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吉野家食べに行かんか?

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/22(木) 16:16:48.88 ID:c0uLBWM1d
広場に書いてあったんだがww
https://2ch.sc/2ch.html
食べに行こうかなww
独りだし____

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/28(水) 10:44:55.41 ID:Bx9ubEwzV
 うんちの話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お1

 腸がどんな状態なのかを直に感じることができるのが、毎日のトイレタイムです。み
なさんにウンチの中身を知っているかと尋ねると、ほとんどの人が「食べカス」と答え
ます。実はウンチの80%は水分で、残りの20%のうち3分の2は腸内細菌とはがれた腸の
粘液・粘膜です。つまり食べカスは、残りの3分の1にすぎません。腸内細菌は乾燥した
大便1gに対して1兆個ほど存在しているはずです。多くの人が、健康のために何をどう
食べるかには気を使っていることでしょう。しかし、毎日どんなウンチが出ているか。
までちゃんと確認しているでしょうか?ウンチなんて見たくないですか? あなたが、
自分で口に運んだものや体の一部が役目を終えて出てきているのに、どうして見たくな
いのでしょう。最近の便器は自動で流れてしまうことも多いので、排便したら、お尻を
ふいたトイレットペーパーをポイッと捨てる前に 振り返る、つまり“見返り美人”に
なって今日のウンチを確かめてください。観察を続けると「ウンチデザイン」が可能に
なる。「やけに色が悪い……」「あれ、今日は量が少ないな」「ずいぶんブツブツと切
れている」「ツルリと長いのが出たな」そんなふうに何か特徴があったら、一昨日に何
を食べたか思い出してみましょう。あるいは出なかった日には、なぜ出なかったのかを
考えてみます。そうすると、あれを食べたら、こんなウンチになるんだと気づくことが
あるんだ。と、感心するかもしれません。繰り返すうちに、何をどう食べると、。どん
なウンチが出るかがわかってきて、自分で自分のウンチをデザインできるようになりま
す。食物繊維をたっぷりとった日は、食べカスが増えるから、ウンチの量も増える。そ
して、それこそ腸からの声や、腸のご機嫌を知る。こうした事で健康が一番の方法で、
解るのです。トイレとは便所、つまり腸からのお便りどころなのですから。

3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/28(水) 10:45:21.13 ID:Bx9ubEwzV
 うんちの話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おっ2

 悪玉菌が多くなると黒ずんだ色になる。腸内細菌の「ラブレター」です。それなのに
、見もしないで流してしまうなんてとんでもない。出したあとに、チェックする習慣が
できると、どんな食事をとると、どんなウンチになるのかもわかってきて、食事や生活
習慣への意識も変わってくる。腸内の様々な意見を、まるで人の意見を神が見るように
自身の身体が解って来る。「貴方は、どのくらいの量が出たましたか?」大人の場合、
1日当たりの目安として、200〜300gほどの排便量が望ましいと考えられている。排便
の直前に、一度体重計に乗り、排便後にもう一度体重を量ってみると、だいたいの量が
解る。一度習慣をつけて調べてみると、毎回体重を調べなくても目安がつけられるよう
になるでしょう。「貴方の使いは、どんな色をしていましたか?」腸内環境がよい状態
に保たれている場合、便は明るい黄土色や、黄褐色をしている。反対に腸血圧や悪玉菌
が多い状態になると、より黒ずんだ色になり、血便すら出る事がある。ヨーグルトを、
日常的に多く食べると、バナナのような色も形もよい、軽いウンチにつながりやすい。
いつも「黒っぽい」という人は、乳酸菌不足である可能性が高いので試してみてくださ
い。バナナ2〜3本程度がスルリと出るのが理想的と思われる。少食も過食も身体は困っ
て苦情を言ってくる。「貴方に取り憑いた悪魔は、どんな匂いを放ったか?」腸がよい
状態だと、ウンチは決して「強い」とか「きつい」とかの匂いは放たない。草食系にで
あれば、香しささえある。肉類の食べすぎや、酒の飲みすぎなど、便秘で悪玉菌が多い
状態になって、善玉菌が死んで行くと、ツンと鼻をつく、きつい悪臭を放ち、肛門をで
て悪さをする。赤ちゃんの便を嗅いだことのある方ならのビフィズス菌が多い、甘酸っ
すっぱいようなにおいを知っているでしょう。そして離乳食を取る様になって、雑食化
することで、匂いが臭くなる変化も解るはずだ。貴方は大人なのですから、大根を一本
丸かじりして、大根の刺身を、一回頂いてみてください。

4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/28(水) 10:45:48.49 ID:Bx9ubEwzV
 うんちの話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おっと3

 貴方毎日ラクに排便でききますか?。それほど力を入れなくてもスルリと排便できて
、バナナ2〜3本分程度のウンチが出るのが理想ですが、変な物を美味いと食べたりして
、下痢症状だと、排便前にお腹が痛くなったり、便秘になったりします。便秘だとかな
りいきんだりしないと排便しづらい場合がありますが、腸の圧迫と排便には大きな調整
機能があって、これを壊す可能性もあります。二〜三日排便の無い方は、牛乳とビール
などの冷アルカリ善玉菌の取り入れをやってみてください。逆に下痢症状には、レモン
やミカンの殺菌作用も、いいかもしれません。ウイスキーのホットレモンや日本酒の、
卵酒なのです。こうした状態は腸内会の直訴状態で、いずれも腸環境があまりよい状態
とはいえません。腸がよい状態だと、排便はラクなのが普通なのです。更に腰の筋肉と
腿の筋肉不足もあります。オフィスワークから、材木や荷車の仕事に、急に肉体労働を
すると、脳内指令や血流振動に変化が起こります。大きな酸素供給が必要なのでその為
の用意を身体がやろうとして、ちいさな痙攣状態を肛門付近で起こる事があって、知ら
ないうちに大のお漏らしがある場合もあります。酒を飲んでも起こる事があります。い
ずれも脳の指令や肝や門の開け閉めに、感覚が共わないミスです。便の門は三段にあり
それぞれに、攪拌分別、整形整理、積上げ貯留を行っている部屋の連絡係に、筋肉指令
が間違えたものと思われます。そうした事も多々あるので落胆したり気にせずに通常の
生活を行いましょう。

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/28(水) 10:46:19.63 ID:Bx9ubEwzV
 うんちの話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おっとっ4

 先の3つの排便室で、攪拌分別、整形整理、積上げ貯留、が上手く行かないと、硬さ
や水分量などウンチの状態は悪化します。ウンチの硬さは水分量や腸の通過時間によっ
て決まり、その作業員は腸内細菌達です。よいウンチは水分量が75〜80%で、練り歯磨
き程度のような、やわらかさとなり、本来は水に浮きます。一方、便秘や食物繊維不足
だと水分は60%ほどで、コロコロでガチガチの猫や兎のウンチになります。ストレスの
影響などで下痢になると、水分は90%以上のビシャビシャに牛や豚のうんちに近い状態
でです。毎朝、ほぼ決まった時間に自然な便意を感じるのが理想的なので、習慣化して
行く事が大事です。人によっては一日に数回の排便がある場合もありますし、あるいは
、たまに出ない日があっても、それですぐに便秘というわけではありません。2〜3日の
サイクルで、定期的なお通じがあれば、それはそれで問題はありません。ただ3日以上
出ないなら、便秘対策が必要です。毎日、一定のリズムで動くほうが体によく、体には
体内時計が備わっています。そして睡眠がかなりに関わっています。毎朝、なるべく同
じ時間に起きて食事をし、夜は同じ時間に寝るように、同じサイクルの生活をしていく
と、体に自然とリズムができます。「ロボットじゃないんだから、そんなのは無理だ」
とか、「従業員を交代制でフル稼働しているんだから無理。」など思っていませんか。
実は、体にとって、一定のリズムで動くほうが消耗が少なく、無理なく効率的に活動が
できます。排便の時間も、おおよそ決まってきて、「そろそろかな……」と思う頃に、
トイレに行きたくなりますし、実際に ラクに排便ができて、時間も短くてすみます。
睡眠だって同じです。毎日起きる時間、寝る時間を決めての生活してると、目覚ましの
時計がなくても、自然と決まった時間に目が覚めるようになります。

6 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/28(水) 10:49:57.79 ID:Bx9ubEwzV
 うんちの話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おっとっと5

 我々の身体には、睡眠ホルモンのようなメラトニンがあり、体内の時間調整の作用も
備えています。朝の光を浴びて目覚めると、だいたい14時間後に眠気が起こるしくみ
を持っています。ですから一日を一定の周期で動くことが、体には自然なことなのです
。睡眠の質を整える秘訣は腸にありますし、腸が睡眠を司る事もあります。不規則な、
乱れた生活は、労力を使います。若い時・体力がある時は、その刺激のそれが楽しく、
思いつきで行動したとしても、睡眠が不規則でも平気だったりします。しかしそれは、
DNA欠損を速めて老齢化を起こす可能性も高いのです。ある程度年齢を重ねてくると
、リズムが変わるのを負担に感じてしまう。これは大事です。そして一度、そのリズム
が乱れると、元に戻すのに時間がかかったり、変化に対応しづらくなったりしていく。
これが犯罪や事故を起こす起因となります。ゆったりとしたリズムは、快適な生活を送
る事に欠かせない要素です。それにはそのサイクルに身をゆだね、流れに乗るようにす
る努力をすることで。努めて規則的な毎日を送ることです。ちなみにそれは平日も休日
もありません。だから週末の寝だめはできないし、する必要もないのです。もちろん、
食事時間も一定にして、腸を同じサイクルで動かすことで、睡眠時間や質も整いやすく
なり、自分を見つめる事ができます。便秘の人に試してほしい「2つのツボ」がありま
す「たかがツボ押し」「されどツボ押し」といえるほど、思っている以上に体をラクに
してくれるツボ。「経絡」という神経の道にある、目的に応じたツボ(経穴)を刺激す
ると、その刺激によって経絡に神経伝達が早くなる。と言われていて、頭のてっぺんに
ある「百会(ひゃくえ)」で、めまいや耳鳴り、頭痛・目の疲れなどの、自律神経の乱れ
症状の改善によいツボがあります。また「天枢」と「大巨」もある。ツボ押しだけでな
く食事、運動、呼吸法などの便秘解消の対策を並行して行うことが大事な相互作用で、
言わば、適切な、食事、運動、快適生活が、人生の為のツボです。プーチン君も共に、
快便生活して さっさと戦争をやめましょうネ。人間なんです我々は。

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 11:42:45.45 ID:kYjsSiw5A
 食の革命・・・・・・・・・・・・01

 あなたはご存知ですか?日本人のほとんが、1日に摂取すべき野菜を摂れていない。
という事実を。「健康日本21(第二次)」では、生活習慣病などを予防し、健康な生活
を維持するための目標値の一つに「野菜類を1日 350g以上食べましょう」と掲げられ
ています。厚生労働省が実施している「国民健康・栄養調査」をみると、生活習慣病の
予防・改善のための取り組みとして「野菜をたくさん食べるようにしている」と回答し
た人(30歳以上)は、男性約45%、女性約60%に のぼります。しかしながら、その実
、平成29年の同調査での野菜類平均摂取量を見ると、成人男性で約300g、女性で約280g
となっています。特に20〜30歳代は男性で約260g、女性で約230gと、目標値より約100g
 (30%) も少ない量になっています。野菜は「健康に良い」ことは知っているけれど、
意識しなければなかなか十分に食べることができないことが、数値からも明らかです。
そんな慢性的な野菜不足の日本人の救世主となる存在が、青汁です。昔は、苦い・まず
いと言ったイメージのあった青汁ですが、企業努力により、本当に健康に良くて美味し
く、品質の良いものを提供できるようになりました。そんな洗練された青汁が、今中高
年を中心に愛されています。中でも人気の21商品を厳選し、体験者のアンケートを元に
比較しました。 ・・・と青汁を宣伝している。ところが、である。はたしてそうか。
 まず、米食を中心にした古代や中世の暮らしは、ほとんど野菜中心の生活であった。
ところが、これらの人の食生活が貧しかったのはあるが、平均寿命が高かったとは言え
ず、更に戦乱期もあり、人々の能力もそんなに善かった訳ではない。サントリーの青汁
の宣伝では、「01美味しさ」いくら健康に良くても、イヤイヤ飲んでいるようでは絶対
に続きません。美味しくて何度でも飲みたくなる青汁がベスト。「02品質」国産の良質
な野菜を厳選し、しっかりとした製造過程で高い品質に仕上げているか。健康に配慮し
余計な添加物を含まず、こだわりを持って作っているかも大切です。「03価格」美味し
さ・品質が申し分ないとしても、高くて続かなくては意味がありません。と宣伝する。
医食同源の考え方からすれば、全く 宇宙飛行士に食べてもらいたい食品だろう。

8 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 16:05:55.43 ID:kYjsSiw5A
全然違うけどさ、アナウンサーって言うと、FBS
の福岡君と言う、間違いだらけの番組を思い出すんだよな。先ず津村氏の水天宮の御幣竹船で、大川の
藩境を決めたのは確かだが、領地争いは、埋めたからではない。将軍に献上した海タケの縄張り争いであって、全く違うし、別に立会人は幕府で無く久留米藩であった。更に、確かにがめ煮には、レンコンがいるかいないかの違いだが、柳川城の籠城で既に
闇鍋の甕煮で食べられていた。河童伝説は、福岡藩
築城には柳川から大勢行ったのであって、黒田が造った訳でない。更にバリという言葉は、大川や早津江、つまり筑後加工口の方言であって、博多弁では
ない。

9 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/30(金) 16:11:30.92 ID:kYjsSiw5A
全然違うけどさ、アナウンサーって言うと、FBSの福岡君と言う、間違いだらけの
番組を思い出すんだよな。先ず津村氏の水天宮の御幣竹船で、大川の藩境を決めたのは
確かだが、領地争いは、埋めたからではない。将軍に献上した海タケの縄張り争いで
あって、全く違うし、別に立会人は幕府で無く久留米藩であった。更に、確かにがめ煮
には、レンコンがいるかいないかの違いだが、柳川城の籠城で既に闇鍋の甕煮で食べら
れていた。河童伝説は、福岡藩築城には柳川から大勢行ったのであって、黒田が造った
訳でない。更にバリという言葉は、大川や早津江、つまり筑後加工口の方言であって、
博多弁ではない。筑後川の真ん中に石垣があって、歴史的構造物の、デ・レーケ導流堤
(どうりゅうてい)が造られている。舟運の妨げとなる土砂の堆積を防ぎ、航路を確保
するため、明治23年(1890)、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの設計により作ら
れたといわれている。全長は約6kmあり、今もなお、自然の川の流れだけで水深を、
維持できるようになっている。として存続してるが、この築堤時にベリー・ベリー、と
叫んで ばりと言う方言になった。とつたえられている。

10 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2022/12/31(土) 08:21:20.80 ID:U8jZi89pq
2ちゃん黎明期名物の吉野家オフか
なんかいいなあこういうの

11 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/03(火) 16:43:49.59 ID:ZRBuOrA5H
筑後川には 他にも喜多村石油の、遊覧船座礁とか 三潴の運河計画とか 歴史の不思議がいっぱい。

12 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/04(水) 15:59:48.33 ID:wyce9VxJ5
 食の革命・・・・・・・・・・・・02

 今 日本の食生活が じわじわと世界を席巻している。近頃セブンの、おせちを毎回
とってはいたが、今年は特に量が少なく、変わった美味い味付けだった。と言うより、
おせちと言うより高級料亭だった。かつて日本米がカルフォルニアに到着栽培されて、
カルフォルニア米が有名になったら、突然ミソスープ、スシと呼ばれるおにぎり、神戸
牛とされていたワギュウ、さらにウドンスパゲッティなど、結構に世界に広まったのだ
。中にはたこ焼きがイカをいれて売られたり、オーストラリア産和牛が中国で大好評だ
ったり、マスカットやイチゴが苗ごと韓国に持っていかれて、全く不味い品物になって
育てられていたり、いやはや世界の食生活は大混乱である。トピックスとして、去年の
ビックニュースはフローレンススペックが、かなり充実した事だ。フローレンスつまり
匂いや香りの元が、分析化学と部分的DNA解析からが 思った以上に進んでいて贋物
つまり、合成イクラや合成肉が、3Dプリンターで出てくる時代になった事だ。この事
は、70'Sの自動販売機のカップヌードルの登場以来、そう驚く事ではないが、日本人
は食生活にカップラーメンで満足するが、流石に欧米では肉にたどり着かない限りに、
満足しない事が解る。何とも理由が牛のゲップで温暖化が進むからと言う、笑い話の様
な本当の理由が動機らしい。もう一つが昆虫食である。これまでも昆虫食には結構あっ
た。蜂の油揚げや幼虫の佃煮、さらにクッキーのまぶし粉と結構、日本でもその下地は
結構あった。ロシアから宇宙へおくった蠅も養殖まで手を出して研究していたものが、
今興梠食で一応の完成形を得てる様だ。つまり雑食系のコウロギだが最後の2週間を、
ピ−ナッツやカシューナッツで育てる事で臭みを消し、香ばしさを得て乾燥粉末にする
。ところがこの乾燥に手がかかるので、クリーム状にしても、御菓子屋に売れるように
なったと、喜んでいる。

13 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/04(水) 16:00:25.61 ID:wyce9VxJ5
 食の革命・・・・・・・・・・・・03

 このビックリする程の日本食の広がりは、アフリカでのラーメンや寿司がある事に、
尽きる。そもそも昔の私の小学教諭なんて、ビフテキ食うような贅沢に米国人が焼き魚
のサンマなんて食べない。なんて言ってた。ましては魚の生肉を刺身なんて言っている
のは日本人だけだ。なんて70年代は日本人も肉食出来ないと、体力はつかないだろう
。と牛乳とパンの給食を説明してた。ところがどうだ。浸透した世界貿易システムでは
、正にサンマが台湾屋台目玉商品になったり、鯨の刺身が高給料理になったり、寿司が
健康食のトップだったり、いやはや世界はひっくり返るものだ。だがアワビやカタツム
リが、料理として高級になったのは近年である。ましてはウニなんていうのも小学生の
海の遊びの途中のおやつ状態で、高級なんて事はなかったんだ。実は、味噌や醤油や塩
も商売になったのは、江戸期の平和になって、二八蕎麦打ち麺が有名になってからだ。
この頃の日本は7分付きの米で塩漬けの山菜に、日干しの小魚が日々の食生活であった
。この中で白米が登場すると、白米に出来ない2等米が出て来て、味噌や醤油に利用し
ていく。納豆と同じに、この味噌や醤油や酒や酢といったものは、当時一子相伝の隠し
の味付けで、なかなか他家の、特に武家には教えられない秘宝のような家宝だった様だ
。大豆のあんこや餅米による折り菓子は早く平安時代には、乳のチーズや猪の干し肉と
共に出回ってはいて、朝廷に奉納されている。江戸時代にこうした食生活が商人たち迄
届いたのは、私塾の存在で、読み書きそろばんと、綿布の存在が大きい。徳川幕府は、
その存在を、米の流通はもちろんだが、火薬や鉄よりも、綿糸や綿布の輸入安定に力を
注いだ。それは、醤油、蒸し室、全てに綿布の存在があったからだ。勿論酒かすや酵母
生育に酒屋の木樽や酒蔵や味噌蔵は当然大事にした。しかし、油にしろ、酒にしろ絞り
技術の大掛かりなしかけの発達で、日本文化が醸成されているのである。これが江戸期
の食文化の革命であった。

14 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/04(水) 18:33:22.59 ID:wyce9VxJ5
 食の革命・・・・・・・・・・・・04

 古代中国においては、渤海に蓬莱・方丈・瀛州という、仙人が住む三つの山があり、
そこには、不死不老の仙薬があると信じられていた。『史記』によると、約2200年前、
徐福は、この始皇帝の命を受け、仙薬を求めて3回も船出をした。それは、2度の失敗
を経て、前209年 徐福は3度目の船出を試み帰って来なかった。この出来事は、徐福は
「3,000人の童男童女と 百工(多くの技術者)を従い、財宝と財産、五穀の種を持って、
東方に船出した。三神山には到らず、平原広沢を得て王となり、秦には戻らなかった」
と、『史記』に記される。伝説では、徐福一行は、韓国の済州島に立寄り、その後に、
日本に向かって辿り着いた。と言われる。この徐福伝説は至るところにある。もっとも
信じられるのが、佐賀の金立(きんりゅう)や、福岡の筑後八女の、有明海海岸から日本
に上陸したと推測される伝説だ。徐福伝説は、日本各地に伝承されるがここでは、徐福
が探し求めた「不老不死の霊草」に焦点を当てて、特に佐賀の寒葵、和歌山の天台烏薬
、富士山の苔桃などが取り上げられる。しかし、私はお茶の木と、橙の木を話したい。
実は、八女茶はどっかの坊さんが八女に持って来た。などと伝えられ、嬉野茶は八女茶
の苗木を植えて、広がったとされる。しかし、静岡茶の歴史では宇治茶の苗で広がり、
その宇治茶が黄檗宗の僧が、九州から天皇に送られるお茶を見て、中国から苗木を取り
寄せた。とされる。平安時代の事だ。そして、その平安時代に何故お茶が天皇に献上さ
れたか、と言えば、なんと天平時代の、磐井の反乱からの事だった。実は諫早や川内に
池のほとりに大きなお茶の木があった。とされていて、そこが長寿の村だった。とされ
た。筑紫風土記によれば、そこに神泉が湧いていて、ことのほか元気になる村だったの
で、遠く神功皇后の時代でも、献上された。と言われる。と伝える。更にこの野生の橙
の木が筑後や基山にあった。今の甘木の麓らしいから 大牟田の甘木なのか、太刀洗の
甘木なのかは不明だが、恐らくは海産物の殺菌に使った料理ではと思われるのだ。つま
り、戦乱で途切れた宝物伝説だが、鹿児島のボンタン飴同様、柑橘類が九州発祥だから
このお茶を飲む習慣の発祥は、恐らくは中国より日本が古いのかも知れない。

15 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/05(木) 11:45:50.15 ID:CERQeNt3p
 食の革命・・・・・・・・・・・・05

 「丁子」の香辛料は現代ではブームでもあるスパイスカレーの王道「クローブ」の、
日本名である。カレーなど無い時代にも、独特な香りで匂い袋や、匂い玉 料理玉など
に使用されていた。小さな粒の丁子は、家紋にも採用され医者の家系を示した。家康が
漢方薬や匂いを嗅ぐ香道に、かなりに精通してたのは有名である「丁子紋」の由来など
デザインについて、まるで「大根」と間違う程似ているデザインがある。丁子はモルッ
カ諸島原産の輸入植物で、日本では大根以上に古くから知られる。正倉院の中にも宝物
として収められて、中世の貴族はこの花のつぼみを干した香料を貴重品とした。更に、
薬として日本には伝わった為管理も厳重だった。丁子と大根の違いは、花か、根か、の
違いだ。一般に桔梗紋や笹竜胆で解る様に、花を家紋とはするが、土の下の根を家紋に
する事は少ない。花の図柄では、梅や桜、松に筍。他に菊や藤と、天皇からの勲章や贈
られる下賜紋さえある。朝顔(アサガオ)葵(アオイ)銀杏(イチョウ)楓(カエデ)
等は、江戸期に南天と同じに、薬種で天から神木とされ図柄になった。片喰(カタバミ
)蕪(カブ)の植物紋も同じだ。実は大根はエジプトが発祥らしく、蕪は、崑崙かアフ
ガン原産。とされる。つまり、細長いか丸いかは寒暖の違いの進化の様だ。日本の大根
は古来よりこの「蕪(かぶ)」であった。平安時代からかぶりつくからかぶと云われる
が、和名カブの語源は諸説ある。肥大根の部分の形が丸いところから、頭を「かぶり」
に見立てたのが由来と云う話や、根を意味する「株」の意味だともされる。「すずな」
で、春の七草の1つとして知られ、春の季語で花も根も茎も食える。同じ(アブラナ科
)に属し、保存食としても普段に必要な植物だった。カブは世界中で栽培されてる越年
草(二年草)の野菜である。分類上は、アフガン原産のアジア系と、中近東から地中海
沿岸原産のヨーロッパ系との2変種に分かれるとされ、現在はかなりの交配種があり千
は超えるだろう。約二千年前に欧州伝わり、既に世界中にあった。日本すら歴史は古く、奈良時代に朝廷でカブが栽培された。という記録がある。

16 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/05(木) 11:47:56.89 ID:CERQeNt3p
約二千年前に欧州伝わり、既に世界中にあった。日本すら歴史は古く
、奈良時代に朝廷でカブが栽培された。という記録がある。

17 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:23:52.21 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・06

 この蕪と違って、大根の起源となるのは、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方
が原産とされる。現在のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三国がこの地域に
該当する。知っての通りこの3ヶ国に共通なのはトルコ民でテュルク系民族がタタール
の古巣である。古来フン族とされる。西方世界の「大王」を自称したアッティラ王を讃
え、キリスト教世界から、「神の災い」や「神の鞭」「大進撃国」と恐れられている。
どうもこのフンと言う名も、日本語の糞と同じで、ユーラシア遊牧民の集団が糞を燃料
にしていた生活からの様だ。彼らは幾つもの集団で諍いも多く西方進出に及んでいた。
元々、地球の大陸移動説では、この地方は浅瀬の海が干上がってカスピ海や黒海が出来
ているので、古い民族であったと思われる。大根の生育はその後、大陸の方々へと広が
っていく。紀元前3000年頃、すなわち今から約5000年前、ピラミッドの建設ラッシュを
迎えたエジプトでは、従事者の食料の炊込み、すなわちおでんの様に用いられていた。
という記録が残されている。まさか、古代エジプトで大根が食べられていたとは!驚き
である。固い塩漬けの干し肉と共に窯の熱で食いやすくして食べられていたようだ。日
本にやって来たのは、平安期前なので、仏教徒が、持ち込んだのかも知れない。大根は
、種類が多い。その数は、日本だけでも有に100種を超える。 練馬大根、三浦大根、聖
護院大根...など、地名が着いているものが多い特徴を持つ。この 約5000年前から食べ
られていた大根は。東洋へ渡ったのは、それからさらに時を経て、約3000年前と言われ
ている。中国最古の類語、語釈辞典にその記述があるそうだ。日本には、その後に中国
、朝鮮からもたらされたとされる説が有力だ。元の名は「於朋泥(おほね)」日本最古
の歴史書『古事記』のなかで、仁徳天皇が詠んだ歌に「於朋泥(おほね)」という野菜
が登場する。これが今でいう大根のこととされる。歌が詠まれた頃には栽培されていた
とすると少なくとも1700年前には、日本に大根は存在していたことになる。

18 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:24:19.47 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・07

 この、「おほね」と親しまれていた大根が、その呼び名の「だいこん」に変わったの
はあまり定かではない。が、10世紀以降の書物には、大根と記されているものが多い。
ちなみに、日本の伝統的な年中行事のひとつに、人日の節句に食べられる七草粥のその
中に、大根が入っている。「すずしろ」である。これは大根の葉っぱを指している。こ
んなところからも大根が古くから、日本の生活に溶け込んできたことがうかがえる。こ
の食用が、爆発的に増えたのは江戸時代で、とにかく江戸の町に多くの人が集中した時
、食料も多く必要とされて栽培された。昔はもちろん交通も発達していないから、食料
を各地から運ぶのも一苦労。そこで近郊で作られ始めた。練馬大根に代表され江戸大根
として流通した。もともと飢饉の時もあって、「太くて育てやすい!」と人気を博した
江戸大根は、参勤交代やお伊勢参りなどに伴って、全国各地に広まった。というから、
余り一般的なものではなく、古いわりに馴染みが薄かったようだ。ちなみに大根は、隣
同士で違う品種を植えても受粉し、成長する。このことは、先の蕪とのあいの子が生ま
れやすく、文字道り畑のおかぶの地を奪われたのかも知れない。地方の大根と江戸大根
を一緒に育てても、自然と混合品種が生まれる。これが、土地固有の大根が、発展した
理由でもある。こうして、日本になじみ、広く浸透した大根だが。世界各地にも大根は
るものの、ここまで多彩な品種が育ったのは日本ぐらいなものらしい。ちなみに現在で
は、何故か「DAIKON」で通用するほど、日本の野菜として 世界に知られているのだ。
身も、皮も、葉も、余すことなく食べられる大根は、今も昔も日本の食卓を支える野菜
のひとつだ。これらが日本の調味料の醤油や味噌にマッチした事も要因だろう。それが
遥か遠く、西の国からシルクロードに乗ってやってきた輸入野菜だったとは、驚いた人
も多いのではないか。ちなみに食用としてでなく、薬用や魔除けとしても珍重されてき
た神や仏のお供え物で中世は継がれてきた。バックグラウンドを調べてみると興味がつ
きない植物だ。

19 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:28:19.78 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・08

 実は食生活を手繰ると、エジプト由来というのは結構多い。我々はヨーグルトや発酵
食品を東南アジアに求めやすく、又稲や小麦も 中東と思いやすい。しかし、古代の、
記録として古いのはなんといってもアフリカ諸国の文献であるし、その食生活にあるら
しい。と最近の研究で判明している。稲作文化でも、水中の長稲の生育と干し籾の伝統
は、アフリカのニジェール川が原種で、その後バビロニアの故郷アフガンに育てられ、
タイ・ベトナムのメコン川にルーツがあって、紀元前の古い時代に古代米として、既に
伝わっていて、縄文時代から食べられていた。と言う研究が日の目を見ている。ここで
大事なのは、フィリピンや中国北部に伝わらず、中国南部や台湾から 日本に来ている
と言う論説である。つまり、仏教以前は、やはり黒潮に乗ってでしか日本に文化は、や
って来なかった可能性が高い。発酵食品の最先端のビールもエジプト発祥とされる。私
は、余り海外に出た事はないが、それでも建築学的に朝鮮からの技術移転には、かなり
の無理がある。というのも、朝鮮や北部中国というのは、木の文化でなく 石の文化で
ある。石の文化の最先端は、床にある。寺院建築でも、かなりの石畳であって、日本の
様な木床を置いていない。従って基本的には椅子の文化である。だが日本では基本、畳
やむしろの文化で、藁細工での日々を暮らしていた。この大きな違いが、祭祀にある。
日本の天照大神は、天の岩戸に籠り、天を暗くする。そこで他の神々が宴会を開いて、
太鼓叩き・裸踊りに 酒盛りを開いて、普通の世界に導くのである。ところがこの日本
神話と違って、中国・朝鮮の神話は、獣心神話で、山から降りての強い神の化身伝説に
追われ、ヘビ神話や狼神話、亀や大鷲・・・と全く異種なのである。だが、エジプトの
スフィンクス神話やインドのガネーシャ神話の様な魔除け復活神話では、似た部分もあ
る程日本に近い。この違いだが。恐らく東洋に中国や朝鮮は入らないで、極東と言える
のだろう。

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:29:35.75 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・09

 この朝鮮半島は、実はフン族の最果ての東南地とされ、中国は征服王朝として宋との
競り合いしてる中で、文化交流がある様だが、朝鮮半島は大きくは奴隷化してしまう。
これが古代朝鮮王朝の終焉。とされる。紀元前50年以降、新羅は活発に動き、高句麗と
対抗する為動いたが、内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。朝鮮
の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3ヶ国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国
時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年〜900年)を
統一新羅時代(とういつしらぎじだい)と呼んだ。が、ここで問題があった。この半島
の暮らしは極貧生活であったのだ。歴史書やDNA鑑定によれば、日本人や台湾人は、
ルソン矮人系の小人族の血が濃く、朝鮮系中国系はウルチ人系で、細目童顔の大骨格の
血が濃いとされる。中国北京市房山県の周口店竜骨山の森林で発見された化石人類の、
北京原人は、現在はホモ・エレクトスの亜種で50万年前の原人とされる。ホモ・エレ
クトスは、体毛黒毛、中肉中背、骨格が強く厚い、背中にまで毛が濃いとされる。いず
れも当時の沿岸部から20km以内の地域で見つかり、地域はインド、インドネシア、中国
北部、シリア、イラクなど広く、ズンダランド形成期より古い時代とされている。大き
な頭蓋の容量を持ち、脳容量は950ml〜1100mlで、現生人類の75%程度。また歯はより小
さく、一番現代人に近い。行動面では、それ以前の人類よりも精巧な石器を作り、使用
していた。頑丈型と華奢型が存在していたようだ。ここで大きく、食文化で言えば、海
や川に生活したか、森に生活したかで大きく変わる。エベンキ族はツングース系民族の
一つで、主にロシア国内のクラスノヤルスク地方にある旧エヴェンキ自治管区地域に、
今は居住する。

21 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:30:02.07 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・10

 「エヴェンキ族」とは「森に住む民族」の意味を成す。寒冷な森林の狩猟民で、エヴ
ェンキの民族を代表する生業は、狩猟とトナカイの遊牧である。狩猟では皮革採取や肉
・内臓の食用のために鹿類、テンなどが、順次捕獲の対象である。狩猟の際の移動には
トナカイに騎乗し、トナカイで、荷物も運搬する。交配のための種雄を除き、雄のトナ
カイには、去勢を行う作業をする。トナカイは、そのほか、乳飲用に利用するほかも、
その肉・内臓・血を食用・飲用として売り出される。多くはロシアに精肉として買い取
られるが、中国では漢方薬として、袋角採取も行う。基本的にトナカイの飼育・管理は
女性の仕事であり、男性が狩猟に専念する。古来からあるエヴェンキの伝統的な住居は
オロチョン族とヤクート族と同様に、比較的細い白樺などの幹を何本も組んで、その中
での一切の生活をする。外部を、冬はトナカイなどの毛皮、夏には樹皮で覆い、内部は
便所も台所も一緒である。理由は簡単だ、熊に襲われない為と、内部の暖を取るからだ
。円錐形の天幕式住居である。現在では定住化のため、ベースとなる住居は、近隣のロ
シア人や漢族と同様のものだが、狩猟や、地衣類の豊富な場所へのトナカイの移動で、
ベースの住居を離れねばならない場合、伝統的な天幕式住居、またはその他のテントを
設置して野営する。伝統宗教世界で、シャーマニズム集団である。帝政ロシア時代には
ロシア正教会の宣教師による布教が行われ、ロシアの影響を受け、ヘリコプターによる
移住者用の学校に通い寄宿舎暮らしで教育される。シャーマニズムと正教を併用信仰を
する。また、ロシアのみならず中国のエヴェンキも、かつてはロシア人と交易を行い、
毛皮と引き換えに生活用品や銃、散弾、小麦粉を入手した。ロシア人交流、ロシア国内
・中国国内のエヴェンキ、食生活にも影響があり、小麦粉よりパンを焼いて食べ、紅茶
を飲用し、紅茶にトナカイの乳も加える。と言う現代風で、昔の様な極寒の暮らしとは
少し違うようだ。中国国内エヴェンキもロシア風のスカーフを被る人がいるなど、着衣
もロシアの影響が大きい。現在、生活様式がほぼロシア化し、一部がロシア人との混血
が進んでいる。

22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:30:26.98 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・11

 エヴェンキは清帝国時代、ソロン八旗に取り入れられ、乾隆帝の十全武功での活動が
確認できる。エヴェンキ出身の武将としてはハイランチャがでて、清・ジュンガル戦争
、清・ネパール戦争などで活躍した。彼は清の正規軍が敵の不正規戦に対処しきれない
現実のなか、エヴェンキ族で構成された部隊を率いて、部隊を指揮した。エヴェンキと
朝鮮民族とは、言葉・文化が殆ど酷似して、文化も極似した。朝鮮民族の祖先も、多く
横穴に竪穴とつないで、便所を持った暖を持つ部屋で、焚火暮らしをした。高位者では
それがオンドルにかわる。これも同じに焚いた暖炉の煙道が次の部屋の床下に繋がれて
古代のセントラルヒーテングである。2005年に(ソウル大学)は「韓〜ロシア、文化フ
ォーラム」で、エヴェンキ族と、韓国人の人種的類似性と関連して「韓国人は北方モン
ゴロイドのエヴェンキと、南方原住民の血が混ざって形成された民族。」という見解を
出した。「何年か前にエヴェンキの頭髪をソウル大学に渡しDNA検査の結果である。
とした。まだ最終研究結果でないものの、エヴェンキも私たち(韓国人)のように蒙古
斑があり、顔付きも似ている。」と指摘した。エヴェンキは現在も「アリラン」「スリ
ラン」という単語を使用し、シベリア先住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型を、分析した
結果、約70%が、典型的なモンゴロイド遺伝型で、父系祖先のY染色体の場合、シベリ
ア原住民は、主にO型、南アジア原住民はC・D型であり、韓国人はO型C・D型が、
混ざって存在している。さらに「朝鮮語の起源がツングース語だという学説を後押しが
できる実体的証拠が発見された」と説明した。中東からの肉食と、キノコや高麗人参の
様な野菜栽培の文化が、細々とではあるが、よく朝鮮が唐辛子の文化で、火病の国とも
称される。日本が味噌や醤油の文化であったら、恐らく朝鮮はキムチとホンオフェの、
文化であろう。と思われる。

23 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:51:35.89 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・12

「ホンオフェ:洪魚膾(こうぎょかい))は朝鮮料理のひとつで。ガンギエイ(洪魚)
をホンオとした、臭みある魚の刺身、あるいは切り身を壷などに入れて発酵を促進させ
た食品である。臭気が大変に強く朝鮮半島南部ではカオリフェとも称する。韓国珍味の
「エイ料理」です。これはエイの発酵食品で、本来は「エイの切り身を藁(発酵した藁
の場合も)に漬け込んで、発酵を促した食品」なのですが「エイの切り身が、人糞に漬
け込んで発酵させた様な匂いを放つ料理」という話が流布し、蔑称人糞料理とも言う人
がいる。しかし、発酵時の臭みも発酵後の完成品ならにおわない。納豆料理のような事
である。インターネット上は、今や「ホンタク 糞」でぐぐると1000件近くもヒットす
る。確かにアンモニア臭が、『ものすんごく』強いらしいので、常に「なんだか 昔の
便所の臭いがする。」などと言う人もいます。又、食べるとアンモニアの匂いで、涙が
こぼれるともいいます。しかしこの成分が医学的には、体の調整をきたすと言われる。
「くさや」の親分みたいなもんでしょうが、実際に食した方の、そのような感想が「火
に油を注ぐ」結果となったようだ。デマの原因はどうやら翻訳ソフトが「藁」→「堆肥
」→「人糞」の流れで誤訳してしまった事のようです。それにしても「悪意」や「無知
」というのは恐ろしい。デマであろうとなかろうと「美味しいネタ」だと思ったら集団
で食いついて来て、後は野となれ山となれ…。まるきりピラニアです。サメと同様に、
尿素を体液の浸透圧調整に用いているエイのため、体細胞に尿素が蓄積されている。又
鮮度が下がり加水分解のアンモニアが生じる。一般の魚と同じような料理には向かない
ので、こうした浸け込みが行われる。地域によって好まれ、朝鮮高級料理のホンオフェ
の様な発酵させてアンモニア臭を強調した加工食品も、逆に存在する。アンモニアは、
虫刺されのアナフラキシーショックを弱める。新鮮なエイの肉は淡白な味わいで、肝は
脂肪が多くこくを持つ。ガンギエイのヒレを乾物にしたものは「エイヒレ」と呼ばれ、
酒の肴とされ、フカヒレと同じに高給品とされる。

24 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/09(月) 17:51:57.16 ID:NyajAx0IT
 食の革命・・・・・・・・・・・・13

 この臭い フカヒレやエイの食品も、世界的に食べられる一つなのである。フランス
料理でも、エイは珍重される。ベネズエラではパステル・デ・チューチョのパイ包みが
知られる。イギリスのフィッシュ・アンド・チップスで食され、エジプト料理などにも
見られる。インドネシアやマレーシアではイカン・パリ(Ikan Pari )と呼ばれて、一
般的に食べられる。その他、インド沖、タイ湾、ジャワ海などで食用に水揚げされる。
つまり実の処実に多いのだ。日本クカヤもだが、ある種の食欲増勢成分を持つ。実は、
この成分が雑食性猛獣の判断基準となる。つまり、犬でも猫でも、何でも食べて、特に
肉食や生魚類を食べる動物は、とても臭い便をする。そしてその匂いで、自分より強い
か弱いかを、野生の猛獣は判断する。その判断の前ににも、人間臭には、およそ近づか
ない。又近づけば、結構な標的で、熊の毛皮や右手などは、倭人つまり日本人相手に、
結構ないい値段で売られていたらしいのである。日本の特に九州では、現在月の輪くま
も絶滅してしまっている。クマに於いては、この匂いでの人間界との住み分けをして、
音や匂いや、犬などで、住み分けした世界は、自然界で共に生きる為の会話なのかも、
知れない。この点、エイの食材は、日本においても、伝統的な食材で、煮もの、刺身、
汁物、あえ物、焼き物、煎り物などとして食されていた。ただし、その調理法は地方に
よって異なる傾向にあり、全く食さない地方もない訳ではない。一部地域では、「エエ
正月を迎える。」などの意で、エイが大晦日や正月、祭りなどの特別な日に好んで食さ
れる。秋田県や山形県では、ヒレの軟骨部分の干したものを「かすべ」(秋田)や「か
らかい」(山形)と呼び、甘辛く長時間煮付けたものを郷土料理として振舞われる地域
もある。魚類としては腐りにくい特性を持つことから、山間部においても食すことが、
可能な魚であった。北海道で、ほとんどが下処理済みで生の状態で販売され、通称「カ
スベ」とも呼ばれる。「カスベはエイのひれ」という事を知らない人も多くいる。一部
のラーメン店では、スープの出汁に隠し味として使用する店舗もある。

25 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 14:28:47.67 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・14

 朝鮮半島の韓国には、主な料理には、キムチ、冷麺、ビビンバ、焼肉 などがある。
ポシンタンという犬料理や、臭さで有名なホンオフェという発酵したエイも、特色のあ
る料理である。酒では、マッコリやソジュがある。ウイスキーとビールを混ぜた爆弾酒
という飲み方もされる。食事のマナーでも儒教的上下関係が厳しく、目上の人の前で酒
を飲む時は、横を向いて口元を手で隠して飲まなければならないと言われていた。だが
、本来の朝鮮半島の、大朝鮮国以前に李氏朝鮮があり、以前は、衛氏朝鮮(えいしちょ
うせん:紀元前195年〜紀元前108年)の王朝が朝鮮半島にあったとされる。中国の燕に
出自をもつとされ、中国人亡命者である衛満(姓を「衛」と記す。2世紀頃に書かれた
王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。という。曰く「朝鮮王満は、
もと燕の人である。はじめ燕が全盛の時、真番朝鮮を攻略して服属させ、役人を置き、
塞を築いた。秦が燕を滅ぼしたとき、真番朝鮮の地は遼東の国境外にあった。漢が興り
、その地が遠く守り難いので遼東の故塞を修復し、泗水までを境界とし、燕に属させた
。燕王盧綰は漢に背き匈奴へ逃げた。衛満も亡命する。千余人を集め、髪を結い、蛮夷
の服を着て東へ走った。塞を出て泗水を渡り、秦の故の空地に居す。しばらくして真番
朝鮮、蛮夷および故燕・齊の亡命者等を支配し、ここに王となり、王険に都す。とある
。ここでの「真番朝鮮」とは色々な説がある。が真は辰国の当て字とされ番とは藩の事
で、辰国の藩で、今の38度線地帯というのが定説である。古代韓国に、辰国というの
がありました。これが三韓の大元になったと言われるものの歴史的な資料がまるで乏し
いので、何とも言えない。この辰国があったのは、紀元前〜2世紀までの数百年だ。

26 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 14:29:14.36 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・15

 朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑
商人の寄港地が、都市へと成長していく現象が遠い昔からあった。 紀元前334年の段階
で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有していた。 紀元前284年、燕は自国内に
郡制を設け、上谷から遼東までを5郡とし、東胡の侵入を防ぐためその北に東西二千里
の長城を築いた。が『史記』によれば、この頃(燕の全盛期)朝鮮は燕の配下に入った
と言う。箕子(きし)と言うのは今だよく解らない。古代中国の時代に、朝鮮の伝説上
の王者とされ、賢人で殷の一族であった。とされる。殷朝末期その暴政を避けて朝鮮に
亡命し国王となり,8条の教訓によって仁政を施したとされている。この箕子東来説は
中国思想によって後世に作為されたものであるとされ、彼由来の「箕子朝鮮」国は、前
2世紀初め頃燕人衛満によった「衛氏朝鮮」国が成立したものと同じとされる。伝承的
存在の「檀君朝鮮」と「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」を合せて古朝鮮ともいう神話とも言え
ない伝説の時代だ。しかし箕子(きし)時代には、それなりの歴史的背景が考えられる
。中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の
権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。とされ 燕人・斉人の東来は、
古くから存在した。檀君朝鮮(だんくんちょうせん)とは、神話上の「檀君王倹」が、
紀元前2333年に開いたという国の名称とされる伝説だ。朝鮮半島はこの年を起点とする
記述がある。即位を西暦紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め
、1961年まで公的暦とする時期もあった。ただそれ表す『三国遺事』は中国『捜神記』
に酷似した史書とは名ばかりの話で、民間の奇怪伝承を集めた奇談集で、檀君に「怪奇
小説記事のなかの開国始祖」という評で妄想である。と言うのが定説だ。

27 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 14:29:42.65 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・16

 この韓国(朝鮮)の誕生にまつわる、檀君(タングン)神話で食べられたとする料理
がある。「ある日、天で暮らしていた王子が、人間界を治めるために地上に降りてきま
した。そのときに出会った虎と、熊が、人間になりたいと訴えたので、王子がひと握り
のヨモギと、20個のニンニクを与えて、「これを食べて洞窟の中だけで 100日間過ごす
事ができたら、人間にしてやろう。」と申し伝えました。しかし、虎は耐えきれずに、
洞窟から逃げ出してしまい、熊は、修行を全うして美女になり、王子と結婚しました。
そして、二人の間に生まれたのが壇君でありました。檀君は架空の人物を言われていま
すが、神話に登場するニンニクが、韓食の代表的な食材であり象徴的です。と解説され
る。ニンニク(蒜、大蒜、葫、忍辱 学名:Allium sativum)は、ヒガンバナ科ネギ属
の多年草である。香りが強く、強壮・スタミナ増進作用があると信じられている。球根
(鱗茎)を香辛料などとして食用にし、茎も「ニンニクの芽」(トウ)と呼ばれて野菜と
して調理される。かつての体系による分類では、ユリ科に属していた。強烈な風味を持
つことから、肉食の習慣がある地域でに、肉類と併用して、くさみをとばして食材に、
辛みをつける香辛料として、広く普及している。英語名の、ガーリック (garlic) で、
よくよばれて普及したいる。日本名ニンニクやノビル(野蒜)などは、鱗茎を食用とし
た事で、使われた。臭いの強いネギ属の香りの植物は、総称して蒜(ひる)と呼ばれ、
特にノビル(ねぎ)と区別する為オオヒル(大蒜)とも称された。漢方薬の生薬名は、
大蒜(たいさん)とされたからだ。ニンニクの語源は「困難を耐え忍ぶ。」という意味
の仏教用語「忍辱」(にんにく)とされ、5月ごろに白い小さな花を咲かせる。栽培時
には鱗茎を太らせるために花芽は摘み取る。摘み取った茎は柔らかい物であれば野菜と
してニラの様に利用される。

28 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 14:30:08.23 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・17

 原産地は中央アジアと推定され、名前の由来からも、アフガンかチベットであろうと
思われる。肉食でない限り使われそうになく、裸体僧の山林の裸の修行僧の食事の中に
、伝播があったのだろうと思われる。既に紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培
・利用されていた事が確認される。また、紀元前1550年ごろにエジプトで書かれたとい
う現存する、最古の医学書『エーベルス・パピルス』には 薬としても記載されている
。とされる。中国へは 紀元前140年ごろに伝わり、日本には中国を経て8世紀頃の平安
時代には伝わっていた。と見られている。奈良時代に瓦博士と共に、朝鮮半島からの、
焼き物の仕事上の食事だったとする説もある。日本では、禅宗の禅寺の戒壇石に「不許
葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と、刻まれるように、強壮作用が
煩悩(淫欲)を増長する。とされて仏教の僧侶の間では、ニラ、ネギ等とともに五辛の
一つとして食が禁じられている。漢字表記の「蒜」「大蒜」は漢語に由来する一方で、
仏教用語の「忍辱(にんにく)」がニンニクの語源となったとされている。『大和本草
』巻之五 草之一 菜蔬類では「悪臭甚だしくとも効能が多く、人家に欠くべからざるも
の」と評価されて栽培された。古代日本では上記の通り禁葷食(きんくんしょく)と、
なったほか、肉や油を摂る習慣のなかった当時、食材としては刺激が強すぎるために、
薬や強壮剤として用いることが主だった。江戸時代から、入り徐々に食材として用いら
れ、料理書『料理物語』には、たぬき汁や鹿汁の添え物として、『江戸料理集』には、
鳥肉汁の薬味やタニシの和え物として 肉食の香り止めに使われた記述がある。近代に
入り栄養面の研究が進んだが、食後の口臭や体臭が忌避され続けたために 食材として
は長らく活用されなかったが、第二次世界大戦後の食の西洋化・多様化によって、需要
が高まって今に至っている。不思議なのは、現代に至るまで中国でも流通販売に至って
は居なかった事だ。今でこそ広州料理でも使われるが、かつては使われていなかったの
である。

29 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 14:45:27.70 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・18

 旧石器時代、先史人たちは野生植物を採取し、動物を狩猟して食べ物を得ていました
。新石器時代に入ると農耕文化が始まった。とされています。当時の食べ方は、生食の
ほかに、焼く、蒸す、煮るなど調理法があり、穀物をひいて、水を加え、粥にして食べ
た痕跡があった。と言われる。食物を保存するために、土に埋める、焼く、干す、発酵
させる方法が取られて、韓国料理の根幹も、先史時代に既に存在している。主食は米で
、肉や魚が副食に変化したのは中世からである。最初の部族国家時代は、華北の蒙古系
住民が内陸に移動するのに伴って、稲作が広まったとも言われ、主食と副食が誕生した
。しかし先史時代も中世でも、肉や魚が主食で、穀類が主食となったは千年頃からだ。
栄養源の補給のために、肉や魚が副食に変化し、部族国家時代の後期になると、各部族
の冨が形成されて、豊作を願うための祭事なども、行われるようになり、自然な流れと
して宴会用の食事が生まれた。韓国内での稲作は国土的に取れず、日韓併合時代に調査
された所で、国土の僅か1割で、ひえやあわと芋が主流で、多くの土地は国王の貴族の
土地で、肉食と干し物で生活していた。と記録されている。三国時代に、仏教が流行し
、戒律の影響で肉食のイメージダウンにより、穀物と野菜中心の食生活になった。が、
鶏やアヒル、魚、果物と、野菜が元々主流で肉食は、高級料理だった。農耕の発達でも
、国家体制の整備と共に身分制度が確立し、庶民の食卓は貧しいものだった。食生活は
貴族と庶民階級に分離され、貴族は米が中心で、家畜を保有し、食べたいときに屠殺で
きたのに対し、庶民は雑穀が主食でした。アワや麦が食べられれば良い方で、貧しいの
で場合によっては木の皮を煮たスープで空腹を満たしていた。こうした中で豆麹を発酵
させてつくる醤(ジャン)が登場する。調味料の発達がキムチにも影響を及ぼして、食
生活の大きな転機となりました。この時代のキムチは、塩漬けの他にしょうゆ漬けで、
みそ漬けと味の広がりをみせました。日本の高菜漬同様に、野菜の主流の高菜栽培が、
伝わってきた事が大きく千五百年ごろに、キムチが出来た。

