■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ9【恋】☆★☆
- 1 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 08:54:03.42 0.net
-
,,;⊂⊃;,、 。” カッパッパー♪
(,,,・∀・)/》
【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
(( (ノ ヽ)
- 2 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:06:58.47 0.net
- 百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾すそをぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側がわにも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍みちばたを塞ふさいでいた。台上だいうえから飛び下りた御者ぎょしゃはすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌しのぐほどの高い樹きが聳そびえていた。星月夜ほしづきよの光に映る物凄ものすごい影から判断すると古松こしょうらしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍ほんたんの音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時ふじの一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
- 3 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:07:15.60 0.net
- 不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経たつ今日こんにちまで、いまだこの女の記憶を失なくした覚おぼえがなかった。こうして夜路よみちを馬車に揺られて行くのも、有体ありていに云えば、その人の影を一図いちずに追おっかけている所作しょさに違ちがいなかった。御者は先刻さっきから時間の遅くなるのを恐れるごとく、止よせばいいと思うのに、濫みだりなる鞭むちを鳴らして、しきりに痩馬やせうまの尻しりを打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐あわれな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概いちがいに断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓たにの存在を憶おもい出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後あとを跟つけて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間やまあいの空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑のみ尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者ぎょしゃは馬の轡くつわを取ったなり、白い泡あわを岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架かけ渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電灯がすぐ津田の眸ひとみに映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
- 4 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:07:25.34 0.net
- 「運命の宿火しゅっかだ。それを目標めあてに辿たどりつくよりほかに途みちはない」
詩に乏しい彼は固もとよりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家うちはどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな温泉ゆの町は狭かった。おまけに不規則な故意わざとらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭むちを鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑しんかんとしていた。夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室へやへ案内された彼は、好時季に邂逅めぐりあわせてくれたこの偶然に感謝した。性質から云えばむしろ人中ひとなかを択えらぶべきはずの彼には都合があった。彼は膳ぜんの向うに坐すわっている下女に訊きいた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
- 5 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:07:35.07 0.net
- 「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児まいごにでもなりそうだね」
彼は清子のいる見当けんとうを確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留とうりゅうしているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
- 6 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:07:43.40 0.net
- 受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰もらいたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室へやの横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、膳ぜんを下げさせた。
- 7 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:07:53.43 0.net
- 百七十三
寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻さっき彼女から聴きかされたこの家の広さに気がついた。意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段はしごだんを降りたりして、目的の湯壺ゆつぼを眼の前に見出みいだした彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
風呂場は板と硝子戸ガラスどでいくつにか仕切られていた。左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽よくそうのほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった。
「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために擦すり硝子の篏はまった戸をがらがらと開けてくれた。中には誰もいなかった。湯気が籠こもるのを防ぐためか、座敷で云えば欄間らんまと云ったような部分にも、やはり硝子戸の設けがあって、半分ほど隙すかされたその二枚の間から、冷たい一道の夜気が、※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍どてらを脱ぎにかかった津田の身体からだを、山里らしく襲おそいに来た。
「ああ寒い」
津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「ごゆっくり」
戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。
- 8 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:03.66 0.net
- 「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」
来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下したがまだあろうとは思えなかった。
「いったい何階なのかね、この家うちは」
下女は笑って答えなかった。しかし用事だけは云い残さなかった。
「ここの方が新らしくって綺麗きれいは綺麗ですが、お湯は下の方がよく利きくのだそうです。だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます」
湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「ありがとう。じゃ今度こんだそっちへ入るから連れてってくれたまえ」
「ええ。旦那様だんなさまはどこかお悪いんですか」
- 9 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:13.13 0.net
- うん、少し悪いんだ」
下女が去った後あとの津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事ができなかった。
「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」
彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。どっち本位ほんいで来たのか、それは彼の心がよく承知していた。けれども雨を凌しのいでここまで来た彼には、まだ商量しょうりょうの隙間すきまがあった。躊躇ちゅうちょがあった。幾分の余裕が残っていた。そうしてその余裕が彼に教えた。
「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放ほうり出そうとするのか。では自由を失った暁あかつきに、お前は何物を確しかと手に入れる事ができるのか。それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前げんぜんしないのだよ。お前の過去にあった一条ひとすじの不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放ほうり出そうとするお前は、馬鹿かな利巧りこうかな」
津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
- 10 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:22.14 0.net
- 彼には最初から三つの途みちがあった。そうして三つよりほかに彼の途はなかった。第一はいつまでも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三すなわち彼の目指めざすところは、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。
この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、煙けむの出る湯壺ゆつぼに漬けられ、いよいよ目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日あしたからでも実行に取りかかれるという間際まぎわになって、急に第一が顔を出した。すると第二もいつの間まにか、微笑して彼の傍かたわらに立った。彼らの到着は急であった。けれども騒々しくはなかった。眼界を遮さえぎる靄もやが、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。
思いのほかに浪漫的ロマンチックであった津田は、また思いのほかに着実であった。そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。だから自己の矛盾を苦くにする必要はなかった。彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭いやだ、そうだ馬鹿になるはずがない。――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
人のいない大きな浴槽よくそうのなかで、洗うとも摩こするとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗きれいな温泉ゆをざぶざぶ使った。
- 11 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:36.26 0.net
- 百七十四
その時不意にがらがらと開けられた硝子戸ガラスどの音が、周囲あたりをまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込つっこんでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
生れてからまだ一度も顔を合せた覚おぼえのないその婦人は、寝掛ねがけと見えて、白昼なら人前を憚はばかるような慎つつしみの足りない姿を津田の前に露あらわした。尋常の場合では小袖こそでの裾すその先にさえ出る事を許されない、長い襦袢じゅばんの派手はでな色が、惜気おしげもなく津田の眼をはなやかに照した。
婦人は温泉煙ゆけむりの中に乞食こじきのごとく蹲踞うずくまる津田の裸体姿はだかすがたを一目見るや否や、いったん入りかけた身体からだをすぐ後あとへ引いた。
「おや、失礼」
- 12 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:44.93 0.net
- 津田は自分の方で詫あやまるべき言葉を、相手に先へ奪とられたような気がした。すると階子段はしごだんを下りる上靴スリッパーの音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞ふさがってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空あいてるだろう」
「勝かつさんはいないかしら」
- 13 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:08:53.06 0.net
- 津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰くわなかった。彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据すえて、また浴槽の中へ身体を漬つけた。
彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉ゆの中で上下うえしたへ動かしながら、透すき徹とおるもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢かしを得意に眺めた。
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
勝さんのこの挨拶あいさつには男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古けいこはお済みですか」
「お済みって訳でもないが」
- 14 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:02.34 0.net
- 次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞ふさがってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵こしらえたのはないの」
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」
二人を案内したらしい風呂場の戸の開あく音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽よくそうの入口ががらりと鳴った。
「今晩は」
四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那だんな流しましょう」
- 15 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:11.41 0.net
- 彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶おけへ湯を汲んだ。津田は否応いやおうなしに彼に背中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今聴きいたばかりだ」
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」
- 16 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:19.92 0.net
- 「そうだ」
勝さんは何時なんじの下りだの、上りだのという言葉を遣つかって、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴つれて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋きいとやさんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅うちのお上かみさんは長唄ながうたが上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取とりも直なおさず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸ガラスどの外へ出た。しかし濡手拭ぬれてぬぐいをぶら下げて、風呂場の階子段はしごだんを上あがって、そこにある洗面所と姿見すがたみの前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
- 17 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:27.65 0.net
- 百七十五
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻さっき下女に案内されて通った路みちなのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈ぼかすだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室へやらしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。
「はてな、もっと後あとかしら。もう少し先かしら」
- 18 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:38.54 0.net
- 電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにも聴きこえなかった。用事で往来ゆききをする下女の姿も見えなかった。手拭と石鹸シャボンをそこへ置いた津田は、宅うちの書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事はどこからも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女の溜たまりのある見当を知らなかった。個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込うえこみの突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在ありかは、すべて彼にとっての秘密と何の択えらぶところもなかった。
手を鳴らす所作しょさを一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興すいきょうも手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
- 19 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:49.12 0.net
- 廊下はすぐ尽きた。そこから筋違すじかいに二三度上あがるとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥かなだらいが四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓せんの口から流れる山水やまみずだか清水しみずだか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁ふちを溢あふれる水晶すいしょうのような薄い水の幕の綺麗きれいに滑すべって行く様さまが鮮あざやかに眺められた。金盥の中の水は後あとから押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪しんとうを感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所おりばしょを彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓せんを締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶うかつさに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張せとばりのなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦うずが、妙に彼を刺戟しげきした。
あたりは静かであった。膳ぜんに向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯うけがって、おおかたこのくらいだろうと暗あんに想像したよりも遥はるかに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈くまなく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦うずらしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
- 20 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:09:58.71 0.net
- 彼はすぐ水から視線を外そらした。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据すえた。しかしそれは洗面所の横に懸かけられた大きな鏡に映る自分の影像イメジに過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具そなえつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地いちの都合上つごうじょう、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼あおかった。彼にはその意味が解げせなかった。久しく刈込かりこみを怠った髪は乱れたままで頭に生おい被かぶさっていた。風呂で濡ぬらしたばかりの色が漆うるしのように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理きめも男としてはもったいないくらい濃こまやかに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄すごくなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛くしを取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
- 21 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:10:07.77 0.net
- しかし彼の所作しょさは櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室へやを探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段はしごだんを見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈がんじょうにできていた。第三に尋常のものと違って、擬まがいの西洋館らしく、一面に仮漆ニスが塗かかっていた。
胡乱うろんなうちにも、この階子段だけはけっして先刻さっき下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上のぼっても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻あともどりをする覚悟で、鏡から離れた身体からだを横へ向け直した。
- 22 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:26:16.53 0.net
- 百七十六
するとその二階にある一室の障子しょうじを開けて、開けた後あとをまた閉たて切きる音が聴きこえた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切はっきりしているので、彼はすぐその確的たしかさの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異ことなるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮さえぎる壁を目標めやすに置いて、大凡おおよその見当をつけると、畳一枚を竪たてに敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上のぼらない津田の想像で判断するよりほかに途みちはないとして、今聴えた障子の音の出所でどころは、一番階段に近い室、すなわち下したから見える壁のすぐ後うしろに違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟しげきに気を奪とられていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇よみがえった時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児まごついている今の自分に付着する間抜まぬけさ加減かげんを他ひとに見せるのが厭いやだったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己おのれの醜くさを人前に曝さらすのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩ほを回めぐらそうとした刹那せつなに彼は気がついた。
- 23 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:26:27.81 0.net
- 「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超こえる事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰もらおう」
彼は決心して姿見すがたみの横に立ったまま、階子段はしごだんの上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵かかとへ跳はね上る上靴スリッパーの薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
- 24 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:26:36.42 0.net
- 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚とらわれた津田の足はたちまち立たち竦すくんだ。眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々のちのちまで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心むしんが有心ゆうしんに変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後あとで、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
- 25 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:26:47.25 0.net
- 彼女は普通の湯治客とうじきゃくのする通り、寝しなに一風呂入って温あたたまるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提さげていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入シャボンいれを裸はだかのまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那せつなの光景を辿たどるたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻さっき風呂場で会った婦人ほど縦ほしいままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞しまが綺麗きれいに通っている派手はでな伊達巻だてまきを、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻ねまきの下に重ねた長襦袢ながじゅばんの色が、薄い羅紗製らしゃせいの上靴スリッパーを突つっかけた素足すあしの甲を被おおっていた。
- 26 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:26:57.14 0.net
- 清子の身体からだが硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白あおじろく変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
- 27 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 10:27:05.75 0.net
- 津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後うしろを向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上あがり口くちの電灯がぱっと消えた。津田は暗闇くらやみの中で開けるらしい障子しょうじの音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍そばの小さな部屋で呼鈴よびりんの返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳かけて来る足音が聴きこえた。彼はその足音の主ぬしを途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室へやの在所ありどころを教えて貰もらった。
- 28 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:12:30.19 0.net
- 百七十七
その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川たにがわが軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇ひさしに響がないし、谿川としては勢いきおいが緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥はるか重大な主題のために悩まされていた。
彼は室に帰ると、いつの間にか気を利きかせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出みいだしたので、すぐその中へ潜もぐり込こんだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽ふけったのである。
- 29 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:12:38.90 0.net
- 彼はこの宵よいの自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者ソムナンビュリストのような気がした。彼の行為は、目的あてもなく家中うちじゅう彷徨うろつき廻ったと一般であった。ことに階子段はしごだんの下で、静中に渦うずを廻転させる水を見たり、突然姿見すがたみに映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経たたない近距離から判断して見ても、たしかに常軌じょうきを逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例ためしの少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違ちがいなかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推おし移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
- 30 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:12:47.43 0.net
- 彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
彼は実際廊下をうろうろ歩行あるいているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他ひとがどこにいるか知ろうはずはなかった。
- 31 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:12:56.28 0.net
- 「この見当けんとうだと心得てさえいたならば、ああ不意打ふいうちを食うんじゃなかったのに」
こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上あがり口くちの案内を閉塞へいそくした所作しょさ、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴ベルの音、これらのものを綜合そうごうして考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥はるか余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡うちに予期があり、彼女には突然の中うちにただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面てきめんに感じてはいないだろうか。
- 32 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:13:06.92 0.net
- 彼女は蒼あおくなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋つないだ。今の自分に都合つごうの好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返ひっくりかえして、反対の側がわからも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏まとまらなかった。纏ってもすぐ打ち崩くずされた。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下ひげして用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚おのぼれは、胸の中うちにあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎しんその区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具そなわっているらしく見えた。結果は分明ぶんみょうであった。彼は叱しかりながら己惚おのぼれの頭を撫なでた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌いんだ。
かくして互いに追おっつ追おわれつしている彼の心に、静かな眠は来きようとしても来られなかった。万事を明日あすに譲る覚悟をきめた彼は、幾度いくたびかそれを招き寄せようとして失敗しくじったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返ねがえりの数を重ねるだけであった。
- 33 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:13:16.68 0.net
- 彼は煙草へ火を点つけようとして枕元にある燐寸マッチを取った。その時袖畳そでだたみにして下女が衣桁いこうへかけて行った※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍どてらが眼に入いった。気がついて見ると、お延の鞄かばんへ入れてくれたのはそのままにして、先刻さっき宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍に対してお延に使ったお世辞せじをたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」
※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然いちもくりょうぜんであった。※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍どてらを見較みくらべると共に、細君を前に置いて、内々心の中うちで考えた当時の事が再び意識の域上いきじょうに現われた。
- 34 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 11:13:25.19 0.net
- 「お延と清子」
独ひとりこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴きいたなり、すぐ夜具を頭から被かぶった。
強しいて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬むくいられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。
- 35 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 12:02:54.79 0.net
-
このハゲーー!!ちーがーうーだーろー!
ノノ ハ ∩ ちがうだろー!
川*`ω´) ☆パーン
⊂彡〆⌒ヽ
(。・_・。) < コロナで禿げ
- 36 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:09:23.50 0.net
- 百七十八
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛かろうじて持続した。室へやの四角よすみが寝ていられないほど明るくなって、外部そとに朝日の影が充みち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼まぶたはまだ重かった。彼は楊枝ようじを使いながら障子しょうじを開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に拵こしらえて、その周囲に稚わかい松だの躑躅つつじだのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。彼の室に近い築山の間から、谿水たにみずを導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜ゆうべ彼の睡眠を悩ました細工の源みなもとを、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想れんそうはすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推おし移った。大根おおねを洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。
彼が銜くわえ楊枝ようじのまま懐手ふところでをして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻さっきから高箒たかぼうきで庭の落葉を掃はいていた男が、彼の傍そばへ寄って来て丁寧に挨拶あいさつをした。
- 37 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:09:34.47 0.net
- 「お早う、昨夜さくやはお疲れさまで」
「君だったかね、昨夕ゆうべ馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」
「へえ、お邪魔様で」
「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家うちだね」
「いえ、御覧の通り平地ひらちの乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児まいごになって弱ったよ」
「はあ、そりゃ」
- 38 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:11:11.28 0.net
- 二人がこんな会話を取り換かわせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。
黄葉こうようと枯枝の隙間すきまを動いてくる彼らの路みちは、稲妻形いなずまがたに林の裡うちを抜けられるように、
また比較的急な勾配こうばいを楽に上のぼられるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。
それでも手代てだいはじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田を放ほうり出した現金な彼は、すぐ岡の裾すそまで駈け出して行って、
下から彼らを迎いに来たような挨拶あいさつを与えた。
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕ゆうべ艶なまめかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違ちがいなかった。
風呂場で彼を驚ろかした大きな髷まげをいつの間にか崩くずして、尋常の束髪に結ゆい更かえたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。
彼はさらに声を聴きいただけで顔を知らなかった伴つれの男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。
短かく刈り込んだ当世風の髭ひげを鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影おもかげを宿していた。
津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。
堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰つめて当人のしばしば用いる堀庄ほりしょうという名前が、
いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染ちょうにんじみていはしまいかと思われた。
瞥見べっけんのついでに纏まとめられた津田の想像はここにとどまらなかった。
彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中うちに置いた。
したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。
彼は楊枝で歯を磨こすりながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
女は番頭に訊きいた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
番頭は答えた。
- 39 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:11:22.30 0.net
- 「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに今朝けさごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」
- 40 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:11:32.30 0.net
- 「じゃちょっと伺って参りましょう」
「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう真面目まじめくさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」
二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中こうちゅうをいっぱいにしながら、また昨夜ゆうべの風呂場を探さがしに廊下へ出た。
- 41 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:11:42.29 0.net
- 百七十九
しかし探すなどという大袈裟おおげさな言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。路みちに曲折の難はあったにせよ、一足ひとあしの無駄も踏まずに、自然昨夜ゆうべの風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧わいて出た。
風呂場には軒下に篏はめた高い硝子戸ガラスどを通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸越ごしに岩だか土堤どてだかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉ゆに浸つけながら、いかに浴槽よくそうの位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。そうしてこの崖がけと自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半乃至ないし二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中うちに幾層もあるはずだという事に気がついた。
- 42 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:12:43.71 0.net
- 崖の上には石蕗つわがあった。あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。
山茶花さざんかの花の散って行く様も湯壺ゆつぼから眺められた。
けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡に違ちがいなかった。
けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆そそった。すぐ崖の傍そばへ来て急に鳴き出したらしい鵯ひよどりも、声が聴きこえるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで遥はるかそれ以上気にかかる事件を捏こね返かえしていたので、
彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々あんあんのうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出みいださなかった彼は、
万事君の跋扈ばっこに任せるといった風に寂寞せきばくを極きわめた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。
もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄すててあったのが、彼に或暗示を与えたので、
それが機縁になって、彼を動かした所作しょさに過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、
いよいよスリッパーの前に閉たて切きられた戸にかかった時、彼は急に躊躇ちゅうちょした。彼は固もとより無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。
仕方なしに外部そとから耳を峙そばだてたけれども、中は森しんとしているので、それに勢いきおいを得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。
そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。
- 43 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:12:55.84 0.net
- すでに裸になって、湯壺ゆつぼの中に浸つかった後あとの彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕ゆうべと今朝けさの間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷まるまげの女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
それは主ぬしのないスリッパーに唆そそのかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起ねおきに横浜の女と番頭の噂うわさに上のぼった清子の消息を聴きかされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止やめた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上のぼって行くように思われた。彼はその源因を想像した。他ひとの例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨すてておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿はき込まなかったのだろうかという後悔さえ萌きざした。
- 44 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:13:07.50 0.net
- しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽よくそうの外側に聞いた。それは彼が石蕗つわの花を眺めた後あと、鵯鳥ひよどりの声を聴きいた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、崖がけの上は幾坪かの平地ひらちで、その平地を前に控えた一棟ひとむねの建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻さっき散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙すかされた庇ひさしの下の硝子戸ガラスどが今日は閉たて切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖がけの上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非受うけ応こたえの挨拶あいさつが出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰おとさたなしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上のぼって行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾すそが硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻ひるがえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
- 45 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:13:21.08 0.net
- 百八十
室へやに帰って朝食あさめしの膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
- 46 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:13:34.80 0.net
- 「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴ききになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気おしげもなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外はずした。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘うその奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人しろうとにしちゃあんまり粋過いきすぎるじゃないか」
- 47 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:13:46.58 0.net
- 下女は答える代りに、突然清子を引合ひきあいに出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄ひとがらです」
間取まどりの関係から云って、清子の室へやは津田の後うしろ、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出みいだした彼はようやく首肯うなずいた。
「するとちょうど真中辺まんなかへんだね、ここは」
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終しじゅう行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑ひまなもんですから。昨日きのうも公園へいっしょにお出かけでした」
津田は問題を取り逃がさないようにした。
- 48 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:13:57.62 0.net
- 「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体からだがお悪いんです」
「旦那だんなさんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置おいてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊きいた。
- 49 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:14:12.18 0.net
- 「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活いけになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣はんさにわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽あわてたように話を外そらせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞ふさがってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)らっかんを覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
- 50 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:14:22.53 0.net
- 「ええお爺じいさんです。こんなに白い髯ひげを生やして」
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応ふさわしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴きかされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人しろうとは半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗あんにこの老先生の用向ようむきと自分の用向とを見較みくらべた。無事に苦しんで義太夫の稽古けいこをするという浜の二人をさらにその傍かたわらに並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐すわって山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極きわめなければならない季節に、この家うちへ入いり込こんでくる客の人数にんずを挙げた。
- 51 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:15:24.79 0.net
- 百八十一
食後の津田は床とこの脇わきに置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛なあてを記しるした。
お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝たきだの、ルナ公園パークだのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。
それからまた印気インキを走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親宛あての分がまたたく間まに出来上った。こう書き出して見ると、
ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。
最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一はじめだの、
その一の学校友達という連想から、また自分の親戚みうちの方へ逆戻りをして、甥おいの真事まことだの、いろいろな名がたくさん並べられた。
初手しょてから気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。
他ほかの意味は別として、ただ在所ありかを嗅かぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。
その小林は不日ふじつ朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自みずから任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。
同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、
(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介やっかいなこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙そばだてた。
するといったん緒口いとくちの開あいた想像の光景シーンはそこでとまらなかった。彼を拉らっしてずんずん先へ進んだ。
彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴どなり込むような大きな声を出して彼の室へやへ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴ほうふつした。
- 52 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:15:38.57 0.net
- 「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭いやがらせに来たんだ」
「どういう理由わけで」
「理由も糸瓜へちまもあるもんか。貴様がおれを厭いやがる間は、いつまで経たってもどこへ行っても、ただ追おっかけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然拳こぶしを固めて小林の横よこッ面つらを撲なぐらなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室へやの真中へ踏ふん反ぞり返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
- 53 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:15:50.76 0.net
- まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中やどじゅうの視聴を脅おびやかさなければならなかった。その中には是非とも清子が交まじっていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸めいりょうな想像の一幕ひとまくを、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥しゅうちと屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬ほおの内側が熱ほてって来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他ひとに対して面目めんぼくを失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢こんていに横よこたわっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴やつはただ小林になった。
「おれに何の不都合ふつごうがある。彼奴あいつさえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負しょわせた。
夢のような罪人に宣告を下した後あとの彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜さくやここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝けさ聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々そらぞらしくっていけない、昨夜ゆうべ会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当あたり障さわりのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊あっさりした口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違ちがい棚だなの上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日きのうのままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸おろした。彼は果物籃くだものかごの葢ふたの間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿さし込んだ後あとで、下女を呼んだ。
- 54 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:15:59.54 0.net
- 「宅うちに関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻さっきお話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提さげて廊下へ出た。
- 55 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:16:40.47 0.net
- 百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据いすわりの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来くべきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、
彼はなおの事心を遣つかった。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、
清子の束縛を解とく好い方便に違ちがいなかった。単に彼と応接する煩わずらわしさ、
もしくはそれから起り得る嫌疑けんぎを避けようとするのが彼女の当体とうたいであったにしたところで、
果物籃くだものかごの礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、
下女の遅いのを一層苦くにしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草たばこを捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、
黙って池の中を動いている緋鯉ひごいを眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面はなづらへ手を延ばして見たりした。やっとの事で、
下女の足音が廊下の曲り角に聴きこえた時に、わざと取り繕つくろった余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
- 56 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:16:50.19 0.net
- 「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪おぐしを結いって上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
津田は女の髷まげがそんなに雑作ぞうさなく結ゆえる訳のものでないと思った。
「銀杏返いちょうがえしかい、丸髷まるまげかい」
下女は取り合わずにただ笑い出した。
- 57 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:16:58.95 0.net
- 「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻さっきからこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心かんじんのお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」
やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分じょうだんはんぶんに駄目だめを押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向むこうへ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭いやだからね」
「旦那様だんなさまはずいぶん疑うたぐり深ぶかい方かたですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
- 58 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:17:08.69 0.net
- 兵児帯へこおびを締め直した津田の後うしろへ廻った下女は、室へやを出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。夢遊病者むゆうびょうしゃとして昨夕ゆうべ彷徨さまよった記憶が、例の姿見すがたみの前へ出た時、突然津田の頭に閃ひらめいた。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊きき返した。
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
- 59 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:17:20.75 0.net
- 「馬鹿をおっしゃい。宅うちに幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
客商売をする宿に対して悪い洒落しゃれを云ったと悟った津田は、賢かしこく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通てんがんつうですね」
「天眼通じゃない、天鼻通てんびつうと云って万事鼻で嗅かぎ分わけるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段はしごだんの途中で始まったこの会話は、上あがり口くちの一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗あんにそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止とめた。
- 60 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 13:17:31.65 0.net
- 「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を睨にらめるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利ききますね。猟犬りょうけんよりたしかですよ」
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑にぎやかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞ひっそりしていた。
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は外部そとから清子に話しかけながら、建てつけの好い障子しょうじをすうと開けてくれた。
「御免下さい」
一言いちごんの挨拶あいさつと共に室へやの中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
- 61 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:02:04.98 0.net
- 百八十三
室は二間続ふたまつづきになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床とこのない控えの間の方であった。黒柿の縁ふちと台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞よこたてじまの厚い座蒲団ざぶとんを据すえて、その傍かたわらに桐きりで拵こしらえた小型の長火鉢ながひばちが、普通の家庭に見る茶の間の体裁ていさいを、小規模ながら髣髴ほうふつせしめた。隅すみには黒塗の衣桁いこうがあった。異性に附着する花やかな色と手触てざわりの滑すべこそうな絹の縞しまが、折り重なってそこに投げかけられていた。
間あいの襖ふすまは開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立いけたてらしい寒菊の花を見た。前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶こげちゃに染めた縮緬ちりめんのなかに、牡丹ぼたんか何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席につかない先にまず直感した。
- 62 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:02:46.21 0.net
- 「すべてが改あらたまっている。これが今日会う二人の間に横よこたわる運命の距離なのだろう」
突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
しかしこの距離はどこから起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。
では、なぜそれを忘れていたのだろう? 考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
津田がこんな感想に囚とらえられて、控ひかえの間まに立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、
主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅すみから現わした。それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解げせなかった。
また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。あるいは室を片づけてから、
彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚よりかかりでもして、山に重かさなる黄葉こうようの色でも眺めていたのかも知れなかった。
それにしても様子が変であった。有体ありていに云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰でっくわしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
- 63 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:02:58.97 0.net
- しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を
待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰せくためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢かくひばちほど彼の気色きしょくに障さわらなかった。というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。
津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠おっとりしていた。どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻ひるがえす燕つばめのように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩のろい人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」
疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。もし津田が室へやに入って来た時、彼の気合を抜いて、間まの合わない時分に、わざと縁側の隅すみから顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。
- 64 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:03:08.10 0.net
- 「また何か細工をするな」
彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作しょさが演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」
緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚めざましい早技はやわざで取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。
その上清子はただ間まを外はずしただけではなかった。彼女は先刻さっき津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃くだものかごを両手でぶら提さげたまま、縁側の隅から出て来たのである。どういうつもりか、今までそれを荷厄介にやっかいにしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛どもりにならないのは明かであった。それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違ちがいなかった。少くとも不器用であった。何だか子供染こどもじみていた。しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。
「滑稽こっけいだな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」
重そうに籃かごを提さげている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。
- 65 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:03:20.48 0.net
- 百八十四
すると清子はその籃かごをすぐ下女に渡した。下女はどうしていいか解わからないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。しかし普通の場合に起る手持無沙汰てもちぶさたの感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来こずにすんだ。彼はただ間まの延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜ゆうべの記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼せまらない人が、どうしてあんなに蒼あおくなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物くだものを皿に盛るべく命じている清子を見守った。
- 66 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:03:29.55 0.net
- 「どうもお土産みやげをありがとう」
これが始めて彼女の口を洩もれた挨拶あいさつであった。話頭わとうはそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘うそを吐つく覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴みちづれになったお爺じいさんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」
「あらどうして」
津田は何と答えようが平気であった。
- 67 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:03:40.18 0.net
- 「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中始終しじゅう手にでも提さげていらしったの」
津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴きこえた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘うそから出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦くがなさそうで結構ですね」
- 68 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:03:51.84 0.net
- 「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同おんなじ人間ですもの」
この挨拶あいさつを聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目まじめな津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同おんなじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら逢あわせてやってもいいがね」
- 69 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 14:04:03.01 0.net
- 「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
彼女は人指指ひとさしゆびを自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様だんなさまのこれにはとても敵かないません。奥さまのお部屋をちゃんと臭においで嗅かぎ分ける方かたなんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢としから原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
下女はこう云って立ち上った。しかし室へやを出でがけにまた一句の揶揄やゆを津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
日当りの好い南向みなみむきの座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干らんかんを背にして日に背そむいて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞ひだが、幾段にも重なり合って、日向日裏ひなたひうらの区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩いろどる黄葉こうようの濃淡がまた鮮あざやかな陰影の等差を彼の眸中ぼうちゅうに送り込んだ。しかし眼界の豁ひろい空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子しょうじと、その障子の一部分を遮さえぎる津田の影像イメジだけであった。彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
彼女の顔は、昨夕ゆうべと反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅あかかった。しかしそれは強い秋の光線を直下じかに受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端はしなく上気した時のように紅く染った清子の耳朶みみたぶに落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。
- 70 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:00:45.37 0.net
- 百八十五
こんな場合にどっちが先へ口を利きき出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸めいりょうであった。彼女は津田に一寸いっすんの余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分ごぶの寛くつろぎさえ残しておく事のできない性質たちに生れついていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。勢い津田は始終しじゅう受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞なめなければならなかった。
ところが清子を前へ据すえると、そこに全く別種の趣おもむきが出て来た。段取は急に逆になった。相撲すもうで云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。
- 71 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:00:55.59 0.net
- 二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間まにか蘇生していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰てもちぶさたの感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸のび伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違ちがいないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。しかも昔むかしの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰ごぶさたをしていっこうお目にかかりませんが」
津田は何の気もつかなかった。会話の皮切かわきりに清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日こんにちまで自分ら二人の間に起った感情の行掛ゆきがかり上じょうから考えても、またそれらの纏綿てんめんした情実を傍かたわらに置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案ひとしあんしなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念けねんさえなく、ただ無雑作むぞうさに話頭わとうに上せた津田は、まさに居常きょじょうお延に対する時の用意を取り忘れていたに違ちがいなかった。
- 72 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:01:05.66 0.net
- しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶あいさつぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂うわさを致しております」
「ああそうですか。僕も始終しじゅう忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」
「良人うちも同おんなじよ、あなた。近頃じゃ閑暇ひまな人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
「そうですね」
- 73 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:01:18.03 0.net
- こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊きいて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音ほんねですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵かくれていた。
しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出みいだした。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具そなわっていた。それを口にして苦くにならないほどの淡泊たんぱくさが現われていた。ただそれは津田の暗あんに予期して掛かかったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚おうような態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」
津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰さたであった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張がんばっていた。そうしてその自分に「私」という名を命つける事のできなかった津田は、飽あくまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人しろうとに対する黒人くろうとであった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。
表で認めて裏で首肯うけがわなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。
- 74 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:01:27.06 0.net
- 百八十六
「昨夕ゆうべは失礼しました」
津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘ねらいどころであった。
「私わたくしこそ」
- 75 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:01:37.47 0.net
- 清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝けさになってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」
もしそれを憶おもい起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。
- 76 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:01:45.57 0.net
- 「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」
「じゃ止よして下さればよかったのに」
「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」
「でも私への御土産おみやげを持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」
「そうですか知ら」
- 77 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:01.81 0.net
- 故意こいを昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻こうふんが、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似まねをする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興すいきょうだって」
「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」
津田は水盤に溢あふれる水を眺めていたに違ちがいなかった。姿見すがたみに映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛くしを取って頭まで梳かいてぐずぐずしていたに違なかった。
- 78 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:13.26 0.net
- 「迷児まいごになって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じょうだんじゃない。いくら僕の鼻が万能まんのうだって、あなたの湯泉ゆに入る時間まで分りゃしませんよ」
「なるほど、そりゃそうね」
清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点がてんしたらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
- 79 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:21.74 0.net
- 「いったい何だって、そんな事を疑うたぐっていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
津田は仕方なしに側面から向った。
- 80 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:31.56 0.net
- 「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅すみで待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
- 81 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:41.06 0.net
- 単純なこの一言いちごんは急に津田の機鋒きほうを挫くじいた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝あやまります。そうして止よします」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴きかせて下さればいいんです」
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
- 82 :Ms.名無しさん:2021/10/25(月) 16:02:49.70 0.net
- 「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口ひとくちで済んじまう事です」
今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑ふに落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻さっきからそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わずらわせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」
「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由わけは何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃいけません」
「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘うそでも偽いつわりでもないんですもの」
「なるほど」
津田は腕を拱こまぬいて下を向いた。
- 83 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:15:59.56 0.net
- 百八十七
しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
清子は答えた。
- 84 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:16:09.14 0.net
- 「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意こいじゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
- 85 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:16:18.76 0.net
- こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目だめを押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕ゆうべ階子段はしごだんの上で、あなたは蒼あおくなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐うそつきでもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから硬かたくなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん吃驚びっくりしたわ」
- 86 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:16:28.43 0.net
- 「それで」と云いかけた津田は、俯向加減うつむきかげんになって鄭寧ていねいに林檎りんごの皮を剥むいている清子の手先を眺めた。滴したたるように色づいた皮が、ナイフの刃を洩もれながら、ぐるぐると剥むけて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼うすあおい肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経たった昔を憶おもい起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎りんごを剥むいてくれたんだっけ」
ナイフの持ち方、指の運び方、両肘りょうひじを膝ひざとすれすれにして、長い袂たもとを外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個ふたつの宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮さえぎるものはなかった。柔婉しなやかに動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然さんぜんたる警戒の閃ひらめきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝けさ下女が結いってやったというその髪は通例の庇ひさしであった。何の奇も認められない黒い光沢つやが、櫛くしの歯を入れた痕あとを、行儀正しく竪たてに残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊ききたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
- 87 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:16:40.67 0.net
- 「昨夕ゆうべそんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向うつむいたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
- 88 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:16:52.13 0.net
- もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息ためいきを吐つくところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑おさえつけた。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗きれいに剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通てんがんつうでなくって天鼻通てんびつうね。実際よく利きくのね」
冗談じょうだんとも諷刺ふうしとも真面目まじめとも片のつかないこの一言いちごんの前に、津田は退避たじろいだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
- 89 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:03.24 0.net
- 百八十八
津田は清子の剥むいてくれた林檎りんごに手を触れなかった。
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」
清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片ひときれを手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊きいた。
- 90 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:12.26 0.net
- 「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」
津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然はっきりした答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」
- 91 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:26.32 0.net
- 二人の間に何度も繰り返された過去の光景シーンが、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙あげて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊きこうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」
