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1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 14:13:38.12 ID:0Dh7o9kwr
https://ahokawa666.amebaownd.com/posts/49451219
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2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 17:56:57.54 ID:p921etvw3
 閑話休題x   001

 こんなに、世に公開されることを意図していなかった。と思われるメモがニュートン
遺品から見つかった。このいくつかのメモの中には、聖書の出来事に対しての考察が、
書かれてあって、プロテスタントならではの、理解に基づいて、世界の終わりを、予測
しようと試みたものも見つかったのっだた。この中である試みでは、その計算式と共に
「2060年」についての終末予想があって、その言及に至っている。そこには、暗号コー
ドのように、いくつものステートメントが記されていて、現代でもひも解く事が出来る
。そこには、さまざまな、聖書の中の、聖書的な暗号数字が登場するのだが、簡単に言
えば、「教会の堕落日」の確定と、「終末に到る日」の日数を解いたとされる中で、端
的に言えば、「1年と2年と、半年」の期間を読み時、3年半と解釈して1260日となり
、それを現実世界での、「1260年に読み替える。」と言う確定をし、ニュートンは教会
が堕落したのが、西暦800年である。と特定し、そこから、1260年後の 西暦2060年まで
は、まずハルマゲドンは起きないのだ。と、導き出して、言っているのであったのだ。
しかし、本人は出す気もない安易なメモが、その後教会すらも驚愕して批判されるなど
とは思わなかったであろう。その遺構には、「獣は王国の年月に代えて置かれており、
1260日という期間は、紀元800年から 数えると紀元2060年に終わることになる。もっと
遅く終わるかもしれないが、もっと早く終わる理由は見当たらない。(遺稿より)」と
書いている。つまり。「2060年まではハルマゲドンは起きない。」とした決定文は、今
は、当時のニュートンと同じに安心感を与えて行くかも知れない。しかし同様に、この
他にも、おそらく人に見られたくなかった遺稿だと思われるが、ニュートンメモは、次
のような興味深い記述も遺している。「私がこれに言及するのは、終わりの時がいつで
あるかを主張するためではなく、神聖な預言の信用を、失墜させる空想的な人々の軽率
な憶測を止めるためであり、彼らの予言は外れるからである。(遺稿より)」とも書く

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 17:57:20.80 ID:p921etvw3
 閑話休題x   002

 この自信は一体何であろうか。実は当時でも、既に有名なノストラダムスの『予言集
(百詩篇)』が刊行されていた。刊行は1555年で、1999年にやって来る「恐怖の大王」
が流布されていて、これについて 人々が知るところとなったのだが、流星群の預言と
共に隕石の恐怖の実態もあった時代だった。つまり、そろりそろりと、天文学の正しさ
が知れ渡り、カトリックないしバチカンの天動説も崩れ、地動説が頭をもたげてきて、
科学的事実と、宗教的コンセンサスとの協調分離の模倣が始まった頃でプロテスタント
も、その中身の整理を行っている渦中にあった。この、ニュートンが生きた時代にでも
「世界の終わり」を、もっともらしく予言し説明巧言する者が少なくなかったのだろう
。「その類の輩」を嫌っていたニュートンは、おそらくは周囲に聖書について、詳しく
解説して、ある種の余興として、自分ならではの持論の「世界の終わり」を、聖書に基
づいて割り出して見せる。と言う必然性と意見が必要だった。ということのようにも、
見える。そこには、「少なくとも2060年まではこの世界は終わらないので、妙な噂に、
迷わされさんな。紳士・淑女諸君!!」という呼びかけや、メッセージが込められてい
た。つまり「ニュートン予言」とは、すなわち「2060年に世界が終わる。」ではなく、
「少なくとも2060年までに世界が終わることはない・」と伝えるものだったし、友人や
パトロン或いは、科学者の会合での良識論を、とりあえず作って、これらに疎い流行に
のって不安を抑える必要性に、迫られての堅固の自論が必要だったからの理論といえる
。これがニュートンと同じ時代を生きた人にとっては「まだまだ先の話だから大丈夫」
と、安心できる要素になり得たのだろう。翻って、2023年を生きる私たちにとっては、
もうすぐに、猶予期間の終わりが近づいていることがある。不安定な世界情勢もあって
、否応なく実感させる。核戦争、気候変動、地球温暖化、自然災害と自然現象慈、AI
と絶滅危惧種、疫病・・・と、現状で世界の破滅に繋がりそうなトピックは数多く存在
する。

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 17:57:49.13 ID:p921etvw3
 閑話休題x   003

 しかし、それでも、ノストラダムスの予言やマヤ歴のように、このニュートン予言も
盛大に外れてくれる。ことを祈るしかないのが、現代に生きる個人の悩ましい現実であ
る。ただしもし外れているにしても、当たっているにしても、こうした破格の理想郷の
裏で自然破壊に加速度的に及んで 砂漠化させているとしたら「2060年以前の終末到来
もあり得る。」と言うことにもなってしまう。歴史上の大科学者はなかなか厄介なメモ
を遺してくれたものだが、現実の考古学が知り得た事実では色んな事が判明して来てい
る。例えば、ベドウィン達が売っていた、最古の聖書の4つの写本が、ベツレヘムでの
古物が扱っていて、「死海文書」と言う言う物の解読も終わってる。ヘブライ語聖書の
最古の写本で、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教
の実情をうかがわせるものである。文書は大部分がヘブライ語で書かれており、2割程
が、アラム語文書となっていて、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言で
あるナバテア語の文書を含んでいた。この死海文書が発見されたクムラン周辺は洞窟群
があって、その後次々に文書が見つかり、発見順に番号がつけられている。第4洞窟と
第7〜9洞窟はクムランに非常に近いが、第1〜第3、第11洞窟は、クムランからは
遠い場所にあった。クムラン周辺に、100以上の 洞窟があるが、写本が発見された洞窟
は全部で11である。2021年にユダヤ砂漠の第8洞窟「恐怖の洞窟」で新たに約2000年前
の、ギリシア語聖書写本の断片が発見された。研究で死海文書の内容は、大きく三つの
グループに分類され、「ヘブライ語聖書(旧約聖書)本文」、「旧約聖書外典・偽典」
、そして「教団文書」と呼ばれるものであった。ここで教団文書によって、これまで、
今のユダヤ教の始祖とされるクムラン教団の活動が浮かびあがってくるのである。

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 17:59:06.79 ID:p921etvw3
 閑話休題x   004

 クムラン教団というかクムラン宗団というか、この集団は、発掘された、キルベト・
クムランや、アイン・フェシカの遺跡のここに、住んでいたと思われ、生活の跡も確認
されたと言われる。ユダヤ教のエッセネ派と思われる集団で、彼らは、ユダヤ人のヘレ
ニズム化に反対した原理主義教団で、とても頑なだった。欧州各国で出来たヘレニズム
文化は、ギリシャ文明の復古主義的人間賛歌の、神話と裸体王の世界だった。それらは
ギリシア語の普及した地方で,いわゆる、分散 (ディアスポラ) のユダヤ人社会の間に
みられる同化の文化であった。しかしパレスチナに於いては、強くユダヤ教が聖都とし
て崩すことなく厳密に受け継がれた。パレスチナ以外で、アレクサンドリアはギリシャ
的欧州社会のその中心で、プトレマイオス朝時代初期に、旧約聖書にはギリシア語訳が
つくられたとされる。(七十人訳聖書)。その後にもアレクサンドリアの哲学者フィロン
または、ドゥラ・エウロポスなど、ユダヤ教会堂の美術は、ヘレニズム的ギリシャ神話
に同化したユダヤ教美術となって行った。純粋なユダヤ教との間に、区別を重視する様
な傾向も消え、今日に訂正を要すると考えられるが、当時のユダヤ教そのものが、こう
したヘレニズム文化圏内にあって、殆どが欧州ヘレニズム化されていたと考えられる。
こうした、同化ユダヤ人の、パリサイ派に迫害され、紀元前2世紀の後半には、この地
クムランに、保守的ユダヤ教徒、原理主義派が集まりだし、ローマの絶対的支配に反対
し、反抗を示すユダヤ人の、大規模な反乱も起こった。これを「第一次ユダヤ戦争」と
される。最中の紀元後68年頃に、散々にローマ軍に叩かれ、四散したものと推測されて
いる。彼らは「義の教師」に率いられ、12人の平信徒と3人の祭司からなる教団会議を
もち、10人ごとのグループに分かれ、律法を学び、厳格な戒律を守り、生活のあらゆる
面で清浄さを強調し、後の修道士とよく似た団体生活を送った。と言う。

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 17:59:49.35 ID:p921etvw3
 閑話休題x   005

 ユダヤ戦争は、帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州
において、支配者ローマ人と、被支配の、ユダヤ人との間で行われた独立戦争である。
と言う。ヘロデ大王は(紀元前73年〜紀元前4年)、共和政ローマ末期からローマ帝国
初期のユダヤ王国を統治した王とされている。しかし王の死後、ユダヤ属州はローマの
総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側に
すりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死する
と、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は、基本的に被支配
民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示していたが、
多神教文化であった地中海世界の中では、一神教のみを奉ずるユダヤ教は、特殊な文化
を持った地域であり、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高かった。
と分析された。フラウィウス・ヨセフスの記述によると、「ユダヤ戦争」が、勃発した
発端は、カイサリアにおけるユダヤ人の殺害であった。即ち、当時のユダヤ属州の総督
フロルスが、エルサレムのインフラ整備のための資金として、神殿の宝物を持ち出した
ことにあった。と、書いている。これをきっかけにエルサレムでの過激派による暴動が
起こったのだ。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ、ギスカラのヨハネ、エル
アザル・ベン・シモンら、と伝えられるが、いずれも強硬派・原理主義者に属した点も
事態過激化への呼び水となった。とされる。ローマ側では、暴動の首謀者の逮捕・処刑
に向かい事態を収拾しようとする。が反ローマの機運を盛り上げ、逆に全土に飛び火を
させてしまう。だが、主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかった
ユダヤ人たちは、ここで反ローマで結束し、隠遁修行生活をしていたエッセネ派などを
、反乱に加わり、ローマ皇帝ネロが死去した。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:13:17.14 ID:p921etvw3
 閑話休題x   006

 ユダヤ戦争は、開始から3年目にして、4人のユダヤ人側の指導者が現れた。西暦68
年の事だ、すなわち、ギスカラのヨハネ(以下はヨハネ)、エルアザル・ベン・シモン
、ヨセフス・ベン・マタティア(フラウィウス・ヨセフス)、そして、シモン・バル・
ギオラ(ギオラ)である。エドム人であったシモン・バル・ギオラは「改宗者の息子」
を意味する愛称であった。シモンにとって、ヨハネ(使徒=選ばれし子)は最大のライ
バルであった。ギオラは司令官となり、約4万人ものローマ軍を釘付けにした、非常に
有能な司令官であったとされる。実際に、この年の6月9日にローマ皇帝ネロが自殺し、
70年までの2年間で4人のローマ人が、相次いで皇帝の地位を争う内戦時代にに突入し
、中央政府が、かなりに弱体化し、ユダヤ戦争への対応が棚上げとなったことがプラス
に働いている。ギオラ達は、「奴隷の為の、自由と自由のための報酬。」を公約して、
フラウィウス・ヨセフスらと政治的な路線で、対立した。やがて、ヨセフスはローマ軍
へ降伏することとなった。フラウィウス・ヨセフスは、『ユダヤ戦記』を著しこの顛末
を記した著者である。紀元37年〜100年頃 に、生き、帝政ローマ期のユダヤ貴族で政治
家となり、著述家になった。66年に勃発したユダヤ戦争で、当初ユダヤ軍の指揮官とし
て戦った。が、ローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚となり通訳官として、エルサレム
陥落にいたる一部始終を目撃した。本名ヨセフ・ベン・マタティアフでマタティア族長
のハスモン王朝の息子ヨセフとされる。ヨセフスは、エルサレム(ユダヤ属州州都)の
祭司の家系に生まれていて、彼自身の言葉によれば、青年時代にサドカイ派やエッセネ
派など、当時のユダヤ教の並みいる諸派を経て、最終的にファリサイ派を選んだ。とい
う敬虔なユダヤ信徒であった。64年に、ユダヤ人の陳情使節の一員として、ローマ市内
へ赴いて、ネロ帝妃のポッパエア・サビナの知己を得た。ユダヤ戦争の初期(66年)、
ヨセフスは、防衛のためのエルサレムから、ガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパ
タを守ってローマ軍と戦っって敗れている。

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:14:05.62 ID:p921etvw3
 閑話休題x   007

 ガリラヤの町ヨタパタは、現代で言うゴラン高原からナザレ街道筋の街と思われる。
異邦人への投降をよしとしなかった守将たちは、自決を決議、くじを引いて互いに殺し
あう道を取ったが、ヨセフスは、最後の2人になったところで、もう1人の兵士を説得
した。とされて、2人で投降する事にしたのであった。ローマ司令官ウェスパシアヌス
は、後にローマ皇帝になるのだが、彼の前に引き出され、ウェスパシアヌスが、預言者
と聞き、「俺を予言してみろ!」とからかった。ところが「ローマ皇帝になる。」と、
予言した為に、気を良くして、命を助けられたのだった。現実に、ネロ帝死後は混乱を
経て、実際にウェスパシアヌスが、皇帝になる。と、その息子ティトゥスの幕僚として
重用され、エルサレム攻撃に参加させられた。こうして、70年のエルサレム陥落を目撃
した。71年に、ティトゥスと共にローマに向かい、厚遇を受け、終生そこで暮らして、
ローマ市民権と皇帝の氏族名であるフラウィウスという名まで与えられた。といわれる
。75〜80年の頃のローマで、これまでの自分の経験と、種々の資料をもとに、自叙伝と
も言える『ユダヤ戦記』を著わして、高い評価を得た。ヨセフス自身によると『ユダヤ
戦記』は、もともとアラム語版が存在し、それをギリシャ語で書き改めたといわれる。
アラム語版は、今は現存せず、現在まで伝わっているのはギリシャ語版の『ユダヤ戦記
』である。その後95年頃、天地創造からユダヤ人の歴史を書きおろし、大きなスケール
の『ユダヤ古代誌』も、完成させる。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言
」と呼ばれ、イエスに関する記述があることで有名である。キリスト教徒側で保存され
ていた文書であったことから、後世の加筆の有無が問題となっている。三代目のフラウ
ィウス朝の皇帝の幕僚として、何不自由のない生涯を過ごしたかに見えるヨセフスであ
るが、裏切り者の烙印や、同胞のユダヤ人やローマ人からの非難や中傷に終生悩まされ
たとされ、それが彼を著述に駆り立てる一因にもなった。といわれる。その彼が死んだ
のが、100年頃のローマであったと伝えられる。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:15:15.96 ID:p921etvw3
 閑話休題x   008

 一方、ユダヤの中で、「改宗者の息子」とされたギオラ派であるが、ナザレのイエス
に終始していた。この頃、エドム人たちは、ヨハネの力を恐れて、エルサレム市街の、
一部に固まって住んでいた。ギオラは、69年4月にその場所へ入り、ギオラは王として
、エルサレムが陥落するまで、王として裁判官となり、裁決を行った。狭いエルサレム
市街地内で、熱烈信者党を、扇動するエルアザル・ベン・シモンと、シカリウス派を率
いるギオラ、そしてそれ以外の、反対派や反ローマ党は、ヨハネを指導者として集まり
、ローマ軍と闘った。ただローマと争う時以外は、ユダヤ人達は、四分五裂の内戦状態
であった。ヨセフスは、ヨハネの部下が、しばしば男達が、女装で通りをパレードし、
女に色目を使って、スポーツと称して、人殺しを行った。と記載されている。結局は、
このギオラは、エルサレム神殿を包囲して、ようやく宗教家ヨハネを抑えている。しか
しながら、この間には、さらに別の派閥が、新しく結成され、エルアザルらが、ヨハネ
の勢力の信徒達の一部を奪い取った。伝えられるところでは、エルサレムが内戦状態に
陥り、神殿へ参拝に来たエルサレム市民が、神殿内の死体を上らなければならなかった
程だった。といわれる。つまり、ギオラやエルアザルなど新興ユダヤ教団は統一ユダヤ
の為に、多くのユダヤ頭目達を、自分の部下とするか宗派に属させるかを強要し、脅迫
しそぐわない者を暗殺していったのであったのだ。ローマ軍の総司令官ティトゥスは、
このエルサレムの惨状に対して、戦わず兵糧攻めを行うことを決し、更にユダヤ人側へ
降伏を勧告した。が、ギオラやエルアザル、ヨハネら強硬派が牛耳るユダヤ人側は一切
の勧告を無視した。70年、しびれを切らしたローマ軍は、一斉攻撃をしてエルサレムは
、簡単に陥落した。結局ギオラは、エルサレム市内に隠れ逃げたもののやがて発見され
、ローマへ連行されてタルペーイアの岩で処刑された。と伝わっている。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:54:59.28 ID:p921etvw3
 閑話休題x   009