30 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 16:01:25.18 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・19

 いまでこそ、朝鮮半島はキムチのメッカの様に、特産品となっているが、基本的には
キムチ製造は、この朝鮮半島が一番新しく、中国や日本、フィリピンべとナムなどに比
べ百年ほど遅れているとされる。というのも、唐辛子の栽培に向いていなかったからで
印度での乾物市場が形成されても、一番遠方であり、一番の貧乏な国で、流通していな
かったのである。それが解るのがアイヌ文献で、アイヌも塩鮭で解る様に、干し物に物
を塗って干す方式は、湿気が多い所であり、極寒地のオミヤコンなどは、外に放りなげ
て置くだけで、冷凍魚が出来る処には、雑菌がおらず不必要であったのだ。ナツメグな
ど果物の干し物が必要だったのは、マレーシアやインドであり、それを欲したのは南下
して商売するイスラム社会だった。果物の干し物。つまりドライフルーツの歴史は古く
なんと紀元前6000年頃、日本の縄文時代にあたる時期に誕生したものとされる。当時、
ジョージアが位置する黒海とカスピ海の間(コーカサス地方)で、ブドウやプルーンの
栽培が盛んだった。つまり砂漠地帯の腐れない飲み物のワインとセットで開発された。
当時は、ブドウ栽培が命の綱で、税や商売の資産とされた。エジプトやイラク周辺では
、すでに果物が栽培が盛んにされており、「少しでも長持ちさせるためにはどうしたら
いか?」ということで出来上がり、時の権力者の税金に丁度良かったのだ。約6000年も
の間、変わらず続く先人たちの知恵で、今日でも、果物は数日で悪くなってしまいます
が、当時の人はこれを乾燥させることで日持ちさせ食べたのである。甘みが凝縮される
ことにも気づいて、子供の飴玉の様に親しまれ、それが辛み作らたドライフルーツが、
香辛料のきっかけになったようだ。果物の栽培が盛んだった理由は乾燥の大地だろうが
地中海や中東付近はとても乾燥した地域だったので果物を乾燥させるには最適でした。
かくして、中国の一部、日本、台湾琉球、アイヌ、朝鮮、北方民と言う伝達になった。
一部学者では、刀伊の入寇は、そうした香辛料簒奪の為の海賊だったとの説もある。

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/13(金) 16:01:50.36 ID:Z5gZao+CW
 食の革命・・・・・・・・・・・・20

 こうして、乾燥した地域に住む人たちにとっては、ドライフルーツが普及されること
で、彼らの食生活がより豊かになった。ちなみに日本だと、梅干しや干し柿、煮干しや
干し芋など、食料が採れない寒い冬のための保存食として発達した。栄養価の高いもの
が天日干しされていました。食物を乾燥させ、保存することは、私たちの祖先はずっと
続く生活の知恵になっていた。古代は、税金や貨幣としての役割も果たし、レーズンは
古代ローマ時代、物々交換の品として、また戦争中の兵士の兵糧として、そして税金や
貨幣として、なんと万能薬としても流通した。様々な場面で重要な役割を果たし、昔の
人々の知恵で作られるようになった。保存性が高く、食べ物が不足する時期の、栄養源
となり栄養たっぷりな「天然のサプリメント」となった。果物にはもともと数えきれな
いほどの栄養素が含まれていますが、ドライフルーツはその栄養素がギュッと閉じ込め
られて『天然のサプリメント』と言える。この栄養素が、辛みの凝縮されているのが、
香辛料で、これらは軽く量が少なく高価な貴重品として、効果的な流通貿易品目になっ
た。14世紀末になって、新たに朝鮮国が建国された。仏教が弾圧され、儒教が普及して
行く。儒教思想に基づき、上流階級が政治を掌握する両班(ヤンバン)制度が確立した
。言わばコリアンカースト制である。儒教での冠婚葬祭の作法が重視され根付いた。こ
の時代の食生活は、高麗習慣を引き継ぎ、さらに贅を尽くしたものとなる。王家は一日
五回の食事だ。十二楪飯床(シブイチョプハンサン)で、おかずの品数を多くした。と
いうのも食い飽きない忖度があったのだ。全国からの上納食材で作られ発展した、宮中
料理は、貴族や庶民にも伝わり極めつけは、猿脳料理まで出された。中国高級珍味で、
清王朝時代の北京宮廷料理とされ、満漢全席に供されていた。ヒトが他の生物の脳を食
べることは魚介類などであるが、近縁種であるサルの脳を取り出し、脳であると分かる
状態でで供食される。殺されたばかりの新鮮な猿の頭からスプーンやストローを用いて
直に食べる作法は「ゲテモノ食」として好奇心を煽り、宦官の皇帝への試験の面もあっ
たようだ。

32 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 15:29:45.66 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   125

 これまで、人の体にどれだけの水分が含まれているかは分かっていたが、どれだけの
水分が出入りしているか(人が1日にどのぐらいの水分を失うのか)について、正確に
把握することは困難だった。こうした中、国立研究開発法人「医薬基盤・健康・栄養研
究所」などの研究グループが11月25日、この把握を可能とする計算式を世界で初めて導
き出したと発表した。研究グループが導き出したのは、「人の体における1日の水分の
出入りを予測する計算式」。この計算式を用いることで、人が1日に体内から失う水分
のおよその量が把握できる。研究成果は11月25日、アメリカの科学誌「サイエンス」に
掲載された。この結果、一日に失われる水の量は、男性で20歳〜35歳だと 平均4.2リッ
トル。年齢が上がるにつれて低くなっていき、90歳代では 平均2.5リットルだった。一
方、女性は30歳〜60歳で 平均3.3リットル。男性と同様に、年齢が上がるにつれて低く
なっていき、90歳代では 平均2.5リットルだった。_水の代謝回転(ml/日) =(定数×
身体活動レベル(14.34)×体重(kg))+(374.9×性別)+(5.823×1日の平均湿度(%)
+(1070×アスリート率)+(104.6×人間開発指数HDI)+(0.4726×標高(m))+0.3529
×年齢の2乗+24.78×年齢(歳)+(1.865×平均気温の 2乗)(19.66×平均気温(℃)X
713.1としている。つまり 身体活動x年齢x体重x性別指数を 肉体の個別や湿度や
温度や標高を掛けて水との接触指数として文化指数HDIを人種別に指数計算している
。結局は、人の状況指数x水の特性x空気環境で決まるのだろう。しかしこれが平均で
4リットルと言うのは驚きである。これまで普通2リットルぐらいとされ、大航海時代
は、船での水摂取量は1,2リットルを基準にしていたからだ多くても1,5リットルで、
日本の一升瓶は、1.8リットルはこれは日本人の標準の飲み水だとされていた。まあ、
小人族の類だから西洋の体格では2リットルであろうが、それでも4リットルと言えば
倍である。これを考えると後は飲食による酒と食事で2リットルを採り込んでいるとも
言える。

33 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 15:30:13.25 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   126

 今年は、月が過去 992年間で、最も近くにくる年であると言う。ただし、夜空に姿を
現す日では無く、新月期で、俄然近くなる。満月ではなく新月期で、天体観測者たちに
真っ暗な空を提供する。このいわゆる「スーパームーン(近地点にある新月)」は「マ
イクロムーン(遠地点にある新月)」の反対であり、非常に稀な事象ではある。が、こ
れは通常パターンの1つなどである。この接近した月が地球の潮汐に与える影響は特に
強くなる。地球と同じ側にある太陽の影響と相まって、1月20〜25日の間、沿岸地帯に
「キング」タイドと呼ばれる最大級の大潮が起きる。ピーク時は、01月23日とされる。
月が、地球を回る軌道には、僅かなズレがある。この僅かなズレが楕円を産んで周回し
、月ごとに近くなる点(近地点)と遠くなる点(遠地点)を持つ。近地点では空の月が
平均的サイズより少し大きく見え(スーパームーン)、遠地点では少し小さく見える(
マイクロムーン)。だが人の目では、地球上の空気のレンズ効果の方が大きく、望遠鏡
を持たないと測れない。従って、望遠鏡で計測の結果がこの日という事になる。今週末
の近地点で、この新月が特別であることに気づいたのは、Timeanddate.com の宇宙物理
学者で科学コミュニケーターのグラハム・ジョーンズで、彼は地球と月の距離が最も近
くなる新月を探して、2000年以上の期間について調べ上げた。その結果から、地球から
の距離が35万6570キロメートル以下になる新月の日を、3つ発見した。1030年、今週末
、そして2368年だ。つまり今週末の新月は、1030年以来の最接近であり、1337年間で最
も近い新月ということになる。この月の変化には、見る変化も観察する変化もないが、
最接近の新月という出来事には、文化的な意味がある。中国の旧正月と「Year of the
Rabbit(うさぎ年)」の始まりを意味しているからだ。中国暦で数千年間も祝わる年で
ある。

34 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 15:37:45.58 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   127

、旧正月は、太陰暦(月の周期)と太陽暦(地球が太陽を1周する期間)の両方を使用
する複雑なカレンダーに基づいて日付が計算される。中国は毎年、旧正月に十億人を優
に超える人たちが花火やパレードで祝福し、お金の入った赤い封筒を交換する。満月の
反対である新月は、月が地球と太陽のほぼ中間に位置することで起こる。これは最初の
月相だ。この期間、太陽と地球はそれぞれ月の反対側にあり、月と太陽はほぼ同一線上
に一列に並ぶ事になる。月が正確に、地球と太陽の間にきたときに、日食が起きるのだ
。皆既日食、または部分日食が起きるための月と太陽の位置関係は決まっている。だが
この日食のときに、位置については毎回同じ位置にならず、微妙に違う。特に月と地球
の距離は重要だ。地球に比較的近ければ近いほど、月は、太陽の円盤を完全に隠すこと
ができて皆既日食範囲が多くになる。次の皆既日食は2023年04月20日にオーストラリア
、東ティモール、および西パプアで見ることができる。しかし、新月が比較的遠くにあ
って、その結果小さく見えるとき、月は太陽を完全に隠すことができない。その結果は
金環日食(「ring of fire」)として見る事が出来る。次は、2023年10月14日に米国、
メキシコおよび南米で見られる。澄み切った空と大きな瞳に願いを込めて。この「究極
のスーパームーン」は、中国の旧正月が始まる合図であるが、01月23日の日没後に最高
の景色を見せる金星と土星の珍しい大接近の最中のことになる。2023年01月21日(米国
時間)である。この前の1030年の新月は、地球から正確に35万6568キロメートルの位置
に来る。Timeanddate.com によると、これは西暦1030年以降で最も地球に近い。十字軍
時代で、バイキングがノルマンディー上陸作戦をやり、北米に初期の定住した頃であっ
た。アメリカのインカのインディオ族も、神に人の心臓を祀っていた頃かも知れない。

35 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 18:33:37.79 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   128

 日本にある季節は中国から伝わり、二十四節気(にじゅうしせっき)として定着した
。二十四節気は、一年を二十四に区切った季節の指標で、月の動きではなく、太陽の動
きを基準にしている。「旧暦の方が、現在の新暦よりも季節の変化に合っている」と考
えている方がいるかもしれません。が、実際は逆で、太陽の動きをもとに作られている
新暦の方が、季節の変化に一致している。旧暦では、季節とのズレが生じるために農業
には、何かと不便でした。そこで、季節の移り変わりを知るための基準として考え出さ
れたのが二十四節気である。つまり旧暦の月の動きを、太陽の新暦運用にしたのだった
。ただし、二十四節気の名称は、昔の中国華北地方の季節感で名付けられものを転用し
、現代日本の季節感とは異なる点もいくつかある。とされる季節と名称と説明を列記し
たものは、江戸時代に大きく流行った。

春 立春(りっしゅん) :寒さの底で、この頃、気温が上がり始める。2/ 4頃  9.7℃
  雨水(うすい)     :雪が、雨に変わって降りはじめる時期。  2/19頃 10.6℃
  啓蟄(けいちつ)   :冬眠していた虫が出て活動をはじめる。  3/ 6頃  12.3℃
    春分(しゅんぶん :昼と夜が同じ長さ、この日から昼長くなる。3/21頃 14.2℃
  清明(せいめい)  :草木が芽吹き、清らかで明るい様子となる。4/ 5頃  17.0℃
    穀雨(こくう)     :田畑を潤し穀物の育成の暖かな春雨が降る。4/20頃  19.7℃

36 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 18:34:08.65 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   129

夏  立夏(りっか)     :夏に向かって気温があがっていきます。    5/ 6頃  22.1℃
    小満(しょうまん) :草木が生い茂る、梅雨入り前の高出潤時期。5/21頃  23.3℃
    芒種(ぼうしゅ)   :芒とは作物の殻にある突起物。苗床期   6/ 6頃  25.0℃
    夏至(げし)       :昼間が一番長い日。梅雨の真っ最中田植え期6/21頃 25.7℃
  小暑(しょうしょ) :梅雨明け、暑さ増加期。小暑〜大暑の間暑中7/ 7頃  27.9℃
    大暑(たいしょ)   :気温が高く暑さの厳しく頃。夏の土用。  7/23頃 30.1℃
秋 立秋(りっしゅう) :暑さのピーク、この日より涼しくなる。  8/ 7頃  31.1℃
    処暑(しょしょ)   :暑さも峠を越したという意味。台風時期。 8/23頃 30.6℃
  白露(はくろ)     :朝に、草木の葉に付く露のこと。     9/ 8頃  28.6℃
    秋分(しゅうぶん) :昼と夜が同じ長さで夜がだんだん長くなる。9/23頃  25.2℃
    寒露(かんろ)     :秋も深く収穫期、朝冷気で露が結ぶ甘露。 10/ 8頃  22.7℃
    霜降(そうこう)   :このころから、霜が降りはじめます。     10/23頃  20.4℃
冬  立冬(りっとう)   :秋のピーク、これから冬の季節。     11/ 7頃  18.0℃
    小雪(しょうせつ) :雪がちらつく、山に初雪冠雪で白くなる。 11/22頃  15.0℃
  大雪(たいせつ)  :平野に雪が本格的に降り始める。     12/ 7頃  13.1℃
    冬至(とうじ)     :夜が年一番長い日。かぼちゃを柚子湯   12/22頃  11.1℃
    小寒(しょうかん) :「寒の入り」から、節分まで最も寒い。  1/ 5頃  10.0℃
    大寒(だいかん)   :1年で最も寒く寒稽古が行われる。     1/20頃   9.3℃

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 18:34:29.78 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   130

 実は、この気温表示は、東京での平年値で、実は日本の気温は5℃ほど下がる。参考
出来る温度表記はインターネットに溢れている。問題はこの表記と風習が、実は大まか
には合っているが、細かにすれば全然合わないのだ。先述に昔の中国華北地方の季節感
で、などと書いたが、実は華北にもあわないのである。ここに、この暦の秘密がある。
日本にはこうして合わないので「雑節」などと言う物がある。雑節とは二十四節気とは
別に、日本人の暮らしの中から生まれた季節変化の節目である。つまり合わないので、
日本に合ったものが、他の節とし出来たのである。名称と時期と説明を簡単に記述する

節分(せつぶん)立春の前日。もともとは「季節の分かれ目」を意味し、立夏・立秋・
   立冬の前日も節分とされていました。2/3頃です。
彼岸(ひがん)1年に2回あります。春分の日・秋分の日をはさんだ前後3日間をあわ
   せた7日間のこと。とされ「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉のように、季節の節目
   とされる。実は欧州の収穫祭の元になった仏教行事のようである3/18頃・9/20頃
八十八夜(はちじゅうはちや)立春から数えて88日目のこと。作物の新芽が出て、成長
   するとされる時期で、農業上の重要な節目です。米の字が八十八である様に新茶
   も八十八夜とされる。仏教における重数、偶数において説かれる事が多い 5/2頃
入梅(にゅうばい)梅雨に入る時期の目安。梅のみが熟するころに雨季に入ることから、
      この名前がついている。粥判断と同じに、梅判断で嵐を予測してました。6/11頃
半夏生(はんげしょう)半夏という薬草が生える時期。梅雨の終わりで、この日までに
   田植えを終わらせなければいけません。  7/2頃
土用(どよう)本来は立春・立夏・立秋・立冬の前の、約18日間のことで、一年に4回
   ありますが、一般的には夏の土用のことをさします。立秋の前の18日間。うなぎ
   を食べる「土用の丑の日」の習慣は平賀源内の発案とされる。7/19〜8/6頃

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 18:34:53.51 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   131

過夏日「夏越の祓(なごしのはらえ)」は、10月の風物詩として知られる神事である。
   ここでは、夏越の祓とはどんな行事なのか、どんなことを行う風習があるのか、
   初穂料は必要なのかなどを解説します。 九州での夏越の日が行われるのは 白山
      神社である。さらに夏越の祓の定番の食べ物は、夏豆ごはんである。
御謝日祭(おしゃにちさい)産土神(生まれた土地の守護神)、五穀の神を祀り祝う日
   。春と秋の2回あるとされる。旧暦の4月4日・10月10日である。つまり、
   西洋の謝肉祭や、花祭り同様の、日本での土神様への感謝祭なのである。ここに
   拝火教(ミトラ教)の風習の面影がある。ここで、1月1日元旦、天皇の節句、
   2月2日節分(帆先祭、海の節句)3月3日桃の節句4月4日春の大地祭(花祭
   り)5月5日端午の節句6月6日水天宮祭(八十八夜)7月7日七夕、短冊節句
   、星祭り8月8日慰霊の日、先人弔問(旧お盆)夏越の祓(なごしのはらえ)9
   月9日重陽の節句、長幼の功の訓杯日10月10日御謝日祭、牡丹餅節句、秋の
   大地祭、11月11日豆節句・新ピーナツの日、かぼちゃ祭。
45日(しじゅうご日)100ヶ日(ひゃくかにち)日腫れ(ひばれ)いずれも仏教用
   語としての、死者霊を弔う工程の日である。
二百十日(にひゃくとおか)仏教用語が流行る前に、立春から数えて210日目。台風が
   やってくる時期の目安として、九州地方に根付いた。警戒が必要な頃でした9/1
   頃で、大昔は逆に9月9日をここに定めたとする説もある。
二百二十日(にひゃはつか)二百十日と同じく、農家にとっての厄日である。この日を
   夏越の祓(なごしのはらえ)とした。と言う古文もある。

39 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/21(土) 18:35:15.34 ID:/VssyF7bn
  種の保存則   132

 お盆(おぼん)は、日本では、夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来
の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。かつては、太陰暦の 7月15日を中心の期間に
行われた。とされる。明治期の太陽暦(新暦)の採用後に、新暦 7月15日に合わせると
農繁期と重なり支障が出る地域が多く、新暦 8月15日をお盆(月遅れ盆)とした。と言
われるが、実は違っていた様だ。仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般
に「お盆」)と呼ばれた。とされる、盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く
容器で。供物を供え祀られる精霊呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合した。ともいう
説がある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。中華で道教が、旧暦の七月
を「鬼月」とする風習があって、旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元
節には地獄の蓋が閉じる。という考えで道教が伝わった。と考えられている。台湾や、
香港、華南を中心に中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われる。ここが大きな間違
いだ。実は御中元の、先祖供養の意味を単に日本に当てはめたのであって。盆の明確な
起源は分かっていない。記録では年に1〜2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が、
子孫のもとを訪れて交流する行事があった。とされ初春が祖霊の年神で神格化が強調さ
れて正月となり、初秋のものが、盂蘭盆と習合し、仏教の行事として行なわれるように
なったと言われている。日本では8世紀頃に、夏に祖先供養を行う風習が確立された。
と考えられる。1600年代(慶長年間)、イエズス会が編纂した『日葡辞書』には、「 bon
(盆)」と「vrabon(盂蘭盆)」との名がある。「盆は、仏教徒(宣教師の立場から見
れば「異教徒」)が、陰暦07月の14日・15日頃に、死者の為に行う祭りである」と説明
される。実はこの日は本来、帰属の大将に朝貢する日だった。昔の平安時代は、その日
は各所違っていた。とされた。しかし年を追い一緒になって、山岳宗教と共に決まって
行った。これが進呈の貢ぎ物を載せる台を言う「お盆」と言う名になった。基本的には
先祖供養や祈願祭とはされたが、この日の為に「さなぼり、行列で、田植えが終わって
から行ったようだ。何故なら田植えに非常に多い人や労力が要ったからだ。と書かれる

40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 17:11:08.22 ID:5VXK7utFU
 食の革命・・・・・・・・・・・・21

 統一新羅時代に入り、朝鮮半島に汁物が登場した時代。今や食卓に必ずのぼる汁物は
、米飯文化に付随し日本から伝播したようだ。と言うのも、日本には縄文文化の中で、
火焔土器が出現している。漬物、漬け汁の多い水キムチと言う物は、いつから作られる
ようになったかは不明だが、この火焔土器が神に捧げられ、食の恵みを祝った事は確か
だろう。そこから、酒や酢や、味噌や醤油や今の日本に調味料は生まれている。神事の
中で、牛や豚の牛乳で、チーズさえも作られ朝廷に運ばれた事も解っている。こうした
事から、一説の、百済王家が九州宮崎に移住した際に、朝漬けが出来たという事も真実
に思える。さらに桜島の噴火で不作と懐かしさで、又韓半島に戻った時キムチが出来た
とされるのも頷ける。この時代には、唐や日本との交流が盛んになり、食文化の交流も
、自然の成り行きとして行われていただろう。この時日本から稲作文化が伝えられた。
とも考えられる高麗時代である。つまり、仏教の台頭によって殺生が禁止され、肉類、
さらには魚類も基本的に食べられなくなったのはずっと前で、仏教伝来も逆に日本から
伝えられた結果に、菜食料理である精進料理が尊重されたのではないだろうか。日本の
神話は、酒池肉林の夜這い祭りが基本である。仏教も又それに合わせて布教したと思う
。となると、逆に今まで受け付けない朝鮮半島で、今の様な道教の儒教と仏教の混在が
産まれたと言える。というのも、中国三大宗教(儒教・仏教・道教)の三つは、中国の
漢民族の固有の宗教としては、明確に別れていたからだ。この中国北部の儒教を通じて
南部の仏教文化がやって来る事はなかなか妥当ではない。つまり、仏教文化は宋から、
直接日本にやって来て、その後朝鮮半島に至った。とするのが妥当なのだ。そうなると
勿論稲作文化も、寒暖で温和な水の豊富にある日本に根付いて、この時期に一緒に朝鮮
半島に渡って行ったと考えるのが妥当であるのだ。多分これが正しいルートだろう。

41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 17:11:31.32 ID:5VXK7utFU
  食の革命・・・・・・・・・・・・22

 稲作文化を食の文化と見るのは簡単だが、これも間違っていると思う。恐らく、食よ
りは火の文化と思う。つまり藁の文化として有効だったのだろう。と思う。稲作文化は
結構耐力や労力がいる。田植えににも、水の管理にも、害虫や雑草の駆除でも、労力が
いる。そして取れた米というものにも、精米に水車や耕す事が大きく必要だった。年間
通じて、こんなに労力のいるなら麦の方が簡単なのである。では何故稲作が好まれたの
か。実はそれは焼畑農業の衰退だったと思う。我々は、良く縄文人は木の実や獲物を取
って暮らしてた。などと簡単に言う。だが、恐らくは、栗の木や桃などの木を植えて、
管理しながら、生きて来たと思われる。柿にしろ栗にしろ、早々年間蓄えられない。が
米は違ったのである。更にその木々も実を取った後、焼き畑で雑草を枯らす行為は必要
であり、その後2〜3年はそこに野菜も植えられなかった。つまり、自然現象の中で、
食いつなぐのには少人数の、少家族しか生き残れなかったのだ。そこで人は葦葺きの家
を藁屋根にしたと思う。竹に股差しして、簡単に冬支度するのだ。竪穴式の家ではそれ
は簡単に出来た筈だ。江戸時代までこの習慣や風習、細工は大きく、縄綯い、わらじ、
雨具、壁土、屋根、肥やし、焚火、漁、服・・・何にでも利用された。この細工こそが
人々を豊かにした。莚を敷けば温かく、米の乾燥すら簡単にでき、古くなったら熱源と
なり、その灰は野菜作りに応用され、虫除けにもなった。こうして宋との交流によって
胡椒や野菜が輸入され、はちみつや水飴での、甘味をつけ、塩が以前から海の水から、
取れるようになったが、藁の出現で、画期的製法となった。こうしてこの時代に渡った
技術が、朝鮮半島に渡り、専売権が高麗の国王によって帰属され、需要が増し、基本的
な調味料として普及した。そして、汁物が大きく発達。昆布で出しを取ったり、貝を入
れて茹でたり、塩や味噌で味を調えるなど、味や使用する具材の種類が増えた。のだっ
た。

42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 17:49:29.30 ID:5VXK7utFU
  食の革命・・・・・・・・・・・・23

 藁で出来た袋は、俵とされたが、この発明は恐らく平安時代以前であろう。綱と呼ば
れた藁のロープの出現で、倉が出来ネズミを捕る猫が日本にやって来たと思われるが、
猫やヤギ、牛、犬と言った家畜は、恐らくは全部が外来種であろう。というのも天然の
日本播種は、この火山噴火で出来た島には猪や、熊以外に来れるとは思えないのだが、
何時の頃からか、日本人は家畜を愛した民族になっていた。明治時代の本では、朝鮮の
山は禿山ばかりで、落壁が多く熊さえいない。と書かれている。これは、日本と違って
稲作文化があまり発達しなかったからだ。遊牧民族は、放牧の牛の糞で燃料とした。が
朝鮮ではそんな高原の平野はない。更に彼らより寒いのである。となると穴倉でも家で
も、暖をとるのは、焚火という事になる。つまり山が禿山になった理由は、薪にしてし
まったからだ。日本でも、この稲作文化が現れるまで、恐らく多少は、そうした枝葉に
よる暖を取ったのであろう。ところが日本自体が高温多湿の土地で、麦や稲作で森林が
護られ、そのまま、伝統文化として息づいたのである。高麗時代の器として、高麗の青
磁器がある。青磁器は起源は中国で、朝鮮に伝来したと言う。特徴的な青緑色は、高麗
で「翡色(ピセク)」と言う、宋で神秘の色という鋳物「秘色(ピセク)」と呼ばれ、
高級青磁器に発展した、高麗の食は器に負けない、水準の高いものとなった。しかし、
そこに貧困の元があった。この磁器そのものが「王の遊興」の器であり、人々にはこう
した高熱で制作する器は要らなかったのだ。ところが、朝鮮半島には物産は植物と共に
何も売るものが無かったのである。つまり、植物もあまり生えないこの痩せた土地の民
に、加工貿易は無理な話であったが、時の朝鮮王朝は、宗主国中国相手に、商売を仕掛
けて国を建てる計画を打ったのである。飛んだ馬鹿王なのだが、そのままでは国の衰退
は免れず、兵士すらも養えなかったのである。

43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 17:49:56.30 ID:5VXK7utFU
  食の革命・・・・・・・・・・・・24

 こうして、お酒や菓子などの嗜好品が普及した。貴族の食生活は華美で奢侈になり、
特に宴会料理は贅を極めたもので、豪華絢爛、豪奢驕奢(ごうしゃきょうしゃ)の限り
であったと言う。こうして庶民の食生活と大きな格差を生み出し、この時代食品が多彩
になった。調味料も新たに登場し「含桃」という、酸味のある調味料が書物の「高麗図
経」に記されて、酢が作られていたことが分かる。さらに、胡麻も栽培されていた記録
から、胡麻油も使われていたのではと考えられるが、ここで元が現れるのであったのだ
。日本を「黄金の国ジパング」として西洋に伝えたことで有名なのがマルコ・ポーロの
『東方見聞録』であった。しかし、マルコ・ポーロは、実際には 日本を訪れていない
。では『東方見聞録』の内容は何処でしれたのか。実は元寇との関係なのである。解説
すれば『東方見聞録』とは、最初の印刷時代に日本の存在を、ヨーロッパに伝えたのが
「世界の記述書」であった。『東方見聞録』は、ヴェネツィア共和国の商人で、冒険家
でもあった。この冒険家マルコ・ポーロが、1271年から24年間にわたってアジアをめぐ
った全行程、約15000kmの 旅の記録の記述書なのである。恐らく欧州の言葉のあやで、
この藁や茅葺屋根を、黄金色の庶民の家、とでも称したのであろう。これら黄金の国が
、今や日本の名称であるJapanの国名になっているのだから、不思議な話である。
マルコ・ポーロは、帰国後の1295年から「クルツォラ戦争」に従軍した。ヴェネツィア
共和国の兵士としてジェノヴァと戦い、捕虜となりました。獄中で出会ったのが、著述
家ルスティケロ・ダ・ピサであった。彼に旅の詳細を話し、彼が口述をまとめたのだろ
う。とされる。それは、マルコ・ポーロは、読み書きが充分で無かったからだ。クルツ
ォラ戦争は、13世紀末に起こったもので、アニメで描かれる抽象的な国王の貿易戦争で
ある。ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国・ビザンツ帝国の間に起った宗教と経済
を二分した戦争で、13世紀から14世紀にかけてのヴェネツィア・ジェノヴァ戦争となぞ
らえ第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争とも呼ばれている。

44 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/23(月) 17:59:31.22 ID:5VXK7utFU
  食の革命・・・・・・・・・・・・25

 マルコ・ポーロもピサもイタリア人ですが、『東方見聞録』は古フランス語で書かれ
ている。また『東方見聞録』というタイトルは明治から大正にかけて日本や韓国で用い
られるようになったもので、原題は不明です。そのため国際的には、『世界の記述書』
『驚異の書』、またマルコ・ポーロの口癖だった「100万」にもとづいて 『イル・ミリ
オーネ』などと呼ばれている。もともとの本は散逸し、完全な形では残っていません。
出版後、多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく過程でさまざまな異本
が作られ、現在では138種類の写本が確認されています。『東方見聞録』は全4巻で構成
されていて、日本に関する記述は3巻目に登場します。日本のことを「黄金の国ジパン
グ」として紹介したことが有名ですが、実はマルコ・ポーロは、日本を訪れてはいない
。『東方見聞録』に記されている内容は、中国でイスラム商人などから聞いた噂話を、
まとめあげたものだ。事実に近いものもあれば、まったく空想上の事柄や他の国や地域
と混同しているものも少なくないのが現実だ。日本の位置については、「カタイ(中国
北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」と記されている。1500マイルは、
およそ2500kmで、実際の中国大陸と日本の距離にはあいませんが、双方の海岸線では、
合わないが、マルコ・ポーロが滞在した北京から幕府のある鎌倉までの距離は約2100km
で、当時の日中貿易の拠点の、泉州から博多までの距離とは一致する。あながち間違っ
ている訳ではない。「黄金の国ジパング」というイメージのもとになったのは、「莫大
な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている。」という記述だった。「莫大な金を産
出し」とあるのは、奥州の金産地を意味し、「宮殿や民家は黄金でできている。」は、
中尊寺金色堂を指しているのではないか。というのが通説である。通訳者が「木」と、
「金」を聞き違えて翻訳したのではないかとする指摘もある。

45 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/24(火) 20:40:21.16
向こうとコッチ
はたしてどちらが生き残るか
吉野家オフ会は2ちゃんねるムックにも載ってたほどの企画
いつか向こうとの関係が決着したらそのときこそゼヒ実現&スレ立てあればいいな

46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/31(火) 11:36:59.94 ID:GiN5X++Xw
  食の革命・・・・・・・・・・・・26

 十字軍時代の1291年に、パレスチナにおける最後のキリスト教徒の拠点アッコンが、
マムルーク朝のイスラームにより陥落し、両国ともに、地中海貿易の見直しを迫られた
のだ。13世紀半ば、フランス国王ルイ9世率は第7回十字軍でエジプトを侵攻した。こ
の時、前期王朝アイユーブ朝のスルタンのサーリフは急死する。サーリフのマムルーク
軍団(奴隷大隊)のバフリー・マムルークは、サーリフ夫人の、奴隷身分出身の女性の
シャジャル・アッ=ドゥッルを掲げて、1250年にマンスーラの戦い、ファルスクールの
戦いをした。こうしてルイ9世を捕らえ捕虜にして十字軍を撃退する。と、サーリフの
遺児であったシャジャル・アッ=ドゥッルは女性なので、政権は子ではないトゥーラー
ン・シャーを建てたが、これをクーデターによって殺害した。シャジャル・アッ=ドゥ
ッルを女性のスルターンに立てて新政権を樹立し、その首都を首都はカイロと定めた。
そのスルターンがマムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出
た王朝がマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き、
王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いて行った。この
実力主義のイスラム革命によって、地中海は航路の争奪戦に入った。このマムルーク朝
のスルタンが世襲せず奴隷出身であった為、支配下のエジプトは非アラブ系の外来者で
ある。バイバルスの時代にアッバース朝の末裔(ムスタンスィル2世)が首都カイロで
名目上のカリフに立てて、スルタンを他に置いた。このの関係は、日本史における天皇
と征夷大将軍の関係や、カトリック教会における教皇と神聖ローマ皇帝の関係に例えら
れる。構図だった。イスラム教の三大聖地であるメッカ(マッカ)、メディナ(マディ
ーナ)、エルサレム(クドゥス)の保護者として、イスラムの慣習に則った支配者とし
ての権威を保証し、当時のスンナ派イスラム世界における盟主となった。これが欧州に
とって厄介な事でスルタンの族長とカリフの宗教長が別々なので、交渉や航路の安全も
ないのだ。

47 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/31(火) 11:37:26.58 ID:GiN5X++Xw
   食の革命・・・・・・・・・・・・27

 ヴェネツィア共和国は、ビール好きのカール大帝と皇帝ニケフォロス1世の間に結ば
れた講和条約により、ヴェネツィアの海路を保障され、東ローマ帝国領でありつつも、
事実上独立して動いていた。810年、イタリア王ピピンの侵攻を撃退し、828年、福音記
者マルコの遺体を、アレクサンドリアから運び、守護聖人とした。いわば正当なイタリ
アの覇者であり商人都市であった。中世イタリアの4大海港都市といえば、アマルフィ
、ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアである。最初に頭角を顕したのがアマルフィ、そのア
マルフィを押さえて台頭したのがピサで、そしてピサとの死闘の末に、西地中海の覇権
を握ったのがジェノバである。一方のヴェネツィアはビザンツ帝国の支配下から徐々に
力をつけ、東地中海を牛耳るようになっていきます。2国とも目指すところは同じで、
アジアからもたらされる香辛料や絹、染料、薬品などの貴重な商品。商業覇権をめぐっ
て必然的にお互いがお互いにとって目の上のたんこぶになっていきました。ここで帝国
ビザンツはジェノバと手を握るのだった。それは、ヴェネツィアが1204年の第4次十字
軍を主導して、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服したからだ。半世紀
後、ジェノバはビザンツ帝国の亡命政権のニカイア帝国皇帝ミカエルと結び、1261年に
コンスタンティノープルの奪還を手助けした。見返りに、ヴェネツィアが十字軍で手に
入れた経済利権を、そっくり手中にして行き、さらにコンスタンティノープルのペラ、
ガラタ地区に「ほぼジェノバ」と言っていいような、特権的な居住区を認めて、ジェノ
バの地と同じ仕組み同じ風習同じ言語を入れて、ジェノバ商人に街となってしまうのだ
った。こうして交易路の争奪戦が激化した。両国は、ともに東の地中海と黒海の商業圏
の独占を狙っていたままに時が過ぎ。1270年に結ばれた15年の休戦期間が終わると、ジ
ェノヴァは、エーゲ海からヴェネツィア商人を追い出したのである。

48 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/31(火) 16:32:35.57 ID:GiN5X++Xw
   食の革命・・・・・・・・・・・・28

 そもそも、ヴェネツィアは、国家主観のもと"公的"利益を最優先としていた。ヴェネ
ツィアは公国主観を持っている事に対し、ジェノバでは徹底した個人主義のもと各財閥
がいると言うイタリアに来た移民がそれぞれに逃げ込んだ山の様な土地で 互いに力で
周囲を抑え込もうとした結果バランスが取れているという戦国時代の様な様態で大きな
違いがある。14世紀には両国とも終身ドージェを、国家元首とする共和制を敷いたが、
ヴェネツィアでは、内紛というものがこれといって無かった。ローマ帝国やバチカンの
誇りがあったのだろう。一方、ジェノバでは常に内紛状態で、終身制がとられた200
年間ドージェの、任期満了は、たった4人だった。戦いでは、連戦連勝を挙げていたの
が、ジェノバだったが、戦後の戦費処理の回収をめぐっては内紛で揉めに揉めるのが、
毎度のことだった。その混乱に乗じてヴェネツィアは少しずつ拠点回復し、元の木阿弥
に戻る。という流れの繰り返しを二百年も三百年もやって来た。そこでヴェネツィアは
祝祭日は増えて、今じゃ「祝祭都市」との異名ももつとにかくお祭りに気合を入れてい
る都市として有名になったのでした。その最たるものがカーニバルで、仮面をつけ仮装
をして街を練り歩きお祭り騒ぎをするという。風習は16世紀には既に有名だったそうで
、それに参加すべく人が集まるのも当時からで、ジェノバとしてはあまり面白くありま
せん。対してもともと、ジェノバはお祭りにあまりお金をかけず地味に済ませてしまう
お国柄だ。カーニバルも本来は競走など、多少のイベントがあるという程度の地味なお
祭りだったが16世紀末、ヴェネツィアのカーニバルに対抗すべく、貴族や識者らの主導
により行われる。ここに「カッロセッツォ(Carrossezzo) 」というイベントが産まれた
。仮面舞踊会だ。着飾った人々が歩き、ロッリの屋敷で、豪勢なパーティを行うという
イベントで、当時大評判となりますが、ジェノバ共和国なきあと19世紀半ばには廃れて
しまい、現在では小さなイベントが残っている程度となっている。

49 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/01/31(火) 18:53:25.63 ID:GiN5X++Xw
   食の革命・・・・・・・・・・・・29

 「カッロセッツォ(Carrossezzo) 」は実はメロンキュウリと呼ばれる菓子瓜と日本語
でいうところの小型のメロンである。おそらくこの頃九州に伝わった菓子瓜でもある。
という事は、この瓜はイタリアが原産地である事になる。ウリ科の仲間は食品には多い
。一般的作りやすく、ブドウなどと違って多年草でなく、土の中に熟れ過ぎをいくらか
乾燥させて入れて置けば自然に生える。ほとんどが巻きひげをもつつる性の草本であり
。ウリ科の植物の多くは熱帯に分布していた。人類の歴史上では、手軽に食し水分供給
の元となって、最も古い人の耕作作物と言われている。キュウリ、スイカ、カボチャ、
ズッキーニ、ヒョウタン、ヘチマ、トウガン、テッポウウリ、ユウガオ、ツルレイシ(
ニガウリ、ゴーヤー)、メロンなど、現代でも多くの種が残されて、食卓に挙がってい
る。古くから果菜や果物として栽培されてきているが、鳥の被害も多いようだ。また、
ラカンカ、キカラスウリなど、果実や塊根を生薬として用いられる種もあって、薬とし
ても重宝されている。ただ水分補給とはいえ、栽培も多くが湿地は無理だが乾燥地でも
無理な、水が不可欠な環境に生育する。成分的には、ククルビタシンは、ウリ科植物に
特有のステロイドの一種であり、トリテルペンに属する。キュウリ、メロン、スイカ、
などのへたに近い部分に含まれる苦味成分である。特にツルレイシ(ニガウリ、ゴーヤ
ー)に多く含まれ、モモルデシチンとともに強烈な苦味の元になっている。伝統的には
、カボチャ亜科(生え出し瓜系)と、ザノニア亜科(巻きつき瓜系)の2亜科に分けら
れていた。しかし、これは不適格な分類であり、DNA解析などで他にもあることが、
指摘されて、かつての全130属のうち、カボチャ亜科に111属、ザノニア亜科に19属が含
まれていたこの分類が系統的ではなく、これに代わる亜科分類も行われて、伝統的8〜9
連に分けられてきたものが、系統的な15連に再編された。

50 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/06(月) 18:39:36.50 ID:6534tpFfr
   食の革命・・・・・・・・・・・・30

 この時、彼らを接待してるのが、ワインと肉食であり、干し肉とミルクスープと今の
チーズ仕様は、恐らくは果物と共に、かなりの美味のものであったろうと思われる。そ
こでクビライに託されたのが、「文法や修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学
などのリベラル・アーツに通じる 100人のキリスト教徒団の派遣。」を求めるローマ教
皇宛ての書簡であった。これを託された2人が、1269年にヴェネツィアに戻り、ここで
15歳になっていたマルコ・ポーロと初めて会った。マルコ・ポーロのアジアへの旅は、
教皇からの返書を、クビライに届けるために、元に向かう2人に同行する形で始まった
のである。つまり、クビライは「知」を求めていたのだった。遊牧民は遊牧故に文化の
繋がりがない。ここに中国の嘆きがある。かと言って知識のあったエジプトもヤラレて
、この頃には、貿易商人達の跋扈する世界で、クルツォラ戦争がやっと停戦を迎えて、
15年停戦が結ばれた時代だった。が、その停戦が終わると、1296年、ジェノヴァ人は
コンスタンティノープルのヴェネツィア居留地を焼き払う事件を起こす。ヴェネツィア
はこれに怒り、正式にジェノヴァへ宣戦布告する。ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係
はこの時、第四次十字軍以降に急激に悪化し、今度はビザンツ帝国はジェノヴァの側に
ついたのだった。ヴェネツィアは黒海・エーゲ海などのジェノヴァ植民地を破壊して回
る。1298年のヴェネツィア・ジェノヴァ戦争最大級の海戦であるクルツォラの海戦では
、ジェノヴァが完勝し、やっと翌1299年に休戦が結ばれた。ここでいわゆるロシア正教
会の成立がある。海路にはイエズス会が開こうとし、陸路にはフランシスコ会が開こう
と動いた。パミール高原やゴビ砂漠を越え約3年半の旅路を終えて、元の都に到着した
一行は、フランシスコ会で、皇帝から歓迎されて元の官僚に任命された。マルコ・ポー
ロは、南西部の雲南、蘇州、楊州で徴税実務を担い、外交使節としてビルマやスリラン
カ、ベトナムなどにも足を運んだようだ。

51 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/06(月) 18:40:02.00 ID:6534tpFfr
  食の革命・・・・・・・・・・・・31

 約17年間元に滞在したマルコ・ポーロであったが、クビライが高齢になったことで、
元の政情は不安定になっていき、クビライが亡くなると、彼に厚遇されていた自分たち
が政敵から排除されることを危惧し、帰国することを決断した。こうして帰る事を決め
、帰りの航海は、600人の乗組員が 18人になるほど厳しいものとなったのだった。1295
年に、24年ぶりの帰国をやっと果たし、ヴェネツィアに戻った。その後捕まり獄中で
、『東方見聞録』を話した。釈放された後は、商人の娘ドナータと結婚。3人の子ども
にも恵まれ、それからは父の跡を継いで豪商となり、ヴェネツィア共和国を出ることな
く1324年に亡くなる。マルコ・ポーロが元の国に滞在していた頃、元と日本は1274年の
「文永の役」、1281年の「弘安の役」と2度にわたって戦火を交えている。この2つの
戦いをあわせて「元寇」という。元寇ではどちらも日本の勝利に終わる。が、かつては
「日本軍が一騎打ちを挑もうとするも、集団戦を得意とする元軍に囲まれて、次々と殺
され、苦戦していたところに神風が吹いて奇跡的に勝利した」と伝えられていました。
近年の研究で、「日本軍は弓の射程や正確性を活かす集団戦で臨み、奇襲戦法も駆使し
て、元軍の上陸を許さなかった。」ことが勝利に繋がったと見直されつつある。一回目
には船の戦いを草原と同じように野営での作戦指揮をしていたため、夜襲と台風に負け
、二度目には、防塁と突風の逆波に敗けたと言う見解が定説になった。『東方見聞録』
にも、元寇に関する記述がある。しかし「元軍が京都まで攻め込んだ」など書かれて、
大宰府の都府楼の事だろうと思われる誤記も多く含まれている。『東方見聞録』の特徴
として、「香辛料や金銀財宝など金になりそうな産物」については詳細に書かれている
のに対し「習俗」「政治・軍事」などは詳細に調べた形跡がなく、伝聞を鵜呑みにして
いる傾向があります。商人だったマルコ・ポーロの興味が どこに注がれていたかが、
よくわかる。とされている

52 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/06(月) 18:46:59.36 ID:6534tpFfr
   食の革命・・・・・・・・・・・・32

 また元寇に関しては、「クビライはこの島の豊かさを聞かされて征服しようと思った
。」と記述されていることから、マルコ・ポーロが、日本を「黄金の国ジパング」とし
てクビライに紹介したことが、元寇のきっかけになったのではないかとする説がある。
ただ、クビライが日本侵攻を考え始めたのは、1230年から1260年代に高麗と戦っていた
時だ。とされる。日本にも朝貢を促す使節を、初めて送ったのも1266年のことだが、時
の鎌倉幕府は激怒し、朝廷はおののいた。と言われる。いずれもマルコ・ポーロが元を
訪れる以前のため、実際は異なる記述も多い。一方で、日本が「黄金の国ジパング」と
形容されるほど豊かな国であるという噂については、マルコ・ポーロが伝えるよりも、
ずっと早くから中国で広まっていた可能性が高い。『東方見聞録』の名を聞いたことは
あっても読んだことがある方はかなり少ないし、私も小学生向けの童話ぐらいでしか、
読んだ事がない。日本について書かれている部分も少なく日本にやって来ていませんし
、日本について書かれているのも全4巻のうちほんのわずかである。『東方見聞録』で
、日本の風習として「捕虜にした敵を殺し、料理して食べる。彼らは人肉が他のどの肉
よりも美味いと考えている。」と食人習慣があったかのように書かれている。これらは
日本の風習としては事実ではない。が、実は朝鮮半島北部つまり日本海側にあったのだ
。実は、いみじくも伊東博文が、明治時代に暗殺されるが、この時の海軍大臣が上海で
の五家の中国を支配した五大財閥の政治集団で招待料理が人の脳みそだったと言うのだ
。蒋介石一族、宋子文一族、孔祥煕一族、陳果夫・陳立夫一族、さらに、汪兆銘一族で
あったかれらは、美味しいとして、上海のもてなしを食べた。が日本人は、生きた猿さ
えも食えなかった。と笑い話として書いている。これが上海人の感覚だったのだ。

53 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/06(月) 18:47:47.64 ID:6534tpFfr
   食の革命・・・・・・・・・・・・33

 サルの脳みそと言えば、誰でも聞いたことはあるだろう。中国の高級料理と呼ばれる
ほど知名度も高く、お値段もビックリするほど高いと言われる。真ん中に穴があいてあ
るテーブルで、穴はサルの頭が入る丁度の大きさ。サルを連れ、テーブルの下からの頭
だけを出して穴に固定する。小さい鈍器などでサルの頭を叩くと頭蓋骨が割れ、脳みそ
が現れる。生きたサルの頭に、そのままを入れ物代わりに、脳みそに沸騰した油を掛け
てスプーンで食する。今や熱湯を掛けて食べる人もいるようだが、そのまま生の脳みそ
を食べる方が新鮮だと思う人もいるようだ。新鮮なほど栄養が高いと言われ、この噂で
、サルの密猟が氾濫していたが、1977年に、よく食用に使われた「金絲猴」が最高保護
動物に指定されて、法制が厳しくなったことや、動物愛護者たちから猛烈な批判を浴び
たため密猟は急減している。と言う。食事客は唐辛子と塩漬けにした生姜などを調味料
として、脳をすくい取って食べるのであるが、その過程でその食べ物とされる猿は意識
朦朧として、まもなく死に至ることとなる。特に猿の脳は食中毒を治療すると信じられ
たために、猿脳の習慣は乱獲を引き起こした。中国政府は雲南省金絲猴を1977年に最高
保護リストに掲載したが、一部地域の料理では珍味とされ、猿の脳の密猟は続いている
。現在では法規制で、他の動物で代用されることがあるため、あからさまに食べられる
ことは無くなった。また、猿を食べる行為に対してはエボラ出血熱やHIVおよびCJ
Dに感染するとも報告されている。つまり現代のHIV細菌の最初だったと目された。
19世紀に、清の張海 (Zhang Hai Ou) によって著された『曼陀羅軒陂b』に中国の様々
な地域の漢方薬や食品知識をまとめたこの文書の中で、16世紀の中国全土を旅した将軍
によって記述されたものを含むが、彼が出席した祝宴で、生きた猿脳が供される描写が
ある。

54 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:24:10.13 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・34

 イギリスのダイアナ妃の、元執事であったポール・バレルは、サウジアラビアを訪問
したときに、バナナの葉とココヤシに載った猿脳を供された。といわれている。日本の
宝田明(たからだあきら)も知人から誘われ、わざわざ済州島に足を運んで食したとい
う。曰く「そんなに、特別においしいものじゃ無かったね。それより生物だから、病気
が心配だったね。」と後で語っている。まあ日本人が生魚を刺身で食べ東南アジアでは
昆虫食が盛んで、豚や牛さえ食してる中だから、そう違和感を持つべきではないかも知
れないのだが。だがそれでも、私は嫌だね〜〜。と言うのが文化人の感覚だろう。上海
で田島海軍大将は、部下と共に、失礼となるので口を付けるも、直ぐに席をたち、部下
と共に帰った。これを見た上海人は、「日本人は恐れるに足りず。」と笑い声で乾杯し
、その後伊藤博文は暗殺された。と記述された。ところでこの猿と言うのは学術的には
、人間にとってはご先祖様という事になる。基本的には動物の鳥・魚・獣を食べて生き
てきたので、そうそう嫌だ。というべきものではないだろうが、それでも、近年では、
魚の血潮すらも、見る事のないくらい、消費者と生物の死は、かけ離れていっている。
少なくとも、ヤコブ病と同じく、この生獣食は人々を危険に陥らせた。恐らくは欧米の
使者たちにもこうした振舞いをしたに違いない。ところが、この時アメリカで起きたの
がスペインを襲ったインフルエンザである。1918年は、インフルエンザの世界的大流行
(パンデミック)だった。「スペインインフルエンザ」は、過去最大のもので地球規模
で膨大な患者と犠牲者を出した。インフルエンザのパンデミックは、規模の大小はある
ものの過去には幾度も発生していた。ともされている。従って、その対策が違っていた
としても試行錯誤で進められていた。

55 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:25:49.20 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   35

 「スペインインフルエンザ」風邪のその被害の全容や、先人たちの取り組みを知る。
ことは、かなり難しかった昔だが、北半球の温帯地域では、毎冬 12〜2月期に流行する
ものでもあったのだ。南半球では季節が逆で、寒い6〜8月頃流行し、それが北半球に、
やって来るとされた。古代ギリシアの ヒポクラテスの頃から(紀元前460年頃〜)「あ
る日 突然多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳が盛んに出た。たちまちの内に この
病気は広がり、住民たちは脅えた。が、あっという間に去っていった。」という記述し
た記録を残している。ので、インフルエンザの流行は昔からあって季節性の感冒として
あったと思われる。インフルエンザと人類の関わりは古く、歴史的な資料の中にインフ
ルエンザと思われる疾患とその大流行の記載を見ることができます。中世のヨーロッパ
にもインフルエンザと思われる病気の記録が多数残されており、その流行が周期的に現
われるところから、16世紀イタリア占星術者達は、星や 寒い天候の影響(influence)
による病気と考えました。これがインフルエンザの語源とされてる。映画タワーリング
・インフェルノの有名なインフェルノ(Inferno)の単語は 普通名詞で、一般的には、
地獄を指し、必ずやって来る恐怖の世界。と言う意味である。17世紀に、英国解剖学者
でウィリスは、「いくつかの村で非常に多くの人が病気になった。成人患者の特徴は、
厄介な咳・痰・鼻腔から口蓋・喉、にかけての炎症と、発熱・渇き・食欲減退・疲労・
背中と手足の激しい痛み。などである。病弱な者、年寄りは死ぬ者も少なくなかった」
と記載している。

