ともなった。安永5年(1776年)に、落合村(新宿)周辺で観月会を催し、安永8年に
(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余を集め、5夜連続の大規模な観月会も
催した。翌、安永9年には、この年に黄表紙などの 出版業を本格化した蔦屋重三郎を
版元として『嘘言八百万八伝』を出版する。山東京伝などは、この時南畝が出会って、
見出された才能だった。と言われる。松平定信によっての、田沼政治の重商主義の否定
と、緊縮財政、風紀取締り、と言う幕府財政の安定化を目指す為の 180度反転体制に傾
き、天明7年(1787年)に、寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣は「賄賂政治」の
「下手人(罪人)」として悉く粛清される。南畝の経済的支柱、土山宗次郎も横領の罪
で斬首されてしまう。さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに、官に仕えず民間に
いる者。)」:幕府批判を防ぐための策が、発せられて風紀に関する取り締まりが厳し
くなる。こうして版元の重三郎や、同僚の京伝も処罰を受けたが、幸い南畝には咎めが
なかった。が、周囲が断罪されていくなかでは、彼に悪辣な風評も絶えなかった。政治
批判の狂歌「世の中に蚊ほど五月蠅(うるいさ)きものはなし ぶんぶと、云ひて、夜
もねられず。」の作者と目されたが、証しがなかった。田沼意次の腹心の土山宗次郎と
親しかったことで目を付けられていた。という話は有名で、これを機に、南畝は狂歌の
筆を置き、幕臣の職務に励み、他は随筆のみを執筆するようになってしまうのである。

101 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 23:13:07.23 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 494   (レザノフ来たる)

 ここで、幕閣であったろう蝦夷様であるが、蝦夷は文政4年(1821年)12月07日に、
幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰している。藩を挙げての
、幕閣重鎮に対する表裏に渡る「働きかけ」も、確認がされている。これと同時に松前
藩は、北方警備の役割を再度担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の
命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。この時の、
遊び好きで、対外強硬派であった。ロシアの通商要請を拒否し。寛政元年(1789年)に
、国後島や目梨地方で起こったアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)に新井田正寿
・松井広次らを派遣して鎮圧した強者だった松前道広の、放蕩事件である。元来西蝦夷
地も東蝦夷地にも北街道なる海路が存在していた。のち寛政8年(1796年)イギリス船
・プロビデンス号がアプタ沖(北海道虻田郡洞爺湖町)に出没した時も、隠居していた。
にも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣した。と言う事は、閉門の上に
永久蟄居謹慎であったはずなのだが、財力・権力・行動力が、ここに残されていた事が
わかる。つまり、江戸の幕府の威厳もこの北街道のクナシリには及ばなかったのである
。この北街道は室蘭→苫小牧→釧路→国後→北方4島→千島列島→カムチャッカ半島の
往復航路の事である。そもそもが、明治になって、択捉島の奥端油田(オハゆでん)は、
北樺太に存在する油田・ガス田地帯の一つである事が知られ、日露戦争で戦勝しても、
ロシア皇帝はこの土地の権利を手放さなかった。そこで、ウラジオストック同様に共同
統治場所として同意した日本であった。日本の言い分の間宮海峡までの境界を、米国が
許さなかったのだ。そもそもが択捉島の名は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・オ:鼻の先
にある所〈岬のある所〉)」と言う意味で、日本語的には「柄取楼府」と書くのが正し
く、この択捉より、千島列島の方が、火山が多く住民は多かったのであった。

102 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/29(日) 23:21:16.31 ID:LqlpiTICn
   新ジャパン レボリューション。 495    (レザノフ来たる)

 日本人から見て 露頭商人、つまりロシア人海商は、船に大砲と防弾が積み込まれた
時代に、イギリス勢とスペイン勢が、地中海航路や大西洋権益をめぐって争っていたが
、ロシア商人達は、既に太平洋まで抜ける北極海航路を使い、ウラジオストック、当時
の金華浦湾とされた、文字通り華僑の金氏王朝の裏だったこの湾に着目し、ロシア語で
「東方を治めよ」の意の「裏の防備」の地名にして都市建設をして行く準備をしていた
。後年ロシア・サハリン州北部、オハ(奥端、奥哈)で、この都市の油田周辺を中心と
する地区北樺太の、油田を発見したとあるのだが、この地域全体を指して使用する場合
も多く、現実には1880年に樺太北部で、ロシアの毛皮商人が石油の露頭を発見する。と
されている。が違っていて、既に、夏季に地表に染み出ていて臭かった事がアイヌ民族
に知れらていて、アイヌ人は、この油を布や木や藁に吸わせて、アイヌ同士の通商やら
自宅に持って帰り、冬場に暖炉で燃やしていたようだ。火付きが良いと評判の焚きつけ
木材としていたのだ。その後1911年には日本から鉱山地質学総合調査隊の第1陣が派遣
されて、オハ鉱床図を作成されるのだが、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)
にかけ大日本帝国(日本)と南下政策を行うロシア帝国との間で、日露戦争に突入する
。この時朝鮮半島と満洲の権益をめぐる争いが、原因となっているのだが、実は毛皮の
通商時代は遠の昔に終わっていて「クンスブルグ」と言う、ロシア系企業の「朝鮮材木
商会社」が、韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍の鴨緑江
河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた事が問題だったのである。日露戦争
においては、このエネルギー代替の木、石炭、石油が、大幅に見直されて、戦争の行末
や国の行方を左右させ、作用させた時代に突入したのである。これが、実はこのアイヌ
の土地の取り合いにあった。という事は歴史上の表にでない。砂金が獲れ、油が染みる
この話は、江戸時代の当初から噂話にあったのである。

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/08(水) 18:27:29.48 ID:hS/GJB48k
  新ジャパン レボリューション。 496    (レザノフ来たる)

 日露戦争での、和平交渉では、ウラジオストック軍の退却や不凍港摂取と、樺太領有
、つまり択捉島の領有権を巡って交換条件となっていた。本来ポーツマス条約で、日本
の全権大使小村寿太郎(外務大臣)と、ロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間では、
恐らく直ぐに調印出来る筈だった。このどっちかをどっちかが獲っていけば境界線は、
決定されたからだ。ところが、アメリカは仲介面し、漁夫の利を得んと触手を伸ばし、
桂・ハリマン協定を、1905年10月12日を画策した。彼らは満洲に自らも進出することを
企んでいたし、オハ油田の推移も知っており、日露講和後には、満洲でロシアから譲渡
された「東清鉄道支線」の権益も解っていた。日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と
成立させ、これで中国が盗れると踏んだユダヤ協会は、その後日本が進めた入植計画(
河豚計画)には、拒否して、ドイツに移り、更にイスラエルを望んだのであった。そこ
にはユダヤ資金があったからだ。ドイツやベルギーには金融資本がありイスラエルには
、スエズ運河の金で、潤い聖地としての魅力があったからだ。後にルーズベルトは、こ
のポーツマス条約締結に至る「日露の和平交渉」への貢献が評価されて、1906年のノー
ベル平和賞を受賞したが、この裏には、充分なユダヤネットワークの情報網があったの
だ。それを通じてハリマンブロックの画策されて、日本にシベリア出兵を出させる事が
出来たからだ。つまり資金面でも、人財面でも、既にモルガンに負けていたのである。
「ヌエボ・メヒコ」は、アメリカ合衆国の南西部にある州で、ニューメキシコ州の事で
州の北はコロラド国に接し、東側にはオクラホマ州とテキサス共和国、西側はアリゾナ
州に接していた。南側のテキサス共和国とメキシコとの国境に接している理由は、ここ
に石油が出たからである。州の北西にはフォー・コーナーズがある。この頃の時代の、
政治・経済・生活の西洋観の潮流が、ここに詰まっている。

104 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/08(水) 18:27:51.12 ID:hS/GJB48k
  新ジャパン レボリューション。 497    (レザノフ来たる)

 米国はヌエバ・エスパーニャと言う南米独立国の一部だったが、メキシコ独立戦争の
後に、1821年にメキシコが独立すると、ニューメキシコもその一部として継承されて、
テキサス共和国が1836年に、メキシコから分離した。リオ・グランデ川東岸の部分には
領有を主張する紛争地が絶えず、テキサスは「コマンチェリア(戦闘インディアン族=
コマンチェ族)」によってニューメキシコと分離されていた。その主張する領土を支配
しようとした唯一の試みは、テキサス・サンタフェ遠征だったが大きく失敗したようだ
。ニューメキシコの最北端は、当初フランスが支配していたが、1803年にはルイジアナ
買収の一部としてアメリカ合衆国に頭越しに売却された地で4つの準州となった。フォ
ー・コーナーズは、こうしたメキシコインディオの一族がいる居留地をを含む一帯で、
メキシコ割譲地とされる。米墨戦争(べいぼくせんそう)終結後の1848年に、米国は、
メキシコから獲得した。米墨戦争はテキサスの所属をめぐっての、米国とメキシコとの
衝突に起因している。スペインから独立革命を経て、やっと独立したメキシコでは、第
1次メキシコ帝国と共和国の時代を通じて、メキシコ北部の領地一帯を保持していた。
しかしながら、16世紀から続くネイティブアメリカンの群発する反乱は継続しており、
また、1803年のルイジアナ買収や鉄道交通路によって西部への開拓を開始しやすくなっ
た為、多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入してきた。しかし、長期戦になった
独立革命で弱体化したメキシコは、北方の領地を統治する余裕が、人的・金銭的には、
なかったのである。1850年、1850年妥協によりニューメキシコ準州とユタ準州が設立さ
れた。1861年、コロラド準州が設立され、ユタ準州のうちワシントン子午線の西経32度
以東を取り込んだ。1863年、ニューメキシコ準州の西部を分割してアリゾナ準州を設立
した。その境界線は、フォー・コーナーズを基準に決められた事になった。

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/12(日) 03:27:18.80 ID:MtKIEX5v3
  新ジャパン レボリューション。 498    (レザノフ来たる)

 つまり、このアングロサクソン人達は、既にスペインの無敵艦隊時代から、アメリカ
インディオの土地で通商したり、略奪したりと、幅を利かして活動していたのであり、
大西洋側の活動以前から、露頭商人は太平洋側を占領し専有商売を行っていたのであっ
たのだ。こうしてロシア人は、18世紀末になって、毛皮や獣の狩猟や交易量確保のため
露米会社を設立しての、北アメリカ大陸全体に太平洋岸一帯に進出しており、一部は、
カリフォルニア州にまで達して商売をしていた。しかし、ロシアが実効支配していたの
は、地学的に沿岸部にとどまった。このことや、武装部族との接触を避けてリスク回避
して 交易していたのであった。後から英米系の毛皮商人も進出したのだが、露米会社
は、生活物資の補給と毛皮の納品を シベリア経由で行う必要があった。そうした兵站
のために、彼らとの競争においては不利であった。また皮獣の枯渇が進んで行って経営
には、負担が多く行き詰まるようになって行った。さらに、1853年〜1856年にかけての
クリミア戦争で、ブリティッシュ・コロンビア植民地から、イギリスに侵攻された場合
のアラスカ防衛は、ほぼ困難が認識されるようになっていた。加えてそのクリミア戦争
の敗北し、後に国家財政が逼迫するようになるのである。そのため、ロシアはアラスカ
を売却することにした。が、イギリスに売却した場合は、シベリア極東部がイギリスの
軍事的脅威に晒されるため、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだのであった。この頃
は、実はイギリスとフランス或いはスペイン・ポルトガル・オランダなど、条約で動き
離合集散し他国は敵、と言う見方が大勢であり、この事がロシアには非常に不利だった
。そもそも、露米会社(ろべいかいしゃ)は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮
交易を目的とした会社で、ロシア帝国の国策会社・勅許会社である。1799年、パーヴェ
ル1世時代、官僚・外交官のニコライ・レザノフへの勅許により成立したが、その前に
彼の妻の叔父時代から毛皮商人をして食っていた。露米会社の設立以前には、アラスカ
の毛皮交易は、イルクーツクの商人のグリゴリー・シェリホフと、その娘婿での独占で
あったのだ。

106 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/12(日) 03:50:26.67 ID:MtKIEX5v3
  新ジャパン レボリューション。 499    (レザノフ来たる)

 米国の毛皮は、既にレザノフの会社が独占していたのだった。1784年、シェリホフは
仲間のゴリコフと共にアラスカ南部の、ベーリング海とアラスカ海を分けるコディアッ
ク島に入植地を築いていた。人の少ない極寒の温泉地だ。今だ米国が出来ていなかった
時代に、砲艦外交(ほうかんがいこう)を繰り返して、交易の露頭商人の地位を築いて
いた。1790年に、ロシア皇帝に許可され、いよいよアラスカを植民地化して、毛皮会社
(シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社、後の露米会社)を設立し、その上で行商を広めよう
とした。実はレザノフが来たのは、文化元年(1804年)である。つまり、一通りの毛皮
の通商に、成功していて後は腰を据えて、食糧や物品をして、米国に拡大提供しようか
。と言う時であったのだ。そして、ここで太平洋側、つまり松前藩や千島列島での摩擦
の無い商売を、レザノフは考えていたのであって、長崎での通商ではなかった。と思わ
れるのである。既に熊も白クマもアザラシも相当数は屠殺され、毛皮の単価も、必要と
されても、大きく値下がりされた時期だった。要は衣食住よりは、機械や兵器の商売に
移っていった時期だったのだ。シェリホフが、1795年に死んだ後には、レザノフが会社
を継いだ。アラスカの現地で、シェリホフに雇われた商人アレクサンドル・バラノフが
、更に強硬に入植地を増やしていた。そうした時代に、勅許状で露米会社は、ロシア領
アメリカ(北緯55度以北のアラスカ)やアリューシャン列島、千島列島での、毛皮採取
や、鉱物採掘の権利を、20年にわたり独占的に認めるもの。としていた。20年後の1821
年には新たな勅許状交付によっても、露米会社は北緯51度以北にまでその支配地域を伸
ばしていたのだった。つまり現代で言えば、皇帝の特命大使役と共に露米会社のCEO
でもあった訳だった。

107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/12(日) 03:51:19.27 ID:MtKIEX5v3
  新ジャパン レボリューション。 500    (レザノフ来たる)

 露米会社には 商人たちや宮廷・皇族の面々が数多くいて、出資しており、勅許状に
よる利益の、1/3が、皇帝のものとなっていた。1790年〜1818年までアラスカ総督、
(アラスカ長官)も務めた「バラノフ」の下で、露米会社は多くの拠点を置いた。1804
年にはシトカの戦いを経て、アラスカ南部にノヴォ・アルハンゲリスク(現在の、シト
カの町)を築いた。露米会社は北西太平洋沿岸のアラスカからカリフォルニアに至るま
でを、数々の要塞を築いており、最も南の要塞ロス砦は、現在のサンフランシスコの、
すぐ傍の、北のフォート・ロスにもあった。レザノフ来航のひと月前に、狂歌で歴史に
名を遺す 大田南畝(蜀山人)が支配勘定方として、長崎奉行所に赴任している(55歳
)。下級幕臣(御家人)の家に生まれたが、文才を発揮し 江戸城に勤務の傍ら、19歳
の頃狂歌師として、頭角を現している。田沼時代の絢爛の中では、田沼に 重用され、
組頭の経済的な援助を得て、大いに羽振りを振るまう事が出来た。大田蜀山人が画号で
ある。だがこの時、田沼を打倒した松平定信によって 寛政の改革に着手し、田沼派の
粛清が始まって、大田南畝も雌伏して 通常勤務に精を出す方向に走った。寛政の改革
をからかった。と、いわれる有名な狂歌がある。「世の中に 蚊ほどうるさきものはな
し。ぶんぶぶんぶと 夜も寝られず。」(“ぶんぶ”は文武、勉学に励め武を鍛えよ、
のこと)これは、大田の作と言われている。46歳の時に、大田南畝は創設された「学問
吟味登科済」を受験し(寛政4年/1792年)、首席となる逸物だった。この時に同じく
首席の成績だったのが、レザノフ問題を処理するために 江戸から長崎へ下向した幕府
検使の遠山金四郎景晋である。学問吟味で 首席になった時は21歳。実に大田南畝とは
親子ほども歳の差のある、25歳年下の俊英であったのだ(以上は大田南畝Wikiから)。
彼らは、恐らく、このレザノフの素性も、アメリカの事情や様態も、恐らくどこからか
、情報を仕入れていたもの、と思われる。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/12(日) 04:04:33.52 ID:MtKIEX5v3
  新ジャパン レボリューション。 499    (レザノフ来たる)

 実は、田沼時代の幕政は、時の近代化ヨーロッパより進んでいて、近代に近い税法を
取り入れていて、大きく現代の経済学者に見直されている。絢爛の中では、田沼に重用
され、組頭の経済的な援助を得て、大いに羽振りを振るまう事が出来た中で、第9代の
将軍徳川家重、続く第10代将軍家治の寵愛を受けた田沼意次が側用人・老中として絶大
な権勢を誇った期間で、商業資本を重視した経済政策が 実行されたことで知られる。
苦しい中で、寛政の改革で鋳造貨幣の統一化を目指し、西国に使用を強制する。などと
いった施策で、最終的に貨幣の東西の統一をした。これで不安定だった通貨制度を安定
させる効果を得て日本が統一化出来たのである。殖産興業として天明の大飢饉の中に、
町人資本の出資による印旛沼・手賀沼干拓、農地開発を行い、翌年完成したものの、同
年の天明の洪水で堤防などが流され失敗し、これが悪評を呼んだ。貸金会所では、寺社
・農民・町人から金を出資させ、困窮する藩に貸付け、後に利子を付けて返すというも
のであったが、反発により挫折した。天明2年(1782年)から3年にかけて、冬将軍が
来る事なく、東方地方に異様に暖かい日が続く。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風に
より地面はほこりが立つ有様だった。とされた。冬とは思えない暖気が続き、人々は、
不安げに空を見上げることが多くなった。30年前の宝暦年間の4年、5年、13年の凶作が
あったときの天気と酷似していた中、天明3年、3月12日(1783年4月13日)には岩木山
が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火した。その後各地に火山灰を降らせ火山の噴火
は直接的な被害にとどまらず、成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ったことによって
日射量低下で冷害をさらに悪化させることになり、農作物には壊滅的な被害が生じた。
このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では
最大の飢饉とされた。こうした事情が、日本の事情を一変させたのである。

109 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/12(日) 04:05:08.06 ID:MtKIEX5v3
  新ジャパン レボリューション。 501    (レザノフ来たる)

 実は、田沼時代の幕政は、時の近代化ヨーロッパより進んでいて、近代に近い税法を
取り入れていて、大きく現代の経済学者に見直されている。絢爛の中では、田沼に重用
され、組頭の経済的な援助を得て、大いに羽振りを振るまう事が出来た中で、第9代の
将軍徳川家重、続く第10代将軍家治の寵愛を受けた田沼意次が側用人・老中として絶大
な権勢を誇った期間で、商業資本を重視した経済政策が 実行されたことで知られる。
苦しい中で、寛政の改革で鋳造貨幣の統一化を目指し、西国に使用を強制する。などと
いった施策で、最終的に貨幣の東西の統一をした。これで不安定だった通貨制度を安定
させる効果を得て日本が統一化出来たのである。殖産興業として天明の大飢饉の中に、
町人資本の出資による印旛沼・手賀沼干拓、農地開発を行い、翌年完成したものの、同
年の天明の洪水で堤防などが流され失敗し、これが悪評を呼んだ。貸金会所では、寺社
・農民・町人から金を出資させ、困窮する藩に貸付け、後に利子を付けて返すというも
のであったが、反発により挫折した。天明2年(1782年)から3年にかけて、冬将軍が
来る事なく、東方地方に異様に暖かい日が続く。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風に
より地面はほこりが立つ有様だった。とされた。冬とは思えない暖気が続き、人々は、
不安げに空を見上げることが多くなった。30年前の宝暦年間の4年、5年、13年の凶作が
あったときの天気と酷似していた中、天明3年、3月12日(1783年4月13日)には岩木山
が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火した。その後各地に火山灰を降らせ火山の噴火
は直接的な被害にとどまらず、成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ったことによって
日射量低下で冷害をさらに悪化させることになり、農作物には壊滅的な被害が生じた。
このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では
最大の飢饉とされた。こうした事情が、日本の事情を一変させたのである。

110 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:46:44.70 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 502    (レザノフ来たる)

 世界的には、小氷期が最も過酷だった1560〜1660年に、食料不足や健康状態の悪化な
どの“結果”が端的に表れたと判明したのが鎌倉の元寇の頃だ。この時代に、農産物の
生育期は短くなり、耕地も縮小している。砂漠の民の騎馬部族は、ここで農地は無かっ
たが、恐らく遊牧用の牛やヤギに必要な食糧が取れなかったと思われ、遊牧地域を拡大
する為のモンゴル闘争が起こったとされる。こうして、小さかった1206年に創設した、
遊牧国家(ウルス)は、天山ウイグル王国国王バルチュク・アルト・テギンを手中にし
モンゴル帝国の地域支配の要としてウイグル王家の血筋をオングトやカルルクが得た。
こうしてモンゴル高原(モンゴリア)は9世紀のウイグル国家(回鶻可汗国)の崩壊以来
の統一政権が存在しない状況から再帝国建国時代に入った第2代皇帝オゴデイ第3代皇帝
グユク第4代皇帝モンケと、皇帝(カアン)位を継いでいき モンゴル高原の遊牧民を、
統合したチンギス・カンの時代は、部族で高い地位を得て西は欧州東は朝鮮半島までを
支配したのであった。ここで押し出されたツングース族やコタン族アイヌ賊などの北方
民族が北海道などに押し寄せて来て争っていた。この時、田沼は大きく北海道開拓やら
樺太開発、外交貿易を考えいた。しかし米は取れず、魚は産業にならず、砂金の川も、
大した事もなく、天候不順と飢饉が日本に襲ってしまった。こうして失脚した。田沼を
打倒した松平定信によって 寛政の改革に着手し、田沼派粛清が始まり、大田南畝も、
雌伏して 通常勤務に精を出す方向に走った。この噴火の後の、世界的な不作の時期と
なっただろうと思われるのは、他の火山噴火もあったからだ。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:47:14.87 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 503    (レザノフ来たる)

 実は8月5日の浅間山の天明大噴火が発生する前に、6月8日にアイスランドのラキ火山
が大噴火を起している。この大噴火は、その後の数年間もヨーロッパに、異常気象をも
たらし、フランス革命の遠因となった。とまでされている。4月3日にアメリカ・スウェ
ーデン友好通商条約締結するのだが、一般的に好景気が続いていたが、3年後の1786年
06月10日には、10日前の地震で中国四川省の大渡河にできた天然ダムが崩壊。10万人が
死亡とされ、この異常な大雨は日本にもやってきて、7月に、利根川が氾濫して天明の
洪水が発生した。不幸にも江戸市中が大洪水となって、大きな被害と病人がでて不満が
溜まったのだ。その不幸は、洪水により印旛沼干拓が破綻と言う結果を招き、田沼意次
は老中を解任されてしまう。その後井伊直幸が大老として改革断行に及ぶが、1787年の
10月11日(天明7年9月1日)井伊直幸は大老を辞任するのである。井伊直幸は 明和2年
(1765年)の家康の150回忌に際して、日光東照宮へ 将軍の名代として参詣している。
その際に、幕府へ官位の昇進を願ったが却下された。しかし翌年の家基の元服に際して
は、加冠役を命じられて、左中将に任官した。なお、同日、松平容頌は理髪役を命じら
れて、同じく左中将に任官している。幕府では、かなり井伊家の血筋を重視していて、
他家からの養子を許さなかった。直定の養子として宝暦5年(1755年)に直定の再隠居
に伴って、晴れて藩主となったほど凡庸だった。宝暦9年(1759年)12月12日、将軍の
徳川家重の右大臣転任で、陸奥会津藩主松平容頌とともに朝廷への使者を命じられてい
る。幕閣工作で、上野前橋藩主「松平朝矩」の内定を覆し実現させた人選理由は、幕府
内序列(「譜代(将軍家家臣団)筆頭で幕府大老の井伊家」と「親藩(将軍家親族)の
筆頭格の一角会津藩」、「親藩にして“将軍家の兄の家”である越前松平氏一門の朝矩
」)を顧慮した工作であった。つまり、御三卿と御三家と新御三家のバランスを重んじ
たのである。

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:47:44.78 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 504    (レザノフ来たる)

 徳川家斉が江戸幕府11代将軍となると、松平定信が寛政の改革に着手した。。当時の
落首でも「明和九も、昨日を限りし今日よりは 壽命久しき 安永の年」と謳っている。
つまり「迷惑にも、機能がなく利子が強く、当米、庇に敷き会えない歳」つまり干した
ご飯にもありつけていない。と詠んでいる。天災が収まることが願われたが、しかし、
その後も天災地変は続いて行った、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火そして
天明の大飢饉が起こった。この背景に一揆や打ちこわしが全国各地で激発したのである
。宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆は 600件近くあり、都市騒擾も 150件以上
にのぼる。また件数の増大だけでなく、その規模も拡大していった。それに対し田沼は
処罰の厳罰化のみで対応した。がそれが更に幕府の米収入が毎年赤字を連続する状況で
あった。にもかかわらず飢饉に対し蓄えておくはずの城米・郷倉米を貯えることを放棄
した。江戸の打ちこわしがなければ、田沼派が失脚し定信が老中に就任することはなか
っただろう。杉田玄白は、「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も、侍
はべり。」と指摘する。田沼時代に民衆による反権力闘争の高揚期であり、幕藩体制が
解体に向かう重要な転換期でもあったのだ。そんな田沼時代が終わった当初、農業人口
は140万人減少し、幕府財政は天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀のため、100万両の
赤字が予想されていた。財政難の解消、崩壊する封建的社会構造の維持が求められる中
で寛政の改革は始まる。従って通説での松平定信は、田沼意次の政策をことごとく覆し
たとされるが、近年は、むしろ寛政の改革には田沼政権との連続し深化させていった面
が多いと指摘される。

113 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:48:38.77 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 505    (レザノフ来たる)

「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前が強く、現実の政治は、田沼政治を継承し
、とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農との
連携しながら その改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより田沼
路線をさらに深化させたといってよいであろう」という。近年では定信と田沼政権との
間に連続面があったことが重視されている。とし、その一つとして通貨政策をあげる。
定信は1788年、江戸の物価を抑えるため明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた
「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようと
した。つまり、田沼政権の通貨政策を否定しようとした訳ではなく、国内統一後海外と
の取引の改悪鋳造だった。とされる。1790年に、二朱銀を通用していなかった西日本の
各国でも使うよう強制し、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広
まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的であった。」
と言う。他の通貨政策も、田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止し
、紙幣経済の発達を阻害するような政策と言われる。寛政2年(1790年)に伊勢神宮の
御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書を山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し準備金
の範囲での発行、偽札対策などを徹底させた。山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣とい
える状態に変わった。紙幣政策において、田沼よりも進歩的であったのだ。山田羽書は
山田奉行所の管理下に置かれ、商人の都合による乱発が無くなり、通貨供給量が安定す
る。

114 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:50:48.38 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 506    (レザノフ来たる)

 定信は改革当初、二朱銀の鋳造と株仲間を結成させ運上金を徴収した。このことが、
物価高騰の原因だと、二朱銀株仲間の廃止を上申された。が幕府は、株仲間に対し物価
の調整と運上金の上納に期待していて、改革当初に株仲間と運上金をごく少数廃止した
のみで、大部分を存続させた。こうして大部分の株仲間と言う商人組合を存続させた。
また天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間を結成させて高利に苦しむ人々の
救済もはかっている。田沼時代に構想されたものの「蝦夷開発」が否定したとも通説で
言われる。が、実際は「寛政の改革」当時の定信を含めて幕閣の間に、蝦夷開発構想は
、むしろ期待され肯定的に支持された。藤田覚は、蝦夷開発構想は田沼失脚後も勘定所
を中心に、老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持され続け、浸透していたと述べて
いる。但し、他の老中が主張する松前藩から、領地を取り上げて強引な幕府主導の開発
ではなく、松前藩が、蝦夷地の支配権を幕府に投げ出すのを待って、東北諸大名に分割
して開発させる構想を描き、定信が失脚したことを契機に、一気に寛政11年に東蝦夷地
の幕府直轄にしての開発が開始された。とされる。文化4年(1807)に、松前全蝦夷地が
幕府直轄地として編入されたが、しかし幕府主導による蝦夷開発は最終的には、ゴロー
ニン事件の解決と、日露の緊張緩和した事で、蝦夷地警衛体制の縮小を理由に文政4年
(1821)に中止された。蝦夷地は松前藩に復領され、その後政府による蝦夷開発は、幕末
開港期まで停止されることとなったのである。通説では、田沼を積極財政、定信を緊縮
財政とするが、藤田覚は田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」緊縮財政と自書で書
いており、藤田は田沼時代の財政経済政策を 前代以来の財政緊縮策を継続させたとし
、田沼時代を緊縮財政と説明している。

