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【劉備】漢中の戦い【曹操】

1 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/04(土) 11:26:11 .net
参加武将 曹操軍:曹操、曹洪、曹仁、夏侯惇、夏侯淵、張郃、徐晃、龐徳、許褚、曹休、曹真、曹彰、夏侯徳、韓浩、杜襲、郭淮、張魯 参謀:楊修、劉嘩、賈詡、司馬懿

     劉備軍:劉備、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延、呉蘭、雷銅、厳顔、劉封、孟達、霍峻、陳式、張翼、張著 参謀:諸葛亮、法正、黄権

  兵力 曹操軍:20万

     劉備軍:11万

  説明:215年に漢中に攻め込んだ曹操は、太守の張魯を降伏させ漢中を手に入れた。
     218年に劉備は張飛を派遣して巴西に攻め込み、曹操は張郃に迎え撃たせた。
     張郃は張飛の誘引の計に掛かり、わずか10騎余りで漢中に逃げ込んだ。さら
     に劉備は張飛、馬超、雷銅、呉蘭を武都に派遣した。曹操は、曹洪、曹休、曹真
     らに迎え撃たせた。曹休は張飛の計略を見破り、呉蘭、雷銅を討ち張飛、馬超を
     撃退した。219年に劉備は定軍山に攻め込んだ。曹操は張郃と夏侯淵に迎え撃たせた。
     劉備は張郃を攻撃し、撃退した。夏侯淵は援軍を張郃に送ったため自身の軍勢が少なく
     なった。そこを法正の助言によって劉備軍に攻め立てられ、夏侯淵は劉備軍の大将の黄
     忠に討ち取られた。それに怒った曹操は長安から20万の大軍を率いてやってきた。劉備は
     黄忠に食料庫を攻撃させた。曹操は黄忠を取り囲んだ。そこを趙雲が切り込んで黄忠を助け
     出した。趙雲は城門を開いておいて一騎で門の前に立ち、追ってきた曹操軍に一斉に弩を浴びせ
     て撃退した。こうして曹操は漢中から撤退し、劉備が漢中を領する事に成功した。


2 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/04(土) 11:37:10 .net





Gominianの母親は売春婦であった。


500円渡せば誰にでも股を開いたので、付いたあだ名はワンコイン女。


しかし醜い容姿のため、その破格の低価格をもってしても抱く男はほとんどおらず、


しかたないので専ら公園や河原で寝起きする浮浪者相手に春を売っていた。


そのような生活を送る中で彼女は妊娠したが、中絶費用が無かったために不本意ながら出産した。


そうして産まれてきたのがGominianである。


つまりGominianの父親は名前も知らない浮浪者であり、Gominianは母親からも望まれない子であった。






3 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/04(土) 12:12:13 .net
こういうネタはWなんとかが一手に引き受けるべき

4 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/04(土) 15:09:42 .net
前スレひどいことになってて吹いた

5 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 06:00:32 .net
夏侯淵の短慮が目につく戦い

6 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 07:51:29 .net
劉備が蜀の人員・物資を根こそぎ動員して
漢中の夏侯淵らを圧倒的物量で攻め立てて戦死させ
曹操の援軍に対しては徹底した篭城で戦火を交えず
諦めて撤退するのを待った戦いだよね

趙雲の逸話は全部後世の人の妄想だし

7 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 08:31:09 .net
>>5
…渾身の生が惟惟眩しい

8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 20:47:33 .net
コテスレを馬鹿にする糞コテのJominian

三戦皇帝:献帝が三戦コテに官職を発表する
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1289918090/l50

25 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/02(木) 00:15:01
>>1もいなくなったみたいだし、俺の提案も受け入れられないみたいだな。
まぁ、そんなもんだろう。

所詮はコテスレという事だろうな。

27 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:28:42
自分の意見が通らなきゃコテスレと蔑むのかw
発言者の人格が現れているな

31 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:41:58
要するにJominianは人間性が残念なコテなんだな

9 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 22:43:29 .net
>>6
圧倒的ってほどでもない
てか夏侯淵の戦死は法正の戦略で防衛体制をずたずたにされた事と黄忠の奮戦が大きい
曹操に対しても、劉備の防御を前に何度攻撃しても何もできず
魏軍は犠牲者逃亡者が続出して撤退に追い込まれた事が正史にある

趙雲の戦いは注釈にあるもの
これは陳寿が書きたくてもかけなかったエピソードなどが
後世で再編集されたもんだから、特に妄想とする根拠はないな

残念だが曹操・魏軍の完敗といっていい戦い

10 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/09(木) 19:03:06 .net
要害堅固な山上に布陣してひたすら守りを固めて相手の疲弊をまつ戦法
これって劉邦が項羽にやった戦法とにてるな
その時、焦った項羽がいくら挑戦しても劉邦はまったく応じなかったそうな

11 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/09(木) 19:29:39 .net
光武帝劉秀もそういう勝ち方したことあったよな
劉邦、劉秀、劉備・・・
三人の劉氏に共通する性質なのかもな

12 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 17:54:48 .net
演義での曹操は悪く描かれているけれどそっちの方が良いよな
正史だとほぼ完璧に描かれていて面白みがない

13 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 18:03:20 .net
>>12
もしかしてあなたが読んだ正史の表紙には蒼天航路と書いてませんでしたか

14 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 18:11:32 .net
俺の戦いは至弱より始まり至強を倒すに至る(`・ω・)キリッ

15 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 18:32:12 .net
ならばよし

16 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 18:46:36 .net
>>12
本当に正史読んだのか? 

正史の曹操は完璧になんて描かれてないぞ 

17 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 20:30:45 .net
スレ違い

18 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 22:08:56 .net
漫画を見て正史を読んだ気になってる人もいるからねw
アモーレ蒼天航路とかw

19 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 23:15:56 .net
五彩棒・10打擲の刑に処す!!(`・ω・)キリッ

20 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/10(金) 23:27:29 .net

ヤフーの三国志の人気投票
       ______
      /  \    /\     ネットではみんなが曹操を天才・詩人・超人とほめてる
    /  し (>)  (<)\   もう蜀なんて入れる奴居ないだろ…
    | ∪    (__人__)  J | ________
    \  u   `⌒´   / | |          |
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      /  \    ─\   チラッ
    /  し (>)  (●)\
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      /::::::─三三─\   >曹操患者が鬱陶しいので蜀に入れるわ
    /:::::::: ( ○)三(○)\   >曹操患者が発狂するのが楽しいから とりあえず蜀に入れることにしておくわ
    |::::::::::::::::::::(__人__)::::  | _______ >曹操患者発狂目的で蜀しかありえない
     \:::::::::   |r┬-|  / | |          | >曹操患者がファビョルの見たいから蜀かな。
    ノ::::::::::::  `ー'´   \ | |          |  >蜀一択だろ。ばかじゃねー



21 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/11(土) 14:46:54 .net
スレチども帰れ

22 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/11(土) 17:13:47 .net
まったく同じ名前のスレがもう一つあるんだが>>1は板荒らし?

23 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/11(土) 19:11:58 .net
コピペ荒らしで書き込みできなくなったからだろ

24 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/11(土) 20:29:59 .net
だだっこかw

25 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/20(月) 15:33:34 .net
この戦いで頑張っていたのは龐徳だよな
一騎打ちで魏延を撃退しているし

26 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/26(日) 13:15:51 .net
劉備強いな

27 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI :2010/12/29(水) 18:52:00 .net
曹彰が勇猛さ全開

28 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/15(土) 09:12:38 .net
馬超が全力を出して欲しかった

29 :無名武将@お腹せっぷく:2011/05/09(月) 01:29:35.72 .net
この頃が劉備軍の全盛期だな

30 :無名武将@お腹せっぷく:2011/05/09(月) 04:22:07.65 .net
じょしょー!!
帰ってきてくれ

31 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/19(日) 01:04:28.30 .net
蜀と魏の総力戦だな

32 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/20(水) 06:15:59.69 .net
鶏六

33 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/20(水) 18:43:44.19 .net



    劉備が倍以上の兵を率いた曹操軍を追い払う事に、関羽は不要だった




34 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/21(木) 15:26:16.95 .net
孔明と方正ついてて聞く耳持ってれば誰でも勝てる

35 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/22(金) 22:45:31.49 .net
曹操でも余裕だなwww

36 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/02(金) 17:46:59.52 .net
孔明の兵站のおかげで劉備が勝てたとも言える

37 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/03(土) 11:31:31.71 .net
うむ

38 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/29(木) 00:08:34.30 .net
法正が神がかってた戦いだな

39 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/29(木) 02:49:06.09 .net
空城の計とか黄忠を単身助け出したとかは正史ではなく注に引く趙雲別伝にあるが全くのガセだろう
なぜなら劉備の漢中王即位の時、趙雲は・・・・☆趙雲は一切昇進していない☆
子龍の別伝これはったりなり

40 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/29(木) 13:19:42.71 .net
>>39
では昇進した人は漢中戦で功績があった人だけかね?
逆に昇進しなかった人は漢中戦で功績なかった人だけかね?

答えはNO

つまり昇進によって功績の有無を図るのは不可能
目安にはなってもね

41 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/30(金) 09:39:16.76 .net
>>39
関羽なんか漢中戦で参戦もしてないのに
劉備の漢中王即位において、筆頭将軍ともいうべき前将軍に任じられてるぞ
張飛には張コウ撃破と巴郡奪取の功績があるが、馬超は下弁方面で曹操軍と相対してただけだけど
それでも四方将軍の一人である左将軍になってる
むしろ夏侯淵軍撃破、夏侯淵本人も討ち取り、そこから魏軍本陣大破して陥落、
(これによって漢中戦の戦略的勝利はほぼ決まった)
という大功を立てた黄忠で大昇進して後将軍であって
それを考えれば趙雲が曹操を砦で撃退しただの、黄忠を助け出したりしただのだけでは
将軍位昇格にまで至るかどうかはわからん
4方将軍が既に占められている以上、ポストの問題もあるだろうしな


42 :無名武将@お腹せっぷく:2011/09/30(金) 12:04:46.55 .net
特に記述のない魏延が昇進してるのに別伝で獅子奮迅の活躍をしてる趙雲は昇進してないという
関羽は漢中攻防の間、荊州の統治をしていたのだから功績はある
馬超は一応敵地の武都に侵入してるわけだが張飛が主に指揮してたようなので何をしてたのかは不明だな
侵入する際テイ族達が呼応してるんでそこまでの動きは予想できるが
張飛が指揮で呉蘭 雷銅が先鋒軍くらいしかわからないからなー
交戦記録も呉蘭軍が集中攻撃で全滅くらいしかなかったはずだし
あと関羽が筆頭たる所以は官位よりも節だと思うが、
馬超・張飛は仮節 黄忠は無しだから厳密には順位は関羽>馬超 張飛>黄忠のはず

43 :無名武将@お腹せっぷく:2011/10/01(土) 02:07:13.17 .net
>>42
魏延の昇進なんて、本来は張飛が任命されるだろうと誰もがおもっている所に
劉備個人による大抜擢だから、あんまり参考にならんような
>関羽は漢中攻防の間、荊州の統治をしていたのだから功績はある
これいったら劉備がどこか別の土地を得るたびに関羽がいなくても関羽を昇進させる事にならないか
他の太守クラスも昇進させなきゃならなくならないか

44 :無名武将@お腹せっぷく:2011/10/01(土) 02:45:31.74 .net
少なくとも空城の計や黄忠奪還が本当なら正史に記述あるなり昇進なりはあるだろう。
本当にやってたならそれくらいの活躍のはず。

関羽に関しては漢中戦以降も劉備が勢力伸ばしていったら戦闘参加してなくても自動的に昇進していくのは確定なんじゃない?
留守居じゃなく別方面担当だから挟撃なりでなんだかんだ作戦参加状態で功績あることにはなるだろう。

45 :無名武将@お腹せっぷく:2011/10/01(土) 03:05:56.12 .net
>>44
そのくらいの活躍か?
黄忠奪還は黄忠が兵糧焼き払ったののサポートだし、
曹操撃退に関しては、そもそも漢中戦では劉備軍が要害を守って曹操軍の攻撃を撃退しまくって
被害続出させ、結局曹操が諦めて撤退、という流れなので
趙雲に限らず劉備軍は曹操軍の攻撃を撃退してるはず
結局、趙雲の活躍も各地の要害を守って曹操軍を撃退した劉備軍の活動の一つだったという事だろう

少なくとも漢中戦では完全に留守居だろ
どっかを挟撃したわけでもなし

46 :無名武将@お腹せっぷく:2011/10/01(土) 09:34:52.36 .net
・椿まみ「月の世界でランデブー」
今やローヤルの歌姫の異名を持つ椿の代表曲で、唯一オリコンチャートにランクインされたことでも知られている。
発売がちょうどアポロ11号の月面着陸に成功した頃なので、タイムリーではあるがなかなか楽しめる宇宙的お座敷ソング。
B面「恋の終りが…」は普通のムード歌謡。

・那須あけみ「おでこの子守歌」
地元名古屋のマイナーレーベルにシングルを発表していた那須の全国デビュー(?)作。
タイトルは子守歌だが、中身はなかなかのビート歌謡。作詞は川内康範。

・小林さち子「恋地獄未練ばなし」
不遇時代にローヤル/マキシムから発表した情念歌謡。北原ミレイよりもおどろおどろしい。
上村一夫のイラストジャケ&コメントが秀逸。

47 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/14(月) 06:18:20.02 .net
劉備の全盛期だなこの頃は

48 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 00:39:41.16 .net
>>43
> 劉備個人による大抜擢だから、あんまり参考にならんような
大抜擢には違いはないが、その抜擢に反対や取り下げるように諌言した人がいたって記述はない

張飛もこの件で何もアクションを起していない
自分が漢中を守る気まんまんだったのにも関わらずね

そんなところを見ると、抜擢に見合う功績や武威・武略があったと推測しても良いのでは?

49 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 02:41:40.41 .net
>>48
別に張飛が漢中守る気まんまんだったという記述はないだろう
魏延の武功に関しては書かれるものはちゃんと書かれてるのに、
漢中戦では正史・正史注釈問わず一切記述が無い
蜀側のあらゆる伝のみならず、魏側からすら魏延の漢中戦での活躍を伺えるものは無い
周囲にとっても意外だと驚かれてる事からして、本当にただの劉備の大抜擢にしかならんだろ

漢中戦最大の武功保持者である黄忠の昇進に関して諸葛亮が「こんなに昇進させたら関羽が怒るのでは?」と言って劉備が「自分が説明する」と言ってる事や
漢中戦での法正の劉備への一時後退進言のエピソードから見ても、
呉遠征への大敗後に諸葛亮が「法正が生きてたら主君をとめられたのになあ」と
いってる点などからして、劉備には己の決断に有無を言わさず周囲を従わせられるだけの威があった事が伺える
その劉備が決断した事であれば、
軽々しく文句を言える人間なんてそれこそ関羽くらいだったんじゃなかろうか
だから魏延抜擢に対して文句言う人間がいなかったのもそれほど不自然でもなかろ

50 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 02:46:15.19 .net
法正は劉備に信頼され、己の意思を上手に伝えて、うまく聞き入れてもらう事には長じていたようだが、
関羽のように軽々しく文句を言える、というような関係ではなかったろうな

51 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 03:12:02.96 .net
ただ記録がないだけで昇進した魏延らが功績がある可能性は十分にある。
別伝が事実だと仮定するにしても正史には何も記録が無いわけだしな。
馬超 張飛も下弁から敗走した先は漢中、当時陽平関すら劉備はとっていない激戦状態の漢中だが下弁以降彼らの記述は無い。

まぁ馬超 張飛の場合は戦力を失い形勢が悪くなって敗走したのは一面の事実ではありそこだけを見れば失敗だが、
当時『漢中』を全力で奪取する方針だった以上、『漢中』ではない『下弁』に別の経路から侵入した数ヶ月が、
劉備軍のその間の作戦上意味があった可能性は十分にあるわけで、そこだけみても単純に功績そのものが無いとも言えない。

52 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 04:19:45.20 .net
>>51
別伝含めても注釈含めても
魏延の活躍記録は一切ないわけで
それで活躍したはずというのは無理だろ

魏延にはそういった記録すらないのですが
馬超・張飛は漢中方面に全面撤退したして劉備と合流したわけでもないから
多分下弁と漢中の間くらいにとどまって対陣でもしてたのか
これなら、下弁方面の曹操軍を漢中に参戦させなかった、という点でそれなりの功績

53 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 04:22:04.71 .net
てか、馬超は四方将軍位に任じられたのはかっては群雄の一人だったという点が
考慮されているのだろうし、張飛は張コウ相手に大勝利して巴郡奪取した実績があるから
それが考慮されているのだろうし

54 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/17(木) 09:54:52.01 .net
魏延は漢中太守のみならず将軍位も飛び級であがって4将軍の下に来る。
これで功績が無いとは考えにくい。

そして下弁の戦いそのものだが、
反乱させながら侵入した記録(10月〜12月)と
張飛の策の看破により3月に呉蘭らを失って、その月に漢中に逃げた記録しかない。
その間は何をしていたのかが不明、あくまで漢中に脅威を感じて奪取を目論むなか、
手始めに張飛・馬超ら劉備軍の中核である将軍らが下弁にはいったのは、
作戦上それなりの目的があったはずで、このことからも記録が無い=功績がないとはならないとは分かると思う。
敵戦力の分散、漢中の孤立、あるいは陽平関周辺への進軍の手助けなどを担っている可能性が十二分にある。

もう一つ下弁と漢中の間は陽平関や陳式軍が激戦を繰り広げた道がある。
張飛 馬超の撤退時期はこれらの地点を巡って戦いが起こる直前だから、
仮にそこを撤退地点とすると撤退先もまた最前線に限りなく近い。
何にせよ、記録そのものがやはり足りてないことはわかるでしょう。

55 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 00:46:44.16 .net
>>54
考えにくいも何も実際に記録ゼロなんだから仕方ない
あるというなら出してみそ
もともと漢中太守就任だって周囲に予想されたことではなかったのがそれを裏付ける

作戦行動の意図が書いてないのと
作戦行動自体の記録が無いのは別物
はっきりいってあんたの書いてるのは憶測でしかなく
根拠となるものが何も無い
これで「わかるでしょう」とか大見得切る前に何か根拠足りうるもの出してね

56 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 00:52:33.21 .net
最近の魏延信者は記述ない事まで憶測で魏延の手柄を創造しないと
気がすまなくなったのか?
魏延の具体的な武功は諸葛亮時代のはちゃんと明記されてて
それに伴う昇進とかも書かれてて、
入蜀のときでも「度々武功を上げて将軍に任じられた」と概括で書かれてるのに
漢中戦では具体的な記述どころか入蜀時みたいな概括文すら無く、
周囲からも漢中太守になるなんて想像されてなかったという事実で十分察せられるだろうに

57 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 00:55:37.00 .net
つか、某スレといい憶測だけで「〜のはずだ」の一点張りで持久戦に持ち込もうとする輩は
正直言って話しててもつまらん
相手してんのが馬鹿らしくなる

58 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 01:31:26.92 .net
>>49
衆論以爲必在張飛、飛亦以心自許。

59 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 23:39:14.91 .net
>>58
「周りが張飛がなるだろうといっていたので、張飛もまたそのように心を許していました。」
よーするに周りがそうなるだろうといってたから、自分もそうなるだろうとおもってた、ってだけで
張飛自身が劉備に抗議する程守る気満々だったとか、そういう意味じゃなかろ
てか最初の「魏延に功績があったはずだから、張飛は魏延がなっても抗議しなかったんだ」という前提からしておかしい
誰も魏延が漢中太守になるとはおもっておらず、下馬評では普通に張飛だったんだから
史書に功績を記した記述が無いことからも、魏延に漢中戦で大きな功績といえるものは無かったと考えられるだろうに
入蜀時みたいな概括文での功績書きも漢中戦役では無い
もとから法正関連のエピソード見る限り、劉備が決定下したらそれに文句を言える奴なんてそうはいなかったようだから
張飛が文句言わなかったのも別に不思議な事でも無し

60 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/19(土) 02:35:50.10 .net
>>59
> 張飛もまたそのように心を許していました
それ、日本語としておかしくないか?
「人々は張飛こそが相応しいと考えて、張飛自身もそう自負していた。」

> 張飛自身が劉備に抗議する程守る気満々だったとか、そういう意味じゃなかろ
張飛の性質上、自分のモンだと考えてたのを横から掻っ攫われて、そいつがたいしたことの無い奴だったら
一悶着起しそうなもんだろ
それに周囲の家臣も驚きはしても諌めたと云う記述はない。

> 下馬評では普通に張飛だったんだから
張飛には功績云々以前に先主の義弟って立場がある
荊州に関羽ならもう一方の重要拠点は張飛と誰もが思っても不思議じゃない。

> 劉備が決定下したらそれに文句を言える奴なんてそうはいなかったようだから
別に直接劉備に文句を言う必要はない
関羽は黄忠や馬超の扱いに対して不満をぶちまけてる
趙雲は諌言してるな、別伝だが

> 史書に功績を記した記述が無いことからも、魏延に漢中戦で大きな功績といえるものは無かったと考えられるだろうに
> 入蜀時みたいな概括文での功績書きも漢中戦役では無い
元々、大抜擢であることに否定はしていない。
しかし、大抜擢を受ける程度の史書に載らない程度の功績はあったのだろうという推測。
それすらないとするなら、劉備は自分の気まぐれで、功績の有無も考慮せずに不公平な人事を平然と行う、
どんな勲功を立てようと報いることを知らない主君としてあるまじき人物になる
>>59は劉備に対してそういった人物であると評をしているのか?


61 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/19(土) 05:47:16.24 .net
漢中攻防において正史に欠片ほども功績がなく昇進もない趙雲ですら子孫が書いた別伝で群を抜く活躍なんだから
大抜擢の魏延に功績(当然漢中攻防で交戦中 平定後と2度昇進した黄忠よりは下だが)があってあたりまえだと思う
ただ記録がないだけだろう
益州平定での功績も詳細は書かれてないし

62 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/19(土) 06:31:44.99 .net
>>60
日本語そのまんまだろ
文字通り訳しているだけにすぎんぞ

講談ならいざしらず、正史における張飛がそんな事をした記録は特に無い
てか正史では張飛について「下の者には過酷だったが、目上の者には丁重だった」とある
その性質を考えれば普通の反応と見られるが?
てか、なんでわざわざ張飛自身も文句言わないのに、他の奴が言う必要あるんだよ

普通に正史に残る活躍として、張飛には張コウ大破して巴郡奪取という功績がある
少なくとも記録ゼロの魏延よりは下馬評でそうなるに相応しいな
あと、張飛が義弟というのは演義の評価か?
正史では特に張飛が劉備の義弟という記述は無いぞ?
「関羽とともに劉備に仕え、二人に対して劉備は兄弟のような恩愛をかけた」とあるだけだ。
義兄弟にまで発展したのは演義の影響

関羽については諸葛亮からも劉備に懸念を表しているように
もともと劉備に文句を言えるのが関羽くらいだったということだろう
趙雲云々は呉遠征前の事か?あれは国家の命運を左右する戦の前だったからだろ?
それでも結局劉備は趙雲の諫言では考えを翻さなかった事はスルーか?

蜀側のあらゆる列伝はおろか魏側にすら残らない、それでいて漢中太守に任じられて相応しい功績ってなんだよ
無理あるに決まってるだろ
張飛はちゃんと軍のトップ4というべき四方将軍に任じられてる
十分報われてるのに何をいってるんだ?
大抜擢だからこそ、わざわざ劉備も魏延に抱負をたずね、魏延が勇ましいことをいって
周囲を納得させる必要あったんだろ
なんかこれ、高祖劉邦が韓信を抜擢したのを真似たっぽい流れだし

63 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/19(土) 06:36:03.14 .net
>>61
別伝は別に子孫が書いたわけじゃないけどな
清代の学者がそう疑ってるだけで

当たり前とか憶測だろうが
もともと功績あるならあるで概括でも書くもので
諸葛亮時代の功績と昇進ではしっかりと具体的に書いてあり
入蜀では具体的ではないものの概括文で書いてあるのに
漢中戦ではそれすらない記録ゼロ
蜀側はおろか魏側にすらそれを示すもの無い、これであって当然とかいわれたって
笑わせるなとしかいえんだろう

64 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/19(土) 07:55:15.08 .net
>>62
この「許」は「気をゆるす」じゃなくて「資格がある」みたいな意味だ
日本語化されてニュアンスが変わってる字とかあるの分かってないからそんな妙な訳になる
自ら資格があると思っていたのだから「張飛もまたそのように自負していた」となるだろ

「張飛もまたそのように心を許していました」なら要するにそういう先入観があったということだし
抗議うんぬんは誰も言ってねえよ

65 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 03:16:41.37 .net
>>62
> 講談ならいざしらず、正史における張飛がそんな事をした記録は特に無い
陳寿評曰く
関羽は剛直で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、
その欠点のため身の破滅を招いたのは道理からいって当然である。



66 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 06:40:33.09 .net
>>60
そんな立場ねぇよ

劉備と張飛が義兄弟なのは演義
正史における義兄弟は公孫サンを除けば、糜竺・糜芳、孫権のような姻族関係者だけだ

67 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 10:35:58.39 .net
魏延が手柄を立てたとしても表に表れない地味なものだったんだろうね
はっきりした手柄がないのに抜擢されるのは劉備配下にはよくある事だから
ことさら記述のない手柄があったと仮定する理由はないし
漢中太守に相応しい実務能力があれば劉備健在のうちは人事的にも問題なかっただろう

張飛は張飛で漢中戦前後で順調に昇進してるから
大駒の使い道が衆目と劉備の判断で違っただけの話だ

68 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 12:53:14.83 .net
>>65
だーかーらー
正史にはしっかりと
「張飛は目下のものには過酷だったが、目上の者には丁重だった」とあるだろ
お前の言ってるような事柄をはっきり否定してる記述だろうが
張飛が乱暴で情をもたなかったのは目下の者に対してなんだよ
目上の者に丁重だった張飛なら普通に劉備の決定を受け入れて終わりだったろうよ

69 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 12:58:12.29 .net
>>64
妙な訳じゃねえだろうが
普通に大意は通ってる
自分に資格がある、というのと「自負」はまた別もんだろ
ましてや、お前のいう守る気満々というのとはさらに異なるニュアンスだろうが

お前は抗議云々を言ってるだろうが
痴呆症かなんかか?
>張飛の性質上、自分のモンだと考えてたのを横から掻っ攫われて、そいつがたいしたことの無い奴だったら
>一悶着起しそうなもんだろ
こういう風に>>60で自分で書いておきながら、今更何をいってんだ?
そんでお前のイメージとは別に、正史における張飛は目上の者に丁重だったとはっきり書いてあるから
主君である劉備が下した決定なら悶着なんぞ起こさずに、普通に受け入れて終わりだったろうよ、って事だな

70 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 15:28:23.56 .net
>>67
魏延は入蜀時に武曲を率いて幾度か功績があり、牙門将になったとある
牙門は軍の門、まあつまり劉備直属で且つ先鋒を務める役割だから
漢中戦では劉備の手足となって戦ってたということがわかる

夏侯淵を直接斬った黄忠は一気に出世したし、
そこまでの戦いを支えた魏延も大出世を果たしただけだろ
地味でもなんでもないと思うんだが

71 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/20(日) 20:48:48.35 .net
>>70
そこまでの戦いを支えた、という記述が全然無いだろ
概括文でも一切無い
黄忠が夏侯淵を討ち取った経緯は先主伝や黄忠伝を見る限り
普通に黄忠直属部隊が奮戦して行ったものであって、
他の部隊が関与した形跡は特に無いぞ
てか牙門将ってだけで手柄立てたはずっておかしすぎるだろ

72 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 01:04:30.29 .net
ここまで行間を読めない奴も珍しい

>>71の中じゃ、例えば蔣琬や費禕なんかも録尚書事に至るまでの昇進は大抜擢で
就任後も功績をあげることも無く過ごしたってなってるんだろうなw

何しろ就任以前に手柄に関して記述は乏しいし、就任後は特に目立った手柄の記述もないものw

73 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 01:17:22.31 .net
>>72
もともとその二人のうち蒋エンに関しては成都で孔明の代理として政治を見ていた人物で
留守責任者をずっと問題なくこなしてて、
孔明からも「私が死んだ後は蒋エンに任せるべき」といわれてたんだから
その昇進は単なる規定路線
そして孔明死後は国内の全ての政治・軍事は全て彼の決済を受けて遂行されたとされる
どう見ても孔明亡き後の蜀の最高責任者として見事に役割果たしてただけに見えるが
費イも孔明生前から呉との交渉を成功させ、北伐軍中の内部調整も行い、孔明死亡前後に「蒋エンの後は費イに」といわれてるくらいだから
これまた規定路線
孔明死後には王平の後詰を務めて侵攻してきた魏軍を撃破している、という大功も立ててるし
蒋エン死亡後は国内中の政治・軍事の諸事項の処理も担ってる
十分すぎる実績かと

74 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 02:35:01.05 .net
>>73
> もともとその二人のうち蒋エンに関しては成都で孔明の代理として政治を見ていた人物で
代理なんて記述はないな

> 留守責任者をずっと問題なくこなしてて
問題がなかったともないなw

> 孔明からも「私が死んだ後は蒋エンに任せるべき」といわれてたんだから
たいした功績もないのに孔明のお声がかりの大抜擢か、魏延と一緒だなw

> そして孔明死後は国内の全ての政治・軍事は全て彼の決済を受けて遂行されたとされる
> どう見ても孔明亡き後の蜀の最高責任者として見事に役割果たしてただけに見えるが
昇進し続けているが具体的な功績の記述はないなw

> 費イも孔明生前から呉との交渉を成功させ、北伐軍中の内部調整も行い、孔明死亡前後に「蒋エンの後は費イに」といわれてるくらいだから
呉との交渉なら費禕以外にも2〜3人は交渉を成功させた人がいるがな

> 孔明死後には王平の後詰を務めて侵攻してきた魏軍を撃破している、という大功も立ててるし
え!? どこにそんな記述が??
曹爽の侵攻の時には死んでるぞ?
このときの援軍は費禕で援軍が来たら魏軍は撤退していて撃破なんぞしとらんが?