津田の疑問と清子の疑問が暫時ざんじ視線の上で行き合った後あと、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退ひき方かたを見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込いきごみの相違を認めた。彼女はどこまでも逼せまらなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床とこの間まに活いけてある寒菊の花の上に落した。
眼で逃げられた津田は、口で追おっかけなければならなかった。
「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
- 92 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:35.59 0.net
- 「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来きようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産みやげまで頼まれちまったんです」
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
津田はつい「こっちでもその訳を訊ききに来たんだ」と云いたくなった。しかし何にもそこに頓着とんじゃくしていないらしい清子の質問は正直であった。
「それであなたもどこかお悪いの」
津田は言葉少なに病気の顛末てんまつを説明した。清子は云った。
- 93 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:46.27 0.net
- 「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合ごつごうがつくんだから。そこへ行くと良人うちなんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」
「関君こそ酔興すいきょうなんだから仕方がない」
「可哀想かわいそうに、まさか」
「いや僕のいうのは善いい意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」
「まあ、お上手だ事」
この時下から急ぎ足で階子段はしごだんを上のぼって来る草履ぞうりの音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻さっきとは違った下女がそこへ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午ひるから滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」
- 94 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:17:58.08 0.net
- 「お供ともしましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様だんなさまもいっしょにいらっしゃいまし」と云った。
「ありがとう。時にもうお午なのかい」
「ええただいま御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云いい損そくなった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅うちから電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室へやに帰った。
――未完――
- 95 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:18:28.65 0.net
- 道草
夏目漱石
一
健三けんぞうが遠い所から帰って来て駒込こまごめの奥に世帯しょたいを持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋さびし味みさえ感じた。
彼の身体からだには新らしく後あとに見捨てた遠い国の臭においがまだ付着していた。彼はそれを忌いんだ。一日も早くその臭を振ふるい落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。
- 96 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:18:40.07 0.net
- 彼はこうした気分を有もった人にありがちな落付おちつきのない態度で、千駄木せんだぎから追分おいわけへ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。
ある日小雨こさめが降った。その時彼は外套がいとうも雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷ほんごうの方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現ねづごんげんの裏門の坂を上あがって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間けん位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼めをわきへ外そらさせたのである。
- 97 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:18:54.22 0.net
- 彼は知らん顔をしてその人の傍そばを通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また眸ひとみをその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾とくに彼の姿を凝じっと見詰めていた。
往来は静しずかであった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色けしきなく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。
- 98 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:19:06.68 0.net
- 彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳はたちになるかならない昔の事であった。それから今日こんにちまでに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。
彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。黒い髭ひげを生はやして山高帽を被かぶった今の姿と坊主頭の昔の面影おもかげとを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、何故なぜ今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介なかだちとなった。
- 99 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:19:15.51 0.net
- 彼は固もとよりその人に出会う事を好まなかった。万一出会ってもその人が自分より立派な服装なりでもしていてくれれば好いいと思っていた。しかし今目前まのあたり見たその人は、あまり裕福な境遇にいるとは誰が見ても決して思えなかった。帽子を被らないのは当人の自由としても、羽織はおりなり着物なりについて判断したところ、どうしても中流以下の活計を営んでいる町家ちょうかの年寄としか受取れなかった。彼はその人の差していた洋傘こうもりが、重そうな毛繻子けじゅすであった事にまで気が付いていた。
その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事の外ほか決して口を利かない女であった。
- 100 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:19:33.01 0.net
- 二
次の日健三はまた同じ時刻に同じ所を通った。その次の日も通った。けれども帽子を被かぶらない男はもうどこからも出て来なかった。彼は器械のようにまた義務のように何時もの道を往いったり来たりした。
こうした無事の日が五日続いた後あと、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆ほとんどこの前と違わなかった。
- 101 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:19:49.81 0.net
- その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人なんびとをも不安にしなければやまないほどな注意を双眼そうがんに集めて彼を凝視した。隙すきさえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇どんよりした眸ひとみのうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍そばを通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。
「とてもこれだけでは済むまい」
しかしその日家うちへ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。
彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかし噂うわさとしてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいずれにしても健三にとって問題にはならなかった。
- 102 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:20:01.11 0.net
- ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく細字さいじで書いたものの、五分の一ほど眼を通した後あと、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。
その時の彼には自分宛あてでこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に関聯かんれんして、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし機嫌買きげんかいな彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ判然はっきり覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問い訊ただして見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが大嫌だいきらいだった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介なかだちとなるからであった。
- 103 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 06:20:10.94 0.net
- 幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托くったくしている余裕を彼に与えなかった。彼は家うちへ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入はいった。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟しげきの方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。
彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の裡うちに胡坐あぐらをかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端かたはしから取り上げては二、三頁ページずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの体ていたらくを見るに見かねた或ある友人が来て、順序にも冊数にも頓着とんじゃくなく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。
- 104 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 07:28:14.40 0.net
- このままでは政局レベルの惨敗に…自民党内に広がる「岸田首相では戦えない」の恨み節
https://news.yahoo.co.jp/articles/ba7cd0165651601bfadd746f9e1da6b64919d66c
- 105 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:00:08.46 0.net
- 【副総裁】麻生太郎氏「温暖化したおかげで北海道のコメはうまくなったろ?」★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635156977/
- 106 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:02:52.62 0.net
- 「Dappi」発信元組織の取引先 システム収納センター
自民党本部から3年間で1億円以上余受け取っていた★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635132936/
- 107 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:05:20.18 0.net
- 生活困窮相談、3倍超に急増 コロナ影響で78万件―20年度
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102501060&g=pol
麻生「税収増えたし」
麻生「景気が良いねぇ」
- 108 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:39:04.53 0.net
- 【宏池会】自民・岸田派候補は衆院選でまさかの半分落選も…
15人が野党候補と大接戦、閣僚経験者も劣勢
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1634963131/
- 109 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:46:24.44 0.net
- 【東京8区】石原王国崩壊危機…「軍団」解散の年に、伸晃氏 11回連続当選黄信号
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1635000832/
- 110 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 09:57:47.37 0.net
- 自民1〜3回生、半数が当落線上 追い風なき衆院選
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1634865883/
- 111 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:12:26.92 0.net
- 三
健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家うちへ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆ほとんど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡うたいの稽古けいこを勧められて、体ていよくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人ひとにはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
- 112 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:12:36.38 0.net
- 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気おぼろげにその淋さびしさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞さくばくたる曠野あらのの方角へ向けて生活の路みちを歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。
彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。
- 113 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:12:45.88 0.net
- 「教育が違うんだから仕方がない」
彼の腹の中には常にこういう答弁があった。
- 114 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:12:56.93 0.net
- 「やっぱり手前味噌てまえみそよ」
これは何時でも細君の解釈であった。
気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる度たびに気不味きまずい顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心しんから忌々いまいましく思った。ある時は叱しかり付けた。またある時は頭ごなしに遣やり込めた。すると彼の癇癪かんしゃくが細君の耳に空威張からいばりをする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷おおぶろしき」の四字に訂正するに過ぎなかった。
- 115 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:13:12.42 0.net
- 彼には一人の腹違はらちがいの姉と一人の兄があるぎりであった。親類といったところでこの二軒より外に持たない彼は、不幸にしてその二軒ともとあまり親しく往来ゆききをしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の好いいものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を被かぶらない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木せんだぎの町を毎日二返へん規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその間あいだに身体からだの楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢ししを畳の上に横たえて半日の安息を貪むさぼるに過ぎなかったろう。
しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。そうして急に思い立ったように姉の宅うちへ出掛けた。姉の宅は四よッ谷やの津つの守坂かみざかの横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。彼女の夫というのは健三の従兄いとこにあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。しかし年齢としは同年おないどしか一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所そこをやめた今日こんにちでも、まだ馴染なじみの多い土地を離れるのが厭いやだといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。
- 116 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:13:25.97 0.net
- 四
この姉は喘息持ぜんそくもちであった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な癇性かんしょうなので、よほど苦しくないと決して凝じっとしていなかった。何か用を拵こしらえて狭い家うちの中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その落付おちつきのないがさつな態度が健三の眼には如何いかにも気の毒に見えた。
姉はまた非常に饒舌しゃべる事の好すきな女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と対坐たいざする健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。
「これが己おれの姉なんだからなあ」
- 117 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:13:35.32 0.net
- 彼女と話をした後あとの健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。
その日健三は例の如く襷たすきを掛けて戸棚の中を掻かきまわしているこの姉を見出した。
「まあ珍らしく能よく来てくれたこと。さあ御敷きなさい」
姉は健三に座蒲団ざぶとんを勧めて縁側へ手を洗いに行った。
- 118 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:14:33.44 0.net
- 健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間らんまには彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。
その落款らっかんに書いてある筒井憲つついけんという名は、たしか旗本はたもとの書家か何なにかで、大変字が上手なんだと、
十五、六の昔此所ここの主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。
そうして年からいえば叔父おじ甥おいほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲すもうをとっては姉から怒おこられたり、
屋根へ登って無花果いちじくを※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もいで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、尻しりを持ち込まれたりした。
主人が箱入りのコンパスを買って遣やるといって彼を騙だましたなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。
姉と喧嘩けんかをして、もう向うから謝罪あやまって来ても勘忍してやらないと覚悟を極きめたが、いくら待っていても、姉が詫あやまらないので、
仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰てもちぶさたなので、向うで御這入おはいりというまで、
黙って門口かどぐちに立っていた滑稽こっけいもあった。……
古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、
今は大した好意を有もつ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。
「近頃は身体からだの具合はどうです。あんまり非道ひどく起る事もありませんか」
彼は自分の前に坐すわった姉の顔を見ながらこう訊たずねた。
- 119 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:14:42.86 0.net
- 「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好いいもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせいに働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊あすびに来てくれた時分にゃ、随分尻しりッ端折ぱしょりで、それこそ御釜おかまの御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」
健三は些少さしょうながら月々いくらかの小遣を姉に遣やる事を忘れなかったのである。
「少し痩やせたようですね」
「なにこりゃ私あたしの持前もちまえだから仕方がない。昔から肥ふとった事のない女なんだから。やッぱり癇かんが強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」
姉は肉のない細い腕を捲まくって健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈かさが、怠だるそうな皮で物憂ものうげに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。
「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六むずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父おとっさんや御母おっかさんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」
姉の眼にはいつか涙が溜たまっていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖くちくせのようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟へんくつじゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。
- 120 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:14:54.41 0.net
- 五
そんな古い記憶を喚よび起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層ひとしお健三の眼についた。
「時に姉さんはいくつでしたかね」
「もう御婆おばあさんさ。取って一いちだもの御前さん」
姉は黄色い疎まばらな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると私わたしとは一廻ひとまわり以上違うんだね。私ゃまた精々違って十とおか十一だと思っていた」
- 121 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:15:06.10 0.net
- 「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人うちが羊の三碧さんぺきで姉さんが四緑しろくなんだから。健ちゃんは慥たしか七赤しちせきだったね」
「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
「繰って見て御覧、きっと七赤だから」
健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢としの話はそれぎりやめてしまった。
「今日は御留守なんですか」と比田ひだの事を訊きいて見た。
- 122 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:15:16.14 0.net
- 「昨夕ゆうべも宿直とまりでね。なに自分の分だけなら月に三度か四度よどで済むんだけれども、他ひとに頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他ひとの分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ寐ねるのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、向むこうへ泊る方がかえって多いかも知れないよ」
健三は黙って障子の傍そばに据えてある比田の机を眺めた。硯箱すずりばこや状袋じょうぶくろや巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮せがわをこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから綺麗きれいに光った小さい算盤そろばんもその下に置いてあった。
噂うわさによると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番ひょうばんであった。宿直とまりだ宿直だといって宅うちへ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。
- 123 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:15:25.42 0.net
- 「比田さんは近頃どうです。大分だいぶ年を取ったから元とは違って真面目まじめになったでしょう」
「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席よせだ、やれ芝居しばやだ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは優やさしくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分烈はげしかったもんだがね。蹴けったり、敲たたいたり、髪の毛を持って座敷中引摺ひっずり廻したり……」
「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」
「なに妾あたしゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」
- 124 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:15:34.59 0.net
- 健三は勝気な姉の昔を考え出してつい可笑おかしくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に騙だまされて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に不憫ふびんに思われて来た。
「久しぶりに何か奢おごりましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。
「ありがと、今御鮨おすしをそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」
姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないから尻しりを落付おちつけてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。
- 125 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:15:50.54 0.net
- 六
近頃の健三は頭を余計遣つかい過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強わるじいには敵かなわなかった。
「海苔巻のりまきなら身体からだに障さわりゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走ごちそうしようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。厭いやかい」
健三は仕方なしに旨うまくもない海苔巻を頬張ほおばって、好いい加減烟草タバコで荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。
- 126 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:00.49 0.net
- 姉が余り饒舌しゃべるので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。訊ききたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒がゆくなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。
他ひとに物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣やる事の好きな彼女は、健三がこの前賞ほめた古ぼけた達磨だるまの掛物を彼に遣ろうかといい出した。
「あんなものあ、宅うちにあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田ひだだって要いりゃしないやね、汚ない達磨なんか」
健三は貰もらうとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。
- 127 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:08.63 0.net
- 「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日きょうまで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住おすみさんがいちゃ、少し話し悪にくい事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」
姉の前置まえおきは長たらしくもあり、また滑稽こっけいでもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶おぼえが悪くって、どんなに平易やさしい字も、とうとう頭へ這入はいらずじまいに、五十の今日こんにちまで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私わたしも今日は少し姉さんに話があって来たんだが」
「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故なぜ早く話さなかったの」
「だって話せないんだもの」
- 128 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:17.52 0.net
- 「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟きょうだいの間じゃないか、御前さん」
姉は自分の多弁が相手の口を塞ふさいでいるのだという明白な事実には毫ごうも気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」
「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人うちがあの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己おれの知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤もっとも月々の取高とりだかが少ない上に、交際つきあいもあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」
姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る小遣こづかいをもう少し増ましてくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が憐あわれでもあり、また腹立たしくもあった。
「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」
これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでも厭いやだとはいいかねた。
- 129 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:28.01 0.net
- 七
彼はこれから宅うちへ帰って今夜中に片付けなければならない明日あしたの仕事を有もっていた。時間の価値というものを少しも認めないこの姉と対坐たいざして、何時いつまでも、べんべんと喋舌しゃべっているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。彼は好加減いいかげんに帰ろうとした。そうして帰る間際になってやっと帽子を被かぶらない男の事をいい出した。
「実はこの間島田に会ったんですがね」
「へえどこで」
姉は吃驚びっくりしたような声を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。
- 130 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:37.81 0.net
- 「太田おおたの原はらの傍そばです」
「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」
「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」
「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、向むこうで口なんぞ利きけた義理でもないんだから」
姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。彼女は健三に「どんな服装なりをしていたい」と訊きき足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。其所そこには多少の同情も籠こもっているように見えた。しかし男の昔を話し出した時にはさもさも悪にくらしそうな語気を用い始めた。
「なんぼ因業いんごうだって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、坐すわり込んで動いごかないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、御鍋おなべでも御釜おかまでも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」
- 131 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:48.56 0.net
- 「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」
「ところがあの業突張ごうつくばりの事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊たかせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好いい事あないはずだあね」
健三の耳にはこの話がただの滑稽こっけいとしては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡ひっからまっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑おかしいというよりもむしろ悲しいものであった。
「私わたしゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」
「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」
- 132 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 10:16:57.28 0.net
- 「しかしわざわざ彼所あすこいらを通って、私の宅うちでも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」
この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には空御世辞からおせじのごとく響いた。
「こちらへはその後まるで来ないんですか」
「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」
「その前は?」
「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯うなぎめしかなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを一ひとかたけでも好いいから他ひとの家うちで食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装なりなんかかなりなものを着ているんだがね。……」
姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。
- 133 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:42:57.97 0.net
- 八
「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」
こんな簡単な質問さえ姉には判然はっきり答えられなかった。健三は少し的あてが外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所いどころを突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数てかずを尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑けいべつしなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。
彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。
- 134 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:07.61 0.net
- 其所そこには往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼あおい色が湧わいて厭いやな臭においさえ彼の鼻を襲った。彼はその汚きたならしい一廓いっかくを――様さまの御屋敷という名で覚えていた。
堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。
- 135 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:16.98 0.net
- この御屋敷と反対の側には小さな平家ひらやが疎まばらに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交まじっていたその町並は無論不揃ぶそろであった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居すまいを拵こしらえたのである。
健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間よましかない狭い家だったけれども、木口きぐちなどはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影みかげの石燈籠いしどうろうが据えてあった。
- 136 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:25.37 0.net
- 綺麗好きれいずきな島田は、自分で尻端折しりはしおりをして、絶えず濡雑巾ぬれぞうきんを縁側や柱へ掛けた。それから跣足はだしになって、南向の居間の前栽せんざいへ出て、草毟くさむしりをした。あるときは鍬くわを使って、門口かどぐちの泥溝どぶも浚さらった。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。
島田はまたこの住居すまい以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路みちを付けた。裏は野とも畠はたとも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹へこんだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になると鴨かもが下おりるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……
- 137 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:34.82 0.net
- 健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日こんにちの事のように考えた。
「ことによると、良人うちでは年始状位まだ出してるかも知れないよ」
- 138 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:45.98 0.net
- 健三の帰る時、姉はこんな事をいって、暗あんに比田ひだの戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。
彼はその日無沙汰ぶさた見舞かたがた市ヶ谷いちがやの薬王寺やくおうじ前にいる兄の宅うちへも寄って、島田の事を訊きいて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込こまごめへ帰った。その晩はまた翌日あくるひの仕事に忙殺ぼうさいされなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。
- 139 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:43:57.03 0.net
- 九
彼はまた平生へいぜいの我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心の中うちで彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。
彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。その子供たちはまた滅多に書斎へ這入はいらなかった。たまに這入ると、きっと何か悪戯いたずらをして健三に叱しかられた。彼は子供を叱るくせに、自分の傍そばへ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持を抱いだいていた。
- 140 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:44:06.18 0.net
- 一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。気分を変えるため四時頃風呂ふろへ行って帰ったら、急にうっとりした好いい気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい仮寐うたたねをした。そうして晩食ばんめしの時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。しかし起きて膳ぜんに向った時、彼には微かすかな寒気が脊筋せすじを上から下へ伝わって行くような感じがあった。その後で烈はげしい嚏くさみが二つほど出た。傍にいる細君は黙っていた。健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対する厭いやな心持を意識しつつ箸はしを取った。細君の方ではまた夫が何故なぜ自分に何もかも隔意なく話して、能働的のうどうてきに細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。
その晩彼は明らかに多少風邪かぜ気味であるという事に気が付いた。用心して早く寐ねようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。熱い葛湯くずゆでも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具の裏うちに潜もぐり込んだ。彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。
- 141 :Ms.名無しさん:2021/10/26(火) 16:44:14.49 0.net
- 翌日あくるひ眼を覚した時は存外安静であった。彼は床の中で、風邪はもう癒なおったものと考えた。しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位身体からだが倦怠だるくなってきた。勇気を鼓こして食卓に着いて見たが、朝食あさめしは少しも旨うまくなかった。いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ました後あと、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いて呑のんだ。しかしその意味は彼自身にも解らなかった。この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。彼はことさらな咳せきを二度も三度もして見せた。それでも細君は依然として取り合わなかった。
健三はさっさと頭から白襯衣ワイシャツを被かぶって洋服に着換えたなり例刻に宅うちを出た。細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。
外ではしきりに悪感おかんがした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が倦怠けたるかった。彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。指頭しとうに触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計たもとどけいの音と錯綜さくそうして、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。
- 142 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:21:58.24 0.net
- 十
彼は例刻に宅うちへ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着ふだんぎを持ったまま、彼の傍そばに立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。
「床を取ってくれ。寐ねるんだ」
「はい」
細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の風邪気かぜけの事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向其所そこに注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。
健三が眼を塞ふさいでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。
- 143 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:22:12.91 0.net
- 「あなた御飯を召上めしやがりますか」
「飯めしなんか食いたくない」
細君はしばらく黙っていた。けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。
「あなた、どうかなすったんですか」
健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具の襟えりに埋うずめていた。細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。
晩になって医者が来た。ただの風邪だろうという診察を下くだして、水薬すいやくと頓服とんぷくを呉れた。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。
翌日あくるひは熱がなお高くなった。医者の注意によって護謨ゴムの氷嚢ひょうのうを彼の頭の上に載せた細君は、蒲団ふとんの下に差し込むニッケル製の器械を下女げじょが買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。
- 144 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:22:24.15 0.net
- 魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものが殆ほとんどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。
「あなたどうなすったんです」
「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」
「そりゃ解ってます」
会話はそれで途切れてしまった。細君は厭いやな顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。
「己おれがどうしたというんだい」
- 145 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:22:33.91 0.net
- 「どうしたって、――あなたが御病気だから、私わたくしだってこうして氷嚢を更かえたり、薬を注ついだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」
細君は後をいわずに下を向いた。
「そんな事をいった覚はない」
「そりゃ熱の高い時仰おっしゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生へいぜいからそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」
こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。
「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」
健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己を佯いつわっている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底しんそこから大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。
- 146 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:22:47.16 0.net
- 十一
その晩細君は土鍋どなべへ入れた粥かゆをもって、また健三の枕元に坐すわった。それを茶碗ちゃわんに盛りながら、「御起おおきになりませんか」と訊きいた。
彼の舌にはまだ苔こけが一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には殆ほとんどなれなかった。それでも彼は何故なぜだか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし舌障したざわりの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉のどの方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一膳ぜんで口を拭ぬぐったなり、すぐ故もとの通り横になった。
「まだ食気しょっきが出ませんね」
「少しも旨うまくない」
細君は帯の間から一枚の名刺を出した。
- 147 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:22:55.83 0.net
- 「こういう人が貴方あなたの寐ねていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」
健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。
「何時いつ来たのかい」
「たしか一昨日おとといでしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が下さがらないから、わざと黙っていました」
「まるで知らない人だがな」
「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」
- 148 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:23:05.06 0.net
- 細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を被かぶらない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。
「御前島田の事を知ってるのかい」
「あの長い手紙が御常おつねさんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」
健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確ふたしかであった。
「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」
健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。
- 149 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:23:22.10 0.net
- そうね。もう七年位になるでしょう。私あたしたちがまだ千本通せんぼんどおりにいた時分ですから」
千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた或ある都会の外れにある町の名であった。
細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄おあにいさんからも聞いて知ってますわ」といった。
「兄がどんな事をいったかい」
「どんな事って、――なんでも余あんまり善くない人だっていう話じゃありませんか」
細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。
- 150 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:23:31.87 0.net
- 「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒おなおりになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」
健三は仕方なしにまた眼を開あいた。
「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極きまってるさ」
「しかしあなた御会いになって? もし来たら」
実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。
「御会いにならない方が好いいでしょう」
「会っても好い。何も怖い事はないんだから」
細君には夫の言葉が、また例の我がだと取れた。健三はそれを厭いやだけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。
- 151 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:23:42.07 0.net
- 十二
健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を曝さらしたり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。
健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉よしだとらきちという見覚みおぼえのある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」と訊たずねた。
- 152 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:23:52.38 0.net
- 「会うから座敷へ通してくれ」
細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇ちゅうちょしていた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。
吉田というのは、でっぷり肥ふとった、かっぷくの好よい、四十恰好がっこうの男であった。縞しまの羽織はおりを着て、その頃まで流行はやった白縮緬しろちりめんの兵児帯へこおびにぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気かたぎの商人あきんどとは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤ごもっとも」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。
健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊きいてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。
- 153 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:02.86 0.net
- 彼はもと高崎たかさきにいた。そうして其所そこにある兵営に出入しゅつにゅうして、糧秣かいばを納めるのが彼の商買しょうばいであった。
「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野しばのの旦那には特別御贔負ごひいきになったものですから」
健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。
「その縁故で島田を御承知なんですね」
- 154 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:12.10 0.net
- 二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒たいしゅで家計があまり裕ゆたかでないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知たよりに違なかったが、同時に大した興味を惹ひく話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの悪感あっかんも抱いだいていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然厭いやな心持がした。
吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。
「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に騙だまされてみんな損すっちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何なんかするもんですからな」
- 155 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:22.97 0.net
- 「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張よくばるからじゃありませんか」
たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々若干なにがしか貢みついで遣やってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。
正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは零ゼロだという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも下手したでに出る手段を主眼としているらしく見えた。不穏の言葉は無論、強請ゆすりがましい様子は噫おくびにも出さなかった。
- 156 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:33.84 0.net
- 十三
これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちで暗あんに彼の帰るのを予期した。しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。そうして自然天然話頭わとうをまた島田の身の上に戻して来た。
「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの御交際おつきあいは願えないものでしょうか」
健三はちょっと返答に窮した。仕方なしに黙って二人の間に置かれた烟草盆タバコぼんを眺めていた。彼の頭のなかには、重たそうに毛繻子けじゅすの洋傘こうもりをさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪けんおの情も禁ずる事が出来なかった。両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。
- 157 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:47.77 0.net
- 「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」
吉田の様子はいよいよ丁寧になった。どう考えても交際つきあうのは厭いやでならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。彼は厭でも正しい方に従おうと思い極きわめた。
「そういう訳なら宜よろしゅう御座います。承知の旨むねを向むこうへ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それから私わたしの今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉いしゃを与えるなんて事は六むずかしいのですが……」
- 158 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:24:55.74 0.net
- 「するとまあただ御出入おでいりをさせて頂くという訳になりますな」
健三には御出入という言葉を聞くのが辛つらかった。そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。
「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」
- 159 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:25:05.10 0.net
- 吉田は自分の役目が漸ようやく済んだという顔付をしてこういった後あと、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。
健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取はかどらなかった。
其所そこへ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って引込ひっこんだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。
- 160 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:25:16.81 0.net
- 平生へいぜいよりは遅くなって漸く夕食ゆうめしの食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。
「先刻さっき来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が訊きいた。
「元高崎で陸軍の用達ようたしか何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。
問答は固もとよりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。
「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」
- 161 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 06:25:26.25 0.net
- 「まあそうだ」
「それで貴方あなたどうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」
「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」
二人は腹の中で、自分らの家うちの経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡すべてを賄まかなって行く細君に取っても、少しも裕ゆたかなものとはいわれなかった。
- 162 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 08:35:48.78 0.net
- 【悲報】石原伸晃、街頭演説で通行人から全スルーされる神動画を自ら公開
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1635254163/
- 163 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 08:37:18.36 0.net
- 秋田県由利本荘市は、新型コロナウイルスのワクチン接種を
25日に受けた60代の女性が、集団接種会場のトイレで死亡
していたと発表した。
女性は25日午後2時すぎ、ナイスアリーナで1回目のワクチン接種
を受け、15分の待機後、2回目の予約をし、その後トイレに行った
とみられている。基礎疾患はなかったという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a0ca58ef0a482426f28b101b1f136df04299a64
- 164 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 08:37:55.50 0.net
- アベノマスク、1億4000万枚のうち8200万枚(約115億円分)が倉庫に保管されたまま-保管費用約6億円に
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635289531/
- 165 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 09:35:49.98 0.net
- 伊豆の老舗旅館を買いあさる中国資本
https://sankei.com/article/20211026-Y45RQQ5YOJLOBH5F2K2K45O4R4/
- 166 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 10:53:16.92 0.net
- 自民の大失言集
「セクハラという罪はない」
「大地震が東北でよかった」
「防衛省自衛隊として投票をお願いする」
「責任は取ればいいというものではない」
「LGBTに生産性は無い」
「女性がいる会議は長い」
「スマホは日本が発明した」
「温暖化で北海道の米はうまくなった」←new
- 167 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:09:47.74 0.net
- 十四
健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ訊ききたい事が残っていた。
「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」
「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩けんかをする訳にも行かないんだから」
「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」
「来ても構わないさ」
「でも厭いやですわ、蒼蠅うるさくって」
- 168 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:09:58.78 0.net
- 健三は細君が次の間で先刻さっきの会話を残らず聴いていたものと察した。
「御前聴いてたんだろう、悉皆すっかり」
細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。
「じゃそれで好いいじゃないか」
健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども表向おもてむき夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。事々ことごとについて出て来る権柄けんぺいずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。何故なぜもう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆ぎりょうも自分に充分具えていないという事実には全く無頓着むとんじゃくであった。
「あなた島田と交際つきあっても好いと受合っていらしったようですね」
「ああ」
健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも此所ここまで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気いやきがさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、益ますます彼を権柄ずくにしがちであった。
- 169 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:10:12.61 0.net
- 「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己おれ一人で極きめたって」
「そりゃ私わたくしに対して何も構って頂かなくっても宜よござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」
学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を惹ひかなければならないような事をいい出した。
「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際おつきあいいになっちゃあ」
「御父さまって己おれのおやじかい」
「無論貴方あなたの御父さまですわ」
「己のおやじはとうに死んだじゃないか」
- 170 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:10:24.97 0.net
- 「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後こうご一切付合つきあいをしちゃならないって仰おっしゃったそうじゃありませんか」
健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の籠こもった優しい記憶を有もっていなかった。その上絶交云々うんぬんについても、そう厳重にいい渡された覚おぼえはなかった。
「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」
「貴方じゃありません。御兄おあにいさんに伺ったんです」
細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。
「おやじは阿爺おやじ、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」
こういい切った健三は、腹の中でその交際つきあいが厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒いたずらに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。
- 171 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:10:34.67 0.net
- 十五
健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵こしらえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着とんじゃくしなかった。彼の上着には腰のあたりに釦ボタンが二つ並んでいて、胸は開あいたままであった。霜降の羅紗ラシャも硬くごわごわして、極めて手触てざわりが粗あらかった。ことに洋袴ズボンは薄茶色に竪溝たてみぞの通った調馬師でなければ穿はかないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底なべぞこのような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾ずきんのように被かぶるのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席よせへ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫なでまわして見た事もあった。
- 172 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:10:47.21 0.net
- その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵むしゃえ、錦絵にしきえ、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体からだにあう緋縅ひおどしの鎧よろいと竜頭たつがしらの兜かぶとさえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙きんがみで拵えた采配さいはいを振り舞わした。
彼はまた子供の差す位な短かい脇差わきざしの所有者であった。その脇差の目貫めぬきは、鼠が赤い唐辛子とうがらしを引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚さんごで拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は何時いつも抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。
彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑こしみのを着けた船頭がいて網を打った。いなだの鰡ぼらだのが水際まで来て跳ね躍おどる様が小さな彼の眼に白金しろがねのような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕こいで行って、海※(「魚+喞のつくり」、第3水準1-94-46)かいずというものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐ねてしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚ふぐの網にかかった時であった。彼は杉箸すぎばしで河豚の腹をかんから太鼓だいこのように叩たたいて、その膨ふくれたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……
- 173 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:02.39 0.net
- 吉田と会見した後あとの健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧わいて来る事があった。凡すべてそれらの記憶は、断片的な割に鮮明あざやかに彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕れいさいの事実を手繰たぐり寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自おのおののうちには必ず帽子を披かぶらない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故なぜ自分の有もっていたその頃の心が思い出せないのだろう」
- 174 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:11.97 0.net
- これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合じょうあいが欠けていたのかも知れない」
健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。
彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情に脆もろい女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。
- 175 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:23.90 0.net
- 十六
待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。
健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好いいか解らなかった。思慮なしにそれらを極きめてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と膝ひざを突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。
島田はかねて横風おうふうだという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷きずつけられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。
しかし島田は思ったよりも鄭寧ていねいであった。普通初見しょけんの人が挨拶あいさつに用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてにはで、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から健坊けんぼう々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭いやに感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。
- 176 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:33.15 0.net
- 「しかしこの調子なら好いいだろう」
健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと力つとめた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども殆ほとんど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。
健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。
「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」
- 177 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:43.48 0.net
- 「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」
高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。
「はあ」
「そら知ってるでしょう。あの芝しばの」
島田の後妻の親類が芝にあって、其所そこの家うちは何でも神主かんぬしか坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。しかしその親類の人には、要ようさんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、他ほかのものに顔を合せた記憶はまるでなかった。
「芝というと、たしか御藤おふじさんの妹さんに当る方かたの御嫁にいらしった所でしたね」
- 178 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:11:53.56 0.net
- 「いえ姉ですよ。妹ではないんです」
「はあ」
「要三ようぞうだけは死にましたが、あとの姉妹きょうだいはみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」
――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。
「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父おじさん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は宅うちに手入ていれをするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所ここの前を通ります」
健三は昔この男につれられて、池いけの端はたの本屋で法帖ほうじょうを買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例ためしのないこの人は、その時も僅わずか五厘の釣銭つりを取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌とうきしょうの折手本おりでほんを抱えて傍そばに佇立たたずんでいる彼に取ってはその態度が如何いかにも見苦しくまた不愉快であった。
「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」
健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩もらした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。
- 179 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:12:06.95 0.net
- 十七
「でも御蔭さまで、本を遺のこして行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣やって行けるんです」
島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引じびきか教科書だろうとは推察したが、別に訊きいて見る気にもならなかった。
「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲もうけるには本に限るような事をいった。
- 180 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:12:18.12 0.net
- 「御祝儀は済んだが、――が死んだ時後あとが女だけだもんだから、実は私わたしが本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと極きめて、向うから収めさせるようにしたんです」
「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金もとでが要いるようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの好いい訳になるんだから、無学のものはとても敵かないませんな」
「結局得ですよ」
彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら相槌あいづちを打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。手持無沙汰てもちぶさたな彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。
その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒あおぐろい葉を垣根の傍そばに茂らしている外ほかに、木らしい木は殆ほとんどなかった。箒ほうきに馴染なずまない地面は小石交まじりに凸凹でこぼこしていた。
- 181 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:12:28.32 0.net
- 「こちらの先生も一つ御儲おもうけになったら如何いかがです」
吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって跋ばつを合せた。
「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」
これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は厭いやな顔をした。しかし老人は一向そんな事に頓着とんじゃくする様子も見えなかった。迷惑そうな健三の体ていを見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の烟草入タバコいれを腰へ差して、「では今日こんにちはこれで御暇おいとまを致す事にしましょうか」と催促したので、彼は漸ようやく帰る気になったらしかった。
二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び座蒲団ざぶとんの上に坐ったまま、腕組をして考えた。
- 182 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:12:40.62 0.net
- 「一体何のために来たのだろう。これじゃ他ひとを厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向むこうは面白いのだろうか」
彼の前には先刻さっき島田の持って来た手土産てみやげがそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。
何にもいわずに茶碗ちゃわんだの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。
「あなたまだ其処そこに坐っていらっしゃるんですか」
- 183 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:12:48.94 0.net
- 「いやもう立っても好い」
健三はすぐ立上たちあがろうとした。
「あの人たちはまた来るんでしょうか」
「来るかも知れない」
彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を奪とり合う子供の声がした。凡すべてがやがて静しずかになったと思う頃、黄昏たそがれの空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。
- 184 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:00.71 0.net
- 十八
雨の降る日が幾日いくかも続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日欝陶うっとうしい思いをして、縫針ぬいはりにばかり気をとられていた細君は、縁鼻えんばなへ出てこの蒼あおい空を見上げた。それから急に箪笥たんすの抽斗ひきだしを開けた。
彼女が服装を改ためて夫の顔を覗のぞきに来た時、健三は頬杖ほおづえを突いたまま盆槍ぼんやり汚ない庭を眺めていた。
「あなた何を考えていらっしゃるの」
健三はちょっと振り返って細君の余所行姿よそゆきすがたを見た。その刹那せつなに爛熟らんじゅくした彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。
- 185 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:11.83 0.net
- 「どこかへ行くのかい」
「ええ」
細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗わびしい我に帰った。
「子供は」
「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜やかましくって御蒼蠅おうるさいでしょうから」
その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。
細君の帰って来たのは、彼が夕飯ゆうめしを済ましてまた書斎へ引き取った後あとなので、もう灯あかりが点ついてから一、二時間経っていた。
「ただ今」
- 186 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:21.50 0.net
- 遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌ぶあいきょうが、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介なかだちとなった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。
話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好いい夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐ちんぷ過ぎた。
二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に上のぼせた。
「此間こないだ宅うちへ行ったら、門司もじの叔父おじに会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」
門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で遣やって来て、急に入用いりようが出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少さしょうながら用立てたら、立派に印紙を貼はった証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。
「今何をしているのかね」
- 187 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:30.93 0.net
- 「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内上あがるつもりだっていってました」
健三にはその後を訊きく必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父を旨うまく説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を捲まき上げたのである。
健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は其所そこで切れてしまわなかった。
「あの日はあまり好いい御天気だったから、久しぶりで御兄おあにいさんの所へも廻って来ました」
「そうか」
細君の里は小石川台町こいしかわだいまちで、健三の兄の家うちは市ヶ谷薬王寺前いちがややくおうじまえだから、細君の訪問は大した迂回まわりみちでもなかった。
- 188 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:42.09 0.net
- 十九
「御兄おあにいさんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」
細君の顔には多少諷諫ふうかんの意が現われていた。
「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前やくおうじまえへ廻ったのかい」
「またそんな皮肉を仰おっしゃる。あなたはどうしてそう他ひとのする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾わたくしあんまり御無沙汰ごぶさたをして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」
彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際つきあいの義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。
- 189 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:13:53.42 0.net
- 「御兄おあにいさんは貴夫あなたのために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と交際つきあいだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」
「面倒ってどんな面倒を指すのかな」
「そりゃ起って見なければ、御兄おあにいさんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌ろくな事はないと思っていらっしゃるんでしょう」
碌な事があろうとは健三にも思えなかった。
「しかし義理が悪いからね」
「だって御金を遣やって縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」
手切の金は昔し養育料の名前の下もとに、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。
- 190 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:14:02.60 0.net
- 「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の宅うちへ引き取られていらしったんでしょう」
いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然はっきり分らなかった。
「三つから七つまでですって。御兄おあにいさんがそう御仰おっしゃいましたよ」
「そうかしら」
健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡めがねで見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。
「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」
- 191 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:14:12.03 0.net
- 彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。
「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」
「しかし八やつッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」
細君は口を噤つぐんだ。それが何故なぜだか健三には淋さびしかった。
「己おれも実は面白くないんだよ」
- 192 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 11:14:22.96 0.net
- 「じゃ御止およしになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方むこうは」
「それが己には些ちっとも解らない。向むこうでもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」
「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」
「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」
「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」
細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。其所そこを既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、微かすかな不安がまた新らしく萌きざした。
- 193 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:38:57.87 0.net
- 二十
その不安は多少彼の仕事の上に即ついて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋うずめてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。
細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。
自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委ゆだねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末げつまつに細君の手から支出の明細書めいさいがきを突き付けられた例ためしがなかった。
