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曹操の陵墓発見、遺骨も出土 2

1 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 21:58:45 .net
河南省政府で文化財の保護・管理を行う部署の省文物局が2009年12月27日、
安陽市安陽県の安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155−220年)の墓と断定したと発表したことに対して、
中国政府系シンクタンクで、文系最高峰と言える中国社会科学院(社科院)が13日、これを認定した。
中国社会科学院は2009年中国考古学六大新発見を正式に発表、その中のひとつに「曹操高陵」を組み込んだ。


中国社会科学院の関連HP
http://www.cass.net.cn/file/20100119255739.html

前スレhttp://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1261913627/

2 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:00:57 .net
河南文物局の根拠

(1)墓の規模が巨大で魏王となった曹操の身分にふさわしい
(2)墓から出土した文物はいずれも後漢と魏の特徴があり、曹操の時代と一致する
(3)墓が見つかった場所は「三国志」などの歴史文献とほぼ一致する
(4)副葬品の特徴は曹操の「遺令」(遺言)とほぼ一致する
(5)墓に曹操を示す「魏武王」と刻まれた銘文が複数見つかった
(6)男性の遺骨は60代で、曹操の死亡時の年齢と一致する

3 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:02:32 .net
河南省文物管理局のHP翻訳文

1.墓葬の規模が巨大で、全長が60メートル近くに及び、
レンガ造りの墓室の形態と構造がすでに知られた漢・魏の王侯級の墓葬と類似し、曹操の魏王の身分にふさわしいこと。
墓には盛り土が見られず、文献の記載する曹操の陵墓の「高きに因りて基となし、封せず樹せず」の情況に符合すること。

2.墓葬出土の器物や画像石などの遺物が、漢・魏の特徴をそなえもち、年代が符合すること。

3.墓葬の位置は、文献の記載や出土した魯潜墓誌などの史料の記載と完全に一致している。
『三国志』魏書武帝紀などの文献の記載によると、曹操は建安二十五年(西暦220年)正月に洛陽で病没し、
二月に霊柩が?城に運びもどされ、高陵に埋葬された。高陵は「西門豹祠の西原の上にある」。
調査資料のあきらかにするところでは、当時の西門豹祠は今日の?河大橋から南に行くこと一キロのところにあり、
安陽県安豊郷豊楽鎮に属している。今回の大墓は西門豹祠の西に位置している。
1998年、西高穴村の西で出土した後趙建武十一年(西暦345年)の大僕卿・?馬都尉の魯潜墓誌にも、
魏武帝陵の具体的な位置がこの地であることが明確に記載されている。

4.文献が明確に記載するところでは、曹操は薄葬を主張している。かれが臨終の前に下した「遺令」によると、
「遺体は平服でつつみ」、「金玉珍宝をたくわえない」とされるが、今回の墓葬の中身で証明できる。
墓葬の規模は小さくないが、墓内の装飾は簡単で、壁画はみえず、ことごとく質朴さをあらわしている。
兵器や石枕などには文字があり、みな曹操の平時の「常に用いる所」の器物であることを証明できる。
一見精美にみえるわずかな玉器などの装飾品もまた曹操が日常に帯びていた物である。

5.最も確実な証拠は、「魏武王」の銘文が刻まれた石牌と石枕があり、墓主を魏武王曹操と証明できること。
文献の記載によると、曹操は生前にまず封ぜられて「魏公」となり、のちに爵位を進めて「魏王」となり、
死後の謚号を「武王」とした。その子の曹丕が帝を称した後は追尊されて「武皇帝」となり、「魏武帝」と史称された。
出土した石牌と石枕に刻まれた銘は「魏武王」を称しており、ちょうどこれは曹操の葬られたときの呼称である。

6.墓室の中から発見された男性の遺骨は、専門家の鑑定で年齢60歳前後で、曹操の享年の66歳と符合するため、
曹操の遺骨とみられること

4 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:06:22 .net
三国志武帝本紀より

六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地.其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹.
周禮?人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵.
其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容.」

218年6月、布令を出した。『古代の埋葬は、必ず地味のやせた土地に行なった。
西門豹の西の高原上に寿陵(生前に作る陵墓)を作れ。高地を利用して基礎とし、土盛りをせず木も植えずともよい。
『周礼』においては、冢人が君王の墓地を管理し、すべて諸侯〔の墓〕を王陵の両側の前のほうに、
卿・大夫〔の墓〕を後の方に置いた。漢の制度も同じでそれを陪陵と呼んだ。
公卿大臣将軍のうち功績のある者〔の墓〕を寿陵に随従せしめよ。
したがってそれらを充分包含しうるように、墓域を広大にせよ。』


同武帝本紀

庚子、王崩于洛陽。年六十六。
遺令曰、天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。
其将兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無蔵金玉珍宝。
諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。

(正月)二十三日、王(曹操)は洛陽にて崩御なさいました。
六十六歳でした。遺令にいわく、
「天下はなおのこと安定しておらず、古いしきたりに従うことはできない。
 葬儀がおわったらば、皆の服喪を除く。
 将兵で地方にたむろしそこを守る者は、皆そこから離れてはいけない。
 役所にいる者は、それぞれの仕事を率いなさい。
 遺体は平服で埋葬し、金銀や珍しい宝を蔵(おさ)めてはいけない」。
諡を武王といい、二月二十一日、高陵に葬りました。

5 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:07:37 .net
今回の発見に繋がった1998年に見つかった魯潜墓誌について
西暦345年後趙の建武年間において大僕卿?馬都だった魯潜の石碑には、

趙建武十一年大歳在 乙巳十一月丁卯朔故 大僕卿?馬都尉勃海
趙安縣魯潜年七十五 字世甫以其年九月廿 一日戊子卒七日癸酉
葬墓在高决橋陌西行 一千四百廿歩南下去 陌一百七十歩故魏武
帝陵西北角西行?三 歩北迴至墓明堂二百 五十歩■上黨解建字
子奉所安墓入四丈神 道南向

とあり、「墓は高決橋の道を西に1400歩、南に170歩、故に魏の武帝陵は北西の方角、
西行43歩、北回りで墓へは250歩」が曹操の墓の場所をあらわしている

1歩=約140センチ

6 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:10:20 .net
曹操の遺体がギョウに運ばれた根拠

三国志夏侯尚伝より
定代地,還.太祖崩于洛陽,尚持節,奉梓宮還?.