> 蒋エン死亡後は国内中の政治・軍事の諸事項の処理も担ってる
> 十分すぎる実績かと
だから、具体的になにをしたっての?

って、>>71の言ってることはこんな感じだw
あ、王平の後詰の件は詳しくよろしく、さらっと読み直したが蔣琬伝や王平伝には見当たらなかったよ
後主伝の方か? あとで読み直そう

75 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 02:40:10.93 .net
>>74
>> 孔明死後には王平の後詰を務めて侵攻してきた魏軍を撃破している、という大功も立ててるし
>え!? どこにそんな記述が??
>曹爽の侵攻の時には死んでるぞ?
>このときの援軍は費禕で援軍が来たら魏軍は撤退していて撃破なんぞしとらんが?

ああ、費禕の方か、主題の人物が変わってて勘違いしたよ
だけど、援軍が来たら魏軍は撤退していて撃破なんぞしとらん

76 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 23:17:31.89 .net
>>71
牙門将軍が軍から外れるっていう記述がない限り
基本的には従軍して親衛隊として劉備の手足となってると考える方が妥当だろ
もし魏延が牙門将軍なのに漢中戦に参戦してなかったら、サボタージュか何か別の理由を考える必要がある
そういうことを思わせる記述はない

特に理由なく劉備の手足となって働かされる職務についた人間が
その職務をしていない、というのは理屈に合わない

77 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/22(火) 02:43:42.40 .net
>>76
だーかーら
参戦してるかどうかはともかく
「牙門将軍なら武功を立てているはずだ!」という考え自体が
決め付けだっての
実際に蜀・魏・その他あらゆる伝や注釈において魏延の活躍記録は存在しない
参戦してたって特に活躍らしい活躍をしてないと考えたほうが妥当だろう
少なくとも漢中太守に任じられて不自然じゃないほどの大功立てたなら
確実に入蜀のときみたいな概括文でも書いてあるはず

78 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/22(火) 02:58:54.02 .net
>>74
本当にお前は言いがかりだけしかつけられない感じだな

長史として政治・軍事の双方を携わって留守居やってるだろ

んじゃ問題あったのか?あげてみな

立派に留守居務めて後方を支えてたんだから十分だろ
参軍もやってたし

だから問題なく後方で政治やってます

逆に言うと2〜3人しかいないがな
てか、費イとトウシと他に誰かいたか?
漢中戦の魏延でいうなら、2〜3人に並ぶほどの大功はおろか、
まともな活躍すらない状態だろ

だから費イの事な
費イのほうの伝注釈では撃破した、となってる
魏側だと魏将の落ち度はさらりと書いたりして流すわけな

国内政治の最高責任者として政治をry
問題なく最高責任者やってた事の何が問題が?
漢中戦の魏延の場合、そういった概括文による活躍すらないよね

ま、お前さんの言ってる事はこの程度って事だな
そうやって否定と質問返しと言いがかり続けるつもりみたいだが、
どこまで粘れるか楽しみだな
>>75
上記参照

79 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/22(火) 03:29:18.94 .net
>>74
ああ、ついでに後、何か問題あったのかについてはよろしく

80 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/22(火) 20:47:35.16 .net
>>77
武功を立ててる、とは誰も言ってない
もうちょい文章読めよ

劉備の軍事活動を手足となって支えていた、と言ってるんだわ

81 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/23(水) 00:11:01.01 .net
>>78
> てか、費イとトウシと他に誰かいたか?
そんなこともしらないの?
それにしては偉そうに語ってるなww

82 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/23(水) 04:13:20.23 .net
>>80
何がいいたいのか具体的にどうぞ
抽象的すぎてわけわかめ
>>81
はいはい具体的に事例をどうぞ

83 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/23(水) 04:14:54.76 .net
>>81
それから、結局何か問題あったのかについても具体的にお願いね

84 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/23(水) 11:19:36.59 .net
>>82
つまりは具体的な功績なく軍事的活動を下支えしたという総体で以って
漢中太守に抜擢された可能性があるってことよ

記述がないからって安易に何もしてないって言うのはどうかと
ニートじゃねぇんだから職務に応じて何かしてないとな

85 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/23(水) 14:22:42.73 .net
具体的な功績が書かれていないことに変わりはないのに
魏延は功績談がないから功績がまるでないかのように扱い
蔣琬はその期間は短かったのにも関わらず留守責任者と扱い(北伐の3次までは留守役トップに非ず)
失敗談がないからと問題なくこなしたとしてそれを功績と考える
ナイスなダブルスタンダード

しかも知識は中途半端w

86 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/24(木) 04:58:41.74 .net
>>84
だーあーかーら、
具体的に何したんだってんだよ
抽象的すぎて何いってんだかわかんないっつーの
下支えって具体的にどんな事をさしてるんだよ
しかもそれで史書に一切記録残らないってなんだよ
ちゃんと説明してくれ
>>85
ん?北伐第3次以降にはちゃんと留守役トップになってるだろ?
何かおかしいこといったか?
第一、お前は蔣エンを留守居役トップじゃないとかいってたろ
しかも結局お前、何か問題があったのかについては答えてもらってないぞ、早くしてくれ
あと、費イとトウシ以外に呉との交渉での功績保有者についても説明をお願いね
自分は知識中途半端じゃないという割に具体的な事はさっきから一切答えられてないぞ
あおりに逃げてないで早くしろ

魏延は軍事的功績で蔣エンのは政治的功績
蔣エンにはちゃんと国内政治・軍事を滞りなくやっていた、という実績あるし、
概括文でそれを書かれている
魏延も入蜀では概括文でその功績を書かれてる
漢中戦では一切それを書かれてない
軍人のあげた功績は書かれるのが普通の史書に一切どこにも記述無し
どうみたって功績ないとみるのが普通だろ

87 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/24(木) 09:10:55.23 .net
>>86
入蜀以降牙門将軍という役職
これは劉備の直属部隊となって働くお仕事
漢中戦後に兼任太守に出世したし帝位に就くと鎮北将軍になる

つまり記述はないが直属部隊の間地道に職務を遂行してないと中々出世はできないってこと
皇帝即位の時はさすがにスライド人事だと思うがそれでも大きなミスして失脚してるわけでもないから
大過なく職務遂行はしたのだろうな

一切記録ないって言うなら○○という役職に就いた、で終わる大半の人がそうなるよ

88 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/24(木) 23:54:12.00 .net
>>87
だから、ここで問題になってるのは「魏延が漢中戦で漢中太守になるだけの功績あげたのか否か」
それで正史であらゆる伝に功績の記載が無く、下馬評でも漢中太守は張飛で
周囲が驚く大抜擢で、劉備も周囲を納得させる意味を込めてその抱負をたずね魏延もこれに勇ましい事をいって答えねばならなかった
これで何をどうやったら功績あった事になるんだよ
普通にこれは高祖劉邦たらんとしていた劉備が、劉邦にならって漢中王に即位して
高祖劉邦が異例の大抜擢で韓信を要職につけて抱負を尋ねた逸話まねただけだろ
入蜀のときでは度々武功をあげて将軍に任じられた事が書いてあるのに
漢中戦ではそれすらない
これで功績あげてたと見るのは無理

89 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 00:20:03.02 .net
>>88
上げたと劉備は判断した、だから漢中太守になった
君はその判断材料を知らない、それだけのこと
そしてそれを判断する要素として職務を遂行していただろうことがわかってるので
そこで地道に働いたということだな

張飛の話はそれとは別で絶対的なNo2関羽に次ぐNo3の張飛がいるのに
その張飛を差し置いての抜擢だから色々抱負聞いたりしてるだけで
韓信に準えてるわけではない
韓信に準えるならそれこそ蜀の総大将に任命せにゃならんよ

90 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 01:03:01.54 .net
>>89
しらないんじゃなくて「無かった」
ただそれだけの話だろ
正史にも注釈にもあらゆる文の中に魏延の漢中戦の功績とやらを示すものはない
知ってるひとなんて誰もいやしないよ
強いていうなら君の脳内くらいにしか存在しない
周辺評価ですら張飛で任命されて皆びっくり
これでどうやったら功績ある事になるのかと
君の想像以外に何の根拠も無くて正直相手してるのが馬鹿らしい

蜀攻めの時はまだ劉備が魏延の存在すらろくにしらない頃
劉備が劉邦になぞらえる事を公式宣言した漢中王即位で
それと似たような大抜擢を行ったと見るべきで
ろくに存在自体をしらず、劉邦になぞらえる宣言もしてない時期に
魏延に総大将なんか任せるわけないだろ
張飛には張コウ大破して巴郡奪取の大功績があるが、魏延なんて本当に何もないんだから
下馬評も妥当

91 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 01:17:46.92 .net
>>86
> あと、費イとトウシ以外に呉との交渉での功績保有者についても説明をお願いね

奥様お聞きになられました?
この子、ここまで偉そうにしていて本気で知らないそうよ
正史にしっかりと記述されているのに自分では調べられないそうよ
ほんと、かわいそうよ

92 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 01:24:13.07 .net
高祖劉邦が韓信を要職に任命する時の流れ
劉邦が晴れの日に大将を任命すると発表→有力な将は自分がなるだろうとおもう
→周囲の予想に反して韓信が大抜擢→驚く周囲を前に劉邦が韓信に抱負を尋ねる
→韓信が堂々と抱負を述べる

劉備が魏延を漢中太守に任命する流れ
漢中太守が晴れの日に群臣の前で任命される事が決まる→周囲では有力な将で功績もある張飛がなると思い、張飛もそうだろうと思う
→周囲の予想に反して魏延が大抜擢→驚く周囲を前に劉備が魏延に抱負を尋ねる
→魏延が堂々と勇ましい抱負を述べる

どうみたってそっくりな流れ

93 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 01:25:33.65 .net
>>91
結局具体的には何も答えられないって事でFA?
何か問題あったのかについてもスルーしてるけど結局答えられないでFAって事でOKね

94 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/25(金) 02:08:32.59 .net
>>92
大抜擢の内容が全く違うでしょうに
韓信は劉邦以外に上位者のない大将軍、
魏延は重要拠点の太守ではあるがただの一太守だぞ
全く意味が違う

そもそも当時、役職に就く時点で何か口上くらい述べさせられるでしょ
劉備の王即位上奏文だって皇帝に対する抱負が述べられてるし
他の連中も即位時には何らかのアピールをしてる
むしろ抱負を述べるのは一般的なことだったと言っていい

それを鬼の首取ったように騒ぎ立てるのは意味がない

95 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 01:26:16.58 .net
>>93
ヒントを出してやってるのにわからないそうよ
正史に書いてあるって教えてあげてるのにわからないそうよ
そろそろ気づけ、そうよ

問題がなかったと記述は?
問題なく勤めたとどこに記述があんのよ?
書かれていないことなのに方や功績を認め、方や認めようとしないことが問題だと
提唱してやってるだけだろが、ダブルスタンダードさん

ここまで書かせて、2人以外の呉との交渉での功績保有者がわからないなら
もー、相手にしてやらない

96 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 05:54:48.94 .net
>>95
だから何伝にあるわけ?
正史正史と連呼してるけど、どうせ正史もよんだことないんでしょ?
具体的には何もいえないで逃亡するならご自由に

問題あったならそうかかれるだろ
でも実際にはそうかかれてない
頭悪すぎ
蔣エンのほうは留守居や孔明死後の政治や軍事を総覧していた事が
概括文でも書かれ、魏延のほうも蜀攻めでは書かれてるのに
漢中戦では概括文すらない
これで功績認めるのは無理だろって話
まるで違うものを無理やり一つにしてダブスタ連呼しかできない頭の悪さなら
さっさと引っ込んでればいいものを
結局あるある詐欺で具体的に何もいえず、どうせ正史もよんだことなさそうだし
逃げるならさっさとすれば?

97 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 05:58:47.31 .net
>>94
流れと内容は十分にだぶってる
劉備は漢皇帝の許可を得ず、先に自分で名乗る理由を述べた説明文を送ってるだけ
事後承諾を求める意味でもこれはあたりまえの行為

他の連中が抱負を述べてるって例えばどんな?
王とか皇帝クラスが即位する以外で魏延とかみたいな立場になるときに
抱負を述べる例をあげてみて
てか、それ以前の流れも高祖劉邦の流れの写しみたいなもんなのに
これで無関係ってのもなあ

98 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 13:43:50.64 .net
>>97
劉備が劉邦をなぞるようにしてるのは俺も異論ないが
魏延が韓信の代わりとなったわけじゃあない

司馬懿なんかは燕征伐の総大将に任命された時にやはり抱負を述べてるし
軍事的、政治的に重要なものを任される場合、当然のようにそういう場で口上するのは一般的でしょ

99 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 13:48:13.58 .net
魏延は漢中太守に抜擢はされたが、将軍位は上昇しておらず
相変わらず劉備の決定なしに動くことの出来ない立場

一方、漢中王即位時に独断専行できる権限が与えられた人物が一人いる
それが関羽
つまり準えるなら劉邦-韓信は劉備-関羽の形であって劉備-魏延ではない

100 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/26(土) 22:03:04.78 .net
>>99
督漢中・鎮遠将軍に抜擢し、漢中太守を兼務させたとあるから
将軍位は上昇してる
独自に軍を動かせない立場なのはその通り


101 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 01:26:56.95 .net
>>100
ああ、本当だ

鎮北将軍になった皇帝即位時のことばっか考えてて
鎮遠将軍のこと見落としてた

102 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 04:43:46.60 .net
>>98 >>99
司馬イは皇帝から「征伐にどれくらいの期間かかる?」と聞かれて
その見込みを答えただけで、抱負とはちがくないか?

それから誤解されているかも知れないが、
韓信は上将軍に任じられた時は別に独断専行で動く権限は与えられてない
韓信が独断で動ける権限を与えられたのは北伐のときからだが、
この時は前もって左丞相に昇格させてもらい、その上で独断権限を与えられている
それ以前の上将軍としての韓信は常に劉邦と共に活動し、その決定をもって動く立場にいた
だから韓信も上将軍任命時には独断権限は持ってない

103 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 05:11:14.91 .net
>>99
ついでにいうと関羽は劉備が漢中攻略する前から、
劉備が入蜀した時から既に魏や呉との国境紛争において
領域の兵を動かして独断で戦いを展開し、さらには敵側の内部を調略して謀反を起こさせて
撹乱したりしている
さらにはもっとずっと前の劉備の徐州時代から留守を預かり、その領域の兵を独断で動かして活動している
長坂の時も劉備から別行動をまかされて船団を率いて活動している
このように、関羽はもともと古くから劉備に別働隊を任せられる立場と信頼にあった人物で
漢中王即位時にいきなり与えられたわけではない

104 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 14:20:25.33 .net
>>102-103
「漢中守るのにどうする?」と聞かれて「曹操以外は皆殺し、曹操ならがんばる」って答えてるのと何が違うか

韓信については原文確認したら「大将」とあるので大将軍だと思ったが
よくよく会話見てみれば後で上将軍の印綬貰ったって言ってたな

でもやはり比すなら関羽で、劉備の王即位時に北伐開始してる
国境紛争で独断判断とか言うけどそりゃ任地での任務だろ
仮節ってのはそういう職域をある程度横断的に色々していいということ
そして王国としての体制の構築でもある

ちなみに諸葛亮の所謂隆中対では、荊州から宛へ上将に攻め込ませればいいという言葉がある
上将軍=韓信という前提があるのだからここで攻め上ってる関羽こそが韓信に準えられてるわけだな

105 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 20:15:51.33 .net
>>104
要職に任じられた時の抱負と
任務達成の見込みじゃ違うだろ

やはり、も何も関羽の動きも任地での任務の延長で北伐してるにすぎんだろ
もともと以前から別行動任務任されることが多かった関羽なのに
今更何をいうか

諸葛亮はあくまでも比喩として「1上将をもって〜」と述べてるんであって
軍の上位にある別行動軍を任せられる将、という意味合いであって
上将軍という言葉そのものじゃない
てか上でしっかりと、韓信が上将軍に任じられた時は独断権限持ってなかったって
述べてるだろうが
韓信が独断権限を受けたのは左丞相に昇格した後なんだよ
わざわざ史記にも「韓信を左丞相に昇格させて魏を攻めさせ〜」とあって
そこから北伐が開始される事からも、独立行動させるための独断権限は上将軍時には無かったもんなんだよ
実際上将軍のときはずっと劉邦と一緒でその決定を受けて活動してるんだから

106 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 21:08:21.53 .net
>>105
韓信の裁量権が認められるようになったのはそれ以降ってのはきっとその通りなんだろう
単純に俺が大将を大将軍と呼んでた間違いが元なんでね

ただ魏延が韓信の代わりってのはないわ
比されるなら当時としたら存在感といい、假節貰った後の北伐といい、関羽でしょ

107 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 21:11:05.91 .net
公孫淵討伐は臨時のものとは言え、十分に要職だがなぁ

そりゃ蜀における漢中太守と全く同じ比重かって言ったら違うけど

108 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/28(月) 04:23:11.43 .net
>>106
だーかーら
もともと漢中王即位のときに劉備が劉邦の再来なり、という事を表す為に求めたのは
「才能はあるけど立場や評判や功績はそれ程でもない人間を要職につける」という韓信のエピソードの再現をする事
その対象として、当時下馬評でははしにも棒にもかからなかった魏延という人間が適当だったわけで
実際その任命授与の流れは劉邦が韓信を要職に任じた時のコピーみたいになってる
この故事再現の対象としては、当時から既に魏呉に勇名を轟かせていた関羽でも張飛でも不適当だった
そして魏延が任命されてみんなびっくり、って事だったわけだ

109 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/28(月) 16:19:50.45 .net
魏延同様漢中戦に関して正史には全く何も描かれていない、しかも昇進もない趙雲ですら注釈によると絶大な働きがあるんだし、
推測だけで魏延に何も無かったと考えるのは極論だよ。
推測するなら何の見込みもないやつを昇進させて要所の守りにつかわん。
それなりの働きがあるから就かせたと考えるのが公平。

110 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/28(月) 19:18:04.94 .net
>>108
いや韓信じゃないでしょ
韓信は実績も何もなく任命されてるのに
魏延は10年近い下積みあんだし、コピーみたくはならんよ

111 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/29(火) 03:20:18.61 .net
>>109
いや、そりゃないだろ
推測だけじゃなくて、実際に「正史にも注釈にもあらゆる伝に魏延の漢中戦における活躍を示すものは無い」
という「事実」があるだけ
お前さんの言ってる事のほうが完全な「推測」だから
魏延の活躍を示すものが何かあるなら出してね、と言ってる
魏延の活躍とやらは入蜀のときは概括文で書かれてるのに
漢中戦ではそれすらない
これで活躍あったと見るのは無理
>>110
逆に言うと下積みしかない
役職も下位の将軍で
漢中戦では活躍の記述もろくに無く、下馬評でも漢中太守になるなんて予想されてなかった事からして
十分に「意外な大抜擢」として韓信の代用アピールたりえた

112 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/29(火) 22:43:08.53 .net
下積み言うても将軍位持ってんでね

単に格とか信頼度では張飛が最も要害防衛に、と思われてただけで
牙門将軍は抜擢言う程低い地位じゃない

ちょっとした飛び級程度だ

113 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 02:09:21.95 .net
>>111
示すものがなくてもイコール働きがないとはならない。
記述で端から端まで書かれているのなら別だが、一戦線の詳細な話なんぞ記載されてるほうが稀。
どこか戦場ではない全く別の土地に配置されてれば話は別だがね。

黄忠の関張馬と同格になったエピソードからも分かるように、劉備は功績を重んじて昇進させている。
諸葛亮曰く、黄忠は関羽・馬超に名望が及ばない、馬超・張飛が納得しても関羽が納得しないという反対をも押し切って後将軍としたからな。
武功のあるものをちゃんと昇進させている。
漢中戦で貴方のおっしゃるように本当に何も無ければ魏延の厚遇はないはずだ。

114 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 04:27:30.01 .net
>>112
当時じゃ将軍位としちゃ牙門は下位の将軍位
下馬評では実績・位・信頼度、いずれを見ても張飛が妥当と見られており
魏延がそれだけの功績が無かった事は明らか
実際に何も書いてないし
入蜀時には概括文で功績書いてあるのに、漢仲戦争ではそれすらなし

115 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 04:38:11.00 .net
>>113
だから、功績あるならあるで概括文で書かれてるもんなんだってば
端から端までなんて書く必要は無いの
実際に魏延は入蜀のときに概括文で功績を書かれてる
でも漢中じゃそれすらない、正史のあらゆる伝にも注釈にも魏延の活躍は無い
何度いったらわかるんだか

だーかーらなんで漢中戦最大の武功保持者であり、正史において漢中戦の功績を蜀側魏側ともに詳細にかかれてる黄忠と
正史にも注釈にも一切功績記述が無く、下馬評ですらあがらなかった魏延が同じになるんだよ
マジありえん
はっきりいって推測でしかないだろ
黄忠の場合は諸葛亮は「黄忠の武功を間近で見てる張飛や馬超なら納得だろうけど、遠くにいる関羽は〜」
という話なので黄忠の武功は間近で見ていたものなら誰しもが昇進に納得できるだけのものであり、
実際に漢中戦の帰趨を決定した最大の武功として正史に燦然と記述されている
これと正史にも注釈にも記述ゼロで下馬評ですらあがらない魏延と同じにするのは無理ありすぎ

なんつーか、入蜀時みたいな概括文すらない記述ゼロの状態の魏延を推測だけで
そこまでして功績あることにしたいのかと正直あきれる
はっきりいってあなたは推測だけで「あったはずだ」の繰り返しだけで
正直話してて凄くつまんなくなってきた

116 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 07:42:35.30 .net
>>115
>功績あるならあるで概括文で書かれてるもんなんだってば
根拠のないことを高らかにいうのは如何なものかと。
注に引く別伝で活躍してる趙雲なんかも概括文ですらかかれてない。

自分は必死で推測をもってないと言い張ってるのに、他人の推測を許さないところはキチガイじみてる。
>>115の中でだけないということにすればよい。



117 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 12:54:34.99 .net
王思なんて功績ロクに書かれないのに
庶民から出生して果ては魏の大司農にまで成り上がったわけだが

これは大抜擢だったわけかー
三国志って面白いなー

118 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 04:43:00.16 .net
>>116
それは注釈で書かれてる、って事だろ
魏延の場合はそれすらない
てか趙雲の場合は別伝の活躍あっても昇進してないわけで
ショウエンの場合も概括で国内政治や軍事を総括してたことが書かれており、
魏将である張コウも「袁紹配下時代に公孫サンとの戦いで功績が多かったので、昇進した」
と書かれてる
一体なにをもって根拠無しというのやら

だから推測じゃないといってんのに
功績一切かかれてなくて、周囲からも評価されてないのに「あるある」だけで
いわれちゃ正直つまらんとしかいえん
>>117
王思じゃなくて梁習だろ
しっかり実績あげて出世していった人なのに何いってんだか

119 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 09:39:04.72 .net
何いってんだ?
注釈で別伝を書いた人間と正史を編纂した陳寿は別人。
陳寿が書いた正史には趙雲の漢中戦での概括文なんぞない。
一致しない時点で必ず概括文を書いてるという根拠は無い。

