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変死体

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:00:10.48 ID:+X7coeI+c
https://godtommy0913.amebaownd.com/posts/41066735

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:04:54.52 ID:+X7coeI+c
https://youtu.be/Iw9hCtpHjTg?si=wQFp97aHXMGTsDtj

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:08:01.39 ID:+X7coeI+c
https://youtu.be/fXnF7Hipp7Y?si=UXPBs5RMfJ8TVt08

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:14:52.95 ID:+X7coeI+c
安倍晋三
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:22:24.68 ID:+X7coeI+c
https://www.walkerplus.com/article/1163030/

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/12(金) 09:24:59.40 ID:+X7coeI+c
https://www.nikkei.com/nkd/company/?scode=7679

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:35:35.57 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・01

 大英博物館にある六方柱文書には、バビロンの破壊で頂点に達した彼の遠征記録を含
んでいた。ニムルドは旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ)の場所と同定されてい
る。一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後のアラブ人は都市の遺跡を狩人の英雄
であり、アッシリア地方の強力な王であった ニムロド にちなみ、ニムルドと呼んだ。
紀元前883年〜紀元前859年にかけて、アッシリアを治めたアッシュル・ナツィルパル2
世は、カルフに新たな宮殿や首都としての機能を追加したのだ。数千数万の人々が市と
大宮殿を囲む、8kmの長さの城壁建設に従事した。石灰岩に刻まれた石碑が遺跡の各地
から出土しており、そこから彼の治世や宮殿、征服事業についての多くが分かっている
。その中には、次のような文章の刻まれたものもある。「わが王の住まいと、わが主の
すべての 時の喜びの為の、ヒマラヤスギ、イトスギ、ネズ、ツゲ、クワ、ピスタチオ
、タマリスクでできた宮殿を、私は此処に築く。白い石灰岩や、アラバスターでできた
山や海の獣たち、私はそれらを作って、門に置く。」と。又、碑文には宮殿に蓄えられ
た戦利品・略奪品の数々の事も書かれている。「銀、金、鉛、銅と鉄、私の支配の下に
置いた土地から、私の手にした戦利品を、私は多くの物を得て此処に納める。」その他
、征服を祝う祝宴、などのことも刻まれている。しかし、彼の行為は、多くの場所で恐
れられたのである。「私は捕虜を奪い その多くを 火の中で燃やした。生かしておい
た者の内、幾らかは手首を切り落とさせた。残りの者からは、鼻、耳、指を切り落とさ
せた。兵士達の多くから、私は眼を取った。彼らの若者、娘、子供らを焼いて殺した。
」。と書いている。別の都市の征服に当たっての祝宴について、彼は碑文にこう書く。
「反抗した貴人達の皮膚を、私は剥いで、その彼らの皮膚を広げて積み上げた。」こう
した恐怖を与える戦術や宣伝は、各地の征服に当たり有利に働いた。紀元前 877年には
ついに地中海まで進軍し、その後、このように布告している。「私は武器を深海で清め
、神々に羊を供えた。」と

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:35:59.69 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・02

 紀元前883年から紀元前859年にかけてアッシリアを治めたこのアッシュル・ナツィル
パル2世の、カルフの後は、息子シャルマネセル3世も、このカルフを首都として、35
年間の治世のうちに、31年をアッシリア拡大のための戦争で過ごしたようだ。シリア・
パレスチナの国家連合と、オロンテス川河畔で戦った後、このように吹聴する碑文を残
した。「わたしは、戦士たちのうち 14,000人を 剣で斬り殺した。アダドのように。
私は彼らの上に 破壊の雨を降り注がせた。私は彼らの死骸を広くばら撒き、荒野を覆
い尽くさせたのだ。武器で、私は多くの血の流れを作り 谷間に流れさせた。彼らの、
死骸が倒れるには 平野はあまりに狭すぎた。広い地方に、彼らの死骸を埋めさせた。
彼らの死骸を 橋にして、私はアラントゥ(オロンテス川)を渡った。シャルマネセル
3世はカルフに、父の宮殿より大きな宮殿を築かせている。大きさは2倍で、面積は12
エーカー(49,000平方m)あり、部屋数は200を超えていた。しかし、紀元前 828年息子
アッシュル・ダイン・アピルが、反乱を起こし、ニネヴェやアッシュルも含む27の都市
が反乱に加わった。シャルマネセル3世は、カルフをかろうじて維持したにとどまり、
反乱はシャルマネセル3世の 死後の紀元前 821年まで続いた。紀元前13世紀の、アッ
シリア王シャルマネセル1世が、当時の首都アッシュルから北に離れたカルフに 第二
王宮を築き、以後1000年ほどの期間にわたってカルフは都市として存続していた。カル
フの繁栄と、名声が絶頂にあったのは紀元前9世紀、アッシュル・ナツィルパル2世が
都としていた時代で、彼は、初期の都市の廃墟の上に 巨大な宮殿や神殿を建設した。
この宮殿の遺跡は、現存している数少ないアッシリアの宮殿遺跡であり、ほかには、セ
ンナケリブが築いたニネヴェの宮殿遺跡しか見つかっていない。紀元前 879年に行われ
たであろう盛大な落成式や、宴の様子は、考古学調査の途中に発掘された石碑に 刻ま
れていた。アッシュル・ナツィルパル2世の都には、数万人の人々が暮らした。市内に
は、珍しい動植物を集めた植物園や動物園も開かれていたのだった。その息子シャルマ
ネセル3世(在位:紀元前858年〜紀元前824年)は、大ジッグラト、神殿、シャルマネ
セル砦と呼ばれる要塞などを建設した。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:36:26.34 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・03

 カルフは紀元前900年代から、紀元前710年頃まで アッシリアの首都であった。その
後サルゴン2世がドゥル・シャルキン(コルサバード遺跡)へ移った。次いでセンナケ
リブがニネヴェへ、遷都したためカルフは都ではなくなったが、なお大都市であり続け
、王の宮殿のある都市であった。紀元前612年に ニネヴェが新バビロニアや、メディア
王国により陥落した時期、カルフも破壊されたとみられる。ニムルドという遺跡名は、
ドイツの探検家カルステン・ニーブール(Carsten Niebuhr)が、1766年3月にモースル
に滞在していた時の記録に初めて登場する。発掘により、バスレリーフ(薄浮彫・浅浮
彫)、象牙の彫刻などが数多く見つかった。中でも、アッシュル・ナツィルパル2世の
像は、非常に良い保存状態で見つかった。また宮殿の入り口に 二体一組で置かれた、
10トン前後から、30トン前後の巨大な 人頭有翼獣も多数発見された。アッシュル・ナ
ツィルパル2世が残した宮殿の石碑に書かれた碑文は、彼と彼の治世に関する詳細を、
よく伝えており、この時代の 他の君主らについて知られている以上のことが、彼に関
しては分かっている。ニンウルタ神や、エンリル神の神殿、書記と芸術の神ナブーに捧
げられた建物、大規模な要塞なども発見された。アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿
、シャルマネセル3世の宮殿、ティグラト・ピレセル3世(紀元前744年〜紀元前727年
)の宮殿も、同定されている。シャルマネセル3世の「黒色オベリスク」は、1846年に
レヤードにより発見された。この有名な、記念碑は高さが197.85cm近くあり、紀元前の
859年から紀元前824年にかけての 成功に終わった遠征を記念したものであったのだ。
頂上部分は、ジッグラトのような形状をしており、浮彫のうち一面には酒を地に注いで
、彼個人の神を祭るシャルマネセル3世の前で、イスラエル王イエフに 率いられて、
イスラエル人の集団が平伏している様子が彫られている。楔形文字で、「オムリの息子
イエフ」と書かれ、金、銀、鉛、矢などの貢物の詳細も書かれている。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:36:49.92 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・04

 ニムルドから出土した門番となる人頭有翼獣ラマッスの像が、メトロポリタン博物館
に飾ってある。ところが、このラマックスは、5本足なのである。何故5本足なのか。
この一本の脚は、実は男の竿を示している。つまり、歴史や時間を歩く脚は男の竿だ。
と言う訳で、神すらも 子孫を残してこそ歴史を創る。時を行くって言う思想である。
アッカド語(新アッシリア語および標準バビロニア語)楔形文字粘土板文書は、大量に
発行されて、アッシリア内外の要人たちに手渡したようだ。大英博物館にある六方柱の
文書には、前8世紀以来、このメディア地域に割拠していた 独立的なオアシス都市国
家の小勢力は、次第に連合を作り、防衛し、その内前 615年頃までには、その多くが、
「王国」に統合されていった。その支配者たちは、宮殿を作り、宮廷の「貴族」となっ
ていったであろう。そこの処をヘロドトスは、建国者デイオケスが元来同等者であった
他の貴族に対して「自分が卓越した存在である。」と宣言し、認識させようと策を巡ら
したことを記している。が、ディアコノフはこの説話を メディアの王とかつて同格で
あった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものであって
、自らが下僕階級に成り下がったものだ。と意見している。つまり、小国には軍隊を大
々的に作って暮らせるほどの、経済的余裕は、交易の交流路上の都市にしかなかった。
からだ。と述べた。こうした都市化構造が進むと、ドーナツの状に各都市に、ストロー
現象が露われて、人々を吸い寄せた。前 652年、アッシリア支配下におけるバビロン(
バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンが、アッシリア王アッシュルバ
ニパルに対して反乱を起こした。と書く。両者は兄弟であったのだが、どうやらバビロ
ニアは、アッシリア人にとっては、住みやすい土地ではなかったようだ。

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:39:40.80 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・05

 この反乱において、シャマシュ・シュム・ウキンは、アッシリア周辺の諸勢力を味方
に引き入れて同盟軍を創ったようだ。こうして弟のアッシュルバニパルに対抗しようと
した。アッシュルバニパルは、後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として、
3つのグループを挙げている。第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロ
ニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。
当時は、既にアムル人やメルッハ、グティ人などの原住民は、遠い過去の存在であり、
この呼称は、中世ヨーロッパにおいて フランスをローマ帝国時代の呼称ではガリア人
と、一括りで呼んだようだ。あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ
人という、古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的ないい加減な表現でも
ある。「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカからの
黒人を言い、そして「グティ人」は、アッシリアから見て東方の山岳地帯の、言葉の通
じない現住民を指した。と見られている。当時アッシリアの東方に 未だ存在していた
大きな勢力は、メディアのみであったため、この「グティ人」を、メディア人と理解す
ることができるであろう。とも伝えている。さてさてこのアッシリア内戦とスキタイ人
であるが、世界史上で、最も有名なのは、地中海を大きく取り囲んで統合した ローマ
帝国であろうが、実はローマ以前にも、多くの「帝国」と呼ばれる大きな国はいくつか
存在していた。そのなかでも史上初の「世界帝国」とされるのがアッシリアであろう。
その後にオリエント世界を席巻し治めた。ペルシア帝国も、存在は重要で世界的だった
。このアッシリアと言う国は、残酷、無慈悲な様相を呈したようだ。歴史地理的名称と
してのアッシリアは、チグリス川とユーフラテス川の上流域、つまり メソポタミアの
北部を指す。メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれ メソポタミア・シリア・
エジプトを含む世界帝国を築いている。

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:40:35.60 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・06

 アッシリアとペルシア。といっても、高校の世界史の授業に少し出るくらいで以来で
、具体的一体、どっちが、何だっけ? という人も多い。「地中海世界の歴史」の第2
巻、『沈黙する神々の帝国』では、アッシリア帝国を「強圧の帝国」、その後に登場し
たアケメネス朝のペルシア帝国を「寛容の帝国」として、人類史の意味を考察している
。ロンドンの大英博物館の「アッシリア回廊」とよばれる一角で、アッシリアの王宮の
壁面を飾る「石板のレリーフ」が数多く展示したスペースがある。そこに描かれた戦闘
場面や王宮の、日常生活などの 豪華絢爛さと力強さには、誰もが圧倒される。はずだ
がそのなかに、豊かな庭園で開かれた異様な宴のさまも描れている。例えばアッシリア
の戦勝の祝宴風景には、左端に敵の首が吊るされていたりしている。ナツメヤシと糸杉
状樹木に囲まれて、アッシリア王アッシュルバニパルが后とともにくつろいでいる風景
である。二人は杯をあげ、その背後に侍者たちがひかえている。だが、目をこらせば、
これら侍者たちの間にある糸杉の枝に人間の首が吊るされているのであった。この無惨
で無慈悲な姿をさらした首の人物は、それまでアッシリアの南東にあって領土を脅かし
てきたと言う エラム国の王テウマンである。アッシュルバニパルはようやくエラム軍
を追い詰め、テウマンとその息子を討ち取ったのだ。これはその戦勝祝賀の宴なのであ
る。紀元前 653年のことだ。アッシリア回廊の浮き彫りをながめると、つぎつぎと戦争
をくりかえすアッシリア人達の姿が浮かんでくる。そこから、アッシリア人は好戦的で
残酷な人々だった。などとという印象が生まれている。(中略)都市という都市、集落
という集落を、ことごとく破壊していって、オアシス都市の住民を大量虐殺して、物資
や財貨を略奪して荒らしまわって征服していった。(中略)捕虜たちは、日常的に、首
に縄をつけられ、手を後ろでくくられ、唇に紐(ひも)を通してつながれ、イワシの日干
し状態の奴隷として、こき使われる運命に、あったのだ。その哀れな救いのない姿は、
勝ちほこるアッシリア人の残忍さ、無慈悲を刻みこませるのである。(『沈黙する神々の帝国』p.77)

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:41:07.31 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・07

 このアッシリアは、もともとティグリス川中流域の、インダス文明の一端において、
都市国家アッシュルを拠点とし成り立った国である。紀元前3千年紀の中で、中頃から
人々が居住して、農業において、小麦栽培を最初にして、突如として、交易の中継都市
の中心地となり、栄える都市に躍り出た。前2千年紀中に隣国にも、バビロニア王国、
ミタンニ王国などの、巨大大国が形成されるに至って、どうしてもこの陸地の奥の帝国
は、海岸の大国に圧力をこうむり、かろうじて命脈を保っていた。そういう時期には、
近隣を強国に囲まれていたせいで、何時の頃からか、軍事力の強化が進み、軍国主義に
傾いていくのである。こうしたある勢力が、急成長を成し遂げるには、その背後に何ら
かの技術の革新が潜んでいる。この、インダスの中部のアッシリアの場合、騎馬遊牧民
とふれあう位置にあった事で鉄器と騎馬の使用である。このことは心に止めて置くべき
だろう。だからと言って、アッシリアが、神出鬼没の騎馬遊牧民にやられっぱなしだっ
たわけではない。騎馬遊牧民の脅威にさらされればさらされるほど、アッシリア人も又
同じ様に、鉄器と騎馬文化を取り入れ 馬と騎乗についての知識と経験を得ていった。
(中略)アッシリアはオリエントのなかでも、かなり北に位置していたので、北方にい
た騎馬遊牧民と一足早く接触して、急速に大きく強くなっていったのだ。(『沈黙する
神々の帝国』p.83)こうして、圧倒的な軍事力ばかりに目が向きがちなアッシリア文化
だが、他方に、文化的な側面で、多民族国家としての 陸上交易の中心地として機能し
て来た。という地位も見逃せない視点である。アッシュルバニパル王は、みずから文字
を読めることを誇り、文書を収集することに、ことさら執着し興味を示したのであった
。アッシュルバニパルは、長男ではなかったので、もともと王位につくつもりはなかっ
た王である。宗教や文学の教養を身につけ、シュメール語やアッカド語のような、古語
の文体を読み、歴史や数学にも通じていた。つまり皇太子と言うよりは僧侶や呪術師の
職業を、親は求めていたようである。

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:45:25.72 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・08

 しかし、王になり、その興味のために、古来の記録を集めた「ニネヴェの図書館」が
造られていく。恐らく最古の図書館であろう。この事で後年の現代の我々の目に、大量
の粘土板文書が収蔵されていた模様が現出する。なかでも、『ギルガメッシュ叙事詩』
などの、後年に有名な文芸作品の収集にも努めていて、そのために、王みずから数多く
の手紙を書いていた。事が判明した。こうして軍事・文化両面で、多くの強さを見せた
アッシリアは、後の時代での、帝国の経営モデルにもなっている。「アッシリア帝国は
、征服地を直接統治の属州とした。服属した土地には、貢物の納入を義務づけて属国と
した形である。」と書かれ、「この統治法は、のちのペルシア帝国やローマ帝国でも、
用いられている形である。いわば、世界帝国というものの祖型として、モデルをなした
のであった。」(同書p.105)しかし強圧的で あればあるほど、被征服民の、反感を買
うのは当然で。アッシュルバニパル王の死後には、帝国の内外の勢力が離反を多くし、
独立を企てたりする動きが、目立って多くなってくる。さらにはアッシリアの統治力で
は、およそ抑圧できない程、大きな新興勢力がそこかしこに台頭する。「人類での最初
の世界帝国」も、時代的には、まだ広大な領域を、長期にわたって安定して治めるほど
の、ノウハウも技術も、蓄積されていなかった。「アッシリア帝国は、広大な支配領域
 あるいは多様な異民族支配において、かつて、どの国も直面したことのない事態に、
対処しなければならなかったのである。そこには、多くの試行錯誤がある。乱暴で粗野
な施策も多かったようで、とりわけ、強制移住策などの強圧的な態度を示した時には、
被征服民の反感を買うのは宿命にあった。その意味で、世界帝国として、はじめて登場
した勢力としての、多くの大きい欠陥も、かなりに目につくのである。」紀元前2000年
紀に入る前の初期アッシリアの歴史は、文献史料が殆ど残されておらず、専ら考古学的
成果によってその流れを把握するに留まるのである。

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 09:46:04.45 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・09

 「そのような『強圧の帝国』である限り、アッシリアの覇権が永く続くことは、ほぼ
間違いなく、あり得なかったのである。」(同書p.126) メソポタミアから、シリア、
エジプトまで、オリエント一帯を征服し、強大を誇ったアッシリア帝国も、 紀元前609
年に崩壊した。みずから、ライオンをねじ伏せる王の姿を レリーフに描いていたが、
その勇猛さを誇ったアッシリア帝国と、対照的にあったのが、ペルシア帝国であった。
か弱き隣国が、貢ぎ物をもって、ペルシャを訪れ、各地の異民族に、鷹揚に謁見する王
のレリーフがある。アケメネス朝のペルシア王である、すなわち、ペルシア帝国では、
アッシリア帝国が滅亡した時には、既に半世紀ほど後に、オリエント世界に乗り込んで
、統一王朝として機能してしたのだ。もともと、イラン高原南部のパールサ地方に住ん
でいたとされたペルシア人は、アッシリア滅亡後に、この一帯を支配していたメディア
高原の、幾つもの王国の中の、小さく、そして弱い一勢力でしかなかった。だが、この
土地の交易が、アッシリアを避けて、ここメディア高原を抜けて商人が通って行く為に
、税収からか、急激に勢力を広げていった。更に言語もアラム語から、新バビロニアの
言葉に置き換わった。紀元前6世紀半ばにまでに、ペルシア帝国は出来上がっていく。
紀元前5世紀のギリシアの歴史家、ヘロドトスによれば、パールサ地方は、「良き馬と
良き人に恵まれた地方。」であった事が原因の様に書かれている。ペルシア人たちは、
乗馬とともに、弓術、正直の三点だけが、子供の教育の要であったという。さらに、ヘ
ロドトスによれば、「世界中で、ペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はない」
(『歴史』1-135)という。 レリーフで見る様に、メディア人の衣装が、自国の物より
綺麗ならば、それを着たし、戦争にはエジプト式の胸当てなどもつけた。という。また
、「戦場で勇敢であること」に、「子だくさん」が、男子の美徳とされた帝国だった。
最大の子福者には、毎年国王から表彰され贈物さえも与えられたほどなののである。「
ペルシア人の性格の『異国趣味』と伝統的『子福志向』とでもいうべきものだろうか。

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 10:19:38.56 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・10

 これらの性格は、ペルシアが世界帝国に、のしあがる事と、分ち難く結びついていた
。なにしろ、もともとのペルシア人達は、中央アジアの香りをただよわせながら、オリ
エントの先進文明地域に遅れてやって来たのであるからだ。しかも、少数民族でありな
がらも、パールサ地方の、メディア高原の支配者にのし上がり、教育者でなければなら
なかったのである。(『沈黙する神々の帝国』p.143) ここで、パクス・ペルシアーナ
の、大帝国主義の現出である。アケメネス朝の始祖と目されるキュロス王では、支配下
にある諸民族や、諸文化に対して寛容であり、後世もしばしば、理想的な王として称え
られている。古代世界では、精一杯の民衆の 正義・大義・道義の中心として行動して
いた。キュロス王は、属州には租税と忠誠心を求めて、そのほかには、ほとんど何も求
めていない。新しく服属した人々の、これまでの固有の制度や習俗を尊重したという。
こうして、多種多様な種族や民族からなる帝国となったペルシアでも、紀元前6世紀、
ダレイオス1世の時代には、西はギリシアに接し、ナイル川からインダス川にいたって
空前の世界帝国となった歴史が横たわっている。広大な帝国では、各地を「王の道」で
結ばれて、宿駅や宿場町、騎馬による輸送・通信システムを発展させた。そこを行き交
う人々は、インド人、メディア人、ペルシア人、バビロニア人、リュディア人、ギリシ
ア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、多種多彩な民族がいて、彼らを選ば
ず通した。また、彼らの話す言葉も それぞれ異なっていたのに、市場は潤い繁盛した
。しかし、ここで大問題なのは、この楔型文書の文字は 現実としてあるが、言語には
発音が解らない上に口述記入での文字が、さらにアルファベット。つまりラテン語やら
ギリシャ語やイタリア語フランス語英語と言った、西洋祖語を産んでいる事だ。日本語
と違って、これらの言葉はいわば基準も意味もない アルファベットの羅列で韓国語の
ハングルの様な羅列文字で 日本の様に意味のある心象文字やヒエログリフ的群をつく
らない、意味のない単なる事象の中心の言葉で、これで正確に後世に残せずにいた。

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 10:20:08.01 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・11

 ここでは、ダレイオス1世は、帝国内の「共通語」として、自らの言語のペルシア語
以外にも、アラム語を採用している。支配者の言語を強要せずに、帝国全土のより円滑
なコミュニケーションが実現できるようにしたのであった。こうした ダレイオスの、
見識の高さは、古代という時代にあっては、ひどく際立っている。たしかに君臨しても
、ペルシア人達は、人口においては少数派であったが、軍事力に基づく力においては、
圧倒的な腕力や兵力をほこり、被征服民に こびる必要はなかった筈だ。が、そうした
施策を施している。支配者の指針は、それなりに理由があった。理解されて、協力して
もらわなければ、至らぬ摩擦も起こる。よりよく納税してもらわねばならないし、それ
には 民衆に対しなじみ深い言語で語り、そうした経済状態が望ましい。(中略)おし
なべて 力でねじ伏せようとするのが習わしのごとき古代人の世界にあっても、これは
異例のことだった。(同書p.174) 民主主義的技法の、最初の現出だろう。このイラン
の世界遺産、ペルセポリスの丘は、ペルシア帝国の王宮跡である。ここに今も残ってい
る レリーフの数々があり、帝国各地から朝貢に訪れている さまざまな民族の姿を描
いている。この諸民族との共存共栄と平和な世界帝国の演出は、500年後の パクス・ロ
マーナ(ローマの平和)に先立つもので、パクス・ペルシアーナ(ペルシアの平和)と
言えるほどの出現であろう。ここで起こった「ペルシア帝国の支配体制」は、その後の
古代人達の、広大な地域を 統治し、管理することが不可能ではない。という事を、さ
らけ出したようだ。後のローマ帝国は、このペルシアの試みから 多くのことを学んだ
に違いない。もし、前四世紀後半に野望に燃えた、アレクサンドロス大王が東征しなけ
れば、ペルシア帝国は生き永らえただろう。恐らく分裂の危機をはらみながらも、王朝
の交替ほどで ペルシア帝国の余命は、まだ続いたのではないだろうか。とみられる。
(同書p.205-206)

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 11:44:02.03 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・12

 帝国の誕生は、前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年〜前705年
)で派出している。紀元前 716年に、新たなアッシリア州を開いた帝王である。ハルハ
ルとキシェシムの新都市を築いだ。こうした都市を設置しメディア西部が、それに加え
られた。これらの州は、その後カール・シャルキンと、カール・ネルガルと改名され、
メディア地方の支配を拡大するために、強化された直轄地直轄都市として整備された。
この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世が、アッシリア攻撃
のために、周辺諸部族との同盟を試みていた。騎馬民族の略奪拡大である。この時ウラ
ルトゥに同調した王の名前に、「ダイウック」というメディア人の名前が登場している
。ただし、彼は、マンナエの王国の 半独立的地方的支配者としても登場しているのだ
。つまりマンナエ人は、紀元前10世紀〜紀元前7世紀に亘って、現在のイラン山岳部に
当たる領域にあった不明の民族である。当時に、二つの大きなアッシリア帝国とウラル
トゥ帝国があり、常に攻撃される運命にあって、彼らとうとう平地に降り立ったのであ
る。前 715年に始まったウラルの「ルサ1世」によるアッシリア攻撃は、失敗に終わる
が、こうして、ダイウックも、また捕虜となってシリアに送られている運命にあった。
このダイウックについて、ヘロドトスの『歴史』に登場し、メディアを統一した王デイ
オケスに相当するという見解もある。もし、この同定が正しく、ヘロドトスの見解が、
信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は、この後、公正な裁判によって
名望を高めて、メディア人諸部族の、推戴を受けて、初めて統一されたメディアの王と
なった人物となる。ヘロドトスによれば、デイオケスは首都エクバタナを建設し、七重
の城壁を張り巡らした街を築き、独裁権を確立した。とされる。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 11:53:27.58 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・13

