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ゲヘ〜〜〜

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:08:26.39 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・19

 真珠湾攻撃後、ドイツの陸海空軍はITTと契約を結び、その結果、ITTはドイツ
軍向けに、電話交換機・電話機・警報機・ブイ・空襲警報装置・レーダー装置を製造し
輸出し売り込んだ。また、ITTは、砲弾用の導火線をドイツ軍向けに月間3万本製造
した。更にITTは、ドイツ軍向け砲弾用導火線を1 944年までに月間5万本製造する
。又、ITTは、ロンドンを空襲する為の ロケットの原材料・乾式整流器用の、セレ
ン光電池・高周波無線装置・要塞および、野戦用の通信セットをドイツ軍に供給した。
これに、作家チャールズハイアムは次のように述べる。「この戦略上非常に重要な資材
がなかったならば、ドイツ空軍は、アメリカ軍とイギリス軍の将兵を殺傷できなかった
だろうし、ドイツ陸軍は、アフリカ・イタリア・フランス・ドイツで連合軍と戦うこと
が出来なかっただろう。また、イギリスは空爆されなかっただろうし、連合国の艦船が
海上で攻撃を受けることもなかっただろう。ITTとその関連企業の助けがなければ、
ドイツ海軍の、レーダー提督がパナマから南方の国々を猛攻撃しようと計画したときに
、ドイツ側が中南米の国々にこの計画を連絡することができなかったはずである。」と
。ところが、これらは、逆である。ITTの前身テレフォニカ・スペインはスペインの
企業で、ドイツでの最新式試験所で数々の発見と特許を取っているのだ。ドイツでの、
子会社のC. Lorenz AGを通して、ルフトヴァッフェの戦闘機生産にもかかわり企業拡大
した。1930年にソスシーンズは、AEGと合弁し、スタンダード・エレクトリック・ゲ
ゼルシャフト(SEG)を設立し、更にローレンツ社を フィリップスから買収してドイツ
での本格的な事業展開に乗り出した。その後ナチスドイツ下で大きくなったが、傘下の
フォッケ・ヴルフや自社の生産設備を通じ、ナチス・ドイツの軍用機材や原料を供給。
中立国から、ナチス・ドイツへの情報提供を請け負い一方でフランスから亡命の技術者
を雇用し、連合国向けに防空システムを開発するなど、ソスシーンズは第二次世界大戦
を通じて連合国側と枢軸国側双方に対してビジネスをやり続けたきぎょうである。ただ
これに接触出来なかったのが日本であった。

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:09:11.02 ID:SPuip9NMG
 ITTのベーン会長は当時には、アメリカ軍の大佐でもあっが、こうした活動は米国
への裏切りというレッテルを貼られても、おかしくなかった。なのに、連合軍によって
フランスが解放された1944年の時点でまで、彼は、アメリカのヒーローとして褒め讃え
られて、英雄であったのだ。ITTとは、 日本語では、国際電話電信会社と翻訳され
た。しかし、これは、「ITT International Telephone & Telegraph Inc.」と、「ITT
 Corporation 」のアメリカ合衆国の元ITT (企業)やその後継会社の一つであるITT Inc
。を示すが、しかし 「International Telephone & Telegraph 」は「国際電信電話」
と言うクラブだったのである。ITTの前身テレフォニカ・スペインは、1924年に設立
された。1924年と言えば、先人の昭和の、裕仁天皇の御成婚のセレモニーの頃である。
混乱後のソ連が建国宣言し、ペトログラードをレニングラードに改称し、英国や仏国が
或いはイタリアが、立て続けに食糧輸入の確保の為に、ソビエト政権を承認していった
。第一次世界大戦の痛みも、ドイツ〜ソ連の境界決定も有耶無耶に東欧各国が自治独立
の頃だったのである。実はスペイン人というのは、ローマ帝国に追われたフェニキア人
やケルト人の末裔とされている。つまり住民の大部分は、ヨーロッパの他の地域におい
て、戦士エリートに保護されながら逃げ伸びてきた住民で、小規模な放牧地を管理する
現地で「カストロ=丘の砦」にいる「カストリオ=丘の住民」を中心とした牛飼い的な
放牧生活者だった。彼らの石の円形集落は、ローマ時代まで生き残った。イベリア半島
の北を横断し、ポルトガル北部、アストゥリアス、ガリシアからカンタブリア、レオン
北部を経てエブロ川に至るまで、イベリアにおけるケルト人の存在は、おそらく紀元前
6世紀にまで遡り、カストロは石の壁と保護溝によって新たな永続性を証明した。この
古臭い国は、一時的にではあるが、キリスト教国で、マリアに守られた国とされ、世界
を席巻した海洋船団のいた国だったのである。

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:11:45.84 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・21

イベリア半島北西部は青銅器時代の終わり(紀元前9世紀頃)から、ローマ帝国に包摂
される(紀元前1世紀頃)までのそれは、ケルトの部族グループであるガラエキア人、
およびアスチュール人と思われている。しかし、ローマが建立されると、バチカン認可
の忠実な下僕の国であった。ところが地政学的にも地中海貿易に於いて、イスラム教国
との対立の矢面に立たせられ、レコンキスタが成功するまで、ムスリムの国として君臨
していた。ところがレコンキスタ後に根付いたいたイスラム科学は。医療と建築に多大
な貢献をした。そしてそのまま、大聖堂から大船作りに転じて、大海にいち早く漕ぎ出
す。こうして世界中の富をかっさらって、自国に持ち寄る事が出来た。しかしながら、
アルフォンソ13世が、第一次世界大戦が始まる前年の1913年に、パリを訪問した頃は、
既に産業革命のイギリスに叩かれ、そのイギリスも、公国の集まりのドイツでは、最新
技術の科学者が集う国に発展し、欧州のパン籠をもつ東欧を、ロシアと共に取り合いを
していたのである。フランスでは民主議会を引いた第二共和制のナポレオンも退位して
フランス第三共和政の、レイモン・ポアンカレ大統領が内政を司っていた。したがって
この頃はベルギーやドイツとフランスの間にかつてあった「フランドル=ブルゴーニュ
」という国家後の紛争に傍観していた。これは、仏独の両国の共通の危険・脅威ととも
に、843年の 土地憲章の復活を意味した。このことによって長らく忘れていた過去の絆
を思い出させ、常に経済発展の首位につく場所となっていた。16世紀の仏独関係は、フ
ランス王フランソワ一世と、カルロス一世が1515年にドイツ皇帝をめぐって争っている
。皇帝権争いの末カルロス一世が、カール5世として即位する。カール5世は「ハプス
ブルク家」の伝統と格式をもって、フランソワ一世・アンリ2世のヴァロワ家と覇権争
いに終始した。まあ北部は発展し政府以上の金持ち、南部はベルベル人の襲撃。そんな
国だった

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:14:41.97 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・22

 16世紀の前半の両家間で激しい戦いは、後半においてのカトリックとプロテスタント
の宗教戦争へと変わった。特にフランスはプロテスタント側がユグノー党を結成して、
民主化の為にドイツ人と連携しようとした。1555年のアウクスブルクの宗教和議で平和
がもたらされていたドイツは、平和にあってそれほど積極的に関わろうとはしません。
でした。そうして17世紀の世界がやって来た。この時代において遂に30年戦争が起きる
。この戦争はフランスに、スペインに宣戦布告するもので。同時にドイツとも戦端が開
かれたものだった。30年戦争は、ハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争が、
ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立となり、オランダとスイスが独立
し、ドイツ諸侯の独立性の強化もされ、神聖ローマ皇帝が名目上の象徴的存在に変わり
、ハプスブルク家が大打撃を受け、沈んで行く結果を起した。最終的にドイツは大敗北
し、1648年にウェストファーレン条約が結ばれて、フランスはドイツから「アルザス=
ロレーヌ地方の大半」を獲得した。「アルザス」は、神聖ローマ帝国成立以降 700年間
ドイツに帰属していた尤もドイツのゲルマン魂の根源だった。ウェストファリア条約を
通じてドイツの手を離れ、フランス王国の懐に入って、以降アルザスは仏独紛争の元と
なりつづけることになった。この条約締結後、ドイツ帝国は弱体化する一方で絶対王政
を基礎として近代国民国家形成に向かうフランスやイギリスが、再び台頭するようにな
った。「ドイツ帝国」は、無力化と帝国都市・聖俗諸侯の権威向上、つまり、ドイツと
いう国が、帝国・領邦国家の二元構造になってしまった。この状態で、国としての意思
決定は、なかなかなされなかった。国としてのまとまりが保てなかったのだ。そこに、
付けこんで現れたのが、税金を払わないユダヤ人達だったのだ。だから境界は栄えた。

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:15:36.07 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・23