115 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:51:21.20 ID:+3HsdmegU
 新ジャパン レボリューション。 507    (レザノフ来たる)

 長崎奉行は、天領長崎の最高責任者として、長崎行政・司法に加え、長崎会所を監督
し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国と
の外交接遇、唐人屋敷や出島を所管していた。九州大名を始めとする諸国の動静探索、
日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備などを、
統括した。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、
指揮する権限も有していたが、先のフェートン号事件では、あえなく入港を許した事で
名門の出だった長崎奉行松平康英は自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老
等数人も責任を取って切腹する。さらには幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていた
とし、藩主鍋島斉直に 100日の閉門を命じた事件が起こっていた。この事態に、収拾に
あたったのが大田南畝である。大田南畝、1794年(寛政6年)、幕府の人材登用試験であ
る学問吟味で御目見得以下の首席で合格し、支配勘定を命ぜられ 寛政8年(1796年)、
支配勘定に就いた。1799年(寛政11年)、孝行奇特者取調御用を命ぜられ、1800年には
(寛政12年)、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる。江戸城内の、竹橋の倉庫に保管
されていた勘定所の書類を整理する役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に対
して、南畝は「五月雨の、日もたけ橋の反故しらべ、今日もふる帳あすもふる帳」と詠
んでいる。さみだれの雨の鬱陶しさを、古い帳面調べ=降る長雨(ちょうう)と言い換
えいる。1801年(享和元年)、大坂銅座に約一年間赴任し、突然に1804年(文化元年)
、長崎奉行所へ赴任する。つまりフェートン号事件以降にやって来たレザノフに相対し
たのである。

116 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 03:51:59.60 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 508    (レザノフ来たる)

 長崎奉行は、17世紀頃までは、キリシタン対策や西国大名の監視が主な任務であった
。しかし時と共に、貿易の管理と統制を目的に変わる。1630年代に 長崎奉行の職務を
規定したお触れを出している(いわゆる鎖国の前段階)。新井白石の頃に、海舶互市新
例が発布された頃は、貿易により利潤を得ることが 長崎奉行の重要な職務となった。
江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン
来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる。
長崎に詰めている奉行を、長崎在勤奉行、江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。在府
奉行は、江戸の役宅で、江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立って、報告を受けて両者
の連絡朝鮮その他にあたった言わば旗振り役を担う。在勤奉行の手にあまる重要問題や
、先例のない事項は、全てが江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、これは在勤奉行から
在府奉行を通して行なわれた。その回答や指示も在府奉行を通して行なわれる習いであ
った。オランダ商館長の、将軍拝謁の際に先導を務めたのも在府奉行であった。こうし
て、レザノフの来航に当って、江戸から長崎へ下向した幕府検使方は、遠山金四郎景晋
である。さらにその時長崎奉行としては、大田南畝が担当していた。その二人が、重大
事件を巡って、長崎の地で再会した。ということになる。大田南畝は、遠山の兄貴分的
存在であった。このことは、想像に難くない。遠山は、幕閣中枢の最新機密情報を知悉
している幕臣である。長崎で、レザノフ対応に四苦八苦している二人の奉行は、往復に
数週間かかる江戸からの下知状(命令書)を、受け取る以外の情報源が無いから、検使
の到着は幕閣中枢の内情聴取の 絶好の機会であったろう。それは、大田南畝とて同じ
である。46歳という 当時としては隠居することもある年齢にもかかわらず、学問吟味
で首席になってからは、文才ではなく優秀な官僚として 出世の階段を上り長崎奉行所
へ支配勘定役として、赴任していたのだった。

117 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 04:01:53.67 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 509    (レザノフ来たる)

 時の奉行、成瀬因幡守の家来ではなく、幕府直轄の任命職であり、長崎奉行を会計面
から監察する立場である。彼自身の 書き残した文章によると『奉行やしきを鯨屋舗と
異名、此方屋舗をしやちほこ屋舗と唱(となう)、奉行之家来迄、此方やしきを、遠慮
いたし恐れ候(『新百家説林』)』(「長崎奉行」外山幹夫47p)というように、長崎
奉行所近くの丘の 岩原目付屋敷に住んでいた。そのような重職であったからレザノフ
対応の、重大事には奉行に同席している。しかも、彼は、レザノフが、梅香崎仮館に
引っ越した翌日、レザノフに面会しているのである。二人の奉行は 幕府を代表する職
としての体面上、検使とともに正式な面談の日まで レザノフには会っていない。面会
した時に、大通詞の名村多吉郎が大田南畝を紹介すると、レザノフは 日本語で「太田
直次郎」と言い、握手を交わし、仮館に運び込まれた 色んなロシアの物品や本、地図
、博物的な資料を見ることが出来て、「生涯の大幸、大愉快の至りにて病気も何も平癒
致し候。」(「レザノフ日本滞在日記」406p)と、息子に書き送っているのだ。彼も
また レザノフの大ファンになったことは、間違いない事実だった。江戸からはるばる
下向した遠山金四郎景晋を迎えて、二人の奉行と 支配勘定役のねぎらいの宴は 開催
された筈で、その席で、あるいはまた 他の機会にも 根掘り葉掘り 幕閣中枢では、
どういうことがあったのか。を尋ね答えたろうし、遠山金四郎景晋とても、自分の言動
を注意深く律していなければならない中だった。が、江戸を遠く離れた長崎では、恐ら
く自分の思いも吐露をしたろうし、事態処理に、苦慮している奉行には 知りうる限り
の情報を共有したものとも思われる。しかも、共に出世の機会を掴んだ試験で 同じく
首席同士だった 父親のように歳の離れた、大田南畝には腹蔵なく話したろう。と思わ
れる。と、ここまでは大田南畝と、遠山金四郎景晋の 長崎での交流について想像で筆
を進めた。

118 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/13(月) 04:02:14.70 ID:+3HsdmegU
  新ジャパン レボリューション。 510    (レザノフ来たる)

 実は重要な事実が判明している。「長崎オランダ商館日記」の342p注95には 「遠山
金四郎景晋は 長崎着任後2月晦日から、03月25日の長崎離任まで 岩原目付屋敷に滞在
した。」とあるのだ。大田南畝と遠山金四郎景晋は、一か月弱も 同じ館で起居を共に
しているのである。学問吟味の首席同士のよしみで、連日話が弾んだはずだ。大田南畝
と遠山はレザノフとの面会が、いかにするかを共有し、田沼時代の自由な空気を知って
いた大田南畝は、ロシアと通商すべし、と説いただろうか。幕閣中枢に何があったかを
、どう取り次いだかを話し、ロシアとの通商が如何に潰されたのかを、詳しく聞いたに
違いない。そして今後のそれぞれの幕府での身の位置に、遠山金四郎景晋などが、密か
に披露した情報で 当然の重大機密を共有し、奉行所の役人達や、通詞達も 情報収集
に努めている各藩の聞役もしり、拡散していったことであろう。こうして、レザノフが
帰国することになったが、途端に、通詞たちが内情をレザノフに打ち明けた。と考える
と、彼等の話には、十分資料的価値があったと思われるし、信憑性はかなり高い。と言
える。寛政年間に 松平定信の命で、オランダとの貿易は半減商売と呼ばれるような
縮小政策がとられた。通詞たちも、長崎会所(貿易機関)も、出入りの商人たちには、
厳しい時代で新しい貿易相手の出現を 大いに歓迎した。と思われる。そういう空気が
 長崎に溢れていたという視点は、極めて重要であろう。ところが、松前道広時代に、
アイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)が起こり、その根本原因に、露米会社の設立
以来の、極東や北アメリカでの植民地経営の生き詰まりがあり、毛皮交易とはいうもの
の勅許状を元にした、ロシア帝国の国策の税の徴収が問題視されていた。この事を松前
道広は藩主として充分に知っていた。遊び好きで、対外強硬派であったと言う仕掛けは
。ロシアの通商要請を断固拒否していたからの幕府の対策であったに違いなかった。

119 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/16(木) 12:37:07.14 ID:alUP7DH1j
  新ジャパン レボリューション。 511    (レザノフ来たる)

 実は、松前藩の『新羅之記録』に、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、
メナシ地方(北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)は、100隻近い 舟に
鷲の羽やラッコの毛皮などを積んで、松前でウィマム(旨味会:アイヌ語の「交易」)
し献上したとの記録がある。1644年(正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき
松前藩が提出した自藩領地図は、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が
描かれ、1715年(正徳5年)に、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島、唐太、千島列島
、勘察加」は、松前藩領と報告している。1731年(享保16年)、国後・択捉の首長らが
松前藩主を訪ね献上品を贈った。1754年(宝暦4年)道東アイヌの領域の最東端では、
松前藩家臣の知行地として、国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ
て、国後島の泊には、交易の拠点および藩の出先機関として運上屋敷が置かれていた。
運上屋では、住民の撫育政策として、オムシャ(恩謝:歓待の席)なども行われていた
。1773年(安永2年)には、商人飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり
、1788年(天明8年)には大規模な〆粕(しめかす)の製造を開始する。とその労働力
としてアイヌを雇うようになった。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を
乾燥させて作った肥料である。主に鰊が原料とされるが、クナシリで、鮭、鱒が使用さ
れていた。漁場の様子については北海道におけるニシン漁でも肥料を作っている。一方
、アイヌの蜂起があった以前に、1643年に、オランダ東インド会社の探検船「カストリ
クム号」が、択捉島と得撫島を発見し、厚岸湾に寄港した。北方からはロシアが北千島
(占守郡や新知郡)即ち、千島アイヌの領域まで南進してきていた。江戸幕府はこれに
対抗して、1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島ま
での千島列島を最上徳内に踏査させている。

120 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/16(木) 12:37:28.76 ID:alUP7DH1j
  新ジャパン レボリューション。 512    (レザノフ来たる)

 千島アイヌは、北千島においてこうした黒船に抵抗するも、ロシア人に武力制圧され
た上で、毛皮税などの重税を課されていく。こうして経済的に苦しめられていたアイヌ
は、一部のロシアから逃れるために、千島アイヌは道東アイヌの領域の得撫島や択捉島
などに混じって南下した。これらの、千島アイヌの報告によって、日本側もロシアが、
北千島に侵出している現状を察知して、北方警固の重要性を考え、これを説いた『赤蝦
夷風説考』などが著された。1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人の飛騨屋との、
商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、国後惣乙名(ク
ナシリの酋長)のツキノエの留守中に蜂起して、商人や商船を襲い和人を殺害したのだ
。蜂起をよびかけた中で、ネモロ(根室)場所メナシ(名主)のアイヌもこれに応じて
、和人の商人達を襲ったのである。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの乙名たちも、
説得に当たり、蜂起した者たちは投降する。が、蜂起の中心となったアイヌ人達は処刑
された。蜂起に消極的なアイヌ人には、一部の和人が保護された例もあるが、この騒動
では、和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に、飛騨屋の責任を問い、この場
所請負人の権利を剥奪した。その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請
け負わせた一方で、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を
行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航した時は、この騒動
からわずか3年後の寛政4年のことであった。事件から10年を経た1799年(寛政11年)
東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および、
西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料とな
ったのである。この当初の、寛政元年(1789年)に国後島や目梨地方で起こったアイヌ
の反乱(クナシリ・メナシの戦い)で新井田正寿・松井広次らを派遣して鎮圧して分か
った事が、実は砂金戦争であって露国の税の取り立てに、断固反対して追いやったのが
、ラスクマン来航時の事件だったのだ。

121 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/16(木) 12:38:29.99 ID:alUP7DH1j
  新ジャパン レボリューション。 513    (レザノフ来たる)

 北見方面南部への和人(シサム・シャモ)達の、本格的な進出が始まったのは、この
蜂起の後である。江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を
緩和してからであった。これまで幕府は、アイヌとの協調から、平安時代からの相互踏
み入れを禁じた協定を重んじでいて、入植には制限していた。が、アイヌの蜂起の原因
で、松前藩が経済的な苦境に立たされているものである。と理解し、場所請負制も幕府
直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は、幾分改善された。しかしなが
ら、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していたのだっ
た。幕末の頃の1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知
床日誌」によると、アイヌ女性が、年頃になるとクナシリに遣られて、そこで漁師達の
慰み物になったという慰安婦女子風情が描かれた。また、人妻は会所で番人達の、妾に
される事も多く、男性は夫役のため離島で5年も10年も酷使されて、独身者は妻帯も難
しかった。と言う事情もあった。ロシアの南下は、そうした日本国情を創っていたのだ
った。、イルクーツクの商人のグリゴリー・シェリホフは、レザノフを養子に迎えたが
この時代のグレゴリーの手下は野蛮と傲慢の塊でその商売を成功させていたのだった。
また、かれらは疫病も流行らせた。幕末に箱館奉行が種痘を行い対策を講じたものの、
和人や外人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるって、本格的に、アイヌ人の
人口は急減し。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口(江戸時代
の日本の人口統計)が、明治6年(1873年)は1万8630人に半減した。アイヌ人口の、
減少はそれ以降も進んで、北見地方全体で明治13年(1880年)に 955人いたアイヌ人口
は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。とされている。明治45年(1912年)5月
、納沙布岬の近くの珸瑤瑁(ごようまい)の砂浜に埋まっている墓碑が発見されたが、
表面に「横死七十一人之墓」、横面「"文化九年歳在壬申四月建之"」裏面には漢文で、
この事件の経緯が刻まれている。

122 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/16(木) 12:38:51.58 ID:alUP7DH1j
  新ジャパン レボリューション。 514    (レザノフ来たる)

 長崎でのレザノフ対応のその真偽は、歴史の審判を 待たねばならないだろう。が、
ちなみに鎖国維持派はロシアなど、鎧袖一触と強がった。という。儒学者の林述斎が、
「ロシアとの通商は『祖宗の法』に反するために 拒絶すべきであるが、ラクスマンの
時に、信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかない。」と
説くと、老中土井利厚は、「(レザノフに)腹の立つような 乱暴な応接をしたりすれ
ば、ロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアが、それを理由に、武力を
行使しても 日本の武士はいささかも、後れはとらない。」と主張した。という(東京
大学史料 編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」幕府の対応)だが、大坂夏の陣以降、
190年間(島原の乱を除く) 実戦の経験のない日本の武士達は、この後にレザノフへの
冷遇に怒ったロシア将校が率いる一団が、蝦夷を荒らすと、抵抗も出来ず逃げ回ること
となった。(魯寇事件と松前藩の対応)。江戸にいて世界を見ずに、前例のないことは
けっして決定できない そんな幕閣の愚かさは、この時には既に始まっていたのだ。実
は、11月25日の、オランダ商館日記には、ドゥーフが 年番大通詞(その年の 通詞団
トップ役)中山作三郎との 面白いやり取りを、記録している。その前日に、江戸から
知らせが来て 200年前に現れた シャムの大使の、取り扱い事例を説明せよ。との指令
が来た。というのだ。作三郎は、150年前に 長崎の大火で多くの書類が焼失した事から
、奉行たちが、調べようにも見つからないだろう。と、ドゥーフに漏らした。とある。
ロシアの大使を、どう扱うか判断する能力が無いので、レザノフ来航後、ひと月も経っ
た後に 200年前の接遇の記録を、長崎奉行に探し出せ。との 命令するような、体たら
くなのだった。ただただ 前例にすがるしかない老中たちの姿が浮かびあがる。再び、
言うが、当時の日本は鎖国をしていても世界情勢のことを知っていた。という説を唱え
る論者がいるが、この件だけをとってみても、幕閣の無知と無能は明らかである。だが
幸いにも、アイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)の詳細も知り、ロシア使節アダム
・ラクスマン事件などがあって、ロシアの南下作戦の下心は掴めていたのであった。

123 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/18(土) 20:30:40.37 ID:hfjQMcHme
  新ジャパン レボリューション。 515    (レザノフ来たる)

 日本が国を閉ざした 200年の間に、ヨーロッパは激しい戦乱に明け暮れて 戦闘方法
も、武器も進化し、アメリカ大陸の十三州は、英国に勝って独立を果たし、その英国は
すでに、産業革命の真っただ中にある時代であり、ワットが蒸気機関を発明し、フルト
ンの蒸気船が誕生するのは目前だったのだ。それなのにドゥーフを含めて、歴代オラン
ダ商館長らが、彼らの生き残りのために 取捨選択して 作成されたヨーロッパ情勢の
報告書「風説書」を頼りにして、しかも、あくまで前例主義で判断を下そうとしていた
のが、徳川幕府の実態であった。それがレザノフの来航でメッキが剥がれていたのだっ
た。更に注目すべきは、当時の日本人が、レザノフ一行との別れに見せた熱狂である。
異国人への 日本人の興味は、レザノフ一行だけに向けられたわけではない。オランダ
商館長の、江戸参府の際には 京都や江戸の定宿(じょうやど)の長崎屋は、見物人で
鈴なりであったし、スチュワートの人気は、「スチュワートの登場」で見た通りである
。入港10日後には、『長崎の住民たちは、一日中私たちを ほってはおかなかった。絶
え間なく艦の後ろや 前を取り囲むようにして、航行していた。このため一日退屈する
ことがなかった。』とレザノフは書いている。当初は、旗や幟を立てた 各藩の軍船や
番船が、港を埋め尽くす様にやって来ては、ナデジュダ号を取り囲んでいたのが、10日
ほどが経過してレザノフ一行が 危険な存在ではないことが知れ渡り、規制なども緩く
なると、ものかわで人々が異国船見物に繰り出した事が、よくわかる貴重な観察である
。また、奉行所の役人等も、一行にとても優しく接している。1か月後の11月15日には
『庄左衛門は、夕方までずっと私たちのところにいたのだ。日本の役人たちも、まるで
 ずっと前からの知り合いのように、部下たちの船室で、過ごしていた。概して日本人
達は、ロシア人を好いていた。』と観ている。まあ日本人には「わせ物好きの銭失い。
奇行称して、物見雄山の癖ありて。怖いもの見たさの大判振舞い。」と言うところであ
ろう。

124 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/18(土) 20:42:56.82 ID:hfjQMcHme
  新ジャパン レボリューション。 517    (レザノフ来たる)

 幕府のお抱えの、警察官僚と言っていいその彼らが、見せた別れを惜しんだ心情は、
これまで どこの記録にも残っていない。この別れを惜しむ行動は原田等3人だけでは
なく、梅ヶ崎の仮館を警護する九州各藩の警護兵と、ロシア水兵の間でも全く同じ景色
が展開されたのである。これら役人や、警護兵たちだけではない。役人たちが別れを惜
しんだ翌日、仮館の竹矢来の門(本来出入り禁止の筈が、警護兵たちは、レザノフが、
近所の民家を見物に行くのを黙認していた門であった。)(を通って仮館に行けば ロ
シア人に会えるという噂が広まっていた)のであろう。このところに行くと、『門を通
り抜けよう』と、行ってみると、隣の家の二階に女たちが詰めかけ、私を手招きで呼ん
でいた。一人の老婆が、窓のところから私に深々とおじぎをしながら、他の女たちにも
 同じようにするように命じ、こう語りかげてきた。「私は八十歳になります、あなた
様を、拝見するためにやって来ました。と、一人の大きな娘を示しながら、これは私の
孫娘です、そしてこちらがひ孫娘たちです。と、二人の娘を手でつかまえながら、みん
な あなた様の出発を残念がっております。もう私たちは あなたにお目にかかること
は一切ないでしょう。」そして また足元にひれ伏すようにして、子供たちに、深々と
おじぎするように命じた。私は日本語で、感謝の言葉を述べてやったが、これに対して
『何の恩恵もしめすことができないことが、とても悲しい。』と、言ったのであった。
」つまり、果の頃の日本文化では、庶民というのは、士農工商の身分制度は、歴然と、
存在していた。にも拘わらず、市民と言う四民は、程よく平等にあって、とりたてて、
見物客に急き立てるものも 言葉を交わすす事に不審がる事も無く。どの行動をとって
も、門の不法通過や 品々の贈り物、立ち止まった挨拶や短い会話は、情状によって、
許されていた事が記入されていて 鎖国政策とは言えとても外国人にしても優しくあっ
たのである。

125 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/18(土) 20:46:33.61 ID:hfjQMcHme
  新ジャパン レボリューション。 518    (レザノフ来たる)

 これまた驚くべきことである。仮館に隣接する民家の 二階に大勢の女が集まり、レ
ザノフを見物していたこと、会いに来た老婆がいることをレザノフに知らせたこと、80
歳の老婆(現代の80歳とは違い、当時は 今の100歳に近い長寿の筈である)が、異国人
に孫娘とひ孫娘に挨拶させようと出かけて来て、レザノフと日本語で話したこと、など
歴史の常識や通説を、遥かに超えた出来事ではないだろうか。今度来たロシア人(オロ
シャ人)は、日本語が話せる。というのが 長崎の人々の間で広く知られていた。と考
えねばなるまい。しかも 挨拶しようと思い立つのだ。これが幕末の狂気の攘夷以前の
日本人の当たり前の行動だった。ということになる。その3日後、いよいよ出立の日の
様子をレザノフは次のように伝える。
『 朝五時、朝日が昇ったことを知らせるラッパの音で起床する。四つ角のところの門
がもう開け放たれているのに気づく。八時前に錠が聞けられたことを知った、驚いた。
たくさんの日本兵たちが、私のところに来て、お茶を飲んでいた。彼らが私たちの出発
を残念がっていたのは、ほんとうだった。多くの兵たちの自に 涙が滲んでいたのだ。
私たちも 心を動かされた。彼らは決して、ロシア人のことを忘れない。と断言した。
この後にも 役人たちが集まり始め、高官たちも やって来た。八時になると、庭は人
であふれかえっていた。」そして「錨が引き上げられ、十二時、およそ百艘の挽船が、
私たちの艦を 高鉾湾に曳航してくれた。大小さまざま たくさんの船が私たちの艦の
脇や後ろや周りを一緒に航行していた。』と書いている。余談だが 実は大田南畝は、
レザノフが仮館の柱に書き残した「日本のご厚恩難有(ありがたし)」を見たと証言し
ている。彼はここの滞留において、大きく日本を理解し、日本語さえも理解していたの
である。彼に使命や、責任がなく、規制がなかったら、恐らく日本国中を旅するぐらい
に興味深々であったにちがいない。

126 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/22(水) 19:34:15.13 ID:ptcamv51z
   新ジャパン レボリューション。 519    (レザノフ来たる)

 彼は長崎滞在中に「彦山の上から出づる月はよか こげん月はえっとなかばい」と、
見事な長崎弁で歌を残した。先にも書いたが、攘夷が政治スローガンとなる前の日本人
は異国人と接することに、無上の喜びを感じていたことが 歴然とわかるエピソードば
かりである。そもそも、長崎が江戸大阪に続く大都会であり、日本中の知識人が長崎へ
来たのは、そこに異国人が住む出島があったからに他ならない。だから水戸学によって
、長崎以外で攘夷論が確立するのは、このレザノフが去ってから、20数年後のことであ
る。それを唱えた人々は、異国人を 間近に見た経験すらなかっただろう。『固定観念
による憎しみ。』は、日本人が本来持っている 異国人への興味関心とは無縁に、グロ
テスクに増幅していくことを、幕末の攘夷排撃が示している。昭和の時代、クラシック
音楽やジャズ、ハリウッドに憧れた大衆を「鬼畜米英」に追い込むのに、数年しかから
なかった。政治思想は、もちろん革命思想はその筆頭であるが、その恐ろしさを我々は
胆に銘じなければならない。ということを「レザノフ日本滞在日記」は教えてくれてい
る。さて、では、レザノフの 日本語とは、どのようなものであったのか、誰でも知り
たいと思うだろう。実はそのヒントが、「レザノフ日本滞在日記」(77p) にあるのだ。
長崎に到着後4日目のこと(10月13日) 通詞たちとも顔馴染みになったレザノフが日本
語を試すのである。既に、通詞たちや検使の家来たちは ロシア語を書き留め、しかも
覚えたてのロシア語の言葉が乗組員に目につくものの ロシア単語を尋ねて始めていた
。通詞たち、とくに、名門通詞家に生まれた者は、幼少期からオランダ語の修行が 始
まる。それだけに、初めてのロシア語であっても 親しむのが速かっただろうと思われ
る。

127 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/22(水) 19:35:38.73 ID:ptcamv51z
  新ジャパン レボリューション。 520    (レザノフ来たる)

 それを見て、レザノフも常套句は 日本語で話すことにするのである。彼が発したの
は「マンナナ ヨイノ ニポノ ファトノ」、つまり日本人は、皆良い人だと、言って
みたのである。大島幹雄氏は レザノフの日記のロシア語原文に 忠実に発音を拾った
のであろう。彼は恐らく「みんな よいの にっぽんの ひとの」と発音したつもり、
だったのだろう。だが、彼に日本語を教えた善六(ペトロパブロフスクで下船)も残り
の漂流民も石巻の人である。訛りもあって、上記のような日本語の発音になったのかも
しれない。だが、長崎では連日 通詞を相手の 無聊の日々が続くことになるから、恐
らく瞬く間に上達した。と思われる。6か月後、ようやく幕府検視の遠山金四郎と二人
の奉行との対面が、叶うことになった時に、事前打ち合わせの席で「私は 日本語で話
しても良い」と提案して、通詞たちを困らせたのである。日本語の発音が 奇妙でも、
間違っていても 臆することなく話すレザノフは、かえって長崎の人々の笑いを誘い、
人気者になっていくのである。こういうところに、ロシアの悠久の大地が生み出した
ロシア人の、善なる気質を感じるのである。それはどこか悪漢ながら、新世界が生んだ
スチュワートに通じるものがあるのだ。翻って、英国、フランス、プロシアなど大国の
狭間の 狭小な国土で抜け目なく生き抜いてきたオランダ人との気質の違いを、感じて
しまうのだ。それにしても、レザノフの日本語には、大きな長崎訛りはなかったろうか
大田南畝が、「こげん月はえっーとなかばい」と詠んだように、もしかしたら異国語に
豊かな才能を持つレザノフのことだから、長崎弁と江戸語の違いを理解して、江戸から
下向している奉行配下の役人たちに「ヨカヨカ」(よいよい)と返事して楽しんでいた
のではないか。と想像すると、長崎でのほほえましさに頬が緩むのである。

128 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/24(金) 02:17:54.04 ID:IjH6ojki/
  新ジャパン レボリューション。 521    (レザノフ来たる)

 レザノフの日記が明らかにしてくれるのは、オランダ人などの「屈従」の実態である
。オランダ人は、そもそも、ドゥーフが、その回想記で、権現様(GONGENSAMA)と呼んだ
ように、徳川幕府で 絶対的存在である徳川家康から 朱印状が与えられ、ヨーロッパ
キリスト教国の中で、唯一日本に滞在し 貿易を許された国だった。その上オランダの
代表として、数年おきに 大名行列に匹敵する格式で、江戸参府を行い、将軍に謁見を
許される地位だった。だが、鎖国体制の中で 例外的な存在であるだけに、ちっぽけな
長崎の出島に生活圏を制限され、その行動は 常に出島目付や通詞等によって 監視を
されている。ここまでは、よく知られた事実である。ワルデナールにしろ ドゥーフに
しろ 歴代の商館長は、スパイに囲まれた緊張感の中で暮らしていることを、商館日記
に記している。時には、気に沿わぬことであっても 通詞達が「奉行が『要請』する」
、と書き、実はそれは、命令と同じことである。と 自分に言い聞かせて、『要請』に
従うことを 行間に苦渋を滲ませながら記録していたのだ。が、そこには会社の利益の
ために 200年間も、耐えてきた「屈従」の実相には見えてこない。あるいは、「見せて
こなかった。」という言い方が、正解かも知れない。その闇に唐突に、光を当てたのが
レザノフの出現である。それは、レザノフが 初めてドゥーフと会った10月9日のことで
ある。レザノフと会うまでを、商館日記ではドゥーフは次のように伝えている。『乗船
すると、船長が甲板で私を迎えて、下の船室に導いた。その場には検使たちがソファに
坐っており、その側に、金の垂れ飾りのある青い上着に、ローズ形ダイヤをつけた勲章
帯、右胸に星、上着の背の左の結びに金の鍵をつけた、一人の人物が椅子に坐っていた
。そして彼は、私が検使たちに 挨拶をした後に、私に「騎士にしてロシア阜帝陛下の
侍従レザノフである。」と告げ、「同時に私に、彼が、私宛ての書面を持っているが、
しかし、彼はそれを私に 日本人がいないところで渡すように 注意しなければならな
いと命ぜられている、と告げた。

129 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/24(金) 02:19:15.20 ID:IjH6ojki/
  新ジャパン レボリューション。 522    (レザノフ来たる)