 がしかし、アッシリアに対する敗北は、全く記録されていない。新たに設置された、
こうした税の取り立て用の 直轄地や直轄都市の、アッシリアでの 東方新属州では、
反乱が絶えなかった上に、強いとはいえ、サルゴン2世は、此の為に前 708年に、再度
の遠征を行っている、しかし、勝つ事も出来ず メディアに対しての、安定的な支配を
 確立することはできなかった。のである。キンメリア人やスキタイ人のこうした侵入
を受けて、アッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王の、エサルハドン(
在位:前681年〜前669年)は、この問題に対処するべく イラン北西部地方への遠征を
行うしかなかったのである。前679年から前677年にかけてイシュパカイアという、リー
ダーに率いられたマンナエ人と、スキタイ人を打ち破って、この時の遠征では、メディ
ア地方は、奥深くまで攻撃を受けている。その時のメディアの首長2人は家族もろとも
アッシリアへと連行されている。ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように
評価するかどうかは別として、当時には、メディア人が多くの首長を持っていたことは
エサルハドンの記録によってもわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、
パルタックのウピスや、パルトゥッカのザナサナ、或いは、ウルカザバルヌのラマタイ
アという、3人のメディアの首長が、隣国との戦いのために エサルハドンに、支援を
求めているのである。このうちラマタイアは、前 672年にエサルハドンが、王太子アッ
シュルバニパルに対する 忠誠の条約を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印
者の一人として、登場している。いわゆるエサルハドン王位継承誓約で、宗主国側への
忠誠が、時の集落の長老や、公国皇太子が連帯保証人や 集落長として出席しているの
である。これは、現代の後見人制度とそっくりな形とも言える。いやはや、土地の管理
に、先住民や原住民の同意させているので、野蛮な時代の民主的手続きである。

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 11:53:55.39 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・14

 一方で、同じ紀元前 672年には、同盟諸国と共に、アッシリアに、反乱を起こした、
メディア人集落の首長たちもいた。アッシリアの記録によれば、この時反乱を起こした
のはキシェシム州のサグバトにある都市カール・カッシの市長、カシュタリティ、サパ
ルダの支配者郡長ドゥサンナ、メディアの市長、マミティアルシュの大集落長老3名で
ある。特にカシュタリティは、この反乱の首謀者とみなされている。この反乱はおよそ
成功したもの。と見られていて、新アッシリア帝国の王で、後継者争いを制しアッシリ
ア王に就いたエサルハドンは。紀元前669年(この年)に死亡ている。帝国の黄金期を、
維持したまま。父センナケリブが、破壊したバビロンを再建した。エジプト遠征の途上
で病没し、後継の王に年下の子アッシュルバニパルを指名したことが、やがてアッシリ
ア帝国の内戦を招くこととなったようだ。エサルハドンの文書では、メディアはウラル
トゥ、マンナエなどと共に、独立した新興勢力として言及されている。アッシリア人が
彼らに、「市長」以上の称号を付与して記録したことは無い。が、カシュタリティは、
メディア人の統一的な、政治勢力を形成した可能性がある。この頃のカシュタリティに
よるアッシリアへの攻撃は、もはや略奪的な 襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対
する包囲が行われている。これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいは
エラムによる訓練を受けた経験があったことを、示すかもしれない。こうした事が実は
エサルハドン王位継承誓約文書として、一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後の
教会跡地にアラブ人都市の遺跡が発見され、アッシリア地方の王であったニムロドに、
ちなみ、ニムルド遺跡と呼んで、その発掘調査の地下壕から粘土版レリーフや10面から
なるセンナケリブの角柱。『ギルガメシュ叙事詩』アンミ・ツァドカの金星粘土板など
多数の粘土板を発掘した。その中でセンナケリブの六角柱の3体にアッシュルバニパル
の碑文として出土した。

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 11:54:23.45 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・15

アシュルバニパルは誰でしたか?アシュルバニパルの書庫

 概説の「はじめに」を伝えれば,アッシリア王エサルハドン(在位前680〜669年)は
前672年に、著者が「エサルハドン王位継承誓約文書」と呼ぶ アッカド語(新アッシリ
ア語および標準バビロニア語)で書いた 楔形文字粘土板文書を大量に発行していた。
その粘土板の角柱本は、アッシリア内外の要人たちに手渡しされた。とされる,この後
アッシュルバニパルは、国内平定と共に図書館を設置して、この碑文のある角柱粘土版
などを所蔵した。として出土した。アシュルバニパル図書館には、アッカド語とシュメ
ール語で書かれた、少なくとも30,000の楔形文字のセットであり、モースルにあるアッ
シリアの都市ニネベの遺跡で発見され楔型文書の解読がなされて来た。 現在の イラン
・イラクと言った中東での地域は、後年メディア王国の領域に重なる。メディア人は、
当時の西アジアの大国アッシリアの記録で、初めて歴史に登場した民族だが、前 612年
頃のアッシリアの滅亡の後に、突然、新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代
オリエント世界の大国を形成した。しかし、今回の文学と行政の、両方の記録を含む、
テキストは、ほとんどの場合、アッシリアとバビロニアの両方を統治した6番目の王で
新アッシリア王であるアシュルバニパル王「紀元前668年から627年に統治」によって、
収集されている事から、これ以前にも、メディア王国の様な巨大帝国があったようで、
ならない。何故なら、彼は教育され、父親のエサルハドンの確立された慣習に従ってい
た王であり、バビロン王を兄弟に任せた後戦乱を招いたのだが、その原因が流通と税収
にあったのは、なんとも近代的なのである。 この図書館のコレクションにある、最も
初期のアッシリア文書では、ニネベを新アッシリア帝国の首都にした サルゴン2世(
紀元前721年〜705年)の事を語っている。更に、その後、セナケリブ王(紀元前704年〜
681年)の治世からのものをも書く。これらは、最も初期のバビロニアの文書で、サル
ゴン2世が 紀元前710年にバビロニアの王位に就いた後のものだ

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 11:57:24.14 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・16

 これらは文書として粘土版の性質からも、最古のものと目される。ここに、アシュル
バニパルは、エサルハドンの3番目の長男であり、その為、彼は王になることを 意図
されていなかった。とされる。長男はSin-nadin-apli(シュル・ナディン・アプリ:太
陽神の王座)で、ニネベ拠点のアッシリアの正統皇太子に、指名される。次男のシャマ
シュ・シュム・ウキンは、バビロニアでバビロン王に戴冠した。皇太子は、戦争、行政
、現地語の訓練を含めて、王権を引き継ぐために、幾年も訓練や教育をを受けたようだ
。そして長男の太陽王子が、紀元前 672年 に亡くなった時 エサルハドン王は、アッシ
リアの首都を アシュルバニパルに与えた。それは政治的には、大きな危険をはらんで
しまう。それまで、彼はバビロンで支配するように訓練されていたので、当然2男は、
本来の長男の権利によって、交代されるものと思ってたのだ。、シャマシュ・シュム・
ウキンは、ニネベ(アッシリアの王の「故郷」)を手に入れる筈の血縁地位を持ってい
た。こうして紀元前 648年、短い内戦が勃発。その終わりに勝利したアシュルバニパル
は、両方の王になる。彼がニネベの皇太子であった間、アシュルバニパルは、スメリア
語とアッカド語の両方で楔形文字を読み書きし、話すことを学んでいた。彼の治世中に
、それは彼にとって特別な能力と魅力となる。エサルハドンは 彼の文書を収集して、
情報を得ていたが、アシュルバニパルは、最も古い儀式や様式に注意を向け、バビロニ
アでそれらを探すエージェントまで派遣していた。彼の手紙の1つのコピーが、ニネベ
で見つかっているが。ボルシッパの知事に宛てて、古い儀式を求め、内容を指定した。
それは「様式、水管理、戦闘中、または歩行中に 人を安全に保つための呪文や、国や
宮殿に入る時の用意と、そして村を浄化する方法。」だった。つまり伝統を重んじたの
である。ここに 国の運営に細心の注意を払う帝国の王と、正にバイトテロ的、反乱を
考えもしない 帝国からの覇権者の代理の王なり首長なりのいい加減さが見える。

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 12:06:05.69 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・17

 アシュルバニパルは又、古くて珍しく、アッシリアにはまだないものを、求めていた
。彼はオリジナルを要求し、ボルシッパの知事は、粘土板ではなく木製の筆記板を送る
と答えている。ニネベの宮殿の書記官は、これらの種類の文書がコレクションに存在す
るため、木のテキストをより恒久的な楔形文字の様式にわざわざコピーした可能性が、
ある。アシュルバニパルの時代、図書館は、ニネベにある2つの異なる建物、南西宮殿
と北宮殿の2階に、それぞれありました。他の楔形文字の様式はイシュタル神殿とナブ
神殿で発見されているのだが、それらは、適切な図書館の一部とは 見なされていない
様である。ライブラリーにはほぼ確実に、焼成粘土楔形文字タブレット、石のプリズム
、円筒印章、ディプティクと呼ばれる ワックスを塗った木製の筆記板など、30,000冊
以上が含まれていた。ほぼ確実に羊皮紙もあった形跡もある。ニネベの南西の宮殿と、
ニムルドの中央の宮殿の壁にある壁画には、どちらにも 動物やパピルスの羊皮紙に、
アラム語で書いた筆記者の名が示されていた。それらは、当初図書館に含まれていたが
、ニネベが解任されたときに、失われたもの。と思われている。ニネベでは、612年 に
征服され、図書館は、略奪されていて、建物は破壊されたらしい。建物が倒壊した時、
図書館の天井が、突き破られて、そのまま土に埋もれた様だ。20世紀初頭、考古学者が
ニネベに到着し、宮殿の床の奥深くに壊れた、粘土版やワックスを塗った木製の筆記板
、などを見つけた。この発掘作業で 最大の無傷の粘土版は、平らで 9x6インチだった
。(23x15cm)の大きさで、最小の粘土版は、わずかに 凸状で、長さは1インチ(2
cm)以下であった。こうした粘土板は、バビロニアと アッシリアの 両方の書式から
書かれていて、テキスト自体は、行政(契約などの法的文書)と、有名なギルガメッシュ
神話を含む 物語文学といった、両方の、多種多様な文書が含まれていたのである。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 12:06:33.26 ID:jqgNTlJEg
 太古の空・・・・18

 モースル周辺は、ティグリス川とユーフラテス川の両方に潤される肥沃な平野であり
、アラブ人は北メソポタミアに位置するこの地をジャズィーラと呼び、アラビア語では
「島、半島、中洲、河川や海で囲まれた地」の意味を持つ。穀物や果物の豊富さを称え
てきた。現在のモースル市の住民は、今や、ほとんどがムスリムのアラブ人で占める。
元々はクルド人が、統治するクルディスタン王国の地域で、モースル一帯には。かなり
古くから多くのクルド人が住んでいた。とされている。モースル市も、元来はクルディ
スタンに含まれる重要都市として認識されているものの、歴史上に、複雑な民族・政治
・宗教問題も抱える地域になって荒れた街である。このほか、主要な少数民族にネスト
リウス派キリスト教徒のアッシリア人や、トルクメン人がいる。2014年6月過激派組織
ISILによる統治が行われたが、その後の2016年〜2017年、モースル奪還作戦で戦闘をし
て、現在に至っている。こうして、戦争の度に市街は荒廃した。イラク政府による解放
後ISILが抑圧していた、伝統文化・芸術活動が再開され、復興は遅れているが、戻った
。イスラム教のスンニ派が多いモースル住民に、シーア派主導のイラク中央政府が復興
には、足を引っ張るケースもあり軽視されがちであるか。薄地の織物「モスリン」は、
元々この街で作られ、名前もモースルの名に、由来している特産物だ。他にも、歴史的
に重要な輸出産品は大理石であり、マルコ・ポーロすらこの街を訪れ、『東方見聞録』
で言及してる。また古くから、石油が湧くことでも知られており、石油に浸かると薬効
がある。と信じる人々が集まっている。石油にはタールやアスファルトの原料、または
攻城戦の際には攻め手に石油を浴びせて燃やしたり、城壁を燃やして崩し、城に侵入し
たりするなど、主に軍事用として使われていた。とされる。

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 17:57:55.70 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・19

 ここで、アシュルバニパル図書館の解読プロジェクトが動き出して、戦果を避けて、
持ち出されていた、図書館から回収された資料の、ほとんどすべてが、現在大英博物館
にある事で英国にて開始されていく。これは主に、大英博物館(だいえいはくぶつかん
: British Museum)ブリテッシュ・ミュージアム(BM))が資金提供した発掘調査で
、ニネベで働いていた2人の、英国の考古学者がこれらの遺跡を発見した為でもある。
人類の歴史、芸術、文化を専門とする公的機関で、世界で最初の公立の国立博物館であ
る。大英帝国時代以来、広く収集された 約800万点の常設コレクションが、現存する。
最大かつ最も包括的なものであり、人類の文化の始まりから現在までを記録している。
1852年〜1854年の間に、イラクの国が存在する前に、ヘンリー・クレスウィック・ロー
リンソンは、1910年に亡くなりましたが、先駆者である考古学者ホルムズ・ラッサムと
、ローリンソンと協力して数千の粘土版を発見し保存した。とされています。1753年、
イギリス系アイルランド人の医師であり科学者であるハンス・スローン卿のコレクショ
ンをもとに設立された博物館は、1759年に現在の建物の敷地内にある モンタギュー・
ハウスで初めて、一般公開された。その後 250年以上に渡り、イギリスの植民地化が進
んだ結果、いくつかの分館が設立され、最初の分館は1881年に設立された自然史博物館
だった。Ashurbanipal Library Project(アシュルバニパル 図書館プロジェクト)は
、モースル大学の、ドクターウェルヤセン( Dr.AliYaseen )によって 2002年に、開始
され。彼は、アシュルバニパル図書館の研究に専念するために、モースル市内に、楔形
文字研究の新しい研究所を設立することを計画した。特別に設計された博物館に、タブ
レットのキャストや、コンピューター設備、および図書館を創った。大英博物館は、彼
らのコレクションのキャストを提供することを約束し、彼らは、図書館のコレクション
を再評価するために ジャネットC.フィンケを雇い入れた。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 17:58:26.68 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・20

 フィンケ(Fincke)はコレクションを再評価してカタログ化しただけでなく、残りの
フラグメントを、再調整して分類しようとした。彼女は、今日大英博物館のウェブサイ
トで入手可能な他の粘土版文字と、断片の画像に翻訳したアシュルバニパル図書館など
を、データベース化を始めました。フィンケはまた、こうした記事の多くを発信し彼女
の調査結果に関する広範なレポートを作成している。この粘土板が発掘されたモースル
周辺では、少なくとも8千年前までの記録があり、紀元前6千年前から、人の居住があ
ったとされる。このモースルの位置する 北メソポタミアよりさらに北の高原地帯は、
アッシリアであり、アッシリア王国の生誕地となった場所だ。が、その最盛期を迎えた
アッシリア帝国の頃は、穀倉地帯のモースル周辺を、首都とした時代だった。モースル
はその後に、アッシリアによって主要都市ニネヴェ(現在のニネワの町)の街が対岸に
作られて対立対峙する。ニネヴァは、ティグリス川右岸で、クリートの丘の上にある砦
として創られたその後の街だ。紀元前 850年頃、新アッシリア王国のアッシュールナツ
ィルパル2世は、このモースルのすぐ南にあった ニムルドの街を 自分の首都をとし
て選んで、新しい都市、首都作りを行った。首都は、一旦ドゥル・シャルキンに移った
が、百年後の 紀元前700年頃、センナケリブ王は、ニネヴェを新しいアッシリアの首都
とすることを決める。モスルにあるクユンジクの土塁は、ペルシャや、メソポタミアや
、シリアを征服し、世界屈指の、帝国アッシリアの最盛期を築いた。センナケリブ王と
、その曾孫アッシュールバニパル王の宮殿の跡が、今も廃墟として残る。またニネヴェ
は『旧約聖書』のヨナ書の舞台にもなるなど、その名はよく知られている。ドゥル・シ
ャルキンについては、はサルゴン2世(シャルキン2世)によって、新たに建設された
とされて。サルゴン2世は 前722〜前705年まで在位した アッシリアの王であった。

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 17:58:50.51 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・21

 前713年の段階で、サルゴン2世は遠征の成功によって財政強化し、増兵し人口増加の
国となり、新たな首都とすることを意図してドゥル・シャルキンの建設に取り掛かった
ようだ。他のアッシリア王達による遷都の試みなどの、例えばアッシュル・ナツィルパ
ル2世のカルフの改修や、サルゴン2世死後のニネヴェへの遷都などとは、大きく異な
り、ドゥル・シャルキンは、既存の都市はなく、全くの新都市を建設する試みであった
。サルゴンが決めたドゥル・シャルキンの建設位置は、実はカルフにきわめて近くあり
、アッシリア帝国の中心地として、ふさわしいと、サルゴンが考えた場所であった。の
だろう。アッシリア初期の砦の上に立てられたモースルは、アッシリア滅亡後ニネヴェ
の跡を継ぐ都会となり、ペルシャ帝国の中心から シリアやアナトリアを結ぶ道の中心
であり、この地でティグリス川の渡河が出来る地点として、かなり栄えたようだ。こう
してモースルは紀元前6世紀には 重要な交易拠点となっている。短期間ローマ帝国に
支配された後、サーサーン朝ペルシア帝国の重要な一部となった場所だ。モースルの北
15キロメートルにあるホルサバード村としている。新王国のメディアの主都は、記録で
は前7世紀半ばまでには、エラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合
可能な勢力となっていた。とされる。エラルは今のトルコである。ウラルトゥは、アナ
トリアに存在した王国で現在のトルコ東部のヴァン湖周辺でメソポタミア北部からコー
カサス南部にわたった今のクルド人住居区である。マンナエは、ウルーミーエ湖の東部
と南部辺りを本拠としていた部族で、あんまり解っていない山岳民族だ。大まかに言っ
て騎馬民族のスキタイのようなインド=イラン語族との共通性が高いとされている原初
のイラン人とされる。最大領土はクラ川にまで拡大したが、マンナエはインド=ヨーロ
ッパ語族ではないフルリの一派であったのではないのかとも考えられている。前7世紀
半ば以降は、アッシリア帝国も、もはやメディアへの遠征を行わなくなっている。国の
体力が落ちたのか、スキタイ賊の侵入がなかったのか、メディアが恭順したのか解って
ない。

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 17:59:19.60 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・22

 前7世紀前半は、メディアでは、アッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのは、ウ
ラルトゥの東北の威嚇であった。この頃に、ウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点
で、全てが破壊と炎上に見舞われ放棄された。ウラルトゥの拠点を破壊できる程の勢力
は、当時メディア人しか存在しない。そこでこの一連の破壊はメディア王国の、拡張の
証であるとの見方もある。バビロニア王としてシャマシュは、古代メソポタミアの太陽
神を崇め、そしてメソポタミアの女神の双子イナンナ(イシュタル)天の女王を祀る。
 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は、初代王である デイオケスの
息子フラオルテスに帰せられている。この「フラオルテス」はメディア人の「市長」の
カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。「カシュタリティ」は中央
地域の、首長であったと書かれているが、呪術師で巫女の様な身分であろうと思う。彼
は紀元前 678年の碑文では「メデスの王」と、呼ばれているので、初代のメディア王で
あったかも知れない。彼の土地は、おそらくアッシリアの北東の国境に沿って位置して
いた。と思われる。彼の領域の中には、カラカ(キンメリア)の街があった。マンナエ
やメデス、或いはスキタイアッシリアに対して、アッシリア文書では、カシュタリティ
(都市市長)のアッシリアへの 侵入について、言及している。その後、エサルハドン
総督の指導の下に置かれた。連合体は、そのような機会のためにアッシリアの支配者に
よって 一般的に求められ、状況を評価し、彼らを助けに導くために、神々を呼び起こ
す儀式をした。しばしば、これらの神託の呪術者に 助言を求める為に、エサルハドン
総督さえ行った。動物を犠牲にて神に捧げられ、前兆は 死骸の位置などに基づいて、
それなりの解釈されて告げられていた。これらの神託から、国王の決定が下されるが、
その後でも、これらの前兆に基づいて、国の方針決定が下される。此処ではエサルハド
ン総督は、太陽神の司祭、シャマシュ(太陽神、イシュタルのシャーマン)に指導を求
めた

29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 17:59:50.09 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・23

 主にニネベで発見された 紀元前7世紀にさかのぼる粘土版には、特にカシュタリテ
ィに関連する複数の「連合体の要求」についても説明している。これらの連合体の要求
の返答の間に、シャマシュ巫女に、提起された質問の中には、カシュタリティ都市市長
が、アッシリア人にとって脅威であったかどうか、そして彼がいくつかのアッシリアの
都市を、攻撃・征服するかどうか。が記録している。この粘土板では、カシュタリティ
の都市市長側は、アッシリアの都市キシュタリティを攻撃するための支援を、別の中央
地域の首長であるマミティアルシュの市長に、求めていたようだ。記録された連合体の
要求の1つは、エサルハドン総督は、その地位と都市を失うことを非常に恐れていた。
と主張している。カシュタリティ市長は、また、マンナエ人とサパルダと共に、アッシ
リアの町のキルマンへの襲撃を計画している。エサルハドンの市長側が、アッシリアの
領土への執着と 彼の厄介なキャンペーンに対処するのを助けるために、絶えず神託を
求めていたのであり、カシュタリティ市長側の侵入が、唯一の出来事では、なかっただ
ろうことは明らかである。ある連合体の要求は、カシュタリティ市長が、アッシリア人
と和解しようとしたことも、示唆している。彼は、条約を作ることを期待して、アッシ
リアの宮廷にメッセンジャーを送っていた。エサルハドン市長は、シャマシュ巫女に訴
えて、平和に同意するべきか、メッセンジャーを尋問して殺すべきか。を、尋ねた様だ
。その後の連合体の要求は、平和が達成されなかった。ということを示唆しているので
、この時のお告げは、闘う方向であったのだろう。代わりに、アッシリア人は、カシュ
タリティ都市からの攻撃を 最終的に終わらせることを意図して、カシュタリティ都市
と、彼の軍隊に対する報復を、開始した可能性もある。カシュタリティの同盟は 内部
の意見の不一致により分裂し、アッシリアでのカシュタリティからのキャンペーンは、
西暦前 673年までに終了した。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 18:06:15.17 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・24

 一部のスキタイ部族は、アッシリアへの攻撃を続けた。他のスキタイ部族は、バルタ
トゥアの指導の下で、敵対行為を終わらせる手段として エサルハドンとの 同盟を結ぶ
為に、エサルハドン側の娘と結婚しようともした。カシュタリティの同盟の他の中央地
域の部族も、次々とアッシリア人との和平を築きだし、解決していった。エサルハドン
は、「新アッシリア」帝国を築いた。と楔形文書は書く、そこの意味するアッシュール
文字で、「私の兄弟を与えている。」と書いているのである。紀元前 681年の父の大王
セナケリブの死から 669年の、アッシリア王のサルゴンの彼自身の死まで、新アッシリ
ア帝国の王であった。サルゴニド王朝の、3番目の王であるエサルハドンは、671年 に
エジプトを征服したことが、最も有名な業績になった。この征服によりアッシリア帝国
は史上空前の規模となった。またエサルハドンは、父センナケリブによって破壊された
バビロン市を再建した。アッシュルバニパルの図書館の古文書の中の、エサルハドンの
世界。それは、彼の帝国を世界がこれまでに見た中で、最大のものにし、そして彼の父
によって破壊されたバビロンの彼の再建を望んで、センナケリブの長子のアッシュル・
ナディン・シュミが送られた事であった。しかし残念な事に 前694年に、エラムに捕ら
えられ、おそらく694年に 処刑された。この後、新しい相続人は、弟であった、アルダ
・ムリッスであったが 684年に自分の息子で孫であるエサルハドンが、代わりに任命さ
れた。この決定に腹を立てたアルダ・ムリッスと、もう一人の兄弟、ナブ・シャル・ウ
スールは、681年に 父親を殺害し、アッシリアの王位を奪取することを計画した。ここ
で殺人とアルダ・ムリッスが、自ら王に躍り出て熱望したため、エサルハドンの王位へ
の昇格は 困難に見えた。彼は直ぐに行動し、最初に6週間の内戦で、兄弟を打ち負か
さなければなりません。

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 18:06:38.00 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・25

 この兄弟たちによるクーデターの試みは、書記官をしていたエサルハドンにとっては
予想外のもので、そして厄介なものだった。というのも、王はその死に至るまで、妄想
症(paranoia)と、役人・総督たち・男性親族に対する 人間不信に悩まされた政治を
行っていたからだ。この被害妄想の結果として、エサルハドンが使用した宮殿の大半は
、各都市の主要人口の集積地からは、ちょっと遠い離れた位置にある警備の厳重な要塞
での執務であったのだ。また恐らく、男性親族への不信の結果として、彼の治世の間、
母方のナキアや、娘のシェルア・エテラトのような エサルハドンの女性親族側では、
それ以前の、アッシリア史における女性たちよりも、かなりの大きな影響力と政治力を
振るうことができていたのだった。本来は人質工作や政略結婚で、押さえとしての妾達
が、妻たちの酒池肉林のハーレム社会に、この頃はまだイスラム教などは居なかった。
そもそも「ハレーム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともと
は「禁じられた」という意味である。そこから派生して、王宮や家庭において、よそ者
の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようにな
った。この女性達の宮日本で言う大奥に仕えているのは、奴隷として売られてきた身分
の者たちであり、この頃一人の子供が5人10人の時代では、王の皇子となる人間が、
3〜40人とひしめいていてもおかしくない時代で、それぞれが異母兄弟で、異空間の
中で育っていた。王が、比較的短く困難な治世と、被害妄想・鬱・頻繁な病に苦しんで
いたにもかかわらず、エサルハドンは、最も成功したアッシリアの王の一人と認識され
ている。彼は 前681年に速やかに兄弟たちを打ち負かし、アッシリアと、バビロニアの
双方での野心的な大建設プロジェクトを完遂し、メディア、アラビア半島、アナトリア
、コーカサス、そしてレヴァントへの遠征を成功させ、エジプトを撃破して征服して、
自身の死にあたっては2人の後継者アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキン
への平和裏の権力移譲を成し遂げたからだ。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 18:13:21.85 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・26

 シャマシュ・シュム・ウキンは、最も成功したアッシリアの王の一人と認識されてい
る。ヘブライ語の書物では アッカディアンとして知られて、サルゴニド王朝の 古代
アッシリアの第3王子でした。新アッシリア帝国の王であるセナケリブの息子であり、
セナケリブの後継者であるエサルハドンの兄。アルダ・ムリッスは、紀元前 694年に、
セナケリブの最初の皇太子、アッシュルナディンシュミが 亡くなってから10年間を、
セナケリブの皇太子兼 相続人を務めた。紀元前684年 エサルハドンに代わって後継者
になった。この降格に失望したアルダ・ムリッスは、紀元前681年 陰謀の首謀者で指揮
者の彼と、弟の1人であるナブシャルウスールが王位を奪うことを期待してセナケリブ
を殺害した。この王の長男の、セナケリブの殺害は、王の弟のアルダ・ムリッスの支持
者の何人かを、彼に反対させ、彼の戴冠式は、延期された。その後の混乱の中で、エサ
ルハドンは、アッシリアの首都ニネベに進軍して行き、王位を獲得することに成功する
。こうして兄と伯父のクーデターは失敗する。その後兄アルダ・ムリッスと伯父ナブ・
シャル・ウスールは北のウラルトゥ王国に逃げて行ったとされる。その後、彼らについ
ては、何も知られていません。アルダ・ムリッスは、紀元前705年〜紀元前681年まで、
新アッシリア帝国の王として君臨した前王、セナケリブの息子でした。セナケリブには
複数の妻がいて、アルダ・ムリッスの母親は、知られていない事が多いが、彼女がアル
ダ・ムリッスの弟の、エサルハドンの正妃である「ナキア」ではなかったことは、確か
である。紀元前700年、セナケリブ前王は、長男の アッシュル・ナディン・シュミを、
皇太子(後継者に指定)に任命し、彼の帝国のメソポタミア南部を、カバーするバビロ
ニアの支配権を、彼に与えたている。