56 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:26:16.33 ID:SAZbC1eqX
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   36

 18世紀、スコットランドの医師アーバスノットは、ヨーロッパ各国から、アメリカ、
カリブ海地域まで拡大したこの疾患については、「症状はどの地方でも全く同じである
」と記す。19世紀に、インフルエンザの世界的流行が、過去何回も起こった記録がある
。1889年12月にサンクトペテルブルクで始まった流行では、翌週までに世界で数百万人
に感染し、ヨーロッパだけで約25万人が死亡し、特に乳幼児と老人の死亡が多かった。
と記されている。カール大帝と、モスクワのツァーリの皇帝の大祖国戦争が全欧州を巻
き込んで起こったが、黒死病かこのインフルかで、大量の餓死者や病死者を出して終わ
ったようだ。わが国にも、平安時代以降 インフルエンザと思われる流行病の記録は、
沢山残されている。江戸時代にも20回以上の大流行の記録があり、「お駒風」「谷風」
「琉球風」「お七風」などと呼ばれました。長崎に渡来する外国人から流行が始まった
とする記載もあり、外国との交流が制限されていた時代でも、わずかな人の移動を介し
ても世界的なパンデミックの嵐が東アジアの日本にも到達していたことがわかります。
この、日本で言う風邪と言う言葉も、人々が何々風と称する流行の服装や食卓の真似で
最初に起こったとされるからだろう。19世紀末になって、ドイツの学者ファイファーは
、患者の鼻咽頭から細菌を検出した。それがインフルエンザの病原体である。として、
「インフルエンザ菌」と名前を付け報告・発表した。この頃王立アカデミーなど、多く
の研究者にとっての権威の集団的繋がりがあって、顕微鏡を持つ学者のこうした報告は
世界に大きく知識を広めた。その後、この菌はインフルエンザの病原体ではないことが
明らかになったが、ウイルスが見つかっても「インフルエンザ菌」という名前は使われ
ている。その後にインフルエンザの病原体が「菌」よりも小さい病原体ウイルスである
ことは判明した。

57 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:26:46.51 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   37

 近頃のDNA解析で、A型インフルエンザウイルスで、8つの分節に分かれた遺伝子
を持つ事が判明した。2種類の異なったA型インフルエンザウイルスが、1つの細胞に
感染し細胞の中で、遺伝子が混ざり合うのである。様々な分節の組み合わせを持って、
ウイルス集合体が出現する。これを、遺伝子再集合と呼ぶ。自然界では鳥や豚など様々
な動物が、固有のインフルエンザウイルスを保有して生きている。遺伝子再集合により
、人インフルエンザウイルスが、動物ウイルスの遺伝子を取り込み、新しいウイルスが
出来ることもある。新しいウイルスの誕生である。こうした「新型インフルエンザウイ
ルス」には、人類は、それまで遭遇したことがない。なので全く免疫を持たない。とさ
れる。そのため新型インフルエンザは、人間では大流行し、パンデミックを引き起こす
。わが国の感染症法で「新たに人から人に伝染する能力を有することとなったウイルス
を、病原体とするインフルエンザでは、一般に国民が当該感染症に対する免疫を獲得し
ていない。当該感染症の急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与える
おそれがある。こうした物を「新型インフルエンザ」と定義する。欧米ではこのような
ウイルスを「パンデミック株インフルエンザウイルス」と称するが、日本では、新型の
インフルエンザという言葉を使う。有史以来、人類はインフルエンザパンデミックを、
何回も経験した。20世紀に限定しても、大きなものだけで4回発生した。通称で呼ばれ
ていて1918年の「スペインインフルエンザ(インフルエンザA(H1N1) ウイルス。1957年
、「アジアンインフルエンザ(A(H2N2))」、1968年の「香港インフルエンザ(A(H3N2)
)」、1977年「ソ連型インフルエンザ(A(H1N1))」など。ソ連型インフルエンザ は、
一旦姿を消したスペインインフルエンザの子孫ウイルスが、何らかの理由で復活しての
ウイルスと考えられる。そこで真のパンデミックに含めない見方もする。2009年にパン
デミック(インフルエンザA(H1N1)pdm09ウイルスによる)が発生したことは記憶に新し
い。

58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:27:09.63 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   38

 インフルエンザは、インフルエンザウイルスによって起こる感染症で、北半球の温帯
地域で、毎冬すなわち12〜2月頃に流行し、南半球は季節が逆ですので、寒い 6〜8月頃
に流行します。毎シーズン人口の1割程度の人が感染する。と推定されますが、流行は
数週間で自然に終息する。このように普段流行するインフルエンザは、季節と連動する
ことから「季節性インフルエンザ」とも呼ばれます。一方、新型インフルエンザのパン
デミックは、季節に関係なく出現し大流行します。1931年、米国のショープ(Shope RE
)が豚のインフルエンザウイルスの分離に成功した。その後1933年、英国のスミスや、
アンドンリウス・レイドロウの3人がインフルエンザウイルスの分離に成功する。この
ウイルスはA型と呼ばれ、1940年にはフランシスとマギールによりB型が、1949年には
テイラーによりC型がそれぞれ分離・発見され今日に至っている。ウイルスは1万分の
1mmと極めて小さく、電子顕微鏡を使わなければ観察することは、できない。20世紀末
には、鼻やのどの粘液ぬぐい液を使って15分ほどでインフルエンザと診断できるような
迅速検査法が実用化し、医療の現場では広く使われています。スペインインフルエンザ
は、1918年3月頃から1920年頃まで全世界で流行した、歴史上 科学的に検証可能なイン
フルエンザのパンデミックの中では、過去最大のものであった。。統計は諸説あるが、
当時の世界人口18億〜20億人の1/3以上が感染し、数千万人(概ね2千万人〜5千万人)
が死亡し、その致死率(発病者数に対する死亡者数の割合)は2.5%以上、と推計される
。この流行は第一次世界大戦の最中に起こり、参戦していた国々の兵士にも甚大な被害
をもたらし、戦局にも大きな影響を与えた。

59 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:27:36.22 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   39

 各国では、インフルエンザによる戦力低下を敵国に悟られないように、その流行を、
強く秘匿した。が、参戦していなかったスペインは情報統制が敷かれず、同国内の流行
が世界に報道された。スペイン国王や大臣もインフルエンザにかかった。という情報が
報じられ、このパンデミックはあたかもスペイン発であるかのように受け取られ、同国
の名が付いた。スペイン風邪が、世界のどこで最初に出現したか、明確な証拠はありま
せん。インフルエンザウイルスが発見される前のことで、ウイルス学的な確定診断は、
できていない。また届出義務のある疾患ではなく、正確な疫学データがないので、やむ
を得ない。スペインインフルエンザにつながる最初の流行としてはっきりした記録が、
1918年の3月の米国にのみある。ここからの流行が、始まりとする見方が一般的である
。しかし、記録があることと、真の発生地は、同じとは限らない。特に中国で、アジア
インフルエンザや香港インフルエンザが多数発生し、また鳥インフルエンザA(H5N1)や
、A(H7N9)ウイルスの、ヒト感染も最初に報告される国であることからも、多くの学者
は中国起源説・中国原産地説を語る。スペインインフルエンザも中国で発生したのでは
ないかとする見解は強く、その他には、ヨーロッパ(フランスなど)やアフリカ起源と
する説もある。ここでは米国から流行が始まった種の記述仮定の書物から話を進めます
。このスペイン風邪の流行は、1918年3月の米国のカンザス州から始まっている。3月
の季節性インフルエンザの流行が、そろそろ終わる時期であったが、この年は春を過ぎ
ても、インフルエンザ患者数が減少しなかった。当初は、インフルエンザパンデミック
の始まりに、医者も誰も、気付きません。軍隊や刑務所のように総員数が把握できる仕
組みもなく、集団で大流行や、自動車工場の労働者が多数欠勤して業務に支障が出る。
大規模な患者などの事態が、次々と起こるようになって、人々はやっと「普段とは違う
インフルエンザの流行が始まった。」と気付いた。膨大な患者の中には、死亡する者も
少なからず見られ、米国社会は混乱に陥いるのだった。

60 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/07(火) 18:28:03.08 ID:SAZbC1eqX
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   40

 当時、第一次世界大戦に参戦するため米国からは何十万人もの若い兵士が軍艦に乗り
大西洋を超えてヨーロッパの戦場に向かうが、その中にはインフルエンザにかかった者
も多く含まれていた。こうしてウイルスは4月から5月にかけて、船の中で蔓延して、
大西洋を渡った。米国からフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、イギリス、ロシア
へと拡散し、6月頃までにアフリカ、アジア、南米まで拡がり地球規模のパンデミック
になった。この1918年の春を、流行をスペインインフルエンザの第1波(春の流行)と
呼んだ。第1波は、感染者数は多かったが、致死率はそれほど高くなく、この第1波は
夏頃に一旦勢いが低下したのだ。1918年9月頃から第2波の流行が襲った。次の年1919
年初頭以降の流行が、第3波となった。特に第2波においては肺炎を合併して重症化し
、患者の死亡率は高くなった。ここで第一次世界大戦と関連したインフルエンザの悲惨
なエピソード多く残された。1918年 9月29日に米国ニュージャージー州の港を出港し、
10月7日にフランスに到着した米国の兵員輸送船「リヴァイアサン号」は、乗員 1万1
千人程載せていました。航海中に船内で2千人がインフルエンザ発症、80人以上が死亡
しました。下船後を含めると合計約200人が死亡した。と推定された。市民でも インフ
ルエンザは大流行し、工場労働者の多量欠勤により産業機能が低下、医師・看護師や、
交換手、警察官、鉄道員、ごみ収集者、遺体埋葬業者もインフルエンザに罹患し、多数
の公共サービスが著しく低下した。一部の家庭では、労働や家事をする体力が、残って
いる大人がおらず、収入も食料も途絶え、家族全員が家から出られなくなり、ボランテ
ィアが炊き出しが食事を届けて回った。とされた。まさに現代の大規模自然災害と似た
状況が見られた。第1波に比べて第2波は、かなり致死率が高くなった理由は、よくわ
かっていませんが、ウイルスが人に対し高病原性に変異した可能性、第2波が本来イン
フルエンザの寒い時期と重なったことなど、可能性が指摘されている。

61 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/15(水) 13:23:35.27 ID:xUm7qwsss
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   41

 スペインインフルエンザ流行期間中の米国の被害については多くの統計があります。
1918年〜1919年に、全人口の 1/4以上、すなわち2,500万人以上が インフルエンザに
かかったとされる。その後67万5千人が死亡した。うち 「超過死亡」すなわちパンデミ
ックにより、例年より多く死亡した人数は44万人とする記載がある。まあ過去の資料で
は、正確さは不明だが、米国で25%は罹患して、欧州で4〜50%の罹患は正しいの
だろう。その中で、50/2500=200/10000=2%が死亡したというのも
妥当な数字であろう。と言われる。その後、米国のスペインインフルエンザの勢いは、
徐々に衰え、住民の大部分が免疫を獲得するとともに病原性も低下して季節性インフル
エンザに移行して行った。その後このウイルスは、1957年に次の大陸のアジアに向かっ
て移り、インフルエンザの猛威が出現するまで 季節性インフルエンザとして毎年流行
し続けた。わが国でも、1918年(大正7年)8月下旬からスペインインフルエンザの、
流行が始まり、11月には全国的な大流行となった。米国事情と同じに、この年は、普段
なら流行が終息するはずの5月頃になっても、インフルエンザ様の疾患が あちこちで
発生した異常が出来た。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員、相撲部屋の
関取など、集団生活をしている間での流行が、目立つ。これらは季節性インフルエンザ
の流行が、春過ぎまで長引いたものなのか、スペインインフルエンザの始まりだったの
かを不明にした。しかし、米国からスペインインフルエンザ第1波(春の流行)が世界
に拡散していた時期に一致し、この時ウイルスが日本に入ったと考えられている。

62 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/15(水) 13:24:02.38 ID:xUm7qwsss
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   42

 本格的なスペインインフルエンザが日本を襲ったのは、1918年9月末から10月初頭と
言われている。当時の内務省衛生局は、1918年8月〜1919年7月を「第1回流行」と記し
ている。(なお、欧米の流行には第1波、第2波という表現を使いましたが、日本国内
の流行は内務省の記載は、第1回、第2回と記している。)この時時期も多少ずれてい
る。インフルエンザが、各地の学校や軍隊を中心に1ヶ月ほどのうちに全国に広がり、
10月末になると、郵便・電話局員、工場・炭鉱労働者、鉄道会社従業員、医療従事者な
ども巻き込み、経済活動や公共サービス、医療に支障が出た。新聞紙面には「悪性感冒
猖獗(しょうけつ)」、「罹患者の5%が死亡」、山間部では「感冒のため一村全滅」と
いった報道が見られた。つまり、アメリカで2%欧州で3〜4%、日本で5〜6%死亡
の差が出ている。人口密集率なのか、戦争による統計の違いなのか、生活様式の違いな
のかは不明だが、日本人が多くの死亡率だったのは確かのようだ。この頃、死者の増加
に伴う火葬場の混雑も記録されている。1918年(大正7年)東京第一衛戍病院呼吸器疾患
入院患者数の推移は、スペインインフルエンザについての検証には、恐らく大きく正確
で、当時の旧日本陸軍病院(東京第一衛戍病院)の入退院記録である「大正7年、病床
日誌目録」の調査とと共に東京事情がかなり詳細である。それによると、同年10月まで
の呼吸器疾患の入院患者数の平均は約23人/月であったのに対し、11月に突如「流行性
感冒」、「流行性感冒性肺炎」の患者が109人入院し、うち9人(8%)が死亡している。
ここで、突然の重症インフルエンザの多発で 病院に大勢の患者が入院した様子がわか
り、5月にも流行性感冒 もしくは流行感冒性肺炎で入院している患者が見られ、これ
は先述の「春の流行」を示すものかも知れない。

63 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/15(水) 13:24:30.42 ID:xUm7qwsss
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   43

 嵐のような第1回流行も、何故か12月頃には勢いが低下していった。当時の内務省の
衛生局は、日本国内の総人口5,719万人に対し、第1回流行期間中の総患者数は2,116万8
千人と報告しています。すなわち国民の約37%がこの期間にインフルエンザにかかった
。という事を報告している事になります。このうちに、総死亡者数は 25万7千人とされ
ていますので、単純に計算すると致死率は1.2%になります。アメリカの2%というもの
に近い、つまり、初期感冒では1.5〜2%が死亡しているのだろう。正確に言えば2%
が正しく、時の病院に診療や薬を求めていない死亡は統計の中には入っていない事が、
推測される。その後、第2回流行(1919年9月〜1920年7月)では総患者数241万2千人、
総死亡者数12万8千人(致死率5.3%)、第3回流行(1920年8月〜1921年7月)で 総患者
数22万4千人、総死亡者数3,698人(致死率1.6%)と記録されている。内務省衛生局の、
この資料をもとに日本のスペインインフルエンザの時間経過と、患者数および致死率の
推移をが、「日本のスペインインフルエンザ、時間経過と患者数および致死率の推移」
として出されている。しかし、先述の通り確定診断の方法がなかった時代で、その数は
あくまでも参考資料という事になる。第1回より第2回流行のほうが、患者数は減少し
ている一方で、致死率が著しく上昇している点は、米国と同様であり注目されている。
多くに知られマスク着用や感染予防のための『ソーシャル・ディスタンシング』の空間
など生活防衛で防備しても、先の『遺伝子再集合』で毒性を高めたのか、体内繁殖力が
凄いのか致死率が上がる様だ。第3回目は、総患者数からみてもすでに季節性インフル
エンザに移行している。と見たほうが良いかも知れません。

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/15(水) 13:25:00.72 ID:xUm7qwsss
   食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   44

 わが国も、当時第一次世界大戦に参戦していた。この為先に紹介した「リヴァイアサ
ン号」事件に似た事件が、発生した。それは軍艦「矢矧(やはぎ)」事件である。矢矧は
呉を母港とする軽巡洋艦であった。計469人を 載せて航行中、1918年11月に、立ち寄っ
たシンガポールで、警戒しながらも、一時上陸した乗組員により、インフルエンザを、
持ち込んだのであった。閉鎖空間である艦内で、インフルエンザが爆発的に流行してい
き、看護手、軍医も倒れてしまう。最終的に306人(65%)が発症し、うち48人が死亡(
致死率16%)と言う発症者や罹患者の一割以上が死ぬと言う高い致死率に至っている。
一方、シンガポールから乗り込んだ便乗者の中には、スペインインフルエンザに1度は
かかっていて回復した者もおり、彼らは艦内では発病しませんでした。やはり1度かか
って免疫ができ、2度かからなかったことも、この事件は教えています。長い航海での
乗組員は疲労が蓄積し環境も劣悪だったとはいえ、スペインインフルエンザのインパク
トを現在に伝える貴重な事件の記録があったのだ。矢矧は1918年。オーストラリアのシ
ドニーから、シンガポールへ移動する任務を受け、11月 9日に到着しました。艦長山口
伝一は、他の軍艦で発生していた流行性感冒を警戒していた。最新の注意を払い、当初
、上陸も現地人の乗り込みも認めず、状況を見極めていました。この時、2週間の状況
調査で、シンガポールの街では、感冒の流行はほとんど収束している。と判断したので
あった。更に仲間の船も上陸許可を出していたこともあり、21日と22日、山口艦長
は、乗員の半数ずつ、4時間に限っての、上陸を許可したのである。しかしながらも、
2日後。上陸した乗員、4人が発熱する。彼らを隔離したものの、28日に10人に、
増加。船はそのままマニラに向かって出航した。感染は拡大を続け、12月、治療に当
たっていた軍医、看護部員にも感染。ついには、乗員469人の9割以上が罹患し、船
は病人であふれた。

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/15(水) 13:25:45.71 ID:xUm7qwsss
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   45

 かろうじてマニラにたどり着いたものの、48人が死亡する大惨事となってしまって
いたのでありました。「『矢矧』の姿は非常に象徴的ですね。島国日本とも重なります
。やっぱり、水際対策に、船内国内に(ウイルスを)入れないという万全のスタイルを
望んだ、ニュージーランドのように、島国を利用した有効な感染対策をとっている国も
ある。わずか、4時間の上陸2回で。最初の感染者が出たときに、「風邪だ」と思って
、そのまま、出航しちゃった。これが非常に危険な事でした。この時、シンガポールで
流行が、一旦おさまりかけていた時期というのもあったようだ。そういう状況を見て、
艦長は間違えた誤判断した。これで厳しい結果となってしまった日本だった。悲しい、
歴史の教訓として、おさまりかけた時、今日この対処、行動制限の解除には、非常に、
重要で慎重な判断が求められる。ちょっとでも早く解除したいな。と思うのを、少しだ
け慎重にする。という方が、安全かもしれない。12月5日にマニラへ入港したが 揚錨機
を扱ったりタラップを降ろす乗組員さえいない有様で、来艦者は、上下甲板至る所に倒
れてうめいているという状態になった「腰ヲ抜カサンバカリニ驚ク」という状態である
。12月9日普門副長死亡、10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡したのだ。
死亡者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。シンガポール出港後、フィリピン航路途上
のクラスターは、看護兵(衛生兵)や軍医まで倒れる状況で。「矢矧」はシンガポール
からの便乗者を含めて469名が乗っており、306名が発症、そのうち48名が死亡した。こ
れは、発症率としては約65%、致死率は約16%にも上る。当時の日本国内のスペインか
ぜの発症率は、約43%、致死率は約1.6%との記録からみて、致死率で比較しても、こ
の「矢矧」においては10倍もの極めて高い数値であった。矢矧は、横浜港からキャンセ
ルされ八丈島に停泊し、更に死者は増えて、1ヶ月後にやっと本土に上陸したようだ。

66 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 09:51:20.39 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   46

 大正3年(1914年)7月、第一次世界大戦勃発して連合国の一員としてドイツ、
オーストリア等に敵対した日本は、大正6年2月に「矢矧」を呉港から出港させている
。ドイツ軍の進出を監視する任務にあたったのち、翌年11月に任務を「千歳」と交代
するためシンガポールに入港し、交代まで3週間の余裕があったため、乗組員を休息の
ために上陸させた。これが大事件の発端であった。偵察したもののこの年は、世界的に
スペイン風邪(インフルエンザ)が流行していたのだが、矢矧が特別の配慮を怠った。
とされている。その後、出航しての洋上の密室となった状態で艦内に感染が広がり上下
甲板至る所に罹患者が倒れてうめいているという状態に陥ったが、当時にインフルエン
ザウイルスや罹患に、現代の様な知識は、皆無であったと言える。結局、乗員471名
のうち副艦長の普門中佐ほか48名が命を落とし、日本全体では合計39万人の死者を
出すことになってしまいました。大正8年1月に、死者の遺骨を乗せた「矢矧」は母港
呉に帰ってきた。呉鎮守府から2隻の汽艇が仕立てられ、1隻に遺族、別の1隻に乗員
家族らが乗り組み、涙に咽びながら遺骨を迎えた。中立国スペインから多く情報が流さ
れたことから「スペイン風邪」と呼ばれたが、20世紀最大級の世界的流行(パンデミ
ック)に数えられており、インドで1,300万人、アメリカで55万人など 全世界で
、推定2,500万人が亡くなっています。感染者としては世界人口の 3割近くに相当
する。5億人以上にのぼり、第一次世界大戦は徴兵できる成人男子が減ったため、終結
が早まったとさえ言われている。著名人の死亡も報告されており、日本では皇族の竹田
宮恒久王(享年37才)、建築家辰野金吾(東京駅、日本銀行本店の設計者)、劇作家
島村抱月(松井須磨子と芸術座を創設)などがスペイン風邪の犠牲になった。その後の
軽巡「矢矧」は、昭和15年4月に除籍となり、呉海兵団の練習船として使用された。
約100年前に、世界で第一次大戦の戦死者の4倍もの死者、国内でも 関東大震災の5倍
に近い死者をもたらしながら、「スペイン風邪」と呼ばれ、その正確な被害も把握され
ずに忘却された。

67 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 09:58:24.53 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   47

 何故、こんなにくどくどしく、インフルエンザを書いたのか。実は今回の新型肺炎の
コロナ騒ぎによる流行と、コロナウイルスとコロナワクチンに大きな疑問があるからだ
。日本経済の落ち込みや、海外からの観光客数の大幅減などの現状から早く脱出する為
の施策として、当然の事だったのかもしれない。しかし、この新型インフル騒ぎの中で
ウイルスの終息を願わずにはおれませんが、しかし、である。このインフルエンザにし
ろ、コロナにしろ、我々人類が、どんなにパンデミックに陥ろうとも、全人類が死ぬ事
はないのだ。つまり、誰かは死ぬが、誰かは生き残っているのであり、何故こんな事が
起きるのか。という事なのだ。色んな理由はあるだろうが、このコロナは化学薬品ほど
の毒ではない。という事の結論に至るのだが、今では、渡り鳥がインフルエンザを持っ
てきている。という事までが判明している。ところが、この鳥でも、、病気で死に行く
鳥がいる一方で、その殆どは平気な鳥ということなのだ。中国には医食同源と言う言葉
がある。つまりここで、多くの死者はそもそもが健康体でない事や、体調不良が解らな
いままの環境か、解っても無理する環境だった人達が死んでいるのが現実なのだ。イン
フルエンザと人類の関わりは古く、古代エジプト時代には既にこの感染症が知られてい
たことが記録に残っている。ただし、インフルエンザを、科学的に判定できるようにま
でなったのは 20世紀になってからのことで、それ以前の実績については、流行特性や
症例などからの推定であり、インフルエンザウイルスによるものかどうかは、確かでは
ない。そのために「インフルエンザ流行が記録された事例」も文献により様々である。
ヨーロッパ諸国で、1173年から1174年にかけてインフルエンザと思われる症状の流行が
記録されており、これがインフルエンザの初めての記録とされることもある。1510年に
イギリスのジョンストンが、これらの症状とマルタ - シチリア - イタリア - スペイ
ン - フランス - イギリスという流行経路を記録し、これがヨーロッパにおける正確な
記録の最初と、される場合がある。つまり人類との付合いは長いのである。

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 10:01:59.21 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   48

 1876年のコッホによる炭疽菌の発見以降、様々な感染症についてその病原体が分離・
発見されていったが、インフルエンザ病原体の発見は困難を極めた。1892年北里柴三郎
やリヒャルト・プファイファーが、インフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる
細菌を分離し、Haemophillus influenzae(インフルエンザ菌)と 名付けたが、本来の
インフルエンザのウイルスは小さくて、電子捜査顕微鏡で、やっと見えるぐらいのもの
である。従って、今やっとDNA判定と共に、分類や活動が記録されている状態なのだ
。わが国へ上陸したスペインインフルエンザも、その後国民の大部分が免疫を獲得する
につれて死亡率も低下し、季節性インフルエンザに移行して行った。スペインインフル
エンザの症状は、平素見られる季節性インフルエンザは、感染後1〜3日の潜伏期間の
あと、突然の高熱と倦怠感、関節痛、腰痛、筋肉痛などの全身症状で始まり、少し遅れ
て鼻汁、咽頭痛、咳などの呼吸器症状が現れる。熱は38〜39℃、あるいはそれ以上にも
なる。通常3〜4日で解熱し、1週間程度で自然治癒に向かうことが大部分であり、比較
的予後の良い経過をたどる。しかし、高齢者や基礎疾患を持つ人は重症化することも多
くあり、かなり危険である。スペインインフルエンザも基本的には同様の症状だったと
想像されるが、当時の記録では、非常に突然の発症、チアノーゼ、血痰、鼻出血などの
出血傾向が強調されている。死亡例の肺を解剖すると、血液の混ざった水分で肺が満た
された状態(肺水腫)や、細菌感染を合併した強い炎症の所見が見られたとされる。ま
た、スペインインフルエンザでは、20〜40歳代の青壮年層で亡くなる人も多くみられた
。しかし、今の季節性インフルエンザでは、死亡例は65歳以上の高齢者が大部分であり
、あとは年少児に少し見られるのが一般的で、スペインインフルエンザでは青壮年層で
も亡くなる人が多かったことは、極めて異例な特徴である。ここで一つの仮説が出てく
る。つまり、ウイルスと細菌の攻防戦である。いざ鎌倉でも関ヶ原の戦いでもないが、
人々の健康と言うのは、「胃」が守っているのではないか。という事である。

69 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 10:09:44.43 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・インフルエンザ物語   49

 当時には、治療について、もちろん抗菌薬や抗インフルエンザウイルス薬は無くて、
安静、輸液、解熱剤などの対症療法が主であったろう。当時のカルテを見ると「ワクチ
ン」という言葉も出てきますが、インフルエンザウイルス発見前であり、現在われわれ
が用いているワクチンとは異なるものと解される。現代のスペインインフルエンザの、
原因ウイルスはA(H1N1)という、亜型のインフルエンザウイルスであることがわかって
いる。このウイルスは、人と鳥とのウイルス遺伝子が再集合してできたと考えられてい
て、1918年の時点で「新型インフルエンザ」と呼べるものであったろう。このウイルス
について、研究するためには、実物のウイルスが必要となるものの、流行は過去に終息
しており入手できない。そこで、このウイルスを手に入れるための様々な試みがされて
きた。アラスカの永久凍土の中に埋もれているスペインインフルエンザの犠牲者の遺体
からウイルスを取り出そうとする試みさえもされた。が、成功しませんでした。1997年
には、タウベンバーガー博士らは、スペインインフルエンザで 死亡した当時の患者の
ホルマリン固定肺標本からウイルスRNAを抽出して、ウイルス遺伝情報の一部を解読
することに成功した。同じ頃、わが国の河岡教授らによって開発されたインフルエンザ
ウイルスを、人工合成する技術(リバースジェネティクス法)と組み合わせることで、
当時の遺伝子を有したウイルスを再現するという 驚異的な研究が可能となっている。
その後、ウイルスの全塩基配列の決定も可能となり、スペインインフルエンザのウイル
ス遺伝子を持ったウイルスを使った研究が行われた。その結果、このウイルスは哺乳類
の肺に、強い障害を引き起こし、また呼吸器系でウイルスが効率よく増殖することなど
が明らかとなっている。この効率良い増殖を少し考えてみたい

70 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 10:10:32.33 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   50

 実は、この食文化の中で、人間が植物に飼い慣らされている説、と言う植物主導説が
ある。例えば小麦や米は、元々育ちにくい品種だった。だが、自らの支配地域、或いは
生存地域を広げる為に、味や糖分と言う、生物の麻薬を産んだと言う説である。良く、
雑草の種が服について運ばれる、或いは蝶やミツバチなどによって受粉して共存共栄と
か言われる。更に、種が鳥などに食べられ運ばれる。と言う現象も確かにある。それは
今度の新島の西ノ島など火山の無人の孤島でいち早く領土として占領し生きる事が植物
にはある事がわかり、そうした説が証明されたようだ。植物の能動説とでもいえようか
。実は、原始時代、最初の陸上に出た海からの生物も植物である。原始の海であっても
、彼らの葉緑素によって出来た水中の酸素が、大きく生物を生存させたと言われている
。彼らが陸上に出た時は、全ての植物が松の皮や、ソテツの歯の様に堅かったとされる
。恐竜時代に恐竜が大きかったのは、この栄養的にも質素で貧弱さらに、噛んで飲み込
むしかないので、初期には昆布や水中植物を食べていた。とされる。ところが、ここに
肉食恐竜が出て来るのだ。そこで逃げる為に、鳥の様な飛ぶや跳ねる機能が増して行っ
た。とされている。そしてこの肉食生まれた事で、ウイルスや細菌が出て来て、胃の中
で住み着き大腸菌による消化が産まれたとされる。その影響で花を持つ植物が出て来た
と言われる。つまり、植物も常に細菌やウイルスと戦い、今の草の様な柔らかい葉や花
の蜜や糖を考え出し、人類はじめ生物を操っているとも言われる。そこでは、猿の研究
からも、生物はベルノニアの様な、にがい毒素のものを食する様になった。とされる。
つまり人類も、この植物の虫除けやウイルス除けの毒を持って薬として進化した。とい
うのである。様々の食の中で、猿などのこの毒や苦い物を常時食べているのか。とされ
調査されたが、2〜300種の食用の中で、1〜3種しかなかったのである。他は全部
美味かったり甘かったというから驚きで、100分の1種を医食同源で薬としていた。

71 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/17(金) 10:10:55.54 ID:V5VSCftP2
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   51

 この食べ物についていく。と言う生物習性には、特筆すべきものがある。遥か昔に、
地球上に産まれたアメーバーの様な、単細胞生物と、今の人類を始め生物の主要素を形
作る多細胞生物は、意外にも近い属種として分類される。最近のDNA解析の結果の末
の学会の決定のようだ。一つの細胞のみで体が構成されている生物は単細胞生物と呼び
、動物界や植物界に所属するものは、すべて多細胞生物とされる。菌界のものも多細胞
生物と若干の単細胞生物が含まれている。一般に、肉眼で確認できる大部分の生物は、
多細胞生物である。細かく見れば、原核生物にも簡単な多細胞構造を持つものがあり、
真核の単細胞生物が多い原生生物界にも、ある程度発達した多細胞体制を持つものが含
まれている。多細胞体制の進化は、その分類群により様々な形を取る。おおざっぱに見
れば、その生物の生活と深く関わりがあるので、動物的なもの・植物的なものそれぞれ
に特徴的な発達が見られる。現代科学の中で、一番奇妙な話は、生物の再生治療である
。殆どの多細胞生物にとっては、傷の復元は出来ても、切った手が又生えるなんていう
再生は出来ないもの。と思っていた。ところが日本の山中研究室の@PS細胞の発見で
幹細胞化の道が開けたのだ。基本的に人間は、身体の構成は他の生命体物質によっての
構成であるが、多くは細菌活動による処理によって、体内エネルギーと糧の分解食を、
栄養源としている。所謂腸内細菌の動きである。36億年前の地球上には、単細胞体が
産まれても、細菌や植物もない溶岩で沸騰する硫酸の海だったとされる。植物がでて、
陸上での進化に水は欠かせないものだ。浅瀬に海藻類が誕生して、周辺に多くの海中の
動物、魚介類の仲間が泳ぐ事になった。従って彼らの産卵には浜辺の環境が必要であり
この海辺や水辺に集まる事が、回帰現象とされる。再生研究にメキシコサラマンダーは
大人気である。所謂ウーパールーパーである。コピー機メーカーも舌を巻く優秀な複製
を行う。失った肢、尻尾、さらには脳や心臓、下あごの一部が再生可能で、研究対象と
しての人気も高い。

72 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/18(土) 21:53:12.40 ID:NpVeCNdwt
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   52

 多くの再生研究の場合、扁形動物を研究対象としている。その中にプラナリアがいる
。この虫の1匹を、真っ二つに切断すると、2匹の虫になる。ことは何世紀も前から既
に判明している再生で、黒魔術の悪魔の威信に欠かせない 時間計測虫となっている。
生物学者のトーマス・ハント・モーガンは、1901年に出版した著書で扁形動物の1種で
あるプラナリアの高い再生能力を示し、話題になったのである。今なお、プラナリアは
研究対象として広く用いられている。2011年には、マサチューセッツ工科大学(MIT)
の研究者では、放射線を当てて瀕死のプラナリアに特殊細胞を移植したところ、完全な
再生に成功したと発表されるぐらい研究が続く。2013年にドイツ、マックス・プランク
研究所の分子細胞生物学と遺伝学の研究者が、扁形動物において新しい頭を再生させる
分子スイッチを発見。タフツ大学の科学者は、記憶を保持したまま頭部を再生すること
を発表している。日本では、ホヤやヒトデが有名である。この小さな動物は、再生能力
の理解を深める上で重要な役割を果たす可能性がある。 尾索動物の1種である ホヤの
生殖方法は、そのタイプによって異なる。単体ホヤは有性生殖を行い、コロニーを作る
群体ホヤは有性生殖と、出芽による無性生殖の両方を行うと言う。カリフォルニア大学
サンタバーバラ校(UCSB)の研究者オットー・グーデルホーファー氏は、群体ホヤの内
無性生殖を行う種は循環器系を共有しており、体全体の再生が可能だと述べる。見た目
では想像もつかないが、ホヤは遺伝子的にヒトと驚くほど似ている。とされる。国際的
な研究チームでは最近、ホヤの1種であるキクイタボヤのゲノム配列がヒトの遺伝子と
77%も重複しており、人類の再生医療に希望の光を灯す。としている。グーデルホーフ
ァー氏によると、ホヤの再生能力が年齢とともに衰える原因を究明すれば、ヒトを含む
動物の老化研究の基盤となる可能性があるという。

73 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/18(土) 21:53:50.17 ID:NpVeCNdwt
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   53

 ヒトデは多くの人から愛されているが、漁師にとっては厄介なもので、特にオニヒト
デなどの漁獲量の減少災害は、酷いので定期的に潜水して採集してる港もある。この、
ヒトデ類は、自身の腕、ときには体全体を再生する能力を持っている。たとえ腕が1本
しかない場合でも、リング状の中枢神経が傷ついていない限り、完全に新しいヒトデに
成長する。かつて熊本や沖縄での南海で、ヒトデ騒動があったとされる。つまり、ダイ
バーを使い、ヒトデ駆除に入ったが、指示が行き届かず、ヒトデが増えた事件が起こっ
て次の年にヒトデが貝や海藻を更に荒した事件が起こった。つまり無知なダイバーが、
ナイフによる二つ切りで死ぬものだ。と勝手に思っていたのである。今では一本の遣り
の様な串と袋を渡して、射抜いたヒトデを持ちかえっている様だ。気の利いた漁協では
それを更に養殖し、殻を開いて ウニやヒトデの卵を取って、商品化しているようだ。
天草では、5月の子供のおやつがウニの卵や内臓で、ウニの口を逆に開いて、割いた後
、そのまま口つけて吸い込むのだ。まあ卵の黄身と同じ味らしい。しかし意外にも世界
でも日本でも食のタブーは多い。このヒトデの卵食いも、最近の事で、以前は米国の、
進駐軍問題なのか キリスト教的問題からか、タブー視されて来て、密かに食ってきた
と。地元漁師は話していた。食のタブー(しょくのタブー)とは、飲食において宗教、
文化上や健康上の理由で、タブー(禁忌)とされる特定の食材や食べ方である。昔は、
日本ではフグ料理などが有名であったらしいが、日本でのタブーは食べ合わせや処理に
清潔さ、寄生虫などに起因するものが多い。しかし、世界中では、宗教上のでの特定の
食材がタブーとされる理由はかなり多い、宗教上、文化上、法律上食べることが禁止さ
れている心理的な背徳感から食べることができない。などである。

74 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/22(水) 18:21:33.13 ID:ptcamv51z
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   53 毒か薬か妙薬か

 タブー食は、一般的に大別すれば、@ 宗教上、文化上、法律上食べることが禁止さ
れている。A 心理的な背徳感から食べることができない。B 食材と考えられていな
いから食べない。の主な3種の理由が挙げられる。世に知られる食慣習やタブーには、
すでに形骸化し意味を持たなくなっている場合もある。形骸化したそれは、科学的根拠
がないもの。として受け入れられている。たとえば、インドなどアジアの多くの地域で
妊娠中から授乳期にかけて妊婦に非常に多くの食の禁忌が定められ、欧米の栄養学者か
ら問題視されている。しかし、同様の禁忌のあるマラヤで実際に妊婦たちが食べている
食品を調査したところ、表向きは食べてはいけない多くの食品がとられていた。他文化
の食のタブーを考えるときは、簡単に無知や、非合理ととらえずに、その禁忌が成立し
た理由や背景や実態にも目を向ける必要がある。例えばイスラム圏の豚は残飯整理に、
ゴミ箱代わりに飼われていたペットだった。だから同じように、中国では便槽代わりに
飼っていた。というのも、放牧民の牛の糞を燃料にしたのと同じ感覚であったのだが、
かくして、黒死病やコレラ、或いは天然痘など、過去には一部の地域で猛威を振るった
疫病事件も多発している。こうした医学的知見も少なかった過去からの教訓もあるだろ
う。又、純粋に医学的な理由から、ある特定の食材を避ける必要がある人も又いたのだ
。一例としては食物アレルギーを有する人の場合、特定の食材がアレルギー症状(場合
によってはアナフィラキシーとなり、生命にも関わる)身体の異常を引き起こすために
、該当する食材を避けなければならなかった。とする場合もあったようだ。

75 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/25(土) 10:04:59.60 ID:Kh8I6FgtH
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   54 毒か薬か妙薬か

 宗教によっては、特定の食肉の摂取を禁じている例が、少なくない。たとえばユダヤ
教では、カシュルート(適正食品規定)と呼ばれる物で、食べてよいものと、いけない
ものに関する 厳しい規則を定めている。食肉がカシュルートに適うためには、シェヒ
ーターと呼ばれる屠畜法を用いなければならず、その後、半身からは座骨神経を取り除
かなければならない。ヨム・キプル(贖罪の日)には、飲食が禁じられてもいる。イス
ラム教では、ハラールな食品のみ摂取が許されている。イスラムで禁忌とされる食材は
、ユダヤ教の規定より品目が少ないものの、摂取が許される食肉についても特定の儀礼
によって屠殺されることが必須とされている。さらにイスラム教徒の義務として、ラマ
ダーンという断食の習慣も遵守されている。ユダヤ教とイスラム教では、狩猟によって
得られる「ジビエ:野獣」も禁忌とされる。ユダヤ教より発したキリスト教ではパウロ
が、規制撤廃を主張し、エルサレム会議にてわずかな規定を残して、食物規制を廃止し
た記録が残る。残った規制も、特に西方においては その後に有名無実となったようだ
。ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教(戒律の五戒で初期仏教の三種の浄肉以外)は肉食
を禁止しているため、これらの宗教の信者は、今でも多くが菜食主義者であって、精進
料理を調理し食べる習慣がある。精進料理は肉が含まれない料理だ。ラスタファリ運動
も菜食を奨励する。キリスト教のセブンスデー・アドベンチスト教会では、ユダヤ教の
戒律に準じた食品の摂取と、菜食主義を奨励している。キリスト教の文化においては、
かつて金曜礼拝日は、キリスト受難の日として肉食を避けるべき日とされ、魚を食べる
習慣があったが、今では少ない習慣となった。

76 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/25(土) 10:17:26.41 ID:/1xB9XI4K
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   55 毒か薬か妙薬か

 金曜礼拝日の、キリスト受難の日として肉食を避けるべき日とした習慣は、現在でも
ポーランド、南ドイツなどの カトリック勢力の強い国あるいは地域では、この習慣が
残っている。一例として、大学の食堂(メンザ)では、一週間の献立において、金曜日
には、必ず魚料理を選べるように設定されていて、食肉料理は出さない規定だ。なお、
正教会では、今日でも、水曜日(キリストが裏切られた日)と、金曜日には肉、魚、卵
、乳製品、植物油、酒類を摂取しない習慣がある。とされている。ただし、カトリック
における 小斎、大斎、正教会における斎(特定の日に特定の食物の摂取を控えること
)は、厳密な意味の、食のタブーではない。実際、ローマ教皇庁は金曜日に肉を食べて
はいけないとの公表は、全くしていない。正教会の場合、斎の実行は、個人の自由意志
に基づくものとしての任意の修行となっている。道教の道士では、肉や魚、ニラやニン
ニクの類などの、五辛を禁じられていた。また、長生きするためには火を使った料理を
食べてはいけないと説かれている。これらは医食同源の立場で、おいしい料理が諫めら
れて、生きる事のみの行動として、食を捉えられている節がある。何百もの修行者を抱
えて、洒落た美味しい贅沢な料理では、不満も出来て財政も持たないと言う結束にも関
わる物だからだろう。特定の食材が心理的な背徳感を喚起するため、食用とすることが
できないものもある。役畜(ウシやウマなど)、ペット動物(イヌ、ネコ、ウサギ)、
高い知能を持つと考えられている動物(クジラなどの哺乳類)、絶滅危惧種など、社会
の中で、親近感や神霊感の高い価値が、認められている動物や植物がこれにあたって、
食を自ら禁じた風習を持つ。これらに対するタブーは立法化されることも多いのだが、
それだけ、一般社会での合意形成があった歴史を持った物であろう。と思われる。

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/27(月) 18:07:08.33 ID:0wD4P8d3C
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   56 毒か薬か妙薬か

 一般に食用と考えられている動物でも、ペットとして接することによって特定の個体
が擬人化され愛玩される。こうなると屠殺して 食材とみなすことができなくなる場合
も多々ある。社会価値の変遷によっては、何をタブーとするかは、同じ社会においても
急速に意識変化する可能性も、ジェネレーションギャップと共にかなり社会変化や生活
変化で起こり得る事である。また多くの文化では、同族同類である人の肉を食すること
を道徳上・宗教上・衛生上の理由によってタブーとしてきた(人肉食へのタブーを参照
)。当然ながら、それは、道徳上や宗教上で倫理上でもあるが、それ以上に鬼肉食とし
て精神異常や愉快犯や扇動犯の輩出も起こり、疫学上の人間種の狂犬病的ウイルスさえ
考えられるからだ。また他に、栄養価上や衛生上および習慣上の見地から単に人間用の
食材と考えられていないための理由から、タブーとなる動物例もある。一部地域を除く
多くの文化にとっては、多くの無脊椎動物(昆虫類)や ネズミなどがこれに該当する
。が、これらに対するタブーが立法化される例は、高い価値が認められている生物の例
よりも少ない。今後は、昆虫食のように品種改良や食糧危機、宇宙開発において限られ
たスペースでの効率的な 栄養摂取できる生物の養殖などの発展や理由で、タブーが又
変容する可能性もある。食のタブーが法律によって強制力を持つ例もある。これは、異
なる食文化への迫害や、人権蹂躙である。と主張される可能性がある場合である。たと
えば香港では、中華人民共和国に主権が返還されたが、イギリス植民地時代に定められ
た犬肉・猫肉の供給を禁じる法令が、直ぐには撤回されないままになっていて、同じ様
な文化圏に属する広州人の不満らしい。習慣的な広東省の食文化との食い違いが見られ
るからだ。又象牙や珍獣の薬の元も、漢方薬分として食材化されたが、そこに法文化し
禁止されたものもある。

78 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/02/27(月) 18:20:57.12 ID:0wD4P8d3C
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   57 毒か薬か妙薬か

 立法禁には、合食禁や食中毒などでの禁止もある、特定の食物の組み合わせが禁忌と
なる場合があり、これを合食禁と呼んでいる。たとえばユダヤ教のカシュルートでは、
魚と卵を除く動物から得られた食品と、乳や乳製品を食べ合わせることを禁じており、
この2つを食べる場合は、地域にもよるが、1時間から数時間の間隔を置かなければ、
食べてはならない。これは聖書の『申命記』にある「(動物の)母の乳でその子を煮て
はならない。」という記述に基づくとされる。(厳密にはこれは「母の乳で子を煮込め
ば悲しみで雨が降るだろう。」という考えに基づいた、呪術やまじないの儀式のことで
あり、「実際に食べてはならない」というよりは 偶像崇拝やまじないを禁じた記述で
ある。)という。厳格なユダヤ教徒は食器から食器洗い機にいたるまで、肉用と乳製品
用のものを別にしている。そのため、一例として「チーズバーガー」は食べられない。
また、アジアや北アメリカでは、陸生動物と海棲動物を同じ鍋で、同時に調理しては、
いけないというタブーが普遍的に見られる。ただし、両方を同時に食べることに制限は
ない。日本の親子丼や海産鍋などは、その点食えないような宗教教示といえる。日本の
武家の料理である、式正料理では、膳の左側に山のもの、右側に海のものを盛りつけ、
食べるときも、まず山のものを食べ、次に海のものを食べ、最後に里のものを食べる。
という順序が儀礼的に決まっていたものとされる。大林太良によれば、こうした和食の
配膳や食作法は、宇宙の秩序に従ってものを食べなければならない。という考えの現れ
であるという。「いただきます。」の言葉で、黙々と食べる習慣は、修道院での食への
感謝と祈りを上げてから食べる習慣と同じだ。その意味では日ユ同祖論も あながち嘘
とも言えない習慣と言える。更に日本における神社の鳥居は、中央アジアの風葬儀式と
同じであって、死者を弔い、、鷹や猛禽類に食べてもらうためだとされる。正に鳥の止
まり木だったのである。自然崇拝の中の食文化の一端であろう。

79 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/02(木) 07:47:19.32 ID:c3LTQlhsJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   56 毒か薬か妙薬か

 多文化主義が浸透している社会では、特定の宗教や、信条によって課せられている様
な食のタブーに配慮した食事を選べるようにすることが普通になっている。宗教や医学
的な背景から、多くの国籍(宗教)の人の利用が想定されている国際線航空便の機内食
の場合には、会社にもよるが、出発24〜48時間前までに申し込めば、イスラム教や、ユ
ダヤ教、菜食主義者など、特定の宗教や信条に対応した料理や、低脂肪、低塩分、低(
高)タンパク質などの料理といった、特別な機内食が配られる体制を持っている会社が
多い。このほか、学校や病院の給食でも同様の対応が見られる。これらはエスタブリュ
シュメント層に、肥満による食事や栄養偏移の脚気な・痛風などが流行って、栄養管理
の必要性が出たためだ。戦後世界は、大将の一下で多様性を認め、多文化主義・世俗主
義と食のタブーに対処して、組織も商売も運用するようになった。そしてそれは常識的
マナーや儀礼ともなったのである。そうした世界の動きに合わせて日本でもできたが、
東京オリンピックで、画期的方法が採られた。つまりバイキング方式である。発注方式
をやめて、供給に任意の選択式にしたのである。これらはこれまでのテーブル上の大皿
方式の延長であったが、大きく違って好評を得たのだった。宗教による食のタブーは、
ステレオタイプに 理解されがちだが、どの程度の遵守あるいは 違反を許容するかは
、地域・集団や個人による。ほかの集団との交流が、一般的な現代の都市生活では厳格
すぎる規律では支障が多いため、実態としては、多様化の傾向にある。たとえば、カシ
ュルートで知られるユダヤ教徒の中でも、合理的に考えて、納得できない規範はあえて
無視する改革派のラビや、タブーをまったく意に介さない世俗派と呼ばれるユダヤ教徒
が現れている。ユダヤ教徒が多いイスラエルのテルアビブでも、豚骨ラーメン店が増え
ており、ある来店客は「世俗派なので豚肉を食べる。だからおいしい豚骨スープが飲め
る」と話していた。

80 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 11:24:51.38 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   59 毒か薬か妙薬か

 イスラム世界では、禁止される酒は、流通してない訳ではない。酒の製造・販売や、
飲酒が、人目を避けて行われている国も多いのであって、砂漠の国でも、米国の禁酒法
の様に堕落し労働や勤労に害があると思われていたのだろう。一方で、自らが信じる食
のタブーを基準に、他者を非難・攻撃し、時には殺害に及ぶ者もいる世界があるのだ。
イギリスの文化人類学者、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』によれば、食の禁忌は
分類上では、落ちこぼれが持つ 中途半端な属性がケガレとされたことに、理由がある
とされている。たとえば、牛やヤギは、四足で蹄が割れており反芻胃を持つのに対し、
豚は蹄が割れているが反芻をせず、また兎は反芻はするが蹄が割れていないなど、分類
上中途半端であるがゆえに、禁忌とされたことになる。とされる。ここでマーヴィン・
ハリスは、宗教上の禁忌食の多くは、コストとベネフィットの関係から、不経済な食料
獲得を戒めたことに端を発したのだろうという可能性を指摘している。たとえば、レビ
記で、ブタを食べることを禁じているが、森林開発が盛んだった紀元前1200年頃の状況
のパレスチナでは、森を利用する養豚は、非常にコストのかかる事業だったことによる
。という判断だ。更に森林が共有地だったので、常に争いの元になった可能性や人の育
てた野菜や花が襲われている可能性もあり禁断の動物としたとも、見られるとしている
。ほかの禁断の動物も、人間の生活に有用な駄獣や、労力に見合わない狩猟の獲物が、
そのほとんどを占めている事が多い。また、ヴェーダ期のインドでは、ウシは一般的な
食物であり、牛肉は権力を維持するために民衆へ振る舞われる授与物だった。が、急激
な人口の増加によって 紀元前600年ごろに供給が追いつかなくなり、バラモン層は菜食
を呼びかけるようになった。と言う。ウシは農耕用の駄獣として不可欠な存在であった
ため、民衆がそれを食べる誘惑を断つために、ヒンドゥー教では牛が聖獣と見做される
ようになったともされている。つまり需要と供給のバランスで禁令が告知されている。

81 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 11:26:22.03 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   58 毒か薬か妙薬か