120 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 11:12:17.29 .net
魏延は終わりがあれだから魏延別伝を望むのは難しいな。
季漢輔臣賛なんかみるに名は残ってるが事績はよくわからないという人物も多いしな。
まあ漢中戦で魏延が活躍したかどうかは不明。
抜擢されたからその直前に活躍があったとは限らないし。
過不足なく仕事したとは思うが、それ以上の特筆すべき活躍をした可能性は低いだろうね。

121 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 12:38:14.83 .net
>>118
王思さんかわいそうです

122 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 13:12:03.79 .net
昇進して要職についたのだから
少なくとも劉備が期待しつづける程度の働きはしていたと考えるのが妥当だね。
概括文がないからとか何もしてないとか意味不明。
武将として戦線にいるということのほうが事実。

123 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 16:04:07.90 .net
劉備対曹操の最後は劉備の勝ちで終わったんだよな
最後に負けたのは悔しいだろうね

124 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/01(木) 23:55:31.13 .net
>>121
王思も梁習の死後正始年間(二四〇〜二四九)に大司農になってるのになw


125 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 04:03:56.72 .net
この時が劉備の全盛期だな
対して曹操は全盛期と比べて精細を欠いてる
防衛拠点に夏侯淵を配置するなどミスもしてる

126 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 07:26:19.73 .net


賈詡、司馬懿がいながらも曹操は敗走

賈詡も司馬懿もたいしたことないな

127 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 09:15:18.91 .net
>>119
んな事当たり前だろうが
陳寿とハイショウシが別人な事くらい誰でもしってるだろうが
今さら何いってんだ?
こっちはちゃんと正史に趙雲の活躍記事はないし、現に出世もしてないと書いてるだろ
ずっと上でもあるように漢中戦の経緯は劉備が守り固めてそれを維持して曹操を撃退した戦い
趙雲の戦いもその一つだったってだけだろうが

128 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 09:18:19.33 .net
>>122
意味不明なのはお前の頭だ馬鹿が
正史にも注釈にも具体的な功績は一切無く、概括文ですら存在しないのに
功績あって当然だとか黄忠と同じだとか阿呆な寝言連投して終わりにしようとしてんじゃねえぞ
牙門将軍だから必ず活躍してたって?そっちのほうが意味不明すぎ

129 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 09:22:50.12 .net
>>121 >>124
そもそも正史に伝も立てられてない人間なのに
活躍の詳細がわからんだろうが
魏延の場合は正史に伝があっても活躍が概括文ですら存在しないのに
何いってんだ?
これで正史にはっきり記述あって称えられてる黄忠と同じとかわけわからんし

130 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 12:39:46.35 .net
>>129
概略がない活躍はないも同然って主張に対する反論なのでこれで十分

概略があろうがなかろうが、ニートじゃないんだから仕事はしてるわけ
出世するってことは何かしてたり、コネがあったりと理由があるもんだ

131 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 12:46:50.15 .net
従軍している以上まるっきりないって事はないが、記録が残るような大きな働きはしてない、ってとこが落とし所かねえ。


132 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 13:01:36.22 .net
牙門将軍だから劉備の目の届くところで地味に働いてたってことだろうね

133 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 13:11:03.85 .net
ただ、昇進の件は漢中攻略の功績ではないんじゃないかな。元々劉備は入蜀合戦の時点で魏延の事を認めてたんだと思う。
鎮遠将軍に昇進して漢中太守になったんじゃなく、漢中太守になるから鎮遠将軍に昇進したんじゃないかと。

134 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 13:15:58.04 .net
蜀は記録が少ないなぜだ

135 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 13:34:37.66 .net
そもそももくそも
王思を知らないレスをしてるのに後出しでまだ食い下がるのがオドロキだわ



136 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 16:35:36.40 .net
>>130
アホか
正史に伝が無いんだったら確認しようもないだろうが
魏延の場合は伝があっても概括文ですらそれが書かれてない
これでどうやったら功績あるって事になるんだか意味不明すぎ
理由?だから劉邦たらんとしてその逸話をなぞった劉備による大抜擢だろ
>>135
お前の言ってる事が穴だらけなんだから食い下がるにきまってんだろ
正史に伝も立てられてるくせに概括ですら功績が書かれてない魏延の昇進と
伝がなくて証明のしようもない人間とを一緒にできるわけないだろうが
しかもしっかり功績乗ってる黄忠とも一緒にしてたし
後付しまくりで勝利宣言に持ち込もうとする様が驚きだわ
魏延信者で無理やり功績あったと信じ込みたいなら、さっさとそう宣言して逃げればいいものを

137 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 18:40:09.29 .net
>>136
牙門将軍って位階はそれ程でもないけど普通に軍の要職だろ
韓信をコピーにした抜擢と言う程魏延はその前歴で何もしてないわけじゃねーぞ
そもそも牙門将軍になる時点で傑出した働きを見せてるわけで
蕭何くらいしか知らない韓信とは違い、国内的には元々結構有名人じゃねーか

同時期に劉エンも功績ないけど同様に太守に出世してる
ただのご褒美だとでも思ってんのかな?

138 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 18:55:52.99 .net
張飛すらこの人事に文句言った様子もないし、大抜擢であったのは確かだろうけど皆納得はしてたんじゃないかな。
びっくりしたけどアイツなら、と思うくらいには。

139 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 19:03:30.08 .net
実際魏延がいつから劉備軍に加わってたのか良く知らないんだが、もし長い下積みを経て功を立ててきたなら、こういう人事もあるかな、と。

140 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/02(金) 19:05:03.48 .net
>>139
読み取れる範囲では、劉備の入蜀に私兵を率いて同行したってのがキャリアスタートなので
赤壁後参加組だと思う

141 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/03(土) 01:58:29.92 .net
>>137
将軍としては下位だけどな
将軍なら要職ってんならそりゃ要職だけどな
将軍としての位階なら立派な下位
上にそれこそいくらでも上の将軍がいる立場
「結構有名人」なんていうほどのレベルじゃねーよ
国内の人間全員が全部の将軍人名そらんじて言えるんだったら
そりゃ有名人だろうけどな、それでも印象薄いくらいだろう
少なくとも下馬評での話題にもあがらなかったように、
漢中太守に任じられて当然と思われるほどの立場でも知名度でも全然ねーよ
実際に魏延が任命されて意外な人選でみんなびっくり
誰もがなるだろうとおもっていた張飛と比べれば戦功でも知名度でも位階でも
張り合いにすらなんねーよ

ああ、劉エンさんね
劉備陣営の古くからの古参で、同姓で風雅の才があった事から
劉備から常に賓客として遇され、長い間苦楽をともにしてきた劉エンさんね
それが劉備が成功して長年の苦労と親愛に答える形で太守に任じられたのがどうかしたか?
魏延って正史に乗ってないけど、ひょっとして劉備と同族で常に賓客として古くから苦楽をともにした人だったの?
それは初耳だなー
いい加減思いつきでいうのやめたら?
>>138
もともと張飛は「下のものには過酷だが、上のものには従順だった」とあるし
劉備の決定した事柄には法正や関羽といった一部の例外を除いては文句言わない感じだったようなので
張飛が文句言わなかったのは自然

142 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/03(土) 03:21:33.31 .net
>>141
いやいや君の主張では活躍の記録がないから何もしてないって言ってるよね?
苦楽を供にした、なんてどこにも書かれてないからないよ、そんなこと

あったら書かれるんでしょ?立伝されてんだし

143 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/03(土) 19:30:53.45 .net
姜維
蜀に寝返ってから孔明が陣没する間、戦功の記述がない
それどころか第五次北伐以外、従軍の記述もなし
あるのは歩兵5〜6千の訓練を委ねるという孔明の言葉のみ(従事したとの記述なし)

が、この間、倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯から次第に昇進して中監軍・征西将軍になっている
とは、これ如何に?

144 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 09:40:50.85 .net
>>142
お前さー、正直言ってる事が小学生並だろ
激動の多い劉備陣営の古参で古くから劉備に使えて各地を放浪していた劉エンが
苦楽ともにしてないことになるわけ?
劉備陣営が敵の攻撃受けて逃げ回ったりしてる時に劉エンだけはなんの攻撃も受けず
飢餓に陥ったときも何の苦しみも得てないわけ?
はっきりいって屁理屈すぎ
普通に古くから行動をともにし、その信任を得ていた概括文としては
「古くから従事として行動をともにした」「劉備は同族で風雅の才があった事から常に賓客として遇した」
とあるだけで十分だろ。
ていうかさ、相手してくれる人がほしくてたまらないニートさん?
屁理屈こきすぎで正直阿呆らしい

145 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 09:55:47.04 .net
>>143
諸葛亮が姜維を評価して「任務に忠実で思慮精密」「涼州最高の人材である。」
「5、6千人の兵を教導させたのをみたところ、軍事に鋭く兵意を理解している。」
「最終的に軍事においては宮殿にあがって主上にまみえさせるべき人材だ。」
とあり、明らかに諸葛亮が姜維の才能を評価してその昇進を後押ししていること、
さらには姜維が任務を着実に精密に果たしている事、軍隊の訓練に従事している事、
などが伺えるとおもうが?

146 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 10:08:16.01 .net
>>144
苦楽を供にしたってのは君がそう解釈しただけ
本文に書いてないことはないことっていう主張はそういうことだよ

魏延には役職があって、しかもそれは前線に出る仕事で
さらに漢中戦の間もサボタージュしてたという記録がないわけ

となると当然、漢中戦でも普通に劉備の手足として働いてるわけで
きちんと下積みを詰んでるわけだ
こんなしっかり仕事してる人を抜擢されるまでほとんど知られなかった韓信と一緒にできないわ

147 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 13:28:07.44 .net
>>146
ならんだろ
常に古参時代から従事として劉備に仕えてたんだとさ、常に賓客として遇されてたんだとさ、
これでどうやったら苦楽ともにしてない事になるんだよ
屁理屈こきすぎ

正史にも注釈にもあらゆるところに活躍記録が無い、という事で
功績になるほどのものが無かった、という単純な事実が残るだけだけどな
実際に下位の将軍位で下馬評でも名があがらず、実際に下馬評であがってた張飛とは格も実績も段違い
どうみたって誰からしても意外な大抜擢でその流れはモロに韓信大抜擢のオマージュだよ

148 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 16:29:28.26 .net
>>147
じゃ、牙門将軍が劉備の軍事行動に付いて行かない理由もないわな

149 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 19:22:31.81 .net
>>145
> などが伺えるとおもうが?

>> いや、そりゃないだろ
>> 推測だけじゃなくて、実際に「正史にも注釈にもあらゆる伝に姜維の孔明存命中における活躍を示すものは無い」
>> という「事実」があるだけ

>> だから、功績あるならあるで概括文で書かれてるもんなんだってば

150 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/04(日) 21:00:22.76 .net
漢中で活躍したかどうかは別として。
少なくとも牙門将軍という地位についたという事はそれまでに功績を残したという事、漢中を任されたのはその働きがある程度認められていたから。
という事でいいんじゃないの?

151 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/05(月) 03:28:08.10 .net
>>1見ると劉封も参加してるっぽいけど
曹彰の伝に付されてる『魏略』の「劉備は劉封に戦いを挑ませ〜」ってところ以外で
劉封の活躍ってどっか書いてある?

152 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/05(月) 04:46:25.01 .net
>>148
付いていったの「かも」しれんな
でも漢中太守になるだけの活躍してなかったのは下馬評どおりなわけだ
正史にも注釈にも書かれるだけのものがなかったこともな
>>149
人のレスぱくって妥当でもない鸚鵡返しすんな阿呆
孔明自身が「5、6千人の兵の教導を任せた」としっかりいってんだろ
立派に正史の記述として書かれてるって事になる
魏延の場合こういうのすらない

153 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/05(月) 05:30:50.17 .net
>>152
は?
漢中太守になるだけの活躍をしていなかったなんてどこにも書かれないけど?

張飛がなるだろうと思われてたし、張飛もそう思ってたということからは
様々な理由が想起されるわけで、それは君の解釈でしかないよ

自分は解釈をして、他の人に解釈を認めないなんておかしいよ

154 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 02:11:48.08 .net
>>152
何度も言われてるけど正史はともかく注釈は後の世の人間がつけたしたもの
参考にはなれど注釈の有無で働きのあるなしまで決めるのはおかしい。
それこそ推測でしかない。
というか王思を知らないということは目を通してない伝がかなりあるわけで、
必ず概括文があるという主張も語るに落ちてる。
魏延が何もしていないという根拠には不足。

155 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 11:57:21.42 .net
>>153
活躍したなんてどこにも書かれてないけど?
それどころか具体的な活躍をした記述なんて正史にも注釈にもどこにもないけど?
張飛には当時の位階からしても、当時の活躍からしても正史に十分な記述がある
これで根拠あるなんて無理ありすぎ
>>154
注釈が後世のつけたし?
同時代かそれに近い時代に存在してたけど、陳寿が書いた「三国志」の中にはない資料とかも収録されてるのに
何をいってんだ?お前
んで?結局正史に伝が存在しなくて確認のしようがない王思なんかあげてどうするわけ?
結局のところ、魏延の活躍があるなら概括文でもいいから正史でも注釈でもいいから
あげてみろ、といわれて結局何もあげられずに逃亡したくせに
今更何いってんの?
三国志注釈の内容定義すら間違えてるし、語るにおちるとはまさしくこの事だろ
何か言いたいならまともな資料なり根拠だしてから語れ
結局魏延の漢中戦の活躍が知れる記述あるんだった早くしてね

156 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 12:14:17.57 .net
>>155
>王思じゃなくて梁習だろ
>しっかり実績あげて出世していった人なのに何いってんだか
こんなこと言ってるんだから伝がないから云々とかいうのはあんたの後出しのいいわけでしょうがw
目を通していれば梁習と混同なんてせんだろ

正史の編纂者陳寿がかかなかったことが書いてあり、
資料的価値や当時を考察するのには注釈は貴重だが、
正史と完全に同列にするには無理があるといってるだけ。
一度は事実として採用されず書かれていなかったことなのだからね。
もちろん陳寿が目を通していなくて採用されない史書もあるだろうけどね。
君の言い分が分からないが、逆に後の学者が当時の史料をつけたせば全て正史と同列の事実になるのか?
そっちのほうが無茶苦茶すぎ。

157 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 12:37:28.47 .net
・劉備が漢中を任せるに足る人物だと魏延に期待するものがなければ漢中みたいな要所の警備は任されない
これなら分かるが

・劉備が総力を挙げた戦で魏延は何もしてないが、その成果の守備に大抜擢した
こんなのはありえない、劉備が失望しない程度の働きはあるだろうそりゃ

158 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 12:45:27.85 .net
>>156
後出し言い訳してんのはお前だろ
最初に官位名あげられてるんだから、そっちだとおもっただけ

なんで無理があるとおもうわけ?
これこそ後出し言い訳だろ
>後の世の人間がつけたしたもの
とかいっておきながら、同時代の資料も入ってることを指摘されたら
この言いよう
まさしく語るに落ちるとはこの事だな

「事実として採用されず」じゃないだろうーが
正史書いた陳寿は内心じゃ蜀漢びいきだったけど、晋は魏がから継承した王朝だったからそうは書けず、
後難を恐れて結局は多くのエピソードを削除して簡素な記述に仕上げたから
陳寿が書きたくてもかけなかったエピソードを誰かが纏め上げて再構成する必要があり、
それをやったのがハイショウシであり注釈だったことなんて三国志しってる人間なら常識なのに
お前今更何をいってんだ?
注釈が完成したとき、その主君はその出来栄えを見てこれは「永遠に残るべき偉業だ」と賞賛したという
それをいきなり頓珍漢な寝言言い出して
やっぱりろくに知識無くしったかだけで書いてるだけだろうが
語るに落ちるのレベルどころか話にすらならんレベルだわ

んで?お前のそのろくに正史と注釈の内容定義すらろくにしらない阿呆な知識レベルから
魏延の漢中戦の記述を早く出してもらいたいんだが?

159 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 12:49:30.71 .net
>>157
「ろくに記録に残るような事はしてない」=「失望する」じゃないだろ
才質には期待したんだろうよ
そして漢中王を名乗るにあたって韓信のエピソードをなぞる効果も期待しただろよ

160 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 14:43:03.38 .net
簡単に言って、魏延の功績が記述にないって意見に反論するなら、
魏延の功績が載ってる記述を出すしかないだろう。
それがないんだったら、そういう意見が出るのは仕方がないとあきらめるしかないよ。
なんか魏延の擁護派は、不利な意見にキチンと向き合わない、
他の奴らだってどうの、教科書にも間違いはあるだのと、話をすり替える傾向があるな。

161 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 15:29:30.65 .net
漢中攻略だけに拘るからおかしくなんだと思うんだが。
入蜀合戦で功績を挙げた叩き上げの牙門将軍なんだから、この時点で当然それなりの期待はあるだろうに。


162 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 18:49:21.27 .net
>>160
記述にないから韓信に似せた抜擢だ、ということに反論してるのであって
記述にないから特筆すべきもんはなかった、ということに反論してるわけではない

韓信に準えてないんだよ
そもそも蜀内限定で見れば非常に有名だろ
勢力に加わって数年でいきなり劉備の牙門に任命されてんだからさ

163 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 19:23:10.01 .net
>>162
嘘つけ
散々功績あったはずだとか、なんかしてたはずだとかいってたくせに
都合悪くなると論調変えるなよ

非常に有名とはいかんとおもうが
もともと武将で蜀攻めという大きな戦で度々功績挙げて下級の将軍位である牙門なっただけじゃ
蜀攻めじゃ黄忠が「常に先陣を駆けて敵陣を陥落させ、その武勇剛毅三軍に冠たり」と称えられ
牙門より上の将軍位になってるんだからどう見ても霞みまくり

164 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 19:35:51.95 .net
どうせ意地はって決着つかないんだからいい加減やめたら?
スレの主旨から外れてるとは言わないが不毛すぎる

165 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 19:38:31.22 .net
>>163
いや何かあるとは思うよ、俺はね
ただそれは推測である、ということは過去にも述べたし
記述がない、ということに対する反論は推測できることがあるだろ、ということは言ってる

だが、それで主張したいものってのは結局、魏延が韓信に準えられたであるという一点のみなんでね
それ以外は枝葉末節に過ぎない

166 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 19:41:01.34 .net
訂正 魏延が韓信に準えられたものであるという一点のみに対する反論なんでね

167 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 20:16:52.70 .net
>>165 >>166
嘘コケ
散々それに見あった功績あったと喚いて
それについて屁理屈言い続けてたくせに
途中から魏延・韓信の流れなんかスルーで
漢中で功績あったはずだと主張し続ける流れだったくせに
今更見苦しすぎるんだよ

168 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 20:19:59.29 .net
それを嘘と思うのは自由だけど、魏延が韓信に準えられたという君の主張の否定から俺は入ってるんでね
その経過で功績があったかなかった、という話題を長々とはしたが全てはそのため

韓信じゃないでしょ

169 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 20:29:56.19 .net
け、鶏肋なんだからねっ!

170 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 20:39:12.02 .net
>>168
嘘コケ
最初からずっと問題になってたのは「魏延に漢中太守になるだけの功績があったか否か」
これでずっと話をしてて、その途中で韓信の話がでてきただけ
それで後になって不利になったからって
今更とっつきやすそうな方向に論調変換してるだけだろ
いい加減姑息すぎるんだよ

171 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 20:55:20.86 .net
自分で論点ずらしてもしょうがないって言っといてそりゃないでしょ
君はこのスレだと自分が他人に許さないことを自分に許してて頭おかしいよ

1 魏延は漢中戦で功績がありやなしや
2 魏延は韓信に準えて大抜擢されたか否か
3 特筆すべきものがなければ何もしていないのは真か

俺の考え
1 特筆する程ではないが、何かしてるだろう
牙門将軍は従軍すらしてない限りは何かやらざるを得ないと考えるので
2 元々スピード出世してるのに無名の韓信に準えるとかありえない
黄忠が自分と同列になったことですら僻んだ関羽が、
魏延が韓信に準えられたと思ったらもっと激烈に攻撃するんでない?
つまり内部的に魏延は韓信と思われてない
3 偽 気付くと出世してる人が結構いる

172 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 21:18:27.91 .net
>>171
いつそんな事したんだか
このスレの最初から見れば明らかにお前が嘘ついてるのは明らか
お前が論調そらしして、それが誤魔化し切れなくなったら他人に責任転嫁してるだけだろ
お前はずっとこうだろ
いつも自分にとって都合悪いことをいわれたらそれを阿呆みたいに鸚鵡返しして押し付けて逃げ回る
最初から最後まで頭おかしいのはお前だよ

1.記述に残るほどの事はしてないと見るのが妥当
少なくともそれは正史に功績として残りうるほどのものでは無論なかった
入蜀の時ですら魏延の活躍は書かれてる
漢中ではそれすらない
2.魏延の出世はスピード出世といえるほどのものではない
もとから武将で入蜀の時に「度々功績をあげて」とあるようにそれ程大きくもないほどほどの功績を
何度もあげて下位の将軍である牙門になっただけ
全体で見れば明らかにその他大勢の将軍の一人に過ぎない
黄忠が入蜀の時に「常に先陣を切り」「武勇剛毅三軍に冠たる」程の大活躍をしまくって
魏延より上の将軍に昇格してる事からみても存在霞まくり
3.大抵昇進してる場合は昇進に見合う理由がある
文官などは平時の政治行政を滞りなく行っていればそれを評価されている
主君と古くから苦楽をともにしていた人間がそれを報いられることもある
魏延は軍において功績立てて昇進する軍人であり、漢中という戦役において
彼の活躍を示すものは正史注釈含めて一切無い
漢中太守という要職への人事は周囲の下馬評から見ても明らかに意外な大抜擢
それに見合った功績など無く、劉備個人による大抜擢だった事は明らか

173 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 21:49:44.13 .net
>>172
入蜀ってのは劉備が漢中戦前にやった唯一の大きな戦争
未遂に終わった呉蜀の戦いや小競り合いを除いてね
つまり魏延は一回の戦役で一気に劉備軍の将軍になった
蜀の中では有望株扱いされるでしょうに

そりゃ当然、黄忠は別格で、曹操軍の中核を担う夏侯淵を斬るという離れ業を演じているのだから
魏延を抜き去って一気に昇進するのは当然だが、これで魏延の存在が霞むとかおかしいよ?
霞んだ、なんて正史に書いてないのにここでは君がそう解釈してるんだよね?
君は書いてないことは存在しないとして理論を展開してきたのだから解釈を織り込んじゃいけないよ
そういうのをダブスタっていうんだ

>いつそんな事したんだか
論点ずらしすんなと言いつつ全く関係ない話題で嘘だなんだって言ってるでしょ
そういうのが論点ずらしそのものだよ
理解できないの?

174 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 21:52:00.31 .net
同意を得られないのは自分の論に説得力が無いからだといい加減理解して消えてくれよマジデw
>>ちなみに171じゃないぞ

175 :174:2011/12/06(火) 21:54:28.18 .net
>>174>>172へのレスな
一人の鸚鵡返しじゃなく俺も以前から反論してるんだわ。

176 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:02:34.09 .net
>>158
>正史書いた陳寿は内心じゃ蜀漢びいきだったけど、晋は魏がから継承した王朝だったからそうは書けず、
>後難を恐れて結局は多くのエピソードを削除して簡素な記述に仕上げたから
>陳寿が書きたくてもかけなかったエピソードを誰かが纏め上げて再構成する必要があり、
>それをやったのがハイショウシであり注釈だったことなんて三国志しってる人間なら常識なのに
>お前今更何をいってんだ?
>注釈が完成したとき、その主君はその出来栄えを見てこれは「永遠に残るべき偉業だ」と賞賛したという

最後の一文は誰でもしってることだが
他はどの史学者がそういってんだ?
集解みてもそんな言葉は一言一句でねーよ、それどころか突っ込みの的にされてる注釈もあるくらいだ
人の推測を許さず自分の推測は許す君の言い分は独りよがりだけど、
推測をさも語られてきた事実かのように言うのは独りよがりどころじゃない。
そんな意見は人に理解を求めず自分の中でだけそう思えばいいんだよ。

あと書くなら裴松之くらい漢字で書け


177 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:02:59.43 .net
>>173
されるわけないだろ
その上に大活躍して上位の将軍位になった黄忠がいるんだから

なにいってんだ?お前
入蜀のときから既に黄忠は「常に先陣きって敵陣を陥落させその武勇剛毅三軍に冠たり」
といわれて魏延よりも上の賞賛を受けて上の将軍位にいるんだが
お前さー、はっきりいって文章読めてないだろ
お前の中の脳内歴史じゃ、入蜀じゃ魏延が上になって漢中で抜き去られたとかおもってんのか?
本当に知識ないんだな
黄忠は入蜀の時から魏延を上回る活躍して魏延より上の将軍位にいるんだよ、阿呆

根拠すらない状態で変な解釈すんなってのと、記述にある事柄から解釈すんのは全然別物だろうが、低脳
お前の場合はそうやって都合悪いこといわれたら相手に押し付けてごまかして逃げてるだけ

いつ全く関係ない話題なんかしたわけ?お前が最初から韓信とかいってるから
俺がこの話題は最初から「魏延に漢中戦の功績があったかどうか」で始まってると
事実を説明したわけだ
そうやっていつものお得意パターンである困ったら相手に言われた事を鸚鵡返しして押し付け、
という屑パターンで逃げられるとおもうなよ
>>174
例によって自称善意の第三者なりすましか
本当に見えも外聞もない野郎だな
俺にすりゃどっからどう見てもお前の論なんかに賛同できないから、お前の説得力ないって事でいいよな?
そんでお前が消えるべきであって俺は論を展開しつづけるべきだ、でFAだよな?
まさか駄目とかいわないよな?

178 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:08:06.30 .net
>>175
ああ、以前から鸚鵡返しを二人分なりすましで唱えてきたと
すばらしい自白乙だな
>>176
ああ、その理屈でいうと
三国志の中に同じ時代に書かれた資料が書かれてることすら理解できなかったお前は
独りよがりどころじゃない低脳だな
実家のほうにあった三国志の本に書いてあったな
今手元にないが
実際に蜀関連の即位時の記述と魏関連の即位時の熱の入れようが違うとも書かれてるしな

書きやすいほうで書いただけであって、お前に指図される筋合いはないな

179 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:10:28.89 .net
>>175 >>176
追記としてここで都合よく多数あらわれたように見せて
有耶無耶にしたり追い出せたりするとおもうなよ
今日駄目なら明日、明日駄目ならその次、俺が飽きるかリアル都合がくるまで
来るだけの話だ

180 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:16:05.36 .net
>>178
>三国志の中に
じゃなくて
>三国志注釈の中に
だな
訂正しとくわ

181 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:16:52.95 .net
ね〜まだ終わんないの〜?
罵りあいなら余所でやってよ〜

182 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:18:56.11 .net
>>177
入蜀で論功行賞終了後という時点で区切ると魏延は恐らく牙門将軍
黄忠は討虜将軍
九品制だとこの二つは同じ雑号将軍かつ伝統あるものでどちらもほぼ同じ
黄忠が征西将軍として一気に出世するのは夏侯淵を斬った後
さらに劉備が漢中王になると後将軍となるわけだ
黄忠は劉備に投降する前からの将軍だけど漢中戦での大金星以前は上回ってないよ?