 この政治的に不安定になったドイツの弱みをついて、自国の利益のために利用しよう
としたのがフランスの「ルイ14世」であるルイ14世は、シャルルマーニュの、正統なる
後裔を自称して、かつてのカロリング帝国の再興を目指す。国境修復・領土拡張政策を
裁判システムで、都合よく行おうとした。フィリップ4世とは違って、彼は武力行使を
、躊躇することはなく、何処でも何処とでも叩いた。その象徴としてスペイン継承戦争
で、スペイン王の継承をめぐって フランスとドイツが戦っている。この戦争において
ドイツ側として戦った武将に、非常に印象深い人物、プリンツ・オイゲンというフラン
ス人がいる。当初はルイ14世の下にいた従者だったが、不興を買ってしまいレオポルト
帝(ドイツ皇帝)のもとに逃げた。最終的にこのスペイン継承戦争はユトレヒト条約と
ラシュタットの和約が結ばれて終結した。しかしルイ14世の時代においてフランス文化
の風習は、かなりがドイツへの流入した。フランスのユグノー達が、ドイツへ亡命して
きたことによる。彼らは16世紀後半の宗教戦争以降、ドイツへ流れてきていましたが、
リシュリュー・ルイ14世の抑圧策により、その移動は、その後も加速した。こうした中
で、一部の反発はあったとはいえ、フランス語を話すことが上流階級にとってシックに
なることすらあった。この流行は、18世紀も続いた。フランスは、18世紀初めルイ14世
が亡くなり、ドイツではプロイセンが台頭し1701年に王国成立させた。18世紀において
は、仏独間で目立った争いはなく、むしろ他の争いに巻き込まれていく。将来のドイツ
にとって重要な意味をもつこととなった仏独間での争いは7年戦争である。七年戦争中
、時のプロイセン王フリードリヒ2世は、ロスバッハにて帝国軍とフランス軍を破った
。これがドイツ人にとって新たな国民精神を示す契機となった。ルイ14世の威光で、国
民の劣等感が吹き飛び、ナショナリズムが登場した。これにより、ドイツ人の間では、
「プロイセン王によるドイツ統一」という思いが生まれた。と言われる

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:20:21.65 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・24

 先ほど触れたフリードリヒ2世は、極めてフランスかぶれであった。と言われている
。彼はフランス語を重用し、フランス出身のヴォルテールやディドロと積極的交流した
。さらに、ポツダムに「サン・スーシ宮殿」を建設した。サン・スーシというのは「憂
いなし」を意味するフランス語である。即ち「心配無用」なのである。日本で藤原道長
の心境といった処だろうか。しかし、18世紀末フランスのフランス革命では再び民衆の
熱狂的革命に至る。この革命は、当初、国内のみでとどまるものと思われた。しかし、
ヴァレンヌ逃亡事件を通じて、国際化=ヨーロッパ化した。フランス国王ルイ16世と、
王妃マリー・アントワネットの一家が、オーストリアへの逃亡を図り、東部国境に近い
ヴァレンヌで発見されてパリへと戻された亡命失敗事件である。これについて「王権の
反革命性を暴露した自滅行為で、国民の王家への不信や共和主義を高める結果となった
。」と述べられる。そもそもフランス革命の先行きを憂慮していた開明派貴族達、特に
立憲王政派のミラボーは、国王がパリを脱出し、急進的な首都パリの民衆の影響下であ
る国民議会を、解散し地方の支持を背景にして、国王の直接統治を行うべきである。と
進言するくらい、パリは混乱していたが、フランスそのものは豊かなままだった。が、
ルイ16世本人は、「王たるもの。国民から逃げ出すものではない。」と豪語して、頑と
して反対、実現しないでいた。そんなとこだった。十月行進以来、国王がその守護者と
なることを誓った貴族ラファイエットに、信頼を寄せていたことも一因であって、彼は
同じ上流貴族ミラボーの政敵でもあった。しかし革命の進展とともにラファイエットの
権力は、日増しに弱まって行き、約束が反故にされ、改革によって様々な王家の権限が
奪われていくことに国王は不満を強めていた。まあちょくちょく口出ししたので、部下
に任せても 失敗ばかりって言うのは、現代の中小企業でもかなりある話だ。任せても
違っていれば潰れるし、口を出したら間違えるし失敗するし。放蕩息子と同じに巧くは
行かない。ってのが通り相場だ。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:21:30.79 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・25

 しかし、1790年10月20日、大臣非難決議と新大臣任命に関するラファイエットの表裏
ある態度に、ルイ16世は激怒して、憲法に規定された自由任免権すら侵されたとして、
彼を見限って、思い切って反革命に転じることにしたのだった。国王はすぐに王党派で
あるパミエル・ダグー司教とルイ=シャルル=オーギュスト・ル・ブルトン男爵を呼び
寄せ、王の代理として諸外国と交渉する全権を密かに与えたのだ。12月27日、聖職者に
革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際に、不本意な国王は「こんな
有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがましだ。だが、もうじ
きこれも終わる。」と述べ、何らかの計画があることを暗に漏らしていた。といわれる
。この頃の政治が、貴族に任せて、議会の中の派閥争いに大きな革命が繋がっている事
が問題だ。実は時代が遅れて、イギリスでも同等な事が起こっている。そして英国では
「君臨すれども統治せず。」と言う先人訓をもって、これを王家の家訓としているのだ
。恐らくそうした方向に持っていくのに、時代は早くあって産業革命もなく、国家規模
も小さかったからであろう。実際に起こったのは、この事件をきっかけに危機感を強め
神聖ローマ皇帝とプロイセン王はピルニッツ宣言を行い、フランス君主制救済の、共同
行動要請をアピール。これが逆に革命派を刺激し、戦いが起きる。ヴァルミーの戦いで
フランスがオーストリア・プロイセン連合軍を破って以降、フランスの大陸制覇戦争へ
と変容しこうした戦いの連続においてドイツは惨憺たる状況になった。1795年のバーゼ
ル和約でプロイセンがフランスと単独講和、フランスはライン左岸を獲得。1790年代に
なると、ナポレオンが頭角をみせ、対してドイツ軍は敗北を重ねていった。また、この
フランスの介入で ドイツにおける伝統的な領邦国家体制が大変換され、南西ドイツの
弱小領邦がナポレオンによって優遇され、結果としてライン同盟が形成された。

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 04:25:13.49 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・26

 そして、とうとうドイツにとって節目となる1806年がやってきた。オットー大帝の、
ローマ皇帝戴冠(962)以来存続してきた神聖ローマ帝国が消滅した。消滅する以前に、
その領土の多くがナポレオンの支配下にはあったが。また、同年にライン同盟の成立や
、ナポレオンのベルリン入城などで、フランス優位は民衆によって遂げられていた。こ
のように、ドイツは1814年までナポレオン・フランスによって支配され、これはドイツ
人にとって「民族的恥辱」で、プロイセン王国ですらイェーナの戦いで敗北し、ティル
ジットの和約(1807)によって多くの領土を失い、さらには賠償金・軍備制限などが課
された。ナポレオンのあまりの専制・独裁ぶりによって、愛国主義的精神は昂揚して、
ドイツ一般に「プロイセンをつうじたドイツ」という気運が生まれた。ただ、その一方
でドイツにとってメリットとなったのが、国家と社会の近代化が挙げられたのであった
。このナポレオン支配もやがて終焉を迎える。ナポレオンの独裁ぶりに堪忍袋の尾が切
れたプロイセンは、ロシア・オーストリア・スウェーデンと同盟を組み、1813年のライ
プツィヒの戦いでフランスに勝利。また、バイエルンやバーデンが、フランス側の戦線
から離脱し、ライン同盟も瓦解。その後、第一次パリ条約(1814)でナポレオンは、エ
ルバ島へ配流。ブルボン朝が復活、仏独国境は1792年の境界に戻され、ウィーン体制が
確立。以降ドイツ連邦から北ドイツ連邦を経てドイツ帝国へ行く。片やフランスは王政
復古、共和政、第二帝政へと、仏独はそれぞれ別の道をたどる。そのプロセスにおいて
1870年までの仏独関係の争点となるのは、ライン左岸であった。実際に7月革命(1830
)後のルイ・フィリップによって、立憲王政に至ったのだが、矛先がお互いの方へ向い
た形で仏独双方において愛国主義が広がっていた。その対立の過程でライン国境は役割
を果たしていた。・・・しかしホント欧州ってのは偉い。この江戸以前の話がEU同盟
や、NATOの基本を作ってる。まあ日米同盟も似たようなものだけど。急がない発展
こそが 人類の一番の大事のようだ。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:26:59.26 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・27