 私はすぐに閣下に無事な到着を祝し、彼にいくらかのお世辞を一言い、それに対して
折り返し、私に答礼があった。私が閲下とこんな風にしているので、検使たちは私に、
今 彼らと一緒に尋問を始めようと、要求した。そこで、私はすぐにそれに同意し、こ
うして尋問は始まった。』と書く。この文章では、ドゥーフがレザノフと ごく普通に
会わされたように思える。だが、レザノフの観察眼は鋭く、彼は見たことをありのまま
に書いていた。『やっと私たちは、長崎商館長ドゥーフと彼の秘書たち、ムスケチール
という オランダ船の船長と、会うことができた。私たちのところに入ってきて、挨拶
の言葉を交わそうとした時に、突然、通訳の責任者が、ドゥーフに儀礼の詞を、大声で
伝えた。通訳は膝をつき、お辞儀をした。オランダ人たちも 同じことをしなければな
らなかった。検使の前で、彼らは腰を曲げ、手を膝にあてながら、首を横向きにして、
通訳の長い演説が 終わったかどうか。そして、いつ立ち上がることを 許してくれる
のかどうかを、じっと見守っていた。役人たちと話す時は、いつも同じことが繰り返さ
れた。オランダ人たちは、こうした自分たちの 卑下した態度を私たちに 見られてし
まったことを、ひどく恥ずかしがっていた。』このあと、検使に代わって 尋問や武器
・弾薬の引き渡しについて 交渉した後、ドゥーフは 自分たちが 狭い島に閉じ込め
られて監視されていることや、奉行たちは オランダ人の助言なしには何もできない、
外国船はいずれも 追い返されるのにレザノフの船は、通常より長崎港に近いところに
いる。などと話し、レザノフは 彼がレザノフらの来訪を快く思っていないのではない
か、との印象を 持たれている。翌日ドゥーフは、再びレザノフと会う。それが最後に
なる。のだが、船上にやって来た。

130 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/27(月) 19:44:11.93 ID:0wD4P8d3C
 新ジャパン レボリューション。 523    (レザノフ来たる)

 『オランダ商船の船長、ムスケチールとベルマーと 旅行家アンジー・グロチンゲル
ン男爵が、ドゥーフのあとに従い、ケースに入った剣を持ってきたのだ。彼らが船室に
入り、私に挨拶しかけた時に、突然、通訳が彼らをおしとどめ、アンジー・グロチンゲ
ルンに儀礼の詞を言うと、彼らは、しばらくの間腰をかがめたまま立っていた。』この
夜に、レザノフはオランダ人一行に食事を振舞うのだが別れ際に、『通訳の責任者は、
商館長に 再び儀礼の 詞を叫ぶ様に詠んだ。オランダ人たちは 五分ぐらい腰をかが
めたまま立っていたが、旅行家だけは、この侮辱を逃れようとしていた。しかし通訳は
彼にも、ちゃんと儀礼の詞を発し、彼も船室に入り、命令されたように 腰をかがめる
ことになった。のであった』こうして我々は、検使(奉行成瀬 因幡守の家老、奉行所
ナンバー2)を前にして、恐ろしく儀式がかった手順が ここにあったこと、オランダ
人たちが 通詞の掛け声で床に膝をつき通詞と同じように、臣下のように検使に恭順し
た日常であった事を 改めて知るのであった。」ドゥーフの回想記で語られた、このよ
うな日本式の恭順は 将軍に謁見した時の ことのみであったのだが、それは 違った
ようである。オランダ人は 鎖国の日本という閉ざされた空間では 200年間のしきたり
を、受け継ぐしかない。と、自分らに課せられた行為を正当化していたのだろう。が、
同じヨーロッパ人を前にして、そういう行動パターンが持つ「屈従」という意味が、彼
らの心に 新鮮に蘇って来て、恥ずかしいという態度に なってしまうのである。オラ
ンダ人が、日記には意識して書かなかったことや、あるいは無意識にも触れてこなかっ
たことが、ここにあった。これは、当人の両方に原因があるだろう。が、それが、レザ
ノフの面前で 端無くも(図らずも)露見してしまった瞬間であったのだった。

131 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/27(月) 19:44:39.77 ID:0wD4P8d3C
 新ジャパン レボリューション。 524    (レザノフ来たる)

 ここで注目しておきたいのはレザノフが言う「旅行家アンジー・グロチンゲルン男爵
」の存在である。「長崎オランダ商館日記 四」125p に、この人物らしい記述がある。
「二人の船長と、ファン・ラウイック・ファン・パブスト氏と共に鯨船に乗って。」と
ある。「長崎オランダ商館日記 四」の注33には、「たぶん停泊中のオランダ船 乗組員
のオランダ人であろう。」と、推測していることから見ても、当時の商館員では、なさ
そうだ。一方、ドゥーフの回想記、Recollection of Japan には この男爵に相当する
人物について、次のように記述している。「この夜(10月10日)レザノフが用意した、
夕食にバタビア(ジャカルタ)駐在の陸軍大尉バンベスタ(Van Pabst) とともに出席し
た。彼は重病の、恐らくマラリアなどの 風土熱病であろう。低地で湿気の多いバタビ
ア(ジャカルタ)で、当時は謎の熱病が、猖獗を極めていて オランダ人が発病後数日
で突然死することは、日常のことであった。この為に転地治療として 長崎を訪問中で
あった。という事である。恐らく、この年入港したオランダ船マルタ・サンタナ(Maria
 Susanna)か、ガシーナ・アントニオ(Gesina Antoinette)の、どちらかで、長崎に転地
療養に来ていたものと思われている。他の章でも書いているが、ネットによりオランダ
の検索に飛ぶこともでき、ファン・ラウイック・ファン・パブストで検索するとPieter
 Herbert van Lawick van Pabst という人名が見つかった。オランダ語だったが、デジ
タル時代にはすぐに日本語に翻訳できる。それによると Van Lawick 家系は、オランダ
騎士団の家系で、代々男爵だったという。一方で Van Pabst 家は18世紀初頭に プロ
イセン貴族として、認識されたようだ(ヴァンパブストWiki)。この二つの Vanを 持
つ家系があるようで、Pieter Herbert は 1793年士官候補生 Midshipman としての、東
インド会社に勤務にて以降、順調に幹部として地位を得、1834年に引退したようだ。ア
ンジー・グロチンゲルという名を語った理由はわからない。これでわかることは、色ん
な人物が乗組員という形で日本を訪れていた事であろう。という事だけだ。

132 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/28(火) 13:45:44.26 ID:+6SsEyJn1
 新ジャパン レボリューション。 525    (レザノフ来たる)

 春に長崎に来て秋に帰る。その数か月間を 転地療養にあてることは他にもあったの
だろう。それは、通詞たちも承知していたと思われることを、本木庄左衛門がレザノフ
に助言している。ロシアとの貿易積極派であった庄左衛門は、初志叶わずに帰国する事
になったレザノフに対して『オランダ船にしかるべき人物を乗せてください。オランダ
人たちが秘密を守ることは、私たちが保証します。そうすればレザノフが帰国したあと
でも、貿易が可能です。』と、熱弁を振るうのだった「レザノフ日本滞在日記」335p
つまりいろいろな 人間が長崎に渡航していたことを示す証拠である。つまり、外国船
同士で知り合いなら、オランダと偽ってでも来たら、とりなす用意が日本側にはある。
と言いたかったのだろう。それは通詞たちも、分かっていて、商館長等オランダ人と
通詞たちは様々な秘密を共有していたことを示す良い例であろう。さて、この男爵の事
であるが、10月10日ドゥーフ等が 再びレザノフを訪れた時に、ドゥーフに同行して、
ナデジュダ号に乗船したのであるが、食事の後に通詞が『通訳の責任者は、商館長に再
び 儀礼の詞を叫んだ。オランダ人たちは 五分ぐらい腰をかがめたまま立っていた。
が、この旅行家だけはこの侮辱を逃れようとした。しかし、通訳は、彼にも儀礼の詞を
発し、彼も船室に入り、命令されたように 腰をかがめるということになった』(「レ
ザノフ日本滞在日記」57p)と記している。ドゥーフは通詞の命令で、5分も腰をかが
めていることが、習慣になっていたろうし、来日、当初から立場上 そうせざるを得な
い職務であった。からだろう。ドゥーフはオランダに帰国後、レザノフ随行団の一員の
 ラングスドルフが書いた「世界周航記」を読み、そこで彼等達が、オランダ人を批判
していることを知って、回想記で反駁していた。曰く「日本の統治者は、我々に 特別
な服従を要求してはいない。普通の日本人と、同じ礼節を、要求し、それに我々が従っ
たに過ぎない。これは日本の習慣であり、世界のどこであれ、その地に滞在するなら
その習慣や儀礼に従うのは当たり前のことである。」(Recollection of Japan53p。)
という事だった。

133 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/28(火) 13:53:13.55 ID:+6SsEyJn1
 新ジャパン レボリューション。 526    (レザノフ来たる)

 つまり、このヨーロッパから来て 日も浅いと思われる男爵は、同じヨーロッパ人で
あるレザノフの面前で、このような「卑屈な儀礼」をすることを 恥ととらえる感覚が
健在であった。と思われる。このことが、私にもう一つのことを思い出させた。「長崎
オランダ商館日記 四」でワルデナールとドゥーフの日記を 読んでいると聞こえてくる
低音の不協和音がある。それは ワルデナールの日記に特に顕著である。「私はそれが
出島に閉じ込められ、常に、スパイの監視下にあること、オランダ人が不当と思われる
ことを強制されること。五島漂着人の出航地や目的地のごまかしだ。と思っていた。」
だが、レザノフが目撃した屈従こそが、この不協和音の最も大きな要素だったのではな
いか。と思うのだった。通詞の命で、腰をかがめること、長崎奉行所のナンバー3か4
の、検使役人の前では、膝まずかされたこと。こういう些末な事実を オランダ人側は
日記や回想記では、殆ど語っていないのだ。それはオープンにしたくない 恥ずべき事
だった。からだろう。ドゥーフの不協和音は、ワルデナールのものと少し違う。それは
オランダ本国が、もはや存在しない。という秘密を隠さなければならない「不安」の中
での要素があり、その隠し事の方が大きいものだった。ドゥーフは仕事の経験が殆どな
いままアジアへ来て、出島の混乱を見て、一旦バタビア(ジャカルタ)へ引き返して
翌年に再び長崎へ来た。言わば彼は、白紙の形で、オランダ商館でのプロトコルの日本
式の屈従を強いられることも含めて、これを刷り込まれた、アプリオリ(潜在認識的)
に受け入れた、という、仮説が成り立つ。だが10歳以上年上の ワルデナールは違う。
彼はパンダ諸島という オランダ植民地の中でも重要な香辛料産地で、次長や出納長と
いうオランダの東インド会社の中堅管理職を務めたのちに、バタビア(ジャカルタ)で
3年政庁勤務をして、長崎へ来ていた。ジャワ人や中国人の地主として支配層を占める
人たちからかは、かしずかれる存在であった。それだけに彼もまたグロチンゲル男爵と
同じように「卑屈な儀礼」を恥じる感覚がドゥーフよりずっと強かったのだった。

134 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/28(火) 14:18:01.16 ID:+6SsEyJn1
 新ジャパン レボリューション。 527    (レザノフ来たる)

 彼の自負心がその詳細を書き記していくことを拒否したのだろう。彼は3年でさっさ
と商館長を交代してバタビア(ジャカルタ)へ帰っていったのだ。長崎は彼には、馴染
めないままの異空間であったに違いない。上記で、「レザノフ滞在日記」では、他では
見られない通詞の肉声が聞けると書いた。率直に自分の思いを語った、本木庄左衛門で
ある。通詞の名門 本木家に生まれた庄左衛門はこの時36歳だった。小通詞筆頭の地位
にあった(ナンバー5)の地位だ。後に 蘭学者としても大成する大物であるが、この
頃は 野心たっぷりの壮年であった。大通詞等は、レザノフ対応以外にもオランダ商館
の対応、奉行の相談役、貿易実務の対応など多忙であるから 日々のレザノフ対応を、
庄左衛門に かなり任せたようで、レザノフのもとへ訪れることが多く、初めの頃は、
木彫の取引をしきりにレザノフに持ち掛けて彼を閉口させてもいた。だがレザノフに慣
れ親しむと、二人きりの時に饒舌になり、誰にも打ち明けられない 心の底の思いを、
レザノフにぶつけるのである。新暦の11月10日に、レザノフと会ってひと月後だが、彼
は、レザノフが連れてきた石巻の漂流民についてこう話す。『庄左衛門は、かなり長い
時間の居座りがあって、とてもあけっぴろげな態度をとっていた。自分たちの国の馬鹿
げた法律を嘲笑し、私たちの船が着いてからというもの、自分が日本人に生まれたこと
を不幸に思った。また、私たちが連れてきた 漂流民のことが羨ましい、何故なら彼ら
は世界をみる事が、できたのだからとも言い、もし漂流民たちが感受性をもちあわせて
いれば、世界を、見たことだけでも満足すべきであろう。と、打ち明けた。そして最後
には、私たちの質問に対して、腹立ちまじりにこう答えた。私たちに 一体なにが、た
くさんある。というのですか。人間が生まれたのは、飲んだり、食べたりするためだけ
ではない、学ぶためなのです、それが、人間の糧なのです。』と強く要った。自由に、
世界を見たい、もっともっと学びたい。という庄左衛門の心の叫びが悲痛であった。

135 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/01(水) 14:19:49.70 ID:HIoPyouS+
 新ジャパン レボリューション。 528    (レザノフ来たる)

 レザノフの願いが却下されて、ロシアに帰国することになった4月には、彼はこうも
言っている。『 いまでも私は、ロシアと通商関係を結ぶことが、どれだけの利益を も
たらすのか、また、今回の日本の行動が、いかに恥ずべきことかを、奉行に言い続けて
きました。』と記述している。これが事実だとしたら、通詞の主だった幹部は、相当に
思い切ったことを奉行に進言もしくは具申していたことになる。二人の奉行は頑迷固陋
な、江戸の老中よりは、かなり頭が柔軟だったろう。だから、この度々の意見の申し出
には 頭が痛かったに違いないと思える。さらに、彼はこれまでの内幕を明かすのだ。
『「思い起こして下さい。あなたが滞在中に、あなたに対する対応が、しばしば 変わ
ったことに気づいたはずです。私達は、度が過ぎる位に丁寧な時もあり、時には冷淡に
恩われたことも、あったかと思います。しかし、これは別に貴方のせいではないのです
。幕府の策略が、右に左にと揺れ動いていたのです。それは、時にはあなたに有利に、
また時に不利に なっていたのです。私たちは命じられた通り行動したまでなのです。
思い出してください。あなたが自由を与えられず、竹柵の外に一歩たりとも出られない
。と不平をおっしゃっていた時には、私は貴方に言ったはずです。私達は、貴方に同情
などしていません。あなたが、自由を束縛されているのは、一時的なことだけですが、
私たちは、永遠にそれに堪えていかなくてはならないのです。と。私たちの、父や祖父
たちは、米を食べるだけを楽しみに、日々の生活を送っていたのです。そして、私たち
や 私たちの子どもたちも又、同じように こんな生活を送っていかねばならないので
す。私たちは、感情をもつことさえ禁じられているのです。』と、彼はこう熱をこめて
語った。その後、ほかの通訳が来たので、彼は話を逸らし、出ていった。」これが、書
かれている本木庄左衛門の行動と本音で想いであった。

136 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/01(水) 14:29:59.18 ID:bHGJ/zicc
 新ジャパン レボリューション。 529    (レザノフ来たる)

 どうだろうか? 『あなたの束縛は一時のことに過ぎない、私たちは、永遠にそれに
耐えていかなくてはならない。』、という魂の叫びは、他の歴史資料にあるだろうか?
多分無いに違いない。というのも、この後は、庄左衛門は二度とこの言葉を口外しない
し、フェートン号事件の後は、何食わぬ顔をして奉行所の御下命での、フェートン号事
件調査し、そこで幕府はドゥーフが国際情勢について何か隠しているのではないか、と
疑い始めて、ドゥーフの尋問を行っている場にに参加しているのだ。(これは後の章で
詳述する)。つまり、レザノフを相手にした時にだけに噴出した 本音であったのだ。
本音を漏らしたのは、庄左衛門だけではない。レザノフ来航が、10月09日に来航して、
2ヶ月後の12月11日、奉行所がレザノフの扱いで、レザノフの要求通りに 江戸に正式
に会談するのか。と問い合わせた件についても、幕府の急使が未だ到着しないことに、
疑念を抱いたレザノフの、詰問に対して、年番大通詞の石橋助左衛門は答えに詰まって
いて、本音を吐ているのである。「彼の予想は、『江戸は、おそらくはまだ決定できず
にいるのだろう。』と理由を述べた。」どうして、こんなに大変なのか 私は尋ねた。
彼は、「日本の国は、『人は多いが、小さな島国であり、このために 日本はすべてが
小さい。』と答えた。」。日本は全てが小さい。これはどういう意味にあるか。幕閣の
中枢、老中たちの視野が狭く、決定する度量が無い、と告白しているのである。年番の
大通詞となると、通詞社会のその年のトップであった。何度も書いたが、年収3千両(
現2億5千万円)という体制側の富裕層である。その彼が、絶対口にしてはならないだ
ろう幕府批判を、口にしたのである。もしそれが公になれば当然、失職は確実、下手す
れば入牢、石橋家の廃絶すらあり得る。レザノフを相手に幕府の、うんともすんとも言
わない対応に、助左衛門やら2人の奉行所も同じであったが、困り果てての、とうとう
言ってはならないつぶやきの、本音を口にしたのである。これらが「レザノフ日本滞在
日記」に見られ、この本の最大の醍醐味でもある。

137 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 04:34:15.64 ID:Z7PteR4lM
 新ジャパン レボリューション。 530    (レザノフ来たる)

 他にも、レザノフ日本滞在日記には、日本人の仕事の緻密さに驚く記述がある。健康
状態がすぐれないレザノフのために、幕閣の許可を得て長崎奉行所は梅香崎に 彼の為
の仮館を建設する。ここでの初日の記述を紹介しよう。文化元年11月19日(新暦12月20
日)の日記である。『彼らは屋敷を案内してくれた。屋敷は非常にきれいに仕上がって
いた。私のために食堂と四つの部屋、上官たちにも四つの部屋があてがわれた。部屋は
皆、日本中で使われる絨毯のかわりに、見事に編まれた新しい畳が敷かれであったのだ
。(中略)私の部屋にあった唐風は、美しいものだった。炭が入った銅製の大きな三脚
、いたるところに 痰をはくための大きな陶器の花瓶が置かれていた。又いたるところ
にさまざまな種類のたくさんのあんどんが置かれていた。台所も美しく 仕上げられて
おり、食器だけでなく、肉や魚、野菜、ほかのあらゆるものが用意されていた。庭の美
しさは比類のないものであった。』実は、この仮館を建設するにあたって予定通りに、
進まずレザノフを怒らせたことがある。だがそれは 奉行所の役人たちが完成した仮館
を入念にチェックした為であることも、日記で明らかにされる。このような 消息は、
ドゥーフが書いたオランダ商館日記では全く分からない。伝聞を記しているからだ。こ
の仮館にレザノフが持ってきた将軍への献上品が運び込まれるのだが、その大量さが、
さすが大国ロシアと言うべきか、瞬く間に倉庫の一つが満杯になるほどであったのだ。
その作業について、『(献上品の)輸送は驚くべき速さで始まった。最初の日だけで、
ひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆りだされたということだ。
(中略)。日本人の働きぶりは目を見張らせるものがある。』と称賛している。ロシ
アの労働者や技術者と比較してびっくりしたものと推察される。

138 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 04:41:09.78 ID:Z7PteR4lM
 新ジャパン レボリューション。 530    (レザノフ来たる)

 他にも、レザノフ日本滞在日記には、日本人の仕事の緻密さに驚く記述がある。健康
状態がすぐれないレザノフのために、幕閣の許可を得て長崎奉行所は梅香崎に 彼の為
の仮館を建設する。ここでの初日の記述を紹介しよう。文化元年11月19日(新暦12月20
日)の日記である。『彼らは屋敷を案内してくれた。屋敷は非常にきれいに仕上がって
いた。私のために食堂と四つの部屋、上官たちにも四つの部屋があてがわれた。部屋は
皆、日本中で使われる絨毯のかわりに、見事に編まれた新しい畳が敷かれであったのだ
。(中略)私の部屋にあった唐風は、美しいものだった。炭が入った銅製の大きな三脚
、いたるところに 痰をはくための大きな陶器の花瓶が置かれていた。又いたるところ
にさまざまな種類のたくさんのあんどんが置かれていた。台所も美しく 仕上げられて
おり、食器だけでなく、肉や魚、野菜、ほかのあらゆるものが用意されていた。庭の美
しさは比類のないものであった。』実は、この仮館を建設するにあたって予定通りに、
進まずレザノフを怒らせたことがある。だがそれは 奉行所の役人たちが完成した仮館
を入念にチェックした為であることも、日記で明らかにされている。このような 詳細
や動きは、ドゥーフが書いたオランダ商館日記では全く分からない。伝聞を記している
からだ。この仮館にレザノフが持ってきた将軍への献上品が運び込まれるのだが、その
大量さが、さすがに大国ロシアと言うべきか、瞬く間に倉庫の一つが満杯になるほどで
あった。と書いている。その作業について、『(献上品の)輸送は、驚くべき速さで始
まった。最初の日だけで、ひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆
りだされたということだ。(中略)。日本人の働きぶりは目を見張らせるものがある。
』と称賛している。ロシアの労働者や技術者と比較してびっくりしたものと推察される


139 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 04:41:31.05 ID:Z7PteR4lM
 新ジャパン レボリューション。 531    (レザノフ来たる)

 このくだりでも、面白い記述があるのでそれも紹介しておこう。『一日中ひっきりな
しに、役人たちが次々に挨拶しにやってきた。彼らにコーヒーをごちそうした。みんな
コーヒーがたいへん好きだった。』この中には、大田南畝(太田蜀山人)もいたことだ
ったろう。レザノフの人気と、舶来ものが大好きな日本人の素顔がここでもよくわかる
。次に取り上げたいのは、日本の法治主義の厳格さである。レザノフは、日本来航にあ
たって石巻出身の4人の漂流民を連れてきたのだが、長崎到着後、すぐにレザノフの元
へ現れた。検使は引き渡しを要求した。だが、レザノフは奉行に直接引き渡すと拒否し
たため、実際の引き渡しは江戸からの検使の 遠山と一緒に二人の奉行と相まみえた後
の4月9日(文化2年3月10日)のこととなった。漂流民4人はレザノフと共に、梅香崎
仮館に居住するのだが、そこで大事件が起こった。漂流民の一人の太十郎(「レザノフ
日本滞在日記」。「若宮丸漂流民物語」では多十郎と表記)が、日本側に引き渡された
後、一生投獄されるのではないか、とノイローゼ状態になり、喉の奥に剃刀を突き立て
て自殺を図るという悲劇が起こる。その顛末はここでは置いておいて、その捜査に来た
奉行所の役人の取り調べに注目したい。「レザノフ日本滞在日記」文化元年12月17日(
新暦1805年1月17日)の項である。『すべての部屋や庭は、役人たちで ひしめき合って
いた。いたるところで、書き取りや、書き写す作業が行なわれていたのだ。何フィート
もある長い巻物に、文字が埋められていった。あちこちから、役人たちがやって来て、
リストを持って、事件を目撃した人たちから、文書と照らし合わせしながら、口頭で聞
き取りをしていた。それも、ひとりひとりに対して取り調べを行ない、同じように医者
の報告書を照らし合わせ、最後に警固兵たちを取り調べた。この調べは夜遅くまでも、
続いた。もしかしたら朝まで続いたのかもしれない。』と書いている。

140 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 04:48:12.50 ID:JoO4QuMke
 新ジャパン レボリューション。 532    (レザノフ来たる)

 上記の捜査の様子は、警視庁のエリートである捜査1課のもの、と言われても誰も疑
いを持たないだろう。レザノフを驚かせたこの奉行所の、捜査の緻密さ、厳格さの徹底
ぶり。これこそ徳川幕府の支配が、厳密な法治主義で行われていたことの証拠である。
三百有余あった藩には、程度の差こそはあったろうが、幕府直轄領であった長崎では、
いい加減な捜査は無かった。と言っても間違いではあるまい。19世紀初頭の世界では、
恐らく一番の厳格な法治社会を、日本は完成させていた。とみることが出来るだろう。
我々は、このことにはもっと誇りをもって幕府の治世を考えるべきである。レザノフの
来航から 217年、今の長崎には、レザノフのために建てられた仮館はもちろん 跡形も
ない。出島だけが、辛うじて明治以降の長崎近代産業化の 生贄とならず生き延びたの
だが、それだって、実は一度は破壊された(中島川側の土手が残っただけだった)のを
平成になって観光資源のために再現したものだ。今の出島で当時あれだけ長崎の人々が
熱狂した レザノフ来航の痕跡は、全く無いのである。まるで夢の中の出来事だったか
のように。そう、私たちは、レザノフのファンになったのであった。「日本滞在日記」
を読み終えた時、「レザノフ」ロスとも言うべき虚脱感に陥った。長崎の人々が、彼の
帰国を悲しみ、彼の目的が果たせなかったことを 自分の責任のように感じた別れの日
の感情が、日記読者の私にも舞い降りたのだった。彼は、どこでどう過ごしたのか?彼
の仮館を特定しよう。と思い立ち、2021年の7月、梅雨の長崎を歩いたのだった。ヒン
トは、いくつかある。梅香崎(当時の記録では梅ヶ崎とも書いた)という地名、出島の
南東にあり時々レザノフと、ドゥーフが手を振り合ったこともある。という距離感から
(500mから600か)彼が『日陰で 庭のぬかるみが決して乾くことのない湿った場所』
に、なぜ健康に不安のある彼を 閉じ込めておくのかと怒ったこと。などの記述だ。

141 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 08:02:57.28 ID:Z7PteR4lM
 新ジャパン レボリューション。 533    (レザノフ来たる)

 私がたどり着いた場所では、かつてはすぐそばまで海が迫っており、ナデジュダ号か
ら上陸する時に難儀した場所だった。ラングスドルフが何度も気球を上げて、当然役人
たちが夢中になり、飛翔を催促した場所に、記念碑がある、ということを参考にした。
布袋厚氏が復元した、長崎惣町地図(「復元!江戸時代の長崎」)によると、梅が埼と
いう地名の場所には、米蔵や遠見番・唐人番・長屋があるが、その西に、海に突き出た
場所がある。そこは新地から行くとオランダ坂へ向かう途中で、急な崖の上に活水女子
大学が聳えている。全くの偶然だったが、ここで気球を上げた。という記念碑を発見し
たのである。そこは、元は市民病院で現在は巨大な、メディカルセンターになっていた
。江戸時代は活水女子大下のオランダ坂へ向かう道路付近まで、海が迫っており、その
辺りに、仮館を建設したのだろう。昔、まだ長崎の周縁部だったろうが、今は中心地に
近い場所である。原爆後に埋め立てが進んだからだ。毎日、午前中は南側の高い崖が、
日差しを遮っていただろう昔。このレザノフの帰国を巡って、大田南畝が貴重な情報を
提供してくれている。「レザノフ日本滞在日記」の訳注(421p)に、大田南畝が通詞の
今村金兵衛から聞いた話が載っている。それを掲載しよう。「阿蘭陀の 加比丹此度、
魯西亜出帆の翌々日、阿蘭陀通詞をまねき、阿蘭陀人は阿蘭陀料理の卓、日本人へは、
日本料理にて、大饗をせしといふ。夜八ツ時(午前二時)頃まで、物くひ、酒のみ、歌う
たひ、裸体なりて、さはぎし也。是は 魯西亜交易の御漁なきを 悦びて、祝ひの心と
みえたり。」と書く(オランダのカピタンこの度に、ロシア出航の翌々日に、オランダ
通詞をよんでオランダ人はオランダ料理を囲み、日本人には日本料理にて宴会した。夜
更けの二時頃まで飲み歌い裸踊りなど遊興を演じ、ロシアとの交易なき事を喜んでいた
ので祝宴であったと思う。)とドゥーフの狂喜である。

142 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/06(月) 15:06:41.56 ID:RaqC8qgDy
 新ジャパン レボリューション。 534    (レザノフ来たる)