- 194 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:39:08.54 0.net
- 「まあどうにかしているんだろう」
彼は常にこう考えた。それで自分に金の要いる時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上のぼる事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑うたぐった。
「月々の勘定はちゃんとして己おれに見せなければいけないぜ」
細君は厭いやな顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。
「ええ」
彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末つきずえが来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好いい時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼せまる事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴さかなをどれだけ食くったものか、または米がどれほど要いったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。
- 195 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:39:33.35 0.net
- この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。
「何か変った事でもあるのかい」
「どうかして頂かないと……」
細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。
「不思議だね。それで能よく今日きょうまで遣やって来られたものだね」
「実は毎月まいげつ余らないんです」
余ろうとは健三にも思えなかった。先月末すえに旧ふるい友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った覚おぼえもあった。
「しかしかつかつ位には行きそうなものだがな」
- 196 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:39:50.09 0.net
- 「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」
細君はいい悪にくそうに、箪笥たんすの抽匣ひきだしにしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末てんまつを話した。
彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。他ひとに知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋さびしい印象を刻み付けた。こうした聯想れんそうが今の彼を特更ことさらに佗わびしく思わせた。
「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」
彼自身いまだ質屋の暖簾のれんを潜くぐった事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入でいりするはずがないと考えた。
「いいえ頼んだんです」
「誰に」
「山野のうちの御婆おばあさんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」
健三はその先を訊きかなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵こしらえてやらないのに、細君が自分の宅うちから持ってきたものを質に入れて、家計の足たしにしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。
- 197 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:00.82 0.net
- 二十一
健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。
彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋うちかくしから出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所でどころを知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。
その時細君は別に嬉うれしい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充みたす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。
- 198 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:10.60 0.net
- 細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。
「あなたの着物を拵こしらえようと思うんですが、これはどうでしょう」
細君の顔は晴々はればれしく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが下手へたな技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の愛嬌あいきょうに誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立った後あとで、彼は何故なぜ自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて益ますます不愉快になった。
- 199 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:22.99 0.net
- 細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。
「己おれは決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の有もっている温かい情愛を堰せき止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」
「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」
- 200 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:33.15 0.net
- 「御前はしょっちゅうしているじゃないか」
細君は恨めしそうに健三を見た。健三の論理ロジックはまるで細君に通じなかった。
「貴夫あなたの神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に私わたくしを観察して下さらないのでしょう」
- 201 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:43.11 0.net
- 健三の心には細君の言葉に耳を傾かたぶける余裕がなかった。彼は自分に不自然な冷ひややかさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。
「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」
二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女なんにょのような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。
- 202 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:40:54.28 0.net
- 健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭いとった。無意味に暇を潰つぶすという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かし終おおせる、またし終おおせなければならないと考える男であった。
彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。
或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へ上あがって、細君に扶たすけられながら洋服を和服に改めた。
- 203 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:41:07.67 0.net
- 二十二
彼が火鉢ひばちの傍そばに坐すわって、烟草タバコを一本吹かしていると、間もなく夕飯ゆうめしの膳ぜんが彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。
「上あがったのかい」
細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を悟さとった。
「あの人ですか。――でも御留守でしたから」
細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に障さわる事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。
「上げなかったのかい」
- 204 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:41:17.47 0.net
- 「ええ。ただ玄関でちょっと」
「何とかいっていたかい」
「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰ごぶさたをして済みませんって」
済みませんという言葉が一種の嘲弄ちょうろうのように健三の耳に響いた。
- 205 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:41:28.67 0.net
- 「旅行なんぞするのかな、田舎いなかに用のある身体からだとも思えないが。御前にその行った先を話したかい」
「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫おぬいさんて人の宅うちなんでしょう」
御縫さんの嫁かたづいた柴野しばのという男には健三もその昔会った覚おぼえがあった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺の或ある都会であった。
「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」
健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間まを置いたあとでこんな問といを掛けた。
- 206 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 13:41:44.31 0.net
- 「能よく知ってるね」
「何時いつか御兄おあにいさんから伺いましたよ」
健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立めはなだちからいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした恰好かっこうの好いい女で、顔は面長おもながの色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛まつげの多い切長きれながのその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜くぐった記憶を有もっていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢ながひばちの猫板ねこいたの上にある洋盃コップから冷酒ひやざけをぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢びんを撫なでつけていた。彼はまた自分の分として取り配わけられた握にぎり鮨すしをしきりに皿の中から撮つまんで食べた。……
「御縫さんて人はよっぽど容色きりょうが好いんですか」
「何故なぜ」
「だって貴夫あなたの御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」
なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家うちへ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝どぶに掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭であいがしらの健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙ドイツ語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚よって待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯としからいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪こうおも有もたなかった。それから羞恥はにかみに似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球ゴムだまのように、かえって女から弾はじき飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他ほかに面倒のあるなしを差措さしおいて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。
- 207 :Ms.名無しさん:2021/10/27(水) 16:39:27.46 0.net
- 【自民党】政府、『所得倍増』は所得の倍増ではないと閣議決定 ★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635295618/
- 208 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:41:43.25 0.net
- 二十三
「貴夫あなたどうしてその御縫さんて人を御貰おもらいにならなかったの」
健三は膳ぜんの上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕おどろかされた人のように。
「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己おれはまだ子供だったしね」
「あの人の本当の子じゃないんでしょう」
「無論さ。御縫さんは御藤おふじさんの連れっ子だもの」
御藤さんというのは島田の後妻の名であった。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」
「どうなってるか判わからないじゃないか、なって見なければ」
「でも殊ことによると、幸福かも知れませんわね。その方が」
- 209 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:41:51.26 0.net
- 「そうかも知れない」
健三は少し忌々いまいましくなった。細君はそれぎり口を噤つぐんだ。
「何故なぜそんな事を訊きくのだい。詰らない」
細君は窘たしなめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。
「どうせ私わたくしは始めっから御気に入らないんだから……」
健三は箸はしを放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして其所そこに溜たまっている雲脂ふけをごしごし落し始めた。
二人はそれなり別々の室へやで別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶あいさつに来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供を寐ねかした後で、昼の残りの縫物を始めた。
御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた後あとの事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。
その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入はいって来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の傍そばに腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。
「あなたその端書は比田ひださんから来たんですよ」
健三は漸ようやく書物から眼を放した。
- 210 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:01.03 0.net
- 「あの人の事で何か用事が出来たんですって」
なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧ていねいに詫わびてあった。
「どうしたんでしょう」
「まるで判明わからないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」
「みんなで交際つきあっちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄おあにいさんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所そこに」
端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。
兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有もっていたらしかったのである。
「健ちゃんの宅うちとこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家うちへ行かれるんだけれども」
御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。
- 211 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:13.73 0.net
- 「だって御縫さんが今嫁かたづいてる先は元からの許嫁いいなずけなんでしょう」
「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」
「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」
「そんな事が判明わかるもんか」
「じゃ御兄おあにいさんの方はどうなの」
「それも判明らんさ」
健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。
- 212 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:23.88 0.net
- 二十四
健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津つの守坂かみざかへ出掛けた。
彼は時間に対して頗すこぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐ねるまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。
彼は途々みちみち自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。
彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里ヒステリーは、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。
- 213 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:34.67 0.net
- 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纏まとめて考えなければならなかった。凡すべてが頽廃たいはいの影であり凋落ちょうらくの色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。
姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。
「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶あいさつした。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。
「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣やり切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方あなたと御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」
- 214 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:46.17 0.net
- 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先つとめさきの近所に囲っているという噂うわさはまるで嘘うそのようであった。
古風な言葉で形容すれば、ただ算筆さんぴつに達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧わいた。
「姉さんは」
「それに御夏おなつがまた例の喘息ぜんそくでね」
姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括くくり枕まくらに倚よりかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗のぞきに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。
「どうです」
彼女は頭を真直まっすぐに上る事さえ叶かなわないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉のどに障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽せきの発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍はたで見ていても気が退ひけた。
- 215 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:42:53.54 0.net
- 「苦しそうだな」
彼は独り言のようにこう囁つぶやいて、眉まゆを顰ひそめた。
見馴れない四十恰好がっこうの女が、姉の後うしろから脊中せなかを撫さすっている傍に、一本の杉箸すぎばしを添えた水飴みずあめの入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。
「どうも一昨日おとといからね、あなた」
姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前まのあたりこの猛烈な咳嗽せきと消え入るような呼息遣いきづかいとを見ていると、病気に罹かかった当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。
「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私わたしはあっちへ行くから」
発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。
- 216 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:02.28 0.net
- 二十五
比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然じねんと末枯すがれて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫ごうも感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲どうせいして来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例ためしのない男であった。
健三の這入はいって来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁てつぶちの眼鏡めがねを外した。
「今ちょっと貴方あなたが茶の間へ行っていらしった間に、下くだらないものを読み出したんです」
比田と読書とくしょ――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。
- 217 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:12.68 0.net
- 「何ですか、それは」
「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」
比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談じょうざんきだん』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳せき込んでいるのを、まるで余所事よそごとのように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何いかにも能よくこの男の性質をあらわしていた。
「私わたしゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」
彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山ゆあさじょうざんを講釈師と間違えるほどでもなかった。
「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴きょくていばきんとどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝はっけんでん』も持っているんだが」
なるほど彼は桐きりの本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗きれいに重ね込んでいた。
- 218 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:22.07 0.net
- 「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」
「いいえ」
「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋にほんばしや桜田さくらだがすっかり分るんだからね」
彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙みのがみ版の浅黄あさぎの表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵くらから引き摺ずり出して来て、頁ページから頁へと丹念に挿絵さしえを拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町するがちょうという所に描かいてある越後屋えちごやの暖簾のれんと富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点しょうてんとなった。
「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て来こまい」
健三は心のうちでこう考えた。ただ焦燥あせりに焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。
- 219 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:29.94 0.net
- 兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を繋つなぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら何時いつまで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず綴とじて持っていた。
本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。
「もう来そうなもんですね、長ちょうさんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと迎むかいに遣やりましょうか」
この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。
- 220 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:38.70 0.net
- 二十六
やがて門口かどぐちの格子こうしを開けて、沓脱くつぬぎへ下駄げたを脱ぐ音がした。
「やっと来たようですぜ」と比田ひだがいった。
しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入はいった。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時いつから」
- 221 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:43:47.33 0.net
- 短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐すわっている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻さっきから待ってるんだ」
性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息ぜんそくなどはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何いかにもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」
- 222 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:44:18.79 0.net
- 長太郎ちょうたろうも少し癪しゃくだと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯おもゆでも少し飲んだら好いいでしょう。厭いや? でもそう何にも食べなくっちゃ身体からだが疲れるだけだから」
姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中せなかを撫さすっていた女が一口ごとに適宜な挨拶あいさつをした。平生へいぜい健三よりは親しくその宅うちへ出入でいりする兄は、見馴みなれないこの女とも近付ちかづきと見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。
比田はぷりっと膨ふくれていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦こすった。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。
- 223 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:44:28.39 0.net
- 「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」
比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
「何ですあの人は」
「そら梳手すきての御勢おせいですよ。昔し健ちゃんの遊あすびに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」
「へええ」
健三には比田の家うちでそんな女に会った覚おぼえが全くなかった。
- 224 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:44:37.22 0.net
- 「知りませんね」
「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌しゃべるのが病なんだから」
よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。
姉はまた咳せき出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。
「何だか先刻さっきより劇はげしいようですね」
少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。
- 225 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 06:44:48.54 0.net
- 「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚びっくりしますがね。私わたしなんざあもう年来馴なれっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日こんにちまで一所に住んでる事は出来ませんからね」
健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里ヒステリーの発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。
姉の咳嗽せきが一収ひとおさまり収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。
「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎あいにく珍らしく客があったもんだから」
「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」
比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。
- 226 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 08:56:43.47 0.net
- 岸田が安倍が枝野が…「野党共闘」で激戦の茨城6区に大物相次ぐ
2021.10.28 05:51
https://www.sankeibiz.jp/macro/news/211028/mca2110280551002-n1.htm
- 227 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:04:31.39 0.net
- Dappi疑惑は入口か、元宿仁・自民党事務総長と闇献金ロンダリング
2021.10.28 05:55
https://biz-journal.jp/2021/10/post_259674.html
- 228 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:40:56.79 0.net
- 二十七
三人はすぐ用談に取り掛った。比田ひだが最初に口を開ひらいた。
彼はちょっとした相談事にも仔細しさいぶる男であった。そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃ好いいんだ」と皆みんなが蔭かげで笑っていた。
「時に長さんどうしたもんだろう」
「そう」
「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、私わたしゃ」
- 229 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:41:07.73 0.net
- そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」
「だから私も突っ跳ぱねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一返ぺん生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから御止およしなさいって。だけど大将いくら何といっても、坐すわり込んで動いごかないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私の宅うちへのんこのしゃあで遣やって来るのも、実はというと、やっぱり昔し○れこの関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」
「またただで貸す風でもなしね」
「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より阿漕あこぎなんだから」
「来た時にそういって遣れば好いのに」
比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。ことに比田は其所そこに健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。健三は好加減いいかげんに何とか口を出さなければならなくなった。
「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」
- 230 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:41:23.52 0.net
- 「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌しゃべって済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末てんまつを御話しする事にしようか」
「ええどうぞ」
話しは意外にも単純であった。――ある日島田が突然比田の所へ来た。自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由の下もとに、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。比田もその要求の突飛とっぴなのに驚ろいて最初は拒絶した。しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。――ただこれだけなのである。
「少し変ですねえ」
健三にはどう考えても変としか思われなかった。
「変だよ」
兄も同じ意見を言葉にあらわした。
- 231 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:41:33.75 0.net
- 「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」
「慾よくでやきが廻りゃしないか」
比田も兄も可笑おかしそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。しかしどこをどう思い出しても、其所そこからこんな結果が生れて来きようとは考えられなかった。
「どうしても変ですね」
彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。それから漸やっと気を換えてこういった。
「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」
- 232 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:41:43.35 0.net
- 二十八
健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。
「しかし一旦は貴方あなたの御耳まで入れて置かないと、私わたくしの落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目まじめなものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。
「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」
「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。
「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私わたしだってその場ですぐ断っちまいまさあ」
- 233 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:41:59.14 0.net
- こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所そこへ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。
「いえ何御礼なんぞ御仰おっしゃられると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても宅うちへも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。
彼は其所にある塩煎餅しおせんべいを取ってやたらにぼりぼり噛かんだ。そうしてその相間あいま々々には大きな湯呑ゆのみへ茶を何杯も注つぎ易かえて飲んだ。
「相変らず能よく食べますね。今でも鰻飯うなぎめしを二つ位遣やるんでしょう」
「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦そばを五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」
比田はその頃から食気くいけの強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを賞ほめられたがって、時機さえあれば始終叩たたいて見せた。
- 234 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:09.74 0.net
- 健三は昔しこの人に連れられて寄席よせなどに行った帰りに、能く二人して屋台店やたいみせの暖簾のれんを潜くぐって、鮨すしや天麩羅てんぷらの立食たちぐいをした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどりとかいう三味線しゃみせんの手を教えたり、またはさばを読むという隠語などを習い覚えさせたりした。
「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍軽井沢かるいざわで蕎麦を食って御覧なさい、騙だまされたと思って。汽車の停とまってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって旨うもうがすぜ」
彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。
「それよか、善光寺ぜんこうじの境内けいだいに元祖藤八拳とうはちけん指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」
「這入はいって一つ遣って来やしないか」
「だって束修そくしゅうが要いるんだからね、君」
- 235 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:17.11 0.net
- こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。
「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所あすこに、ちんちらでんき皿持もてこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊きいた。
先刻さっきから落付おちついていた姉が、また劇はげしく咳せき出した時、彼は漸ようやく口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃そろえて、黒い顔をごしごし擦こすった。
兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗のぞきに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐すわっていた後で、別々に比田の家を出た。
- 236 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:26.12 0.net
- 二十九
健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生へいぜいの彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。
彼の頭には願仁坊主がんにんぼうずに似た比田の毬栗頭いがぐりあたまが浮いたり沈んだりした。猫のように顋あごの詰った姉の息苦しく喘あえいでいる姿が薄暗く見えた。血の気の竭つきかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込ひっこんだりした。
昔しこの世界に人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の臭においを嗅かいだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の厭いやらしさとを齎もたらす混合物であった。
彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所そこには時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有もった青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍おどらした。
或日彼はその青年の一人に誘われて、池いけの端はたを散歩した帰りに、広小路ひろこうじから切通きりどおしへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番けんばんの前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。
- 237 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:37.40 0.net
- 彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃ひらめいた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年余あまりも牢屋ろうやの中で暗い月日を送った後あと、漸やっと世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。
「さぞ辛つらいだろう」
容色きりょうを生命とする女の身になったら、殆ほとんど堪えられない淋さびしみが其所そこにあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない伴つれの青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。
「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」
彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる性質たちの彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。
「しかし他事ひとごとじゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の裡うちで暮したのだから」
青年は驚ろいた顔をした。
- 238 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:46.16 0.net
- 「牢獄とは何です」
「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」
青年は答えなかった。
「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、今日こんにちの僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」
健三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的じちょうてきであった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって前さきへ進んで行くのが、この時の彼には徒いたずらに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来きたさないように見えた。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。
- 239 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:42:54.75 0.net
- 三十
家うちへ帰ると細君は奥の六畳に手枕てまくらをしたなり寐ねていた。健三はその傍そばに散らばっている赤い片端きれはしだの物指ものさしだの針箱だのを見て、またかという顔をした。
細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを貪むさぼらないと、頭が痺しびれたようになって、その日一日何事をしても判然はっきりしないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言こごとをいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。
「不貞寐ふてねをするんだ」
彼は自分の小言が、歇私的里性ヒステリーしょうの細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当つらあてのために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁つぶやきを口の内で洩もらす事がよくあった。
「何故なぜ夜早く寐ないんだ」
- 240 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:03.98 0.net
- 彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が冴さえて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。
健三はこうした細君の態度を悪にくんだ。同時に彼女の歇私的里ヒステリーを恐れた。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。
彼は其所そこに立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。肱ひじの上に載せられたその横顔はむしろ蒼白あおしろかった。彼は黙って立っていた。御住おすみという名前さえ呼ばなかった。
彼はふと眼を転じて、あらわな白い腕かいなの傍に放り出された一束ひとたばの書物かきものに気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏ひとまとめに括くくったものとも見えなかった。惣体そうたいが茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん撚よりで丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、殆ほとんど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。
彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白あおじろい細君の額ひたいの上に注いだ。彼女の頬ほおは滑り落ちるようにこけていた。
- 241 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:13.15 0.net
- 「まあ御痩おやせなすった事」
久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は何故なぜだかこの細君を痩せさせた凡すべての源因が自分一人にあるような心持がした。
彼は書斎に入った。
三十分も経ったと思う頃、門口かどぐちを開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。坐すわっている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがて馳かけ込むように奥へ入った。其所ではまた細君が蒼蠅うるさいといって、彼らを叱しかる声がした。
それからしばらくして細君は先刻さっき自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。
「先ほど御留守に御兄おあにいさんがいらっしゃいましてね」
- 242 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:20.81 0.net
- 健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。
「もう帰ったのかい」
「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上おあがりになりませんでした」
「そうか」
「何でも谷中やなかに御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと仰おっしゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」
「何の用なのかね」
「やっぱりあの人の事なんだそうです」
兄は島田の事で来たのであった。
- 243 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:30.16 0.net
- 三十一
細君は手に持った書付かきつけの束を健三の前に出した。
「これを貴夫あなたに上げてくれと仰おっしゃいました」
健三は怪訝けげんな顔をしてそれを受取った。
「何だい」
「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥ようだんすの抽匣ひきだしの中にしまって置いたのを、今日きょう出して持って来たって仰おっしゃいました」
「そんな書類があったのかしら」
彼は細君から受取った一括ひとくくりの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二寸すんもあったが、風の通らない湿気しっけた所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の痕あとが偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざら撫なでて見た。けれども今更鄭寧ていねいに絡からげたかんじん撚よりの結び目を解ほどいて、一々中を検あらためる気も起らなかった。
「開けて見たって何が出て来るものか」
彼の心はこの一句でよく代表されていた。
- 244 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:37.79 0.net
- 「御父さまが後々のちのちのためにちゃんと一纏ひとまとめにして取って御置おおきになったんですって」
「そうか」
健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。
「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」
「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから己おれのいなくなった後のちに、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄おあにいさんに御渡になったんだそうですよ」
「そうかね、己は知らない」
健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の死目しにめにさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。
彼は漸ようやく書類の結目を解といて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。手続き書と書いたものや、取とり替かわせ一札の事と書いたものや、明治二十一年子ね一月約定金請取やくじょうきんうけとりの証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。その帳面のしまいには、右本日受取うけとり右月賦金は皆済相成候事かいざいあいなりそうろうことと島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと捺おしてあった。
「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」
- 245 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:46.63 0.net
- 「あの人にですか」
細君はその帳面を逆さまに覗のぞき込んでいた。
「〆しめていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時に遣やったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」
書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
「小学校の卒業証書まで入れてある」
その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」
- 246 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 10:43:56.80 0.net
- 「何だか己も忘れてしまった」
「よっぽど古いものね」
証書のうちには賞状も二、三枚交まじっていた。昇のぼり竜と降くだり竜で丸い輪廓りんかくを取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
「書物も貰もらった事があるんだがな」
彼は『勧善訓蒙かんぜんくんもう』だの『輿地誌略よちしりゃく』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅うちへ帰った昔を思い出した。御褒美ごほうびをもらう前の晩夢に見た蒼あおい竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生へいぜいと違って今の健三には甚だ近く見えた。
- 247 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:14:37.23 0.net
- 三十二
細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦いったん下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧ていねいに剥繰はぐって見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」
健三はそのまま外ほかの書付かきつけに手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。
「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明わからないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」
健三の父と島田との懸合かけあいについて必要な下書したがきらしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み下くだした。
- 248 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:14:47.81 0.net
- 「貴夫あなたの御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」
「そんな話は己おれも聞いてはいるが」
「此所ここに書いてありますよ。――同人幼少にて勤向つとめむき相成りがたく当方とうかたへ引き取り五カ年間養育致候縁合そろえんあいを以てと」
細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行まちぶぎょうか何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴ほうふつした。その父から、将軍の鷹狩たかがりに行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着とんじゃくしなかった。
「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣やられたのね。此所にそう書いてありますよ」
健三は因果な自分を自分で憐あわれんだ。平気な細君はその続きを読み出した。
「右健三三歳のみぎり養子に差遣さしつかわし置候処おきそろところ平吉儀妻へいきちぎさい常つねと不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日こんにちまで十四カ年間養育致し、――あとは真赤まっかでごちゃごちゃして読めないわね」
細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。
- 249 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:14:58.94 0.net
- 「何が可笑おかしいんだ」
「だって」
細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく割註わりちゅうのように朱で書いた所を抑えた。
「ちょっと其所そこを読んで御覧なさい」
健三は八の字を寄せながら、その一行を六むずかしそうに読み下した。
「取扱い所勤務中遠山藤とおやまふじと申す後家ごけへ通じ合い候そうろうが事の起り。――何だ下らない」
「しかし本当なんでしょう」
「本当は本当さ」
- 250 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:15:10.24 0.net
- 「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅うちへ御帰りになった訳ね」
「しかし籍を返さないんだ」
「あの人が?」
細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆そそった。
書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形いんぎょうを濫用らんようして金を借り散らした例などが挙げてあった。
いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下くだされ、残金――円は毎月まいげつ三十日限り月賦にて御差入おさしいれのつもり御対談云々うんぬんと長たらしく書いてあった。
「凡すべて変梃へんてこな文句ばかりだね」
「親類取扱人比田寅八ひだとらはちって下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」
健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。
- 251 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:15:22.25 0.net
- 三十三
葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。
「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」
健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩を潰つぶして調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間を他ひとに食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。
彼は兄の置いて行った書類をまた一纏ひとまとめにして、元のかんじん撚よりで括くくろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。
「あんまり古くなって、弱ったのね」
「まさか」
「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫あなた」
「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗ひきだしに投げ込んだなり、今日こんにちまで放って置いたんだから。しかし兄貴も能よくまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」
細君は健三の顔を見て笑い出した。
- 252 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:15:33.59 0.net
- 「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」
「だがさ。能よく紙屑籠かみくずかごの中へ入れてしまわなかったという事さ」
細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢ひばちの抽斗から出して来て、其所そこに置かれた書類を新らしく絡からげた上、それを夫に渡した。
「己おれの方にゃしまって置く所がないよ」
彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には文殻ふみがらとノートがぎっしり詰っていた。空地くうちのあるのは夜具やぐ蒲団ふとんのしまってある一間けんの戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。
「御兄おあにいさんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」
「あの事でかい」
- 253 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:15:42.40 0.net
- 「それもそうですけれども、今日きょう御葬式にいらっしゃる時に、袴はかまが要いるから借してくれって、此所ここで穿はいていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに極きまっていますわ」
健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄から貰もらったべろべろの薄羽織うすばおりを着て友達と一所に池いけの端はたで写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の一人いちにんが健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは誰たれだろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を淋さびしそうに眺めた。その羽織は古い絽ろの紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚披露ひろうに招かれて星ほしが岡おかの茶寮さりょうに行った時も、着るものがないので、袴羽織とも凡すべて兄のを借りて間に合せた事もあった。
彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。今昔こんじゃくの感――そういう在来ありきたりの言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に湧わいた。
「袴位ありそうなものだがね」
- 254 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:15:51.36 0.net
- 「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」
「困るなあ」
「どうせ宅うちにあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで好いいでしょう。毎日使うものじゃなし」
「宅にある間はそれで好いがね」
細君は夫に内所ないしょで自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。
昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。それが彼には辛かった。自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさら情なさけなかった。
- 255 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:01.10 0.net
- 三十四
健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にある或ある大きな局へ勤めていた。その宏壮こうそうな建物のなかに永い間憐あわれな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。
「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」
その建物のなかには何百という人間が日となく夜よとなく烈はげしく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。
「ああ厭いやだ」
- 256 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:11.36 0.net
- 活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。年歯としより早く老けた。年歯より早く干乾ひからびた。そうして色沢いろつやの悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。
「何しろ夜寐ねないんだから、身体からだに障ってね」
彼はよく風邪かぜを引いて咳嗽せきをした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。
実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。翌日あくるひの朝彼はぼんやりして自分の宅うちへ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。
それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。
「今度こんだは少し危険あぶないようだから、誰かに頼んでくれないか」
- 257 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:20.45 0.net
- 改革とか整理とかいう噂うわさのあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその都度つど誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は頬杖ほおづえを突いて考えさせられるばかりであった。
彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日こんにちまで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗しょうこうして行くより外には何の事実も認められなかった。
「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」
健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の派出好はでずきで勉強嫌ぎらいであった昔も眼の前に見えるようであった。三味線しゃみせんを弾ひいたり、一絃琴いちげんきんを習ったり、白玉しらたまを丸めて鍋なべの中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜きりだめで冷したり、凡すべての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。
「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」
- 258 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:29.38 0.net
- これが今の彼の折々他ひとに洩もらす述懐になる位彼は怠け者であった。
兄弟が死に絶えた後あと、自然健三の生家の跡を襲つぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金を済なして、自分は小さな宅うちへ這入はいった。それから其所そこに納まり切らない道具類を売払った。
間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も可愛かあいがっていた惣領そうりょうの娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に罹かかったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなし得うる凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越煩わずらった後で彼女が遂に斃たおれた時、彼の家の箪笥たんすはまるで空になっていた。儀式に要いる袴はかまは無論、ちょっとした紋付の羽織はおりさえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服を貰もらって、それを大事に着て毎日局へ出勤した。
- 259 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:38.96 0.net
- 三十五
二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り袴はかまを返しに来た。
「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」
彼は腰板の上に双方の端はじを折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の見栄坊みえぼうで、ちょっとした包物を持つのも厭いやがった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気あぶらっけもなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓つまんで、それを鄭寧ていねいに折った。
「こりゃ好い袴だね。近頃拵こしらえたの」
「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」
- 260 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:47.96 0.net
- 細君は結婚のときこの袴を着けて勿体もったいらしく坐すわった夫の姿を思いだした。遠い所で極ごく簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗いたんでいないじゃないか」
「滅多に穿はかないんですもの。それでも一人でいるうちに能よくそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私わたくし今でも不思議だと思いますわ」
「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」
二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。
東京からわざわざ彼女を伴つれて来た細君の父は、娘に振袖ふりそでを着せながら、自分は一通りの礼装さえ調ととのえていなかった。セルの単衣ひとえを着流しのままでしまいには胡坐あぐらさえ掻かいた。婆ばあさん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから貰もらうという約束があったので、媒酌人なこうどもその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書ちゅういしょのようなものを読んで見た。それは立派な紙に楷書かいしょで認したためられた厳いかめしいものには違なかったが、中には『東鑑あずまかがみ』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。
「雌蝶めちょうも雄蝶おちょうもあったもんじゃないのよ貴方あなた。だいち御盃おさかずきの縁が欠けているんですもの」
「それで三々九度を遣やったのかね」
- 261 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:16:57.05 0.net
- 「ええ。だから夫婦中ふうふなかがこんなにがたぴしするんでしょう」
兄は苦笑した。
「健三もなかなかの気六きむずかしやだから、御住おすみさんも骨が折れるだろう」
細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う気色けしきも見えなかった。
「もう帰りそうなものですがね」
「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」
兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に這入はいった。其所そこから出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。
「これが要いるんでしょう」
- 262 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:17:06.34 0.net
- 「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」
「ええ見せました」
「何といってたかね」
細君は何とも答えようがなかった。
「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」
「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」
細君は夫から頼まれてその中うちの最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。
- 263 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 15:59:49.33 0.net
- 宮城県の水道事業民営化、仏のヴェオリア・ジェネッツ社が51%株式保有へ 村井知事が民営化を正式申請
https://johosokuhou.com/2021/10/27/52621/
麻生太郎の娘婿はフランスの大手水道会社、ヴェオリア・ジェネッツの役員
- 264 :Ms.名無しさん:2021/10/28(木) 16:00:37.50 0.net
- 【衆院選】山本太郎氏「国会に山本太郎というミサイルを撃ち込みたい。大暴れする。」 ★2 [ボラえもん★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635343765/
- 265 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:27:24.28 0.net
- 三十六
彼が何時いつもの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚より合せた細い糸で括くくられた例の書類は兄の膝の上にあった。
「先達せんだっては」
兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。
「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」
「そうですか」
- 266 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:27:31.45 0.net
- この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。
「御由およしの送籍願が這入ってるんだよ」
御由というのは兄の妻さいの名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所そこから出て来きようとは、二人とも思いがけなかった。
兄は最初の妻さいを離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなく能よく出歩いた。病症が悪阻つわりだから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、容体ようだいが険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らない妻つまに対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。
三度目の妻さいを迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には一言いちごんの相談もしなかった。それがため我がの強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉あねの方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭いやだと主張して、気の弱い兄を苦しめた。
「なんて捌さばけない人だろう」
- 267 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:27:39.42 0.net
- 陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固かたくなにした。習俗コンヴェンションを重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊へいがあった。彼は慚愧ざんきの眼をもって当時の自分を回顧した。
「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら好いいでしょう」
「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」
兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。
「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」
「もう古い事さ」
兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗しくじって、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌もうろくしていなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。
- 268 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:27:49.91 0.net
- 「御幾年おいくつでしたかね」と細君が訊きいた。
「御由ですか。御由は御住おすみさんと一つ違ですよ」
「まだ御若いのね」
兄はそれには何とも答えずに、先刻から膝ひざの上に置いた書類の帯を急に解き始めた。
「まだこんなものが這入はいっていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」
彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子きよこという彼の長女の出産届の下書であった。「右者みぎは本月ほんげつ二十三日午前十一時五十分出生しゅっしょう致し候そろ」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違すじかいに入っていた。
- 269 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:27:57.70 0.net
- 「これも御父おとっさんの手蹟てだ。ねえ」
彼はその一枚の反故ほごを大事らしく健三の方へ向け直して見せた。
「御覧、虫が食ってるよ。尤もっともそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」
結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。
- 270 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:06.10 0.net
- 三十七
兄は過去の人であった。華美はなやかな前途はもう彼の前に横よこたわっていなかった。何かに付けて後うしろを振り返りがちな彼と対坐たいざしている健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。
「淋さむしいな」
健三は兄の道伴みちづれになるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋さむしいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。
兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶あいさつをしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。
「何しろ比田ひだからそういって来たんだから慥たしかだろう」
- 271 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:15.07 0.net
- その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて遣やったとも、健三には判明わからなかった。
「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所そこはつい聴いて来るのを忘れたよ。尤もっともあの後ご一返ぺん姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」
健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質たちであった。ただ他ひとから頭を下げて頼まれるのが嬉うれしくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。
「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」
兄は暗あんに比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事かけあいごとなどに出掛ける人ではなかった。少し気を遣つかわなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り凝じっと辛防しんぼうして独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑おかしくもない代りに何となく気の毒に見えた。
「自分も兄弟だから他ひとから見たらどこか似ているのかも知れない」
こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。
- 272 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:22.96 0.net
- 「姉さんはもう好いいんですか」
問題を変えた彼は、姉の病気について経過を訊たずねた。
「ああ。どうも喘息ぜんそくってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいても直じき癒なおるんだから」
「もう話が出来ますか」
「出来るどころか、なかなか能よく喋舌しゃべってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は御縫おぬいさんの所へ行って、智慧ちえを付けられて来たんだろうっていうんだがね」
「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」
「そう」
- 273 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:31.09 0.net
- 兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。
「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」
健三はまだ黙っていた。
「何しろ淋さむしいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、慾よくで淋しいんだ」
兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ手宛てあてが届く事をどうしてか知っていた。
「何でも金鵄勲章きんしくんしょうの年金か何かを御藤おふじさんが貰もらってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。何なんしろあの位慾張よくばってるんだから」
健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。
- 274 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:39.78 0.net
- 三十八
事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。
彼はその間に時々己おのれの追憶を辿たどるべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。
彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると綺麗きれいに切り棄すてられべきはずの過去が、かえって自分を追掛おっかけて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足は後あとへ歩きがちであった。
- 275 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:48.05 0.net
- そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段はしごだんのついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角まっしかくであった。
不思議な事に、その広い宅うちには人が誰も住んでいなかった。それを淋さみしいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直まっすぐに見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中馳かけ廻った。
- 276 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:28:57.41 0.net
- 彼は時々表二階おもてにかいへ上あがって、細い格子こうしの間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛はらがけを掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路みちを隔てた真ん向うには大きな唐金からかねの仏様があった。その仏様は胡坐あぐらをかいて蓮台れんだいの上に坐すわっていた。太い錫杖しゃくじょうを担いでいた、それから頭に笠かさを被かぶっていた。
健三は時々薄暗い土間どまへ下りて、其所そこからすぐ向側むこうがわの石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀よじ上のぼった。着物の襞ひだへ足を掛けたり、錫杖の柄えへ捉つらまったりして、後うしろから肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路こうじを二十間も折れ曲って這入はいった突き当りにあった。その奥は一面の高藪たかやぶで蔽おおわれていた。
- 277 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:08.27 0.net
- この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹でこぼこがあった。石と石の罅隙すきまからは青草が風に靡なびいた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履穿ぞうりばきのままで、何度かその高い石段を上のぼったり下さがったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立こだちが蒼黒あおぐろく見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地くぼちの左側に、また一軒の萱葺かやぶきがあった。家は表から引込ひっこんでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋かけぢゃやのような雑な構かまえが拵こしらえられて、常には二、三脚の床几しょうぎさえ体ていよく据えてあった。
葭簀よしずの隙すきから覗のぞくと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端りょうはじを支える二本の棚柱たなばしらは池の中に埋まっていた。周囲まわりには躑躅つつじが多かった。中には緋鯉ひごいの影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影まぼろしのように赤くするその魚うおを健三は是非捕りたいと思った。
- 278 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:15.80 0.net
- 或日彼は誰も宅にいない時を見計みはからって、不細工な布袋竹ほていちくの先へ一枚糸を着けて、餌えさと共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿さおを放り出した。そうして翌日あくるひ静かに水面に浮いている一尺しゃく余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……
「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」
彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。
- 279 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:24.28 0.net
- 三十九
それから舞台が急に変った。淋さみしい田舎いなかが突然彼の記憶から消えた。
すると表に櫺子窓れんじまどの付いた小さな宅うちが朧気おぼろげに彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。
- 280 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:32.48 0.net
- 彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。
彼は其所そこで疱瘡ほうそうをした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡ほんほうそうを誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転ころげ廻った。惣身そうしんの肉を所嫌わず掻かき※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしって泣き叫んだ。
- 281 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:43.58 0.net
- 彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか薄縁うすべりだかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂がらんどうの如く淋さびしく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして油揚あぶらげの胴を干瓢かんぴょうで結いわえた稲荷鮨いなりずしの恰好かっこうに似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄てすりにつらまって何度も下を覗のぞいて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。伴つれの大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰つぶれた。するとその潰れた屋根の間から、髭ひげを生やした軍人いくさにんが威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有もっていなかったのである。
彼の頭にはこの芝居と外それ鷹たかとが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い竹藪たけやぶの方へ筋違すじかいに飛んで行った時、誰だか彼の傍そばにいるものが、「外それた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手を叩たたいてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は此所ここでぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明ふぶんみょうであった。従って彼が田圃たんぼや藪やぶばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明わからなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、殆ほとんど人というものの影が働らいていなかった。
- 282 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:29:54.05 0.net
- しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭めいりょうに彼の意識に上のぼったのは、それから間もない後あとの事であった。
その時夫婦は変な宅にいた。門口かどぐちから右へ折れると、他ひとの塀際へいぎわ伝いに石段を三つほど上あがらなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地ろじで、抜けると広くて賑にぎやかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間どまも長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆しらほを懸けた船が何艘なんぞうとなく往いったり来たりした。河岸かしには柵さくを結いった中へ薪まきが一杯積んであった。柵と柵の間にある空地あきちは、だらだら下さがりに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹べんけいがにがよく鋏はさみを出した。
- 283 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 06:30:03.12 0.net
- 島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退のいたものか、それらは凡すべて健三の知識の外ほかに横よこたわる秘密であった。
一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻さいの御常おつねは、化物ばけものと同居でもしているように気味を悪がった。尤もっともこの西洋人は上靴スリッパーを穿はいて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有もっていた。御常が癪しゃくの気味だとかいって蒼あおい顔をして寐ねていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。
- 284 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:58:33.09 0.net