 19世紀後半の仏独関係は、フランスは、1848年に二月革命が起き、これによって短命
の第二共和政が成立し、ナポレオン3世の元第二帝政へ移行。彼はクリミア戦争(1853
)に勝利し、帝国の威信を高め、イタリア戦役(1859)でも勝利、フランスの威光を高
めた。ここで留意すべきは、フランスがニースとサヴォイアを併合したことで、かつて
の、自然国境説が、頭に浮かび、次はライン沿岸を攻めるのではないか、という不安を
ドイツ世論が沸騰した事だ。またナポレオン3世の威信が拡大したことで、ドイツの、
資本主義的発展と近代的統一を図るプロイセンにとって、外圧をもたらしうるフランス
が、大障害に思えたのだ。また、ビスマルク(プロイセン)は北ドイツ連邦(プロイセ
ン)と反プロイセン感情をもつ南ドイツ諸国を統合してドイツ統一を完成させよう。と
躍起になっていたが、そのために必要な、ドイツ民族意識のアイデンティの醸成のため
に、外圧であるフランスの脅威を利用できないものか、と考えていた。ここで本題の、
フランスとの間での、スペイン王位継承問題がおこり、これが火種となって普仏戦争が
起こった。結果としてはプロイセン軍が圧勝した、同時にプロイセンは南ドイツととも
に、共同で戦争を行なった。ということで、ドイツ国内が統合された事である。その後
フランクフルト条約が結ばれたのですが、これはアルザス=ロレーヌ地方のドイツへの
移譲や、50億フランの支払いなどが含まれて、フランスにとっては過酷な内容で終わっ
た。さらに、普仏戦争で、ともに戦ったプロイセンと南ドイツ諸国はドイツ帝国の成立
を宣言し、統一国家を作ったが、この宣言が、屈辱的になんとヴェルサイユ宮殿で行わ
れたのである。この仕打ちを受けたフランスが、ドイツへ大きな恨みをもつようになっ
たのはいうまでもありません。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:27:22.57 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・28

 普仏戦争から第一次世界大戦までの両国関係は、普仏戦争の終了後のフランスの対外
政策の目標が、「ドイツに対する復讐」であったようだ。また、ドイツ側も認識してい
て、ビスマルクの、ウィーン駐在ドイツ大使ハインリヒ・ルイスへの言葉は「我々は、
フランスとの戦争をかなり切迫したものと考えている、」と話し、1895年 6月18日の、
ドイツの駐英大使ハッツフェルトが、本国外務省のホルシュタインにあてた電報でも、
「このヨーロッパ中での 重大な危機の際には、いつでも、とくに我国と フランスの
あいだに 紛争が切迫するようなことがある場合は、とくに留意すべしと思われる。」
の言葉などがのこっていたりする。つまり平和を装う中でも、両国関係はあまり良くな
かったのだ。政治的な側面では、明らかな対立が存在していたが、経済の面では平和的
な共同が行われていた。例えば、ベンツやダイムラーは1880年代にフランス人同業者と
提携しており、またシュネーデルが設立したアルジェリアの鉄鉱山開発会社にはクルッ
プやティッセンが資本参加している。この部分的な平和関係を破綻させた、1905〜06年
と1911年の、二度のモロッコ対立でのモロッコ事件である。以前から帝国主義の展開と
ともに、両国が対立すべき要因が、海外で顕在化していた。この事件を通じて、尖鋭化
した。ここにイギリスとアメリカの影がある。つまり、実は斜陽化して行ったとは言え
イギリスは海運国で貿易の国だった。それで丁度この頃は黒人奴隷の活発化したころで
スペインの認可を受けて台頭し、大西洋を英国で地中海を仏国で、と言う協定が出来て
海での摩擦を避ける試みが敷かれた。元々イギリスの国王軍は少なく、議会商人の海賊
が合併して、海軍としていた。そして商売していたのは建国していないアメリカ大陸で
あったのだ。

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:27:55.18 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・29

 モロッコ事件は第一次と第二次とが起こった。要は英仏の軍事都市軍事港に、ドイツ
も入港させろ。という事だが、最終的に暴力的に抗争となった。フランスは1830年
のアルジェリア出兵以来、アルジェリアを植民地化し、地中海の対岸の北アフリカへの
進出を強めていたし、南下してサハラ進出、アフリカ東岸ではジブチ、マダガスカルの
獲得と進み、サハラとジブチを結ぶアフリカ横断政策を取っていて北アフリカ一帯に、
勢力を持っていた。イタリアやエジプトで交差する英国の勢力図を鑑みて、衝突の危機
を乗り切ると、フランスはモロッコへの侵出をして、1904年英仏協商を締結、イギリス
のエジプトでの権益とフランスのモロッコ権益を相互に認めると言う行為で押さえた。
一歩出遅れたドイツは、アフリカ進出をビスマルク時代の末期にカメルーン東アフリカ
を獲得。ビスマルクを辞任させてヴィルヘルム2世は、フランスのモロッコ進出に強く
反発し、自ら乗り出してドイツの勢力を拡大しようとした。既に1905年第1次モロッコ
事件(タンジール事件)で両国の対立は、一時は開戦の危機にあった。が、国際会議で
話し合う方策が採られ、会議ではモロッコの機会均等・門戸開放などが取り決められて
、無事終わるが、現実は更にドイツは孤立し、フランスが実質的な権益を保持して終わ
る。並行し、ドイツの東アフリカ政策は、反植民地闘争が起こって、ドイツは後退した
。その時フランスも同じで、モロッコに内政干渉し勢力を扶植。1911年ヴィルヘルム2
世は怒って、再び軍艦を派遣して抗議する。第2次モロッコ事件(アガディール事件)
である。しかし両国の妥協が成立し、未開の地コンゴの一部にドイツの獲得権を付与す
る代わりに、モロッコにおけるフランスの優位権を認めた。翌1912年フランスのモロッ
コ保護国化を完成。当のモロッコ国民は居なく、帝国主義列強の、露骨な世界分割競争
の会議でモロッコの命運が決まった。と言う当時の植民地そのもののやり方だった

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:28:21.60 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・30

そしてとうとう、気が付けばドイツは孤立無援の、独鈷の国となっていて、第一次世界
大戦が起こった。対立していた英仏が仲良しになり、そこに付いていたロシアや、イタ
リアが敵に回っている。1914〜1918年まで続いた戦争で、ドイツは同盟国側としての、
オーストリア、オスマントルコ等を従えて居たが、フランスは、連合国側として戦い、
イギリス、ロシア、アメリカ等が付いた。この敵対する戦争中に、ヴェルダンの戦い(
フランスは31万5千人、ドイツは28万1千の死傷者)やソンムの戦い(フランス軍42万、
ドイツ軍45万の犠牲者)といった非常に凄惨な戦いが行われた。そしてこの悲惨な戦争
は、次の第二次世界大戦の走りになったのである。簡単に第一次世界大戦の概要では、
ヨーロッパに中央同盟国と、海路協商国側に分かれて戦われた戦争で、開戦前の思惑は
、東欧や中東に目を向けると、主な原因として、オスマントルコの力が急速にしぼみ、
バルカン半島の求心力が低下したことで、スラブ系諸国の独立機運が高まり、ロシアが
手ぐすね引いていたことにある。元々スラブ系国家であるセルビアの民族主義者らが、
オーストリアの管理下に不満があり、ボスニアなどで、独立のための過激な運動を繰り
広げていた。イギリスの産業革命以降に、近代化に備えるべく国が資本の無さで、国民
を苦しめていたのだ。要は、鉄道輸送や、自動車・軍艦・トラクター製造など機械化の
鉄の産業育成に、多大な費用が要ったのである。しかしながらこうしたインフラ施策に
最重要な鉄と石炭は、採れる地域が決まっていた。その意味でイギリスとアメリカは、
非常に優位な地政学を有していて、フランスとドイツは、その取り合いが生じていたの
である。スラブの穀物問題も絡み、ロシアとは対峙し、フランスとの境界都市で対峙し
、海路・海商問題で英国と対峙していたのだ。当然傍のオーストラリアは味方でも、周
りにドイツの味方は、外に居なかったのである。

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:43:44.34 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・31

 勝つはずのないドイツに、かねてから圧政の、ロシアに革命運動が起こった。つまり
ドイツはロシアの反体制に派援助をして、成功したのである。退位するロシア皇帝には
第一次世界大戦よりも、日露戦争での経済の痛みが大きかった。とも言う。パンも食え
ないとした国民は帝政ロシアを引き倒し、返す刀でドイツ帝政にも襲い掛かってくる。
成功をみたドイツは、ロシアとの領界境界線を、ウクライナやベラルーシとの境界まで
後退させて、ロシア交渉は成功したが、一方で国内争乱で、ヴィルヘルム2世は亡命し
た。海外植民地獲得政策で、フランス・イギリスと対峙する事に反対をしていた勢力が
ドイツ共和国臨時政府を建て、この国内を掌握し、社会民主党のエーベルトが、1918年
11月11日にフランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結んで、終了する。こ
の停戦を皮切りに1919年 1月18日からパリ講和会議を始めた。6月ヴェルサイユ宮殿で
ヴェルサイユ条約が結ばれたが、条約は、フランスによる、これまでのドイツに対する
報復という面が強く現れた物になっていた。ドイツは海外領土放棄・軍備制限・賠償金
(1320億金マルク)・アルザス=ロレーヌのフランスへの返還が課されることになり、
ドイツはかなり強い不満のまま会議と条約交渉は終わるのである。ドイツ側のライン川
右岸の支流であるルール川下流域ルール地方。フランスで言うアルザス・ロレーヌ地方
は、フランスとドイツの国境線で、昔からの工業地帯である。なかんずくライン川物流
の中核の上に、更に石炭と鉄鉱石が採れたのである。1918年11月にアルザス・ロレーヌ
がフランスにもどった旨が、凱旋門にも書かれ、休戦協定に合わせ掘り込まれた程だ。
また、ドイツにとっての、この屈辱的な日に条約が結ばれた 屈辱的ヴェルサイユ宮殿
というこの場所も、実はフランス人が普仏戦争後、ヴィルヘルム一世が戴冠式を行った
場所という屈辱と憎しみ怨みの地でもある。という事で行っている。これはフランスの
国民の屈辱の裏返しなのであろう。