 ローマ側で、対応にフロルスに、シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、
反乱軍の前に敗れてしまったので。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに、
三個軍団を与えて鎮圧に向かわせたのだが、このウェスパシアヌスは、息子ティトゥス
らと共に出動して、多大な業績を残している。実はこのエルサレムを攻略する前に周辺
の都市を落として、孤立させようと考えて、ユダヤの周辺都市を各個撃破していったの
である。ウェスパシアヌスらは、このユダヤ軍を撃破しながらも、サマリア人の助けを
借りた。ガリラヤなどを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した時に、この時
に傍にいたのが、この善きサマリヤ人と呼ばれた、パレスチナ人達であった。ガリラヤ
とは、現代のパレスティナの地名であるので、イスラエルの事になる。16〜18世紀まで
現代に「残された理想郷」や「現実の楽園」と称された、至って豊かな土地であった。
ガリラヤ湖を含んだ地域で、現在のイスラエル北部の地域と、ヨルダンの一部を含んだ
場所指すと言う。ゲルマニア・インフェリオルの頃の話だ。ローマ帝国の拡大した時、
各地域は属州として君臨し、ゲルマニア領域を持ったローマ帝国は、オランダ南西部、
からフランス北東部、およびドイツ西部までも、広域に支配していた。州都はコロニア
・アグリッピネンシスで、現在のケルンにあたる。ケルンとはケルト人の都と言う事に
なる。この地域の、ゲルマン人を率いて、ガリラヤなどの、南を属州としたのである。
ガリラヤの名はヘブライ語ガーリール(周辺)に由来し、エルサレムを中心として発達
したユダヤ教徒にとっては、辺縁の地であった。とされる。ナザレのイエスの宣教地を
始めた場所として聖書に記述され、ルカの福音書では、マリアが天使ガブリエルに受胎
告知を受けたところとされる。紀元前前80年頃ギリシアの歴史家「ポセイドニオス」が
書いた記録に、「前2世紀末に ゲルマンの小部族「キンブリ族」「テウトニ族」が、
(古代ローマのケルト人が住む処)のガリアに攻め込んで来た。」との一説から「ゲル
マン」という単語が最初に歴史に、登場しゲルマン民族と言い方になった。紀元前50年
頃のジュリアス・シーザー(カエサル)の『ガリア戦記』・紀元100年頃 「タキトゥス」が書いた『ゲルマニア』の話である。

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:56:02.34 ID:p921etvw3
 閑話休題x   010

 68年の4月の、ガリア・ルグドゥネンシス属州の、総督であったガイウス・ユリウス
・ウィンデクスによる反乱は、帝政ローマの没落を象徴する反乱だった。ガリア・ルグ
ドゥネンシスとは、ローマ帝国の属州のひとつで。現在のフランス東部にある、現在の
リヨンの街とされている。ゲルマニア・スペリオル、即ちボンバルディアがローマ帝国
の属州で、日本語は上ゲルマニア、高地ゲルマニア、近ゲルマニアなどと訳される場所
だった。この地はガリアのケルト人居住区にあった。皇帝属州であり、皇帝の管轄に入
るが、この東側にラエティア、西側にガリア・ルグドゥネンシス、北西にガリア・ベル
ギカおよびゲルマニア・インフェリオルがあって、イタリア半島は、下ゲルマニアと、
低地ゲルマニア、遠ゲルマニアと呼ばれた時期だ。「ルグドゥネンシス」の地方の首都
ルグドゥヌムの現在のリヨンは、当時では、恐らく重要な都市であったと思われている
。つまり、リヨンの綿の繊維工業は、かなりに古い紀元前からの工業地帯で、本来での
境界線は、セーヌ川とマルヌ川の間であって、水車を使って、小麦粉生産も、綿織物も
金や鉄の道具もあって、衣食住の一大集積と分散の港町だったと言える。ここを挟んで
北東側がガリア・ベルギカ、ガロンヌ川を挟んでガリア・アクィタニアと接している。
ローマ皇帝ネロは、カトリック総本山のバチカンと共にあったが、16歳でローマ帝国の
第5代皇帝となり「暴君」として知られた皇帝となった。邪魔になった周囲の人間を、
残虐に殺害する冷酷非情なふるまい。があったとされ加えて、キリスト教徒を弾圧し、
残酷な仕方で処刑した。「暴君」と呼ばれる悪名高い皇帝で知られる理由は、単に共和
政から独裁に変わったからである。第3代皇帝カリグラは、精神に変調をきたしていた
。狂気のふるまいを見せ、ネロを育てていた23歳の妹アグリッピナを、何の前触れもな
く国家の敵だと非難、流刑に処した。しかし、皇帝暗殺で、ネロと共にローマに戻って
、カリグラの跡継ぎの第4代皇帝クラウディウスの妻に収まった。加えて息子のネロを
クラウディウスの後継者とすることに成功し、クラウディウスを毒キノコで毒殺する。
こうしてネロは皇帝に即位した。

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/04(木) 18:57:29.56 ID:p921etvw3
 閑話休題x   011

 こうしてネロは、帝王学や宮廷教師が付けられ、教育が施されたが、それも虚しく、
ネロ自身には、道徳哲学にも、政治にも、科学技術にも興味がなく、唯一体育系の殺戮
を鑑賞した。まあギャンブラーの闘鶏好きみたいな物だったのだろう。ローマ社会の中
で、放蕩なふるまいを充分に継続した。母、妻、部下など邪魔になった人物に、次々に
殺害して、セネカまでも自死に追いやるので、ネロは、元老院から「国家の敵」と宣告
された。ここで、逮捕のために兵が差し向けられ、ネロは召使いの家に逃れたものの、
逃げ切れないことを悟ると自死を決意し実行した。「暴君」とは「人民を苦しめる君主
」で、比喩的な意味として「横暴にふるまう人」のことを指す。ネロが残したローマの
オリンピックは「ネロ祭」と呼ばれる壮大なお祭りであった。ギリシャで行われていた
5年ごとのオリンピア競技会に対抗し、ローマのオリンピックは、年に2回開催された
が、ネロの死とともに終了となった。ローマ全体を会場として、アマチュアが競技を楽
しんだ競技会は入場無料で行われ、市民に大盛況であった。ギリシャ文化に憧れていた
ネロは、ギリシャ人の理想郷「アルカディア」をローマに再現しようと考え、ローマの
都市部を改造する壮大な計画を立てた。現在コロッセオがある低地から、エスクイリー
ノの丘やパラティーノの丘に広がる敷地に、人工湖や庭園や本館が建てられ、贅と技術
が尽くされ、「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」と名付けた宮殿が建てられた。本館の
内部には、大理石やモザイクが、贅沢に使われて、ギリシャ神話に登場する神々などが
壁画に描かれたと言われる。ネロは、暴君として恐れられていましたが、面白いことや
新奇なこと、美の称賛と言った、芸術を愛する、体育会系の若者として人気がある催し
を行った。ところが、ここは「ローマの大火」が紀元64年に起こっていた。競技場の下
から出火した火が、9日間燃えてローマ市内を焼き尽くしたのである。

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 03:44:11.02 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   012

 この大火に対して、被災者への支援や、再建に関して、ネロは施策を行い、市民には
評判が良く、ローマ市内は、以前よりも美しく蘇った。にも拘わらずに、大火で燃えた
地域が、ネロの黄金宮「ドムス・アウレア」の建設予定地であったため、住人を追い出
しに、ネロが火を放ったとの噂が広がったのであった。ここで、キリスト教史における
初めてのキリスト教徒迫害を行なわれた。ネロは、こうした醜悪 な疑いを晴らそうと
、キリスト教徒が放火したのだ。として告発して、キリスト教徒を捕らえて拷問し処刑
した。それも、ライオンに食い殺させるなどの見世物の興行処刑と言う手法の残酷処刑
を行ったのである。まあ、今でも北朝鮮で行われる、獣による 食い殺し処刑である。
実は、かつて野獣処刑は、ネロが初めてでは無くよく行われていた。というのも、キリ
スト教ユダヤ教が流行る前は、ミトラ教が主体で、犠牲牛、即ち生贄(いけにえ)儀式
は年間行事で、当時普通に行われていたのだ。更にさかのぼれば、ミトラの前に拝火教
が世界を占めていた。拝火教はゾロアスター教に納められ、最古の宗教で、日本でも、
无教(けんきょう)として上陸している。この拝火教は、実は弔いに風葬が行われた。
風葬(ふうそう)とは、死体を埋葬せずに外気中に晒し、自然に還す葬儀で、日本での
鳥居を築いて、鳥の留り木を置いて死肉を自然に還らせる。といった葬儀である。この
時、人は狼や兎など、陸上動物に食い荒らせ無い様に常駐し、骨になるまで見張り、骨
は祠に納めるのである。これを曝葬(ばくそう)、空葬(くうそう)ともいう名も使う
。しかし、その後に聖書が記述されたのか、『ヨハネの福音書』に、「獣の数字666
」が示され、その意味を考えよ、と書かれていて、此の時の「獣」とは皇帝ネロを表し
ている。とする説まである。しかし、である。これこそが言い訳の付かないまやかしの
術だ。ネロと聖書では、聖書の方が時代的に出現が遅いのだ。ここにクムラン教団とい
うかクムラン宗団の嘘と工作がある。よく知られた「ユダヤの陰謀」と言う所作である

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 03:58:00.53 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   013

 不思議なのは、初代ローマ皇帝ペトロは、何故だかイエス・キリストに従った使徒の
一人とされている。初代ローマ教皇ともされても、ネロのによるキリスト教徒迫害での
殉教した人とされている。つまりローマ皇帝ネロ時代に、キリスト教徒を迫害した彼は
、64年にローマで起きた大きな火事の原因をキリスト教徒による放火と断定して、キリ
スト教徒たちを逮捕し虐殺し、迫害を始めるのだが、キリスト教最大の伝道者といわれ
るパウロも、65年に斬首され殉教したと伝えられほど、この帝国はキリスト教国では、
ない国だったのである。しかしながら、ペトロが初代ローマ教皇とされている事から、
旧約聖書に頼ったバチカンがあって、カトリックの教徒は整理されていたのだ。ここに
ギリシャ神話に重きを成すミトラ教と、ユダヤ教基準のカトリックとの、宗教対立が、
見て取れるのである。ここに、ユダヤ教徒=キリスト教原理主義集団のクムラン教団の
穴倉に隠れた隠遁生活の実情がある。じつは、このキリスト教が仏教経典の元バラモン
の教えに基づいていた。と言う説では、実に辻褄があう様に、聖書内のストーリーが、
それより古いインダス文書や『ヴェーダ教』聖典にある。バラモン教と言う宗教は無く
バラモンと言うカースト制度に収まった、ヒンズー教や仏教の前身宗派をして、一般的
にバラモン教と呼んでいる。この中で、ヴェーダ=知識の宗教の聖典が幾つかあって、
女神信仰や自然崇拝の教義書があり、そこに聖書の原型の殆どが網羅されている。その
最古の物として、インダス文字が使われていて、今も解読の最中にある。インダス文字
は、主にハラッパーやモヘンジョダロなどの文明の中心都市で使われていて、現在での
パキスタンとインドの一部に広がるインダス川流域で栄えた文明の痕とされる。多様な
民族が流入し、最初の国際都市として栄え、ここにバビロン王国があったとされる。前
586年、新バビロニアのネブカドネザル王に征服され、ユダ王国のヘブライ人はバビロン
に連行されて捕囚となったが、捕囚でも食糧が無く河辺で砂金を取って暮らしたと言われる。

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 04:11:05.68 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   014

 ペルシアは、ギリシャ読みペルシャで、現在のイラン地域を表したヨーロッパ側の、
古名である。とされる。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)と言われた。思うも
中国からの西の彼方、西の端(はし)と言う意味であろう。で、欧州側からのペルシャ
は古代ペルシア人が、自らに「パールサ」を自称していた。と言われる。それを、古代
ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」とな
った。かつては、イランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられた。
1925年のレザー・シャー・パハラヴィーの即位後に、イスラム化前への復古主義が盛ん
となり、1935年に「アーリア」に由来する「イラン」に改めるように、諸外国に要請し
イランになった。しかし、混乱があり、1959年研究者らの主張によりイランとペルシア
は代替可能な名称と定めている。その後1979年のイラン・イスラーム革命によっての、
イスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定めて落ち着いた。イランの主要
民族・主要言語は、現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。なお、イラン人・
イラン語は、ペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なっている、代替可能ではない
。つまり地方の方言的物を一切入れないイラン語と包有するペルシャ語は、発音が違う
らしい。歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方が語源で、騎馬者を意味するパール
スで、ギリシャ語でのペルシスと呼ばれる騎馬武者で、現代イランでファールス地方に
あたる。まあペガサスが天馬で、鳥の翼を持ち、空を飛ぶ馬と言う伝説の生物だから、
ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、
または、パールサの現代形のファールスと呼ばれている言葉なのである。この地に托鉢
の裸体僧が頭陀行(ずだぎょう)として多くがやってきた。後にジャイナ教となった、
自然崇拝の極致のジャイニズムの到来である。「お前のものは俺のもの、俺のものは俺
のものだが、一切を所有しない。」「農夫の様な虫を殺す、殺生の仕事は出来ない。」
と言う驚天動地の世界観である。曰く「何故人だけが裸で生きないのか。」と問う。

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 04:17:04.32 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   015

ペルセウスはアルゴスの王となったが、ペルセ=異端、ペルセポリス=異邦人街なのだ
。かつて日本にも、托鉢と言う制度があった。インドには托鉢頭陀行というのがある。
仏教などの古代インド宗教において、出家者が行う修行である。現在日本での教育では
人の生活の社会的基盤に、衣食住の充実をあげる。政府の施策はここに基本を置くが、
古代インドの、原始仏教は、出家者とは、所有欲を一切否定するために、修行をしてい
るので、三衣一鉢(大・上・内の三枚の衣と、鉢1つ)の、最低限の生活必需品しか、
所有を認めていない。つまり、仕事の道具さえも、僧の身分では持てなかったのである
。また、修行に専念するため、さらなる「殺生戒」を修める為、害虫捕殺が避けられな
いような畑仕事は行えない。とした。したがって、出家者は、生存するための最低限の
食料は、外部の信者から調達する以外になかった。そうした状況下から、ふだん山地や
森林で修行し、その他の人々とは関わることが少ない出家者は、村落で生活してる信者
との間に、托鉢による交流関係しか頼れなかった。信者の家をまわり、生活に必要な食
べ物などを乞い、信者に功徳を説き、布施を積ませる修行である。簡素で清貧な修行に
よって、煩悩を減らす目的とされてる。この頭陀行というのは、衣食住に対する欲望を
払い去って仏道を求め、そのための修行のことを指す言葉で、具体的には托鉢して歩く
ことや、托鉢僧そのものを指す言葉となった。日本で言う乞食で、乞食とは食を乞う者
で、尊い神聖なもの。とする感覚だ。此処に裸体僧や裸僧の本質がある。滝行や千日行
で山野を歩く修験道の原型である。日本でも奈良時代に托鉢が流行し、寄付金を集め、
広報活動を行って河川事業をした。平安時代の浄土教の布教活動へつながったものの、
日本では、物品の所有を禁止していない。此の為食べ物を乞うという頭陀行には、なら
なかった。役行者(えんのぎょうじゃ)の修験道や、行基の虚無宗(こむしゅう)衆人
道や普化宗の宿坊僧兵など、多様な行者宗となった。多くの宗派には、総本山という、
元締めがあるし、寺は〇〇山〇〇派〇〇寺といった言い方をする。山は庇護者、派は、
流派で、仏教上、寺は支社や出張所の意味合いなのである。ところが道場は道なのである

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 04:18:09.97 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   016

 外典である『ペトロ行伝』によれば、迫害が激化するローマから逃れようとペトロが
アッピア街道を進んでいると、イエスが反対側から歩いてくて、「主よ、あなたはどこ
へ行かれるのですか?」とペトロが尋ねた。イエスは「もう一度、十字架にかけられる
為にローマへ行く。」と答えたので、ペトロは悟りを得て、ローマに戻り、捕らえられ
て逆さ十字架によって殉教した。とされる。ネロの母親であったアグリッピナは、ネロ
を溺愛し、第3ローマ皇帝の妹という血縁だった為数々の差配をし、息子ネロを帝位に
つかせるべく密かに対抗馬を暗殺して行った。又、強力な補佐を付けようともくろみ、
その当時、弁論家・著述家として名声を博していた 哲学者ルキウス・アンナエウス・
セネカ(紀元前1年頃〜65年)を呼び寄せた。セネカは、まずネロの家庭教師となり、
アグリッピナと協力して帝位につかせることに成功する。と当然、皇帝ネロの補佐官と
もなった。ネロの所信表明演説は、セネカが自身の著書『怒りについて』で述べた考え
をもとに、セネカが執筆した。と言われる。また、セネカは『寛容について』をネロの
ために執筆した。その執筆のきっかけとなったのは、ネロが罪人の処刑指示書にサイン
を求められたとき、「文字など知らなければよかったのに。」と言ったことだったと、
いわれる。この言葉に、ネロに寛容の心があることを示したとして、ネロに自分が持つ
道徳心に気づいてほしいという願いを込めて本を書いた。とセネカは述べている。当時
こうした文の識字率は、当然低かっただろう。先に説明した、ペテロがイエスに言った
言葉の「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?」からタイトルを取った、ヘンリク
・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1896年)を映画化した映画『クォ・
ヴァディス』では、キリスト教徒がネロを「アンチ・キリスト」と呼び弾劾する。これ
が原因となって、同年6月にネロが自殺し、69年に4人のローマ人が次々と皇帝に即位
(「4皇帝の年」)した物語にしている。