- 四十
西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広い室へやは既に扱所あつかいじょというものに変っていた。
扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや椅子いすが今日こんにちのように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く坐すわるのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から遣やって来るものも、悉ことごとく自分の下駄げたを土間どまへ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ畏かしこまった。
- 285 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:58:45.26 0.net
- 島田はこの扱所の頭かしらであった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当つきあたりに設けられた。其所そこから直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓れんじまどの際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は慥たしかにそれを彼に語り得なかった。
島田の住居すまいと扱所とは、もとより細長い一つ家いえを仕切ったまでの事なので、彼は出勤しっきんといわず退出たいしつといわず、少なからぬ便宜を有もっていた。彼には天気の好よい時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫おっくうを省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅うちへ帰った。
- 286 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:58:55.11 0.net
- こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱すずりばこの中にある朱墨しゅずみを弄いじったり、小刀の鞘さやを払って見たり、他ひとに蒼蠅うるさがられるような悪戯いたずらを続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。
島田は吝嗇りんしょくな男であった。妻さいの御常は島田よりもなお吝嗇であった。
「爪つめに火を点ともすってえのは、あの事だね」
- 287 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:59:05.15 0.net
- 彼が実家に帰ってから後のち、こんな評が時々彼の耳に入いった。しかし当時の彼は、御常が長火鉢ながひばちの傍そばへ坐って、下女げじょに味噌汁おつけをよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。
「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀かわいそうだ」
彼の実家のものは苦笑した。
- 288 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:59:18.64 0.net
- 御常はまた飯櫃おはちや御菜おかずの這入はいっている戸棚に、いつでも錠を卸おろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦そばを取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように膳ぜんを出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。
しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈きはちじょうの羽織はおりを着せたり、縮緬ちりめんの着物を買うために、わざわざ越後屋えちごやまで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択より分けている間に、夕暮の時間が逼せまったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
- 289 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:59:35.33 0.net
- 彼の望む玩具おもちゃは無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交まじっていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟さんばそうの影を映して、烏帽子えぼし姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽こまを買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際かしぎわの泥溝どぶの中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場まきつみばの柵さくと柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹かにの穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕いけどりにして袂たもとへ入れた。……
要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰もらい受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。
- 290 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:59:44.14 0.net
- 四十一
しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
彼らが長火鉢ながひばちの前で差向いに坐すわり合う夜寒よさむの宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父おとっッさんは誰だい」
- 291 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 08:59:53.67 0.net
- 健三は島田の方を向いて彼を指ゆびさした。
「じゃ御前の御母おっかさんは」
健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊きいた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
- 292 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:03.65 0.net
- 健三は厭々いやいやながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故なぜだか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。
或時はこんな光景が殆ほとんど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃しつこかった。
「御前はどこで生れたの」
こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪たかやぶで蔽おおわれた小さな赤い門の家うちを挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支さしつかえなく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向頓着とんじゃくしなかった。
「健坊けんぼう、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」
- 293 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:15.15 0.net
- 彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」
健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯としはの行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪にくんだのである。
夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと力つとめた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に身体からだの束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。
- 294 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:26.18 0.net
- 夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。
自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩たたき込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅うるさがった。
「なんでそんなに世話を焼くのだろう」
「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己おのれ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具おもちゃを喜んだり、錦絵にしきえを飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉うれしがらなくなった。少なくとも両ふたつのものを綺麗きれいに切り離して、純粋な楽みに耽ふけりたかった。
夫婦は健三を可愛かあいがっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得うるために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自みずから知らなかった。
- 295 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:37.22 0.net
- 四十二
同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。
彼の我儘わがままには日増ひましに募った。自分の好きなものが手に入いらないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所そこへ坐すわり込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中せなかから彼の髪の毛を力に任せて※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり取った。ある時は神社に放し飼の鳩はとをどうしても宅うちへ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の寵ちょうを欲しいままに専有し得うる狭い世界の中うちに起きたり寐ねたりする事より外に何にも知らない彼には、凡すべての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
- 296 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:46.11 0.net
- やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦こすりながら縁側えんがわへ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有もっていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその後あとを知らなかった。
眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸かしの方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
- 297 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:00:55.87 0.net
- 驚ろいた養父母はすぐ彼を千住せんじゅの名倉なぐらへ伴つれて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は醋すの臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日いくか続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」
御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
- 298 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:08.08 0.net
- 彼はしまいに立った。そうして平生へいぜいと何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて嬉うれしがりようが、如何いかにも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶あいうつ事も少なくはなかった。
御常は非常に嘘うそを吐つく事の巧うまい女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露ばくろして自みずから知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上のぼった甲という女を、傍はたで聴いていても聴きづらいほど罵ののしった、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞ほめていた所だというような不必要な嘘まで吐ついた。健三は腹を立てた。
- 299 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:18.40 0.net
- 「あんな嘘を吐いてらあ」
彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝ひれきした。甲の帰ったあとで御常は大変に怒おこった。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
健三は御常の顔から早く火が出れば好いい位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛かあいがられても、それに酬むくいるだけの情合じょうあいがこっちに出て来き得えないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中うちに蔵かくしていたのである。そうしてその醜くいものを一番能よく知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々だだッ子こに外ならなかったのである。
- 300 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:29.88 0.net
- 四十三
その中うち変な現象が島田と御常との間に起った。
ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍そばではげしく罵ののしり合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。
その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。
- 301 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:40.62 0.net
- こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩けんかが、今では寐ねようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。
幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴みなれないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。
やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。これに反して島田は大変な悪ものであった。しかし最も悪いのは御藤おふじさんであった。「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。眼から涙を流した。しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。
「あいつは讐かたきだよ。御母おっかさんにも御前にも讐だよ。骨を粉こにしても仇討かたきうちをしなくっちゃ」
- 302 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:49.42 0.net
- 御常は歯をぎりぎり噛かんだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。
彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。その島田は以前と違って、大抵は宅うちにいない事が多かった。彼の帰る時刻は何時も夜更よふけらしかった。従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。
しかし健三は毎晩暗い灯火ともしびの影で彼を見た。その険悪な眼と怒いかりに顫ふるえる唇とを見た。咽喉のどから渦捲うずまく烟けむりのように洩もれて出るその憤りの声を聞いた。
- 303 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:01:59.63 0.net
- それでも彼は時々健三を伴つれて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜たしなんだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫おぬいさんとを伴れて、賑にぎやかな通りを散歩した帰りに汁粉屋しるこやへ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らは碌ろくに顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。
宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかを訊きかれた。それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰問を受けた。健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。彼女はいろいろな鎌かまを掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。
「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば御母おっかさんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」
彼女はどうしても行ったといわせようとした。同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。彼女は健三を疑うたぐった。健三は彼女を卑しんだ。
- 304 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 09:02:11.54 0.net
- 「じゃあの子に御父おとっッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」
何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は其所そこで留まる女ではなかった。
「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」
嫉妬しっとから出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく露あらわして顧り見ない彼女は、十とおにも足りないわが養い子から、愛想あいそを尽かされて毫ごうも気が付かずにいた。
- 305 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:42:29.55 0.net
- 四十
西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広い室へやは既に扱所あつかいじょというものに変っていた。
扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや椅子いすが今日こんにちのように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く坐すわるのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から遣やって来るものも、悉ことごとく自分の下駄げたを土間どまへ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ畏かしこまった。
島田はこの扱所の頭かしらであった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当つきあたりに設けられた。其所そこから直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓れんじまどの際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は慥たしかにそれを彼に語り得なかった。
- 306 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:42:38.20 0.net
- 島田の住居すまいと扱所とは、もとより細長い一つ家いえを仕切ったまでの事なので、彼は出勤しっきんといわず退出たいしつといわず、少なからぬ便宜を有もっていた。彼には天気の好よい時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫おっくうを省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅うちへ帰った。
こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱すずりばこの中にある朱墨しゅずみを弄いじったり、小刀の鞘さやを払って見たり、他ひとに蒼蠅うるさがられるような悪戯いたずらを続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。
島田は吝嗇りんしょくな男であった。妻さいの御常は島田よりもなお吝嗇であった。
- 307 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:42:48.13 0.net
- 「爪つめに火を点ともすってえのは、あの事だね」
彼が実家に帰ってから後のち、こんな評が時々彼の耳に入いった。しかし当時の彼は、御常が長火鉢ながひばちの傍そばへ坐って、下女げじょに味噌汁おつけをよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。
「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀かわいそうだ」
- 308 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:02.03 0.net
- 彼の実家のものは苦笑した。
御常はまた飯櫃おはちや御菜おかずの這入はいっている戸棚に、いつでも錠を卸おろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦そばを取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように膳ぜんを出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。
- 309 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:10.69 0.net
- しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈きはちじょうの羽織はおりを着せたり、縮緬ちりめんの着物を買うために、わざわざ越後屋えちごやまで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択より分けている間に、夕暮の時間が逼せまったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
彼の望む玩具おもちゃは無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交まじっていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟さんばそうの影を映して、烏帽子えぼし姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽こまを買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際かしぎわの泥溝どぶの中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場まきつみばの柵さくと柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹かにの穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕いけどりにして袂たもとへ入れた。……
要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰もらい受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。
- 310 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:19.36 0.net
- 四十一
しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
彼らが長火鉢ながひばちの前で差向いに坐すわり合う夜寒よさむの宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父おとっッさんは誰だい」
健三は島田の方を向いて彼を指ゆびさした。
- 311 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:28.61 0.net
- 「じゃ御前の御母おっかさんは」
健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊きいた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
- 312 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:36.82 0.net
- 健三は厭々いやいやながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故なぜだか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。
或時はこんな光景が殆ほとんど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃しつこかった。
「御前はどこで生れたの」
こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪たかやぶで蔽おおわれた小さな赤い門の家うちを挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支さしつかえなく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向頓着とんじゃくしなかった。
「健坊けんぼう、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」
彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」
- 313 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:48.44 0.net
- 健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯としはの行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪にくんだのである。
夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと力つとめた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に身体からだの束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。
夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。
- 314 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:43:57.83 0.net
- 自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩たたき込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅うるさがった。
「なんでそんなに世話を焼くのだろう」
「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己おのれ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具おもちゃを喜んだり、錦絵にしきえを飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉うれしがらなくなった。少なくとも両ふたつのものを綺麗きれいに切り離して、純粋な楽みに耽ふけりたかった。
夫婦は健三を可愛かあいがっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得うるために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自みずから知らなかった。
- 315 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:44:07.20 0.net
- 四十二
同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。
彼の我儘わがままには日増ひましに募った。自分の好きなものが手に入いらないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所そこへ坐すわり込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中せなかから彼の髪の毛を力に任せて※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり取った。ある時は神社に放し飼の鳩はとをどうしても宅うちへ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の寵ちょうを欲しいままに専有し得うる狭い世界の中うちに起きたり寐ねたりする事より外に何にも知らない彼には、凡すべての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
- 316 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:44:18.07 0.net
- ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦こすりながら縁側えんがわへ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有もっていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその後あとを知らなかった。
眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸かしの方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
驚ろいた養父母はすぐ彼を千住せんじゅの名倉なぐらへ伴つれて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は醋すの臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日いくか続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」
- 317 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:44:26.81 0.net
- 御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
彼はしまいに立った。そうして平生へいぜいと何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて嬉うれしがりようが、如何いかにも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶あいうつ事も少なくはなかった。
- 318 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:44:35.17 0.net
- 御常は非常に嘘うそを吐つく事の巧うまい女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露ばくろして自みずから知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上のぼった甲という女を、傍はたで聴いていても聴きづらいほど罵ののしった、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞ほめていた所だというような不必要な嘘まで吐ついた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
- 319 :Ms.名無しさん:2021/10/29(金) 10:44:44.90 0.net
- 彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝ひれきした。甲の帰ったあとで御常は大変に怒おこった。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
健三は御常の顔から早く火が出れば好いい位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛かあいがられても、それに酬むくいるだけの情合じょうあいがこっちに出て来き得えないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中うちに蔵かくしていたのである。そうしてその醜くいものを一番能よく知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々だだッ子こに外ならなかったのである。
- 320 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:30:49.07 0.net
- 四十三
その中うち変な現象が島田と御常との間に起った。
ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍そばではげしく罵ののしり合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。
その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。
- 321 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:30:58.72 0.net
- こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩けんかが、今では寐ねようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。
幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴みなれないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。
やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。これに反して島田は大変な悪ものであった。しかし最も悪いのは御藤おふじさんであった。「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。眼から涙を流した。しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。
「あいつは讐かたきだよ。御母おっかさんにも御前にも讐だよ。骨を粉こにしても仇討かたきうちをしなくっちゃ」
- 322 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:09.79 0.net
- 御常は歯をぎりぎり噛かんだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。
彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。その島田は以前と違って、大抵は宅うちにいない事が多かった。彼の帰る時刻は何時も夜更よふけらしかった。従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。
しかし健三は毎晩暗い灯火ともしびの影で彼を見た。その険悪な眼と怒いかりに顫ふるえる唇とを見た。咽喉のどから渦捲うずまく烟けむりのように洩もれて出るその憤りの声を聞いた。
- 323 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:19.31 0.net
- それでも彼は時々健三を伴つれて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜たしなんだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫おぬいさんとを伴れて、賑にぎやかな通りを散歩した帰りに汁粉屋しるこやへ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らは碌ろくに顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。
宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかを訊きかれた。それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰問を受けた。健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。彼女はいろいろな鎌かまを掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。
「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば御母おっかさんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」
- 324 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:29.17 0.net
- 彼女はどうしても行ったといわせようとした。同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。彼女は健三を疑うたぐった。健三は彼女を卑しんだ。
「じゃあの子に御父おとっッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」
何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は其所そこで留まる女ではなかった。
「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」
嫉妬しっとから出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく露あらわして顧り見ない彼女は、十とおにも足りないわが養い子から、愛想あいそを尽かされて毫ごうも気が付かずにいた。
- 325 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:41.80 0.net
- 四十四
間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。河岸かしを向いた裏通りと賑にぎやかな表通りとの間に挟まっていた今までの住居すまいも急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴みなれない変な宅うちの中に自分を見出だした。
その家の表には門口かどぐちに縄暖簾なわのれんを下げた米屋だか味噌屋みそやだかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、茹うでた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の影像イメジも浮かべ得なかった。「時」は綺麗きれいにこの佗わびしい記念かたみを彼のために払い去ってくれた。
御常は会う人ごとに島田の話をした。口惜くやしい口惜しいといって泣いた。
「死んで祟たたってやる」
彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介なかだちとなるに過ぎなかった。
- 326 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:50.92 0.net
- 夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。
「これからは御前一人が依怙たよりだよ。好いいかい。確しっかりしてくれなくっちゃいけないよ」
こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。
健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾よくに押し出される邪気が常に働いていた。それが頑是がんぜない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしその他たの点について彼は全くの無我夢中であった。
二人の生活は僅わずかの間ましか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯としの行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。
- 327 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:31:59.79 0.net
- 「考えるとまるで他ひとの身の上のようだ。自分の事とは思えない」
健三の記憶に上のぼせた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。
「御常さんて人はその時にあの波多野はたのとかいう宅うちへまた御嫁に行ったんでしょうか」
細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書うわがきをまだ覚えていた。
「そうだろうよ。己おれも能よく知らないが」
「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」
- 328 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:32:08.99 0.net
- 健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。生死しょうしなどは無論考えの中になかった。
「警部だっていうじゃありませんか」
「何んだか知らないね」
「あら、貴夫あなたが自分でそう御仰おっしゃったくせに」
「何時いつ」
「あの手紙を私わたくしに御見せになった時よ」
「そうかしら」
- 329 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:32:16.98 0.net
- 健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初からおじやだけで育てた事だの、下性げしょうが悪くって寐小便ねしょうべんの始末に困った事だの、凡すべてそうした顛末てんまつを、飽きるほど委くわしく述べた中に、甲府こうふとかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変仕合しあわせだと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所そこになると健三には全く覚がなかった。
「ことによると、もう死んだかも知れないね」
「生きているかも分りませんわ」
二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。
「あの人が不意に遣やって来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」
細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。
- 330 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:32:29.00 0.net
- 四十五
健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一頁ページごとに見透かされた。
その時彼はこの手紙を東京にいる兄の許もとに送った。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。
御常の手紙はその後ごふっつり来なくなった。健三は安心した。しかしどこかに心持の悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が劇はげしかった。
「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女が遣やって来られちゃ困るな」
- 331 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:32:38.82 0.net
- 健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々だんだん経済上の苦境に陥いって来たのである。
健三は時々宅うちへ話しに来る青年と対坐たいざして、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。
或日彼はその青年の一人に向ってこういった。
「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」
- 332 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:32:49.00 0.net
- 青年は苦笑した。そうして答えた。
「それは貴方あなたがた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気のんきでもありません。何なんになろうとか、何なにをしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた能よく承知していますから」
なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知せち辛がらくなっていた。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少喰くい違った点があった。
「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」
青年は解しがたいという顔をした。
- 333 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:00.60 0.net
- 「あなただって些ちっとも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己おれの世界はこれからだという所があるようですね」
今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西フランスのある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。
人が溺おぼれかかったり、または絶壁から落おちようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生へいぜい彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟とっさに起ったある危険のために突然塞ふさがれて、もう己は駄目だと事が極きまると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡すべての過去の経験が一度に意識に上のぼるのだというんだね。その説によると」
青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も一刹那いっせつなにわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。
- 334 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:10.92 0.net
- 四十六
健三の心を不愉快な過去に捲まき込む端緒いとくちになった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。
その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。
「どこまでこの影が己おれの身体からだに付いて回るだろう」
健三の胸は好奇心の刺戟しげきに促されるよりもむしろ不安の漣※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)さざなみに揺れた。
「この間比田ひだの所をちょっと訪ねて見ました」
- 335 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:21.46 0.net
- 島田の言葉遣はこの前と同じように鄭重ていちょうであった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで無沙汰ぶさた見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。
「あの辺へんも昔と違って大分だいぶ変りましたね」
健三は自分の前に坐すわっている人の真面目まじめさの程度を疑うたぐった。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。
「もとはそら彼処あすこに瀑たきがあって、みんな夏になると能よく出掛けたものですがね」
島田は相手に頓着とんじゃくなくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の迹あとに跟ついて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼び捨ずてにし始めた。
「御夏おなつも年を取ったね。尤もっとももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く私わたしに喰くって掛ったり何なんかしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら喧嘩けんかをしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ可哀想かわいそうだからその度たんびにいくらかずつ都合して遣やったよ」
- 336 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:31.50 0.net
- 島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ怒おこるだろうと思うように横柄おうへいであった。それから手前勝手な立場からばかり見た歪ゆがんだ事実を他ひとに押し付けようとする邪気に充ちていた。
健三は次第に言葉少ずくなになった。しまいには黙ったなり凝じっと島田の顔を見詰た。
島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。眉まゆはむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた例ためしがなかった。法印ほういんか何ぞのように常に後うしろへ撫なで付けられていた。
彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦横風おうふうの昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の鄭寧ていねいさに立ち戻って来た。健三に対して過去の己おのれに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
彼は室へやの内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎あいにく額も掛物も掛っていなかった。
- 337 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:46.96 0.net
- 「李鴻章りこうしょうの書は好きですか」
彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも嫌きらいともいい兼かねた。
「好きなら上げても好よござんす。あれでも価値ねうちにしたら今じゃよっぽどするでしょう」
昔し島田は藤田東湖ふじたとうこの偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々はくはつそうがんばんしのようんぬんと書いた半切はんせつの唐紙とうしを、台所の竈へっついの上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗すこぶる怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は漸ようやく帰った。
- 338 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:33:56.40 0.net
- 四十七
「何しに来たんでしょう、あの人は」
目的あてなしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。
「解らないね、どうも。一体魚さかなと獣けだものほど違うんだから」
「何が」
「ああいう人と己おれなどとはさ」
- 339 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:34:04.46 0.net
- 細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝を拵こしらえたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所そこを平たいらにしたら好かろうという考えを有もっていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因の中うちに、自分が主な要素として這入はいっている事も認めていた。
細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。
「御前はそう思わないかね」
「そりゃあの人と貴夫あなたとなら魚と獣位違うでしょう」
「無論外の人と己と比較していやしない」
話はまた島田の方へ戻って来た。細君は笑いながら訊きいた。
「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」
「己に遣やろうかっていうんだ」
- 340 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:34:15.15 0.net
- 「御止およしなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」
夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽あまがっぱの代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑のどかな心持になれようはずがなかった。
「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」
「うん何にもいわない。まるで狐きつねに抓つままれたようなものだ」
始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛とっぴな要求を持ち出したものか、または真面目まじめな懸合かけあいとして、それを比田ひだへ持ち込んだ後あと、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと覚さとったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。
「どっちでしょう」
「到底解らないよ、ああいう人の考えは」
島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。
- 341 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 06:34:24.95 0.net
- 彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に灯火あかりを点つけて机の前に坐すわっていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒いとくちを見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで手繰たぐり寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然截たち切られた。彼は苦い顔をして室へやの入口に手を突いた下女げじょの方を顧みた。
「何もそう度々たびたび来て、他ひとの邪魔をしなくっても好さそうなものだ」
彼は腹の中でこう呟つぶやいた。断然面会を謝絶する勇気を有もたない彼は、下女を見たなり少時しばらく黙っていた。
「御通し申しますか」
「うん」
彼は仕方なしに答えた。それから「御奥おくさんは」と訊たずねた。
「少し御気分が悪いと仰おっしゃって先刻さっきから伏せっていらっしゃいます」
細君の寐ねるときは歇私的里ヒステリーの起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼は漸ようやく立ち上った。
- 342 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 08:24:19.26 0.net
- 黒田清子(52)、ローン完済 [241672384]
’05年、兄の秋篠宮さまの学習院時代のご学友で、東京都職員の黒田慶樹さんと結婚。’06年には都内の高級マンションを夫婦で共同購入した。
購入額は1億円といわれ、清子さんが持ち分3分の2、慶樹さんが3分の1で、慶樹さんのみ3,000万円の住宅ローンを組んだ。
「清子さんは、ごく普通に地元商店街で買い物をしています。また、コロナ禍以前はご自分で車を運転して、上皇上皇后両陛下へ会いに行き、
身の回りの世話や、お話し相手をされていたそうです」(近重さん)
今年、夫の黒田さんは都市整備局の都市計画課長から同統括課長へと昇進した。
3月には住宅ローンも完済している。夫婦ともに生活は充実しているようだ。
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12268-1308334/
- 343 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 08:51:14.21 0.net
- 【期日前投票へ】衆院選「投票休暇」や「投票率割 」も、投票率アップ策続々… [BFU★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635398666/
- 344 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:10:37.14 0.net
- 四十八
電気燈のまだ戸こごとに点ともされない頃だったので、客間には例いつもの通り暗い洋燈ランプが点ついていた。
その洋燈は細長い竹の台の上に油壺あぶらつぼを篏はめ込むように拵こしらえたもので、鼓つづみの胴の恰形かっこうに似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。
健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心しんを出したり引っ込ましたりしながら灯火あかりの具合を眺めていた。彼は改まった挨拶あいさつもせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。
なるほど火屋ほやが薄黒く燻くすぶっていた。丸心まるじんの切方きりかたが平たいらに行かないところを、むやみに灯ひを高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。
「換えさせましょう」
- 345 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:10:49.71 0.net
- 家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下女げじょを呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤すすで曇った火屋から眼を離さなかった。
「どういう加減だろう」
彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に擦すった丸い蓋かさの隙間を覗のぞき込んだ。
健三の記憶にある彼は、こんな事を能よく気にするという点において、頗すこぶる几帳面きちょうめんな男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の塵ちりを気にした。彼は尻しりをからげて、拭ふき掃除をした。跣足はだしで庭へ出て要いらざる所まで掃いたり水を打ったりした。
物が壊れると彼はきっと自分で修復なおした。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して厭いとわなかった。そういう事が彼の性しょうにあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。
「なにそんなものは宅うちで出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」
- 346 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:10:58.15 0.net
- 損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。
「宅うちの人はあんまり正直過ぎるんで」
御藤おふじさんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、嘘うそと承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥たしかな根底があるらしく思えた。
「必竟ひっきょう大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」
健三はただ金銭上の慾よくを満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして凹くぼんだ眼を今擦すり硝子ガラスの蓋の傍そばへ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。
「彼はこうして老いた」
- 347 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:11:06.10 0.net
- 島田の一生を煎せんじ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌きらいであった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾ごうよくな老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。
その時島田は洋燈の螺旋ねじを急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火あかりをなおの事暗くした。
「どうもどこか調子が狂ってますね」
健三は手を敲たたいて下女に新しい洋燈を持って来さした。
- 348 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:11:24.37 0.net
- 四十九
その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。
しかし彼はもう先達せんだっての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。李鴻章りこうしょうの李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。噫おくびにさえ出す様子を見せなかった。
彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く隔へだたっているとも思えなかった。
- 349 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:11:33.78 0.net
- 健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意が徹とおっていた。彼はこの老人が或日或物を持って、今より判明はっきりした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。
彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子すりガラスの蓋かさを通して油煙に燻くすぶった洋燈ランプの灯ひを眺めていた時とは全く変っていた。
「隙すきがあったら飛び込もう」
- 350 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:11:42.39 0.net
- 落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付おちつきを与えて遣やりたくなる場合もあった。
その時突然奥の間で細君の唸うなるような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を有もっていた。彼はすぐ耳を峙そばだてた。
「誰か病気ですか」と島田が訊きいた。
「ええ妻さいが少し」
「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」
- 351 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:11:53.80 0.net
- 島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。従って彼の言葉にはただ挨拶あいさつがあるだけであった。健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。
「近頃は時候が悪いから、能よく気を付けないといけませんね」
子供は疾とうに寐付ねついた後あとなので奥は寂しんとしていた。下女げじょは一番懸け離れた台所の傍そばの三畳にいるらしかった。こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。彼は手を叩たたいて下女を呼んだ。
「ちょっと奥へ行って奥さんの傍に坐すわっててくれ」
「へええ」
下女は何のためだか解らないといった様子をして間の襖ふすまを締めた。健三はまた島田の方を向き直った。けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。腹の中で早く帰ってくれれば好いいと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。
それでも島田は容易に立たなかった。話の接穂つぎほがなくなって、手持無沙汰ぶさたで仕方なくなった時、始めて座蒲団ざぶとんから滑り落ちた。
- 352 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:03.13 0.net
- 「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」
細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱くつぬぎへ下りてからまた健三の方を振り向いた。
「夜分なら大抵御暇ですか」
健三は生返事をしたなり立っていた。
「実は少し御話ししたい事があるんですが」
健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い灯影ひかげから、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に潜もぐり込もうという人の悪い厭いやな色か動いていた。
「じゃ御免」
最後に格子こうしを開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえ点ついていなかった。
- 353 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:12.70 0.net
- 五十
健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。
「どうかしたのか」
細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団ふとんの横からまたその眼を見下みおろした。
襖ふすまの影に置かれた洋燈ランプの灯ひは客間のよりも暗かった。細君の眸ひとみがどこに向って注がれているのか能よく分らない位暗かった。
「どうかしたのか」
- 354 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:24.44 0.net
- 健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。
彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。
「もうあっちへ行っても好いい。此所ここには己おれがいるから」
ぼんやり蒲団の裾に坐すわって、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女げじょは無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は眉まゆを顰ひそめながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら婢おんなを呼び返して小言こごとをいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。
細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然はっきりどこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子ひとみには生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と直接じかに繋つながっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔ひとみの向いた見当を眺めていた。
「おい」
- 355 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:32.99 0.net
- 健三は細君の肩を揺ゆすった。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所そこに夫の存在を認める何らの輝きもなかった。
「おい、己だよ。分るかい」
こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざいなこの言葉のうちには、他ひとに知れないで自分にばかり解っている憐憫れんびんと苦痛と悲哀があった。それから跪ひざまずいて天に祷いのる時の誠と願もあった。
「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」
彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的センチメンタルな気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的デモンストラチーヴになれない男であった。
細君の眼は突然平生へいぜいの我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。
「貴夫あなた?」
- 356 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:42.95 0.net
- 彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。
「あの人はもう帰ったの」
「うん」
二人はしばらく黙っていた。細君はまた頸くびを曲げて、傍そばに寐ねている子供の方を見た。
「能く寐ているのね」
子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。
- 357 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 09:12:51.41 0.net
- 健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
「水で頭でも冷して遣やろうか」
「いいえ、もう好よござんす」
「大丈夫かい」
「ええ」
「本当に大丈夫かい」
「ええ。貴夫ももう御休みなさい」
「己はまだ寐る訳に行かないよ」
健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜よを一人更ふかさなければならなかった。
- 358 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:40:34.02 0.net
- 五十一
彼の眼が冴さえている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。
彼は明日あしたの朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐あわれな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目まじめに筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を傷きずつけるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。
「明日あしたの講義もまた纏まとまらないのかしら」
こう思うと彼は自分の努力が急に厭いやになった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動せんどうされて起る、「己おれの頭は悪くない」という自信も己惚うぬぼれも忽たちまち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪かき乱す自分の周囲についての不平も常時ふだんよりは高まって来た。
彼はしまいに投げるように洋筆ペンを放り出した。
- 359 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:40:46.96 0.net
- 「もうやめだ。どうでも構わない」
時計はもう一時過ぎていた。洋燈ランプを消して暗闇くらやみを縁側伝いに廊下へ出ると、突当つきあたりの奥の間の障子二枚だけが灯ひに映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。
子供は犬ころのように塊かたまって寐ねていた。細君も静かに眼を閉じて仰向あおむけに眠っていた。
音のしないように気を付けてその傍そばに坐すわった彼は、心持頸くびを延ばして、細君の顔を上から覗のぞき込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔ねがおの上に翳かざした。彼女は口を閉じていた。彼の掌てのひらには細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息いきが微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。
彼は漸ようやく出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝ついて起った。けれども彼は直すぐその衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺ゆすり起そうとしたが、それもやめた。
「大丈夫だろう」
- 360 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:40:56.52 0.net
- 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人なんびともこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。
細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼まぶたの上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛まつげの鎖とざしている奥を見るために、彼は正体たわいなく寐入った細君を、わざわざ揺ゆすり起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば好いいのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似まねをしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。
やがて彼は寐衣ねまきを着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。
翌朝あくるあさ彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。
「貴夫あなたもう時間ですよ」
- 361 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:06.25 0.net
- まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計たもとどけいを眺めていた。下女げじょが俎板まないたの上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。
「婢おんなはもう起きてるのか」
「ええ。先刻さっき起しに行ったんです」
細君は下女を起して置いてまた床の中に這入はいったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。
昨夜ゆうべの事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。
- 362 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:16.11 0.net
- 五十二
二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察せいさつも払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有もっている事を冥々めいめいの裡うちに自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能よく呑のみ込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。
健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅うちへ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎むかいが来るような心持になった。彼は広い室へやの片隅にいて真ん向うの突当つきあたりにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜かぶとの鉢金はちがねを伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆ヴァーニッシで塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。
これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために祟たたられる恐れを抱いだかなかった。彼はこの老人を因業いんごうで強慾ごうよくな男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊みくびってもいた。ただ要いらぬ会談に惜い時間を潰つぶされるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。
「何をいって来る気かしら、この次は」
- 363 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:24.31 0.net
- 襲われる事を予期して、暗あんにそれを苦にするような健三の口振くちぶりが、細君の言葉を促がした。
「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」
健三は心の裡で細君のいう事を肯うけがった。しかし口ではかえって反対な返事をした。
「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」
- 364 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:33.77 0.net
- 「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭めんどくさいにゃ違いないでしょう、いくら貴夫あなただって」
「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」
多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例いつもよりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。
島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。隙すきがあったら飛び込もうとして、この間から覘ねらいを付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着とんじゃくなく、ついに健三に肉薄にくはくし始めた。
「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私わたしなんだから、是非一つ」
- 365 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:43.15 0.net
- 老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷いため付けるほど強くも現われていなかった。
健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を司つかさどっていない彼の財嚢ざいのうは無論軽かった。空のまま硯箱すずりばこの傍そばに幾日いくかも横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫つかみ出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。
「どうせ貴方あなたの請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆みんな上げたんですよ」
健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を遣やった事を一口もいわなかった。
- 366 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:41:54.55 0.net
- 五十三
翌日あくるひ例刻に帰った健三は、机の前に坐すわって、大事らしく何時もの所に置かれた昨日きのうの紙入に眼を付けた。革で拵こしらえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを倫敦ロンドンの最も賑にぎやかな町で買ったのである。
外国から持って帰った記念が、何の興味も惹ひかなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が何故なぜ丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥いちべつを空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。
その内何かで金の要いる日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。
「おい少し金を入れてくれ」
細君は右の手で物指ものさしを持ったまま夫の顔を下から見上げた。
- 367 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:04.36 0.net
- 「這入はいってるはずですよ」
彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金を奪とられたことも全く夫婦間の話題に上のぼっていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。
「あれはもう遣やっちゃったんだ。紙入は疾とうから空っぽうになっているんだよ」
細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。
「ちょっと拝見」
- 368 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:14.10 0.net
- 健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中を検あらためた。中からは四、五枚の紙幣さつが出た。
「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」
彼女は手垢てあかの付いた皺しわだらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く微かすかな笑に伴なった。
「何時入れたのか」
「あの人の帰った後でです」
健三は細君の心遣を嬉うれしく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。
「己おれが内所ないしょで島田に金を奪とられたのを気の毒とでも思ったものかしら」
- 369 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:22.43 0.net
- 彼はこう考えた。しかし口へ出してその理由わけを彼女に訊きき糺ただして見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで己おのれを説明する面倒を敢あえてしなかった。彼女の填補てんぽした金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。
その内細君の御腹おなかが段々大きくなって来た。起居たちいに重苦しそうな呼息いきをし始めた。気分も能よく変化した。
「妾わたくし今度こんだはことによると助からないかも知れませんよ」
彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。
「何故なぜだい」
「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」
- 370 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:32.12 0.net
- 質問も説明もこれ以上には上のぼる事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。鈴りんの音ねが鼓膜の及ばない幽かすかな世界に潜り込むように。
彼女は悪阻つわりで死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養灌腸かんちょうをするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。
「女は詰らないものね」
「それが女の義務なんだから仕方がない」
健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目でたらめに過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。
- 371 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:42.09 0.net
- 五十四
健三の気分にも上あがり下さがりがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、不快そうに寐ねている彼女の体ていたらくが癪しゃくに障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪けんどんに要いらざる用を命じて見たりした。
細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴けるとも勝手にしろという態度をとった。平生へいぜいからあまり口数を利かない彼女は益ますます沈黙を守って、それが夫の気を焦立いらだたせるのを目の前に見ながら澄ましていた。
「つまりしぶといのだ」
健三の胸にはこんな言葉が細君の凡すべての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は外ほかの事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶといという観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇まっくらにして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染きちがいじみた癇癪持かんしゃくもちとして評価されなければならなかった。
「貴夫あなたがそう邪慳じゃけんになさると、また歇私的里ヒステリーを起しますよ」
- 372 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:42:51.30 0.net
- 細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は非道ひどくその光を怖れた。同時に劇はげしくそれを悪にくんだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部うわべでは強しいて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は能よく承知していた。
「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」
彼女は健三に聞えよがしに呟つぶやいた。健三は死んじまえといいたくなった。
或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃かみそりがあった。彼女が黒檀エボニーの鞘さやに折り込まれたその刃を真直まっすぐに立てずに、ただ黒い柄えだけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ取った。
「馬鹿な真似をするな」
- 373 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:43:00.79 0.net
- こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に篏はめ込んだ硝子ガラスに中あたってその一部分を摧くだいて向う側の縁えんに落ちた。細君は茫然ぼうぜんとして夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。
彼女は本当に情に逼せまって刃物三昧はものざんまいをする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを弄もてあそぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条いつすじにも六条むすじにも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を衒てらう人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。
その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、全まったくその解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前に己おのれを懺悔ざんげする人の誠を以て、彼は細君の膝下しっかに跪ひざまずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。
「今だってその源因が判然はっきり分りさえすれば」
彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は昨夕ゆうべの事について、ついに一言ひとことも細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。
- 374 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:43:11.20 0.net
- 五十五
こういう不愉快な場面の後あとには大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入はいって来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。
けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚はばからなかった。
「じゃ当分子供を伴つれて宅うちへ行っていましょう」
細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。健三は彼らの食料を毎月まいげつ送って遣やるという条件の下もとに、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に下女げじょとたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋さびしいとは思わなかった。
「ああ晴々せいせいして好いい心持だ」
- 375 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:43:21.78 0.net
- 彼は八畳の座敷の真中に小さな餉台ちゃぶだいを据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度極暑の頃だったので、身体からだの強くない彼は、よく仰向あおむけになってばたりと畳の上に倒れた。何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の脊中せなかを蒸すような黄色い古びが心しんまで透っていた。
彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書き下くだされた。蠅はえの頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計拵こしらえるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。また義務であった。
巣鴨すがもの植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。それを茶の間の縁えんに置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜こんだ。けれども彼女の盆栽を軽蔑けいべつした。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物しろものだったのである。
彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念も悉ことごとく消えてしまった。
「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」
彼の心は二人一所にいる時よりも遥はるかに平静であった。
- 376 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:43:30.24 0.net
- 細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布つぎのあたった青い蚊帳かやの中に入って寐ねた。
一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥あちこちしていた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸しおりどの影から急に姿を現わした。
「貴夫あなた故もとのようになって下さらなくって」
健三は細君の穿はいている下駄げたの表が変にささくれて、その後うしろの方が如何いかにも見苦しく擦すり減らされているのに気が付いた。彼は憐あわれになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。
- 377 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 14:43:40.13 0.net
- 「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」
細君が帰ってから幾日いくか目か経った後のち、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍ふえんしたに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動ふるまいであった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて駒込こまごめへ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前と毫ごうも違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に騙だまされたような気がした。
こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。
- 378 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 17:06:27.27 0.net
- 【悲報】日本の可処分所得、20年間で11%減少していた!
原因は給料上がってないのに税金は上がっているため!