『寝浦雑緩同(『大田南歎全集』第八巻) 訳者の大島幹雄氏は、実に丁寧に レザノフ
関連の資料を収集して、的確な訳注を付するという作業をされたが、私には大変ありが
たく、感謝のしようがないほどだ。太田南畝によれば、レザノフ出港の翌々日、ドゥー
フは、ロシアとの通商がならなかった事で歓び。これは、オランダの独占交易特権が守
られた。として、通詞らを招き、夜更けの2時まで、飲めや歌えやの大宴会を開き、裸
になってまで騒いだ、と言うのである。これは一見極めて面妖なことに思える。という
のは、レザノフとドゥーフは来航直後に会ってからは、互いの面会を禁じられ、奉行所
の許す範囲で、たまには通詞たちが気を利かせて、手紙のやり取りや 贈り物を交換し
たり、レザノフのためにドゥーフが、暖かい服を都合したりした仲だった。レザノフが
ドゥーフに託して、ロシア本国への報告書をバタビア(ジャカルタ)に帰るオランダ船
に託したり、と、異国に孤立するヨーロッパ人同士として、丁寧かつ気配りに満ちた
付き合いをしていたからだ。レザノフの日記にも、ドゥーフが書いたオランダ商館日記
にも、両者の記述の齟齬は、全く見られないのである。だから私らには、大田南畝の
この記事を読んで愕然としたのである。ドゥーフに裏切られた。という思いまで沸き上
がったほどのショックだった。実際、レザノフの帰国直前、ドゥーフは オランダ商館
日記の4月12日の項に、「レザノフからの別れの贈り物の 返礼品と共に 短い手紙を書
いた。」と、記している。が その内容は書いていない。大島幹雄氏は「レザノフ日本
滞在日記」420pに、収録されて、その文章は「(レザノフの長い滞在をねぎらいつつも
) 本来の、来航の目的が達せられなかったこと、その心中を察するに余りあります。」
と書いた。長崎で、僅か数百メートルの距離を隔てて 贈り物と短い手紙で交流するし
かなかった異国人同士としては、当然のねぎらいであるが、彼が長崎を去った2日後に
は、大田南畝の言う 「通詞たちを交えた大宴会。」を、挙行したことは、ドゥーフの
表の顔と裏の顔を見事に示していて、心中は穏やかざる期間だった言えるだろう。

143 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/06(月) 15:17:34.79 ID:RaqC8qgDy
 新ジャパン レボリューション。 535    (レザノフ来たる)

 歴史の紐解けば、表の顔と裏の表情が全く違う事象で繋がっていて我々が勝手に解釈
していた。という事は、多い物だ。特に欧州の出来事には注意書きが幾らでも必要だ。
 レザノフに、「我々でしたら彼らに命令を下すことができるのです。しかも彼らは、
商人です。」と言った石橋助左衛門、「私たち通訳は、ここでは、とても大きな力を持
っているのです。したがってオランダ人たちは、私たちの言う事に従わなくてはなりま
せん。」と言った本木庄左衛門、幕府の内情を打ち明けて、レザノフの目的が叶うこと
を願った馬場為八郎。彼等も、また職務上、この宴会に出席したのだろうか。もし、そ
うだったら、その心の内は どうだったのだろう、と思うのである。だがこれは、ドゥ
ーフが いかに母国に忠実で、自分のミッションを果たすためには、最大限の努力を惜
しまなかったことの表れでもある。当時 地球のどこにも存在しない ネーデルランド
連邦共和国の安堵と、日本における代表という虚構を守ることの遂行に、その国の排他
的貿易独占権、(唐人を除く)を 死守したこと、が、ドゥーフの任務であって、これ
はもう信仰に近い感情だろう。レザノフとの友情の厚誼は別物であった。ドゥーフは、
レザノフ来航後6日の10月15日には、長崎奉行成瀬因幡守に宛てた文書を用意したのだ
。一部引用しよう。「ここに上述したように、われわれが 160年もの間享受してきた、
特権、すなわち、他のヨーロッパ国民排除のもとで、当地での自由に通商することを、
閣下によって許されている。という点を、閣下に忘れていただきたくはない。と私が
当地での、5年間の滞在の間に日本国民の誠意について聞き得た認識は、私に閣下が、
オランダ人がかくも長くも 保持して来た特権を縮小されるようなことはしないだろう
。との、確信としています。」と言う長ったらしい意思である。成瀬因幡守に、「これ
までオランダは頑張って来た。閣下は忘れちゃ嫌だよ、徳川家康時代から踏襲してきた
、いわば慣習をわざわざ5年間で私は学んだが、この慣習はオランダ幕府間の取り決め
だよ。」と暗に恫喝する文章だったのだ。

144 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/06(月) 15:20:05.57 ID:RaqC8qgDy
 新ジャパン レボリューション。 536    (哀惜のレザノフ)

 長崎奉行に、これまでの経緯(これまでも見てきたように 徳川幕府の官僚は権現様
(家康)が定めた祖法に、逆らうことは出来ないことを 見越しての念押し)の再確認
と、排他的特権の擁護を、リマインドしたのである。彼は、あくまでも忠良なオランダ
人であり、その立場を守り続けていて、オランダがナポレオンの軛(くびき)から解放
されると 母国に復帰したオランダ国王から1817年最高勲章を授与されることになる。
そのようなドゥーフのファンであった私だが、この宴会のことを知ると、砂を噛むよう
な 異様な思いがどうしても湧いてくる。これもレザノフの日記に心を奪われたせいで
あろうか。このレザノフは、どのような事を目指して 日本へ来たのか?その後の彼は
どうなったのか?次の章で見ていこう。レザノフは1764年3月、ペテルブルグの貧しい
士族の家庭に生まれた、と大島幹雄氏は「レザノフ日本滞在日記」の訳者序で紹介して
いる。長崎来航時は40歳の壮年であった。以降、大島氏の資料を元にレザノフの足取り
を追う。14歳で、砲兵学校を 卒業、近衛連隊に配属後、裁判所勤務を経て海軍省次官
(伯爵)の秘書官となる。宮廷詩人デルジャーヴィンの後ろ盾を得る、これは彼の4ヶ国
語を、自在に操る語学力が、ものを言ったのである。デルジャーヴィンが元老院秘書官
になると、レザノフは官房長に抜擢された。時に27歳。この職を得てレザノフは、エカ
テリーナ2世の信任を得る。1794年30歳の時にアラスカ(当時はロシア)へ布教に行く。
ロシア正教団とともに、イルクーツクを訪れる。ここで毛皮王シェリホフと出会って、
その娘、アンナと恋に落ちて結婚する。オホーツク海からアリューシャン列島まで、ロ
シア植民地を建設し、アメリカへ進出しようというシェリホフの夢は レザノフの夢に
もなっていた。これは16世紀から、東インド会社を作ってアジアへ進出したヨーロッパ
諸国に 大きく出遅れたロシアならではの、植民地経営の夢であった。

145 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/09(木) 11:03:46.00 ID:Qla3WbZZJ
 新ジャパン レボリューション。 537    (哀惜のレザノフ)

 だがアリューシャン列島に植民していた人々は慢性的な食糧難に陥っていて、レザノ
フが、この課題解決のために着目したのが 日本である。毛皮を売り、日本から塩や米
を手に入れる。この頃は、毛皮の取引は 世界のあちこちで大ブームで、北アメリカで
は、ビーバーの毛皮が珍重され、大量に捕獲されていた時代である。シェリホフが、夢
半ばで死去すると、意思は受け継がれ、レザノフは彼の人脈を駆使して植民会社、露米
会社を設立する。形は違うが、ロシア流のインド会社を目指したものであったろう。こ
の目論見は多くの人の賛同を呼び、エカテリーナ2世の孫アレクサンドル1世が、皇帝
即位した後は 皇帝もその家族も株主となり、1802年は400人の株主になるほど 飛躍的
に発展する。レザノフは、商務大臣ルミャンツェフを説得して 彼に日本および広東と
の二つの貿易上申書を提出させ、通商計画が公式に動き始める。この頃に、クルーゼン
シュテルンが、ロシア初の世界一周就航計画が進んでいたが、これに日本との通商交渉
を結びつけることに成功し、レザノフが遠征隊の隊長として指揮権を執ることになる。
日本に通商を求めたのは、レザノフが初めてではない。有名な大黒屋光太夫等を連れて
使節アダム・ラクスマンが、根室に来たのは レザノフに先立つ12年前の、1792年(
寛政4年)のことである。ラクスマンは、大黒屋光太夫等を土産に通商を求めたのだが
、幕府は唯一開かれた港は 長崎であるからそこへ行け、と返答した。相変わらずの先
延ばし戦術であったが、この時に彼に、長崎に寄港できる信牌を渡したのだった。この
信牌の意味を巡っては、様々な解釈があることは、レザノフと、通詞たちの会話で明ら
かになっている。「衝撃のレザノフ滞在日記」の中の[鎖国派と開国派の戦い]でも、
馬場為八郎が「この信牌は通商許可書」であった。と驚くべき告白をしている。ので、
長崎への入港は制限の無いものだったはずだが、それこそ直ぐに交渉に移り商館を建て
ての、幕府との通商が出来たなら、恐らく、オランダ同様の定期交易が出来たであろう
。ところがそれをしなかった。それは彼らが東インド会社の様な通話や交渉の組織が、
無かったからで、これが英国など官製管理組織と純民間の毛皮業者の違いなのだろう。

146 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/09(木) 13:16:59.40 ID:Qla3WbZZJ
 新ジャパン レボリューション。 538    (哀惜のレザノフ)

 ここからは、長崎を去った後のレザノフについてである。レザノフは、ほぼ半年も、
長崎に滞留し、興味を持って快適な期間を過ごしたものの、何ら成果を上げることが、
出来ずにいた。長崎港を出港した時には、表面上穏やかであったが、彼の随行団の団員
は、少なからずそうではなかった。彼等はなんと、ドゥーフの策略で、幕府がロシアの
通称要求が、拒否された。と、穿って考えていた。のである。これには国際社会の裏切
りの猜疑心は、ロシアにも何処の国にもあった。ドゥーフ「 Recollection of Japan(
日本回想記)に、ドゥーフが、懸命に彼等に反論を試みているので、それは正論だった
のだろうし、部下たちには、恐らく十分な細心情報と環境を見る目が提供されていた。
と思える。つまり、日本人に成りすますか、一緒にいたであろう日本語の解る船員で、
長崎にいる間に知ってしまったのだろう。ドゥーフ側はロシア使節団のミッションが
不成功に終わったことが、オランダ人のせいにされているとは、全く知らなかった様だ
。だが、帰国の船が、嵐に遭難して、命からがら帰国した母国で、彼はラングスドルフ
の世界周航記などでドゥーフの策謀で、ロシアの通商要求が拒否された。というストー
リーが流布されていることを知った。回想記の中では、これに長文の反論を書いている
(英語版63p) ドゥーフ策謀論の根拠は、バタビア(ジャカルタ)からオランダ本国へ
の報告書に、「無事ロシアの通商を阻止できた。」という一文があったからだ。という
のだ。ドゥーフによれば「自分がバタビア(ジャカルタ)へそのような報告はしていな
いから、バタビア(ジャカルタ)から、そのようなことが、本国へ報告されるはずがな
い。」とするのだが、肝心の報告書は失われていて確認のしようがないのである。ドゥ
ーフは、「自分とレザノフ閣下とは 互いに手紙や贈り物を通じて、互いを労わりあい
、レザノフ閣下からは帰国に際して、懇(ねんご)ろな謝辞を貰っている。ロシアの、
通商要求が拒否されたのは 祖法に基づいて、日本の厳格な国家方針によるものだ。」
と全くの濡れ衣だとしている。

147 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/09(木) 13:17:26.55 ID:Qla3WbZZJ
 新ジャパン レボリューション。 539    (哀惜のレザノフ)

 おそらく、それは、その通りであろう。ただ、我々は彼が、レザノフ到着数日後に、
長崎奉行成瀬因幡守に「オランダだけが、御朱印状で許された国家であります。」と、
いうことを念押しする書状を送っていることや、また、レザノフ出国後に、裸踊りまで
した大宴会を開いたことも、知る事が出来たのである。こうなると、確かにドゥーフの
自身の報告書では、全く記載は無かっただろうが、他の商館員が、全く、手紙や日記が
無かったのか。という話で、何処かで、誰かが、国外に漏らした声があったのだろう。
と推測する。勿論、積極的な策謀はなかったし、彼はオランダの駐露大使ホーヘンドル
プの指示に従って、レザノフにできる限りの援助を惜しまなかった。が、それは食事や
衣服など生活上の便宜を図ったのに過ぎないし、何よりも彼は オランダの国益を第一
に考える 忠良な国民だったのである。一方で、このオランダの東インド会社の地位が
、既に消えたネーデルランドの国で、フランスの領分で、その領域は現在のオランダと
ベルギーとルクセンブルクに相当し、フランス革命戦争以前のネーデルラント連邦共和
国と南ネーデルラント、およびリエージュ司教領から作られた連合体の中にあった。こ
の新しい国の国王には、共和国の総督を代々務めてきたオラニエ=ナッサウ家の当主が
就いていたが、こうした他民族連合体には、目ざとく常にスパイとなる国民も多いのが
現実であろう。ドゥーフの陰謀で、ことがならなかったとロシア使節団の幹部が思った
ことは、表面上は規律正しく長崎で半年も我慢したが、ロシア使節団の中の隊員でも、
実は不満や鬱憤が渦巻いていたことがあったのだろう。これを雄弁に物語る事がある。
レザノフとて、もちろん例外ではなく、彼らは、結局は武力を以て、対峙しないと日本
は動かない、と思い至った。これは後の、ペリー提督の日本来航が砲艦外交であった事
と、大いに関連がある。大島幹雄氏の解説によると、レザノフは カムチャツカのペト
ロパブロフスクに戻ると、世界一周周航を続けるナデジュダ号のクルーゼンシュテルン
やラングスドルフと別れて、北太平洋のロシア領を視察するが露米会社が深刻な食糧難
で、死者まで出ていることで、驚き、自分の呑気な滞留を悔やむ事になったのである。

148 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/09(木) 13:18:25.65 ID:Qla3WbZZJ
 新ジャパン レボリューション。 540    (哀惜のレザノフ)

 言葉についての、ロシア側の日本語の収得については、次の様な史実論拠もあるのだ
。ヤン・ポトツキ(1761〜1815)と大黒屋や光太夫(1751〜1828)の、これほど思いが
けない組み合わせもない。かたやポーランドの大貴族マグナートとして生まれ、フラン
ス語による教育を受けた後、十八世紀末のヨーロッパの動乱に翻弄されながらも、生涯
の多くを旅に送った人物。今日にその名を伝えるのは、大伽藍のような小説『サラゴサ
手稿』(1810)によると、他方で、伊勢から江戸に向かう海路で大嵐に遭遇した廻船の
沖船頭。漂着したアリューシャン列島の小島からカムチャツカ半島に渡り、シベリアを
越えて、はるかサンクトペテルブルクまで赴き、九年半の歳月の後に日本に帰国する。
十九世紀の初めに、実は、このふたりが意外な土地ですれ違っている可能性があった。
天明二年(1782)十二月、紀州藩の蔵米二百五十石などを積載した神昌丸は、伊勢国の
白子浦を、乗員は沖船頭の、光太夫を筆頭に十七名で出帆し、目的地は江戸に向かう。
途中、鳥羽小浜で日和を見た後、外海へと向かうが、強い北西の風が吹きつけ、やがて
大時化(しけ)に会い沈没を避けるため、船中一同は帆柱を伐り倒す。舵をも波にさら
われた神昌丸は漂流船となり、この後七ヶ月余りの間、北太平洋海流に乗って北東へと
流される。ようやく島影を認め、上陸した土地はアリューシャン列島のアムチトカ島で
あった。この地で、ラッコなどの毛皮獣を求めるロシア人が進出していて。光太夫達は
彼らと交流する中で、少しずつ言葉を覚え、五年ごとにロシア本国から到来するという
人員交代の船を待った。三年後にようやく船が姿を現し接岸に失敗し、無情にも座礁、
沈没した。帰国を間近に望みながら、絶たれた当地在留のロシア人たちの嘆きは深い。
だが、ここで彼らは気概を見せ、光太夫らに、露日共同で新たな船を建造しようと提案
。翌年、彼らはついに島を後にし、カムチャツカ半島へと辿り着く。だがこの時点で、
光太夫一行はすでに八名を失っていた。

149 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/09(木) 13:18:56.60 ID:Qla3WbZZJ
 新ジャパン レボリューション。 541    (哀惜のレザノフ)

 当地の要衝ニジニ・カムチャツクで、光太夫はフランスの探検家のバルテルミ・ド・
レセップスと出会う。後にスエズ運河を開鑿(開削)する外交官の叔父に当たる人物は
、コーダイユ(Kodail)についてかなり詳しい報告を残している。それによれば光太夫
達は、この時点でほぼロシア語に不自由はなく、どこにでも出入りをし、「西洋であれ
ば無礼とまでは言わずとも、無作法と取られかねない。」様な図太さを見せていた。と
書く。この地で、伊勢漂民は一冬を越すが、厳しい寒さと食糧不足によりさらに三名が
落命している。1788年、光太夫他五名は、ニジニ・カムチャツクを出発、オホーツク、
ヤクーツクを経て、イルクーツクに到着。シベリアのパリと呼ばれるこの地で、さらに
二年を過ごした。その間三度にわたり、サンクトペテルブルクのロシア政府に対し帰国
の請願を出す。いずれも却下され、一度目は「帰国の義は 思ひとどまり、此邦国(この
くに)にて仕官致いたすべき旨」(桂川甫周『北槎聞略』)を告げられた。つまりロシ
アに留まり、役人になれ。というのであった。二度目の返答で一見寛大に思えて、実は
強硬である。すなわち、商人になりたいのなら、税を免除し家も与える。仕官が望みな
らカピタン(大将=市長)にまで取り立てる、というのである。だが、帰国は認められ
ない。とされた。三度目の請願に対して、返答すらなく、代わりにそれまでの役所から
支給されていた生活費が、止められる不運に至った。「是は、費用にさしつかへなば、
仕官する心にもなるべきか。とての事なるよし」と、後に光太夫は回想する。ロシアの
政府は頑ななまでに伊勢漂民の帰国を禁じていたのである。1805年六月、ヤン・ポトツ
キは、サンクトペテルブルクを出発する。ロシア政府が清国に使節団を派遣することに
なって、それに随行する学術グループのリーダーに任ぜられたからである。三百人から
なる大使節団は、いくつかのグループに分かれて帝都を発ち、はるか六千Km先の目的
地、北京を目指すのであった。

150 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/12(日) 03:17:10.15 ID:j3oD0zUyH
 新ジャパン レボリューション。 543    (哀惜のレザノフ)

 だがここで、雲行きが怪しくなった。北京からの入国許可が下りない事態が出来たの
である。実は、清国政府はロシア使節団長のゴロフキンに対して、国境を越える人数を
減らすよう再三要請したのだが、使節団の威容を重視する団長は、その都度それに難色
を示して逃れてきていた。ようやく彼らが国境を越えたのは十二月十八日、厳しい寒さ
の中となったのであった。ウルガ(現在のウランバートル)に着いた使節団は、新たな
問題に直面した。ウルガ王(清朝の嘉か慶帝の甥)は、ゴロフキンに対し、中国皇帝の
前で、三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼、すなわちひざまずいて三回地面に頭
を打ちつける。という動作を三度繰り返すことを求める儀式が通例の礼儀だった。ゴロ
フキンはロシア皇帝の名代として北京に赴くのであって、とうていそのような屈辱的な
要求は受け入れられない。ロシア使節団長とウルガ王の交渉は決裂し、怒ったウルガ王
は直ちに当地から去るように、と告げた。ゴロフキンはその言葉に従い、一行は北京に
向かうことなく、サンクトペテルブルクに引き返えした。不首尾に終わったこの清国へ
の旅について、ポトツキはいくつかの報告を残している。その中に興味深い記述がある
。彼は、イルクーツクの町で日本人漂民に出会った。というのである。漂着民は、蝦夷
(Jesso)で刊行された 日本語の辞書を有しているともいう。また、旅行中に書かれた
書簡でも、その描写が見られる。それによると、イルクーツクには日本語を教える日本
人漂着民がおり、正直で熱心な男だが、母国では、水先案内人に過ぎなかったので、自
国語の語彙について十分な知識を持ち合わせていない。と書いている。

151 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:05:58.13 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 544    (大黒屋光太夫の意思)

 この漂着は、大黒屋光太夫の一行なのだろうか? 史実を確認すると、光太夫は、イ
ルクーツクで出会った博物学者キリル・ラクスマンとともに、1791年にサンクトペテル
ブルクへ赴き、皇帝エカチェリーナ二世に拝謁、帰国の許可を得る。そして翌年、キリ
ルの次男アダム・ラクスマンに伴われ、生き残った漂民三名は北海道の根室に帰着して
いる。したがってポトツキが出会った日本人漂民は残念ながら、大黒屋光太夫ではない
事になる。しかし、神昌丸の乗員の生き残りが全員、日本に帰国したわけではない。実
は、凍傷により片足を切断した庄蔵、ロシア人女性と結婚した新蔵という二人の水手(
かこ)は、ロシア正教の洗礼を受け、現地に残ったのである。いずれも イルクーツク
日本語学校の教師となり、庄蔵は1796年、新蔵は1810年に、同地で没している。つまり
ポトツキがシベリアのパリを訪れた1805年には、新蔵は、この地でまだ健在だったので
ある。東方進出を図るべくロシア政府は、1736年にロシア科学アカデミー付属の日本語
学校を開校している。このとき教鞭を取ったのは、薩摩の若潮丸の漂民二名であった。
その後、日本語学校はロシア東方経略の前線基地イルクーツクに移され、細々と日本語
通訳の養成に当たっている。光太夫の帰国請願が三度にわたって却下されたのは、この
日本語学校の教員として漂民が不可欠だったからである。ポトツキーが再三、アジア・
アカデミーの創設を提唱したのは、こうした事情を反映しているものと思われる。いつ
現れるか分からない漂民を待つのではなく、ロシア政府自らが、学術機関を組織して、
安定した語学教育を行なわねばならない。そこで養成される通訳こそが、東方に進出す
るための足がかりとなる。と考えたのだ。更にイルクーツクでの邂逅(かいこう=巡り
逢い、突然の出会い)は実現せずとも、大黒屋光太夫とヤン・ポトツキは、ロシア東方
拡大における現地語教育という問題においては、共通の土俵にいたのだった。

152 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:35:32.35 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 542    (哀惜のレザノフ)

 若き日のポトツキは、積極的に政治に携わっていた。領土分割の危機にさらされた、
祖国ポーランドで、救うべく全国議会に立候補し見事当選した。だが、二年の在職中に
登壇する機会は、一度たりもなかった。実は、彼はポーランド語が不得手で、議会での
演説をするだけの語学力を、持ち合わせていなかった。のであったからだ。1795年に、
第三次ポーランド分割が行なわれ、ポトツキはロシア政府に接近した。領地ポドリア(
ポジージャ)は、ロシア領に編入されたからだ。1804年に、ポトツキの最初の妻の、い
とこに当たるアダム・イエジィ・チャルトリィスキーが、ロシア外務大臣に就任する。
このチャルトリィスキーが、旅ばかりしていて落ち着かず、しばしば金銭的困難にも陥
って親戚のヤン氏が陰に陽に手を差し伸べてくれる。手始めにチャルトリィスキーは、
かつてコーカサスを広く旅した経験を持つポトツキーに対し、ロシア政府が東方で取る
べき施策について意見を求めた。ポトツキーは詳細な回答を返すが、それによれば政府
は、直ちにアジア・アカデミーを設立し、そこで東洋の言語の、トルコ語、ペルシア語
、モンゴル語、チベット語、満州語、中国語などを教授する体制を整えなければならな
いと言ったという。「言語を知らぬ土地を統治できないのは明らか。」だからである。
当時、ヨーロッパとアジアとの交易は、主に海路を通じて行なわれていた。東インド会
社を構えた、英国とオランダが、鎬(しのぎ)を削っていた。対してロシアは陸路を整備
することで、清国との通商路を確保し、これらの国々と対抗すべき、というのがポトツ
キの描いた主張であった。1804年十二月、ポトツキは直接、皇帝アレクサンドル一世に
手紙を書いて、アジア・アカデミーの創設を提言しつつ、自らにロシア外務省のアジア
部門のポストを請願して、翌月にはその職を得た。1805年九月に、ロシア使節団は、イ
ルクーツクに集結した。ここから、南下してバイカル湖を渡り、キャフタを経由して、
露清国境を目指すのである。

153 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:36:00.21 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 543    (哀惜のレザノフ)

 だがここで、雲行きが怪しくなった。北京からの入国許可が下りない事態が出来たの
である。実は、清国政府はロシア使節団長のゴロフキンに対して、国境を越える人数を
減らすよう再三要請したのだが、使節団の威容を重視する団長は、その都度それに難色
を示して逃れてきていた。ようやく彼らが国境を越えたのは十二月十八日、厳しい寒さ
の中となったのであった。ウルガ(現在のウランバートル)に着いた使節団は、新たな
問題に直面した。ウルガ王(清朝の嘉か慶帝の甥)は、ゴロフキンに対し、中国皇帝の
前で、三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼、すなわちひざまずいて三回地面に頭
を打ちつける。という動作を三度繰り返すことを求める儀式が通例の礼儀だった。ゴロ
フキンはロシア皇帝の名代として北京に赴くのであって、とうていそのような屈辱的な
要求は受け入れられない。ロシア使節団長とウルガ王の交渉は決裂し、怒ったウルガ王
は直ちに当地から去るように、と告げた。ゴロフキンはその言葉に従い、一行は北京に
向かうことなく、サンクトペテルブルクに引き返えした。不首尾に終わったこの清国へ
の旅について、ポトツキはいくつかの報告を残している。その中に興味深い記述がある
。彼は、イルクーツクの町で日本人漂民に出会った。というのである。漂着民は、蝦夷
(Jesso)で刊行された 日本語の辞書を有しているともいう。また、旅行中に書かれた
書簡でも、その描写が見られる。それによると、イルクーツクには日本語を教える日本
人漂着民がおり、正直で熱心な男だが、母国では、水先案内人に過ぎなかったので、自
国語の語彙について十分な知識を持ち合わせていない。と書いている。

154 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:36:21.32 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 544    (哀惜のレザノフ)

 この漂着は、大黒屋光太夫の一行なのだろうか? 史実を確認すると、光太夫は、イ
ルクーツクで出会った博物学者キリル・ラクスマンとともに、1791年にサンクトペテル
ブルクへ赴き、皇帝エカチェリーナ二世に拝謁、帰国の許可を得る。そして翌年、キリ
ルの次男アダム・ラクスマンに伴われ、生き残った漂民三名は北海道の根室に帰着して
いる。したがってポトツキが出会った日本人漂民は残念ながら、大黒屋光太夫ではない
事になる。しかし、神昌丸の乗員の生き残りが全員、日本に帰国したわけではない。実
は、凍傷により片足を切断した庄蔵、ロシア人女性と結婚した新蔵という二人の水手(
かこ)は、ロシア正教の洗礼を受け、現地に残ったのである。いずれも イルクーツク
日本語学校の教師となり、庄蔵は1796年、新蔵は1810年に、同地で没している。つまり
ポトツキがシベリアのパリを訪れた1805年には、新蔵は、この地でまだ健在だったので
ある。東方進出を図るべくロシア政府は、1736年にロシア科学アカデミー付属の日本語
学校を開校している。このとき教鞭を取ったのは、薩摩の若潮丸の漂民二名であった。
その後、日本語学校はロシア東方経略の前線基地イルクーツクに移され、細々と日本語
通訳の養成に当たっている。光太夫の帰国請願が三度にわたって却下されたのは、この
日本語学校の教員として漂民が不可欠だったからである。ポトツキーが再三、アジア・
アカデミーの創設を提唱したのは、こうした事情を反映しているものと思われる。いつ
現れるか分からない漂民を待つのではなく、ロシア政府自らが、学術機関を組織して、
安定した語学教育を行なわねばならない。そこで養成される通訳こそが、東方に進出す
るための足がかりとなる。と考えたのだ。更にイルクーツクでの邂逅(かいこう=巡り
逢い、突然の出会い)は実現せずとも、大黒屋光太夫とヤン・ポトツキは、ロシア東方
拡大における現地語教育という問題においては、共通の土俵にいたのだった。

155 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:36:47.37 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 545    (哀惜のレザノフ)

 ポトツキのあとを継いだレザノフ。彼は食料確保に サンフランシスコまで赴いて、
食料を確保したのだったが、やはり、日本との貿易の重要性をここで痛感するのだった
。そこで、日本を動かすために樺太・択捉襲撃命令を出した、ということだ。彼は、『
日本船の襲撃して捕虜とせよ、上陸する時は焼き払え、日本の民衆は、ロシアとの通商
を望んでいるが、頑迷な政府がそれを拒んでいるので、彼等には ロシアに立ち向かう
能力が無いことを、ここで知らせる必要がある。』と言う命令をだしたのだったのだ。
大島幹雄氏によればレザノフは、数日後に、思い直してこの命令をのちに撤回するので
はあったのだが、撤回命令のそれは、実行部隊から無視されてしまい 魯寇事件(日本
側の事件名)という蝦夷地での襲撃事件が起きて、ロシアとの関係は一気に緊迫する。
この後のことだが、馬場為八郎等は、レザノフとの交際でロシア語に明るくなった通詞
として彼等が蝦夷地へ送られて、同時にロシア語習得の命も下る。だが、レザノフは、
襲撃事件が起こったことも知らなかった。ペテルブルグへ向かう途中、イルクーツクで
氷結した川を渡るときに馬が転んで太ももに氷が刺さり、壊疽を起こし、床に伏してい
たのである。その後、帰船の中で臥せっている。既に彼は、航海で母国を離れて以来の
4年が経っていて衰弱しきっていた。彼は死を予期する。彼の手紙は切ない。『私の心
には、ただ孤独だけがすみついている。ぺンを執りながら一日中、涙がこぼれでしょう
がなかった。今日は 私たちの結婚記念日なのだよ。私は幸せだった頃の情景を 生き
生きと思い出すことができる。そしてひどく悲しくなって、泣けてきた。もう私には、
力が残っていない。』(「レザノフ日本滞在日記」427p)。と、弱気をさらけ出すのだ
った。あの勇ましい、凛々しくあった。皇帝の威厳を背後に、正装で通詞ら日本に対応
していたレザノフも、病の淵では、なんとも悲しい文章を書いていた。