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:16:47.91 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   017

 パルティア王国(紀元前247年〜紀元後224年)は、古代イランの王朝である。王朝の
名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれた。日本語ではしばしばアルサケス
朝パルティアという名前でも表記され、古代中国では安息と呼称した。前3世紀半ばに
中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世は、裸僧の托鉢頭陀行の乞食を許す為に建国
を決意した。インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王のアショーカ王が、
大きな影響を持ち、インドデカン高原までも統治したからだ。王朝の創設者のチャンド
ラグプタの孫で、紀元前268年に即位し、前232年頃まで在位した。中国漢字で阿育王と
書かれた。釈迦王が産まれた頃は、どんな王国の子でも、托鉢行(たくはつぎょう)は
必至の科目であった。王家が信心深い信者の場合、仏教やジャイナ教を含む古代インド
宗教に於いての、出家して何年間か寺に行き、寺は食糧供給に修行と称した、乞い歩く
業態を採った。出家者の修行形態をの1つが托鉢で、信者の家々を巡り、生活に必要な
最低限の食糧などを乞う(門付け)や、街を歩きながら念仏を唱える(連行)、または
街の辻に立って説話や手相など相談を受ける(辻立ち)により、信者に功徳を積ませる
修行を行う。乞食行(こつじきぎょう)、頭陀行(ずだぎょう)、行乞(ぎょうこつ)
とも言われる。冬の場では、寺の中で文字やお経を知り、春夏秋は、そうして行をする
。仏教やその他の古代インド宗教の修行者への呼称である阿羅漢(あらかん)は、サン
スクリット語のArhat の音写語で、その意味は漢訳の「応供」(おうぐ)が示す通り、
「供養を受けるにふさわしい人」と言う意味である。比丘(びく)もサンスクリット語
の bhiksu の音写語であり、その意味は「乞う人」である。一方で、「食物を乞うだけ
の人」(pindola)=托鉢は、在家の人々から卑俗な人々として見られていたのである。
したがって、同一の行動形態であっても、出家者としての風格を備えていない者では、
在家信者から供養されず、布施を預かるしかなかったのである。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:26:58.16 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   018

 ところが、肥沃なインドでは出来たであろう こうした僧生活も、山など山林生活は
、砂漠などのパルティアの地、即ち 古代イランでは、普通の生活でも、水・食糧は、
乏しかったので、出来ない生活であったのである。そこで夜盗のごとき洞窟生活が存在
した。更にミトラダテス1世(前171年〜前138年)の時代には、現在のイラク、トルコ
東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部など、西アジ
アの広い範囲を支配下に置いていた巨大軍事国家が成り立っていたのだ。前1世紀以降
、地中海世界が勢力を拡大して、ローマ帝国との文化衝突が起こっていたのであった。
特に、アルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って、血みどろの争
いになっていたのである。末期時には王位継承を巡る内乱が起こって、この中でも自立
したペルシスの支配者が、アルダシール1世(在位:226年〜240年)が登場した。この
彼によって蹂躙され、小さな小国集団は滅ぼされ、新たに勃興した、サーサーン朝が、
取って代わって、サーサーン朝ペルシアが生まれる。即ち、サーサーン朝ペルシアの、
登誕は、世界を変えたのである。ここに紀元前1世紀に、現在でのアフガニスタンと、
パキスタンにまたがる地域に、歴史学者によって「インド・パルティア王国」とも呼ば
れる国、崖の民、パルティア人の政権が成立していた。とする理由がある。アゼス2世
、もしくはゴンドファルネス(ゴンドファレス)などの王達は、横穴生活に建設した国
、石造文化の地域である。この王国は、カーブル周辺の、ギリシア人の王国を滅ぼして
いき、インダス川河口部の、サカ人たちも支配下に置いていた。インド・パルティアの
、王ゴンドファルネスは ギリシア語とインドの現地語で「諸王の中の王」と刻んだ、
金銀のコインを発行し、経済を作った。大王(maharaya)と称する碑文をも残していた
。インド・パルティア王国は、一般にパルティア王国と呼ばれる。西アジアの王国関係
は、現在でも調査が続けられ、明瞭ではない。ビヴァールはこの二つの国家は政治的に
同一と考えられると主張している説もある。ともあれこうして maharaya(マハラジャ
)制度は産まれてたのである。つまりは、紀元前200年も昔から、公国制度が出来上
がっていて、治めていたのだ

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:27:42.80 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   019

 ここらで少し、国というものを考えてみよう。日本では国の正式名前を「国号」と、
呼ぶ事になっている。この「号」と言うのは、いわゆる「目印」と言う区分けを指す。
詰る所、固有の括り付けが出来る集団、を意味する。従って本の発行は「頁」を閉じた
一冊ごとの物が「号」であり、船や車も「号」が付けられる。これは「郷衆」つまり街
の集団に対して組み合わせと同じ発想と言える。この国号の最後の部分には、その国の
政体を表す名称が付く事も多い。この名称の種類が幾つかあるが、代表的に「合衆国」
「共和国」「王国」「公国」「連邦」などの5つが挙げられる。ただ、これらは具体的
な意味あいなどについては、分かりにくい部分があって、授業で聞くぐらいで後は聞く
事はない。「合衆国」「共和国」「王国」「公国」「連邦」の意味や違いについて、少
し解説していけは「合衆国」とは、江戸時代に作られた言葉である。「合衆国」とは、
既に出来た国が、国民の意見で合わさった国」として作られた。と言うのも当時の幕府
は鎖国政策で、アメリカの情報は長崎通詞が、殆ど訳していたからだ。この「2つ以上
の国家または州が同一主権のもとに連合してできた単一の国家」という。現在は世界で
アメリカとメキシコの2国のみで、単に「合衆国」と言う場合は、「アメリカ合衆国」
を指して言っている。「アメリカ合衆国」は英語では「United States of America」と
表記され、いわゆるUSAなのであるが、「United」の語はイギリス(United Kingdom
 of Great Britain and Northern Ireland)でも使われて移植されている、この場合、
日本語的には「連合王国」と訳される。つまり「合衆国」は、「連合国」と実質的な違
いはない。が、此の時、英国は大英帝国であり、連合国家であっても、独立自治州が、
互いに集まってきたアメリカ大陸の模様と、植民地支配で大きくなった英国とに大きな
違いを見ていたし、何よりも日本の天皇のいる様な、王国であった事で、通詞は恐らく
同じ言葉の、連合国家の言葉は、使いたく無かったのであろう。

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:32:13.72 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   020

 この「 United States=合衆国」という訳語は江戸時代末期から使われてきたのだが
由来については、はっきりしていない。現在では、「United」の語には、「連合国」の
訳語が当てられることが多い。少し前には、ロシアは、複数のソビエト社会主義共和国
から構成される「連邦国家」としてソビエトがあった。しかし、正式にはソビエト社会
主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、ロシア語表記の正式名称
Союз Советских Социалистических Республик
は、略称で頭字語: СССРとしていた。しかし、英国の英語表記から、Union
of Soviet Socialist Republics、略称はUSSRが用い
られていた。ところが、現在ロシア連邦になってからは、海外でも単にロシアとされる
。まあ、このロシアが、連邦国家か、共和制国家か、決めるに決めかねるまま推移した
と言うのが正解であろう。その「共和国」という国家は、「共和制をとる国家」という
意味の言葉であって、「Republic(リバブリック)」の訳語になります。ここで「共和
制」とは、と言う意味が使われている。つまり「国民が主権を持ち、直接・間接的に、
選挙で選ばれた、元首や代表者が、一定期間ごとに国を治める政治形態。」と言う方式
を言う。つまり、「パブリック=政府機能」が、「Re=変わる」と言うリバイバルと
かの「流行・流動」を示しているのだ。これは「君主制(monarchy)」の反対語にあた
る言葉で使われている。mon・ar・chy(モナーキー)の、一人が、全ての鍵を持つ、と
云うもので、これに対抗した議会制政治が一般的である。現在、世界の多くの国では、
この共和制の形をとる国として世界に示してはいる。が「共和制=民主制」と捉えられ
るべきだが、実際には共和国の名称であっても、独裁政治が行われる例は多くあって、
必ずしも同義とは言えない世界が広がっている。つまりソ連が、わざわざCCCPとの
表記としたのは、自由主義社会の民主主義体制ではないので、本来の連邦と呼ばなかっ
た。という事になる。この意味では言葉とは、難しい物がある。特に国際社会に於いて
は。

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:55:32.71 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   021

 「共和国」は単に、国王のような君主制を反対し、国民から選ばれた大統領などが、
統治する国を指していて、その意味では「合衆国」も種別では「共和国」の一種である
という言える。一方で、「王国」は君主が治めるという点で、日本も「共和国」とは、
一線を隔し、英国と共に違っている。「王国(おうこく)」は、文字通りに、「王が、
支配する国」という言葉で、君主として王が統治している国家を指す。英語表記では、
「Kingdom」と表記される。「王国」では、「グレートブリテン 及び、北アイルランド
連合王国」の正式名称を持つ大英帝国(イギリス)」や「オランダ王国」「デンマーク
王国」「スペイン王国」「ベルギー王国」「ノルウェー王国」などが挙げられるだろう
。ちなみに、日本の場合、天皇は「国の象徴」であって、統治はせず主権は国民にある
、としてる為「皇国」=「王国」とはしてない事もあって、日本国は単に英語表記でも
Japanのみの表記である。「王国」と「共和国」の違いが、前述のように、「君主
が存在する」点での違いだ。ここで「君主」とは、世襲で位につく統治者の事で、その
意味では日本は、天皇王国になるのかも知れない。しかし、一方で「公国」というのが
あって、「王国」と似ていますが微妙な違いがある。つまり、「公国(こうこく)」と
は、「“公”の称号を持つ者が、元首として存在する国」を意味する。「公」の称号と
は、具体的には「Prince(プリンス)」や「Duke(デューク)」などのことで、しばし
ば公爵とも訳される。つまり帝国下でも、自治を保ち領地を持って統治してきた国であ
る。こうした貴族が君主として、代々統治している国を指し英語では、「Principality
(プリンシパリティ)」と表記される。prin・ci・pal・i・ty、領地占有者なのである
。欧州社会に於いて、キリスト教は純然たる権威を持つ。我々日本人が思う以上に教皇
と言う立場の意見は、世界を左右する。962年に ローマ教皇ヨハネス12世オットーに、
ローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」である。これによって、「神聖
ローマ帝国」が成立した。しかし実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れ
るのは、実は13世紀半ばなのである。

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:55:56.01 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   022

 神聖ローマ帝国は 英語で「 Holy Roman Empire」で、かつて中央ヨーロッパに存在
した国だ。ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称
で、ドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在してい
た多民族国家、もしくは国家連合であった。最初は統一国家であったが、14世紀から、
国家機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も増え、最終的に 国内の300以上の
王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地となり事実上
の独立を獲得して、ドイツ人の国家連合となった。ただ、オーストリア大公国のハプス
ブルク家のみは別格で、皇帝の座を独占し帝国とされた。こうした「公国」は「王国」
同様にヨーロッパに残る。現在は「リヒテンシュタイン公国」「モナコ公国」「アンド
ラ公国」の3ヵ国、更に「ルクセンブルク大公国」大公の国4つがある。「大公国」は
「大公(Grand Duke)」が元首を務める国のことであって、英語は 「Grand Duchy」と
書かれる。このように「公国」も君主制の国家という点では独裁国家であるし「王国」
とはさしたる違いはないのだが。ただ、元首を務めるのは王ではない「Prince」などの
、爵位を持つ者である点で使い分けられて、厳然たる差別がある。日本も戦前は皇位を
爵位のように扱われた経緯もある。「連邦(れんぽう)」とは、「州や共和国などの、
複数の支分国が、単一の主権のもとに結合して形成する国家」という意味のである。と
前述した。「連邦」内においては、各支分国はそれぞれ自治権や独自の統治構造を維持
し、対外的には統一国家の形を取る。英語で、「federation(フェデレーション=認証
国家)」と訳される。現在の国名に「連邦」が含まれる国は、「アラブ首長国連邦(U
AE)」「オーストラリア連邦」「スイス連邦」「ドイツ連邦共和国」「ブラジル連邦
共和国」「ロシア連邦」などが挙げられる。「連邦」では、「2つ以上の州や国から成
る」という点で、「合衆国」と同じだ。「連邦」「合衆国」「連合国」の3つは、名称
が異なるだけで、実質的に違いはそれぞれ作る国家体制でしかない。又実態は、連邦制
で、これらの政体名を国号に含まない国も多くあり、逆に連邦制で独裁の政体も出てき
ている。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:56:21.85 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   023

 又「共和国」と「王国(公国)」なども、君主制の有無については問わない点で区別
されても同じではない。そのため、「共和国」と「王国」のどちらでも、連邦制を取る
ことが出来て可能である。ではマハラジャ制度は、どういう物だったのかを、推測する
。一般的に西洋と東洋では、集団と個の取り組み方や考え方が違っている。性格や生活
気候や食糧や水事情が違うからであろう。更に昔と今でも、大きく違う宗教への依存性
や集団統治への入り込みが、全く違っていて、現代の世界観や生活感では、およそ予想
できないくらいの、人生の指針になっていたであろう慣習性や因習性が横たわっていた
。北部インドで、月氏による「クシャーナ朝」が成立した結果、パルティアの東部国境
の大部分が、国情安定に至ったとされている。この結果、前1世紀半ばでのパルティア
は、主として南部よりは、北部のローマに対して、積極的な対策に出ていく。北部国境
の安全を勝ち取ることに集中した。ミトラダテス2世が、アルメニアを征服した翌年に
、ユーフラテス川で、パルティアの外交官オロバズスと、ローマのキリキア属州総督の
(プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラが会談した。この会談で、両者は、
恐らくユーフラテス川を パルティアとローマの国境とすることに合意したのだろう。
ただし、複数の学者はこの結果に、スッラはこの条項を、ローマ本国に伝達する権限し
か持っていなかった。と主張している。つまり意向の伝達のみで、同意とか全権を持っ
た大使では無かった。としている。それがその後の、パルティアはシリアでセレウコス
朝のアンティオコス10世(在位:前95年〜前92年)の戦いになり、彼を殺害している。
と見ている。最末期でのセレウコス朝の君主の、デメトリオス3世は、バロエア(現:
アレッポ)の包囲を試みた。が、パルティアでは、現地住民に、援軍を送り、デメトリ
オス3世を撃退している。このオロデス1世(ウロード1世、在位:前90年〜前80年頃
)や、ドラクマ貨ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように、
思われている。

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 21:57:43.04 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   024

 セレウコス朝アンティオコス時代は、かなりに殺伐とした政治風景がある。アンティ
オコス3世の子で、アンティオコス4世となった王は、もともと、ミトラダテスという
名前であった。つまり他に4世がいたのだ。しかし即位後か、又は兄アンティオコスの
死後に、アンティオコス4世という名前を、名乗り出て持ったようである。この、アン
ティオコス4世は、セレウコス4世の死後、権力の座につくのだが、彼は 紀元前188年
には、この地にいなかった。共和政ローマとの、シリアの同盟関係で結ばれたアパメア
和約を受けて、ローマへの人質となっていた。同地ローマで暮らしたが、セレウコス4
世の、正統な後継者である嫡子デメトリオス1世ソテルと、交換されシリアへ戻って来
た。とされている。まあ人質だが交換留学とも言える。しかし、アンティオコスはこの
機会を逃さず、まだ幼いセレウコス4世の継承者アンティオコス王子の摂政の座につき
、数年してアンティオコス王子を葬ることに成功している。恐らくセレウコス4世の、
長男の子で、本家筋の王子に分家筋の甥が牙を剥いた形だったのだろう。アンティオコ
ス4世の時代の事跡で、特筆すべきは、この当時大国エジプトのプトレマイオス朝との
戦いに、何故だか勝利を収めたことである。この勝利で、アンティオコス4世はエジプ
ト征服の寸前までいく。しかしながら、中東の軍事バランスが崩れることを危惧した民
がいた。ユダヤである。ここでエジプトとローマの輸出入交易で富を貯めていたユダヤ
は、ローマ軍の介入をさせ、反乱(マカバイ戦争)を起している。このため、断念して
軍を引きかえさせるのである。アンティオコスは、ユダヤに対して圧政を持って臨み、
エルサレムを破壊した。ここで多くの敵対者や商人達を処刑した。これに対してユダヤ
人たちは、ユダ・マカバイの一族であるハスモン家をリーダーとして立ち上がるのだ。
市街戦で、アンティオコスの派遣した軍を撃破し、各地で奮闘した。アンティオコスは
怒りにかられて、自らユダヤ侵攻軍を率いた。が、道半ばにして急死。紀元前 163年の
ことであった。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:40:22.64 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   025