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/03/28(木) 09:58:53.86 ID:SPuip9NMG
 かつて昔・・・・・・・・・32

 で、これらを国力不足のまま、ずっーと見ていたのがスペイン・ポルトガルである。
スペインは、アメリカとの戦争に負けて、メキシコを取られ、フィリピンを追い出され
ていた。1914年 7月28日から1918年11月11日までの第一次世界大戦を通じ、中立を保つ
事に専念した。これ以上国力が疲弊すれば、国王の地位も危ぶまれた。ロシア・ドイツ
に並んで、退位の要請が国民運動になる事を恐れたのである。国内の経済的困難にも関
わらずに、一切動かず「1915年までにヨーロッパで最も重要な中立国の一つ。」とみな
されるに至っていた。スペインは、戦前のヨーロッパの政治的困難の間も中立を享受し
、戦後も1936年にスペイン内戦が始まるまで中立を続けていった。ナポレオン時代と全
く同期に起こったアメリカ独立戦争は、スペインこそ影響が多大だった。スペイン系の
アメリカ人の独立戦争参加で、アメリカ大陸でのスペインの領土の大部分が失われたの
である。スペインで、ブルボン朝の統治が再確立される中、1813年に立憲君主制が導入
され、スペインの20世紀は、悲惨な幕開けだった。国内外の混乱の中で始まり米西戦争
は、スペイン所有の植民地を失い、始めにミゲル・プリモ・デ・リベラ政権、次にダマ
ソ・ベレンゲル政権と、一連の軍事独裁政権が誕生する過程を行った。最終にスペイン
国内の、政治的混乱はスペイン内戦につながって行き、共和党軍が国民党軍と対峙する
。双方ともに、多くの外国介入を経ていて、フランシスコ・フランコ率いる国民党勝利
で終るが、このフランコの約40年間もファシスト独裁政権を率いた。この間中立を堅持
して、世界に撃って出なかった。フランシスコの死で、君主制の国王フアン・カルロス
1世が復活し、フランコの抑圧で孤立した時代を捨て、スペイン社会が自由化された。
こうした姿こそ、第一次大戦の前も後も、或いは第二次大戦の前も後も、正確な姿であ
ろう。即ち覇権時代の仕組みに於いて、斜陽化しながら叩かれながらも偽りの民主主義
を唱え、自由を叫び、資本主義を護る為に、共産主義を採った。わざわざユダヤ教に、
変遷して。当時でも昔でも、ユダヤ教以外は奴隷は違法だったのだ。

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 09:16:53.79 ID:JFj7+CdKJ
 かつて昔・・・・・・・・・33

 こうして国際社会との再関与が見られたスペインで、新しい自由主義憲法が1978年に
制定されて、1986年に欧州経済共同体に加盟して行く。1992年のマーストリヒト条約で
欧州連合に移行したが、こうした流行にも乗り遅れる事無く、1998年にユーロ圏に加盟
を果たしている。フアン・カルロス王は、2014年退位して、カルロス1世の長男である
フェリペ6世が後を継いで、現在のスペイン国王となってEUの一角をなしている。今
でこそスペイでは、は多少は農産物の取れる国だが、かつての国情では、コルク以外に
は産業もなく、輸入に頼る漁業の出来る自営国家だった。従って、日本と同じに、加工
貿易の綿花を買って、綿糸や綿布に変えて売る国益をした。ワインと言えばフランスの
ブルゴーニューが、余りにも有名だが、この痩せた丘陵(きゅうりょう)地の国は、水
と葡萄が農業の主役で、そこに、ナス・トマト・ジャガイモ・かぼちゃなど、南米野菜
がドドッ入ってきた。ここで大きくスペインの国富は増大した。食物事情が豊かになっ
たのである。その後第一次世界大戦において、スペインは、中立政策をとったのだが、
大戦の影響は大きく出る。まずそうした輸入国家だったので、大戦中のインフレーショ
ンはもろに受けた。これは、貧民層の困窮化を深めさせ、労働運動が急速な高揚をみせ
た。1917年のロシア革命の成功で、労働運動が刺激され、カタルーニャやバスク地方に
反専制・地域独立の意識を高めさせたのだ。都市部、農村部を問わずに各地で頻発して
いた暴動、要人テロは、第一次大戦後も続き、深刻な政治的混乱が起こって国王は大い
に悩んでいる。さらに大戦後のスペイン領モロッコでの、民族運動鎮圧にも苦慮した。
アンワールの戦いなどあって、軍部の政治責任問題も浮上する。更にアメリカ軍の一次
寄港地点となっての、軍隊供給駐留基地となった。第一次世界大戦のスペイン、1918年
にインフルエンザ大流行に見舞われるのは大災難である。この時、スペインで発生した
インフルエンザ大流行は、実は欧州の全域にももたらされ、世界中に広がり、数百万人
の死者を出す事となった。

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 09:41:42.78 ID:B/d1A5jbn
 かつて昔・・・・・・・・・34

 スペインはニュートラリティ(1914〜1918)すなわち、スペインは中立であったため
に、戦争による破壊や経済的影響を受けず、国内経済が安定していた。と言うのが一般
的見方である。ところが国内は安定などという事はなく、戦争以上に、経済的影響でも
、政治的影響(1914〜1918)でも多大にあったのである。ただ、内戦の惨状や、興奮は
この国には無かっただけである。先に言った様に、戦争での死者よりスペイン風邪での
死者はより多かった。第1波はフランス軍、イギリス軍、およびドイツ軍の兵力の多く
を罹患させる、直撃だったため、第一次世界大戦の軍事作戦には大きな混乱とひた隠し
の状況で、スペインだけがニュースソースになった。スペインが第一次世界大戦中に、
頑なに中立を維持し、国内の政治的安定を必死で保ち続けたのは、ロシア皇帝の退位が
ニュースで解っていたからだ。しかし、スペインの中立は、国内の政治的安定を支えた
ものの、その為に、他国の秘密警察や工作員、スパイやアナーキストと言った、活動家
連中のメッカとなったのである。第一次世界大戦中に、政治的混乱を回避する一方で、
その安全さが、危険分子の 巣窟となって行く様は、ほぼ戦前の日本と同じであった。
その経済構造さえも似ていたのだったが、不幸な事はスペイン風邪は第二派、第三波と
並の様に、死人の山が築かれ、最終的に、戦争の痛みの無かったスペインが、一番の割
の合わない死者が出た事だろう。そして第二の不幸は、ドイツにヒットラーがでて来て
、ドイツ帝国が、技術的、科学的、医療的、労働的仕組み、社会制度の最先端にあって
ベルリンオリンピックを成功させている事だった。『ゲルニカ』は、その後に起こった
スペイン内戦に怒った、スペイン画家のパブロ・ピカソがドイツ空軍による無差別爆撃
を受けた1937年に描いた絵画だが、それだけスペインは欧州域内の、鍔迫り合いの最中
の、試験的戦場に適していたのだった。そこには、各国のドイツとの国境のない摩擦の
無い事での無傷に、欺瞞と羨望があったし、その為によりドイツと寄った国民感情があ
った。すなわち、科学技術賛歌で労働解放の歌声である。中国国歌が、共産党ドイツの
歌である事からも、その頃の民衆の熱情は解りえる。「進め!進め!」である。

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 10:04:41.50 ID:JFj7+CdKJ
 かつて昔・・・・・・・・・35