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/17(水) 18:16:22.26 ID:VMgm+1VPR
 太古の空・・・・27

 この任命の直後、伯父セナケリブは、エラムに対して、徴兵と訓練を行って(現代の
イラン南部)そこに逃げてきたカルデアの反政府勢力を追いかけるのだった。紀元前10
世紀以降に、この地に移り住んだ「セム系遊牧民」の幾つもの諸部族が入り込んできた
。カルデア人とははこうした異邦人をして 言葉の通じないこうした人を、こう呼ばれ
るようになっていた。しかし、このカルデア人達は その後紀元前7世紀には、新バビ
ロニア王国を、建国した民とされるので、まさしくこの騎馬民族の遊牧民が、かなりに
移住し、帰化し、子孫を創ってきたのだろう。この領土への侵入に応えて、エラム人は
、新アッシリア帝国の南部に侵入し、紀元前694年に シッパル市で、アッシュルナディ
ンシュミを占領することに成功し、王子はエラムに連れて行かれ、おそらく処刑された
。とされる。その後当初は、新たな後継者に第2子であるアルダ・ムリッシが就いた。
しかし 前684年、年少であった為に、直ぐにエサルハドンが代わって統治し 後継者に
任命されたのである。セナケリブ王の 長男で相続人のアッシュル・ナディン・シュミ
が捕らえられた頃に、アッシュルナディンシュミが 亡くなってから10年間をセナケリ
ブ皇太子の、兼相続人を務めていたのだから。紀元前684年 伯父エサルハドンが、代わ
って後継者になって政治を敷く事は不可能だったろう。伯父セナケリブ王がカルデア人
の放逐と戦さをやってるのに、幼帝になるべき我が子供が誘拐され、同じ兄弟の実務の
エサルハドンも捕まって、恐らく殺されたのだろうから、王になっていたルダ・ムリッ
スは、逃げるしかない。この降格に失望したアルダ・ムリッスは、紀元前681年 陰謀の
首謀者で指揮者のエサルハドンと、弟の1人であるナブシャルウスールと共に居なくな
ったのであった。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:42:55.38 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・28

 既に述べたようにカシュタリティは、アッシリアに対する反乱を成功させており、恐
らくは、独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物であろう。しか
し、メディアの一部では、なおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(
フラオルテス)によって率いられた 独立したメディアの領域は正確にはわからない。
特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性
を含めて、全く知る術がない。少なくとも アッシュルバニパルの即位前に 書かれた
忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)においては、元来メディアの王国では、
ペルシアはおろかメディア全体を、含んでいなかったことが示されている。今日では、
メディアという名称は、実は、ギリシア語の史料に登場するメーディアーに由来する。
英語圏の名称で、勝手に付けられたものだ。古代ペルシア語ではマーダという語形で、
(アケメネス朝前550年頃〜前330年)時代の碑文に登場している。いわゆる ハカーマニ
シュ朝(アケメネス朝)の時代の碑である。元々の語義は不明であり、名称の由来につい
ても、確実な説はない。ポーランドのボイチェフ・スカルモフスキは、マーダという語
はインド・ヨーロッパ祖語の「中心」や「中央に位置する」の意味としている。同様の
意味を持つ古インド語(サンスクリット)の アヴェスター語 を参考にしている。一方
、ロシアの歴史学者ディアコノフはインド・ヨーロッパ語に、由来するかどうかはっき
りしない。と反対してる。ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説では、メディアとい
う名称は人名から来ている。としている。「メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で
ペルシア戦争の遠征に加わった。もともと、この装備や様式は、メディア世界のもので
あって、ペルシアのものではない。メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族
の、『ティグラネス』である。」と書いている。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:44:05.07 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・29

 メディア人は、昔からは、アリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女「メデ
ィア(メーデイア)」が、アテナイを逃れて来て このアリオイ人の許へきてより、こ
の民族は、その呼称を変えた。これはメディア人自身が、自国名について伝えている。
ところである。」(ヘロドトス、『歴史』、巻7 §62)・・と書いている。ここに登場
するアリオイ人は、「アーリヤ人(アーリア人)」になった対応する名称である。元来
はメディア人のみならず イラン高原に住む諸族の通称だったのが、アリオイ人の名だ
。しかし、その後の語源とされる人物メディアは、ギリシア神話に登場する魔女であり
、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗しての、
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女だ。だが、ヘロドトスの伝える伝説は名称
の類似に依ったギリシア人による創作と考えられている、メディア人自身の伝承である
という彼の証言も疑わしい。とされる。が、しかし、このアイゲウス神話は意味深でも
ある。「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれなかった。このため、デルポイの神託所で、その理由を問うた。しか
し、その神託の意図を理解できないまま、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされ
る。デルポイは、パルナッソス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都アスィーナ(アテ
ナイ)から 西北へ122kmの距離にある急峻な丘である。ティーヴァ(テーバイ)からの
西北西へ約75km、スパルティ(スパルタ)の北へ 約157kmである。古代ギリシア世界に
おいては、世界のへそ宗教界の中心と、信じられていた。という。というのも、この山
の上の平地に、ポイボス神殿でアポローンを祀る神殿の焚火こそ、欧州特に東欧に有名
なオリンポス神殿であった。エーゲ海域の海路の目標物であり、海の守りであったから
だ。ここで下される「デルポイの神託」はエーゲ海域のギリシャ神話の中心で、ここに
は、神殿娼婦、神聖売春または神殿売春という行為によって、大量の子作りを行わせ、
各国の平和を司っていた。というのも、度々小さな公国は、若者の徴兵、少女の奪略、
疫病の蔓延mとかで、人口減少があって、国存亡に危機に、瀕したからである。

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:44:43.27 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・30

「デルポイの神託」と言うのは、娼婦巫女制度であった。と言われる。デーヴァダーシ
ー「神に仕える物」「神の侍女」「神の召使」を意味していて、近代まで南インドでは
、主に舞踊を担うためにヒンドゥー寺院に奉納され、伝統舞踊を伝承した女性を指して
行われていた。巫女のような存在で、「寺院の女性」とも呼ばれる。イギリスによるイ
ンドの植民地化で、藩王や大規模寺院が政治経済的に弱体化すると、彼らに庇護されて
いた芸術家たちは、行き場を失い、デーヴァダーシーは「神との結婚しているため」に
人と結婚することはタブーで、結婚による生活の安定は望めず、生計を立てるために踊
りを教える者もいたが、やむを得ず売春をする者も現れた。とされる。神殿娼婦、神聖
売春については、チグリス川とユーフラテス川に沿った古代近東には、バビロンのイシ
ュタルの神殿をはじめとした多くの聖地や神殿、「神の家」が存在しており、ヘロドト
スは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えている。古代メソポタミアの巫女は、寄進を
受けた者に対して、神の活力を授けるために性交渉を行う風習があった。『ギルガメッ
シュ叙事詩』で、ギルガメッシュの友エンキドゥの獣性を鎮めるために、娼婦を派遣し
、性交渉を行った。という伝説がある。日本で言う人身御供の風習である。また、古代
メソポタミアのイシュタルや古代ギリシアのアフロディーテ、北欧神話のフレイヤなど
、多くの神話で愛と美を司る女神は、性に奔放な姿で描かれているのも、こうした神殿
娼婦の影響によるものと思われる。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは古代メソポタミ
アにおいて神殿売春が行われていたと初めて言及した。古代アテナイ巫女は、集団での
行動で、麓の村々の有力者の家に行き、寄進と布施の強要に行くのは習わしであった。
これが後の イエス・キリストの布教行動に繋がった。と言われている。

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:45:19.01 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・31

 古代ギリシャの女性たちはどんな役割を持ち、どんな暮らしをしていたのかが、近年
の研究で、新たな一面が明らかになりつつある。従来では、強調されてきた彼女らの、
虐げられた生活があって、いかに制限され、隠されていたか。という主張が多かった。
多くの意見は、女性たちは、市民権を認められず、公的な場から排除され、法的・政治
的な地位もなく「ポリス(都市国家)」から排除され、妻、母、娘として「オイコス(
家)」に押し込まれていた。などと考えた主張される。この見方の根拠となったのは、
古代ギリシャの古典文献の。クセノフォン、プラトン、トゥキディデスなどが、女性は
男性よりも劣っている。として語った書物による。アリストテレスの『政治学』でも、
本質的に男性は優れていて、女性は劣っており、男性は支配者であり女性は臣下である
。などと記されている。これらの文章の多くは、女性に対して最も厳しい態度をとって
いたアテナイ(アテネ)でのみを書かれたものだ。スパルタなどアテナイ以外のポリス
では、女性はもっと自由で、運動したり鍛錬したりすることが、奨励されて男より自由
であった。地域による自由度の違いはあるし、社会階層によっても個人に自由度の違い
があった時代だ。貧しい女性や、奴隷は、洗濯婦や織り手、物売り、乳母、助産師とし
て働いた。当時の陶磁器には、市場で働いたり水を汲(く)む奴隷の女性が描かれてい
る。が、これは男性も同じだった。一方で、宗教においては古代ギリシャの女性はより
、より高度で複雑な役割を得ている。ギリシャ神話には、アテナ(戦争と知恵の女神、
アテナイの守護女神)、アルテミス(狩猟と山野の女神)など、強力な女神が大勢登場
する。これは、古代ギリシャの女性たちは、巫女(みこ)として生きることで、従来に
考えられていたよりも大きな自由と尊敬を、人々から手にしていたからであった。

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:45:48.96 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・32

 古代ギリシャの一般的な女性の人生は、「コレー(少女)」、「ニュムペー(第1子
が生まれるまでの若妻)」、「ギュネー(女性)」と、出世魚の様に3つの段階を軸に
して呼び名まで違う対応がされた。大人になると、10代前半から半ばで結婚させられる
。婚礼の日には、女性の参列者たちが、泉からルトロフォロスと呼ばれる壺(つぼ)に
水を汲んできて、花嫁は、女たちの助けを借りて、この水で体を清めさせられる。衣装
を着て、冠をつけ、婚礼の儀式では、父親の家で執り行われるのである。式が終わると
、花嫁の保護者としての義務と権利は、父親から花婿へと正式に移る儀式として、婚礼
の儀式は行われ、披露宴に移る。新婚夫婦は、祝いの行列に先導されて新居へ向かい、
祝宴は翌日まで続いて、花嫁は自分の家族や友人から贈り物を受け取るのである。ほと
んどの花嫁は、持参金を持っていくが、離婚するときには、持たせる父親に全額が返還
される。つまり日本の結納と同じに、女性は、家柄の上納なので、大事に育てられる。
女性達は、嫁ぎ先の家に、専用の「婦人部屋」を持っている。婦人部屋の様子は、墓碑
や陶磁器に、詳細に描かれているが、女性たちは家事全般を担っているので。主な仕事
の一つは、糸を紡いで布を織ることであった。普通多くの家に織機があったのである。
考古学者は、女性たちが使った、エピネトロンを大量に発見している。エピネトロンは
、木製や陶器製の、半円筒形の腿(もも)当てで、羊毛を梳(す)くときに 脂で衣服
が汚れないように、片方の太腿に載せて使われていた物だ。美しい装飾のあるエピネト
ロンは、婚礼時の贈り物として人気があり、その多くに、愛と美の女神アフロディーテ
の頭部がついていた。紀元前5世紀の陶器製のエピネトロンは、その表面には家庭的な
情景が描かれることが多かった。

39 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 15:46:15.46 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・33

 又、子どもの世話も、女性の仕事だった。女子と幼い男子は女性が教育し、ある年齢
を過ぎた男子には 教育係がついたようだ。女子は音楽も学び、竪琴を習うことも多か
った。女性たちは、家族の葬儀で重要な役割を担っていた。遺体に油を塗ったり、衣服
を着せたりして遺体を整え、葬列に参加して、式典の指揮を行った。高い教育を受け、
芸術や科学に貢献した女性も、多くいた。紀元前 350年ごろには、プリウス街のアクシ
オテアが、プラトンに師事して哲学を学んだのは、男装していた。とする文献もある。
紀元前6世紀の、デルポイの巫女テミストクレア(別名アリストクレア)は哲学者とし
ても知られ、哲学者にして 数学者でもあったピタゴラスの師だとされているのである
。紀元前4世紀の壺に描かれた絵には、蛇に噛(か)まれて死んだ少年オペルテスに、
女性が葬儀用の覆いをかけている。古代ギリシャの女性は、葬儀のために遺体を整える
作業を担うことが多かった証である。冠婚葬祭に参加するのは、巫女の務めであった。
巫女として聖なる儀式に参加する女性達は、家庭以外での生活を享受した。考古学者の
ジョーン・ブレトン・コネリー氏は、古代ギリシャの宗教活動は「女性が男性と同等、
もしくは上位の役割を担える唯一の場だった。」としている。実際、神々に仕える巫女
の地位は非常に高かった。アテナイで、最も重要な宗教的役割を果たしていたのが、こ
こでの、アテナ神殿の高位の巫女で、普通の女性にはない様々な権利や名誉を手にして
いた。デルポイ(デルフォイ)のアポロン神殿の巫女も、古代ギリシャで最も権威ある
役割のひとつを担っていた。この巫女はアポロンの神託を告げる。と信じられ古代世界
の各地から男性たちが相談に訪れていたという。

40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 17:30:49.56 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・34

 巫女は神聖な祭事でも重要な役割を果たし、中には女性のみで行う祭事もあった様だ
。その多くは収穫に関連した、音楽と踊りの祭事だった。テスモポリア祭では、女性達
が集まって、農耕の女神デメテルとその娘ペルセポネに敬意を表した。ワインの神ディ
オニュソスを祝すレナイア祭では、女性たちはディオニュソスの巫女として狂乱状態で
儀式に参加した。こうして、古今の古典学者たちは、長く隠されてきた古代ギリシャの
女性たちの生涯に、多くの複雑な要素を見い出し、発掘しているようになってきている
。こうした事実によって、古代ギリシャ文化の全体像を、より正確に把握することが、
可能になってきた。古代ギリシャの女性たちは、これまで考えられていたよりもはるか
に豊かで多彩な生活をしていた。巫女たちは修道院の様に上下関係がしっかりしていて
30〜50人程度の寮生活をしていたものと思われている。10人ぐらいで組んで動き
、司祭の下の命令で、各地に布教に行き、食糧や金銭や貴重品を持ち買って、山で暮ら
しをしていたのである。更にここでの学習で、多国籍言語の学習や、文化的交流や人身
売買や、戦乱地の飢えた子供を引き取ったり、逆に代理出産の約束をして、国の安定を
図ったりしていたと考えられる。他にも、集団見合いや結婚式など、この神殿の得意と
したところだろう。それでも、個人的な性問題は、恐らく別物ではなかったか。とも思
われる。デルフォイのシビュラは、パルナッソスの山腹にあるデルフォイの、アポロン
神殿にあったアディトンという 内室奥の立ち入り禁止区域で予言を行った伝説的存在
とも言われる。

41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 17:31:24.75 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・34

 巫女は神聖な祭事でも重要な役割を果たし、中には女性のみで行う祭事もあった様だ
。その多くは収穫に関連した、音楽と踊りの祭事だった。テスモポリア祭では、女性達
が集まって、農耕の女神デメテルとその娘ペルセポネに敬意を表した。ワインの神ディ
オニュソスを祝すレナイア祭では、女性たちはディオニュソスの巫女として狂乱状態で
儀式に参加した。こうして、古今の古典学者たちは、長く隠されてきた古代ギリシャの
女性たちの生涯に、多くの複雑な要素を見い出し、発掘しているようになってきている
。こうした事実によって、古代ギリシャ文化の全体像を、より正確に把握することが、
可能になってきた。古代ギリシャの女性たちは、これまで考えられていたよりもはるか
に豊かで多彩な生活をしていた。巫女たちは修道院の様に上下関係がしっかりしていて
30〜50人程度の寮生活をしていたものと思われている。10人ぐらいで組んで動き
、司祭の下の命令で、各地に布教に行き、食糧や金銭や貴重品を持ち買って、山で暮ら
しをしていたのである。更にここでの学習で、多国籍言語の学習や、文化的交流や人身
売買や、戦乱地の飢えた子供を引き取ったり、逆に代理出産の約束をして、国の安定を
図ったりしていたと考えられる。他にも、集団見合いや結婚式など、この神殿の得意と
したところだろう。それでも、個人的な性問題は、恐らく別物ではなかったか。とも思
われる。デルフォイのシビュラは、パルナッソスの山腹にあるデルフォイの、アポロン
神殿にあったアディトンという 内室奥の立ち入り禁止区域で予言を行った伝説的存在
とも言われる。

42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 17:33:35.59 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・35

 デルフォイの信託といえばアポローンの巫女であるピューティアが下した神託が有名
である。しばしば両者が混同されますが、ピューティアと、シビュラは別の存在です。
古代の巫女は、裸体で踊って一種のトランス状態になって、神々の託宣を口寄せ(神の
言葉を預かる)えおして、伝える役を担っていました。デルフォイの巫女の奉り神は、
理性と文明と肉体美を代表する、太陽神アポロンである。デルフォイは、ギリシャ中部
、パルナソス山の南のふもとに位置する聖域を指す。ここには、かつてアポロンを祀る
神殿があり、入り口に「汝自身を知れ」との言葉が掲げられていた。と言われている。
デルフォイの神託で、人々はこの神殿の巫女が伝える神託を真実と疑わず、重要な決定
はその言葉に左右された。人間の運命ばかりか、戦争や国そのものの方向も決められた
。デルフォイの神託の例としてよく知られているのは、スパルタ王が神託によって自国
を、最強の軍事国家にした事が挙げられる、ヘラクレスが「十二の功業」を我が身に課
したこと。などの他に、ソクラテスの「無知の知」の発見もある。これは「ソクラテス
より知恵のある者はいない。」との神託の意味を、解くべく大勢の賢者と対話を重ねた
ソクラテスが、ついに辿り着いたのが、「彼らは己が無知であることを知らない。しか
し自分は知っている。」との認識を解いたのだった。というものです。しかし、何とい
ってもデルフォイの神託で有名なのはオイディプスのものだ。「父を殺し、母と結婚す
るであろう。」という、おぞましい神託を受けた彼と父は、その運命から逃れようと、
必死の努力をし、逃れたと思った瞬間、まさにその運命の只中にあった。と知ります。
この悲劇は、むしろ、この御神託がなければ 起こらなかったのでは。と考えると、逆
に「呪い」のようにも見えてくる。

43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 17:37:43.47 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・36

 デルフォイは険しい山々に囲まれた神秘の場所で、現在もパワースポットとして世界
中からに観光客を集めている。今や崩落した神殿や劇場の遺跡、そして「オンパロスの
石」も置いてある。オンパロスは「世界のへそ」を意味し、石は地中海各地にあります
が、デルフォイのものが一番有名である。ゼウスが鷲を2羽飛ばして、交差した箇所を
世界の中心とし、石を置いたと言われている伝説の場所である。その石の近くに、巫女
が神託を下す聖域があった。と言われる。巫女の役職には常時12人いて更に侍女が、
並んでいたようですが、どういう基準で選ばれたのか、どんな訓練を受けたのかなど、
詳しいことはわかっていない。神官と違ってエリート層出身とは限らず、年齢や財産、
教養の有無は関係なく、若い女性ばかりでもなかった。依頼者は山羊など生費の動物と
料金を持って来て奉納し、一人の巫女と相対する。呪詛や祈りの後、彼女の語る予言的
で暗示的な神託を、そばにいる男の神官が解釈して伝えていた。との説もある。彼女は
岩の裂け目に置いた高い三脚鼎(かなえ)を椅子代わりにし、裂け目から漏れ出る蒸気
を吸って、月桂樹の葉を噛みながら神託を下す。この時の、白い蒸気こそが、伝承では
巫女を恍惚状態にした正体とされてきた。ところが、百年ほど前の発掘調査では地表に
裂け目は見つからず、蒸気説はいったん否定されました。これが覆ったのは、1980年代
の地質学研究です。デルフォイの地盤はケルナ断層と、デルフィ断層の交点に位置し、
地震の摩擦が起きると、アポロン神殿の地盤が加熱されてメタン、エタン、エチレン等
などのガスが発生した、との説が出た。メタン自体は人体に無害ですが、空気中の酸素
濃度を低下させる働きがあり、酸素不足のトランス状態にさせる。その上に歌を唄い、
踊りを踊り、恍惚を極めながら占いをする。巫女の中には、死に至った儀式も多くあっ
たと記されている。

44 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 17:39:24.30 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・37

 つまり酸素が欠乏し、長くそこにいると催眠作用が働き、抑鬱状態になったり脈拍が
速まると言う。重篤な酸素欠乏症の場合は死に至る。地下の聖域に設えられた神託の場
で、巫女はメタンガスを吸い込み、やがて夢と現の境いで神の声を聞いたのでしょう。
というよりも、聞いた、と信じ、信じているので、その言葉は確信に満ち、説得力に、
あふれていたのでしょう。依頼者はその言葉に 強く影響され、知らず知らず、言われ
た未来を先取りして行動するようになったのかもしれません。くり返しガスを吸引した
巫女たちは、それほど長生きはできなかったのではないか。と推測される。つまりよく
この酸素不足に耐えれる少女が、一つの巫女選びの指標では無かったかと思えるのだ。
 キリスト教カトリック教会の総本山であるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画の
一部に、ミケランジェロ・ブオナローティ《システィーナ礼拝堂天井画 デルフォイの
巫女1500〜1512年》が描かれている。どうして異教の巫女を、ここに描くことができた
のでしょうか?古代の巫女たちの神託は、記録・編纂されて『シビュラの書』と呼ばれ
ました。古代ローマ時代では、国家の危機の際に、この本が開かれ、政策決定の参考に
使われていた。しかし、他書への断片的な引用を除いてその内容のほとんどが失われて
しまったのだった。ところが、巫女の神託の人気にあやかって、古代のユダヤ教徒が、
それをまねた『シビュラの託宣』という偽書を書き、さらにキリスト教徒が、加筆した
。その書には、イエス誕生など聖書の出来事が事細かに(都合よく)予言されていたか
のように、シビュラの言葉が創作されていました。そのため、上の絵が描かれた時代に
は、キリスト教との間で異教の巫女たちが高く評価され、彼女らは旧約聖書の預言者と
対象になる存在と見なされるようになっていました。

45 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 18:06:44.71 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・38

 さて、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗し
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女の話に戻ろう。メディア人自身の伝承か、
ヘロドトスやギリシャ人の創作かは別にして、アイゲウス王神話は、伝承されている。
曰く、「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれず、デルポイの神託に行き、その理由を問うたが、その神託の意図を
理解できず、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされる。デルポイは、パルナッソ
ス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都のアスィーナ(アテナイ)から 西北へ122kmの
距離にある急峻な丘の上にある。ティーヴァ(テーバイ)からの帰りに兄弟の街に立ち
寄る。一人目に妻にした最初の妻メーターは、政略結婚で、北欧系の白肌で黒髪の北方
美人であった可能性が強い、2人目の妻、カルキオペーは、コルキス(グルジア)の王
アイエーテースとオーケアニデス(水と泉の守護神)のエイデュイア(金髪碧眼美女)
の娘とされるので、同じ政略としての妻だろう。恐らくは、そうした国の交易にかかる
政略結婚の妻で、王は縛られる身分であったろう。ポイボスのアポローン神殿での祭事
を終えての、帰途であって立ち寄ったトロイゼーンで、王のピッテウスに、このことを
相談すると、ピッテウスは神託の意味を直ちに理解し、彼に酒を振舞って酔わせた上で
、娘のアイトラーを彼の寝所に送り込んだ。ここでエーリスの王ペロプスと、ヒッポダ
メイアの子のピッテウスだが、半島王と馬飼い娘の子、と言う意味合いであり、クレタ
島やら、方々に兄弟のいる王で、農耕や馬や牛、つまり家畜を広めた農場主であろう。
日本でも明治維新期に売れたのは、なんと、ビールや牛乳や肉で、元々生活品が江戸期
での外国人の最初の商売であったのだ。

46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 18:18:48.14 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・38

 さて、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗し
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女の話に戻ろう。メディア人自身の伝承か、
ヘロドトスやギリシャ人の創作かは別にして、アイゲウス王神話は、伝承されている。
曰く、「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれず、デルポイの神託に行き、その理由を問うたが、その神託の意図を
理解できず、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされる。デルポイは、パルナッソ
ス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都のアスィーナ(アテナイ)から 西北へ122kmの
距離にある急峻な丘の上にある。ティーヴァ(テーバイ)からの帰りに兄弟の街に立ち
寄る。一人目に妻にした最初の妻メーターは、政略結婚で、北欧系の白肌で黒髪の北方
美人であった可能性が強い、2人目の妻、カルキオペーは、コルキス(グルジア)の王
アイエーテースとオーケアニデス(水と泉の守護神)のエイデュイア(金髪碧眼美女)
の娘とされるので、同じ政略としての妻だろう。恐らくは、そうした国の交易にかかる
政略結婚の妻で、王は縛られる身分であったろう。ポイボスのアポローン神殿での祭事
を終えての、帰途であって立ち寄ったトロイゼーンで、王のピッテウスに、このことを
相談すると、ピッテウスは神託の意味を直ちに理解し、彼に酒を振舞って酔わせた上で
、娘のアイトラーを彼の寝所に送り込んだ。ここでエーリスの王ペロプスと、ヒッポダ
メイアの子のピッテウスだが、半島王と馬飼い娘の子、と言う意味合いであり、クレタ
島やら、方々に兄弟のいる王で、農耕や馬や牛、つまり家畜を広めた農場主であろう。
日本でも明治維新期に売れたのは、なんと、ビールや牛乳や肉で、元々生活品が江戸期
での外国人の最初の商売であったのだ。随分と庶民的だったのだろう。恐らく言葉の壁
に娘のアイトラーをして、その意味を教え、その内性遊戯でも、教えた可能性が高い。
男というのは、女の性欲に弱いものだ。今でも人たらしや美人局、奸囮(つつもたせ)
やハニートラップなる物は多い