 多文化主義が浸透している社会では、特定の宗教や、信条によって課せられている様
な食のタブーに配慮した食事を選べるようにすることが普通になっている。宗教や医学
的な背景から、多くの国籍(宗教)の人の利用が想定されている国際線航空便の機内食
の場合には、会社にもよるが、出発24〜48時間前までに申し込めば、イスラム教や、ユ
ダヤ教、菜食主義者など、特定の宗教や信条に対応した料理や、低脂肪、低塩分、低(
高)タンパク質などの料理といった、特別な機内食が配られる体制を持っている会社が
多い。このほか、学校や病院の給食でも同様の対応が見られる。これらはエスタブリュ
シュメント層に、肥満による食事や栄養偏移の脚気な・痛風などが流行って、栄養管理
の必要性が出たためだ。戦後世界は、大将の一下で多様性を認め、多文化主義・世俗主
義と食のタブーに対処して、組織も商売も運用するようになった。そしてそれは常識的
マナーや儀礼ともなったのである。そうした世界の動きに合わせて日本でもできたが、
東京オリンピックで、画期的方法が採られた。つまりバイキング方式である。発注方式
をやめて、供給に任意の選択式にしたのである。これらはこれまでのテーブル上の大皿
方式の延長であったが、大きく違って好評を得たのだった。宗教による食のタブーは、
ステレオタイプに 理解されがちだが、どの程度の遵守あるいは 違反を許容するかは
、地域・集団や個人による。ほかの集団との交流が、一般的な現代の都市生活では厳格
すぎる規律では支障が多いため、実態としては、多様化の傾向にある。たとえば、カシ
ュルートで知られるユダヤ教徒の中でも、合理的に考えて、納得できない規範はあえて
無視する改革派のラビや、タブーをまったく意に介さない世俗派と呼ばれるユダヤ教徒
が現れている。ユダヤ教徒が多いイスラエルのテルアビブでも、豚骨ラーメン店が増え
ており、ある来店客は「世俗派なので豚肉を食べる。だからおいしい豚骨スープが飲め
る」と話していた。

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 11:47:59.36 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   59 毒か薬か妙薬か

 イスラム世界では、禁止される酒は、流通してない訳ではない。酒の製造・販売や、
飲酒が、人目を避けて行われている国も多いのであって、砂漠の国でも、米国の禁酒法
の様に堕落し労働や勤労に害があると思われていたのだろう。一方で、自らが信じる食
のタブーを基準に、他者を非難・攻撃し、時には殺害に及ぶ者もいる世界があるのだ。
イギリスの文化人類学者、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』によれば、食の禁忌は
分類上では、落ちこぼれが持つ 中途半端な属性がケガレとされたことに、理由がある
とされている。たとえば、牛やヤギは、四足で蹄が割れており反芻胃を持つのに対し、
豚は蹄が割れているが反芻をせず、また兎は反芻はするが蹄が割れていないなど、分類
上中途半端であるがゆえに、禁忌とされたことになる。とされる。ここでマーヴィン・
ハリスは、宗教上の禁忌食の多くは、コストとベネフィットの関係から、不経済な食料
獲得を戒めたことに端を発したのだろうという可能性を指摘している。たとえば、レビ
記で、ブタを食べることを禁じているが、森林開発が盛んだった紀元前1200年頃の状況
のパレスチナでは、森を利用する養豚は、非常にコストのかかる事業だったことによる
。という判断だ。更に森林が共有地だったので、常に争いの元になった可能性や人の育
てた野菜や花が襲われている可能性もあり禁断の動物としたとも、見られるとしている
。ほかの禁断の動物も、人間の生活に有用な駄獣や、労力に見合わない狩猟の獲物が、
そのほとんどを占めている事が多い。また、ヴェーダ期のインドでは、ウシは一般的な
食物であり、牛肉は権力を維持するために民衆へ振る舞われる授与物だった。が、急激
な人口の増加によって 紀元前600年ごろに供給が追いつかなくなり、バラモン層は菜食
を呼びかけるようになった。と言う。ウシは農耕用の駄獣として不可欠な存在であった
ため、民衆がそれを食べる誘惑を断つために、ヒンドゥー教では牛が聖獣と見做される
ようになったともされている。つまり需要と供給のバランスで禁令が告知されている。

83 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 11:48:27.78 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   60 毒か薬か妙薬か

 文化が人に食へのタブーを課すのはなぜかというのは、健康上の理由が禁忌につなが
った可能性こそが最も高いとおもわれてもいる。たとえば、未調理の豚肉を食べること
は旋毛虫症、E型肝炎に罹患する恐れが高く、多くの海産物も食中毒の恐れが高い。と
される場合がある。が、これらの考え方は俗説にすぎないという批判もある。しかし、
近代まで、中国においては、漢民族は魚や魚介類は食していない。従って、広州料理は
必ず火を入れ油焼きするのが特徴で、更に福建などの人間を、漢民族とはしなかった。
華僑人はこうして、追われて世界中に料理で散って行ったが、華人としたのは、山菜食
や肉食も扱ったからだ。とされる。また、中世日本においてしばしばフグ食の禁止令が
出されたが、これは中毒死に対する対策であり、健康上の理由による食のタブーと言え
るものだ。これは現代においても(日本に限らず)資格を持たずに提供することを禁じ
る法律として残っている。更に、寿司や刺身は、今や普段に食べるものだが、基本的に
は漁師料理であり、何らかのきっかけで生で食った経過があったのだろう。ただ日干し
や焼き魚の歴史は相当古く、縄文時代からも貝殻が出るので、牡蠣やアワビを食してい
た日本人が居たのである。となると、思うに、私見だが海の水を、いれたツボが、火焔
土器であり、常に焚火にかざして塩を作って焼き魚を、串焼きの垂れの様につけてあぶ
って魚を喰ってたのでは無いかと思う。近年浜に、寒くなって沢山のイワシが揚った。
これを処理するのに重機を使用して土の中に埋葬してるが、昔ならこぞって人が拾いに
来たであろう。かつて厚岸に住んだムツゴロウこそ畑氏は、台風になって波が荒れたり
冬の海には ワカメや昆布を労せずして浜で拾って、我々の食卓は賑やかだった。東京
の買い物暮らしより立派なものだった。と書き記している。

84 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 14:21:58.31 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   61 毒か薬か妙薬か

 バリ島のバリ・ヒンドゥーなどを除いて、多くのヒンドゥー教徒はどんな肉もすべて
忌避するようだ。特に牛は、ヒンドゥー社会では神聖なものである。とされ、ほとんど
のヒンドゥー教徒は牛肉を食べられない。しかし、過去、カーストに属さない不可触民
は屠殺を生業とすることがあり、牛肉を食べることがあったようだ。現在、牛肉食は、
インドでも 仏教徒としてところどころで受け入れられるようになってきた。インド産
以外の牛肉なら、食べてもよいと考えるヒンドゥー教徒もいる程になった。牛乳や乳製
品は、牛を傷つけずに得られるため禁忌とはされず、むしろ積極的に消費される国だ。
台湾での年配の人たちにも、牛肉食を控える傾向がある。それは牛は農業に有用であり
食べることは間違っている。と感じているからである。また、カナダのアカディア人も
かつては役畜としての役割を終えた牛のみを、屠殺して食用にしている。つまり肉食は
戦後の日本人の卵料理の様に 有難い物貴き物、貴重なお祭り用の食糧だったのである
。ある時日本のTVクルーだったかが、中央アジアに立ち寄った時、わざわざ一頭の牛
を屠って、客人料理を行った。息子に少し話した通訳が、笑って話したのが、「ああや
ってわざわざ、客を呼びつけては、美味い肉を食おうとするんだ親父は、おかげで牛が
売れても頭数が少なくなって、オイラは町の学校に行けそうもない。」と下をうつむい
ていた。と話してる映像がでた。中央アジアでの、貴重な水の手洗いと貴重な牛の屠殺
というのは、実は大事なお祝いの日にしか食べられないと言う。普通は、後に残してお
いた、干し肉と牛乳と塩の野菜料理なのだと言うのである。まあ野菜と言っても野草の
類ではあるが。

85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/03(金) 14:22:21.95 ID:Z7PteR4lM
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   62 毒か薬か妙薬か

 モーゼの十戒の受難の時代から、厳格なユダヤ教徒は馬肉を食べない。馬は蹄が割れ
ておらず、反芻もしないため、この肉を食べることは禁じられているのだ。英語圏では
馬肉はタブーとされることが多く、馬肉の供給は、しばしば非合法でさえある事が多い
。ロブスターや、ラクダのように、ユダヤ教やキリスト教のある宗派にとっては馬肉が
禁じられている。 西暦732年に、トゥール・ポワティエ間の戦いの直後に軍馬の供給が
重要視されたため、教皇グレゴリウス3世は、ユダヤ教の禁止令と同じく レビ記に基
づいて、異教の「嫌悪感を催す」馬肉食禁止のの風習をやめる取り組みを始めた。1000
年に、アイスランドにキリスト教を布教した際にも、教会関係者にはアイスランド人に
馬肉食を禁じないことを、約束せねばならなかった。馬肉に対する態度に、文化的に近
い民族や、同じ民族の中でも、こうした大きな違いがあった。たとえばフランスでは、
イギリスと違って、必ずしもタブーではなく、大韓民国では馬肉食の習慣は一般的では
ない。が、馬産の伝統が長い済州島では例外で、日本式の習慣が残っていたのである。
日本でも、馬頭観音の教えでは、馬の屠殺は、江戸時代は禁止されていた風習であった
。御犬様時代に禁止されたのだろう。と明治の著作には解説されていたが、関西以南の
土地のみの習慣で東京で牛肉のすき焼きが流行ると共に、無くなったとされている、ま
あ流行りもん好きの日本人気性でタブーが消えたと言えよう。柳川では豚を最初に飼っ
たが全く損をした人の話がある。柳川市では、竜造寺氏が蒲池家を襲った時、鶏籠に、
隠れたが、鶏が鳴いて若君は見つかり殺されてしまう。その経過から、後の立花の家老
はカゴメの歌を若宮社として献じたと言われ、これが二宮社となった。そして市民は、
二宮社を詣出て決して鶏肉を食わなかったとされる。

86 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 09:42:56.95 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   63 毒か薬か妙薬か

 日本と違い、漢方薬にも動物種を入れる中国では、今でもさまざまな動物の肉を食べ
る習慣があり。ゲテモノ食習慣がある。だが、馬肉を食べる習慣はあまりない。これは
明の李時珍がまとめた『本草綱目』に、馬肉が「辛、苦、冷、有毒」という性質であり
、傷中を治し、余熱を下げ、筋骨を育て、腰や脊を強くし、壮健、飢餓感を抑える効果
があるとする薬効は、認めながらも、むやみに食べてはならないと記載されていた。こ
のことが大きい。とされる。逆に言えば馬に愛着ある文化が育ち、本質的に馬の屠殺が
受け付けない精神文化も育っていたのではないだろうか。牛の農耕と違い農耕馬のいた
日本は長期に亘り遺伝子が変化しばん馬のようなポニー系の足の大きな小さな馬を愛馬
にしている。それに比べモンゴル種は荷馬車のない駆ける兵馬仕様が多い。つまり一種
の戦場の友や草原生活の朋であった事にあるのだろう。日本でも名馬の産地として知ら
れた東北地方など地方によっては、かなり古くから食べてきてはいるが、恐らくは宗教
的に駄馬を食し、食肉馬の育成という様な形は産まれていない。コンビーフやソーセー
ジなどに、馬肉を使用し作ることもあるが、多くはない。競馬関係者および競馬愛好者
の間では、今でも馬肉食を敬遠する者は多い。馬肉は多くの国で食されはいる。特に、
ヨーロッパ、南アメリカ、アジアの伝統料理に重要な部分を占める。上位国8ヶ国で年
に 470万頭の馬を消費する。倫理的反対意見と不慣れさでいくつかの宗教で禁止されて
いる。馬は、西部の地域、特にアメリカ、イギリス、アイルランドでもペットとしての
地位を与えられた。旧石器時代は、野生馬はタンパクの供給源として狩猟されていたし
、ヨーロッパの多くの地域で、馬肉消費は、732年 馬肉禁止の教皇令にもかかわらず、
近代まで続いた。北欧ゲルマン異教の、宗教的儀式に使われ、特にオーディン崇拝に、
儀式の一部として捧げられ、食べられた。イギリス、オーストラリア、アイルランド、
アメリカ、イギリス・カナダなど英語圏の多くは、一般に入手できない。それは世界中
の、ロマニ族とユダヤ人の人々の間でも、タブーであるからだ。

87 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 09:43:24.47 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   64 毒か薬か妙薬

 同じように、ユダヤ教徒にとってラクダの屠殺と摂食はモーゼ法によって厳格に禁止
される。ラクダは反芻するが、外見上は蹄が分かれていないからだ。イスラム教では、
ラクダを食べることを禁じてない。アラビア半島やソマリアなどの乾燥地帯ではよく食
べられる。しかし、ラクダの肉は、若いラクダの肉では美味とされているが、多くは重
さの量り売りなので、普通は出回らないし、このラクダを、食肉様に飼う記録もない。
従って中東でも、年老いて繁殖や乳生産のできなくなったラクダが食肉用に回される。
こうしたラクダには、脂分が、非常に多くて、味が悪いため人気はありません。また、
繊維はあるものの、脂肪の塊でラードなので、味付けが重要な食材だが、固く味が付き
にくいという欠点があり、鍋を焦がさない為に少量入れる事が多い食材だ。上手に調理
するにはある程度の技法が必要であり、そこに味つけの香辛料料理によって使われると
言う特性がある。前述通り肉そのものが美味しいとは言えず、ミンチにしたラクダ肉を
パティしてバーガーにしたり、ラクダ肉の部位によってを串焼き、ステーキにしたり、
鍋に入れて煮込む料理が多い。近年の中華料理においては、フタコブラクダなどのラク
ダ(駱駝)のこぶ(瘤)が陀峰・駝峯(陀峰・トゥオフォン)と呼ばれ、八珍の一つとして、
珍重料理とされている。ラクダ自体は、哺乳類・ウシ目(偶蹄目)・ラクダ科・ラクダ
属の動物の総称で多くの砂漠地で比較的早くから飼われている。西アジア原産種の1つ
のこぶをもつ「ヒトコブラクダ」と、中央アジア原産種の「フタコブラクダ」の2種が
、現存するラクダだ。砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くからの
乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たした。ラクダは最も重要なのは、ミルクで
ある。近年、栄養価の高いラクダの乳は見直されて、ヨーグルトやアイスクリームなど
のラクダミルク製品の会社も設立されているほどだ。アラブ首長国連邦のドバイでも、
ラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズや、ラクダミルクチョコレ
ートをはじめとする製品が世界各地へ、流通してきている。

88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 10:02:50.85 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   65 毒か薬か妙薬

 日本では、鹿は神の使いとしてきた。鹿の子と言う川のほとりに入る神の子としたか
らだ。中国漢方でも、「つの」のある動物を霊獣としその破片を霊薬としている。岩手
県遠野市の「おしら様を奉じる家」などでは、鹿肉の消費を禁忌とした。おしら様を、
信仰している家では鹿のみならず「四足」の牛や豚、さらに「二つ足」の鶏であっても
、肉類の食用は憚られる。タブーを犯すと、「口が曲がる」という言い伝えである。こ
のタブーを嫌がって、おしら様の信仰をやめた家も多い。オシラ様、オシラサマとも言
われる神は、日本の東北地方で信仰されている冬将軍のお白様を示すものとされる。ア
イヌ信仰の繋がりでの自然崇拝の、お知らせする山の雪が見える家の神であり、一般的
には「蚕の神、農業の神、馬の神」とされている。神体は、多くは桑の木で作った1尺
(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに
、布きれで作った衣を多数重ね着させたものである。貫頭衣の形や布を頭部からかぶせ
た包頭型などがある。普段は住宅の神棚や床の間に祀られている。神体は、男と女、馬
と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い。おしら様の祭日を「命日(めいにち)
」と言い、旧暦1月・3月・9月の16日に行われる。命日には、神棚などから おしら様を
出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日
は、本家の老婆が養蚕の由来を伝える祭文(おしら祭文)を唱えたり、少女がおしら様
の神体を背負って遊ばせたりする。かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によっ
て祀られていたとも考えられている。坂上田村麻呂伝承の猿賀神社由来を同時に語る。
と伝えられ、おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神としてのほか、農耕
神として、田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力する。と伝えられる。また、『
遠野物語拾遺』には、かつては狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため
、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったという
鹿が雪国の道案内者として、食しない誓いの形を残したもの。とも考えられる。マタギ
とオシラは、定移住者か移動住民かの、一種の区分けのお守りとなったと言われる。

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 10:39:14.28 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   66 毒か薬か妙薬

 古代メソポタミアでは、豚は卑しいものとされていた。らしいが、食べられていた。
馬、犬、蛇を食べることはタブーであったから、肉と言えば豚肉だったのだ。今でも、
エジプトや中国などの習慣は、残飯や糞尿でも食べる野獣との認識だ。古代エジプトで
は、豚と牡山羊は不浄なものとして、神殿への生贄としての持ち込みすら禁止されてい
た。しかし、一般庶民は気にせず食べており、養豚も行われていた記録が残っている。
ピラミッドを作る上で、象が使われていて、象は大切な荷馬車の石を載せたそりを引い
たとされる。ここでは各地から労働者を、国家の経営、不況対策として雇用されていた
。従って、街の管理者は当然食に追われて、商人には、手厚くビールと肉や野菜とパン
が振舞われていた。飽食である貴族と、一般労働者の腹を満たす事に必要な飼育が豚で
あった。それは多産で毛の手入れも不要だったからだ。豚肉を食べることは、イスラム
教、ユダヤ教、セブンスデー・アドベンチスト教会では、戒律上禁じられている、現在
でも比較的よく守られている。この決まり事には、さまざまな論理があるが、禁じてい
る考え方は疫病や健康上であろう。汚い所の飼育では、生食が受け入れられている余地
はない。つまり、時々大疫病が流行ったのであろう。そこに「不浄である」と考えられ
ている原因がある。豚は本来、非常に清潔好きな動物であり、飼育環境の劣悪な養豚場
に詰め込まれ、人間に不浄という濡れ衣を着せられてしまった。しかし通り近親交配を
する 動物の肉を、医食同源に似たような観念からも それを忌避するという倫理的な
理由も存在する。豚の性質に、ストレスを感じた時に水中や泥、排泄物の上でも、お構
いなしに転げまわってのたうつ特質を持つ。皮膚の表面が毛で覆われておらず、人間の
健康に害を及ぼすし、汚れが皮膚に付いて固化や薄膜を貼ったりする。イスラム教の考
えでは表面が鱗で覆われていない 海産物のイカやタコも、同様の理由により禁じられ
ている。

90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 10:39:36.33 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   67 毒か薬か妙薬

 何でも食べる日本と違い、豚は「人間にとって貴重な食物を奪い合う存在」と考えら
れている。自然的にも、近親交配で繁殖する生態に対して倫理的、生理的嫌悪感が生じ
ている存在だ。牛、羊、鶏、山羊などに比べて腐りやすく、保存性が悪いという生活上
の知恵からも扱いにくい食材で、ヨーロッパに渡った時、大量の塩で漬ける必要があっ
た。そこで、高い塩や辛い干し肉を嫌い、ウインナが産まれたとされる。イスラエルの
国防軍では、必要に迫られた場合のみ豚肉を糧食として用いてもよいが、豚肉に触れた
食器はすべて使用後に捨ててしまう規定がある。と言われる。キリスト教でエルサレム
会議にて規制を廃止したために、今は聖書の規定に関わらず摂食は自由となったようだ
。ただし、近代になってから興った教派の一部は、今も禁じているものもある。かつて
ハワイ王国では、カプという掟により女性は、豚を食べることを 禁じられていた時が
あった。カプ(Kapu)は「禁止・禁忌」を意味するハワイ語で、宗教活動や神々、神聖
視される高位の王族の掟に由来する言葉で、ポリネシア各島に同様の言葉が存在する。
10世紀頃の昔、南米からやって来た神官の「パアオ」が、ハワイにきて厳しいカプ制度
をもたらした。とされる。人間を生贄としてヘイアウに捧げる習慣も、パアオ以降に始
まった。パアオ以前のハワイのカプ制度は、比較的ゆるやかだったようだ。生活の中で
大きな影を落とした食物に関するカプがある。男女一緒に食事をしてはいけない、女性
はバナナや豚肉を食べてはいけないといったカプがあり、昔は夫婦、親子といえども、
男女一緒に食卓を囲むことが禁じられた。しかもカプを破れば、多くの場合、刑罰は、
「死」。現代社会では何の意味を持たない些細な掟破りが、死に直結していたそれらが
神への供物にされる特別な食べ物だったことから生じている。とされる。トンガ語では
タブTabu、マオリ語やタヒチ語ではタプTapu。英語のタブーの語源の言葉である。

91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 11:02:48.43 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   68 毒か薬か妙薬

 野生のウサギであるノウサギは、旧約聖書『レビ記』において特に不浄な動物である
と述べられていて、ユダヤ教徒およびユダヤ人のキリスト教徒はこの禁忌を固く守って
いる。しかし、中央アジアでは、鷹狩りの恰好の獲物であり、ナキウサギ、灰色種の石
うさぎ、茶系種の岩うさぎ、白系種の雪うさぎなどが知られる。基本的に、どこにでも
原種がいて、現在では愛玩用にかけ合わせての販売もされて200種位から1500〜2000
種位あるとされる。兎は大きくは、耳が立つか折れるかで分かれ、次に大きさと色で、
品種の原種が想定されていた。ヨーロッパではジビエとして、ノウサギを食べるほか、
家庭で草や野菜くずを与えてアナウサギ(カイウサギ)を飼育し、肉用にニワトリを飼
う感覚で、屠殺して食べることも珍しくなかった。この事から日本でも1羽2羽と数え
る。明治や江戸からの慣習となった。しかし、ウサギを食べる機会よりもペットとして
接する機会が多くなった社会では、ウサギを食べることに抵抗感を持つ人も多くなった
。日本では現在はウサギをあまり食べないが、かつては一般的な食用獣であり、たとえ
ば徳川家でも、正月にウサギ肉入り雑煮を食べたという。ウサギを「匹」ではなく鳥類
と同様の「羽」と数える場合があるのは、「四つ足でない」ため、食べてもいい。とい
うこじつけ(ウサギを鵜と鷺に読み替え鳥肉と偽る)のためだったと言われる。ただし
、この「羽」という数え方はあくまでウサギを「食肉」として扱う際の数え方である。
つまり食用としないペットは一匹二匹なのだから、日本語はややこしい。ナキウサギは
、アジア・北アメリカおよび東ヨーロッパの一部の、寒冷な気候の土地に分布する。多
くの種は、かなり寒冷な気候で隠れ家となる割れ目のある高山の岩場に縄張りを持って
単独で生息する。中にはプレーリードッグのように温暖な気候の草原に複雑な巣穴を掘
って群れで生活する種もあり、その中のあるものは、開けたステップに棲息する。日本
には、北海道にキタナキウサギの亜種、エゾナキウサギが棲息する。

92 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 18:22:09.33 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   69 毒か薬か妙薬

 ナキウサギは一見ハムスターのような小動物で、短い四肢と丸い耳、短い尾をもつ。
サイズは種によって異なるが、体長約18-20cm、尾長2cm弱、体重75-290g。狭義のウサ
ギ類は、餌を食べた後、まず緑色のやわらかい糞をし、さらに栄養を摂取するために、
この糞を食べる。その後、固形のコロコロした糞をする。つまり二重の糞をして生息し
て来た。ナキウサギも同様で、草食であり、さまざまな植物を採食する。その棲息地に
より、主に草やスゲ類、潅木の小枝、コケ、地衣類などを食べる。地域によっては食糞
によって栄養補給する。ウサギ目の他の動物と同様、ナキウサギは切歯をもつが犬歯を
欠き、また、臼歯の数は狭義のウサギ類より少ない。昼行性または薄暮性で、通常は、
昼間の方が活動的であり、標高の高い地域に棲息する。最も高い活動性を示すのは、冬
になる前の時期である。ナキウサギは冬眠しない。冬の間のあたたかい寝床兼食料を、
自ら作った干し草の部屋を必要とする。ナキウサギは新鮮な草を集め、それらを積んで
山を作り干し草にし草が乾ききると、巣穴に運び込んで貯蔵する。働きものだ。他の個
の作った干し草をかすめ取る行動の結果として、争うが、アオダイショウやオコジョや
猛禽類のような近隣の捕食者に、そこで漁夫の利を与えることになる。似た体型にネズ
ミがいる。鼠食文化(そしょくぶんか)は、ネズミ種の肉を食べる習慣である。一部の
文化では病気の恐れや宗教上の理由でタブーである一方で、主食としている文化もある
。アフリカのマラウイは、トウモロコシ畑でノネズミを狩って食用とする。棒に刺して
調理したり、塩漬けにしたり、乾燥させたりして食べられる。市場や道端の屋台では、
大人気な珍味食品である。アフリカアシネズミが分布するサハラ以南のアフリカには、
アフリカアシネズミを食べる。

93 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 18:22:43.06 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   70 毒か薬か妙薬

 南北アメリカでも、「ラット・シチュー」は、伝統料理で、ウェストバージニア州の
特産品であり、これは車両に轢かれた動物を料理する料理法とされる。ロードキル料理
の一種で、多くの馬車で轢かれた動物は、日干し乾燥して食べられた。ペルーのシピボ
族やボリビアのシリオノ族は、ネズミを食べることは、文化的なタブーとされている。
が、他の部族では焼いて食する。アジアでも、タイなどでは肉用に売られているラット
(おそらくはアゼネズミ)が市場にでる。中国・広西チワン族自治区のオオハタネズミ
の肉も市場で売られ食される。一部の文化では、ネズミの肉は、特定の社会的、または
経済的階級に受け入れられる形態の食物として制限されている。インドのミシュミ族の
女性は、魚、豚肉、野鳥、そしてネズミ以外の肉を食べることはできない。つまり、こ
のインドでは、女性が、イスラム教、バラモン教、キリスト・ユダヤと、いつどこでも
因習の「禁止・禁忌」を破らぬように、幼児時から牛やラクダや馬などの肉は食べては
いけない物となっている。このミシュミ族にとっては、ネズミの肉は重要な食料となっ
てしまっている。また、北インドの不可触民(ムサハール)のコミュニティは、エキゾ
チックな珍味としてネズミの飼育を商業化している。これは、こうした唯一食べれる肉
だからだろう。アゼネズミの肉は、ベトナム、台湾、フィリピン、カンボジア、中国で
も食べられている。ラット・オン・ア・スティックは、ベトナムとカンボジアで消費さ
れているネズミのロースト料理である。いわゆるスティックのバーベキューラットとで
日本で言う焼き鳥である。ベトナム南部の3省における野生生物取引に関する2020年の
調査では、調査を受けたレストランで販売されていたノネズミの55%が、新型コロナウ
イルスを保有していたことが判明したが、焼いた肉には存在しなかったのである。

94 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 18:23:33.64 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   71 毒か薬か妙薬

 ネズミのパイはイングランド北部の伝統的な料理である。ヴィクトリア朝イギリスに
おいては、鼠肉は、極端に貧しい労働者階級の食糧源となった。金持ちの間でも珍味と
されていた。結局はこうした肉料理は、何であり香辛料と共に、おいしく食されたので
ある。第二次世界大戦期には、イギリスの生物学者らが実験用ラットをクリーム状にし
て食べていた。第一次大戦期に、ソンムの戦いでは、ネズミを干して、食糧にする映像
がある。塹壕の持ち場から離れて、料理が振舞われる場所まで帰還しなければ 昼食が
ないからだ、朝夕二食で昼間の食卓がないからだ。この時ネズミ料理はバラエティが増
えた。ボルドー風のネズミのグリルのレシピでは、ワインセラーに生息する 体内のア
ルコール濃度が高いネズミを使用し、皮を剥がして内臓を取り除いた上での、オリーブ
オイルと潰したエシャロットを使った濃厚なソースを塗り、壊れたワイン樽の火の上で
焼く。スペインのバレンシアでは、ビセンテ・ブラスコ・イバニェスが小説『蘆と泥』
中でアゼネズミの肉を絶賛している。ヌマネズミ(Marsh rat) は、ウナギや地元の豆と
並んで、伝統的なパエリアの主要な材料の一つであった。後には ウサギの肉、鶏肉、
そしてシーフードが主流となって行った。ハワイとポリネシアも伝統的な文化で、ネズ
ミは、庶民の日常的な食べ物であった。イースター島では、祝宴で庶民はネズミの肉を
食べることができた。が、王は島民たちの信仰であるタブと呼ばれる「神聖な状態」に
あったため、食べることは許されていなかった。ハワイにある、外部文化との接触前の
考古学的遺跡を研究する際は、一般的な家庭のネズミの残骸の量が富裕層家庭の3〜4
倍にのぼることに気付いた。全ての遺跡で見つかったネズミの骨は断片化され、焼かれ
、炭で覆われていた。ネズミが食物として食べられていたことが判明した瞬間だ。一般
的な家庭に比べて富裕層の家庭ではネズミが食用にされることが少なかったのは、外部
文化との接触前のハワイの富裕層が、社会的地位や好みの問題としてネズミを食べる事
が出来なかったためかもしれない。

95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/05(日) 18:25:31.95 ID:Yasgedg6v
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   72 毒か薬か妙薬

 野生であるかペットであるかにかかわらず、ネズミは、ヘビの一般的な食料である。
たとえば、成体のネズミヘビとボールニシキヘビは、飼育下では主にネズミを餌として
いる。餌となるネズミは、ペットショップや爬虫類動物園だけでなく、ヘビをペットと
して飼っている人も、業者から生きたまままたは冷凍された状態で購入する。イギリス
では、2006年に施行された動物福祉法で「餌は、捕食者の健康のために絶対に必要な場
合を除いて、給餌前に殺されることを法的に要求される。」と定められた。この規則は
、主に英国動物虐待防止協会の圧力と、「生きた動物の給餌は残酷である」と言う人々
の声を受けて施行された。生餌(いきえ)を禁止したのである。ペルーでの主なネズミ
目はモルモットの丸焼きである。西洋のほとんどの文化では、ネズミは不潔な害獣、ま
たはペットであって、人が食べるには適さないとされている。ビーバーなどを魚肉と、
わざわざみなされ、食肉が禁止されていた修道院での需要があった。ペットにおける鼠
食の蛇用に飼育されて、ヘビが逆に主食となる場合も欧州でおおかったらしい。強さの
象徴や、龍の化身として食べられのかも知れない。またネズミと言えば猫がいる。大航
海時代には、このネズミが穀物を食べ、危険な疫病も流行った事から、猫を飼う文化が
拡大した。それに伴って、食文化についても欧州でも「猫食文化」が出来た。キリスト
教でも、敬虔な信者は ネコ含む肉食動物を食べることは許されないために食べない。
とされたが、この大航海時代主に、戦時や極貧状態の人々がやむをえずネコを食べるだ
けでなく、料理法を持っている社会のインドや中国のアジアから入って来た。中国とベ
トナム北部で、冬にネコの肉を食べると身体が温まる。と特に高齢者の間で伝えられ、
寒さの厳しい華北などは、猫は人間の食べ物と考えられていない。中国は年に 400万匹
の猫が食べられて消費は増加傾向にある。一般の飯店は、外国人旅行者に配慮して、猫
料理は出さない。が、広東料理にはヘビを竜、ネコを虎、鶏を鳳凰に見立てた龍虎鳳と
いう料理があり、強壮効果があると信じられている。

96 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/06(月) 09:23:36.29 ID:RaqC8qgDy
今の農水大臣は バカの極致だろう。 牛乳廃棄は、これまでやって来た嘘ばかりの政策の 現実だ。
例えば 農業土木も稲作推進の号令で 農地整理 圃場整備と称して何をやったか。結局今までの水利を変え
小作農を切り捨て、農家にやるべき予算執行を 建設土木会社に渡して行ったのである。
今回の、生産・増産の支援から 今多すぎるから生産者や牛を殺せ、牛乳捨てろ。と言うのは。
ミカンにしろ 何にしろ、農作物の超過で 農協と結託して、やって来た方策の延長である。
冷温穀物倉庫は 戦前・戦後の苦しい時代に、農民の拠出や接収によって、軍部指導と同じく
強制的に行われて、全国70万棟が創られた。つまり戦後の食糧難時代を作らない為に。である
ところが、そうした備蓄米が古古米となって社会問題となり、管理費は払わないとして、
この米を北朝鮮などに送った以降は 撤去させて50万棟が一挙になくなったのだ。
これを農協の近代化策として応援しだして、更に壊されたのである。こんな事の繰り返しであり
屠殺すべきは、牛ではなく 農協と結託して守銭奴になった農水大臣であり農水省役人である。
では、なぜこうした事になったのか。それは甘利氏を始め、自国の理解もなく諸外国との交渉をミスしたからだ。
つまり、結局は 7〜80年代の日米交渉で負けた政治を、延長させた自民党にあるのだ。
こうして トヨタ日産 あるいは家電や半導体を優先したが、それでも遣られている馬鹿さである。
結局 無能すぎる 国会議員を応援している 国民が悪いのである。若者が馬鹿である理由だろう。

97 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/07(火) 21:37:55.35 ID:cNRGZ1mWJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   73 毒か薬か妙薬

 イエネコを食用とするタブーは、人類に身近な愛玩動物を食肉として扱うという点で
犬食のタブーとの類似点が多い。猫食文化は世界中に散見され、飢饉や経済的窮乏と、
大きな関係はない。そうした猫肉を嗜む文化が存在するが、犬と同じく、愛護団体から
の抗議運動が起こっている。BBCは、2015年、中国・天津市の民家で食用猫200匹が保管
されていた事件について、「中国では、猫食は広くタブーとされているものの、いまだ
農村地帯では食されている。」と説明しながら、インターネット上で猫を食用にする事
について抗議活動が発生したと報道した。これを受け中国国内の猫肉取引は禁じられた
。2007年の法律でも「国内で通常食されない食物」の取引には特別な許可が必要として
いる。華南の飯店で出される猫肉は主に、許可を得たブローカーが安徽省や江蘇省から
仕入れたものである。としている。中国ではペットとしてのネコの飼育が増えるにつれ
、猫食文化への風当たりが強まり、抗議行動も起こるようになった。2006年には深セン
市の有名な猫肉料理店が40名ほどの活動家から襲撃を受け、営業中止に追い込まれた。
李氏朝鮮時代に書かれた「東医宝鑑」は、猫を食べると関節炎を含め、関節に良いと記
している。元々朝鮮は、古くから犬を苦しめて殺した方が美味しい、かつ滋養強壮効果
が高まる。とする文化がある。猫についても茹で肉は神経痛や関節炎に効くと信じられ
ている。今日でも毎年300万匹犬肉を食べている。ネコの場合、生きたままで 巨大な圧
力鍋で煮込みスープにするとリウマチに効く漢方薬とされている。又、『ネコエキス』
として瓶詰めされ普通に市場で売られる。このネコは野良猫であることが指摘されて、
猫を煮込んだ料理の蝶湯(別名:猫湯)に批判もある。2013年時点で 韓国の高齢者が未
だに違法猫湯を、関節の特効薬と信じている。猫湯の違法提供業者の実態が報道されて
同年に、釜山広域市中区南浦洞路上で、ネットで包まれた食用の猫らが路上で販売され
ている様子までが映された。

98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/07(火) 21:38:22.88 ID:cNRGZ1mWJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   74 毒か薬か妙薬

 2015年に釜山の住宅街や慶尚南道で鶏肉の仕掛け罠で、野良猫を捕獲し、慶尚南道の
金海で食用のために殺した男が、動物保護法違反の容疑で逮捕されている。「健康食品
センター」には1匹あたり1万5000ウォンで600匹の野良猫を、普通に食用に売っている
。ベトナムでの、猫肉の料理は、ビールのつまみにする人が後を絶たない。猫肉食は、
表向きには禁止されているものの、猫の飼い主のベトナム人らは、ペットが食材として
捕獲される不安を常に抱えながら生活している。このため、2014年時点でベトナムの、
路上で飼い猫を見かけることは滅多にない。首都ハノイ市内の数十店の飲食店では、猫
を溺れさせ、毛皮を剥いでから、炒めて提供しているのだ。店長曰く、猫肉を食べる人
は多くいて、タイやラオスから輸入してまで調理されている。ベトナムでは、太陰暦の
月末に食べられることが多い犬肉とは対照的に、猫肉は太陰暦の月初に消費されるのが
一般的である。動物愛護意識を持つ人々は増えつつあるものの、犬や猫の肉を、食べる
食習慣は、ベトナムから未だになくなりそうにない。と報道される。中国との国境を接
する為、北ベトナムではネコ肉を「リトルタイガー」として、幸運を呼ぶと信じられて
いる。猫肉を提供する食堂があり、中国などからの密輸が増えている。とされる2015年
に中国で仕入れた数千匹の猫の密輸が摘発された。日本では仏教信仰の広まりによって
平安時代末には貴族の饗応食から獣肉食がほとんど姿を消した、中世以降は穢れを忌む
という風習も加わり肉食がほとんど行われなくなったのである。また古来より猫は米食
文化における穀倉や寺院での経典をネズミ食害から守る重要な番人として珍重されて、
神格化もして、化け猫騒動の伝説さえ、伝承された。

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/07(火) 21:38:46.11 ID:cNRGZ1mWJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   75 毒か薬か妙薬

 猫の肉以前の問題として、そもそも肉食全体が、日本では歴史的にはこのような状況
であり、江戸時代も肉食は忌避された。ただし、それは表向きのことで、実際には獣肉
が「薬」として貴族や武士など支配階級の間で食されていたことも文献により実証され
ている。中国医学書が広まって医薬としたのだ。それでもやはり、江戸時代に食された
獣類の食材が、兎・犬・川獺・狸・鹿・猪・狐・熊(いずれも野生)の8種類に大別で
きると結論付けられるにすぎず、猫は江戸時代に食された獣類の食材にカテゴライズさ
れないのである。しかし、猫の肉が食されていたという推定の根拠となりうる文献は、
皆無で、『名産諸色往来』(1756年)には江戸麹町にある獣肉専門店に並んでいる食材
として猪・鹿・狐・狼・熊・獺・鼬・猫・山犬を列記している。(調理法の記載はない)
。だが沖縄では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにした、
マヤーのウシルなどが食べられていた。沖縄県の薬膳 ・ 郷土料理で、マヤーとは 猫
を意味する 方言で、文字通り「猫のお汁」である。 皮を剥いだ猫の肉を一口大に切っ
て鍋に入れ、泡盛をもみこんで火にかけ、 出汁を加えて中火で煮る。 よく灰汁をとり
、肉に火が通ったらイーチョバ( ウイキョウ )かフーチバ( ニシヨモギ )の葉を刻
んで加え、やわらかくなったら 塩 または 味噌 で味をととのえ、仕上げに 紅花油 を
少々入れて火を止める。これが「猫汁(ウシル)」である。欧州では、ネコは厳冬期や
凶作の年や、戦時に飢えを免れるものとして食されることがあり、2度の世界大戦中は
、「屋根のウサギ」と呼ばれ、もっぱら主食の肉になった。オーストラリアのアボリジ
ニ族では、野良ネコを焚き火であぶり焼きにし食する。彼らはネコのシチューのレシピ
も開発している。この地方の住民の一部も「オーストラリア固有の動物相が、外来種の
イエネコによって深刻な脅威にさらされている。」という理由からネコを食べるように
なった。科学者らは野良ネコを食べることで、体内に危険なバクテリアや毒素が入り込
む。と警鐘を鳴らしている。

100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/07(火) 21:39:21.55 ID:cNRGZ1mWJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   76 毒か薬か妙薬

 愛玩動物の一番に猫が出れば、やはり人の生活に近かったのは犬だろう。ムスリム圏
やユダヤ教では、肉食獣を食用にすることを禁じているため、犬(狗)・猫ともに、こ
の禁制が適応され食しない。しかし、狼が家畜化されてきたので、狼を野生の犬として
みれは、祖先が狼もしくは犬を食べてない種族は、恐らく地球上にはいない。中国には
いまでも狗肉料理店(湖北省)など大繁盛している。こ食文化は「食犬(けんしょく)
文化」という。猫食文化(びょうしょくぶんか)を猫肉(ししびょう)として犬も又、
逆さ読みされる。「犬食(けんしょく)文化」をもつ国々では、犬をペットとして飼う
一方で食用にしており、朝鮮半島のヌロンイや、ハワイのハワイアン・ポイ・ドッグ、
メキシコのコリマ・ドッグ、南アメリカのテチチのような食肉専用の犬種も作出された
。その後、犬を主に愛玩動物とみなす近代欧米の習慣が浸透するにつれ、文化摩擦を引
き起こす例が多く徐々にへっている。日本においても、中世以前においては赤犬などが
しばしば食用とされていた。しかし、江戸時代の途中から徳川綱吉による生類憐れみの
令の影響により禁忌となった。明治以降では太平洋戦争後の食糧難の一時期を除いて、
犬を食用とする文化はごく一部を除いてはなくなっている。中国の新石器時代の遺跡の
中からは、犬の骨が大量に出土して犬を食用として、大量に飼育していたとされている
。黄河流域も長江流域も犬食文化は大きく存在していた。古代中国で犬肉を食べていた
事実は、前漢の高祖に仕えた武将樊がかつて犬の屠畜を業としていたことや、「狡兎死
して走狗烹らる」(前漢『史記』)、「羊頭狗肉」(南宋『無門関』)などの諺からも
うかがえる。しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、
或いは家族や家畜群を外敵から守る番犬として飼っており、犬肉を食べない不思議さが
存在する。

101 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/12(日) 02:55:52.70 ID:j3oD0zUyH
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   77 毒か薬か妙薬

 こうした犬は生業や家族の安全に寄与する生活の仲間であり、家族同様だったからと
する見方がある。華北では、五胡十六国時代に鮮卑など北方遊牧民族の支配を受けた。
この影響から、犬食に対する嫌悪感が広まった。北方民族が入らなかった南朝であって
も、5世紀頃から犬を愛玩用として飼う風習が広まり、特に上流階級はペルシャ犬を、
愛好犬としていた。このため、南朝でも犬食を卑しいとする考えが広まり、時代が進む
に連れて犬食の風習は廃れていった。また、道教においては、禁葷食である三厭の一つ
とされた。但し明代末の『本草綱目』にも犬の記載があり、全く廃れた訳ではなかった
。2014年現在でも中国東北部・南部では犬肉を食べる習慣があり、広東省、広西チワン
族自治区、湖南省、雲南省、貴州省、江蘇省等では、広く犬食の風習が 残っている。
こうした遺跡からの事実は多い。日本でも羽犬塚と言う筑後に地名が残る。犬塚と言う
のは、コウモリを犬としていた別称で、遺跡には魚の骨しか出ない。実は筑後に長崎と
地名の言われでは、長崎氏が長崎の土地をキリスタン大名で龍造寺家に盗られこの地に
やって来た。九州征伐に訪れた秀吉は、そこでこの長崎氏の嘆願を聞いたとされ、羽柴
氏の立ち寄った犬塚が、羽犬塚の云われらしい。そしてこの塚も 本来「束」であり、
束の間の意味とされている。つまり羽柴秀吉の束の間の陣地であったと言う意味で長崎
氏の意見を聞いた所だった。実はこの犬コウモリも猫と同じに、ネズミ退治に古来より
日本では飼われていた、はちみつのミツバチ同様に、石の家型の雨よけのや洞穴で飼う
事が出来た。食用や愛玩用或いは有用ペットとしてコウモリは、意外に犬よりもはやい
時期に飼われていた可能性も高い。とはいえ放置すれば病気の発生源になるなど、今以
上に危険性が高まる。ではコウモリ退治を自分ですることも可能だった。匂いに敏感で
あるからだ。

102 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/12(日) 02:56:19.27 ID:j3oD0zUyH
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   78 毒か薬か妙薬

 北京ダックは、下処理したアヒルを丸ごと炉で焼く中華料理である。北京料理の代表
料理のひとつで。香港では北京填鴨(パッケンティンアップ)、 台湾では北平拷鴨(ペイ
ピンカオヤー)とも呼ばれる。炉(窯)の中で、アヒルを パリパリに焼いて、皮を削ぎ
切りにし、「薄餅」(バオビン)または「荷葉餅」(ホーイエビン)と呼ばれる小麦粉
を薄く延ばして加熱した皮に、ネギ、キュウリや甜麺醤と共に包んで食べる料理である
。皮だけを薄く削ぐ店と、ある程度肉も付けて切る店がある。北京市内の専門店では、
「一匹」「半匹」といった単位で、北京ダックを注文するときは、併せて前菜、スープ
、揚げ物などのアヒル料理をメニューの中から選ぶ。コース料理の場合は、残った肉の
部位は肉料理に加工して食べる。骨のがらは白濁した「鴨湯」(ヤータン)と呼ばれる
スープを作るのに用い、アヒルの舌が鴨湯の具材にされることもある。通常は皮、肉、
骨の三点セットだが、水かき(鴨掌、ヤージャン)は茹でて辛子和えにし、肝臓は素揚
げにして提供される。このように、無駄なくアヒルの様々な部位を使用した料理のフル
コースを「全鴨席」(チュアンヤーシー)という。ユダヤ教では、肉食の鳥類を不浄と
している。また、鳥類のジビエも屠殺されていないため、カーシェールではなく、不浄
である。とされる。古代から中世にかけてのヨーロッパでは、ハクチョウやクジャク、
ズアオホオジロなどが食通によって賞味され、カラスも食べられたが、今日の欧米では
一般的な食材とはみなされてはいない。それでも、欧米諸国の クリスマスディナーの
定番は「七面鳥」というイメージは強く、クリスマスディナーのメインディッシュとい
えば「肉」という印象が強い。実際に、一部の宗教上の都合で肉・卵・牛乳を食べない
国々をのぞいて、「肉」をメインの料理としている国が多い。肉の種類は、日本でも、
お馴染みの鶏肉から、七面鳥・牛肉・豚肉、さらにはアヒルやガチョウまで様々の様だ
。どのような肉料理を作るのかは、それぞれの国柄が出る。

103 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 15:46:41.45 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   79  毒か薬か妙薬

 皆さんご存じのようにふぐにはものすごい毒があり、なかでも卵巣は最も毒性が強い
部位の1つとされる。青酸カリの500倍もの毒性 を持つテトロドトキシンという猛毒が
含まれていて、人間の場合たった 2〜3mg 摂取しただけで死に至るらしい。怖い毒だ。
そんな猛毒のある部位を、何故かどうやっても食べたかったのか、食べられるようにし
てしまった日本人がいる。それが「フグの小糠漬け」である。製法を調べてみた。まず
、ふぐから卵巣を取り出し、約半年間塩漬けに。そして水分が抜けて硬く締まった卵巣
を木桶(きおけ)に入れ、米糠、麹(こうじ)、いしる(うるめいわし由来の魚しょう
)を、ていねいに加え漬け込んで2年以上発酵させて、熟成したら完成する。この間に
毒が消える事になるんだが、今でもそのメカニズムは 解明されていない! だから製法
を変えることはできないんだ。とされる。したがって、この製法は極秘でもないが石川
県でのみ発明されて、現代に伝わっている。近年のふぐの毒の法令によって、作るには
「石川県ふぐ取扱い条例」で規定されたもので、「ふぐ加工に関する資格免許」を取得
してないとダメだとした。そのうえで公的機関の検査を、受けたものが売られている。
これで、どれだけレア度が高い珍味かは、わかってもらえるだろう。さらに、この製法
は石川県でのみ発明されて現代に伝わっているものであるので「石川県ふぐ取扱い条例
」で規定される、「ふぐ加工に関する資格免許」の、取得資格者のみの生産なのである
。インターネットでも販売され宅配もされる。独特の香り&濃厚な味わいの真空パック
状態のものが贈られる。かなり好みが分れるしっかりした糠のニオイがする。臭いとい
えば臭いけど酒飲みにはたまらん感じよ。

104 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 15:54:04.70 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   80   毒か薬か妙薬

 ヨーロッパやアメリカ、カナダのクリスマスディナーを代表する料理のとして、今も
なお「七面鳥」が親しまれている。しかし、実際には七面鳥は北米大陸が原産であり、
ヨーロッパに持ち込まれたのは15世紀頃からだった。それ以前は、ヨーロッパでのクリ
スマスディナーと言えばガチョウ料理が定番だった。七面鳥がアメリカ大陸から持ち込
まれ、ヨーロッパでは、「大きな鶏肉」としてブームとなる。当時、輸入されるほどの
価値のある七面鳥は、一部の上流階級の方しか口にできない特別な肉として扱われた。
つまり王宮や宮廷料理だった。その後、イギリス国内の富裕層の間でクリスマスの贅沢
な食事の一つとして七面鳥が根づいていった。そんな、イギリスでは富裕層の贅沢品で
あった七面鳥がステータスとなって、アメリカを中心としてた北米地域では事情が違っ
た。北米には、野生の七面鳥がウロウロしていたからだ。クリスマスの贅沢ディナーに
するには「ニワトリの肉は硬くて嫌だ」、「豚肉は普段から食べている」などと言った
理由で、野生の七面鳥をメインディッシュに使用した。又伝書鳩や旅行鳩の定番の料理
で、つまりは、鳥料理はアメリカでは、習慣だった。クリスマスディナーの七面鳥は、
そうしたイギリスとは真逆の扱いをなされていたが、クリスマスの大人数の集まりには
うってつけだったのだ。そうした文化が、日本に伝来したのは、あの有名な宣教師「フ
ランシスコ・ザビエル」による、キリスト教伝来の影響を受けての事だった。当時は、
日本全国では外国からの文化を受け入れる事は、容易でなかった時代だった。明治維新
以降は、他国との貿易も盛んになり、「クリスマス」という概念が広まり始めた。明治
時代以降は、現代と同じようにクリスマス商戦が行われていたと言われている。しかし
、実際に七面鳥を入手し、料理することが非常に難しかったため、日本では”フライド
チキン”や”ローストチキン”などがクリスマスの定番となっていったと言われている。

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 15:54:30.05 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   81    毒か薬か妙薬

 現代でも、日本で七面鳥の丸焼きを一般家庭で見ることは少なく、代変え品ではない
が1970年代からKFCが”クリスマスにはチキンを食べよう!”という広告を掲げて、
チキンを売り始め、これをきっかけに、「ケンタッキーフライドチキン」が日々、日本
の食卓には並ぶようになった。これは、日本で七面鳥を手に入れられなかった外国人が
、日本にケンタッキーフライドチキンをクリスマスディナーにしたことに由来している
。とも言われている。我々日本人が、日本に生を受けて以来、理想のクリスマスディナ
ーの姿は家庭の食卓であるが、在留外国人や帰化キリスタンとしては、七面鳥の丸焼き
がデカデカと食卓に並ぶ光景ではあろう。クリスマスディナーの中心として「フライド
チキン」が食卓に並ぶ光景を。何気なく頭で描いていたとしても不思議でない。ある特
別な1日の夕食の姿。そんな1日を遠い昔の同じ日にも、思い描いていた人々がいたの
かと思うと、少しばかりではないノスタルジーを感じずにはいられないのではないだろ
うか。つまり西洋人にとってのおせち料理、特別な晩餐会なのである。鳥の飼育では、
盛んに卵が盗られ卵料理は世界中に存在する。卵類はヒンドゥー教では、卵を禁忌とす
る。かつての、ベンガル地方では、若い娘がアヒルの卵を食べることを禁じたからだ。
アヒルの卵は、体に熱を与えると信じられているため、貞操を危機にさらす効果がある
と考えられた。台湾東方の孤島・蘭嶼の原住民であるヤミ族も、鶏卵の食用をタブーと
する。日本統治時代、島を訪れた日本人の食後の後片付けで食器を洗う際、生卵が入れ
られていた器を触れるのさえ嫌がったという。日本でも新興宗教の中に、真光教がある
が、真光(まひかり)教団名称にもある『崇教』(すうきょう)とは、五大宗教の大元
を説く教えとのことで、各宗教界からの入信も多数ある。宗教観念上、卵は成鶏の成就
でもあり起源である。更に、殻を割った卵は中心の光の黄身と影響を持った白身と象徴
てき図柄とされている。

106 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:09:11.60 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   82   毒か薬か妙薬