156 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 09:37:10.29 ID:L3t0YCPAq
 新ジャパン レボリューション。 546    (哀惜のレザノフ)

 あれだけの長崎の人々を熱狂させ、自由な時代を ロシアがもたらしてくれるかもし
れない。との希望の灯をともした男が、妻にも子供にも看取られずに、シベリアの極寒
の地で、孤独と悔いに苛まされ、悲観の愚痴を吐露して死んでゆくのだ。1807年3月1日
、享年42歳。思わず涙して、しばし茫然たる思いだった。 215年前に亡くなった人物へ
の哀惜の思いが、これほど深く、湧くものだとは 予想もしなかったこと であった。
そのレザノフは、今や語られる事は殆ど無い。時間の経過は あらゆるもの人々の記憶
さえも、あっけなく消し去ってゆき、歴史として語り継がれるものは恣意的に選ばれて
いるような 気さえするのである。この物語の中で、私が特に惹かれた 2人の人物。
それがスチュワートとレザノフであるが、スチュワートは肉声を残さなかった。だが、
レザノフはふんだんに想いを語った。この差は大きい。スチュワートには悪漢ピカレス
クの魅力があるが、レザノフには善の魂の発露がある。それが私に響き渡るのだった。
それにしても「レザノフ日本滞在日記」、読めたのは幸せであった。レザノフの「日本
に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はない」という意見の報告で、日本へ
の襲撃の計画が部下からなされ、樺太や択捉島など、北方における日本側の拠点を部下
に攻撃させていた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)に
は樺太の松前藩居留地を襲撃した。その後も、択捉島駐留の幕府軍を攻撃し、幕府新設
の松前奉行は、司令官として、弘前藩、南部藩、庄内藩、久保田藩、各藩から 約3,000
名の武士の徴集を命じた。宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。がしかし、
この軍事行動がロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年
全軍に撤退を命令。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した
。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲
の一種:大型の鉄砲)が奪われたという記録が残っている。

157 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/23(木) 16:03:08.96 ID:qg9NsKuPc
 新ジャパン レボリューション。 547    (ロシア皇帝と漂流民)

 若宮丸という千石船が 1,300俵(80トン)の米と材木を積載して石巻から、江戸へ向
かって出港したのは、寛政5年11月27日(1793年12月29日)のことであった。だが2日
後、福島県塩屋崎付近で暴風雨に合い遭難する。舵が壊れ帆柱も切り捨てた若宮丸は実
に5ヶ月半も、極寒の北太平洋を漂流して、ようやくアリューシャン列島の小さな島に
流れ着いたのである。乗り組員は16人であった(以下「石巻若宮丸漂流民物語」から)
。この小さな島は、太平洋戦争で有名なアッツ島や、キスカ島よりさらに東にある孤島
であった。上陸後1人が亡くなり15人になった漂流民は、少々の日々に後、ロシア人に
出逢う。ラッコ漁で得る 毛皮の売り先に、日本を考えていた彼らは、日本の通商交渉
に、この漂流民が、役に立つと考えてイルクーツクへ送り出した。ラックスマンが大黒
屋光太夫等を連れて、根室に現れて通商を求めて根室へ現れてから2年半後のことであ
った。だが、その道程も苦難の道であり1年半後に イルクーツクに着くまでにも、も
う一人が亡くなった。ここには、大黒屋光太夫の乗組員2人が残っていて、彼等から、
ロシア語を学んで 善六が、ロシア語に堪能になったほか、善六等4人がロシア正教の
洗礼を受けている。ということは、キリスト教を禁ずる日本への帰国が不可能な道を選
んだことになる。こうして希望のない日々が、その後も7年過ぎたあと、運命の変転が
彼らに訪れる。首都ペテルブルグで、あのクルーゼンシュテルンが 企図した世界一周
周航計画に、レザノフが提案した日本での通商交渉を含めることが、持ち上がり、認め
られ、その航海に、漂流民を連れて日本へ帰国させる。ということになったのである。
こうして石巻を出港した若宮丸の人々は、ペテルブルグから世界を一周する航海に旅立
つことになったのだ。彼等は最終的に、長崎でレザノフから幕府へと引き渡される事に
なるのだが、彼等から、詳細な旅行記を聞き取ったのが、石巻を領地とする仙台藩きっ
ての知識人大槻玄沢であった。

158 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/23(木) 16:03:40.24 ID:qg9NsKuPc
 新ジャパン レボリューション。 548    (ロシア皇帝と漂流民)

 それは「環海異聞」(文化4年1807年)という文書に、まとめられたのだが、明治に
なって小原大衛という人が原文を近代日本語に変えて出版している。それが「寛政年間
仙臺漂客 世界周航實記」であるが、この書は、何と国会図書館でデジタル文書化の中
(PDF)されていて誰でも(登録は必要)ダウンロードして 読めるのである。(因みに
環海異聞16巻もデジタル化されている。)その序が、非常に興味深い文言である。「大
槻磐渓(大槻玄沢の子)が、ロシアと交盟すべきと幕府に 上陳したのは 嘉永元年(
1848年)であるが、当時の日本人は、海外事情に甚だ暗く(外国人は)夷てき(野蛮人
)禽獣(とりやけだもの)と考えていた。から、この本が出ると、世の攻撃を受け罵詈
雑言、極めて醜悪であった。が、今や(明治27年1894年)局面はすっかり変わり子供で
さえも、会議の事情に通じているが、その変わりようはせいぜい40年の間のことである
。」と、述べているが、これはまさしく前述の章の、日本人の熱狂 で指摘したように
攘夷論が、「実態を知らない『観念の憎しみ』であった。」ことを明治の人が認めてい
る証左でもある。それはともかく、この「世界周航実記」により、我々は若宮丸の漂流
民の 出港から日本帰還までを、詳しく知ることができる。この物語は優れたドキュメ
ントなのだが、ここで取り上げたいのは、イルクーツクにいる彼等がペテルブルグに、
出頭するようにと命じられ、ロシア皇帝に拝謁するまでを 取り上げることにする。イ
ルクーツクに滞在すること8年間、彼らは帰国の希望を持ちえなかったが、彼らのもと
に皇帝の使者(原文は飛脚役人)が訪れる。帝都に出頭せよ、というのだ。地元の役人
が彼等に、羅紗の上着ズボンなどを調達してお仕着せとし、使いと共に旅立った。

159 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/23(木) 16:04:02.09 ID:qg9NsKuPc
 新ジャパン レボリューション。 549    (ロシア皇帝と漂流民)

 イルクーツクとサンクトペテルブルグの距離は Google Earthで約4,500km。これは
直線距離だから、皇帝の使者は 5,000キロを、軽く超える工程を 遥々もやって来ての
、同じ行程を、潮流民たちを連れて戻ることになった事になる。九州最南端から北海道
の最北端を往復した程の距離だから、その2往復も橇(ソリ)や馬車で幾日もかけて、
はるばると遥々と・・ひたすら行った訳だ。使者は双鷲がデザインされた革のマークを
襟に付けて、皇帝の公用であることを表示していた。これまでの旅程、そして漂流民を
連れての、これからの行程の長さと困難を考えると、独行して来た使者の覇気勇気を、
原著者は讃えているが、私はそれに加えて 皇帝の威令が全土に行き渡っていることに
注目したい。アリューシャン列島の、小島でさえ日本との通商を政府が進めたがってい
ることが知れ渡っており、それが、漂流民をイルクーツクへの苦難の旅のきっかけと、
なっている。そのイルクーツクに、彼等が来たことを首都では把握して使者を送って来
たのである。これを考えると、ヨーロッパからシベリア、カムチャツカ、アリューシャ
ン列島、さらにアラスカと、レザノフが言う「世界の半分」を領有するロシア帝国は、
あながち嘘でなく、堅固な統治体制を完成させていたことになる。これから漂流民たち
が、使者と共に、難儀な旅ではあったが 賊に襲われるようなことは無く無事長駆旅を
終えて、首都サンクトペテルブルグに着いて、そこで受けた厚遇を考えると、「北方の
熊」とか、共産主義者が喧伝した「腐敗した帝国」というのは歴史の嘘ではなかったろ
うか、と、はたとここでも思うのである。

160 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/28(火) 07:10:54.91 ID:OSVGJtP9u
 新ジャパン レボリューション。 550    (ロシア皇帝と漂流民)

 白夜のシベリアを 行きながらも、大きい大陸を、四千五百kmも先を目指すのであ
る。直線距離でそうであるので、凡そ倍は遥かにあったろう。つまり一万km程度の長
旅であったのだ。途中で、3人が病死するなど苦難を重ねた、49日を経て、遂にサンク
トペテルブルグへ到着する。注目すべきは 最後の旅程700里(18〜20q)は、敷石を敷
き詰めて平坦でまっすぐな道であったことであった。と言う。ロシアの国力が想像でき
ることである。目を見張るほどの、まるで北海道にある日高の直線道路の様な石畳が、
一直線に永遠に敷き詰めれて、道はまっすぐに伸びて、首都に繋がっていたのである。
首都に着いた彼等は、6人の国老(セナートル=元老院)の、一人であった外務大臣の
館に 収容されたのであった。館に着くまで、銃を持った番兵が三重にある門にそれぞ
れついていて、広大な敷地であった。館では3階に案内される。200畳 以上の広さの、
大部屋で、従者5人を従えた 外務大臣と面会するのだった。彼は 漂流民たちに対して
「このまま、ロシアに留まりたいか?それとも日本へ帰りたいか?それは望み次第であ
る。」といって、その意思を聞いたのであった。この事に、漂着民達は、ぽかんとあっ
けにとられていたであろう。漂着民に、続けて「何事も心配に及ばずに、安心していな
さい。」と、語りかけたといわれる。その時、漂流民たちは、感動して、その奥ゆかし
さ、気高さに打たれて、さすが大国の大臣である。と、ただただ恐れ入るのみだったの
である。彼等を 無事連れて来た使者は、その場に呼ばれて、目の前で、何かしら読み
上げてて褒美として金を賜って、その場から立ち去って行く。 皇帝に謁見するまでは
、この貴顕(きけん)の高官の この館内で暮らすのであったのだが、毎日の食事では、
コース料理で、ここで漂流後、初めて米の飯を食べる機会に恵まれたのであった。勿論
 ロシア側の配慮であったあろう。ロシア国内では、米など取れないし、稲作文化など
ないのだから、取り寄せられた高価なものにあったに違いない。

161 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/28(火) 07:11:19.43 ID:OSVGJtP9u
 新ジャパン レボリューション。 551    (ロシア皇帝と漂流民)

 さらに驚く事に、1日に2回は、ビールやワイン付きの食事だったのだ。鶏豚牛魚介
、山海の珍味が、毎食事に溢れ、脇には、いつもの給仕と 調理人が待機し、これは、
日本の王公貴人よりも恵まれた生活ではなかったろうか。と、感動している人達でもあ
った。この時、この館に 700人もの従者が働いている。とのことだ。各段の経済格差が
あった社会は、時代背景があったが、言うなれば皇帝が徳川幕府であるならば、この、
貴族の地位は、藩主に当るので、当然と言えば当然であったが、そうした対比は、今で
こそだが、その時の彼らは知る由もない。それでも豪い(えらい)人とは肌で感じて、
うやうやしく、敬ったのである。外出時にあてがわれたのは 6頭立ての馬車であった
。前後に2人ずつが供として付添うものであった。ロシア皇帝に謁見する準備のために
彼等が連れていかれたのは、外交事務全般を司る 大きな役所である。諸外国との交渉
のために70ヶ国の通詞がいる。との説明が聞かされている。ここには、どの国の衣服も
 作成できる仕立部門があり、ここで、彼らは、何と立派な和服を仕立ててもらうので
ある。それは「島襦子着物、袷羽織、帯の三品」(世界周航実記104p)であり、彼等は
日本帰国に際して、持ち帰って幕府の検使に提出している。彼等 漂流民の観察眼は、
細部に実に正確で、馬車には 鉄製の延べ板が サスペンションとして使用されている
。道路の凹凸にも 乗り心地が損なわれないことも、ここで述べている。豪勢な館に
逗留すること2週間目にして、ロシア皇帝の謁見の日がとうとう来た。宮廷は迷う程広
く 高く橋を渡ったり 幾つもの大広間が続く。この回廊を経巡(へめぐ)って、やっと
謁見の間にやっと辿り着いった。そこは恐らく豪華な舞踏室と思われる様な、超巨大な
ホールが石造りで、他に誰の姿も無く、付き添いと共に心細くも神妙に、ただただ皇帝
を待つのである。事前に、この国に留まるも 日本への帰国を希望するも 自由に述べ
よ、との指示を受けていた中で、いよいよの 拝謁となった。

162 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:29:57.37 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 552    (ロシア皇帝と漂流民)

 彼等を預かっている高官の案内で、コツコツと石畳の部屋に足跡がこだまし、皇帝・
母后・皇后・弟君が音も無く姿を現す。絨毯の外を歩く守備兵の音と音も無く近づく帝
の、そのアンバランスさの、威圧と威儀を打たれて、漂流民たちは 床にひざまずき、
平伏する。が、傍ら(かたわら)に控える役人が、近寄り正座してる彼らの前に、すた
すたとやってきて、何やら耳打ちした。よく聞き取れない言葉だったが「この国では、
立ってご挨拶するのが礼儀であるから、平伏してはいけない。と言いっている。」と、
解るものが、隣に話した。「おお〜〜。」と、幾人か恐る恐る立ち上がり、続いて皆が
静かに立ち上がり、少し頭を下げて腰をまげ、垂れたれた。皇帝が「本国へ帰りたいか
。」と声をかけた。すると、顔をあげ、帰国希望者6人のうち2人が、「この国に残り
ます。」と翻意してしまうのであった。残る4人が、直ぐに言葉をさいて「いや10年も
異国にいて、望むことは、日本に帰ることだけでした。」と大きく言った。その後帰国
の意思を、切に願う事を滔々と述べる。と、藍ビロウドの 羅紗の高貴な装いの皇帝は
、日本帰国を表明した4人の肩に手をかけ、「その気持ちは当然であろう。」との言葉
を賜るのである。いわゆる「帝のねぎらいの良心」で、あった。こうして2人が、皇帝
に拝謁して、なぜ心変わりしたかは、実記には記述は無い。しかしこの時点で、彼等は
レザノフ率いる周航計画を理解していなかっし。日本帰国の具体案が無い時点で、彼等
の体験は、当然、苦難の連続だった思い出しかないはずだ。当時の日本人としては途方
もないことであっただろうが、この二人が特に頭の回転も切り変えも早く、ロシア語の
収得も早かった事を考えれば、これが処刑への前段階か。と訝(いぶか)しんだ心理も
、なかったとは充分に言えない。つまりこれ以上の変化を望まなかったのだ。又帰国で
もキリシタン禁止の処遇もよぎったに違いなかった。

163 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:30:26.36 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 553    (ロシア皇帝と漂流民)

 これまでの、航海の苦労もあり、友人の船上死も、トラウマだった。更に シベリア
横断での、目の当たりにした、大国ロシア国内のスケールの大きさ、高官の館での厚遇
、そして皇帝に拝謁する時に、平伏せず立ったままのご挨拶するのが、この国の礼儀だ
。と言われれば、感動と動揺があり激しく、思わずに「ロシアに留まります」と言わせ
たのではないか、とも思えるのだ。また仕方ないにせよ、ロシア語を学びロシアの風情
を理解し、当地に恋仲の女性すら持った者だったかも知れない。強制的であったのだろ
うが、彼らはロシア正教会から聖水を受けて、改宗していた。心の平穏を、この異教に
よって得られていたなら、尚更だろう。日本に帰れば、当然のように「磔の切支丹」と
同じ罪人である事も、予想出来たのだろう。そこに瞬間に未来をみてた者も少なからず
居たのだろう。その後、数分の沈黙が続き、その後に、ロシア皇帝は、これから珍しい
催しがあるからそれを見学するように、と言い、拝謁は静かに終わりを遂げ皇帝が椅子
から立ち上がった。室内のビロードの赤い緑と黄色と金銀の淵に模様をあしらった絨毯
の中央を歩いて、廊下に向かい、やがて声が次第に遠のいて行った。後ろに附いていく
縁者の周りは騎士がいた。十数人が、籠った言葉を話ながら、大きな扉が閉まり、彼ら
出て行くと、ホッとしたかの様に室内は穏やかになり、彼らは残った門兵から、案内さ
れ、別の扉から宮廷を辞した。部屋に案内されたのち、別の者が大河ネバ川に浮かぶ島
へ案内する。夥(おびただ)しい数の、群衆が蝟集(いしゅう)していた。やがて、そこへ
煌(きら)びやかな一つの集団がやって来た、皇帝の一行が姿を現したのだった。何やら
鼻ひげ男が、恭々しく近づき、従者と打ち合わせすると、離れて行った。それは 巨大
な熱気球の飛翔実験する科学者であった。熱気球には、乗員を積載した大きな籠が下が
っており、やがて空高く舞い上がると 何れもともなく飛び去って行った。漂流民達は
、ポカンとそれを熱心に見ていた。子供と同じである。周りには歓声も上がっていた。

164 :アポーン王子:2023/04/05(水) 15:30:54.11 ID:ta1Qxm8j1
 新ジャパン レボリューション。 554    (ロシア皇帝と漂流民)

 さぞかし驚いたことだろう。この熱気球の小型のものを レザノフに随行したラング
スドルフが長崎へ持ち込んで、3度ほどの飛翔実験をさせて驚かせ 役人たちを夢中に
している。翌日も同じに漂流民は、この島に案内されるが、そこは、実は博覧会の会場
だったようで 様々な珍奇なものを見物して回っている。また ある日は、皇帝の植物
園を兼ねる御涼み所へと、案内されたり、ロシアのバレー劇団や 演劇を観劇するなど
、ロシア側の厚遇が毎日続いていた。やがてある日に、見飽きて退屈し出す頃に、レザ
ノフに引き合わされた。6月17日の事だった。帰国希望の4人に、通訳役の善六の、
計5人はクロンシュタット港から、ナデジュダ号で世界周航を突然に向かう事になった
。こうして乗り込みまずは、日本を目指して出航するのであった。出発に際して、皇帝
より、金銀20枚と懐中時計を それぞれが、賜っている。これには一同 大いに驚き
て、感謝したことであった。ナデジュダ号に 乗り込んだのは、津太夫(61歳)、左平
(42歳)、儀兵衛(43歳)、太十郎(34歳)と、通訳者としての善六の計5名である。
恐らく善六などは、日本を見てみたいのは山々だが、住むのはロシアに住みたい。との
曖昧な態度であったのだろうが、それとも逆に、ロシアに住むと決めた敬虔なロシアの
敬虔な正教徒とみて、通訳に強制された命令で乗り込んだのか。定かではない。だが、
大黒屋光太夫らの、帰国の徒は、一人でも仲間が多い事は強く喜ぶことであったろう。
特に通訳としての仲間がいる事は何よりも心強かったと言える。前にも書いたが、語学
の天才レザノフは、航海の間に、この善六から日本語を、学び続けるのであるが、その
出航準備した後の、宮廷で、この同行方針が図られて、決定したのだろう。「仲が悪い
訳でもなく、民族的にもおとなしいようだ。どうだ、レザノフ、一緒に連れて行っては
、一人ぐらい日本人通訳も必要だろう。」ってな事であったのではないだろうか。航海
の先には倭寇や日本人の襲来すら考えられる時代でもあったのだから、皇帝から勧めら
れたら、断れない。「願ってもございません。」そう答えさがったのかもしれない。

165 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/08(土) 23:33:27.96 ID:LuO+GdIG1
 新ジャパン レボリューション。 555    (ロシア皇帝と漂流民)

 少し現代に戻して話せば、この光太夫らの旅を追跡しようと、現代に於いて旅跡を、
巡る企画がなされている。光太夫らが漂着した頃には、アリューシャン列島とはよばず
に、アレウト列島とよばれ、ここから、アラスカまでは、すっかり「ロシア領」だった
。1867年にロシアは、アラスカを 720万ドルでアメリカに売ったのである。あまりにも
どでかい買い物なので、どっちが得をしたのかは、いまだにわからないような気がする
が、この当時には、この不毛の北の大地をロシアもアメリカも持て余していたのである
。しかし、その後1902年頃アラスカからの、大金鉱が発見されてアメリカの大儲けと言
われていた。1942年頃の、アリューシャン列島は太平洋戦争のただなか。日本の海軍が
狙っていて、この列島の西部にあるアッツ島とキスカ島を占領して基地を置いていた。
探検隊は、7人チームでアラスカから小型機をチャーターしてアムチトカを目指してい
く。1970年代はアメリカがアムチトカで5メガトン(広島型原爆の 330倍)というすさ
まじい規模の地下核実験をおこなっていて、もう島としての存在感など何も持っていな
かった気配がある。アムチトカ探検隊の7名は、コールドベイという、もう地名からし
て、やる気のない最果ての氷の空港と、一年中ブリザードという冗談のように、どうで
もいい感じの風景の、要塞兵舎のような飛行場のところから出る飛行機をやっと確保し
た。10日分の食料と、その倍のウイスキーを買い、あとはスパゲティと缶詰がほとんど
だった。その頃、ぼくはスパゲティとマヨネーズと醤油があればあとはなんにもいらな
い、というタイドを、貫いていたので買い物も簡単だった。いざとなればアザラシなど
を捕まえて食う、という道がある。と思っていた。北極圏のイヌイットの生活を見てい
てアザラシのステーキに強い関心があり、できれば自分でさばいてみたかった。
以下 荒浮島(アレウト)の 現代記である

166 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/08(土) 23:36:35.54 ID:LuO+GdIG1
 新ジャパン レボリューション。 556    荒浮島(アレウト)の 現代記

 ところが、200年前に漂着した島へ向かうのは現代でも大変である。光太夫らの足跡
を、できるかぎり追っていこう、という計画をたてていた我々は、光太夫らのようには
千石船に乗ってアリューシャン列島に、むかうわけにはいかなかったからアラスカから
アプローチした(TBS「シベリア大紀行」1985年)快晴のち霰5万個」の過酷な島アムチ
トカには、旧日本軍が作った滑走路がある。それだけの情報で飛行機はとびあがった。
「コールドベイをでたら3層になっているブリザードで、何もみえないから、その先の
エーダックという島に降りることに変更する。」と、機長は空中にあがって15分後ぐら
いに言った。「あの機長は、さっきおれらの プレハブホテルのバーで見たけど あき
らかにバーボン満杯、という顔をしてたぜ。酔っ払い運転で大丈夫か。」と仲間が言う
。「でも機長にはなにもさからえないからなあ。」と、我々の不安は、あたってくる。
着陸したのはセイミヤというところだった。目的地に接近しているのか遠ざかってしま
ったのか。おれたちにはまったくわからない。漂流者のたどりついた島に行くのは現代
でも、大変なのだ。結局1時間ぐらいかかって、雪と氷が待っている荒涼とした島が、
目の前にあらわれた。日本軍が40年ぐらい前に作った滑走路は上空からみても、かなり
アスファルトが、上下に波うっているように見える。「春のさざ波の海と間違えて降り
ていく感じであった。」エイヤッと、着陸してから滑走路のどこかが 陥没したとして
も、おれたちはそれでおしまいなのだった。機長は、かなりの低空飛行をして40年前に
作られただろう滑走路を、検分しているようだ。地上係員というのが まったくいない
場所だから、すべてが、降りていくほうの機長に、自己責任がある。ぼくは機長の斜め
後ろにいたのだが、機長の横顔が汗で光っていた。何回かタッチアンドゴーをやって、
「もういいや、勝負!」という感じで飛行機は運命をきめて降りていった。

167 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 14:59:48.34 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 557    荒浮島(アレウト)の 現代記

 着陸後には、いそいで、我々のテント、寝袋、食料をおろして、すぐさまチャーター
機は、まるでそこでモタモタしていると 滑走路全部が陥没してしま。、というような
慌ただしさで帰っていった。北極の気候の変化が速い事を熟知していた彼は、飛べなく
なる事を恐れたのである。しかし約束の日にちゃんと来てくれるだろうか。もちろん、
どちらにも無線機はない。信じるしかない。すぐにテント(冬山用)を張ろうとしたが
、この島の風は一定方向から吹いてくることがなかった。、4人用のテントを張るのに
1時間もかかってしまったのである。ちょっとしたものを落とすと、すぐ突風でどこか
にもっていかれてしまう。そのうち テニスボールぐらいはありそうな雹が降ってきた
。というより落ちてきた。あたるとあぶない代物であった。3日もするとわかってきた
が、この島に、天気予報というものがあったらこうした予報が出るだろう。「今日は曇
りときどき晴れかと思うと、すぐに大雨。しかし、たちまち回復するでしょう。があっ
という間に、雹もしくはデタラメ方向から霰がごまんと風で叩きつけられます。その内
にいきなり快晴でしょうが、間もなく豪雨になるでしょう。風は東西南北の、風力さま
ざまです。」と。我々は、重くなるので水はまったく持ってこなかった。核実験で島の
形が変わり、山のてっぺんにいままでなかった湖ができている。という情報があった。
雨が多いから、沢山の小川が流れている。それを飲むことにしていた。ただし飛行機を
アテンドしてくれたアラスカ野郎が言っていた。「当然ながら放射能でジイジイ鳴る。
そういうところもあるよ。」と光太夫の頃にはなかったものだ。そこで飯をつくるため
に、水を汲むときガイガーカウンターで一応計測する。かなり反応があった。けれどだ
からといってどうしていいかはわからない。「よおく煮沸すれば大丈夫なんじゃないの
」などと、誰かがいったので、飲んだり料理に使った。200年前の、漂流民のやり方で
いくことにしたのだ。

168 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:00:12.43 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 558    荒浮島(アレウト)の 現代記

 翌日から放射能入りの水筒を持って我々7人は『北槎聞略』に書かれていたらしい。
ところを地形を見ながら調べて歩いた。クルマというものが一切ない無人島だ。簡単な
撮影機材と飲み物を持って行ったが食べ物は入れものがなく、みんな気持のどこかしら
で、ここに着くまで どこかで食い物を売っている店があるんじゃないか、と思ってい
た。その日もあいかわらず、5分ごとに天気がかわるような一日だったが、湖と湾は、
あきらかに水面の色が違うのですぐわかった。湾には、アザラシやラッコがのんびり浮
かんでいる。このアムチトカにはロシア人が、ラッコ、アザラシ、トドなどを島人たち
にとらせ、煙草や木綿、皮船を作るために用いる牛や馬の皮などと交換、というかたち
のバーター取引の貿易をしていた。光太夫は、やがてそういうロシア人らと、出会うの
だが、さすが文明国の人なので 漂流者に接する態度も親切で、なんとか日本人の帰国
に役だてればという働きをしてくれたらしい。しかし、言葉が殆どわからないので、そ
ういう親切が本格的に通じるには まだ時間がかかる。ロシア人らは、光太夫らを倉の
なかに泊まらせた。そこには 越冬用に蓄えた干し魚、雁、鴨などがたくさん入ってい
たので、あまりの臭気に 耐えがたかったらしい。アムチトカは歩いて回るにはあまり
にも広すぎるので 我々探索隊は確実に見ておくべきところを、まずはじめに探訪する
ようにした。そのひとつはアレウト族の住居だった。これは注意して見ていくと、土手
の下の斜面などで わりあい簡単に見つかった。洞穴の上に流木を使ったのだろう細い
丸太をならべただけで、その上に 蔓性の草などを葺いてあった。が、注意しないと、
落とし穴のような、屋根だったのである。しかし、獣があらしてしまったのか、その中
には人の住んでいた跡のようなものはみつからなかった。神昌丸が難破した場所らしき
ところも見にいった。岩だらけの小さな岬状のところがあり、その近くに洞穴があった


169 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:00:40.03 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 559    荒浮島(アレウト)の 現代記