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1635559106/
- 379 :Ms.名無しさん:2021/10/30(土) 17:07:44.39 0.net
- 【経済】日本のGDP 7〜9月期はマイナス成長 [スダレハゲ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635553963/
- 380 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 04:47:22.22 0.net
- 【米国】イーロン・マスク氏 人類史上初・個人資産3000億ドル(約34.2兆円)突破
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635573146/
- 381 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 05:30:36.96 0.net
- 【米国】イーロン・マスク氏 人類史上初・個人資産3000億ドル(約34.2兆円)突破 ★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635599414/
- 382 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:02.04 0.net
- 五十六
同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅うるさくした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。
「好いい紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」
島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。
「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」
- 383 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:12.31 0.net
- 「たしか十志シリングだったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」
「五円?――五円は随分好い価ねですね。浅草あさくさの黒船町くろふねちょうに古くから私わたしの知ってる袋物屋があるが、彼所あすこならもっとずっと安く拵こしらえてくれますよ。こんだ要いる時にゃ、私が頼んで上げましょう」
健三の紙入は何時も充実していなかった。全く空虚からの時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて尻しりを長くした。
「小遣を遣やらないうちは帰らない。厭いやな奴だ」
健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。
そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十と纏まとまった金を、平気に向うから請求し始めた。
- 384 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:21.21 0.net
- 「どうか一つ。私もこの年になって倚かかる子はなし、依怙たよりにするのは貴方あなた一人なんだから」
彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、凹くぼんだ鈍い眼を狡猾こうかつらしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。
「これだけの生活くらしをしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」
彼はこんな事まで口へ出していった。
彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。
- 385 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:29.23 0.net
- 「ありゃ成し崩しに己おれを侵蝕しんしょくする気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って来きようってんだ。実に厭な奴だ」
健三は腹が立ちさえすれば、よく実にとか一番とか大とかいう最大級を使って欝憤うっぷんの一端を洩もらしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分だいぶ落付おちついていた。
「貴夫あなたが引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」
健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした頬ほおと唇とに見せた。
「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」
「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」
- 386 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:38.68 0.net
- 「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」
細君には健三の意味が能よく通じなかった。
「どうせ貴夫の眼から見たら、妾わたくしなんぞは馬鹿でしょうよ」
健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。
二人の間に感情の行違ゆきちがいでもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影うしろかげを見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝じっと坐すわっていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時いつまでも構う気色けしきを見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢ざしきろうへ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。
- 387 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:48.91 0.net
- 五十七
健三の心は紙屑かみくずを丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪かんしゃくの電流を何かの機会に応じて外ほかへ洩もらさなければ苦しくって居堪いたたまれなくなった。彼は子供が母に強請せびって買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛けとばして見たりした。赤ちゃけた素焼すやきの鉢が彼の思い通りにがらがらと破われるのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷むごたらしく摧くだかれたその花と茎の憐あわれな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢はかない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉うれしがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事は敢あえてし得なかった。
「己おれの責任じゃない。必竟ひっきょうこんな気違じみた真似まねを己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」
- 388 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:16:58.47 0.net
- 彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。
平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱で燻くすぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女げじょを叱しかった。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を恥はじた。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない己おのれを怒いかった。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心の裡うちで読み上げた。
「己おれが悪いのじゃない。己の悪くない事は、仮令たといあの男に解っていなくっても、己には能よく解っている」
- 389 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:06.76 0.net
- 無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。
彼は時々金の事を考えた。何故なぜ物質的の富を目標めやすとして今日こんにちまで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。
「己だって、専門にその方ばかり遣やりゃ」
- 390 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:15.38 0.net
- 彼の心にはこんな己惚おのぼれもあった。
彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪あくせくしているような島田をさえ憐れに眺めた。
「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」
- 391 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:25.09 0.net
- こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。
彼は元来儲もうける事の下手へたな男であった。儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。卒業したてに、悉ことごとく他ほかの口を断って、ただ一つの学校から四十円貰もらって、それで満足していた。彼はその四十円の半分を阿爺おやじに取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚あぶらげばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。
その時分の彼と今の彼とは色々な点において大分だいぶ変っていた。けれども経済に余裕ゆとりのないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。
彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは迂闊うかつな彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な塵労わずらいが邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうして好いいか解らない彼はしきりに焦じれた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入はいって来るにはまだ大分間まがあった。
- 392 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:37.21 0.net
- 五十八
健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。
彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある小ちさな家を空けて彼らの住居すまいに充てた。細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。張交はりまぜの襖ふすまには南湖なんこの画えだの鵬斎ぼうさいの書だの、すべて亡くなった人の趣味を偲しのばせる記念かたみと見るべきものさえ故もとの通り貼はり付けてあった。
- 393 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:47.04 0.net
- 父は官吏であった。大して派出はでな暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。
彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されて劇はげしく活動しなければならない或ある位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦の中うちに捲まき込まれなければならなかった。
遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、殆ほとんど心を悩ませなかった。
- 394 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:17:58.84 0.net
- 迂闊うかつな彼は帰ってからも其所そこに注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々貰もらう二十円だけでも子供二人に下女げじょを使って充分遣やって行ける位に考えていた。
「何しろ家賃が出ないんだから」
こんな呑気のんきな想像が、実際を見た彼の眼を驚愕おどろきで丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、しまいには健三の置いて行った地味じみな男物を縫い直して身に纏まとった。同時に蒲団ふとんからは綿が出た。夜具は裂けた。それでも傍そばに見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼は自分の位地を失った後あと、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉ことごとく亡くしてしまったのである。
- 395 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:08.58 0.net
- 首の回らないほど高い襟カラを掛けて外国から帰って来た健三は、この惨澹みじめな境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために手非道てひどく打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえ有もたなかった。
その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の蓋ふたさえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。
彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時いちじ賜金しきんを受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれで漸やっと日常生活に必要な家具家財を調ととのえた。
彼は僅わずかばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の如何いかんにかかわらずむやみに価切ねぎり倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆タバコぼん、火鉢ひばち、丼鉢どんぶりばち、眼に入いるものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を追懸おっかけなければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか他ひとの物を買うのか、その区別を弁わきまえていないように猛烈な男であった。
- 396 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:17.71 0.net
- 五十九
健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の指物さしものを渡世とせいにする男の店先に立って、しきりに算盤そろばんを弾はじく主人と談判をした。
彼の誂あつらえた本棚には硝子戸ガラスども後部うしろも着いていなかった。塵埃ほこりの積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど撓しなった。
- 397 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:26.99 0.net
- こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して貰もらった金は何時の間にかもうなくなっていた。迂闊うかつな彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に逼せまられて、同宿の男から借りた金はどうして返して好いいか分らなくなってしまったように思い出した。
そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく拵こしらえた高い机の前に坐すわって、少時しばらく彼の手紙を眺めていた。
僅わずかの間とはいいながら、遠い国で一所いっしょに暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の下もとに、官命で遣やって来たその人の財力と健三の給費との間には、殆ほとんど比較にならないほどの懸隔があった。
- 398 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:36.48 0.net
- 彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると繻子しゅすで作った刺繍ぬいとりのある綺麗きれいな寝衣ナイトガウンを着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように凝じっと竦すくんでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨うらやんだ。
その健三には昼食ちゅうじきを節約した憐あわれな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛かえりがけに途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的めあてもなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々かたかたの手に持った傘で防よけつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭パンを何度にも頬張ほおばるのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所そこにあるベンチへ腰を卸おろそうとしては躊躇ちゅうちょした。ベンチは雨のために悉ことごとく濡ぬれていたのである。
ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午ひるになると開いた。そうして湯も水も呑のまずに、硬くて脆もろいものをぼりぼり噛かみ摧くだいては、生唾なまつばきの力で無理に嚥のみ下くだした。
- 399 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:47.41 0.net
- ある時の彼はまた馭者ぎょしゃや労働者と一所に如何いかがわしい一膳飯屋いちぜんめしやで形かたばかりの食事を済ました。其所の腰掛の後部うしろは高い屏風びょうぶのように切立きったっているので、普通の食堂の如く、広い室へやを一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。
こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は能よく健三を午餐ひるめしに誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と大分だいぶ懇意になった時の事であった。
その時彼は反故ほごでも棄すてるように無雑作な態度を見せて、五磅ポンドのバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。
日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て来きようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の旧ふるい友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を容いれて、要いるだけの金を彼の前に揃そろえてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の許もとへ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に極きめた。
- 400 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:18:56.49 0.net
- 六十
こんな具合にして漸やっと東京に落付おちついた健三は、物質的に見た自分の、如何いかにも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた他たの方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々に攪かき乱されてくる時、彼は始めて反省した。平生へいぜい何心なく身に着けて外へ出る黒木綿くろもめんの紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。
「この己おれをまた強請せびりに来る奴がいるんだから非道ひどい」
彼は最も質たちの悪いその種の代表者として島田の事を考えた。
今の自分がどの方角から眺めても島田より好いい社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び捨ずてにした人から今となって鄭寧ていねいな挨拶あいさつを受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣こづかいの財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚みなしている彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
彼は念のために姉の意見を訊たずねて見た。
- 401 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:19:06.96 0.net
- 「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」
「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他ひとにばかり貢みついでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」
「御金がそんなに取れるように見えますか」
「だって宅うちなんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」
姉は自分の宅の活計くらしを標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田ひだが月々貰もらうものを満足に持って帰った例ためしのない事や、俸給の少ない割に交際費の要いる事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額たかに上のぼる事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
「その賞与だって、そっくり私あたしの手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を彦ひこさんの方へ遣やって賄まかなってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」
- 402 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:19:15.62 0.net
- 養子と経済を別々にしながら一所の家うちに住んでいた姉夫婦は、自分たちの搗ついた餅もちだの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物くいものを有もっていた。自分たちの所へ来た客に出す御馳走ごちそうなどもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は殆ほとんど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。
「健ちゃんなんざ、こんな真似まねをしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」
彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた。
「まあ好いやね。面倒臭めんどくさくなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも蒼蠅うるさいなら留守を御遣いよ。構う事はないから」
この注意は如何いかにも姉らしく健三の耳に響いた。
- 403 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 11:19:24.72 0.net
- 姉から要領を得られなかった彼はまた比田を捉つらまえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。
「何しろ故もとの通りあの地面と家作かさくを有ってるんだから、そう困っていない事は慥たしかでさあ。それに御藤さんの方へは御縫おぬいさんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」
比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない上うわっ調子ちょうしのものには相違なかった。
- 404 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:11:43.43 0.net
- 六十一
しまいに健三は細君に向った。
「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉に訊きいても比田に訊いても、本当の所が能よく分らないが」
細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗しゅぬりの船底枕ふなぞこまくらの上に乱れた頭を載せていた。
「そんなに気になさるなら、御自分で直じかに調べて御覧になるが好いいじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。御姉おあねえさんだって、今あの人と交際つきあっていらっしゃらないんだから、そんな確たしかな事の知れているはずがないと思いますわ」
「己おれにはそんな暇なんかないよ」
「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」
- 405 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:11:52.05 0.net
- 細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない性質たちに出来上った彼女は、自分の生家さとと夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟へんくつな男であった。
「放って置け?」
健三は反問した。細君は答えなかった。
「今までだって放って置いてるじゃないか」
細君はなお答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。
島田の事に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――
「御縫さんが脊髄病せきずいびょうなんだそうだ」
「脊髄病じゃ六むずかしいでしょう」
- 406 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:02.35 0.net
- 「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野しばのと御藤おふじさんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」
「可哀想かわいそうね今から脊髄病なんぞに罹かかっちゃ。まだ若いんでしょう」
「己おれより一つ上だって話したじゃないか」
「子供はあるの」
「何でも沢山あるような様子だ。幾人いくたりだか能く訊きいて見ないが」
細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に充みたない夫人の心持を想像に描いた。間近に逼せまったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、情なさけなくもありまた羨うらやましくもあった。夫はまるで気が付かなかった。
- 407 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:14.33 0.net
- 「島田がそんな心配をするのも必竟ひっきょうは平生へいぜいが悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が酒食さけくらいで喧嘩早けんかっぱやくって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が愛想あいそを尽かされているに違ないんだ」
「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」
「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」
「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」
細君は少し躊躇ちゅうちょした。健三には意味が解らなかった。細君はいい直した。
「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」
御藤さんがまだ若い未亡人びぼうじんであった頃、何かの用で扱所あつかいじょへ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をして遣やったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。
「慾よくも手伝ったに違ないね」
細君は何ともいわなかった。
- 408 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:24.69 0.net
- 六十二
不治ふじの病気に悩まされているという御縫さんについての報知たよりが健三の心を和やわらげた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、殆ほとんど親しく口を利いた例ためしがなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈な好いい印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の面影おもかげは、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに尊たっとかった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から唆そそり得る点において。また漠然として散漫な人類を、比較的判明はっきりした一人の代表者に縮めてくれる点において。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。
それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時起るかも知れない御縫さんの死は、狡猾こうかつな島田にまた彼を強請せびる口実を与えるに違なかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。
「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」
- 409 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:33.16 0.net
- 彼はこう観念した。彼は手を拱こまぬいで島田の来るのを待ち受けた。その島田の来る前に突然彼の敵かたきの御常が訪ねて来きようとは、彼も思い掛けなかった。
細君は何時もの通り書斎に坐すわっている彼の前に出て、「あの波多野はたのって御婆おばあさんがとうとう遣やって来ましたよ」といった。彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図々々している臆病おくびょうもののように見えた。
「御会いになりますか」
それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかに極きめたら好かろうという言葉の遣つかい方であった。
「会うから上げろ」
- 410 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:42.03 0.net
- 彼は島田の来た時と同じ挨拶あいさつをした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。
座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に纏まとって、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な風采ふうさいが、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。
彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、鄭寧ていねいに頭を下げた。言葉遣も慇懃いんぎんを極きわめたものであった。
健三は小供の時分能よく聞かされた彼女の生家さとの話を思い出した。田舎いなかにあったその住居すまいも庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。床ゆかの下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。南天なんてんの柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。しかし小さい健三はその宏大こうだいな屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度も其所そこへ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を朧気おぼろげながら見抜くように、彼の批評眼がだんだん肥こえて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の法螺ほらではないかと考え出した。
健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に畏かしこまって坐っている白髪頭しらがあたまの御婆さんとを比較して、時間の齎もたらした対照に不思議そうな眼を注いだ。
御常は昔から肥ふとり肉じしの女であった。今見る御常も依然として肥っていた。どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと疑うたがわれる位であった。それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。多少誇張していえば、籠かごに入れた麦焦むぎこがしを背中へ脊負しょって近在から出て来る御婆さんであった。
- 411 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:12:53.24 0.net
- 六十三
「ああ変った」
顔を見合せた刹那せつなに双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれが殆ほとんど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧から溢あふれ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の遣やる芝居を事新らしく観みせられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。
彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世じんせいと切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿てんめんしているらしく見えた。
島田と別れてから二度目に嫁かたづいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰もらって、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。
養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の活計くらしをしていたものか能よく分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を洩もれなかった。
- 412 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:04.34 0.net
- その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或身縁みよりを頼りに、ずっと辺鄙へんぴな所へ引越した。其所そこで娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年まいねん下がる扶助料だけで活計くらしを立てて行った。……
御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、当込あてこみの台詞せりふだのは、それほど多く出て来なかった。それにもかかわらず彼は自分とこの御婆おばあさんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。
「ああそうですか、それはどうも」
健三の挨拶あいさつは簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。
「昔の因果が今でもやっぱり祟たたっているんだ」
- 413 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:12.02 0.net
- こう思った彼はさすがに好いい心持がしなかった。どっちかというと泣きたがらない質たちに生れながら、時々は何故なぜ本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。
「己おれの眼は何時でも涙が湧わいて出るように出来ているのに」
彼は丸まっちくなって座蒲団ざぶとんの上に坐すわっている御婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。
彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。
- 414 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:19.33 0.net
- 「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」
彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、疎うとい同情が入っているだけで、露あらわな真心は籠こもっていなかった。彼女はそれを能く承知しているように見えた。そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、諦あきらめるより外に仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。
「もしあの憐あわれな御婆さんが善人であったなら、私わたしは泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水しにみずを取って遣る事も出来たろう」
黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。
- 415 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:27.75 0.net
- 六十四
「とうとう遣やって来たのね、御婆おばあさんも。今までは御爺おじいさんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは二人ふたありに祟たたられるんですよ、貴夫あなたは」
細君の言葉は珍らしく乾燥はしゃいでいた。笑談じょうだんとも付かず、冷評ひやかしとも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に刺戟しげきした。彼は何とも答えなかった。
「またあの事をいったでしょう」
細君は同じ調子で健三に訊きいた。
「あの事た何だい」
- 416 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:38.51 0.net
- 「貴夫が小さいうち寐小便ねしょうべんをして、あの御婆さんを困らしたって事よ」
健三は苦笑さえしなかった。
けれども彼の腹の中には、御常が何故なぜそれをいわなかったかの疑問が既に横よこたわっていた。彼女の名前を聞いた刹那せつなの健三は、すぐその弁口に思い到いたった位、御常は能よく喋舌しゃべる女であった。ことに自分を護まもる事に巧みな技倆ぎりょうを有もっていた。他ひとの口車に乗せられやすい、また見え透いた御世辞おせじを嬉うれしがりがちな健三の実父は、何時でも彼女を賞ほめる事を忘れなかった。
「感心な女だよ。だいち身上持しんしょうもちが好いいからな」
島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と口惜くやしい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。
御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変可愛かあいがっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうは己おれだって困るよ」とか何とかいいながら、いつか入用いりようだけの金子きんすは手文庫から取出されていた。
- 417 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:46.53 0.net
- 「比田はあんな奴だが、御夏が可愛想かわいそうだから」
姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉を傍はたのものに聞こえるようにいった。
しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに下手へたであった。真まことしやかという点において遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口は旨うまかった。
彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。
「御前を育てたものはこの私わたしだよ」
- 418 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:13:55.10 0.net
- この一句を二時間でも三時間でも布衍ふえんして、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易へきえきした。
「島田は御前の敵かたきだよ」
彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前に露さらけ出すに極きまっていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。
どっちを聴くにしても涙が交まじるに違なかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に厭いやらしい強い力を入れた。円朝えんちょうの人情噺にんじょうばなしに出て来る女が、長い火箸ひばしを灰の中に突き刺し突き刺し、他ひとに騙だまされた恨うらみを述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。
彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格が牢ろうとして崩すべからざる判明はっきりした一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。
細君は彼のために説明した。
- 419 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:06.45 0.net
- 「三十年近ぢかくにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」
遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点がてんが行かなかった。
「そんな淡泊あっさりした女じゃない」
彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。
- 420 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:15.67 0.net
- 六十五
御常を知らない細君はかえって夫の執拗しつおうを笑った。
「それが貴方あなたの癖だから仕方がない」
平生へいぜい彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家さととの関係について、夫のこの悪い癖へきが著るしく出ているように彼女は思っていた。
「己おれが執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際つきあった事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべをいうのだ」
「だって現に貴夫あなたの考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」
「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部うわべだけで腹の中は故もとの通りなんだ」
「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」
- 421 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:24.80 0.net
- 「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」
「随分独断的ね、貴夫も」
「批評が中あたってさえいれば独断的で一向差支さしつかえないものだ」
「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分だいぶ出て来るでしょう。あの御婆おばあさんは私わたくしと関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」
健三には細君の言葉が何を意味しているのか能よく解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向おもてむき夫と遣やり合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質たちではなかった。
- 422 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:34.57 0.net
- 「面倒臭めんどくさい」
少し込み入った議論の筋道を辿たどらなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。
「執拗しつおうだ」
「執拗だ」
二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある蟠わだかまりを御互の素振そぶりから能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
- 423 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:43.33 0.net
- 我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊きかず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の中うちに繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。
「これで沢山だ」
「己もこれで沢山だ」
また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。
それでも護謨紐ゴムひものように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮のびちぢみがあった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々そろそろ元へ戻って来た。そうした日和ひよりの好いい精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩もれた。
「これは誰の子?」
- 424 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 14:14:51.10 0.net
- 健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢うごめき掛けていた生の脈搏みゃくはくを感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭しとうに伝えようとしたのである。
「喧嘩けんかをするのはつまり両方が悪いからですね」
彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固がんこな健三も、微笑するより外に仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵かたき同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」
健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻ひねった。
- 425 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:21:39.71 0.net
- 六十六
御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。
毎年まいとし時候が寒くなるときっと身体からだに故障の起る兄は、秋口からまた風邪かぜを引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日いくか経っても熱が除とれないで苦しんでいた。
「つい無理をするもんだから」
無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかを択えらぶより外に仕方がないように見えたのである。
「どうも肋膜ろくまくらしいっていうんだがね」
- 426 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:21:49.56 0.net
- 彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について何人なんびとよりも強い畏怖いふの念を抱いだいていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。
健三は細君に向っていった。――
「もう少し平気で休んでいられないものかな。責せめて熱の失なくなるまででも好いいから」
「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」
健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ活計くらしの方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。同時にそういう観察から逃のがれる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩を嘗なめた。
「死にやしまいな」
「まさか」
- 427 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:21:57.94 0.net
- 細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。生家さとと縁故のある産婆が、遠い所から俥くるまに乗って時々遣やって来た。彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。
「腹でも揉もむのかい」
「まあそうです」
細君ははかばかしい返事さえしなかった。
その内兄の熱がころりと除とれた。
「御祈祷ごきとうをなすったんですって」
迷信家の細君は加持かじ、祈祷、占い、神信心かみしんじん、大抵の事を好いていた。
- 428 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:07.31 0.net
- 「御前が勧めたんだろう」
「いいえそれが私わたくしなんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪剃かみそりを頭の上へ載せて遣るんですって」
健三には髪剃の御蔭で、しこじらした体熱が除れようとも思えなかった。
「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまた直すぐ除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子しゃくしでも鍋蓋なべぶたでも同じ事さ」
「しかしいくら御医者の薬を飲んでも癒なおらないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」
健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。
兄が癒ると共に姉がまた喘息ぜんそくで悩み出した。
「またかい」
- 429 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:16.14 0.net
- 健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。
「しかし今度こんだは何時もより重いんですって。ことによると六むずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれって仰おっしゃいました」
兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の尻しりを畳の上に着けた。
「少し立っていると御腹おなかの具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」
産が逼せまるほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像の外ほかにあった。彼は活動を強しいる勇気も自信も失なった。
「私とても御見舞には参れませんよ」
「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」
- 430 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:26.94 0.net
- 六十七
その頃の健三は宅うちへ帰ると甚しい倦怠けんたいを感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寐ひるねをした。机に倚よって書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。愕然がくぜんとして仮寐うたたねの夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃しげきした。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。括くくり付けられた人のように書斎に凝じっとしていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と坐すわっていろと彼に命令するのである。
かくして四、五日は徒いたずらに過ぎた。健三が漸ようやく津つの守坂かみざかへ出掛けた時は六むずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。
「まあ結構です」
彼は尋常の挨拶あいさつをした。けれども腹の中では狐きつねにでも抓つままれたような気がした。
- 431 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:38.93 0.net
- 「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせ他ひとの厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」
姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。しかし彼は黙って烟草タバコを吹かしていた。こんな些細ささいの点にも姉弟きょうだいの気風の相違は現われた。
「でも比田のいるうちは、いくら病身でも無能やくざでも私あたしが生きていて遣やらないと困るからね」
親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着むとんじゃく過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。
- 432 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:48.60 0.net
- 「私あたしゃ本当に損な生れ付でね。良人うちとはまるであべこべなんだから」
姉の夫思いは全く天性に違なかった。けれども比田が時として理の徹とおらない我儘わがままをいい募るように、彼女は訳の解らない実意立じついだてをしてかえって夫を厭いやがらせる事があった。それに彼女は縫針ぬいはりの道を心得ていなかった。手習てならいをさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから今日こんにちまで、ついぞ夫の着物一枚縫った例ためしがなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、小用こように行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の内外うちそとで母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。
そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの腹違はらちがいの姉の前に、彼は反省を強しいられた。
「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥むけば己おれだって大した変りはないんだ」
- 433 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 15:22:56.36 0.net
- 平生へいぜいの彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。かく事実の上において突然人間を平等に視みた彼は、不断から軽蔑けいべつしていた姉に対して多少極きまりの悪い思をしなければならなかった。しかし姉は何にも気が付かなかった。
「御住おすみさんはどうです。もう直じき生れるんだろう」
「ええ落おっこちそうな腹をして苦しがっています」
「御産は苦しいもんだからね。私あたしも覚があるが」
久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。年歯としを取ってからの初産ういざんだったので、当人も傍はたのものも大分だいぶ心配した割に、それほどの危険もなく胎児を分娩ぶんべんしたが、その子はすぐ死んでしまった。
「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも彼子あれがいると少しは依怙たよりになるんだがね」
- 434 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 21:13:14.37 0.net
- 【朝日新聞】自民、単独過半数を確保の勢い 立憲は公示前と同程度か 出口調査 [マスク着用のお願い★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635678567/
- 435 :Ms.名無しさん:2021/10/31(日) 21:14:49.59 0.net
- 【テレビ各局・自民党予想獲得議席】テレビ朝日243、テレビ東京240、TBS239、日本テレビ238、フジテレビ230、 NHK212〜253 [影のたけし軍団★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635681210/
- 436 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 05:50:43.07 0.net
- 自民の甘利明幹事長が比例復活
https://news.nicovideo.jp/watch/nw10078968
【主な比例復活】
立民・小沢一郎氏
立民・海江田万里氏
立民・中村喜四郎氏
自民・石原宏高氏
自民・平井卓也前デジタル相
自民・金田勝年元法相
自民・桜田義孝元五輪相
自民・泉田裕彦氏
自民・後藤田正純氏
れ新・大石あきこ氏
- 437 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:23:11.94 0.net
- 六十八
姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。
「彦ちゃんがもう少し確乎しっかりしていてくれると好いいんだけれども」
彼女は時々傍はたのものにこんな述懐を洩もらした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極しごく穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという噂うわさを耳にした事はあるが、その他たの点について深い交渉を有もたない健三には、どこが不足なのか能よく解らなかった。
「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」
- 438 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:23:21.36 0.net
- 無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢ぜいたくのいえた義理でもなかった。彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れて遣やらなかった。僅わずかばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ僥倖ぎょうこうといわなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。彼はその生顔いきがおを見た事がなかった。その死顔しにがおも知らなかった。名前さえ忘れてしまった。
「何とかいいましたね、あの子は」
「作太郎さくたろうさ。あすこに位牌いはいがあるよ」
姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて拵こしらえた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなく小汚こぎたないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。
「あの小さい奴がそうですか」
- 439 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:24:11.61 0.net
- 「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」
立って行って戒名かいみょうを読む気にもならなかった健三は、やはり故もとの所に坐すわったまま、黒塗くろぬりの上に金字で書いた小形の札のようなものを遠くから眺めていた。
彼の顔には何の表情もなかった。自分の二番目の娘が赤痢に罹かかって、もう少しで命を奪とられるところだった時の心配と苦痛さえ聯想れんそうし得なかった。
「姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ、健ちゃん」
彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざとその視線を避けた。
- 440 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:24:23.39 0.net
- 心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄と少し趣を異にしている所があった。慢性の病気が何時までも継続するように、慢性の寿命がまた何時までも継続するだろうと彼女には見えたのである。
其所そこへ彼女の癇性かんしょうが手伝った。彼女はどんなに気息苦いきぐるしくっても、いくら他ひとから忠告されても、どうしても居いながら用を足そうといわなかった。這はうようにしてでも厠かわやまで行った。それから子供の時からの習慣で、朝はきっと肌抜はだぬぎになって手水ちょうずを遣つかった。寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決してやめなかった。
「そんな心細い事をいわずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」
「養生はしているよ。健ちゃんから貰もらう御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事に極きめているんだから」
- 441 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:24:34.31 0.net
- 田舎いなかものが米の飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのが凡すべての養生ででもあるかのような事をいった。日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心の中うちにも、「他事ひとごとじゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。
「私わたしも近頃は具合が悪くってね。ことによると貴方あなたより早く位牌になるかも知れませんよ」
彼の言葉は無論根のない笑談じょうだんとして姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑った。しかし自みずから健康を損いつつあると確たしかに心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方を憐あわれんだ。
「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない」
彼はそう思って姉の凹くぼみ込んだ眼と、痩こけた頬ほおと、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。
- 442 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:24:51.31 0.net
- 六十九
姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変な廻まわり気ぎを出す癖を有もっていた。
健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、他ひとの同情に訴え得るような憐あわれっぽい事実を彼の前に並べた。しまいに兄の口を借りて、いくらでも好いいから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。すると姉から手紙が来た。長ちょうさんの話では御前さんが月々いくらいくら私わたしに遣やるという事だが、実際御前さんの、呉れるといった金高かねだかはどの位なのか、長さんに内所ないしょでちょっと知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月中取次なかとりつぎをする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。
健三は馬鹿々々しく思った。腹立しくも感じた。しかし何より先に浅間あさましかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉に宛あてた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分を能よく現わしていた。姉はそれぎり何ともいって来なかった。無筆むひつな彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。
- 443 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:05.52 0.net
- この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でも蚊でも訊ききたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想い到いたらなかった。
「近頃御住さんはどうだい」
「まあ相変らずです」
会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。
- 444 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:14.48 0.net
- 間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分だいぶ交まじっていた。しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想ぶあいそな変人に過ぎなかった。
淋さみしい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く弁わきまえていた。けれども其所そこには彼の追憶を誘いざなう何物も残っていなかった。過去の記念が悉ことごとく彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。
彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直まっすぐな径こみちとを思い出した。田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根わらぶきやねが見えた。菅笠すげがさを脱いで床几しょうぎに腰を掛けながら、心太ところてんを食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い紙漉場かみすきばがあった。其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。橋の袂たもとにある古風な銭湯の暖簾のれんや、その隣の八百屋やおやの店先に並んでいる唐茄子とうなすなどが、若い時の健三によく広重ひろしげの風景画を聯想れんそうさせた。
しかし今では凡すべてのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。
「何時こんなに変ったんだろう」
- 445 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:24.10 0.net
- 人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層劇はげしい自然の変り方に驚ろかされた。
彼は子供の時分比田ひだと将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも所沢ところざわの藤吉とうきちさんの御弟子だからなというのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。
「己おれ自身は必竟ひっきょうどうなるのだろう」
衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。
- 446 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:33.82 0.net
- 七十
元気のない顔をして宅うちへ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹ひいた。
「御病人はどうなの」
あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然はっきり聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。
「何もう好いいんだ。寐ねてはいるが危篤きとくでも何でもないんだ。まあ兄貴に騙だまされたようなものだね」
馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振くちぶりに出た。
- 447 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:43.61 0.net
- 「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫あなた。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」
「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」
「やっぱり宅にいないの」
「いるもんか。尤もっとも非道ひどく悪かった時はどうだか知らないが」
健三は比田の振下ぶらさげている金時計と金鎖の事を思い出した。兄はそれを天麩羅てんぷらだろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。金着きんきせにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては無頓着むとんじゃくでいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。
「月賦で買ったに違ないよ」
「ことによると質の流れかも知れない」
- 448 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:25:52.55 0.net
- 姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三には殆ほとんど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を幾個いくつでも卸した。そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、金高きんだかを決して知る事が出来なかった。
「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」
姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいい中あてるように夫から遠ざかっていた。
姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、妄みだりに彼女を驚ろかせたがる料簡りょうけんに至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、焦じらされながらも夫を腕利うでききと思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。
「金の要いる時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所いっしょにいるだけじゃないか」
健三の謎なぞは容易に解けなかった。考える事の嫌きらいな細君はまた何という評も加えなかった。
「しかし己おれたち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう他ひとの事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」
「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」
- 449 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:26:01.52 0.net
- 健三はすぐ癪しゃくに障った。
「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」
「いますとも。貴夫あなたが好いと思っていらっしゃる通りに」
彼らの争いは能よくこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心を攪かき乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の責せめに帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。
「字が書けなくっても、裁縫しごとが出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」
「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」
細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横よこたわっていた。
- 450 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:26:10.32 0.net
- 七十一
筋道の通った頭を有もっていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に囚とらわれるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆ほとんど無定見であった。母はまた普通の女のように八釜やかましく子供を育て上る性質たちでなかった。彼女は宅うちにいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に能よく感じていた。
「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強しいられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好いい。夫という肩書などはなくっても構わないから」
不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚はばからなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」
- 451 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:26:19.21 0.net
- 二人が衝突する大根おおねは此所ここにあった。
夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女のくせに」という気になった。それが一段劇はげしくなると忽たちまち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という挨拶あいさつが何時でも貯たくわえてあった。
「いくら女だって、そう踏み付にされて堪たまるものか」
健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。
「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵こしらえるがいい」
- 452 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:26:27.41 0.net
- 健三の論理ロジックは何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理ロジックと同じものになってしまった。
彼らはかくして円まるい輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。
健三はその輪の上にはたりと立ち留どまる事があった。彼の留る時は彼の激昂げっこうが静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融とけ出す時に限っていた。その時健三は漸ようやく怒号をやめた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。
細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎あいにく留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。
「何か用でもあったのかい」
「ええ少し御話ししたい事があるんですって」
- 453 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 07:26:36.28 0.net
- 「何だい」
細君は答えなかった。
「知らないのかい」
「ええ。また二、三日うちに上あがって能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったら直じかに聞いて下さい」
健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。
久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けて来きようなどとは夢にも予期しなかった。その不審が例いつもより彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や無愛嬌ぶあいきょうから来る寡言かげんとも違っていた。
夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。細い燈火ともしびの影を凝じっと見詰めていると、灯ひは動かないで風の音だけが烈はげしく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈あかりを間に置いて、しばらく森しんと坐すわっていた。
- 454 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 08:59:25.30 0.net
- 七十二
「今日きょう父が来ました時、外套がいとうがなくって寒そうでしたから、貴方あなたの古いのを出して遣やりました」
田舎いなかの洋服屋で拵こしらえたその二重廻にじゅうまわしは、殆ほとんど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。
「あんな汚ならしいもの」
彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。
「いいえ。喜こんで着て行きました」
「御父おとっさんは外套を有もっていないのかい」
- 455 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 08:59:36.88 0.net
- 「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」
健三は驚ろいた。細い灯ひに照らされた細君の顔が急に憐あわれに見えた。
「そんなに窮こまっているのかなあ」
「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」
口数の寡すくない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々うすうす知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。
彼は絹帽シルクハットにフロックコートで勇ましく官邸の石門せきもんを出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木かたぎを久きゅうの字じ形がたに切り組んで作ったその玄関の床ゆかは、つるつる光って、時によると馴なれない健三の足を滑らせた。前に広い芝生しばふを控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続つづいて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所そこで細君の家族のものと一緒に晩餐ばんさんの卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多カルタに招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡うちに更ふかした記憶もあった。
西洋館に続いて日本建にほんだても一棟ひとむね付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女げじょと二人の書生が住んでいた。職務柄客の出入でいりの多いこの家の用事には、それだけの召仕めしつかいが必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も充みたされるはずはなかった。
- 456 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 08:59:44.72 0.net
- 健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が駒込こまごめの奥に住居すまいを構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――
「まあ自分の宅うちを有もつという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々せいぜい貯蓄を心掛けたら好いいでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを私わたしに預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」
貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。
「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」
彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕きょうがくの念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力かいりょくを眺めた。しかし千円拵こしらえて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊きく気にもならずについ今日こんにちまで過ぎたのである。
「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」
- 457 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 08:59:51.57 0.net
- 「でも仕方がありませんわ、廻まわり合あわせだから」
産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の気息遣いきづかいはただでさえ重々おもおもしかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と光沢つやの悪いその頬ほおとを眺めた。
昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を描かいた下等な団扇うちわを四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺おやじ相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情なさけなくなった。
「でもよく着られるね」
「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」
細君は淋さびしそうに笑った。
- 458 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:00.69 0.net
- 七十三
中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。
年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して鄭寧ていねいであった。或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。しかしそれが彼を現わす凡すべてではなかった。裏側には反対のものが所々に起伏していた。
官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初から頗すこぶる横着に見えた。超えてはならない階段を無躾ぶしつけに飛び越すようにも思われた。その上彼はむやみに自みずから任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。頭にある事を何でも口外して憚はばからない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の標的まとになった。
健三の稚気を軽蔑けいべつした彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて来きようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人は其所そこで留まったなり動けなくなった。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所も判明はっきりと理解する事が出来悪にくくなった。そうして二人とも自分の有もっている欠点の大部分には決して気が付かなかった。
しかし今の彼は健三に対して疑うたがいもなく一時的の弱者であった。他ひとに頭を下げる事の嫌きらいな健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。
「如何いかにも苦しいだろう」
- 459 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:09.67 0.net
- 健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ち来きたした金策談に耳を傾むけた。けれども好いい顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分を呪のろっていた。
「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。私わたくしはこんな場合に敵討かたきうちをするような卑怯ひきょうな人間とは違ます」
細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。
このぶっきら棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。また落付おちついていた。傍はたから見れば遥に紳士らしかった。
彼は或人の名を挙げた。
「向うでは貴方あなたを知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」
「知っています」
- 460 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:17.08 0.net
-
健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い交際つきあいはなかった。卒業して独乙ドイツへ行って帰って来たら、急に職業がえをして或ある大きな銀行へ入ったとか人の噂うわさに聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。
「まだ銀行にいるんですか」
細君の父は点頭うなずいた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しく訊きいて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。
「で当人のいうには、貸しても好い、好いが慥たしかな人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」
「なるほど」
- 461 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:25.97 0.net
- 「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」
健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇ちゅうちょしなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上他ひとに知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。平生へいぜい彼の口にする知合しりあいのうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。
「何故なぜ私の判が必要なんでしょう」
「貴方なら貸そうというのです」
健三は考えた。
- 462 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:35.41 0.net
- 七十四
彼は今日こんにちまで証書を入れて他ひとから金を借りた経験のない男であった。つい義理で判を捺ついて遣やったのが本もとで、立派な腕を有もちながら、生涯社会の底に沈んだまま、藻掻もがき通しに藻掻いている人の話は、いくら迂闊うかつな彼の耳にもしばしば伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物が能よく働らきたがった。この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って如何いかにも無情で、冷刻で、心苦しかった。
「私でなくっちゃいけないのでしょうか」
「貴方あなたなら好いいというんです」
彼は同じ事を二度訊きいて同じ答えを二度受けた。
「どうも変ですね」
- 463 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:44.37 0.net
- 世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく交際つきあった事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。
「どんな目に逢わされるか分りゃしない」
彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡しゅんじゅんしなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。
「印を捺おす事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調ととのえて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の有もっている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ中あたって見ましょう。無論御入用おいりようだけの額たかは駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」
いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強しいなかった。
「どうぞそれじゃ何分」
- 464 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:00:53.02 0.net
- 彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱くつぬぎの上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上のぼらずにしまった。
けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、火鉢ひばちや烟草盆タバコぼんを一所に買って歩いてもらった友達の宅うちへまた出掛けた。
「金を貸してくれないかね」
彼は藪やぶから棒に質問を掛けた。金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を翳かざしながら友達の前に逐一事情を話した。
「どうだろう」
- 465 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:01.33 0.net
- 三年間支那のある学堂で教鞭きょうべんを取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。
「じゃ清水しみずに頼んで見てくれないか」
友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。
「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」
友達の好意は幸い徒労むだにならずに済んだ。健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経って後のちの事であった。
- 466 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:11.54 0.net
- 七十五
「己おれは精一杯の事をしたのだ」
健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の調達ちょうだつした金の価値について余り考えなかった。さぞ嬉うれしがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父も其所そこまで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。
従来の牆壁しょうへきを取り払うにはこの機会があまりに脆弱ぜいじゃく過ぎた。もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。
父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。なるべく自分を他ひとに能よく了解させようと力つとめるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線に触あてさせたがる性質たちであった。従って彼を囲繞いにょうする妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。
境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生へいぜいを顧みない訳に行かなかった。彼はそれを糊塗ことするため、健三に向って能あたう限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという巨細こさいの事実は、遂に健三の耳に入いらなかった。健三も訊きかなかった。
- 467 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:19.40 0.net
- 二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。傍はたでそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。
健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。
「山を掘るんだって?」
「ええ、何でも新らしく会社を拵こしらえるんだそうです」
彼は眉まゆを顰ひそめた。同時に彼は父の怪力かいりょくに幾分かの信用を置いていた。
「旨うまく行くのかね」
「どうですか」
- 468 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:27.67 0.net
- 健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされた後のち、彼はその用事を帯びて北国ほっこくのある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣やって来た。父が旅先で急に病気に罹かかったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向ようむきであった。
「ええええ旅費位どうでもして上あげますから、すぐ行って御上なさい」
宿屋に寐ねている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを心しんから気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の佗わびしさまで想像の眼に浮べた。
「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」
「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方が好いいでしょう」
幸いにして父の病気は軽かった。しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり立消たちぎえになってしまった。
「まだ何にも見付からないのかね、口は」
- 469 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:37.23 0.net
- 「あるにはあるようですけれども旨うまく纏まとまらないんですって」
細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。しかし市の有志家が何名か打ち揃そろって上京した時に、有名な政治家のある伯爵はくしゃくに会って、父の適不適を問い訊ただしたら、その伯爵がどうも不向ふむきだろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。
「どうも困るね」
「今に何とかなるでしょう」
細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の怪力かいりょくを知らないではなかった。
「ただ気の毒だからそういうだけさ」
彼の言葉に嘘うそはなかった。
- 470 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:45.34 0.net
- 七十六
けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自みずから進んで母に旅費を用立ようだった女婿むすめむこは、一歩退しりぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着むとんじゃくでもなかった。むしろ黒い瞳ひとみから閃ひらめこうとする反感の稲妻であった。力つとめてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。
父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧ていねいであった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛つっかかる事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃いんぎんな態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。
「私わたくしも今度という今度は困りました」
最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。
- 471 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:01:53.67 0.net
- 父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。
「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨うまく出来そうですよ。三井みついと三菱みつびしを除けば日本ではまあ彼所あすこ位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」
この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にある或ある私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、其所そこの社長を選ぶ特権を有していたのである。しかし何十株か何百株かの持主として、予あらかじめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。
「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」
- 472 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:02:02.83 0.net
- 健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を見縊みくびっていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱げだつさせるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶あいさつは形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。
「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」
彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。
- 473 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 09:02:11.27 0.net
- 「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌しのぎにはなりますから」
昔し彼が政府の内意で或官職を抛なげうった時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好よいという条件を付けた事があった。しかし彼は断然それを斥しりぞけた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金を貰もらって、別に厭いやな顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。
こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。
- 474 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 10:51:26.86 0.net
- 【速報】岸田首相は甘利幹事長を交代させる方向で検討
https://zai.diamond.jp/list/fxnews/detail?id=378842
- 475 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:04.86 0.net
- 七十七
細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。乃木のぎ将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。――
「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤あつく実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分だいぶあるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには能よく及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。其所そこへ行くとやっぱり手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただ坐すわっているより外に仕方がありませんからね」
彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。侯爵こうしゃくを会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を綺麗きれいに事業の上で完成した後あと、彼の手元に二万円ほどの剰余金を委ゆだねた。官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。そうして何時の間にか全部を消費してしまった。しかし彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を毎月まいげつ調達ちょうだつして、体面を繕ろわなければならなかった。自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、公生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全く嬉うれしいに違なかった。
- 476 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:14.99 0.net
- よほど後あとになって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼を悪にくむ気は更に起らなかった。そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。しかし細君に対しての健三は、この点に関して殆ほとんど無言であった。細君は時々彼に向っていった。――
「妾わたし、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」
「泥棒でも構わないのかい」
- 477 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:23.17 0.net
- 「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも好いいわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、宅うちで不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」
実際細君はこの言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。けれども彼の推察は月の暈かさのように細君の言外まで滲にじみ出した。学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉でよそながら非難するのだという臭においがどこやらでした。しかしそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度で暗あんに自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。
「己おれはそんな事で人と離れる人間じゃない」
- 478 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:33.60 0.net
- 自分を細君に説明しようと力つとめなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。
しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠みぞが出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。
健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを寛仮ゆるさなかった。表向それを咎とがめる事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細こさいに心得ていた彼は、何故なぜ健三が細君の父たる彼に、賀正がせいを口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。
一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、遣やらんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質たちの宜よろしくないこの余裕を非常に悪にくみ出した。
- 479 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:42.90 0.net
- 七十八
「与くみしやすい男だ」
実際において与しやすい或物を多量に有もっていると自覚しながらも、健三は他ひとからこう思われるのが癪しゃくに障った。
彼の神経はこの肝癪かんしゃくを乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた。彼は群衆のうちにあって直すぐそういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だからなおそういう人が眼に着いた。またそういう人を余計尊敬したくなった。
同時に彼は自分を罵ののしった。しかし自分を罵らせるようにする相手をば更に烈はげしく罵った。
- 480 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:03:53.15 0.net
- かくして細君の父と彼との間には自然の造った溝渠みぞが次第に出来上った。彼に対する細君の態度も暗あんにそれを手伝ったには相違なかった。
二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々生家さとの方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、冥々めいめいの裡うちに細君の肩を持たなければならなくなった。しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。二人は益ますます離れるだけであった。
幸にして自然は緩和剤としての歇私的里ヒステリーを細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏うつぶせになって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端はじに蹲踞うずくまっている彼女を、後うしろから両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。
- 481 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:01.80 0.net
-
そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧もうろうとして夢よりも分別がなかった。瞳孔どうこうが大きく開いていた。外界はただ幻影まぼろしのように映るらしかった。
枕辺まくらべに坐すわって彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃ひらめいた。時としては不憫ふびんの念が凡すべてに打ち勝った。彼は能よく気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛くしを入れて遣やった。汗ばんだ額を濡ぬれ手拭てぬぐいで拭ふいて遣った。たまには気を確たしかにするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。
発作の今よりも劇はげしかった昔の様も健三の記憶を刺戟しげきした。
- 482 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:11.08 0.net
- 或時の彼は毎夜細い紐ひもで自分の帯と細君の帯とを繋つないで寐ねた。紐の長さを四尺ほどにして、寐返ねがえりが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
或時の彼は細君の鳩尾みぞおちへ茶碗ちゃわんの糸底を宛あてがって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反ぞり返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰くい留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。
或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。
- 483 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:22.51 0.net
- 「御天道おてんとうさまが来ました。五色しきの雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫あなた」
「妾わたしの赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所そこにいるじゃありませんか。桔槹はねつるべの中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」
流産してから間もない彼女は、抱き竦すくめにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。……
細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆たなびいていた。彼は心配よりも可哀想かわいそうになった。弱い憐あわれなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉うれしそうな顔をした。
- 484 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:32.81 0.net
- だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪かんしゃくが強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己おれを苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。
不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君が本もとで出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後あとでも、ちょっと埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。
- 485 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:44.23 0.net
- 七十九
不合理な事の嫌きらいな健三は心の中うちでそれを苦に病んだ。けれども別にどうする了簡りょうけんも出さなかった。彼の性質はむきでもあり一図でもあったと共に頗すこぶる消極的な傾向を帯びていた。
「己おれにそんな義務はない」
自分に訊きいて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼は何時までも不愉快の中で起臥きがする決心をした。成行なりゆきが自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。
- 486 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:04:52.50 0.net
- 不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。他ひとから頼まれて男より邁進まいしんする場合もあった。しかしそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭めいりょうな或物を捉つらまえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれというほどの破綻はたんは認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその他たを閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。
「だって何にもないじゃありませんか」
裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。しまいにどうなっても構わないという投なげ遣やりの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。
かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。偶然というよりもむしろ必然の結果であった。互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。
細君の父が健三の手で調達ちょうだつされた金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。
「産婆は何時頃生れるというのかい」
- 487 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:05:03.02 0.net
- 「何時って判然はっきりいいもしませんが、もう直じきですわ」
「用意は出来てるのかい」
「ええ奥の戸棚の中に入っています」
健三には何が這入はいっているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな溜息ためいきを吐ついた。
「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」
「今度こんだは死ぬかも知れないっていってたじゃないか」
「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」
- 488 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:05:12.46 0.net
- 「どうも御気の毒さまだな」
「好いいわ、死ねば貴夫あなたのせいだから」
健三は遠い田舎いなかで細君が長女を生んだ時の光景を憶おもい出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨に応こたえるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛しがみ付いた。そうして拷問でもされる人のように唸うなった。彼は自分の細君が身体からだの上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。
「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」
「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」
- 489 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:05:20.76 0.net
- 「一人で生めるかい」
細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。生うまれ付つき心配性な彼は、細君の唸うなり声を余所よそにして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。
産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。
「一週間以内かね」
「いえもう少し後あとでしょう」
健三も細君もその気でいた。
- 490 :Ms.名無しさん:2021/11/01(月) 14:31:19.02 0.net
- 【なぜなのか?】投票率55.93%、戦後3番目の低さ ★4
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635730195/
- 491 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:54:47.18 0.net
- 八十
日取が狂って予期より早く産気さんけづいた細君は、苦しそうな声を出して、傍そばに寐ねている夫の夢を驚ろかした。
「先刻さっきから急に御腹おなかが痛み出して……」
「もう出そうなのかい」
- 492 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:02.53 0.net
- 健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。
「少し撫さすって遣やろうか」
起き上る事の臆劫おっくうな彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか有もっていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干みちひのように、何度も来たり去ったりしたように思えた。
「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切ひとしきり痛んではまた一仕切治まるんだろう」
「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」
細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。凝じっと蒲団ふとんの上に落付おちついていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。
「産婆を呼ぼうか」
- 493 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:13.30 0.net
- 「ええ、早く」
職業柄産婆の宅うちには電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳かけ付けるのを例にしていた。
初冬はつふゆの暗い夜はまだ明け離れるのに大分だいぶ間があった。彼はその人とその人の門かどを敲たたく下女げじょの迷惑を察した。しかし夜明よあけまで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖ふすまを開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急せき立てて暗い夜の中へ追い遣った。
彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益ますます劇はげしくなった。彼の神経は一分ごとに門前で停とまる車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。
産婆は容易に来なかった。細君の唸うなる声が絶間たえまなく静かな夜の室へやを不安に攪かき乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺こらえて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩ぶんべんした。
「確しっかりしろ」
- 494 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:21.87 0.net
- すぐ立って蒲団の裾すその方に廻った健三は、どうして好いいか分らなかった。その時例の洋燈ランプは細長い火蓋ほやの中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している辺あたりは、夜具の縞柄しまがらさえ判明はっきりしないぼんやりした陰で一面に裹つつまれていた。
彼は狼狽ろうばいした。けれども洋燈を移して其所そこを輝てらすのは、男子の見るべからざるものを強しいて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽たちまち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好かっこうの判然しない何かの塊かたまりに過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫なでて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥はげ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込ひっこめた。