 この、卵崇拝は、かつて古来に人はどこでもあったと言われる。ニシンの卵はカズノ
コ、として日本の正月料理の定番である。「かどの子」の訛りとされており、これは、
近世までニシンを「かど(カドイワシ)」と呼称していた名残である。基本的にはメス
の腹から取り出した魚卵の塊そのものをそのまま食さず、一度「天日干し」または「塩
漬け」にしたものの方を食用とする。ニシンの卵の一粒一粒は非常に細かいが、無数の
卵が相互に結着しているので、全体としては長さ約10cm、幅約2cm前後の細長い塊と、
なって売っている。又ニシンが昆布に卵を産みつけたものを「子持ち昆布」と呼んで、
こちらは珍味としてそのまま食用としたり、高級寿司店では寿司のネタとしても利用さ
れている。基本的には数の子も昆布も、本来価格が高い高級食材だった。また、その見
た目が「黄金色(こがね色)」をしている様子から「黄色いダイヤ」の異称を持ってい
た。このニシンの卵の代わりの品物が、安いタラの卵である。タラやスケトウダラの卵
はその名の通りタラコと呼ばれた。ニシンの数の子より安いため、と言うか卵が小さい
粒の為、そのまま塩漬けで売られて行った。塩に付けたのは、食用と言うよりは腐れ止
めだった。精製された食塩よりは安く、塩味の味付けの調味料として家庭の吸い物やら
味噌汁の定番だったのだ。明治以降、機械製塩の道が開け、徐々に消えていく中で、タ
ラコは朝鮮への輸出品になっていく。「たらこ」はスケトウダラの卵巣を塩蔵したもの
だったが。朝鮮ではスケトウダラの卵巣を塩蔵し、唐辛子などを使った調味液で味付け
した更に辛い「明太子」にして、年間の食材にして、戦時の食糧にしていたのである。
日韓併合で米の生産高が増えて、人気になっていた。戦後帰還兵や大陸の味として、そ
の後日本人用に塩抜きした明太子が創られ好評を得た。明太子はつまり、唐辛子の有無
によって名称が使い分けられている状態だった。

107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:09:32.47 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   83   毒か薬か妙薬

 明太子はスケトウダラ韓国語名「明太(ミョンテ)」の子だから「明太子」なのであ
り。たらこは「タラ」の子だから「たらこ」と名付けられました。「明太子」も「たら
こ」も名前の通り、どちらもスケトウダラの卵巣を使用した食品です。それでは、同じ
原材料のスケトウダラの卵巣から作られる「たらこ」と「明太子」との違いは、スケト
ウダラの卵巣で作ったもののみが使用できる名称タラコと「辛子めんたいこ」の、すけ
とうだらの卵巣(卵を含む。)に唐辛子を原料とする調味液等で味付けしたものをいう
。辛子めんたいこの、食品の表示に関する公正競争規約の「辛子」を省く「明太子」の
名称とは食品表示法による区分分けなのである。また「たらこ」は主にスケトウダラの
卵巣を使用していますが、マダラの卵巣で作ったものも「たらこ」と呼ぶことがある。
 同じ魚の卵で、国際的に高いのはサメの卵キャビアである。チョウザメの卵とニシン
の卵は同じにキャビアと称される。本来、チョウザメの卵巣をほぐしたものの塩漬け。
でオードブルなどで供される高級食材である。一般的には、キャビアとはチョウザメの
卵巣をほぐしたものを指すが、ヨーロッパの多くの国では、魚卵の総称としてキャビア
と言う。だから逆に、ロシアで、魚卵全体をイクラと呼び、キャビアは「チョールナヤ
・イクラー」すなわち「黒い魚卵」とわざわざ呼ぶ。国連食糧農業機関の定義によると
、「チョウザメから取った魚卵製品」だけが「キャビア」と呼ぶことができ、その他の
魚卵で作られた類似食品は「キャビア代替品」として、分類されている。この定義は、
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する「ワシントン条約」にも通用し
、世界自然保護基金、そしてアメリカ合衆国(米国)とフランスの税関が採用している
分類である。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:10:08.80 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   84   毒か薬か妙薬

 ベルーガなどの河川系サメなどは、カスピ海と、中国国境沿いのアムール川が有名で
ロシアの原産地とされる。またカスピ海では、イランにも面しているため、イラン産の
キャビアも古くからよく知られている。多くはヨーロッパ沿岸河川、北米大西洋沿岸で
も商業的に生産されていた。カスピ海に生息するチョウザメも、種類によって卵の粒の
大きさとブランド価値が異なっている。大きい順に、ベルーガ(Beluga、オオチョウザ
メ)、オシェトラ(Oscietra、ロシアチョウザメとシップチョウザメ)、セヴルーガ(
Sevruga、ホシチョウザメ )の卵が、キャビアと呼ばれる。アムール川に、生息してい
る、カルーガ(Kaluga)、アムールスタージョン(Amur)の卵で作られるキャビアも、
高品質なものが2014年頃から市場に出ている。なおその他の地域に生息するチョウザメ
の仲間からもキャビアは生産されている。こうした魚介類と無脊椎動物なんかは、ヒン
ドゥー教などで、魚介類全般を、禁忌とする場合もある。分類別では以下の通りとなる
。河魚などは、ナマズが世界的に食されるが、ケニアのキクユ族とカレンジン族の一部
は魚を食べることを禁忌している。昔、私の生まれた頃には、普通に刺身で食べられて
いた。しかし、三倍酢での食用もしくは煮炊きの食材で、醤油やワサビが好きな人には
やはり、虫が皮膚に起こりそれが身体に周り、病院行きとなった。つまり細菌が多い様
だ。ユダヤ教徒は、『レビ記』により鱗と鰭を持たない水生動物を不浄とすることから
、水中に住むにもかかわらず、鱗をもっていない「淡水ウナギ」や「ナマズ」のような
魚の摂食を禁止している。と言われる。イスラム教の一部の宗派でも、ウナギが禁忌と
される場合がある。イスラム教シーア派は淡水ウナギを不浄としている。

109 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:10:33.02 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   85   毒か薬か妙薬

 かつては、ハワイ王国で、女性はアジ(ulua)やハクセンヒメジ(k?m?)を食べる事
が禁じられていた。とされる。アメリカ南西部に住むネイティブ・アメリカンの中でも
、南部アサバスカ諸語族のアサバ語を使う人々には、魚を 忌避する伝統がある。民族
学者マティウス(Matthews.W.)が、19世紀末にナヴァホ族を 調査した際に、この事実
を発見し、彼らを魚恐怖症として報告し議論となっている。豊臣秀吉と徳川家康では、
フグ食の禁止令を発している。明治時代に入って伊藤博文が食するまで、解禁されなか
った。フグは猛毒という認識のために、解体作業の伝承がなかったのだろう。フグを、
食材とみなしていない地域は多い。ふぐの卵巣にはテトロドトキシンという猛毒が含ま
れており、人の健康を損なうおそれがある部位として規制されている。「ふぐの子糠漬
け」は、この卵巣を3年ほどかけて塩漬けとぬか漬けにし、毒を抜いて食べるという、
郷土料理のひとつとして 先に述べたように日本海側の名産としてある。毒のかたまり
が極上の珍味に変身するから、なんとも不思議な食べ物です。先人がどうやって この
方法を見つけたかは定かではありません。が発酵中に微生物が毒を分解すると考えられ
ている。しかし、明快な解毒のメカニズムが科学的に解明されていない。伝統的な製法
が、頑なに守られた結果。今にまで伝わっているという貴重な食材である。そのまま、
スライスしてお酒やごはんのおともにするのが一般的だが、塩分が強く、レモン汁や酢
をかけたり、大根おろしを添えられることも多い。においがきつそうと口に運んでも、
生臭みはなくまろやかでタラコのような魚卵特有のプチプチした食感にチーズのような
濃厚さ、発酵食品ならではの奥深いコクがあって、もう1枚、さらに1枚とあとを引く
おいしさであるそうだ。元来食えない物も口にする。というのは、ジャガイモでも毒を
持つことが知られている様に、酒や梅干し渋柿でも、紀元前の時代からの、人類とカビ
との、コラボレーションでの豊かさになっている。

110 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:11:02.82 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   86   毒か薬か妙薬

 昔の日本人からすれば、クジラ・イルカが、今や高級食材となっているから、驚きで
ある。ビタミンCが豊富なマクタク(鯨の皮下脂肪)はイヌイットの伝統食で「鯨肉」
も同じだ。クジラやイルカが、鱗がない水棲動物で、ユダヤ教では『レビ記』第11章の
条件にあてはまらないため、カシュルートにより食用禁止となる。イスラム教の『ハデ
ィース』には、浜辺に打ち上げられたクジラの死骸から、食料を作っている場面が描か
れ、それを食べてもよいか。と、教友が預言者ムハンマドに尋ねたところ、「海から来
たものなら死んでいるものでも食べてもよい。」と答え、預言者ムハンマド自身、鯨肉
を食べた。と言われている。キリスト教の大多数の宗派も 同様である。イギリスの王
ヘンリー6世はイルカ料理を好み、またイギリスの宮廷では、17世紀の終わりごろまで
イルカの肉を食べる習慣があったようだ。フランスのパリでは16世紀、レストランの「
トゥール・ダルジャン」が開店した際のメニューには、イルカのパイ(Porpoise pie)
が載っているという。欧米諸国では、20世紀初めまで鯨油を採取するため捕鯨がさかん
に行われ、鯨肉を食べることもあった。日本、ノルウェー、アイスランドや、フェロー
諸島、大韓民国、インドネシアなどでは、伝統的にクジラが食肉として食べられている
。日本でも、古くから西日本を中心とした捕鯨を基幹産業とする地域において盛んで、
食用になっていたのである。現代でも文化を引き継ぐ千葉県、神奈川県、山梨県、静岡
県、和歌山県、沖縄県などの地域では、スーパーマーケットでイルカ肉が売られている
。戦後の食糧政策で鯨肉は日本中で一般的に食するようになり、最盛期には学校給食に
安く卸されていたり、大和煮の缶詰として安く市販されたりしていた。

111 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:11:28.71 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   87   毒か薬か妙薬

 また、今日捕鯨を禁止している国であっても、アメリカ合衆国アラスカ州などの、先
住民によって捕鯨が行われたし、脂身を利用して食す地域もある。北海道などに居住す
るアイヌでは干し肉も食した。「鉄なべ」が発達した食生活において、鍋を焦がさない
脂は貴重だったのだ。そもそもクジラを食わないとしたのは、欧州人の驕りであった。
かつては、アフリカでは鉄砲による狩猟は、貴族の遊びであって、多くの肉を食べ毛皮
や頭部は飾り物であった。飾りにならない、角のない動物、チンパンジーとかゴリラと
かは、食したのだ。料理人と呼ばれる職業は、そうした家人に随行する人達だった。こ
こで、霊長類を食べることは、種の相似性からウイルス感染の、危険性を増加させる。
と考えられた。現実に火をいれない生食や干物から。エイズやエボラ出血熱の感染源は
類人猿の肉を食べたことにとって、感染したと考えられている。が、しかし加熱不足な
肉でないかぎり感染の危険性はないとも考えられている。生肉を主食とした西洋料理の
文化では、そのしたたる血を飲み上げることも、英雄や帝王学の、境地でもあったのだ
。カルパッチョは、そうした火を入れずに、感染症なんかで死んだ事を契機に、文化人
カルパッチョが作った料理の規則であった。肉類は寄生虫の感染や食中毒を防ぐために
火を通して食べることが多い。生肉を食べることは、多く地域や国で、暗黙のタブーと
して存在していた。焼かない肉を食べるのは野蛮あるいは危険、食べる際に、血液がに
じみ出るさまが、怖がられ嫌がられた。他にも、嫌われる理由は色々あったが、神の前
に、生魚を食べる習慣がなかった西洋の地域では、生魚も生肉と同様に嫌われることが
多かった。イタリア・イギリス・ノルウェーなどの沿岸地域を除いて、大半が禁止され
タブー視されていた。しかし、近年は、特に日本の刺身が紹介されて、食される機会も
増えつつある。しかし、ヒンドゥー教では相変わらず生肉に限らず、生ものを禁止して
いるようだ。

112 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:22:01.00 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   88   毒か薬か妙薬

 勢い帝王学では、ロシアの様な寒冷地では、勢い感染症はあまりない。マイナス状態
では空気感染も接触感染も少ないからだ。勢い食生活でも、腐れる事が少なく新鮮な、
野菜料理が多い。つまり、スープ料理である。ここで「紅のコーカサス」問題が、頭を
もたげるのである。よく白ロシアや黒ロシアと言う言い方がある。実は我々は何気なく
国の名前を言うが、ベラルーシが「白ロシア」と欧米で呼ばれている事をしらないのは
東洋のみで、実はベラルーシというロシア語を直訳するとベラ=白、ルーシ=ロシア、
なのでベラルーシ=ホワイトロシア。ホワイトロシアと言う意味だったのです。つまり
白ルーシの国だったのだ。更にベラルーシよりやや南、ウクライナのリヴィウ周辺には
紅ルーシという地名が残る。又ベラルーシ北部からモスクワにかけてに黒ルーシという
地名があったりする。これは煉瓦の色による。つまり、土の色なのである。土の学習を
すれば、肥沃な土地、いつまでも麦が育つ土地と言うは、世界の11%しかなく、この
中でウクライナは8割を占めて土地を持ち、世界の8割の胃袋を満たしている。と言わ
れている。その赤黒い土こそが、チェルノーゼムと言う森林の枯葉の腐葉土と細菌と糞
との掛け合わされた、より厚いアルカリ土壌を持つ土地なのだ。およそ1千年〜100
年で1cmの積層土で1mmでも100〜10年が最低必要な年数で、1mの土壌は圧力
変形で5万年は必要とされている。これが微生物の持つ分解時間が示す自然の生育過程
である。陰陽道において、方角にはそれぞれ色が割り当てられていて、白虎青龍・朱雀
玄武として、東西南北が添えられている。東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武で
である。中央に麒麟や黄龍を入れた場合は五神あるいは五獣として信仰され五行説の素
となった。ともされる。つまりコーカサスの大陸系食肉と、菜食のスープ主義がミルク
料理で、闘うのである。肥沃な土地で育つ良質な野菜をふんだんに使うウクライナ料理
は、素材の味をとても大事にして煮込む。旬の野菜や食材の持ち味を生かす京都の料理
とよく似ている。ボルシチの誕生である。

113 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:24:15.59 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   89   毒か薬か妙薬

 じつはここで大事な事は北は黒、と言う事で玄武岩の色としてる事だ。ヨーロッパに
於いて、ウラル山脈は東である。ところがウラルから採れる石や土の色を何故、黒で北
としたのか。それの理由がロシアの土の色、黒ルーシの国サンクトペテルブルクより南
のノブゴロド付近の、沼地の黒土壌だったのである。南は赤、西は白、東は青になるの
も、それぞれ赤ルーシのウクライナ、白ルーシのベラルーシであったのだ。では青龍の
青ルーシとはどういう事か。実は青というのは青=緑であり、樹木の多い草原と言うよ
りは、森林地帯を示している。ウクライナを南としているのだから本質的に欧州大陸の
中になる。そうなると、ポーランドやブルガリアの大地と言う事になる。赤鶏朱雀とも
されるウクライナが西洋のパン籠とされるなら、白虎Vs青龍の戦いは、文化の戦いを
示している。つまり、碧い海=エーゲ海の海洋民とされる欧州人と、大陸から押し寄せ
るゲルマン人との戦いである。ここで、食卓にも闘いがあったようだ。それがポーラン
ド人のアヒルの血のスープ「チェルニナ」である。剣を片手に聖書を持ち込む、ユダヤ
教徒、イスラム教徒や、エホバの証人の信者は、決して飲血や血から作られた食物を、
取ってはならず、採ることさえを禁じられている。生きたまま動物を食べる踊り食いも
、血を含むため禁じられる。原則として、肉は食べるが、ユダヤ教でも血抜きを徹底す
る事を厳守し、食肉を塩水に漬ける必要がある。キリスト教において律法規制を大幅に
緩和したエルサレム会議でさえ、血液食の禁止は維持されている。しかし、西方教会の
信仰される地域では、それ以前からの血液の食材利用が、伝統料理として維持されてい
る。これはポルトガルでの、アロース・ドゥ・カビデラというニワトリやアヒルの血入
りのリゾットが郷土料理となっている事に似ている。野菜料理では悪い所は捨て去る。
ところが、肉料理では、余すところなく使い切る。それが干し肉の素となった。

114 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:26:17.14 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   90   毒か薬か妙薬

 基本的に、聖書文化では、裸体僧の清貧洞穴生活からの布教なのでタブー視されるが
、その向こうのモンゴル草原でも、ツングースの森でも、屠殺の主要な副産物であった
血液は、非常に栄養価が高い贅沢な飲み物であったため、世界各地で食用とされてきた
文化があった。ブーダンやスンデ、ブラックプディングなどのブラッドソーセージでは
、世界の多くの地域で非常に有名であるにもかかわらず、一部の社会では気持ち悪がら
れることがある。しかし基本的にブラッドソーセージとは、ジャンルであってそういう
ブランド名はない。血液を材料として加えたソーセージの赤身肉で作ったソーセージに
似た黒ずみの、血の風味が独特のソーセージの事だ。紀元前8世紀に既に食べられてい
て、紀元前に編まれた『オデュッセイア』には、山羊の胃に血と脂身を詰めて、焼いた
料理が早くも登場している。これは文献上でソーセージが確認できる最古の例とされる
。ローマ期の食卓でブラッドソーセージは一般的な食品であったようだ。1〜3世紀の
書かれた料理書にも、豚の血とゆで卵の黄身、刻んだリーキ、松の実などを豚の小腸に
詰めたブラッドソーセージのレシピが載る。アピキウスによると、ワインとリクアメン
で煮て食べた。としている。強い癖として感じられるが、家畜を無駄なく利用する食品
として、ヨーロッパや東アジアの牧畜の盛んな地域で、古くから作られてきていて例え
ばイギリスではブラックプディング、ドイツではブルートヴルスト、スペインではモル
シージャ、フランスではブーダンノワールなどと呼名があり、地域ごとの様々な作り方
がある。その後も各地で作られ続け、14世紀出版された『パリの作法』という料理書に
、ブーダンの作り方が、屠殺の手順から解説されている。牧畜や肉食の習慣が薄い地域
では見られず、また、宗教上の理由から血を食のタブーとしている文化圏には存在しな
い。とされるが、フランスのレコンキスタ前からの伝統料理で、中世ヨーロッパでは、
屠殺をした日の、祝祭の御馳走として作られることが多かったのだ。

115 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:26:59.84 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   91   毒か薬か妙薬

 フランスのオーヴェルニューでは、屠殺の日には村総出での、共有の大鍋で、血を煮
詰めて、ブラッドソーセージを作る習慣があった。ペリゴールでは、屠殺日のブラッド
ソーセージの煮汁を、家畜に与えたり、畑にまいたりするしきたりであった。とされて
いる。主に豚の血入りソーセージ「ブラッドソーセージ」と言うらしいが、伝統的に、
よく食べられているのはスペイン、フランス、イギリス、ドイツなどの欧州国。例えば
イギリスでは「ブラックプディング」、スペインでは「モルシージャ」、フランスでは
「ブーダン・ノワール」、ドイツでは「ブルートヴルスト」と呼ばれていて豚とは限ら
ない。各地域の牧畜が盛んな地域で、昔から家畜農家が家畜を余すことなく、利用する
方法として伝統的に食べられてきた食材である。地域ごとに様々な作り方や材料があり
ますが、豚の血液や脂肪、臭み消しに香辛料を入れて作られる腸詰めで、血液以外には
、心臓、肝臓、肺などの内蔵や舌、皮などを入れたり、つなぎとして米や小麦粉を入れ
る場合もある。見た目は一般的なソーセージの形状をしている。ものの色は赤黒焼くと
さらに黒さが増す。食べ方も、地域によって異なりますが、茹でたり焼いたり、必ず火
を通して食べられている。一般的なソーセージとちがい、とても柔らかいため、茹でる
場合は、破裂させないように沸騰しない程度の低温が基本である。食べる際も中身が崩
れないように慎重に切らないといけません。スペインの「モルシージャ」を、表面に焼
き色がつく程度に焼いて、食べてみると濃厚なレバーペーストのような味わいである。
ねっとりとしたコクがあり、クセのある独特な臭みは、好みがわかれるところだろう。
しかし、見た目の第一印象とはうらはらに、珍味としての食感が良く味は香辛料で違い
が出る。ビールなどのさっぱりとしたお酒に合う。血は、すぐに凝固するので、材料が
新鮮なうちに作らないといけない。その上血液や内蔵は傷みやすいため、保存は要冷蔵
で賞味期限も短いものだ。各地域で地産地消として食べられているため、日本でお目に
かかることはないわけである。

116 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:27:38.85 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   91   毒か薬か妙薬

 ただ今も欧州料理店では手づくりで出しているところもあり、イギリスの「ブラック
プディング」は、朝食にパンや卵料理などに添えられて食べられることが普通にあって
、近年、スーパーフードとして再注目が集まっているといいます。その栄養面はという
と、血が入っているだけあって、豊富な鉄分が含まれています。そして、豚の内臓も入
るため、亜鉛やカルシウム、ビタミン類などの栄養分も豊富。女性が不足しがちな鉄分
や、新陳代謝を促進し、細胞の酸化を防ぐ亜鉛など、女性の美容面にもうれしい栄養価
が含まれているというわけです。実は、この亜鉛と鉄分には、女性の神経症、つまり、
統合失調症などの、副神経異常や、婦人病とされる妄想症には効果があるとされていて
、かつて仏教談話には、子供を食べる鬼神をザクロの実によって、その異常行動を救っ
たとされる鬼子母神には、ザクロの実を奉納する習慣があった。又近年は、食品安全の
観点から、レバー刺しの切り身がでなくなったのだが、文献では、レバー刺しやレバー
肉の料理において、貴婦人の頭痛や奇行が治ったと言う明治の書物は多くある。時には
すっぽんの血のワイン割りなどが 料理の献立てとしてふるまわれている。すっぽんの
亀の話が出てきたので、少し話をすれば、これ等も胡麻と一緒に胡人の持ち込んだ古式
の中国料理であり、すっぽんの血を混ぜたのは、逆にワインの方が、日本では高かった
から、混ぜ物として、堂々と振舞われた。とされている。スッポン自体は約1億2000万
年前の白亜紀の前期、日本の地層で発見されている、ほど古い。古代中国の書『周礼』
によれば、周代にはスッポンを調理する鼈人という官職があり、宮廷で古くからスッポ
ン料理が食されていた。現在も安徽料理のポピュラーな食材として用いられている代物
で、滋養強壮の食品として重宝された。日本列島においては、粟津湖底遺跡の縄文時代
中期にスッポンが出土している。が縄文時代にカメ類を含む爬虫類の利用は、哺乳類・
鳥類に比べて極めて少ない。弥生時代からぽつぽつスッポンの出土事例が増加するが、
スッポンは主に西日本の食文化であって、近世に関東地方へもたらされから広がった。

117 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 19:29:48.13 ID:+Hil0OaCf
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   92   毒か薬か妙薬

 こうした、うろこの無い軟体動物や甲羅の食品では、かなり食のタブーが交差して、
地域性がある。貝、エビやカニ、イカ、タコといった魚類以外のほとんどの海産物は、
水中に住んでいるが、鰭と鱗を持たないため、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の一
部の教派によって、食べることを禁止されているからだ。イスラム教の、ラマダーン(
断食祭)と同じようにキリスト教にも大斎(たいさい)として時期や意味・食事の内容
制限し節制または断食を行う期間があり、それが正教会では「大斎(たいさい)」と呼
ばれキリスト教の正教では、かなり大斎が長くある。この期間中、魚肉の摂取が禁止さ
れるため、地中海付近ではイカやタコを使った料理が発達している。香港などで美味な
食材として扱われている シマイシガニは、甲羅に十字架に似た模様がついているため
、キリスト教徒は食べるのを恐れる。イカやタコには、食べることを禁止されていなく
ても、これらを食用とする地域は限られ、東アジアとイタリアやスペインなどの地中海
沿岸、およびラテンアメリカの沿岸部でしか、食用に至ってない。特にタコはかつて、
「悪魔の魚」と呼ばれて嫌われていたこともあり、北ヨーロッパの現地料理では、ほと
んど見られない。しかし、最近では寿司が日本国外でも普及していることにより、イカ
やタコもアメリカなどで普通に食されることが多くなっている。日本においてもイカや
カニに於いて、タブーがなかったわけではなく、上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家の、
兵法書を改良)巻六「士鑑・軍役」において 武家が軍中において禁食していることとし
て、「イカ、スルメ、カニ、トビウオ(ケガの際、血が止まらなくなる。との理由)で
禁止している。またイノシシ、シカなどの、諸肉を軍神が嫌うため。」と禁じている。
(タブーとしている)と記述している。実はイカやスルメや食肉の中には、虫歯の菌が
かなりいて、歯を支える土台の歯茎を弱らせる作用も多いから、納得でもある。まあ、
日本のウナギの蒸し焼きやドジョウ鍋を出したら、起こられそうなヤバい国も多い。

118 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/21(火) 18:47:28.10 ID:x/vuG4aKs
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   93   毒か薬か妙薬

 オーストラリアでは、何故だかイスラムの様な、「食物を苦しませずに殺す法律」が
あり、ロブスターやエビといった甲殻類であっても、調理するときには、即死するよう
に脊髄からさばくことが定められている。生きているそれらを、そのまま焼いたり茹で
たりするのは厳禁とされている。こうした甲殻類で言えば、昆虫食というのが、近頃は
流行している。ユダヤ教では、イナゴやバッタの仲間を除く虫は、すべて不浄である。
とされ、虫が混入した食物も、虫を誤って食べるおそれがあるために避けられている。
まあ日本では、因習でなくゴミとした扱いで嫌がられるのだが、イスラム教ではそうし
た事で、アリやハチを食べることは禁じられている。しかし、イスラムがアフリカにま
で及んだ事で、何故かバッタを食べることは明確に許可されており、『ハディース』に
は教祖ムハンマドがバッタを食べ、遠征を行ったことが記されている。昆虫食では、実
は、アジアが進んでいて、アマゾンやアボリジニに負けない程、幼虫食を行っていた。
又、アフリカ、ラテンアメリカ、オセアニアでは、今なお親しまれており、昆虫は安価
で良質のタンパク源になりうるとされる。昆虫は細胞の形態では、少し特殊で、コオロ
ギ食で解る様に、食用前の一週間の昆虫の環境で、その成分形態が変わる。つまり細胞
偏移や分化成長度が極めて速いので、細菌の繁殖や有害物質には気を付けないといけな
い。これを利用して味の良い昆虫にする為、ピーナッツやアーモンドを与えて風味を良
くしてから、乾燥・粉末にして、パウダー製品として実用化している。又宇宙食として
ソ連時代にハエの研究をしていた事は有名だ。45年前、旧ソ連が宇宙開発の一環でイエ
バエを研究していて、それに目をつけたアビオスという会社が、20年ほど前に買い取り
その後、イエバエ事業をムスカが引き継いでひそかに交配を重ね続けていて、現在研究
室に生息するイエバエは1100代目の食用ハエとして、養殖用餌として、乾燥幼虫を製品
にして販売している。ハイスピード肥料としても飛ぶように売れているといわれる。

119 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/21(火) 18:48:58.94 ID:x/vuG4aKs
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   94   毒か薬か妙薬

 植物についていえば、仏教やヒンドゥー教では、タマネギ、ネギ、ニラ、ニンニク、
ラッキョウ、アサツキなどネギ属の植物の消費が、禁じられている。これらは精力増強
剤として紀元前には見られていて、清貧を旨とする宗教では、米軍で言うコーラの様に
見られていたからだ。大乗仏教では「葷」(くん)と呼ばれる臭いの強い野菜類を食べ
ることが、修行に悪いと避けられた。多くの主にネギ属の植物であるネギ、ラッキョウ
、ニンニク、タマネギ、ニラなどを避ける特徴の理由だ。ネギ科ネギ属の植物は、硫化
アリルを成分として多く持っており、これが臭いの元となっている。特にニンニクなど
は、良くない食べ物と言う事で、修行する僧侶が臭くて修行に集中出来ないからか。と
言われる。同じ理由で、イスラム教では「発酵食品」を嫌悪とする場合がある。理由に
イスラム教では、ムハンマドが、祈りの前に生のタマネギとニンニクを食べることを禁
じたのが由来とされている。ピュタゴラス教団では、豆類を禁忌とした。これは、ソラ
マメ中毒が起こり、その予防が目的ではないかと考えられている。同じように、当時の
キリスト教、ユダヤも禁じていたものと見られ、ヤズィード派は今もレタスとライマメ
を禁忌としている様だ。つまり貴重な食糧の中で、ほぼレタスや豆類は油で美味しい物
とされたので禁止のままにあった様だ。この美味しいから食べるな。と言うのも修行の
一つかも知れない。と言うのも、ハワイで、かつて女性がバナナやココナッツを食べる
ことを禁忌とした例がある。日本のイチジクや梨の様に、妊婦に問題が起こるとされる
のは、生でも食えるものが多く、そこには、ショウジョウバエやアリが住み着く事で、
細菌感染の、影響があったもの。と思われる。

120 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/21(火) 18:49:32.32 ID:x/vuG4aKs
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   95   毒か薬か妙薬

 アボカドには、催淫効果がある。と信じられていたため、貞潔な印象を壊さないため
にその購入や消費を避けることがあった。厳格なユダヤ教徒は虫が隠れていてカーシェ
ールでは、虫も忌諱される為、ブロッコリーなどを避けることがある。また、カーシェ
ール機関は果物を潰さずに不浄な生物を取り除くことが難しいため、ブラックベリーや
ラズベリーを避けるように勧告している。カーシェールの食べ物とその規則はレビ記と
申命記に挙げられている。ある食品がカーシェールにならない場合は、材料にカーシェ
ールでない動物、カーシェールだが儀式に則って屠殺されていない動物、監督下で処理
されていない肉、牛乳、ワイン、グレープジュース(その加工品)、もしくは十分の一税
が支払われていない。とされるイスラエルからの産物が使われている場合、または、カ
ーシェールではない器具や機械によって調理された時である。と言う。全てのカシュル
ートの規律では、人命に関わる場合は、破られても良い。重々書いてあるととされる。
それはタルムード(ユダヤ戒律解説書)の中でも、何度も言及されて「Pikuach Nefesh
」(命を救うことは何よりも優先される)という教えがある。「魂を救うため、死を逃
れ、彼の目が光を得るまで、彼は(医師により)不浄な食べ物でさえ与えられてもよい
と我々は承諾している。」(ヨマー83a)。と言う、都合のいい事で、医学が欧州よりも
発達している。カーシェールの食べ物には、カシュルート(ユダヤ教の食のタブー)の、
規則に従う食品。ユダヤ法ハラーハーに従い消費される食べ物は、カーシェールと呼ば
れる。コーシェール、コシェル、コーシェル、コーシャ、カシェルとも表記されていて
、ヘブライ語で表記されれば「適する」の意味である。

121 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:07:12.57 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   96   毒か薬か妙薬

 ユダヤ法に従わない食べ物は 、現在はカシュルートにおいて食べてよいものと食べ
てはいけないものが厳格に区別されています。食べてはいけないとされているのはイカ
・タコ・エビ・カニ・貝類などのヒレやウロコがない魚介類、豚やその血液、ウサギや
ウマなど。また、ユダヤ教では適切に処理されていない肉を食べたり、乳製品と肉料理
を同時に食べたりすることも、戒律で禁じられているため、ユダヤ教は世界中の宗教の
中でも特に戒律が厳しいものだといわれています。アドラー氏と、ハイファ大学考古学
研究所の研究員のオムリ・レルナウ氏は、過去に同定した30の遺跡から出土した2万点
もの魚の骨のデータを検証した。対象となった遺跡は、青銅器の時代後期・鉄器の時代
(紀元前1550年〜紀元前1130年)から東ローマ帝国時代(324年〜640年)であったが。検証
の結果からは、青銅器時代〜鉄器時代で、ナマズやサメ、エイといった「ウロコのない
魚」の骨も多く含まれていたことが判明した。ある遺跡では、見つかった魚の骨のうち
の48%がナマズのものだったとのこと。発掘されたウロコのない魚の骨で、もっとも、
ポピュラーだったのがナマズで、他にサメとエイも発掘されている。そもそもユダヤ教
で、ヒレやウロコがない魚を食べることが禁じられているのは、タナハ(旧約聖書)の、
トーラー(モーセ五書)にある記述に由来している。例えば、レビ記11章には「水の中に
いるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。
すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは
、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き
物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなた方
に忌むべきものである。」とあって、申命記14章には「水の中にいるすべての物のうち
、次のものは食べることができる。すなわち、すべて、ひれと、うろこのあるものは、
食べることができる。すべて、ひれと、うろこのないものは、食べてはならない。これ
は汚れたものである。」とあるからだ。

122 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:07:39.15 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   97   毒か薬か妙薬

 知っていの通り、アメリカには禁酒法時代と言う物があった。その後にも様々に、お
酒文化に大きな影響を与えた。アメリカ合衆国史における禁酒法は、1920年から1933年
まで、アメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行され、消費のためのアルコールの
製造、販売、輸送が全面的に禁止された法律である。アメリカ合衆国で、禁酒法によっ
て、1919〜1933年の間に、酒類の生産、取引と消費が違法となった。その後、酒類規制
権限は州に移管されて、現在でも酒類の売買を違法とする禁酒郡(dry county)と呼ば
れる市町村や郡が残っている。また少数政党の禁酒党が19世紀より活動を続けている。
禁酒法が施行された背景や悪い変化といい変化を少し書いてみる。実は日本でも施行さ
れているので、これも紹介したい。普段飲んでいるお酒は、そんな時代を経て作られて
いる。アメリカで施行された禁酒法では1920年から、ウイスキー、ワインビールを含め
たアルコール飲料全般について、その製造や販売、輸送、輸出入を禁止した。1920年頃
は第一次世界大戦が終了した直後であって、退役軍人は、数千万人がいてその半分は、
帰還兵となった。大戦の戦費の総額は3000億ドルを超えて、交戦国たちの国富の3割に
ものぼる。ヨーロッパは、長い間蓄えてきた富を、一挙に失ったのであって、フランス
の打撃は深刻で、復興のために数千億フランの国債を発行する羽目になった。国土が、
戦場にならなかったイギリスでさえも、776万トンもの商船を失った。この内の8割
以上を、潜水艦の攻撃によって沈没した。これにより、イギリスの輸出は激減したのだ
。金融帝国イギリスは50億ドルの外国証券を売却し、60億ドルの対外債務を負い、
対外投資の4分の1を失った。こうして英国は崩壊した形になった。

123 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:08:13.09 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   98   毒か薬か妙薬

 アメリカはこれまで、英国に買い取られた世界一の債務国だったが、第一次大戦中と
戦後復興によって、ヨーロッパ各国に物資を売ったりお金を貸すことで、立場を逆転さ
せて、世界一の債権国になって行く。35億ドルの債務国だったアメリカは、一躍して
125億ドルの債権を有する「世界一の債権国」となるのに、繁盛する国内の工場生産
には、更に利を求める資本家達には生産速度に不満があった。金の保有量も46億ドル
となり、世界の半分近くを占めるまでになったが、その分インフレと物価高騰が襲って
いたのだ。アメリカの資本家達の海外資産は一挙に増えて、270億ドルに拡大した。
工業生産は、1929年に全世界の42.2%を占めるまでになる。アメリカ モルガン銀行
は、1920年代、ヨーロッパ諸国にほぼ10億ドルも貸し付けていた。こうして生まれた
巨大な富を背景に、アメリカは膨大な消費をする。アメリカは更に、戦後のワシントン
会議で、イギリスと同等の海軍力を保持する権利を得たのだ。軍事力増強の許可を得て
第一次世界大戦は、アメリカがヨーロッパを追い抜くきっかけになった戦いとなってい
る。これを許したヨーロッパ諸国の各国が、復興のためにお金が必要だったのである。
又、第一次世界大戦によって、ドイツ帝国、オーストリア帝国、ロシア帝国、オスマン
・トルコ帝国が滅亡した。この事は東欧での、多くの国の独立を許して、アメリカ覇権
。特に金融制圧を許している。ただ肝心のアメリカの共通ドル紙幣は今だ産まれては、
いなかったので、JPモルガンは主要銀行を集めて、1913年にFRBが誕生させた。一
説には、豪華客船タイタニック号沈没事故の賠償金支払いに応じる為とされている。

124 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:09:15.33 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   99   毒か薬か妙薬

 かつても、アメリカ合衆国財務長官などが、中央銀行の創設と、貨幣の鋳造を訴える
行為は何回もあった。ただ、特に中央銀行の創設には、州権を重視する南部から反対の
声が強くあり、こうした中、1791年には最初の中央銀行として第一合衆国銀行がフィラ
デルフィアで創設されて、1792年にはアメリカ合衆国造幣局が設立されたのみで終わっ
ていた。知っての通りポンド法では、ヤード・ポンドの質量単位である。それは金本位
制であって、銀本位制との調合を何回もした結果であった。今でこそポンドの補助通貨
としてp(ペンス)というコイン通貨があり、1ポンド=100ペンスとなって決まったが
かつては、フランス貴族同様に、貨幣鋳造があって悪貨に悩まされながらも12進法に
よる金銀の流通に乗って商売は行われていた。米国は新たな通貨単位をポンドではなく
、植民地内において流通量が多く、なじみもあったドルが選ばれた。またドルはポンド
とは違い10進法で設計され、1ドル=100セントとされた。1794年と1795年には、フロー
イング・ヘア・ダラーが鋳造された。こうしてアメリカ合衆国ドルは発足したが、特に
中央銀行の創設に関しては反対が強くあって、創設と失効を繰り返した歴史を持った。
1791年に創設された第一合衆国銀行は1811年までの20年の免許制であったが、財務長官
アルバート・ギャラティンの強い反対にもかかわらず、銀行免許は更新されず、議会に
よって消滅してしまう。この結果、同時期に勃発した米英戦争における経済負担の増加
にアメリカ合衆国連邦政府は耐えることができなかった、経済混乱が起こりマディソン
大統領と、ダラス財務長官によって第二合衆国銀行が1817年に創設された。しかしこれ
も20年の免許制であり、アンドリュー・ジャクソン大統領が存続に反対したことで免許
失効となった。こうして第二合衆国銀行の縮小と消滅は1837年恐慌の一因ともなった。

125 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:10:24.35 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   100   毒か薬か妙薬

 合衆国の成り立ちが示すように、アメリカは合州の国であって、地方分権を重視する
国柄であった。1776年の建国以来、地方ごとに、中央銀行のような組織ができることも
あったりました。が、結局、金融システムの安定に繋がらなかった経緯があり、又他国
や他州を見過ごして、モンロー主義の不干渉は、結局は大きなアメリカの脅威となった
。と言う歴史を持っている。こうした以後に中央銀行の再建は長く行われず、個々の、
銀行や鉄道会社などが、アメリカ国債や金準備を使って、各種各様のドル紙幣を、私債
の様に発行する状態が長く続いた。この時期にフィンランド、エストニア、ラトヴィア
、リトアニア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアなどが
欧州地域では独立したが、いずれも貨幣の裏付けは、アメリカの私債紙幣とアメリカの
物品で保障されたものだった。これらの物品産業の中心は、はからずも敗戦国ドイツの
工場群だったのである。この大戦の、戦闘員および民間人の犠牲者の総計として約3700
万人が記録されている。恐らくは記録に乗らない、ロマ族やユダヤ、或いは他にも4種
のジプシーとされる人々がいたので、ほぼ四千万人を越えただろう。しかし帰還したの
は半数で、その半数は、当時の精神疾患もしくは不具者となっていた。したがって治療
や日々の生活に酒や麻薬は必要不可欠であったのだ。当時の第一次世界大戦の二大陣営
である連合国(協商国)および中央同盟国(同盟国)を合わせた犠牲者は、戦死者1600
万人とされ、戦傷者2,000万人以上を記録。これは人類の歴史上も 最も犠牲者数が多い
戦争の1つと位置付けられている。半数が欧州人としても残る一千万人は合衆国に帰っ
て来た兵士と言えるだろう。ここに食糧と職の問題がある。

126 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:15:07.18 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   101   毒か薬か妙薬

 この頃、戦後に、第一次大戦に従軍した軍人に対して、1ドル(/日)程度のボーナ
スを、基金化して預託し、1945年に支払うという内容の補填給与であったが、帰国軍人
の多くは帰国しても、まともな職業は無かったのだった。その上に1920年代後半、世界
恐慌が深刻化する。精神病に侵され、不就労の上に物価高騰で、中小企業が潰れ失業者
が増加する。退役軍人の救済や、景気浮揚を目的に将来、支払いが約束されている預託
金の前倒しを求める運動が起こり、次第に活発になった。1932年、失業中の、陸軍退役
軍曹の、ウォルター・ウォーターズを指導者とするグループが大戦時のアメリカ外征軍
になぞらえてボーナス外征軍(BEF)を名乗り、ポートランドから 貨車を占拠して首都
ワシントンへ向かう行進をした。このニュースが全米に流れると、各地から元軍人達か
ら、支持を表明して、続々とワシントンへ集結し始めた。当時、戦争英雄として著名で
あったスメドレー・バトラー海兵隊退役少将が参加したことで勢いは増し、彼らは使わ
れていない連邦政府の施設や河川敷にキャンプを張り、ピーク時には女性や子供を含み
15,000人の規模に達したのである。禁酒法の背景には実は、禁酒を求めた歴史は19世紀
ごろまで遡る。、1850年代から宗教団体や米国禁酒協会などの社会団体が「アルコール
の災い」や「酒浸り状態」をしばしば重要問題として取り上げて問題視していた世論が
あったのである。禁酒法の背景の2つめには、運動家は、家庭内に酒に酔った夫や妻や
子供たちを持ち、狂乱の殴り合いなど、事件が多発していたのだ。飲酒が家庭内暴力に
拍車をかけていたし、殺人事件の多発化を促していると主張し、禁酒法の支持者たちは
アルコール乱用こそが、貧困の原因だと主張した。その後、禁酒党が結成され、当時の
大統領すらも、酒を口に出来なかった。と言われている。過激な活動家も徐々に現れ、
酔っぱらいの溜まり場で祈る人や、酒場をオノで襲い始める人も出始めていた。そうい
う時代だったのだ。つまり、金も食糧も無いので、水を飲むにも不衛生なので酒を飲ん
で耐えたのだった。この頃はロシア・ウクライナ等はポグロム(ロシア語で「破滅」)が
起こっていた。

127 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/22(水) 16:15:54.92 ID:L3t0YCPAq
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   102   毒か薬か妙薬

 実はもう一つの3つ目の要因に、は戦争の影響があった。第一次世界大戦の影響によ
り、敵国だったドイツのイメージが強いビール業界への反発も相まっての、戦争中の、
アルコール禁止を呼びかけた中に、我々はドイツと違う。とする風潮で議会が承認する
と言う、憲法が改正案時の性格てきものが、最終的に禁酒法が発令される事に繋がって
いる。このような、様々な要素が重なって、法が施行されてしまったと考えられている
。禁酒法では、酒の販売や輸入などを禁止していたが、実は所持しているお酒を飲む事
は、当初、違法とされていませんでした。この曖昧さが、後に紹介する禁酒法の歪みを
生み出し暗黒街を拡大させることになる。施行に伴い反対派に対し、アルコールの入手
方法も残していた。例えば、ウイスキーは医療用として医師に処方してもらうことが、
できた。また、工業用アルコールを原料に杜松(ねず)オイルで希釈・味付けした粗悪な
模造ジンも、大量に作られ流通した。多くの人はブラックマーケット(闇市)に出回る
粗悪なお酒は買う事が容易にでき、それにより多くの健康被害が発生することとなって
いく。この粗悪品の流行の影響力は大きく、米国メーン州など数州でアルコール禁止法
を試したものの、最終的には地元の反対で、覆っている。アメリカ経済は繁栄の真っ只
中であり、英国や仏国には、ワインやウイスキーなどの貯蔵の酒類を売るしか輸出品が
無かったのだ。需要も活発な中で、その大量輸入で、Japanバッシングと同じに、
国内の酒造議連と女性議連の掛け声、他の経済界、例えばオートメイション工場の生産
性の低下に繋がっている。などで施行された。1932年にフーバー大統領に代わり、ルー
ズベルト大統領が就任し、翌1933年禁酒法が廃止された。

128 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:17:33.95 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   103   毒か薬か妙薬

 この酒の輸入酒に目を付け、莫大な需要を満たしたのが、近隣のギャングたちでした
。元々酒の密輸は、ギャングたちが身体にいい酒を求めた活動を、地元の一地域に限定
して組織的に行われることで組織化された。言わば飲ん兵衛集団の寄り合い所帯だった
のだ。しかし、周りの村々まで流すに及んで、膨大な利益がある事が判明する。賭博場
経営よりは、酒類の隠れた問屋となったが遥かに利益になったのだ。ここでギャング団
とマフィアの縄張り争いが頻発した。それぞれが勢力の拡大をもくろみ始め、対立紛争
が生まれ、結果として銃撃や爆破、殺人などの暴力沙汰が頻繁に起きるようになってい
く。当時、活躍したギャングの「アル・カポネ」は、イタリア生まれのマフィアであり
、美食家だったのだ。密造酒で多額の利益をあげたことで知られ、往年の大人気映画「
ゴッド・ファーザー」や1987年の映画「アンタッチャブル」にもモデルとなった。一般
の者は、良くても標準以下の品質の酒しか手に入らず、病気や中毒を引く起こす人も、
少なくなく、汚職警察官やギャングの裁判抗争や市内の発砲事件が、日常茶飯事という
状態になってしまった。つまり、治安の観点から見れば、全く禁酒法によって改善はな
く、むしろ悪化する結果となってしまったのだ。前述の通り、酒は流通し、そもそもが
飲酒と保持は禁止されていなかった。ので、飲酒をなくすことはまず困難であったのだ
。まあ嗜好品って言うのは、好きな人は好きだし、ある種アルコールは殺菌剤でもあり
、至福の時を与える栄養剤だ。日本では飲酒愛好者は減っていっているが、米国では、
麻薬因習者が増えている。自分の排便で危険がある。と言う生体本能のある正常者を、
幼児状態でちゃんと歓びをあげてやらないと、熱中して身の危険を考えず、楽しみに、
没頭する強つく人間が産まれる。酔いに負けない、生活がそのまま幸福でありそれ以上
はない事を教えるべきであろう。妄想や酔いだけでは、実社会に害しかない。

129 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:17:57.18 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   104   毒か薬か妙薬

 人々は人目を忍んで、「スピークイージー」と呼ばれる密造酒を提供するバーに、足
繁く通うこととなります。スピークイージー(Speak Easy)の名前の由来は、警察からの
捜査を防ぐためにいるドア前ガードマンに、こっそりと合言葉を話すことや、酒を注文
する代わりに簡単な言葉で注文していたことと言われている。スピーク=話す。イージ
ー=手軽に。という正にショートな単語である。禁酒法によってほぼ全てのバーやパブ
が閉鎖していく中、元々の約3倍の数の無許可のバーが、スピークイージーとして存在
した。と言われる。だが総体では、禁酒法によって、ほぼ全てのバーやパブ、醸造所が
廃止になってしまった。この事はアメリカの飲酒文化の衰退を意味していた。ヨーロッ
パには、何世紀にも渡って歴史のある蒸留所や、ワイナリーがあるのに対して、禁酒法
時代を迎え、以前に正式なルーツを持つアメリカの蒸留酒ブランドさえ、残念ながら、
ほとんど消えた。お酒の種類や銘柄例にどれくらい打撃を受けてしまった。ウイスキー
では、禁酒法が制定された当時、国内にウイスキー蒸溜所が3000軒近くもあるほど栄え
ていた。しかし、禁酒法の施行を受けて次々と廃業に追い込まれ、結果としてウイスキ
ー職人は姿を消した。代表的なアイリッシュウイスキーも悲惨だった。アイリッシュウ
イスキーは、世界の5大ウイスキーに数えられ、アイルランド全域で造れる長い歴史を
持つウイスキーであった。しかし、主な輸出先が、アメリカであったことや世界大戦、
イギリスからの独立戦争などによって、蒸留所が次々と停止した。アメリカのウイスキ
ーは禁酒法が撤廃される1933年まで続いたものだった。国内での製造は禁止されていた
ので近隣諸国のお酒が密輸された。実は禁酒法時代に人気を博したことで、今日まで親
しまれているお酒がカナディアンウイスキーである。

130 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:20:58.81 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   105   毒か薬か妙薬

 先に言った様に、禁酒時代、密造も多かったがそれ以上に密輸が発達した。アメリカ
の隣国カナダから、密輸されることで大きく飛躍した。実は隣国カナダでも第一次世界
大戦中時代には、同じように禁酒法が施行されていた。しかし、アメリカと、カナダの
東側の国境に位置するケベック州は酒類の販売は禁止されたものの、製造は可能という
対応を取った。ここでカナダ産のウイスキーが アメリカに盛んに密輸される原因にも
なった。ここで北はカナディアンウイスキーが流行ったが、南部は南部でラム酒が輸入
された。ラム酒は昔から船乗りの酒としてあった。ラム酒は、北米と南米の中間に位置
するカリブ海全域で生産されており、カリブ海に近いところに住む人富裕層は直接現地
まで行って、ラム酒のみを購入していたほどの、嗜好のオタクがいるほどだ。現在アメ
リカで最も売れていると言われるラム酒「バカルディ」も、この頃知られるようになり
ました。この酒も、この時期に大きく飛躍した。お酒好きには馴染み深いラム酒です。
私は酒飲みなので、少し長話をさせていただこう。実は、葡萄酒であるワインや、発泡
酒のビールなどは、エジプト時代以前からあった。とされている。ところが、蒸留酒と
なると、酒の中ではちょっと遅れている。というのも、今やビールも蒸留して作られる
が、この蒸留器の発達が今の美味いビールを作ったが、以前のエジプト時代のビールと
とは、少し異なっていたとされる。この蒸留器の発達は、鉄や水銀から金や銀を作り出
そうとした事で出来た。こうした錬金術のはかない試みから「アランビック」と呼ばれ
る蒸留器が欧州で開発され、これが蒸留酒誕生のキッカケとなったのである。

131 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:23:26.64 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   106   毒か薬か妙薬

 しかしながら、そもそも蒸留という技術が発明されたのは、アラビアあたりで、この
時この蒸留器をアラッピック=アラビア方式、と言う名でよばれ、アラック酒というの
が出来たが、この酒は既にイスラム世界に出回っていた。と言われている。メソポタミ
アの遺跡からは、花からの香油を抽出していたらしいので、ここいらの蒸留器が発見さ
れている事は不思議ではなく、単に香料抽出か、アルコール抽出かの違いだけであった
。今日の酒造につながる蒸留技術が 発展したのは、9〜12世紀ごろの欧州で、鉄や水銀
から金や銀を作り出そうとした、錬金術のはかない試みから「アランビック」と呼ばれ
る蒸留器が開発された、これが蒸留酒誕生のキッカケとなったのである。アラックは、
中近東や北アフリカの各国で伝統的に造られてきた蒸留酒だ。発祥の地とされるのは今
のイラクやシリアあたりかエジプトで、語源はアラビア語の”araq”(汗の雫)と言われ
る。酒の蒸気が冷やされ、蒸留器からポタポタと、滴ったさまをそう例えたのだろう。
しかし、アランビックによって造られた酒が世界初の最古の蒸留酒といえるのだろうが
、それはアラックなのかはわからない。なぜなら、アランビックが開発されたイスラム
圏は、『コーラン』によって飲酒が禁じられるようになっていて、イスラム勢力の拡大
とともにアランビックが伝播していったキリスト教国の方が、先に蒸留酒を造ったかも
しれないし、日本の焼酎すら、タイ中国地方の紀元前からあったようだからだ。蒸留酒
は、当時、猛威を振るっていたペストから身を守る「生命の水」として重宝され、蒸留
技術はヨーロッパ全土に広まった。そうして、ロシアのウオッカ、フランスのブランデ
ー、オランダやイギリスのジン、スコットランドのウイスキーを生み出していく。さら
に、スペインやポルトガルによって大西洋を渡り、西インド諸島のラム、メキシコの、
テキーラ、ブラジルのカシャッサ、アメリカのバーボンウイスキーなどを誕生させてい
ったのである。