 『北槎聞略』に興味深い話がある。島に着いてしばらくして、光太夫は神昌丸を見に
いった。神昌丸は錨を擦りきらせてしまい。暗礁に触れ底に穴をあけていて船の積み荷
の殆どが流失してしまったようだった。光太夫は、へたへたとちからをなくし、疲れて
しまって近くの洞穴に身を横たえていると、やがて寝てしまった。夕方ちかくに、なに
やら騒々しい音や声が聞こえる。なにごとか、と思って覗いてみると水没した船のなか
から、ロシア人が日本酒の樽をみつけてきて、それをみんなで飲んで大騒ぎをしている
のであった。その様子を、アレウト人も見ていて、自分たちも同じものを、と樽を引っ
張りだしてきた。そうして、みんなでそれを急いで呑みはじめたのだが、たちまち嘔吐
し、ぜいぜい吐きだしている。よく見ると、その樽はシケのときにふなべりからはでき
ないので、便器がわりに使っていた肥(尿)樽だったのである。厳しい毎日が綴られて
いる漂流記だけれど、ときにこういう笑い話も含まれていると なんだかホッとする。
しかし、この想像を絶する気象変化の激しい島も、慣れてしまうと 変化というのは、
それだけであって、結局はなんの希望もない打ち捨てられた 絶望の島なのであった。
我々は、たった10日間という短い期間なので毎日あちらこちらに出向いて忙しかったが
、それは(何もおきなければ)コールドベイからの 迎えの飛行機がやってくることに
なっているからである。でも、必ず迎えの飛行機がやってくるとは 実はまだ何の保証
もなかった。それでも相変わらず「スパゲティのマヨネーズと醤油かけ。コンビーフを
添えて。」が、基本の食事で、めしが続いているのだから「すまないなあ」と思うよう
になった。買い物を頼まれたぼくが いまひたすら気にいっているのだから、主食では
それだけで あとはステーキなどを個人的に焼いている。僕はデカナベに毎晩1キロの
スパゲティを茹でているだけだった。それを食うと、眠くなるまでウイスキーを飲んで
寝ておしまい。夕食が単調だからだろうか、夜はあきてしまって、ウイスキーになるの
が毎日だった。

170 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/11(火) 15:01:15.15 ID:HiG/ghk1O
 新ジャパン レボリューション。 560    荒浮島(アレウト)の 現代記

 光太夫たちは、このなにもない島に4年間もいた。そのあいだに、7人の乗組員が、
壊血病(かいけつびょう、ビタミンC欠乏症で、数週間後出血性障害で体内各器官で、
吐血が生じる病気)の症状が出現するなどで病死している。この島に漂着する前にすで
に1人亡くしているので、神昌丸の乗組員は既に9人になっていた。光太夫らは時々、
流木が独特の潮の流れを作っている湾に、でかけてている。我々が、米軍からの貰った
地図にセントマカリオウス湾というのがあり、光太夫らが書いた簡単な地図と そこが
一致する事を発見していた。行ってみると、本当にそこは夥しい数の立派な流木が漂着
していた。光太夫らの神昌丸が漂着してきた方向と一致する。我々はそこにグイと突き
出た岬の先端に行って、ケルン(積み上げた石)をつくり「望郷岬」と名付けていた。
そっちの方向が日本なのだ。しかし、そこはやがて「挑み岬」というふうに変えてよぶ
ことになった。光太夫らが、漂着して3年目には、ロシアから来ているニビヂモフらの
毛皮買い付け人が、故国に帰還する船がやってくることになっていた。けれど、この島
は果てしなく恐ろしく、そして残酷なのであった。ロシアから迎えにきた船は、湾内に
入るなり、荒波に翻弄されて転覆。ふたつに割れてしまうのである。絶望したニビヂモ
フは、その絶望を怒りに変えて、光太夫らに話をもちかけたらしい。「セントマカリオ
ウス湾に、堆積している夥しい流木を使って 新しい船を一緒につくろうではないか。
海峡を越えて、向かいにあるカムチャツカまで渡れば、あとは地続きなので 何とでも
なる。協力してそこまで脱出しないか。」と言う話だ。それは光太夫たちにとっても、
非常に魅力的な話だった。ロシア人25人と光太夫ら日本人漂流民。それに地元のアレウ
ト人も、一緒に船建造の手伝いに加わってくれた。『北槎聞略』をベースに書かれた、
井上靖の『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)には、この底無し沼のように鬱屈した島で
、光太夫らが漂着以降、はじめての希望に満ちて積極的な計画と その仕事ぶりについ
て邁進するさまを書いている。

171 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:02.62 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 561    荒浮島(アレウト)の 現代記

 「ロシア人たちは破船した帆船の船具の収容に取りかかり、日本の漂民たちは、潮に
半身を埋めたまま腐りつつある神昌丸の船体から、古釘を抜きとる作業に取りかかった
。そうした仕事が終ると、あとは全員が手分けして 周囲七里の島の海岸線を経廻って
漂木という漂木を集めた。島には、木らしい木生えてはなかったので、船材は専ら漂木
に頼る以外 仕方なかった。」船の材料集めが終わったのは9月のはじめで、ただちに
造船仕事を開始して、冬の間は地下の穴蔵住居にもぐっての作業が続けられ、船が竣工
に近づいたのは、翌年6月の終わりを告げる頃であった。――とあるので流木から船造
りに要した期間は、たっぷり10ヶ月はかかっている。『北槎聞略』によると、積載量は
600石ほどの船が完成した。と言う。現代では一石=100升(1升は1.8リットル)と規定
してる。米一石=40貫(150kg)とされ、俵2個である。通常のトラック2ton車は、
2000kgなので、三トン車で20石船、俵40個で、通常の8〜10人乗り川下り船の
小型船、小型漁船程度である。『千石船は、米1,000石分、約150トンの荷物を積める船
をいい。千石積船=150トン(米千石ぶん)』が当時一番大きいサイズとされ、600石船
だから、宴会が出来る遊覧船程度はあっただろう。ロシア人25人、日本人9人が乗船し
、ラッコ、アザラシ、トドの皮、食肉としての干した魚、干し雁などを積み込んで、波
の高い外海に出航した。こうして、天明7年(1787年)07月18日アムチトカを出航し、
1400露里(7000km)を越えて翌08月23日、カムチャツカ(の一端)に40日程で到着し
た。五〜六十あまりの人家があった。磯辺にはパラッカといって、布でかやのようで作
った 日除け葦を張って、この土地に勤務するロシア人の妻子が ヤゴデという草の実
を採っていた。光太夫は郡官の家に泊めてもらい、他の8人は郡官の書役の家に泊めら
れ、それぞれ食物を支給されたのであった。

172 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:26.83 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 562    荒浮島(アレウト)の 現代記

 到着した夜は、チェブチャという干し魚と、白酒のような汁にトラヴァ(草の名で。
不詳)の実をいれたものを、錫の鉢に盛り、食べるためにクマデのようなもの(おそら
くフォーク)と小刀、大サジを与えてくれた。この2品と麦の焼き餅(パンのことだろ
う)は、ここのロシア人が日常的に食べるものであった。宿の老女が、朝と夕方に 小
さな桶をもって牛小屋のなかに入るので不審に思って、磯吉が何をしているのか。と、
そっと様子をみると 汚い小屋にいる1頭の牛から1升5合ほども乳を絞り取るのを見て
「あの白いあまい汁は、きたならしいところからとってくる。」としきりに言いふらし
たので、その後は、誰も「動物関連のものは何も口にしない。」といって、それらは、
みんな残してしまうようになった。しかし、ここに5ヶ月ほど逗留しているうちに麦粉
は食べつくしたし、魚の干物も底をついてしまった。このような食料不足になっている
うちに、与惣松と勘太郎と藤蔵が、あいついで 股から足まで青黒く腫れあがらせて、
歯茎が腐って死ぬ病に倒れたのであった。郡官の属吏は、「あなたたちは、意味もなく
、我々が与えた乳や牛肉を食べないが、これから飢饉になっていくのに、ああいうもの
を食べて体力をつけないと、この冬の季節をこえられない。」と説教して、それ以降に
、磯吉たちみんなは動物のものも食べるようになった。と言う。極寒の地では食わず嫌
いは死を招く。という事であろう。5月になって、川の氷がなくなると バキリチイ(
蝦夷の方言でコモロ、越後では糸魚、イトヨリダイ)の、小魚が川の色が変わってしま
うくらいに、押し寄せてきた。網でとって水煮にして食べると、美味きなること例えよ
うがない。と、うまかった感動を書いている。これらが少なくなると今度はチェブチャ
という魚が遡行してきた。魚とりは、主に女の仕事でこれも網で1日で3、400尾はすく
いあげた。

173 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:07:57.13 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 563    荒浮島(アレウト)の 現代記

 やがてこれが去ると大きな鮭(シャケ)が、今度はもみあうように鰭(うろこ)を、
光からせてて、遡行してくるのである。冬ののち小さな魚から、次々に大きな魚が追い
春を持ち込んで来て、彼らは、ほっと旅の疲れを取った事だろう。天明8年(1788年)
0?6月15日、光太夫たちはカピタン(下郡官)の チモフェイ・オシーポヴィチ・ホトケ
ーヴィチに、連れられてその地をはなれ チギリというところにむかった。そのときの
船は、丸木をくりぬいた小さなもので、そこに光太夫ら日本の漂流民と、ロシア人15人
が3〜4隻に分乗した。チギリからオホーツクへは、さらに乗船者が増えたので、又 400
石ほどの帆船に乗り換えになった。しかし、この人数にしては積載食料が足りずに、な
んとか口にできるのは、水ぐらいで一度、チェレムチャ(松前ではアイバカマという、
行者ニンニクに似た植物)の、塩漬けだけが出てきただけだったので 一同大いに困っ
て、脱走しようかという話が、密かに出てくる頃にやっと目的地のオホーツクに着いた
。しかし、この残された6人の日本人漂流者は、これで無事帰還というわけではない。
むしろ、地図上の位置としては、日本よりも、さらに遠のいてしまって 北に向かって
来ていたのであったのだ。これから、まだ数年、彼らの帰郷への長く辛い絶望と慟哭、
ときおり、さすらいとかが かいま見える希望と絶望が織りなす旅と闘いがはじまる。
我々は、ロシアをいく漂流民、とりわけ日本人の 殆どの人が体感したことのない様な
零下50度・60度・などというシベリア原野への、流浪の旅の片鱗をほんの2ヶ月間だが
、生身で体験したのである。カムチャツカからの船で光太夫らがユーラシア大陸に上陸
した地はヤクーツクであった。そこで、我々もヤクート自治共和国(当時)の 首都の
ヤクーツクに、モスクワから飛行機で行く事にした。イリューシンという独特のキーン
という音をたてる粗末な軍用のような、簡素なジェット旅客機に乗って9時間飛行する


174 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/13(木) 18:08:36.45 ID:djCHuzWka
 新ジャパン レボリューション。 564    荒浮島(アレウト)の 現代記

 驚いたのは、シートベルトがない席もあるし、自分の席そのものがない(立ちのり、
実質的にしゃがみ座りのりの)客が十数人いることであった。モスクワはマイナス20度
。ロシア人は、「今日はナマヌルイ」、と言っていたので笑った。着陸したヤクーツク
の空港はなんと、マイナス48度であった。同じ地に、200年前に カムチャツカからやっ
てきた大黒屋光太夫達。彼をはじめとした日本人漂流民達には、ご苦労さまでした、と
心からお迎えする心境だった。光太夫らが、オンボロの手作り船でこのヤクーツクに、
到着したときと 少し季節が違っていたが、当初17人いた漂流者が ここにたどりつく
まで次々に死亡し、結局着いたのはは6人しかいない。しかも、さきほど書いたように
故郷からは、さらに遠のき、ロシア政府からの帰国の許しは まだ出ていない。光太夫
の不屈の闘志と、それこそ たゆまぬ努力による日本帰郷への、あらゆる糸口をたどる
苦難の10年間は、これからが もっとも内容の濃い血みどろの闘いになるのであった。
かれらの 想像を絶するようなマイナス50度などという原野で、キビツカ(馬橇そり)
による移動や、馬での移動など ぼくも凍傷にやられながら闘ってきたが、考えられな
い過酷さだ。原野での、拷問のような寒さに、生きるために食べる体験で、一番驚いた
のは、「水をのんだら死ぬ」という 地元の人からの、本気の注意だったのだ。体の中
に、あまりにも冷たいものが入ってくると、臓器が持たないらしい上に、アルコール分
の無い体質は死を呼ぶらしいのだ。この頃から、三十数年後に ぼくは同じ場所に行き
ついたが、やはり水を、そのまま飲むと死ぬ。といわれた。「嘘だと思ったらやってみ
ろ。」と、いわれた。少し考え、嘘だと思わないからやらない、と答えて、その時を過
ごした。気温もマイナス50度などになると、飛んでいる鳥が、突然落ちてくる。そう言
われる。日本の童話でも、水田の鴨が脚が凍り付き、稲刈りと同じに手に入れる話があ
る。つまり、狩りと刈りが同じである理由らしい。

175 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:31:25.71 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 565    荒浮島(アレウト)の 現代記

 長く辛い絶望にかいま見える希望の旅の片鱗を体験した。そしてマイナス50度の地で
は「水を飲むと死ぬ」と言う常識があった。人間は、空中で口をあけるのが辛くなる。
野外食に 二度焼きのパンなどをあたえられても、芯まで凍っているからだろうか、持
って口に運ぶのが重たい、ということも驚きだった。重たい野外のパンを食べるには、
狼の歯と同等の健康が必要だ、とも言われた。でも、胃の中に 何か入れないと、ひた
すら体力は落ちていく。日々体力が落ちるのが、身を持って実感する。このジレンマが
辛かった。その頃、ヤクーツクの外を歩く人は、必ず毛皮の外套をつけ皮の帽子を被り
、狐の皮の「底なし袋」と、呼ばれるものに両手を差し込んで、鼻から下を覆ってから
、外を歩くのである。こうでもしないと、凍傷にかかり、そうなると 迅速かつ的確な
治療をしないかぎり、どうかすると鼻や耳が落ち、頬のあたりがただれ落ちてしまう。
だから用心しろ、といわれた。『北槎聞略』にはキビツカの寒さのことが書いてある。
馬車に、客車がないタイプのものでは 牙のような向かい風にたちむかわなければなら
なかった。それよりは乗っているほうも、絶えず体を動かす馬乗りでの移動の方がまだ
楽だった。と書いている。だけれども、僕らが驚いたのは、乗った馬は間違いなく黒毛
だったのだが、30分ほど走らせて小休止するときには、降りたら乗っていた馬は、まっ
たくの白馬になっていたのである。この黒毛の馬も、汗が凍ってしまい白馬に変わって
いた。馬は、いつでもハダカであり、マイナス60度でも50度でも走ると汗をかく。汗は
全身の毛について瞬時に凍るのだ。そうして束の間での変身を起こす。夢のような白馬
の誕生であった。椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)椎名誠『漂流者は
何を食べていたか』(新潮選書)では、こんなふうな極寒のシベリアを2ヶ月ほども、
オロオロ動き廻っているうちに 光太夫の残していった一冊のノートを見せてもらう機
会にであっている。

176 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:32:05.41 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 566    荒浮島(アレウト)の 現代記

 1780年、ベズボロドコはエカチェリーナ2世の時代、ノヴォロシア巡幸に随行してい
た。その途中で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世から外交を学ぶよう促される。そして外交
任務を終えて、コペンハーゲンから帰国し、『政治事務についての回想録』なる著作を
エカチェリーナ2世に示し、墺露間の戦争の、オスマン帝国分割案をはじめて提示した
。この提言は、ほとんど何の変更せずロシア案としてウィーンに提出される。『モルダ
ヴィアに関する 典型的な歴史情報』を提出する為、外務省の「全ての交渉の全権公使
」と郵政大臣に任命され出世した。この時期より、公式には宰相イワン・オステルマン
伯爵の部下であるのに、エカチェリーナ2世と全ての外交に関わって、外国駐在大使に
命令を下して、条約締結など国務大臣職務の全て行った。彼は、エカチェリーナ2世の
孫のコンスタンチンをギリシャ帝国の皇帝にするという夢をも支持した。エカチェリー
ナ2世も、多くの領地や年金をベズボロドコに与える。1786年元老院議員になり1787年
に実質的な外務大臣として、エカチェリーナ2世の、南ロシア巡幸に同伴する。途中で
カニウに立ち寄ってポーランド王のスタニスワフ2世アウグストと交渉し、エカチェリ
ーナ2世がヨーゼフ2世と会ったときには女帝の馬車の中にいた。と言う。再び勃発し
た露土戦争(1787年〜1791年)と、ロシア・スウェーデン戦争(1788年〜1790年)は、
ベズボロドコに、さらなる激務と重圧を与えた。エカチェリーナ2世の、新しい愛人の
アレクサンドル・ドミトリエフ=マモーノフなどの政敵が、ベズボロドコを攻撃したの
だった。ベズボロドコは2つの戦争の講和に尽力する。1790年08月14日スウェーデン王
グスタフ3世とヴァララ条約を締結したが、露土戦争の方はグリゴリー・ポチョムキン
が急死し、ベズボロドコは急遽ヤシに派遣されて、1792年1月9日にロシアに極めて有利
なヤッシー条約を締結した。この功績で、エカチェリーナ2世から5万ルーブルを与え
られ、聖アンドレイ勲章を授与された。

177 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:32:31.46 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 567    荒浮島(アレウト)の 現代記

 しかしながら、ヤッシーから帰国したベズボロドコは外務大臣ポストを、女帝の最後
の愛人プラトン・ズボフに奪われてしまっていた。ベズボロドコは1793年を通して私的
な回想録でこの「尊厳の減損」について抗議し、エカチェリーナ2世は1793年9月2日の
ヤッシー条約締結祝賀式で、ベズボロドコにさらなる栄典を与えた。その後、エカチェ
リーナ2世はベズボロドコとズボフを和解させ、ベズボロドコは再び外交を主導した。
彼は第三次ポーランド分割を主導して、エカチェリーナ2世から多くの褒賞を与えられ
、彼は内政でも 手腕を発揮して、郵便局を改革、銀行制度を改善、財政を引き締め、
道路を建設したのである。エカチェリーナ2世が死去してパーヴェル1世が即位すると
、パーヴェル1世は、ベズボロドコにエカチェリーナ2世の私的文書を調べるよう命じ
、続いて彼をクニャージに叙した。さらにオステルマンが引退するとベズボロドコを、
ロシア帝国宰相に任命した。ベズボロドコは、最後までパーヴェル1世の寵臣で、あり
続けた唯一の大臣であり、彼はパーヴェル1世の治世でも引き続き外交を主導した。こ
の時期、ベズボロドコは、フランス革命の最中にあるフランス第一共和政を含む ヨー
ロッパ諸国との平和を目指したが、パーヴェル1世はその政策を支持しなくなり、ベズ
ボロドコは辞任を申し出た。パーヴェル1世はベズボロドコの辞任を拒否して、外国へ
の療養を許す予定だったが、ベズボロドコは突如脳卒中で麻痺を起こし、1799年4月6日
にサンクトペテルブルクで死去した。光太夫は漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)
に根室港入りして帰国した。1789年(寛政元年)にイルクーツクに至る。道中イルクー
ツクで、日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い1791年(寛政3
年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、
ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見して、帰国を許されていた。既
に光太夫は、もうロシア語はなんでも理解し、なんでも書けていた。あちこちに「憎む
べきはベツボロドコ」という日本語の、怒りのこもったなぐり書きがいくつもあった。

178 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:33:03.42 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 568  (漂流10年光太夫は生き残った)

 この醜悪政治家がぺートルボルグにいるエカテリーナに帰国嘆願にいかせて下さい、
という光太夫の請願をことごとく闇でつぶしていたのだった。それから別のページにも
っと優しい筆致でひっそりと「おしま」という名前がある。勿論これも日本語である。
 ナデジュダ号は、英仏海峡からスペイン沖 そしてアフリカ沿岸を経て赤道を越え、
南米へと南下し、ホーン岬では暴風に会い、難破しそうになりながらなんとか太平洋へ
出て北上、マルケサス諸島では、全身刺青をした身長2メートルの島人たちに驚いたり
しながら、ハワイを経由してカムチャツカのペトロパブロフスクに至っている。ここは
漂流民4人がアリューシャン列島の小島からイルクーツクに行く際に、立ち寄った場所
であるから、彼等にとっては世界一周となった。ここで善六は下船する。彼は、ロシア
正教の洗礼を受けているため、キリスト教を禁教とする 日本への同行には都合が悪い
のである。この一事を見ても、ロシア側は周到にこの日本寄港に備え、充分に考慮てい
たことがわかる。それから、日本沿岸を航行し、薩摩沖でも遭難しそうになりながら
なんとか九州南端をクリアして長崎へ現れたのである。その後の、レザノフ一行が上陸
し、船を停泊させて起こったことは前の章でみたとおりだ。レザノフによると、漂流民
たちは 長崎について以来、一言も発しなくなった。日本の港へ着いて 懐かしさより
先に、異国へ渡って異国の生活を経験した人間への、幕府の仕打ちを思い出して 恐怖
に捕らわれていたのだ。外界に固く扉を閉ざした母国の法では、自分たちは許されざる
存在であることを認識して「我に返った」というべきでもあろう。それを裏付ける出来
事が長崎到着直前に起こっていた。朝、長崎沖で9人が乗り組んでいた小舟を発見し、
漂流民たちを使って話しかけたのだ。びっくりしたが 興味をそそられて、小舟の民は
、彼等は招きに応じてナデジュダ号に乗船している。長崎港へ入港するのは(周りには
島が多い)難しい。と彼らが言うので、パイロット(水先案内)を頼むと、顔色を変え
て断ったのあった。この小舟は恐らく近くの北廻船か漁船であったのだろう。

179 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:35:08.35 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 569  (漂流10年光太夫は生き残った)

 その姿や言動のそれは、漂流民たちを、さらに萎縮させたようだ。その年の暮れには
(文化元年12月17日/西暦1805年1月17日)漂流民の一人だった 太十郎が、喉に剃刀を
突っ込み自殺を図ったのであった。その動機を、レザノフは「ラクスマンによって日本
に送還された 大黒屋光太夫と、磯吉の二人は、牢獄にいる。と聞いてノイローゼにな
ったから。」と、書いている。漂流民たちは 親戚に会えるどころか同じような運命が
待っていることを知らされ、ここでロシアを捨てたことを 大きく後悔した。というの
だった。(「レザノフ日本滞在日記」195p)。世界周航実記は、太十郎には 元々少し
陰気で偏屈の性があった。と書かれている。従って、将来を絶望した挙句のことには、
間違いない事実だった。彼は、懸命の手当てを施された。「長崎の医師 吉雄幸載の外
科医としての処置にロシア人の医師が、感嘆した措置」(世界周航実記)であったが。
一命をとりとめたが ほとんど人と口を利かなくなったそうだ。彼等の悲劇は これだけ
で終わらない。最終的には、ようやく漂流民達が、日本側に引き渡されてレザノフ一行
が長崎を離れた後、彼等を待っていたのは、またまた苦難の道であったようだ。7ヶ月
も長崎で取り調べが行われて、その間には、詰問と踏み絵を行い、白州での取り調べを
受け、揚屋(病人など特別な雑居牢)入りを果たし、持ち帰り品が改められて、箝口令
(かんこうれい)敷かれ、聴聞などが行われた。という。ここで、信心深いロシア正教
の洗礼を受けた善六を、ペトロパブロフスクで下船させた レザノフの判断は正しかっ
たと言えよう。実は日本には、緘口令と箝口令がある。両方ともかん口令と読むが少し
違っていて、後者は話して行けない。口外が御法度であるが、前者は書物はおろか手紙
にして書いてもいけない。という厳しい物だ。この時彼らには、すこし緩い後者の方だ
った。ここで、持ち帰った書物、地図、金銀銅は没収されたが、外国銭は同価値の銀に
しての返却が、なされたという。その年の暮れ、江戸の仙台藩上屋敷で藩主の伊達周宗
の引見を受け、その後2ケ月間 大槻玄沢等の審問を受けた。その内容は「環海異聞」
として、まとめられている。鎖国と言う言葉は、ここに意義がある。

180 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/14(金) 17:37:44.70 ID:CSnNxergB
 新ジャパン レボリューション。 570  (漂流10年光太夫は生き残った)

、4人が故郷へ帰ったのは、文化3年の春だった。寛政5年11月27日(1793年12月29日
)陸上に上陸後1人が亡くなり、15人になった漂流民はキスカやアッツ島の近くで一年
近く過ごし、その後イルーツクに移り住んで、ルクーツクに滞在すること8年。宮廷の
要人が訪ねてきたのが2月で、ひたすら49日間も馬車道(ばしゃみち)を走ってサン
クトペテルブルクの都につき、宮廷で皇帝に謁見したのが4月末だった、そして1803年
6月17日に出航し1804年10月9日長崎に到着したナデジュダ号一行で、更に半年間
ここに泊まり置きになっていたのだそうして、開放されたのが、長崎来航後1年半後の
ことである。その年のうちに自殺を図った太十郎と儀兵衛は亡くなっている。なんとも
辛い話である。太平洋戦争時の捕虜になった日本兵と同じに、扱いがぞん在であって、
既に江戸期にあったことになる。鎖国という政策がいかに当時の日本人を冷酷に扱った
かがわかるし、徳川幕府の法治に酸いも甘いもあった(犯科帳などの判例)と主張する
身としては、索漠とした思いを禁じ得ない。この項では、日本にレザノフを派遣するに
あたって、ロシア側の周到な準備があったことを考えていきたい。そこにロシアの本気
度が現れていたからだ。本論に入る前に、あるエピソードを紹介する。12月16日、レザ
ノフのために用意された「梅香崎仮館」にレザノフ一行が入って行く様子を見ていた男
がいる。オランダ商館長のドゥーフである。梅香崎から数百メートル離れた出島から、
ドゥーフは一行が上陸して仮館へ入ってゆくのを海越しに見ていた。その様子を、彼は
回想記 Recollection of Japan(56P)に記している。 肥前公(佐賀藩主、鍋島肥前守
治茂)差し回しの大船(御座船)で、レザノフ一行は、ナデジュダ号から梅香崎へ移動
するのだが、ドゥーフは レザノフの従兵たちが掲げる軍旗を掲揚するポール先端の、
地球を掴む鷲の像(Signum)から十字架が取り外されているのに気が付く。そのことは
日本人も、もちろん気が付いていた、とドゥーフは書いている。つまりロシアは日本が
禁教令を敷いていて、仏教国であると言う事知っていて、周到な準備をしていたのだ。

181 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:29:51.38 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 571  (漂流10年光太夫は生き残った)

 その場にいた人の日記や手記など、その時の息遣いが分かる資料の醍醐味は、このよ
うな細部のディテールである。歴史書では「ロシアが通商を求めた。」と言うことだけ
の簡素な単語のみで あしらわれる記述だろう。その歴史的背景は語られるのだが、こ
こにどのような、準備をして、どのような姿勢で日本に臨んだかは、その時そこにいた
 人の目や口や耳のみが、なによりも雄弁に語る。ロシア側の準備と心構え、日本に、
通商を求める熱意は生半可ではない。このことをよく知らせるエピソードの一つである
。ロシア正教という皇帝が、教皇をも兼ねた独自の宗教を持ちながら、十字架という極
めてシンボリックな、印しさえも、日本側を警戒させないために外した。誇りの象徴た
る国旗をわざわざ作って訪日していたのである。こうして難癖をつけられるのを避け、
外国船との接触でも日本側の攻撃を避けたかったのだろう。双頭の鷲の中心の、十字架
を取り外したことは、レザノフの想いからも、大きな意思を皇帝が持っていた証しと言
える。決して屈しない国の、威厳を重んじたその国の使節が、日本の事を充分研究した
うえ、熟慮した皇帝の許しがないと出来ないことであろう。双頭の鷲は、最古の宗教の
ゾロアスター教の光(善)の象徴としての、純粋な「火」を崇めて頃の名残りである。
紀元前4千年前頃は、世界を席巻し君臨していた宗教で、その正統支配者の意味合いを
持って双頭の鷹を用いていた。中央アジアの象徴だ。その中心の十字架も同じに、紀元
前ローマ帝国しか認められていない、威厳を示す巨大権力そのものだったはずである。
したがって軍旗や国旗としてハクスブルク家さえも掲げられず、一の横棒のみ、大英帝
国や他の諸侯の王家は、似せたはたすき掛けのX点でしか紋章には出来なかった。つま
り、ロシアは唯一、キリスト教のローマ帝国の正統後継第三帝国としての誇りだった、
十字架の双頭の鷹が許される国家だった威厳を、日本との通商の為に隠したのである。
ちなみに、ナチスはクロス万時で有名だが、卍は実は時の神スケッルス(Sucellus)の
マークで、北欧ブリテン人の水車の知恵の象徴だった。