 かつで、世界を旅したフランスの思想家。ジャン=ジャック・ルソーは、「ゲルニカ
には、地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる 樫の樹の下に集う農夫たちが、
みずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった。」と書いている。ゲルニカは
前線からも、約10キロの近さに位置し、バスク軍の3個大隊と焼夷弾製造の軍需工場、
と バスク軍が撤退する際の橋があり、反乱軍は軍事目標に分類していた。また、7つ
の防空壕が用意されていたことからでも、バスク自治政府側でも、このゲルニカが標的
になる可能性が高いと判断していた。1933年。総選挙で右派のスペイン独立右翼連合が
大躍進し、左派勢力は敗北し国民議会を立ち上げた。1931年のアルフォンソ13世の退位
しての、「第二共和政」が成立しても、先の疫病の混乱と、改革の失敗から民衆の不満
が噴出しての船出であった。しかし彼らも貧困と縮小経済に勝てず、1936年の総選挙で
再び左派が勝利して、人民戦線政府が成立する。此の時、左右両派の力は拮抗しており
、この両極に触れる政策に、社会不安が高まっていく。ここで7月に、フランシスコ・
フランコ、エミリオ・モラ両将軍が首謀者となった軍事クーデターが発生したのである
。これがスペイン内戦が始まった理由だ。従来より伝統主義の気風が強いナバーラ県と
アラバ県の住民は、文化伝統に労働者保護を抱えた反乱軍の側に立つのだが、バスク・
ナショナリズムの影響力が強い、ビスカヤ県とギプスコア県は、愛国主義と自由独立の
スペイン独立右翼連合への反感で、新しい共産主義に、共和国政府側に立って人民戦線
とともに戦った。つまり、伝統の民族戦線と共産主義の人民戦線が、それぞれに他国の
援助を受けて、政権奪取に向かったのである。当時のソ連共産主義は、国際旅団を形成
し、普溢に資金も兵器も供給できる組織で、世界革命に惜しげもなく援助した。一方で
労働者側の社会資本はイギリスが経営していて、これに一撃とするドイツも、次々と新
しい兵器や機械化の中で、その兵力の良き試験場でもあったのだ。こうしてバスク地方
はスペイン内戦によって分断された

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 20:59:58.83 ID:8DFEV9duG
 かつて昔・・・・・・・・・36

 人間の興味と、その新時代の夢や魅力に 取り憑かれた人々の欲望は、計り知れない
。日本の原爆投下を、世界は、より戦いでの血を流さない為の処理だったと説明する。
特に米国は、巨額な開発費をかけて、それを投入しないで負債が合衆国政府予算からの
支払いに充てられない負債があるのを隠して、とってつけた理由と嘘をつく。ここで、
本来の、神戸と北九州を雲の影響で見えないとして、広島・長崎に変えてまでも投下し
実験した。その後でも究極の核兵器、水素爆弾の成功まで続けた。日本に於いて、朝鮮
半島が共産主義の、南下の防波堤だったとしたら、イベリア半島スペインは、共産主義
の西進や独裁主義の防波堤であったと同時に、アフリカからの北進の暴力的ムスリムの
イスラム教からの、米英の自由資本主義の砦でもあった。と思える。このゲルニア壁画
は、ドイツの初の機動部隊の空軍のコンドル軍団によって、ビスカヤ県のゲルニカが、
無差別都市爆撃(ゲルニカ爆撃)の情景で、スペイン内戦中の1937年 4月26日の模様だ
。人類戦史上初の、本格的な無差別都市空爆であった。実はこの、機械化兵力による、
大量殺人兵器の、戦車や戦闘機更に、毒ガスやPBXのプラスチック爆薬と最新鋭兵器
の開発の成功が、ナチスを戦争に駆り出していた。と言う学説もある。作ったら、その
威力を見たい。研究成果に実験とその成功は付き物であろう。独裁者達が国家予算を、
各自絞り出し得た技術が、他国に劣ってはいけない。そういう使命を持った実験成果で
日本における原爆投下と、非常大きく似たよった空爆が行われ、これが第二次世界大戦
の前哨戦となった。第一次世界大戦の前哨戦にクリミア大戦がある様に、世界の趨勢が
ここで陣営が揃ったのである。此の時スペインにおいて スペイン国立電話会社(CTNE)
が設立された。その後1924年に、世界中の各仕様のと統一に、テレフォニカの設立が、
用意された。この会社は全国的な電話サービスを確立して、当時国内外に存在していた
様々なシステムを、整理統合することを目的として誕生した。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 21:00:24.07 ID:8DFEV9duG
 かつて昔・・・・・・・・・37

 1924年4月1日、ヒトラーは禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容され
るが、所内では特別待遇を受けた。オーストリア国籍を持っていたヒトラーは国外追放
されるおそれがあったが、判決では「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主は
いない。」として適用されない。1925年 2月27日、禁止が解除されナチ党は再建された
。大規模集会で政府批判を行い、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が
その後も下され、他の州も追随し、この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ
、田舎で突撃隊の指導者であったレームを引退させて基盤を作った。こんな時なのだ。
つまり、有線による電信は、既に日本が開国し、機関車が通る時代に確立していたが、
これが音声通信に変わる時代であった。更に無線通信による、SOS打電も開発されて
行く中であった。これら電化の最先端はアメリカにあった。1924年 CTNE で、初代社長
となったのは、スペイン人エンジニアの、エミリオ デ ヴァレーホで、彼によって設立
された。デ・ヴァレーホは、以前キューバ電話会社に勤務しており、スペイン政府に雇
われスペイン国内の電話サービスを統一するプロジェクトを主導しており、経験豊富で
あった。ここで CTNE は、1924年に活動を開始し、50.000以上の電話回線のネットワー
クを構築した、というより経営と通信価格やその手法の統合であった。最初の数年間、
同社は、急速に拡大し、サービスの品質を向上させ、サービス範囲を国内の新しい地域
に拡大していった。「フランコ主義スペイン」時代とは、フランシスコ・フランコが、
カウディージョの称号で、スペインを独裁統治した。1939年〜1975年の時代スペインで
ある。この間にスペイン国内は、思い切り情報通信が、よくなって行ったのであるので
ここが 諜報員の天国となったのも、止むを得なかったし、その為にインフルエンザの
流行が起こったのも仕方がない事だった。1975年の彼の死後、スペインが、民主主義に
移行したのもそうした事情があったのだろう。

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/02(火) 21:01:29.86 ID:8DFEV9duG
 かつて昔・・・・・・・・・38

 スペイン国立電話会社 (CTNE) は、スペイン人エンジニアグループのエミリオ・クア
ドラが率いるスペイン人および外国の投資家グループによって、1924年に設立された、
民営会社だが、半官半民となった。この会社は国内全域に電話サービスを提供すること
を目的として設立され、初代ゼネラルディレクターはルイス・ソラナ・マダリアガで、
世界に向かって先駆けとなった。Telefonica の歴史は、スペイン初の電話会社である
西部電話会社(Eastern Telephone Company) が設立され(1924年) その後この会社は
他の地方の小規模会社のメンテナンスを請け負い、順次合併してCTNEを設立した。その
後独裁下でスペインの国営電話会社となった。実は、アレクサンダー・グラハム・ベル
が電話を発明したと言われるが、実は違っている。15世紀に、ゼンマイじかけで動力が
ある機械類が発展していく。これによって、時計の小型化が可能となり、職人の増加や
市場の拡大が進んだ。この中にオートマタというのがあって、自動の機械的な技術は、
後に、オルゴールに分類される自動演奏楽器の歴史に繋がった。現在はカリヨンとよば
れる大掛かりな仕掛け時計もあるが、分類上はオルゴールに近い自動演奏装置が組み込
まれて、教会の鐘を音程をつけて鳴らす事もあった。この原理は、シリンダーと呼ばれ
る円筒状の媒体に楔を打ち込み、その楔部分がスイッチとなって演奏情報に変換されて
、このスイッチが、空気の制御および鍵盤(音程)の高低の情報とし自動オルガンが作
られている。楔は点でなく棒状にもできるため、空気を送り込む時間が、音符の長さと
しても表現できるもので、これを利用した電信が声を奏でていた。グラハム・ベルは、
その電信機械に感銘を受けて、光通信の研究をした。とされる。当時はエジソンも電球
を作る工場を持っていたが、実は発明品は棒型蓄音機、つまりレコードの発明がノーベ
ル賞を取る画期的発明だったのである。

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/13(土) 04:14:13.56 ID:nGVAGDYih
何だお前朝鮮人かキムチ悪い!

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/19(金) 23:25:20.16 ID:OF4VycGQe
「(野党が)連携して、大きな勢力と戦う姿勢がまず大事ではないか。
今やられていることは自民党を利することになっていませんか?ということ。
そういう動きをすると、自民党とは戦わない政党になってしまうということかもしれません」
とも、口にした。・・・優しいねぇ、意識はそれでいいけど選挙なんだからちゃんと言いなよ。
「選挙を野球試合のシリーズに例えては 選挙を愚弄している。政治を馬鹿にしてはいませんか。
馬場代表は狂ってるんじゃありませんか。政策と信念を言うべきだ。こんな政治腐敗掃討の時期に。
と 言うべき