 実はこのユダ・マカバイの一族であるハスモン家こそは、今のイスラエルの王朝子孫
だった。アンティオコス4世は勃興しつつあったパルティア王国への派兵も繰り返して
いる。作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念さ
れた。アンティオコス4世の継承者となったのが、まだ幼かったアンティオコス5世の
エウパトルであった。こうして、この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代と
なった。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱して、以後は衰退の
一途をたどることになり 約100年後にローマによって滅ぼされることとなる。それでも
セレウコス朝アンティオコス時代は継承されて、アンティオコス10世(在位:前95年〜
前92年)が現れている。発掘調査では、紀元前80年の記録で、バビロニア出土の粘土板
に初めて現れる10世であった。代わりに、それまでのパルティア王ゴタルゼス1世の名
は、突然に現れなくなる。おそらく、ゴタルゼス1世と、争いがあったと思われるのだ
。その後のオロデス1世は短期間しか統治しなかった。紀元前76年または75年の粘土板
には、アルシャカン(おそらくシナトルケス)という名の王と、彼の姉妹で妻であった
イスブバルザという王妃の名が現れる。バビロニアを、ゴタルゼス1世が、王国の東部
をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃〜前80年頃)が、それぞれ統治した。
ようだ。この分割統治体制は、大きくパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラ
ネス2世が、西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした。この
時失われた領土は、シナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃〜前71年頃)の、
治世まで、パルティアに戻ってきていない。アナトリア地方で、ローマとポントス王国
の間で戦争が勃発。(第三次ミトラダテス戦争)である。ポントス王ミトラダテス6世
(前119年〜前93年)と、同盟を結んでいた アルメニア王ティグラネス2世は、ローマ
ローマ抵抗同盟を、パルティアに依頼した。が、パルティア王シナトルケスは、救援を
拒否したのである。此の時パルティアはローマとの闘いが出来るほどの国力はなかった
のだ。

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:40:52.33 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   026

 ハスモン王朝の起こりについては、フラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の
外典(第二正典)の「マカバイ記」1・2に詳しく書かれている。マカバイ記は七十人訳
聖書に含まれていたために、カトリック教会と正教会では、旧約聖書の一書として受け
入れられたが、公会議のヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派は、これを
正典として受け入れなかった。マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝のシリアの王
アンティオコス4世エピファネスは、エルサレム神殿において、異教の神への捧げ物と
祭儀を行って、これを冒涜した。このため、紀元前167年に モディンという村の、祭司
マタティアとその息子達の、ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタンが、シリア
の役人を殺害して、荒れ野に逃れて抗戦を呼びかけた。としている。紀元前166年に 父
マタティアが死ぬと、息子であったユダ(ユダ・マカベウス)がマカバイと呼ばれて、
そのあとを次いだ。ここで軍事蜂起を行ってシリア軍を排除し、紀元前164年の キスレ
ウの月(12月)の25日に、聖所を清めた。今も行われるユダヤ人の祭り「ハヌカ」は、
このユダが聖所を清めた出来事を記念している。と言う。シリア軍は、依然としてエル
サレムの要塞に拠っていたが、シリアで将軍リュシアスが実権を握ると、エルサレムに
大攻勢をかけて、ユダたちは窮地に陥った。しかしながら、セレウコス朝内の権力闘争
が起こり、リュシアスは、ユダたちと和解し、ユダヤに対するシリアの主権を認める。
と言う事と引き換えに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるという協定が結ばれた。
その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスに ユダ達が叛旗を翻したことで
、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こされる。ユダは、その争い中の 紀元前160年
に戦死する。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンは、シリア王との戦闘の末
に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系に属さない人物が
大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々は、ハスモン家と距離をとっていく。

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:41:19.32 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   027

 その後、紀元前142年 ヨナタンは敵将トリュフォンの手に落ちて殺害された。兄弟の
シモンがヨナタンの後をついで大祭司となり、シモンは兄を継承し、軍事的指導者にし
て大祭司という立場に収まったのである。シモンの時代には、ユダヤ人はエルサレムに
駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた。
ハスモン家の祭司として、正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハス
モン一族は、政治的実績の前に異論とならなかった。多くの人々が、「忠実な預言者の
出現するまでは、シモンが彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのを、よしとした
。」のであった(マカバイ記1 14:41)。こうして 紀元前142年から紀元前135年にかけ
て、このシモンの時代に、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功。
シモンは、そのままローマに使者を派遣して、自らの権威の承認を求め、元老院達は、
これに応じて、シモンの政権掌握に同意し承認したのである(マカバイ記1 15:19)。
しかし、紀元前135年2月、突然に、シモンは、娘婿プトレマイオスに 暗殺された。と
される。シモンは此の時、二人の息子マタティアとユダと共に殺害されたため、三男の
ヨハネ・ヒルカノス1世が後を継いだという。彼の治世は、紀元前135年から紀元前104
年まで及んでいるので、比較的穏やかに進んだようだ。それでも、ヒルカノス1世は、
傭兵を用いて サマリアやかつてエドムと呼ばれたイドマヤにまで支配権を及ぼすこと
に成功している。ハスモン朝の世襲体制に対して、当初ハスモン一族の対シリア戦争に
対して協力的だった ユダヤ教の敬虔派などは、批判に転じるようになった。此の頃、
敬虔派の中から、律法への忠実さを特色とするファリサイ派が発生してきていた。ヒル
カノスはファリサイ派でなく、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことでユダヤ
教の指導層をつなぎとめようとした。

29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:41:45.83 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   028

 ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が、息子アリストブロス1世を大祭司
にたてる形で、代理でユダヤを統治した。しかし、実権のない大祭司の地位が不満だっ
たままで、アリストブロス1世は、母親と兄弟を捕縛、獄に投じて母を獄死に追い込み
、政教両面の指導者の地位を強引に手にしたのであった。彼は「大祭司」にして「王」
の称号を持つという、ユダヤ的独特の神権政治を具現した初めての人物となった。しか
し それもつかの間の事で、一年たらずあと 紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛
の中で病死したのである。アリストブロス1世の死後は、アレクサンドロス・ヤンナイ
オスという、ギリシャ風の名前を名乗った弟の ヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟
と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって
釈放された。更に彼女と結婚することで王位につくことが出来た。アレクサンドロスは
紀元前103年から 紀元前76年まで統治し、遠征先の、ラガバ要塞の包囲中に死去した。
もともと ユダヤ民衆はハスモン朝に対して、多くは冷ややかであったが、ヤンナイオ
スは、反対者に対して極刑で望んだため、その恐怖政治にハスモン朝に対するユダヤ人
の反感がさらに高まった。アレクサンドロスの後、妻サロメ・アレクサンドラ(在位:
紀元前76年〜紀元前67年)、さらに息子アリストブロス2世(在位:紀元前67年〜紀元
前63年)によって継承されていった。本来は、大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス
2世が王位をついでいたのだが、弟のアリストブロス2世が武力によってこれを奪取し
この兄弟争いがハスモン朝時代の終わりを早めることになっていった。一旦王位を追わ
れ、大祭司職も剥奪されたヒルカノス2世。ここでイドマヤ人の武将のアンティパトロ
スの支援を受けて体制を建て直し、エルサレムに迫ってアリストブロス2世と決戦を迫
った。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:42:14.45 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   029

 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
ブロス2世の遺児アンティゴノスによって、ヒルカノス2世捕らえられ、王位を奪われ
た。アンティゴノスは、このパルティアの支援によって、父の仇を討って王と大祭司の
地位を手にいれることに成功した。紀元前40年から紀元前37年まで在位したアンティゴ
ノスも又、大祭司にして王という、絶大なる権力の、ユダヤの二大称号を保持したが、
この最後の人物となった。というのも、ヒルカノス2世を支えていた武将のアンティパ
トロスの息子ヘロデ(ヘロデ大王)も、アンティゴノスに命を狙われたが、辛くもその
手を逃れ、ローマに渡ってその支持を得ることに成功したからだ。ユダヤ王として承認
され、マルクス・アントニウスが率いたローマ軍と共に ユダヤに戻ったヘロデは、す
ぐに、パルティア軍を追い払い、後ろ盾を失ったアンティゴノスを破って 紀元前37年
に、名実共にユダヤの王となった。ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首され
、ハスモン朝は滅亡した、こうしてヘロデ朝が成立した。

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:42:35.76 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   029

 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
ブロス2世の遺児アンティゴノスによって、ヒルカノス2世捕らえられ、王位を奪われ
た。アンティゴノスは、このパルティアの支援によって、父の仇を討って王と大祭司の
地位を手にいれることに成功した。紀元前40年から紀元前37年まで在位したアンティゴ
ノスも又、大祭司にして王という、絶大なる権力の、ユダヤの二大称号を保持したが、
この最後の人物となった。というのも、ヒルカノス2世を支えていた武将のアンティパ
トロスの息子ヘロデ(ヘロデ大王)も、アンティゴノスに命を狙われたが、辛くもその
手を逃れ、ローマに渡ってその支持を得ることに成功したからだ。ユダヤ王として承認
され、マルクス・アントニウスが率いたローマ軍と共に ユダヤに戻ったヘロデは、す
ぐに、パルティア軍を追い払い、後ろ盾を失ったアンティゴノスを破って 紀元前37年
に、名実共にユダヤの王となった。ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首され
、ハスモン朝は滅亡した、こうしてヘロデ朝が成立した。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/05(金) 23:43:01.41 ID:GFm9LfXLc
 閑話休題x   030

 戦前69年エルサレム攻囲にローマは、将軍ルキウスが、アルメニアの首都ティグラノ
ケルタに進軍。ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は、再び
パルティアのプラアテス3世フラハート3世前71年〜前58年に、約束だろ。援軍を寄こ
せと、依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも、援軍を送ることはなく、
ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川は、パルティアとローマの国境である事
を再確認する協定を結んだのである。この混乱の中で、アルメニア王ティグラネス2世
の息子であった小ティグラネスは、父親からの王位簒奪を企んで失敗している。それ程
国内も混乱していた。息子は、パルティア王プラアテス3世の下へ逃亡して来た。彼を
説得し、アルメニアの新たな首都アルタクシャタに進軍させることを決意させた。この
進軍と、その後の包囲は、既に弱っていたパルティアである。少ない兵力で失敗してし
まうのは当然で、小ティグラネスは、今度は、ローマの将軍ポンペイウスの下へと逃亡
していく。アルメニア王の息子は、ポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束。
しかし、ティグラネス2世は、ローマの属国の領主となることを受け入れる協定を結び
、小ティグラネスは人質としてローマに送られたのである。この後、プラアテス3世は
、ポンペイウスに、小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求した。が、よっぽど
ポンペイウスは、この王子を気に入ったのか、パルティアを軽く見ていたのか、拒否さ
れている。この結果、プラアテス3世はゴルデュエネ(現:トルコ南東部)への侵攻を
開始した。これはローマの執政官(コンスル)ルキウス・アフラニウスによって、排除
されたと伝わる。ルキウス将軍・・・そう、後にローマで回想録を書き、『ユダヤ戦記
』『ユダヤ古代誌』を、完成させ、一族が暴君ネロの家庭教師になったルキウスなのだ

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/07(日) 04:29:21.40 ID:Ou2ks9y6o
 閑話休題x   032

 当時、地中海で猛威を振るっていた海賊を討伐する為の法案「レックス・ガビニア」
を提案して、元老院での反対を受けたが、市民集会の熱唱と喝采で可決されたのだが、
この、レックス・ガビニアは、「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)以東の海面及び
海岸」の海と、「海から 400スタディオン(約72キロ)以内」の陸地に対する、命令権
と、「元老院議員から構成される15名の副官、ポンペイウスが望む限りの予算を与える
。」という内容であった。とされる。これは、実際には、勝手なローマの権限によって
ガビニウスと言う地位を持った遠征軍に、権限と予算を際限なく与える。と言うパクス
・ロマーナの先駆けたる物だった。ローマ市民に、このパックス・ロマーナの意志であ
る「ローマによる平和」を意味し、多くの戦争や領土拡大、反乱などにもかかわらずに
、「領域拡大」し「属国維持」と「内部の覇権的平和」とを行う。と言った思想の発端
で、その後に多大な影響を与えた黄金時代の5賢帝時代の秩序の元になった。またこの
時、護民官(ガビニウス)の、任期中に非ローマ人に対して、資金の貸与が可能となる
法律も可決させたのである。こうして、ポンペイウスはレックス・ガビニアの法執行に
よって、地中海海賊の征討を果たし、オリエントの征服にも、成功することとなった。
彼は、当然乍ら、当初バビロニアの征服に成功し、前55年まで セレウキアでコインを
発行して名声を維持した。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、有能
とされ、土地を追われたミトラダテス3世は、捕まえられ処刑された。この将軍の名前
はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という。彼の出身氏族名でのみ知られている。
しかし、ルキウス・アエリウス・カエサルは凱旋帰国後に、ローマ皇帝ハドリアヌスの
養子となってその後継者とされた副皇帝の名称を貰ったが早世した。後の、共同皇帝ル
キウス・ウェルスの父であり、カエサル=副帝の称号の初代となった。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/07(日) 04:29:48.91 ID:Ou2ks9y6o
 閑話休題x   033

 その後、忘れ形見の子ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルスも、マルク
ス・アウレリウス・アントニヌスと共に共同皇帝となって統治し、アントニウスに毒殺
されたのか 急死する。葬儀に至り、ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の、称号を
貰い、死後に神となった。ウェルスはローマでも享楽的な生活で、友人を集めた夜通し
の宴会や戦車競走に熱中していた。常々マルクス・アウレリウスはこれに苦言していた
が、168年春 マルコマンニ戦争にパンノニア遠征をする。ドナウ川添いに、ゲルマン系
の、アラマンニ族とマルコマンニ族が来襲しウェルスはこれを迎え撃つために出陣した
。マルコマンニ戦争は180年まで続いた。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウ
スが冬を避けて、戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは食中毒で数日後死亡した
。戦場においては、有能なウェルスであったが、平和時に政務においては出来ることは
ほとんどなく、ウェルスの享楽的生活の批判が噂されて、公務には影響していたのだ。
この友人マルクス・アウレリウスは、ウェルスへの追悼コメントで「大変に怠慢であっ
たウェルスが死去し、これで自らが、一から国家作りを始めることが出来る。」といい
、「従来はウェルスの功績と考えられてきたパルティアでの戦いは自らが指示したもの
である。」と公然と語ったため、マルクス・アウレリウスによるウェルスへの毒殺説が
強まって、この風評が広まるのを恐れたマルクス・アウレリアウスがウェルスの親族や
関係者に多くの特権や褒賞を与えたと伝わっている。その為神格化される葬儀となった
。こうして、後のローマを作った五賢帝最後の皇帝の甥マルクス・アウレリウス・アン
トニヌスだった。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃 ファウスティナ・マイヨル
の甥で先帝の外戚である。またファウスティナは、ハドリアヌスとトラヤヌスの、傍系
血族でもある。新たにローマのシリアの属州総督(プロコンスル)となり、三頭政治の
一角を成したマルクスである。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/07(日) 04:30:13.38 ID:Ou2ks9y6o
 閑話休題x   034

 しかし、皇帝マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は、信憑性の薄い物
が多い。主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」などは多くの問題を持った資料で、
引用する資料価値は低いというより無いに等しい。マルクス・アウレリウス・アントニ
ヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アン
ニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。と言う。自出については、父方の
一族であるウェルス家は、属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに領主で、1世紀頃
からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。と言う。曽祖父アンニウス・ウ
ェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列さ
れた。その後アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウ
ス・セウェルス(アウレリウス)という子を儲けた。ウェルス3世も元老院で、法務官
などの要職を歴任していた為に皇帝まで上り詰めている。実はこの間に、ローマ内戦が
起こっている。紀元前49年から紀元前45年の間に起きた共和政ローマ期の内戦である。
グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で起こ
ったのだ。一連の戦争で、カエサルが当時の国家に対して仕掛けたもので、イタリア、
ギリシア、エジプト、北アフリカ及びヒスパニアでも争い、カエサル派が、最終的に元
老院派を打倒して独裁体制を確立していった。実はこの内戦は、都市化構造の中での、
都市開発の有無を問うものであった。つまり、現代のアメリカの極左と極右の政争と、
ほぼ同じとも言えるのだ。コモンウエルズの原義である、「共通善」「公共の福祉」と
いった概念での「国家」や「集団」を尊重した結果、従来通り海外との緩やかな連帯で
モンロー主義的国家を選ぶか、現代に生きる為の拡大拡張のファースト主義の革命政府
の道を選ぶのか、であった。

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/07(日) 04:30:36.32 ID:Ou2ks9y6o
 閑話休題x   035