182 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:30:19.70 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 572  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ところで、ロシアの周到な準備の模様はは、レザノフに与えられた指令書を、「レザ
ノフ日本滞在日記」で 大島幹雄氏が収録して書いているので参照してください。その
前にロシアの、この頃の地政学的状況をそれこそ歴史書の大局から見て、初代ピョート
ル大帝(1672年〜1725年)のもとに、やっとヨーロッパの諸大国に伍してゆく体制が、
出来上がり完成に近づけた頃のロシアだった。という事を知らねばならない。しかし、
この時に大きく立ち遅れたもの、海への進出や海軍であった。と言う事を知る。それが
、どんなにロシアの熱情で欲望であったかがここにある。北方にあっては、バイキング
時代に既に早くから交易であった。しかし西洋の大航海時代に、パルト海や北海沿岸の
向こうでは、竜骨の船のバイキングの作りの大型船を造り活躍していた。アスファルト
の止水材で大型船を造りイスラムの技術とが相成って、結構な物流の利益を貪っていた
。モスクワ大公は、それとはほぼ無縁で傍観する事に歯ぎしりがあった。ソリの物流と
された為、冬の氷上輸送にロシアは頼っていた。西インド(カリブ海の諸島)にアジア
に、全く進出できず、従って植民地もなく、東インド会社のような貿易会社の経営も、
出来ないで、投資して資金を投資し見返りがくるのみだったのだ。しかしそれはそれで
、人的資源も兵力も、リスクを持たずにリターンは転がり込んでくるロマノフ家は、大
きな資産家になっていた。遵って当時は、世界一の発展する豊かな国だったにも拘わら
ずピヨトルは、じりじりしながらも南下進出に燃えていたのだ。そこに、レザノフが、
露米会社を作って、毛皮ビジネスなどに乗り出し、満を期して、オホーツク、アリュー
シャン列島、アラスカなどの新天地経営に成功した。結果は成功と言えども、尻すぼみ
で、あまり良くなかったが、それしか交易資源が無かった。というのが現状であったの
だ。

183 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:30:49.89 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 573  (漂流10年光太夫は生き残った)

 それはひとえに自国内に造船技術と、海軍力が無かった以上に産業がなかったからで
あるのだが、実はその産業でも逆に、造船と海軍が無いための結果だと、国王は考えて
いたのだった。その海軍力創設の象徴こそが、ナデジュダ号の航海であったのである。
このナデジュダ号は、造船技術の著しいイギリスから、購入したものであり。提督の、
クルーゼンシュテルン船長は、若いが故の引き入れに成功した最初の船乗りで、彼を、
雇っての、世界周航計画で 初めて世界の海に乗り出していた。そこに皇帝以下の国民
の、その意気込みはかなり強かったと言えた。その強さは そのまま、レザノフの肩に
のしかかっていたのだった。その海軍力の増強の夢は、第2次大戦後、ソ連海軍の建設
でこの海軍力増強は、ようやく叶うのだが、この19世紀初頭の頃では、「不凍港」を求
めての、南下する動きは、先行の欧州各国から封じられ、共産組織の世界制覇を匂わせ
る物はは全くなかったのだ。その為、ウラジオストック建設も、サハリン樺太の開発で
も、まだ手がつかなかいで、空想世界にいた頃だった。しかし、ロシアを変えたのが、
鉄道敷き設を進めた頃で、先のベズボロドコ大臣の開発進言だったのだ。1768年に始ま
ったオスマン帝国とロシア帝国との、クリミアタタール戦争(露土戦争)での講和条約
が成功し、1774年7月、現在のブルガリア北部のカイナルジャで結ばれたこのキュチュ
ク・カイナルジ条約が締結される。露土戦争が終結すると、ルミャンツェフはベズボロ
ドコを、女帝エカチェリーナ2世に推薦した。彼女は1775年にアレクサンドル・アンド
レエーヴィチ・ベズボロドコ公に、官職を与え大臣や相談役にしたのだ。旅行公爵と言
われる程物好きで鉄道の魅力も世界の広さも当然知っていた。シベリアに鉄道を建設す
る案は早くからあったが、ロシア帝国でモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成し
たのは、その後後の1850年代で、ベズボロドコ公の忠告や遺言みたいな事だった。実は
このエカテリーナ時代は鉄道と言っても線路と言ったがよく、鉄路の上に鉄車輪のバス
を馬で走らせると言った方式の提案だった。しかし、氷とソリの発達したロシアには、
不要の物と思われ。そこで氷の川の利用と、石畳が発達したのである。

184 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 13:31:13.26 ID:ynB8cSX23
 新ジャパン レボリューション。 574  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口を
占拠し、その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾とアムール江岬のソフィ
ウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終わった
。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルムを経て
、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。同年、
アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク〜チタ間に鉄道を
敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。その他計画、請願は多数に登
ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で優れたものと
しては、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路(ペルムよりニジ
ニ・タギルを経てチュメニに達するもの)があった。1860〜1870年代こうした頓挫にも
かかわらず、1860年〜1870年代は重要な進展を見せた。1864年のヴャトカ飢饉の救済法
を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を、
大体終えた03月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を、防御する
唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへの
鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達する
に及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう。」と述べた。この報告は、
いくらかの注意を引くことになった。・・・とされている。つまり、ロシア国内では、
帝国と言えども、日本の様に流通事情は良くなく、当然の様に毎年の様にどこかで誰か
が、餓死や疫病で死んでいたのである。そして1864年のヴャトカ飢饉はかなり酷かった
のである。そうした、普段からの貧困の国がロシアだったので、光太夫達へのもてなし
は最高の儀礼であったと言える。

185 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 02:49:25.05 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 574  (漂流10年光太夫は生き残った)

 とはいえ、新方式の蒸気機関を開発したのは1769年である。その後1850年代にシベリ
ア鉄道の計画は1850年から始まり、その初期段階は1860年代まで続いた。つまりこの頃
の鉄道とは、馬で引くレール仕様の事だったのだ。しかし馬に比べ、トナカイはスピー
ドは速いが、力はなく、その為に軽く引く必要があったからだろうが、ソリで代用が出
来たので、必要性は少なかった。それでも、春と秋の雨季があり、その時は難儀であっ
た。ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口
を占拠し、その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾と、アムール江岬の、
ソフィウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終
わった。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルム
を経て、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。
同年、アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク〜チタ間に
鉄道を敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。その他計画請願は多数
に登ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で、優れた
ものが、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路(ペルムよりニジ
ニ・タギルを経てチュメニに達するもの)があった。1860〜1870年代こうした頓挫にも
かかわらず、1860年〜1870年代は重要な進展を見せた。1864年のヴャトカ飢饉の救済法
を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を、
大体終えた03月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を、防御する
唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへの
鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達する
に及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう。」と述べる報告をしたのだ


186 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:08:19.41 ID:+0l7tWZxv
 新ジャパン レボリューション。 575  (漂流10年光太夫は生き残った)

 日本が明治維新により近代国家へ歩み始めた時、ともに帝国主義に乗り遅れたロシア
と日本が満州平野と朝鮮半島を巡って、激突するのだが、この大きな歴史の構図となっ
たのは中国の清露戦争の元となった大陸横断鉄道の建設であった。日露戦争は、その後
のロシアの共産革命で、日本はロシアを仮想敵国ととらえて「北方の熊」という悪印象
が固定化したが、それは19世紀後半以降のことであり、何度も言うが、この頃ロシアは
、税の取り立てもなく、現代とは違う感覚で動いていた様な平和な国家であった。豊饒
な大地が育む、豊かで素朴な人々(ショーロホフの「静かなドン」の世界)という様な
、パリの宮廷文化に追いつこうというロマノフ王朝の世界が、そこに広がっていた時代
であったのである。宮廷では公用語としてフランス語を使い、まさに広大な領土に匹敵
する、奥の深い「他民族交差」する土地を指導する国として帝国化をはかり、諸侯や小
公国の集まりの文化を持った多民族国家だったのだ。そもそもロマノフのオスマンとの
闘いは、税の徴収や支配権がオスマン側にあったからであり、今の ウクライナ状態の
傀儡化の制服国家の中で、やっと解放された頃だった。が食料事情で、共産革命、労働
者階級だけでなく世界中のインテリ層が、共産主義に大きな影響を受けて「かぶれた」
と言ってもよいかもしれない状況になった。日本も、例外ではなく、むしろ共産思想の
礼賛が主流となっている。革命前の馥郁たるロシアの記憶は、日本は勿論、ロシア国民
さえも、忘れ去られた。ソ連崩壊後共産党が生き延びているのは、中国北朝鮮ベトナム
そして日本だけとなっているが、第2次大戦前の、共産主義の各国への浸透は、それほ
ど凄まじかった。例えば、スペインに フランコのファッショ政権が樹立しての、スペ
イン内戦となったが、ヘミングウェイ等世界中の、「自由を愛する」人々がスペインへ
義勇兵となって参戦した程だった。その義勇軍はソ連作った国際旅団だったのである。
当時の世界中の人が、その事に疑問も抱かないぐらいの寛容さが共産支配にあったのだ。

187 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:16:25.05 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 576  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかし、ボルシェビキ革命成就後、海外に亡命したトロツキーの暗殺や、秘密警察の
創設と、スターリンによる大粛清と続いて行き、ロシアのイメージはすっかり陰湿な、
愛国主義的ものに変わったのである。ブルジョワ主義打倒を掲げて技術革新を否定して
いったのである。それはさておき、軍旗を掲揚するシグナムの旗から十字架を取り除い
たことに象徴される ロシアの周到な準備を現す資料だが。「レザノフ日本滞在日記」
の375p付録一に収容された「ルミャンツェフからレザノフへの指令書」がそれである。
日本来航の前年、ロシアを出航する前の1803年7月に作成されたものだ。詳細極まった
長い指令で、全文は、同封写真をご覧いただくとして、ポイントを紹介する。(1) 長崎
以外には、入港上陸しないこと。(2) 長崎に着いたら役人たちが大勢やってくるだろう
が、ロシア皇帝の国書と、献上品は直接将軍に謁見する時に渡すこと。(3) 日本人は、
すべてのことに正確であるから、答弁は、注意深くかつ正確に行い 記録を取ること。
(4) ロシアが70万人の軍隊を有していること。日本と同じ専制国家であること。ロシア
正教について正確な説明を行うこと。(5) 滞在中は側近や従卒も礼儀正しく振る舞い、
日本側の扱いが期待通りでなくても、それは将軍の指示に基づくものだから 不満を言
わないこと。(6) 将軍と謁見するまでは、豪華な服を見せびらかさず 謁見の時は側近
も靴と靴下を脱ぐこと。日本人は 尊敬に値するものの前では、脱帽して 立つ習慣が
あるからこれに従うこと。謁見に向かう際は、皇帝の代理人としてふさわしく 天蓋付
きの駕籠をもちいること。(7) 謁見の後は、通商関係の役人たちに 尊敬の念を払い贈
り物をすること。また 使節団に関わった人々に、過不足なく 贈り物を贈呈すること。
(8) 長崎奉行にも同様に注意深く接すること。ロシアと皇帝を代表する大使として尊厳
ある立派な態度をとること。(9) 最も重要な任務は、日本と通商を結ぶことであって、
バタビア(ジャカルタ)の オランダ東インド会社が崩壊した今は、有利な状況である
筈だ。・・・と非常に事細かな助言を皇帝は行っていた命令書であったのだ。

188 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:22:41.98 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 577  (漂流10年光太夫は生き残った)

他にも (9) 長崎以外にも松前やウルップ島(ロシア領)で通商することも可能である
こと。(10) サハリンの住民と日本の関係を調査すること。(この辺りが、ソ連時代に
この日記が発禁になった事情だろうと思われる)、(11) 日本と中国朝鮮琉球諸島との
関係の調査をすること。など、実に手取り足取りと言えるほどに 綿密な指令書であっ
た。知りうる限りの情報を基に、レザノフに、丁寧かつ礼儀正しい交渉を求めている。
そんな内容である。これにより90年後の1895年日清戦争に勝利した日本が、清から割譲
された遼東半島を変換せよと求めた三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)時の、強欲
傲慢な 近代ロシアと同じ国家とは思えない程、慎重かつ権勢を誇示しない近世ロシア
だったことが分かるのである。日本についての情報の多くは、大黒屋光太夫の一行や、
若宮丸の一行を 首都サンクトペテルブルグに招いてから、ロシア皇帝に謁見させた時
に収集したものであろう。これら首都に招かれた漂流民は、前章で見たように、客人と
して遇され、皇帝から金銀を下賜して日本の着物も仕立てて 立派な身なりで日本へ送
り返したのである。そこには 異邦人への正常な関心と、漂流民たちが遭難した悲劇へ
の哀れみが、滔々と流れにじみ出る感情があるのだった。外国に関わったからと厳しく
詮議し、海外の生きた情報を漏らさないように、殆ど罪人に近い扱いをした幕府とは、
大きな違いが見て取れる。大黒屋光太夫一行も、若宮丸の一行も日本に帰国せずロシア
に残留を望んだ者が多くいたが、日本に帰国すれば罪人扱いされる。という予感も相当
にあったろう。が同時に、厳しい身分制度の、日本社会よりは、今のロシアの方が生き
やすい。と思って帰化同化した。という面もあったのだろうとも思える。

189 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:26:26.34 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 578  (漂流10年光太夫は生き残った)

さて、既にいくつかの章に渡って、レザノフ来航時のことを 取り上げて来た。これは
当初の予定にはなかったことで、レザノフについて言及するつもりは元々なかったので
あるが、大島幹雄氏訳の「レザノフ日本滞在日記」の衝撃があまりにも大きかったため
に大きな紙面を割くことになってしまった。そろそろ フェートン号の物語に戻らなけ
ればならないが、その前に、レザノフの 長崎での日々の最終局面を語らなければなら
ない。我々は、既に幕府がレザノフの通商要求を拒否したこと、通詞や江戸から下向し
た役人、警護兵たちが、その処置を残念がったこと、ドゥーフが宴会を開いたことや、
レザノフは首都サンクトペテルブルグに戻る途中で、シベリアに客死したことを知って
いる。だが、レザノフを、半年も幽閉・軟禁した挙句に、要求を拒否したのが、検使の
遠山金四郎景晋と二人の奉行との会見であった。この模様を記さずして、レザノフ物語
に終始譜は打てない。タイトルを日露(魯)会談としていいほど 当時はロシアを露国
ではなく魯国と表現して、話し合いをしていたからである。江戸から遠山金四郎景晋の
一行が到着したのは、3月30日(西暦)である。だが 31日、4月1日、2日の3日間に
、何の連絡もしていないし、奉行所にも連絡していない。通詞にも姿を見せていない。
外国の賓客には、礼を欠く態度であったはずだ。だが、レザノフは耐えるしかなかった
。例の通り警護兵たちと語らう時間が続き、レザノフは、自分の肖像版画が、長崎の町
で出回っていると知らされる。長崎には川原慶賀、石崎融思など江戸にも鳴り響いた、
作家がいて、長崎絵として評価が高いが、その中の一人が、どこかでレザノフを観察し
たのだろう。当時の絵師は、今の報道カメラマンのように記録者として、いろんな場面
に立ち会うことを許可されたのかも知れない。まあ人相書きって言うのは、番所の本分
だろうから、最初から長崎番所が送り入れて書かせたものかもしれないが、見事にまで
描いている。

190 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:29:20.38 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 579  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかし、この肖像画の流布も また長崎でレザノフの人気が高かったという一因だろ
う。先に触れた様に、80歳を超えた老婆が、ひ孫を連れてレザノフに会いに来たのも、
この肖像画を見たせいだろう。ササキ・イツジという 警護兵との語らいでは、一般の
武士たちが通詞たちに反感を持っていることに驚く記述もある。通詞たちの 特権に対
しての妬みだと言う。また4月2日は旧暦の3月3日で雛祭りであるが「モモノシェク」と
レザノフは呼んでいる。桃の祝日をそう呼んだんだろう。レザノフの訛りが分かる一端
でもある。警護兵たちは、酒を飲んでほろ酔いだ。とも記している。 4月 3日になって
ようやく中堅の通詞が来て、2日後に会見が決まったと教え、彼が奉行所に向かう沿道
や町中の門や窓が閉じられる。と教えてくれる。会見は2度だけだった、とのことだ。
大通詞3人が揃って正式に、レザノフに 検使の 江戸からの到来を伝えに来たのは、
4月4日のことであった。翌5日、会見に決まったという事だった。レザノフが「ヨーロ
ッパでは、6ヶ月も待たされた人物には、着いたその日に報告するのが礼儀だ。」と、
責めると、大通詞たちは、「到着を報告した後で 会見を待たせることの方が、日本で
は非礼にあたる。」と、言い訳にもならない言葉で返している。このヨーロッパの常識
と日本の習慣の争いが、実際の会見まで ことごとく表面化する。レザノフにはロシア
皇帝の全権大使の地位がある。検使は、将軍を体現する只の使者であった。つまりは、
会見に際しての、プロトコルの詳細がロシア皇帝と 将軍の権威を巡っての闘いが、一
大事となっていたのである。大通詞とレザノフとの間で、長いやり取りが続くが、剣を
外すこと、レザノフの随員は5人まで、梅香崎仮館から、肥前の殿様の御座船を使って
 出島のそばを通り大波止(波止場)に上陸する、そして検使(遠山金四郎景晋)と二
人の奉行には対等に対峙することとなった。

191 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 03:34:39.49 ID:JtVbCMp0w
 新ジャパン レボリューション。 580  (漂流10年光太夫は生き残った)

 会談で、使用する言語について面白いやり取りが起きた。通詞たちは、レザノフに、
オランダ語で話せ、というのだ。それを自分たちが通訳する、と。レザノフは呆れて「
私はロシアの大使だ、ロシア語で話すのが当然であり、それを私の随員がオランダ語に
訳す」と言うと「それは絶対に許されません。」と通詞は言う。この時であるレザノフ
が「ならば私は日本語で話す。」と言ったのだ。すると通詞たちは猛反発し「我々の掟
に反することであり、そんなことをすれば、私たちが必要なくなります。」と通詞たち
の本音が出てくるのである。海外の言葉を、絶対に習得しようとしない幕府の官僚と、
世界で唯一通商を 許されたオランダ人の間での、通訳という特権の旨味を独占してい
た集団、それが、日本の幕府の通詞の世界だったのである。通詞たちへ、の妬みや反感
をあからさまにした警護兵の心情も、それを分かってのことの恨み節だったのだろう。
こうして、ようやく翌日の正式会見となる。4月5日、朝7時、レザノフ一行は梅香崎
仮館から出発した。肥前公の御座船が用意され、深紅の絹で、縁取りされたその絢爛さ
に レザノフは驚いている。船は出島のそばを通ったが、それを観察していたドゥーフ
とレザノフは互いに、軽い挨拶を交わしている。出島とレザノフの乗船とは、100mも
ない距離の近さで あった。ドゥーフによると、レザノフは素晴らしい正装であった。と
書いているので、羨ましそうに見える記述だ。大波止に着くと、駕籠(ノリモン。乗り
物の長崎訛りか?)が、用意されていたが、実はこれは奉行所がドゥーフから拝借した
ものだった。この時の絵図を見ると、相当に豪勢な行列だったことがわかる。レザノフ
一行は、高級将校ら随員が5人、ロシア皇帝旗の旗手、靴持ち、儀仗兵6名である。こ
れらを、大勢の役人・警護兵が、一行の前後を2列で囲んだ。通りには いたるところ
に哨所があり、その哨所ごとに警護兵の集団がいた。大波止からは丘の上の西役所(今
の県庁所在地)への緩やかな坂を上り、そこから北東に転じて大通りを奉行所に向かう。

192 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/03(水) 09:43:35.55 ID:m2RKc7jJ1
 新ジャパン レボリューション。 581  (漂流10年光太夫は生き残った)

 ちょっと歩いてみた。1.2qの道のりである。15分程度の行程。奉行所の所在地は、
長崎を見下ろす立山の裾だ。長崎で最も有名な神社諏訪神社の隣にある。長崎奉行所は
、現在の長崎歴史文化博物館の一部として、ほぼ 当時のまま再現されており、城郭の
ような威容を誇っている。レザノフの記述通りに、階段を上り巨大な門をくぐると広場
がある。その両側に兵士が座っていた。大きな玄関で 靴を脱ぎ中に入ると大きな部屋
には40名ほどの高官たちが座っていた。広く長い廊下を、さらに渡ってゆくと控えの間
で帯剣(サーベル)を渡し、ようやく会見場に通される。二人の奉行と検使(レザノフ
は“大名”と呼んでいる。恐らく通詞たちが検使の遠山金四郎景晋のことを大名と呼ん
でいたのだろう)が座っており、この広間にも、大勢の役人が控えていた。長崎代官、
徒目付、勘定方、普請役もいたというから 大田南畝も列席していたろう。レザノフは
、これらの人々を見て、顔見知りが多いと書いている。が6ヶ月も同じ長崎にいながら
奉行二人が、レザノフと対面するのは、この時が初めてである。ここでレザノフは3人
が長刀を持っていることに気が付き、早速 通詞に「約束が違う」と文句を言うのだが
、これは太刀持ちのことと 思われる。奉行二人、検使との距離は畳2枚である。レザ
ノフが、通詞に 帯剣のことで文句を言ったのは、日本語で言ったのではないかと推測
される。と書く。と言うのもレザノフが話すのを聞いて奉行の肥田豊後守が、まるで、
なだめるかのように口を開き、「日本の習慣により 長崎で随分と退屈させてしまった
ことを深く遺憾に思っている。」と切り出したからである。これに対しレザノフは、こ
こで「このような退屈は初めての経験。・・・」と辛らつな本音を言う。が、一方で「
これまでたくさんの厚意も授かった。」と、謝辞も述べてつないだ。

193 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:35:59.61 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 582  (漂流10年光太夫は生き残った)

 この辺りは、まずは順調な滑り出しと言えよう。もう一人の奉行、「成瀬因幡守」が
江戸から来た将軍の名代であり(ここでも原文では 奉行は検使のことを大名と表現し
ている。)に、「もう一度あなたの来日の目的を話していただけないか。」と尋ねられ
ているる。わかり切ったことを あらためて言わせるのは煩わしくも感じるが、当時の
この奉行達の世界の プロトコルだったのだろう。レザノフは、「喜んで」と言って、
改めて訪日の目的を述べた。これに対し 成瀬は「将軍はロシア皇帝が、『通商の意思
を持っている』ことに驚いている。ラクスマンに、『通商の許可を認めない。」と、念
を押して、既に伝えていたからである。」と述べる。この成瀬の発言を 記述したレザ
ノフの文章は、非常にわかりにくい。原文はおよそ次のようである。「『将軍は、ロシ
ア皇帝の 通商のことに触れ、それに対して感謝をしてる。ことに、驚いている。通商
の許可を認めてはいない。が、将軍に書簡を出すことだけは許した。ラクスマンにも、
このことは 念を押して申し伝えたはずだし、誰も決して、日本と書簡のやりとりは、
できないことを、直接 言い渡しており、そのことは彼も承認したはず。』であった。
ただこの前提を 認めたうえで、将軍(クボウ)に書簡をだすことだけは、許したので
あった。これにより、最初交わした約束が 反故にされたことになる。しかし、将軍は
、それについては 寛大に処してきた。」と言う言葉だった。この意味が、現代人の私
には良くわからない。恐らく レザノフにもよくわからず、そのために 上記のような
記述になったのではないか、と 思われる。当時の日本人の、持って回った言い方、の
せいかとも思われる。前の章で触れた様に、ラクスマンに渡した文書は、実は、許可証
だったという見方が当時からあったことを考えれば、理屈を、こねまわして それを、
否定する言い方だったのだろう。だが、要は使節も受け入れないし、貿易も望まない、
と言う意図は、レザノフに伝わったようだ。しかし、それは長崎にとっておかしな事だ

194 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:36:23.88 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 583  (漂流10年光太夫は生き残った)

 レザノフには「『これがなにを意味するのか、私に理解できません。このような失礼
な対応に驚いている。これは、特別な名誉を もつ者を、侮辱することにはならないだ
ろうか。ヨーロッパでの皇帝や女王たちは、ロシア国と、書簡のやりとりすることを、
身に余る光栄と見なしている。』また 『ロシア皇帝の名誉に関することを、将軍が、
ラクスマンに果して、命令できるのでしょうか。皇帝も将軍も同等であり、どちらが偉
いかは今ここで、決められることではないはずです。』と、私はこうしたことを かな
り激烈な調子で言った。」と書いている。ここまで見てきたように、推測では、レザノ
フは、恐ろしく温厚であり、礼義を重んじ、かつユーモア感覚の豊かな人間であったの
だが、そのレザノフが、自ら“激烈な調子で言った”のだから、これは今の言葉で言え
ば「完全に切れた」という状態と言ってよい。幕府側に、そういう意図は無かったろう
が、外交上の儀礼として、レザノフは ロシア皇帝が侮辱されたと、感じ取ったのであ
る。これは、当時の幕府の外交感覚が、清王朝のそれと五十歩百歩であった証左でもあ
った。奉行の肥田が、これを見て「お疲れでしょうから、今日はここまでにして また
明日会見をいたしましょう。」と、とりなすと、レザノフは「結構」と言って退出した
。はらわたは煮えくり返っていた筈だ。夕方に、本木庄左衛門と、馬場為八郎という、
レザノフと、極めて懇意の二人の通詞が、「明日もう一度謁見においでいただきたい。
」という奉行と検使のメッセージを伝えると、「もう行かない。」と断ったのである。
それに加えて「彼らは、自分たちの言葉に対して あやふやであるし、会見の作法から
いっても、なっていない。」と、怒りを露にする。これに対し二人の通詞は、「すべて
は古くからの習慣に依存している作法だから。」といなしている。レザノフの怒りをや
わらげ、「明日の7時に、出発するのでよろしく。」との言葉を残して退出したのだ。
この日の、ドゥーフの商館日記にはこの日のことを「たっぷりと一時間、そこ(奉行所
)に滞留した後に、一行は同様の方法でふたたび引き返した。」とある。

195 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:36:57.23 ID:g9tLESoP4
新ジャパン レボリューション。 584  (漂流10年光太夫は生き残った)

 6ヶ月も待たせた挙句の、初日の対談はわずか1時間にも満たないものだったことが
わかるのである。この夜のことは、記述が何もない。だが私は思うのだ、梅香崎仮館に
はロシア人たちの、憤怒が渦巻いていただろう、と。これまでレザノフの指示に従って
じっと耐えていた側近たちも、6ヶ月もほったらかしにした挙句に、鼻をくくったよう
な回答に、怒らないはずがない。ヨーロッパ一の 大国強国を自負するロシア帝国の、
エリートたちなのだから、その怒りは凄まじかったろう。何の記述も無いところには、
私はかえってレザノフを 取り巻く不穏な空気を感じてしまうのだ。明けて4月6日に、
夜のうちから、雨風が強くなり、朝には嵐となり、滝のような雨が降った、とレザノフ
は日記に書いている。この天候を、検使遠山金四郎景晋と二人の奉行はレザノフの怒り
、と思ったのではなかろうか。彼等の気持ちが レザノフに好意的であるのは疑いよう
のないところだからだ。風雨が、少し納まった9時に奉行所の高官が迎えに来た。天候
のせいで、道もぬかるんでいるだろうから 随員たちの駕籠を要求する、さもなければ
一歩も動かない、との レザノフの強硬な要求に、役人たちが折れて駕籠が用意される
ことになった。が、それを待つ間、絵師がレザノフをスケッチしていた、とある。礼服
の刺繍の図柄合わせに 手間取るのを見たレザノフは、絵師をそばに読んで、細かくス
ケッチ出来るようにさせると、絵師は、ロシア人は本当に親切だ、と感謝するくだりが
ある。これは、やはり当時の絵師が 今の報道カメラマンの役割をはたしていて、この
ような賓客の傍らで、絵をかくことを許可されていたことを 物語るのである。午後1
時なって、準備が整い奉行所に赴いた。結果は、予想通りのもので、あった。

196 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:37:18.59 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 585  (漂流10年光太夫は生き残った)

 内容は、幕府の書付(かきつけ:公式文書)と長崎奉行所の書付を、二人の奉行が、
それぞれが読み上げたのである。
(1) 幕府の異国船打ち払い政策によりロシア皇帝の国書、献上品は一切受け取らない。
(2) 大御所(徳川家康)の遠祖以来、オランダとしか、通商しないという決まりである
  から、その古来からの伝統的祖法に従って、通商要求は、とても受け入れない。
(3) 航海のための、必要な食料を提供するが 二度と日本に来ないこと、帰国の際、ど
  の港へ立ち寄ることも許されない。長崎に長期滞在できたのは、ロシア人への慈悲
  である。
・・・・・という、上から目線の通達であったのだった。レザノフが前の日に予期した
回答そのものが、そうだった。これに対して、レザノフは、日本が他国を受け入れない
ことは、世界中が承知しているが、偉大なロシア皇帝が 友情を約束するための献上品
は受け取るべきである、と主張して、真っ向から対立する。皇帝からの豪華な献上品の
数々を、「断られました」とおめおめと持って帰れるはずも無かったのだ。議論が膠着
すると、将軍が、米・塩・真綿を、薪水料(航海費)として渡すことを申し渡される。
今度は、レザノフが断る番になる。「『私たちに六ヶ月も苦しみを与え、皇帝の好意に
対して、不遜な態度をとりつづけるような人たちから 食べ物を恵んでもらうなどは、
もっての他、御免被る』(313p)というのだ。通詞たちは動揺した。多吉郎(大通詞)
はレザノフの副官である フリードリッヒに『私たちの条件を受け入れるよう使節に、
お願いしてください。使節は知らないのです。日本では、たったひとつの火花がもとで
、おそろしい、あとで消すことのできない、大きな炎になることがある』と懇願する。
これは会見の、一部始終の中で 最も緊迫した場面であった。奉行も検使も武家である
。彼等を追い詰めると 最後の手段は武力行使になる、という意味だった。」