「しかしこのままにして放って置いたら、風邪かぜを引くだろう、寒さで凍こごえてしまうだろう」
死んでいるか生きているかさえ弁別みわけのつかない彼にもこういう懸念が湧わいた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の中うちに入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部うしろにある唐紙からかみを開けた。彼は其所から多量の綿を引き摺ずり出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切ちぎって、柔かい塊の上に載せた。
- 495 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:30.48 0.net
- 八十一
その内待まちに待った産婆が来たので、健三は漸ようやく安心して自分の室へやへ引き取った。
夜よは間もなく明けた。赤子あかごの泣く声が家の中の寒い空気を顫ふるわせた。
「御安産で御目出とう御座います」
「男かね女かね」
「女の御子さんで」
産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。
- 496 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:39.12 0.net
- 「また女か」
健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中うちで暗あんに細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い到いたらなかった。
田舎いなかで生まれた長女は肌理きめの濃こまやかな美くしい子であった。健三はよくその子を乳母車うばぐるまに乗せて町の中を後うしろから押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら宅うちへ帰って来た。しかし当あてにならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に伴つれられて彼を新橋しんばしに迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと好いい御父おとうさまかと思ったと傍はたのものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈たけが詰って来た。輪廓に角かどが立った。健三はこの娘の容貌の中うちにいつか成長しつつある自分の相好そうごうの悪い所を明らかに認めなければならなかった。
次女は年が年中腫物できものだらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのが本もとで、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに剪きってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主うみぼうずの化物ばけもののような風をして、其所そこいらをうろうろしていた。
三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。
「ああいうものが続々生れて来て、必竟ひっきょうどうするんだろう」
- 497 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:48.11 0.net
- 彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気おぼろげに交まじっていた。
彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かに寐ねていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団ふとんに包くるまれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜ゆうべ暗闇くらやみで彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。
一切も綺麗きれいに始末されていた。其所そこいらには汚よごれ物ものの影さえ見えなかった。夜来やらいの記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。
「蒲団は換えて遣やったのかい」
「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」
「よくこう早く片付けられるもんだね」
- 498 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:55:57.21 0.net
- 産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。
「貴夫あなたがむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」
「そうだろう。随分驚ろいたからね」
こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって蒼あおい顔をしている細君の方が懸念の種になった。
「どうだ」
細君は微かすかに眼を開けて、枕の上で軽く肯うなずいた。健三はそのまま外へ出た。
- 499 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:04.97 0.net
- 例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐すわった。
「どうだ」
しかし細君はもう肯ずかなかった。
「何だか変なようです」
彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照ほてっていた。
「心持が悪いのかい」
「ええ」
「産婆を呼びに遣ろうか」
「もう来るでしょう」
産婆は来るはずになっていた。
- 500 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:13.65 0.net
- 八十二
やがて細君の腋わきの下に験温器が宛あてがわれた。
「熱が少し出ましたね」
産婆はこういって度盛どもりの柱の中に上のぼった水銀を振り落した。彼女は比較的言葉寡ずくなであった。用心のため産科の医者を呼んで診みてもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。
「大丈夫なのかな」
「どうですか」
- 501 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:25.70 0.net
- 健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱さんじょくねつじゃなかろうかという危惧きぐの念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
「どうですかって、御前の身体からだじゃないか」
細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。
「人がこんなに心配して遣やるのに」
この感じを翌あくる日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退さめている事に気が付いた。
「やっぱり何でもなかったのかな」
- 502 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:37.09 0.net
- 「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」
「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」
健三は真面目まじめであった。細君は淋さびしい頬ほおに微笑を洩もらした。
熱は幸さいわいにしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐すわった。
「今度こんだは死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」
「死んだ方が好ければ何時でも死にます」
「それは御随意だ」
- 503 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:47.70 0.net
- 夫の言葉を笑談じょうだん半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。
「実際今度こんだは死ぬと思ったんですもの」
「どういう訳で」
「訳はないわ、ただ思うのに」
死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。
「御前は呑気のんきだね」
「貴夫あなたこそ呑気よ」
- 504 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:56:56.35 0.net
- 細君は嬉うれしそうに自分の傍そばに寐ねている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい頬片ほっぺたを突つっついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻めはなを有もっているとはいえないほど変な顔をしていた。
「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」
「今に大きくなりますよ」
健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
- 505 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:06.55 0.net
- 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
「詰らないわ。他ひとに解らない事さえいいや、好いいかと思って」
細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭いやな顔もせずに書斎へ入った。
彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息ぜんそくで斃たおれようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に入いるようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他た島田の事も御常おつねの事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。
- 506 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:16.17 0.net
- 八十三
子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑ひまさえあると、新らしい妹いもとの傍そばに寄りたがった。その妹の瞬またたき一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏くさめでも欠あくびでも何でもかでも不可思議な現象と見えた。
「今にどんなになるだろう」
当面に忙殺ぼうさいされる彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになるかをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。
この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。
「また塊かたまっているな」
彼はすぐ踵きびすを回めぐらして部屋の外へ出る事があった。
- 507 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:25.20 0.net
- 時によると彼は服も改めずにすぐ其所そこへ胡坐あぐらをかいた。
「こう始終湯婆ゆたんぽばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」
彼は何にも解らないくせに好いい加減な小言こごとをいってかえって細君から笑われたりした。
日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ室へやに塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
「女は子供を専領してしまうものだね」
細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。其所そこには自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。
- 508 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:34.25 0.net
- 「何で藪やぶから棒にそんな事を仰おっしゃるの」
「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討かたきうちをするつもりなんだろう」
「馬鹿を仰ゃい。子供が私わたくしの傍そばへばかり寄り付くのは、貴夫あなたが構い付けて御遣おやりなさらないからです」
「己おれを構い付けなくさせたものは、取とりも直さず御前だろう」
「どうでも勝手になさい。何ぞというと僻ひがみばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には敵かないませんから」
健三はむしろ真面目まじめであった。僻みとも口巧者くちごうしゃとも思わなかった。
「女は策略が好きだからいけない」
- 509 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:43.04 0.net
- 細君は床の上で寐返ねがえりをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。
「そんなに何も私わたくしを虐いじめなくっても……」
細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥さんじょくを離れ得ない彼女の前に慰藉いしゃの言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭ふいてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。
次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。
「貴夫何故なぜその子を抱いて御遣りにならないの」
「何だか抱くと険呑けんのんだからさ。頸くびでも折ると大変だからね」
「嘘うそを仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合じょうあいが欠けているんですよ」
- 510 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 06:57:52.35 0.net
- 「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣つけない男に手なんか出せやしないじゃないか」
実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡みずぼうそうの出来た時、健三の態度が俄にわかに一変した実例を証拠に挙げた。
「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」
健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。
「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」
彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡すべての技巧から解放された自由の人であるかのように。
- 511 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:57:30.99 0.net
- 八十四
退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能よく床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹ひく時、彼は細君に向って訊きいた。
「こんなものが面白いのかい」
細君は自分の文学趣味の低い事を嘲あざけられるような気がした。
「いいじゃありませんか、貴夫あなたに面白くなくったって、私わたくしにさえ面白けりゃ」
- 512 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:57:40.93 0.net
- 色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。
健三の所へ嫁とつぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入でいりする二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは異ちがった意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信を有もっていた。
案に相違して健三は頑強がんきょうであった。同時に細君の膠着力こうちゃくりょくも固かった。二人は二人同志で軽蔑けいべつし合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三はまた自分を認めない細君を忌々いまいましく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下みくだす態度を公けにして憚はばからなかった。
「じゃ貴夫が教えて下されば好いいのに。そんなに他ひとを馬鹿にばかりなさらないで」
- 513 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:57:51.84 0.net
- 「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、己おれにゃどうする事も出来ないよ」
誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。しかし古いだけで埓らちは一向開かなかった。
健三はもう飽きたという風をして、手摺てずれのした貸本を投げ出した。
「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかし余あんまり眼を使わないようにしたら好いだろう」
- 514 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:01.18 0.net
- 細君は裁縫しごとが一番好きであった。夜よる眼が冴さえて寐ねられない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈ランプの下に運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのが本もとで、大変視力を悪くした経験もあった。
「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」
「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」
「なに大丈夫です」
- 515 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:11.52 0.net
- まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。
「御前が困らなくっても己が困る」
健三はわざと手前勝手らしい事をいった。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。
同時に彼のノートは益ますます細かくなって行った。最初蠅はえの頭位であった字が次第に蟻ありの頭ほどに縮まって来た。何故なぜそんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、殆ほとんど無意味に洋筆ペンを走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈ランプから出る薄い灯火ともしびの影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費らんぴして顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。
- 516 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:21.66 0.net
- 八十五
細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐きりを立てようとしていた。
「大変荒れた事、今年は例いつもより寒いようね」
「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」
「そうでしょうかしら」
細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢ひばちの上に翳かざして、自分の爪つめの色を見た。
「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」
- 517 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:30.62 0.net
- 「ええ、そりゃ分ってますわ」
彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白あおしろい頬ほおを二、三度撫なでた。
「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」
健三には自分の説明を聴かない細君が可笑おかしく見えた。
「そりゃ冬だから寒いに極きままっているさ」
- 518 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:39.86 0.net
- 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体からだに厳しく中あたった。彼はやむをえず書斎に炬燵こたつを入れて、両膝りょうひざから腰のあたりに浸しみ込む冷ひえを防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異かわる所がなかった。
毎朝夫を送り出してから髪に櫛くしを入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳すくたびに櫛の歯に絡からまるその抜毛を残り惜気おしげに眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。
「新らしく生きたものを拵こしらえ上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」
彼女の胸には微かすかにこういう感じが湧わいた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏まとめるほどの頭を有もっていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が交まじっていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛かあいくなるばかりであった。
彼女はぐたぐたして手応てごたえのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬ほおへ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。
彼女は自分の傍わきにその子を置いて、また裁たちもの板の前に坐すわった。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐ねているその顔を、心配そうに上から覗のぞき込んだ。
「そりゃ誰の着物だい」
- 519 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:58:48.34 0.net
- 「やっぱりこの子のです」
「そんなにいくつも要いるのかい」
「ええ」
細君は黙って手を運ばしていた。
健三は漸やっと気が付いたように、細君の膝ひざの上に置かれた大きな模様のある切地きれじを眺めた。
「それは姉から祝ってくれたんだろう」
「そうです」
- 520 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:07.01 0.net
- 「下らない話だな。金もないのに止せば好いいのに」
健三から貰もらった小遣の中うちを割さいて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。
「つまり己おれの金で己が買ったと同じ事になるんだからな」
「でも貴夫あなたに対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」
姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他ひとから物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。
「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田ひだに借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」
こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。
「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」
他ひとを訪問する時に殆ほとんど土産みやげものを持参した例ためしのない健三は、それでもまだ不審そう
に細君の膝の上にあるめりんすを見詰めていた。
- 521 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:16.90 0.net
- 八十六
「だから元は御姉おあねえさんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」
細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――
「十とおのものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的あてに何か呉れるんだそうですよ」
「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」
- 522 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:25.90 0.net
- 「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」
他ひとから見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり拵こしらえている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。
「随分厄介な交際つきあいだね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」
「傍はたから見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」
- 523 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:35.57 0.net
- 健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。
今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴したたる面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。
兼かねてからわが座敷の如何いかにも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂だんござかにある唐木からきの指物師さしものしの所へ行って、紫檀したんの懸額かけがくを一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰もらった北魏ほくぎの二十品にじっぴんという石摺いしずりのうちにある一つを択えり出して入れた。それからその額を環かんの着いた細長い胡麻竹ごまだけの下へ振ぶら下げて、床の間の釘くぎへ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付おちつかないせいか、額は静かな時でも斜ななめに傾かたぶいた。
- 524 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:48.69 0.net
- 彼はまた団子坂を下りて谷中やなかの方へ上のぼって行った。そうして其所そこにある陶器店から一個の花瓶はないけを買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に贅沢ぜいたくをいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。
彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物たんものを買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好いい加減な選択をした。それはむやみに光る絣かすりであった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に揃そろいの羽織はおりと着物を拵こしらえるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙いせざきめいせんを抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。
これらの物を買い調ととのえた彼は毫ごうも他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過重かちょうする姉に比べて見ると、彼は憐あわれなものに対する好意すら失なっていた。
- 525 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 08:59:56.33 0.net
- 「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊みえぼうなんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」
「親切気しんせつぎはまるでないんでしょうか」
「そうさな」
健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。
「ことによると己おれの方が不人情に出来ているのかも知れない」
- 526 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 09:00:16.54 0.net
- 八十七
この会話がまだ健三の記憶を新しく彩いろどっていた頃、彼は御常おつねから第二回の訪問を受けた。
先達せんだって見た時とほぼ同じように粗末な服装なりをしている彼女の恰好かっこうは、寒さと共に襦袢胴着じゅばんどうぎの類でも重ねたのだろう、前よりは益ますます丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢ひばちをすぐその人の方へ押し遣やった。
「いえもう御構い下さいますな。今日きょうは大分だいぶ御暖おあったかで御座いますから」
外部そとには穏やかな日が、障子に篏はめめた硝子越ガラスごしに薄く光っていた。
「あなたは年を取って段々御肥おふとりになるようですね」
- 527 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 09:00:26.49 0.net
- 「ええ御蔭さまで身体からだの方はまことに丈夫で御座います」
「そりゃ結構です」
「その代り身上しんしょうの方はただ痩やせる一方で」
健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えるところもあった。
「酒でも飲むんじゃなかろうか」
こんな推察さえ彼の胸を横切った。
- 528 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 09:00:38.91 0.net
- 御常の肌身はだみに着けているものは悉ことごとく古びていた。幾度いくたび水を潜くぐったか分らないその着物なり羽織はおりなりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗きれいに洗張あらいはりが出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何いかにも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。
「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」
「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」
健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。
「この人は己おれを自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」
近頃の健三は実際健康を損そこなっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診みてもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃした。或時は他ひとが自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。
「年が若くって起居たちいに不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構もんがまえの宅うちに住んで下女げじょさえ使っていれば金でもあると考えるように」
- 529 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 09:00:49.77 0.net
- 健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく床とこの間まに飾られた花瓶はないけとその後に懸っている懸額かけがくとを眺めた。近いうちに袖そでを通すべきぴかぴかする反物たんものも彼の心のうちにあった。彼は何故なぜこの年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。
「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」
彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。
御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕うでがすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当みあたらないらしかった。
「何しろ取高とりだかが少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼かせいでくれると好いいのですけれども」
彼女は自分の娘婿を捉つらまえて愚図だとも無能やくざだともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指ものさしで反物の寸法さえ計れば、縞柄しまがらだの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。
生憎あいにく健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。
- 530 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:19:45.07 0.net
- 立民 枝野代表 辞任の意向表明 衆院選 議席減で引責
2021年11月2日 13時08分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211102/k10013331691000.html
- 531 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:29:33.63 0.net
- 女性の自殺15%増、7千人
非正規拡大が一因 全体は11年ぶり増朝日新聞デジタル
2020年の女性の自殺者数は前年より935人(15・4%)増え、7026人だった。
男性が微減だった一方で女性が大きく増え、全国の自殺者数が11年ぶりに増加に転じることにつながった。
政府が2日閣議決定した21年版の自殺対策白書はコロナ禍の状況を分析し、
特に働く女性らが追い詰められている実態も明らかになった。
- 532 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:53:52.78 0.net
- 八十八
好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。
「失礼ですがこれで俥くるまへでも乗って行って下さい」
「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上あがったのでは御座いませんから」
彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐ふところへ入れた。
小遣を遣やる時の健三がこの前と同じ挨拶あいさつを用いたように、それを貰もらう御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高かねだかさえ一致していた。
「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」
- 533 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:01.60 0.net
- 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。
「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要いらざる義理立ぎりだてをするのと同じ事なのかしら」
自分の関係した事じゃないといった風に熨斗ひのしを動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――
「ないときは遣らないでも好いいじゃありませんか。何もそう見栄みえを張る必要はないんだから」
「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」
二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗ひのしから火鉢ひばちへ移す音がその間に聞こえた。
「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫あなたの紙入かみいれに」
健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶はないけを買うのに四円いくらか払った。懸額かけがくを誂あつらえるとき五円なにがしか取られた。指物師さしものしが百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀したんの書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人しょうにんの手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙いせざきめいせんを買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢てあかの付いた五円札がたった一枚残ったのである。
「実はまだ買いたいものがあるんだがな」
- 534 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:10.39 0.net
- 「何を御買いになるつもりだったの」
健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。
「沢山あるんだ」
慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を有もっている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。
「あの御婆おばあさんは御姉おあねえさんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅うちで落ち合っても、そう喧嘩けんかもしないでしょう」
「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪たまらないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」
「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」
- 535 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:18.84 0.net
- 「喧嘩はとにかく、己おれの方が厭いやじゃないか」
「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅うちへ来る事を」
「どうだか」
島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。
「あの御婆さんの方がまだあの人より好いいでしょう」
「どうして」
「五円貰うと黙って帰って行くから」
島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。
- 536 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:31.91 0.net
- 八十九
日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想れんそうした。
彼らだって生れ付いての敵かたき同志でない以上、仲の好いい昔もあったに違ない。他ひとから爪つめに灯ひを点ともすようだといわれるのも構わずに、金ばかり溜ためた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。彼らに取って睦むつましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまった後あと、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。
健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。しかし過去に無感覚な表情しか有もたない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の憎悪ぞうお、古い愛執あいしゅう、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。
彼は腰から烟草入タバコいれを出して、刻み烟草を雁首がんくびへ詰めた。吸殻すいがらを落すときには、左の掌てのひらで烟管キセルを受けて、火鉢ひばちの縁を敲たたかなかった。脂やにが溜たまっていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。彼は無言で懐中ふところを探った。それから健三の方を向いた。
「少し紙はありませんか、生憎あいにく烟管が詰って」
- 537 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:43.00 0.net
- 彼は健三から受取った半紙を割さいて小撚こよりを拵こしらえた。それで二返も三返も羅宇ラウの中を掃除した。彼はこういう事をするのに最も馴なれた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。
「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」
彼は疎通とおりの好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。
「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」
「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」
島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。
- 538 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:54:52.31 0.net
- 「おや赤ん坊のようですね」
「ええ、つい此間こないだ生れたばかりです」
「そりゃどうも。些ちっとも知りませんでした。男ですか女ですか」
「女です」
「へええ、失礼だがこれで幾人いくたり目ですか」
島田は色々な事を訊きいた。それに相当な受応うけこたえをしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。
- 539 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:00.16 0.net
- 出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。
「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」
彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭めいりょうになるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は其所そこまで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある眼まなこを注いだ。何のために生きているか殆ほとんど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。
「どういう訳でこう丈夫なのだろう」
健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、毫ごうも責任がないものの如き忌々いまいましさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――
「御縫おぬいもとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」
とても助からないという事だけは、脊髄病せきずいびょうという名前から推おして、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。
「そうですか。可愛想かわいそうに」
「なに病気が病気だからとても癒なおりっこないんです」
島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。
- 540 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:10.84 0.net
- 九十
しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥はるかに重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。
「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」
此所ここまで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からその後あとを推察する事が出来た。
「また金でしょう」
「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」
島田の言葉は変にぞんざいになったり、また鄭寧ていねいになったりした。
- 541 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:21.85 0.net
- 「今までは金鵄勲章きんしくんしょうの年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的あてが外れるような始末で、私わたしも困るんです」
彼はまた調子を改めた。
「とにかくこうなっちゃ、御前を措おいてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」
「そう他ひとにのし懸って来たって仕方がありません。今の私わたくしにはそれだけの事をしなければならない因縁いんねんも何もないんだから」
島田は凝じっと健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を激昂げっこうさせるだけであった。健三の態度から深入ふかいりの危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。
「永い間の事はまた緩々ゆるゆる御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」
健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。
「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこの宅うちだって暮になりゃ百と二百と纏まとまった金の要いるのは当り前だろう」
健三は勝手にしろという気になった。
- 542 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:29.99 0.net
- 「私にそんな金はありませんよ」
「笑談じょうだんいっちゃいけない。これだけの構かまえをしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」
「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」
「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」
健三はこの無茶苦茶な言掛いいがかりに怒おこらされるよりはむしろ驚ろかされた。
「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方あなたの関係した事じゃありません」
島田は其所そこまで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。
「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」
「ええ、もう一文も上ません」
- 543 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:38.24 0.net
- 島田は立ち上った。沓脱くつぬぎへ下りて、開けた格子こうしを締める時に、彼はまた振り返った。
「もう参上あがりませんから」
最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い中うちに輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下みおろした。しかし彼はその輝きのうちに何らの凄すごさも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身の眸ひとみから出る怒いかりと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。
細君は遠くから暗あんに健三の気色けしきを窺うかがった。
「一体どうしたんです」
「勝手にするが好いいや」
「また御金でも呉れろって来たんですか」
- 544 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:45.39 0.net
- 「誰が遣やるもんか」
細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。
「あの御婆おばあさんの方が細く長く続くからまだ安全ね」
「島田の方だって、これで片付くもんかね」
健三は吐き出すようにこういって、来きたるべき次の幕さえ頭の中に予想した。
- 545 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:55:54.12 0.net
- 九十一
同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を鮮明あざやかに眺めた。
実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損できそこないが舞い込んで来たかという顔付をした父は、殆ほとんど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、生うみの父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負しょい込んでからすぐ慳貪けんどんに調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。次には愛想あいそをつかした。しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡もたげた。彼は遂に憂欝ゆううつにならずに済んだ。
子供を沢山有もっていた彼の父は、毫ごうも健三に依怙かかる気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。繋つながる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て遣やるのは、ただ損になるだけであった。
その上肝心の本人は帰って来ても籍は復もどらなかった。いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、また伴つれて行かれればそれまでであった。
「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。先方むこうでするのが当然だ」
父の理窟はこうであった。
- 546 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:56:02.70 0.net
- 島田はまた島田で自分に都合の好いい方からばかり事件の成行なりゆきを観望していた。
「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時表沙汰おもてざたにしてでもこっちへ奪還ふんだくってしまえばそれまでだ」
健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多がらくたとして彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。
「もうこっちへ引き取って、給仕きゅうじでも何でもさせるからそう思うがいい」
- 547 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:56:09.79 0.net
- 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾歳いくつだったか能よく覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分萌きざしている頃であった。
「給仕になんぞされては大変だ」
彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸さいわいにしてその言葉は徒労むだに繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。
「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」
- 548 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 13:56:20.27 0.net
- 彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘い終おおせたものだという誇りも大分だいぶ交まじっていた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。
彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。
彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。彼が御常を忌いむのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。一方から見ると、他ひとと反そりが合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。
- 549 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 15:04:50.25 0.net
- 九十二
細君は健三に向っていった。――
「貴夫あなたに気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
健三の心はこうした諷刺ふうしを笑って受けるほど落付おちついていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益ますます窮屈にした。
「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好いいと思っているんだろう」
「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」
生憎あいにく細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質たちであった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手ふところでをしたなり澄ましていた。行李こうり一つ絡からげるにさえ、彼は細紐ほそびきをどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」
- 550 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 15:04:59.09 0.net
- 動かない彼は、傍はたのものの眼に、如何いかにも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益ますます反対の方面に移して行った。
彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎いなかへ伴つれて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐あぐらをかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。
「あれじゃ仕方がない。私わたくしに御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」
健三の申出もうしでは細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣ほしいままにする我子を見て、何という未来の心配も抱いだいていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。
「もし田舎へ遣やって貴夫と衝突したり何なんかすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」
細君の弁解を聞いた時、健三は満更まんざらの嘘うそとも思わなかった。けれどもその他ほかにまだ意味が残っているようにも考えた。
「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」
- 551 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 15:05:09.95 0.net
- 周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所ここにあるのではなかろうかと推察した。
なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧りこう過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日こんにちに至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。
「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」
健三の言葉は勢い権柄けんぺいずくであった。傷きずつけられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。
機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――
- 552 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 15:05:17.69 0.net
- 「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好いいでしょう」
「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏こね返すっていうじゃないか」
「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六こむずかしい理窟はやめにして」
「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」
「だって貴夫の理窟は、他ひとを捻ねじ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」
「御前の頭が悪いからそう思うんだ」
「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌きらいですよ」
二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。
- 553 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 20:17:37.05 0.net
- 九十三
面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして其所そこに寐ねている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。
章魚たこのようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の牆かきもなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻せっぷんした。
「貴夫あなたが私わたくしのものでなくっても、この子は私の物よ」
彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。
その赤ん坊はまだ眼鼻立めはなだちさえ判明はっきりしていなかった。頭には何時まで待っても殆ほとんど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。
「変な子が出来たものだなあ」
- 554 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 20:17:47.76 0.net
- 健三は正直な所をいった。
「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」
「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」
「今に御覧なさい」
細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中やちゅう何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着ほうちゃくした。
四、五日前少し強い地震のあった時、臆病おくびょうな彼はすぐ縁えんから庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ上あがって来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。
「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」
- 555 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 20:17:57.10 0.net
- 何故なぜ子供の安危あんきを自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟とっさの衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。
「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」
「当り前ですわ」
健三は自分が如何いかにも不人情のような気がした。
しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって冷ひややかに眺めた。
「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」
- 556 :Ms.名無しさん:2021/11/02(火) 20:18:06.30 0.net
- しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。
「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに極きまっている。御前は己おれと離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」
書斎に落付おちついた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。
「芭蕉ばしょうに実が結なると翌年あくるとしからその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」
彼は母の立場をこう考え尽した後あと、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到いたった時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。
「子供を有もった御前は仕合せである。しかしその仕合を享うける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」
- 557 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:37:30.15 0.net
- 九十四
年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寐ねると御正月」という唄うたをうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。来きたるべき新年の希望に充みちていた。
書斎にいる健三は時々手に洋筆ペンを持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。
子供はまた「旦那の嫌きらいな大晦日おおみそか」という毬歌まりうたをうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中あてはまらなかった。彼はただ厚い四よつ折の半紙の束を、十とおも二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気インキで棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。
半紙に認ためられたものは悉ことごとく鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然はんぜんしないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆がっかりした。「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺ことわざが何遍となく彼の口に上のぼった。
「何時まで経ったって片付きゃしない」
- 558 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:37:40.01 0.net
- 彼は折々筆を擱おいて溜息ためいきをついた。
しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。
「何だい」
「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」
「今差支さしつかえるからって返してくれ」
一度立った細君はすぐまた戻って来た。
「何時伺ったら好いいか御都合を聞かして頂きたいんですって」
- 559 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:37:48.94 0.net
- 健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の傍そばに高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。
「何といいましょう」
「明後日あさっての午後に来て下さいといってくれ」
健三も仕方なしに時日を指定した。
仕事を中絶された彼はぼんやり烟草タバコを吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。
「帰ったかい」
「ええ」
- 560 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:37:57.76 0.net
- 細君は夫の前に広げてある赤い印しるしの附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――
調べ物を度外に置いた彼女は、坐すわるとすぐ夫に訊たずねた。――
「また何かそういって来る気でしょうね。執しつッ濃こい」
「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」
細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に遣やる方に傾いていた。しかし話は其所そこまで発展する機会を得ずによそへ外それてしまった。
「御前の宅うちの方はどうだい」
- 561 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:38:06.27 0.net
- 「相変らず困るんでしょう」
「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」
「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」
「この暮のうちには六むずかしいのかね」
「とても」
「困るだろうね」
「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」
細君は割合に落付おちついていた。何事も諦あきらめているらしく見えた。
- 562 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:38:15.56 0.net
- 九十五
見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日なかいちにち置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先ペンさきで、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭ゆびさきは赤い印気インキで所々汚よごれていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異ことにしていたが、健三からいえば、双方とも殆ほとんど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞しまの羽織はおりに角帯かくおびを締めて白足袋しろたびを穿はいていた。商人とも紳士とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊きいた。――
「貴方あなたは私わたくしの顔を覚えて御出おいでですか」
健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強しいていえば、今日こんにちまでただ世帯染しょたいじみて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」
- 563 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:38:33.78 0.net
- 彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好いい時分ですから」
彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊ぼっちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」
「そうですか」
健三は素そッ気けない挨拶あいさつをしたなり、その人の顔を凝じっと見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所あつかいじょを遣やっていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯いたずらをして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱すずりばこの中にあったんでさあ。あの時金盥かなだらいに水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
- 564 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:38:44.38 0.net
- 健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐すわっている人のその時の姿などは夢にも憶おもい出せなかった。
「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上あがったような訳合わけあいなんです」
彼は直すぐ本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。
「もう再び御宅へは伺わないといってますから」
「この間帰る時既にそういって行ったんです」
- 565 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:38:52.82 0.net
- 「で、どうでしょう、此所ここいらで綺麗きれいに片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」
健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気こうきを快よく思わなかった。
「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私わたしにはよッぽど心持が好いんです」
その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。
「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏まとめたものを渡して、あの書付と引ひき易かえになすった方が好くはありませんか」
健三はその書付を慥たしかに覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後こうご御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅わずか二行余あまりに綴つづって先方へ渡した。
「あんなものは反故ほご同然ですよ。向むこうで持っていても役に立たず、私が貰もらっても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」
健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。
- 566 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:02.89 0.net
- 九十六
話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ情じょうに訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡りょうけんが露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。
「書付を買えの、今に迷惑するのが厭いやなら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後こうご一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」
「ええそれがつまり私わたくしの来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」
健三はそんなら何故なぜ早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。
「じゃどの位出して下さいます」
健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明はっきりした目安の出て来きようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。
「まあ百円位なものですね」
- 567 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:12.93 0.net
- 「百円」
その人はこう繰り返した。
「どうでしょう、責せめて三百円位にして遣やる訳には行きますまいか」
「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」
「御尤ごもっともだが、島田さんもああして困ってるもんだから」
「そんな事をいやあ、私わたしだって困っています」
「そうですか」
彼の語気はむしろ皮肉であった。
「元来一文も出さないといったって、貴方あなたの方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ御止およしなさい」
相手は漸ようやく懸引かけひきをやめた。
- 568 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:22.12 0.net
- 「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまた上あがる事にしますから、どうぞ何分」
その人が帰った後で健三は細君に向った。
「とうとう来た」
「どうしたっていうんです」
「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるに極きまってるから厭だ」
「馬鹿らしい」
細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。
「だって仕方がないよ」
- 569 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:32.58 0.net
- 健三の返事も簡単であった。彼は其所そこへ落付くまでの筋道を委くわしく細君に話してやるのさえ面倒だった。
「そりゃ貴夫あなたの御金を貴夫が御遣りになるんだから、私わたくし何もいう訳はありませんわ」
「金なんかあるもんか」
健三は擲たたき付けるようにこういって、また書斎へ入った。其所には鉛筆で一面に汚よごされた紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ洋筆ペンを取り上げた。そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。
客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。
「神でない以上公平は保てない」
彼はあやふやな自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。
「神でない以上辛抱だってし切れない」
彼はまた洋筆ペンを放り出した。赤い印気インキが血のように半紙の上に滲にじんだ。彼は帽子を被かぶって寒い往来へ飛び出した。
- 570 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:42.11 0.net
- 九十七
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟ひっきょう何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声は忽たちまちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所そこへ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」
- 571 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:39:51.93 0.net
- 「己おれのせいじゃない。己のせいじゃない」
健三は逃げるようにずんずん歩いた。
賑にぎやかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃しげきした。彼の気分は漸ようやく変った。
彼は客の注意を惹ひくために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭みせさきを、それからそれと覗のぞき込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹さんごじゅの根懸ねがけだの、蒔絵まきえの櫛笄くしこうがいだのを、硝子越ガラスごしに何の意味もなく長い間眺めていた。
「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」
少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も殆ほとんど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中れんじゅうばかりであった。中にも細君の父は一番非道ひどそうに思われた。
「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」
借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。
- 572 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:40:01.81 0.net
- それは内閣の瓦解がかいした当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退しりぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者の中うちから、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に洩もれた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に逼せまった。官邸を引き払った時に召仕めしつかいの数を減らした彼は、少時しばらくして自用俥じようぐるまを廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って益ますます悲境に沈んで行った。
「相場に手を出したのが悪いんですよ」
細君はこんな事もいった。
「御役人をしている間は相場師の方で儲もうけさせてくれるんですって。だから好いいけれども、一旦役を退ひくと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」
「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」
「貴方あなたに解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」
- 573 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 06:40:11.92 0.net
- 「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極きまっちまうじゃないか。馬鹿な女だな」
健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶おもい出した。
彼はふと気が付いた。彼と擦すれ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を有もっているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。
或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥いちべつを与えた。
「御前は馬鹿だよ」
稀まれにはこんな顔付をするものさえあった。
彼はまた宅うちへ帰って赤い印気インキを汚きたない半紙へなすくり始めた。
- 574 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:13:30.57 0.net
- 九十八
二、三日すると島田に頼まれた男がまた刺しを通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐すわるべく余儀なくされた。
「どうも御忙がしいところを度々たびたび出まして」
彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。
「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜よろしい、その代りどうか年内に頂戴ちょうだい致したい、とこういうんですがね」
健三にはそんな見込がなかった。
「年内たってもう僅わずかの日数しかないじゃありませんか」
- 575 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:13:37.70 0.net
- 「だから向うでも急ぐような訳でしてね」
「あれば今すぐ上げても好いいんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」
「そうですか」
二人は少時しばらく無言のままでいた。
「どうでしょう、其所そこのところを一つ御奮発は願われますまいか。私わたくしも折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ遣やって来たもんですから」
それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの手数てかずでも面倒でもなかった。
「御気の毒ですが出来ませんね」
二人はまた沈黙を間に置いて相対あいたいした。
- 576 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:13:46.54 0.net
- 「じゃ何時頃頂けるんでしょう」
健三には何時という目的あてもなかった。
「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」
「私もこうして頼まれて上あがった以上、何とか向むこうへ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極おとりきめを願いたいと思いますが」
「御尤ごもっともです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」
健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。
その晩寒さと倦怠けんたいを凌しのぐために蕎麦湯そばゆを拵こしらえてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを啜すすりながら、盆を膝ひざの上に置いて傍そばに坐っている細君と話し合った。
「また百円どうかしなくっちゃならない」
- 577 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:16:47.57 0.net
- 「貴夫あなたが遣やらないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」
「遣らないでもいいのだけれども、己おれは遣るんだ」
言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。
「そう依故地えこじを仰おっしゃればそれまでです」
「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」
「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」
「理窟と形式とは違うさ」
- 578 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:16:57.94 0.net
- 「貴夫のは同なじですよ」
「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理ロジックを有もっている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体からだ全体にもあるんだ」
「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」
「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉このようなもので、理窟が中うちから白く吹き出すだけなんだ。外部そとから喰付くっつけた砂糖とは違うさ」
こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴つかまなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。
「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部そとへ出た所だけを捉つらまえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父おとっさんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁いんねんがないと考えているようなもので……」
「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部うわべばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻ひがんだ眼で他ひとを見ていらっしゃるから……」
細君の瞼まぶたから涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ外それた。そうして段々こんがらかって来た。
- 579 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:17:33.76 0.net
- 九十九
また二、三日して細君は久しぶりに外出した。
「無沙汰ぶさた見舞みまいかたがた少し歳暮に廻って来ました」
乳呑児ちのみごを抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬ほおを赤くして、暖かい空気の裡なかに尻しりを落付おちつけた。
「御前の宅うちはどうだい」
「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」
- 580 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:17:43.70 0.net
- 健三は挨拶あいさつの仕様もなかった。
「あの紫檀したんの机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止よしました」
舞葡萄まいぶどうとかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机とうづくえは、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当かたに取った細君の父は、同じ運命の下もとに、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。
「縁起はどうでも好いいが、そんな高価たかいものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」
健三は苦笑しながら烟草タバコを吹かした。
「そういえば貴夫あなた、あの人に遣やる御金を比田ひださんから借りなくって」
細君は藪やぶから棒にこんな事をいった。
「比田にそれだけの余裕があるのかい」
- 581 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:17:54.40 0.net
- 「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」
健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。
「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」
「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当さしあたり困るような事はないんですって」
彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。
「居食いぐいをしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」
「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」
健三は平生へいぜいから島田の因業を嗤わらっていた比田だの姉だのを憶おもい浮べた。自分たちの境遇が変ると、昨日きのうまで軽蔑けいべつしていた人の真似まねをして恬てんとして気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供染じみていた。
「どうせ高利なんだろう」
- 582 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:02.91 0.net
- 細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。
「何でも旨うまく運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉おあねえさんがそう仰おっしゃいましたよ」
健三は姉のいう利子の高から胸算用むなざんようで元金もときんを勘定して見た。
「悪くすると、またみんな損すっちまうだけだ。それよりそう慾張よくばらないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」
「だから確たしかな人に貸したいっていうんでしょう」
「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」
「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」
「それじゃ己おれだって借りるのは厭いやださ」
「御兄おあにいさんも困っていらしってよ」
- 583 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:11.02 0.net
- 比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。
「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑けんのんな思いまでして借りる必要もあるまいからね」
健三は苦々しいうちにも滑稽こっけいを感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でも能よく窺うかがわれた。それを傍はたで見て澄ましている姉の料簡りょうけんも彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟きょうだいという心持は全くしなかった。
「御前己が借りるとでもいったのかい」
「そんな余計な事いやしません」
- 584 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:20.61 0.net
- 百
利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても真面目まじめに考えられなかった。彼は毎月まいげついくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。
「辻褄つじつまの合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」
こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。
「何だか変だな。考えると可笑おかしくなるだけだ。まあ好いいや己おれが借りて遣やらなくってもどうにかなるんだろうから」
「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所あすこいらの待合まちあいか何かへ」
待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽こっけいに響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質たちではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。
滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生へいぜいから自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と殆ほとんど口癖くちくせのようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗あんに未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。
- 585 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:28.34 0.net
- 病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の記念かたみとも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は義姉あねから所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐中ふところから出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしい紐ひもに珊瑚樹さんごじゅの珠たまが装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体もったいらしく兄の前に置いた。
「それではこれは貴方あなたに上げる事にしますから」
傍そばにいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。
「どうも色々御手数おてかずを掛けまして、有難う。じゃ頂戴ちょうだいします」
- 586 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:36.02 0.net
- 兄は礼をいってそれを受取った。
健三は黙って三人の様子を見ていた。三人は殆んど彼の其所そこにいる事さえ眼中に置いていなかった。しまいまで一言いちごんも発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。しかし彼らは平気であった。彼らの仕打を仇敵きゅうてきの如く憎んだ健三も、何故なぜ彼らがそんな面中つらあてがましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。
彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想あいそうを尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番非道ひどい刑罰に違なかろうと判断した。
「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫あなたも随分執念深いわね。御兄おあにいさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」
細君は健三の顔を見て暗にその気色けしきを伺った。健三はちっとも動かなかった。
- 587 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:18:57.66 0.net
-
「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」
こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家さとの事も勘定に入れてあった。
- 588 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:19:17.82 0.net
- 百一
歳としが改たまった時、健三は一夜いちやのうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。
「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」
実際彼の周囲には大晦日おおみそかも元日もなかった。悉ことごとく前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ厭いやになった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。
彼は普通の服装なりをしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立ふゆこだちと荒た畠はたけ、藁葺わらぶき屋根と細い流ながれ、そんなものが盆槍ぼんやりした彼の眼に入いった。しかし彼はこの可憐かれんな自然に対してももう感興を失っていた。
幸い天気は穏かであった。空風からかぜの吹き捲まくらない野面のづらには春に似た靄もやが遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体からだを包んだ。彼は人もなく路みちもない所へわざわざ迷い込んだ。そうして融とけかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立たたずんでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描かいた。しかしその絵があまり不味まずいので、写生はかえって彼を自暴やけにするだけであった。彼は重たい足を引き摺ずってまた宅うちへ帰って来た。途中で島田に遣やるべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。
- 589 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:19:27.66 0.net
- 赤い印気インキで汚ない半紙をなすくる業わざは漸ようやく済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆ペンを執って原稿紙に向った。
健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己おのれの病気に敵討かたきうちでもしたいように。彼は血に餓うえた。しかも他ひとを屠ほふる事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜すすって満足した。
予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
「ああ、ああ」
彼は獣けだものと同じような声を揚げた。
- 590 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:19:37.20 0.net
- 書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡して好いいかちょっと迷った。直接の会見は彼も好まなかった。向うももう参上あがりませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。
「やっぱり御兄おあにいさんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」
「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」
健三は津守坂つのかみざかへ出掛て行った。
「百円遣るの」
驚ろいた姉は勿体もったいなさそうな眼を丸くして健三を見た。
- 591 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 09:19:50.06 0.net
- 「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そうしみったれた真似まねも出来まいし、それにあの島田って爺じいさんが、ただの爺さんと違って、あの通りの悪党わるだから、百円位仕方がないだろうよ」
姉は健三の腹にない事まで一人合点ひとりがてんでべらべら喋舌しゃべった。
「だけど御正月早々御前さんも随分好い面つらの皮さね」
「好い面の皮鯉こいの滝登りか」
先刻さっきから傍そばに胡坐あぐらをかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。しかしその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑おかしかった。
「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」
「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将うだいしょう頼朝公よりともこうの髑髏しゃりこうべと来ているんだから」
比田は変梃へんてこな事ばかりいった。しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。
- 592 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:06.82 0.net
- 百二
比田と兄が揃そろって健三の宅うちを訪問おとずれたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の香においがした。暮も春もない健三の座敷の中に坐すわった二人は、落付おちつかないように其所そこいらを見廻した。
比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。
「まあこれで漸ようやく片が付きました」
- 593 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:16.71 0.net
- その一枚には百円受取った事と、向後こうご一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟ては誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに捺おしてあった。
健三は「しかる上は後日に至り」とか、「后日ごじつのため誓約件くだんの如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。
「どうも御手数おてすうでした、ありがとう」
「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで蒼蠅うるさく付け纏まとわられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長ちょうさん」
「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」
- 594 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:24.49 0.net
- 比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣やらないでもいい百円を好意的に遣ったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるために金の力を藉かりたとはどうしても思えなかった。
彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送った文言もんごんを見出した。
「私儀わたくしぎ今般貴家御離縁に相成あいなり、実父より養育料差出候そうろうについては、今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくと存ぞんじ候」
健三には意味も論理ロジックも能よく解らなかった。
「それを売り付けようというのが向うの腹さね」
「つまり百円で買って遣ったようなものだね」
比田と兄はまた話し合った。健三はその間に言葉を挟さしはさむのさえ厭いやだった。
- 595 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:32.80 0.net
- 二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。
「こっちの方は虫が食ってますね」
「反故ほごだよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠かみくずかごへ入れてしまえ」
「わざわざ破かなくっても好いいでしょう」
健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って訊きいた。――
「先刻さっきの書付はどうしたい」
「箪笥たんすの抽斗ひきだしにしまって置きました。」
彼女は大事なものでも保存するような口振くちぶりでこう答えた。健三は彼女の所置を咎とがめもしない代りに、賞ほめる気にもならなかった。
「まあ好よかった。あの人だけはこれで片が付いて」
細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。
- 596 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:42.57 0.net
- 「何が片付いたって」
「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」
「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部うわべだけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
- 597 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 11:05:56.65 0.net
- 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆ほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他ひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好いい子だ好い子だ。御父さまの仰おっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこういいいい、幾度いくたびか赤い頬ほおに接吻せっぷんした。
- 598 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:24:31.99 0.net
- 夏目漱石【こころ】
上 先生と私
私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
- 599 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:24:58.43 0.net
- 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
- 600 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:25:14.07 0.net
- 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
- 601 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:25:28.40 0.net
- 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた
- 602 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:25:42.38 0.net
- 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべってみたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
- 603 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:25:52.22 0.net
- 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃやが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大きな別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めたり、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
- 604 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:26:03.53 0.net
- 二
私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あいだには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
- 605 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:26:19.09 0.net
- その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちであった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
- 606 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:26:29.57 0.net
- 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにかいった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
- 607 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:26:41.53 0.net
- 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いでいる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
- 608 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:27:03.90 0.net
- 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
- 609 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:27:13.82 0.net
- その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひもまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
- 610 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:27:29.10 0.net
- 三
私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
- 611 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:27:40.67 0.net
- 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
- 612 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:27:52.63 0.net
- 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
- 613 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:28:01.87 0.net
- しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
- 614 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:28:10.93 0.net
- 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
- 615 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:28:21.16 0.net
- それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
- 616 :Ms.名無しさん:2021/11/03(水) 14:28:31.07 0.net
- 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんしたあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。
- 617 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 09:52:14.36 0.net
- 【政府】経済産業省「『現役世代』を74歳までとし高齢者を支えれば、2065年まで年金制度を維持できます」★10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1635985796/
- 618 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:25:09.01 0.net
- 四
私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかんにただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷いためた。
- 619 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:25:19.48 0.net
- 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせという警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
- 620 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:25:33.97 0.net
- 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
- 621 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:25:43.84 0.net
- 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
- 622 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:25:53.31 0.net
- 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
- 623 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:02.13 0.net
- 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
- 624 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:12.77 0.net
- 五
私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
- 625 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:21.28 0.net
- 「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっきりいえないような一種の曇りがあった。
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
- 626 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:32.12 0.net
- 「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかった。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼくロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、ここいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
- 627 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:40.88 0.net
- 「すぐお宅たくへお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
- 628 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:47.88 0.net
- 「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。
- 629 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:26:58.37 0.net
- 六
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どすうが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
- 630 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:07.15 0.net
- 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽きるに間まのない或ある晩の事であった。
先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かってこういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
- 631 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:16.07 0.net
- 「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
- 632 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:25.76 0.net
- 「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
- 633 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:36.66 0.net
- 「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられない微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さいさえまだ伴れて行った事がないのです」
- 634 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:46.09 0.net
- 七
私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つなぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究されるのを絶えず恐れていたのである。
私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
- 635 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:27:55.60 0.net
- 「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
- 636 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:28:03.57 0.net
- 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」といった。
この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
- 637 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:28:14.44 0.net
- 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつかりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るのですか」
- 638 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 10:28:22.30 0.net
- ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこういって淋しい笑い方をした。
- 639 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:20:17.30 0.net
- 八
幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中うちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちいつの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外ほかに何の感じも残っていない。
- 640 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:20:31.33 0.net
- ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
- 641 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:20:41.07 0.net
- 「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
- 642 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:20:49.54 0.net
- 「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさいもののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
- 643 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:20:59.63 0.net