47 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 19:06:30.87 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・39

 この時に、彼女は息子 テーセウスを 身籠ったとされる。テーセウスは、ギリシア
神話に登場する伝説的なアテナイの王であり、そして、ギリシャの中では 国民的な、
英雄である。母音を省略してテセウスと表記される。怪神のミノタウロスを退治した、
冒険談議で知られている。ソポクレースの『コローノスのオイディプース』では、憐み
深い『賢知の王』として、描かれている。ヘラクレスほどではないにしろ、岩を持ち上
げる怪力を持ってるし英雄としての存在感には、国民的な英雄でもある。プルタルコス
の『英雄伝』で、アイゲウス王に、息子として認めさせるために、アテーナイに向かう
が、わざわざアテーナイに安全な海路を取らずに、テーセウスは、あえて危険な陸路を
選んで旅をする。そうして道中の山賊や怪物を討ち果たした。エピダウロス(海老の尻
尾の半島)でペリペーテース(棍棒使い:脚がわるく多分杖を付いた部族)を、コリント
ス地峡(ドリア人王コリントの作った街)、怪力の盗賊シニス(松曲げ男)を、クロミュオ
ーン(牝の街)ではパイア(『テューポーン(怪物)』と『エキドナ(鬼畜)』の子といわ
れる『牝の猪』)で猪(クロミュオーンの猪)を、メガラ(巨大街:現在のイスタンブ
ール)でスケイローン(傲慢な盗賊:メガラー王ピュラースの子、アテーナイ王パンデ
ィーオーンの娘と結婚)、エレウシース(エレウシスの秘儀・密議の島)でケルキュオ
ーン(レスリング男)を、ヘルメウス(文化科学の里)では、山賊プロクルーステース(
伸ばす人)を倒している。残虐な方法で人を殺めていた。この者達に対して、テーセウ
スは、勇猛で冷たくあったのだ。いずれも同じ目(殴り合い)に遭わせて殺し勝利した
。道中、テーセウスが倒した プロクルーステースは「プロクルーステースのベッド(
寝台)」(Procrustean bed)の逸話で有名である。この 山賊は旅人に寝台を勧め、大
きな寝台より背が小さければ、旅人の手足を無理やり引っ張ることで殺し、小さな寝台
から手足がはみ出す大きな旅人には、手足を切り落として殺してしまうのだ。そこから
「無理矢理、基準に一致させる」という意味になった。「 Procrustean bed:プロクル
ーテン・ベッド」は、そういう意味である。

48 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 19:15:28.33 ID:Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・40

 またテセウスのパラドックスとも呼ばれる言葉もある。プルタルコスは以下のような
ギリシャの伝説を挙げている。「テセウスが、アテネの若者と共にクレタ島から帰還し
て行く時、船に30本の櫂があった、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの
時代までにも、大事にし保存し保存していた。このため、朽ちた木材は、徐々に新たな
木材に置き換えられていき、展示され観光に供されてたが、経済的、論理的な問題から
、哲学者らにとって恰好の議論の的ともなった。つまり、何とか排除したいという流れ
である。すなわち、ある者は『その船はもはや同じものとは言えない』とし、別の者は
『まだ同じものだ』と、対立主張したのである。この島には勇敢な行為でも、侵略され
た側には、結構な汚名だったのだろう。ここで、プルタルコスは『全部の部品が置き換
えられた時、その船が同じものと言えるのか。』という疑問を投げかけて、記述してい
る。。また、ここから派生する問題として、置き換えられた古い部品を集めて、何とか
別の船を組み立てた場合であっても、どちらが、テセウスの船なのかという疑問が生じ
るのではないか。としてる。つまり、ある物体において、それを構成するパーツが全て
置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは、『同じ』それだ。と言えるのか否か
である。といった『 同一性の問題 』を指すパラドックスであるのだ。例えば政策で、
日本に帰化し、海外からの移住者を増やしても、それが日本と言えるのだろうか。日本
人・大和民族・日本の誇り、などと胸を張る事が、許されるのだろうか。という事で、
あろう。歴史で培ってきた思想、その土地の 美意識、仕組みや習慣が『古い」とか、
『時代に合わない』とか、もはや残らないのである。こうなるとそこに居る「人」さえ
も古いとなる。そこで、プルタルコスもヘラクレイトスの言葉として、「同じ川に2度
入ることはできない。」と説き、教えている。つまり「ゆく河の流れは 絶えずして、
しかももとの水にあらず。」という時間軸の観念で、「川」としての「存在」はそこに
ありながら、そこに流れている水は時間を経ち、「ある瞬間を流れていた水」ではない
事を指摘している。まあ、人の人生の達観であろうか。

49 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 21:01:11.18 ID:GXJHO7mOB
 太古の空・・・・41

 テセウスは、古代ローマの建国の父ロームルスと共に、アテーナイを建国した偉大な
人物として、現代では紹介されているのである。ここでテセウスはポセイドンの子であ
る。との神話もある。その場合は犠牲を捧げるために訪れたヒエラ、またはスパイリア
にてポセイドンと交わり、同じ日に不妊症のアイゲウスとも交わったとされている。こ
うしてアイトラーの、懐妊を知ったアイゲウスは、岩の下に剣とサンダルを隠し「生ま
れた子が 男の子であった場合、父親の名を教えてはならない。この岩を動かせるほど
その子が強くなった時に父の名を教え、この剣とサンダルとを持たせてアテーナイへ送
り出すように。」と言いトロイゼーンを去ったのだった。ここで、ヒエラには、ヒエラ
ルキー(階層の上流社会)とか、ヒエラティック(神官文字)とかの語源である。ユネ
スコの複合遺産(世界遺産)に登録されている、トルコが誇る観光名所のヒエラポリス
:パムッカレと言う名所もある。古代都市の「ヒエラポリス遺跡群」の中に、白い石灰
棚に温泉が流れる「パムッカレ」がある場所だ。つまり上流階層の貴婦人の温泉だった
なのであろう。スパイリアも、〜の人・や〜の国・のリア、を除くと「スパイ」なので
探りに来た婦人という事になる。となる。日本でもスッパとか言われ、出し抜く事を、
すっぱ抜くとも言う。此の時の犠牲を捧げるために、訪れたヒエラまたはスパイリアが
、ポセイドンと交わった。などと言うのは通告した。通じていた。の意味であろう。、
此処でポセイドンが、よく海神で有名だが、古くはペラスゴイ人に崇拝された大地の神
で、馬との関わりが深く、競馬の守護神としても崇められ、異名の1つに「大地を揺ら
す神」というものさえある。とされるので、恐らくはスキタイ族の大陸の神が、どこか
で海神に変わった。と考えるのが妥当であろう。スキタイそのものが、紀元前7〜3世紀
頃、ポントス草原の領土(スキシアまたはスキティカ)を支配していた部族で、我々は
草原と思ってるが 実は湿原地帯で、スキ=鋤でタイ=帯で、湿地草の尖った事がスキ
であったし、ポントスの神がポセイドンであったのだろう。と推測する。

50 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 22:07:20.47 ID:GXJHO7mOB
 太古の空・・・・42

 アイゲウスがアテーナイに帰って後、アイトラーはトロイゼーンに留まった。トロイ
ゼーンは、ギリシャ・ペロポネソス半島北東部アルゴリス地方で、古代ギリシアの都市
国家代表であり、ギリシア神話の英雄テーセウス出生の地と伝えられ。テーセウスが育
った地である。アイゲウスは彼の甥に当たるとされる、パラースの息子たちを恐れて、
テーセウスをアテーナイに呼ぼうとしなかった。ので、テーセウスはトロイゼーンに、
居住していた。後にテーセウスが父である彼に会いにトロイゼーンから徒歩ではるばる
来た際には、アイゲウスは、コリントスから逃れてきた メーデイアと結婚していた。
とされる。このパラースの息子達とは、アルカディア地方の王リュカーオーンの50人の
息子の1人である。とされる。同地方南東部の都市パランティオンの創建者。ローマの
古王エウアンドロスの祖父にあたるので、原初のローマに、幾人もの息子達が蠢いてい
て各自に国作りを行っていたのであろう。トロイゼーンは、アジアのハリカルナッソス
人が建てたイシスの神殿があるとされる、イオニア海との分かれ目の アッシリアや、
メディアの国の、対岸のトりジナとされる。となるとアテナイ王アイゲウスの妻だった
が継子テセウスを殺害しようとして、失敗しアリオイ人の下へ逃れた。とされている。
のも、あながち空想とも言えない。ここで、アテナイ王アイゲウスは、巨人族だったと
言う可能性が高い、つまりその子の、テーセウスも又同じに巨人となり、海神ポセイド
ンの子や孫と言われるほど 人を圧倒する体格であったのだろう。まあ神話であるので
、どうとも言えないが、民族的に体格の違いはあるので、恐らく220pぐらいの立派
な体格であったのだろう。対して通常の180〜70の身長に更に小さい女性の部族が
嫁に来ても、かなりに性交は嫌がられてしまう。ここでアイトラーは、古代からの媚薬
なり陰部に塗る潤滑剤なりの秘薬の軟膏を所持している部族だったのだろう。と思われ
る。そもそも、しょっちゅう戦争ばかりの古代世界に、薬が存在しない訳はない。

51 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 22:07:51.74 ID:GXJHO7mOB
 太古の空・・・・43

 青年になったテセウスは、剣とサンダルを取り出してアテナイに向かい、安全な海路
をとらずに危険の多い陸路を選び、途中、旅人を苦しめる山賊や野盗をことごとく退治
した。父の妻となっているメデイアの悪事を退けて初めて父子対面となった。テセウス
は、その後に、ミノタウロス退治の為自ら貢ぎ物となる男女に混じってクレタ島へ赴き
、彼に恋したアリアドネの助けにより大功をたてるのであった。アテナイの王位につい
てからは、アッティカを統一して国家の基礎を固めたが、のちに王位から追放されると
、スキロス島に亡命、この地の王に殺されたと伝えられる。こうした彼の武勇を伝える
物語はヘラクレスの伝説に酷似しており、焼き直しと考えられる。と見る向きもある。
つまりドーリス系の英雄ヘラクレスに対抗して、アテナイの国民的英雄としてテセウス
の伝説が発達した。とし、さらに彼の伝承の背後には実在の人物が存在していたかもし
れないが、その真相は明らかではない。と言う物だ。神話によると、アテナイ都市では
、クレタの王子のアンドロゲオスの死を原因とする災いから逃れるため、毎年若い男女
7人ずつを、牛頭の怪物ミノタウロスの生贄として、人身御供に捧げていた。そのため
テセウスは、ミノタウロスを退治するために生贄の1人に加わって、ダイダロスによっ
て建設されたミノタウロスを幽閉するための、迷宮ビュリントスに入って行った。その
際にテーセウスは、彼に恋をしたクレタの王女のアリアドネから、脱出に役立つ糸毬を
受け取って入場したという。テーセウスは、迷宮の奥で、ミノタウロスと遭遇すると、
これを退治して帰るのだが、此処で誰も帰れなくなる筈が、糸をたどって迷宮の外に、
脱出し成功するのである。その後、テセウスは王女アリアドネを連れてクレタ島を旅立
ったが、途中で立ち寄った ナクソス島にアリアドネを置き去りにした。アリアドネは
悲しんだが、そこに酒の神ディオニュソス(ローマ神話のバッカス)が現れてアリアド
ネと結婚したと伝えられている。アドリア海の王女である。

52 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 22:17:09.97 ID:GXJHO7mOB
 太古の空・・・・44

 これを、比喩的物語の神話だとしたら、「クレタの王子のアンドロゲオスの死を原因
とする災い。」と言うのは、クレタ島を中心にした海洋国家同盟が、オリンポス同盟の
草原国家の帝国軍に敗けを求めて、島々の縁戚関係を高めさせて、年一回そうした強制
移住をさせられていた時代の争い。とも言える。、海洋諸国家のポリスからなる同盟で
あるデロス同盟と、スパルタが作ったペロポネソス同盟の対立は、やがてペロポネソス
戦争へと発展していくのである。紀元前371年に スパルタはかなりに軍事国家であった
。そこで相対するデロス同盟も同じに、徴兵制が敷かれて、政略結婚が普通にあった。
つまり、その進化形として、やがては王の子も庶民も合同見合い、合同結婚式をさせて
いたのだ。ここでダイダロスやミノタウロスとか、ギリシア神話に登場する半人半獣の
種族の名前である。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。
これは、先の頭人獣身に彫られたアッシリアの神「アッシュール:神」の最高神を意味
する物であろう。アッシュルは古くからアッシリアにおける最高神で、古来は拝火教の
フラワシ(半鳥人)の光の環に載る杖を持つ善の使いであった。しかし、エジプト遠征
後には、太陽神としての性格を帯び、スフインクス同様にライオンの容姿に人間の頭を
持つ鳥の羽根の姿となった。アッシュル神がアッシリアの首都で古代都市アッシュルと
同名であることは謎だが、現在は神としてのアッシュルは都市アッシュル、あるいは、
それが存在した土地自体を、擬人化・神格化されたことで、聖域都市、つまり日本での
神領として誕生した神である。とする見解になっている。つまりは、このエーゲ海にも
そうしたペルシア起源の神ミトラス(Mithras)を祭神とする密儀宗教が押し寄せて来た
と考えられる。ミトラス教は古代のインド・イランに共通する太陽神ミスラ(ミトラ)
神の信仰であったが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に、形を変
えたものと考えられる。つまり、牡牛を屠る事は同じだが、背羽根はマントを羽織って
いる、古いミトラス神は、イラン、インドの両地域において重要な神で、特に『リグ・
ヴェーダ』においてはアーディティヤ神群の一柱で、魔術的なヴァルナ神と対をなす者
で、契約・約束の神だった。

53 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/18(木) 23:11:38.48 ID:GXJHO7mOB


54 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 00:44:07.35 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・45

 アーリア人においてこの神への誓いが、ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた、
条約文に、ヴァルナ、インドラ、アシュヴィン双神といった神々とともにミスラの名前
が挙げられている事で、契約や約束を果たす神として存在していた。と推測されている
。ミトラス教に関する最古の記録はプルタルコスの「ポンペイウス伝」で、ミトラス教
は、キリキアの「海賊たちが信仰した密儀宗教」の中でも特に重要なものだったと言う
。海賊たちは、ミトリダテス6世を支援し、広範囲にわたって海賊行為を働いた。この
ため、前67年、ポンペイウスによって掃討された。いずれにしろ、ゾロアスター教が、
広く大きく浸透していたアケメネス朝ペルシアから、それまでアフラ・マズダーの信仰
だけが認められていた中で、紀元前5世紀頃のアルタクセルクセス2世がミスラ信仰を
公に許可して起こった物が、フラワシの文様のヘレニズム仕様への変化であったろう。
。さらにゾロアスター教がサーサーン朝ペルシア(226年〜651年)の国教となると英雄
神、太陽神として、更に広く信仰された。なのでフラワシ起源とも考えていいだろう。
こうした事で溶岩からなる迷路の洞窟を持つ島々が幾つかあって、そこで祀られる密教
があっても、不思議ではない。又、テセウスは王女アリアドネから、糸鞠を貰い活躍し
そこで、アリアドネを連れてクレタ島を旅立ったが、途中で立ち寄った ナクソス島に
アリアドネを置き去りにした。アテナイの王位についてからは、アッティカを統一して
国家の基礎を固めたが、のちに王位から追放されると、スキロス島に亡命、この地の王
に殺された。スキロス島は恐らくキプロス島で間違いない。ミトラス教の太陽神ミスラ
(ミトラ)は、交易上に於いての重要な神で、更にこうした交易が船に変わると、海神
ポセイドンまで産んだのだろう。

55 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 00:52:02.79 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・46

 キプロス島(キプロスとう)は、東地中海の、シリア・アナトリア半島の沿岸にある
島である。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで、地中海上の3番目になる
大きな島である。島にはイギリス、キプロス共和国、北キプロス・トルコ共和国の主権
を持った国の領土がある珍しい3分割領地島だ。島の中に3ヶ国の国境がある島は世界
でボルネオ島とキプロス島だけである。まあ二分割が多々あって、ハイチとドミニカが
あるので、あってもおかしくはないのだが。キプロス島には、先史時代から文明があっ
たと考えられている。地中海貿易の中継点として栄えて、ペルシャ、ギリシア、ローマ
など、時代が変遷しても、常に強大な国家の支配下に置かれた。東西ローマ帝国分裂後
は東ローマ帝国に属したが、1191年に、第3回十字軍に参加したイングランドの、リチ
ャード獅子心王に占領され、その後テンプル騎士団に譲渡された。中央から南西にかけ
ては山がちで、最高峰オリンポス山(1,952m)のあるトロードス山脈が広がる。北部に
は海岸沿いに、幅が狭く急峻なキレニア山脈(ペンタダクテュロス山脈)が伸び、その
北東の延長には小アジアに向かって細く伸びるカルパス半島がある。その最先端にアポ
ストロス・アンドレアス岬がある。古くから、このトルコとシリア・レバノンやエジブ
トの3方に囲まれながら、海上の島であった事で、欧州勢も参加する、大きな戦略拠点
として機能する。すなわち、四方八方から侵略される海路の航行の要害地であったのだ
。しかしここには、そうした経過から、 似非科学(えせかがく)や 偽科学(にせかが
く)の中の、オカルト科学も多く交差した。ただ、この要害地を護っていた居たのは、
エジプトのファラ王と同じに、有名な巨人伝説の島でもあった。巨人がいたイタリアは
多くの伝説と遺骨が発見されていたが、歴史の中で拒否され続け、現代では、この島に
に逃げて来て、この島にのみ残ったようだ。

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 00:55:05.67 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・47

 ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の第9歌に登場するキュクロープス族は、神
と言う高次元的存在としてのキュクロープスとは大きく異なり、旅人を食らうただ粗暴
なだけの怪物で描かれた。ポセイドン神を父に持つポリュペーモスも含めて、そうであ
った。イオーニア人・アカイア人・ドーリア人という、第3派ギリシア人より前の時代
のペロポネーソス半島での、ミュケーナイ(ミケーネ)、ティーリュンス、アルゴスと
言う半島域に代表されるミュケーナイ文明が栄えていた。そしてそれらは、巨石によっ
て城砦や建造物物その他を築き上げるものであった。遅れてこの地に入り定着しただろ
う大陸文化を持った、第3派のギリシア人達は、先人が残した大掛かりな巨石建造物の
数々を見るにつけ、これらを、巨人キュクロープスの手になるものと考え、「キュクロ
ープスの石造物」と呼び、怪物の街と倣わすようになった。これは英国ストーンヘンジ
に代表されるように、奇怪なストーンサークルやヨーロッパ各地のメンヒル、ドルメン
といった、欧州の巨石記念物が、いまだに神秘的に見られ、巨人の遺した物と考えられ
たのに似ている。キュクロープスは、ギリシア神話で登場する姿は、卓越した鍛冶技術
を持つ単眼の巨人であり、下級神である一族である。あるいは、これを下敷き及びベー
スとして後世に誕生した伝説の生物である。天空神ウーラノスと大地母神ガイアの息子
たちで、アルゲース(暗闇雲)、ステロペース(稲妻光)、ブロンテース(雷鳴音)の
3兄弟から構成される神である。彼らは父神に嫌われ、兄弟族のヘカトンケイル(巨人
)族とともにタルタロス(奈落・冥界)の谷へ落とされた。弟族のティーターン神の1
人クロノス(一つ目怪人・鍛冶の神)が政権を握ったあとも、久しく拘禁されたままで
あった。しかし、ティーターノマキアー(世代交代革命)の時に、ゼウスらによって、
解放されたと言う神話になっている。

57 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 00:56:27.30 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・48

 クロノスは元来ギリシア神話で農耕の神で、巨神族ティーターンの長であり、ウーラ
ノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもあった。アダマスの鎌を武器とし、ウ
ーラノスの男根を切り、そこから美の女神、ビーナスが産まれている。だがこれは皮肉
な事に、石器や青銅器から 硬い鉄器や鋼鉄器の登場の歴史で、一つ目の巨人というの
は、恐らく片目の眼帯か若しくは鍛冶屋用に、何かしらのゴーグルを付けて、作業した
民を示したものであろう。こうした産業の発展は、恐らく海洋国家にとっては、海産物
で暮らしていた小人族には、大きな迷惑なことであったろう。ティーターン族とは単な
る変革を起した10部族と言う名称であろうが、時間の神クロノスと発音が近いため、
混同されることがあるが、別の神である。とするのは間違いで、クロノスとは時間が作
った科学技術の発展と脅威を意味した。と解するべきだ。すなわち、この鉄器文化が、
大陸文化の、ヒッタイトなどが伝承した剣の製鉄技術では無かったかと思う。ヒッタイ
トと言う名も部族の名でなく、ヒットとタイトを掛け合わせた、今瞬間(タイト)の、
強大(ヒット)な部族の意味であろう。そもそもが、こうした民族こそ、ゲルマン=遊
牧のゲル生活のマン=男達の圧迫だったに違いない。草原のテントや毛布生活から見れ
ば、海岸での洞穴生活は、宮殿こそないが、大きく快適だったに違いない。そもそもが
、魚釣って貝をほじくる生活と、草原で馬を駆りて放牧する生活では、体力や体格には
、大きな違いが出る。農耕がでるまでは、恐らく小人と巨人との世界観があった可能性
は高い。巨神族つまり、巨人の伝説や骨は、かなりの場所に出ている。ギガース、複数
形のギガンテスで巨人族として言及され、日本語で省略してギガスとも呼ばれる一族は
、ゼウスの支配を終わらせようと、山々すら簡単に投げ飛ばす怪力を武器に、大軍で、
オリュンポスの神々に戦いを挑んで戦功を立てている。

58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:27:18.09 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・49

 巨人は、しばしば神話には登場するが、その多くはフィックションである。と考えら
れている。そうした傾向にあるのは多くの方が感じている。しかし、珍腐なキリスト教
が伝播され布教されて跋扈すると、真実は隠され消されて行った。しかし、そうした教
義によって否定する聖書さえも ネフュりムを記述する。旧約聖書の「創世記」「民数
記」そして、外典の「ヨベル書」と「エノク書」である。しかしながら、過去には実際
に巨人が実在したと思わせる骨や遺跡が、どこでも、多数見つかっている。という報告
すらある。が、もしこれが本当なら、それはまさしく巨人が実在したことになる決定的
な証拠になるが、なぜかそれが公にニュースになったりはしない。それは巨人が恐怖で
あるからだが、実際には、巨人の骨や体の一部が、アメリカ、ブルガリア、エクアドル
、エジプトなど、世界の様々な場所で見つかっていて、巨人が使った物品や足跡や巨人
を祀るとされる遺跡のようなものも発見されている。さしずめ日本の須佐男神文化も、
同じである。スサをまとった男の神。それは普通の服が合わなかったからに違いない。
海外でも、例えば、1909年に、アメリカ合衆国南西部とメキシコ北部を流れるコロラド
川の途中で、1.6kmにもわたり続く洞窟が発見されて、中には、様々な武器や道具、
像などが残っており、象形文字のようなものが刻まれている 石板まで保存されていた
遺跡があることが分かった。ということが、アリゾナガゼット紙によって報じられてい
る。その中には、なんと体長 2.7mにもなるミイラがあった。とも報じられています。
それらが今どこに保存され、その調査がスミソニアン博物館に全て運ばれ、熱狂的清教
徒信者の博物館長や館員によって、焼却廃棄されたのである。つまり聖書の中での悪魔
であったからだ。また、同じくアメリカのウィスコンシン州にあるデラヴァン湖から、
体長3m近い巨人の骨が、合計で18体分も見つかり、またこの地域では、その後も何体
かの巨大な人骨のようなものが発見された。と報じられています。最初に見つかった骨
は、ニューヨークタイムズでも紹介されたほどです。これらも同じ様に、決して出てこ
ない。

59 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:39:31.32 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・50

 現在、日本の成人男性の平均身長は現時点で 約167cmと言われている。栄養状態の
悪い江戸時代は140〜150cm程度だったとも言われる。海外で2m近い西洋人よりは、
50cmも低かったので、ガリバー旅行記にある小人の国は、マルコポーロ伝説の、日本
だったとも言われる。翻って世界でこれまでに、実際に確認されている人類の中で、最
も高身長だったのは、1940年に亡くなった「ロバート・ワドロー」という人物で、写真
も残っている。ロバート・ワドロー氏は、亡くなった時の身長はなんと驚異の 272cm
であり、細身でありながらも、その体重は 200kgもあった。横にいる女性と比べると、
彼が、いかに大きいか、140cm前後の女性なら、ほぼ 倍の身長なのである。しかし、
実は、医学的には巨人族ではなく、彼は脳下垂体腫瘍の為に、病気の影響によって成長
ホルモンの、過剰分泌が起こり、画像のような巨人へと成長してしまった。と考えられ
ている。しかし、理由はどうであれ、DNA研究からも、人類は稀にそのようなサイズ
まで成長することができる種を創れる。ということは、過去にそのような巨大なサイズ
に成長した人類も、恐らくは「いた」ということを示す1つの証拠と言えるのではない
か。と言われる。また、もっと興味深いのは、現時点で最も大きい赤ちゃんとしての、
ギネス認定を受けている、インド在住のカラン君です。彼は、生まれた時に、既にその
体重は7800gもあり、なんと8歳に成長したころにはその身長は驚異の198cmにまでも
成長していた。また、彼の母親も、その身長は218cmもあり、父親も198cmある。つまり
、カラン君の場合は、何らかの病気による影響ではなく、まさに遺伝的にそのような大
きな体へと成長した部族だった。と言えるのである。そして、現代にさえも、このよう
な遺伝的に巨人と言えるようなサイズに成長できる人物がいるのであれば、ヒトの中の
約600万年の歴史の中で、そのような 巨大な一族が存在していたとしても、何ら不思議
なことではない。本当に身長が5m以上もあるような人間がいたとは思わないが3m級
の部族は、いたとしてもおかしくない。

60 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:40:41.35 ID:w/5Gru6ED
 閑話休題・・・・一休み 一休み