人を無知呼ばわりする前にそういう噛み付き癖無くした方がいいよ

183 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:20:47.35 .net
あ 訂正
些細な事だけどまた絡まれると面倒だし

入蜀時にほぼ同格になったけど、大金星前には上回ってないよ

184 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:26:25.63 .net

蒼天信者「曹操は故意に負けたんだよ。」

185 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:29:46.10 .net
>>178
そんなん知ってるわw
そもそも陳寿はかなり膨大な史書(後に注にひかれてるものも多数含む)のなかから正史を編纂したわけでw
後の学者が書き加えた部分は資料的に貴重でも正史と同列ではないと思うよ。
裴注は事実という根拠を示した上で書き加えられたわけではない。

そして君の実家とやらにある三国志の本はあくまでその著者の考えじゃないのか?
集解にでてくる多数の学者はそんな考えはもってないわけだが、
なんで君の実家にある名前も分からない本の著者の考えが、
君の語る陳寿が書きたくてかけなかったエピソードを裴松之が書いたという『常識』になるんだ?
ひょっとして無茶苦茶感化されやすいバカなのか?w

186 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:32:48.49 .net
>>182
雑号将軍では牙門将軍・裨将軍・偏将軍は伝統的雑号将軍の下位同格位なので
裨将軍黄忠が昇進してその下位同格になるとかおかしいだろ
俺の見た一覧でだと、討慮将軍は入ってない
ただ雑号将軍には上位と下位があって牙門などが下位だ
黄忠が昇進したなら、もともと同格の下位雑号将軍じゃなくて、上位雑号将軍になったと見るべきだろ

187 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:37:12.02 .net
曹操は半分勝ち、半分負けだよね

漢中の生産力を担ってた張魯勢力という人力は根こそぎ魏郡まで移住させた
移住時には恐らく漢中の食料品も軍が駐屯できる以上の物は全部持ち出させたとすると
これで劉備は漢中から次の一歩が踏み出せなくなったと言える

でも、漢中という軍事的な拠点の陥落と、夏侯淵という重鎮の戦死、
さらにはその後に漢王の再来を思わせる劉備の宣伝は成功させてしまったので
後々まで残る蜀漢という国が成立して結局統一できなくなった

劉備の進軍を止める、という意味では焦土戦術含む一連の攻防はそこそこ成功だが
魏による統一は絶望的になった

痛し痒しの結果だな

188 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:40:04.04 .net
>>186
今、一覧見るまで将軍位の上下も知らずに上だ下だって言ってたの?

呆れた

189 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:44:05.73 .net
>>185
しってるんだったら
阿呆な間違いは犯すべきじゃなかったな
後付で情けない限りだ
正史と同列じゃないも何も、陳寿の三国志は最初に書かれた当時は野史であって
正史として国家事業で編纂されたものじゃないわけだ
陳寿が書いたものと他のものに本質的な差は無い
死後に正史とされたのが陳寿のものだったというだけで

そうやって挑発でもしてるつもりか?
実際に陳寿が書いた史書では簡潔にすぎて後世において
さまざまな資料編集を行う必要が生じた
そればかりか、官渡の兵力記述のようにように注釈によって明らかになった事項もあり、
注釈の歴史的意義は主君に称えられているように非常に大きいものだった
陳寿自身も蜀漢の先主を高祖劉邦にたとえ、諸葛亮をショウカに比して
その主従に最大級の賛辞を送っている事からも彼が心の中に蜀漢正統論を唱えたという主張は
納得しやすいものだな


190 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:47:49.34 .net
>>188
もとから牙門と裨が同格だった事はしってたがな
討慮はその上位将軍だろうとはおもってたな
実際にそうだったわけだが
んで、結局お前の魏延が同格とかいう主張は崩壊したわけだが、
それについてはどうすんだ?

191 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:52:22.22 .net
牙門将軍は劉備創設の立派な名号将軍。列将軍の下位じゃないよ。

三国職官表は魏晋の九品官人をベースに、かなり後世に編纂されたもので、
将軍麾下の部将である「牙門将」と牙門将軍を混同している。

牙門将というのは、将軍の牙門(陣営の軍門)を守る将という意味だが、
劉備麾下の「牙門将軍」は、そこから敷衍して「主君の牙門を守る将軍」
という意味を持たされたようで、栄えある職になる。

ちくまの三国官職表を両漢や蜀漢・呉の官職を見るときに使っては絶対に駄目。
特に諸征将軍の地位と役割は魏晋と前後蜀漢とでまったく違う。
その元になった職官表は、在任者の一覧があって便利だけどね。

192 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 22:55:33.61 .net
>>187
全部もちださせたか?
そうだとすると、史実における魏軍の動きがおかしくなる
劉備は最初に陽平を攻撃して魏軍にそれを防がれ、
方向転換して定軍山に移動している
これは地理から見るに漢中盆地周辺に対して直接制圧目標を切り替えたと見られ
夏侯淵たちはそうはさせじとわざわざ鉄壁の陽平を捨てて漢中盆地の前に野戦陣地を作り、
結局劉備に大破させられた
ろくに価値がなくなっている場所のために夏候淵達がここまでしたとは正直考えにくい
漢中盆地周辺には十分に価値があったと見ていいのではないか?

193 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:02:14.52 .net
>>191
劉備創設てのは初耳だな
とりあえず論拠くれい
てか、その理屈だと王平とか凄いことになるぞ
趙雲とかも凄いことになるし
お前さんの主張どおりなら
その下位雑号将軍よりも上位雑号将軍よりも上なくらいに
すんばらしい牙門将軍に魏延は将軍でもない一武将から
入蜀戦だけで昇格したわけ?それは無理ありすぎだろ
普通に牙門が下位雑号将軍と見たほうが楽に納得できるわ

194 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:04:02.56 .net
>>189
何の反論もできずにそれですか。
何を持って間違いとしてるのか意味不明だし、そこに縋り付かれてもなぁ。

挑発じゃなく事実をいったまで、
名前も分からない本一つで歴代の史学者の考えを全てすっとばして(というか知らんのだろうがw)常識だと考えてるんでしょ。
アホの極み

195 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:06:21.57 .net
見ていて激しくつまらん。

196 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:06:49.82 .net
>>191
趙雲がなったりしてたから前からあるもんだと勘違いしてたわ

伝統はないのね

197 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:08:29.25 .net
>>194
しっかり反論してるんだけどな
お前が阿呆だから読めないだけだろ
とりあえず三国志注釈の中に陳寿とほぼ同時代に書かれた資料が
内包されてることくらいは理解できたか?

実際に俺は論拠あげてるけどな
とりあえず俺がしてる「反論」とやらに答えてもらおうか
あ、文章読めないんだっけ、悪いな

198 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:10:17.69 .net
>>196
ほんとか〜?
正直そうすると将軍成り立ての連中が牙門将軍なってる事例が多いんで
そんな凄い役職だとすると意味不明になる

199 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:15:22.63 .net
つーか三国志集解って普通に注釈本の一種に過ぎんように見えるが
歴代の史学者の見解がどうたら言ってる奴は
言いたい事があるなら早くいうべきだとおもう

200 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:16:35.00 .net
>>192
ろくに価値がなくなったのは人的資源とその人的資源を支える食料くらいかな

漢族以外の異民族が少なからずいるし、皆無になったわけではないと思うんだ
資源で考えると金属資源、当時減少していた森林資源
そして漢水という水路が確保できるのは大きい
漢水の確保は注釈でも劉備が言及してて、
曹操が来るとしても俺は漢水を我が物とするという旨の発言が残ってる
どこまで本当かは全くわからんけどね

漢水を下れば襄陽、樊城までの輸送が楽になる
孟達、劉封がやったように川沿いの城を落とし、襄樊を占領できれば
そのまま漢水を堀として春秋楚が斉の桓公と相対したように
蜀が魏に相対できる構図になる

交通の要衝としたら価値ある土地だから大事大事

201 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:21:43.97 .net
>>198
特設雑号将軍貰ってるってこれ凄い待遇じゃね?

長年連れ添った、と言っても途中参加だけど、趙雲の後釜ってことは
蜀における元勲と同じ扱いされてるってことじゃないの?

202 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:23:29.18 .net
>>200
劉備の発言は注釈じゃなくて正史だろ?
あれはそのまま読めば「曹操が来ても何も出来まい。漢川は我が物となるであろう」
と読めて、持久戦体制の構築に成功した劉備の必勝宣言だとおもってたが

203 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:28:10.36 .net
>>201
いや、だからそんな凄い将軍位だとすると他の牙門将軍になってる連中が
おかしな事になるわけだ
趙雲の息子も趙雲死後にいきなり牙門将軍になってるし、向寵とかもいきなり牙門将軍になってる
王平とかもそう
これらを見ると、もし上で言われてる論拠不明の「牙門将軍特別説」が正しいなら
こいつらは全員いきなり飛び級でそんな下位雑号将軍よりも上位雑号将軍よりも上の位についた事になる
ありえんだろ、かなり
普通に「それまで将軍じゃなかった奴が、昇格して将軍としては最下位の牙門将軍なりました」のほうが納得できる
とりあえず、蜀の牙門将軍が劉備創設で、他の雑号将軍より上という論拠示してほしいわ

204 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:29:04.49 .net
>>202
今確認した、本文だったね
あんまりにも出来すぎた発言だから、頭の中で勝手に注釈だと思い込んでたよ

漢水保持発言が実際にあったものだと看做すと
漢水のその先にある襄樊も当然劉備は見据えてると考えた方が妥当じゃないかと思う
実際、曹操から漢中奪って退却を強いた後、孟達と劉封が漢水沿岸の都市を落としてるし
それに続いて関羽までが北上して漢水下流の襄樊を包囲する
偶然としたら出来すぎじゃない?

まあこの漢水保持宣言はむしろこの後の軍事活動から逆算して追加されたお話なんじゃないかなぁとは思うが

205 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:34:19.29 .net
>>204
蜀漢率いる本軍が漢川下ろうとして魏領攻め込むのって
孔明死後に計画されただけで、実行はされておらず、
孔明の策でも「荊州から一上将を北上させ」とあり、
劉備は漢中から北上することになってるから、
漢川は劉備達主力が北上するところじゃなかったとおもう、個人的には

206 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:37:39.49 .net
>>203
王平は原文だと牙門将・裨将軍
趙広、向寵も同じく牙門将で軍が付いてない

牙門将軍は結構レアというか三国志中だと趙雲と魏延しかいないな

207 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:42:06.07 .net
>>206
ほんとか〜?
向寵は確か「将軍向寵は」とか出師表で書いてあったとおもうので
将軍だったはずだけどな

とりあえず牙門将軍が劉備創設で他の雑号将軍より上位だという論拠くれ

208 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:42:56.47 .net
手当たり次第引用してる裴松之の注は検討の資料にはなれど、
信憑性の薄いものを排除した陳寿の正史とでは本質的に異なる。
注釈を持って事績の有無をいうのはおかしい
結局肝心のここには一個も反論できてない実家にある三国志の本君w

209 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:45:42.91 .net
>>205
本軍に漢水から北上しろってわけじゃないんだよ

劉備の漢中攻防から関羽北上までの流れで、劉備が狙ったものは何か、と考えた時に
漢水流域の支配による益荊の連携強化と、南北に抱えた敵勢力に対する防御機構の構築があるのではないかな?
ということを漢水という川の地勢を踏まえて提言してみたわけさ

210 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:48:52.22 .net
>>208
それは思い込み
実際に曹操の都合の悪いイメージにつながりそうな逸話とか
たくさん注釈にはあるんだから
魏を正統とした陳寿がかけるわけねーだろ
注釈の中では様々なエピソードを吟味してその信憑性なども論じてるから
その中でも妥当とされてるものは十分信憑性あるだろうに
ていうか、お前って集解の名前だけ挙げてるだけで
内容ろくにあげやしねーし、結局いつものあるある詐欺かよ、馬鹿らしい

211 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:52:50.01 .net
>>209
つまり、関羽が北上して荊州北部制圧すれば、漢中から漢川を通じて荊州北部に繋がる
荊益交通網が出来上がる、だから関羽は劉備が漢中王即位したらすぐさま北上したと?
完全肯定とまではいかずとも面白い視点ではあるがな

212 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:53:57.85 .net
>>207
出師の表が書かれる前に出世して中部督になったと見えるので
将軍向寵愛ってのは単に尊称を付けてるだけだと考えられる

213 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/06(火) 23:56:03.51 .net
>>193
どこを探しても、劉備以前に「牙門將軍」という存在は無い。ただそれだけ。

別にすごいってわけじゃないよ。
漢では、將軍に当たる階級は万石・中二千石・二千石の三段階しかないんだから。
将軍と言うのは、本来同時期に数人しか存在しない非常置の顕職だった。

万石    -  大将軍・驃騎将軍等
中二千石 - 四方将軍ほか、一部の高位将軍(ただし四方将軍は前漢では万石)
二千石  - 大多数の名号将軍(雑号という呼称は魏代以降)

牙門將軍もまた、二千石の名号将軍で他の将軍と肩を並べる地位と見るのが自然ってだけ。
征西将軍も同じね。
ただし、漢中王劉備に属した前後左右将軍は、中二千ではなくて一段階低い二千石だろうけど。

劉備の左将軍から漢中王時代は、最高幹部は二千石将軍で横並びしている。
序列はあったにしても階級差はない。

214 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:00:05.40 .net
>>211
漢中〜襄陽の中間地点にある漢水南岸の都市へ孟達と劉封が特攻かけてる
それから関羽が動き出してる

孟達と劉封は北に漢水、南と西に山、東に開けた平地(魏領荊州)と
失敗時の退却路が強く制限された土地に攻め込んだ
その直後に開けた東の平地に関羽が攻め込み連携してるように見えるのでこう考えてみた

215 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:02:27.51 .net
>>210
注によりよく描かれてるエピソードもたくさんあるんだが、曹操個人の武威を示すようなこともね。

君の言う常識である裴松之の引用を正史と同じに扱うようなことは、
集解にでてくる史学者はしていないといっているのに内容もクソも必要ない。

216 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:03:03.49 .net
>>212
いや、それは変だろ
将軍でないのに将軍と呼ぶのは明らかに変だ
>>213
それは推測であって明記されてる事じゃないだろ
それで上位雑号より上とかおかしいだろ
しかもそれって前漢の官位だろ?
将軍といっても階級があるわけで、
お前さんの昇進はそれに準じて行われてると見るのが妥当
お前さんの理屈だと
正史では黄忠は裨将軍→討慮将軍→征西将軍で
三回昇進したと書いてあるのに、三回とも同じ階級で昇進してない事になるだろ
明らかにおかしすぎるだろ
推測だけで牙門将軍の位をそんなに高く決定するのは無理ありすぎだろ

217 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:05:07.05 .net
>>216
だから、上位雑号なんて存在は漢には無いんだって

218 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:06:01.62 .net
あ、偏将軍・裨将軍は、名号付将軍より一段階下ね。それは言い忘れてた。


219 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:08:57.15 .net
>>217 >>218
だからそれ前漢の話だろ?
その理屈でいったら黄忠とか手柄立てても昇進してない事になるだろ
無理ありすぎだろ

220 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:11:38.95 .net
>>218
大抵の一覧だと牙門将軍もそいつらと同格で各号より一段下となってるだろ

221 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:13:17.44 .net
「征西」というのは、軍備が大きく縮小された後漢で、断続的に置かれた数少ない将軍号だった。
主に、小規模な西方征伐の主将や、大規模動員での車騎将軍等の副将として置かれた。
だから曹操が憧憬の対象として名を上げた。
そういう由緒正しい名号。
魏のように四征将軍が置かれていない蜀漢でも、征西の由緒は継がれたようで、
継続的に叙任者を出している。
黄忠は、まだ左将軍に過ぎなかった劉備が(勝手に)任命した最初の征西将軍。
他の将軍には殆ど由緒の無いものが結構多いというのにね。
どれだけ重んじられていたかわかるというものだ。

と、いうように「名号」というのは階級じゃなくて由緒や歴史、または役割で軽重が決まるもの。

222 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:20:52.69 .net
さらにたとえば、「翊軍」という名号は、後代で皇太子に仕える側近武官の「翊軍中郎将」などと使われている。
つまり「主の軍を輔翼する武官」という意味で、主君と非常に近しい関係にある用語になる。

皇帝即位前の劉備は、このように将軍号に意味と役割を持たせることで、
左将軍府や漢中王廷の外側にまで広がる擬似王朝を組織している。

牙門も同じ。
「牙門旗竿,軍之精也」と言われ、牙門将は一軍の精華たる軍旗を預かる部将だった。
これに照らせば、牙門将軍とは「劉備の軍旗を預かる将軍」ということになる。
趙雲・魏延への信頼を示す名号になるね。


223 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:20:53.12 .net
同じく征西将軍だった夏侯淵を斬った褒美だろうから何か意図するところはあるんだろうね
劉備が漢中王になると一気に後将軍になるので任官期間が大分短いところにさらに意図を感じる

偽物の征西将軍を斬って本物の征西将軍になったとか、その手の宣伝目的などが
容易に想像できることかな

224 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:23:19.67 .net
>>221
いや、そんな事いうたら右将軍任命前の張飛より黄忠が上回る事になるから
孔明の「黄忠を関羽や張飛と同格にしちゃっていいの?」的な発言がおかしくなる
同格どころか既に張飛上回ってたことになるだろ
なんかどんどん無理が出てきたぞー
もともと貴方の推測で始まったことなんだから、ここらで牙門将軍特別説はやめといたほうがいいとおもうよ

225 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:26:21.75 .net
>>223
ただ、後漢征西将軍→漢中王後将軍 
というのは、階級的には昇進じゃないけどね。
王の臣下は皇帝の臣下より一階級以上低いんだから。
しかも宮廷序列では、同階級なら皇帝の臣の方が上と考えられる。

ただ、当時の蜀で、ついに建国された漢中王直属の臣下になることは
序列は落ちても「光栄」で「誇り」あるものだったと推察できる。
劉備に対する独立性を失うが。
最古参である関羽の拘りもそこから来るものだろう。

226 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:28:06.21 .net
>>224
別に特別説なんて唱えてないよ。

上位雑号・下位雑号なんてまぬけな概念をとっぱらってほしいだけ。

227 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:29:01.48 .net
>>222 >>223
いや、だからそれ本当にもう無理が出すぎだって
黄忠が前将軍任命前の関羽より上になったり、右将軍任命前の張飛より上になっちゃうし
将軍名に意味と役割云々いうなら筆頭将軍の関羽とか盪寇とかわけわからんし
征慮や討慮は捕虜殺戮専門部隊の指揮でもしてたのかという事になるし、
正直、もともとが貴方の推測で始まったことだから
ここまで無理が出たらもう撤回しといたほうがいいよ、怒んないから

228 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:30:57.61 .net
征西将軍と征虜将軍・巴西太守ってどっちがえらいの?

229 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:31:32.05 .net
この時代、階級序列と官職の「箔」というのはまったく別物だということを基本に覚えていてくれ。

漢代、尚書令は一千石、刺史は六千石。
中郎将は比二千石だが、場合によっては二千石将軍を率いることもあった。
そういうこと。

230 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:32:40.85 .net
六千石ってなんだよw

刺史は六百石

231 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:33:48.09 .net
>>225
もともと左将軍劉備が任命したものだから
征西将軍は漢王朝における黄忠の正式官職じゃないんだよ
一覧で見ても前後左右将軍のが上だし、
もともと当時は前後左右将軍のほうが重んじられてたそうだし
見てて本当に辛そうだからそろそろやめていいよ、本当に
>>226
実際に一覧にある概念で、
悪いけど貴方のいう将軍位階よりも
史実が遥かにすっきりと納得できるもんで、とっぱらえないよ
とっぱらったら史実が意味不明なこと多すぎになる

232 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:35:26.91 .net
>>229
どんな概念入れたとしても
さすがに昇進して下位になったりはせんとおもう

233 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:39:58.33 .net
漢代で言えば、二千石の太守を歴任して名声を博した能吏が千石の尚書令に「栄転」するわけね。
後漢や魏では、太守のあとに九卿になるのは平和な余生コースだった。
尚書令になれば、断然皇帝権力と近い存在になり、さらなる栄達も望める。出世コースがまだ続いているというわけ。

234 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:40:30.26 .net
>>228
牙門将軍特別説の人によると
征慮将軍は他の雑号将軍と同じで
征西将軍は高い位なので、征西将軍が上となる
しかしこうすると史実で黄忠が張飛より上になっていた期間が存在してしまう
しかし、そうすると劉備が黄忠を張飛らと同格の後将軍に任命しようとしたとき、
孔明が「黄忠の名声はまだ彼らに及ばない。だから彼らと同格にするのはいかがなものか。
武功を見れば確かに納得できるものではあるのだけど。」という意味の事をいったという史実がおかしくなる。
昇進して下位になってどうすんだ、って話。

235 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:41:37.20 .net
>>231
「一覧」連呼する人に諭されたくないなあw

236 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:42:17.49 .net
>>234
>征西将軍は高い位なので、征西将軍が上となる
位は高くねえってばよ。日本語読めんのか。

237 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:43:06.29 .net
>>235
いやー、少なくとも貴方が推測でいってることよりはよっぽど納得できるわー
「一覧」のほうがw

238 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:44:32.65 .net
その「一覧」によると、二品の征西将軍から三品の後将軍に「昇進」した黄忠の立場はどうなんの?

239 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:45:30.34 .net
というか、征西将軍黄忠は、当時左将軍の劉備より上になっちゃうよね?

240 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:46:05.52 .net
>>236
だってお前の中では漢代最高クラスの将軍の副将なんだろ?征西将軍って
由緒と格式で凄いんだろ?
そうじゃなくて位高くないんだったら、またまた黄忠さんが
「昇進してるけど昇進してない」という変なパターンになっちゃうぞ、どうすんの?
やっぱり貴方の推測定義よりも「一覧」のほうがすっきり納得できちゃうなーww

241 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:47:02.20 .net
>>227
関羽・張飛は将軍位こそそれほど伝統あるものではないけども太守と亭侯位をそれぞれ保持してる
将軍位は伝統あるものだけど征西将軍のみの黄忠と比べたら前者の方がまだ上だろ
将軍位で並ぶだけだよ

242 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:49:43.49 .net
>>240
>由緒と格式で凄いんだろ?
>そうじゃなくて位高くないんだったら、またまた黄忠さんが

よくわからん日本語だな。
「由緒と格式」がある。「位」は同格。それだけ。

243 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:54:13.87 .net
>>238 
ほーお、俺がどんな「一覧」
使ったとおもうわけで?
やっぱりなんかお前おかしいな
>>239
それいったら会稽太守に過ぎない時代の孫権が将軍位任命してる時点でお察しだろ
劉備とか孫権とかの君主を頂点として、その中での将軍位って事だろ
曹操も晩年までこの独自勢力による官職と朝廷の官職をわけてたみたいで
夏侯トンには敬意を表して最後のほうまで朝廷官職はあげなかった

244 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:55:22.14 .net
>>239
当時の劉備は行大司馬左将軍益州牧
どう逆立ちしても征西将軍じゃお話にならない

245 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:56:04.87 .net
王思は未だしも宗預のことすら知らない奴が
ダブスタオレ持論を語るスレはここですか?

246 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:56:28.89 .net
>「昇進してるけど昇進してない」という変なパターンになっちゃうぞ、どうすんの?

そういう変なパターンの繰り返しが中華官職史なのよね。
歴史を重ねるに連れて階級と実質が整合しなくなっていく。
九品官人法は、これを修正して昇進序列を定めたものだが、実質は守られないし、
のちに清官と濁官なんてものが生まれていく。

それから、名号に纏わる役割・由緒というのも重要。

247 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:56:54.99 .net
>>241
そんなの無理だって
それいったら黄忠が後将軍任命された後でさえ、
黄忠は太守とか候にはなってないんだから
「同格」にはならないな
つまりこれまた史実の孔明の「同格」発言と完全に矛盾するわけだ
>>242
ああ、つまり黄忠さんは大功あげても昇進してなかったのね、凄くかわいそう
皮肉抜きで平たくいうと無理ありすぎ

248 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:58:38.36 .net
>>243
いや、どんな一覧使ってるのか教えてくれよ、マジでw
品秩も載ってないのを見てるのか?

249 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 00:58:57.12 .net
>>243訂正
朝廷官位じゃなくて独自勢力官職あげなかった、だ
>>245
また別人設定か?
いい加減魏延の活躍記録もってこい
>>246
いや、だからその明らかにあんたの推測で始まった事を
いうのやめろ
もうどっからどう見ても無理だっつーの

250 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:00:43.60 .net
>>248
いや、品は乗ってるが?
でもなんでお前は品の事について語ってるのに
わざわざそれを問うてきてるんだ?
ていうか、最初の俺の質問の趣旨と違うよな?
なんでシフト変わってんだ?

251 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:01:33.07 .net
>>243
「討虜将軍」が存在してない一覧らしいから
多分ネットかなんかで適当検索かけて個人サイトかなんかの一覧孫引きしてるだけかと思うよ

252 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:03:51.56 .net
>>250
載ってるのか。よかった。
普通ネットに上げられてる「三国時代の官職」とかいう種の表はちくまの引用だからね。
そうでないのがあったらびっくりだよ。

じゃあその一覧に基づいて>>238に答えてくれ。


余計なヒント:
九品官人法の制定年と、劉備の漢中王即位年は?

253 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:04:20.39 .net
>>251
ほーお、色々興味深いことをいうじゃないか
やっぱりお前なんか色々とおかしいな
なんだかお前について興味がわいてきたわ

明日、てかもう今日か
仕事だからそろそろ寝る
ニートに付き合うと無駄な時間ばっか使うことになって馬鹿らしい限りだな
でも多少は収穫もあったか

254 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:04:20.77 .net
>>247
はい、残念
黄忠は後将軍と同時に関内侯になってる

255 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:05:34.03 .net
「ほーお」で逃げられたw

256 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:05:55.23 .net
>>253
じゃあその一覧をどうぞ提示して御覧なさい

討虜将軍がないと上で言ってるよね?
あ、もしかして別人?