132 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:26:42.85 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   107   毒か薬か妙薬

 この蒸留と言う技術で支えられた酒を、アラック酒とされた。これらは一度砂糖分で
物を腐らせて、アルコール分を作り、その後、火を通して水蒸気にして、アルコールの
結露温度で蒸気から酒分を取り出し、空気の通る樽などで醸造させるのである。この、
秘密の方法を硝子瓶に詰込み、香料販売に巨額の利益を産んだのが、ルーズベルト一家
である。ローズ=花びら ベルト=封印と言う一家はアメリカでは大統領家系となった
。酒の醸造では、大航海時代に、この樽仕込みの酒は大量に一気に売れた。海洋上での
水と酒は必需品だったのである。名前を変えながら世界に広がっていった蒸留酒の一方
で、アランビックが開発されたイスラム圏では、アラックという蒸留酒が誕生し流通し
ていたのか。原料は、中近東で古代から栽培されていたナツメヤシである。その果実は
デーツといい、7cmほどの楕円球形の実が鈴なりに実る。栄養豊富なスーパーフードで
あって、かのクレオパトラも愛食していた。とされる。酒はタブーのはずのイスラム圏
で、なぜとも思うが、国によっては、わりと柔軟なようで、衆人の公然のみの禁止とい
うのが正解のようだ。現在、たとえばヨルダンはブドウの産地として有名で、ワインが
おいしいが、一緒にアラックも造られている。そのほかシリアやレバノン、イスラエル
、パレスチナなどもアラックの産地であるようだ。これら諸国のアラックは、いずれも
ブドウを原料とした蒸留酒に、香辛料のアニスシードを加えて再蒸留してある。アルコ
ール度数は40〜50度で無色透明だが、水で割ると、白濁するのが特徴だ。トルコ語での
「Raki(ラク)」も、同系統の酒で、白濁することから「ライオンの乳」などとも称され
ている。香りは、薬草という感じで、飲むと口の中がスースーする爽快感がある。

133 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:29:43.92 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   108   毒か薬か妙薬

 高級レストランや免税店で扱っている外国人向けのアラックではなく、庶民のために
ひっそりと造られているアラックもある。もちろん厳格なイスラム教徒は飲まないだろ
うが、飲む人も公の場で飲んではしゃぐことはない。ノンフィクション作家の高野秀行
さんは『イスラム飲酒紀行』(講談社文庫)で、「酒あるか?」と聞いては「ここにはな
い」と断られ、それでも、何とか酒に辿り着いていってしまう様子がおもしろく描かれ
ている。あるところにはあるし、飲む人は飲んでいる。これがイスラム世界だった。が
しかし、考えてみたらイスラム教よりも、人類の飲酒の歴史の方がずっと古いわけで、
もともと飲んで楽しんでいたのがダメということになったわけだから、このへんのとこ
ろが建前と本音の部分だろう。さて、アランビックによる蒸留技術は東洋へも伝播し、
アジア各地の伝統的な醸造酒を蒸留することで、地域ごとに特徴のあるアラックが生ま
れていった。スリランカのアラック(Arrack)は、ココヤシが原料だ。花房の根元を切っ
たところから、樹液を採取し、これを発酵させ蒸溜するそうだ。職人たちは、高さ10m
にもなる木をスルスルと登り、木と木の間に張り渡された2本のロープを伝って移動し
ながら樹液を集めて回る。樽貯蔵された琥珀色のアラックが多く、樽には「ハルミラ」
という地元の木材が使われている。国民の90%近くがイスラム教徒のインドネシアでは
、ヒンドゥー教徒が多いバリ島でも、アラック(Arak)が造られている。原料はココヤシ
や米で、ラベルや包装に凝ったものから、空のペットボトルなどに入れて、量り売りも
ある。地元では宗教的な儀式にも使われ、アラックを神々に捧げて悪霊を取り払って、
もらうのだ。と言う言い分けを聞いた。

134 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:32:11.88 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   109   毒か薬か妙薬

 その他にも、モンゴルのアルヒ(Arkhi)、ネパールのラキシー(Raksi)、ブータンの、
アラ(Ara)、みんなどこかArrackに似ていて、おかしい名前となっている。日本での 本
格焼酎も、江戸から明治にかけては「阿刺吉酒(アラキシュ)」という別名があったとさ
れている。これはその名残りの様だ。そして、これはつい最近までのことなのだけど、
蒸留器は「蘭引(ランビキ)」と呼ばれていた。そう、アランビックである。さてここら
でラム酒に戻ると、ラムの歴史は、そのまま砂糖の歴史であり、それはすなわち ヨー
ロッパ列強の、植民地支配の歴史と言える。これはトリニダード・トバゴでの歴史家で
あるエリック・ウイリアムズの言葉だが、「砂糖のある所に、奴隷有り」が示す通りで
あったのだ。なぜそうなったのか。コロンブスの新大陸発見から歴史を紐解いて行く。
ジェノバの船乗りクリストファー・コロンブスは、スペイン両王の庇護のもと、1492年
に バハマ諸島のグアナハニ島へ到着した。そして翌年の第2回目の航海のとき、コロ
ンブスは、カナリア諸島産のサトウキビの苗を カリブに移植したのである。スペイン
両王へ宛てた備忘録にも、「持ってきたサトウキビは少なかったが根付いた。」という
記述が残っている。つまり、コロンブスが持ち込むまでは中南米カリブには、1本たり
とも、サトウキビと言う植物は、存在しなかったのである。サトウキビの他にも、ヨー
ロッパ人が喜ぶ、小麦、米、コーヒー、オレンジ、レモンなどを欧州から、新大陸から
はタバコ、トマト、唐辛子、トウモロコシ、ジャガイモ、豆類、カボチャなどが運ばれ
、それによりそれぞれ移植生育試験がなされ、奴隷と共にお互いの食生活を一新させる
ことになった。

135 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:34:24.59 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   110   毒か薬か妙薬

 16世紀初頭、イスパニョーラ島(現在、ハイチ共和国とドミニカ共和国がシェアして
いる島)には、最初の製糖工場が建設され、ジャマイカやキューバなどの周辺諸国に広
がっていった。スペインの製糖産業は順調に伸びていたが、並行して行っていた。もと
もとの、第一目的である金鉱脈開発は、金の枯渇により頓挫して、精力的に砂糖輸出に
変化していた。そこで、金鉱脈を求めたスペイン人は、黄金を求めて中米や南米大陸へ
移住して行ったため、カリブの島々はいったんは、過疎化していくのであった。この時
にコロンブスによる新大陸発見以降、出遅れてしまったイギリス、フランス、オランダ
などの国々は、何とかスペイン勢力圏に割り込むために、スペイン船やスペイン植民地
を襲撃するところから始めた。ここで暗躍したのが、フランシス・ドレイクに代表され
る私掠船奪還の海軍や、ヘンリー・モーガンに代表されるバッカニアといった海賊たち
だった。これにより、スペインは急速に弱体化していくと、イギリスやフランスなどは
、過疎化していたスペイン領カリブの島々を次々と占領し、島の風景を、一面のサトウ
キビ畑に変えていったのである。インディオと名付けられたもともとの住民は、アジア
から渡来したモンゴロイドであるようだ。ベネズエラのオリノコ川流域からアラワク族
、タイノ族、カリブ族などの部族が、1世紀頃から徐々にカリブの島々に移り住み、他
の文化圏からの影響をほとんど受けることなく、独自の文化を確立して国になっていた
。カリブに入植したヨーロッパ人は、このインディオ達を、サトウキビプランテーショ
ンの労働力にあてたのだった。その結果、強制労働と虐待、またヨーロッパ人が持ちこ
んだインフルエンザなどのウイルス感染により、インディオはカリブ全域でほぼ絶滅し
たのである。

136 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:38:46.76 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   111   毒か薬か妙薬

 こうして労働力だったインディオが居なくなって対岸の黒人を買って来る事になった
。「リヴァプール船籍の奴隷船ブルックス号の平面図(1791)」によれば、一人に許さ
れた空間は、縦1.8m、横0.4m。体を動かすことも困難な程すし詰め状態な上、鎖で繋
げれられ、2人ずつ、または後ろ手に繋がれていた。多大な労働力が必要となるサトウ
キビプランテーションでの、入植者がインディオの次ぎに選んだのはアフリカの黒人だ
ったのである。カリブとアフリカは、気候が似ているため熱帯での作業に向くと思われ
たことと、アフリカ人はインディオと違い、ウイルスの免疫があったことが主な理由で
あった。16〜18世紀の300年間で1500万人ものアフリカ人が 奴隷としてカリブに連行さ
れて行った。この結果、カリブの人口構成は18世紀末には、アフリカの黒人が9割近く
にまでなった。ここで英国の猛進撃で開発され、三角貿易が始まって行く。こうして、
ヨーロッパから武器や綿織物などをアフリカへ、アフリカから奴隷を中南米カリブへ、
カリブからヨーロッパへ砂糖を取引する、原始資本主義の悪名高い三角貿易が始まった
のである。これによりヨーロッパ諸国は、資本を蓄積し、それが後々の産業革命を起こ
す資金となった。ラムの誕生はそのすぐ後になる。16世紀後半になり三角貿易が本格化
してくると、砂糖は作れば作るだけ売れるということで生産量が飛躍的に増加し、サト
ウキビから砂糖を造るとき、結晶化して砂糖になる部分と、結晶化しないで砂糖になら
ない部分が同時に出来た。この砂糖にならない部分のことを、日本語では「糖蜜」と言
う。砂糖の生産量が増えれば、それと同時に糖蜜の生産量も増えることになる。そこで
、この糖蜜を発酵、蒸留することによりラム酒が誕生したのである。こうして生まれた
ラムは、支配者階級が飲むためではなく、奴隷達のエネルギーを補給したり、御しやす
くするための道具として、つまり褒美や進呈用として用いられていた。また、ラムは、
当時の船乗りが恐れていた壊血病の特効薬と信じられていたため、商船や海賊船、海軍
などの、船や港の酒場に置かれて行った。特に、イギリス海軍は17世紀から1970年代ま
でを、ラムを壊血病対策の薬として支給していたのであった。

137 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:49:05.33 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   112   毒か薬か妙薬

この大航海時代こそ、人種差別をキリスト教が進めた時代で、有色人種を物言う家畜と
いう設定にして、布教している。折しも製鉄技術で鉄砲が出来て、魔女狩りの頃である
。誕生当時のラムは、香りや味がとげとげしく、酒質は荒いもので、とても飲みにくい
物だったらしい。 1693年 フランスからカリブのマルティニークに渡ったフランス人の
修道僧ペール・ラバは、コニャック蒸留機や技士を持ち込み、ラムを本国の酒造りを、
同様に精錬された秤を使って行うようにした。その結果、それまでの、奴隷や船乗りの
飲み物だったラムの品質は、ほぼ現在のレベルまで向上し、砂糖と共に第一級の貿易品
として輸出されるようになった。このラムの品質向上は、このカリブの人達を陽気にも
変えていったと言われる。よくレゲエ文化とされた、カルフォルアンリズムのテンショ
ンは、実はこのラム酒文化から来ている。現在は、動向としては、まず、ラム生産地が
拡大している事があげられる。今まで、ラムを生産していなかったアジア圏やアフリカ
圏などで、新しい本格的なラムブランドが誕生してきたのだ。特にアグリコールラムや
ハイテストモラセスを原料にしたラムの生産が増えている。ラムとは、ウォッカ、ジン
、テキーラと並び、世界4大スピリッツのひとつに数えられる蒸留酒だ。サトウキビを
原料で、ほのかな甘みがある特徴だ。ラムの製法のひとつで一般的にラムの製法は2種
類に分けられていて、一般的なラム酒は「インダストリアルラム」の種類である。イン
ダストリアルラムは、サトウキビを砂糖に精製する際に出た「モラセス」という廃糖蜜
を原料に作られる。モラセス=糖蜜は、貯蔵が可能なので、1年を通してラムを製造で
きる利点があった。その製造効率の良さで、インダストリアルラムは現代におけるラム
酒の製法のスタンダードとなった。対してアグリコールラムとは、サトウキビのしぼり
汁をそのまま 100%使用して作られるラムである。この時捕鯨船も出来、鯨の髭が高価
なもので、ダンスする侯爵夫人に必要だった。下着を付けずソックスを履くからだ。何
故かって、女性も立ちションして侍女はその便器持ちだったのだ。その為床は石作りで
あった。とされる。

138 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:53:46.55 ID:xzXYVayZX
 まあ、日本でも、江戸時代まで、筒持ちという将軍や城主には尿入れ持ちが、お傍に
召し抱えられていたので、その辺の下の処理は同じで、当時の日本も下は履いてない。

139 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/26(日) 03:54:19.22 ID:xzXYVayZX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   112   毒か薬か妙薬

サトウキビは、収穫後の品質劣化が早く、貯蔵もできない。各家庭や工場で、砂糖不振
で余ったサトウキビで、給与代わりその時のみ作られた酒と言える。アグリコールラム
は1年を通して、製造することができない。この理由からも、アグリコールラムには、
インダストリアルラムに比べて、価値が高いものが普通だ。アグリコールラムの「アグ
リコール」とは、「農業生産品」という意味を持っている。アグリコールラムのルーツ
をたどると、もともとは各農家でサトウキビの収穫後に余り汁をそのまま蒸留させて飲
んでいたお酒なのだ。モーリシャスのシャマレル、ラオスのラオディ、日本のイエラム
サンタマリア、ナインリーヴスなどがある。砂糖精製施設のないサトウキビ作付けで、
専用のラム酒作りしている例もある。また国際的な、ラム酒のフェスティバルの開催国
も増えた。マドリッドや、パリ、ベルリン、ロンドン、マイアミのラムフェスティバル
だ。世界各地で行われているモンドセレクション。ヴィネスポ、カクテルコンペティシ
ョンにも各メーカーが積極的に出展している。これがラムの更なる品質向上とイメージ
アップに繋がっている。アグリコールの魅力は、サトウキビ本来の味わいや香りがある
のでサトウキビの栽培された土地や、年度によって異なるサトウキビの生育状況の違い
などによっても、味わいの個性が細かく変化する。ラムには、ホワイトラム、ゴールド
ラム、ダークラムの3種類が大きく存在する。ホワイトラムは、活性炭でろ過して作ら
れるラムで、無色透明であることが特徴。味わいにはクセがなく香りも強くないため、
初心者でもとっても飲みやすく、カクテルベースに最適の種類のラムであるとされる。
ゴールドラムとは、その名前の通り透き通った金色で、醸成された樽の風味があり、樽
由来の芳香や、カラメルの甘みも感じられる。見た目にも高級感のある美しいラムだ。
ダークラムとは、同様にい樽熟成がされているラムだが、ゴールドよりも熟成期間が長
くて濃い色である。ラム独特の風味やクセがあり、菓子の風味付けとしても利用される。

140 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/28(火) 10:29:53.65 ID:J4BpjF0yH
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   113   毒か薬か妙薬

 スコッチウイスキーのなかでもライトで飲みやすい銘柄として人気がある商品として
「カティサーク」がある。かつての女性を誘うパブレストランはホワイトホースとこの
カティサークが一番の売りだった。いまじゃシャンパンタワーで、ドン・ペリニョンな
ど一本50万ほどのふたあけが遊びらしいが、日本人はそんなつまらない遊びはしなか
った。慎ましく金持ちも、そこでは大人しい酒を愉しんだのである。、手軽に入手でき
、飲み方の幅が広いのも魅力をもつこの酒も。また、いくつかの種類があって、奥深い
コクと芳醇な香りを重視した銘柄である。そこで、カティサークの味わいや種類、特徴
についてご紹介すれば、スコッチウイスキーを試してみたい初心者の方にもおすすめで
あろう。こ自分に合った1本を見つけだすのも一考である。カティサークは、1923年、
ロンドンのセント・ジェームズ通り3番地で誕生した。名前の由来は、19世紀のお茶を
運ぶ船、ティークリッパーの「カティサーク号」が名前の由来だ。もともとはワインや
スピリッツを手掛ける大手酒造メーカーだった「ベリー・ブラザーズ&ラッド」が禁酒
法時代のアメリカ市場向けに、新たに安物の新酒と高い芳醇な樽酒を、ブレンドして、
アメリカ人好みに仕立てて開発した銘柄である。企画通りに、アメリカでの大人気に端
を発し、ヨーロッパでも世界的な人気を博した。現在、日本国内には、このバカルディ
・ジャパンが直接販売している。プロヒビション=戒めの名を冠して、禁酒法の時代の
善き市民を穿っている。アメリカの禁酒法が廃止されてから80周年を記念して造られた
銘柄ともなった。熟成樽にはアメリカンオークを100%使用。冷却ろ過を行わなずに樽の
風味を活かす「ノンチルフィルタリング」を採用しているので、蜂蜜やシトラス、スパ
イスの複雑でしっかりとした香りを楽しめるのが魅力の1本ともなっている。キャラメ
ルやトフィーを彷彿とさせる、濃厚でクリーミーな味わいも楽しめます。さらに、滑ら
かで僅かなスパイシーさを感じられる余韻もあり。アルコール度数50%と飲みごたえ
もある。

141 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/28(火) 10:45:55.44 ID:J4BpjF0yH
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   114   毒か薬か妙薬

 カティサーク自体が、スコッチウイスキーの一種で売り込みのブレンドで苦労した、
味付けをメインにしてた。禁酒法時代に密輸されることによって大人気を博し、当時は
粗悪品のウイスキーが蔓延る中で、カティサークはギャングたちに本物と称される程の
味わいが人気の商品となった。カティーサークはコスパ最強ウイスキー「カティサーク
」と銘打った。というのも飲み方がキーモルトからアグリコールラムをはじめ、ラムの
アルコール度数は平均しても40度から50度あたりと高いが、それに肩を並べた度数なの
だ。そのため、お酒が苦手な人にとってはストレートやロックなどのシンプルな飲み方
では、強いアルコール感が気になるだろう。しかし、香りの強いゴールドラムやダーク
ラムであれば、このようなシンプルな飲み方もおすすめの様に「カティサーク」でも、
西部劇さながらのストレートや氷のみのロックの飲み方は、寝付けない夜に最高だった
のである。またカクテル同様に、グラスから立ちのぼる芳香を、じっくりと楽しめる。
禁酒法によって、ウイスキー職人同様にバーテンダーたちも、アメリカ社会では追われ
ていく。バーテンダーたちは、パリやロンドン、キューバなどの、大きなバーに移って
新たなカクテルを発案していった。当時の入手されていた粗悪で怪しげな酒に混ぜ物を
してごまかして提供されていた。例えば、偽のジンは、ジンの風味がダイレクトにくる
マティーニよりもジントニックに、密造ウイスキーはジンジャーエールなどを混ぜて、
提供することが増えていった時代だった。人気のコーラも、この当時の割り材として、
大成功を納めた。ラム酒を使ったダイキリやモヒート、カクテルのスクリュードライバ
ーや4種類のスピリッツを混ぜるカクテル、ロングアイランドアイスティーなども考案
された。ラム酒をベースにしたカクテルには、シンプルなものから本格的なものまで、
多く、ラム酒をベースに、ミント、ライム、砂糖、ソーダと合わせた「モヒート」は、
誰もが知るラムベースのカクテルの定番中の定番だろう。オレンジジュースでの「キュ
ーバン・スクリュー」、ライムジュースと砂糖と合わせた「ダイキリ」なども人気だ。

142 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:11:25.49 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   115   毒か薬か妙薬

 ところで、ウイスキーは、世界最大の酒の一つだが、大麦、ライ麦、トウモロコシ、
などの穀物を、麦芽の酵素で糖化し、アルコール発酵させ蒸留したものであるのが元々
の製造である。スコッチウイスキーは whisky、アイリッシュウイスキーは whiskey と
表記され、日本にやって来た時では、ウヰスキーと表記された。日本の酒税法上の表記
も「ウイスキー」で 国税庁もこの表記を用いている。この「whisky」と「whiskey」の
違いだが、whiskey の綴りは、アイルランドとアメリカ合衆国では一般的で、whiskyは
、他の全ての生産国で使用されている。と言う。蒸留機器はフランスやイタリアでの、
硝子生産や銅の精製で出来たが、これらの流行で一般的となったが、実はフィヨルドで
は、焚火が主流で、縄文時代からも作られていた様だ。アメリカに渡って来て使用法が
一貫してなく、新聞のスタイルガイドが導入される前、18世紀〜20世紀までは、両方の
スペルが用いられていたのには理由がある。1960年代、アメリカライターは、アメリカ
国内外での製造に限らず、穀物由来の蒸留酒を whiskeyとして使用したからだ。ただし
、ジョージ・ディッケル、メーカーズ・マーク、オールド・フォレスターなどの老舗の
アメリカン・ウィスキーブランドは、頑なにwhiskyの綴りを使用した。全体でwhiskyの
使用は少なくない。「WHIS+KEY」か「WHI+SKY」かの違いは、最初の複数型か単数型の
違いにある。ウイスキーについて、世界共通の明確な定義があるわけではないが、各国
の法制度上、種々の目的から定義される。皆んなで酔っぱらうか、家庭で信仰に使うか
の違いと言ってもいいだろう。[whisky] または [whiskey] の名称は、蒸留アルコール
を意味するラテン語の アクア・ウィタエ(aqua vitae = 命の水 )に由来する。最近
ヘンテコな古文書のヴォイニッチ手稿の解読が進められて、薬用として作られていた事
が解る。正に、殺菌の為の命の水だったのである。

143 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:11:58.68 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   116   毒か薬か妙薬

 人気アニメ「ムーミン」の舞台であり、サウナ発祥の地としても有名なフィンランド
が、2023年版の世界幸福度ランキングでまた1位に輝いた。これで6年連続の選出である
。では、その理由はなんなのか?真っ先に浮かぶのは、残業や通勤時間が短めなワーク
ライフバランスや、社会保障だが、今回は「自然」「ライフスタイル」「食」「サステ
ナビリティ」の4項目から考えてみる。まず、フィンランドは国全体の75%が、生育の
遅い植物圏だが、森で覆われていて、世界最多の18万7000もの湖があるようにめちゃく
ちゃ自然が豊か。つまり自然の景観教育を大事にしてる。と言うのは生活環境を保守的
にも守っているという事である。無駄に開発に金を注がない姿勢が国民に固くある。そ
の為、夏は湖で水浴びをし、冬はサウナ後にキンキンに冷えた天然の水風呂に浸かるな
ど、自然と共生するライフスタイルに、化学物質とか騒音とか職業とか経済負担とかに
、危険が少ないままバカンスが出来る。更に教育機関も大学は圧倒的に家庭持ちが多く
、学費も免除が多い。内面から国民を豊かにし、無限のインスピレーションを与えてい
る。サステイナビリティについても、伝統的に受け継がれてきた考え方。生活に溶け込
む落ち着いたデザインの家具や衣服にが好まれる。象徴される美つくしさは、海外輸出
の家具類でも圧倒的に、安さも使われ方も美しさも受け入れられている。その意味では
価値観外交を越えた、同類の美の極地を持つその考え方は暮らしと密接にかかわってい
る。そして「食」。フィンランド料理は森で採れるベリーやキノコ、ハーブ、湧水、と
いった自然食材をベースにしたシンプルなものばかり。この食文化も、国民の幸福度を
上げる助けになっているはずだ。ちなみにフィンランドに次ぐ2位はデンマーク、3位
はアイスランドといずれも北欧の国々。これらは共通した生活文化を持ち、共同のEU
入りやNATO対応してる事からも、話し合える隣国関係であろう。気がかりなのは、
住みやすさ故に 増えすぎる移民問題が襲ってきている事だ。

144 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:13:41.57 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   117   毒か薬か妙薬

 紹介の通り、治安の悪化や、アメリカのお酒文化の衰退など多くを失うことになった
禁酒法時代ですが、良い側面もあったので紹介します。それは新たな蒸留酒の登場であ
る。紹介した通り、禁酒法が施行される背景には、敬虔なカトリックの女性たちの影響
力が大きくあり、禁輸法に賛成する人の中には、男性だけがお酒を飲むことに反対して
いる人もいた。このこともあり、施行後にお酒を飲む非合法な酒場では、決まり事は、
ほとんどなかったために、女性もお酒を楽しむことができるようになりました。この流
れは禁酒法廃止後も続くことになります。ここまでご覧になって禁酒法は大変だなと感
じたと思いますが、実は日本でも禁酒法ではありませんが禁酒令が発令されているのを
ご存知でしょうか。日本でも禁酒令が施行されている!そんな馬鹿な。と思うでしょう
が、仏教でも神教でも、大量の飲酒で暴徒が出て問題になっている時代はある。しかし
日本酒は長く精製に問題があって、暴力的な飲酒の支配者は、早死にしてる例が多い。
日本の最古の禁酒法は、大化2年(646年)に施行された「薄葬の詔」があります。農業な
どの繁忙期には贅沢をせず、作業に集中しましょう。といった内容だったため、禁酒法
ほど厳しい取り締まりがあったわけではない。けど酒呑童子など言う言葉もあって弟神
の天照大神と素戔嗚尊の諍いは酒が問題とも思われる。アメリカ合衆国では、禁酒法に
より1919年〜1933年まで酒類の生産、取引と消費が違法となったが。後、酒類規制権限
は州の規制に移管された。現在では酒類の売買を違法とする禁酒郡(dry county)と呼
ばれる郡が幾らか残っている。また少数政党の禁酒党が19世紀より活動を続けている。
海上自衛隊では再軍備に関わった禁酒法時代のアメリカ海軍の流れをくんでいるため、
艦内での飲酒は禁止されている。酒への思考がアメリカの清教徒団体に日本は近かった
という事かも知れない。

145 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:14:04.86 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   118   毒か薬か妙薬

 仏教では具足戒や十重禁戒で出家僧の飲酒を禁じ、在家信者についても五戒で飲酒が
禁じられているが、現代日本などではあまり励行されていない。従って般若湯としての
たしなみがあるようだ。イスラム教では、戒律により飲酒は禁止されているが、実際に
は地域と信心で異なるようだ。世俗的な地域では、飲酒がタブーでない場合も、ある。
アラブ首長国連邦では、多くの場と外国の店と分けている。非イスラム教徒の外国人だ
けの場では、飲酒を認めている。がシャールジャでは外国人も飲酒は禁止されている。
キリスト教の多くも、聖餐式で葡萄酒を利用しているが、聖書エペソ人への手紙の5章
18節で酩酊することを禁じている。つまり、飲んでもいいが酔ってはいけない。という
訳で、欧州らしい規制である。カトリックの修道院が、自活の一環としてビールを醸造
して販売することが、伝統的に行われている。一方、救世軍は、アルコール依存症者の
回復支援をしている関係で、飲酒をタブーとしているようだ。またラスタファリズムも
飲酒を禁止し、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、セブンスデー・アドベ
ンチスト教会などは、酒やカフェイン飲料などの精神昂揚作用のある嗜好品の摂取すら
禁止している。茶、コーヒーが、ラスタファリズム=黒人バプテスト教会はコーヒーを
禁忌としている。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)も、茶とコーヒーを、
禁忌としている。茶やコーヒーを禁忌とする理由としては、カフェインが含まれること
が挙げられる場合があり、末日聖徒イエス・キリスト教会ではコーラその他カフェイン
を含む炭酸飲料を禁忌としている派もある。乳製品は、ベジタリアンは口にするのだが
米国で流行の「ヴィーガン=完全菜食主義」は母乳を含む乳の摂取をタブーとしている
事で菜食主義=ベジタリアンと区別されている。

146 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:14:35.82 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   119   毒か薬か妙薬

ラテン語の "aqua vitae"(「命の水」)の名称由来とする酒名には、ウィスキーだけ
ではなく、例えばブランデーのフランス語 "eau-de-vie"(オードヴィー)、ウォッカ
の、ポーランド語やロシア語由来の原語 "wodka" (ヴトゥカすなわちウォッカ)や、
ジャガイモを原料とする蒸留酒アクアビット "Akvavit"(デンマーク語およびノルウェ
ー語)、"Aquavit"(ドイツ語) も同じ「命の水」に由来する派生語であるとされる。
最近、又赤毛のアンの物語が、リバイバルしそうだが、赤毛のアンの物語は、カナダの
作家L・M・モンゴメリが1908年に発表した長編小説である。特に児童を対象に書かれた
作品ではないが、この数十年は児童文学とみなされている。モンゴメリは新聞記事で読
んだ、「男の子と間違えて女の子を引き取った夫婦の話」に着想を得て、この作品を書
いた。彼女は、プリンス・エドワード島の田舎で育った自身の記憶が、少女時代も作品
に投影した。孤児院暮らしだったアン・シャーリーが、11歳でアヴォンリーのカスバー
ト家に引き取られてから、クィーン学院を卒業するまでの少女時代5年間を描いた物語
『赤毛のアン』は人気作となり、モンゴメリーはアンを主人公とする続編や周辺人物に
まつわる作品を多数著している。この物語で登場する贅沢がリンゴである。年に一度し
か実らないリンゴは生活必需品の貴重品で、パイやジャムや、そのまま食べられたり、
リンゴ飴、漬物と色んな食べ方をする。中でもりんご酒は、植民地時代から1920年に至
るまで、大変人気の食卓酒であった。特にりんごがたくさん収穫されるアメリカ北西部
でビールと同じくらい大量に消費されました。禁酒法によって林檎酒はほとんど忘れら
れてしうが、主婦の少量の秘酒として、気付薬として、人気であった。

147 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:15:16.37 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   120   毒か薬か妙薬

 アンさん繋がりで日本にやって来たアンさんこと、アン・クレシーニ准教授の話を、
載せたいと思う。周囲から「アンちゃん」と呼ばれ、在日22年になるアメリカ人です。
大学で教鞭をとっていることから生徒だけでなく、出会った人から「どうしたら英語が
うまくなりますか?」「勉強しているのに英語が話せないのはなぜですか」という質問
を頻繁に受ける。と言う。2022年版の「EF英語能力指数ランキング」では、日本の英語
力は、111ヶ国中、80位。アジア圏内では24ヶ国中の14位、英語力の 能力レベルは低い
結果だった。近隣諸国では、韓国は世界36位、中国は62位にランクインしている。しか
し公用語とは言え、対する米国人の日本語力は、更に低すぎるぐらい低いし、日本人の
日本語力も相当低くなっている。ランキング結果が出るたびに持ち出されるテーマだが
、どうして、日本人は英語が身に付かないのだろうか? 大学を卒業するまで 10年間も
英語を勉強するのに。と言う。書店にいけばさまざまな工夫が施された 英会話の書籍
もたくさん出版されている。オンライン英会話もあるし、YouTubeでの 学習という選択
もある。これだけ英語教材にあふれているにも関わらず、英語学習に関する状況は、私
が日本に来た頃からあまり好転していないように感じる。一方、「英語教育は、本当に
必要なのか?」という疑問を投げかける人もいる。「そもそも、英語の能力は、社会に
出て働く上で、それほど求められていないのではないか。」「英語よりも、国語の学習
や、各自の専門分野の研磨に費したほうが得策ではないか。」という視点だ。もちろん
、その意見にも一理あると思う。しかし、大学の英語教員として、こういった声に複雑
な気持ちになる。企業の方と話すと「グローバル人材の獲得が必須」という言葉を聞く
ことが多いからだ。もちろん、「グローバル人材=英語できる人」ではないが、やはり
英語はできるにこしたことはないだろう。それなのに、日本は、英語力が上昇していか
ない。この理由は一体どこにあるのか。グローバルとはそもそも何なのか、他言語を、
習得する意味とは? 22年間に日本に住み、日本語を学び続けて、体感したことをお伝
えしてみたいと思う。

148 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:18:52.42 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   121   毒か薬か妙薬

 1997年、アンちゃんは婚約者(現在の夫)の仕事の関係で、日本に初めてやってきた
。それまで日本語に接する機会もなく、当時は日本に関する情報もイメージもほとんど
持っていなくて、父が乗っていた日本車が丈夫だったことから「全然故障しないものを
作る国」という印象を持っていた程度だった。いざ来日してもわらないことばかりで、
困惑の日々が続いた。結婚して住居を構えたのは、兵庫県神戸市の1kの小さなアパー
トだった。備え付けられていたのは和式トイレ。使い方がわからず、ドア側に顔を向け
て用を足していた。どうしてお尻側にトイレットペーパーが備え付けられているのだろ
うと思いながらも 周囲に聞くこともできなかった。「来日してしばらくの間は、日本
の習慣や食文化に馴染めず、落ち込む日々が 続いた。しかも、私は10代の頃から続く
摂食障害に悩まされていた。最初に摂食障害になったのは中学生の頃。2ヵ月で20キロ
ものダイエットに成功し、一気に周囲の人気者になった。『もし再び太ったら、友だち
は私のもとから去っていくに違いない。食べ物は私を太らせる敵だ。』とダイエットに
成功したにも関わらず、私はずっと太ることへの恐怖というトラウマに苦しめられてき
た。このトラウマは日本に住むようになってからも続いた。在日7年目の2004年、私は
外国人向けの日本語能力試験の1級を取得した。日常生活には、まったく困らない程度
に日本語が使いこなすことができるようになり、買い物どころか、難しい役所の手続き
さえ、一人で出来る程のレベルにまでなっていた。日本語をマスターし、さらに大学の
准教授になって、日本で3人の子どもを出産した。」傍目には、順風満帆な人生にみえ
ていたに違いない。しかし、現実は真逆だった。出産・育児を期に、一旦回復の兆しを
見せていた摂食障害が再発してしまった。食べることへの恐怖心は消えることがなく、
アンさんは自分を激しく責め続けた。

149 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:26:45.30 ID:KzMXWcQC8
 さらに、潰瘍性大腸炎を罹患し、体調的にも精神的にも、どん底に陥った。『このま
ま死んでいくんじゃないかな」とまで思い詰めた。まさに、地獄のような日々だった。
しかし、「いただきます』の意味が私を変えた。意外化もしれないが、そんな地獄とも
いえる暗闇の中にいた頃に、私たち家族は、北九州市から福岡県宗像市へ移住しのだ。
そして、親友となるマキコさんと出会った。マキコさんは、日本の食文化に明るく、何
とかして私を助けようとしてくれた。「食べ物は敵」という思考と、潰瘍性大腸炎で、
体調がすぐれない日々を過ごす私に、いっしょに日本食を作ろうと誘ってくれたのだ。
難しい料理ではなく、簡単な日本の日常食をマキコさんは私に教えてくれた。これは、
私の食に対する意識を 大きく変えてくれた親友のマキコさんだった。ある日、マキコ
さんと一緒に 卵かけご飯の準備をしていた。私はコレステロールが微妙に高いので、
黄身を捨てて、白身だけ食べようとした。びっくりした表情を浮かべる彼女はこう言っ
た。「一体、何をしているの?あなたは日本語の『いただきます』がどういう意味を持
っているか、知らないの?」『いただきます』は日本語の初歩で学ぶ言葉だ。もちろん
知っているとばかりに私は堂々と、“Let’s eat!”と返した。すると彼女は、こう、
言ったのである。「『いただきます』は“Let’s eat”の意味もあるけれど、それだけ
じゃなくて、命を捧げてくれた動物や植物対して感謝の気持ちも込められているんだよ
。」“.appreciate your kindness.”である。目から鱗だった。長く日本に住んでいた
けれど、その話は初耳だった。その後、調べてみると、「命をいただく」=「いただき
ます」は、古くからの概念ではなく、比較的新しい、1990〜2000年初頭に生まれた概念
であることがわかった。『食育』の一環から、食べ物を大切にする意味を込め、食に、
感謝するという考え方が広まっていったことがわかった。ムツゴロウ事畑正憲は言う。
「人は、生物の血をすすり、肉を噛(は)んで自然と共に生きて来たんですね。自然の
中で生きるとは、そう言う事なんですね。だから血を見せないとか殺さない。なんてい
う食育はないんですね。だから天からの授かる肉を余すところなく大事にして、感謝し
食べる事が大事で、育てた豚や鶏の死は、人は乗り越えるべきものなんです。」と

150 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:27:14.31 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   123   毒か薬か妙薬

 アメリカでも食育はある。しかし、増加する過度な子どもの肥満に対する予防として
、栄養や食べ方など、健康維持のための食育が主流になっている。また、宗教的に食事
をするときに感謝の祈りをささげる人は多いが、それは食べ物を与えてくれた「神様」
に対してで、もともと「命」であった食べ物に対しての直接、感謝をする習慣はあまり
ない。と思う。日本に来て、食べ物への意識が大きく変わったというアンさん。私は、
親友からの「命をいただく」という話を聞いてから、私の食生活に対する価値観は確実
に変わった。改めて自分が食べているものについて考えさせられた。それまで摂食障害
に悩み、「食べ物=悪」と思い込み、ぞんざいに扱ってきた食べ物に対して、違う側面
が見えてきたのだ。「もし動物や植物が私のために命を捧げてくれたのなら、その命を
、もっと大事にしないといけない。」そんな新たな想いが、食べ物を上手に受け入れら
れない私を支えてくれた。そして、マキコさんは、そんな摂食障害の私に 寄り添い、
日本食のおもしろさや、おいしさを色々と教えてくれた。大っ嫌いだった魚も食べられ
るようになり、味噌を、積極的に摂り入れるようになって、お腹の調子も 落ち着いて
きた。おいしいと感じるものが、少しずつ増えることで、食べることに自信を持つよう
になり、25年もの間、闘い続けてきた摂食障害を克服することが出来たのだ。この、「
摂食障害克服」という大きな経験から、私は言語には、「コミュニケーション・ツール
」以上の影響力があると思うようになった。言語は、そのものも文化であり、その土地
の基盤である「価値観」や「世界観」と密接に繋がっているからだ。言語の学習を通し
て、自分が知らなかった世界観を知ることは、今までの生き方を劇的に変化させる力が
あることを、自らの経験から痛感したのだ。言語を学習は「魔法の杖」である。と感じ
た。

151 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:32:38.39 ID:KzMXWcQC8
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   124   毒か薬か妙薬

 世界には、いろんな考え方や価値観がある。自分にとっての「当たり前」しか、知ら
なかった。としたら、その人の視野は、とても狭くなってしまう。他との比較すること
なしに、自分の国の良いところ、改善したほうがいいところを認識することも出来ない
だろう。それは、とてももったいないことだ。と思う。私は日本の食文化を知ったこと
で、摂食障害や健康を取り戻しただけでなく、さまざまな日本語のおもしろさ、日本の
習慣、歴史にも関心を持つようになった。そして、アメリカの問題点、また日本の課題
についても、深く考えるようになった。自分が今まで見ていたはずの世界が、言語のも
つ大きな力を受けて、その姿を 劇的に変える。例えるなら、言語の学習は、シンデレ
ラに出てくる「魔法の杖」だ。もちろん これは英語でなくても、どんな言語であって
も、それは同じだと思う。「どうせしゃべらないから」「使う機会がないから」ではな
く、言語を理解することはさまざまな価値観の扉を開いてくれる。言語教育に 携わる
ひとりの教員として、自らの信じてこのことは伝え続けたいと思うのだ。ぬか漬けも作
ってみた。日本には豊富な発酵食品があり、そのおかげもあって胃腸の不良も改善して
いったという。アン・クレシーニさんであった。実は、この意識に、日本人の僕は大き
く驚いている。英語表現と、日本語表現の違いは、基本的にも26文字と52音で、約
倍ほどで、それにカタカナ表記とひらがな表記、更に漢字と英文を取り入れ「2X4=
8倍」なのだ。更には文節だけでも3倍のニュアンス違いがあるそうで、10倍ほどの
豊かな表現力が日本語にある。と言われている。大正時代の文字学者の佐藤氏の本では
、中国語は同じ漢字語圏なのだが、文字の使い方が違うらしい。原文字系と線文字型が
あって話言葉の羅列文字と意味文字とがあるらしい。それだけ日本文化は特殊な曖昧さ
を、大事に育ててきた 善人社会で それだけに正確に伝える為の工夫の言葉を持った
。しかし、明治に文豪が日本の半分の言葉が失われた。と書いたが今は更に多くあって
、人が粗雑の中で ゴミ箱の様な言葉の中で生きている。この切なさはどうしようない

152 :アポーン王子:2023/04/07(金) 10:33:40.46 ID:KzMXWcQC8
 ヒエログリフ(象形文字)が解読されていくうちに、いわゆる文字が増えすぎていき
表記文字から発音文字に変化して行き、歴史が解る。と書いている。表記文字とは、今
行った ヒエログリフに言われる絵文字であって、その絵そのものが意味を成す文字で
ある。漢字は、一音節が、一形態素となる中国語の「形態素」を成していて、それぞれ
を一文字ずつで表記するので、体系的な表語文字の代表的なものとされている。そうな
ると、新しい言葉には、新しい文字を創る形で進化し、「文字」の数が一挙に増え続け
る事になる。こうした表語文字に対し、一つ一つの文字が音素や音節を表し、意味に、
対応しない文字体系を、表音文字という。表語文字が原則として単独の文字で意味をな
すのに対し、表音文字は、特定の順序につながって語の発音を表すことで意味をなす。
とされる。これが線文字を始めとする羅列文字の類で、羅列、つまり繋がらないと意味
が解らないと言う物だ。この典型が実はハングルと言われる朝鮮語というものだ。古代
ハングルを日本人が、王朝の倉庫から見つけ出して、日本語教育に生かそうと51音に
似た一覧表を作った。すると、これをそのまま母国語として流布させて、日本語学習に
匙を投げて、一番新しい言語としたのだ。従って、今のハングルには歴史が無く表音の
のみの言語体系で、音そのものに意味はないのに、それを使うので、日本人的感覚では
、すべてがカタカナやひらがなの表記で幼児読みの言語体系となっている。これに近い
のがアルファベットである。26文字を合わせて、特殊な発音を含めないと会話が成立
しないのである。形式的に言い換えると、表語文字は言語の二重分節のうち、一次分節
のレベルで言語を表記するものであるといえる。その十倍や二十倍のの表現力が、今の
日本の歴史を形作ってきた。お笑いの落語やコントはもとより、川柳や和歌や長唄で、
リズムも色も、花鳥風月の感性を高めていたのだ。しかし、今や赤い紅い朱い丹い明い
は、どれも「アカイ」と言う赤を表すが色が違っていることを現代人は知らないだろう
赤いとは、血の色であり紅いとは花びらの色だ、朱とは夕焼け色だし明いは日の出色の
暁色である丹とは赤土の色という事になる。つまり標準の黒い煉瓦や銅色という事になる。

153 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/09(日) 19:11:41.18 ID:RzQpE800P
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   126   毒か薬か妙薬

 日本にいながら、意外と知らない日本の「世界一」と言うのが食にある。いつも何気
なく目にしているものから、知られざる自然の世界、そして、努力や技術の賜物まで、
日本には世界に誇れる「世界No.1」がたくさんあるようである。そんな「実は、日本が
世界一」を、今回探って、日本人になじみのあの料理が世界一と実は評価されている、
そんな事が解ったので紹介します。日本を代表する料理といえば、何を思い浮かべます
か? 一般的に言えば、外国人からすれば「すし」だと思います。ただ、「すし」は、
象徴的ではあるけれど、日常的な料理とはちょっと言えないかもしれません。その意味
では、普段から日本人が日常的に口にする 日本らしい料理といえば何になるのでしょ
う。と言うのが問いでした。ラーメンですか。ハンバーグ?。カレーライスという人も
少なくないはずです。「ラーメンもハンバーグも日本の料理なの?」という疑問を感じ
る日本人も多く、「カレーなんて インドの食べ物でしょ?」と思うかもしれません。
しかし、びっくり仰天、世界で最も優れた伝統食として日本のカレーを、評価している
ランキング「Best Traditional Food in the World(世界最高の伝統料理)」が存在し
報じてる。ブルガリアの体験型旅行サイト『TasteAtlas』が発表の「Best Traditional
 Food in the World(世界最高の伝統料理)」は、ブルガリアに拠点を構えた 体験型
の旅行サイト『TasteAtlas』が発表している。『TasteAtlas』とは、世界中の伝統的な
食べ物と飲み物を約1万種類以上収録して、百科事典のような情報群を構築しよう。と
する意欲的なウェブサイトであった。その2022年版の最新ランキングでは、「World's
Best Dishes(世界で最も優れた食べ物)」「World's Best Cuisines(世界で最も優れ
た料理)」「World's Best Local Restaurants(世界で最も優れたローカルレストラン
)」の三つが、人気投票されて、発表されています。その内の「World's Best Dishes
(世界で最も優れた食べ物)」で、シチュー(西洋の煮込み料理)の一種として日本の
カレー(Kar?)がNo.1に選ばれている。

154 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/09(日) 19:12:09.28 ID:RzQpE800P
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   127   毒か薬か妙薬

 日本でのカレーの始まりは、明治初期にまでさかのぼる。イギリスからカレー粉が、
日本に伝わり、同じ時期に肉食が解禁され、カレーライスが洋食屋で提供されるように
なり、陸軍幼年学校や札幌農学校でカレー食が実施されたのが、初期のころだったとい
う。1905年(明治38年)に、国産カレー粉の製造・販売がスタートし、明治・大正時代
にいよいよ定着して、戦後の1948年(昭和23年)に、学校給食にまで導入されました。
さらに、板状固形の「カレールウ」も販売されるようになりと、いよいよ国民食になっ
ていく。『TasteAtlas』で世界一と評価されるこの日本のカレーだが、よくよく解説を
読んでみると、<There are three main version of kar? in Japan - kar? raisu
(curry over rice), kar? udon (curry over noodles), and kar? -pan (a pastry
filled with curry).>(『TasteAtlas』の公式ホームページより引用)
と書かれている。日本語にすれば「カレーには主に3つの食べ方があり、カレーライス
、カレーうどん、カレーパンがある」といった感じである。言い換えると、カレーうど
ん・カレーパンを含め、インドのカレーとは、随分異なる日本独自のカレー食を、世界
で一番だ。と定義している。のである。なので「シチュー」と分類されているのです。
国内旅行の旅先でも口にするカレーライス。実は、世界一と評価する声もあるのだ。と
思えてきませんか、少しよりおいしく感じるのでは。日本の感覚とはちょっと違うけれ
ど…。この所、健康ブームに乗る形で日本食が世界的にも再評価されている。というの
はよく聞く話だが、私たち日本人の想像を超えた利用法で、独自の進化を遂げようとす
る「和食」が海外で登場しているようだが、逆にインド人もびっくりのカレーが日本人
のカレーライスだったのかもしれない。日本人が、異様な日本食になんとも微妙な表情
が浮かんでしまうだろうが、100年前に、同じインド人がそう思ったのだろう。

155 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/09(日) 19:13:38.80 ID:RzQpE800P
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   128   毒か薬か妙薬

 これは、推測ではあるが、宣教師資料では、インドのカレー粉、つまりウコンの粉末
は、どうやら既に日本の肉料理にかけて 食べていたようである。大友宗麟が進呈され
ていた碧い目の白肌夫人に、黄色い粉のふりかけ肉を、珍味としてせがんだようなのだ
。となると、黒人好きの信長も、宣教師から勧められて、おいしいスパイスの効いた肉
を食べたかもしれない。と思うのだが、確たる証拠が今は無い。柳川市が処分していて
小野文庫の寄贈本の筑紫風土記が、今や無くなっているからだが、日本での、カレーの
最も古い記録は江戸期の(万延元年)の1860年に、福沢諭吉の「増訂華英通語」という、
辞書の中に、英語の「curry」に「コルリ」という発音が記されている。これが 日本人
でカレーを目撃した最も古い記録と今は目されている。1863年(文久3年)の、幕府遣欧
使節の一人だった三宅秀が、幕府遣欧使節一行のヨーロッパに向かうフランスの船の中
でも、インド人が食べていたカレーを目撃した。と日記に書き残している。おそらくは
勧められたであろうが、彼は食しなかったのだろうが仲間はカレー味噌ごはんとして、
遠慮なく食べた者もいたと思われる。と言うのも、この頃インド人は客でなく船員か、
奴隷しかなかったはずで、おいそれと船に乗り込め無かったからだ。インド人と仮定を
しているのも、単にそう見えただけで、アジア人や、アフリカ人だったかもしれない。
上陸した料理として、日本人でカレーを食べた最も古い記録は、1872年(明治5年)に、
山川健次郎が、国費留学生としてアメリカに向かう船の中で、日本人が初めてカレーを
食べた。というはっきりした記録が残る。この年カレーライスが日本上陸し翌年1873年
(明治6年)鎖国後の明治初期の、日本で初めてのカレーのレシピが「西洋料理通」が
(仮名垣魯文著)と「西洋料理指南」(敬学堂主人著)の2冊の本に記載されている。
恐らく外国人居留地では料理されていたのだろう。「かれえらいすの作り方」という、
冊子も発売されているので、材料がない限り作れないはずだ。

156 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/09(日) 19:19:35.36 ID:RzQpE800P
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   129   毒か薬か妙薬

 「米欧回覧実記」には、岩倉具視率いる使節団がライスカレーと出会ったと、歓びが
記されてる。横浜の外国人居留地に出入りする日本人の間で、ヨーロッパ風のカレーが
噂され広まったのだ。つまり人気でもあったのだろう。少年よ大志を抱けのクラークが
1876年(明治9年) クラーク博士の札幌農学校で1日おきにライスカレーが出すことが
決められた。てっ取りばやい味付けだったのだ。こうして外食にカレーが登場 1877年(
明治10年) 東京の食堂「風月堂」に「ライスカレー」が登場。カレー粉輸入1887年頃と
カレーの歴史は綴られる。(明治20年頃)C&B社(クロス・アンド・ブラックウェル)
は、イギリスの老舗の食品ブランドである。1706年にロンドンで設立され、長らく独立
の企業であった。1960年に、スイスのコングロマリットであるネスレ社に買収された。
この会社の「カレー粉」が、英国から輸入されるようになり、洋食屋やホテルのレスト
ランでの、コックが手軽にライスカレーを作れるようになっていく。1706年に植民地の
農産物を扱う「ジャクソンズ(Jackson's)」としてロンドンで設立されて、後に「ウェ
スト・アンド・ワイアット」(West & Wyatt)となった同社は、酢漬け、ソース、調味料
、塩漬け魚・砂糖付け果物野菜、と、イギリス国王の宮殿御用達の珍味品商社だった。
だが、この高級食材も、明治の末頃には日本式のスープ式「ライスカレー」を食べさせ
る「洋食レストラン」が数多く出来て、日本に馴染んだ。明治時代後半は、小学校教員
の初任給が1ヶ月で8〜9円だった。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考
えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。この時代に8銭であるので
現在の8千円〜1万円のデイト用の、洋風食堂の特別メニューの料理という事になる。
まあ一般人でなくとも、金持ち商人でも 今日の様な、いつも食べられる食品では、な
かった珍味であった事は確かだろう。

157 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/09(日) 19:21:28.27 ID:RzQpE800P
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   130   毒か薬か妙薬