晋書宣帝本紀より
及魏武薨于洛陽,朝野危懼.帝綱紀喪事,?外肅然.乃奉梓宮還?.

どちらも曹操の棺を奉ってギョウに帰還している

7 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:13:41 .net
72の偽墓説について

http://www.why.com.cn/epublish/node4/node27986/node28001/userobject7ai205914.htmlの翻訳
〜72体の偽の墓の伝説は?〜
1700年もの時間が経ってようやく曹操の墓は今回見つかったが、72体の偽の墓の伝説は一体どこから来たのか。
藩氏が言うには、これは完全な根も葉もない伝説だったそうです。
「これは時代背景が大きく影響しており、曹操の墓が地表に何の目印もなかったことから、
唐時代以後に完全に位置がわからなくなってしまいました。その後の宋の時代に尊王思想が強まり、
当時の文人から「お上をないがしろにした者」として曹操は奸臣だと批判されるようになり、
その後小賢しい曹操は河北に72体もの偽の墓を作ったと信じられるようになっていったのです。
しかし清時代の末期に数多くの墓が盗掘に遭った所、偽の墓とされていた墓所からは東魏や北斉期のものだとわかり、
現中国が成立後、我々考古学者は改めて発掘と研究を進め、今回ようやく曹操の墓だと証明する事が出来ました」


以上は調査隊の一員で老古学者の藩氏による解説
72の墓色々は曹操につけられた悪評が生んだデマという結論

また、偽墓説の起源は明の陶宗儀が書いた輟耕録という私集で、文献的根拠は無いという意見

8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:18:12 .net
今回の調査隊の過程がわかる動画
http://v.ku6.com/show/U6wHWzrNS6guGz7j.html

武帝紀
水經註
後趙・建武年間の彫刻柱
曹丕の武帝哀策文
曹植の誄文
夏侯尚伝
宣帝紀
陸機の弔魏武帝文
後趙建武年間西暦345年に大僕卿?馬都尉だった魯潜の墓誌
文帝紀

等を文献的根拠とし、それを元に数年に及ぶ実地測量をおこなっている
2005年は墓を特定したが、発掘許可が下りなかった
2008年12月盗掘者が逮捕されたことを受け、墓を保護するということで許可が出る
その後現在に至る

9 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:32:33 .net
その他

科学的根拠
一時期DNA検査が期待され、自ら願い出る住民もいたが、父系の検査は現代科学でも不可能だった

陵墓付近に配下の墓が無いこと
>>4の記述どおりなら周りに墓があるはずという疑問が出た
これについては遷都したことで有耶無耶になったという意見が多かったが、確定情報はまだ出ていない
今後の情報待ち

二人の女性について
これは不明
殉死という意見も出たが社会科学院でも確定情報はない
今後の情報待ち

夏侯惇の墓説
曹操の右腕であった夏侯惇の墓だという説だが、
許昌の墓を否定し今回の墓を本物とする文献的根拠が無い

冉閔の墓説
曹操以外で魏武王となった唯一の人物だが、
死んだ場所が今回の墓からかなり離れていて、墓が作られたと言う記述すらなく
しかも冉閔は敵に破れて殺されていて敵には墓を作る理由などない
根拠が余りにも足りない状況

10 :無名武将@お腹せっぷく:2010/01/25(月) 22:38:26 .net
http://j.peopledaily.com.cn/94475/6868748.htmlより
中国社会科学院の老古研究所王所長のコメント

考古学者が墓の主人が誰であるかを判断する際には、墓の形制、規模、規格・年代などを主な判断基準とする。
特に、文字資料など墓からの出土文物は貴重な資料となる。
考古学者はこれまでにこのような考古研究法にもとづき、河北省満城県にある前漢時代の中山靖王墓や、
広州市にある前漢時代の南越王墓を断定してきた。
西高村の「曹魏高陵」についても同様に、この方法を適用することができる。

西高穴村の「曹魏高陵」が本物かどうかの判断根拠となったのは発掘された考古資料で、
その後に集められた副葬品などは、あくまでも参考品にすぎない。
魏武王の元号期間が1年にも満たなかったことから、ここに埋葬された時期は特定可能であるうえ、墓の規格レベルは高く、
形制上の特徴は並外れている。特に、墓の方位は歴史的文献と一致しており、出土文物に記された銘文に残された墓の主人に関する情報は、
本物と断定する決め手となり、疑いをはさむ余地がない。

「曹魏高陵」が「2009年中国六大考古新発見」のひとつに選出された根拠は、その学術面での重要性であり、社会の関心度ではない。
社科院考古研究所はこれまでにも、六大発見を選出する際に、学術的価値を重視してきた。
発掘された出土文物の中には、特に精巧でも美しいものでもなかったり、社会から注目されているものではないけれども、
学術研究上あるいは歴史・文化研究上極めて重要な意義があるものは、選出の対象となってきた。

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