257 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:09:07.08 .net
>>252
劉備の漢中王即位は九品前だな
その通りにするなら征西は後より上となる
ただ独立勢力の劉備の中での官職と漢中王になった劉備のじゃ別だろうけどな

>>254
それいったら張飛は仮節だけどな
お前の設定自体がおかしすぎだわ
まあ、また今度な

258 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:11:08.67 .net
孫権は揚州刺史や牧にはなっていないが、
将軍号で一貫して優越してるんだよね。
討虜将軍時代は部下は裨将軍か偏将軍まで。
車騎将軍になってから列将軍を任命している。

これは左将軍劉備の荊州時代と同じで、
漢中王と後漢王朝の二重構造などを含まない分、
孫権陣営の方がわかりやすい。

259 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:12:35.36 .net
>>257
いいから一覧って何よ
とっとと出せよ

260 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:14:02.76 .net
いったい何人の人が一覧くん(仮称)に異論を提唱してるんだろう?
少なく見積もっても2〜3人はいそうね
一覧くん(仮称)は1人と言い争ってるつもりみたいだけどw

逆に一覧くん(仮称)の意見を後押ししてるレスはとんと見かけないなw

261 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:18:15.39 .net
>独立勢力の劉備の中での官職
そんなもんは存在しないよ。
王君を名乗らない限り、群雄が勝手に任命する全ての官職は「後漢の臣」だ。
建前としては、左将軍劉備と軍師将軍諸葛亮は「上下の列があるだけの同じ後漢の臣」。
曹操と夏侯惇と同じくね。

だから、長年の主君であるが建前では「ちっぽけな魏王(漢中王)」に格納されるのを切望するか、
それとも同じ大漢の臣として尊重されるのかに、関羽と劉備、夏侯惇と曹操の距離感が伺えるわけで。

262 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:19:04.32 .net
多分IDかIP表示する板ででもやらんとこいつは何人居ても一人だと思い込んでるよ
下手すりゃそういう板ですら、串だ、なんだって騒ぎ立てるさ

263 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:26:31.13 .net
関羽にしてみれば、30年以上付き従った主がついに王にまで昇ったわけで、
「俺が一の臣下だ!」って自負があればこそ、漢中王の王廷に傅きたかった。
ところが蓋を開けてみれば、新参かつ老兵の黄忠なんぞに同格に並ばれていた。
これでは憤慨するのも無理は無い。

逆に曹操から見れば、旗揚げから「裨将」として付き従って功績最大の夏侯惇を、
自分の「臣」として所属させたくなかったからこその「不臣の礼」だった。
周囲に対しても、最古参をこれだけ厚遇していると示す必要もあった。
しかし夏侯惇はそこまでの資格は無いとして断るわけだが、
わざわざ臣従するのを選ぶというのは関羽に似た心情があったかもしれないね。

264 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:30:29.94 .net
>>263
黄忠が仮に70だとしても関羽だって旗揚げ時20そこそことしたらもう60くらいだろうに大人げねぇなぁ
まあ劉備も曹操を老害って言う割りに5歳くらいしか年違わねぇのだけども

265 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 01:36:40.87 .net
「士」ってのはぶっちゃけ「男を立てる商売」だからね。
それで長く生きてきた人間ほどそう簡単には曲げられんわさ。

266 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:00:11.73 .net
「一覧」に従うと、
漢中王以前の
>独立勢力の劉備の中での官職
の中だけでも、二品の征西将軍黄忠は
同時期の関羽や張飛など他の将軍をぶっちぎってることになるな。
「由緒」や「格式」どころじゃない大騒ぎだ。

267 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:02:22.62 .net
国が違うから九品制は蜀には適用できない
後漢と蜀漢ですら官位の序列が未だに分かってない部分がある
相違点と類似点があるので比較するのは有意義だが妄信は無意味だ

268 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:07:55.81 .net
この戦いで完全に三国鼎立が確定したわけだから結構重要な戦いだと思う

269 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:19:31.97 .net
>>264
劉備の生年は延熹4年161年、漢中王になったのは建安24年(219年)で58才
って所からして関羽もまだ50台半ばだと思われる

黄忠の方の年齢も全く解らんけど、いくら帰順したとはいえ、60台の老人を登用しないのでは?
または登用しても重用しないと考える
登用時の建安13年で50台半ばくらい、建安24年で60台半ばくらいがいい所じゃない?

270 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:24:47.61 .net
ここから関羽敗北までが劉備の全盛期だしね

271 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:32:51.64 .net
>>269
「老」とは70歳である、というのが説文解字に載ってるもんで70歳くらいとして考えてみた

272 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 02:33:01.28 .net
最初の問題は、魏延が漢中太守に抜擢されるほどの功績を挙げたのかどうか、か。

1.当時の軍功計算は、首や先登の数といった数量的なものが大半で算出されるわけで、
史書に書かれるような大逆転とか智謀の冴えの逸話があることは少ない。

2.しかし、.史書には遺漏が多く、しっかりした統一王朝の建国の元勲(樊カイとか)
でなければ、完全な功績のフォローは期待できない。蜀志ならなおさら。

3.魏延は、昇進している以上、1のような功績が無かった・少なかったと見るのは不自然だが、
督漢中・鎮遠将軍に当たるほどの数字ではなかった。

4.なぜならば、功績考課の上ではまだそこまで達していない、という人間を、
人事責任者の権限で特別に引き上げてやることを「拔」と言うから。
>先主乃拔延為督漢中鎮遠將軍,領漢中太守,一軍盡驚。

273 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 03:14:26.18 .net
>>271
老兵とは関羽の言葉で侮ってたり、悪口だったりの言葉だから
厳密な意味にとらわれなくてもいいんじゃない?
まあ、建安24年で60台半ばくらいとする根拠も薄弱なモノだけど…

アラ70で「勇は三軍に冠たり」は流石に矍鑠も過ぎる気もするから
アラ60じゃアラ70とたいして違いはないって言われたらそれまでだけどなw

274 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 03:41:07.52 .net
>>272
君の言う「拔」の意味は「拔解」「拔授」など、熟語の時の意味
ただ一字「拔」なら「選び出す」程度の意味になる
張飛が前評判高かったけど劉備は魏延を選び、色々偉くしたので皆おでれーた
という意味だよん

275 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 06:51:55.94 .net
この戦いでずっと物資を途切れさせず援軍まで出した諸葛亮はもっと誉められていいと思う
逃亡兵まで出た曹操軍とは雲泥の差だ

276 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 07:07:43.04 .net
>>274
拔解なんて用語、当時使われてないだろう。
当時の人事用語として、通常の功労昇進ではなく序列を飛び越して昇進することが
「拔」で表されている。

277 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 08:01:54.57 .net
>>275
諸葛亮の後方支援は超一流。入蜀の際も漢中攻略の際も、険しい山岳地帯の巴蜀で補給を滞らせた形跡がない。


278 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 09:08:57.22 .net
後漢末期では四方の方が四鎮より上だった可能性が高いよ。確か劉備は左将軍になる前、鎮東将軍だった筈。


279 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 09:42:06.13 .net
>>276
勿論、使われてないよ
拔授は曹植の使う文学用語レベル、滅多に見ない
そんな使われてない言葉の意味で君は「拔」を捉えちゃってるってこと

元々、チョイスする、引っこ抜くって意味が元にあって
「人事責任者の権限で特別に引き上げてやること」は後から追加された意味だよね

280 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 12:24:52.03 .net
蜀では漢末の将軍位がそのまま継承されてるっぽい。四方→四鎮→四征の順だね。だから黄忠の西征から後将軍は普通に昇進でしょ。
この後、蜀では四方の上に大四鎮や大四征がくるようになる。

281 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 12:40:37.14 .net
あ、大四鎮大四征だとおかしいな。四鎮大、四征大とすべきか。

282 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 19:57:38.99 .net
>>279
後からというのがいつかよくわからんけど。

漢代官吏の人事というのは、勤務日数の「労」と数字換算される「功」の蓄積によって把握され、
一定の数字に達すると次の階級に昇進可能というものだった。
この常態を越えて昇進するレアケースの場合、「舉」とか「拔」と言われた。
ただそれだけを言っただけだよ。

「年二十,舉孝廉為郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令」

という文があったとき、
この「舉」は「挙げる.持ち上げる」という意味であって、
「推薦権限を持つ者が有望なものを朝廷に推挙する」という意味は無いよ。
……なんて解釈はしないだろう?

283 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 20:18:05.09 .net
>>282
そりゃ「舉」の場合、儒教の経書などで普通に人材登用って意味で使ってるもの
前例があるならそんな解釈せんよ

284 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 20:20:48.43 .net
追記

三国志本文では普通に「抜擢」が単語として登場してる
陳寿はわざわざ魏延のケースは単語を省略して「拔」一字で済ませたと主張するのは難しくない?

285 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 20:59:07.46 .net
挙の字だって、同じ孝廉選挙の場合でも挙・選挙・察挙と異なる言いようをするよ。
経書に載っているから専門用語、ってのはおかしいだろう。

少なくとも人事問題を語る場面で、「卿更相拔舉」、晋代だが「則拔舉非次,并容其身」と
対で呼称されている記述もある。

「拔」という用語が必ず「「人事責任者の権限で〜」という意味を指すとは言わないし、
劉備陣営が厳格な人事考課をしていたとも思わないが、
劉備が魏延を督漢中に任じた場合の「拔」を単に「「選び出す」と解釈するのは、
魏延の経歴・年齢を考えれば難しいだろう。
「抜擢」「抜用」の「抜」だよ。

286 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 21:49:49.15 .net
>>285
挙の字が専門用語とは言ってないよ
経書でも普通に人材推挙って意味で使ってることがあるし
例示としちゃ不適切って言ってるだけさ
あと提示された「選挙」とかはもう熟語として定型化してるでしょ
それから例示してる晋代〜ってのは晋代じゃなくて晋書であって
文体は唐代のものだから三国時代の陳寿の文章考える上では参考としてもかなり微妙

同じことを繰り返して悪いんだけどさ
抜擢・抜用の熟語は三国志本文で何度も出てる
魏延のケースでわざわざ省略して抜一字で済ましているというのは難しい
陳寿のような古代の史家は現代人と違って一文字一文字に気を使ってる
抜擢、抜用が本文の他の箇所で出ているのに
わざわざ魏延だけ一文字にしている理由を説明しないと納得はできないなぁ

287 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 22:15:04.76 .net
>一文字一文字に気を使ってる
この前提が間違ってるよ。そんなの古文学の経典研究だけだ。
選挙・辟召・徴召、いずれも一字に短縮される。

288 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 22:23:46.74 .net
あと、卿更相拔舉の方は范曄後漢書ね。
南朝時代だから微妙とか言われても困るが。

289 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 22:33:46.61 .net
>>287
陳寿は死に方の表現とかでも色々仕込んでるような奴だし
一文字一文字気を使ってると見るべきでは?

また「抜」が特段に目をかけるという意味に集約されてない文字どころか
選び出すとか抽と同じ字義を持った字であるということを無視してるのはよくない
張飛がなると思われてたのに、劉備は魏延を漢中太守他に命じたので、という文章を
劉備は魏延に特別目をかけていたので、とバイアス掛けるのはよろしくない

290 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 22:49:10.07 .net
それは陳寿が政治的に重要な意味を込めたからだよ。
皇帝は無論、臣の死去が卒であるか薨であるかは、正式に王朝の臣であるか庶人であるかという
大きな差異がある。呉人はさぞ切歯扼腕したことだろう。
でも辟か辟召か、抜か抜擢か、にはそんな差は無い。

「抜」と言う字が、一般的な語で多様な意味を持つのは判るけどね。
説文解字では、「抜は擢なり」。「ぬく」「ぬきんでる」という意味を無視するのもよくないだろう。

>劉備は魏延に特別目をかけていたので、とバイアス掛けるのはよろしくない
そんな意味は付与してないよ。
経歴功績が低い魏延に、それを飛び越して重任を与えたから「抜」。それだけ。
「選び出す」で普通に選べるような、張飛と肩を並べる格はないよ、魏延には。

291 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 23:04:19.17 .net
>>290
擢は抜きん出るという意味ではないぞ
抜と一緒で抜き出す、抽と同義

張飛がなると思われてた。劉備は乃(そこで)魏延を選び出して、為す色々。
という文章を魏延は特別に引き立てられた、としちゃいかんて

292 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 23:09:33.07 .net
追記

結果として魏延は君の言うように目を掛けられているように見える出世をしている
これは否定しない
しかし文章では魏延は特別に以下略〜という文章が書かれているのではない
文の意味とその文章が示す結果を切り分けて話しているのが齟齬の元だったかなと思ったり

「空が青い」とあれば空は青いのだが、晴れてるとは書かれてないってこと
日本語だと空が青いってのは晴れの慣用表現みたくなってるのでちょっと不適当かもしれないが
言わんとするところはわかってもらえるかな?

293 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 23:19:06.40 .net
>>291
抜も擢も「ぬきんでる」という意味は無いのに、
「抜擢」と熟せばなら「ばってき」の意味になるってのは摩訶不思議な話だね

294 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 23:21:18.84 .net
>文の意味とその文章が示す結果を切り分けて話しているのが齟齬の元だったかなと思ったり
俺は「抜」という語の持つ意味や他の用例から、魏延の処遇を推測してるだけなんだけどね。
そちらの言わんとするところはわからんと答えさせてもらう。

295 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/07(水) 23:50:42.15 .net
とりあえず、「抜擢」の意味と思える単字「抜」の用例。三国志及び注から

武帝紀注魏書
>知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陳之間,

文帝紀注魏氏春秋
>嘉昔伊、呂,搜揚側陋,舉湯代禹;拔才巖穴,取士蓬戸,

劉曄伝注傅子
>陛下過聽,拔臣羣萃之中,

衞臻伝
>周武拔漁父為太師

さすがに母数が多いので疲れた。
上記いずれも、「行陳之間」「巖穴」「漁父」と本来人材を選ぶような場所ではないところから
逸材を「抜擢」したという話。
また劉曄伝は、劉曄がへりくだって、「実力不相応にも臣を抜擢してくださり」という箇所。

ついでに、
三少帝紀注魏氏春秋
>「高祖拔起隴畝」
は、漢高祖が畑暮らしから「抜きん出て起きた」、雄飛した、の意味。

296 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 00:13:14.27 .net
>>293
抜擢も抜きん出てるって意味じゃないぞ?
選び抜くって意味で、同じ意味の言葉重ねて強調してるだけなんだわ

>>294
文章上、魏延が選ばれた、というだけで魏延に特別目を掛けて引き上げたというわけではない
ということを言いたかったのだがわかり難くてすまんね

>>295
俺が言ってるのは特別に目を掛けて引き上げるという意味はないってこと
魏延は確かに劉備から選ばれた、でも「抜」一字では特別に目を掛けたという表現ではない
選び出した、選んだ、程度の意味だってこと

297 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 00:26:26.69 .net
俺は「特別に目を掛けた」なんて言ってないぞ。
それじゃあ劉備が個人的に魏延をえこひいきにしてたみたいじゃないか。

>>272の「特別」ってのは、常制の考課評点ではなく、
主君や府主個人に属する裁量権限での「抜擢昇進」という意味で「特別」だ。
そんなの太守や将軍クラスなら誰でもできた権限だろう。

298 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 00:58:31.76 .net
>>297
だからその文章での抜はいくつかある中から引き抜くように選ぶの意であって
権限の範囲内であろうと特別に目を掛けたわけではないよ、と言ってるのだが

>>295で例示された中だと結構違うのあるよ
城を落としたり、穴の中にいる才能を引っ張り出したり
突如として起こる「拔起」を「「抜きん出て来た」としてみたりちょっとお粗末じゃない?

299 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 01:07:18.82 .net
>特別に目を掛けたわけではないよ、と言ってるのだが
俺は「特別に目を掛けた」なんて言ってないので、
つまり誰も主張したこともない説にエア反論してたってこと?

300 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 01:15:36.94 .net
「抜く」は「引く」でもある、というかこの二語は類義語。
「引き上げる」という意味で対象を上昇させるという意味から、
「抜擢」という熟語に繋がる。

でも、「複数の中から選ぶ」ってのは「抜」「引」の本義じゃないよ。
むしろ対象を引き上げる・上昇させるという意味を含まない「選ぶ」だと
特定できる用例を教えて欲しいものだ。

それから、「抜」には「城を抜く」、という意味が確かにあるが、
>>295のどこにそんな例が?
「拔起」は「抜きん出る」「起きる」で、凡庸の中から高く昇るって意味。

301 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 01:48:37.11 .net
>>300
一行目の奴抜于禁〜云々ってのを誤読しちゃった
城を落とすってのはないわ
ごめんね

上昇じゃなくて自分の方に持ってくる、移動させるの意でしょ
何で「上昇」というバイアス掛けちゃうかな

302 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 02:06:56.08 .net
>上昇じゃなくて自分の方に持ってくる、移動させるの意でしょ
ああ、そうか。
それは確かに。
偉い人間が下位者を「自分の方に引っ張ってくる」ときに限り、引き上げる・上昇させる、の意味になるんだな。
「抽」も本来は引くの類義で、選ぶって意味はではなかったみたいだね。
弓を引くことを抽と言い、剣を鞘から出すことを抜という。
1 of 1でも根こそぎでも「引」「抽」「抜」。
抜擢とかすると大抵は複数の中から選ぶことになるから、選ぶって意味が副次的に付くようになった。

303 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 02:23:29.35 .net
>>302
「抜」は全般、「抽」もほぼ同義だがこちらは引き出すことと、何かを取り除くこと
これらは何かの中にあるものを取り出して引き寄せるの意
既にこの「何かの中から何かを取り出す」という時点で選択がなされる
まあ1:1の引き寄せでも問題なく使われるがね

「引」は何かを自分のところに引き寄せることだが元々が弓を引く動作から来ているので
引き寄せる結果、その引き寄せる物が元々近かった何かと離れることも含み、伸びるという意味も持ってる

後者にはなくて前者には選択するという意味が元々あるよ

304 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 02:37:12.81 .net
黄権はどれくらいこの戦いに寄与したんだろね
最初に漢中を攻めるよう献策したのは黄権みたいだが

305 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 02:42:19.48 .net
発案する時点である程度企画書みたいなの上げてたんじゃない?
戦争しますはいそーですか、と人や兵糧は動かせないはずだ

ただ予め劉備の方針として漢中を落とすことを計画しといて
黄権の献策を合図に一気に動き出したとすれば
輸送計画などは事前準備しといたものを使うのだろうから
そこまで綿密な企画書ではないな

306 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 07:15:30.20 .net
>>303
説文解字にはそんな用例は載ってないし、
三国志や漢書でもそんな用法は見受けられない。
あなたの思いこみだろうね。

307 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 10:12:20.15 .net
そろそろ趙雲について話そうぜ!

308 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 12:06:32.71 .net
別伝が盛ったという真っ当だけど身も蓋もない結論は勘弁して…

309 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 20:29:52.38 .net
>>306
説文解字には最低限しか載ってないからな
古典は古典なので常に正しいと言うわけでもない

抜は擢や抽以外にも似たような意味の言葉があっても体系立てて教えてくれない
辞書を0から作れるような実力でもない限り、
最終的には現代の学者がちゃんと作った辞書に頼らないとダメだぞ
んで抜、擢、抽にはそれぞれ使い分けが存在してて
抜ってのは全般的に用いるし、抽ってのは元からあるものを引き抜く様(箪笥の引き出しとか)
擢はいくつかある同じものの中から選んで抜き出すという場合

抜ってのは髪の毛を手で引っこ抜くところから出来た漢字で
ニュアンスとして手で引っこ抜く毛を選ぶというところから選ぶという意味もある
「抜除」は「選んで除去する」の意

310 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 20:57:12.36 .net
そのあなたが参照している「現代の学者がちゃんと作った辞書」って、

>陳寿のような古代の史家は現代人と違って一文字一文字に気を使ってる
>「人事責任者の権限で特別に引き上げてやること」は後から追加された意味だよね

というのをちゃんと勘案して、後漢三国時代の用法を適切に割り出してくれている?
「抽」が主に「抽出」の意味を示しているってのはあからさまに「後から追加された意味」なのだけど。

説文解字は「現代の学者」が後漢代の字句の意味を割り出すのに最も有力な字書なんだけどね。

また、最初
>三国志本文では普通に「抜擢」が単語として登場してる
>陳寿はわざわざ魏延のケースは単語を省略して「拔」一字で済ませたと主張するのは難しくない?

魏延伝が「抜擢」という用語であれば魏延が抜擢昇進したことに異論がない、という風に反論しておいて
「抜は擢なり」と返されたら
>選び抜くって意味で、同じ意味の言葉重ねて強調してるだけなんだわ
とあっさり前言を翻すのはどうなんだろうね。
それとも「選び抜く」で、「特別に目を掛けた」の類義になるの?

311 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 21:01:57.23 .net
>>310
いや抜擢はそういう熟語なんでね?

抜擢という熟語で書かれてるならいざ知らず
そうでもないのにこれは抜擢の意味だ!と断定しちゃだめだってば

312 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 21:26:39.32 .net
字書も示さず、史書や経書から例示も出さず、
「そういう意味なんでね」と言われても反論できないなあ。

前も
>まあ1:1の引き寄せでも問題なく使われるがね
なら、つまり対象が単数や複数などの含意が無い、たんに「ひく」「ぬく」の意味しかないってことじゃん。「元々は」。
実際、漢書などでは抜剣や抜城など、選択もなにもない用例の方が圧倒的に多い。

古典の用例のどこから「"複数の中から選んで"抜く」というニュアンスがふって湧いたのか真剣に知りたい。

313 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 21:30:47.53 .net
抜擢に関しては単に意味の似た文字を重ねて強調してるだけの熟語って説明しただけなんだが
それのどこがおかしいのかな?

314 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 21:38:04.29 .net
>>312
典拠は白川先生の字統と角川書店の字源からだよ

これでok?

315 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 22:08:13.28 .net
一人で壁に向かって話そう…
きっと翊軍将軍は蜀では高位の雑号将軍なんだ、きっとそうさ、趙雲が昇進しないだなんておかしいじゃないか…
地方軍じゃないから四鎮だの四征だのにしなかったんだ、もし中将軍なんてあったらきっとそれは趙雲さ…

316 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 22:23:44.63 .net
>>315
高位かどうかはさておき、かなりいい号として後代に認知されたらしく
以降の史書に

317 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 22:27:47.09 .net
途中送信しちまったorz

>>315
高位かどうかはさておき、かなりいい号として後代に認知されたらしく
以降の史書に翊軍の付く官位がぞろぞろ出てくるから
劉備としても出来る範囲で精一杯のいい名前付けたんじゃない?

318 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 23:13:50.94 .net
>>314
おお、okok。
とりあえず字統は注文したが、それには「抜」はなんと解説されているわけ?

319 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 23:19:05.33 .net
>>317
ありがとう、そう思おう


320 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 23:45:07.76 .net
>>318
髪の毛抜く様から来てる字とあるよ
俺が言ったことは大体載ってる

んで擢の字は鳥の羽を引き抜く様なんだそうだ
その時に美しいものを選んで引き抜くので、人材を選ぶ時にを抜擢というんだとさ

使い分けについては角川の字源の擢の字の解説に載ってる

321 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 23:56:19.58 .net
それだと、「選ぶ」の意を含むのは「擢」の方であって、「抜」には数量は無いってことじゃね?

322 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 00:32:32.53 .net
>>321
漢書には抜進という熟語があってこれは多くの中から選り抜いて進めるという意味だな
つまり両方とも選ぶって意味があるわけだ

323 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 11:55:51.42 .net
曹操自ら20万の大軍を率い、主力の将を軒並み動員して攻めてきたのに、
5万の兵で迎撃して完膚なきまでに撃破した劉備の采配は神すぎる。

324 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 12:13:24.85 .net
赤壁の戦いも、正史だと劉備率いる陸戦部隊による攻撃が決め手になったみたいなんだよな。
曹操も劉備に負けたと言っているし。

325 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 12:17:02.72 .net
628 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/12/09(金) 09:33:46.08
スレ立ては大賛成だか上の様な馬鹿嵐が問題。


629 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/12/09(金) 09:44:00.18
荒らすのはまだ早いだろ
スレが立ってから荒らせ


630 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/12/09(金) 09:53:43.26
荒らしは放置が鉄則


631 名前:みじんこ ◆A5eK1PRE8BT6 :2011/12/09(金) 10:54:51.10
ここは一応議論スレだから新しく建てた方がいいかと
ルール等はこれからここで話し合うってことで


632 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/12/09(金) 11:58:39.18
みじんこ蛆虫


326 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 12:59:28.31 .net
>>324
黄巾、袁紹軍、楊奉&韓セン(謀略?)、劉岱&王忠、蔡陽、夏侯惇&于禁、曹操(赤壁)、荊州南部四郡に益州、曹操(漢中)

普通に勝ち戦も多いね>劉備

327 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 20:55:38.91 .net
>>322
肝心のところが「辞書」典拠じゃないなんて駄目じゃん

328 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 21:20:58.69 .net
>>327
角川書店の字源にそう載ってる

329 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/09(金) 22:52:04.72 .net
どうのってるわけ?

330 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 02:20:19.36 .net
この戦いでの劉備軍、曹操軍の兵数って史料にはあるの?

331 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 03:36:01.06 .net
ないんじゃね?