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 00:39:32.17 ID:w/5Gru6ED
独裁の msnから切られちゃったよ。 どうも反ユダヤを、極端に嫌ってるらしい。
これまでの 数々のまともな意見を 全く取り上げない ロシア以上の厳しい詮索だ。
だいたい みんなでコミュニティしましょうって言うのに パレスチナ擁護で、途端に切られる
ともかく Qアノンが 現実に存在し、MSNのゲイツ帝国が中心となって 世界征服と
人類指導を狙い 大惨事の世界大戦の画策が イスラエルと共に行っているのが解り得た。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 09:05:49.71 ID:kFi5oA+v+
イスラエルの蛮行と、支援する悪行を、誰も止められずにいる。国連とは何と非力であることか。
日本には、「目には目を歯には歯を」と言うことわざがある。旧約聖書においても、
「目には目を歯には歯を」の記述が残されている。記述は「出エジプト記」の21章(法律集)
にあり、正確には「目には目、歯には歯、手には手、足には足」と記載されています。
被害と同じだけの報復しか許さない。それ以上は許さないという、刑罰の限度を定めた内容である。
本来のユダヤ人ならだれもが知る この旧約聖書さえ守らないイスラエルの民は、全く人類の敵だ
「目には目を歯には歯を」は、被害に応じた報復または制裁をするという意味である。
あくまでも報復は受けた被害と同等の仕返しにとどめ、それ以上のことをしてはいけないことを
戒めとして表しているのだ。現代では、単に受けた被害に報復をしなければならない。という意味に
とらえられがちですが、本来の意味は異なります。報復を奨励するのではなく、
過剰な報復を抑えることで 平和が戻ると言う定理を、ここに示したことわざなのです。

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 05:16:52.70 ID:noJXL9vZT
Ωの移民たち

 岸田政権は移民を受け入れようとしている。日本の人口が減っており、労働力が不足
しているかららしい。そこで「共存」という言葉も 出てきている。こうした耳障りの
良い言葉が出てきたときには要注意だと思う。さて、白人は白人に適応した地域がある
。黒人には黒人に適応した地域がある。日本人は、日本が適していた。人は生まれた地
で育ち生まれた地で一生を終えるのが 一番だと思う。たとえば、白人は、暑さに対応
できない。もともとは寒い地域に適応した結果だから。そのため、白人の基礎体温は高
い。また、日光の強い地域では白人の皮膚癌の率はグッと上がる。黒人についても同様
だ。寒い地域には適していない。体のつくりがそうなっている。黒人が一般的に手足が
長いのも、体の表面積が広くても 大丈夫な地域で生活してきたからだ。つまり、寒い
地域だと、体の表面積が大きいため、凍傷などにやられる確率が上がるし、体温も適応
していない。だから、寒い地域で適応したモンゴロイドは手足が短い。これも適応した
結果だろう。つまり、淘汰された結果、生き残った民族こそが、その地の肌の色、その
地の食べ物、宗教、慣習、ルール、考え方になる。というわけだ。砂漠の地域では牛が
貴重だ。食べてしまえば牛が居なくなってしまう。だから牛を神聖なものと位置づける
ことで、牛の生態系を守っている。このように宗教にもきちんとした意味がある。日本
人がこれだけ優秀なのも、島国だからだと思う。長い年月をかけて 適応できなかった
遺伝子は淘汰され、適応できた遺伝子だけが残っていった。だから、日本は日本人だけ
で、ながいあいだ上手く回っていた。だから、物事の考え方も宗教も異なる移民を受け
入れることで、そのパワーバランスが崩れる。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 05:17:26.11 ID:noJXL9vZT
Ωの移民たち

移民達も、自分たちの考え方や 宗教を
主張するだろうし、日本の「和をもって貴しとなす」、などとという文化もない。譲り
合い、というよりも弱肉強食といったほうがよい文化なのだ。。嘘を平気でつくし、人
を平気で騙す。世界的には泥棒もスリも日常的に起こるし、落とし物が届けられること
もない。騙された方が悪いし、物を忘れる方が悪い、そう考える民族の方が世界の多数
派を占める。そんな移民を受け入れてしまっては、日本の文化は崩壊するし、長年かけ
て作ってきた風習や宗教、目に見えないルールなどは崩壊するだろう。犯罪も増えるし
、レイプも増える。暴力事件だって増えるだろう。移民を受け入れることでどうなるか
は、ヨーロッパの国々を見れば明らかだ。そして、宗教や考え方だけではない。気性の
荒さも異なる。日本の風土に、砂漠の民のような気性の荒い人種は、絶対に合わない。
と思う。こうした気性の荒い人種が日本でいくら教育を受けたとしても、そもそも適応
できないだろう。長年かけて最適化してきた日本という国が、いま、崩壊しようとして
いる。人助けをする心は大切なことだし、困っている人を見たら助けるのは当然だ。と
いう道徳は正しいと思うが、だからといって移民を受け入れるというのは、民族を崩壊
させる。これは道徳と言うよりも倫理の問題だ。つまり、困っている人をみたら助けた
い。だから移民を受け入れる、というのは道徳としては正しいが、倫理としては間違っ
ていると思う。移民が日本で子孫を残したとき、生まれてくる子孫が日本人の精神性に
合致するとは思えない。移民を受け入れないということ、これは日本のためだけでなく
、実は移民のためでもあると思う。つまり、日本は移民を受け入れないとすることは、
移民にとってもよいことだと思う。彼等が子孫を残すのは、彼等の生まれ育った地域で
あるべきだ。そのほうが彼等にとってもよいはずだ。

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 05:17:56.57 ID:noJXL9vZT
Ωの移民たち

彼等は その地で文化を形成してきたし、これからもそうして
いくべきだ。その結果、その地域が戦争ばかりの地域だったとするならば、それはそこ
で淘汰されるべきだと思うし、そうでなければ、戦争をなくすという平和な文化を形成
することのできなかった文明国なのだから、そういう国は滅びる運命なら、滅びる運命
なのだと思う。あるいは争いを続けていくうちに、彼等なりの文化を形成するだろう。
その文化を形成する最中なんだから仕方ない。日本だって、戦国時代はあった。それを
経て、今の平静な日本があるわけだ。つまり、それを生き抜けなかった者は淘汰され、
いまの日本人がいるわけだ。戦争ばかりしている国の彼等は、いま、国のルールを定め
たり、パワーバランスを考えたり、先進国が過ぎて来た淘汰の段階にあるわけだ。それ
を無視して移民を推進することは、日本の民族も滅ぼすと思う。日本は長年かけて島国
の中で最適化された民族だ。そこに異物を混入すれば排除するしかない。白人の住む
雪国の地域に、黒人が入り込むことは、黒人が遺伝子を残すことになる。その遺伝子は
、雪国には適さない。結局のところ、寒さに適応できずに亡くなることになる。逆に、
黒人の住む暑い地域に白人が入り込むことは、皮膚癌になり適応できないことになる。
つまりその民族に適さない遺伝子が入り込むのだから、その民族自体にとっても大きな
リスクとなる。皮膚癌になった人に かかる医療費を出すのは周囲の住民だ。税金が、
そこにのしかかる。だから、異物を混入されると 国に拒否反応を起こすのは当然だ。
こうした理由で、日本に移民を受け入れることは日本民族を衰退させることになること
は明らかだ。・・・・だから私は移民を反対する。

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 05:50:53.50 ID:noJXL9vZT
Ωの移民たち

 今、日本に人が押し寄せている。円安ツーリング。と言うらしい。自国より海外製品
なのに、同じ輸入品が何故だか日本が安い。金を買うにも消費税が付いているのに日本
の方が安い。土地も安いし安全で、ちゃんと個人使用や財産の権利を認めている。建築
物も、あんなに高いビルを建てる技術が中国にあるけど、断然日本の低いマンションが
お得よ。(中国の)国内にあるのは、欠陥だらけのへっぽこビルだわ。と中国人自身が
言っている。なんと日本の不動産は半分とか3割の安さで、丈夫で長もち、私は住めな
いけど事業用にピッタリだわ。と言う。でもってニセコ現象で、外国人客は高くなった
3000円のラーメンをすすりながら、「ワンダフル、ニューヨークなら安くても日本
円で6000円はするよ。いやこの味なら、1万円はするね。と、友達とゲラゲラ笑う
。全くもって、日本人というより、お馴染みの客で付近の常連客は、行けなくなっちま
った。一体いままで、誰が店を大きくさせたと思ってるんだ。とぼやくのだが、いかん
ともしがたい。これが今のオーバーツーリズムと言う奴である。まあこれだけならいい
のだが、北九州他、解んない店主が増えて、ギトギトの油料理で発火したり、誰かの置
いて行ったスマホで発火したり、挙句の果ては、客を取った取られたの喧嘩と殺人事件
である。日本に来た真面目な労働者は月3万を送っていた仕送りを5万にかえて、全く
稼げない。と若い従業員が言うが、日本の若者だって、私の知ってる子は何人も海外に
出て仕事してるよ。日本人も海外出稼ぎ時代がきたんだ。って思ってる。としんみり。
聞けば、SNSで妙な業者に取っ捕まって、なにやら売春奴隷にさせられているらしい
。ピストルも麻薬もある所だから、逃げられずいる。と言う。そりゃそうだ。あの電話
詐欺のルフィ体制ですら、逃げられずに移民局預かりで、好い様にされてたのだから。
洋風人には騙される。大陸人にはかなわない。・・・いやはやまったく。である。

29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 09:44:06.60 ID:SpuZig84i
    Ωの移民たち・・・・・・・・・05

