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Cymbals(土岐麻子、 沖井礼二、 矢野博康) 再結成を発表 TSUTAYA O−WESTで12月にライブ [872146238]

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です:2020/04/18(土) 12:44:43 ?2BP ID:●.net
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https://digital.asahi.com/articles/ASN2K7SWCN24OHGB00B.html

岐阜)人気の頼純も登場 道三と土岐氏の戦、江戸文書に

大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」に登場する斎藤道三や土岐氏に言及した江戸時代の古文書が、岐阜県山県市の神社で見つかった。道三と土岐氏の戦いを描写している。戦いから約300年後に書かれたもので、筆者も不明だが、山県市は「『麒麟がくる』の時代背景を知る貴重な資料」としている。

 平安時代に創建され、土岐氏が氏神として崇敬した十五社神社(山県市)の宮司を務める加藤家が、古文書を保管していた。

 「天文16年11月17日、(土岐)頼純(よりずみ)公卒去有り。同年11月22日より23日、岐阜城より斎藤の軍勢攻撃。(中略)山を続きに焼き払い、人家焼かれるも防ぐ者なく、火はうらの唐松山に移り、まさに十五社大権現に燃え移らんとす。24日子の刻、土岐殿が造営された十五社大権現が焼失、誠に残念この上なし」(一部意訳)

 土岐氏が拠点とした大桑城(山県市)に道三が攻め入った際の様子を記述している。

 禰宜(ねぎ)の加藤裕章さん(46)によると、加藤家の家系図や神社の歴史をまとめた二つ折りの半紙7枚(縦約39センチ、横約14センチ)の文書で、弘化3(1846)年に書かれたとの記述はあるが、誰が書いたかは分からないという。

 十五社神社本殿が昨年、県重要文化財になり、大河ドラマの放送も決まったのを契機に専門家に解読を頼んだという。

 高富町誌などによると、土岐氏は清和源氏の流れをくむ武士の一族で、室町時代初期には美濃、尾張、伊勢の守護に任命された。戦国時代にかけては、美濃国守護を務めた。水害をきっかけに、古城(こじょう)山(407メートル)の山頂一帯に築かれた大桑城に拠点を移し、城下町を整備した。

 しかし、台頭してきた道三が大桑に攻め入り、多くの戦死者を出す激しい戦闘になった。最終的に守護だった土岐頼芸が美濃から追い出され、大桑城は廃城になった。

 土岐氏は多くの支流が出ているが、明智氏はその一つで、明智氏からは明智光秀が出ている。土岐氏や大桑城は、歴史上の重要性に比べて知名度は低いが、十五社神社に土岐氏が寄進したこま犬など貴重な資料も残る。

 加藤さんは、古文書や地域に伝わる様々な資料を公開する場を持てないかと構想を練っているという。

 「古文書をきっかけに、大桑城や土岐氏について関心を持つ人が増えてくれたらうれしいと思います」(山野拓郎)

 冊子「土岐鷹から麒麟へ」(山県市教委)によると、土岐氏と斎藤道三の激突「大桑大乱」は1542年に始まった。

 県が編集・発行した「わかりやすい岐阜県史」によれば、44年に土岐頼純を支援する織田信秀と朝倉孝景の大軍が美濃に攻め入り稲葉山城を包囲したが、道三が勝利。46年に土岐氏側と和睦が結ばれて道三の娘が頼純に嫁入りしたが、翌年に頼純は24歳で死亡した。52年、道三が頼芸を大桑から追放し、土岐氏は没落した。道三は56年、息子の義龍と対立し、長良川の合戦で死亡した。

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2020/04/18(土) 12:51:13.70 ID:7qHMtFuP0.net
あーつわものどーもにー

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイ 57de-7Des):2020/04/18(土) 15:28:39 ID:kppIT1cX0.net
あーいされてーー

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