332 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 07:16:31.54 .net
各種史料から大体の数が推測できる。

定軍山の戦い
夏侯淵3万
張コウ2万

劉備3万
張飛1万

漢中の戦い
曹操15〜20万

劉備4〜5万

333 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 12:11:14.89 .net
これだけで判断すると曹操も夏侯淵も張コウも大した将ではないようなw
まあ劉備が意外に戦が上手いということだろうな

334 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 12:45:28.32 .net
>>333
そんなに意外ではないけどね>劉備の戦上手
敢えて意外と言うなら防衛戦で手腕を発揮したとこかな。

335 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 13:08:35.82 .net
それまではどっちかというと起動戦術を駆使する野戦の名手って感じだったしね

336 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 14:27:14.79 .net
漢中戦と日露戦争って内容が似てるね

337 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 17:18:23.65 .net
一言でいえば邦正が居たかどうかということか

338 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 22:46:28.60 .net
劉備は劉岱・王忠クラスの二流には勝てるが、曹操・呂布クラスの一流所には完敗する
短期間の局地戦では勝ちを拾うが、先を見通しての戦いは下手で長期戦になると概ね負ける
決して戦下手ではないが戦上手とも言い難い

そして、勝てないと踏んだら全てをかなぐり捨てての遁走が基本
粘り強いと評する者も多いけど、その評には違和感を覚える

対袁紹軍は劉備が主導した戦いではない
夏侯惇は将として一流とは言い難い
赤壁の勝利は曹操軍の撤退に対する追撃戦によるもの
そして、蜀取りの長期戦や漢中の篭城戦での勝利は、
後方支援の孔明と龐統・法正の両謀士の貢献が大きいと考えられる


って書いてて、銀英のオレンジ頭が思い浮かんでしまったw

339 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 22:57:11.11 .net
>>338
後方支援のお陰というけど後方支援ある限り戦い続けられる精神力が異常
曹操は短期間攻めて目が出なかったさっさと見切り付けちゃうし
孫権はその短期攻めの目が出るかどうか試してダメならもう諦める

つまり劉備=修造

340 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 23:44:24.41 .net
つまりその精神論や根性論が裏目にでたのがリクソンさんにやられたあれなわけか


341 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/10(土) 23:57:04.29 .net
いや、そんなに異常でもないだろ補給が続いてんだから
それに蜀取りはほぼ勝ち戦で勝ちきれなくて長期戦になっただけだし
漢中は何年も続いた戦いって訳でもない

乱世の覇者ならやってのけてることだよ

342 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 00:00:35.19 .net
夷陵の戦いでの陸遜の持久戦法は呉の将兵の支持を得られず、
しびれを切らした将達の突き上げに抗し切れず出撃を許したことがあるけど、
結果は劉備の策に嵌まった呉軍が敗退して再び持久戦に逆戻り。

つまり、陸遜ほどの名将が守りを固めていなければ防げないほどの強者が劉備。

343 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 01:08:54.97 .net
>>341
蜀取りは勝ち切れなくて長期戦になったのではなく、意図的な長期戦。
劉備が益州軍の大半を自分で引き付けたり包囲した状態で、
荊州から侵攻した張飛・趙雲・諸葛亮それぞれの軍が各地を制圧してる。
結果、劉備が成都を落とすと同時にそのまま益州の支配が可能になってる。
普通は州を落とすとなったら、敵主力を撃破しつつ重要拠点突いて、
それから方々の鎮定に回って残党狩って、それでようやくスタート。
劉備の蜀取りは一手省いてて非常にスマート。

344 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 01:18:29.42 .net
>>343
龐統が死んでなければ、その言い訳も通用したかもな


345 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 01:44:36.93 .net
各地の制圧に時間を費やしているのなら成都を落したあとでも変わらないだろ
逆に先に劉璋を降していれば、戦わずして降る者もいたであろう事から戦費の無駄でしかないよ
それに戦争が長期化する間、霍峻は包囲されたまま、1年も守りとおさなければならない羽目になってるんだぜ
孫権は虎視眈々と荊州を伺っているし、曹操も漢中を狙っている
意図して長期戦している余裕なんかないって

346 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 04:03:13.66 .net
曹操の「劉備は俺より考えつくのが少し遅い」って評は的を得ているなとショク侵攻戦の経緯を見て思うわ
ホウ統の中策を採用したのもその性格の現れだな

347 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 13:42:24.32 .net
>>344
別働隊が各地の制圧を始めるのはホウ統の死ぬ前だから通用するってことを認めてくれるわけか。

>>345
各地の制圧は劉備が成都を落とす前に終わってる。
だから一手省けてる。
先に劉璋を降すと、他勢力に駆け込んで庇護を求める奴が出てくる。
意図的な長期戦だけど、益州を丸ごと手に入れる最短の道でもある。

348 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 17:33:51.70 .net
>>347
> 別働隊が各地の制圧を始めるのはホウ統の死ぬ前だから通用するってことを認めてくれるわけか。
意図的に長期戦にしようとした側の軍師が、攻城戦で死ぬのがおかしい。


> 各地の制圧は劉備が成都を落とす前に終わってる。
終わってない。
広漢県を守る黄権など、終戦まで守り通している。

349 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 18:20:37.65 .net
>>348
確かにそこは守り抜かれたが、大勢は劉備が成都を落とす前に決してる。
スムーズに劉備の勢力に政権が移行してるのは、
劉備が益州を全体的に制圧してるから。

軍師は軍師でも軍師中郎将だし、本文読む限りでは普通に前線指揮官として戦ってる模様。
城攻めの最中に斉射されての戦死で、何も不思議は感じないのだが…

350 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 19:07:36.86 .net
曹操も意外と局地戦は負けが多い。劉備は基本仕掛けられる側だからヤバいと逃げるが、曹操は仕掛けてやられるケースが目立つ。
徐栄や呂布、馬超、一度は袁譚にもしてやられてるし、官渡では白馬、延津、陽武と敗走を続け、赤壁や漢中は言わずもがな。
劉備も曹操には何度か負けてるが、官渡前の反乱や長坂等条件的に厳しい戦いだったりするから一概に曹操が上とは言いにくい。

351 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 19:54:40.29 .net
権謀と才略にかけては魏の武帝に及ばず、これがため国土もまた狭かった。


352 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 21:32:03.92 .net
>>351
陳寿の言葉は結果論に過ぎないよ。実際には出自や時勢や環境の違いから両者には最初から大きな差があった。
それに曹操も幾度となく危機に陥り、しばしば部下達の献身や献策に救われている。曹操一人で偉業を成し得た訳じゃない。


353 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 23:45:26.81 .net
>>352
だからどうしたの?結果は結果なんだから
それは真摯に受け止めるべき
その上で語らないとねー

354 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 00:27:24.47 .net
劉備は1人で成した偉業とでもおっしゃる?

355 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 00:34:11.48 .net
劉備って漢人なの?
曹操も漢人じゃねえだろ

356 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 05:37:32.04 .net
韓人説もある

357 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 09:52:48.69 .net
>>353
結果は結果ということなら、漢中攻防戦で曹操は天下統一を阻まれ劉備は漢の命脈を保った。
曹操の完全敗北というべきだな。

358 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 21:08:07.33 .net
>>.338
赤壁は確固たる戦術的勝利だよ。それを劉備(一人)の功績にするのは無理があるが。
曹操が戦術的に負けないうちに撤退したのは、江陵(荊州)から。

入蜀では、後方支援が存在しない中で、一州を敵に回して北から成都へ前進する離れ業。
劉備は、それまでの評が言うように戦闘そのものはかなり強い。これは兵の練度と忠誠を維持する手腕も含めて。
だから群雄に歓待された。
しかし、戦闘の強さでは覆せない状況に陥ったとき、それを打開する知略が足りない(当時一流の知略家に比べれば)。
もう一段上に昇ると、荊州の反曹操人士を糾合したり、益州に一万で乗り込んで劉璋からの離反を吸収して攻撃に転じるなど、
政治的な「信望」は当代最高級。

戦術・政治は強く、軍略に弱い、というアンバランスが劉備像。まったくタイプは異なるが、諸葛亮も同じ長所と短所を持っていたりする。

359 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 21:12:18.33 .net
一過程を切り取るなら、劉備が徐州牧になった時点で、一旦は曹操と互角以上の優位に立っているんだよ。
しかし曹操は人生最大の窮地を乗り切ってエン州を回復し、中原に地歩を固めた。
劉備は徐州を失って大きく後退し、以後結局失地を回復できずに益州まで逃れた。
魏と蜀漢の版図の差はこれによる。赤壁、漢中で一矢報いるも、立場を逆転することはできなかった。
曹操と劉備の差はまさに窮地を脱する知略の差と言える。

360 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 22:31:22.05 .net
>>359
劉備が徐州を治めたとき、州は曹操が荒らし回ったおかげで荒れ果て国庫は空っぽだった。曹操以上は言い過ぎ。

361 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 22:37:27.21 .net
そもそも劉備の徐州引継ぎに不満な人等もいたし劉備が動かせる直属の兵は僅かに数千
青州兵数万を直属として言う事聞かない豪族はぶん殴ってでも言う事聞かす実行力のある曹操と
お飾りの神輿以上にはなれない上に着任してから1年も準備期間のない劉備では全く条件が違うよ

私有民という後漢末における最も重要な人的資源を見逃しすぎ
そして曹操は当時領土的には最大勢力でなかったかもしれないが最大の私有民を確保していた

362 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 01:35:16.16 .net
>>349
昼夜兼行で成都を強襲する上計
関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計
いったん白帝城まで退く下計

龐統が提示した策に意図的な長期戦を示すモノはない
それどころか上策は強襲策


363 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 03:04:37.98 .net
上中下とあって短期決戦は上のみ
中は兵力を敵軍から抽出して総合的に攻める案
下に至っては荊州から全軍引き連れて来いって案
中下は長期戦になることを含んでるよ

364 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 07:09:54.90 .net
上策ってあんま上策に見えないね。
降伏直前でも成都には充分な兵力と兵糧があったそうだから、籠城されると各地諸侯が動いて劉備の方が孤立しそう。

365 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 07:59:00.47 .net
うーむ、見れば見るほどホウ統が大した人物に見えなくなってくる…

366 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 14:44:49.55 .net
上策ってギエンの長安奇襲並に無謀な策じゃね?

367 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 14:56:32.56 .net
>>366
この場合孤立するのは総大将なんだから、もっとタチが悪いだろう。
献策の仕方も酷い。3つ並べて「どれでもどうぞ」なんて「自分は責任負いませんよ」と言ってるようなもん。
劉備が地方の県令に追いやったのも解るわ。コイツ、ただの甘ったれだろ。

368 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 18:14:42.92 .net
>>358
いやあ、赤壁の戦いはそもそも劉備軍戦ってませんからね
もっぱら戦ったのは孫権の軍勢ですから

369 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 18:26:15.32 .net
>>368
…釣りかなあ?
とりあえず先主伝と武帝紀に何て書いてあるか、言ってみ?

370 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 18:30:36.71 .net
それ演義
正史では劉備軍による烏林攻撃が曹操軍敗退の決め手となっている
曹操の赤壁の戦いに関する発言として残されているのは劉備との戦いに関するもののみ

371 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 18:31:24.01 .net
>>370>>368へのレスね

372 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/13(火) 21:58:15.17 .net
スレ違いかもしれないけどホウ統やギエンが提案したような大都市への奇襲に成功した人間って誰がいる?
自分の記憶の中じゃあ楽毅ぐらいしか思い浮かばない

373 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 11:27:08.83 .net
>>372
呂布、馬超

374 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 12:44:51.48 .net
>>373
それは寧ろ失敗例というか、この手の奇襲が割に合わないという例ではないだろうか。

375 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 13:20:04.72 .net
馬超なんて勢力そのものを失ったわけだしなw
呂布はそんなことやったっけ?

376 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 16:24:59.76 .net
あー・・・曹操の留守狙って城占拠したことかな?

377 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 17:35:05.42 .net
陳留は大都市?

378 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 17:47:42.52 .net
>>376
あれは違うような。
呂布を迎え入れた張バクが曹操に反旗を翻し、それに呼応したエン州諸侯が一斉に蜂起した、という図式だから。


379 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:02:21.56 .net
>呂布
劉備に対しては、やって成功しているね

ただ、内応込みなら成功例は他にもあるんじゃないか。
ホウ統の上策は主が主城に居て、内応の見込みも無し。
しかも 葭萌関近辺から益州険路に立つ幾つもの要所を突破して急襲ってのは、さすがに無理だろう。
創作でないかなあ。

380 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:15:28.32 .net
ホウ統って城攻めの最中に流矢(一斉射撃)食らって討ち死にしてるくらいだし、
大胆だけど慎重さに欠ける人だったのかもね。

381 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:47:16.35 .net
そもそもホウ統の言動は色々とおかしい
劉備の評価を地に落し今後の事態を難しくする宴席での劉璋暗殺をけしかけたのもそう
前のレスにもあったように3つの策を選ばせるやり方も変、普通はその中から最良の策を示してみせるのが軍師の役割なのに
気に入らないのか県令の仕事をサボったり、祝勝の席で冷や水浴びせて問い詰められると主君に向かって
「私も悪かったけど貴方も悪いんですよ」
と逆ギレしたり、まるでふてくされたガキみたいに酷くいい加減で投げやりな態度が目立つ


382 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:49:07.42 .net
劉備も袁紹も文字通り矢面に立って法正・田豊に諌められてる。
曹操は城攻めして城門突破して負傷してるし、対馬超では自分で渡河の殿している。
孫策・孫堅はいうに及ばず。孫権は自分で騎兵隊を率いて出ようとして怒られてやめた。

数万人を都督して後方にいるなら別だろうが、
部隊を直接指揮するつもりなら、ちょっと状況が悪くなれば矢が飛んでくるくらいの距離が
当たり前だったんだろう。

383 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:54:43.84 .net
>>381
ツッコミどころが多すぎる。
県令はサボりじゃなくて向いてなくて功績を挙げられずクビになった。
宴席では諌めたのに聞き入れられなかったので席を外した。
先に呼び戻したのは劉備だが、議論のうえでは妥協したのはホウ統の方。
逆ギレってのは諌められた方がキレることを言うんだからそもそも間違い。
最良の策とは「上策」のことだよ。

384 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 21:56:23.69 .net
間違えた。
劉備がキレて出て行けといったので従って席を外した、だな。

385 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 22:17:14.40 .net
>>383
宴席の件はともかくw
県令の件に関しては伝に「不治(治めず)」とある。ニュアンスとしては、やはりサボったんだと思うね。

386 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 22:40:34.07 .net
カイ良曰く、「衆の附かずは、仁の不足なり。附きて治めずは、義の不足なり」
能力不足という意味で使われるよ。
サボったのなら怠とか不勤とか言われる。

387 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 22:50:52.42 .net
>>386
その場合「足りない」のは「義」であって「能力」ではないよ。
「義が足りない人は治めようとしない」という意味だ。

388 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 23:18:50.45 .net
上計 おすすめ
中計 まあ現実的に
下計 草食系な人に

こんなふいんき(

389 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 23:35:05.56 .net
ごめん能力じゃないわ。「事実・状態」だな。
「官正而國治」

中文は能動と受動の区別が曖昧だから、治める人と対象とどちらも主語になりえるが、
いずれにしても「治」は「おさまる・おさまっている」という単純な事実を示す動詞。
そうでない状態を「不治」という。
「おさめる」という能動・意図を示す場合が一般的な現代日本語をそのまま適用してはいけない」。

390 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 23:38:13.98 .net
>>387
「大を治めんとする者は細を治めず」の意味が「大事を治めようとする者は細かい事を治められない」じゃおかしいもんな
「不治」には「意図的に治めない」という意味が込められてるんだろう

391 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/14(水) 23:53:52.38 .net
どちらにせよ、ホウ統はダメってことか

392 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:19:23.59 .net
恐らくはプランナー、ブレーンとして有能であっても
実行者としては細部を見逃したり、心配りが出来ないタイプなんだろ
確かにこういうのは大きい仕事の企画段階でいれば有能だが
いざ実際に現場で使うと馬謖の如くエラーを吐いてダメになる
ホウ統を見て似たタイプの馬謖にダメ出ししたんだな

393 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:20:29.25 .net
必要な手腕が違うんだよ。

後漢代でも、尚書令や尚書として抜群の能力を見せた者が、
太守に転任することを自分向きじゃないとして辞退したり、
実際に治績上がらず召還されたりすることがあった。

太守や県令ってのは、裁判や戸籍管理、治安維持などの煩瑣な仕事であって、
尚書や別駕のような文書管理や国策定義、監察などで主を補佐する仕事とはまったく異なる。
んで、中華では伝統的に後者の方が格が高い仕事と考えられた。
魯粛のフォローもそういうこと。

394 :393:2011/12/15(木) 00:22:22.84 .net
で、都督・軍師・刺史・尚書などというのは「後者」型の職種。

395 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:24:15.13 .net
なんというか、それが臥竜と鳳雛の差なのかな。
臥している竜は目覚めればいつでも天に昇れるけど、鳳の雛は成長しないと天高くは飛べないもんな。

396 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:27:29.95 .net
そんなもの、二人の死後に作られた伝説だろ

397 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:33:45.49 .net
>>396
名付けたのはホウ徳公、襄陽の名士でホウ統の叔父にあたる人物鑑定家だよ。

398 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:35:10.84 .net
それ自体が創作だろってこと

399 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:35:55.93 .net
言ったのは司馬徽ね

400 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:43:12.27 .net
>>399
演義ではそうだが、実際はホウ徳公とされている。水鏡もホウ徳公が名付け親。
尚臥竜の呼称は正史にも出てくる。

401 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:46:36.32 .net
創作ではないとしても、外れた予言なんて歴史に残らないからな。
諸葛亮が宰相となり、ホウ統が夭折したからこそ、司馬徽の評が襄陽記編纂時点まで残った。

しかし実際のところ、ホウ統の従兄弟と諸葛亮の姉は婚姻して、同じく劉備に仕えて軍師中郎将になるわけだが、
ここまで著名な二人なのに荊州時代の接点が全く記録に残ってないってのは
当時は比べて並べられるような立場じゃなかったんだろう。

402 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:48:18.11 .net
襄陽記曰:劉備訪世事於司馬コ操。
コ操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」
備問為誰,
曰:「諸葛孔明、ホウ士元也。」

403 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:49:00.36 .net
鳳雛の呼称は注の襄陽記に見られるな。後世の創作と言うならそれなりの根拠が知りたいね。

404 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:52:46.49 .net
>>401
当時の格は明らかにホウ統の方が上だね
何故差がついた慢心環境の違い

405 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 00:56:28.00 .net
・諸葛亮が赤壁前に仕えて功績を挙げたから。
・?統が早死にしたから。

406 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:19:01.42 .net
そういやホウ統呉臣説なんてあったな

407 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:30:47.42 .net
まあ単に出身郡に仕えてただけだけどね

408 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:31:45.97 .net
襄陽出身だからそれはおかしくないか?

409 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 01:38:58.92 .net
襄陽郡を初めて置いたのは劉備と曹操

410 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 02:32:47.93 .net
>>395
臥竜
まだ雲雨を得ないため天に昇れない竜をさす。
転じて、機会を得ないで民間に潜んでいる英雄を意味する。

飛べるけど飛ばないではなく、飛びたくとも飛べない状態の竜
であるからして、起きれば飛び立てるなんて解釈は誤り

411 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 07:04:10.20 .net
>>410
外的要因と内的要因の違いだな
襄陽名士の本流であるホウ統と末端の諸葛亮では環境に大きな差がある
だが能力という事ならやはり諸葛亮の方が一歩先んじていたという事なんだろう

412 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 08:05:51.00 .net
ホウ統は呉臣の陸績や顧ショウらと親しい。仕えていたかどうかは知らないが呉に対する人脈が深い。
劉備も当初は警戒したんだろうな。


413 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 20:53:41.89 .net
辺鄙な小県の県長に飛ばしたならともかく、功曹から従事守県令ってのは結構な昇進だが。
まあ劉備が南郡に入ったときに郡と荊州の人事を一新して、中枢から外された旧官吏の一人ってくらいの可能性はあるのかな。

414 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 21:25:10.24 .net
>>411
正史で見る限り陳寿はホウトウと法正を同じ列伝にまとめ、並べて評価してる
二人とも同じく「蜀臣の中でも智略計略に長けた人物」という評価。
陳寿から見てこの二人が蜀の代表的謀臣という評価。
一方で諸葛亮は「奇策は得意でないが、国を治める才に長けた宰相にして軍隊統率者。」という評価。
要するに両者の性質や特性はまるで別物であって、一歩先んじるも何もない。
平時における通常出世コースなら諸葛亮の性質(政治及び統御の才)が
ホウトウの性質(智略謀略の才)よりも出世しやすいってだけ。

415 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 21:26:16.26 .net
周瑜の故吏だったから、警戒ぐらいはしただろうな。

416 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 21:45:50.42 .net
>>414
戦時であっても出世のし易さは 蕭何>陳平 だよ。
魏なら鍾ヨウ、呉なら張昭。

ただホウ統の才幹が本当に「蜀臣の中でも智略計略に長けた人物」で収まったかは、
もっと長生きしなければわからないけどね。

軍師というのは監軍の系譜に属する職種。助言や戦略立案は本業ではない。
軍師中郎将として、三郡を督し入蜀で一軍を率いたのが諸葛亮だから、
ホウ統は同じ職名で劉備の直属軍を督し、場合によっては直接率いたことになる。
この時まで両者の職掌に殆ど差は無いよ。
ただ、孫呉との同盟で功績の大きな諸葛亮は、より独立性の高い権限を与えられていたことにはなる。

417 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 21:52:19.27 .net
ぶっちゃけホウ統って何もしてないよね
一年かけてもラク城落とせずにその間に自分は討ち死に
それなのに張飛や孔明が来たら劉璋はビビってあっさりと降参

418 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/15(木) 22:12:12.67 .net
>>417

419 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 01:07:19.03 .net
>>412
警戒するなら実兄が孫権に使えている孔明の方が遥かに危険度が高い

>>414
「魏臣にあてはめると荀ケの兄弟」との評から宰相として孔明に劣るとは限らないかも?
人物眼は龐統の方が一枚上手なのは間違いなさそう
龐統が生きていれば蜀に人なしなんて事はなかったかもな

420 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 01:33:34.76 .net
人物評と人事は別だからそれはなんとも。

421 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 08:32:27.63 .net
諸葛亮の人事に関しては失敗例ばかり強調されて成功例が語られなさすぎ
劉備も曹操も人事で失敗したことは何回もあるのに何故諸葛亮ばかり言われるんだろうね

422 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 10:57:28.35 .net
馬謖を切ったから。切らない方がいろろ良かったかも。

423 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 12:15:15.98 .net
>>419
劉備が自分から求めて迎えた諸葛亮を警戒するのはおかしかろう。


424 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 12:43:44.25 .net
司馬徽って案外、諸葛亮は無名だから城無しの劉備になら雇ってもらえるかなって感じで薦めたのかもな。
先生なら天下がどうとかより、門下生みんなを就職させることのほうが重要だろうし。

425 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 12:58:34.38 .net
あれ?ホウ統が諡号を贈られたのはいつだ?
劉禅の頃に関羽達と一緒に贈られたと記憶してたんだが、Wiki見ると劉備が贈ったように書いてあるぞ。

426 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 17:57:00.76 .net
>>412
記録の限りでは南郡功曹として死んだ周瑜を送ったみたいだから,
一応は周瑜の部下だったということではないかと。

>>425
華陽國志だと景耀三(260)年で関羽等と同じ。
劉備時代に諡号を貰ったのは法正だけ(三国志趙雲伝)。

427 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 20:10:43.41 .net
>>424
司馬徽と劉表は険悪な仲だったから、荊州官府には薦め難いって事情もあったかもね。
ただまあ、諸葛亮が司馬徽の門下だったりしたことはないのだが。

428 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 22:31:30.96 .net
>>423
孫権と険悪になるのも、孔明の兄が孫権の配下と知ったのも三顧の礼の後の話し
儒教的に考えれば、弟は兄に従って当然の世界
孫権とのつながりを警戒するなら、真っ先に警戒しなければならないのは孔明になるよ


429 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 22:42:30.52 .net
>>428
こんな馬鹿世の中にいるんだな

430 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 22:52:01.16 .net
父子だろうが兄弟だろうが、儒学が教えるのは筋を通せってことだ。
父母や恩義のある人と戦えないので辞去するとかそういうこと。
兄が敵陣に居れば内通して良いなんて言ってない。

431 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 23:49:36.27 .net
…兄に従う為に義も礼も信も捨てる儒教なんて初めてみたわ。

432 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 23:56:04.08 .net
お前らもっと漢中の話をしろよ

433 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/17(土) 00:00:54.99 .net
多分、彼?が言いたかったのは
目上のヒト・年長者を敬うと言うことを言いたかったんだろう

434 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/17(土) 00:38:10.52 .net
>>432
そうだな。スレタイにあるのに曹操おいてけぼりだもんな。

>>360
劉備が荒れ果てた徐州を治めたとき、曹操の手元には三城しか残っていなかった。

この辺まで戻るか?