ディヴィエ・ベーブのフルート
Divje Babeフルートは、スロベニア科学芸術アカデミー研究センターの考古学研究所が
率いる体系的な考古学的発掘中に、1995年に発掘された。一定の間隔を空けた穴が開け
られたホラアナグマの大腿骨の笛が出たのだ。北西部のツェルクノ(スロベニア)近く
のDivjeBabeIにでたものだ。それは楽器の形としてネアンデルタール人によって作られ
、ネアンデルタール人のフルートとして知られるようになった。このアーティファクト
(楽器)は、スロベニア国立博物館に、目立つように公開されている。リュブリャナの
古代遺跡から出た、ネアンデルタール人のフルートは、世界で最も古い既知の楽器であ
った。ネアンデルタール人の象徴的行動と、高度な認知能力を反映している可能性を、
示唆している。他の中期旧石器時代「ムスティエ文化」の、他の多くの発見と同様に、
この発見には、科学界の一部からの、厳しい批判と拒絶を受けた。こうした象徴的な、
重要遺物の発見では、旧石器時代の研究において最も重要でいつも批判され続けたが、
解剖学的に現代の人間の、到来に先立つ発見に 特別な注意が向けられている。ヨーロ
ッパは約4万年前に、アーティファクトは作られ、ネアンデルタール人の精神的な生活
に光を当て、彼らの認知能力を証明する重要な発見であろう。この発見場所は長さ45m
(148フィート)、幅15m(49フィート)の 水平方向の洞窟の中である。ツェルクノの
近くのイドリッカ川から、230m(750フィート)の上腹にあり、旅行者や訪問者がアク
セスできる場所だ。現場で働く、更新世の気候変動の研究者は、20の炉床と、ホラアナ
グマの骨格の残骸を含む 少なくとも10のレベルで600以上の考古学的なアイテムを、
発見採集をしている。博物館の声明によると、このフルートは約55、000年前に「更新
世中期の終わりの時代」としてネアンデルタール人に関連付けられている。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 09:44:32.58 ID:SpuZig84i
    Ωの移民たち・・・・・・・・・06

 1920年代と1930年代の2回の調査で、考古学者スレチコ・ブロダル(ミティア・ブロ
ダールの父)は、カラヴァンケン山脈東部の、別の場所のベタル・ロック・シェルター
で、穴のある数十の骨を発見しましたが、それらのほとんどすべてが第二次世界大戦中
の占領とイタリア併合において、破壊されました。まだ保存されているものの中でも、
最もよく知られているのは、下顎管に3つの穴があるホラアナグマの下顎骨であった。
その後、第二次世界大戦以来、同様の標本が発見されて、これらの骨は今日では、スロ
ベニア国立歴史博物館に保存されている。それらの多くを発見した考古学者ミティア・
ブロダールによると、穴のある骨は、ムスティエ文化の終わりと、オーリニャック文化
の始まりにのみに日付が付けられるので。ポトク洞窟に見られるような 穴のある骨の
楽器は、現代人のクロマニョンによるものであり、ミティア・ブロダール(MitjaBrodar
)は、それらが中央ヨーロッパのオーリニャック文化の要素である。と主張し、ディヴ
ィジェベイブのフルートは、現代人の産物であると主張した。後期旧石器時代のフルー
トとは異なり、ディヴィエ・ベーブのフルート(Divje Babe Naeanderthal)の楽器の
ほぼ全長が、全体で保持されているため、信頼性の高い再構築が可能であった。保存さ
れた全長と、穴の数、口径、および部分的に保存されたブローエッジの存在を考慮する
と、近位端では、楽器として単純で信頼性の高い再構築が行われた。再構築には大腿骨
が、最初に肉食動物の肉が失われたか、廃棄されたときに、失われた部分をかじって、
アーティファクトを創ったという。発見に基づいて再生している。

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 09:44:55.50 ID:SpuZig84i
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 このディヴィジェベイブの、ネアンデルタール人の創った楽器は、最も古い、既知の
楽器と呼ばれるすべての要件を満たしている。明確な考古学的資料の、層序学的文脈、
年代測定、製造の説明、音楽的検証、および後期の良好な比較が出来る。この発見で、
現在ネアンデルタール人の音楽的行動の最も強力な物質的証拠となった。ドイツでの、
発見された最も初期のオーリニャックの楽器よりも、少なくとも一万年年も古い年代で
ある。と言われる。となると、この原始人達は、太鼓と笛をあやつっていた事になる。
太鼓と笛があれば、村祭りに充分である。食糧があって、勝手な声で歌や踊りをしての
リズムを取ったサークル、って言うなら、まったく「はじめ人間ギャートルズ」の世界
である。まったくアマゾンやアフリカの現代の狩猟民の部族と、全く同じ世界である。
「はじめ人間ギャートルズ」は架空の原始時代に繰り広げられる、原始人たちの大らか
で、かつ、突飛な日常を描いたギャグ漫画である。テレビアニメやテレビドラマにもな
った、その独特のユーモアや世界観で大人気を博した。この作品により定型化した代表
的なギャグに、「大声が文字の形の石になって飛んでいく」「輪切りの肉」「マンモス
の群れの突進に巻き込まれた人間が、踏みつぶされてペラペラになる」「テッコンキン
クリート」などがある。一方で、作中で、原始時代にもかかわらずなぜか貨幣経済が、
浸透しており、巨大な石の貨幣を用いている描写が見られる。原作の園山俊二さんや、
音楽のかまやつひろしさんなんかは、何を見て、どう感じて、生きたのだろうか。少し
話が聞きたくなる。園山俊二は、随分と楽しい酒をのんだんだろうなぁ〜〜。と思う。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 09:45:21.53 ID:SpuZig84i
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 園山俊二は、早稲田大学在学中、英文科の講師三浦修や、同級生のしとうきねおらと
ともに早稲田大学漫画研究会を創設するも、結核の療養のため1年休学した。復学後に
漫研に復帰し、後輩の福地泡介、東海林さだおと出会ったとされる。園山・福地・東海
林(しょうじ)は、のちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半、当時の
学生運動になぞらえて「漫画界の 三派全学連」と称された。彼らにはなんだか、昔の
ひ弱な都会っ子の香りや風を感じる。手塚治虫氏や藤子不二雄、石森章太郎などの全盛
期である。あまり焦点とはならなかったけど、人気と一風変わった作風には、かなりの
輝きがあった。TVでも、幾つか出ていて、ナレーションなんかにも声を披露している
。1993年 1月20日死去。57歳没、意外に早くTV界から見えなくなった。「ぎっくり腰
の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行。園山は見舞客に「肝硬変」ある
いは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は、追悼コメントにおいて、
実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている。東海林さだおは、「白い画用紙
のまん中に、スーッと一本、鉛筆で横に線を引くと、すでにそれは大平原と空を分かつ
地平線なのであった。」「それが園山さんの代表作『ギャートルズ』となった」と園山
のシンプルな描線による画風を評した。園山俊二さんは、漫画家として未発表のイラス
ト画を大事にしていた。幻の園山作品である。その中でも「国境の二人」という作品が
特筆されている。この漫画は、対峙する二人の兵士を描いており、国境線を前に向き合
う物語で、人間が勝手に国境を作り争うことの愚かさを描いている。学生運動が次男と
するなら、戦後を生き抜いた長男の世代と世界観である。この作品には、戦後70年を迎
えた今、争う愚かさと生きる事の意味と時間と言うものが隠されている「飄々」と活き
た世界。何とかなるさ、という園山さんの思いを伝える。ジプシーと独鈷模様である。

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 13:00:52.32 ID:24jbPfOJV
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 人間を動かしている ミトコンドリアゲノム上に存在する農業上の最重要形質が発見
された以降 DNAの改造に取り組む研究が進む。植物細胞には、核、葉緑体、ミトコ
ンドリアに、それぞれ遺伝情報、ゲノムが存在している。ところが核のゲノム解析には
早くから進んだが、ミトコンドリアのゲノム解析は遅れた。植物ミトコンドリアのゲノ
ムは、細胞呼吸に関わる遺伝子群や、これらの遺伝子発現に必要な遺伝子群、また、F1
ハイブリッド品種育成現場で、現在では利用されている細胞質雄性不稔性の原因遺伝子
などが存在しています。しかしながら、ミトコンドリアゲノムでは、これまで、標的を
絞った人為改変が不可能だったため、遺伝子の詳細な機能解析に手が付けられない状態
が続いていた。しかし、東北大学と玉川大学の共同研究により、イネとナタネのミトコ
ンドリアゲノム上に存在する 農業上の最重要形質の一つである細胞質雄性不稔の原因
候補遺伝子の破壊と稔性回復に成功した。これにより、これらの配列がCMSの原因で
あることが直接的に証明されました。この成果は、様々なサイトで取り上げられた。現
在、この技術をさらに発展させ、植物ミトコンドリアゲノムとそこに存在する遺伝子に
関して残された謎の解明に向けて研究が進められる。学習院大学分子生化学研究室の、
MITOLの研究成果によりマイトルビン(ミトコンドリア活性化物質)の同定に成功し
た。このマイトロピンの効果は絶大で、ミトコンドリアの活性化を促す危険物質だが、
用途は、アンチエイジング関連アルツハイマー病・認知症、パーキンソン病、生殖医療
、筋疾患(サルコペニア・フレイル・ロコモ)、心疾患抗癌剤、MDS、ミトコンドリ
ア製剤、メタボの改善、アンチエイジング関連など多種にわたる。で、植物ミトコンド
リアに関する研究で、今後も分裂機構や融合、形態の維持機構について発達し、これら
で、植物だけでなく生物全体の生命活動を理解するだろう。マイルドストレスをかける
事でホルムシス効果があると言う。それが若返りさせると言う。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 13:01:25.42 ID:24jbPfOJV
    Ωの移民たち・・・・・・・・・10