61 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:41:58.80 ID:w/5Gru6ED
 『ガルガンチュワとパンタグリュエル、:Gargantua, Pantagruel)』は、フランス
・ルネサンス期の、人文主義者フランソワ・ラブレー(Francois Rabelais)が著した
物語『ガルガンチュワ物語』『パンタグリュエル物語』のことである。不思議な事に、
この物語は、ガルガンチュワ、パンタグリュエルという、巨人の一族を巡る物語である
。第二之書・第一之書は、アルコフリ バス・ナジエ(Alcofribas Nasier)という筆名
(ラブレーのアナグラム)で、第三之書以降では、本名で刊行している。1532〜1552年
に第4巻までも、出版される売れ行きの良い本だった。ラブレーの死後に、第5巻が、
刊行されたのだが、これは死後だった為に、偽書説もある。

62 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:42:31.56 ID:w/5Gru6ED
                           『ガルガンチュワ物語』の
(第一之書)、La vie tres horrifique du grand Gargantua, pere de Pantagruel(
パンタグリュエルの父、ガルガンチュワのおそろしい生涯)1534年(1535年?)出版。
は、ガルガンチュワの出生、少年時代から始まっている。隣国の暴君ピクロコール王と
戦争になるが、修道士ジャンの大活躍で勝利を収めた。ジャンの希望で建てられたのが
、「テレームの僧院」であった。この「テレームの僧院」を描いた部分は、一種のユー
トピア物語になっている。僧院には、教養豊かな男女のみが入ることができ、唯一の、
規律は「汝の欲するところを行え。」と言う、戒律であったのだ。『パンタグリュエル
物語』(第二之書)Horribles et epouvantables Faits et Prouesses du tres renomme
 Pantagruel 1532年(?)出版。は、当時ではベストセラーになっていた 著者不明の
『ガルガンチュワ年代記』(1532年)をヒントに書いたもの。とされる。パンタグリュ
エルは、元々中世の聖史劇に、数多く登場する小悪魔であった。が、これを、ガルガン
チュワの子供という設定で書かれている。つまり巨人パンタグリュエルの出生から始ま
る物語である。パンタグリュエルは、ポワチエ、オルレアン、パリなどで学業を積み、
困難な訴訟を解決する。などして名声を得た。が、ある日、パニュルジュという奇妙な
男に出会い、家臣にした。パニュルジュはトルコ人に捕まって、火あぶりの刑にされそ
うになったが、かろうじて逃げてきたのだった。ディプソード人がユートピア国に侵入
したと聞き、パンタグリュエルと家臣たち一行は征伐に出かける。と言ったストーリで
ある

63 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 01:56:58.31 ID:w/5Gru6ED
 太古の空・・・・51

 セリヌスはシケリア(嵐除島:シチリア島)南西部にあった古代ギリシアの植民都市
で、現在はセリヌンテ(Selinunte)と 呼ばれている。セリヌス川(モディオーネ川)
とコットーネ川(現在は溝が残るのみ)に挟まれた場所に立地していた。行政区分では
トラーパニ県カステルヴェトラーノコムーネの分離集落(フラツィオーネ)であるトリ
スカーナ・ディ・セリヌンテとマリネッラ・ディ・セリヌンテの間にある。遺跡には、
アクロポリスを中心いくつかの神殿がある。これらの神殿のうち、神殿Eと呼ばれる、
ヘラ神殿のみが修復されている。最も繁栄したのは 紀元前408年以前であり、人口は、
奴隷を除いて30,000人程度あった。セリヌスは 紀元前409年に一旦破壊され、その後も
再建されたが、紀元前 250年頃に放棄された。このセリヌスはシケリアにおける、最も
重要なギリシア都市のひとつであり、シケリア島の南西部にあり、歴史家のトゥキディ
デスによると、セリヌスは 同じシケリアのギリシア都市である メガラ・ヒュブラエア
(現在のシラクーザ県アウグスタ)を母都市としていた。メガラ・ヒュブラエア建設の
100年後にパミルスという人物の指導のもとに、建設されて、ギリシア本土のメガラ(
メガラ・ヒュブラエアの母都市)から、入植者を受け入れた。とされている。つまり、
かつて古代は、誰も立ち入れない神域であって、神と称される者や神官や巫女しかいな
かった。というのが、現在のシチリア島と呼ぶ島の歴史のようだ。この神殿群は、建設
時期を正確に特定することは出来ない。とされる。しかし、トゥキディデスに従えば、
紀元前 628年頃に建てられたとするが、ディオドロスの書は、それより早い 紀元前650
年、ヒエロニムスは 紀元前654年としている。この中でも、トゥキディデスの説が、尤
も信頼性が高い。とされる。この頃に、自生の野菜セリヌスが、栽培されていたと言う
。 野生のセロリを異にする ギリシア語であるセリノンに由来する名と思われるが。
この薬草は特産品だったようだ。その為、硬貨にはセロリの葉が刻印されていた。つま
り、医療薬の宝庫だった様だ。勿論セロリ他、食用や薬用の物が結構あったに違いない
。こうして巫女はその後、魔女とされ、御祈祷は、呪術の言葉とされ、キリスト教から
狩られ、排除される歴史を紡ぐ。

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:43:14.83 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・52

 セリヌスはシケリア島では、最も西方に位置する。ギリシアの植民都市であり、その
ためシケリア西部のフェニキア人や、西北部の先住民と相当早く接触を持った土地のよ
うだ。フェニキア人は当初ギリシア人と紛争こそ起こさなかったが、紀元前 580年頃、
先住民であったエリミ人の都市であった。セゲスタ(セジェスタ)と、領土問題で争う
ようになった。エリミ人は、エリモイ人と言われ、青銅器時代からギリシア古典期にか
けて、シケリア(シチリア島)に居住していた先住民で、インド・ヨーロッパ語族の、
民族と言う。歴史に現れて、ベリーチェ川沿いの都市国家を建設し、最も重要な行政的
な中心都市であった「セゲスタ(現在のセジェスタ)」と、宗教の中心であった「エリ
ュクス(現在のエリーチェ)」を築いた民である。日本語的には、エリとは襟であり、
橋頭堡を意味する襟裳岬の名が有名だが、文化闘争の最前線や領土の境界線の意味であ
ろう。モイとは、潜るとか「もぐ(引き回す)」揉むとか 接触・侵入を意味してる。
エリミ人の民族起源は不明である。東の隣人であるシカニ人と差は見られず、もともと
は同じ民族であったと思われる。セゲスタ(セジェスタ)と争ったとあるので、イタリ
ア方面から追われて此処に住み着いた部族であったろう。エリミ人は自身の言語を表す
のに、ギリシア文字も学習し使った。しかし、残っているのは碑文等に記された短文が
ほとんどであり、現在に至るまで、エリミ語は解読されていない。トゥキディデス(紀
元前460年〜紀元前395年)は、彼の時代のエリミ人を「野蛮人(異言族)」と記述して
いる。シカニ人またはシカノイ人は、先史時代の、フェニキア人や ギリシア人が入植
する前の時代にシチリア島に居住していた3種類の先住民の1つである。としている。
中でも3種族のうちで、最も古くから住んでいて、民族系統・言語系統は不明である。
シチリア島東側にエリミ人、西側にシケル人が侵入した結果、シカニ人の居住地域は、
シケリア中央部となり、これら3民族が先史時代に住んで移動できなくなった。ディオ
ドロスによると、シケル人との紛争の後、古代のヒメラ川(現在のサルソ川)がシケル
人領域との境界線となっていた。

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:43:40.06 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・53

 フェニキア人と同様に、エリミ人は領土という概念に固執しなかった。このこともあ
り、他の地中海諸民族から「野蛮人」扱いはされていた。とは言うものの、エリミ人は
都市を築き、その初期においてはギリシア人やフェニキア人に征服されることは、なか
ったのである。少なくとも、紀元前5世紀になるまでは、エリミ人達は、ギリシア人、
フェニキア人、およびカルタゴ人ら、と平和裏に共存していて、ギリシア人都市と同盟
を結ぶこともあった。ギリシア化は進んでいたが、エリミ人はフェニキア人およびカル
タゴ人と交易を続けており、ギリシア人都市である島の西のセリヌス人とは、特に密接
な関係にあった。しかし、セリヌスの方が交易量が多かったのか、勢力が拡大すると、
エリミ人の最大の都市のセゲスタとの間に、境界紛争をかかえることとなる。セゲスタ
はまずアテナイと同盟を結び、紀元前415年から紀元前413年にかけて、アテナイはシケ
リア遠征を行った。が敗北する。セゲスタは、続いてカルタゴの属領となることを条件
に救援を求め、これに応えて カルタゴは、紀元前409年に 大規模な遠征軍を派遣して
セリヌスの都市を破壊したのである。これが、ポエニ紛争に結びつく。しかし、第一次
ポエニ戦争では、エリミ人は、今度は共和政ローマに味方して、カルタゴと対峙し戦っ
たのである。その後、シケリアはローマのシキリア属州となるが、エリミ人は、無税と
いう特権を獲得している。これは、エリミ人が トロイアの子孫であるという主張が、
同じく トロイアの子孫であるとするローマ人から、認められた為と観られ思われてい
る。ローマの治世下で、エリミ人は他の民族と交じり合い、民族としての存在は消えて
いった。しかし、ここでシチリアはヒメラ戦争が起こった時、テロンはヒメラを占領し
た。カルタゴからの遠征軍に包囲されてしまい 紀元前480年、テロンは、ゲロンの支援
を受けてヒメラの城外でカルタゴとその同盟軍に決定的勝利を収めた(ヒメラの戦い)。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:44:22.51 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・54

 カルタゴの、紀元前 409年に 大規模な遠征軍を派遣した時此の時は後に リパラ島の
(リーパリ)を建設することになって、ロドスとクニドスが支援した為、セゲスタが、
勝利している。つまり先住民が防衛したのだ。ロドス島は、エーゲ海南部のアナトリア
半島沿岸部に位置するギリシャ領の島で、ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4
番目に大きな面積を持つ。現在ロードス島との表記もある。島で中心都市であるロドス
の街は、古代以来港湾都市として栄えていた。世界の七不思議の一つである「ロドス島
の巨像」や灯台が、かつて存在したことでも知られている。また、その中世期の街並み
は「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録される。アトス半島(アクティ半島)が
すぐそばにあり、マケドニア地方からエーゲ海に突き出したハルキディキ半島からの、
交易ルートがあった様だ。ギリシャ語では「足」と表現する)のうちの、最北東の「足
」にあたる。この半島は、古くは「アクテ」と称された。アトス半島の幅は、8〜12km
、長さは約40kmで、面積は385平方キロメートル程度である。アトス山は アトス半島の
先端に位置し、その標高は2,033mに達する。アトス山から連なる峻険な稜線によって、
形成されるアトス半島の海岸は、ほとんどが崖か岩場から成り立っている。緑も深く、
中世からの自然がほとんど手つかずのまま残っている。つまり住み心地の好くない半島
から移り住んでいたと思われる。もう一つの友好国クニドスもアナトリア半島にあった
古代ギリシアの都市で、ドーリア人のヘクサポリス(6都市連合)の1つで、現在のト
ルコのギョコヴァ湾に面したダッチャ半島にあり、地元ではテキールと呼ばれている。
クニドスのアフロディーテと言うビーナス風の貴婦人の裸体像が有名で、恥じらいの、
ヴィーナス型とも呼ばれ、右手で陰部を隠しているのが特徴の服を脱いだ姿がある。こ
の像は、後年メディチ家のヴィーナスやカピトリーノのヴィーナスが似たポーズで参考
にされて造作され、芸術家に高評価であった。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 19:45:03.70 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・55

 クニドスは太古の都市で、ギリシアの、おそらくスパルタ(ラケダイモーン)人の、
植民都市だった。コス島、ハリカルナッソス(ボドルム)、それにロドス島のリンドス
、カメイロス、イアリソスといった都市とともに、クニドスは、「ドーリア人のヘクサ
ポリス(6都市連合)」を形成し、岬では同盟の会議と、アポローン、ポセイドーン、
ニュンペー(ニンフ)たちを祝う3大競技が催された。オリンピックの先がけである。
クニドスは最初、60人のメンバーから構成されている、1人の行政官が議長を務める、
寡頭制の元老院によって統治されていた。古い一族の名がかなり後の時代まで続いてい
ることが、名簿銘盤によって示されているが、その構成は、一般の人気に左右されてい
たと言う。クニドスの場所は、商業に適していて、クニドス人は相当な富を蓄えていて
、それでリーパリ島を植民地化したり、アドリア海のコルチュラ島に都市を建設したり
した。しかし、最後にはキュロス大帝に屈して、エウリュメドンの戦いから、ペロポネ
ソス戦争後期にかけてはアテナイの支配を受けている。さらに、勢力を拡大したローマ
帝国にも、クニドス人は、あっさり忠誠を誓うのであった。ローマのアンティオコス3
世に対して加勢し、その褒美として、クニドスの自治を許されている。東ローマ帝国の
時代は、まだかなりの住民がいたのだろう。ビザンティン建築に属する、数多くの巨大
な建物が、廃墟の中に含まれるためである。キリスト教の埋葬所も近隣に普通にある。
クニドスの全長は1マイル(1.6km)未満であり、城壁内の全地域は 建造物の遺跡が、
密集している。島・本土両方の城壁は、全体で環状をなしている。多くの場所、とくに
町の北の端にあるアクロポリスの周囲はきわだって完全である。この遺跡が西洋に知ら
れるようになったのは、1857年〜1858年にかけてニュートン会員による発掘によって知
られた。アゴラ、劇場、オデオン(音楽堂)、ディオニューソスの神殿、ムーサの神殿
、アプロディーテーの神殿、それにたくさんの小さな建物がこれまで確認されており、
都市の概要はかなりはっきりとわかっている。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 22:41:18.18 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・56

 こうして、アドリアのペルシャ人達の応援を受けて、何度か先住民達が防衛したもの
の、しかし、その後も、セリヌスとセゲスタは対立関係にあって、ディオドロスは、紀
元前 454年にセゲスタと、リルバイオン(マルサーラ)が戦争になった。と記述してい
る。実際には、セリヌス戦争と思われる。というのも、リルバイオンの建設が、ずっと
遅く、 紀元前 396年であるからだ。セゲスタとの、境界問題とされていた マザルス川
は、セリヌスの西方25キロメートルに過ぎず、やがてセリヌスは川の、対岸にまで領土
を広げている。その河口には砦と交易拠点を建設した。セリヌスの東側の境界は、ハリ
カス川(プラティニ川)まで広がっており、その河口に、セリヌスの植民都市ミノア(
後にはヘラクレアと呼ばれる)都市が建設されていた。このことから、セリヌスが強大
な勢力と富裕を誇っていた侵略民だったことが分かる。が、その歴史に関しては詳しい
ことは分かっていない。他の多くの、シケリアのギリシア植民都市と同じく、政治形態
は、寡頭政治から僭主政治へと移行し 紀元前510年頃には、ペイタゴラスが独裁政治を
行った。としている。つまり、セリヌスとセゲスタと対立は、このクニドスのクレタ島
のような、フェニキア文化の襲来であったのだろう。日本のどこの街もリトル東京に、
しようとしたように、この島にも、ディオニュソスの神殿、ムーサの神殿アゴラ、劇場
、オデオン(音楽堂)、、アプロディーテーの神殿、それにたくさんの小さな建物が、
この地に建てようとしたのだろう。となると宗教上の施設も不足すれば、インフラとし
ての劇場や競技場の施設も大きく場所をとる。元々が人口増加で色んな摩擦が在る処に
こうした箱物や遊戯場が3行政で行うとなれば、例えフェニキアからの援助を受けたと
しても、不足の土地は他所にしかない上に これまでの野菜などの食糧自給地も壊滅し
農地が無くなった筈であった。国家にとってこの忌まわしい風習を民衆は熱望したので
ある。

69 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/20(土) 22:41:55.15 ID:Fk63xv/zn
 太古の空・・・・57

 シケリアではシュラクサイの僭主ゲロンの力が強大となっていた。が 紀元前480年に
、カルタゴのハミルカルが、シケリアに大軍を率いて遠征すると、セリヌスはこれを、
支援したのだった。さらにはカルタゴ軍に、援軍を派遣することを約束。しかしながら
、セリヌスからの援軍が到着する前に、カルタゴ軍はゲロンに敗北した(第一次ヒメラ
の戦い)であった。セリヌスが、次に歴史に登場するのは紀元前466年である。僭主トラ
シュブロスを、シュラクサイから追放するため、セリヌスは他のギリシア都市と協力し
ている。紀元前416年のアテナイによる シケリア遠征直前のセリヌスに関して、トゥキ
ディデスは富裕で、陸海双方の戦力を保有していた。ここの神殿には莫大な財宝が蓄え
られて、傭兵が雇えると記載している。また、ディオドロスはカルタゴのシケリア遠征
の記述の中で、セリヌスが、長い間に繁栄を謳歌し、多くの人口を有していたと述べて
いる。城壁で囲まれた セリヌスの面積はおよぼ100haしかなく、紀元前5世紀の人口
は14,000から19,000と推定されている。紀元前 416年に、セリヌスとセゲスタの紛争が
再発した。これがアテナイによる大規模な「シケリア遠征」を、引き起こしたのである
。セリヌスは、シュラクサイに支援を求め、また自身で セゲスタを封鎖することも、
可能であった。しかしながら、セゲスタは、アテナイに救援を求めている。アテナイは
セゲスタ救援のための、早急な行動は行わなかった。つまり、この辺の所に駆け引きが
見える。が、その後のセゲスタとの紛争に関する記録はない。一方、アテナイの遠征軍
は、紀元前415年に シケリア島に到着した。トゥキディデスによれば、遠征将軍の一人
であったニキアスは、アテナイ軍をセリヌスに向かわせ寛大な条件で降伏させるべきと
提案したが、この提案は採用されず、アテナイ軍はシュラクサイに向かった。結果その
後においてセリヌスの演じた役割は小さかったと書く。

70 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:13:59.23 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・58

 しかし、セリヌス軍が、シュラクサイに援軍を送った為、紀元前 413年春には、ペロ
ポネソス同盟もシュラクサイに、対抗のスパルタ軍を、ギュリッポス支援にセリヌスに
送って行くのであった。ここで暴風雨で アフリカに吹き流されて行く 船もあった。
と記述されている。ペロポネソス同盟は、紀元前6世紀末に、スパルタ王のクレオメネ
ス1世によって結成された同盟軍で、スパルタを盟主とするペロポネソス半島の、海洋
諸国家(ポリス)からなる同盟である。アギス朝のスパルタ王アナクサンドリデスは、
先代の王レオンの子であった。彼には一人目の妻(彼の姉妹の娘)との間にドリエウス
、レオニダス、クレオンブロトス、そして二人目の妻との間にクレオメネス1世がいた
。アナクサンドリデスには、一人目の妻との間に、長い間子宝に恵まれず、監督官に妻
を離別し再婚するように。と提案された。しかし、愛妻家の彼が妻との離婚を拒絶した
。このため、監督官は長老会と相談し、離婚せずに二人目の妻を娶ることを提案する。
アナクサンドリデスは、仕方なくそれを受け入れ。その後に、彼は二人目の妻との間に
クレオメネスを得た。が、それと時を同じくして最初の妻は妊娠し、前述の三人の息子
を授かったのである。この息子たちのうち、クレオメネスが長男であったことから、王
位を継ぐのである。クレオメネスは王位を継いても、ドリエウスは、当然自身のほうが
より有能で適任であると考えていた。従って彼の下でスパルタに留まることには、耐え
られなかった。このため、北アフリカにスパルタの植民都市を建設することを求めた。
紀元前 515年、ドリエウスと、その同調一軍は、リビュアのトリポリタニアのキニプス
川付近に上陸し、彼らは植民都市を建設した。が、その地は北アフリカのギリシア植民
都市の中で、最も西に位置したものの、西地中海に巨大な海洋権益を持つカルタゴは、
自身の影響力がある地域に、ギリシア人の植民都市が建設されることを好まなかった。
当然3年後に、カルタゴは、現地のリビュア人と連合して、スパルタ人をアフリカから
追い出した。

71 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:16:47.40 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・59

 追い出されスパルタに戻ったドリエウスは、シケリア(シチリア)に植民都市を建設
するという新しい計画を考え実行する。ヘロドトスによると、ドリエウスは、シケリア
に向かう途中、南イタリアの、ギリシア植民都市であるシバリスのクロトーン(現在の
クロトーネ)占領(紀元前510年)に 加わっていたようである。スパルタ人は、シケリ
アに上陸すると、シケリア西部のエリュクスの近くに、ヘラクレアと呼ばれる植民都市
を建設しようとした(南岸のミノア近く)しかしながら、シケリア西部に居住していた
カルタゴ人とセゲスタ(現在のセジェスタ)は連合し、ドリエウスとその軍を打ち破っ
たのだった。ドリエウスと指揮官クラスのスパルタ人はほとんどが戦死した。ヘロドト
スは語る。クレオメネスは子も 儲けずに早死にしたため、もしドリエウスがスパルタ
を離れずにいたら、やがてはスパルタ王になれたであろう。と、述べている。ドリエウ
スが戦死していたために、弟のレオニダスが王位を継ぎ、ペルシア戦争の英雄となった
。続いて弟であるレオニダスが生まれているが、レオニダスはテルモピュライの戦いの
英雄となって死亡した。もう一人の弟クレオンブロトスは後にスパルタの摂政となって
いる。アナクサンドリデスが没すると、ドリエウスは王座を求めたものの失敗し、長兄
であるクレオメネスが王位についたのであった。テルモピュライの戦いは、兵力差のあ
った戦いの歴史で、7つの逆転勝利の一つとされる。アケメネス朝ペルシアの王であっ
たダレイオス1世を、きっかけにこの戦争は起こった。ペルシア戦争である。ペルシア
戦争の直接の原因は、アケメネス朝の影響力拡大に対するイオニア地方の都市国家群の
反発から起こったイオニアの反乱への、アテナイの介入であった。とされる。当時に、
ペルシアは絶頂期にあった。キュロス2世が、紀元前 547年に、小アジア随一の強国で
あったリディア王国を併合、ダレイオス1世はトラキア、マケドニア王国を勢力下に置
く事に成功した。

72 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 06:18:17.66 ID:Dy4tubLD8
 太古の空・・・・60

 その後 紀元前518年、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼
ばれる総督府を置いて、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などの
エーゲ海東部の、島嶼国を、その支配下に次々に置いた。ダレイオス1世は、政治の力
点を、経済活動に置いての「王の道(貿易・航海の道)」を整備すると共に金貨を鋳造
して、交易を積極的に推進したのである。彼の治世において ペルシアは最盛期を迎え
、ここで帝国の領土的野心も膨らんだのだった。こうした勢力下でギリシア本土の、諸
都市にまでペルシアの影響が及ぶのは、もはや時間の問題だったのである。ギリシア側
で、主導的役割を果たすアテナイでは、紀元前6世紀末から紀元前5世紀中期までの、
資料が少ないため判然としない。ようやく有力なポリスになり始めた頃に。小アジアに
陶器とオリーブ油を輸出する一方で、人口の増加にともなった、黒海沿岸からの多量の
穀物を輸入するようになった。と考えられている。穀物輸入を容易にするため、アテナ
イ近傍のファレロン湾の安全が急務であった。この海域ではアイギナによる海賊行為が
横行し、アテナイとアイギナ、アイギナを保護するアルゴスとの関係は険悪であった。
また、政治体制を、貴族政治から民主制議会政治に移行させたことによって、アテナイ
はスパルタに対抗しうる強力な国家へ成長することに成功した。が同時に、スパルタは
同盟諸都市と共に警戒心を抱かせることにもなる。北方のボイオティアとも戦争状態に
あり、アテナイは文字通り四面楚歌の状況に陥った。この孤立状態を打開するために、
アテナイから、クレイステネスによる使者が、ペルシアのサルディス総督アリスタゴラ
スのもとに送られ、恐らくは話し合いの場の提案がなされた。このアテナイの使者は、
ペルシアとの同盟を求めたものの、ペルシアが完全な服従を求めた為、アテナイ民会は
これに反発した。当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に、傀儡の僭主を
擁立し、彼らを介して内政に干渉する。という体制であったが、民主制をとるアテナイ
に受け入れられるものではなかったのである。

73 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:39:34.80 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・061

 ペルシア帝国は、イオニアの反乱を鎮圧した 翌年の紀元前 493年,ヘレスポントス
海峡から黒海に至る地域の征服に乗り出した理由は、実は功臣ゴブリュアスの提言であ
る。小アジアの沿岸部は、内陸部からの攻撃ですでにペルシアの支配下にあった中で。
ヘレスポントスは、現在のダーダネルス海峡のことである。つまり エーゲ海から黒海
に至る入り口の海峡である。ここでペルシア軍は、課税を処していたのだ。アケメネス
朝は、キュロス2世により繁栄しし、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国
を滅ぼして、新バビロニア王国により 移住させられたユダヤ人奴隷に、バビロン捕囚
を終焉させた。とされる。此の時の要因は、基本はメディアやリディアが隣国であった
為の領界領地の諍いであったが、と同時に多民族国家の成立の中での、文化統一に苦慮
していたからである。先に述べた様に、キュロス王は、世界で初めてでは無いにしろ、
金貨発行と通貨と言う物を考えた最初の王とされている。言語や楔型文字、羊皮紙の書
、音楽や式典様式や宗教など、貪欲に彼は吸収し、学習し、決して強制することなく、
国家統一と拡大を目指した。キュロス2世の息子カンビュセス2世(カンブジャ)によ
って、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一し、ここでエジプト式の税金の
貢物、特に交易の代償に、朝貢貿易のやり方に着目した。既にエジプトのナイル川交易
には、スーダンやその奥の村民でも、貢ぎ物の上納によって、交易が認められる。とい
うシステムが開始され、時にはそれが女性であったり、金貨であったり、小麦粉であっ
たり、色々な産品であった。そしてその産品の価値、つまり代価を決めるのはファラオ
率いる官僚、即ち王の役人だった。ここに宗教家つまり村の長老や奉納で生活する祭祀
者との対立があった。そこで神の序列として、一切の風土神を除いた太陽神アテンラー
を最高位とし、絶対神としたのである。

74 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:04.80 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・062