435 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/17(土) 08:37:21.65 .net
>>434
>>361
つかそこまで戻らんでも漢中前後でいいやん

436 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/17(土) 23:28:33.81 .net
>>416
実際に正史においてホウトウは「謀に優れた人物」とされていて
諸葛亮は「奇策が得意ではなかった」とされているのだから
その本質の違いは明白ではないかな
>>419
荀ケは曹操から「これぞ我が張良」といわれた人物で
諸葛亮が正史において「ショウカに比すべき政才の人物」とされている事を見れば
張良=荀ケ=ホウトウ
ショウカ=諸葛亮
となるわけで、両者の才能が別質のものである事がわかるだろう

437 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 21:07:38.30 .net
>>436
曹操から「我が子房」と言われたものの
与えられた職務、残した功績は、蕭何の輩と云える

司馬光曰く
「魏武が帝となれば荀ケは佐命の功臣として、
 蕭何と同じ栄誉を受けていた筈である」

438 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 21:36:24.45 .net
荀ケは早死にして蕭何になれなかった人間だな。
ホウ統が早死にしなければ蕭何…というのは諸葛亮がいるので難しいにしても、
活躍の期間の短さが貢献の性質を制限してしまった例。
郭嘉も然り。

439 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 21:36:52.39 .net
>>437
実際に曹操から「ショウカに比すべき働き」といわれているのは鍾ヨウ
荀ケは曹操の活動における戦略や方針、さらには策略についての諮問を多く受け
それについての的確な回答を与え、曹操の行動を導いている
これは前漢代における張良の活躍と同様であり、劉備におけるホウトウや法正が受けていた待遇と同様


440 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 21:52:59.87 .net
鍾ヨウは関中を抑えたことで対袁紹当時の功績を蕭何に擬えて賞賛された。
が、そのときだけの話。
曹操の本拠を守る「蕭何の功」を一貫して続けていたのは荀ケ。
そんな単純な一対一対応ができる話じゃない。
兵站確保のような鍾ヨウ・蕭何の働きを荀ケはしていないが、
と言って、ホウ統・法正のように主君に侍って助言していたわけでもない。
荀ケの主任務は、漢朝廷内で朝廷(皇帝)と丞相府を連結し、
妄動を抑えるという、時代に即したもの。

順当にいけば曹魏王朝建国の「功績第一」の宰相になれたのは荀ケ。
司馬光が言ってるのはそういうこと。

441 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/18(日) 22:41:25.53 .net
曹操がジュンイクを張良に例えたのは、張良が軍事以外にも劉邦の活動全般に影響力を発揮した事による「王佐の才」という意味でなんだね。


442 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 00:56:46.70 .net
>>438
早死にしたから蕭何と同じ栄誉が得られなかったのではなく
曹操が帝位につかなかったから蕭何と同じ栄誉を受けれなかっただけ

蕭何に匹敵する功臣として名は、十分に残しているよ
後世の評を見ればそれは明らか

また、曹操より長生きをしても曹丕の禅譲には素直に賛同しなかったであろうから
長生きであっても蕭何と同じ栄誉は受けれなかった可能性は高い
その事から短命だったから蕭何と同じ栄誉が得られなかったにはあたらない

443 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 01:26:06.04 .net
それ、同じことを言葉を変えて言ってるだけだろう

444 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 01:32:51.91 .net
もし、荀ケが212年に死んでも、のちに曹操が皇帝になっていれば荀ケが蕭何と評価されただろう、
と言いたいのなら、それは違うだろうけど。

曹操は皇帝にはなっていなくても、魏公王にはなっているからね。
魏公国成立前に死んだ荀ケは、宰相として漢王国を支え楚漢戦争功績第一の蕭何と同列にはなれない。

445 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 08:33:50.32 .net
蕭何って志道広良みたいなもんだろ

446 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 21:46:24.81 .net
>>440
無理ありすぎ
荀ケはショウカのように兵糧補給で功績をあげたわけでもない
政治的とりまとめはやってるものの、実際にその伝を見てみれば
曹操陣営のグランドデザインを描く為の建策や助言をしてる事が多い
文字通りこの役割は劉邦における張良のもの
司馬光がいったのは功績第一になれたんじゃないのか、って事だろう
それは曹操陣営を当初からグランドデザインを描いて導いた功績を第一としたもの
曹操陣営には兵糧補給関連を一括して行った人材がいないんだから、
当然功績第一は張良的な活躍をした荀ケになる

447 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 21:52:10.11 .net
いたにはいたのだが、昇進して前線出て死んじまったしな

448 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 22:18:05.57 .net
袁紹が長生きしたら曹操どうなってたかな

449 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 22:30:07.19 .net
>>448
袁操になってただろうよ

450 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 23:12:33.81 .net
>>446
だからそう言ってるじゃないか。
その魏国建国の特殊事情を、蜀漢や前漢に一対一で対応することはできないんだよ。

で、ホウ統は早死にしたので軍事にしか関わる時間が無く、結果、史書の評価となった。
もっと長生きして、どんな分野に「わからない」って、俺は>>416で言ってるだけだよ。

たとえば、「謀」で功績高いというイメージのある荀攸・郭嘉だが、彼らの就いた「軍師」という役職の
本務は、丞相府の政務総括だった。軍事で敵の首を切ったとかいう、列伝に記載されるになる
勲功に相当するのが、彼らにとって「謀」だったので、派手に記録に残っているだけ。
郭嘉も普段は「掌戎律」で仕事してたんだよ。
軍師中郎将諸葛亮・ホウ統もそうだと言える。
ホウ統が蜀奪取後にどのような道を進んだかは「わからない」。

451 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/19(月) 23:13:36.45 .net
訂正

もっと長生きして、どんな分野の職責に昇進したかは「わからない」って、俺は>>416で言ってるだけだよ。

452 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 12:13:53.63 .net
む?劉備が生前諡号を贈った相手は法正だけとな
法正が贈られた諡号は翼侯、翼という字は劉備にとって特別な意味があったに違いない
したがって翊軍将軍の趙雲も特別な存在だったはず、やった趙雲の時代キター

453 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 17:58:14.90 .net
>>450
ショウカのように後方とりまとめ、と上でいってるだろ、あんた
それで、実際は張良のように曹操陣営全体のグランドデザインを描く役割をした、
といわれたらそういう言い方にシフトするのは変だろ、あんた
史実で見ても荀さんの役割は張良と同じもの
その同類とされたホウトウも「謀に優れた」とあるのだから
張良に比される才をもっていた人物で
「奇策が得意でなかった」とはっきり書かれている諸葛亮とは別質の才能だろう
>>452
諸葛亮が「法正はその智略で我が君を空高く舞い上がらせてくれた」と評価してるから
その意味合いで劉備も法正に翼の字を贈ったんじゃないかな

454 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 20:36:00.14 .net
>>453
あー横から口挟んで尚且つ本題と外れて悪いんだが。
諸葛亮は別にはっきり「奇策が得意ではなかった」と書かれた訳じゃない。
陳寿はその前段で諸葛亮をベタ褒めしてて、これほどの人が何故北伐を成し得なかったのか、その理由として
「応変の軍略に長けていなかったのだろうか」と一つの可能性について言及しているだけ。


455 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 21:01:58.31 .net
>ショウカのように後方とりまとめ、と上でいってるだろ、あんた
言ってないよ。
>史実で見ても荀さんの役割は張良と同じもの
違うよ。…と言い切るのも言いすぎだが。
荀ケは張良の役割も果たしたが、後漢朝廷尚書令荀ケの本務はもっと別で重要なもの。

456 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 21:48:59.55 .net
アホの劉邦と違って、曹操陣営のグランドデザインは曹操自身が描いてると思うんだが。荀イクはあくまで補佐でしょ。
曹操が軍を動かしている間、従軍もせず後方支援に徹していた荀イクを張良に例えるのはやはり無理があるんでない?

457 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 21:58:40.27 .net
>>456
朝廷工作のほぼ全てを引き受けてたのが荀イクで
後方支援どころか曹操とは違う戦場で戦う別働隊みたいなもん

それと曹操陣営のグランドデザインは曹操描けてない
曹操は何時も場当たり的にぶちかますだけ
そして行き詰ると荀イクに泣きついてアドバイスを貰う

荀イク没後は他のブレーンを付けたようだがね

458 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 22:15:26.38 .net
>>457
さすがにそれは悪意だな。
事前に定めてあった戦略方針について、
前線で苦境に身をおく曹操は、時に弱気になって再考したくなることもあった。
これを何度か後方から全体を見る視線で発破を掛けたのがのが荀ケの功績。
二人が記録に残っていることしか会話しなかったのではない。

459 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 22:40:40.01 .net
>>458
じゃあ再考だったという証拠になる記述の提示を

事前に定めてあった戦略方針なるものが
曹操の場合、勝者故の結果からの逆算が史書に採録されてたりして
読み取れないんだよ

460 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 23:19:44.60 .net
少し言い方を変えよう。
曹操と荀ケが、荀ケ伝及びその注に記載されている会話しかしなかったのなら、
>>457の説は正しいね。

行き詰ると荀イクに泣きついてアドバイスを貰うという逸話そのものが、
荀ケの功績を誇示する家伝の筆法であるから、
そこだけ見ると「荀ケ無双」に思えてしまうんだよ。

エン州を根拠とすることは192年からの曹操陣営の定まったグランドデザインであって、
それが荀ケの案であると示す情報は特に無い。
呂布との抗争が長引く間に気弱になって徐州に目を向けた曹操を叱咤したのが荀ケの功績。

曹操は官渡に防衛線を敷き、劣勢になったのでこれを下げることを検討した。これは将帥なら当然の選択肢。
これに対して、許都まで下げては勝てないという見解を示し官渡保持を再選択させたのが荀ケの功績。

そもそも、およそ成功する戦略のうちで、誰にも思いつけなかった奇抜な戦略なんてものは存在しない。
漢帝推戴も袁紹・袁術が視野に入れたことだった。
荀ケが優れた戦略を提示したことは最も重要なことではない。
リーダーたる曹操との間に、優れた戦略を選択させるだけの信頼関係と影響力があるかどうか。
これが助言者にとって最も重要なことだ。
選択権限がリーダーにある以上、「グランドデザイン」の発案者が誰であるかというのは、
リーダーにとって重要なことではない。

461 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 23:46:58.90 .net
>>460
曹操は官渡に防衛線を設定した事自体が既にもう妥協の産物なのにそこは無視?
最初黎陽まで曹操は進んでるのに気が付いたら黄河の渡河点奪われ
官渡まで押し返されて「もう帰りたいよ荀イクゥ」って泣きついたのがその話じゃん
言っとくけど官渡は防衛戦じゃないんだぞ?

元々行き当たりばったりで袁紹のところに意気揚々と攻め込んで逆撃食らって
攻め込んだつもりが防衛線とかいう不可思議現象に陥ってる
さらに行き当たりばったりに戦線下げようとしたからやめろって突っ込みが入った
「グランドデザイン」なるものがあるなら攻め込んでおきながら速攻で引っ繰り返されるようなことして
さらに帰りたいとか言っちゃだめだわ

エン州を根拠にすることは定まったグランドデザインというけれど
袁紹に東郡太守に命じられてるだけで、曹操が描いたグランドデザインですらない
東郡を元手に立ち回ってエン州牧になり成功したからそう見えるだけ
青州兵が本当に幸運にも曹操の傘下に収まったから雄飛したのに
そんな博打のような可能性まで見通して人間は動けるもんかよ

462 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 08:11:56.62 .net
>>461
まあ結局、曹操はエン州を拠点にすることすら出来なかったんだけどね。
>>378にあるように、曹操はエン州人士の支持を失ってた。原因が徐州虐殺か辺譲殺害かは知らんけど。
そこで荀イクの人脈を頼って戦禍と蝗でボロボロになったエン州を半ば放棄する形で予州に拠点を移さざるをえなかった。
献帝擁護も恐らく当初からのプランじゃない。曹操はおろか荀イクすらそれ以前に献帝を擁護するよう動いた形跡がない。
曹操らがそれまで朝廷に重きを置いてなかったのは、正式なエン州刺史の金尚を追い返したことからもはっきりしている。
その頃青州黄巾を抑えることで取り付けた支持も194年以降はすっかり失ってしまい、以後献帝を介する形を取るしかなかった。
要するに、概ね計画にない行き当たりばったり続きだったワケで、優れた戦略などという大層なもんではないです。

463 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 09:59:44.57 .net
この時代、明確なグランドデザインを描いていた人物は諸葛亮と周瑜くらいだな。
特に諸葛亮が殆ど無手の劉備を小規模とは言え皇帝の座にまでのし上げた手腕は凄まじい。
曹操を共通の敵に仕立て呉と同盟を組み、荊州南部を足掛かりに益州を奪って堅牢な拠点を築き上げる。
豊富な鉱物資源を活用して経済と工業を発展させ、更に漢中を奪って(半ば無理矢理)皇位への正当性を持たせた。
曹操はじめ目前の対応に追われ続けた群雄達とは明らかに一線を画している。

464 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 20:46:00.92 .net
>>463
官渡での曹操が行き当たりばったりだとしたら,
孫権と連合する前の諸葛亮なんて,正に何もしていないけどね。
曹操が攻めてくる最中なのに荊州乗っ取りを進言する有様で。

465 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 21:36:23.81 .net
>>464
反論になってない。
この時代に諸葛亮がグランドデザインを描きえた人物である事、官渡に限らず曹操の行動は行き当たりばったりだった事は何も揺らがない訳だが。

466 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/21(水) 21:41:22.01 .net
>>462
エン州牧になって、その後に成功したからと言っても
エン州を根拠地とする大略があったわけじゃないしね

四戦の地だけあって、エン州を根拠地にするとマジ苦労するし
そんなハンデを背負っても片っ端から敵対勢力を叩き潰して勝ち続けたわけで
戦略はないが戦術においてはこの時代の天才だよね

物凄い豪運も付いてるけど

467 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 00:31:29.77 .net
>>454
横から的外れなこといいまくりで阿呆すぎるだろ
しかも間違えまくりだし
陳寿ははっきりと「諸葛亮は奇策が得意じゃなかった」と述べてる
「応変の将略」とは別の文章でな
諸葛氏集目録にはっきりとこう書かれてる
「奇謀に短たり」とな
別人の振りして大間違いして恥ずかしすぎだろ、お前

468 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 00:33:24.57 .net
>>455
いってるだろ
今更何いってんだよ
曹操の本拠を守る「蕭何の功」を一貫して続けていたのは荀ケ。


469 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 00:35:02.83 .net
悪い、途中送信しちまった
>>468の文章の正しいのは以下
>>455
いってるだろ
今更何いってんだよ
>曹操の本拠を守る「蕭何の功」を一貫して続けていたのは荀ケ。
>>440ではっきり書いてるのに今更ごまかすなよ
相変わらず自分のいったことまで曲解しまくりだな


470 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 00:54:56.75 .net
>>467
三国志で言う応変の省略云々ってのは奇策が苦手だったとかどうのとかじゃなくて
「軍隊を動かすのが苦手だったのかも?」という超大雑把な意味だもんな
奇策が苦手というのに対する反論としたら、応変の将略云々つーのは持ち出したらダメな例だねぇ

諸葛氏集の文章では奇謀が苦手、ということと同じ文の中に将略に関しては優れてる、と書いてるから
陳寿は明らかに諸葛亮の欠点が奇謀、つまり「謀略、情報工作」、と述べているということになる

471 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 01:06:40.63 .net
>>470
その通り
「亮が才は軍隊統率には長じていたが、奇謀においては短であった」が
諸葛氏目録における陳寿の諸葛亮に対する評価文
一方でホウトウは「謀に優れた」と正史で評価されており、
明らかにホウトウと諸葛亮の才能は別質のものであると正史では評価されてる事になる

472 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 11:20:58.25 .net
ホウ統の場合、記録にある事跡がどれも評価し難いビミョーなのばっかなのが問題なんだよな。
「謀に優れた」って訳がおかしいんじゃねえの?原文は「経学思謀」だろ。

473 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 11:32:10.70 .net
スレタイに戻って漢中の話しようぜ
劉備対曹操以外にも
諸葛亮対曹真
王平対曹爽とか

474 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 17:23:15.91 .net
>>472
他にどう訳すんだよ
主君から張良と評され、張良と同じく度々曹操陣営のグランドデザインをさだめたり修正した荀イクに比されてる事からも
ホウトウが張良のような才質の持ち主だった事は明らかだろ
その蜀における事跡でも主君に対して智略謀略的なアドバイスを行っているしな

475 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 18:40:09.63 .net
>>474
文脈が散らかってて繋がらない。
それに前段を評価したのは荊州の人、恐らく評価されたのは荊州名士サロン時代だ。劉備に出仕した時の評価じゃない。
はかりごとを評価されるには時期が合わない。思謀は丸々経にかかるんじゃないか。

476 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 19:01:40.64 .net
>>474
そもそも曹操陣営のグランドデザインて何よ?

477 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 22:56:25.23 .net
>>461
>曹操は官渡に防衛線を設定した事自体が既にもう妥協の産物なのにそこは無視?
>最初黎陽まで曹操は進んでるのに気が付いたら黄河の渡河点奪われ

じゃあ官渡より北に防衛線を引くことが荀ケのグランドデザインだったという根拠をくれよ。
それとも、官渡で防御を始めたことが荀ケのグランドデザインだったのかな?
対袁紹開戦について、荀ケはどんなグランドデザインを描いて曹操に提示したわけ?
それが無ければ荀ケが曹操陣営の主たる戦略プランナーだとはいえないね。

478 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 23:28:25.50 .net
>>477
曹操が考えなしに突っ込んでは失敗して防衛線を下げまくるから
曹操にグランドデザインがあるなら何してんの?って話になるだけで
>官渡より北に防衛線を引くことが荀ケのグランドデザインだった
>官渡で防御を始めたことが荀ケのグランドデザインだった
とか君の聞いてるポイントは全くの的外れで全然関係ない

意味のない仮定の追加で論点逸らすのやめようね

479 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 00:42:54.49 .net
つまりこういうことか

・袁紹に対して勝てると踏んで開戦を主張した荀ケはすごい。
・勝てる戦なのに袁紹ごときに押されまくった曹操は考えなしの無能。
・兵糧無くなった程度で泣きついてきた曹操に官渡に留まるように言い聞かせ、
当たり前の勝利に導いてやった荀ケは最高のグランドデザイナー。

漫画に出てくる三流の机上の空論参謀だな、おまえさんの脳内荀ケって。



480 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 01:03:43.01 .net
>>479
荀イクが開戦を主張してるか不明
官渡の何年か前に袁紹と敵対的でもいける、とは言ってるが開戦時期の設定はしてない

勝てる戦かどうかは不明だが、自分から攻め込んだのに半年後には次々と拠点落とされてて
何でそんな状況に陥ってるのか、準備不足なんじゃないの?ということ

手紙では兵糧がなくなることはちゃんと重大な問題として扱ってる
しかしその上でも今ここで我慢して守らなかったら負けだ、という助言だぞ

理解が間違ってる

481 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 02:13:26.38 .net
>官渡の何年か前に袁紹と敵対的でもいける、とは言ってるが開戦時期の設定はしてない
陳寿本文に、呂布を破った後に袁紹と敵対することとなった時期の逸話として、例の孔融との論争が採録されているよ。
つまり開戦直前。

>自分から攻め込んだのに半年後には次々と拠点落とされてて
単に、袁紹が檄文を飛ばして大動員を掛ける前の戦力均衡が黎陽近辺だったってだけのこと。
グランドデザインを描くところの荀ケは、「自分から攻め込んだ」曹操になんの助言もしなかったのだね?

>しかしその上でも今ここで我慢して守らなかったら負けだ、という助言だぞ
そうだよ。
端から対袁紹は分の悪い戦だ。大方の予測が的中して、
動員された大軍に押されじりじり後退することのどこが「行き当たりばったり」なのか不思議だね。
荀ケさえ、「これ以上後退したら勝てない」と言ってるだけで、あとの展開は曹操の将才に掛けるしかない状況。

で、対袁紹戦について、荀ケはどんなグランドデザインを描いたんだっけ?

482 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 02:19:44.18 .net
張楊残党を巡って袁紹との小競り合いがすでに始まっていて、
碁の地を取る要領で優位を固めねばならない状況で
黎陽に先に攻め込んだもクソもあるまい。

483 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 02:42:46.96 .net
>>481
直前じゃない、建安三年
ちゃんと読めよ
官渡は建安五年、前年の黎陽出陣からとしても1年以上のタイムラグがある
ここでの議論は「袁紹と敵対するか否か」という将来的な外交方針を話し合ったもの
袁術の死の前後という外交環境の変化のある前の議論なのも留意したいね

484 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:01:01.45 .net
>>475
だから荊州サロンじゃなくて、普通に列伝最後の陳寿による評価で
ホウトウはそう評価されて荀イクに比されてるのに何いってんだよ
荊州サロンが評したとかいうほうが暴論だわ
>>476
正史を見ればエン州優先策、天子奉戴策、袁紹と戦う前に呂布を倒すべき事、それまでの関中豪族懐柔策、
南方よりも袁氏打倒を優先させるべき事、荊州攻略策、官渡での維持策、
といった曹操陣営の行動方針の決定的な局面では大抵彼の建策が主になったとされているな

485 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:14:56.53 .net
>>481
横から悪いけど、官渡の戦いは注釈でハイ松之さんが事細かに説明してるように
大体同数の、少なくとも比肩できる兵数同士の戦いだぞ
大方の予想が分の悪い、というが、途中までは曹操も白馬とかで勝利を得てたが
袁紹の防御前進策に無理に突っ込んだら勝てなくてバランス崩れただけ

さらに武帝紀における荀ケ建策では「袁紹はおそらく人をまとめきれない。官渡で長対陣を続ければボロが出る。」という感じで
建策しており、結果を見ればそれは的を得たことになる

486 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:26:06.90 .net
>>483
おいおい。
呂布の敗死は建安三年の年末。
袁紹との小競り合いは、遅くとも翌年二月の張楊の死から始まってるんだぞ。
部下達が曹操に附くか袁紹に附くかで争っているように、政治的な抗争はもっと早い。
そんなさしせまった状況で「袁紹と敵対的でもいける」とか言ってるだけなんてどんだけ無能者だよ。

>エン州優先策
その提唱者は陳宮

>天子奉戴策
これは推進者は荀ケとされるが、別段目新しい戦略ではない。
しかも、荀ケ伝では、曹操が奉戴を検討して部下達の議論が起きた中で
荀ケが発言したものとされている。

>袁紹と戦う前に呂布を倒すべき事
別に曹操は袁紹と開戦しようとして荀ケに相談したわけじゃないと荀ケ伝に書いてある

>それまでの関中豪族懐柔策、
九州制の話だよね? 冀州優遇策は、冀州を根拠地に変えた曹操の、新しい戦略方針。
荀ケはこの計画の反対者であり、一時推進を遅らせることに成功しただけ。

>南方よりも袁氏打倒を優先させるべき事
これはまあいいけど、ことさら取り上げるようなことか?

>荊州攻略策、
これも曹操が計画し、荀ケに助言を求めたもの。

>官渡での維持策、
上記の通り


勿論荀ケは、曹操にとって最も重要な助言者だったが、
曹操の「グランドデザイン」を一人で構築していたかのような表現をし、さらに

>曹操は何時も場当たり的にぶちかますだけ
>そして行き詰ると荀イクに泣きついてアドバイスを貰う

ときては悪意でしかない。結論変わらず。

487 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:31:31.07 .net
>>485
裴松之は曹操が一万ってのが少なすぎるって言ってるだけで、
比肩できるなんて言ってない。
冀州の総動員に拮抗できる兵力は、エン州と豫州ちょっとには無い。
司隷も青州も別方面に対応している。

実際、戦術的には負けていないうちに白馬などから後退を重ねるってのは
勢力で負けているから起きること。
袁紹の兵站線を延ばしながら堅く守るしか曹操には術が無かった。

488 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 03:49:15.76 .net
>>486
ちゃんと荀イク伝に建安三年って書いてあんだから読んで来いよ
面倒くせえなぁ

489 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 04:00:29.61 .net
>>488
めんどくさいのはどっちだよ。
建安三年末に呂布が死んでから、数ヶ月もたたないうちに勃発しているのが対袁紹抗争なのに、

>開戦時期の設定はしてない

なんて寝ぼけてたのが曹操陣営のグランドデザイナーなのかって聞いているんだが。
どんだけ先見の明が無いんだよ。

490 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 04:25:39.88 .net
>>489
開戦時期の設定してる記述ないんだからしてないというのが正しいだろ
記録に残ってないんだからしょうがない

張楊のそれまでの政治的な立ち位置考えると袁紹に降ろうとしてたからといって
叩いたら即座に対袁紹抗争ってのもちょっと考え物だな
袁紹を敵に回す覚悟をする必要は確かにあるが、開戦時期を設定できるもんじゃない

491 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 04:35:38.86 .net
無理がありすぎる。例の有名な荀ケと孔融の討論は、
「そのうち袁紹と開戦するかもしれないけど、それでも大丈夫だよ。このままでいこう」なんて
能天気な話だったのか。おっそろしいまでの新説だな。
誰か賛同できる人間がいるか?
あれは、袁紹との開戦か、妥協(屈服)かの選択が差し迫ったものになった時期での会話だろう。
史書のタイムテーブル上でも、それが

>張楊
史実はこう。

>(張楊の)將楊醜,殺楊以應太祖。楊將?固殺醜,將其衆,
>欲北合袁紹。太祖遣史渙邀撃,破之於犬城,斬固,盡收其衆也。

明白に、河内軍閥がどちらに附くかを争って生まれた内紛であり、
曹操は即座にこれに対応している。
政治的に潜在していた曹袁抗争が、現実のものになった瞬間(史料に残る限りでは)。

河内情勢がここまで逼迫し、曹操が即応しているというのに、
荀ケはまだ対袁紹戦を机上の討論題材だと思っていたわけ?

492 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 04:36:34.04 .net
抜けた。

>あれは、袁紹との開戦か、妥協(屈服)かの選択が差し迫ったものになった時期での会話だろう。
>史書のタイムテーブル上でも、それが追確認できるってだけのこと。

493 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 04:51:40.12 .net
>>491
会話が建安三年末
張楊が死ぬのがそれよりちょっと前
殺して曹操に降ろうとした楊醜の死亡と殺したスイ固の射犬駐屯がセットで
武帝紀だと翌年の出来事になってる

まだもなにも会話の後に起こった出来事なんだから関係ないだろ

494 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 07:44:00.55 .net
>>484
お前さ、正史もロクに読まないで何言ってんの?
ホウ統雅好人流経学思謀于時荊楚謂之高俊時

ほら訳せ

495 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 09:02:00.42 .net
1.曹操の行動は行き当たりばったり或いは目の前の事態に追われてるだけ
2.ジュンイクはその場その場での提言をしているに過ぎない
3.総じて曹操陣営にグランドデザインと呼べるようなものは存在しない

これでFA

496 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 13:29:29.62 .net
>>495
一応外交方針や倒す敵の優先順位付けくらいは荀イク他のブレーンもしてるよ

497 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 13:54:55.69 .net
>>493
調べた。
後漢書では三年説と四年説があるね。
ま、つまり、曹操と袁紹が開戦しようかって時期の
ギリギリの討論だったわけだ。

>ここでの議論は「袁紹と敵対するか否か」という将来的な外交方針を話し合ったもの
>開戦時期の設定はしてない

は全面撤回していただく。

498 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 13:56:11.90 .net
というわけで、

>>486
勿論荀ケは、曹操にとって最も重要な助言者だったが、
曹操の「グランドデザイン」を一人で構築していたかのような表現をし、さらに

>曹操は何時も場当たり的にぶちかますだけ
>そして行き詰ると荀イクに泣きついてアドバイスを貰う

ときては悪意でしかない。結論変わらず。

499 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:11:16.76 .net
>>497
将来的には、だろ

袁紹とのパワーバランスが崩れるかもしれないし
そうでないかもしれない時期の話なので「将来的には」
まだ実際にそうなった状況ではない時に、仮定しての話は皆将来的な話じゃないか

撤回する必要ないというか日本語の辞書もひけ

>>486
それも間違い
「一人で構築していた」とは誰も言ってない
大事な案件に関わってると言う人は居ても一人で構築してるなんて言ってる奴いるか?
少なくとも俺は言ってないぞ

ただし曹操自身はグランドデザイン構築できてないどころか
そういうものがその場その場の判断で上書きされてるとは思うがね

もうちょい落ち着いて文章読めよ

500 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:12:43.52 .net
>>496
あっちの敵を倒したら次はどっち?
こんなやり方をグランドデザインとは言わないけどね

501 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:19:28.27 .net
笑。
河内という目と鼻の先で帰属を巡って抗争が起きて、司空が対応に動いているのに、
「将来的には」とか、やっぱそっちの脳内荀ケはただの机上の口だけ参謀だな。

502 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:20:42.24 .net
>>500
他勢力打倒のプライオリティも重要だけどもっと重要なのは外交方針だな
献帝確保以降は漢の統合の名の下に動く
司空様が「前ら勝手にその土地使うな」と怒り、車騎将軍様が処罰に出るレトリックが成り立つのも
献帝を奉戴してからだし、ここから曹操にもそれなりのグランドデザインが確実に備わったと言える

これ以前にもあったかもしれないがよくわからん

503 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:26:00.55 .net
曹操の献帝奉戴以前にグランドデザインとか持っていた群雄なんていないよ。
可能な地盤を固め、当座の敵と戦い、防御と攻撃を繰り返すのが精一杯だ。
せいぜい、長安という実効支配が不可能な距離にいる漢帝に帰順して正式の官位をもらうかどうかってくらい。

献帝東帰と曹操の推戴によって、献帝を軸にする戦略構想を中原諸軍閥の誰もが持つようになった。
というか強制的に持たされる羽目になった。

504 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:29:28.23 .net
漢中の戦いに関係ない話は他でどうぞ〜

505 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:31:58.53 .net
>>501
元々は呂布と親和してた勢力で、曹操とも袁紹とも折り合いが悪かった
それが内紛で曹操に降るといい始めたのが討論前の出来事
討論時には袁紹を刺激してしまうかもしれないというレベルでしかない

翌年になってから袁紹に降るといい始めたので対応に動く必要性に駆られるようになる

将来に対立が服属か選ばなければならないとしても
討論時に差し迫った話題というわけでもない

506 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:34:25.68 .net
蜀厨なんだろうが自分で話題をコントロールできないならあきらめろん
過疎板のなれの果てはどこでもこんなもんだ

507 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:46:44.81 .net
>討論時に差し迫った話題というわけでもない

荀ケ伝
>遂與袁紹相拒。

はい、ダウト。

508 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:52:21.17 .net
公孫サンと呂布が滅んだ建安三年末当時、袁紹と曹操の対立紛争路線が醸成されていた。
荀ケと孔融の討論は、この政治状況に基づいたもの。

河内の変は、二大勢力の対立に煽られて起きた受身の事件にすぎないが、
曹操と袁紹はこれをきっかけにして実際に先端を開いた。
史書に載ってないだけで他にもっと早い小競り合いがあったかもしれないが。

509 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:57:57.75 .net
>それが内紛で曹操に降るといい始めたのが討論前の出来事
これも嘘だな。
どっちが先かはわからない。どっちが先でも問題ないが。

二人の討論は、当時の「與袁紹相拒」の政治情勢に惹起されたものであって、
河内の乱に惹起されたものではないから。

だから河内対策での議論ではないし、実際に話題にも出ていない。

510 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 15:59:07.39 .net
>>507
その文章が間違ってる
建安三年は袁紹と相拒する状態じゃない
当の袁紹は北に公孫サンを相手にまだ南下できる状況にない

511 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 16:26:38.34 .net
>>509
嘘ではないわ

9月に呂布討伐を始めて、10月に彭城を皆殺してから下ヒを囲み3ヶ月包囲して捕縛
つまり呂布の捕縛は12月の出来事だな
そして荀イク伝によると呂布捕縛後で且つ建安三年に議論したとある
討論が内紛の後

512 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/23(金) 21:33:45.12 .net
お前らスレ違いの話をしすぎ
新しいスレ立てて話せよ

513 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 17:46:13.74 .net
この戦いでの曹操の敗因は何か
逆に言えば何故劉備は勝つことができたのか

514 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 18:41:03.03 .net
曹操を諸葛亮、劉備を司馬懿に置き換え、曹操の漢中侵攻を諸葛亮の五丈原の戦いに準えれば
勝敗因は大よそは想像できるんじゃね?