 こうした明治中期頃から舶来崇拝が強くなり、洋風調味料を自分達で造りたいという
風潮が強くなっていって、カレー粉も、国産化が進められる機運がでてくるのだ。1903
年(明治36年) 大阪の「今村弥(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売する
。1904年(明治37年) 「日本料理法 大全」にカレーのレシピが掲載される。 1906年(明
治39年)東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を、
発売した。初の、即席流体カレールウの登場である。缶詰や瓶詰、或いはラムネなど、
工業品質の標準化が整ったからであった。1908年(明治41年) に 海軍が配布した「海軍
割烹術参考書」に、カレイライスの、レシピが載る。軍隊とカレーの接近交差である。
1910年(明治43年) 陸軍の「軍隊調理法」でカレーの作り方を紹介し 第一次カレー産業
隆盛期となり、カレー粉製造を目指す人たちが、ぞくぞくと名乗りを上げたのだった。
大正末期から昭和初期にかけて、大正ロマンス、大正モダンとされた時期に、この頃の
加工食品は、少し売れ出すとすぐに類似品が店頭にあふれるといった状況だった。が、
カレー製品は、その原料である香辛料の特性を熟知していないと、簡単に製造には手も
足も出せず、カレーの先達者たちは開発・研究に大変な努力が必要だったのだ。当時の
東京は、「きそば屋」「うどん屋」が多かった時代で、需要は「南蛮カレー粉」のほう
がはるかに信用があり、高くても輸入品需要の方が多かった。1931年(昭和6年)に 輸入
銘柄品の密造団摘発事件によって、偽造疑惑の「C&Bカレー粉」が一時輸入停止が起
こった。C&B社には大変な痛手だったが、どうも政府の思惑での行為のようだ。ここ
で国産品が広く世の中に普及するきっかけになった。軍と政府の馴れ合いの始めなのだ
ろう。1930年頃に諸説あるが、東京都内にあるパン屋でカレーパンが出回り始めたのも
この頃である。木村屋のアンパンブームの甘党から、辛党のカレーパンはブームになる
ものの数多くは出せなかった。戦時統制が始まっていたからだ。

158 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/12(水) 15:46:02.12 ID:criXcGZIx
 カレーは、日本上陸を果たし、国産化カレー産業の発達の中で、戦時前のカレー業界
の動きは、1939年(昭和14年)に物品統制で、原料難で中小は廃業に至った。様々な生活
必需品が切符制になり、カレー製品の製造もままならなくなったのであった。「関西ソ
ースカレー原料統制連合会」も結成され、同年には「関東カレー工業組合」が、認可さ
れ日々陳情が繰り替えされた。1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発し、両工業組合の上部
組織として「全国カレー工業組合連合会」が組織、1943年(昭和18年)更に規制の強い、
組合規制から軍部統制の「統制会社令」が公布され、小麦粉は主食とするために配給と
なり、「即席カレー」の製造は、断念せざるを得なくなる「純カレー粉」のみの生産と
なり、軍隊への納入が主力となっていく。つまり粉末原料のブレンド品のみが軍部相手
に流通したのだった。又敵国語禁止で、カレーライスは「辛味入汁掛飯(からししゅる
ごはん)」と呼ばれた。1944年(昭和19年) 「日本カレー工業 統制組合」設立。1945年
(昭和20年) 太平洋戦争は、やっと終戦した。終戦後には、GHQの放出した スパイス
により、カレー粉の生産量は、急に回復した。兵士の食糧調達や食事事情で、まったく
スパイス供給に壁が無かった。が超高価だった。その上ごはんが無く、タイ産の外米に
頼った為、よりカレーは好まれた。1952年、日本は主権を回復、スパイスの輸入も再開
され、カレー粉の原料が安定して供給されるようになった。戦時中は空襲によって生産
拠点を失った企業も多く、焼け残った原料や手持ちの原料をかき集め、野草を粉末化し
た代用原料を混ぜて使用することもあった。という。戦後のカレー業界、固形や粉末の
即席カレーが各社から発売された。この頃は即席カレーの試行錯誤の時代で、現代では
見られないユニークな製品が次々と発売された。大衆向けに即席カレー発売開始1945年
(昭和20年)潟Iリエンタルが「オリエンタル即席カレー」を発売。発売当時は終戦直後
で娯楽の少ない時代だったが、オリエンタルは踊り・演奏・声帯模写・奇術・腹話術な
どを行なう芸人達を宣伝カーに乗せ、全国を回りながらカレーを売っていた。

159 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/12(水) 15:46:47.74 ID:criXcGZIx
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   132   毒か薬か妙薬

 日本初のカレー給食が1946年(昭和21年)に行われた。GHQから、米国の駐留日本人
や日本人会の募金活動で購入した小麦粉が供出された。東京の89校で試験的に学校給食
が行われたことがきっかけで、カレー業界も、積極的に学校給食に協力し、戦後の業界
発展のステップとなった。業界の連携強化され1947年(昭和22年)「日本カレー工業統制
組合」は解消・解散し、新たに「日本カレー工業協同組合」設立させ「関西カレー協会
」と「東京都カレー協会」が発足した。1948年(昭和23年)「関東カレー工業協同組合」
理事長:山崎峯次郎(ヱスビー食品梶j「関西カレー工業協同組合」理事長:粕谷博久
(ハチカレー)「中部カレー工業協同組合」理事長:松山虎之助(ムアー食品)発足、
戦後のカレー業界は、香辛料(原料)の確保に苦心し、共同購入などの必要性から連携
が強化された。カレー粉の年間需要量は500トンと言われていたが、国内の年産は、
わずかに96トンほどで、当時のカレー組合で、「ウコンの代用品の研究,たくあん用
ウコンの入手,コリアンダーの国内栽培,クミン代用のくろもじの葉の採集」などが、
記録では審議されている。いかに香辛料原料の確保に 苦心していたかがわかる。業界
の手持ち原料で、東京都内の学童給食にカレーが出され、これが好評だったので農林省
が澱粉を供出し、連合軍も香辛料(オールスパイス、マスタード、ブラックペパー)5
トンを放出したので、業界は活況を取り戻した。軍事・統制令時代大衆へ普及し、業界
は、連携貿易自由化をきたすと、一気に安売り競争の混乱期を迎えていく。混乱から、
安定へ模索された。1950年(昭和25年)カレー業界は、戦後の復興をとげようやく戦前の
姿に復帰したかに見えたが、主要原料である香辛料の大半は、東南アジアに依存してい
るのに、敗戦国の日本では、対外貿易に拘束を受けており、香辛原料の輸入は米軍供給
が無くなると、非常に困難だった。日本からの要請に応えて 香辛料を供給したのが、
インドミッション(外交使節団)だけで、戦後初、インドからスパイスの輸入のみが、
再開された。

160 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/12(水) 16:02:15.07 ID:criXcGZIx
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   133   毒か薬か妙薬

 スパイス原料がGHQから放出され、中国からの50トン輸入、さらにインドミッショ
ンからの70トンの輸入と朗報が続き、香辛料業界では製品価格の維持を申し合わせてい
たにも拘わらず、純カレー粉の安売り競争は熾烈を極めた。即席カレーの業界も農林省
から、小麦粉、砂糖の割り当てを得たので生産は完全に復調し、流通界からも批判の声
が出るような特売合戦までが始まっていく。温泉・劇場招待や、当時はまだ所有者の少
なかった自動車を景品にした特売も現れた。不当競争の自主規制 条件特売の自主抑制
1952年(昭和27年)「全国カレー協会」が設立された。協議の結果、「条件特売を一切を
中止する」との申し合わせがなされ、ここでやっと安売り競売合戦に終止符が打たれた
。時の会長の山崎峯次郎(ヱスビー)、粕谷博久(蜂カレー)、加藤栄吉(金鶏商会)
松山虎之助(昭和香辛料)、浦上靖介(ハウスカレー)の調合カレーの大御所判断と、
揶揄されるが、それほど既にカレーは国民的に広がりを見せて、安売りしてアピールし
市場開拓する必要は無くなっていたのも事実だった。1953年(昭和28年)に「全国カレー
工業協同組合連合会」が設立され、同時に「カレーこしょう業全国公正取引協議会」が
組織された。公正取引委員会から特売禁止の勧告を受け独占禁止法による特売禁止指定
告示第16 号「カレー粉業における特定な不公正な取引方法の禁止」が告示されている。
この特売禁止の履行のために新しく不当競争防止のためのルールを求めて業界はルール
を定めた。委員長の森村武次郎(平和食品)は創業者の加藤栄吉が家庭用カレー粉の、
「キンケイカレー」)を製造販売したことに始まる。1937年(昭和12年)には商号を「
金鶏商会」とし、戦後の1947年(昭和22年)に株式会社化し。給食・レストラン用など
の業務用カレー製造へ進出していた、現荏原食品の元祖企業である。つまり、彼は南洋
カレーを知っていて、森永製菓と共同で、落合食品研究所を設立し、「森永カレー」「
森永ソース」を製造研究していた実務者だったわけだ。

161 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/15(土) 13:01:45.00 ID:O0hthZ/ti
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   134   毒か薬か妙薬

 加藤が「金鶏」の名称を使ったのには、加藤の先代が旧姫路藩士の江戸詰めであった
ためだ。明治人の気骨が残っていた時代である。姫路藩の下屋敷があった小石川原町の
藩邸内に小屋敷を賜っていた。この邸内の古井戸から金の鶏が出たとの言い伝えがあり
、時の金鶏学院学監で加藤の後援者であった安岡正篤から、この故事を引用して商号に
するようにとの、時の藩主の勧めを受け、商号および商品名としたようだ。昭和28年度
の生産量は純カレー粉1,260トン、即席カレールゥ1,530トンで、前年比30%増。第二次
カレー産業の、隆盛期は、昭和30年代、大手カレーメーカー各社は、こうした宣伝に、
営業部員を乗せた宣伝カーを全国に走らせカレーの作り方を教えたり、肉屋の店頭での
試食販売を行うなどカレーの普及に努めて行った。また、ラジオ番組の提供者になった
り、テレビCMや映画CMを打って、業界を盛り上げていく。カレー業界のCM合戦で
は、「オリエンタル即席カレーの唄」でぬきんじて先行し、CM内で放送。続いてすぐ
「特性ヱスビーカレー」のCMで“インド人もびっくり”のフレーズが話題になった。
その後も、「ハウスバーモント カレー」のCMで“秀樹・感激!”が話題になって、
大ヒットすれば、「ワンタッチカレー」で榊原郁恵やジェリー藤尾一家を起用するのだ
。明治キンケイ・キンケイ食品工業はキッチンカーを全国に走らせて、上位台頭を試み
るが果たせず、カレー業界各社が、テレビ番組に提供し、各社コマーシャル活動が活発
で、それまで学校給食が中心だった「ライスカレー」を一般家庭に広く普及させていく
。昭和35年生産量は、純カレー粉4,000トン、即席カレールウ2万トン、昭和29年比で、
純カレー粉で3倍、即席カレールウは7.5倍と、急速に伸びた。オリエンタルカレー、エ
スビー食品、ハウス食品、江崎グリコ、明治製菓、キンケイ食品工業が主な大手になっ
た。宣伝活動の活発化が、功を奏した形と、日本の復興人口の増加のおかげだった。

162 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/15(土) 13:02:12.74 ID:O0hthZ/ti
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   135   毒か薬か妙薬

 組合設立が、農林大臣より認可されたのは、1961年(昭和36年)で、「全日本カレー
工業協同組合」が結成依然として不公正取引が横行し、「穏当を欠く過度のリベートは
カレー業界全体に影響を与える」との認識の下、全国カレー不公正取引の防止協議会が
結成された。初代の理事長:山崎峯次郎(エスビー)出席組合員:
≪関東≫
ヱスビー食品、ベル食品、キンケイ食品、テーオー食品、朝日食品、川上商会
サンエム食品、三光商会、昭和香辛料、水牛食品、東京エムジー、ナイト食品
ナイル商会、交易食品、ほていや、スミダ商店、多務良屋
≪関西・中部≫
ハウス食品工業、オリエンタル、黒川与兵衛商店、甘利香辛料、末広食品工業
蜂カレー、光食品、メタル食品委任出席:甲味食品工業、チキンソース、松栄食品
日印貿易、羽車カレー、ロークス本舗、金田芳商店、金船カレー

組合の事業は、
@香辛料の協同購入A協同保管・検査B最低賃金の協定C事業資金の貸付D経営・技術
の改善、知識の普及・教育等を定款に謳った。当初の事業として、@香辛料購入外貨の
割り当て A自由化に伴う外国品の輸入防御 B不公正取引の防止 C荷造包装の標準化
等を決議した。価格競争の鎮静化 CM競争と販売競争はさらに激化し、カレー業界の
企業間格差が広がった。原料、資材、人件費など諸経費が高騰し、各社の収益は悪化し
ても、お互いに値上げが出来ず、5皿分(120g)のカレールウ価格は永年50円で留まっ
ていた。しかし、昭和38年に「ハウスバーモントカレー」が60円で発売されたことを、
きっかけに、他社も商品価格の改定に進んだ。こうして不当競争の抑制が利かなくなっ
た 。

163 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/15(土) 13:12:55.16 ID:O0hthZ/ti
 1967年(昭和42年)に、新たに「カレーこしょう業全国公正取引協議会」設立された。
公正取引委員会は、それまでの「カレー胡椒業の不公正取引の禁止告示」を、独占禁止
法第3条による「景品表示法の公正競争規約の公示」に改めて、不当競争の禁止を定め
た「公正競争規約」を告知する。しかし、ここで一つのエポックが飛び出た。世界初の
レトルトカレーである。1968年(昭和43年)、大塚食品が「ボンカレー」発売「3分間、
温めるだけで、すぐ食べられる」として、女優の松山容子を起用し大変な話題となる。
その後もCM攻勢は続く。1973年(昭和48年)、落語家の笑福亭仁鶴が出演した、CMの
「3分間待つのだぞ」「じっと我慢の子であった」というナレーションがボンカレーの
売り上げを伸ばした。こうして苦肉の策で、街中にもカレーの多様化時代が訪れるので
あった。1973年(昭和48年)東京都神田のカレー専門店「ボンディ」にて、“欧風カレー
”という名称が初めて使われている。欧風カレーとは、フランス料理のソースの技術を
カレーに応用したボンディの創業者によって名付けられたとされる。1980年(昭和55年)
空前のバブル景気のため、贅沢な風潮の時代がやってきた中で、グルメブームによって
高級化したカレーが目白押しになった、本格的なインド料理や、タイ料理などのエスニ
ック料理店も、東京など都市部で一般的になり、固形ルーやレトルトでも、高級志向が
見られた、本格志向のものが次々に発売して業績を伸ばしていく。そんな中でカレーの
日が制定される。1982年(昭和57年)全国学校栄養士協議会で1月22日の給食のメニュー
をカレーにすることが決定され、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出された。これ
を記念して1月22日が「カレーの日」に定められたのだ。カレー給食を出すよう 一斉に
通達がなされたが、既に献立が決まっていた学校が多く、初年度の実施率は2割に留ま
った。当初は戦後に給食が復活した12月24日が検討されていたが、土日・冬休みと被る
ため1ヶ月ずらした“1月24日”を中心とした一週間を学校給食記念週間とし、1月22日
を統一献立日にした。カレーライスになったのは協議会の調査で全都道府県で一番人気
であって、材料がどこでも入手でき、調理もしやすいために行われた給食象徴の料理で
あった。

164 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 21:38:09.55 ID:ynB8cSX23
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   137   毒か薬か妙薬

 全国組織結成のカレー文化の発展と公正な取引のバトルは、このレトルトカレーの、
進出で終わったかに見えた。だが、実は違っていて、需要の面で、供給が高級化しての
物に変化したからだ。というのも、料理漫画の登場 1983年(昭和58年)「美味しんぼ」
が 連載され1985年「クッキングパパ」開始と料理漫画の連載が相次ぎ、漫画でも カレ
ーについて取り上げられ人気を博した。それまでも料理漫画はあったが、中華料理が、
定番で、後は旅先の駅弁や郷土料理や特産が主だった。激辛ブーム 1986年(昭和61年)
食品全体で第一次激辛ブームが起き、カレーでは東京都神田の「カレーハウスボルツ」
にて“辛さ〇倍”の表記が使われ始めた。その後、レトルトカレー等でも激辛アイテム
が登場。家庭用カレールウの多様化時代である。1990年代に入り、これまで主流だった
スパイシーなカレーや甘口カレーに加え、コクのあるカレーや高級カレーのルウが各社
から次々と発売され、カレールウのブランドは多様化していく。1990年代後半に、観光
振興のために地域特産品を使用したご当地カレーが数多く登場した。同時に、日本初の
カレーフェスタが行われた。1999年(平成11年)横須賀市は「カレーの街宣言」を行い、
横須賀市役所・横須賀商工会議所・海上自衛隊の3者が協力し「カレーの街 よこすか
推進委員会」が発足したからだ。よこすか海軍カレー(横須賀市)や、りんごカレー(
青森県・長野県)のご当地カレーの効用であった。こうして全国的にも初の試みとなる
カレーによる町おこしが行われ、「よこすかカレーフェスティバル」が開催された。カ
レー文化の発展にも、全国的にカレー専門店ブームの始まり、カレー文化の影響力拡大
した。そもそもインドのカレー文化は、カレー味のライスやごった煮であり、殺菌力の
高さから発展した香辛料料理である。ところが日本のカレーは英国の洋風カレーからの
発展なので、今やかえってインドに進出したカレー専門店が高級カレーとして人気であ
ると言うので、世の中はカレーすら日本人食が凌駕する時代なんだ。と感心した次第だ

165 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 21:38:38.88 ID:ynB8cSX23
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   138   毒か薬か妙薬

 しかし、この日本人の海外進出には、ちょっと理由がある。2000年代に入って、食品
業界では“中食・外食”が、進化していく中で「空前のカレーブーム」が訪れていた。
今までの概念には捉われない様々なカレー専門店が話題となって、チェーン店事業には
、肉にしろ、寿司にしろ、カレーにしろ、頭打ち感が出て来たのだ。個人店の高級店の
出店も目白押し、でスーパーの郊外店と共に、小売り上げでの固定客化に向かったのだ
。また「調味料としての多様性」が着目され、家庭で作るカレーにも大きな変化が訪れ
ていて、2000年代初頭には、東京都神保町には大学や専門学校が多く、その影響から、
書店が軒を連ねておりカレーは本を読みながら片手にスプーンで食べられるため、神保
町でカレー専門店の出店が相次いだ。こうしてブームになったと言われており、神保町
界隈だけでも店舗数は 300店を超えるが、入れ替わりも激しく移動販売も多い。カレー
激戦区の登場して、その数は未知数とされた。中心部には日本カレーの店が多く、外側
に向かって世界各国のカレー専門店が広がっている。2001年(平成13年)神奈川県横浜
に『横濱カレーミュージアム』がオープンし世界初のカレーミュージアムが出来た。だ
が思ったより不振だったのだろう2007年に閉館した。2002年(平成14年)北海道札幌市で
独自に進化した「スープカレー」が登場し、ブームとなり、その後2004年頃、全国的に
知られるようになる。サラサラしたスープ状のカレーで、大きな具が特徴とされ、現在
でも、札幌市内に200 店舗以上の店が存在する。2003年(平成15年)九州に以前からあ
ったカレーうどんが、本州上陸を果たし、スパイスを独自にブレンドした新しいタイプ
のカレーうどん専門店が人気になり、古奈屋(東京都)、若鯱屋(名古屋市)五右衛門
(香川県)などが、とりいれた。2005年(平成17年)横浜で、ご当地カレー創作プロジェ
クトで「ハマカレー」というイベントが実施され、これをきっかけに、フランス料理の
洗練されたソースの技法を活かした、上品な「フレンチカレー」の名店の存在が明らか
となる。

166 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 21:39:14.58 ID:ynB8cSX23
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   139   毒か薬か妙薬

 それまで男性中心だった外食カレーに対し、お洒落で繊細な味となり、スマホ登場と
共に、「映え」人気で「B級ご当地グルメ」と共にカレーの黄色の素の、ターメリック
を使用しない「白カレー」、反対に、カラメルソースやイカスミなどを使用してルウを
黒くした「黒カレー」が、その意外性から大きな注目を集めたりする。これはフレンチ
カレーが女性を中心に人気を広げていったからだ。2006年(平成18年)は安価で庶民的な
食べ物である「B級グルメ」で地域おこしをしようという動きが全国で展開され2006年
には「第1回 B-1グランプリ」が青森県八戸市で開催され、回を重ねるごとに ご当地
名物として様々なカレー料理が生まれた。奥美濃カレーライス(岐阜県)、大村あま辛
黒カレー(長崎県)などだ。B-1グランプリで、ゴールドグランプリとなった料理では、
一気に知名度が上がりその料理の地元に経済効果をもたらしている。芸能人カレー部が
登場し2006年頃 カレーライス好きの芸能人や、スタッフなどがプロデュースした こ
だわりのカレー専門店もオープンした。空前のカレーブームは、カレーの店舗開発や
商品開発、イベントプロデュースやスパイス文化の普及などで、こうした事を手がける
カレー専門家が登場した。かねてからカレー激戦区としていた東京都下北沢エリアで、
2011年「下北沢カレー王座決定戦」が行われ、翌年から「下北沢カレーフェスティバル
」と名称を改め、毎年10月に開催。「バターチキンカレー」ブームが訪れる。2011年、
(平成23年)には、団塊の世代の老齢化からか、マイルドで食べやすいバターチキンが、
子供からお年寄りまで、カレーのライトユーザーをとらえヘビーユーザーまでも支持を
受け大人気になっていく。2012年(平成24年)には、このブームでカフェカレーがキーマ
カレー、バターチキンカレーにグリーンカレー、マッサマンカレーなどを発展させ一大
勢力となって行き更におしゃれなカレーが女性に大人気となる2013年(平成25年)2013年
4月「日本カレーパン協会」が任意団体として創業。毎年開催される“カレーパン・グ
ランプリ“で入賞したベーカリーでも話題になり。ニュースでも取り上げられた。

167 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 21:39:41.33 ID:ynB8cSX23
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   140   毒か薬か妙薬

 こうして進化発展を遂げていくカレーだが、言われてみれば納得の取り合わせまで、
さまざまなメニューやレシピが続々と開発されている。日本のインドカリーは、老舗の
『新宿中村屋』の純印度式カリーの味づくりが一役買ったとも言われている。既に人気
の兆候があったカレー文化の進展に従い、昭和2年(1927年)、喫茶部の名物メニュー
として誕生している。当時では高級料理だったので、デート地として離れた場所の人気
店であった。カリーは煮込んだり寝かせたり出来ない。温度も徹底しスパイスの香りを
生かして、常に時代とともに変化する素材を見極め、伝統の味を守り続けて来たと言う
。この店は明治34年創業の粉屋だった。カレーライスといえば、小麦粉を使った、欧風
カレーが一般的だった昭和初期に、本格的なインドカリーと銘を打って発売する。以来
、90年以上にわたってその味を守り続けてきた。インド人革命家との絆から誕生した。
実は「純印度式カリー」と言う嘘でも、当時は信じられた。インドの歴史や、インドの
素材が各家庭で違っていて地方ごとに違っていたから、パンに和菓子、カリーなどの、
『新宿中村屋』を代表する商品と同じに、その一つとして育てたもので あったのだ。
『新宿中村屋』の創業は1901(明治34)年である。東京・本郷にパン屋として創業し
て、1909(明治42)年に新宿の現在地に移転した。和菓子や洋菓子の販売を行うように
なってその後、大正末期に百貨店が新宿に進出すると、『新宿中村屋』も少なからず、
大きな打撃を受けた。そんな折、お客様から『買い物のときに一休みできる場所が欲し
い。』という要望があったこともあり、1927(昭和2)年6月12日、初めて喫茶部(レス
トラン)を開設。純印度式カリーは、喫茶部の開設と同時に誕生したメニューで、今日
まで続く看板商品となった。ちなみに、『新宿中村屋』を代表する中華まんや月餅も、
同じ昭和2年に誕生しているが、これらは創業者夫妻が中国に旅行へ行って持ち帰った
ものだと。いわれている

168 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/23(日) 21:44:56.10 ID:ynB8cSX23
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   141   毒か薬か妙薬

 ラス・ビハリ・ボースはインド独立運動家であった。大英帝国では反逆者や抵抗者と
され、過激派として指名手配された。1915年に日本に逃れてインド独立運動を続けた。
ラス・ビハリ・ボースは日本で、相馬愛蔵と相馬黒光の長女俊子と結婚する。独立運動
家で、自由インドの仮政府主席を務めたスバス・チャンドラ・ボースと混同されること
もあるが別人とされる。ボースはインド兵になることを志すが、身体的理由により任官
を拒否され、その後にイギリス植民地政府の官吏としてデヘラードゥーンの森林研究所
で事務主任を務めた。この時日本人革命家で、政界の黒幕と呼ばれた玄洋社の杉山茂丸
と出会っている。その子杉山龍丸(すぎやまたつまる:1919年(大正8年)〜1987年(昭和
62年)は、私財を投げうってインドの緑化に尽力し、インドの緑の父と呼ばれている。
、ラス・ビハリ・ボースは、父の勧めでインド国民会議に参加し、独立運動に身を投じ
たが、これは、当時の多くの上流階級の子弟がそうしていた時代だった。父親に押し付
けられるかたちでこの職に就いたが、森林研究所事務主任という立場は、グルカ兵に、
革命思想を教唆したり爆弾製造のための 薬品や部品を集めるのには打って付けであっ
た。また、ボースは近代インドを代表するヒンドゥー教指導者オーロビンド・ゴーシュ
の宗教哲学に大きな影響を受けた。こうして感化されたボースは英国のチャールズ・ハ
ーディング(インド総督暗殺)の未遂事件を起している。爆弾を投擲して 負傷させた
犯人グループの中に入り、また「ラホール蜂起」の首謀者とされている。こうして独立
熱の高まりと血潮の昂ぶるボーズは、イギリス植民地政府に追われることとなってしま
った、又一万で、捕まえられないイギリス政府では二千ルピーの懸賞金がかけて取締り
し、結局、インド国内で寄り添う友人知人にも迷惑がかかる事で、行先が無くなったの
である。ボースは新たな武器を得るために日本に渡航する決断をし、ラビンドラナート
・タゴールの親族と偽って1915年(大正4年)6月に日本に向かい密航し入国した。

169 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 20:42:58.22 ID:orMWZzduS
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   142   毒か薬か妙薬

 日本たどり着くと、東京に住み、故国の独立運動のために東京の支援者から送られた
大量の武器を、インドへ送る任務に着いた。と言う。先に日本に亡命していたバグワー
ン・シンの紹介により、孫文と親交を結んで日本の案内役にもなり、宮崎滔天と共に、
九州に滞在する事もあった。当時袁世凱と対立して孫文は、日本に亡命していたので、
彼と仲良しにもなった。また、そこを取り持った ヘーランバ・ラール・グプタ(大川
周明)とも親交を結んだ。と言う。武器のインドへの輸送がイギリスの官憲に見つかる
とともに、ボースの密入国が大英帝国に知られ、当時大英帝国と同盟関係にあった日本
政府は、英国政府の要求によって、1915年11月28日にボースに対する国外退去命令を、
発令した。孫文は、これに対するため頭山満をボースに紹介したという。頭山や犬養毅
、内田良平などの、アジア独立主義者たちは、ボースの国外退去命令に反発し、新宿の
中村屋の相馬愛蔵・良夫妻を紹介し、彼ら夫妻によってのボースをかくまわせることを
工作している。その後4ヶ月間に渡り、ボースは中村屋のアトリエに隠れて過ごしてい
る。やがて、頭山らの働きかけもあり、同年中に日本政府はボースの国外退去命令は、
撤回された。しかし、イギリス政府による追及の手は1918年(大正7年)までも執拗に
続き、ボースは、日本各地の17箇所を転々と移り住む逃亡生活を送ったようだ。

170 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 20:43:28.58 ID:orMWZzduS
九州で
宮崎滔天らについていき、日本の言葉もだんだん解る様になっていく。1944年(昭和19
年)に、インド進攻のため、仮政府本部を、当時の日本の占領下にあった ビルマのラ
ングーンに移転させて、「インド解放」のスローガンの下に、自由インド仮政府の、「
国軍」となった。このインド国民軍は、日本軍とともにインドやビルマのイギリス軍と
戦い、インパール作戦にも従軍したという。インパール作戦は、とても酷い戦争になり
、死んだ仲間も多かったが、遠征前に、ビルマ住民と仲良くなった者も大勢いたという
。しかし彼自身は、この頃に入院するほど体調を悪化させ、ボースはインド独立の実現
を見ることなく、A.M.ナイルらに看取られながら1945年(昭和20年)01月21日に日本に
帰国して死去した。日本政府はラス・ビハリ・ボースが亡くなる前に勲二等旭日重光章
を授与することを決定し、ボースに伝えたが、実際に授与されたのは死後になった。同
年6月には、長男の防須正秀も沖縄戦で、大日本帝国陸軍中尉として戦死している。

171 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 20:53:53.98 ID:orMWZzduS
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   143   毒か薬か妙薬

 ラス・ビハリ・ボースは、ボース俊子(相馬俊子)夫妻に、大正7年(1918)頃頭山の
媒酌により1918年にボースは、逃亡中の中で、連絡係を務めた相馬夫妻の娘、俊子との
結婚を決めて養子になった。1923年(大正12年)には日本に帰化してインドの独立運動
に没頭できるようになった。第一次世界大戦が終結したことを受けて、イギリスからの
ボースの追及が終わってからは、俊子とともに中村屋の敷地内に住居を建てて暮らし始
めた。俊子との間には1男1女をもうけたものの、俊子は1925年(大正14年)に26歳で
肺炎により死去した。『昭和初頭に日本に普及していた「カレーライス」は、インドの
カレーとは全く別物であった。イギリスの海軍式に、改変されたカレーが、さらに軍隊
式に簡略化されて、安価な食べ物として普及していたため、ボーズには異質なカレーの
スープに見えた。ボースはかねがねから、「インドのカレーはあんなものではない。」
と憤慨していた。そこで中村屋は、1927年に喫茶部を新設する際、相馬夫妻に、本格的
なインドカレーを出すよう強く進言して、米(白目米)や鳥(軍鶏)にまでこだわり、
自らメニュー開発に関わって作った。米はぱさぱさの外米を焚き、インド式の煮込みの
ないものは、中村屋に否定され、似た触感の東北米と、スパイスとバターの多用は認め
スープ性の少ないドロドロのカレーとなって、夫妻とポーズによる、長時間煮込みの、
納得のカレーが出来上がった。これが同店の名物メニューとして現在まで続いている「
純インド式カリー・ライス」である。』となっている。ところがインド人のカレーは、
スプーンを使わない手で食べるもののであって、もっと違ったものだった。日本初の、
本格的インド料理店と銘打って「ナイルレストラン」は、ラス・ビハリ・ボースのもと
で、日本でインド独立運動をしたA.M.ナイルが、インドが自治国になった年1949年に、
開店した。現在も同じ場所でA.M.ナイルの息子と孫が経営し、A.M.ナイル独自が創作し
たカレー料理を伝えている。

172 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/04/26(水) 21:03:27.66 ID:orMWZzduS
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   144   毒か薬か妙薬

 1906年に帝国森林研究所として設立された森林研究所(FRI)デラドゥンは、最初は
モールロードのチャンドバー(ドゥーンスクールの現在の場所)にありました。現在の
場所にあるはるかに大きなキャンパスは、1923年頃に買収されました。その後、新しい
建物の建設が始まりました。 CG Blomfieldによるグレコローマン建築様式のスタイル
の本館は、1929年にウィリンドンの第1 then爵であったフリーマンフリース-トーマス
副大統領によって1929年に発足しました。現在は国定遺産になっています。デラドゥン
森林研究所は、その種の、最古の機関であり、世界中で高く評価されています。研究所
の歴史は、インドだけでなく、亜大陸全体にわたる科学林業の進化と発展と実質的に、
同義です。 450ヘクタールに広がる緑豊かな土地の上に建てられ、外側のヒマラヤ山脈
がバックドロップを形成し、研究所のメインビルディングは印象的な建物で、グレコロ
ーマン様式とコロニアル様式の建築様式が融合して、2.5ヘクタールの台座エリアが、
あります。建物は、世界最大の純粋なレンガ造りの建造物として、ギネスブックにも、
しばらく掲載されました。研究所は、世界中のあらゆる種類の最高の状態を維持しなが
ら、森林研究を実施するための設備の整った すべての研究所、図書館、植物標本室、
樹木園、印刷機、実験野のインフラストラクチャを開発しています。デラドゥンチャク
ラタの自動車専用道路にある時計塔から7kmです。インド最大の、森林ベースの訓練
機関です。森林官のほとんどはこの研究所の一部です。 FRIの建物には植物博物館も、
あり、世界中からさまざまな種類の木があります。インド緑化の父と言われる杉山龍丸
は、1955年(昭和30年)36歳、波多江光子と結婚した。同年、インドのネルー首相から、
「産業技術の指導支援の依頼」があり、これを受けて、日本の農法、技術によっての、
アジアから貧困をなくすために、「国際文化福祉協会(ICWA)」を創設した。日本で農業
を学んでいたインド人に杉山農園で農業技術を教え始めた。

173 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:49:16.46 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   145  土地の自然資源

 杉山龍丸は、1937年(昭和12年)、福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。1938年
(昭和13年)19歳、農園の土地を売らずに一家を養うために、陸軍士官学校に入学した。
父は、政界の黒幕と呼ばれた玄洋社の杉山茂丸であった。長男で生まれ、後でインドの
緑化の父と言われる杉山龍丸であったが、軍人が、戦争反対運動をやらぬ限りに、戦争
は止められない。と考えたのだ。しかし、結果は悲惨で、直ぐに反戦活動を行い、憲兵
隊に捕われた。卒業に至ってはこの時の恩師は、陸軍航空技術学校への入学を命じた。
戦争入り口寸前で特攻隊作戦やその思想が既にあったのである。1943年(昭和18年)24歳
、陸軍航空技術学校乙種学生卒業後、飛行第31戦隊で整備隊長となった、フィリピンの
隼集成整備隊長となる。知っての通りこの時のフィリピン空軍こそ、特攻の体当たりで
一隻の船をやっと沈没させ、唯一特攻作戦で成功した。と大日本帝国の大本営が喜んだ
基地であった。その後移動し、ボルネオタワオ(タワウ)基地でアメリカ軍のP-38ロッキ
ード戦闘機の銃撃を受け、右胸部貫通銃創の重傷を負って生死をさまよった。サイゴン
南方総司令部から立川整備師団に転任の途中、敗戦を迎える。1945年(昭和20年)8月30
日、終戦に従い、軍籍を離れた。帰国後、医者から3年しか生きられないと言われて、
部下の家族に死んだ状況を告げる旅に出た。外地からの引揚者を収容する福岡市では、
杉山農園を継いで経営する事になった。そのかたわらに、千葉県稲毛の、引揚援護局(
復員局)で働いている。父は玄洋社の杉山茂丸。長男は杉山龍丸だが、三男は、詩人の
杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は孫。夢野久作(ゆめのきゅうさ
く )はこの父杉山泰道のペンネネームであった

174 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:50:20.31 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   146  土地の自然資源

 夢野 久作(ゆめの きゅうさく )は、実は、父親のこの杉山泰道のペンネネームで
あった。1889年(明治22年)1月04日産れの 日本の小説家として名を馳せた。陸軍少尉
、禅僧、新聞記者、郵便局長という異色の経歴も持ち幼名は直樹、出家名は、杉山泰道
(すぎやまやすみち)、禅僧としての名は雲水(うんすい)を名乗っている。号は萠圓
、柳号は三八。919年、杉山直樹(夢野久作)、クラの長男として生まれる。福岡県 福岡
市出身。二男は三苫鉄児、三男は杉山参緑。である。杉山農園と言えど戦後に食ってい
くのは大変だった。収入も無く土地が大きいので税金が高く、この頃、福岡市に「公共
のために」と、杉山農園の土地を寄付をするが、福岡市も利用法がなく、土地がアメリ
カ軍のゴルフ場になった。このことに激怒し、交渉の末、ゴルフ場になる以外の土地を
取り戻した。 夢野久作は、三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』をはじめ、田舎の風土
を醸したホラー、怪奇幻想の色濃い作風で名高い。詩や短歌に長けて、『白髪小僧』中
の神話、『猟奇歌』のなどに代表される。絵もよくし、初期には『九州日報』で童話や
今でいう一コマ漫画を描いた。1935年(昭和10年)、祖父杉山茂丸没、1936年(昭和11年)
、父杉山直樹没、祖父と父を相次いでなくした。杉山龍丸の次男・三苫鐵児、三男は、
杉山参緑。祖父茂丸は、25歳の時に香港に渡り、イギリス人居住区の入口にあった看板
の「犬と中国人は入るべからず」という言葉にショックを受けて、欧米列強がアジア各
国で行っている植民地運営の悲惨な姿を実感して育ち帰国していた。「日本が独立を守
るには、どうしたらいいか」という想いを常に持ち、「いずれ独立した時、国家の礎に
なる農業を身につけさせよう」と1901年、福岡に4万6千坪の土地を購入して農園として
整備し、アジア各国から留学生を受け入れて技術指導していく。とりわけ、インド独立
運動を、支援していた祖父はガンジーの弟子達に熱心な農業指導を行なっていた。父親
の杉山泰道も、「杉山農園の土地は私物化せず、当初の目的通りアジアのために使え」
「アジアの人々を救いなさい」と言うこの祖父の遺言や意思を引き継いでいた。

175 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:51:35.97 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   147  土地の自然資源

 1919年に産まれた杉山龍丸も、3歳頃から祖父が起こした杉山農園で、鋤を手に
して育っていた。祖父の杉山茂丸は、伊藤博文らと親交を結んでいた政財界の、中では
黒幕的存在であったのである。茂丸は「これからは、アジアの時代だ」と言い、福岡県
の香椎の地に4万坪(約13万平方メートル)の土地を購入し、大農場を作り上げてし
まっていた。アジア各国が独立した後、若き農業指導者が必要となると考え、その養成
のために作ったものであった。龍丸は、そこで祖父や父から農業の大切さを教え込まれ
ながら育ったのである。ところが、1935年7月、祖父茂丸の脳溢血で倒れて、逝っ
た後、その翌年の3月、父の泰道が祖父と同じ脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となっ
た。47歳の若さであった。17歳になったばかりの龍丸は、敬愛する祖父と父の大き
な2つの柱を失ってしまったのである。孤独に打ちのめされた龍丸は、満たされない思
いを抱えながら、自分が長男の責任と、何かにぶつけたい衝動に駆られ、軍人になる事
で、心を埋めようとした。中学卒業後、陸軍士官学校に入り、その後陸軍航空技術学校
で学び、軍人の道を歩み始める。飛行整備隊長として、満州、東南アジアでの戦闘に、
参加したものの、戦争経験は、心の傷をかえって大きくしてしまう。フィリピン基地の
整備隊長として、特攻隊を送り出した愚かさ、命の尊さを踏みにじった日本軍の愚かさ
。これらを彼は、戦後「幻の戦闘機隊」という手記に書きつづっている。「これを書か
ないと死ねない」と言って、夜遅くまで涙を流しながら書き続けていたという。戦後、
龍丸は、厚生省援護局で、元兵士の死亡記録を留守家族に知らせる仕事に当たり食いつ
ないだ。勿論仕送りの為でもあった。他に2人の弟と母が残されていたのだった。

176 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:52:05.48 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   148  土地の自然資源

 ある日のこと、小学校2年生の少女がやってきた。聞いてみると、父親がフィリピン
に出征したという。母は病気で死に、家には祖父と祖母がいるが、二人とも病気なので
、その少女が父の安否を確認するためにやってきたのであった。調べてみると、父親は
戦死していた。「あなたのお父さんは、戦死しています」。それ以上、声が続かなかっ
た。一瞬、少女は目にいっぱい涙を貯めたが、必死にこらえている。それを見ていた、
龍丸の方が、こらえきれなくなって、目から涙があふれ出てきた。それを見て少女は言
った。「おじいちゃんに言われたの。泣いてはいけないって。あたし妹が二人いるの。
お母さんも死んだの。だから、あたしがしっかりしなければならないんだって。」と、
この健気な言葉に更に涙がでた。死亡の知らせは、伝えられる側はもちろんのことであ
るが、伝える方も、辛く苦しいものであったのである。特に龍丸にとっては、この戦争
大きく辛い体験ではあった。が同時に人間愛に目覚める契機となったことは間違いない
。インドとの関わりは突然おとずれた。杉山農園に戻っていた龍丸が、生活の糧を獲る
ため、上京し秋葉原でプラスチック製品の販売店を開いていたときのことである。雑踏
の中を歩いていた時、一人の見知らぬ僧侶に、呼び止められた。よく見ると、陸軍士官
学校の同級生佐藤幸雄君であった。彼は一人のインドの青年を連れていた。話を聞いて
みると、戦後、彼は僧侶となり、インドを解放しようと立ち上がった。ガンジーに共鳴
していて農業開発の分野で、ガンジーを助けたいのだ。と熱弁を振るって言うのである
。一緒にいた青年は、ガンジーの弟子であった。このことが機縁となって、龍丸の所に
、しばしば、ガンジーの弟子たちが インドから訪ねてくるようになった。彼らは龍丸
の紹介で陶器や和紙の伝統工芸を学び、あるいは農業技術を身につけて帰っていった。

177 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:52:37.57 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   149  土地の自然資源

 1961年11月、龍丸はガンジーの弟子たちによる「サルボダヤ・サンメラン(全
ての人民は革命に立ち上がる)」に、招かれて、はじめてインドに渡った。この時に、
デカン高原のワルダ地方にあるガンジー塾(ガンジーの住居、仕事場、治療施設)を訪
ねている。ガンジーが毎日祈った 菩提樹の木の下で、ひざまずき祈ってみると、生き
たガンジーがそこにいるように感じられた。龍丸は感動に身を震わせガンジーの弟子に
なりたいとすら、思ったという。これが龍丸のインドへの慈愛の始まりだったのだろう
。旅は12月の冬季で、龍丸はインド北部のパンジャーブ州の総督ピラト氏に招かれた
。ピラト氏は「インドを豊かにするには、どうしたらいいか。」を尋ねられている。龍
丸は、インドに来て観て感じた事を、言葉を選んで率直に語った。インドの歴代の文明
は、森林をことごとく伐採してきた。それを燃料にして煉瓦を作り、建造物を建てた為
に破壊的であった。その結果、森林がなくなり、大地の水が枯渇し、地面は砂漠と化し
てしまった。と思うと語り、樹木の少なさを指摘し、「今、インドに必要なのは植林で
しょう。ユーカリの木を植えて、土地の保全や保水を図るべきです。」と提案したのだ
った。ユーカリは根が深く伸び、乾燥している土地の底に流れる水を吸収する。しかも
生命力に溢れ、成長が早い。この土地には、打って付けの木であった。身を乗り出して
聞き入っていたピラト氏に、龍丸はデリーからアムリッツァル市まで走る国際道路沿い
にユーカリを植えたらどうか。と提案した。ユーカリの根は地下に水を溜める能力を持
つ。そうなれば、穀物や野菜なども育てることができるのだと説いた。ピラト氏はこの
提案に飛びついた。さっそく事業化に着手し、龍丸にその指導をお願いしたのである。

178 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 14:54:49.03 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   150  土地の自然資源

 龍丸が半年間のインド旅行を終えて帰国した翌年(1963年)、「インドで大飢饉
発生」のニュースが飛び込んできた。雨が降らず大地が渇き、作物が取れない。こんな
日々が以後3年も続き、5百万人もの餓死者が出てしまったのである。それを座視する
わけにはいかない。とそう思った彼の決断は早かった。手元には資金はないが、祖父や
父が残してくれた杉山農園の土地4万坪がある。この土地を切り売りして資金を作れば
よい。この決断に何のためらいもなかった。元々アジアを救おうとして祖父が切り開い
た農園である。それがアジアの砂漠化を防ぐ、緑の大地として蘇るのである。ちょうど
その頃、パンジャーブ州から朗報が届いた。ユーカリの苗作りに成功したという。暗黒
の中の一縷の光明であった。意を強くした龍丸は、再びインドへと旅立って行くのであ
る。インドに着いた時、彼が提案したユーカリの植林事業は、少しずつではあるものの
、着実に実を結びつつあったのである。国際道路沿いに植えたユーカリの木は、見事に
成長し、その土地にも変化が生じていた。予想通りに、周囲に水が蓄えられ、作物が育
つ地質に変化していたのである。このことは、1973年に宇宙衛星が写した写真から
も、はっきりと確かめられる。ユーカリを植えた地域の砂漠は緑と化し、その地域の、
ワジ(枯れた河)はなくなり、水を湛えていた。ユーカリが砂漠に水を取り込んだので
ある。今では、パンジャーブ州は、インド一の穀倉地帯となったのである。まさにユー
カリの奇跡が起こったのであったのだ。龍丸のインドへの貢献は、ユーカリの植林だけ
ではなかった。インドのヒマラヤ山脈に続くシュワリック・レンジ(丘陵)で、大規模
な土砂崩落が起きていた。日本列島よりも長い3千キロに及ぶ砂漠の丘が崩れている。
ひとたび集中豪雨があると、土砂が一気に押し寄せ、麓の村々を破壊し尽くしたのだ。
世界の著名な学者たちも見捨てていた土砂崩落に、白羽の矢の相談が舞い込み、龍丸は
一人で立ち向かったのである。

179 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 15:25:55.29 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   151  土地の自然資源

 杉山龍丸(1919年(大正8年)〜1987年(昭和62年)は、私財を投げうってインドの
緑化に尽力した。インドの緑の父(Green Father)と呼ばれている。1962年(昭和37年)
43歳で初めてインドを訪れて、約1ヶ月の旅をし砂漠となったパンジャブ州を見ていた
。そこにピラト氏の歎願で、国道1号線沿いの延長 470kmに、成長が早く根が深くて
パルプの原料となるユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保
する提案した。しかし、植林開始と共に、インドは旱魃に襲われ、3年間で 500万人が
餓死する事態に出会った。インド政府も事業中止に至り1966年、インドの餓死者の状況
を調査し、国連に直訴する。しかし国連も国連各国も、全く相手にしなかった。しかし
、杉山は違った。杉山農園の3万坪(総面積は4万6千坪)を、売却してまで資金を調達し
、家族を日本に残して渡印したのである。国連関係者からの環境会議出席の求めに友人
から旅費を借りて出席している。こうした時でも終始、日本政府からの援助は無かった
。学界からも黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人の認可申請もいまだ認められてい
ない状態である。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木と
その周辺の耕地は杉山の功績である。とされている。そこにインドのヒマラヤ山脈に続
くシュワリック・レンジ(丘陵)での土砂崩落止めの要請が入って来た。彼は砂漠地帯
に生えているサダバールという木を採ってきて、砂漠の斜面に挿し木をした。そして、
これが根をはったところにユーカリを植えていく。連日、こんな地道な作業を続けた。
結果、今やあのシュワリック・レンジには、目を見張るばかりの緑の木々が生い茂り、
その木々が土砂の崩落をくい止めているのである。砂漠化の原因は、森を伐採し尽くし
た結果であり、それを防ぐには植林しかないという龍丸の持論は、ここでも実証された
のだった。インドの人々は、龍丸がもたらした緑の奇跡に驚き、感動し、そして惜しみ
ない拍手を彼に送った。龍丸は生前、「私の事業の中で、一番嬉しかったのは、シュワ
リックの土砂崩れの克服だった。」と語っている。

180 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/02(火) 15:26:26.18 ID:VD3kEzC1V
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   152  土地の自然資源

 龍丸のインドでの植林事業は、文字通り身を削る戦いだったろう。4万坪あった杉山
農園は全て売り払い、家も売って借家住まい。資産のほとんどを植林事業につぎ込んで
いる。1984年、オーストラリアで開かれた国際砂漠会議があった際にも、インドで
の緑化事業の成功を報告するチャンスが与えられた。しかし、参加する費用が工面でき
ないほど、家計は逼迫していた。政府の対応は実に冷淡だった。「役人でも学者でもな
い一民間人が、国際会議に出席するのは辞めてほしい。」という中国並の共産党思想で
狭い視野しかなかった。福岡県も福岡市も、見て観ぬふりをした。米軍相手のゴルフ場
建設でのしこりがあったのだろう。しかし福岡県は全く学習しない行政を今も続けてい
る。柳川にあった53万3千株の柳と御幣竹の、縄文土手の水路は、今は全てコンクリ
ート造りで、カモも浜千鳥すら生息しない。また柳の宮家址の二ッ河小学校も2ツ塚址
も今や、千年柳の巨木はなく、村の御神木とされた千間の原木の楠の木すら、目野酒造
の木しかない。縄文時代に境木として各所にあったが、県や国や役所が伐採するのであ
る。その上にその金を自然保護税でとる。そんな凶行を行っているままだ。その為ひば
りも蛇も蛙すらいない、多くは流れない腐った水路を川下り船が行き交うのである。ま
ず行政は不勉強であり学習能力も自然現象の調査や資料すらない水質汚濁法やら何やら
違法ばかりの馬鹿役所の行政である。特に福岡県は全く不幸な県だ。こうした行政援助
どころか、壁に友人が協力してくれた。偉大な業績を発表することすらかなわなかった
龍丸はこの会議で、彼は植林によって砂漠地帯に緑が回復した事実を衛星写真を使って
報告し、各国の学者の称賛を浴びた。インドと日本を行き来し、心身をすり減らし祖父
、父を襲った同じ脳溢血で倒れてしまった。2年2ヶ月の闘病生活の末、1988年9
月20日、69歳の龍丸はついに帰らぬ人となった。 龍丸の最終目的は、地球の全て
の砂漠を緑に変えることだった。

181 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/05(金) 10:24:45.13 ID:ZbApM5jW/
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   153

 芥川龍之介「芋粥(いもがゆ)」の冒頭、それはチラリと登場する。曰く「五位は、
五〜六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。芋粥とは山の芋を中に切込
んで、それを甘葛(あまづら)の汁で煮た、粥の事を云ふのである。当時はこれが、無
上の佳味として、上は万乗の君の食膳にさへ、上せられた。従つて、吾五位の如き人間
の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか(手に)はいらない。」同作は、平安時代の
説話集「今昔物語集」を基にしており、芋粥を飽きるほど口にしたいと願った男の滑稽
な顛末(てんまつ)を描いている。芋粥に使われる「甘葛」は、贅沢(ぜいたく)な、
甘味料として古代の日本人が味わい続けたものの、砂糖の普及とともに幻の味になって
しまった。いったい何が原料で、どんな味がしたのだろう。答えを求め、異分野に飛び
込んだ研究者が地道に謎解きを続けている。能の中に「毒じゃ毒じゃの砂糖壺」が出て
くる。砂糖と蜂蜜を混ぜたお菓子と考えられている。甘味は、人間と自然の関係に関わ
る大きなものだ。甘葛(あまづら)は食料資源であり、広くいうと環境生態学と強く、
関連している。甘葛は、古代日本で貴族の食事に欠かせない贅沢な甘味料で、平安時代
の法令集「延喜式」に、甘葛が全国から都に集められたことや、唐の皇帝への献上品と
して贈られたことが書かれている。腐敗しないよう、煎じて濃縮して蜂蜜や水飴(あめ
)のような粘り気のある「甘葛煎(せん)」として保存、輸送したという。清少納言の
随筆「枕草子」に「あてなる(上品な)もの」として「削り氷(ひ)にあまづら入れて
新しき鋺(かなまり)に入れたる。」と、かき氷のシロップとして、好んで食べられて
いる。多くの古典籍にも登場する。甘葛を使った料理には金属の器が使われており、他
の鍋では溶けたものがへばりつき、作れなかったようだ。極上品だったことがうかがえ
る。今や、砂糖の輸入や国産化を受け、室町時代中期頃から消えて行ったたとみられて
いる。「武家社会に甘葛は出てこない。消失の背景には貴族の没落もあったのではない
か」といわれ、原料ははっきりせず、江戸時代から断続的に研究されてきた。