 ダレイオス1世の時代になって、エーゲ海進出を目指した時、ペルシア戦争を起こし
たが、ここで戦争では敗北した。その後ダレイオス3世の時マケドニアの、アレクサン
ドロスにより征服され滅亡させれらた。この間に凄い速さで、このキュロス体制文化が
人口増加と共に伝わり、騎馬による戦車戦も、鉄器による剣の優位さも、税収とインフ
ラ整備による国民統一も、みんな真似されて、世界の広がりにユダヤ的商法がオントレ
ード、ワンワールドの意識が浸透し蔓延し、国力が拮抗して戦争が頻繁に起こって行く
。フェニキア軍を中心とするペルシア海軍は、イオニアを離れて、こんどはヘレスポン
トスの向かって、左側に当たる(西海岸)地域をことごとく占領したのであった。この
ケルソネソスのギリシア人の植民都市をことごとく、ペルシアの支配下に置いたので、
逆に、ペルシアの力は、本国より、この海運や航海の安全に力を入れざるを得ず、軍隊
は急速に、草原の騎馬兵の活躍時代から、海上の海賊退治の時代になり、力を削がれた
のであった。前 492年に入ると、ペルシアはギリシアへの侵攻を本格化した。「春にな
って、他の諸将は、大王によって司令官の職を解かれたが、「一人ゴブリュアスの子の
マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下る。」と言う判断をしたのであった。
彼は、まだ年も若く、ダレイオスの娘アルトゾストラを妻に娶ったばかりであって、国
内での次の勇者たる名声は、実の処は何もなかったのであった。マルドニオスはこれら
の軍勢を率いて、キリキアに着くと、自身も乗船して艦隊とともに出発し、陸上部隊は
他の指揮官がこれを率いてヘレスポントスに向かったのであった。( ヘロドトス『歴史
』巻6の43 )マルドニオスは,ダレイオス大王の娘婿であり結婚したばかりであった。

75 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:27.68 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・063

 ここに、ダレイオス大王からも、大きく期待されていたのであろう事が、彼に、この
判断をさせたのであろう。つまり、単なる反乱の鎮圧としてではなく、ギリシア本土へ
の侵攻以上に、国内への名声を期待されての遠征であったという事になる。それは、自
ら、このイオニアの反乱を踏まえて、自身の遠征の要請を名乗り出た為の、出撃でもあ
ったことが、そこにある。これを象徴するのが、ヘロドトスが「世にも不思議な事。と
しか思えぬようなことが起こった。」と記述している。「マルドニオスは、イオニアの
独裁者を、ことごとく排除して 各都市に民主制を敷かせた。」ことである。ペルシア
帝国は、イオニアのギリシア人都市に、自己の支配下において以来、自分たちの代理と
しての僭主を据えることで 間接統治していた筈だった。イオニアの反乱ではその僭主
の追放から始まっているのだ。ここで、国内と同じに、国外に僭主政に代わる民主政治
の樹立を望んだのであり、ここで大衆たる民衆のエネルギーが燎原の火のように広まり
、イオニアから遠く離れた キプロスのような所まにまでも反乱が拡大したのである。
このような事情を受けて、ペルシア本国の判断であろう。イオニアの反乱の鎮圧で一旦
は復帰した僭主を追放し、ここに強制的に民主政の体制を、何故か樹立させたのである
。ここでマルドニオスは、「海陸の大軍の終結を終えペルシア軍は海路ヘレスポントス
を渡り、ヨーロッパに入って進撃した。」が、目指すところはエレトリアとアテナイで
あった。」とヘロドトスは書く、そして、続けて次のように述べている。「もっとも、
この二都市は、ペルシア側にとっては単にギリシア遠征の口実に過ぎず、彼らはできる
限り多くのギリシア都市を征服する魂胆が含まれていた」ので、陸上部隊によっての、
マケドニアを攻略した時点で、マケドニアより手前のペルシア寄りの民族は、既に「こ
とごとく隷従していた。」と書いている。

76 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:40:58.84 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・064

 しかし、当然ながら、マルドニオスのギリシア遠征は不調に終わる。そもそも軍隊に
民主制は似合わない。自由と個人の尊厳と権利を言うなら、軍隊は造れない。各々の僭
主達や領主の独裁によって、現地招集の兵や、現地調達の食糧があるので、民主主義の
為の闘いと言うのは、矛盾であり、外交交渉とその威嚇の為軍隊でしか達成できない。
そこに、実力行使や内政干渉が起こって僭主の追放など起これば、収拾などつく訳がな
く、挙句に人気と要望の声に、自身の地位を無くすのは必定で、典型的独裁政治の国の
苦悩がある。マケドニアに陣を張っていた時に、「トラキアの部族であるブリュゴイ人
の夜襲」を受けて、大打撃を受ける。ペルシア兵の多数が殺戮されたのである。当然の
住民の反発であり、そこの征服される民衆の民意が一様にある。と勘違いするペルシャ
軍の、言わば平和大国の和平ボケの大国病の感覚であったのだ。アトス沖でも、海軍が
大きな被害を受けた。ここで「この遠征軍は、悪戦苦闘の末にアジアに撤収した」ので
あった。つまり、ペルシア本土に、一旦は撤退したのであったのだ。これが、マラトン
の戦いの前の、ペルシア帝国側の様相で、初のギリシア遠征を遂げたマルドニオスの姿
であった。凱旋どころか、不評に苛まされる未来予想に、打ちのめされた事であろう。
このマルドニオスのギリシア遠征は、ヘレスポントス海峡から ヨーロッパ側に入り、
隷属しない都市を、順々に攻略していき、エレトリアとアテナイを陥落させ、そして、
最後にギリシア全体をペルシアの支配下に置く。と言う壮大な、大きな意志であった。
それは、イオニア反乱の鎮圧の余勢を駆ったような、ある意味お手軽な感じのギリシア
遠征では済まないものであった筈だ。この遠征の失敗を受けて、ダレイオスは、方針を
転換した。攻め落とすのは、エレトリアとアテナイと、目標を絞って決めると同時に、
本格的な遠征に切り替えたのである。これが、マラトンの戦いに象徴される 第一次の
ペルシア戦争である。

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/21(日) 17:41:43.69 ID:Dy4tubLD8
 海上の金貨 ・・・・065

 前述の様に、元々ペルシアは、傀儡の僭主をして、神に奉納してるものを、税収とし
て、母国に献金し、朝貢貿易で更に商人からの流通を押さえて、国が栄えれ拡大すれば
それで良かったのである。ところがマルドニオスはこの父親の作った仕組みに、バイト
テロ如くに、奉納の僭主たちを逆心・反心あり、として謀反の恐れから次々に 切って
殺したり、通報したりして行ったのだ。当然これまで贈り物を持ってきて 納税してい
た国はやってこない。国の独裁者には陰りが起こり、そうした地方を反逆者とも見て行
くのである。出撃の1年前の、紀元前 491年、ダレイオス大王は、「ペルシア王に『土
と水を献ぜよと要求』する使者を、ギリシア各地に派遣した。」「ダレイオスとしては
、これを良い口実にして 彼に土と水を献じようとせぬ ギリシアの町々を平定しよう
という腹」であった。ギリシア本土においては、ペルシア王の要求に応えるポリス(都
市国家)がすくなくなかったが、エーゲ海の島嶼部では、「使者の訪れたことごとくの
島は、その要求を受けいれていた。」のである。それだけでなく,「すでに王に朝貢し
ている沿岸の町々へも、使者を送って軍船と馬匹輸送船(うまひきゆそうせん)の建造
の、追加要求を命じた。」つまり、小アジアのギリシアの植民都市に対して、軍事力で
はなく、軍船と輸送船の建造を命じたのである。このマルドニオス遠征の失敗は、国内
に微妙な政治バランスを壊した。翌年の紀元前 490年、ダレイオス大王は民主的にも、
独裁的にも、ギリシア遠征に失敗した娘婿のマルドニオスを、当然乍ら司令官職からの
解任し、別の司令官2人を任命し、アテナイとエレトリアを討伐することを命じたので
あった。これは痛し痒しであった。解任は当然として、もし、この代替えの司令官が、
華々しく成果を遂げ凱旋しても、又逆に、アテナイ討伐に失敗しても、このダレイオス
政権の、一家の政治的力は、著しく下がるだろう。と予想されるのである。

78 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:27:55.99 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・066

 新たに任命されたのは、メディア出身のダティスと自分の従兄弟に当たるアルタブレ
ネスの両名であった、ダレイオスはこの二人に,アテナイとエレトリアを隷属せしめ、
奴隷とした者たちを 自分の面前に曳き立ててくるように。との命令を下し出発させた
のであった。(ヘロドトス『歴史』巻6の94)当然遠征軍は、次期有力の息子と、政敵の
将軍であった。「十分に装備を整えた陸上部隊の大軍を率いて進発」した。キリキア(
キプロスの対岸部)のアレイオン平野に到着して陣を張る。そこに、「かねて諸民族に
供出を命じてあった海上部隊」が合流して、前年ダレイオスが自国の朝貢国に調達方を
手配しておいた馬匹輸送船も到着。」陸上部隊も艦船に乗せて,600隻の 三段櫂船で、
ギリシアに向けて出発した。途中、エーゲ海のギリシア本土と 小アジアの間に浮かぶ
ナクソスを攻め「捕らえただけのナクソス人を奴隷にし,聖域と市街に火を放って焼き
払った。」そこからエーゲ海を越えて最初の攻撃目標であるエレトリアに渡る途中で「
次々に島に接岸して、そこから軍兵を徴用し、住民の子どもを人質にとった」のである
。「その後 ペルシア軍はエウボイア島の南端の町カリュストスに到達した。ペルシア
軍はカリュストスに、エレトリアとアテーナイを 攻略するための兵を提供することを
求めた。カリュストスは、これを拒否した。するとペルシア軍は、カリュストスを攻撃
して無理やり服属させた。」エレトリア人はペルシア軍が自国に向かって大軍で押し寄
せて来ているのを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは、直接の支援は拒んだ
が、カルキスのヒッポポタイに入植している4000人を援軍として送ることを了承した。
ところが、エレトリアの国論は、街を見捨ててエウボイアの山地に籠ろうとする一派と
ペルシア方に擦り寄る一派と、二分されて激論に至る。「エレトリアを牛耳っていた、
ノトンの子アイスキネス」は、このような現状をアテナイに率直に告げ「エレトリアと
破滅の運命を共にせぬために、母国に引き上げるように要請した。」その為アテナイ人
はその忠告に従ったのである。

79 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:28:22.70 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・067

  ここで、ペルシア軍の攻撃を受けたエレトリア人達は、「出撃はもとより迎撃する
意図もなく、町を放棄せぬ説が 大勢を制するのである。何とかして城壁を守ることの
みに専念した。」、ここで激しい攻撃を6日間は耐えて、双方に多数の死者が出る。7
日目になって「町の有力者であったアルキマコスの子エウボルボスとキュネアスの子、
ピラグロスの二人がペルシア方に寝返り」ここで開城した。「ペルシア軍は町に侵入し
て」、「聖所を掠奪した上で火を放ち」「ダレイオスの命じたとおり市民達を、全員を
奴隷にした。」のであった。ペルシア軍は、エレトリアを陥した後 数日の間を置いた
だけで、アッティカ領を目指して艦隊を進めた。「大いに気負ってアテナイ人にも、エ
レトリア人同様の憂き目に遭わせんもの。と、意気込んでいた。」が 上陸したのは、
アッティカ地方の北部のマラトンであった。そして、そこに誘導したのは 20年前に、
アテナイを追放された前僭主のヒッピアスであったのだ。「マラトンが騎兵の行動に最
も好都合であり、かつエレトリアにも至近の位置にある」というのが、その理由であっ
た。しかし、普通に考えれば,アテナイの中心部から30数キロも離れているマラトンの
地ではなく、市部から数キロのピレウスに上陸するのが妥当である。にもかかわらず、
ヒッピアスはペルシア軍をマラトンに誘導したのだ。なぜか。実はアテナイの僭主の座
を追放された父とともに、亡命生活11年目に、亡命先のエレトリアから帰国し上陸した
ところで、ペイシストラトスは、56年前の前 546年マラトン僭主の座から追放され、2
度目の追放にあっていたのだ。亡命地のエレトリアで息子たちと、今後どうするかを、
相談しその時に、アテナイへの帰国と、再び僭主になることを提案したのが、この案内
役のヒッピアスなのである。つまり、この案内役と言う接触は、言語問題もありながら
、何かのつてでヒッピアスの方から寄り付いて、マラトンの地に連れて行ったのだ。

80 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:28:46.06 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・068

 「独裁権を奪回せよ。」というヒッピアスは意見をいい、それが通ったので、彼らに
何らかの恩義を感じている町民から、義捐金が募りはじめた。」その金額は莫大なもの
になり、その資金で、亡命から11年目に帰国の途についた。ペイシストラトスは54歳,
息子のヒッピアスは 前560年生まれということだから14歳であった。実は、マラトンと
その周辺は、もともとペイシストラトス一門の地盤の一つであったし、ダティスやアル
タブレネスは、前任者マルドニオス遠征の失敗を、充分知っていたのであって、戦闘の
みがこの遠征の目的ではない。と思っていたのだ。彼らがここに陣営を張っていると、
アテナイの町から一味の者たちが馳せ参じてくるし、また地方の各区(デーモス)から
も、自由よりも独裁政治を歓迎する連中が合流してきたのだった。ここで語弊なく言え
ば、自由社会よりも独裁政治と言うのは、野蛮な暴力が跋扈する民衆政治よりは、昔の
秩序ある王の法制の中の暮らしを求めたのである。ここで一同勢揃いをした。(ヘロド
トス『歴史』巻1の60)ここマラトンの地で、体勢を整え アテナイ軍を破ってペイシス
トラトスは僭主の座に返り咲く。そういう意味ではマラトンの地は、縁起の良い場所な
のであった。ヒッピアス自身も、前 510年に僭主の座から追放されて、20年ぶりの帰国
を果たした。この時ヒッピアスは、すでに70歳である。ペルシアのダレイオス大王と、
アテナイを下した後に、僭主の座に返り咲くことを約束されていた。アテナイ内部には
、依然として前僭主に好意的な勢力や、ペルシアに好意的な勢力が、数多くいたので、
マラトンに上陸すると内応者が出現するだろうと期待していた。のである。ペルシア軍
の上陸地点のマラトンは、ヒッピアスにとって「夢よもう一度」という期待の地であっ
たのだ。更にペルシア軍にとっても、戦果の前線を離れた、比較的安心して徴集徴兵の
出来る好意的な、前線基地であった。

81 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:29:09.37 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・069

 前節で,ペルシア帝国は,イオニア海の島嶼国の反乱を鎮圧した後で、黒海周辺の、
ヨーロッパ側を攻めて征服したことを紹介した。その時に、黒海からエーゲ海に出る時
の狭い海峡、ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)のヨーロッパ側の、ギリシアの
植民都市ケルソネソス僭主だったキモンの子、ミルティアデスが「ある限りの資産を、
5隻の三段櫂船に満載して、アテナイ目指して出帆」し、命辛々 何とか生き延びて、
アテナイに30数年ぶりに逃げ帰ってきていた。紀元前 493年のことである。ケルソナス
の植民都市に、キュプセロスの子ミルティアデスの叔父貴が、前 550年代頃から僭主と
して君臨していた。よって、その地は半世紀以上も、アテナイの植民都市であったのだ
。もともと ケルソネソスには、トラキア部族のドロンコイ人が住んでいた。そのケル
ソネソスの僭主にミルティアデスがなった経緯を、ヘロドトスは,次のように紹介して
いる。ケルソネソスのドロンコイ人はアプシントス人との戦いで劣勢に立っていた。そ
こで神託を受けるために,デルフォイまで出かけた。巫女の言葉は,デルフォイの聖域
からの帰国の途中で、ドロンコイ人を客人として遇してくれる人を「国家再建の指導者
にすべし」と、いうものであった。ドロンコイ人がアテナイに立ち寄った時に、客人と
して遇してくれたのが、キュプセロスの子ミルティアデスだったのである。そこで彼に
、ケルソネソスに来て国家指導者になってくれるように頼んだ。という次第であるのだ
。このキュプセロスの子ミルティアデスは,「大いに勢力をふるっていた」有力貴族の
フィライオス家の出身であった。「4頭立ての戦車を仕立てる財力のある資産家。」の
家柄に属するだけでなく、彼自身が「オリンピックの4頭立て戦車競技で 優勝した、
輝かしい経歴」があったのである。しかしして、アテナイではすでにペイシストラトス
がクーデタを起こして、僭主となっていた。ミルティアデスも、有力な家系であるだけ
でなく、彼自身がオリンピックでの英雄だったこともあって、ペイシストラトスから疎
まれていた。

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:29:40.86 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・070

 そうしたようなこともあり、ミルティアデスは、「もともとペイシストラトスの支配
にあきたらず、国を離れたい希望があった。」ので ドロンコイ人の申し出を快く承諾
したのである。ミルティアデスの家系は、生粋のアテナイ人ではなくて祖先には、ヘロ
ドトスによれば アイアコスとアイギナに遡り、「アテナイの国籍に入ったのは比較的
に新しい家柄」であったようだ。「女系を通じて当時有力なポリスのひとつであった
コリントスの僭主を曽祖父にもつ血筋」の有力貴族でもあったので,ケルソネソスの地
に赴き、そこの僭主になることにそれほどの抵抗はなかったのであろう。ミルティアデ
スは、移住を希望するアテナイ市民すべてを引き連れて,ドロンコイ人たちと一緒に、
ケルソネソスの地に赴いて行った。同行したアテナイ人は,武装自弁の市民戦士である
から、ミルティアデスにとっての暴力装置となっている。それゆえ、キュプセロスの子
ミルティアデスを「招致した、かのドロンコイの首領たちは、彼を独裁者に樹てた。」
と称した。つまり、ミルティアデスを ケルソネソスの僭主にした理由なのである。彼
が最初に手掛けたのは、ドロンコイ人がアプシントス人の侵略に悩まされていたので
それを防ぐために「ケルソネソスの地峡に、カルディアの町からバクテュエにかけての
 城壁を築く」ことであった。「ケルソネソスの頸部に城壁を築き」,「アプシントス
人の侵入を阻んだ」後で、ランプサコス人と最初に戦いを交えたが,ランプサコス軍の
待ち伏せに遭って、ミルティアデスは生け捕りにされてしまったのだ。ミルティアデス
は,「リュディア王クロイソスと懇意であったので」クロイソスはランプサコスへ使者
をやって、ミルティアデスを赦免するように脅迫し 釈放させた。というエピソードが
残る。

83 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:47:16.19 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・070

 「独裁権力獲得とソロンの抵抗」での、アリストテレスの『アテナイ人の国制』に、
この時のペイシストラトスの権力掌握と、それに対するソロンの抵抗について簡潔にだ
が、記載されている。引用すれば、「最も民主的との聞こえがあり、メガラ人との戦い
に多いに名声を挙げたペイシストラトスは自ら身体を傷つけ、反対派によりこんな目に
あった。と称して民衆を説き伏せ騙して、アリスティオンの動議によって、自分の回り
に護衛を与えさせた。そこで「棍棒持ち」と呼ばれた輩を得て、これをもって、民衆に
抗して立ち、(ソロンの)法律制定の後、32年目コメアスのアルコンの年(前561
年)に、アクロポリスを占領したのである。ソロンはペイシストラトスが護衛を求めた
時、これに大いに反対し、自分は或る者より賢明であり、或る者よりは勇敢である。と
言った。と伝えられる。すなわち、ペイシストラトスが僭主政を企てていることに気づ
かぬ者よりは、賢明で、これに気づきながら黙っている者より、勇敢である。との意味
であった。しかしこう言っても、人々を説き伏せ得なかった。このとき、武具を戸口の
前に取り出して、自分は、できる限り祖国のために働いてきた。との意志を見せた。当
時、既に彼は、大した高齢であった。しかし他の人々も、自分と同じように行うことを
望む。と述べた。さてソロンは、かくの如く当時に、精一杯の勧説したが無駄であった
。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.33-34>
 ペイシストラトスは、僭主となるとむしろ合法的に国事を司った。しかし、その支配
がしっかり根を下ろす前に、政敵によって、一時的にアテネを追われた。その後、謀略
をもって復帰した。が、再び党派間の争いから亡命に追いやられた。だが、亡命先で、
資金を蓄え兵士を雇い、パルレニス付近の戦いに勝ってアテナイ市を占領したペイシス
トラトスは、民衆の武器を取り上げてついに僭主政を実現した。とされた。

84 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:47:37.53 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・071

 そうしたようなこともあり、ミルティアデスは、「もともとペイシストラトスの支配
にあきたらず、国を離れたい希望があった。」ので ドロンコイ人の申し出を快く承諾
したのである。ミルティアデスの家系は、生粋のアテナイ人ではなくて祖先には、ヘロ
ドトスによれば アイアコスとアイギナに遡り、「アテナイの国籍に入ったのは比較的
に新しい家柄」であったようだ。「女系を通じて当時有力なポリスのひとつであった。
コリントスの僭主を曽祖父にもつ血筋」の有力貴族でもあったので、ケルソネソスの地
に赴き、そこの僭主になることにそれほどの抵抗はなかったのであろう。ミルティアデ
スは、移住を希望するアテナイ市民すべてを引き連れて、ドロンコイ人たちと一緒に、
ケルソネソスの地に赴いて行った。同行したアテナイ人は,武装自弁の市民戦士である
から、ミルティアデスにとっての暴力装置となっている。それゆえ、キュプセロスの子
ミルティアデスを「招致した、かのドロンコイの首領たちは、彼を独裁者に樹てた。」
と称した。つまり、ミルティアデスを ケルソネソスの僭主にした理由なのである。彼
が最初に手掛けたのは、ドロンコイ人がアプシントス人の侵略に悩まされていたので
それを防ぐために「ケルソネソスの地峡に、カルディアの町からバクテュエにかけての
 城壁を築く」ことであった。「ケルソネソスの頸部に城壁を築き」,「アプシントス
人の侵入を阻んだ」後で、ランプサコス人と最初に戦いを交えたが,ランプサコス軍の
待ち伏せに遭って、ミルティアデスは生け捕りにされてしまったのだ。ミルティアデス
は,「リュディア王クロイソスと懇意であったので」クロイソスはランプサコスへ使者
をやって、ミルティアデスを赦免するように脅迫し 釈放させた。というエピソードが
残る。

85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 16:50:47.85 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・072

 なぜミルティアデスが、ランプサコス人に捕縛されたエピソードを紹介したのか。と
言えば、そもそも、キュプセロスの子ミルティアデスがいつ頃,ケルソネソスに赴いた
のかは、実ははっきりしないからである。ペイシストラトスの僭主制に心楽しまずにい
て、それでドロンコイ人の依頼を快諾したということから ペイシストラトスが政権を
握った 前 561年以降であるだろうということは推測できるのだが。リュディア王のク
ロイソスによって、その命を救われているので、クロイソス王の統治期間で、その期間
は短く、前560年から前546年までの、14年間の間である。当然のことながら前 546年の
以降ではない。更に、マラトンの戦いの英雄のキモンの子ミルティアデスが、生まれた
のが、前 550年であると言われている。その名は「ケルソネソスの開拓者 ミルティア
デスの名をとって、『ミルティアデス』と命名した。」とヘロドトスは書いているので
。とすると、キュプセロスの子の ミルティアデスがケルソネソスに 赴いたのは、前
560年〜前550年の間ではないか。ということなる。ケルソネソスの僭主の、キュプセロ
スの子 ミルティアデスには「後継ぎの実子がなかった。」ので異父兄弟キモンの長子
ステサゴラスを養子として迎えている。キモンの長子は、キモンの祖父の名をとって、
ステサゴラスといい、「ケルソネソスに在った母方の叔父ミルティアデスの許で、養育
されていた」のであった。ここでキュプセロスの子ミルティアデスが亡くなると「政権
と財産は、異父兄弟のキモンの子ステサゴラスにゆずった」のである。ところが、その
兄が「市会堂にいたとき頭を斧で打たれ」殺された。彼にもまた後継者がいなかった。
ペイシストラトス家と有力貴族のフィライオス家との関係は,微妙なものであった中で
、叔父ミルティアデスがケルソネソスに赴いたのは、ペイシストラトスが僭主になった
ことを心楽しまなかったからである。それは、アテナイに残っていたフィライオス家の
キモンにしてもそうであったようだ。逆に,ペイシストラトス家にとっては、目の上の
タンコブであったのだ。

86 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 17:01:03.93 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・073

 紀元前 427年に僭主のペイシストラトスが亡くなる。この後ペイシストラトスの息子
達は、「暮夜市会堂のあたりに刺客を忍ばせておいて」ミルティアデスの父のキモンを
、「暗殺した」のだった。ここから、少しややこしいのであるが、自分たちが暗殺した
キモンの息子に対しては 非常に親切にしていたのである。「ペイシストラトス家の、
一族は,ミルティアデスの父キモンの横死については、何喰わぬ顔をして行い、ミルテ
ィアデスがアテナイにいる時から、彼を厚遇していた。」のだった。僭主のヒッピアス
は、キモンの息子ミルティアデスを、前 524/523年には、筆頭アルコン(執政官)にま
で 任命しているのである。ケルソネソスの僭主であった兄の、ステサゴラスが 敵方に
よって暗殺されると、僭主ヒッピアスは,ステサゴラスの弟だったミルティアデスに、
「ケルソネソスの事態を収拾させるべく、三段櫂船で、かの地に派遣を命令した。」の
である。アテナイの筆頭アルコンまで務めた キモンの子ミルティアデスを、わざわざ
アテナイから遠く離れたケルソネソスまで派遣し治めさせたのだ。が、そのことを理解
するには、アテナイの食糧輸入事情と その食糧を確保するための航路の戦略的位置と
しての、ケルソネソスについて押さえておく必要がある。トゥキュディデスによれば、
「アッティカの地は、痩せ地であるために最古の時代から内乱がなく、同一の人びとが
住み続けたのである。」と説く。つまり、アテナイに同一民族が、ミケーネ時代以前か
ら、住み続けているのは、そもそもアテナイが不毛の地であり、襲撃するほどの魅力が
なかったのである。というのだ。痩せた乾燥した土壌で、食糧を育てることができたの
は,ウィリアム・バーンスタインの『交易の世界史』によれば、大麦の中のライ麦のみ
である。大麦の生産量だけで、アテナイ人の腹を満たすのには十分だった。のであるが
。ここで、少しづつ美味しい小麦粉のパンが出回り、市民の美食と贅沢が徐々に蔓延し
、食糧事情の変化が起きた。「ギリシア人の舌がだんだん肥えてきた」ことによる要求
が、日増しに高まったのだ。

87 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/22(月) 17:10:14.54 ID:kYt24q+p1
 海上の金貨 ・・・・074