要害を堅く守られ、後方からも支援がある地は、防衛側にミスがない限り
簡単にどうにかできるものでもないよ

515 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 20:40:10.80 .net
>>513
先に夏侯淵を切って漢中に入り込めた事が劉備の勝因
そしてそこへ漢中の南側から諸葛亮によって延々と送られる補給があり
篭城戦じゃなくて片方だけに防御機構のある野戦をやらされてるような状態になってる
無理ゲー無理ゲー

516 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 21:58:58.04 .net
>>510
はいはい。追い詰められてとうとう原文否定に走ったか。
お疲れ様。もう帰っていいよ

これにて官渡ネタはお開き。
長々とお邪魔しました。

517 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 22:25:39.01 .net
>>516
否定というか、そもそも原文を読んだ事すらないだろうな


518 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 00:56:21.93 .net
相拒するような状態でないだろ
袁紹側が公孫サンに手を取られて他の事が出来ない
そして曹操は南側に袁術を抱えてて袁紹とは必ずしも敵対しなければならない情勢でもない
建安三年末から四年半ばまでは曹操は外交方針を比較的自由に出来る立場にある

三国志本文における情勢分析は鵜呑みに出来ないよ

519 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 01:03:12.49 .net
討論の想定時期が四年以降にずれ込むだけだな。
その時には河内の事件が進展して袁紹との緊張はさらに高まっている。


520 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 01:42:32.20 .net
この討論が行われた時期は建安三年末で
相拒と言うほどに高まってない時期のものだぞ

袁術存命中で且つ袁術は結構な勢力を有してるものの
建安三年末は前年の旱魃で袁術がボロボロになってる時期で
上り坂の袁紹を叩くか、下り坂の袁術を叩くかってのは結構悩み所

討論はそんな時期のものだから単純に想定時期がずれ込むということはない

521 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 02:30:58.53 .net
いいから原文読んでこいよ。
仮に「相拒」が建安三年末のものでないとしたら、どこで区切るものか読めば判るから。

まあ、袁術と公孫サンの状況を合わせて考えれば、
中原情勢は当時既に袁紹・曹操対立にシフトしていた見るべきだけどね。

スレ汚しはそれで終わりだ。

522 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 02:59:45.86 .net
>>521
読んだ上で言ってるんだよ
その上で陳寿の情勢描写が間違ってると言ってんの

523 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 03:15:08.39 .net
何故曹操は夏侯淵を死なせる前に漢中に来ることができなかったのか

524 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 03:36:40.45 .net
1 輸送路の確保
板楯蛮や巴夷などの諸部族が漢中周辺に居住しており
その内いくつかの部族はどうも劉備に付いていた模様
例に出した板楯蛮は王平の出身部族かどうかはわからんが
かなり深い関係にある一族で、王平が劉備に降ってることから
この部族は劉備側だったと考えられる
そしてこの部族は後漢に全く屈服せずかなり頑強な抵抗をしてたことがわかってる
曹操についた部族もいたのでそれらとの折衝や
劉備側についた部族による輸送襲撃を防ぐ算段をしていたら進軍に時間が掛った

2 曹操自身の健康問題
漢中進軍の翌々年には死亡してる曹操が健康を害してた可能性は高い
曹操の体が耐えられる速度で進軍をしていたら遅くなってしまった

3 死ぬとは思っていなかった
総大将が自分で前線に出て、しかも逆茂木の修復を自分でやるとは曹操も想定してなかった
夏侯淵も曹仁の如く時間を稼いでくれると思ってたので
万全の体制で臨もうとしっかり準備している間にまさかの夏侯淵戦死

4 その他
これ以外の理由

どれがいい?

525 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 06:02:56.69 .net
>>523
この頃、いろいろあったから漢中だけにかまけてられません。

526 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 06:52:15.45 .net
>>524
4を熱く希望します

527 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/25(日) 15:23:58.41 .net
4だろうね

528 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/26(月) 06:31:09.21 .net
関羽の差し金で魏の領土内で反乱が起きてたから、
曹操の漢中行きが遅れたみたいな考察をどっかで見たな

529 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/31(土) 05:16:13.68 .net
この戦いにおける両軍の兵数ってわかるの?

530 :293=302:2011/12/31(土) 08:42:01.92 .net
>>528
たぶん侯音の乱を指すのだろうけど,
許や洛陽に近い宛での反乱だから,様子見していた可能性はある。
曹仁が鎮圧したのと,夏侯淵が討たれたのが同じ219年正月だし。

531 :無名武将@お腹せっぷく:2011/12/31(土) 08:46:18.27 .net
>>529の名前は消し忘れだった。申し訳ない。

532 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/02(月) 04:42:21.07 .net
なぜこの戦いで曹操は劉備に負けたのか

533 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/02(月) 21:55:03.64 .net
漢中が遠すぎたから

534 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/03(火) 19:48:06.40 .net






         運がなかった。






 

535 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/04(水) 15:05:35.98 .net
曹操患者おもしれーwwwwwwww

536 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/04(水) 16:03:41.43 .net
患者患者つまらねぇ

537 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/07(土) 06:55:25.90 .net
曹操が勝つためにはどうすれば良かったのか

538 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/07(土) 11:59:11.27 .net
211年ごろから荊州への圧迫を繰り返し、劉備を荊州に釘付けにしておく。

まあ、曹操が基盤固めと東西への伸張に掛かりきりだったからこそ、
西は漢中まで到達できたわけだし、
劉備はその空白を突いたわけなんだけどね。
その戦力配分を「上手くやる」しかないな。

539 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/07(土) 15:36:57.24 .net
この戦いに関しては劉備陣営が完璧過ぎただけ。
曹操はいたずらに軍を分遣させず準備を整えてから自ら大軍を率いて漢中に赴いており、特に失策は見られない。

540 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 14:23:28.32 .net
あえてミスを探すなら人選ミスじゃね
夏侯淵は防衛向きではなかったと思う

541 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 15:43:29.87 .net
任せられるような格と信任がある人間が他にいない。

542 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 15:43:51.54 .net
チャケ&ヤスカ

543 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 20:50:37.15 .net
いたけど曹操のワガママで夏侯淵になった

544 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 21:43:18.31 .net
韓浩では格が足りない。
張コウを始めとする歴戦の将軍を統率して
指揮権を統一する権威が無ければ
いくら智力があっても遠隔の激戦地を長期守れない。
当時の曹操陣営で、曹操の手綱を離れて
諸軍を統率できるような人間は、夏侯惇・淵、鍾ヨウくらいしかいない。

545 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/08(日) 22:05:17.87 .net
防御は曹洪に任せればおk

546 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 00:09:21.85 .net
>>544
当時の曹操に意見を具申できる高官が推挙しているからには
格が足りないなんてことはないだろ
中軍の指揮官であり、防衛の実績もある

547 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 00:12:28.26 .net
韓浩が居ないと仕事が捗らん
しかし淵、てめーは居なくても大丈夫だ

548 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 00:22:05.67 .net
>>546
参軍とか、まさに韓浩の護軍のように、総司令官にならなくても(その格がなくても)
諸軍を監督して要所を司ることは出来るのね。
だがそれでは、将軍達を一本化した指揮系統下に置くことが出来ない。
そういう、強力な総司令官がいない軍で劉備に勝てるかってこと。

549 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 00:32:48.24 .net
>>548
漢中を統括する司令官に推挙されてるから
なんで司令官にならなくても、なんて話しになるんだ?

550 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 00:50:23.76 .net
欲留使都督諸軍,鎮漢中。

督ってのは、軍令等の執行状況を法的観点から査閲・断罪する
監督・監軍の役割であって、軍令を出す職ではない。
袁紹が沮授の監軍の職務を三人の都督に分けたように。

都督と高位の将軍位を一身に兼ねて、地方総司令官になるのが定着するのは魏王朝成立以後。
曹操時代では曹夏侯氏くらいしか例が無い。
この時代は都督護軍と言うように、監軍の役割だけを持つ例が先行していた。
丞相中護軍に過ぎない韓浩が、いきなり列将軍の上位に立つ高位将軍号を貰えるとは考え難いし、
曹操時代の政治情勢が許さない。

551 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 01:24:21.90 .net
中護軍は九品で云えば雑号将軍と同格の四品
配下に長吏と司馬をつけることを赦される官位で
これだけを見てもそこらの雑号将軍より上

何度も書くが、何より当時の曹操の側近が推挙している
にも関わらずどうしたら曹操時代の政治情勢が許さないなんて言い切れるのかね

552 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 01:28:17.56 .net
>中護軍は九品で云えば雑号将軍と同格の四品
それは魏王朝の皇帝直属中護軍の話だ。
漢王朝に品秩なんぞ無い。

>にも関わらずどうしたら曹操時代の政治情勢が許さないなんて言い切れるのかね
韓浩では都督になれても征西のような高位将軍と兼務で漢中を一統する地位にはなれない。
軍部の要職を曹夏侯氏で独占した(せねばならなかった)曹操時代のこれが限界。
これでは赴任しても劉備に勝てないって言ってるだろう。

553 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 01:30:03.49 .net
漢王朝では大将軍や大司馬のような軍最高司令官職の下に置かれた中護軍は中二千石。
これでは単独で諸将軍を統率するのは無理。

554 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/09(月) 01:30:34.24 .net
>中護軍は中二千石。
ちげえよw
比二千石だw

555 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/11(水) 05:08:15.15 .net
555 (゚дメ)

556 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 07:33:17.07 .net
司馬イの言うとおりに張魯を倒した時にショクに攻めなかったのが曹操最大の失敗

557 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 07:50:55.72 .net
そうなっても結局法正にやられてたな

558 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 08:30:17.95 .net
そこまで法正も万能軍師じゃない
曹操の隙を見はからって漢中に進撃し曹操が来るまでに夏侯淵を斬り防備を固めたから勝てた
その勝利も諸葛亮のきっちりした補給と援軍があってこそ
曹操が張魯を倒し漢中を手に入れたころは劉備陣営も全然準備が整っていなかった

559 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 10:07:11.46 .net
張遼が守りきったってのもあるが、
孫権が軍を動かし始めたからなぁ。
曹操が引くのも仕方ない気もする。

560 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/12(木) 18:47:12.13 .net
合肥が守りきれるって計算は、中央から援軍が到着するまでの話だから。
援軍が来なければそのうち落ちるしかない。

561 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 14:55:11.67 .net
漢中を守るのが夏侯淵でなく張遼ならどうなっていたか

562 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 17:04:52.72 .net
同じじゃねえかな。ようは曹操が間に合わないうちに倒しちゃおうというのが作戦のキモだから
中原→漢中の交通がもっとお手軽にならない以上はどうにもならない

563 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 17:31:10.84 .net
張遼の奇襲が孫権に通じて劉備に通じない道理はない
山岳地帯だから勝手が違うかもしれないけど

564 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 17:35:38.97 .net
夏侯淵もだが、張遼は騎兵を率いた奇襲・速攻の戦法を得意としているから
騎兵を活かしきれない地形の漢中では、援軍が来るまで守りきるのは難しい
と考える



565 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 22:17:18.59 .net
張遼では張コウ他を長期統率し切れんだろ。
自分の手の届くととこだけ勝ってても駄目。

566 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 23:33:53.80 .net
張遼は失敗してないから目立たないがけっこう猪突するし対人関係もまずいしな

567 :565:2012/01/15(日) 00:01:01.60 .net
ちょっと話ずれるが、合肥での張遼の800人奇襲って騎兵じゃなくて歩兵の払暁奇襲なんだよね。
実ダメージを与えるものではなく、呉軍を萎縮させて時間を稼ぐというものだったけど。
で、孫権の撤収に乗じたのは「諸軍」を率いた総攻撃で、渡し場の殿を狙うもの。

戦術的には、張遼がこの時代屈指の指揮官だったのは間違いないだろう。
ただ、対呉方面総司令官はあくまで夏侯惇。

568 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 09:38:13.45 .net
なんか曹操側からしたら漢中を維持するの無理ゲ―な気がしてきた
そしてそういう状況であると推測し漢中を攻めるよう進言した法正もすげえ

569 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 14:28:54.41 .net
過去にも漢中でしばらく独立した勢力の話とかあるから単に読書量と着眼点の問題なんだよ

570 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 22:10:12.64 .net
>>568
だから曹操もそれ程維持する気ないぞ
物資から人民まで皆中原に引き上げようとしてる

そこを突くべきだと進言したのが法正

571 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 23:40:44.09 .net
曹操が漢中から徙民を実行したのは、
陽平関を劉備から奪回できなくて漢中放棄を決定してからじゃないか。

572 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/17(火) 00:33:03.81 .net
>>571
いやいや、待て待て

張魯を降した段階で既に徙民開始してるぞ
劉備と漢中を争ってる時期にはもう終了してる

573 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/17(火) 10:36:36.15 .net
普通に考えて曹操て迷惑な奴だな
漢中から強制移住なんて桟道とかの難所を家財道具を背負って通らなくてはならないし誰も行きたくないだろ
動けない病人とか打ち棄てられたんだろうな

574 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/17(火) 16:09:45.88 .net
規模の違いはあっても政戦両方の必要性から強制移住なんかどこでも普通にやってるだろう
今後戦場になるのが予測できる地域から避難させたんだからまだ筋が通ってるほうだ
呉や蜀なんか敵領から万単位で人攫いやってる

575 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/17(火) 18:26:57.90 .net
>>572
すまんかった。
張既伝だね

576 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/21(土) 06:58:42.06 .net
王平って漢中近辺に住んでた異民族なの?

577 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/21(土) 10:43:19.36 .net
>>544
夏侯惇は揚州が任されてたし、鍾ヨウは長安、曹仁は荊州を任されてたからな
あとは夏侯淵しかいないし軍功は上の連中と比べても上
曹操が本当に信頼したのは一族武将ばかりだったから、夏侯淵に漢中が任されたのは必然だった

578 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/21(土) 12:05:10.44 .net
呉が日本にまで拉致に来たのは有名な話だしな

579 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/21(土) 17:15:21.23 .net
台湾には行ったけど日本にまでは来なかったような

580 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/24(火) 19:22:59.92 .net
司馬イの言うとおり曹操はショクを攻めるべきだった

581 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/24(火) 20:32:12.90 .net
曹操は蜀を攻めるより陽修ぶっころしたりして跡目問題の決着を優先させた。

582 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/25(水) 16:48:57.61 .net

    ∩_∩
   / \ /\
  |  (゚)=(゚) |    人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
  |  ●_●  |  < 残念ながら浮浪者のお前と違って、俺は学士だ。                                >
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 | 〃 ------ ヾ | <まあ、2007,8年頃から荒らし方が変わらないんだから、進歩がない猿と同じで可哀相な荒らしなんだよ。>
 \__二__ノ <3年以上なりきるたびに同じ荒らし方をされる俺はうんざりだけどなー。                    >
  ↑アホジェ蛆虫  YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY
  
    ∩  ∩
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  /  (゚) (゚)  |  < 命を削りながら日銭を稼ぐ俺が、                      >
  |  _○_  | < なんで家事手伝いごときに否定されなきゃいけねーんだよボケ    >
  \__ヾ . .:::/__ノ  < 寄生虫こそ生きてる資格ねーだろ春日                  >
     しw/ノ    <あ?うっせーな貸すども                            >
             <2chでクソコテでも現実社会でマトモに生きてるならそれでいいんだよ>
 ↑ゲロセンチ蛆虫 <そこを履き違えると下ちゃんみたいなリア終になる            >
              YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY

583 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/25(水) 17:49:36.05 .net
劉備が唯一曹操に勝った戦なんだよなあ
赤壁も一応追撃してたから入るかもしれないけど

584 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/25(水) 18:59:46.28 .net
参謀:楊修、劉嘩、賈詡、司馬懿<<<<参謀:諸葛亮、法正、黄権

  兵力 曹操軍:20万

     劉備軍:11万


585 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 07:20:04.52 .net
曹操軍20万って情報はどこから出たものなの?

586 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 07:31:49.66 .net
劉備の兵力は5万だろ

587 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 07:39:15.53 .net
927 名前:アンジェ ◆Enju.swKJU :2012/01/25(水) 22:48:34.31
プッツンして、悪い事をした。
今の俺にはいいものは書けそうにない。
少し休んでいいものを温めることにするよ。


928 名前:無名武将@お腹せっぷく :2012/01/25(水) 22:51:58.93
>>927
お前がいいものを書いたためしが無いんだが?


929 名前:アンジェ ◆Enju.swKJU :2012/01/25(水) 23:32:59.63
>>928
俺にとっていいもの、つまり自分自身で納得のいくものということだ。


930 名前: ◆LuvTepvpPE :2012/01/25(水) 23:52:43.05
良いこと
自分で 納得できる ものを かこう と いう 意思 良いこと
がんばて ・・・


931 名前:アンジェ ◆Enju.swKJU :2012/01/26(木) 02:55:27.25
「趣味に走りすぎるな」……意識してはいなかったけれど、知らないうちに自分に負荷をかけていたと思う。
これからは趣味に走りまくるつもりだ。
新しくスレを立てるつもりはない。
「続きから」書くつもりだ。


588 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 09:26:50.57 .net
俺にとっていいもの、つまり自分自身で納得のいくものということだ。


589 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 10:18:23.13 .net
少し休んでいいものを温めることにするよ。

いいもの

590 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 15:38:09.66 .net
曹操は陽動に引っ掛かりすぎだろ
関羽の陽動に掛かって漢中に兵を出すのが遅れて夏侯淵見殺しにするし
漢中に攻め込んでからも張飛の陽動に掛かって兵を分散した為に劉備に負けるし

591 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/26(木) 16:53:45.58 .net
いいもの

592 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/28(土) 17:48:11.95 .net
関羽の陽動はあまり話題にならないよね

593 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/30(月) 07:00:24.29 .net
官渡、赤壁に並ぶ歴史を作った戦いだな

594 :無名武将@お腹せっぷく:2012/01/30(月) 23:39:58.55 .net
法正が凄い

595 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/14(火) 21:30:25.00 .net
何故曹操軍は逃亡兵が相次いだのか

596 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/14(火) 22:41:08.36 .net
曹操の口が臭いから

597 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/24(金) 13:31:47.16 .net


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みなさん嫌中ブーム知ってますか?嫌中ブームが今ネットでのひそかなブームとなってます
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598 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/04(水) 07:37:21.58 .net
劉備が漢中を奪った事が良かった事とは言えないな

599 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/04(水) 07:40:12.41 .net
それはどういう目線で?

600 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/04(水) 08:06:45.53 .net
劉備が漢中を奪った事で関羽が北上する事になった事
それに呉が劉備に対する意識が変わってしまった事だな
関羽が縁談断ったのが悪かったんだけどね

601 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/04(水) 08:23:35.53 .net
呉に関してはそうかもね
関羽に関しては
関羽焦り過ぎだったんじゃないの

602 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/04(水) 18:43:22.22 .net
>>600
どうも漢中戦と同時進行で北上してるぽいよ

603 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/06(金) 01:16:41.66 .net
劉備が見事な指揮振りを発揮したと思う

604 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/07(土) 02:50:34.50 .net
大耳も伊達で三十年闘い続けたわけじゃないからな

605 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/07(土) 04:46:59.00 .net
漢中戦は持久戦で劉備が勝ったと言う感じがする

606 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/07(土) 07:28:41.57 .net
漢中を取らなかったら215〜219年の東奔西走を永遠に続けて劉備が力尽きると同時に滅んで終わり。

607 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/12(木) 06:33:05.36 .net
曹操何も出来なかったな

608 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/14(土) 17:16:21.73 .net
>>600
全軍の何割かを預かる方面軍の総司令官が他国と君主と姻戚関係を結ぶのは普通に不味いと思うけどな。
関羽じゃなくても普通に疑われる。関羽が断るのは当然の事。
ていうかその前の劉備との姻戚関係も壊れているから警戒するのは当然かと。

609 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/14(土) 17:21:33.25 .net
もっとやんわり断れば良かったんだよ
結果は同じかもしれんが

610 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/14(土) 21:23:45.29 .net
「先是」と遡った話だから、縁談がいつのことかは判らないんだよ。
劉備と孫権がまだ友好的だった頃かもしれないし、そうでないかもしれない。

だが劉備と孫夫人が結婚していた頃だって、夫人の気ままを制止できないほどの
孫権の圧力の下に置かれていたのだから、関羽が劉備の「忠臣」である限り
この話を快く思わないのは自然だろうってのが一つ。
どんな断り方をしようとも、それとは関係なく呂蒙は荊州を狙い続けていたし、
関羽もそれを承知で東を警戒していたのだから、個人的感情は問題にならないってのが一つ。

その警戒を陸遜の手紙で油断して解いてしまったことが荊州失陥の最大の要因。

611 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/16(月) 08:31:36.39 .net
ああ法正がいてくれれば…

612 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/16(月) 12:53:14.61 .net
漢中戦時はおったやん

613 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/16(月) 18:15:51.58 .net
じっさい漢中とった所でどうすんのとは思う
そこから進軍するのはかなり気の長い話だよな

614 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/16(月) 22:22:43.68 .net
>>610
そういえば呂蒙がその後あっさり死んでいるから実際に重病だった可能性けっこうあるな。
関羽は警戒を解くのが早すぎた。関羽が後一年遅く進撃してればだいぶ変わっただろうにな。
>>613
夷陵の面子に関張そろった蜀軍オールスターが北伐。
曹操は丁度寿命で死ぬと。北伐が早まれば馬超もいるので清涼方面にも顔がきく。
何気に成功率はけっこう高いんじゃないかな?

615 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/16(月) 23:56:43.42 .net
>>614
可能性というか重病だったから関羽が陸遜への交代を喜んだんだろ

前任者が子飼いの軍人で重病による交代、後任人事が融和的な手紙を送ってくる陸遜
しかも孫権の身内、とくれば孫権が軍を宥めて仲良くやってこうとする外交的なメッセージを送ってることになるからな

616 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/17(火) 00:49:51.72 .net
>>613
漢中取らなかったら益州を守ることさえできない。
張コウに巴郡まで侵入されて遊撃と略奪されっぱなし。
国力増強にも専念できず、そのうち再びやってくる魏軍に漢中を拠点にされて
自国内で一方的に殴られて弱体化しながら滅亡。

617 :無名武将@お腹せっぷく:2012/04/17(火) 03:15:20.58 .net
連携ってよく言われるけど、地図を見る限りかなりインフラの問題を改善させなきゃ関中以西の軍をスムーズに使う事はとても無理そう
攻めというより防衛の為の必須条件だろうね

618 :無名武将@お腹せっぷく:2012/06/19(火) 23:47:28.76 .net
白眉って諺に残ってる割にはたいした活躍してないよね

619 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/29(土) 21:37:30.33 .net
劉備強かったね

620 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/30(日) 00:40:51.60 .net
ここまでは良かったが
やはり荊州落とされたのが痛かった

621 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/31(月) 02:37:26.58 .net
>>1の11万対20万っていう数字はどっから出てるんだい?

622 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/31(月) 07:39:00.67 .net
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201212/article_381.html

623 :無名武将@お腹せっぷく:2013/01/03(木) 03:55:56.62 .net
漢中が劉備の絶頂期だな

624 :無名武将@お腹せっぷく:2013/03/01(金) 05:37:17.35 .net
いつのまに劉備は陽平関をとったのか

625 :無名武将@お腹せっぷく:2013/04/22(月) 06:42:24.61 .net
高翔やられてるww

626 :無名武将@お腹せっぷく:2013/05/30(木) 07:20:12.98 .net
曹真と徐晃は活躍してたな

627 :無名武将@お腹せっぷく:2014/02/19(水) 18:56:56.46 .net
馬超が参加しても何の意味もない

628 :バイ#$:2014/02/19(水) 20:20:10.48 .net
バイバ〜イ

629 :無名武将@お腹せっぷく:2014/09/06(土) 08:29:03.11 .net
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630 :無名武将@お腹せっぷく:2014/12/11(木) 01:47:24.52 .net
鶏肋 鶏肋。。。

631 :無名武将@お腹せっぷく:2015/07/05(日) 22:09:06.87 .net
鶏肋age

632 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/01(土) 19:25:22.49 .net
>>616
蜀って天然の要塞のようで割と守るのが難しいのね

633 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/09(日) 07:27:50.91 .net
元袁術の配下がこの戦に参加してなかったっけ

634 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/09(日) 09:52:48.42 .net
韓浩??

635 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/09(日) 23:42:07.06 .net
張承のことか?従軍したのが漢中の戦いなのかわからんけど

636 :無名武将@お腹せっぷく:2015/12/28(月) 13:28:01.69 .net
誰だ夏侯淵を殺したのは
誰だ夏侯淵を殺したのは

637 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/08(月) 15:05:00.04 .net
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