 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)は覇権を争って
、一種の理想的な共和政体を概念としての共和国は、ローマ時代も現代も、開発暴力の
上の資源に頼っている。ので、それを強化する必要に迫られて、軍事の強大を狙ったが
、それに対して、それでも有限体なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と、
伝統の上の子孫と繁栄の国造りの元老院には、杞憂の元であった。特に海外は遠かった
。情報も文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
(平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。
後世「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安な状態が続き、紀元前59年にポンペイウス、
カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススは第一回三頭政治と、後に呼ばれる統治
体制を構築し、平民を押さえて権力を握り、カエサルは自身の娘ユリアをポンペイウス
へと嫁がせ基盤を固めたのである。その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督と
して赴任し、ガリア戦争を戦い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが共に執政官
(コンスル)を務めた。しかし、こうした拡大主義での覇道は、戦争・紛争も多く、絶
えず戦闘に及んだ。紀元前54年にユリアが死去、紀元前53年にパルティアとのカルラエ
の戦いでクラッススも戦死した。此処に第一回三頭政治が、崩壊をみるのである。また
、カエサルが、ガリア戦争の成功によって、ポンペイウスと同等の軍事上の権限を得た
ことに対し、元老院派は、カエサルの権力拡大を危惧して ポンペイウスと接近した。
紀元前52年にはプブリウス・クロディウス・プルケル暗殺に伴い、ローマ国内の混乱へ
対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/07(日) 12:34:04.43 ID:j1CN2MH+u
 閑話休題x   035

 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)と覇権を争って
いた。一種の理想的な共和政体を概念を持った政府は、ローマ時代でも現代でも、開発
暴力の上の、天然資源に頼っていた。その搾取不足で軍事強化の必要に迫られていたが
、それに対して、それでも有限資源なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と
、伝統的生活で子孫繁栄の国造りを残すべきだと元老院は対峙した。他国への干渉には
、杞憂があった。砲艦外交はもとより、占領略奪、奴隷や難民の移住など 海外は遠く
情報や文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても 乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
(平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。
後世「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安な状態が続き、紀元前59年にポンペイウス、
カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススは第一回三頭政治と、後に呼ばれる統治
体制を構築し、平民を押さえて権力を握り、カエサルは自身の娘ユリアをポンペイウス
へと嫁がせ基盤を固めたのである。その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督と
して赴任し、ガリア戦争を戦い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが共に執政官
(コンスル)を務めた。しかし、こうした拡大主義での覇道は、戦争・紛争も多く、絶
えず戦闘に及んだ。紀元前54年にユリアが死去、紀元前53年にパルティアとのカルラエ
の戦いでクラッススも戦死した。此処に第一回三頭政治が、崩壊をみるのである。また
、カエサルが、ガリア戦争の成功によって、ポンペイウスと同等の軍事上の権限を得た
ことに対し、元老院派は、カエサルの権力拡大を危惧して ポンペイウスと接近した。
紀元前52年にはプブリウス・クロディウス・プルケル暗殺に伴い、ローマ国内の混乱へ
対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/10(水) 09:06:53.04 ID:UnfWmRqOG
 閑話休題x   036

 ここで元老院のポンペイウス派は、カエサルの、ガリア総督としての任期切れ後に
コンスルに立候補する意向であることを知り、阻止に働きかける。カエサルから軍隊を
引き離すことを模索し、紀元前50年12月に、ポンペイウスもが軍隊を解散させるならば
自分(カエサル)も軍隊を手放す。と元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが
不法に軍を維持するのならば「国家の敵とする。」と、議員一致で宣告したのである。
まあ、今のトランプ大統領と米国議会のようなものだが、裏に軍隊がいる司令官の地位
だから、血なまぐさい。カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥ
ス・カシウス・ロンギヌスは友人だったが、カエサルから「応じられない」とする意向
が元老院へ送られてきた。元老院はこれを拒否し、ここで、思想対立の権力闘争から、
現実的対立の市民戦争に及んだのである。紀元前50年、ポンペイウス及び元老院派は、
プロコンスル(前執政官)としての、カエサルの任期が終わった事で、ローマに戻り軍
を解散するよう指令する。カエサルがコンスルに立候補するのを禁じ、軍の解隊を命じ
たのである。しかし、カエサルはコンスルの地位も軍隊の力もなしにローマに戻るなら
、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄で汚職で断罪された)のごとくに罪に問われ、
政治的に失脚させられる。と考えた。紀元前49年1月、元老院は更にカエサルに対して
、「元老院最終勧告」を発する。紀元前49年 1月10日カエサルは子飼いの部隊であった
第10軍団と共に、異郷ガリア・キサルピナと、イタリア本土のローマの境界であった、
ルビコン川を越えるのである。この事で近代では「ルビコン川を渡る」という言葉は、
決定的な一歩を踏み出した。あと戻れない河を渡った。と解される。当時イタリア本土
は、ルビコン以南、ブルンディシウム以北」で、この外から、ローマ市内への軍隊を率
いて侵入する事は、禁じられていた。が、実際には、過去にマリウスやスッラも攻め込
んでいる。

39 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/10(水) 09:07:19.98 ID:UnfWmRqOG
 閑話休題x   037

 なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言った。とされる。
又後世に於いての、「ルビコン川を渡る。」とは、引き返せない危険に入る、という事
の意味になった。彼の言った、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄)の事を少し語れ
ば、ポエニ戦争時の時の英雄である。当時は、エブロ川以西のヒスパニアは、完全に、
カルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカと、ハスドルバル・
ギスコとがここを統治していた。ギリシャ・ローマには、多くの国民がいたが、平野が
少なく農作物は獲れない秋吉台のような半島大地である。オリーブの実を油にして交易
し、他国の小麦粉と魚を食糧にしていた。その食糧を供給には海上輸送。つまり、船の
運行が欠かせない。その安全を脅かす地位に、カルタゴがいた。アフリカのベルベル人
の海岸には、今でも海賊が多く移民の船が運行されるが、そうした船の防衛にトルコ側
のユダヤの商人はカルタゴに依存していたので、このカルタゴの兵力はローマにとって
は、目の上のたん瘤だったのだ。カルタゴはアフリカの海洋国家で、エジプトすらも、
従わせるほどの巨大国家で、エジプトの穀物がギリシャに、特にローマに輸出する事に
大いに不満だった。既に領土的にヒスパニア、つまりスペインやフランスの地中海の入
り江を占領していたのだ。そこに、ヒスパニア遠征で海路エブロ川流域に上陸し戦いを
ギリシャのローマが挑んでいた。紀元前の遠いから昔から、東地中海の雄ギリシャの、
ローマ軍と、同じに西地中海を治めるアフリカの雄の、カルタゴ軍が、いずれ激突する
のは、時間の問題でした。特に、地中海の要衝、シチリア島が、その最前線になって、
何度も、ギリシャ(主に植民都市シラクサ)と、カルタゴが戦いを交えながら拮抗状態が
続いていたのである。しかし、間隙を縫って急速に勢力を伸ばして来たのが、イタリア
半島のローマである。

40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/10(水) 09:07:43.43 ID:UnfWmRqOG
 閑話休題x   038

 紀元前3世紀も前に、100年以上に渡って 大きな戦争が、三度も交わされていたのだ
。ローマ対カルタゴの、この大戦争がポエニ戦争で、すでに火蓋が切って落とされてい
た。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍
によって、ローマを苦しめている、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は、
虐殺され、市街は徹底的に破壊された。現在の、カルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが
再建したローマ領カルタゴが大半である。フェニキア時代の中心であったビュルサの丘
の復元図にも描かれていた、軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等など、遺跡で
しか、フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐものはない。が、遺構でその偉大さが
偲ばれるので、観光客もやって来ている。そうした中で、英雄スキピオ・アフリカヌス
のヒスパニア遠征では、海路エブロ川流域に上陸し、、直接カルタゴ・ノウァ(現カル
タヘナ)を、急襲して占拠して、カルタゴ勢を驚かせている。カルタゴ・ノウァは現在
のスペインのカルタヘナで良好な港街である。バルセルナから、西にバレンシア海岸を
行けばバレンシア市の更に西に当たる。こうして、敵の勢力の中心部を速やかに攻略し
たスキピオは、ここのカルタゴ・ノウァの財力を元手に、ヒスパニア現地民を買収し、
カルタゴの圧制からの解放者。というイメージを演じた。要するにプロパガンダに於い
て、パレードをやったのである。この時、地元の部族から戦勝祝いとして美しい娘を妾
に。と、贈呈されたが、娘に婚約者がいることを知り、両親から送られた金銀を添えて
娘を婚約者の元へ返したという美談まである。また小回りの利く短めの剣・グラディウ
スを加工させ、これもここの工房で生産し、ローマ兵の防備にしたという。こうして、
スキピオは、ヒスパニアでの戦争を有利に展開していった。が、同時に元老院の戦略上
の関心は、遠いヒスパニアにではなく、イタリア本土で対峙しているハンニバルにあっ
た。こうした事で、本国からの増援は望めず、スキピオはヒスパニアの現地民からなる
軍団を編成する。

41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/10(水) 09:08:07.09 ID:UnfWmRqOG
 閑話休題x   039

 イタリア本土で対峙しているハンニバルに、元老院の危機感があったことも理解して
いた英雄スキピオ・アフリカヌス。紀元前 202年10月 9日、互いの軍が対峙する中で、
何とかスキピオは、ハンニバルと会見し、交渉による解決を試みている。スキピオは、
ハンニバルの能力を、現実に高く評価していたし、ハンニバルも又、スキピオの才能に
は、一目置いていた状態だった。ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉
に入ることを提案した。が、スキピオは、ハンニバルのサグントゥム包囲がもともとの
発端であった。と主張した。スキピオも同じ思いだったが、元老院の意向もある。自身
の和平条件を後退させることはない。発言とし、交渉は決裂した。結局、両者は自陣へ
戻って、戦闘に備えるのだった。カルタゴは、アフリカ大陸の、現チュニジアの場所に
位置し、戦闘が始まった頃は、地中海を支配する大国だった。戦争の結果、ローマ軍が
勝利し、ローマは、カルタゴに厳しい講和条項と 多額の賠償金を課していた。第一次
ポエニ戦争を出発点として、ローマは60年間にわたって勢力を拡大し、地中海海域の、
ほぼ全てを支配するに至っていた。ローマ軍の勝利は、古代地中海の文明がアフリカに
依存する時代から、ヨーロッパ社会に委ねられる時代に変わる転換点となったと言える
。カルタゴの周辺地域にいたベルベル人など、北アフリカの人々は、カルタゴと緩く、
連携していた。第一次ポエニ戦争中、カルタゴがシチリアでローマと戦っている間に、
幾つかの部族がカルタゴに対して叛乱を起こして第二戦線を形成した。カルタゴ争乱で
ある。紀元前288年、元々は シュラクサイのアガトクレスに雇われていたカンパニア人
の傭兵部隊であるマメルティニは、シチリアの北東端にあるメッシーナの町を占領した
。彼らは、男を殺害し、女を妻として連れ去る賊徒であった。それと同時にカンパニア
の「投票権を持たない市民たち」がメッシーナ海峡の対岸にあるレギウムの支配権を、
掌握した。

42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/11(木) 20:49:54.06 ID:zFFnitDj6
 閑話休題x   040

 実は、古代ギリシアの特にローマで、人口が増え経済も活発になると、欧州からの、
移民や植民が入植して島の経済を支えた。その後のマグナ・グラエキアでのローマとの
紛争や、シチリアでのカルタゴとの紛争など、数世紀を経ても、ギリシア系植民都市で
は、この地中海近在では、最も存在感が大きかったのがこうした島々だった。経済力が
あり、戦略的にも影響力があり、よく要塞化された、ギリシア系入植地として機能した
。特にシラクサは、ローマからも、カルタゴからも、政治的に独立して機能していた。
この、ローマ、カルタゴ、そしてシチリア、と言う三角関係で、イタリア南部ギリシア
系植民都市が関わった紛争から、こうした島の争奪戦が発展して、第一次ポエニ戦争が
始まっている。先述の、カンパニア人傭兵部隊である、マメルティニ軍の暴動事件は、
シチリア王権に、非常な驚きと悲痛な現状をさらけ出した。つまり、中立故に強権もな
いし、市民政府故に、軍隊を持たなかった。それゆえに傭兵が駐留し、勝手に守ってい
たのだ。紀元前270年、ローマは レギウムの支配権を奪還して、叛乱の参加者を厳罰に
処する事を決めた。シチリアでは、マメルティニの身分は傭兵移民で、メッシーナを、
拠点に、田園地帯を荒らし回り、自治都市シラクサとも、衝突した。シラクサの僭主と
なったヒエロン2世は、紀元前265年 マメルティニと対決しメッシーナを取り戻そうと
決断する。マメルティニはシラクサとの戦闘で劣勢に立たされ、ローマとカルタゴの、
両方に助けを求めた。嘆願に応えて、この地に軍団を送ったのは、カルタゴの方が早か
ったのだった。カルタゴは、ヒエロンにはこれ以上の軍事行動をしないよう申し入れる
一方で、マメルティニには、カルタゴ軍の警備隊のメッシーナ駐留の受け入れを、説得
した。ここで、新興勢力ローマにも、既存の帝国カルタゴ更に言えばカルタゴと対立の
エジプトやそうした大国に対立するエーゲ海のヘレニズムの、対立するアテネの海洋国
家連合とスパルタの海岸国家 或いはミノア民族と、何処にでも金で派兵行き、追われ
て帰ってくる数合わせの、ごろつき海外傭兵部隊のシステムを作り上げた。経験豊富で
それなりに強くなり、時間と共に引っ張りだこになったのである。

43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/11(木) 20:50:43.84 ID:zFFnitDj6
 閑話休題x   041

 こうなると、シチリア王も、マメルティニの傭兵移民を叩くのが常道、メッシーナを
安全にして市民に答えるべく動くが、シラクサでも他の都市でも、その為の兵は弱く、
奇襲の一撃をした。しかしこの一撃に、慌てて本来お客であったローマに、一部の縁故
や議員を通じて、あえて増援協力を求めた。此処には、すでに古代文明のアカイヤ人の
ミケーネ文化に、ドーリア人のクレタ文明が衝突し、イオニア人が追ってアポロンを連
れて征服に罹ると言う異様な三つ巴の闘いが、尾を引いたまままに、地中海にあった。
 ローマでは、此の時議会での小田原談議に及んでいた。マメルティニからの救援要請
に応ずるべきかどうか。応ずればカルタゴとの戦争に突入する可能性もある。という事
で、かなりの論争が起こっていたのである。はじめはローマ人は、この傭兵のマメルテ
ィニ軍が、メッシーナの町を、本来の所有者から不正に奪ったと考え、助力する意欲が
なかった。さらに、ローマは、エペイロスのピュッロス王との戦争(ピュロス戦争:紀
元前280年〜紀元前275年)や、レギウムでの傭兵の暴動(紀元前270年)を鎮圧したばか
りだった事で、財政的にもひっ迫し、この紛争に介入することを渋っていた。しかし、
新興国力のローマであって、ローマが台頭するには、カルタゴ勢力がシチリアでの権益
がこれ以上に広がることは、なんとしても避けたかったのが国情であったのである。仮
に、ローマがメッシーナのマメルティニを放っておけば、カルタゴが、シチリア問題で
の領域とし、フリーハンドを得ることになる。自由のシラクサが敗れれば、カルタゴが
シチリア島をほぼ手中に収めることになる。他の島があるとはいえシチリアの港は重要
であった。元老院の議論は膠着し、結論は市民集会に委ねられた。市民集会でマメルテ
ィニの要請を受け入れることを決して、アッピウス・クラウディウス・カウデクスを、
外征軍の司令官に任じ、メッシーナへの渡海を命じる事になった。こうして紀元前 264
年、ローマはシチリアに外征する。これはローマ軍団が、イタリア半島の外に出たとい
う初の決定的な転機の事例となった。

44 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/11(木) 20:51:04.77 ID:zFFnitDj6
 閑話休題x   042

 翌 紀元前263年にシラクサを攻略し、ローマとの同盟を強要した。現代で言う、砲艦
外交の走りである。直ぐに紛争の主役は、当然ローマとカルタゴの対立に代わっていく
。それがシチリアの所有権をめぐる争いにまで発展した。新興勢力ローマの勃興である
。第一次ポエニ戦争の発端となったのはカンパニア人の傭兵部隊マメルティニである。
この傭兵集団はメッシーナの政権を不当に奪取し、カルタゴとローマとの間を立ち回り
二枚舌外交を行っていた。カンパニア人、すなわちイタリア「カンパーニャ衆」州都の
ナポリは州中部の沿岸部に位置している。、ペスカーラから南へ約190km 首都ローマか
ら南東へ約191km、バーリから西へ約221km、パレルモから 北北東へ 約314kmの距離に
ある。この僻地ナポリの住民は、ほぼほぼならず者だった。農地のないイタリアの中で
更に石の高見しかなく、石工と漁師しかない石と坂道の街である。この産業の無い街で
、石切職人の労働者に成れなかった者は町に出るしかなかった。しかしながら、当然、
田舎者がイタリアの中心ローマには、都市入場さえ出来なかったし、出来ても経済、つ
まり商売が出来ない者は、食っていけず、奴隷にしか生きる道は無かった。その中で、
厳しい軍隊教練や、牢獄のような奴隷生活に嫌気が差す者は、こうした傭兵要請のあっ
た地で、数多くの脱走兵が起こっていた。他の土地でも起こっていたが、このシチリア
島では、遂に島民の王の手におえない人数になっていた。古代マフィアの誕生である。
ローマが何故に、このような素性のよくないマメルティニの肩を持ったのかという理由
は、現在でも歴史家で意見が分かれており、よく解ってない。ところがこの頃は、言葉
さえも通じない他国に領域が冒される事は、宗教や法律・文化さえも冒される事だった
ので、無理からぬことでもあったのだ。更にこれは、実は共和制特有の遅さの問題でも
あった。領有の島の王の要請に、即断できなかった以上、王側は独断即決のカルタゴ軍
を、歓待し供応し条約を結ぶはずで、この協定には、当然敵対するローマを退けている
盟約があった。ではローマはどうするか反発された、ならず者との協定しか残されてな
いのである。古今の太平洋上のアメリカの苦悩みたいなものだ。