 大麦と小麦の「味の違いが分かるようになると、小麦への需要が高まり始めた。」の
であって、アッティカで、小麦栽培もおこなわれるが、全く育たなかったのである。こ
の地の痩せた土地の 土壌と乾燥した気候は,「発芽させるには水やりのタイミングが
重要な小麦栽培には、全くむいていない気候だった」のだ。当然のことながら、それは
、外国からの輸入に頼るしかない事情を産んだ。では何時頃からアテナイ人は、小麦の
輸入をする様になったのだろうか。それを問う前に、米を主食とする日本人に、現代の
米すら品種を、よく判らず 問わない方も多い中なので、少し説明したい。大麦と小麦
は、名前が似ていることから同じ種類と考えられがちだが、実は、まったく異なる性質
をもつ植物であって、ここに、生育と仕様用途の違いがある。更に大麦と小麦の違い、
大麦、小麦以外のライ麦やエン麦の特徴、ムギからできる健康的な食品など、似ている
ようで違う麦の種類について、詳しく解説したい。本来 米も麦の草目的に同じである
。外見の類似するイネ科穀物やその子実の総称とされるようにイネ科なのだ。麦では、
大麦、小麦、ライ麦、燕麦(エンバク)など、見た目の似たイネ科の穀物でも、「〇〇
ムギ」「〇〇バク」と呼称される様に分類される。日本では大麦も小麦も麦の仲間だが
、英語では、「麦」をあらわす言葉は存在しない。大麦は“Barley”(バーレイ)で、
小麦は“Wheat”(ウィート)と 別の植物として、認識分類されている。これはかなり
古い時代から区別され、用途も違って生活して来た事を意味している。大麦はイネ科に
属し、古くから栽培されてきた穀物で、日本では主に「二条麦」や「六条麦」、「はだ
か麦」「もち麦」などが、栽培されている。二条大麦は、非常に穀の粒の一つ一つが大
きいことが特徴で、大粒大麦とも呼ばれ、生育に2条であっても大粒で収量が増した事
で命名される。主にビールの製造に使われ、ヨーロッパで栽培される大麦の大部分は、
この二条大麦である。落穂ひろいの名画でも、恐らくこの麦だろうと思われる。

88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:35:33.63 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・075

 この「条」というのは、穂が何列(条)あるかということではない。オオムギの穂は
基本的にすべて6列で穂は生育する。二条と六条の差は、実る穂が何列あるかの違いで
、読んで字のごとく結果的に2列が実るのが二条大麦であり、6列すべてが実るのが、
六条大麦である。見た目が実るのが2列だけである分、二条大麦の種子は大きく、大粒
大麦とも呼ばれた。これに対し六条大麦は、全ての列に種子が実るため種子が小さく、
小粒大麦と呼ばれる。ただし、基本全ての列に、種子が実るため、全体の収量としては
六条大麦のほうが多くなるのであるが、皮を剥き精麦すれば、殆ど同量となるようだ。
二条大麦は主にビール生産用に栽培され、ヨーロッパで栽培される大麦の多くは二条種
で造られる。これは、二条種は種子の一粒一粒が大きく、しかも、大きさがよく揃って
いるので、醸造の管理がしやすく、大粒の分空間も広く取れ、微生物の酵母にもいいか
らである。と思われる。それに対し六条大麦は収量が多く見え、オオムギを穀物として
食べる地域においては、六条種を主に栽培している。二条種と六条種の進化については
、議論も又歴史がある。かつては六条種は二条種から分化してできたと考えられてきた
。が、チベット高原において野生の六条種が発見され、一時は二条種と六条種は別々に
栽培化された。との説となった。その後、遺伝子情報の解析で、現在では二条栽培種の
変異によって六条種が成立したとされる。二条種はチベットより東には到達せず、この
ため中国や日本など、東アジアの在来の大麦はほぼ全て六条種である。これら諸国に、
おける二条種の大麦は、近代になってヨーロッパなどから導入されたものであるからだ
。ちなみに コメの場合 稲であり稲穂であるので、実の付き方が違うが枝の先の籾は
よく見れば、まだ実る前は二条麦穂の様になっている。こちらは雲南省周辺からインド
のアッサム州周辺の河の中の 長茎米の水稲からの進化と言われているので水草の種の
発達の様だ。詳しくは知らないが、米の品種もかなり多い。

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:36:00.57 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・076

 大麦を穀物として食べる場合には、六条大麦が使われる。二条麦、六条麦ともに実と
皮に糊状の物質で接着されて居る為に、簡単に皮を剥がせないのが大きな特徴である。
はだか麦は、六条麦の突然変異版とされる。つまり、皮が簡単に剥がせるものが、長年
選別生育され、遺伝的区分け栽培で、はだか麦が出来た。この麦はもむだけで、簡単に
皮がはがれるため、食用として、広く栽培されるようにった。古代の特許品だっただろ
う。二条麦、六条麦、はだか麦はうるち性で、精白した麦を、ローラーで押しつぶせば
「押し麦」になる。「押し麦」は精米後や加温や加湿で、簡単に柔らかくなるので圧力
ローラで押しつぶした半加工品の事を言う。これは「うるち性」と言う粘っこさの性質
と、そのままでは食用に加工しにくく、食べても消化が悪い。と言う要因がある。ここ
に「もち麦」が登場する。二条麦、六条麦、はだか麦と異なり、更に大きな「もち性」
のある、もちもちした食感をもつ、性質の大麦が「もち麦」である。もち米の代用品と
して、使用され、もち麦の粉で団子が作られる。近年では、健康的な雑穀として、この
もち麦入りのご飯も人気である。とされる。大麦は、米と同じように、「うるち性」の
大麦と、「もち性」の大麦があり、そのうち「もち性」の大麦のことを、「もち麦」と
呼んでいます。もち麦は、独特のもっちりした食感と、水溶性食物繊維を摂れることか
ら、メディアで話題になることも多いようです。そもそも大麦には、「うるち性」と「
もち性」の大麦があって、土地の栄養状態で遺伝的に変化した。もっちりした食感と、
水溶性食物繊維の多さから、水に浸かったものでも、もち麦は炊かずにそのまま食べら
れる性質を持つ。成分的に、うるち性の大麦は、でんぷんの成分のうち「アミロース」
の難消化成分を比較的多く含むが、粘り気が少ないのが特徴です。もち性の大麦では、
でんぷんの成分のうち「アミロペクチン」のうま味成分を多く含んで、もっちりした粘
り気があるのが特徴となっている。

90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:36:32.68 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・077

 大麦からできる食品はかなり多く、ビール・ウィスキー・焼酎・麦みそ・はったい粉
・ポン菓子・麦茶・麦芽飲料・青汁(大麦若葉)など多様である。これらはそもそもの
酵母材料として好適で、安い価格であったからだ。対して小麦とは、食糧としてパンの
原料が主用途で、皮の剥きにくさや粒の細かさが扱いにくさを産んでいた。「人類最古
の作物」といわれる小麦だが、小麦はイネ科コムギ属の一年草、世界三大穀物の一つで
、生産量は、「米」以上であった。小麦の種子を収穫し、粉状にして小麦粉として使用
し、主に食用としてパン、ケーキ、麺類などに加工される。小麦からできる食品として
は、うどん類・麩(ふ)・パスタ類・中華麺。グルテンミート・クスクス・小麦胚芽油
 など、色々だが、それに合った、硬質・中間質・軟質小麦の生産が必要になるのであ
る。品種も多く、大まかに小麦の種類は、硬質・中間質・軟質小麦にわかれる。硬質に
なるほど含まれるタンパク質の量が多く、中間質、軟質になるほど減少し、タンパク質
を多く含む硬質小麦ほど、グルテンの形成力が強くなり、パンに適した小麦粉(強力粉
)ができる。強力粉の用途がパン、ピザ生地などであるが、日本の水に比べても硬質水
が多くあるので、中間質小麦の中力粉でうどんなどが出来る文化とは異なった。最近は
軟質小麦の薄力粉でケーキ、菓子類など作られる様になったが、これらは中世以降の、
品種改良による美味さの演出である。小麦種にデュラム小麦と言うのがある。マカロニ
小麦とも呼ばれ、パスタ(スパゲティ、マカロニなど)の原料となっている。製粉工程
の中で、セモリナという黄色い胚乳の部分が取り出され、パスタに加工されます。デュ
ラム小麦は、タンパク質が豊富で、粘り気が少ないのが特徴です。粘り気がないため、
パンにする場合はパン用の小麦を混ぜる。いわば、海外産の「菌入りうどん」だろう。
 こうした説明通り、大麦と小麦の大小は、穀粒の大きさによるものではありません。
「大」は用途の範囲が広い、質のよい、「小」は代用品、質がおとる、という意味を、
もちますが、現在では小麦が多く使われます。

91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:37:13.92 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・078

 伝来当時は、皮を取り除いて粥などとして簡単に食べられ大麦が上質と考えられたし
、製粉し大麦が食料に供され小麦は食べ方が合わなかった。この小麦も紀元前1万年頃
に、栽培が始まり、食事の主食になり得たのは、紀元前九千年頃とされる。現在の栽培
されている品種は、DNA解析や、植物学者の研究で、現在イラク周辺に生えていた、
二条オオムギに似た野生種が改良されたものともいわれる。当初の調理法は、炒って、
麦粉にしたものを水に溶かしたり、または粗挽きにした粥だったと考えられている。こ
れが、やがてそこから大麦パンの製法が開発された。古代エジプトでも、主食のパンに
使われて、ヒエログリフにも描かれている。此の頃には、既にビールの製造も開始され
ており、パンとビールはエジプトの食生活の中心であった。このビール製造は大麦パン
製造の過程で、大麦を粉にしやすくするため発芽させた時に、偶然製法が発見され製造
され始めたと考えらている。大麦は、本来、冬季に比較的降水量が多い地域を原産とし
ていた作物で、秋に発芽して冬を越し、春に大きく生長し、初夏に結実して枯れる、い
わゆる冬草の一種である。そのため、種を秋に蒔き、苗の状態で冬越しさせ、春に出穂
(開花)・結実させて初夏に収穫する(秋蒔き)。しかし、春に積算温度の足りない様
な寒冷地向けの品種で、発芽に低温を必要とせず、種を春にまいて、盛夏に収穫可能な
春蒔き品種が開発された。日本は、北海道で主に栽培され、世界的に、ロシアやカナダ
といった北方の寒冷な地域では春蒔きが中心となっている。この2国は大麦の大生産国
で、世界的な大麦生産量としては春蒔き品種のほうが多くなっている。これに対して、
本州以南、特に関東から九州にかけての地方では、夏草の性質を持つ稲の裏作として、
秋蒔き品種の栽培を行う。稲の収穫が終わった秋に播種し、田植え前の初夏に収穫する
。麦の穂が実る初夏の麦畑は、淡い茶色に染まり秋の稲田に似た光景で、麦の結実期の
ことを、麦秋と呼ぶ。

92 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:37:55.84 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・079

 一方小麦も、人類は 紀元前1万5千年〜紀元前3千年頃に栽培しはじめ、世界では特に
生産量の多い穀物の一つであり、世界の年間生産量は 約7.3億トンもある。これはトウ
モロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)とされ
る。コムギは播種時期によって、秋播き小麦と春播き小麦の2つの品種群に分かれる。
秋播き小麦は、発芽するのにある程度の低温期間が継続する春化を必要とするため、秋
に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫する。低温が必要なため、やや寒冷な地域
では秋播き小麦が主に栽培される。一方春播き小麦は、春に播いて夏の終わりに収穫す
る。春播き小麦は、寒さが激しく種が、冬を越せない地方や、逆に、冬に低温にならず
春化のできない温暖な地域で作られる。さらに、本来の収穫期に雨季を迎えて、収穫が
困難になるような地域でも、栽培される。麦が熟して収穫を迎える頃には、広い畑一面
が黄金色になる草紅葉が見られる。つまり、大麦と違って小麦は、辺鄙な処で二毛作が
出来る穀物であったのである。ただコムギの実は、硬い外皮に覆われ、その中に可食部
である胚乳と、胚芽が存在する。この3部分の体積の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、
胚芽が2.5%である。主に食用とするのは胚乳部分であり、製粉して小麦粉とするのは、
この部分である。果皮(「ふすま」「ブラン(bran)」)や胚芽部分も食用とすることは
できるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなる。このために、
一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と食物繊維
など有用成分があるため、販売されることもある。これを取り除かずそのまま粉にした
全粒粉も存在する。

93 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 00:38:45.72 ID:noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・080

 大麦と小麦の大きな違いは、生産にも違いがあるが、加工でも違って。グルテンが多
く含まれる点で、小麦粉が練るとグルテンによりネバネバし、この性質が、パンやケー
キ、麩などに、美食加工される高級品になった。一方、大麦粉はグルテンはないので、
大麦粉でパンを焼く場合には、全粉では出来ず、小麦粉やグルテンで補う必要がある。
グルテンが豊富な小麦でのパンは、フワフワの食感がと香りも楽しめるが、大麦で作る
パンは、硬く重く食感も味も特殊だ。大麦粉でつくるパン生地は不安定であり、扱いに
くく、小麦粉に比べパン作りには、職人でも難しく適さない。エン麦は 英語で“Oat”
(オート)から、加工品には oatmeal(オートミール)の名が付く。エン麦を脱穀して
乾燥させ、加熱してローラーにかけるとフレーク状ロールドオーツとなり、シリアルな
どに利用される。エン麦には、タンパク質・ミネラル・食物繊維など、豊富な栄養素が
ある。エン麦は、ウィスキーやビールの原料にも使われ、グラノーラもエン麦からでき
ている。ロールドオーツの粉も、牛乳や水で粥状にしたものはオートミールで、健康的
な朝食としてお勧め品らしい。エン麦のフスマ(オートブラン)も、食物繊維が豊富で
シリアル加工される。エン麦のオートミルクは牛乳の代用品として人気だが、実は戦中
戦後のパンの代用品だった。エン麦の代表的な用途が、通常は馬の餌で、牛馬の飼料で
あった。エン麦の食物繊維の豊富さが、馬が好む飼料の代表格となっていた。エン麦を
畑で育てそのまま、すき込み利用する緑肥にも使われる事も飽食時代には起こる。元々
エン麦の新芽を好んで、ネコさえ食べる「ネコの草」として販売された。放牧場に撒い
たままで、刈込しないで牛馬に食べさせていた。ライ麦は、別名はクロムギ(黒麦)で
、黒パンといえば、ライ麦パンである。国によっては、ライ麦と小麦粉の配合と挽き方
によってパンの名前が変わり規格があるが、北アメリカやヨーロッパで手ごろに栽培さ
れ、小麦の栽培に適さない土地や、やせた土壌でも育つ特性があり、寒さにも強くあっ
て、人類はライ麦で救われていた。種子などはウィスキーやウォッカにも醸造された。
つまり一番の多用途麦だったのだ。

94 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:48:20.57 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・081

 この、アテナイの穀物事情と交易の実態を別の観点から明らかにしているのが,グレ
ン・E・マーコウの『フェニキア人』である。グレン・E・マーコウによれば、フェニキ
ア人のエーゲ海交易の最盛期は。紀元前8世紀から7世紀の初期であるが、この時代に
東方からギリシア世界に、たくさんの品物がはいってきた遺跡があるが。アテナイでは
僅かしか見つかっていない。エジプトの小間物や製品が、周囲の海岸都市では幾つでも
見て取れる。が、アテナイでは一つも出て来ない。なぜか。考察するに,アテナイでは
市場経済が前7世紀まで、ほとんど無く「外国との接触」が日本の鎖国の様な状態にい
た。つまり、弱小都市であったからである。アテナイにおいて、ようやく市場経済が、
発展、経済的成長をし始めるのは,前7世紀の後半となった。社会が豊かになる中で、
やっと世界に追いついたのだ。此の時ライ麦から小麦の美味味の違いがアテナイ人にも
もたらされ、小麦を輸入するようになる。それと引き換えに、洗練された陶器や織物、
オリーブオイルやワインなどを提供し始め、やっと通貨の流通を得たたのである。まさ
に、この時期はソロンの改革が行われる前夜であり、アテナイに経済発展が訪れること
で貧富の格差が大きくなる。没落した市民が債務奴隷になり、輸入と共に海外商人が、
跋扈し問題が発生した。「貴族と大衆は久しく抗争」し、「抗争は激しく行われた。」
人々は互いに、久しく反目を続けた。彼らは合意の上の調停者として「アルコン(最高
権力施政官)として、ソロンを選んで(前 594年)。ここで彼に国事を委ねた。」ので
あった。こうしてソロンの改革が、前594〜3年に行い、ペイシストラトスが僭主になっ
た、前 561年頃には、交易経済が芽生えていく。つまり、前6世紀になってアテナイの
穀物事情が変わったのであり、とりわけ小麦を輸入する為に,アテナイでは、オリーブ
油やワイン。そして、洗練された陶器や織物の輸出に、とりわけ励むようになったので
ある。

95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:48:42.07 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・082

 アテナイにとって、自国で出来ない小麦の供給は黒海沿岸に頼るしか無かったであっ
た。黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地で供給基地で
もある。古代でエジプトにも供給できる増産は図られていたが、それほど毎年の作育が
順調ではなく、また海路にも危険が付きまとっていた。従って、地中海方面の穀倉地帯
として重要視され、ギリシア人は早くからビザンティオン(後のコンスタンティノープ
ル,現在のイスタンブール)などの植民都市を黒海沿岸に設けていった。穀物の為の、
重要な交易路がエーゲ海からヘレスポントス海峡を抜け、マルマラ海を経てボスボラス
海峡を通り黒海へ至るルートとなっていた。そこは,アテナイの生命線とも言えるもの
であった。ヘレスポントス海峡は、狭い海峡であるだけに攻撃を受けやすかった。そこ
の安全性を確保するためには、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のケルソネソスを抑
えておくことは必須であったのだ。前 550年代に、キュプセロスの子ミルティアデスが
、ケルソネソスに、アテナイ人を引き連れて植民都市を建設した事は、まさにアテナイ
の国策に適ったものであった筈だ。前 535年には,アテナイの僭主ペイシストラトスが
、黒海周辺の植民地化と海峡の要塞化という大事業に着手して、ペイシストラトスは、
またヘレスポントス海峡への南西からの進入路を見渡す、テネドス島・イムブロス島・
リムノス島など航路の島嶼国を、確保していくのであった。この黒海ルートがアテナイ
にとっての、非常に重要な生命線であったのである。「アテナイの存亡そのもが、地上
でも 有数のか細い供給ルートにかかっていた。」のである。だからこそ、ミルティア
デスの兄が殺された後に、アテナイの、この穀物輸送の死活を制する黒海からの海上路
を、アテナイの支配下に置くようにと、僭主ヒッピアスが、筆頭アルコンまで務めた、
ミルティアデスをケルソネソス半島に派遣するのは、当然のことであったのだ。

96 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:49:10.81 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・083

 こうして、アテナイの港町ピレウスを発着点に、海上を行き来する、サロニコス湾の
出口を形成する島々のあいだを、慎重に通り抜けなければならなかった。前 506年にア
テナイは、エーゲ海西部に浮かぶ「エウボイア島」の肥沃な西岸を選び、カルキスとい
う都市国家から、奪いとった。これによって穀物の供給を増やしたばかりでなく、ピレ
ウスとヘレスポントス海峡のあいだを邪魔されずに帆走できる「海上スーパーハイウェ
イ航路」を完成させたのである。先史時代は、ピレウス中心部の、ミューニキア(現在
のカステラ)は、あかつて、浅瀬で本土と繋がっていた。この浅瀬は、一年の内、殆ど
長い期間は、海水に浸かっていて、干上がる時期には、天然の塩田になったのである。
この塩田を意味する「ハリペドン」と呼ばれて、長らく塩の街として栄えていた。が、
泥濘によって複雑な浅瀬となり。徐々に地形が変化した結果、古典古代初期には安全な
土地になった。紀元前26世紀にはピレウス周辺に人が移り住んた。古代ギリシャ時代は
、水深の大きい3つの港を持って、海運の港を作り、ピレウスは重宝される。古く浅い
ファレルム港から徐々に役割を奪い3つの港は、大規模なカンタルスと小規模なゼア、
ムニチアに集約された。紀元前 511年、ヒッピアス来て、ミューニキアを要塞化する。
紀元前 507年、クレイステネスがピレウスをアッティカ地方に組み入れ、紀元前 493年
、アテネの政治家テミストクレスが、ファレルム港にかわる海軍基地として建設した。
紀元前 483年、アテネ海軍は、ピレウスに移転し本拠地とした。紀元前 480年、アテネ
海軍は、アケメネス朝ペルシア相手にサラミスの海戦で、大きな役割を果たす。以降、
ピレウスは海軍基地として使い、ペルシアの第2次ギリシャ侵攻(紀元前480〜479年)の
後、テミストクレスはピレウスの3つの港を要塞化し、ネオソイコイ(舟屋)を建てた。

97 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:49:31.24 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・084

 紀元前 471年、テミストクレスの壁が、完成した事により、ピレウス港は軍事的にも
商業的にも、重要な港になっていった。ここにミレトスの都市計画家ヒッポダモスが、
彼によって完成市街地が、碁盤の目状に整備された街に変化する。彼の名前は中心部の
広場に今も残っている。またピレウス港を、拠点とする海上貿易を 生命線とする、ポ
リス政治の経済最前線である都市間交易と、そのアテネ地域を防衛する軍事戦略基地と
して、キモンとペリクレスが 都市アテネと都市ピレウスの間の街道を両都市を囲む、
城壁から延長・要塞化し、一種の双子都市としての大きな機能となった。しかしながら
紀元前 430年、ペロポネソス戦争中に、ペスト病たる黒死病の大発生に至る、これによ
って、ピレウスは、双子都市として機能した歴史で、初めて衰退した。紀元前 404年、
スパルタのリュサンドロス提督が、そのピレウス港を封鎖し、アテネは、スパルタ国に
降伏するしかなく、デロス同盟はここで終了したのである。ピレウスの城壁とアテネと
の間の長い壁はスパルタ兵によって破壊され、アテネ海軍の三段櫂船や舟屋も、一部が
破壊された。その結果70年間の平和は終えたと思われた。防御力を失ったピレウスは
繁栄するロドス島に地位を譲る事になったのである。その地位を奪われる前の、地位を
創っていく時代においての戦いである。今だ、ピレウスには、天然の濃い海水から水を
運び、塩田に入れて、天日によって塩を得る塩田で、塩を作り小さな樽に詰めて商売を
していた時代である。かくして、マラトンの戦いを制し、ギリシア軍の、勝利に導いた
英雄は、先の将軍ミルティアデスであった。前で紹介したように,彼はケルソナソスの
僭主をしていたが、紀元前 493年に突如アテナイに凱旋帰国する。およそ30年ぶりの事
である。

98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 16:50:05.45 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・085

 ペルシア帝国の傘下にあったフェニキア海軍が突如として、ギリシア本土を攻め、露
払いとして、小アジアのポリスの役割して、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のギリ
シア植民都市が、次々に征服・占領されてきている中で。ミルティアデス自身も、すぐ
に身の危険を感じ、財産をまとめて、命辛々何とか生き延びてアテナイに逃げ帰って来
ていた。僭主のヒッピアスの要請で、出かけた時には20代の若者であったが、帰国した
ときには、すでに57歳にもなっていたのである。古代ギリシアにおける僭主政治では、
僭主(せんしゅ)は、基本的に貴族政をとるポリスにおいて、政治的影響力を増大させ
、平民の支持を背景に、貴族の合議制を抑えて独裁的権力を振るった政治指導者である
。古代ギリシアのポリスで、非合法に独裁政を樹立した支配者であった。本来の皇統、
王統の血筋によらず、実力・武力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者
。とされ暴君、圧制者。僭帝、僭王など日本に訳されると、色んな言葉とはなるが背景
に、時の大国から軍隊を呼び寄せたる者、或いは持って来た者の政権であった。多くの
王が神話時代に遡る正統な血統を継いで、その支配を正当化していた王政から、共和制
の形態をとりつつ、貴族階級が実質的にポリスの主導権を掌握する貴族政に移行してい
く。此の時、貴族が貴族である為に、血統や出身地のほかに、戦争に際し、武器・防具
・食糧などの軍需物資とその輸送手段を、自費で準備し、家族の生活や臣下まですべて
含めた兵役を負担できるための経済力を持つものが僭主(せんしゅ)であり、僭主によ
る政治が、僭主政治であった。

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/23(火) 17:36:38.74 ID:oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・086

 「このミルティアデスが当時ケルソネソスから帰還後アテナイ軍の指揮に当たってい
たのであるが、この男は二度までも、死を免れてきたのであった。一度はフェニキア軍
が、彼を捕らえてペルシア王の許へ連行しようと必死になり過ぎて、彼をインブロス島
まで追跡した時、インプロス島の縁故もって捕縛後も放免となった。もう一つは、フェ
ニキア軍の追跡を逃れて帰国し、もはや危険はない。と思った矢先に、反対者の者らが
、彼を迎えて裁判にかけて、ケルソネソスにおける統治に専制の罪を弾劾した時である
。この弾劾裁判は、しかし、支持と反支持が拮抗する中で、成り立たない。辛くもこの
反対派の追求の中、弁舌爽やかに強力に不可避を叫ぶ声は、多くの市民の支持を得る。
こうして、無事に切り抜け民会において選出されて、アテナイ軍の司令官に任命された
のである。(『歴史』巻6の104)元々、「将軍(ストラテゴス)」の職は、前508年の、
クレイステネスの改革で、新たに設置された軍事職であった。アリストテレスの『アテ
ナイ人の国制』によれば、「将軍たちや、騎兵長官たちや、その他の軍事関係の役人達
の全てが、選挙や民会で 民衆の決定する仕組みと仕方で行われる」のである。この、
戦士組織でも、過去にあった契約の、10部族制に則って、行われていて、再編成される
。つまり、定量の部族の徴集兵と、一般からの公募兵が、国軍となり、各部族の部隊長
格として、各部族から1名の将軍が、総司令官として議会で任ぜられた。のであった。
前 501年以降は長老議会から、民会の市民全員の投票で、選ばれるようになって、より
期待度や信用度が増して、その防衛の重みさえ増した。前5世紀に入ると、アルコン(
代議員)などは、ほとんどの役職が抽選によって選ばれるようになったが、この役は、
挙手によっての、多数決の選挙が適用され,そのうえ,在任期間には、制限がなく重任
が認められた為、最盛期のアテナイでは,アルコンに代わってもっとも重要な役となっ
た。

100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:18:51.14 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・087