- 「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
- 644 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:10.25 0.net
- 九
私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざしている時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさしく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうになって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出されるようであった。
先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
- 645 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:19.69 0.net
- 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
- 646 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:29.24 0.net
- 「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
- 647 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:37.00 0.net
- 「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
- 648 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:46.13 0.net
- 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
- 649 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:21:54.99 0.net
- 十
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなものですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
- 650 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:05.38 0.net
- 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
- 651 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:15.08 0.net
- 「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といった。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
- 652 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:25.78 0.net
- 「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
- 653 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:36.97 0.net
- 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はその日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
- 654 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:49.23 0.net
- 十一
その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わからなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
- 655 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:22:59.92 0.net
- 「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
- 656 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:23:09.27 0.net
- 「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
- 657 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:23:19.10 0.net
- 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
- 658 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:23:30.93 0.net
- 十二
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
- 659 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:23:41.94 0.net
- 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえのへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
- 660 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:23:50.73 0.net
- 「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
- 661 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 14:24:00.32 0.net
- 私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解わかっていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
- 662 :Ms.名無しさん:2021/11/04(木) 19:05:16.26 0.net
- 自民党「やっぱり野党共闘効果あるわ、2割の選挙区で接戦で危なかった [256556981]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1635977547/
- 663 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:01.68 0.net
- 十三
我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
- 664 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:11.02 0.net
- 「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
- 665 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:20.65 0.net
- 「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
- 666 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:30.09 0.net
- 「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらしていたのだ。私は悪い事をした」
- 667 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:40.00 0.net
- 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまから広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
- 668 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:29:48.87 0.net
- 十四
年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯うけがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
- 669 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:30:01.50 0.net
- 「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
- 670 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:30:12.72 0.net
- 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
- 671 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:30:20.93 0.net
- 「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おのれとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
- 672 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:30:49.70 0.net
- 十五
その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
- 673 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:30:58.81 0.net
- 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
- 674 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:31:13.72 0.net
- 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
- 675 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:31:33.52 0.net
- これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふるわせた。
- 676 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:31:44.35 0.net
- 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
- 677 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:31:53.52 0.net
- 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
- 678 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:32:03.35 0.net
- そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃ころは日の詰つまって行くせわしない秋に、誰も注意を惹ひかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附近ふきんで盗難に罹かかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた家うちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家を空あけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外ほかの二、三名と共に、ある所でその友人に飯めしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。
- 679 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:32:15.38 0.net
- 十六
私わたくしの行ったのはまだ灯ひの点つくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生はもう宅うちにいなかった。「時間に後おくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には洋机テーブルと椅子いすの外ほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラスごしに電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私を坐すわらせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏かしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角かどにあるので、棟むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領りょうしていた。ひとしきりで奥さんの話し声が已やむと、後あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、凝じっとしながら気をどこかに配った。
三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
- 680 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:32:24.66 0.net
- 「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好よくありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜よろしければあちらで上げますから」
私は奥さんの後あとに尾ついて書斎を出た。茶の間には綺麗きれいな長火鉢ながひばちに鉄瓶てつびんが鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんは寝ねられないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
- 681 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:32:33.24 0.net
- 「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのが嫌きらいになるようです」
こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風ふうも見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
- 682 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 06:32:42.89 0.net
- 「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同おんなじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きずに献酬けんしゅうができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
- 683 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 08:27:12.51 0.net
- 【超絶悲報】安倍晋三、統一教会ビデオ撮影の裏側が暴露される。
「撮影が終わっても一人で喋ってんの。興奮して。ベラベラベラベラ」 [496173787]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1635913058/
- 684 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 08:31:44.02 0.net
- 【悲報】10万円給付、子供がいる世帯の平均所得は745万円、平均貯蓄は723万円と金持ちに配る悪政だった [901654321]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1636043665/
- 685 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 08:44:31.53 0.net
- ロイター
中国の著名女子テニス選手、前副首相の性的暴行をSNSで告発
https://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvC4GBUBKW99YAUPYL20ZTOM15GU?chan=2dshilhf
- 686 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 08:53:42.93 0.net
- 【新型コロナ】ドイツ 過去最大の感染爆発
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1636039389/
- 687 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:10:17.41 0.net
- 十七
私わたくしはまだその後あとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒いたずらに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底を覗のぞいて黙っている私を外そらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数かずを聞いた。奥さんの態度は私に媚こびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉を力つとめて打ち消そうとする愛嬌あいきょうに充みちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
- 688 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:10:49.84 0.net
- 「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
- 689 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:10:58.43 0.net
- 「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
- 690 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:07.38 0.net
- 「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにんとして、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。
- 691 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:16.65 0.net
- 十八
私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
- 692 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:26.74 0.net
- 「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
- 693 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:35.15 0.net
- 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは眼の中うちに涙をいっぱい溜ためた。
- 694 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:43.88 0.net
- 十九
始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょうあいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかんとか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には解わかりません」
- 695 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:11:55.05 0.net
- 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
- 696 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:04.81 0.net
- 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
- 697 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:12.75 0.net
- 「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
- 698 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:22.95 0.net
- 二十
私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋すがり付こうとした。
十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだけは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
- 699 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:32.57 0.net
- 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
- 700 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:42.16 0.net
- 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから抽ひき抜いてここへ詳くわしく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰もらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の上に載のせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラを出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女なんにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
- 701 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 09:12:50.73 0.net
- 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅うちへ出ではいりをするついでに、衣服の洗あらい張はりや仕立したて方かたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんな地じの好いい着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪にくいのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭かげで針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。
- 702 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 10:50:01.26 0.net
- 衆院選で当選 維新候補者の運動員 買収の疑いで逮捕
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20211105/2000053491.html
- 703 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 11:03:15.85 0.net
- ユーロ圏GDP、年率9.1%増 7〜9月
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR28A1D0Y1A021C2000000/
米GDP2.0%増、7〜9月
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN280090Y1A021C2000000/
日本だけマイナス・・
日本経済、反発力乏しく 7〜9月期はマイナス成長予測
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA292BT0Z21C21A0000000/
- 704 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:55:46.27 0.net
- 二十一
冬が来た時、私わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病やまいは慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭かげ一つで、今日こんにちまでどうかこうか凌しのいで来たように客が来ると吹聴ふいちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機はずみに突然眩暈めまいがして引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。後あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
冬休みが来るにはまだ少し間まがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗なめた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、要いるだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸ガラスどから冬に入いって稀まれに見るような懐かしい和やわらかな日光が机掛つくえかけの上に射さしていた。先生はこの日あたりの好いい室へやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸けた金盥かなだらいから立ち上あがる湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
- 705 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:55:54.33 0.net
- 「大病は好いいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえって厭いやなものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解わかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹かかりたいと思ってる」
- 706 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:02.77 0.net
- 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何かの抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
「何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
- 707 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:12.75 0.net
- 「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
- 708 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:21.50 0.net
- 「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
私はその晩の汽車で東京を立った。
- 709 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:33.15 0.net
- 二十二
父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床とこの上に胡坐あぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう凝じっとしている。なにもう起きても好いいのさ」といった。しかしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性ふしょうぶしょうに太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。私わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちははの顔を見る自由の利きかない男であった。妹は他国へ嫁とついだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだからいけない」
- 710 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:43.58 0.net
- 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
- 711 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:56:52.84 0.net
- 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさなどをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
- 712 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:57:04.69 0.net
- 「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
- 713 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:57:16.28 0.net
- 二十三
私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなので、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという滑稽こっけいもあった。
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
- 714 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:57:41.29 0.net
- 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
- 715 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:57:47.21 0.net
- 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わからない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭においを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
- 716 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:57:57.35 0.net
- 「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。
- 717 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:58:08.16 0.net
- 二十四
東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
- 718 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:58:21.12 0.net
- 「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
- 719 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:58:33.14 0.net
- 「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
- 720 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:58:44.94 0.net
- 「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
- 721 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 14:58:57.60 0.net
- 「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
- 722 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:28:50.58 0.net
- 二十五
その年の六月に卒業するはずの私わたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑うたぐった。他ほかのものはよほど前から材料を蒐あつめたり、ノートを溜ためたりして、余所目よそめにも忙いそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽たちまち動けなくなった。今まで大きな問題を空くうに描えがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を抑おさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏まとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は好いいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫ごうも私を指導する任に当ろうとしなかった。
- 723 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:28:58.44 0.net
- 「近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
先生は一時非常の読書家であったが、その後ごどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
- 724 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:29:07.59 0.net
- 「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
- 725 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:29:17.32 0.net
- 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私はほとんど論文に祟たたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前ぜんに卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにんは締切しめきりの日に車で事務所へ馳かけつけて漸ようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後おくらして持って行ったため、危あやうく跳はね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据すえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずかが骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
梅が咲くにつけて寒い風は段々向むきを南へ更かえて行った。それが一仕切ひとしきり経たつと、桜の噂うわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭むちうたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨またがなかった。
- 726 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:29:30.56 0.net
- 二十六
私わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉が霞かすむように伸び始める初夏の季節であった。私は籠かごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡しながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生の家うちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の上に、萌もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
先生は嬉うれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「お蔭かげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、聊いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅんらしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
- 727 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:14.94 0.net
- 「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好いい心持です」
「どこへ」
私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴つれて郊外へ出たかった。
- 728 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:24.17 0.net
- 一時間の後のち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛あてもなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
やがて若葉に鎖とざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細い路みちが開ひらけた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら上のぼりになっている入口を眺ながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
植込うえこみの中を一ひとうねりして奥へ上のぼると左側に家うちがあった。明け放った障子しょうじの内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
- 729 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:33.62 0.net
- 「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色かばいろの丈たけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」といった。
芍薬しゃくやくも十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬畠ばたけの傍そばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った端はじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生は蒼あおい透すき徹とおるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺ながめると、一々違っていた。同じ楓かえでの樹きでも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂いただきに投げ被かぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
- 730 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:42.23 0.net
- 二十七
私わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土を爪つめで弾はじきながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家うちには財産がよっぽどあるんですか」
- 731 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:49.95 0.net
- 「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
先生が私の家いえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを疑うたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
- 732 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:30:58.88 0.net
- 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かないは小人数こにんずであった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家うちでも造るさ」
この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえの先で地面の上へ円のようなものを描かき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっすぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
- 733 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:31:08.41 0.net
- 先生の言葉は半分独ひとり言ごとのようであった。それですぐ後あとに尾ついて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他よそへ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫ふるえが少しも筆の運はこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いいんでしょう」
- 734 :Ms.名無しさん:2021/11/05(金) 16:31:17.86 0.net
- 「好よければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
- 735 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:11.48 0.net
- 二十八
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰もらうものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気に触さわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
- 736 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:19.86 0.net
- 「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじや叔母おばの様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな善いい人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
- 737 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:30.02 0.net
- 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞの中うちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後うしろの方で犬が急に吠ほえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍そばに、熊笹くまざさが三坪みつぼほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十とおぐらいの小供こどもが馳かけて来て犬を叱しかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子を被かぶったまま先生の前へ廻まわって礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、家うちに誰だれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
- 738 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:40.23 0.net
- 「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来ると好よかったのに」
先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
小供は怜悧りこうそうな眼に笑わらいを漲みなぎらして、首肯うなずいて見せた。
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」
小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。
- 739 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:50.80 0.net
- 二十九
先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬんの掛念けねんはその時の私わたくしには全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解わからない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再び故もとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖とざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹きは大概楓かえでであったが、その枝に滴したたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそうから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝た痕あとがいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂やにがこびり着いてやしませんか」
- 740 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:34:59.84 0.net
- 「綺麗きれいに落ちました」
「この羽織はつい此間こないだ拵こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻さいに叱しかられるからね。有難う」
二人はまただらだら坂ざかの中途にある家うちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えなかった縁えんに、お上かみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえお構かまい申しも致しませんで」と礼を返した後あと、先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
門口かどぐちを出て二、三町ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰だれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
- 741 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:08.41 0.net
- 「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風ふうに。
「金かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰つまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後おくれがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて立たち留どまった私の顔を見て、先生はこういった。
- 742 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:18.63 0.net
- 三十
その時の私わたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
- 743 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:28.33 0.net
- 「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。また的まとが外はずれたようにも感じた。仕方がないから後あとはいわない事にした。すると先生がいきなり道の端はじへ寄って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、裾すそをまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々賑にぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畠はたけの斜面や平地ひらちが、全く眼に入いらないように左右の家並いえなみが揃そろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんどうの蔓つるを竹にからませたり、金網かなあみで鶏にわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静に眺ながめられた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなく擦すれ違って行った。こんなものに始終気を奪とられがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどりをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
- 744 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:38.39 0.net
- 「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処ところに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾たてを突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他ひとに欺あざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。
- 745 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:50.01 0.net
- 三十一
その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅくして、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は市の外はずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱とった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑うたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影は射さしていなかった。
私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏うちに残った。
無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解わかってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
- 746 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:35:58.51 0.net
- 「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏まとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉ことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたといった風ふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少し顫ふるえた。
「あなたは大胆だ」
- 747 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:36:07.99 0.net
- 「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐あばいてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい響ひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐すわっているのが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼あおかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人を疑うたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
- 748 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 06:36:18.52 0.net
- 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増ましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
- 749 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:54:49.91 0.net
- 三十二
私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封された自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさんはよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
- 750 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:54:58.74 0.net
- 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
- 751 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:07.87 0.net
- 「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそれほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのうちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
- 752 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:15.41 0.net
- 奥さんは私に「結構ね。さぞお父とうさんやお母かあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。
- 753 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:27.02 0.net
- 三十三
飯めしになった時、奥さんは傍そばに坐すわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじの役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回は私わたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
- 754 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:37.00 0.net
- 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これは宅うちで拵こしらえたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更かえてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじに靠もたせていた。
- 755 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:44.98 0.net
- 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善いいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解わからないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
- 756 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:55:53.41 0.net
- 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途みちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄すごい言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅たくの財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
- 757 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:01.02 0.net
- 「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜いいとして、あなたはこれから何か為なさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
- 758 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:09.68 0.net
- 三十四
私わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃ごろになるでしょう」
- 759 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:18.87 0.net
- 「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極きめていやしないんです」
席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
- 760 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:27.17 0.net
- 「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目だめなんだから」
尿毒症という言葉も意味も私には解わからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻まわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
- 761 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:37.07 0.net
- 「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶おもい出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己おれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」
- 762 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:46.54 0.net
- 「そう極きまった訳でもないわ。けれども男の方ほうはどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩わずらった例ためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
- 763 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:56:53.99 0.net
- 「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更かえていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。
- 764 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:57:03.51 0.net
- 三十五
私わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極きまった年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお父とうさんやお母さんなんか、ほとんど同おんなじよ、あなた、亡くなったのが」
- 765 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:57:12.01 0.net
- 「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮さえぎった。
「そんな話はお止よしよ。つまらないから」
先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
- 766 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:57:20.98 0.net
- 「静しず、おれが死んだらこの家うちをお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他ひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆みんなお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰もらっても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
- 767 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 10:57:30.77 0.net
- 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもう好いい加減にして、おれが死んだらは止よして頂戴ちょうだい。縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭いやがる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もくせいの一株ひとかぶが、私の行手ゆくてを塞ふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被おおわれているその梢こずえを見て、来たるべき秋の花と香を想おもい浮べた。私は先生の宅うちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹きの前に立って、再びこの宅の玄関を跨またぐべき次の秋に思いを馳はせた時、今まで格子の間から射さしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑にぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
- 768 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:26:32.22 0.net
- 三十六
私わたくしはその翌日よくじつも暑さを冒おかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中で汗を拭ふきながら、他ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを憎らしく思った。
私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善まるぜんの二階で潰つぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
- 769 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:26:44.56 0.net
- 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価あたいが極きわめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わずらわさなかったかを悔いた。
私は鞄かばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさいの土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんが解わからないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
- 770 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:26:54.27 0.net
- 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とても故もとのような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定さだめて心細いだろう、我々も子として遺憾いかんの至いたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想おもい浮べた。ことに二、三日前晩食ばんめしに呼ばれた時の会話を憶おもい出した。
- 771 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:04.20 0.net
- 「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外ほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
[#改ページ]
- 772 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:16.63 0.net
- 中 両親と私
一
宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
- 773 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:26.18 0.net
- 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った。
学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
- 774 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:35.60 0.net
- 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
- 775 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:48.92 0.net
- 「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
- 776 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:27:58.10 0.net
- 私は一言いちごんもなかった。詫あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚おろかものであった。私は鞄かばんの中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧おし潰つぶされて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧ていねいに伸のした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へいぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否いなや、すぐ己おのれに自然な勢いきおいを得て倒れようとした。
- 777 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:28:06.67 0.net
- 二
私わたくしは母を蔭かげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
- 778 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:28:16.04 0.net
- 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
- 779 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:28:25.00 0.net
- 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目まじめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょう己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
- 780 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:28:35.09 0.net
- 「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いでのだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うちにいる気かなんて」
- 781 :Ms.名無しさん:2021/11/06(土) 14:28:44.83 0.net
- 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑けんのんさ」
私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと聞いていた。
- 782 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:25:44.01 0.net
- 三
私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じするのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
- 783 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:26:30.24 0.net
- 「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
- 784 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:26:42.43 0.net
- 「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからというご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈をいわれると困る」
父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
- 785 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:26:56.15 0.net
- 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の上招待しょうだいの日取りを極きめた。
その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。
- 786 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:29:16.09 0.net
- 四
小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解いて書物を繙ひもとき始めた。
なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階で、
遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、
気に張りがあって心持よく勉強ができた。
私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱いだいた。
私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。
その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。
返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった。
私は固もとより先生を忘れなかった。
原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書き綴つづったのを
送る事にした。私はそれを封じる時、
先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑うたぐった。
先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、
- 787 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:29:22.00 0.net
- 五十恰好がっこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、
留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、
先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。
先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、
先生は一向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。
私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚しんせき
であった。私は先生に郵便を出す時、
ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。
もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、
あの切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。
そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、
私は能よく承知していた。ただ私は淋さびしかった。
そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。
しかしその返事はついに来なかった。
- 788 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:29:32.03 0.net
- 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまったまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいるように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
- 789 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:29:41.15 0.net
- こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。
- 790 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:29:53.56 0.net
- 五
父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺ながめるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしんでくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
- 791 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:04.36 0.net
- 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
- 792 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:16.88 0.net
- 「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
父はその後あとをいわなかった。
私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかったから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うのであった。
- 793 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:29.44 0.net
- 六
八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻まわしてやったら好よかろうと書いた。
私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
- 794 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:40.11 0.net
- 「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなはだしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
- 795 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:49.76 0.net
- 「何にもしていないんです」と私が答えた。
私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
- 796 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:30:59.77 0.net
- 「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
「ええ」
私は生返事なまへんじをして席を立った。
- 797 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:31:14.83 0.net
- 七
父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困らす質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅うちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いなかやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかった。
- 798 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:31:27.42 0.net
- わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんどうのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろといって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
- 799 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:31:36.96 0.net
- 「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
- 800 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 06:31:47.01 0.net
- 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
- 801 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:30:18.01 0.net
- 八
九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
- 802 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:30:26.42 0.net
- 「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
- 803 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:30:34.08 0.net
- 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけが好よかった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
- 804 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:30:45.08 0.net
- その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなかを出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのおれも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
- 805 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:30:53.91 0.net
- 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわって、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞いた。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さびしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭に上のぼりやすかった。
私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極きめた。
- 806 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:03.50 0.net
- 九
私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体はだかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だといった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
- 807 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:11.09 0.net
- 「そうしておくれ」と母が頼んだ。
母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
- 808 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:19.55 0.net
- 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつかえないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くもんもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
- 809 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:28.77 0.net
- 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛かんだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれというのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。
- 810 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:38.65 0.net
- 十
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あてで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
- 811 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:31:46.75 0.net
- 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死病に罹かかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
- 812 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:32:01.29 0.net
- 時とするとまた非常に淋さみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
- 813 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 08:32:10.16 0.net
- 「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もないといっていいくらいです」
私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじと相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。
- 814 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:05:30.74 0.net
- 十一
こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こうりは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一いちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑おさえ付けられた。
私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺ながめた。
私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡たんかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
- 815 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:05:39.32 0.net
- 「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺あざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
- 816 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:05:48.09 0.net
- 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
- 817 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:05:55.80 0.net
- 「そりゃ解わかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ほうちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥たしかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
- 818 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:05.48 0.net
- 十二
兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何を措おいても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
- 819 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:13.21 0.net
- 「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
- 820 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:25.64 0.net
- 「大変だ大変だ」といった。
何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その頃ころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へやへ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なりをしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
- 821 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:33.85 0.net
- 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹きや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠ほえるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍そばに立って待っていた。
電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
- 822 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:44.60 0.net
- 「きっとお頼たのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹いもとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつつある旨むねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をその日のうちに認したためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間まの悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
- 823 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:06:53.02 0.net
- 十三
私わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛あてで届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
- 824 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:07:04.75 0.net
- 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推おしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはあり得うべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
- 825 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:07:15.15 0.net
- その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って行った。
父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たまま他ひとの手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚はなはだしくそれを忌いみ嫌ったが、身体からだが利きかないので、やむを得ずいやいや床とこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経ふるに従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、傍はたのものが眉まゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉のどから下へはごく僅わずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕まくらの傍そばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒い鞘さやに納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作さくさんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨うらやましいね。己おれはもう駄目だめだ」
- 826 :Ms.名無しさん:2021/11/07(日) 13:07:25.89 0.net
- 「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭かげで大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風ふうに機嫌が直った。傍そばにいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮さえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉うれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹いもとの夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざと席を立った。
- 827 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:04.76 0.net
- 十四
父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うなるような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念のため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
- 828 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:12.02 0.net
- 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
- 829 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:19.65 0.net
- 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさしい心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
- 830 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:28.55 0.net
- 「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高たかの知れたものだろう」
母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
- 831 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:38.61 0.net
- 十五
「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
- 832 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:47.32 0.net
- 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つまらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
- 833 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:44:55.95 0.net
- 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうしてしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
- 834 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:05.85 0.net
- 「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かいで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
- 835 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:13.64 0.net
- 「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充みち満みちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後あとについて、こんな風に語り合った。
- 836 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:22.37 0.net
- 十六
父は時々囈語うわことをいうようになった。
「乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐお後あとから」
こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めておきたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へやの中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛しかけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。
「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
- 837 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:31.70 0.net
- 母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
- 838 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:42.59 0.net
- 「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あしだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍はたにいるものも助かります」といった。
- 839 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:45:51.83 0.net
- 父は時々眼を開けて、誰だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこに坐すわっていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇やみを縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌が段々縺もつれて来た。何かいい出しても尻しりが不明瞭ふめいりょうに了おわるために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は固もとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすと好いい心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取り更かえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのうを頭の上へ載のせた。がさがさに割られて尖とがり切った氷の破片が、嚢ふくろの中で落ちつく間、私は父の禿はげ上った額の外はずれでそれを柔らかに抑おさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空あいた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並なみの状袋じょうぶくろにも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいに糊のりで貼はり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐ふところに差し込んだ。
- 840 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:01.44 0.net
- 十七
その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私わたくしが厠かわやへ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍そばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
- 841 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:15.69 0.net
- 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々お世話になります」
父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその中うちの一人が立って次の間まへ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席を外はずして、自分の室へやへ来た。私には先刻さっき懐ふところへ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間を偸ぬすんでそれに充あてた。
私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂さき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いた罫けいの中へ行儀よく書いた原稿様ようのものであった。そうして封じる便宜のために、四よつ折おりに畳たたまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
- 842 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:25.26 0.net
- 私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるに極きまっているという予覚よかくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一頁ページを読んだ。その頁は下しものように綴つづられていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸いっするようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘うそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
- 843 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:33.95 0.net
- 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じていた。しかし筆を執とることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいて後あとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立ち上った。廊下を馳かけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
- 844 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:43.28 0.net
- 十八
病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起たってまごまごしていた。私わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をお貸かし」といったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父の尻しりの下に宛あてがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとに坐すわっていた医者は、浣腸かんちょうの結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際ぎわに、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
- 845 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:46:52.43 0.net
- 私は今にも変へんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしも寛ゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るや否いなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手を顫ふるわした。私は先生の手紙をただ無意味に頁ページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんに枠わくの中に篏はめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつかなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳たたんで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
- 846 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:47:06.10 0.net
- 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さかさに読んで行った。私は咄嗟とっさの間あいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒さかさまに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべは存外ぞんがい静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
- 847 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 06:47:21.82 0.net
- 私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二に、三日さんち保もつだろうか、そこのところを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あいにく留守であった。私には凝じっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落おち付つきもなかった。私はすぐ俥くるまを停車場ステーションへ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片かみぎれを宛あてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅うちへ届けるように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切った勢いきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂たもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
[#改ページ]
- 848 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 08:40:46.13 0.net
- 速報:
イベルメクチンより効果の低いメルクの新薬モルヌピラビル、
英医薬品・医療品規制庁が遺伝子変異原性と発ガン性を認める
- 849 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:11:33.45 0.net
- 下 先生と遺書
一
「……私わたくしはこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。
東京で相当の地位を得たいから宜よろしく頼むと書いてあったのは、
たしか二度目に手に入いったものと記憶しています。
私はそれを読んだ時何なんとかしたいと思ったのです。
少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、
私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、
交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、
そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。
実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いいのかと思い煩わずらっていたところなのです。
- 850 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:11:39.25 0.net
- このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、
それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。
馳足かけあしで絶壁の端はじまで来て、急に底の見えない谷を覗のぞき込んだ人のように。
私は卑怯ひきょうでした。
そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶はんもんしたのです。
遺憾いかんながら、その時の私には、
あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。
一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここうの資し、
そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。
私はそれどころの騒ぎでなかったのです。
私は状差じょうさしへあなたの手紙を差したなり、
依然として腕組をして考え込んでいました。宅うちに相応の財産があるものが、
何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻もがき廻まわるのか。
私はむしろ苦々にがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えただけでした。
私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、
言訳いいわけのためにこんな事を打ち明けるのです。
あなたを怒らすためにわざと無躾ぶしつけな言葉を弄ろうするのではありません。
私の本意は後あとをご覧になればよく解わかる事と信じます。
とにかく私は何とか挨拶あいさつすべきところを黙っていたのですから、
私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
- 851 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:12:20.44 0.net
- その後ご私はあなたに電報を打ちました。有体ありていにいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。
それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を掛かけて、
今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺ながめていました。
あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京しゅっきょうできない事情がよく解わかりました。
私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退のけにして、何であなたが宅うちを空あけられるものですか。
- 852 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:12:32.25 0.net
- そのお父さんの生死しょうしを忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。
そのくせあなたが東京にいる頃ころには、難症なんしょうだからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。
あるいは私の脳髄のうずいよりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我がを認めています。
あなたに許してもらわなくてはなりません。
- 853 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:12:55.09 0.net
- あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。
それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執とりかけましたが、一行も書かずに已やめました。
どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、
已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
- 854 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:14:43.08 0.net
- 二
「私わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思うように、
事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。
私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放擲ほうてきするところでした。
しかしいくら止よそうと思って筆を擱おいても、何にもなりませんでした。
私は一時間経たたないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、
これが義務の遂行すいこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。
私もそれは否いなみません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、
義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。
故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。
- 855 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:14:53.66 0.net
- けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。
むしろ鋭敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、
ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。
だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変厭いやな心持です。
私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。
それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。
ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共に葬ほうむった方が好いいと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。
- 856 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:15:03.95 0.net
- 暗いものを凝じっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫つかみなさい。
私の暗いというのは、固もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。
また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。
しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。
だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。
私のそれに対する態度もよく解わかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、
決して尊敬を払い得うる程度にはなれなかった。
- 857 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:15:11.42 0.net
- あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。
私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。
その極きょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれと逼せまった。
私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。
あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中から、或ある生きたものを捕つらまえようという決心を見せたからです。
私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜すすろうとしたからです。
- 858 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:15:21.54 0.net
- その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭いやであった。
それで他日たじつを約して、あなたの要求を斥しりぞけてしまった。
私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴あびせかけようとしているのです。
私の鼓動こどうが停とまった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
- 859 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:17:18.09 0.net
- 三
「私が両親を亡なくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。
いつか妻さいがあなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。
しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。
実をいうと、父の病気は恐るべき腸ちょう窒扶斯チフスでした。それが傍そばにいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅うちには相当の財産があったので、
むしろ鷹揚おうように育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、
少なくとも父か母かどっちか、片方で好いいから生きていてくれたなら、
私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。
- 860 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:17:27.72 0.net
- 私は二人の後あとに茫然ぼうぜんとして取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、
また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。
母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚さとっていたか、
または傍はたのもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。
母はただ叔父おじに万事を頼んでいました。そこに居合いあわせた私を指さすようにして、
「この子をどうぞ何分なにぶん」といいました。私はその前から両親の許可を得て、
東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。
それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後あとを引き取って、
「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。
- 861 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:17:41.37 0.net
- 母は強い熱に堪え得うる体質の女なんでしたろうか、叔父は「確しっかりしたものだ」といって、
私に向って母の事を褒ほめていました。しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、
今考えると分らないのです。母は無論父の罹かかった病気の恐るべき名前を知っていたのです。
そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。
けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、
そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。
その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、
一向いっこう記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……
- 862 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:17:50.90 0.net
- しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風ふうに物を解きほどいてみたり、