45 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/11(木) 20:52:11.15 ID:zFFnitDj6
 閑話休題x   043

 イタリア半島の 諸部族を制圧したばかりのローマの国制には、軍事を尊び攻撃的な
気風が残っていたし、イタリア半島の同盟市を束ねたばかりのローマは、自らの威信を
強国カルタゴに、見せる必要があったろう。又、カルタゴと結んでいた不平等条約を、
イタリア自身ろーま政府自体の是正する好機ではないか。と考えていた。イタリア半島
統一後、成長著しかった平民階級の多くが、中流階級となり、従事していた交易摩擦の
利害が、カルタゴとの間に生じた現実もあった。また、平民階級の多くはさらなる成長
を期待し、対外侵略に肯定的だったので、民会の意思に抗う事は、元老院でも出来なか
った。と言うより、ローマの経済発展そのものが、重商政策、即ち交易や加工貿易にし
か頼る物は無かったのだ。シチリア島をカルタゴに制圧されることは、イタリア半島の
南部の安全保障が揺らぐ。という地政学的な理由も大きかった。現実的に、これまでは
海に守られて、ギリシャの世界観は遠いものだった。しかし、平和時の技術進展で今や
ギリシャのみならず、東欧やトルコからも交易や移住のあるローマであった。当然乍ら
巨大エジプトを巡って、エジブトの西にあった帝国のカルタゴとは、犬猿の仲で敵対し
敵視していた感覚や文化が、このローマにも入って来ていたのだった。シチリア島は、
丘陵が多い島で、イタリアカンパニア、つまりナポリに近い土地事情であった。自然に
体得していたカンパニア人の生活習慣になじんでいた。地理的な障害や通信・補給路を
保持しにくい地形で、それが原因で、第一次ポエニ戦争では、陸上戦は全く重要な役割
は担っていなかった。陸上行動は、小規模な奇襲と軍隊間の小競り合いに限られていて
、大きな会戦はほとんどなかったのだ。正規軍が最も得意とした作戦の、攻城戦と陸上
封鎖だったが。陸上封鎖の最たる標的は重要な海港になった。というのも、交戦中の、
両陣営はどちらもシチリアには本拠がなく、本土からの兵站、すなわち補給と情報交換
を続ける必要が、この大戦の主要な部分であったからだ。

46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/11(木) 20:52:53.57 ID:zFFnitDj6
 閑話休題x   044

 しかし、それでも、第一次ポエニ戦争の間に大規模な陸上戦闘が少なくとも二回は行
われた。紀元前262年、ローマはアグリゲントゥムを攻囲した。この戦闘に 執政官二名
の軍団がローマ軍四個軍団と共に投入し、終結までに数ヶ月を必要とした。この島の、
一番の港の封鎖である。ここでアグリゲントゥム守備隊は、かろうじて援軍を求めて、
ハンノ将軍の、カルタゴの救援軍が救出する。又、ローマ軍は、シラクサからの補給を
遮断されて、攻囲中のローマ軍自身が囲まれ、包囲網を築かれていることに気付いた。
しかし、数回の小競り合いの末、アグリゲントゥムの町は落ち、戦いはローマの勝利に
終わる。この勝利に、ローマは 新たな大規模陸上戦を挑み(紀元前255年)こん度は、
結果的に、何度かの海戦を経て、ローマは苦しい戦いになった。このため、カルタゴに
講和を促すために、戦域拡大を謀った。アフリカにあるカルタゴの植民地を侵攻する事
を決めたのだ。即ち兵站叩きと、政府や産業潰しに出たのだ。此の為、兵員輸送と艦隊
防御の大型戦艦建造と大艦隊構想を掲げた。カルタゴ側は、これを阻止しようと、エク
ノモス岬の海戦を用意するが敗戦した。この結果、執政官マルクス・アティリウス・レ
グルスに率いられたローマ軍がアフリカに上陸してしまい、カルタゴ辺境の侵略を始め
たのである。レグルスは、当初は勝利続きで、アディスの戦いにも勝利し、計画通りに
カルタゴに対して講和を強要した。しかし、その条件は大変厳しいもので交渉が失敗す
るのは目に見えていた。返答の代わりに、カルタゴは、スパルタ人傭兵のクサンティッ
ポスを、新たに雇って軍隊を再編。クサンティッポスは、カルタゴ軍の海上の優位性を
取り戻し、ローマ軍を、本拠から切り離すことに成功。チュニスの戦いで、救援のない
ローマ軍を破ってレグルスを捕らえたのである。

47 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 02:24:43.55 ID:w/5Gru6ED
 閑話休題x   045

 紀元前249年に 戦争が終結に近づいた頃に、カルタゴ軍は、ハミルカル・バルカ将軍
(ハンニバルの父)を、シチリアに送った。ハミルカルは、ほぼシチリア島全土の支配
を獲得した。此の時はローマは気付くのも遅く、この状況を打開するために必死になっ
て、独裁官の選出まで行ったのだ。しかしながら、ローマの海軍力は素晴らしく陸上戦
よりも海戦の戦果の方が決定力を持つので、シチリアにおけるカルタゴ独裁の成功は、
基本的に意味がなかった。ハミルカルは無敗を続けたのだが、紀元前241年の アエガテ
ス諸島沖の、海戦におけるローマ軍の勝利の後では、本当に無意味だった。まあ太平洋
戦争の、日本軍の諸島政府設立の様なもので、島人教育を無償で行い努力しても、無駄
だっし、朝鮮経営に成功しても無駄だったのと同じだ。ましては中国に満州をして理想
郷を呼び掛けても、腐れた心に響かない。こうして第一次ポエニ戦争は海戦に移行した
。この開戦当時、ローマ軍には、海戦の経験は持っていなかった。一方、カルタゴ軍に
は、過去何世紀にもわたる海上貿易のおかげで、豊富な経験があった。しかしながら、
発展を続ける共和政ローマは、戦果を上げるために地中海の支配権が重要だ。とすぐに
看破して、大造船計画を立てて、最新の新鋭船の、戦艦仕様の船を建造をした。ローマ
軍は、紀元前 261年のアグリゲントゥムの勝利後に、戦争中でありながら、最初の大艦
隊を、整えさせていた。当時ローマの持つ建艦技術は低く、軍艦設計はカルタゴの三段
櫂船や五段櫂船の、スピードでぶつかる船で戦っていた。最初は真似たのであろうと、
推測する。しかし、一部の歴史家は、海賊から沿岸を、警備するため、既に建艦技術を
、ローマは持っていただろう。とも指摘する向きもある。開戦当時の建艦技術の程度が
どうあれ、ローマは急速に適応して闘いに勝った。つまり、短期間で数百隻もの艦隊を
就航させるようになっていったし、建造技術は、実は遠くエジプトや、東欧やトルコの
技術者を招いて、小型だったが、火に強く舳先に鋭鉄をつけた船を建造したのであった
。これによって、カルタゴの古い船は、数こそ勝ったものの、一撃で海に沈んだのであ
る。

48 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 02:25:12.64 ID:w/5Gru6ED
 閑話休題x   046

 又、少ない経験を補って、標準化した陸上戦術を海上でも使った。ローマ軍は新しい
軍艦に、特殊な乗船器具コルウスを装備した。当時、海戦では衝角攻撃が常識だったが
、これには優れた操艦技術が必要だった。他方コルウス装備の軍艦は、船体の横づけで
、船橋を渡しての、拘束戦法だった。先端に付けた爪で敵艦を捉え、乗船隊を送りこみ
船の奪取、鹵獲を目的とした。いわば海兵隊の軍団を、敵艦に移乗させて白兵戦と同じ
闘いに持ち込んだのである。鹵獲した船は当然ローマ軍の物となり、新たにコルウスを
装備させる改造をして海戦に挑んだ。こうした事で、海戦する度にローマ軍は大艦隊に
姿を変えていった。最初の海戦こそリーパリ諸島でローマの敗北に終わったものの、新
兵器の効果は、その後の海戦において初めて勝利したミレ沖の戦いで証明された。その
後、数年間この装置は活躍を続け、特にエクノモス岬の戦いにおいて大きな役割を果た
した。この装置の出現によって、カルタゴは軍事戦術を立て直す必要に迫られたが、有
効な戦術を見つけられず、海上ではローマが優勢になる。しかし、コルウスは一部鉄が
使われ、船が両方に橋子を羽根の様に広げた形で、軍艦の操作性は非常に悪くしたので
、後年、ローマの戦艦と海戦経験が増えるにつれ、この装置は小さくなり使われなくな
っていった。共和政ローマは、多くの海戦で勝利したものの、嵐と戦闘によって、ほと
んどの軍艦と搭乗員を失うことが多々あって。少なくとも二回(紀元前255年) 全艦隊
を悪天候で失う事件が発生していた。又戦争の終盤になると、ローマは、高価な艦隊を
新しい建造資金を出し渋り、カルタゴが海上で優勢になった。ところが、カルタゴでは
国内に戦争反対の一派が大きくなり、紀元前244年,大地主の貴族大ハンノがその党首の
座につくと艦隊を解散し始めてしまう。ローマ軍は再び海上優位性を取り戻し、ローマ
に裕福な市民、貿易商人らの寄進によって、新たな艦隊建造で、アエガテス諸島沖海戦
(紀元前241年3月10日)などで第一次ポエニ戦争の決着をつけた。この海戦で、執政官
ガイウス・ルタティウス・カトゥルス率いる新しいローマ艦隊が勝利を挙げたが、交易
商からの多大な援助金に黒い噂が付いたのである。

49 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 02:25:42.25 ID:w/5Gru6ED
 閑話休題x   047

 一方カルタゴは、艦隊の大半を失い、交易商人もローマ側につき、新船建造の経済的
な余力もなく、船員の人手を探す力も失った。ハミルカル・バルカ将軍も、艦隊が無く
ては、カルタゴから切り離されてしまい、降伏せざるを得なかったのである。こうして
第一次ポエム戦争は終わりを遂げた。23年間続いた戦争の末に、ローマが第一次ポエニ
戦争に勝利し、カルタゴに代わって地中海を支配する国になった。しかしながら終結と
は言え、協定や条約を交わした訳でなく、カルタゴがシチリヤ島を手放したに過ぎない
。戦争の直後は、両陣営は、財政も民力も疲弊した状態となった。領土の境界線では、
地中海を結ぶ直線と、双方が考えた、何となくの境界線をひいて最終確定した。ヒスパ
ニア、コルシカ島、サルデーニャ島とアフリカは、そのままカルタゴのものとして残さ
れ、その線の北側の内陸は、全てローマに引き渡された形だった。ローマが、勝利した
要因は民主主義にあった。元老院もあって、敗北を断固として拒否し続けたのである。
完全な勝利だけを受け入れさらに、共和政ローマは、プロパガンダ工作で、交易商人を
味方につけ 情報の提供に金を払った。又戦費のために個人的投資を集める力が高く、
市中の市民の愛国心を呼び起こし、船と船員の資金を供給させた。この能力で戦争行方
を、大きく継続させた。さらに決定付けた要素は、2つの的確な分析である。カルタゴ
の中古船の打破と、自己の戦艦の補充に鹵獲用のコルウス(カラスの羽根)をつけて、
夜襲し船を増やしていった事だった。この新技術による、海戦の新路線は、瞬く間に、
カルタゴ船を平らげた。一方でカルタゴ内で、自由交易を許さなかった政権は、より大
きい重税を敷いて、戦争継続を謀るが、その為の交易商人は、みんな移住ないし消えて
行った。ローマと比較すると、違いは明確にカルタゴの貴族達は、公の利益のために、
私有財産を危険にさらすこと明らかに反対だったし、また、重商政策つまり交易政策の
商人達に、農業主体の領地貴族達は冷ややかで、対してローマ貴族は他国の技術までも
探って味方した。これが第一次ポエニ戦争の結果であった。

50 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 02:28:03.04 ID:w/5Gru6ED
 閑話休題x   048

 ここでローマは、海軍が正式に誕生した。がそれは、この後にローマが、属州を拡張
すると言う危険な拡大覇権主義に走るきっかけやアイテム(小道具)となり大きな力と
なった。スペインの、バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)には、古い
歴史を有する都市があった。公式名称は、サグントであったが、紀元前600年頃に、
ケルトの攻勢で逃げて来た、ケルティベリア人によって開かれたサグントゥム(ラテン
語:Saguntum)は、製鉄所の事だ。古代ローマ時代にも サグントゥムと呼ばれている。
詩人ガスパル・フアン・エスコラーノは『バレンシアの歴史の数十年』(1610年〜11年)
の中で、サグントの最初の入植者は、アルメニアからのサガ族の家族である。と書いた
。トゥバルとともに半島にやってきて、都市の最初の基礎を築いた[と記し、サグント(
アルメニア語:サガの)と名付けた。と言う。トゥバルとは日本語で突厥人で、すなわち
騎馬民族であり、モンゴル系アルメニア人という事になる。また、紀元前5世紀には、
おそらくギリシャのザキントス島出身のアカイア人が、地中海の西海岸にギリシャ人の
5つの植民地の1つとしてサグントゥムを建設した可能性があるという。このアカイア
人とは、イオニア海を制したアカイオイ人で、今でいうイオニア人即ちペルシア人や、
トルコ人の事ある。学説では、イベロ族に起源する町で旧名をサグントゥムSaguntumが
始まりであり、海岸沿いの立地にも恵まれて、ギリシア人やフェニキア人との貿易で栄
えた街とされる。イベロ族は、先住の欧州人だが、グルジア南部の先住民達もイベリア
人(コーカサス・イベリア人)と呼んでいた。したがってギリシャ人たちは、イベリア
という名称を、地中海西部沿岸を意味するものとして用いていた。続いて、イベリアは
、半島全体を指す名称となった。とされる。こうした事で、元々カルタゴの王朝下で、
栄えていたが、海洋民としてギリシャの影響下となって行った。第一次ポエム戦争後、
地中海の中央ラインから北側が、元老院裁定で、ローマが支配と決めて、カルタゴ船の
乗り入れが排除されたのであった。まあ新たな入植者の暴力が始まったのである。

51 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 09:14:49.36 ID:noJXL9vZT
  Ωの移民たち・・・・・・・・・・01

 岸田政権は移民を受け入れようとしている。日本の人口が減っており、労働力が不足
しているかららしい。そこで「共存」という言葉も 出てきている。こうした耳障りの
良い言葉が出てきたときには要注意だと思う。さて、白人は白人に適応した地域がある
。黒人には黒人に適応した地域がある。日本人は、日本が適していた。人は生まれた地
で育ち生まれた地で一生を終えるのが 一番だと思う。たとえば、白人は、暑さに対応
できない。もともとは寒い地域に適応した結果だから。そのため、白人の基礎体温は高
い。また、日光の強い地域では白人の皮膚癌の率はグッと上がる。黒人についても同様
だ。寒い地域には適していない。体のつくりがそうなっている。黒人が一般的に手足が
長いのも、体の表面積が広くても 大丈夫な地域で生活してきたからだ。つまり、寒い
地域だと、体の表面積が大きいため、凍傷などにやられる確率が上がるし、体温も適応
していない。だから、寒い地域で適応したモンゴロイドは手足が短い。これも適応した
結果だろう。つまり、淘汰された結果、生き残った民族こそが、その地の肌の色、その
地の食べ物、宗教、慣習、ルール、考え方になる。というわけだ。砂漠の地域では牛が
貴重だ。食べてしまえば牛が居なくなってしまう。だから牛を神聖なものと位置づける
ことで、牛の生態系を守っている。このように宗教にもきちんとした意味がある。日本
人がこれだけ優秀なのも、島国だからだと思う。長い年月をかけて 適応できなかった
遺伝子は淘汰され、適応できた遺伝子だけが残っていった。だから、日本は日本人だけ
で、ながいあいだ上手く回っていた。だから、物事の考え方も宗教も異なる移民を受け
入れることで、そのパワーバランスが崩れる。

52 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 09:15:18.42 ID:noJXL9vZT
   Ωの移民たち・・・・・・・・・・02