197 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:37:59.11 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 586  (漂流10年光太夫は生き残った)

  200年前とは言え、ポルトガルの国使一行の、60数人が皆殺しにされた例もあるのだ
からやぶさかではない。レザノフは、気を取り直して言い方を変える。「善意でやった
、全てのこれ迄が、全く反対に受け取られるほど やり切れないことはないでしょう。
だから、奉行らは、私たちに友好の証を示すために、少なくとも本当に取るに足らない
ような 品物を受け取ることだけは、拒絶しないでいただきたい。」と語る。奉行らは
外国人からの 贈り物を受け取れるのは通詞だけであり、許可を取るには江戸に問い合
わせる必要があり、そうなれば、また2ヶ月の時間がかかる。と言って執拗に同意を求
め、結局、その場の返事をレザノフは留保する。レザノフは、ロシア人が漂流して日本
に辿り着いた時の保護と、今後日本人の漂流民を どこに届ければいいのか、の回答を
要求し、2日目の会見は終わった。午後5時半であった。この日、レザノフ一行への扱
いは、とても丁重で、日本側では、実はロシアとの戦争が起こるのでは、との危惧が
つのっていたのである。それだけに、幕府の回答が理不尽だと思う人が多かったのだ。
レザノフ一行が、宿舎に戻ると警護兵たちは 結果を聞いて泣き出した。「幕府は一体
全体、なんということをしたのでしょう。私たちを、ロシアに連れていって下さい。ロ
シアだったら、ずっと幸せに暮らせることでしょう。」(317p)。これが歴史書には残
らない当時の日本人の感覚だったのである。長崎の町では、戦争が起こるとの噂が流れ
、港では番船の動きが活発になった。レザノフは火薬をすべて没収されていることから
戦闘しようがないことを 思い知り、密かに 一行が殺害されることにも考えが及び、
話し方にも気を使い、用心深くせねば、と思い始めて、この日は無事に終わるのである。

198 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:39:05.15 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 587  (漂流10年光太夫は生き残った)

 4月7日。3人の大通詞たちは、このような結果になることは予想もしていなかった。
検使が来て 初めて幕府の意向を知った、それは二人の奉行も同じだ、と、レザノフに
言う。レザノフの 長崎の町でお土産を購入したい、寺を見学したい、オランダ人とも
別れの挨拶をしたい、との願い出は、すべて幕府から拒否されたことを知らされる。又
うかつに異国人からモノを受け取ると死罪になる。という法の存在も知らされる事にな
った。4月8日。最後の会見が設定され、レザノフ等の心中を慮って(おもんばかって)
か、雨が降っているわけでもないのに、随員たちにも駕籠が用意された。奉行所では、
役人全員が 悲しげな表情であった。ロシア皇帝の、献上品が認められなかったことの
残念さと、今後寄港するロシア船の保護や、帰国するレザノフ一行の安全保障について
話が及び、再び レザノフは自分が日本語で話すと提案するが、通詞たちからはそれは
自分たちの仕事だと断られる。そして、最後に奉行肥田豊後守から、「思いもかけない
決定が下され、そして、ここで六ヶ月も、無為に過ごさしながら、お互い望んでいた様
な結果を得られなかったことに対して、私、およびほかの二名も、深く遺憾に思って
おります。ロシア人の安全をはかるため、どんな書面でも出したいのはやまやまなので
すが、厳しい法律のためそれはできません。」と言う。しかしこの先、日本沿岸での、
安全が図られるようお触れが出ます、というのだ。レザノフは、「彼らに日本語で謝辞
を述べた。友情の継続を確信しながら、私の側で働いてくれた高官たちや、他の役人達
に、彼らから受けた数多くの親切に対して、私から贈り物することを許してもらいたい
。さらに加えてもし彼らのために、何か記念品をここに置いていくことが出来なければ
、これは私にとって侮辱以外のなにものでもない。」と主張した。

199 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:41:51.58 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 588  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかしながら、それもねんごろに断られる。奉行肥田豊後守が「「ロシア人の善良な
心はよくわかります。私たちは、感謝の意を込めてこの気持ちを受け取りたく思います
。幕府からの許可なしで、このような贈り物を、頂戴するわげには いかないのです。
しかしながら、一般の役人たちに 贈り物することに関しては、許可しましょう。法律
で受け取ることが 認められている通訳たちには、なにかささいな品物を置いていって
下さい。しかしながら これは、あなたの優しいお心に 応えるためだけに特別に許さ
れることです。わが国では、通訳だけが、唯一外国人から贈り物を 受け取れる資格を
持った役人なのです。」と、事情を話すのである。こうして お世話になった人々への
お礼も受け取らない結末となる。「長崎犯科帳」(森永種夫)には、庶民の犯す犯罪に
対して、奉行の判決には 人情溢れる例が多いが、異国が関わる案件になると恐ろしく
硬直した、法治主義前例主義を 幕府が一歩も譲らないことの多さに、驚かざるを得な
い。一方で、ロシア人の世話になった人への、贈り物へのこだわりも これまたとても
強く、帝政ロシアの人々の、人付き合いが、日本人に非常に近いとも感じるのである。
これは 恐らく共産国家になって失われた信条ではないか、と思われる。日本に対して
用のなくなった(というより、皇帝から授かった任務を拒否された)レザノフは帰国の
準備を急ぎ始める。その、レザノフに警護兵たちが「巷の、民衆の聞では不満が広がり
、長崎の住民、特に商人たちや職人たちは、とても不満を感じているという。そして京
(みやこ)からたくさんの商人たちが、貿易しようという思惑を抱いて ここに集まっ
ているとのことだ。また奉行たちや、大名も今回の幕府の決定には、まったく満足して
いなかった。」(326p)という話をするのだ。これまた歴史書には全く残っていない話
である。

200 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:42:14.65 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 589  (漂流10年光太夫は生き残った)

 1804(文化元)年の9月の来航以来、船から降りる許可をもらうのに2ヶ月もの時間
を要した。その上、長崎の地を踏んだ後も丁重にもてなしてはくれるものの、常に厳重
な監視を受けることになっていた。レザノフは、自分の置かれた状況を「名誉ある捕虜
」と皮肉を込めて言っている。江戸幕府がこの皇帝使者だったレザノフを厄介者扱いし
たのは、誰の目にも明らかで時の老中だった。おまけに、翌年(1805年)3月まで軟禁
状態が解かれる事無く、待たされた挙句に、江戸幕府の回答は「通商交渉の余地なし。
むしろ、もう日本に来るな。早くロシアに帰れ!」という非情な内容であったのである
。それに加え、帰りの装備や、食料も十分に補給できないまま、レザノフは長崎からの
出港を強いられている。レザノフは「失望」と「憤怒」の中、こんなことを思いながら
日本を離れた。とりあえずレザノフ一行は、世界旅行の拠点として、1805年4月、長崎
を出港した後は、自身の統治するカムチャッカに戻って思案する。そして、幕府の対応
に不満をつのらせたレザノフは、部下のニコライ・フヴォストフに命令をして1806年に
樺太(からふと)、1807年に択捉島(えとろふとう)の襲撃に出たのであった。特に択捉島
のシャナという地域は、銃撃戦の戦場となっている。最新のロシアの武器の前に、日本
の武士たちは、全く歯が立たず撤退を余儀なくされ、シャナはロシア兵によって徹底的
に略奪されました。シャナには、間宮海峡を発見したことで有名な間宮林蔵の姿もあっ
た。ロシア兵に敗れはしたものの、間宮林蔵はこの時に目覚ましい活躍をしたと言われ
ている。しかし、このロシアの攻撃は、ロシア皇帝アレクサンデル1世に無断で行われ
たものであり、事後に樺太・択捉島の襲撃を知ったアレクサンデル1世は、これには、
多いに不快感を示し、戦闘の中止を命令している。そこで、ロシアの襲撃は終わりを遂
げた。

201 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:42:44.86 ID:g9tLESoP4
 新ジャパン レボリューション。 590  (漂流10年光太夫は生き残った)

 しかしながら、江戸幕府からすれば、本土への攻撃ではなかったものの、不幸中の幸
いだったと言う感は拭えなった。というか、レザノフは意図的に、北方の国境の曖昧な
樺太・択捉島を狙ったのだろう。と言われれる。こうして、江戸幕府はレザノフの来航
を通じて起こる一連の騒動に、「通商を拒み続ければ、他国と戦闘になることもある。
国防を強化しなければならない。」と、普通の想いを考えるようになり、大きく2つの
政策を実施しました。1792年にラクスマンが蝦夷地(北海道)の根室にやってきた頃か
ら、江戸幕府は北海道にはロシアに強い警戒感を持っていた。1799年、蝦夷地の東側を
幕府の直轄領としていましたが、レザノフの一件により、幕府は蝦夷地すべてを幕府の
直轄領とすることを決定したのである。そして、蝦夷地の管理やロシア対策をする組織
として松前奉行(まつまえぶぎょう)を設置した。松前奉行は東北諸藩(津軽藩、南部
藩、仙台藩など)の協力も得て、蝦夷地の防衛力強化に全力を注ぎました。さらに既に
当時は、樺太の南部には松前藩の影響が及んでいましたが、樺太北部には謎に包まれた
未踏の世界であった。そこで幕府は、1808年に樺太に調査団を派遣することにします。
樺太は、ロシアと蝦夷地の間にある国防上とても大事な場所です。それにもかかわらず
、樺太は厳しい自然のため、調査すら困難で、謎の包まれた未開地である。江戸幕府は
、ロシアよりもはやく樺太の全容を把握し、あわよくば樺太を日本の支配下に置こうと
考えた。ラクスマンが来航した時も、実はこれと似たようなことが択捉島で起きている
。というのも、日本とロシアの勢力の中間に位置していた択捉島で、江戸幕府は、ここ
に最上徳内と近藤重蔵を送り込んで、「大日本恵登呂府」の標柱を立てていた。要する
に、「ロシアに取られる前に択捉島は日本の支配下」と考えていたからだ。

・・・・・・おわり。

202 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:44:36.52 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・01

 今回の、幕府が命じた樺太の調査でも、これと同じことが行われた。この大任を任さ
れたのは先ほど少しだけ登場した間宮林蔵であった。間宮林蔵は、1799年に伊能忠敬の
測量技術を学んだ秀才でおり、1803年には蝦夷地の測量も実施した。おまけにアイヌの
事情にも詳しいため、樺太探索にはうってつけの人物でした。厳しい寒さと生茂る木々
によって探索は困難を極めますが、間宮林蔵はその困難を乗り越え、樺太を踏破する。
当時、世界中で「樺太は島なのか?大陸の一部なのか?」が議論になっていましたが、
間宮林蔵は「樺太は島である。」とはっきりと証明した最初の人物になった。間宮林蔵
の樺太踏破によって、世界から未開の地が1つ無くなり、世界地図に新たに樺太が書き
加えられることになりました。そして、その偉業を称するため大陸と樺太の間の海峡は
間宮海峡と世界的にも名付けられている。間宮林蔵が、幕府のロシア対策のために樺太
探索を開始したのと同じ1808年、次は、長崎にイギリスのフェートン号という軍艦がや
ってきてトラブルを起こしていた。これがフェートン号事件である。欧米の列強各国の
アジア進出は、当然ながら日本にも影響を与えるようになり、江戸幕府は時代に合わせ
た大きな変革を迫られるようになります。そうして、この時代のうねりが幕末の動乱に
つながっている。フェートン号事件については、このジャパン レボリューションに、
主軸の物語として書いているので、前述の通りであった。加えて重ね書きすれば、英国
の私掠船を襲っていた海賊を、スペイン艦隊の襲撃に備えて、海軍として議会が雇って
アルマダ海戦をし、停泊していたスペイン無敵艦隊を昔ながらの夜の襲撃火矢で焼失さ
せて勝って、これまでの雇われていた 商船海軍と海賊海軍の流れが英国海軍に出来て
いて、二重の提督艦隊が出来ていたころだった。

203 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:45:44.59 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・02

 インドへの出発が遅れた ドーニ(Drury)将軍は、バーノル(Bertie)将軍との対立
もそのままに、エドワード・ペリュー提督の任務を引き継ぐべくして、インドへやって
来たのだが、エドワード・ペリュー提督は彼の着任が遅れたので、カルカッタ経由での
マレー半島のペナンへ向かい、そこで ドーニ(Drury)との任務を引き継ぐことになっ
ていた。ここでこの物語のマラッカまでで記しているようにフリートウッド・ペリュー
率いるフェートン号は7月の末には、マラッカにいた。しかし、エドワード・ペリュー
提督の行動上、ここでは、飛んで10月以降のフェートン号事件(フェートンごうじけん
)は、文化5年8月(西暦1808年10月)の起こったその頃から始める。例の如く、鎖国
体制下の日本の長崎港出島で起きた、イギリス軍艦侵入事件で、被害も微々たるもので
あったが、幕藩体制には大きく響いた。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が、
ここ極東の日本にまで、及んだものである。とされる事件である。カローデン艦隊の乗
艦は、インド艦隊の旗艦のカローデン(Culloden)は、砲74門も搭載した、堂々たる
戦列艦であった。艦隊同士の決戦用に設計された砲70門から120門を備えた、巨大
戦艦の一つである。艦長はあのフリゲート艦フランシス・ドレーク卿の船長代理になり
戦績を残したパウノール・ペリュ(Pownoll Pellew)であった。ペリュー提督の、若き
長男である。この時22歳。戦列艦を率いるには、いかにも若いがただ、このあと翌年3
月カローデン(Culloden)がインドからの船団を率いて帰国の途上ハリケーンに遭遇し
て船団もカローデンも大被害を被った。この際の航海日誌には“パウノール(Pownoll)
艦長と、船長(the master)が操船指揮”(Storm and Conquest)とあることから 老練
な船長( master)masterは王国海軍(Royal Navy)誕生以前の船長の称号を持つ身で、
あったようだ。

204 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:46:33.21 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・03

 英国の国王海軍(Royal Navy)が 成長するにつれ、艦長(キャプテン:Captain)の
呼称は、戦闘指揮を行う海軍艦艇指揮者を指すようになっていく。このカローデン号(
Culloden)の場合は、master=航海長という感じだろうか。カローデン号には、パウノ
ール船長の新妻であるエルザも乗艦していた。この事実と言い、かつてのエドワード・
ペリューが若き頃乗艦していたジュノー号(Juno)でのストック(Stott)艦長が、情婦を
乗艦させていた事件と言い、日本海軍しか知らない日本人には実に不思議というしかな
い光景であろう。が、それはともあれ、父と長男は10月24日にBengalへ向かって出航、
風向きのせいで3週間かけてカルカッタへ到着、ここで2週間にわたって、インド総督
と離任の宴を繰り広げた。12月6日、後任のドーニィー(Drury)が待つ マレー半島の
ペナンへ向かった。ドーニィー(Drury)とともに待っていたのは、日本遠征を終えた帰
港に向かったフリートウッド・ペリュー、フェートン号の艦長である。再び言うがこの
物語はマラッカにいるフェートン号の5ヶ月後の姿であった。父と次男フリートウッド
・ペリューは、7月9日のフェートン号マドラス出航以来半年ぶりの再会の筈だったが、
スチーブンタイラー(Stephen Taylor)の “Storm and Conquest”には、何のコメント
も無い。”Storm and Conquest”はエドワード・ペリュー提督を軸に、インドとインド
洋を舞台にしたドキュメント大作であるがにもかかわらず、である。これは次男フリー
トウッド・ペリューに日本遠征を命じたエドワード・ペリュー提督の真意に関わってく
るので、後に詳細に論じたい。この時、長男パウノールの新妻エリザとフリートウッド
・ペリューは初めて会ったのだが、エリザは、自分の夫の弟を見て一目惚れしたようだ
。フリートウッド・ペリューはハンサムぶりに傾倒したのはエリザだけではなかった。
この年のイギリス本国へ向かう 船団の一つに乗船していた ある夫人は『これほど美
しい男性を見たことはない』と驚嘆したと日記に書き記している(Storm and Conquest)

205 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:47:23.98 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・04

 この本からは、エリザがうっとりしたのは間違いないようだ。ペナンでは、それがど
う発展したのかは何らわからない。やがてカローデン号は、インドからイギリス本国へ
向かう第2船団を護衛するために、セイロンへ向かい、翌1809年2月セイロンのゴール
で船団と合流することになる。ペリュー親子がマドラスを出航した2日後の10月26日、
インド洋を西へ向かって吹く貿易風の シーズン到来を待ち望んでいた東インド会社の
第1船団9隻がフリゲート艦あるアルバーン(Albion)に護衛されてケープタウンへ向
け出航した。各船800トンから500トンの積載量だがそれぞれ船腹一杯の硝石を積載して
いる。当時は、ポルトガルでナポレオン軍と戦っている英陸軍の火薬補給が必要だった
ためだ。過積載に近いために、全くノロノロと進むこの第1船団はマダガスカル沖での
、発生するハリケーンの只中に突入して大被害を被ることになる。第2船団はそれから
数か月後にもかかわらず、ハリケーンシーズンはまだ真っ盛りでエドワード・ペリュー
提督のカローデン(Culloden)も辛うじてケープタウンへ到着したが、第1船団9隻、
第2船団18隻のうち大半が 遭難して沈没するという事態になった。英軍の兵卒から
インド随一の富豪と言われるほど成功したナビヴ(Nabob)の第一人者ウィリアムホップ
(William Hope)もまた、本国へ持ち帰る莫大な財宝とともに海の藻屑と消えたのであ
る。なお現在はインド洋ではサイクロン、太平洋ではタイフーン、カリブ海ではハリケ
ーンと呼び方が変わるが、この当時はすべてハリケーンと呼んでいた。

206 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:50:58.98 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・05

 この後、ペナンに残ったフリートウッド・ペリューは、父の後任のドゥルーリー提督
とともにフランス艦の捜索任務にあたったが、ドゥルーリーの、フリートウッド・ペリ
ュー評は、実に辛辣で、『命令を受けるということの認識や 理解が極めて乏しい。』
と酷評していて、暗に父エドワード・ペリュー提督の甘やかしと、えこひいきによって
早すぎていた昇進を批判している。このドゥルーリーは 先述したがケープタウンを、
イギリスがオランダから奪い取った後のケープタウン海軍基地の司令官となったBertie
提督との、共同司令官を海軍省(Admiralty)が発令したため、DruryとBertieとは激し
く憎みあい、お互い一歩も譲らず軍法会議に提訴しあうほど対立したのである。この当
時の海軍省もしくは海軍本部は、このような共同司令官を発令するという奇妙な軍政が
数多く見うけられる。同じことが実はエドワード・ペリュー提督にも起こっていたのだ
。1804年インド艦隊の司令長官に就任したエドワード・ペリュー提督の後を追っての、
トラウブリッジ(Tourbridge)提督が、同じ職位に発令された事があった。エドワード
・ペリュー提督は憤激し、『こういう(自分の)名誉を汚すことがお行われるのなら(
自分は)本国へ帰国してフリゲート艦の艦長になる』との強硬な文書を海軍本部送った
ので、Tourbridge提督の、職務重複はのちに解消されている。このことでエドワード・
ペリュー提督とTourbridge提督の間柄も終生の敵同士となる。このような 重複人事の
発生は海軍省内の派閥によるものらしいが現時点では筆者には詳しいことは分かってい
ない。いかにも発展途上の海軍らしい出来事である。それにしてもDrury vs Bertie の
提督対立、エドワード・ペリュー提督 vs Tourbridge提督の対立と憎悪の激しさは、ど
うしたものだろう。

207 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:51:23.00 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・06

 フリートウッド・ペリューの略歴は、後のエクスマス子爵のエドワード・ペリューの
息子とされている。フランス革命戦争とナポレオン戦争に従軍し、父ペリューは、海軍
での自分の影響力を利用して、年長の息子2人に軍人としての地位を約束した。という
。フリートウッドは17歳で初めて任務についたが、任務を勇ましく、大胆にこなし、父
から称賛された。フリートウッドの軍歴は、フリゲート艦フェートンの指揮官として、
長崎港で起こした一時的な紛争(フェートン号事件)にとどめを刺す。この紛争により
、日英関係がより重要なつながりを持つようになった。フリートウッドを溺愛する父の
ペリューは、彼が短期間で出世できるように後押しをしたが、このためフリートウッド
の指揮官としての任務は緻密さを欠くようになり、その後の挫折へとつながることにな
った。1814年にはフリートウッドに対する水兵の反乱事件が起こり、1818年に指揮官に
復帰したにもかかわらず、その後30年間、海上で指揮をまかされることはなかったのだ
。少将に昇進してから、インドと中国で総司令官として任務についたが、まもなく旗艦
で別の反乱が起こり、召喚された。その後海で指揮を執ることはなく、1861年に大将の
地位で死去した。「サー・エドワード・ペリュー」と呼ばれたフリートウッド・ペリュ
ーは、1789年12月13日に、エドワード・ペリューと妻スザンナ・フロウドとの間に第4
子、次男として生まれ、タイバートンのブランデルズ・スクールで短期間教育を受けた
。父エドワード・ペリューはフランス革命戦争とナポレオン戦争で昇進を重ねた。その
影響力を利用して、フリートウッドと兄のポウノルの海軍での地位を、世話した。フリ
ートウッドは父親の艦である74門艦インペテューズに、1799年3月、1799年、父エドワ
ードの74砲の軍艦HMS Impetueuxに乗り、士官候補生(midshipman)として参加した。

208 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:51:52.54 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・07

 1803年、軍艦 HMS Tonnantに乗る。8月27日ネルソン提督と合流し、フランス船の、
略奪を行う。1804年、父が東インド地区 総司令官(Commander-in-Chief,East Indies)
となり、軍艦カロデンHMS Cullodenに乗って東インドに向かう。1802年に結ばれたアミ
アンの和約が1803年に破棄され英仏の植民地への双方の攻撃が開始され、1804年のプロ
・オーラの戦いにおいて、イギリスと中国の貿易を守るための制海権を維持するのに、
東南アジア領地の確保する必要を実感したことにより、東インド地区へ重点が置かれた
。このための人事である。1804年9月8日、エドワードはセプター艦 HMS Terpsichore上
でフリートウッドを海尉に任命した。1806年、バタヴィアの襲撃(Attack on Batavia)
では、フリートウッドは軍艦 HMS Terpsichore、後に軍艦 HMS Culloden に戻り、バタ
ヴィア経路のオランダ貿易路の攻撃を仕掛けた。フリートウッドは間もなくカローデン
で帰国の途に就いた。1806年にこの艦で、バタビアに停泊していたオランダ軍への攻撃
を先導して、功績を立てたのである。父親のサー・エドワードは、イギリスにいる友人
のアレックス・ブロウトンにこういう手紙を送っている。息子は実にすばらしい判断で
戦隊を率いた…自分の艦を敵のフリゲート艦にも砲台にも 対等に うまく配置して、
敵艦乗り込みのためボートに移った…確かに、今まで見たこともない偉業だった。君は
言うだろう、わかったよ、君は父親だからね。でも言っておく。他の者たちが、彼に、
ついてどう評しているか、その半分も話していないことを。カローデン艦上で 大きな
歓声が湧き上がった時、胸がいっぱいになった。よくやった、フリートウッド、よくや
った。すばらしい。私がやったことは周囲と共に叫ぶことだった。どうして父親が涙を
流さずにいられるだろうか?私は望遠鏡をのぞきこむ前に、再び両眼を拭わざるを得な
かった。

209 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:52:24.23 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・08

 1807年、サー・エドワードはフリートウッドに、スループ艦ラトルスネークの指揮官
を任じた。この時フリートウッドはわずか17歳だった。フリゲート艦タープシコールで
任務につき、その後はサイケに移った。軍艦 HMS Psyche において、おそらくグリーシ
ーの襲撃(Raid on Griessie)に参加している。イギリスが東南アジアにおいて、オラ
ンダに対しての勝利が決定的になる兆しとなった。このころサー・エドワードはフリー
トウッドを、このように書き記している。「戦隊の中でもたとえようもないほどすばら
しい青年である、皆から愛されている」「真の宝である」「一群(フロック)の花であ
り、艦隊(フリート)の華でもある。」と1807年10月12日、フリートウッドは父により
指揮官の地位を承認され、74門艦パワフルの指揮官代理となる。1808年にはコーンウォ
リスを指揮した。軍艦 HMS Cornwallis(1805年にエドワードが発注)に乗り、父エドワ
ードが主導で、デンマークとイギリスが衝突を起こした情報を耳にして、デンマークが
インドに最初に交易所を設けたトランゲバーの基地を敏速に襲撃した。この頃から東南
アジアは制圧気味になり、フランス領が多いインド洋諸国にベクトルが向いて行った。
その年の7月には38門艦フェートンに配属された。この年の10月、フリートウッドは、
長崎に投錨し、そこでオランダ人士官を何人か捕虜にして物資を要求するという事件を
起こしたが、短期間でけりがついた。日本が抵抗するのは不可能であったため、物資が
フェートンに届けられた。オランダが委託してアメリカ船において出島で貿易をしてい
るという情報を聞いてか、フェートン号はアメリカ船を装いオランダ国旗を掲げて入港
している。ただし、日蘭貿易の時期と少しづれていたため、オランダが委託したアメリ
カ船は見つけることができなかった。またこの事件はオランダ商館長ドゥーフが関わっ
ている。

210 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:52:49.80 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・09

 1808年10月には勅任艦長に昇進し、1810年のアイズル・ド・フランスの侵入と1811年
のジャワ侵入に立ち会った。1812年8月、フリートウッドは フェートンで、イースト・
インディアマンの船団を護送しつつ帰国した。この任務でフリートウッドは 500ギニー
の贈り物と東インド会社からの謝礼を受け取った。その後フリートウッド・ペリューは
、36門艦イフィゲニア(英語版)の指揮官となって地中海へ向かった。1813年1月に、
46門艦レジスタンスの指揮官となって、その年の10月の攻撃に参加し、ポルトダンソの
砲台を静まらせ、逃げ出した29隻の護送商船団を拿捕した。しかし、1814年2月には、
レジスタンスに、帰国命令が出た。このため反乱がおこり、鎮圧されたものの、何人か
の水兵が死刑になり、または鞭打ちにされた。この一連の反乱行為は、厳密な法解釈に
よって無効となったが、フリートウッドの苛烈な性格により、水兵が反乱を起こしたの
だと広く噂された。これが、ペリューの軍人生活の挫折の発端となった。1815年6月に
バス勲章を受け、引き続き地中海でレヴォリューショネアを1818年8月〜1822年6月まで
指揮したものの、以後は艦上で指揮を執ることはなく、その後30年間は半給生活を送っ
た。1850年代の香港(ヴィクトリア・ウエスト)時代は、ペリューはその後も昇進を受
け、先任序列に応じて勲章を授与された。1836年1月にはナイト爵となり、グールフィ
ック勲章を受けた。ヴィクトリア女王の海軍補佐官となり、1846年11月09日には少将に
昇進した。そして1852年12月にはついにインドおよび中国艦隊最高指揮官として、指揮
官復帰を果たした。この就任は波紋を呼んだ。ペリューの年齢と過去の背景、不安定な
気候と第二次英緬戦争後の緊張した外交状況を考えると、彼を就任させることが適切で
あるかということが、疑問と共に大きな話題となった。

211 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/04(木) 03:53:18.80 ID:g9tLESoP4
   追記・・・・・・・・・・10

 1853年4月、ペリューは自分の旗をウィンチェスターに掲げ、1854年9月には香港沖
にいた。ペリューはここで、熱病と感染症が蔓延する危険な時期が過ぎるまでは、乗員
たちに、上陸許可を出さないことに決めた。とされるが、その理由を水兵たちに知らせ
るのを怠った。乗員は明らかに反抗的になっており、そのために、ペリューは、乗員を
戦闘配置に着かせた。彼らが拒否したため、下部甲板で士官たちに剣を突きつけさせて
脅した。水兵の何人かが負傷し、初期段階の反乱は鎮圧された。このことに関する知ら
せは、本国にはわずかにしか伝えられなかった。ザ・タイムズは、主な記事としてこの
反乱を書き立て、人々の注目を惹いた。この新聞はかつてのレジスタンスの反乱のこと
も書いていた。ペリューは海軍本部から正式に召喚され、2度と海で任務に就くことは
なかった。1853年4月22日は中将に、1858年2月13日には大将に昇進した。サー・フリー
トウッド・ペリューは、1861年07月28日に、71歳でマルセイユで死去する。1816年に、
サー・ゴドフリー・ウェブスターとレディ・ホランドの娘ハリエット・ウェブスターと
結婚し、一人娘が生まれた。1849年にハリエットが亡くなり、セシル・ドラムンド・ド
・メルフォールと1851年に再婚した。しかし1859年に離婚した[8] ペリューはフィレン
ツェの「イギリス人用」墓地に、最初の妻ヘンリエットと共に埋葬された。


・・・・・本当の終わりです。次は、ジャパン レボリューション(2)

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