またぐるぐる廻まわして眺ながめたりする癖くせは、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。
それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、
その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。
あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この性分しょうぶんが倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、
私は後来こうらいますます他ひとの徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。
それが私の煩悶はんもんや苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥たしかですから覚えていて下さい。
話が本筋ほんすじをはずれると、分り悪にくくなりますからまたあとへ引き返しましょう。
- 863 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:18:00.39 0.net
- これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他ほかの人と比べたら、
あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。
世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ひびきももう途絶とだえました。
雨戸の外にはいつの間にか憐あわれな虫の声が、
露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微かすかに鳴いています。
何も知らない妻さいは次の室へやで無邪気にすやすや寝入ねいっています。
私が筆を執とると、一字一劃かくができあがりつつペンの先で鳴っています。
私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。
不馴ふなれのためにペンが横へ外それるかも知れませんが、
頭が悩乱のうらんして筆がしどろに走るのではないように思います。
- 864 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:19:57.29 0.net
- 四
「とにかくたった一人取り残された私わたくしは、母のいい付け通り、
この叔父おじを頼るより外ほかに途みちはなかったのです。
叔父はまた一切いっさいを引き受けて凡すべての世話をしてくれました。
そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐さつばつで粗野でした。
私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたのがありました。
それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中に擲なぐり合いをしている間あいだに、
学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、
菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、
その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、
ついに表沙汰おもてざたにせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、
上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。
- 865 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:20:09.31 0.net
- 私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。
当時私の月々叔父から貰もらっていた金は、あなたが今、
お父さんから送ってもらう学資に比べると遥はるかに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。
それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、
決して人を羨うらやましがる憐あわれな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、
むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極きまった送金の外に、
書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、
ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、
叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。
- 866 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:20:20.57 0.net
- その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。
父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。
父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。楽しみには、
茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。
書画骨董しょがこっとうといった風ふうのものにも、多くの趣味をもっている様子でした。
家は田舎いなかにありましたけれども、二里りばかり隔たった市し、――その市には叔父が住んでいたのです、
――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、
わざわざ父に見せに来ました。父は一口ひとくちにいうと、
まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いいのでしょう。
比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。だから気性きしょうからいうと、
闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。
- 867 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 09:20:32.01 0.net
- 父はよく叔父を評して、自分よりも遥はるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。
自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんが鈍にぶる、
つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。
私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。
「お前もよく覚えているが好いい」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。
だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、褒ほめられたりしていた叔父を、
私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、
万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。
私の存在に必要な人間になっていたのです。
- 868 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 12:50:41.31 0.net
- 【独自】国税の脱税調査中に自主廃業、税理士50人超が「懲戒逃れ」か…数年で復帰し業務再開も
- 869 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 12:52:42.81 0.net
- 橋下徹氏、18歳以下10万円案をバッサリ「天下の愚策」
6児の父・谷原章介と合わせ「2人で100万円」
11/8(月) 9:41配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/45931b3f5c28823811b3e621e64ea75222615696
- 870 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 12:55:21.60 0.net
- 18歳以下に10万円「大した信念、理念もない」山口真由氏、
効果に疑問/芸能/デイリースポーツ
https://daily.co.jp/gossip/2021/11/08/0014826339.shtml
- 871 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:06:48.30 0.net
- 五
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居すまいには、
新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。
たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外ほかに仕方がなかったのです。
- 872 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:06:57.41 0.net
- 叔父はその頃ころ市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅きょたくに寝起ねおきする方が、
二里りも隔へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった後あと、どう邸やしきを始末して、
私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩もれた言葉であります。私の家は旧ふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわいで人に知られていました。
あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家を、相続人があるのに壊こわしたり売ったりするのは大事件です。
今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければならず、
はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
- 873 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:07:11.83 0.net
- 叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居すまいもそのままにしておいて、
両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。
私はどんな条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。
子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。
固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。
休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。
- 874 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:07:22.56 0.net
- 私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。
学校へ出る子供などは平生へいぜいおそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家の様子を見て嬉うれしがりました。
叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。
座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。
ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
- 875 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:07:30.62 0.net
- それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然はっきり断りました。
三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。
彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。
家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、
両方とも理屈としては一通ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。
しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を見るように、遥はるか先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、
ついにまた私の家を去りました。
- 876 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:08:27.47 0.net
- 六
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取り捲まいている青年の顔を見ると、世帯染しょたいじみたものは一人もいません。
みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、
あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。
それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。
- 877 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:08:37.92 0.net
- 後あとから考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、
また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。
一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、
去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、
今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。
- 878 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:08:51.39 0.net
- その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いとこに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、
父も存生中ぞんしょうちゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。
父が叔父にそういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、
始めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつなのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、
おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであったのが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。
私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うちへ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、
よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。
- 879 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:08.91 0.net
- あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのないのを。
私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女なんにょの間には、
恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、
酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。
一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、
この従妹いとこを妻にする気にはなれませんでした。
- 880 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:20.05 0.net
- 叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺ことわざもあるから、
できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておきたいともいいました。
当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。
私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、
従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
- 881 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:28.96 0.net
- 七
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。
私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、
父や母の記憶も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、
私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。
単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、
私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托くったくした覚えもなく、
相変らずの元気で国へ帰ったのです。
- 882 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:37.55 0.net
- ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、
帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
叔母おばも妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。
私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。
私は父や母がこの世にいなくなった後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。
もっともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。
今でも潜んでいるでしょう。
- 883 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:48.71 0.net
- 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半は感謝の心持で跪いたのです。
そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。
あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、
始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました。
そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろけの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、
始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいたのです。
- 884 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:09:57.81 0.net
- それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。
不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、
自分の行先ゆくさきがどうなるか分らないという気になりました。
- 885 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:10:06.68 0.net
- 八
「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちははに対して済まないという気を起したのです。
叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、
私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。
けれども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。
私は容易に叔父を捕つらまえる機会を得ませんでした。
- 886 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:10:15.33 0.net
- 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、
この叔父として少しも怪あやしむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はその外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひとから思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、話の成行なりゆきからいうと、
そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。
私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
- 887 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:10:24.76 0.net
- 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、
もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。
あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむという意味からして、
書きたい事も省かなければなりません。
- 888 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:10:34.32 0.net
- あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。
多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。
そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。
私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。
- 889 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 14:10:43.45 0.net
- 普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。
私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。
現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。
血の力で体たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
- 890 :Ms.名無しさん:2021/11/08(月) 17:05:27.04 0.net
- JNN世論調査(11月6〜7日実施)
政党支持率
自民 35.9(-5.6)
維新 9.8(+7.3)
立憲 9.3(+3.6)
公明 4.9(+1.8)
共産 3.1(+0.8)
国民 1.9(+1.2)
れいわ 1.3(+1.0)
N党 0.5(+0.5)
- 891 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:14:25.01 0.net
- 九
「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易たやすく行われたのです。
すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか。
私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜くやしくって堪たまりません。
しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、
- 892 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:14:34.00 0.net
- あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あとの私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。
叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。
私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、
少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細ささいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、
さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
- 893 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:14:43.11 0.net
- 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、
むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さとると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。
父があれだけ賞ほめ抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。
私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおりました。また迷いました。
- 894 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:14:52.04 0.net
- 訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。
私は思案の結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしました。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、
私は聞きませんでした。私は永く故郷こきょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
- 895 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:04.37 0.net
- 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経たった後のちの事です。
田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、
私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、
後あとからこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。
- 896 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:11.98 0.net
- しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。
実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。
- 897 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:22.98 0.net
- 十
「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、
世話をしてくれる婆ばあさんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、
といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はまあ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、
散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になってから、
あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうしょうの土塀どべいで、
右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。
- 898 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:31.76 0.net
- 今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。
見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。
それで直すぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで、
がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、
ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。
上さんは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全く思い当らない風ふうでした。
- 899 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:42.89 0.net
- 私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。
私はちょっと気が変りました。静かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。
それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。
一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払って、
ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。
- 900 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:15:53.71 0.net
- 私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げじょより外ほかにいないのだという事を確かめました。
私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、
素性すじょうの知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。
私は止よそうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから大学の制帽を被かぶっていました。
あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。
- 901 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:03.54 0.net
- 私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。
そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。
未亡人は正しい人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものかと思って感服しました。
感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろうと疑いもしました。
- 902 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:13.07 0.net
- 十一
「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。
本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました。
私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの押入おしいれが付いていました。
窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日がよく差しました。
- 903 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:23.34 0.net
- 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。どっちも私の気に入りませんでした。
私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。
そのためでもありましょうか、こういう艶なまめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃにされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。
- 904 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:31.55 0.net
- 私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来ました。私は移るや否いなや、
それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。
後あとから聞いて始めてこの花が私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、
これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。
- 905 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:43.64 0.net
- 移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を損なったためか、
または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会った時、へどもどした挨拶あいさつをしました。
その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。
しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さいくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、
私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。
そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活いけてある花が厭いやでなくなりました。
- 906 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:16:53.79 0.net
- 同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎの手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。
私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづえを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからないのです。
けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。
花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨うまい方ではなかったのです。
- 907 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:17:04.21 0.net
- それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても同じ事でした。
それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。
ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないのです。
しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。
- 908 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:17:14.74 0.net
- 十二
「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。
他ひとは頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。
私は私の敵視する叔父おじだの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。
汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。
私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
- 909 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:17:27.51 0.net
- 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。金に不自由がなければこそ、
一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、
きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。
私は家うちのものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、
私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切きんちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
- 910 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:17:39.48 0.net
- あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、
どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。
そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。
解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐったけれども、
愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
- 911 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:17:49.53 0.net
- 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、
大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、
何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。
それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうような方かただといって、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、
向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目まじめに説明してくれました。
- 912 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 06:18:00.18 0.net
- 奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、
近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だからという考えが、
それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。
なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性きしょうの問題ではありませんから、
私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。
- 913 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 08:53:33.60 0.net
- 十三
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。
自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め家うちのものが、
僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。
私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
- 914 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 08:53:48.92 0.net
- 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風ふうに取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、
実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、
あるいは奥さんの方で胡魔化ごまかされていたのかも解わかりません。
私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょうだんをいうようになりました。
茶を入れたからといって向うの室へやへ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。
- 915 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 08:57:16.09 0.net
- 私は急に交際の区域が殖ふえたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰つぶされる事も何度となくありました。
不思議にも、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、
定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、
世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室へやの前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、
次の室の襖ふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと留とまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。
- 916 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 08:59:51.25 0.net
- 私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍はたで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。
しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁ページの上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。
待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。
つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子二人が往いったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。
私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事がありませんでした。
- 917 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:03:10.84 0.net
- 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐すわって話し込むような場合もその内うちに出て来ました。
そういう時には、私の心が妙に不安に冒おかされて来るのです。そうして若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。
私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。
- 918 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:05:57.67 0.net
- これが琴を浚さらうのに声さえ碌ろくに出せなかった[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。
あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。
私の眼にはよくそれが解わかっていました。よく解るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。
- 919 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:11:34.87 0.net
- 十四
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。
私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃ころの私たちは大抵そんなものだったのです。
奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまに宅うちを留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。
それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能よく観察していると、
何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或ある場合には、私に対して暗あんに警戒するところもあるようなのですから、
始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
- 920 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:16:04.75 0.net
- 私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。
しかし叔父おじに欺あざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟さしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、
どっちかが偽いつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑のみ込めなかったのです。
理由わけを考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗なすり付けて我慢した事もありました。
必竟ひっきょう女だからああなのだ、女というものはどうせ愚ぐなものだ。私の考えは行き詰つまればいつでもここへ落ちて来ました。
それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を為なさないほど動きませんでした。
- 921 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:19:02.77 0.net
- 私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、
私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、
自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。
もし愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高い端はじには神聖な感じが働いて、低い端には性欲せいよくが動いているとすれば、
私の愛はたしかにその高い極点を捕つらまえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、
お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭においを帯びていませんでした。
- 922 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:24:45.61 0.net
- 私は母に対して反感を抱いだくと共に、子に対して恋愛の度を増まして行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。
もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。
奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互たがい違ちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、
いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、
同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、
やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌いむのだと解釈したのです。
お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌きざさなかった私は、その時入いらぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
- 923 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:28:52.22 0.net
- 十五
「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここの家うちで充分信用されている事を確かめました。
しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他ひとを疑うたぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。
私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺だまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。
奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。
- 924 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:33:06.83 0.net
- 私は他ひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。
私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力つとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。
私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、
奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話して好いい事をしたと思いました。私は嬉うれしかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。
- 925 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:37:28.94 0.net
- それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。
むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って来ました。
私が奥さんを疑うたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。
私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力つとめるのではないかと考え出したのです。
すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇を噛かみました。
奥さんは最初から、無人ぶにんで淋さむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを嘘うそとは思いませんでした。
- 926 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:42:57.02 0.net
- 懇意になって色々打ち明け話を聞いた後あとでも、そこに間違まちがいはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊ゆたかだというほどではありませんでした。
利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。
私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。馬鹿だなといって、自分を罵ののしった事もあります。
- 927 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:49:02.09 0.net
- しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。
私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。
二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪たまらなくなるのです。不愉快なのではありません。
絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、
少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
- 928 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:50:17.65 0.net
- 十六
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。
眼の中へはいる活字は心の底まで浸しみ渡らないうちに烟けむのごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、
冥想めいそうに耽ふけってでもいるかのように、他たの友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好いい仮面を人が貸してくれたのを、
かえって仕合しあわせとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥はしゃぎ廻まわって彼らを驚かした事もあります。
- 929 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:51:26.60 0.net
- 私の宿は人出入ひとでいりの少ない家うちでした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、
極きわめて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。
私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅うちの人に気兼きがねをするほどな男は一人もなかったのですから。
そんなところになると、下宿人の私は主人あるじのようなもので、肝心かんじんのお嬢さんがかえって食客いそうろうの位地いちにいたと同じ事です。
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、
さもなければお嬢さんの室へやで、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。
- 930 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:52:42.41 0.net
- そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮こうふんを与えるのです。私は坐すわっていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、
それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。
そうかといって、起たって行って障子しょうじを開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、
きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、
物足りるまで追窮ついきゅうする勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう。
私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切うらぎりしている物欲しそうな顔付かおつきとを同時に彼らの前に示すのです。
- 931 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:54:44.75 0.net
- 彼らは笑いました。それが嘲笑ちょうしょうの意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、
私は即坐に解釈の余地を見出みいだし得ないほど落付おちつきを失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、
馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍なんべんも心のうちで繰り返すのです。
私は自由な身体からだでした。たとい学校を中途で已やめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、
誰だれとも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんにお嬢さんを貰もらい受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。
- 932 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:56:39.63 0.net
- けれどもそのたびごとに私は躊躇ちゅうちょして、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。
もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、
そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は誘おびき寄せられるのが厭いやでした。他ひとの手に乗るのは何よりも業腹ごうはらでした。叔父おじに欺だまされた私は、
これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
- 933 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 09:59:33.31 0.net
- ロビンフッド顧客数百万人の個人情報が流出、支払い要求される
https://news.yahoo.co.jp/articles/7a5c1b600373386fa7e899817930772732965912
- 934 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 10:12:55.24 0.net
- 十七
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵こしらえろといいました。私は実際田舎いなかで織った木綿もめんものしかもっていなかったのです。
その頃ころの学生は絹いとの入はいった着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜よこはまの商人あきんどか何なにかで、
宅うちはなかなか派出はでに暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重はぶたえの胴着どうぎが配達で届いた事があります。
すると皆みんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角せっかくの胴着を行李こうりの底へ放ほうり込んで利用しないのです。
- 935 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 10:14:40.72 0.net
- それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨しらみがたかりました。友達はちょうど幸さいわいとでも思ったのでしょう、
評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津ねづの大きな泥溝どぶの中へ棄すててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、
橋の上に立って笑いながら友達の所作しょさを眺ながめていましたが、私の胸のどこにも勿体もったいないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると私も大分だいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行よそゆきの着物を拵えるというほどの分別ふんべつは出なかったのです。
私は卒業して髯ひげを生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。
- 936 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 10:26:49.93 0.net
- それで奥さんに書物は要いるが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。
私の買うものの中うちには字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、頁ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。
私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の下もとに、
お嬢さんの気に入るような帯か反物たんものを買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。
- 937 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 10:41:36.32 0.net
- 米ロビンフッド、顧客500万人のアドレス流出(ネット証券)
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1636418941/
- 938 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 10:56:48.96 0.net
- 柳井(ユニクロ社長)「日本は発展途上国になる」三木谷(楽天社長)「日本は三流国になる」 [525030561]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1636419982/
- 939 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 11:09:12.73 0.net
- 今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻まわる習慣をもっていなかったものです。
その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇ちゅうちょしましたが、思い切って出掛けました。
お嬢さんは大層着飾っていました。地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。
そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇ひまがかかりました。
- 940 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 11:20:21.20 0.net
- 奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物たんものをお嬢さんの肩から胸へ竪たてに宛あてておいて、
私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
こんな事で時間が掛かかって帰りは夕飯ゆうめしの時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走ちそうするといって、
木原店きはらだなという寄席よせのある狭い横丁よこちょうへ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家うちも狭いものでした。
この辺へんの地理を一向いっこう心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
- 941 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 11:21:47.85 0.net
- 我々は夜よに入いって家うちへ帰りました。その翌日あくるひは日曜でしたから、私は終日室へやの中うちに閉じ籠こもっていました。
月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯からかわれました。いつ妻さいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。
それから私の細君さいくんは非常に美人だといって賞ほめるのです。私は三人連づれで日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。
- 942 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 13:47:58.15 0.net
- 十八
「私は宅うちへ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、
男はこんな風ふうにして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。
私はその時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。
しかし私にはもう狐疑こぎという薩張さっぱりしない塊かたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留とまりました。
そうして話の角度を故意に少し外そらしました。
- 943 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 13:49:44.85 0.net
- 私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。
奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。
奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく見えました。
極きめようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外ほかに子供がないのも、
容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。嫁にやるか、聟むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
- 944 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 13:53:47.41 0.net
- 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を逸いっしたと同様の結果に陥おちいってしまいました。
私は自分について、ついに一言いちごんも口を開く事ができませんでした。私は好いい加減なところで話を切り上げて、自分の室へやへ帰ろうとしました。
さっきまで傍そばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。
私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、
私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐すわっていました。その戸棚の一尺しゃくばかり開あいている隙間すきまから、
お嬢さんは何か引き出して膝ひざの上へ置いて眺ながめているらしかったのです。私の眼はその隙間の端はじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました。
- 945 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 13:55:02.91 0.net
- 私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。
その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解わからないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、
私はなるべく緩ゆっくらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入いり込まなければならない事になりました。
- 946 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:18:43.62 0.net
- その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来きたしています。もしその男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、
おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、
その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅うちへ引張ひっぱって来たのです。
- 947 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:18:54.03 0.net
- 無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止よせといいました。
私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。
だから私は私の善いいと思うところを強しいて断行してしまいました。
- 948 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:21:29.59 0.net
- 十九
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、
二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗しんしゅうの坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。
私の生れた地方は大変本願寺派ほんがんじはの勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他ほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。
一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家だんかのものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。
無論費用は坊さんの懐ふところから出るのではありません。そんな訳で真宗寺しんしゅうでらは大抵有福ゆうふくでした。
- 949 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:27:42.15 0.net
- Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、
養子の相談が纏まとまったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家うちへ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。
私は教場きょうじょうで先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰もらって東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、
すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ室へやによく二人も三人も机を並べて寝起ねおきしたものです。Kと私も二人で同じ間まにいました。
山で生捕いけどられた動物が、檻おりの中で抱き合いながら、外を睨にらめるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏おそれました。
それでいて六畳の間まの中では、天下を睥睨へいげいするような事をいっていたのです。
- 950 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:29:51.56 0.net
- しかし我々は真面目まじめでした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進しょうじんという言葉を使いました。
そうして彼の行為動作は悉ことごとくこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬いけいしていました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、
すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解わかりません。
- 951 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:31:30.22 0.net
- ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥はるかに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家ようかでは彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。
しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺あざむくと同じ事ではないかと詰なじりました。
大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、
おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉が尊たっとく響いたのです。
よし解らないにしても気高けだかい心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組いきぐみに卑いやしいところの見えるはずはありません。
- 952 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:32:40.19 0.net
- 私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図いちずな彼は、たとい私がいくら反対しようとも、
やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、
子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、
私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気で私は賛成したのです。
- 953 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:36:36.05 0.net
- 二十
「Kと私わたくしは同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。
知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。
Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込こまごめのある寺の一間ひとまを借りて勉強するのだといっていました。
私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音おおがんのんの傍そばの汚い寺の中に閉とじ籠こもっていました。
彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室へやでしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。
私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は手頸てくびに珠数じゅずを懸けていました。
- 954 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 14:38:31.43 0.net
- 私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似まねをして見せました。彼はこうして日に何遍なんべんも珠数の輪を勘定するらしかったのです。
ただしその意味は私には解わかりません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。
Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰つまぐる手を留めたでしょう。詰つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経きょうの名を度々たびたび彼の口から聞いた覚えがありますが、
基督教キリストきょうについては、問われた事も答えられた例ためしもなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその理由わけを訊たずねずにはいられませんでした。
- 955 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:17:57.50 0.net
- Kは理由はないといいました。これほど人の有難ありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。
その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。家うちでもまたそこに気が付かなかったのです。
あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、
驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が一向いっこう外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、
校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。
- 956 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:24:50.25 0.net
- 国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否いなやすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。
そう毎年まいとし家うちへ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏み留とどまって勉強するつもりらしかったのです。
私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、
いかに波瀾はらんに富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝ゆううつと孤独の淋さびしさとを一つ胸に抱いだいて、
九月に入いってまたKに逢あいました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、
養家先ようかさきへ手紙を出して、こっちから自分の詐いつわりを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。
- 957 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:26:44.29 0.net
- 今更いまさら仕方がないから、お前の好きなものをやるより外ほかに途みちはあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。
とにかく大学へ入ってまでも養父母を欺あざむき通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
- 958 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:31:44.32 0.net
- 二十一
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙だますような不埒ふらちなものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。
Kはそれを私わたくしに見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰しょかんも見せました。
これにも前に劣らないほど厳しい詰責きっせきの言葉がありました。養家先ようかさきへ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、
こっちでも一切いっさい構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他たに妥協の道を講じて、依然養家に留とどまるか、
そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
- 959 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:45:59.24 0.net
- 私はその点についてKに何か考かんがえがあるのかと尋ねました。Kは夜学校やがっこうの教師でもするつもりだと答えました。
その時分は今に比べると、存外ぞんがい世の中が寛くつろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底ふっていでもなかったのです。
私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背そむいて、自分の行きたい道を行こうとした時、
賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱こまぬいでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。
するとKは一も二もなくそれを跳はね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の下もとに立つより遥はるかに快よく思われたのでしょう。
彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を完まっとうするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。
それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
- 960 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 16:48:10.12 0.net
- Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜おしむ彼にとって、この仕事がどのくらい辛つらかったかは想像するまでもない事です。
彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩ゆるめずに、新しい荷を背負しょって猛進したのです。私は彼の健康を気遣きづかいました。
しかし剛気ごうきな彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
- 961 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 20:34:34.28 0.net
- 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡がらがって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、
私はついにその顛末てんまつを詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。
人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を促うながしたのですが、Kは到底駄目だめだといって、応じませんでした。
この剛情ごうじょうなところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。
そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒いかりも買うようになりました。
私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果ききめもありませんでした。私の手紙は一言ひとことの返事さえ受けずに葬られてしまったのです。
- 962 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 20:34:42.99 0.net
- 私も腹が立ちました。今までも行掛ゆきがかり上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。
その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ勘当かんどうなのでしょう。
あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。
- 963 :Ms.名無しさん:2021/11/09(火) 20:34:52.57 0.net
- 彼の性格の一面は、たしかに継母けいぼに育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、
あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔へだたりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。
彼の父はいうまでもなく僧侶そうりょでした。けれども義理堅い点において、むしろ武士さむらいに似たところがありはしないかと疑われます。
- 964 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:48:35.58 0.net
- 二十二
「Kの事件が一段落ついた後あとで、私わたくしは彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、
彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰もらいたいという依頼も付け加えてありました。
Kは寺を嗣ついだ兄よりも、他家たけへ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟きょうだいですけれども、
この姉とKとの間には大分だいぶ年歯としの差があったのです。それでKの小供こどもの時分には、継母ままははよりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。
Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、
物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
- 965 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:51:47.11 0.net
- 私はKと同じような返事を彼の義兄宛あてで出しました。その中うちに、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。
これは固もとより私の一存いちぞんでした。Kの行先ゆくさきを心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、
私を軽蔑けいべつしたとより外ほかに取りようのない彼の実家や養家ようかに対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃なかごろになるまで、約一年半の間、彼は独力で己おのれを支えていったのです。
ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅うるさい問題も手伝っていたでしょう。
彼は段々感傷的センチメンタルになって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負しょって立っているような事をいいます。
そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横よこたわる光明こうみょうが、次第に彼の眼を遠退とおのいて行くようにも思って、いらいらするのです。
- 966 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:53:28.68 0.net
- 学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上のぼるのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、
もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍のろいのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、
彼の焦慮あせり方はまた普通に比べると遥はるかに甚はなはだしかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一せんいちだと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは止よせといいました。そうして当分身体からだを楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
剛情ごうじょうなKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、
思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。
- 967 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:55:56.30 0.net
- それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興すいきょうです。
その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹かかっているくらいなのです。
私は仕方がないから、彼に向って至極しごく同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。
(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。
最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路みちを辿たどって行きたいと発議ほつぎしました。私は彼の剛情を折り曲げるために、
彼の前に跪ひざまずく事をあえてしたのです。そうして漸やっとの事で彼を私の家に連れて来ました。
- 968 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:57:44.50 0.net
- 二十三
「私の座敷には控えの間まというような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、
実用の点から見ると、至極しごく不便な室へやでした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、
次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好いいといって、自分でそっちのほうを択えらんだのです。
- 969 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 01:59:45.10 0.net
- 前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、
商売でないのだから、なるべくなら止よした方が好いいというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、
世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭いやだと答えるのです。それでは今厄介やっかいになっている私だって同じ事ではないかと詰なじると、
私の気心は初めからよく分っていると弁解して已やまないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を更かえます。
- 970 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 02:02:10.32 0.net
- そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止よせといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって強しいてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、
彼はきっとそれを受け取る時に躊躇ちゅうちょするだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅うちへ置いて、
二人前ふたりまえの食料を彼の知らない間まにそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、
一言いちごんも奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
- 971 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 02:04:08.80 0.net
- 私はただKの健康について云々うんぬんしました。一人で置くとますます人間が偏屈へんくつになるばかりだからといいました。
それに付け足して、Kが養家ようかと折合おりあいの悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺おぼれかかった人を抱いて、
自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。
私はここまで来て漸々ようよう奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この顛末てんまつをまるで知らずにいました。
私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
- 972 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 02:07:55.91 0.net
- 奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何なにかをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。
――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向って新しい住居すまいの心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言いちげん悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。
彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭においのする汚い室へやでした。食物くいものも室相応そうおうに粗末でした。
- 973 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 02:13:00.28 0.net
- 私の家へ引き移った彼は、
幽谷ゆうこくから喬木きょうぼくに移った趣があったくらいです。それをさほどに思う気色けしきを見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、
一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢ぜいたくをいうのをあたかも不道徳のように考えていました。
なまじい昔の高僧だとか聖徒セーントだとかの伝でんを読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。
肉を鞭撻べんたつすれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に逆さからわない方針を取りました。私は氷を日向ひなたへ出して溶とかす工夫をしたのです。今に融とけて温かい水になれば、
自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
- 974 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 03:52:20.85 0.net
- 二十四
「私は奥さんからそういう風ふうに取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。
Kと私とが性格の上において、大分だいぶ相違のある事は、長く交際つきあって来た私によく解わかっていましたけれども、
私の神経がこの家庭に入ってから多少角かどが取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の質たちが私よりもずっとよかったのです。
- 975 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 03:54:11.09 0.net
- 後あとでは専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる間あいだは、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。
私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が強しいてKを私の宅うちへ引ひっ張ぱって来た時には、
私の方がよく事理を弁わきまえていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。
これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟しげきで、発達もするし、
破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、
自分はもちろん傍はたのものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥かゆばかり食っていると、
それ以上の堅いものを消化こなす力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。
だから何でも食う稽古けいこをしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。
- 976 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:03:33.56 0.net
- 次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。
もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解わかる事です。
Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。
ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極きめていたらしいのです。
- 977 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:07:43.10 0.net
- 艱苦かんくを繰り返せば、繰り返すというだけの功徳くどくで、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅めぐりあえるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに極きまっていました。
また昔の人の例などを、引合ひきあいに持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。
- 978 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:14:35.66 0.net
- それを首肯うけがってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後あとへは返りません。
なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛かかります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。
結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。
彼の気性きしょうをよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹かかっていたように思われたのです。
- 979 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:19:37.38 0.net
- よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。
私は彼と喧嘩けんかをする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪たえなかった自分の境遇を顧みると、
親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭いやでした。
それで私は彼が宅うちへ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
- 980 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:23:25.59 0.net
- 二十五
「私は蔭かげへ廻まわって、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。
私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟たたっているのだろうと信じたからです。
使わない鉄が腐るように、彼の心には錆さびが出ていたとしか、私には思われなかったのです。
- 981 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:29:42.99 0.net
- 奥さんは取り付き把はのない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。
火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来きようというと、要いらないと断るそうです。
寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。
気の毒だから、何とかいってその場を取り繕つくろっておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強しいて火にあたる必要もなかったのですが、
これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
- 982 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:35:20.73 0.net
- それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力つとめました。Kと私が話している所へ家うちの人を呼ぶとか、
または家の人と私が一つ室へやに落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。
もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起たって室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。
Kはあんな無駄話むだばなしをしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。
- 983 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:37:34.01 0.net
- しかし心の中うちでは、Kがそのために私を軽蔑けいべつしていることがよく解わかりました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価あたいしていたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥はるかに高いところにあったともいわれるでしょう。
私もそれを否いなみはしません。しかし眼だけ高くって、外ほかが釣り合わないのは手もなく不具かたわです。
私は何を措おいても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。
- 984 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 04:42:15.15 0.net
- いくら彼の頭が偉い人の影像イメジで埋うずまっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。
私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍そばに彼を坐すわらせる方法を講じたのです。
そうしてそこから出る空気に彼を曝さらした上、錆さび付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏まとまって来出きだしました。
彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑けいべつすべきものでないというような事をいいました。
- 985 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 06:12:41.01 0.net
- Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。
今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女なんにょを一様に観察していたのです。
私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。
彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃ころでしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。
しかし裏面の消息は彼には一口ひとくちも打ち明けませんでした。
- 986 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 06:14:02.99 0.net
- 今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠こもっていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。
私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。
私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
- 987 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 06:20:41.85 0.net
- 二十六
「Kと私わたくしは同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。
私の方が早ければ、ただ彼の空室くうしつを通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶あいさつをして自分の部屋へはいるのを例にしていました。
Kはいつもの眼を書物からはなして、襖ふすまを開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。
私は何も答えないで点頭うなずく事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は神田かんだに用があって、帰りがいつもよりずっと後おくれました。私は急ぎ足に門前まで来て、格子こうしをがらりと開けました。
それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥たしかにKの室へやから出たと思いました。
- 988 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 06:22:33.54 0.net
- 玄関から真直まっすぐに行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、
という間取まどりなのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介やっかいになっている私にはよく分るのです。
私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ已やみました。私が靴を脱いでいるうち、
――私はその時分からハイカラで手数てかずのかかる編上あみあげを穿はいていたのですが、――私がこごんでその靴紐くつひもを解いているうち、
Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。
ことによると、私の疳違かんちがいかも知れないと考えたのです。
しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと坐すわっていました。
- 989 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:10:20.96 0.net
- Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬かたいように聞こえました。
どこかで自然を踏み外はずしているような調子として、私の鼓膜こまくに響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。
私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんははたして留守でした。下女げじょも奥さんといっしょに出たのでした。だから家うちに残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。
私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅うちを空けた例ためしはまだなかったのですから。
私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。
- 990 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:13:40.15 0.net
- 若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。
しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断ふだんの表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目まじめに答えました。
下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食ばんめしの食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。
下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳ぜんを運んで来てくれたのですが、
それがいつの間にか崩れて、飯時めしどきには向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。
- 991 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:16:52.28 0.net
- Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に極きめました。
その代り私は薄い板で造った足の畳たたみ込める華奢きゃしゃな食卓を奥さんに寄附きふしました。今ではどこの宅うちでも使っているようですが、
その頃ころそんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶おちゃの水みずの家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上あげさせたのです。
私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋さかなやが来なかったので、
私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。
なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに叱しかられてすぐ已やめました。
- 992 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:18:48.47 0.net
- 二十七
「一週間ばかりして私わたくしはまたKとお嬢さんがいっしょに話している室へやを通り抜けました。
その時お嬢さんは私の顔を見るや否いなや笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。
それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。
お嬢さんはすぐ障子しょうじを開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯ゆうめしの時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。
- 993 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:20:30.87 0.net
- ただ奥さんが睨にらめるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院でんずういんの裏手から植物園の通りをぐるりと廻まわってまた富坂とみざかの下へ出ました。
散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間あいだに話した事は極きわめて少なかったのです。
性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。
しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛しかけてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。
- 994 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:25:44.37 0.net
- 私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。
ところが彼は海のものとも山のものとも見分みわけの付かないような返事ばかりするのです。
しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。
彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。
もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼せまっている頃ころでしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。
その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後あと一年だといって奥さんは喜んでくれました。
- 995 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:28:25.58 0.net
- そういう奥さんの唯一ゆいいつの誇ほこりとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。
Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。
Kはお嬢さんが学問以外に稽古けいこしている縫針ぬいはりだの琴だの活花いけばなだのを、まるで眼中に置いていないようでした。
私は彼の迂闊うかつを笑ってやりました。
そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。
彼は別段反駁はんばくもしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。
- 996 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:29:29.79 0.net
- 世界年収ランキング OECD加盟国
ルクセンブルク1位
アイスランド2位
スイス3位
アメリカ4位
デンマーク5位
オランダ6位
ベルギー7位
オーストラリア8位
ノルウェー9位
オーストリア10位
ドイツ11位
カナダ12位
アイルランド13位
イギリス14位
スウェーデン15位
フランス16位
フィンランド17位
ニュージーランド18位
韓国19位
スロベニア20位
イスラエル21位
イタリア22位
スペイン23位
日本24位
ポーランド25位
エストニア26位
チェコ27位
https://en.m.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_average_wage
OECD37か国の中で、日本の順位は1998年から過去20数年間におおむね20位または21位で推移してきたが、2019年は前年からいきなり5位も下がり、26位になった(図表1)。いきなり順位がこれだけ下がるという異変は過去になかった。また、トルコ、スロベニア、チェコ、韓国、ニュージーランドといった過去に日本が労働生産性で抜かれたことのない国々にも順位の逆転を許したことは衝撃的である。
https://www.dlri.co.jp/report/macro/154661.html
- 997 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:35:51.25 0.net
- 彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑けいべつしているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、
物の数かずとも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬しっとは、その時にもう充分萌きざしていたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振くちぶりを見せました。
無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体からだではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても差支さしつかえない身体だったのです。
私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。彼は理由も何にもないというのです。宅うちで書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。
- 998 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:50:02.06 0.net
- 私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。
しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好いい心持ではなかったのです。
私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。
果はてしのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに房州ぼうしゅうへ行く事になりました。
- 999 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:51:31.49 0.net
- 二十八
「Kはあまり旅へ出ない男でした。私わたくしにも房州ぼうしゅうは始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。
たしか保田ほたとかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その頃ころはひどい漁村でした。
第一だいちどこもかしこも腥なまぐさいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦すり剥むくのです。
拳こぶしのような大きな石が打ち寄せる波に揉もまれて、始終ごろごろしているのです。
- 1000 :Ms.名無しさん:2021/11/10(水) 09:51:44.23 0.net
- 私はすぐ厭いやになりました。しかしKは好いいとも悪いともいいません。少なくとも顔付かおつきだけは平気なものでした。
そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我けがをしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦とみうらに行きました。
富浦からまた那古なこに移りました。すべてこの沿岸はその時分から重おもに学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃てごろの海水浴場だったのです。
Kと私はよく海岸の岩の上に坐すわって、遠い海の色や、近い水の底を眺ながめました。
- 1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
- 2ch.netからのレス数が1000に到達しました。
総レス数 1001
727 KB
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver.24052200