移民達も、自分たちの考え方や 宗教を
主張するだろうし、日本の「和をもって貴しとなす」、などとという文化もない。譲り
合い、というよりも弱肉強食といったほうがよい文化なのだ。。嘘を平気でつくし、人
を平気で騙す。世界的には泥棒もスリも日常的に起こるし、落とし物が届けられること
もない。騙された方が悪いし、物を忘れる方が悪い、そう考える民族の方が世界の多数
派を占める。そんな移民を受け入れてしまっては、日本の文化は崩壊するし、長年かけ
て作ってきた風習や宗教、目に見えないルールなどは崩壊するだろう。犯罪も増えるし
、レイプも増える。暴力事件だって増えるだろう。移民を受け入れることでどうなるか
は、ヨーロッパの国々を見れば明らかだ。そして、宗教や考え方だけではない。気性の
荒さも異なる。日本の風土に、砂漠の民のような気性の荒い人種は、絶対に合わない。
と思う。こうした気性の荒い人種が日本でいくら教育を受けたとしても、そもそも適応
できないだろう。長年かけて最適化してきた日本という国が、いま、崩壊しようとして
いる。人助けをする心は大切なことだし、困っている人を見たら助けるのは当然だ。と
いう道徳は正しいと思うが、だからといって移民を受け入れるというのは、民族を崩壊
させる。これは道徳と言うよりも倫理の問題だ。つまり、困っている人をみたら助けた
い。だから移民を受け入れる、というのは道徳としては正しいが、倫理としては間違っ
ていると思う。移民が日本で子孫を残したとき、生まれてくる子孫が日本人の精神性に
合致するとは思えない。移民を受け入れないということ、これは日本のためだけでなく
、実は移民のためでもあると思う。つまり、日本は移民を受け入れないとすることは、
移民にとってもよいことだと思う。彼等が子孫を残すのは、彼等の生まれ育った地域で
あるべきだ。そのほうが彼等にとってもよいはずだ。

53 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 09:16:03.62 ID:noJXL9vZT
   Ωの移民たち・・・・・・・・・03

彼等は その地で文化を形成してきたし、これからもそうして
いくべきだ。その結果、その地域が戦争ばかりの地域だったとするならば、それはそこ
で淘汰されるべきだと思うし、そうでなければ、戦争をなくすという平和な文化を形成
することのできなかった文明国なのだから、そういう国は滅びる運命なら、滅びる運命
なのだと思う。あるいは争いを続けていくうちに、彼等なりの文化を形成するだろう。
その文化を形成する最中なんだから仕方ない。日本だって、戦国時代はあった。それを
経て、今の平静な日本があるわけだ。つまり、それを生き抜けなかった者は淘汰され、
いまの日本人がいるわけだ。戦争ばかりしている国の彼等は、いま、国のルールを定め
たり、パワーバランスを考えたり、先進国が過ぎて来た淘汰の段階にあるわけだ。それ
を無視して移民を推進することは、日本の民族も滅ぼすと思う。日本は長年かけて島国
の中で最適化された民族だ。そこに異物を混入すれば排除するしかない。白人の住む
雪国の地域に、黒人が入り込むことは、黒人が遺伝子を残すことになる。その遺伝子は
、雪国には適さない。結局のところ、寒さに適応できずに亡くなることになる。逆に、
黒人の住む暑い地域に白人が入り込むことは、皮膚癌になり適応できないことになる。
つまりその民族に適さない遺伝子が入り込むのだから、その民族自体にとっても大きな
リスクとなる。皮膚癌になった人に かかる医療費を出すのは周囲の住民だ。税金が、
そこにのしかかる。だから、異物を混入されると 国に拒否反応を起こすのは当然だ。
こうした理由で、日本に移民を受け入れることは日本民族を衰退させることになること
は明らかだ。・・・・だから私は移民を反対する。

54 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 09:16:28.73 ID:noJXL9vZT
   Ωの移民たち・・・・・・・・・04

 今、日本に人が押し寄せている。円安ツーリング。と言うらしい。自国より海外製品
なのに、同じ輸入品が何故だか日本が安い。金を買うにも消費税が付いているのに日本
の方が安い。土地も安いし安全で、ちゃんと個人使用や財産の権利を認めている。建築
物も、あんなに高いビルを建てる技術が中国にあるけど、断然日本の低いマンションが
お得よ。(中国の)国内にあるのは、欠陥だらけのへっぽこビルだわ。と中国人自身が
言っている。なんと日本の不動産は半分とか3割の安さで、丈夫で長もち、私は住めな
いけど事業用にピッタリだわ。と言う。でもってニセコ現象で、外国人客は高くなった
3000円のラーメンをすすりながら、「ワンダフル、ニューヨークなら安くても日本
円で6000円はするよ。いやこの味なら、1万円はするね。と、友達とゲラゲラ笑う
。全くもって、日本人というより、お馴染みの客で付近の常連客は、行けなくなっちま
った。一体いままで、誰が店を大きくさせたと思ってるんだ。とぼやくのだが、いかん
ともしがたい。これが今のオーバーツーリズムと言う奴である。まあこれだけならいい
のだが、北九州他、解んない店主が増えて、ギトギトの油料理で発火したり、誰かの置
いて行ったスマホで発火したり、挙句の果ては、客を取った取られたの喧嘩と殺人事件
である。日本に来た真面目な労働者は月3万を送っていた仕送りを5万にかえて、全く
稼げない。と若い従業員が言うが、日本の若者だって、私の知ってる子は何人も海外に
出て仕事してるよ。日本人も海外出稼ぎ時代がきたんだ。って思ってる。としんみり。
聞けば、SNSで妙な業者に取っ捕まって、なにやら売春奴隷にさせられているらしい
。ピストルも麻薬もある所だから、逃げられずいる。と言う。そりゃそうだ。あの電話
詐欺のルフィ体制ですら、逃げられずに移民局預かりで、好い様にされてたのだから。
洋風人には騙される。大陸人にはかなわない。・・・いやはやまったく。である。

55 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 09:16:57.88 ID:noJXL9vZT
    Ωの移民たち・・・・・・・・・05

ディヴィエ・ベーブのフルート
Divje Babeフルートは、スロベニア科学芸術アカデミー研究センターの考古学研究所が
率いる体系的な考古学的発掘中に、1995年に発掘された。一定の間隔を空けた穴が開け
られたホラアナグマの大腿骨の笛が出たのだ。北西部のツェルクノ(スロベニア)近く
のDivjeBabeIにでたものだ。それは楽器の形としてネアンデルタール人によって作られ
、ネアンデルタール人のフルートとして知られるようになった。このアーティファクト
(楽器)は、スロベニア国立博物館に、目立つように公開されている。リュブリャナの
古代遺跡から出た、ネアンデルタール人のフルートは、世界で最も古い既知の楽器であ
った。ネアンデルタール人の象徴的行動と、高度な認知能力を反映している可能性を、
示唆している。他の中期旧石器時代「ムスティエ文化」の、他の多くの発見と同様に、
この発見には、科学界の一部からの、厳しい批判と拒絶を受けた。こうした象徴的な、
重要遺物の発見では、旧石器時代の研究において最も重要でいつも批判され続けたが、
解剖学的に現代の人間の、到来に先立つ発見に 特別な注意が向けられている。ヨーロ
ッパは約4万年前に、アーティファクトは作られ、ネアンデルタール人の精神的な生活
に光を当て、彼らの認知能力を証明する重要な発見であろう。この発見場所は長さ45m
(148フィート)、幅15m(49フィート)の 水平方向の洞窟の中である。ツェルクノの
近くのイドリッカ川から、230m(750フィート)の上腹にあり、旅行者や訪問者がアク
セスできる場所だ。現場で働く、更新世の気候変動の研究者は、20の炉床と、ホラアナ
グマの骨格の残骸を含む 少なくとも10のレベルで600以上の考古学的なアイテムを、
発見採集をしている。博物館の声明によると、このフルートは約55、000年前に「更新
世中期の終わりの時代」としてネアンデルタール人に関連付けられている。

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/26(金) 04:14:33.17 ID:l3wifJmrE
    Ωの移民たち・・・・・・・・・06

 1920年代と1930年代の2回の調査で、考古学者スレチコ・ブロダル(ミティア・ブロ
ダールの父)は、カラヴァンケン山脈東部の、別の場所のベタル・ロック・シェルター
で、穴のある数十の骨を発見しましたが、それらのほとんどすべてが第二次世界大戦中
の占領とイタリア併合において、破壊されました。まだ保存されているものの中でも、
最もよく知られているのは、下顎管に3つの穴があるホラアナグマの下顎骨であった。
その後、第二次世界大戦以来、同様の標本が発見されて、これらの骨は今日では、スロ
ベニア国立歴史博物館に保存されている。それらの多くを発見した考古学者ミティア・
ブロダールによると、穴のある骨は、ムスティエ文化の終わりと、オーリニャック文化
の始まりにのみに日付が付けられるので。ポトク洞窟に見られるような 穴のある骨の
楽器は、現代人のクロマニョンによるものであり、ミティア・ブロダール(MitjaBrodar
)は、それらが中央ヨーロッパのオーリニャック文化の要素である。と主張し、ディヴ
ィジェベイブのフルートは、現代人の産物であると主張した。後期旧石器時代のフルー
トとは異なり、ディヴィエ・ベーブのフルート(Divje Babe Naeanderthal)の楽器の
ほぼ全長が、全体で保持されているため、信頼性の高い再構築が可能であった。保存さ
れた全長と、穴の数、口径、および部分的に保存されたブローエッジの存在を考慮する
と、近位端では、楽器として単純で信頼性の高い再構築が行われた。再構築には大腿骨
が、最初に肉食動物の肉が失われたか、廃棄されたときに、失われた部分をかじって、
アーティファクトを創ったという。発見に基づいて再生している。

57 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/26(金) 04:15:01.15 ID:l3wifJmrE
    Ωの移民たち・・・・・・・・・07

 このディヴィジェベイブの、ネアンデルタール人の創った楽器は、最も古い、既知の
楽器と呼ばれるすべての要件を満たしている。明確な考古学的資料の、層序学的文脈、
年代測定、製造の説明、音楽的検証、および後期の良好な比較が出来る。この発見で、
現在ネアンデルタール人の音楽的行動の最も強力な物質的証拠となった。ドイツでの、
発見された最も初期のオーリニャックの楽器よりも、少なくとも一万年年も古い年代で
ある。と言われる。となると、この原始人達は、太鼓と笛をあやつっていた事になる。
太鼓と笛があれば、村祭りに充分である。食糧があって、勝手な声で歌や踊りをしての
リズムを取ったサークル、って言うなら、まったく「はじめ人間ギャートルズ」の世界
である。まったくアマゾンやアフリカの現代の狩猟民の部族と、全く同じ世界である。
「はじめ人間ギャートルズ」は架空の原始時代に繰り広げられる、原始人たちの大らか
で、かつ、突飛な日常を描いたギャグ漫画である。テレビアニメやテレビドラマにもな
った、その独特のユーモアや世界観で大人気を博した。この作品により定型化した代表
的なギャグに、「大声が文字の形の石になって飛んでいく」「輪切りの肉」「マンモス
の群れの突進に巻き込まれた人間が、踏みつぶされてペラペラになる」「テッコンキン
クリート」などがある。一方で、作中で、原始時代にもかかわらずなぜか貨幣経済が、
浸透しており、巨大な石の貨幣を用いている描写が見られる。原作の園山俊二さんや、
音楽のかまやつひろしさんなんかは、何を見て、どう感じて、生きたのだろうか。少し
話が聞きたくなる。園山俊二は、随分と楽しい酒をのんだんだろうなぁ〜〜。と思う。

58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:50:30.01 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・08

 園山俊二は、早稲田大学在学中、英文科の講師三浦修や、同級生のしとうきねおらと
ともに早稲田大学漫画研究会を創設するも、結核の療養のため1年休学した。復学後に
漫研に復帰し、後輩の福地泡介、東海林さだおと出会ったとされる。園山・福地・東海
林(しょうじ)は、のちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半、当時の
学生運動になぞらえて「漫画界の 三派全学連」と称された。彼らにはなんだか、昔の
ひ弱な都会っ子の香りや風を感じる。手塚治虫氏や藤子不二雄、石森章太郎などの全盛
期である。あまり焦点とはならなかったけど、人気と一風変わった作風には、かなりの
輝きがあった。TVでも、幾つか出ていて、ナレーションなんかにも声を披露している
。1993年 1月20日死去。57歳没、意外に早くTV界から見えなくなった。「ぎっくり腰
の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行。園山は見舞客に「肝硬変」ある
いは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は、追悼コメントにおいて、
実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている。東海林さだおは、「白い画用紙
のまん中に、スーッと一本、鉛筆で横に線を引くと、すでにそれは大平原と空を分かつ
地平線なのであった。」「それが園山さんの代表作『ギャートルズ』となった」と園山
のシンプルな描線による画風を評した。園山俊二さんは、漫画家として未発表のイラス
ト画を大事にしていた。幻の園山作品である。その中でも「国境の二人」という作品が
特筆されている。この漫画は、対峙する二人の兵士を描いており、国境線を前に向き合
う物語で、人間が勝手に国境を作り争うことの愚かさを描いている。学生運動が次男と
するなら、戦後を生き抜いた長男の世代と世界観である。この作品には、戦後70年を迎
えた今、争う愚かさと生きる事の意味と時間と言うものが隠されている「飄々」と活き
た世界。何とかなるさ、という園山さんの思いを伝える。ジプシーと独鈷模様である。

59 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:50:57.42 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・09

 人間を動かしている ミトコンドリアゲノム上に存在する農業上の最重要形質が発見
された以降 DNAの改造に取り組む研究が進む。植物細胞には、核、葉緑体、ミトコ
ンドリアに、それぞれ遺伝情報、ゲノムが存在している。ところが核のゲノム解析には
早くから進んだが、ミトコンドリアのゲノム解析は遅れた。植物ミトコンドリアのゲノ
ムは、細胞呼吸に関わる遺伝子群や、これらの遺伝子発現に必要な遺伝子群、また、F1
ハイブリッド品種育成現場で、現在では利用されている細胞質雄性不稔性の原因遺伝子
などが存在しています。しかしながら、ミトコンドリアゲノムでは、これまで、標的を
絞った人為改変が不可能だったため、遺伝子の詳細な機能解析に手が付けられない状態
が続いていた。しかし、東北大学と玉川大学の共同研究により、イネとナタネのミトコ
ンドリアゲノム上に存在する 農業上の最重要形質の一つである細胞質雄性不稔の原因
候補遺伝子の破壊と稔性回復に成功した。これにより、これらの配列がCMSの原因で
あることが直接的に証明されました。この成果は、様々なサイトで取り上げられた。現
在、この技術をさらに発展させ、植物ミトコンドリアゲノムとそこに存在する遺伝子に
関して残された謎の解明に向けて研究が進められる。学習院大学分子生化学研究室の、
MITOLの研究成果によりマイトルビン(ミトコンドリア活性化物質)の同定に成功し
た。このマイトロピンの効果は絶大で、ミトコンドリアの活性化を促す危険物質だが、
用途は、アンチエイジング関連アルツハイマー病・認知症、パーキンソン病、生殖医療
、筋疾患(サルコペニア・フレイル・ロコモ)、心疾患抗癌剤、MDS、ミトコンドリ
ア製剤、メタボの改善、アンチエイジング関連など多種にわたる。で、植物ミトコンド
リアに関する研究で、今後も分裂機構や融合、形態の維持機構について発達し、これら
で、植物だけでなく生物全体の生命活動を理解するだろう。マイルドストレスをかける
事でホルムシス効果があると言う。それが若返りさせると言う。

60 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:51:32.47 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・10

 ホルミシス効果とは、ある物質が高濃度・大量に用いられた場合は有害な物質となる
。だがこれに対し、低濃度・微量に用いた場合には、逆に有益な作用をもたらす現象が
現れる。言うなれば、対抗馬のバイキンマンがいる事で、アンパンマンが強くなる。み
たいな事である。それは、例えば、身体が微量の放射線を受けると 細胞などが刺激を
受けて、その働きを活性化させる、毛細血管が拡張して新陳代謝も促進、免疫力や自然
治癒力を高める効果が期待できる。大量では有害な作用をするものが、わずかな量だと
人体に、生理的な刺激を与えて活発化させる現象を、ホルミシス効果と呼ぶ。こうした
治療法は昔からあって、適度なストレスを、体に与えると、体が鍛えられて、元の状態
より強くなる現象のことを指す。よく忍者の息継ぎとか、ゴールキーパーの羽根だし、
とか言われる訓練である。つまり、ゴールキーパーの取れない所にボールを蹴るから、
練習になる。ジャンプ力や瞬発力や判断力が付く。と言われる物だ。日本では、仕事は
身体が覚える。と言うことわざがある。礼儀・礼節は、慣習が教え、正義・道義を周り
が育てる。というものだ。実は生物は太古の昔から、攻撃的に保身的に行動し生き延び
て来た。かつての原始の海は、酸性度が高く、生物種は生成の仮定では、物理的化学反
応で、外と内とその境界幕で構成されて物が出来る。しかしして、意志が偶然によって
生命的動作が加われば、その後は環境との闘いが生じる。何処からか出来た原始生物は
、原始の海の酸性度が高くとも動き回る種は、活きられない種を、食べて生きる事にし
た。食べられた種がどちらかが判らないが、淡水部もあって、その中では大量発生した
淡水種もいた。ところが食べられた生きるに値しない者らは、防御として動き回る種を
壁にし、自らは核を創り、酸性の海の覇者を動かす術を持った。