 ホルミシス効果とは、ある物質が高濃度・大量に用いられた場合は有害な物質となる
。だがこれに対し、低濃度・微量に用いた場合には、逆に有益な作用をもたらす現象が
現れる。言うなれば、対抗馬のバイキンマンがいる事で、アンパンマンが強くなる。み
たいな事である。それは、例えば、身体が微量の放射線を受けると 細胞などが刺激を
受けて、その働きを活性化させる、毛細血管が拡張して新陳代謝も促進、免疫力や自然
治癒力を高める効果が期待できる。大量では有害な作用をするものが、わずかな量だと
人体に、生理的な刺激を与えて活発化させる現象を、ホルミシス効果と呼ぶ。こうした
治療法は昔からあって、適度なストレスを、体に与えると、体が鍛えられて、元の状態
より強くなる現象のことを指す。よく忍者の息継ぎとか、ゴールキーパーの羽根だし、
とか言われる訓練である。つまり、ゴールキーパーの取れない所にボールを蹴るから、
練習になる。ジャンプ力や瞬発力や判断力が付く。と言われる物だ。日本では、仕事は
身体が覚える。と言うことわざがある。礼儀・礼節は、慣習が教え、正義・道義を周り
が育てる。というものだ。実は生物は太古の昔から、攻撃的に保身的に行動し生き延び
て来た。かつての原始の海は、酸性度が高く、生物種は生成の仮定では、物理的化学反
応で、外と内とその境界幕で構成されて物が出来る。しかしして、意志が偶然によって
生命的動作が加われば、その後は環境との闘いが生じる。何処からか出来た原始生物は
、原始の海の酸性度が高くとも動き回る種は、活きられない種を、食べて生きる事にし
た。食べられた種がどちらかが判らないが、淡水部もあって、その中では大量発生した
淡水種もいた。ところが食べられた生きるに値しない者らは、防御として動き回る種を
壁にし、自らは核を創り、酸性の海の覇者を動かす術を持った。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/25(木) 13:01:50.31 ID:24jbPfOJV
    Ωの移民たち・・・・・・・・・11

 この体制は今も変わらない。我々は排便や糞尿を浄化槽で浄化させる。この中は三層
構造で、先ずは導入される物を嫌気菌層に於いて分解させる。この嫌気菌の為に食べや
すく工夫の粗い「ろ過層」や菌付着用の「粉砕層、岩石層」を設けて貯留層や沈殿層に
流す工夫もある。で、その後は空気が必要な好気菌曹に流すのである。その後滅菌曹や
殺菌曹で放流される。この構造は、基本的に自然界でも、或いは食品界でも変わらない
。要するに、栄養素として、エネルギーを創り出す菌に頼って 地球の循環機関が動き
そこで生きているのである。この性質は、殆ど人体の中でも起こっている。口に入れる
食物は、雑菌だらけで、毒素が多い。基本的に栄養素は毒物であり、精製されたもので
は、更に毒性が上がる。適度な除菌と毒素の搬入により、歯で咀嚼され、それなりの菌
や唾液に混ぜられた状態で胃に運ばれたり、消化器官に行く。ただの水でさえ、ただの
水ではない。我々の小水も、便も老廃物と簡単に言うが、一度は必要分を分解吸収して
巡廻して、その後腎臓にこしとられて、膀胱に至るのである。今回小林製薬は記者会見
して、「紅麹コレステヘルプ」など3商品の自主回収を公表。この時点で明らかになっ
たのは、@サプリを摂取した人から腎疾患の報告が相次いでいること、A想定しない「
未知の成分」が健康被害をもたらした可能性が高い、とした。プベルル酸は抗生物質の
働きがあるとされる。北里大の研究チームは 蚊が媒介する感染症マラリアの治療薬を
探す中、候補物質の一つとして論文で報告していた。この未知なる薬も、実は動物実験
他の研究があって、初めて知れる毒物なのである。

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/27(土) 16:55:40.94 ID:Q+wgVtnmi
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この未知の毒物や障害物、などと言うのは、社会現象でも生物生態でも多々おこる。と
言うより、我々が産まれて来た時、何も知らないのであってここにある危険は多く、全
てが、未知の障害物や危険や毒物なのであって、これを乗り越えて来た要素やアイテム
が、集団や集団交流の言語であり、踊りや音楽や宗教や科学といった知見の伝達である
。こうした事は、実は生物界の全体に見られる。猫やカラスでも、声を出す動物は至っ
てお話をする。飼い猫に限ってはインコ同様に、幾つかの思いを遂げる呼び鳴き、じゃ
れ鳴き、甘え鳴き、威嚇鳴き、悲鳴鳴き。と、幾つかの声を持つ。まあ生物の進化は、
今でも解明されてない不思議な現象は、多々ある。中でも、この毒物たる薬分、つまり
栄養素の分解や取り出しを他に任せ、搾取する方法において生き残り策に転じたのだ。
今日、紅麹コレステヘルプの問題が世間を賑わかしてるが、数人が死亡し、数十数人の
健康被害が解って大騒動、の事とある。が、しかし、我々人類が、口にした物で死んで
行くという事は、常にある事で そうそう異常な事ではない。実際の話、「紅麹コレス
テヘルプ」は悪玉コレステロール値を下げることを謳い、年間の売上高は6億円という
、ドラッグストアなどで販売され大人気だったのである。累計販売個数は百万越えとさ
れ、健康食品の「紅麹 コレステヘルプ」は好調に売り上げを伸ばし、17億円 売上記録
している。つまり30〜50万袋が売られて年間10万人は、手にして口にしている。
つまり、本来の紅麹の効能はあったものと、思われる。では、当然乍らも、この10万
人と死亡した人とに、一体、何が違ったのであろうか。これが生物進化なのであろうか
。一部のテレビでは、医者が登場しこの製品の飲用を止めて 健康に戻った。と、証言
させている。はたして、この健康の正体は一体何であろうか。毒物を取れば当然健康は
害される。しかし、毒物=薬物=栄養素なので、その分量は人によって許容量が違う。

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/27(土) 16:56:42.41 ID:Q+wgVtnmi
    Ωの移民たち・・・・・・・・・13

 毒物=薬物=栄養素なので、その分量は、人によって許容量が違うのだが、それでも
西洋科学は集計し、割って標準を決め一般化するのである。科学は再現性があって科学
とするので、つまり、サイコロふって6が6分1の確率で出るというは科学ではない。
何故なら6回ふってそれが出る確証はないからだ。つまりそれは数学なのである。とこ
ろが、6分1に限りなく近くなる。という事は科学なのである。この微妙な言い回しと
その差は、恐らく日本人の歴史では作れない。それが西洋科学たる所以(ゆえん)である
。この商品は、人気を博していたのだ。まあロットの毒素成分を抜きにして、報道は、
この解決を、目指していない。では、やっぱり、それだけ工場工程の異常だったのか。
しかしながら、今や知らない世界の知らない食品は、普通に売られて、その工程などは
ブラックボックスだらけである。全く危険を尻目に、我々は着実に、そうした物を 口
にしているではないか。冷凍食品、色んな加工製品、分業化されてできる菓子パン類、
更には熱を入れない飲料水も次々に新商品を出している。又、出来た毒入りロットにし
ても、数百や数千人は口にしてるはずである。という事は、それだけ、声が上がらない
社会なのか、なにか特殊の性質の異常体質だったのか・・・全く判らない、説明のない
報道ではあるが、進化の過程を見れば、実は一斉に変化した兆しはない。それよりも、
DNA解析すると、古代のDNAの発見から、私達の人類の遠い昔に関する知識を得て
要る中で。シベリアの洞窟から発見された骨は、ネアンデルタール人の少女とデニソワ
人の夫の両親をもつ、90,000年前の女性のものであることが明らかになっているが、こ
の洞穴人の母が、世界中の特にアジア人の殆どにその子孫の傾向が表れている。又それ
以上の歴史を遡れば、考古学者が直面している問題として、アフリカで二万年年前頃に
生じた何らかの変化が、きっかけとなり、当時の社会が今日の社会と非常に類似する様
になったことである。従って、殆ど、全人類は、このアフリカの一類人猿の発達から、
出たのが人類だと称している事だ。

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