 紀元前 590年に、ペルシア軍のマラトンへの上陸が伝わると、直ぐに民会が開催され
る。ミルティアデスの建議に従って、マラトン平野での防衛と、迎撃は決定された。が
、このアテナイの最高決定機関の民会であったが、民会で、戦争をするかどうかの最終
決定はなされたのであるのだが、地場宗教、恐らくは拝火教の流れの、ギリシャ宗教の
巫女や神主、つまり、聖職者や宗教家の意見も加付された。そこが王政とは、全然違う
処であるが、この時に、アテナイに王が居なかった訳ではない。この聖職者こそ王だっ
たのである。しかし、ペルシア相手に戦うかどうか、そして、マラトンまで出かけて行
って戦うのかどうか、の決定には、大勢を見守るしかない。此の時の王とは単なる部族
の長であったり、教徒や信徒の長であり、乱立した王権の集まりの議会は、時代を超え
、残されて来た会議だったはずだ。そうした中ミルティアデスが、大きな役割を果たす
。ペルシアと戦うべし、という決定に従い、具体的な、手順と現実的内容である。基本
的に、アテナイの食糧事情は、此の時既に輸入小麦の確保がこの国の生命線であった。
黒海ルートがペルシアによって断たれる。そうしたことも、大きな説得材料になった。
筈だ。民会決議後、すぐに、アテナイはスパルタに使者を送って、援軍を依頼するのだ
。スパルタは、援軍を送ることは了承したが、スパルタではカルネイオス月(現在の8
月後半〜9月前半)の7日から15日に至る9日間は、例年、アポロンを祭神とするカル
ネイア祭が営まれていたために、「兵を動かすには月齢が満ちるまで、待たねばならぬ
から、9日には、出征ができない。」とアテナイからの使者に、返答している。カルネ
イア祭はアポロンの英雄カルネイオス神の栄光を称えるペロポネソス同盟の、古い神格
の大事な共通文化だった。カルネイオスは「家畜の神」であり、「(穀物や葡萄などの
)収穫の神」だったのだ。この祭りは、過去に疫病を退散させ、ヘーラクレイダイと、
その末裔であるドーリア民族に受け継がれた、葡萄酒での清めの儀式を持っていた。

101 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:56:49.65 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・088

 カルネイア祭は、今では、農業と軍事の祈願祭になって伝わる。およそ元々アポロン
への贖罪のために開催された。と言われる。贖罪の理由は、予言者カルノスがヘーラク
レイダイによって、殺害されたことによるものだ。カルノスは、アポロンのお気に入り
の孫だったが、スパイ容疑をかけられて、命を落とした。この祭りは、このカルノスの
あらぬ罪を着せられて死んだ彼を悼み、アポロンに贖罪するために始まった。と考えら
れている。アカルナーニア人(ギリシャのエトリア)の予言者であったカルノスは、ア
ポロンのお気に入りであった。しかし、カルノスはナウパクトスからペロポネソスへ、
移動する最中だったヘラクレイダイによってスパイ容疑をかけられ、殺されてしまう。
アポロンは激怒し、ヘラクレイダイの軍船を尽く破壊し、疫病を降り罹らせた。神託に
よって、アポロンの怒りを知ったテーメノスは、カルノスの殺害者であるヒッポテース
を追放して清め、鎮魂のためにカルネイア祭を創始した。と言う、ヘラクレイダイは字
義どおりに解釈するならば「ヘラクレースの後裔」の意であり、神話時代のヘラクレス
の子孫と、その末裔を称する歴史時代の諸王家を指すが、ギリシア神話では通常、ヘラ
クレスの嫡流であるディアネイラの子供たち(特に長男ヒュロス)の家系をいう。とさ
れる。ヘラクレスの死後、子供たちはミケナイの王エウリュステウスから迫害を受け、
ペロポネソス半島を去る。此の為ヘラクレイダイにとってペロポネソス半島に帰還する
ことは、英雄の育ての父、アムピトリュオーンがミュケーナイを追放されて以来の長き
にわたる悲願となった。と言う。このヘラクレイダイの帰還の物語は、ギリシア神話の
世界で起きた最後の大事件で、トロイア戦争をはさんだ長期間に渡って語られ、歴史時
代には、ヘーラクレイダイの帰還はドーリア人の侵入と結びつけられた。古代悲劇作家
たちは、この物語をしばしば題材に取り上げる。

102 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:57:11.72 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・089

 ヘラクレイダイの最大の協力者、ドーリア人の王アイギミオスは、国難をヘラクレス
に救われたことに感謝して、英雄の息子ヒュロスを養子とした。さらに国土を3分して
、自分の2人の息子デュマース、パムピューロスと、ヒュロスに分け与え、王の2人の
息子達もヒュロスらヘラクレイダイの帰還に協力した。しかしヘラクレイダイがペロポ
ネーソスに帰還を果たしたのはヒュロスから3代後のことだった。何故だかこの祭りは
国事とされて、国家の共通意識に大事な物だった。従ってこうしてスパルタからの援軍
は、結局、マラトンの戦いには 間に合わなかったのだ。スパルタ軍の到着が、遅れて
いたこともあって、将軍たちの 戦略の軍会議では、「見解が二つに分かれ、一方は
ペルシア軍と戦うには、自軍の兵力が少ない。という理由での交戦することの不可を説
き、ミルティアデスを含む他の一派は、交戦すべきことを、主張した。ここは生きるか
死ぬかの決断である。司令官達は真剣に、真顔の話し合いである。住民や市民をバック
に戦うミルティアデスは、占領に至っては悲惨な虐待が待っている事を、ミティアデス
は知っていた。しかし、それにも関わらず、司令官たちの見解が二つに割れ、しかも、
好ましからぬ方の説が、勝ちを制する気配となった。」と書く。戦いを指導した司令官
は、各部族1名ずつの選出の10人の将軍と、アルコンの一員であるポレマルコス(軍事
長官)とで構成されていた。部族の中には戦争に迷惑顔の者や、ペルシアとの関係のあ
った部族もあったのである。ミルティアデスは、このポレマルコスのカリマコスを説得
することにした。実はわれら十名の司令官の意見が二つに分かれ,一方は交戦を主張し
他方はこれに反対している。と訴え、しかしながら、もし我らが戦わぬならば,必ずや
我が国に激しい内部分裂が起こって、アテナイ国民の士気を動揺せしめ,その結果は、
ペルシアに利することとなり、屈することになるに違いない。(ヘロドトス『歴史』巻
6の109)

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 11:57:43.36 ID:r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・090

 ミルティアデスは、軍事長官のカリマコスに、「戦えばわが祖国は独立を保つのみな
らず、ギリシア第一等の国となる。」と、説得して味方につけてから、軍議を制した。
要するに、スパルタの援軍の到着をまたずに 戦うことを決定したのである。戦いを引
き延ばせば延ばすほどに,内部分裂はひどくなるとの見立てがミルティアデスにあった
。ということである。ペルシアとの戦いに勝利するまでのアテナイは、決して大国とは
言えず、国内政治は、親ペルシア派と親スパルタ派との争い、それに反僭主政がからん
でいる。という状況であった。僭主政を倒して、民主政の基礎を築いたクレイステネス
は、スパルタ、及びスパルタの援助、のもとで力を奮っていた寡頭派との対抗上、ペル
シアと親密にしていたのだが。前 508年のクレイステネスの改革の後も、僭主派の残党
がなお健在であって、彼らは今や、クレイステネスが属した旧敵アルクメオン家と、反
スパルタ親ペルシアという一点で手を結んでいたのである。そもそも、アテナイの場所
は、全く、農作物に適していない、痩せた大地である。対してスパルタには、スパルタ
平原で、自国で、地産地消の自給生活はとりあえず出来る場所だ。アテナイのごつごつ
した岩場の、日本で言えば秋吉台の様な場所は 人があまり住まないと言うより住めな
い事で、国の侵攻が少なかった。過去には、何回もアテナイを上陸基地として、そのま
ま、スパルタに何回も侵攻があったのだ。それ故に、スパルタを蔑んでみていただろう
し、近所付き合いの、挨拶の返事であった。どうせ小さな村で、兵力のない国で、そう
急いで戦う事もないだろう。ぐらいで見ていた。カリマコスはギリシアの植民地キュレ
ネ(現リビア)の高貴なギリシア人家系で、ファラオのプトレマイオス2世とプトレマ
イオス3世がパトロンとした家系とされる。つまり、この頃はエジプトの小麦粉に頼っ
て暮らしていた都市だったのだ。

104 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:02:10.57 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・091

 そうした事は、戦場での、軍議にも反映しており、それだけにミルティアデスは、ス
パルタの援軍を待つという口実で、戦いを先延ばしすれば、内部分裂でアテナイは自壊
すると判断したのである。しかし、時は過ぎ、いよいよマラトン平野で、ペルシアの、
遠征軍とアテナイ・プラタイアの連合軍が対峙したのである。ペルシアの遠征軍は軽装
歩兵、弓兵、騎兵を展開した。中央部に主力を配し、陣を張る。戦いに参加したのは、
ペルシア軍25,000と推定されている。これに対して、弱小アテナイは、約九千人。一万
にも満たない、プラタイアからの援軍約千人の連合軍を足しても、半分である。その差
は2倍以上あったのだ。強制動員された臣民、対自由な市民軍の対決である。アテナイ
・プラタイア連合軍の指揮官は,ミルティアデスであったが「ミルティアデスに、指揮
当番が巡ってきた時」と、ヘロドトスが述べているように、10人の将軍は日替わりで、
全体の指揮権を持っていた。ミルティアデスは、アテナイ・プラタイア連合軍の、戦闘
隊形の横の長さを、ペルシア軍と同じにし,兵士の少なさを密集方陣の厚みで工夫した
。この時にマラトンに布陣したアテナイ軍の、陣形には次のような特異点があった。ア
テナイ軍は戦線の幅を、ペルシア軍を等しく張ったのである、,その中央部は僅か数列
の厚みしかなかったのだ。アテナイ軍の最大の弱点はここにあった。ただし両翼は十分
の兵力を具えて強力であった。(ヘロドトス『歴史』巻6の111)中央部分を薄く両翼を
厚くという陣形こそが,ケルソネソスの僭主として、ペルシア軍の戦いにも同行した、
ミルティアデスが、ペルシア軍の戦い方を熟知した上でのものであった。というのは、
ペルシア軍の戦い方は、騎兵によって敵の両翼を圧迫して中央の方に追いやり、そこに
集まってきた敵を中央の強力な歩兵部隊によって撃破するというものと、熟知していた
からである。

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:02:33.65 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・092

 ミルティアデスによるアテナイ・プラタイア連合軍の陣形は、このようなペルシアの
戦いの逆手をとったものであった。その人員によって圧倒的に不利なアテナイ・プラタ
イア連合軍が、ペルシア相手に圧倒的な勝利を収めることができたのかについての考察
は後ほど行うことにして、戦いの推移を簡単に語れば。ヘロドトスによれば,「陣立て
を終わり、犠牲の卦も吉兆を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足で、
ペルシア軍に向かって突撃した。」両軍の間の距離は,8スタディオン(およそ1500m)
であったという。「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て、迎え撃つ
態勢を整えていたが、数も少なく、それに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるの
を眺めて、「狂気の沙汰じゃ。全く自殺的な、狂気の沙汰じゃ」と罵っていた。しかし
、「一団となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに
足る目覚ましい戦いぶりを示した。「マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。」戦
線の中央部は、「ペルシア軍は、敵を撃破して内陸に追い進んだ。」が「両翼において
はアテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。」まさにミルティアデスが予想した通り
であった。勝利を得たアテナイと、プラタイアの両軍は、潰走する敵部隊は逃げるにま
かせて、両翼を合わせて、中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制
するところとなったのである。(ヘロドトス『歴史』巻6の113)ペルシア軍は2倍以上
の戦力をもっていた。にもかかわらず、なぜこういう帰結になったのであろうか。ペル
シア軍は、騎兵・弓兵・重装歩兵から構成されていた。ペルシアの重装歩兵の槍は、ギ
リシア兵の槍よりも短く使いやすいが,集団戦というよりは個人戦向きであった。その
ことを明確に述べているのが,第二次ペルシア戦争の前のクセルクセス王と前スパルタ
の王デマラトスとの対話である。

106 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:00.75 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・093

 そこでは、クセルクセス王は、「わしの親衛隊のペルシア人の内には、一時に3人の
ギリシア人を相手にしても、喜んで戦う。と、申し出る強つわもの者もいる。のだぞ」
と述べている。ペルシア軍は、騎兵で相手の両翼を攻めて中央に寄せ、そこを弓兵によ
って、相手方の損害を招き、士気を落としたところで、中央から撃破するというもので
あった。が、基本は個人の武勇に頼る個人戦であった。これに対して、ギリシア兵には
、「ホプロン」と呼ばれる 直径約80〜100cmで、つまり1m弱の 浅い鉢のような独特
の盾を持っていたのである。彼らの俗称が「ホプリタイ」と呼ばれていたのは、この盾
に由来していた。ホプロンは、腕と手の二箇所で支えるダブル・グリップ盾で、中央部
に取り付けられた。つまり握る通常の盾でなく、腕にバンドで取り付ける盾であった。
細長い革か、金属の輪によって左腕を肘まで通している。縁の部分についた紐あるいは
革の握りをもつようになっている。盾を前腕でしっかりと固定することが可能であった
。盾は身体の左側に大きく出て右側はかなり露出される。その露出された部分を、自分
の右側にいる人の盾に入れて守り、他方自分の盾で左側にいる人の身体を守り、自分の
右側を隣が守る。と言う戦法が行われた。こうして、おのずから隊列が形成されたし、
それが乱れない限り、兵士の身体はびっしりと蛇の鱗の様に、隊列は守られた。その上
に、利き腕の右の剣は自由にあった。更に彼らは鉄皮のお面と胸当て脛隠しと、かなり
鎧に近い姿で参加し、並んだ盾に守られていた。又剣は、腰にして、重装歩兵は直径約
1mの円形の木製大盾で身を守り,2〜3mもある長く太い槍を手にして攻撃する形で
あった。重装歩兵の密集陣に、個々ばらばらに突進して来た場合に、最前列の槍だけが
戦いの相手ではない。それを払いのけて盾で身を守っている最前列の兵を倒そうと近づ
いていくと、左からのみではなく、後列からも槍が繰り出されてくるのであった。

107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:21.10 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・094

 これを防ぐのは容易ではない。ペルシア兵の槍はギリシア兵の槍よりも短いので使い
やすいが、こういう戦闘戦術に長けて、充分に防御され更に、計算された攻撃には不利
であった。幾重もの槍ぶすまを作っている密集陣を、突破するのは至難の技で、ペルシ
ャ軍には不可能であった。このギリシアの密集方陣の戦いとペルシアの個々の兵との戦
いの様子を、プラタイアの戦いについてヘロドトスが書いている。ペルシア兵は勇気も
力も劣らなかったが、ギリシャ人の様な堅固な武装を欠いた上に、戦法を知らず戦いの
巧みさでは、到底相手の敵ではなかったのだ。彼らは単身または十人、乃至その前後の
人数が一団となって飛び出してゆき、スパルタ軍中に突入しては、次々と討ち果たされ
ていったのである。(ヘロドトス『歴史』巻9の62)結局 これは組織的に構成された力
と、ばらばらな個人の力との戦いで、勝敗は自ずから明らかであった。数時間の戦闘で
ペルシア兵の戦死者は6400人であったが、アテナイ軍の戦死者は わずかに192名であり
、プラタイア軍の戦死者はそれよりも少なかったという。戦死者率は 30対1という、驚
くべき結果だった。この数値は,隊列を組んで平坦な地形で戦う重装備の槍兵の破壊力
のすさまじさを物語っている。ここで、大きな問題となってくるのは、ヘロドトスが、
両軍が対峙し、その距離が8スタディオン(およそ1500m)になった時に、「アテナイ軍
は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。」と書いている。この
ことは、重装歩兵という名のように、その装備は,30kgから40kgと言われている装備で
。1〜1.5kmも走ったら,激突する前に疲労困憊に なっている可能性があるし、編隊
も崩れて組織的に構成された力を発揮するどころではない。という疑問が生じる。そん
な疑問に答えるような面白い記事が長田龍太氏の『古代ギリシア 重装歩兵の戦術』に
あった。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/24(水) 16:03:42.99 ID:QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・095

  重装歩兵の密集方陣の戦いが意味をもつのは,それが隊形を崩さず密集したまま、
整然と敵にあたる時である。コンピュータシミュレートで研究で、駆け足突撃によって
,隊列は最大で35%の、整然性を失う結果に至る。この戦い方では、威力はかなり失わ
れる。さらに興味深いのは、1973年に、10人の体育大学の学生を使った実際の実験結果
で、学生に6.8kg の装備と4kgの盾を持たせた状態での隊列を組み1kmの距離を走ら
せる実験が行われた。その結果では、誰一人として盾を胸の前に構えた状態で、78.5m
以上を走れなかったのである。274.3m の地点で隊列が崩壊し、最終的にゴール1,4km
に到達したのは、長距離選手ただ一人だった。翌年に同じ実験を繰り返したところでも
230m 地点で、隊列が崩壊し、完走者はいなかった。つまり人力からも予想できる結果
で、このことから考えても当時のアテナイの重装歩兵がいくら丈夫であったとしても、
実験に参加した体育大学の学生よりも、3倍から4倍も重い装備をもって、1,500m も
駆け足で突撃することは、例え超人であっても、土台無理なようだ。となると、これは
ペルシア軍とアテナイ軍と間違えて記述した可能性が高い。一方ペルシア軍の戦術は、
両軍の重装歩兵が衝突する前に、弓兵が多数の矢を射て敵兵に損害を与え、敵の中心を
叩いて意気阻喪させることであった。安藤弘氏は、『古代ギリシャの市民戦士』の中で
、実際の駆け足突撃は「敵の弓兵の射程距離( ほぼ180m)に、入ってから、始められ
た」と推定されている。体育大学の学生の事例を紹介されている長田龍太氏は,「当時
の突撃可能距離は,精々50〜100m 程度であった」と、推測されている 安藤氏がが言う
180m であっても、正直厳しいのではないか、と思う。当時のギリシアの重装歩兵は、
実地訓練を積み重ねていたので、長田龍太氏の推定のように、50mから100mぐらいなら
、隊形を崩さずに突撃できたのではないか。とは思われるが、弓矢攻撃の被害がそこに
あれば、障害物レースになる。とても考えられない。

109 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:41:47.54 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・096

 隊形を崩さずに突撃、突進し、弓矢攻撃の被害と、駆け足での体力の消耗や、隊形の
乱れを天秤にかけて、敵弓兵の攻撃による味方の損害が大きくならない絶妙なタイミン
グでの、駆け足突撃の距離は、あったろう。しかし、勝った理由は他ではないだろうか
。ミルティアデスの戦術は、この駆け足突撃だけでなく、ペルシア軍と陣形の長さを同
じにしながら、中央部分を極端に薄くし、両翼を厚くという陣形をとった。このことで
、多分充分に攻撃できる歩兵の弓隊を両翼に於いたのであろう。つまり、相手の弓兵の
効力を弱めるために、駆け足突撃を行い、比較的遠くに射る事の出来るボーガンを用意
したものと思われる。こうなると中央の鉄壁の隊列は多少弓が来ても届かない,その上
両翼から、凄まじい威力の矢が届いてくる。ペルシア軍の戦いが、中央を突破であるの
を想定し、だからこそ両翼を厚くして、騎馬隊が先行し中央の薄い守りを鉄壁に固めて
そこにペルシア軍を追い詰めて撃破する。つまり鶴の両翼で囲って、横から弓を射て、
騎馬隊が後ろに回って勝つことができたのである。両翼のアテナイ・プラタイア連合軍
は、防備も少なく、すり抜けて逃げる敵を追撃することなく、中央深く入り込んだペル
シア軍を両側から挟み撃ちしたのである。想定外の事態に、慌てふためいたペルシア軍
と、指揮官の号令一下で、まさに一糸乱れず戦ったアテナイ・プラタイア連合軍との差
は歴然としており,それが,数時間の戦闘でペルシア兵の戦死者は 6,400人,アテナイ
軍の戦死者はわずかに 192名という圧倒的勝利になったのである。日中の激戦で疲労し
ていたアテナイ軍であったが,重装歩兵は隊列を組んで山間の難路に向かった。8時間
の行軍だった。ペルシア軍が「残りの船の向きを変えて沖に逃れていき」「スニオン岬
を廻って船を進め」、アテナイ市に向かっていた。からである。ペルシア軍がスニオン
岬を廻っている一方,アテナイ軍は町を救うべく足の続く限りの速さで急行し、ペルシ
ア軍の到着以前に帰国することができた。そしてマラトンでもヘラクレスの聖域に布陣
したのであった。

110 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:45:48.66 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・097

 「古代ギリシャのホプリテス」の項目では、古代ギリシャにおける兵士の多くは、「
ホプリテス」と呼ばれる重装歩兵だった。ホプリテスという名は、彼らが使用した木製
の盾「ホプロン」に由来する。ホプロンは幅約1mもあり、青銅で覆われていた。と書
かれる。つまり、基本木製であり、青銅で覆った物なので、神社仏閣の腐れ止めにつけ
る薄膜の銅で、そんなに重くないだろう。又、戦闘に欠かせない高価な装備を、自前で
用意しなければならないため、ホプリテスは財産をもつ階級から選ばれた。とあるので
恐らく規格品があって、それに自分なりにフィットさせて使ったと思われる。アテナイ
のホプリテスは必要に応じて臨時で招集されたが、スパルタのホプリテスは、7歳の時
から厳しい訓練を受けたプロの兵士だった。と言うので相当な鍛錬をしていた。と思う
。又、完全装備の場合は、左腕にホプロン、右手には先端に青銅の穂先がついた2m級
の木槍(やり)を持つ。予備に鉄製の短剣を持ち、兜(かぶと)、胸当て、すね当て(
いずれも青銅製)まで装着する。これは学者は27キロにも及ぶ重装備だったというが、
先の実験でも、恐らく10〜15kgの軽い物であったろう。通常、ホプリテスは縦8列に
ぎっしりと並んで「ファランクス」という密集隊形を組み、一丸となって敵を攻撃した
。ファランクスは、古代において用いられた槍を持つ重装歩兵による密集陣形である。
集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。最も古い、
ファランクス陣形、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアで
、確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時から存在して
いた。その後、中東では複合弓の発明され、戦場の主役の座は弓兵となった。如何に、
丈夫で速く鋭く的確に射貫くかを極めたボウガンと弓矢であったろう。ピタゴラス同等
の知恵者が、命令によって開発された筈だ。それがしなりを歯車で変化させ、簡単に矢
をピン止めできた工夫があったのだろう。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/04/29(月) 04:46:11.61 ID:/okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・098

 その後、紀元前 700年頃のアッシリアでも同様の隊形が用いられていた石版が、確認
できる。が、鎧兜を着用した重装歩兵を用いた ファランクスを大々的に用いたのは、
紀元前7世紀以後の古代ギリシアにおいて、ファランクスを構成していた一定以上の富
を持った、市民階級で使用した。当時の地中海交易の発達から、甲冑が普及していき、
重装歩兵部隊を編成することが可能となった。この頃出たのが、ライザー弓であろう。
ライザー(ハンドル)のついた弓である。似たものに、コンパウンドボウ(化合弓、稀
に複合弓と訳される)は、滑車とケーブル、てこの原理、複合材料など力学と機械的な
要素で組み上げられた近代的な弓とされた。実は複合弓は、弓の中に骨や金属が含まれ
、弓の弾きに相当な腕力が必要とされるものだった。しかし、このライザー弓は恐らく
土に弓の柄を突き足すもので、3人係りで弓を引いた逆弓構造だったと言われるものだ
。つまり、初期の投石器構造であった。M型に長く折り返しのある弦の中でV型の中央
の2本の弦の中に矢を置き、矢も又特殊で矢の真ん中辺りに、横に金属棒が短くあって
そこに弦を当てて、弦の糸を二人で引っ張って矢の羽根の後ろが、弓部に当たるまで引
いて離したのである。この仕組みは縦型だが横にすれば、ボーガンや投石器になった。
彼らは、マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、ペロポネソス戦争などの重要な戦闘
で目覚ましく活躍した。が、その内戦争が進化し、より熟練した軍隊が誕生したりする
と、従来の重装歩兵戦術は次第に影が薄くなり、騎馬戦に変化した。このギリシャ時代
の、陶片追放(とうへんついほう)の制度で市民が僭主の独裁者になる恐れのある人物
を投票により国外追放にした頃から次の古代ローマ時代は、逆に独裁者を希求した時代
を創る、古代ローマ軍団(レギオン)は、共和政ローマとローマ帝国の最盛期(およそ
紀元前3世紀から紀元5世紀)にローマ軍の中核となると。彼らは職業軍人として定期的
に給与が支払われ、十分な訓練と支給を受けた。

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2024/05/02(木) 15:24:46.88 ID:JVzC5ND6w
 海上の金貨 ・・・・099

 ローマ時代も軍団兵は、2mの投げ槍と重い剣を携行し、防具として兜、盾、胸当て
を装着した。同じ様に戦いでは横1列ごとに攻撃を仕掛け、槍を投げつけた後に剣を振
るって敵に襲いかかった戦法を行った。ローマ軍の敵に対する残忍さは、かなり強く、
伝説的にも、この残忍さを競って行わせた。又、軍団内部の欠陥に対しても容赦なかっ
た。「十分の一刑」と呼ばれる処罰では、違反をしたコホルス(歩兵大隊)の10人に、
1人を死刑にした。此の為、国の仕組みとしても、パンとサーカスの国とされるほど、
剣闘士の本物の死闘を見世物にした。その為、兵士たちは士気が高く有能だった。部隊
に同行する工兵は、長く続く道路、要塞、橋の建設に従事し、今日でもその遺跡が残っ
ている。当初は牛やライオンと 人間との闘いを見世物にしたが、その内政敵同志の、
公けな死闘ゲームまで見世物として 皇帝が認めたのであるが、それは、ずっーと後だ
。話をもどすと、ダレイオス大王が即位する以前に,ペルシアは、オリエント世界を、
統一していたが,ダレイオスの時代にペルシア帝国は,東は現在のパキスタンのあたり
まで西はギリシアのマケドニアにまでその版図を拡大していった。まさに超巨大国家で
あった。それに対し、アテナイはギリシアそのものが小さい上に、その中におさまった
国で、無数の都市国家に分かれている中の市民の数が数万しかいない小国家であった。
ハンセンによれば,「ペルシア帝国の予備兵のマンパワーはギリシアの20倍から50倍は
あり、支配下の領土は70倍〜100倍に達していた。」のであり このような「巨大な帝国
がとなりの小国を屈服させるのに失敗した例は、めったにない。」のであったのだが、
知恵と勇気と鉄剣で勝ったのであった。ここでローマ時代に移行する下地になった。

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