61 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:56:52.62 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・11

 この体制は今も変わらない。我々は排便や糞尿を浄化槽で浄化させる。この中は三層
構造で、先ずは導入される物を嫌気菌層に於いて分解させる。この嫌気菌の為に食べや
すく工夫の粗い「ろ過層」や菌付着用の「粉砕層、岩石層」を設けて貯留層や沈殿層に
流す工夫もある。で、その後は空気が必要な好気菌曹に流すのである。その後滅菌曹や
殺菌曹で放流される。この構造は、基本的に自然界でも、或いは食品界でも変わらない
。要するに、栄養素として、エネルギーを創り出す菌に頼って 地球の循環機関が動き
そこで生きているのである。この性質は、殆ど人体の中でも起こっている。口に入れる
食物は、雑菌だらけで、毒素が多い。基本的に栄養素は毒物であり、精製されたもので
は、更に毒性が上がる。適度な除菌と毒素の搬入により、歯で咀嚼され、それなりの菌
や唾液に混ぜられた状態で胃に運ばれたり、消化器官に行く。ただの水でさえ、ただの
水ではない。我々の小水も、便も老廃物と簡単に言うが、一度は必要分を分解吸収して
巡廻して、その後腎臓にこしとられて、膀胱に至るのである。今回小林製薬は記者会見
して、「紅麹コレステヘルプ」など3商品の自主回収を公表。この時点で明らかになっ
たのは、@サプリを摂取した人から腎疾患の報告が相次いでいること、A想定しない「
未知の成分」が健康被害をもたらした可能性が高い、とした。プベルル酸は抗生物質の
働きがあるとされる。北里大の研究チームは 蚊が媒介する感染症マラリアの治療薬を
探す中、候補物質の一つとして論文で報告していた。この未知なる薬も、実は動物実験
他の研究があって、初めて知れる毒物なのである。 そしてそれは抗効薬的効果なのか
、薬効効果なのか、ホルミシス効果なのか、人間にまで進化した生物では、自分の身体
さえ判らない。けど、それが効き 風邪が治ったり、体力がついたり、するのである。

62 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:57:17.72 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・12

この未知の毒物や障害物、などと言うのは、社会現象でも生物生態でも多々おこる。と
言うより、我々が産まれて来た時、何も知らないのであってここにある危険は多く、全
てが、未知の障害物や危険や毒物なのであって、これを乗り越えて来た要素やアイテム
が、集団や集団交流の言語であり、踊りや音楽や宗教や科学といった知見の伝達である
。こうした事は、実は生物界の全体に見られる。猫やカラスでも、声を出す動物は至っ
てお話をする。飼い猫に限ってはインコ同様に、幾つかの思いを遂げる呼び鳴き、じゃ
れ鳴き、甘え鳴き、威嚇鳴き、悲鳴鳴き。と、幾つかの声を持つ。まあ生物の進化は、
今でも解明されてない不思議な現象は、多々ある。中でも、この毒物たる薬分、つまり
栄養素の分解や取り出しを他に任せ、搾取する方法において生き残り策に転じたのだ。
今日、紅麹コレステヘルプの問題が世間を賑わかしてるが、数人が死亡し、数十数人の
健康被害が解って大騒動、の事とある。が、しかし、我々人類が、口にした物で死んで
行くという事は、常にある事で そうそう異常な事ではない。実際の話、「紅麹コレス
テヘルプ」は悪玉コレステロール値を下げることを謳い、年間の売上高は6億円という
、ドラッグストアなどで販売され大人気だったのである。累計販売個数は百万越えとさ
れ、健康食品の「紅麹 コレステヘルプ」は好調に売り上げを伸ばし、17億円 売上記録
している。つまり30〜50万袋が売られて年間10万人は、手にして口にしている。
つまり、本来の紅麹の効能はあったものと、思われる。では、当然乍らも、この10万
人と死亡した人とに、一体、何が違ったのであろうか。これが生物進化なのであろうか
。一部のテレビでは、医者が登場しこの製品の飲用を止めて 健康に戻った。と、証言
させている。はたして、この健康の正体は一体何であろうか。毒物を取れば当然健康は
害される。しかし、毒物=薬物=栄養素なので、その分量は人によって許容量が違う。

63 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 02:57:46.89 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・13

 毒物=薬物=栄養素なので、その分量は、人によって許容量が違うのだが、それでも
西洋科学は集計し、割って標準を決め一般化するのである。科学は再現性があって科学
とするので、つまり、サイコロふって6が6分1の確率で出るというは科学ではない。
何故なら6回ふってそれが出る確証はないからだ。つまりそれは数学なのである。とこ
ろが、6分1に限りなく近くなる。という事は科学なのである。この微妙な言い回しと
その差は、恐らく日本人の歴史では作れない。それが西洋科学たる所以(ゆえん)である
。この商品は、人気を博していたのだ。まあロットの毒素成分を抜きにして、報道は、
この解決を、目指していない。では、やっぱり、それだけ工場工程の異常だったのか。
しかしながら、今や知らない世界の知らない食品は、普通に売られて、その工程などは
ブラックボックスだらけである。全く危険を尻目に、我々は着実に、そうした物を 口
にしているではないか。冷凍食品、色んな加工製品、分業化されてできる菓子パン類、
更には熱を入れない飲料水も次々に新商品を出している。又、出来た毒入りロットにし
ても、数百や数千人は口にしてるはずである。という事は、それだけ、声が上がらない
社会なのか、なにか特殊の性質の異常体質だったのか・・・全く判らない、説明のない
報道ではあるが、進化の過程を見れば、実は一斉に変化した兆しはない。それよりも、
DNA解析すると、古代のDNAの発見から、私達の人類の遠い昔に関する知識を得て
要る中で。シベリアの洞窟から発見された骨は、ネアンデルタール人の少女とデニソワ
人の夫の両親をもつ、90,000年前の女性のものであることが明らかになっているが、こ
の洞穴人の母が、世界中の特にアジア人の殆どにその子孫の傾向が表れている。又それ
以上の歴史を遡れば、考古学者が直面している問題として、アフリカで二万年年前頃に
生じた何らかの変化が、きっかけとなり、当時の社会が今日の社会と非常に類似する様
になったことである。従って、殆ど、全人類は、このアフリカの一類人猿の発達から、
出たのが人類だと称している事だ。

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/28(日) 03:09:59.04 ID:I2RZb6ziN
    Ωの移民たち・・・・・・・・・15

 欧州大陸では、何故か第二次世界大戦になっても、ドイツの兵器工場を叩いていない
。米国の軍部の兵器工場運営で殖産産業に向かったのは、いずれもユダヤ資本であり、
富国強兵策に転じたのは、米国の軍需産業も、いずれもユダヤ資本であり、第一次世界
大戦での、軍需景気で一儲けした人達であったのだ。勿論、後の戦争でもボロ儲けに、
走ったのは当然である。これを 蒋介石夫人は渡米して熟知して利用している。今でい
うDSやQCとの接触である。Qクラブは当時、米国でも欧州でも、高級娼婦館の主人
をしていた チャン・ルーの呼称のある男だ。本名は、誰も知らない、九龍界の一翼で
あった。モンパルナスの娼婦館を皮切りに、渡米して大成功した。パリの区の名付け方
は、誰もが知るグルグルと2巻き半した、「カタツムリ構造」と称されるが。今でも、
荘厳なサクレ・クール寺院、キャバレーの王様ムーラン・ルージュなど、パリ芸術文化
と密接な関わりの、モンマルトルの丘のある第18区、その隣の第19区、更に新区の抗争
20区は「中国移民系」と「アフリカ系移民」のギャング抗争地として知られているのだ
が、このチャイナ・マフィアの長だったチャン・ルーである。フランスの政治指導者達
は決まって移民との統合について、語りたがるが、同じフランスの市民権を持った市民
でも、アジア系の顔つきに侮蔑し唾を吐いた時代だ。アジア移民の声を事あるごとに、
何時からフランスは移民のゴミ箱に墜ちたのか。と問う者と差別に手を差し伸べる篤者
の援助とが交差する。こうした、黄禍論に広く流布する社会通念のなかに埋没し、嫌気
がさして渡米するのがバリっ子の風潮だった。中国系移民の1世の、チャイナクラブを
、手玉に取り、宋美齢は中華民国の蒋介石の妻となり、輔仁大学(ほじんだいがく)理事
長をして、カトリックとの繋がりを持ち。中国国民党中央委員会委員、中国国民党航空
委員会秘書長をし、スキャンダルを手に高級軍人を牛耳った。「フライング・タイガー
ス」の設立で「中華民国空軍の母」を自他ともに認めるところとなりソン・メイリンの
名を轟かせた。

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/02(木) 15:20:55.85 ID:JVzC5ND6w
    Ωの移民たち・・・・・・・・・16

 彼らの推測によると、最初の遺伝子流動は、アフリカを離れてまもない現生人類と、
ネアンデルタール人との間で起こり、その後、デニソワ洞穴で発見された 別のホモ属
集団との間で起こった。後者は、4万5千年ほど前にパプアニューギニアに定着した、
現代のメラネシア人の祖先のみに影響した。と考えている。そして、これらの分析結果
に基づいて、彼らが立てた仮説は、2つの短い経路におい、て他のホモ属から現生人類
への限定的な遺伝子流動(異なる地域の集団間で遺伝子が交換されること)が生じた。
というものだった。1つは、現生人類の集団が、アフリカを離れた直後の経路であり、
常に定説として取り上げられる経路である。もう1つはオセアニアのメラネシア人集団
の祖先となった現生人類のみが、辿った経路であり、今回研究チームが推測する南下の
経路だ。「遺伝子の混合」は、数十万年の間にさまざまな地域のホモ属種間で大規模な
遺伝子流動が生じて、現生人類になった。という、旧来の多地域進化説を蒸し返すごど
の事ではないものの、だが、彼らの提案する「置換プラス限定的な遺伝子流動」モデル
を、確証し裏付ける程、研究が十分とは言えない。とはいえ、古代のDNA配列を解読
して得られた概略では、人類のゲノムの流動に関する興味深い考察をもたらすものとも
なっている。今後さらに多様なヒトのゲノムを多く得ることができれば、大きく仮説を
検証できるものとも言える。ペーボ氏を中心とするグループは、以前同じ指の断片から
、回収されたミトコンドリアゲノムDNA(mtDNA)に関して、現生人類から、深く分岐
した新しい系統の人類である。という研究成果を、ネイチャーに発表しており、今回の
研究成果はその続報である。とも言える。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/04(土) 08:29:46.15 ID:fYrBe1U+p
    Ωの移民たち・・・・・・・・・17

 彼らは今回、この骨の核ゲノム配列を約2倍のカバー率で解読したようだ。それは、
ゲノム上のある塩基をカバーするDNA断片が平均して2つあり、それらから解読配列
を得た。ということである。研究チームは、このDNA断片について、現生人類ゲノム
から得た低いカバー率(1〜5倍)のデータ12セット、およびネアンデルタール人ゲノム
から得たカバー率1.5倍の データと比較した。核DNAは、遺伝子流動の分析に適して
いるが、それは遺伝情報の大多数を含むためだけではない。遺伝子組み換えが生じてい
るので、現代と古代の遺伝的な関係を、比較するための半独立的な差異を 収集できる
ポイントが、数万か所も得られるからなのである。洞穴で見つかった 古代の骨から得
られた情報は、まるで、プラトンの比喩でいう「洞窟に映し出される影」のようである
。我々の前に現れた祖先の移動の概略は、まだまだ「影」のように、真実と言うには、
不十分なものであるが、人類の起源に関する我々の理解を 深めるのに役立つはずだ。
この分析結果からわかったストーリーは、非常に興味深いものだった。デニソワ人は、
遺伝学的には、きわめてネアンデルタール人に近い。が、かといって同一集団から採取
したといえるほど近くはないらしい。ゲノム分析によると、両者が現生人類の試料と、
形成するクラスターよりも、両者どうしが 形成するクラスターの方が、わずかに多か
った。この事は、デニソワ人とネアンデルタール人が、近似の姉妹分類群であることを
示している。またデニソワ人の試料では、現生人類の中ではアフリカのヨルバ族、ムブ
ティ族、およびサン族よりも、現代の欧州や東アジアの人と形成するクラスターのほう
がわずかに多い(約1〜3%)。もし、デニソワ人とネアンデルタール人が近縁での姉妹
分類群であるならば、この結果は、ネアンデルタール人集団から現代のユーラシア人へ
の遺伝子流動に関する報告とも整合しているのだ。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/11(土) 20:19:20.49 ID:OKHJ6lWU/
  珠洲(すず)を 感じる世界・・・・・・・・・・44

 日本でも首相官邸や政府では、機密情報共有枠組み「ファイブアイズ」を構成する、
英語圏5カ国と個別の連携を強化している。既に米国、英国、オーストラリアとは、そ
れぞれ安全保障に関する機密情報の交換を可能にする協定を結び、ニュージーランド、
カナダとは同様の協定締結に向けた交渉開始で一致した。機密情報の共有で連携を加速
させる利点から、ファイブアイズへの日本の参加を期待する声は高いが、法整備などの
課題が多く、実現の見通しは立っていない上に、いわゆる「第三者ルール」が国民を暗
くする。かつて、「AUKUS(オーカス)」の発足を、勝手に オーストラリアが発表した
ことがある。中国との関係が悪化している同国が、南シナ海の領有権問題などを抱えて
いて、中国との対峙するために、アメリカやイギリスとで発足した 安全保障に関する
軍事同盟に似た 新たな枠組みだ。だがこれに加入できてない日本では、潜水艦建造の
入札で干された。更に日本は中国対峙に、軍事同盟でなく経済ブロックとしてクワッド
の設立を叫んで、安倍氏はアジアの先駆けの長となる事で、一応は太平洋の安全を得た
。現在、情報機関として極めて有名なのが、米国の国家安全保障局(N S A:National
Security Agency )である。ここでは主に無線・有線の通信情報を収集・分析している
。その要員数は2万人とも3万人とも言われている巨大組織である。その為末端組織や
個々の諜報員を正確に掴めていない。と言う噂もあるぐらいだ。それに対応する日本の
機関となると、防衛省情報本部の電波部と言うことになる。規模は不明だがとりあえず
数百人としておいて、良いのではと思うが、仮に200名とすれば米国の100分の1という
ことになる。この N S A と電波部は 昔、太平洋戦争時代の電波傍受の機関をそれぞれ
の先祖としている。一般的知見では、日本軍は米軍の通信傍受や暗号解読で後れを取り
、戦争に負けた。ということになっている。ミッドウェー海戦での大敗北などが、その
有名な例だろう。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/11(土) 20:19:58.84 ID:OKHJ6lWU/
  珠洲(すず)を 感じる世界・・・・・・・・・・45

 ミッドウェー大敗北では、米軍は、日本の暗号を解読してほぼ内容を解明していた。
がしかし、その中での 重要な地名である「AF」の地が、どこを指すのかの 決め手が
なくて悩んでいた。そこで、わざとミッドウェー島では、水が足りないという情報を流
したところ、日本軍が暗号で、「A F では、水が不足している。」と電報を打ったので
、A F が、ミッドウェーであると確証を得たと言うものがある。こうした諜報戦や国の
戦略戦は、現在でも同じように行われている事を認識しておく必要がある。オーストラ
リアは、「引き続きASEANを中心に平和で安全な地域を強化していく」とともに、
「ASEANが主導している既存の地域制度枠組みを補完し強化することに 全力で取
り組む。」と述べている。モリソン首相は、日米豪印戦略対話(クアッド)サミットが
開かれるワシントンに向かう途上でインドネシアのジョコ・ウィドド大統領に電話し、
オーストラリアは、地域の戦略バランスの維持と 不拡散の実現に努力すると述べた。
また、オーストラリアには アジア太平洋地域の政治支配を志向する意図はない。との
メッセージをもって、他の域内諸国に働きかけるチームも発足する。米豪両国では、反
核的な スタンスのニュージーランドが1980年代半ばに離脱して以来事実上2カ国
で機能してきた「アンザス同盟(1951年締結)」において距離を縮めた。AUKUSは
、既にアングロサクソン圏の5カ国(米・英・豪・ニュージーランド・カナダ)を緊密
な諜報共有ネットワークに結びつけているファイブ・アイズ(5つの眼)枠組みにも、
新たなサブグループを創設する。オーストラリアは今や、カナダ・ニュージーランドを
飛び越して、米国・英国に対する特権的な同盟国となった。 オーストラリア・日本・
米国は、安全保障上の計算に、インドを組み込むために「インド太平洋」概念を便利な
分析ツールとして用いてきた。これは地政学上、「自由で開かれた」原則、民主主義的
な価値を、一つの戦略的な概念の下に組み込むものである。

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