182 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/05(金) 10:25:48.45 ID:ZbApM5jW/
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   154  土地の自然資源

甘葛の原料はツタであるというのが、これまで通説になってきた。きっかけは江戸後期
の本草学者、畔田翠山(くろだすいざん)の「地錦(つた)の冬に葉が落ちた後の茎に
溜(たま)れる甘汁なり」という記述がある。これを基に昭和初期、植物学者の白井氏
がツタの樹液を調べ、サトウキビ並みの高い糖分が含まれていることを明らかにした。
その後、1987年には福岡の薬草研究会がツタの樹液から甘葛煎を復元して反響を呼んだ
。こうして「ツタ原料説」が定着していった。この経緯から「ツタを使って、甘みのあ
るものができる」のは確かだった。しかし、ツタ以外は試されてすらいない。科学的に
調べるなら候補を集めて比較しないといけない。甘葛の正体はまだ、分かっていないで
はないか」との思いで探る。江戸後期に本草学者の藤原清香(せいか)は著書「甘葛考
」で、甘葛の原料が「野葡萄(ぶどう)」であり、その実の汁を煮詰めて甘葛を再現し
た。と記す。後に、白井氏は、ノブドウはあまり甘くなく「此説には従ひ難し」と否定
した。「ただし、清香のいう『野葡萄』は、現代のノブドウを指していない可能性が高
い」とも指摘される。古い文献を読み進めるにつれ、ツタ以外を否定する解釈への疑問
が深まり、さまざまな樹液を調べたいとの思いを強め、甘みの強さ、持続性…種類ごと
に個性が調査された。甘葛の「葛」の字はつる性植物を意味する。過去の研究文献に、
記述され、原料の可能性があるつる性植物の樹液を、多彩に採取することに。樹液に、
糖分が蓄えられる厳冬期を狙って全国各地の山中などに出かけ、各地で植物愛好家の、
協力を得ながら採取して回った。こうして得られた8種の樹液を調べた結果、ツタを含
め、ノブドウ、ヤマブドウ、サンカクヅル、アマヅルのブドウ科5種から、メイプルシ
ロップの原料にもなるギンヨウカエデを上回る高い糖分が検出された。3年間も採取し
、結果は同じだった。

183 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/06(土) 19:51:42.49 ID:64Br4JbL8
見つけたぞ〜「FITさん」登録者44人。どう?
5 :以下、VIPがお送りします:2023/05/04(木) 17:26:42.56 ID:h+MJ8+xKL
https://youtube.com/@fitfit3319

184 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 02:28:03.92 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   155  土地の自然資源

「ツタ原料」通説への思いから甘味料の旅をする。「ツタは最初は強烈に甘いが、その
後にスッと引き、はかない。」福岡の薬草研究会や奈良女子大学の先行研究がツタを、
『上品な甘さ』としているが、その通りだ。そしてアマヅルは口に含んだ時の甘みは穏
やかだが、コクがあって、じんわり続く。蜂蜜が花によって 随分風味が違うように、
それぞれ個性があって面白い」神松さんらがツタの樹液を採取した際、茎を切断して20
分ほどで流れなくなって、極めて効率が悪かった。先行研究でも、人海戦術で大量に茎
を伐採してわずかしか採れず、かなり苦労したという。「ツタの樹液を使うのは現実的
でないと感じる」。アマヅルとサンカクヅルは採取の効率が良く、ノブドウやヤマブド
ウは今ひとつだった。一連の調査と考察から「延喜式には甘葛が全国から集められたと
あるが、広範囲から、ツタのみで安定した量を確保したとは考えにくい。複数の種類の
つる性植物から採取されたのではないか」との見方を示している。分野を超え縦横無尽
に進める面白さで、2019年8月に京都市の立命館大学で、2020年2月には東京都立川市の
国文学研究資料館で開かれたシンポジウム、試食のために甘葛が振る舞われた。歴史や
料理など多彩な関心を持つ参加者から「砂糖のように甘い」「和菓子屋だが、いつか、
再現した品を作りたい。」といった反響があった。神松さんと入口さんは2020年3月、
これまでの成果を論文にまとめた( 立命館大学 環太平洋文明研究センター「環太平洋
文明研究」第4号「古代の甘味『甘葛』の原料に関する考察」)神松さんは一連の取り
組みを「現代流の研究だと感じる」と語る。「今までの私の研究とは違い、甘葛には、
ネットや文献、人とのネットワークを手がかりに分野を超え、縦横無尽に進める面白さ
がある。料理屋さんと話すと、研究者には 思いつかない意見が出てくる。一般の人、
さまざまな職業の人とつながって成り立っている」という。

185 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 02:28:25.89 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   156  土地の自然資源

 高野山文書(1146)によれば、野部(やべ・矢部)の貢(みつぎ)の御所(ごしよ)か
ら、天然甘味料である甘葛汁(あまづらじる)が、毎年7斗、朝廷に貢納されていたと記
されています。この「やべ」は「やかべ」と転訛したのではないかと云われています。
 その後は不幸にも、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、研究が停滞。
再始動を期し、今月中旬から2ヶ月にわたりネットで研究資金を募るクラウドファンデ
ィングを計画している。目指す活動は (1) 甘葛関連の古地名を持つ場所や、甘葛を採
るための荘園だった場所の現地植物調査、(2) 藤原清香「甘葛考」の、現存する直筆の
調査、(3) 甘葛の生産やブドウ科植物の樹液利用を目指した研究――などを考えている
。古代のものを追い求めることには大きなロマンを感じるが、神松さんは「それだけで
はない」と言う。「いろいろなものが手に入る現代だが、お金を出しても手に入らない
ものが時々、ある。それに惹かれ、追い求めることの魅力が大きい。」さらに続けて「
伝統文化や昔のことには、常識として馴染んでいても、本当は分かっていないことも多
いのでは。ちゃんと調べるとまた違ったものになるかもしれない。学問でとても大切な
ことだ」とも語る。3年前、筆者が「正月にぴったりのテーマ」と、神松さんに初めて
連絡を取った際には「記事になるような状況ではない。」とのお返事だった。その後も
原料の特定には至っていないものの、極寒の中を樹液採取に走り化学分析を重ねる一方
、古典籍を丹念に読み解くという、甘葛煎のような?粘りのある取り組みにも、大きな
魅力を感じる。この研究は甘いものではなさそうだが、多くの現代人の口に「あてなる
」甘みが広がる日を心待ちにしたい。

186 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 02:28:54.46 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   158 明治の自然資源

しかし、同じ年に、教皇庁側では、フォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区
が設立され、その後、1855年から ユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション や、
プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール、ルイ・テオドル・フューレの3人
の司祭を送り、那覇に赴任して日本語を学ばせている。1858年に日仏修好通商条約が結
ばれたことで、日本入国が可能になった事を受けメルメ・カションは、函館に赴いた。
ジラールは、江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初
のカトリック教会となる聖心教会を建てた。その後移転し、現在の山手教会となった。
このころ、ヨーロッパのカトリック教会の中では、日本には強い関心と興味が寄せられ
ていた。証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる
。長崎の大浦天主堂は、1864年になって、フューレが長崎に土地を購入、後から加わっ
たベルナール・プティジャン神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた事が起源
である。この大浦天主堂完成の一ヶ月後、教会を訪れた婦人たちが、自分たちは禁教下
で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白する。神父は驚愕し
、これを「長崎の信徒発見」という速報をローマに送った。信仰を表明した信徒の多く
はカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになるのだが、詳細は「ベルナー
ル・プティジャン」および「浦上四番崩れ」を参照されたい。しかしながら、彼らは、
同時に寺請制度を拒否したために、時の長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)
、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という
高札を掲示してキリスト教禁教を継続する。このため、その後に信徒への拷問や流刑な
どが行われた。ここで明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず
、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が、
全国的規模で行われる事になった。

187 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 02:29:34.71 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   159  明治の自然資源

 詳細は「五榜の掲示」および「浦上四番崩れ」にある。しかしこの処置に、明治政府
の予想に反して、キリスト教禁止と、信徒への弾圧は、諸外国の激しい抗議と反発を引
き起こし、岩倉使節団が欧米諸国を視察した際にも、キリスト教の解禁が、条約改正の
条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令が解かれる事になった。が
そう簡単に火の手は収まらなかった。ここで、1846年から、日本での宣教を委託されて
いたパリ外国宣教会は、復興当初から宣教のみならず教育事業と社会福祉事業に力を注
いで、1884年(明治17年)に、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数
は84に復活させた。その後もパリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限さ
れていたため、日本人信者の協力を得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、下層階級
への宣教活動を行う。1872年にプティジャン司教はフランスからサン・モール会(幼き
イエス会)を招聘し、最初の5人の修道女たちは、横浜に修道院と孤児院を建てている
。1888年に、彼らの手で築地教会の近くに高等仏和女学校が開かれ、後の雙葉学園前身
となった。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会である幼きイエズス修道会
にも、修道女の派遣を依頼し、これに応えて1877年に来日した4名は神戸で孤児院と、
学校(大阪信愛女学院)を開いた。更に1878年にはシャルトル聖パウロ修道女会が来日
、函館に仏蘭西女学校を開設、1882年には神田教会の敷地内に孤児院や小学校を建てて
白百合学園へと発展していった。1887年には、パリ外国宣教会の招致に応えて5人のマ
リア会員が来日し、翌年東京都に暁星学園が創立。さらにマリア会によって1891年には
長崎市に海星学園が、1898年には大阪市に大阪明星学園が、1901年には横浜市にセント
・ジョセフ学院が創立されて行った。日本において有名なイエズス会も、「日本にカト
リック高等教育機関」を求めた教皇庁に応じ、明治期の終わり1913年に上智大学を開い
ている。

188 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 02:29:59.71 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   154 明治の自然資源

 このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に、
東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転
して明治学院が誕生している。一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメア
リー・キダーが、ヘボンの診療所で教育してここから後のフェリス女学院が誕生する。
もう一つの熊本バンドの流れは、1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官
L・L・ジェーンズ (会衆派教会)の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たち
が信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)のこのグループは、熊本洋学校廃止によっ
てジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズが勧めたことで(新島襄が
1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二
代社長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。多くは柳川立花藩と
熊本の細川藩で同志社を作り、同志社英学校の教師と学生たちがが新島襄など集まった
。この後ウィリアム・スミス・クラークは、札幌農学校(現在の北海道大学)で教壇に
立ち、とメリマン・ハリスの 薫陶を受けた教え子によって結成された。のが「札幌バ
ンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中に佐藤昌介、大島正健、内村鑑三
、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいる。内村鑑三はのちに、
「無教会主義」を唱えることになる。日本のプロテスタントはこれらのグループを核と
して発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」からは日本
組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が
、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。1872年にはジェームス・ハ
ミルトン・バラ宣教師によって横浜に日本基督公会が設立され、1873年(明治6年)に
キリシタン禁制が解除された。フルベッキ宣教師が日本政府左院の翻訳顧問となり、グ
リーン牧師やジェームス・カーティス・ヘボン宣教師らとともに新約聖書翻訳に取り組
んだ。

189 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:57:17.94 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   155 明治の自然資源

 初期の宣教師たちの宿願であった、日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすす
められ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。1873年までに、ほとんど
のプロテスタントの教派が来日した、1874年創立の神戸の摂津第一公会は、当初から、
会衆制を採った。1880年にはイギリス発祥のキリスト教青年会(YMCA)の、日本支部が
発足した。1882年時点で日本に在留していた 宣教師は138名。初期の宣教師は聖書信仰
と保守的な神学を持ち、宣教の情熱にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバル期があ
った。循環するリバイバル大覚醒はアメリカの特徴でもある。宣教師らの大覚醒運動の
影響を受けて、アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)
が伝えられる。福音派(ホーリネス運動)の源流の一つで「松江バンド」(1893年)も
特筆できる。1890年の聖公会牧師バークレー・バックストンが松江市伝道を始めて竹田
俊造、三谷種吉、堀内文一らを輩出した。1897年にバックストンの招きで、パゼット・
ウィルクスが来日し、日本伝道隊(1904年)日本イエス・キリスト教団、関西聖書神学
校などが設立された。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われている讃美
歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した。とされる。こうして布教
が北海道に到達した頃、ウィリアム・スミス・クラークは、札幌農学校での教え子に、
入学と共に誓約書の契約があった。それが、アメリカで起こった禁酒の流れでの契約で
であった。他にもいくつかあったが、メリマン・ハリスの 薫陶を受けた教え子達は、
共に禁酒は守られる事になった。と言うのも飲酒によって、幾人かは退学させられたか
らだ。

190 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:57:44.69 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   156 明治の自然資源

  その中で、1883年にアメリカで組織されたキリスト教婦人矯風会がある。当時の、
日本では「万国婦人禁酒会」などと訳された組織だ。禁酒運動を強力に推進した。1886
年(明治19年)、キリスト教婦人矯風会からレヴィット夫人 (Mary Clement Leavitt)
が日本に訪れ、禁酒遊説まで行っている。演説会は、かなりに盛況であり、レヴィット
夫人の呼びかけに応じ、各地で禁酒団体が組織される事になった。のちに、日本初東京
禁酒会会長・日本禁酒同盟会会長となったのが安藤太郎と言われている。日本禁酒同盟
の「初代理事長」に位置づけられる安藤太郎(1846年〜1924年)は、実は夫人を連れて
きた、外交官でもある。安藤は 4,5歳の頃から酒を飲みはじめたという、かなりの鯨飲
家であった。このために文子夫人が、相当に苦労したと伝えられている。つまり鯨飲家
の大酒飲みが、禁酒推薦の堅物夫人を何故だか日本に連れてきて、日本の禁酒会の会長
にまつりあげられたのであった。1886年(明治19年)、安藤はハワイ王国に総領事とし
て赴任した。当時のハワイの、日本人移民社会は、アメリカの奴隷商人の手のプランテ
ーションが進んで、ハワイ国王は危機の中で、行政は思った通りに進んでいなかった。
当然新天地を目指して希望を持ってやって来た日本人居留民も、有色人種として地位は
低く荒んでいて、多くの日本移民も飲酒に溺れる者も少なくなかった。安藤もこの日本
人社会の光景に悩んだ。そこで模範を示すべく禁酒をすることがよいことであると理解
しつつ、踏ん切りがつかなかったという。しかし同郷の仲間の勧めがあり、ハワイの、
禁酒会をとりあえず訪ねていた。

191 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:58:09.79 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   157 明治の自然資源

 現在、一般財団法人日本禁酒同盟(にほんきんしゅどうめい)は、酒害に関する知識
を普及し、酒害の予防及び酒害者の救済を目指す団体で、元文部科学省所管の財団法人
となっている。この明治期の禁酒運動にルーツを持つ組織で、1890年に「東京禁酒会」
の会長に就任した安藤太郎が、初代理事長と位置づけている。1890年には、各地の禁酒
団体が集まった集会「第一回大日本禁酒同盟会」が開催されて発足記念講演もされた。
1898年に全国組織として「日本禁酒同盟会」には発足、日本の清酒業界やビール業界な
どから、強い抵抗の抗議もあり、財務省からの苦情もあったらしい。1920年に財団法人
「日本国民禁酒同盟」となり「日本禁酒同盟」という名称となった理由は、第二次世界
大戦後の新規一転の運びからである。日本禁酒同盟では宗教宗派・政党政派に偏らない
運動を通し、酒害のない社会づくりを掲げている。この法人では、宗教宗派、政党政派
に偏せず、酒害に関する知識を普及し、酒害の予防及び酒害者の救済に努め、もって、
わが国民の健全なる心身の育成に寄与することを目的とし次の事業を行うとして項目を
つけている。(1) 禁酒問題の調査研究及びその公表。(2) 禁酒思想、普及宣伝のための
講演、講習、映画、展覧会等の開催及び斡旋。(3) 青少年に対する禁酒教育、(4) 禁酒
教育及び酒害者の救済を行う施設の設置、運営。(4) 全国禁酒団体、並びに同志者との
連絡提携。(5) 国際機関との連絡協力。(6) その他この法人の目的達成に必要な事項。
などとなっている。当初1875年(明治8年)に横浜で奥野昌綱を議長として組織されて
「禁酒会」(第一次横浜禁酒会が、日本人による最初の禁酒運動組織とされ、活動を、
開始した。奥野らの禁酒会では「キリスト教の伝道の一環」として組織されたもので、
結果的に短命に終わった。しかし影響を受けて故郷で禁酒会を組織する者も出た。

192 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:58:36.70 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   158 明治の自然資源

 ハワイの日本人社会の状況を聞いた、サンフランシスコのメソジスト教会牧師美山貫
一はハワイに移り、日本人移民の生活向上に尽力する。文子は美山貫一から米国の禁酒
運動について話を聞き、禁酒は可能であり、また米国には一生禁酒を貫く人がいる。と
言うことを知って夫を勧めた。1887年(明治20年)12月、文子夫人は、安藤のもとに届
いた2樽の日本酒を処分させ(「樽割り」と称される)。安藤もこれを好機として禁酒
をすることにした。といわれている。なお、美山の影響を受け、安藤夫妻をはじめ領事
館の館員が全員受洗した。つまり、飲酒の誓いをたてたのだ。1888年(明治21年)4月
、安藤はハワイで「在布哇日本人禁酒会」を設立。この会は、当時のハワイ在住の日本
人6300人余の約3割で、2000人余の会員を擁する大会員となり、その成功は日本国内に
広く知られることとなった。1889年(明治22年)10月、安藤は夫人の病気療養のために
日本に帰国する。横浜禁酒会など各地の禁酒会に迎えられて、禁酒演説を行ったのだが
、「平民的軽妙な弁舌」と評されるほど 演説上手であり、禁酒運動のカリスマ的な、
指導者になっていった。つまり話のうまさが際立ったのだった。1889年7月の時点で、
日本には、大小63の禁酒団体が既に存在し、この中には、矢島楫子の東京婦人矯風会、
林蓊の横浜禁酒会(第三次)、伊藤一隆らの北海禁酒会(北海道)、吉植庄一郎らの、
のちに全国組織の必要を訴え自ら「帝国禁酒会関東支部」と改称した北総禁酒会(千葉
県)や、高楠順次郎らの反省会(京都)などがあった。日本国の文明化を果たす上で、
「国家的禁酒」が必要である。という考え方や、個々人に利益をもたらす「家族的禁酒
」の考え方、あるいは禁酒を通じた社会改良運動の側面は、キリスト教徒に限らないで
多くの人々に、禁酒運動が受け入れられる要素があり、全国組織につながった。

193 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:59:08.48 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   159 明治の自然資源

 1890年(明治23年)には、WCTU(世界キリスト婦人協会)から2人目の遊説員と
して、ジェシー・アッカーマン (Jessie A. Ackermann) が日本を訪れた。1890年(明治
23年)年3月28日、築地にあったメソジスト教会において、アッカーマンに 触発された
佐々城豊寿・潮田千勢子ら(日本キリスト教婦人矯風会の創立メンバー)を中心として
東京禁酒会が発足した。当初、東京禁酒会は代表者を置かず集団指導体制としていた。
1890年(明治23年)5月、第1回「大日本禁酒同盟会」が3日間の日程で、東京地学協会
の会館(東京禁酒会の事務所が置かれていた)において開催されアッカーマンの、来日
以前の佐々城と潮田は、津田仙(1887年に『酒の害』を刊行者)と、積極的な禁酒演説
も行っていた。その後相談し、横浜禁酒会・帝国禁酒会関東部・北海禁酒会に連絡を持
ち代表の上京を要請。上京した代表は、毎年1回の「全国禁酒同盟会」の開催を決議し
てしまう。第1回「大日本禁酒同盟会」は東京禁酒会を幹事として、上記禁酒団体や、
メソジスト教会宣教師らの参加を得た。なお、同時期には北海道で、北海禁酒会と仏教
青年会が合同で「禁酒大演説会」を開催している。1890年(明治23年)11月、東京禁酒
会は総会で安藤太郎を会長に、根本正を副会長に選出した。北海道の日本禁酒同盟会に
1896年(明治29年)、WCTUのクララ・パリッシュ (Clara Parrish) が来日。全国各地の
禁酒会をつなぐ全国組織「日本禁酒同盟会」の結成が進められた。1898年(明治31年)
10月1日、東京九段美以教会において日本禁酒同盟会が発会。設立時の役職者は、以下
の通り。・会長 安藤太郎、・総副会長 伊藤一隆 津田仙 J・ソーパル 根本正 ・副会
長 林蓊ほか、各地の禁酒会長、・記録幹事 H・コーツ、鵜飼猛、・会計幹事 角倉賀道
、安西唯三郎、・理事員 J・コーサンド、H・タムソン、C・ガースト、S・タッピング、
B・チャペル、E・レビット、小林光泰、尾藤徳義、二宮安次、小方仙之助、砂田乙治、
古沢繁次郎、美山貫一、原誼太郎、青木堅治、石井甲次郎。と言う顔ぶれだった。安藤
は、東京禁酒会の会長と、全国組織である日本禁酒同盟会の会長を兼任した。

194 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 03:59:33.20 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   160 明治の自然資源

 1917年(大正6年)、日本禁酒同盟第1回全国大会が甲府で開催される。しかし1918年
(大正7年)に宗教色を脱するように主張し、大阪の禁酒同盟会が脱会した。1919年(
大正8年)、青木庄蔵を次期会長として国民禁酒同盟が組織された。この 分裂について
、禁酒運動がキリスト教布教の手段との、誤解が背景にあったとされるが、実際に運動
にキリスト教色が、かなり強まったために分裂した。ともされる。というのも、米国か
らの色々な国のスパイ潜入があって、キリスト教内にも大きな疑惑や排他の抵抗が生ま
れて来ていたからだ。国民禁酒同盟は禁酒運動そのものを追求することを掲げている。
1920年(大正9年)、日本禁酒同盟会と 国民禁酒同盟との合同が妥結するとともに、
財団法人として登記し(3月25日)名称も 財団法人日本国民禁酒同盟となり、事務所を
神田表猿楽町のYMCA同盟会館に置かれ、理事長には長尾半平が就任した。「宗教に偏せ
ぬ全国的大合同」が成功し、1922年に、全国大会も再開された(以後、1943年まで毎年
開催された。同盟の幹部である根本正は、衆議院議員(1898年より当選11回、政友会所
属)であり、1901年より帝国議会に「未成年者飲酒禁止法案」を提出し続けている。未
成年者飲酒禁止法(現・二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律)は、1922年にやっ
と公布された。1930年代の恐慌に伴う農村政策や、戦時下の炭坑での労働管理の一環と
して、禁酒運動は、政府から関心を寄せられた。戦時期に、日本国民禁酒同盟は「禁酒
報国」をスローガンとした。積極的な戦争協力を行い第二次世界大戦に突入して行った
。第二次世界大戦の戦災のため、組織は解散状態になったが、1949年に本郷中央教会の
武藤健牧師の支援を受け日本禁酒同盟として活動を再開した。同盟復興総会は1949年4
月5日、麻布の安藤記念教会(安藤太郎の旧宅地)で行われた。

195 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/05/26(金) 04:00:01.21 ID:w200xdTkG
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   161 明治の自然資源

 戦後復興が進む中で、伝統的な、この禁酒運動は衰退することとなっていった。一方
で、酒類の生産が拡大する。それとともにアルコール依存症が問題となり、再び同盟は
運動路線を徐々に変化させて活動していく。1953年には同盟内に断酒会(「断酒友の会
」)が創立され、以後全国各地に「断酒会」が設立されることにつながった。1958年に
は「断酒新生会」が組織され、1963年には全日本断酒連盟(全断連)として独立した。
なお、同盟の断酒会も「断酒修養会」として継続されている。1994年、理事長を務めて
いた小塩完次の旧宅(東京都武蔵野市)に、小塩完次記念日本禁酒同盟資料館を設置、
(同盟事務所を兼ねた)。2010年代半ばに 資料の委託先が求められた結果、同館所蔵
資料は2016年05月に武蔵野大学政治経済研究所に寄贈された。武蔵野大学は「反省会」
や日本国民禁酒同盟で禁酒運動に関わった高楠順次郎を学祖とする大学である。実は、
安藤 太郎(あんどう たろう)は、気骨な江戸時代に生まれている。弘化3年4月8日、
(1846年5月3日)〜大正13年(1924年)10月29日)は、戦前日本の外交官、禁酒運動家
である。元幕臣で函館戦争に参加。岩倉使節団員、元香港領事、ハワイ総領事。を務め
た人だ。種痘の先駆者である鳥羽藩医・安藤文沢の子として江戸四谷に生まれて、横浜
英学所に留学、アメリカ人宣教師のデイヴィッド・タムソンとサミュエル・ロビンス・
ブラウンに英語を習った。その後、安井息軒に漢学を、坪井為春・大村益次郎に蘭学を
、箕作秋坪に英学を学んだ秀才だった。海軍操練所、陸軍伝習所で学んだ後、戊辰戦争
では旧幕府軍の騎兵指南役、海軍二等見習士官として戦う。箱館戦争では、榎本武明の
もと回天丸に乗船し、宮古湾海戦で負傷する。五稜郭の戦いで投降し、1年間の禁固刑
に処せられた。その後語学力を買われ、明治政府の外務省翻訳官に任官されている。

196 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/15(木) 10:53:40.53 ID:LDa2VgeEs
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   161  小さなお皿

 1930年前後の時代は、1929年頃に始まった「世界大恐慌」が起こっていた時代。日本
でも、多くの会社が倒産し、失業者も溢れていた時代だった。そんな時代背景もあって
、当時、三越の主任コックだった「安藤太郎」さんは、「せめて子どもたちは、夢のあ
るメニューを提供したい!」という思いから作られた。これが子供に人気になった「お
子様ランチ」であった。現代においては、「子供が喜んで食べやすいもの」「子供が、
ちょうどいい量になってる」というぐらいの、イメージでしかないだろうが、しかし、
この「お子様ランチ」の発案も大きな苦悩もあった。実は発案者の熱意と愛情に満ちた
メニューだった。ある食器メーカーから持ち込まれた、かわいらしい絵柄の入った皿を
見るなり、安藤氏は、「これを使って、少し子ども向けの楽しいメニューを作ろう。」
と思い立ったという。せめて戦争が終わって暗い気分を吹き飛ばす為にも。との思いが
強かったのだろう。そして、スパゲティ、コロッケ、ハム、サンドイッチ、ボンボン、
さらには富士山の形に成形されたご飯が1つのプレート上に盛り合わされた「御子様用
洋食」が誕生するのだった。ケチャップライスで作られた富士山の頂上部には、雪が積
もった様子に見立てた白いご飯が使われ、その上には、「お子様ランチ」の定番ともい
える小さな旗が立てられていた。かくして、日本橋三越本店内、「カフェ&レストラン
」の「ランドマーク」の人気商品「お子様ランチ」(840円)は、昭和の歴史とともに、
歩んできた超ロングセラーメニューとなったのである。その発祥は、1930年に同百貨店
食堂部の主任安藤太郎氏によって考案された「御子様洋食」である。「お子様ランチ」
を提供したお店は、1930年に東京の日本橋三越百貨店の食堂で初めて提供された現在は
、ファミリーレストランは勿論、様々な業種業態の店で、子ども向けメニューの定番と
なってが提供されているが、これらの元となったのが、昭和初期に、少しでも色んな味
を味合わせ楽しませたいとした「御子様用洋食」だった。日本でも世界恐慌の影響で、
不況が続いていた、そんな暗い世相の時代の、せめて子どもには明るい夢のあるものを
という大人達の願いが積もっていた

197 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:42:24.79 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   162  小さなお皿

 実は、「お子様ランチ」の提案は、安藤氏の日本一の富士山と、その上に立てられた
旗という形で表現されたのであった。その後、「子どもが好むものを1つのプレートに
」という基本的なスタイルを、そのままに、メニュー内容やプレートの形は、時代に合
わせた変更が繰り返されているのだが、安藤氏はコックではなく、外交官を辞めての、
禁酒会の飲ん兵衛野郎で、無職の所を拾いあげられた人である。それはなぜか。理由は
冷蔵庫の納入にある。そこには、少しビールの物語がある。わが国ビール産業の経営史
研究を読むと、日本のビール発祥は、実は長崎商人になっていた、トーマス・ブレーク
・グラバーの斡旋で、日本にやって来たエドガー兄弟にあった。当時グラバーは既に、
麻薬商のジャーディン・マセソン商会の代理店業務から独立し、自己勘定の貿易取引を
開始していた。トーマス・グラバーは1859年にイギリスから上海へ行き、ジャーディン・
マセソン商会に入社し、その後に、長崎に移り、2年後ジャーディン・マセソン商会の
代理店として「グラバー商会」を設立していた。1861年、グラバーは、自己資金で独立
すると同時に、ジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会といった、
当時大手だったイギリスの商会の代理店も営み始めた。つまりオーナーは紛れもない、
アヘン流通王の黒い商人達であった。其の頃、中国の近代は、阿片戦争という理不尽な
外圧で幕を開き、阿片という『麻薬』によって、めちゃくちゃに引っかき回された国と
なり、一国まるごと “阿片漬け” にされた国として、中国がそんざいしていたのだ。
「サッスーン商会」の創業者デビッド・サッスーンは、イギリスのユダヤ系名門の出身
でバグダードのヘブライの豪商だった。1830年にバグダード総督のユダヤ人追放で、ペ
ルシアへ逃れ、戦争状態のペルシアでは、特産品の阿片の取引が、値がつかない状態で
売れ残っていた。そこで底値で買い入れ、生産中の阿片も予約購入し、阿片が収穫され
る頃、戦争が終わり値段は再び高騰して、サッスーンは巨額の利益を手にしていた。

198 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:44:10.01 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   163  麻薬の7味唐辛子

 その後1864年、創業者のデビッドが亡くなると、長男が沙遜洋行(サッスーン商会)
を引き継ぎ、次いで次男が独立して「新沙遜洋行(新サッスーン商会)」を開業した。
新旧の沙遜洋行は、互いに協力しながら、インドのケシ畑の「青田買い」をし、独占買
い付けをしたりしながら、イギリス政府の庇護で急激に拡大した。アジア全域に幅広い
ネットワークを築き、1870年代には、新旧の沙遜洋行はインドの阿片貿易の70%をコン
トロールする。「ジャーディン・マセソン商会」と「サッスーン商会」。 この2つの、
巨大商社を筆頭にして、その後も続々と貿易商社が進出してきた。「宝順洋行(デント
商会)」「仁記洋行(ギブ・リビングストン商会)」「旗昌洋行(ラッセル商会)」な
どのイギリスとアメリカの商社が、軒並み出来た。一方で、中小の地元商社や地元アジ
アの商社などが雨後の竹の子のように増え続けた。不確実な数字だが、外国の商社は、
1837年に39社だったものが、20年後には約300社に増え、1903年には、なんと600社強に
ものぼったという。そのすべてからこのアヘン畑を持つ3社は独占的利益を出し続けた
。しかし、この儲けたお金の一部は、英国王室に上納する事が必要だった。既に海軍業
務には、任せられない巨額になり、安全にイギリス本国へ送る為、銀行が設立された。
1865年3月、「サッスーン商会」「ジャーディン・マセソン商会」「デント商会」らは、
中国の賠償金支払いまで引き受ける国策銀行が指導された。15人の代表発起人を決め、
資本金500万ドルを投じて香港に「香港上海銀行」が設立されて、サッスーン・グループ
のアーサーら8人が理事会役員に就任、1ヶ月後には上海で営業を開始したのだ。サッ
スーン財閥を相続したビクター・サッスーンは「上海キング」と呼ばれ、極東で一、二
を競うユダヤ人となり、「香港上海銀行」の株の大部分を握ったアーサー・サッスーン
の義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫にレオポルド・ロスチャイルドは
、金融王と呼ばれた。サッス―ン商会は、本来、食材、香辛料の雑貨屋だったのだ。

199 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:44:34.22 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   164  麻薬の7味唐辛子

 実は、日本列島から近い東アジア・東南アジアは古代から日本人の行き来があった。
16世紀以降、朱印船貿易や南蛮貿易を通じて特に往来が活発になり、日本人が多く進出
・移住して海外に日本人町(日本町)を形成している。江戸幕府が鎖国政策により日本
人の海外渡航および帰国を禁止したことで、これらの日本人町は現地に吸収される形で
消滅した。19世紀の日本の開国によって日本人の渡航は再開し、日本の経済活動・軍事
活動が活発になるとともに、アジア地域の各地に旧日本人街は、日本人が集まって住む
ようになって再開されていった。第二次世界大戦で日本の敗北とともに伝統的な日本人
町のほとんどが消滅したが、高度経済成長を経てビジネスでの往来が活発になるととも
に日本人駐在員が各地に長期滞在・居住するようになった。また国際協力および留学・
学術研究での移住のほか、近年ではマレーシアのように国家プロジェクトとして、定年
退職後の日本人移住を奨励する処もある。中国上海などでは、日本領事館近くの古北(
グーベイ)新区に日本人駐在員が集住し、日本人向けの店が集中しており「日本村」等
と呼ばれている。また、近年は浦東新区にも日本人専用マンションや日本人向け店舗の
集積が進み、上海2校目となる日本人学校も開校している。 北京の亮馬橋(リャンマー
チャオ)や日本大使館付近の好運街(ハオユンジェ)なども 有名な日本人街である。
21世紀になってアメリカをしのぐ人数のビジネスマンが期間の長短はあるが在住する。
この地域から中東人はタイに向かって船を出していた13世紀頃からインドシナ(ベト
ナム)まで中国の貿易はあった。そこから先は印僑の船が行き来して、インドまで流通
していた。

200 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:50:49.02 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   165  麻薬の7味唐辛子

 インドの日本人街はカルカッタに一頃多かったらしい。室町時代から仏修行僧が幾ら
か通った海路らしいが、何とも不明である。キリスト教を連れて来たヤジロウがインド
にいたので、こうした港町に幾らか小規模ながら日本人がひっそり居たのだろう。この
カルカッタは、コルカタと呼ばれた。コルカタの歴史は、1690年に、イギリス東インド
会社のジョブ・チャーノックがこの地に商館を開設したことから、西洋史では始まる。
1698年に、フーグリー川東岸に並ぶスターナティー、カーリカタ、ゴーヴィンドプルの
三港街に、強制徴税権が購入され、まもなくウィリアム要塞の建設が始められている。
この地域が、のちのコルカタの素となった。町の周りにはマラーター濠と呼ばれる広い
堀がめぐらされた。1756年、ムガル帝国のベンガル太守のシラージュ・ウッダウラは、
イギリスがウィリアム要塞の強化を図ったことを知って攻める。この理由でコルカタを
占領し、捕虜の 100人以上のイギリス人を獄死させ、地位保全を図った。1757年になる
と、東インド会社の本拠地マドラス軍がコルカタに到着し、ロバート・クライヴ率いる
軍がコルカタを奪回したうえで、フランスの拠点だったシャンデルナゴル港も占領した
。その後、コルカタの 北150キロ程度に位置するプラッシーでもフランス支援下のシラ
ージュ・ウッダウラ軍を撃破(プラッシーの戦い)して、インドにおいて、イギリスの
優勢が決定する。戦後、イギリスはフランスをインドからほぼ完全に追い落とすことに
成功し、また新ベンガル太守であるミール・ジャアファルから、コルカタだけでなく、
ベンガル湾地方の24郡の徴税権を確保してインド拠点をさらに拡大していった。今では
印僑、華僑 埃僑と整理されるが、当時はペルシャ人も日本人も只の外国商人だった。

201 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:51:18.69 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   166  麻薬の7味唐辛子

 ベンガルの徴税権が東インド会社のものとなり、ベンガル地方はインド植民地化の、
イギリスの拠点港湾都市となった。1773年英首相フレデリック・ノースがインド規制法
を成立させ、新設されたベンガル総督が、東インド会社のすべての土地を運営する事を
政府が認め、コルカタはベンガルのみならず英領インド全体の政治中心となる。1756年
に落城した経験で、ウィリアム要塞はダルハウジー広場西から南の現在地へと拡張移転
され、1758年から15年の年月をかけて完成する。見通しをよくしオープンスペースが設
けられ現在のモイダン公園となった。東インド会社の支配権はインド全域へと拡大し、
コルカタは全インドの政治中枢機能を持つ首都機能都市になった。この時期のコルカタ
は、北の旧スターナティー村を領域とするインド人街(ブラック・タウン)と、南の旧
カーリカタ村および旧ゴーヴィンドプル村を領域とするイギリス人街(ホワイト・タウ
ン)とに大きく2分され棲み分けした生活がなされた。1820年代にはイギリスとインド
を結ぶ定期航路の開設をめぐりボンベイと争ったものの、喜望峰回りを推すカルカッタ
財界は時間的・経済的に大きく上回るスエズ地峡ルートを推したボンベイ財界に敗れた
。以後は、ヨーロッパとインドの窓口は、ボンベイが中心となり、カルカッタはブリテ
ィッシュ・インディア汽船会社一社が運航するインド沿岸航路などの拠点となる。1847
年には、名所の一つであるセント・ポール大聖堂が建設されている。1857年にはカルカ
ッタ大学が設立され、同年西のダモダル炭田とハウラー駅の間にカルカッタ初の鉄道が
開通。この年は西のデリー周辺でインド大反乱が勃発していた時期にあたるが、カルカ
ッタは平静を保っていた。大反乱の結果、イギリス東インド会社のインド統治権は取り
上げられ、1858年に東インド会社の統治区域はイギリス直轄植民地となった。

202 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:57:56.70 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   167  麻薬の7味唐辛子

 植民地のトップは副王(インド総督)であり、カルカッタには総督が居住し、インド
植民地の首都となり、1877年にイギリス領インド帝国が成立するとカルカッタは引き続
きその都となった。インドの行政中心となったカルカッタは、居住する大地主や、下級
官僚などの知識階級が成長し、彼らを担い手としてベンガル文化復興の流れが生まれた
。ベンガル・ルネッサンスと称される文化黄金期を迎える。この流れの中で、アジア初
のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールなど多数文化人をカルカッタ
は輩出した。この時期にはインドのイギリス支配の中心都市として、1905年から建設が
開始され1921年に完成したヴィクトリア記念堂など多くの建物が建設され、一部は現在
でも使用され貴重な観光資源や文化遺産となっている。また、ジュートや綿花の輸出が
盛んとなり、これらの集散地となったカルカッタは経済的にも繁栄した。また、綿花や
ジュートをもとにした繊維工業もこのころから盛んとなった。1910年代に入ると、ビハ
ール州やオリッサ州で鉄鉱山などの金属資源が発見され、これをもとに市の南部などに
おいて金属・機械工業も立地するようになった。しかし、こうした文化の興隆はやがて
民族運動と結びつき、反英運動が盛んとなる。この動きを牽制するために1905年に、ベ
ンガル分割令が発布されベンガルはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の地域に大まかに、
分割されるが、この法令は強い反発を巻き起こし、1906年にはインド国民会議コルカタ
大会で反英姿勢はさらに強まる。この動きを見たイギリス政府は分割令を撤回したもの
の、反英運動の強いカルカッタを嫌って、1911年に都はデリーへと移された。しかし、
その後もカルカッタは反英運動の一中心であり続け、日本に亡命したスバス・チャンド
ラ・ボースやラース・ビハーリー・ボースなど、ガーンディーとは異なる武装闘争を、
標榜する独立運動家を多数輩出した。

203 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:58:46.19 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   168 麻薬の7味唐辛子

 昭和の映像を紐解いていくと「MANCHUKUO The NEWBORN EMPIRE(新帝国・満州国)」
という満州国について取り上げる事になる。フィルムタイトルから満州国建国後のこと
で、1932年(昭和7年)以降に制作されたものがみれる。https://ima.goo.ne.jp/
column/article/4664.html の日本の広告映画にたどりついた。かつての満州のざっく
りとした地図が映し出され、ナレーション(英語)が始まり、日露戦争の講和条約での
、ポーツマス条約により、戦勝国である日本が、ロシアの持っていた都市の線路帯は、
大連や旅順のある遼東半島先端部の租借権と、旅順〜長春間の 南満洲支線の権利が、
譲渡され日本のものになり 当時の 満州問題に、無頓着な米国の視聴者に学んでもら
うのが、この映像の主旨のようである。ここに馬車の荷台に、円盤のようなものが載せ
られているのが映像に現れる。馬車から下ろした円盤を5枚1組にして転がして運んでい
く。写しだされた円盤は、間近に捉えた映像によって、これらが大豆から油を絞り取っ
た残りの「大豆粕」つまり 大豆かすの「おから」の乾燥品である事が解る。機械で丸
く押し固めて、油を取り出し、栄養素が残ったものただ。当時は主に肥料として使われ
ていた。とよく言われが、それは当初の話で、実は熱河地方で、ケシ栽培がなされて、
花はアヘンに、茎は麻縄や麻の織物になった。そして葉っぱをこの大豆カスに混ぜて、
せんべいにされた。この時開発されたのが一味の粉末であった。当時朝鮮半島での農業
開発が、やっと終わって、飛躍的な農産物生産拡大は終わり、安定的輸出が計られて、
いよいよ、この満州に工業化の波が来ていたのだ。つまり立て続けに貯水機能を持った
農業用のダムは、次々に完成し 発電所からその電気が満州に送られて来ることで豊か
さは、本国の日本以上のものだったのである。ここで問題は、商売の形態であった事だ
。つまりこの発展的街と今だ農作業に従事して、貧困にあえいだ百姓の屯田兵的開拓民
の 暮らしを支える事。が大事であった。

204 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 18:59:13.96 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   169 麻薬の7味唐辛子

 先述のように、「ジャーディン・マセソン商会」と「サッスーン商会」は麻薬王では
あったが、実は元々は、麻薬でなく香辛料流通からの商社であって、麻薬商売に替えた
のは、イギリスの海軍の戦争好きがそうさせていた。かれらが運んできた唐辛子は日本
で、瞬く間に栽培された。流通こそしないものの西洋唐辛子は、日本の和洋からしとの
混合となった。日本の輸出入に唐辛子は出ない。つまりケシの実やアヘンと間違われて
しまうので、商人が取引しなかったのだ。又、日本の食卓には、例えばからし菜とか、
大根とか、山椒とかネギとか、日本には他に薬味が沢山あったのだ。更に、この大きな
赤い唐辛子の種にハバネロやら、幾つかの南米種もあるが、総じて赤トウガラシと言わ
れる。対して日本には青唐辛子が存在していたようだ。青唐辛子と呼ばれるものの日本
の品種は結構ある。伏見甘とうがらしや万願寺とうがらし、そして一般的な獅子唐など
もすべて青唐辛子の一種である。ところがこれらも木になったまま完熟させると真っ赤
になり、所謂、赤唐辛子に成る。青唐辛子は色付く前に収穫したものとなっている。実
は、本来の和がらしは、セイヨウカラシナの種子を粉末にした「粉からし」を水または
ぬるま湯で練って作られるものの名称として、定着している。一般に伏見とうがらしは
て売られているものは辛くない品種が多いが、本来の和種は小さくて、ピーマンと同じ
辛さだったとされて、通常の、鷹の爪など赤唐辛子は加熱すると辛さが倍増するのだが
、対して青唐辛子は加熱すると辛さが和らぎ、ほんのりと甘みを感じるように成るので
元来の日本料理では青味に入れたと言われる。とは言っても、辛さがすっかり消える訳
でなく まとわりつく脂味や甘味を 後味すっきりさせる効果を持つ。だが今や和種は
ほぼ消失、辛い唐がらしも、青唐がらしも、外見はそっくりで販売され、韓国産系の、
品種にすり替わっている。

205 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 19:06:11.63 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   170 麻薬の7味唐辛子

 この和種のピーマン種の唐辛子と、今の赤唐辛子に変わったのが、満州時代の、この
大豆カスの「おから」原料にある。おから養分は、当然の様に豆腐と同じだが、味気が
ないのだ。そこで七味唐辛子が登場する。七味唐辛子の源流は江戸時代にさかのぼり、
いまでも別名を薬研堀(やげんぼり)とも呼ばれるようだ。浅草に「やげん堀中島商店
」があった。1625年(寛永2年)に、江戸の両国薬研堀に、「やげん堀中島」が創業し
、七味唐辛子(なないろ)が開発され、販売されるようになる。当時の薬研堀には医者
や薬屋が多く、中島徳右衛門(徳兵衛)が漢方薬にヒントを得て開発した。とされる。
ごまの香りによって江戸っ子の舌にも好評で、れっきとした漢方薬で食事と共に薬味が
取れるという薬だった。やげん堀の「七色」として有名になり、最上級の材料を客の目
の前で注文通りに調合し、更に評判となる。「辛くし」「山椒たっぷり」と、好みに応
じたのだ。山椒だけでも有名で、うなぎ屋で使われるように味に定評があった。やげん
堀中島は、戦後に浅草寺門前の新仲見世通りに移転し、「山に徳の字」の暖簾を掲げて
健在だ。江戸では1656年にも「大木唐からし店」が、海老屋喜十八によって創業され、
やげん堀に同じ七品を調合し、日本橋に店を構え「七色唐辛子」として販売した。この
「大木唐からし店」は2021年7月をもって店主高齢を理由に閉店した。京都では、この
評判の前に、東山区清水で「七味家」があった。東海道五十三次ができる前から、黄檗
宗門の門徒や渡来門僧が、平安時代から、伝えている。この場所は江戸とをつなぐ旅路
の途中、産寧坂(三年坂)の角で、当初の「河内屋」として薬や草鞋(わらじ)を売る
茶屋で創業した。とされる。明暦年間(1655〜1658年)の江戸期には、冬には唐辛子を
入れた「からし湯」をタダで配り1816年に七味屋と改め、明治の半ばにはその専門店と
なったようだ。どうも切支丹の禁教令での、政府の睨みを避けたい為と思われる。

206 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 19:06:37.74 ID:lxyfdEfmj
ひり
りとした辛味のある東京の七味ではなく、山椒と青のりがほんのり香る柔らかな味付け
のため、薄い味の京料理に合った七味であった。湿気のある夏には出荷しない。という
伝統で、香りへの品質管理のこだわりが、昭和の書籍に記されている。山椒は自社や、
契約農家から最高品質のものを使い、唐辛子は品種開発さえ行ったものを用いた。また
、京都伏見の唐辛子は「伏見甘」と呼ばれ、辛さが控えめの味である。

207 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 19:07:01.00 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   171 麻薬の7味唐辛子

 長野善光寺にも「八幡屋礒五郎」がある。1736年(元文元年)、鬼無里(きなり)村
の勘右衛門が境内で七味唐辛子を売るようになったことが始まりである。鬼無里村は、
昔は有数の麻(アサ)と和紙の産地で、江戸に商品を売りに行った帰りに、仕入れた日
用品を善光寺で売っており、そこに七味唐辛子が含まれていた。また鬼無里村では当時
は陳皮以外が、全て栽培されていた土地であった。勘右衛門は、商売では礒五郎と名乗
り、そこに「八幡」を屋号(社名)に貰った「八幡屋礒五郎」として財を成した。古く
は露店で一味一味に効能を述べて売り、つまり香具師という販売形態をとっていたのだ
。1952年に店舗の場所を、現行の位置へ揃えて移った。生姜が薬味として入っており、
善光寺の再建では 七味入りの汁が提供され、大工が体を温めたと言われる「生姜湯」
が人気を博した。麻の実について、麻種(おたね)と記され、新聞でも麻の種と紹介さ
れている。一部素材は自社で栽培し、2008年より信州産唐辛子の委託生産を開始してい
る。つまり、京都の七味、江戸の薬味、長野の八味、とバカ売れしたのだ。ところが、
九州では朝鮮産の唐辛子が大量に安く仕入れられたのか、唐辛子のみ一味で、多品種で
あったようだ。博多一味とか長崎一味、久留米、長洲一味と それぞれ唐辛子のみでも
特産の辛さの違いをブレンドして売っていたので、そこに、辛し高菜や辛し明太などが
、一般に売られた。青唐辛子調味料は、薬味的な味付けに使われ。「柚子胡椒」はこの
辛い青唐辛子の種を 取り除いたものに青柚子の皮をすり合わせたものだ。また、山椒
の実と共にすり合わせたものが「山椒とうがらし」と呼ばれる。そして味噌に酒やみり
んと共に青唐辛子を練り混ぜたものが「南蛮味噌」と呼ばれた。いずれも九州で発達し
簡単に作れて保存も利くので、うどんの好み味付けに使われていたようだ

208 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 19:09:43.21 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   172 麻薬の7味唐辛子

 満州時代に戻れば、この大豆カス円盤が詰め込まれている倉庫は「日本植物油協会」
のまとめた資料によると、満州の大豆生産のピークであった1926年(昭和2年)の映像
で、387万トンの大豆を生産し、これは世界最大の生産量であった。その内の 約半分を
搾油用に使い、大豆粕の約76%を日本に輸出していた。とされる。つまり4分の3は、
日本向け輸出だが4分1は満州消費であったのだ。貨物列車にも大豆粕の円盤が積み込
まれている映像が残る。大連の港で出荷された様だ。ややこしいですが、大連や旅順は
、本来満州ではない、日本が租借権を譲渡された関東州になる。ナレーションや報道で
区別せず、すべてを満州としているが、厳密には、取得する時期や、取得方法が違って
いて行政区分されていたのである。厳密には南満洲鉄道の鉄道付属地も関東州に含まれ
ていて、歴史的意味合いがあるがここでは割愛する。船から降りてきた人や出迎えの人
でごった返していて、多くは和服を着た日本人である。港エリアからは大連のタクシー
の馬車乗り場があった。まだ日本の軌道とロシアの軌道幅が統一出来ずに、鉄道延伸も
されてなかったのだ。大連の街案内が始まり、大連のシンボルの「大連大広場」が映る
。まるでヨーロッパの街並みのようです。広場からは10本の通りが伸びている。正面の
建物が、1909年竣工の「横浜正金銀行大連支店」。そして、「横浜正金銀行」の向かい
にあるのが「大連ヤマトホテル」(1914年竣工)。南満州鉄道(満鉄)が経営する満州
最高の格式あるホテルで、満州の各地に造られた。銅像は関東総督府の初代総督である
大島義昌陸軍大将。大広場周辺の建物をはじめ、この時代の建物の多くは、現在もほぼ
そのまま残るが、銅像は撤去されたように 日本の痕跡を中国は、これから無くす方針
をたてている。証券取引所では周りに、人力車がズラリと並んでいて、立派な門があり
、右側の門柱には「HOSHIGA URA」とアルファベット看板がある。満鉄の渾身開発の「
星ヶ浦」という人工海岸のある大公園の入り口である。ここにもヤマトホテルがあった
。こうしたところで満州せんべいとして 味付けの大豆カスのせんべいが売っていた

209 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/18(日) 19:12:04.96 ID:lxyfdEfmj
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   173 麻薬の7味唐辛子

 大正から昭和初期に流行した カンカン帽の男性達が観戦に集まっている、ナレーシ
ョンいわく「芸者ガールズ」の踊りで。舞踊祭りのようなものが催されている。先程の
人力車に乗っていた女性たちが、人力車を降りて建物へと次々と入っていく。映像は、
大連停車場(駅)そばに架かる「大連日本橋」に変わる。大連と同じ関東州にあるのが
「旅順」。同じく旅順で、日露戦争終結前のロシア時代の建物に「関東都督府」がある
。関東州を統治する立場で1919年に守備隊が「関東軍」として分離し、「関東庁」に、
名称変えしている。「テクニカルスクール」と紹介されるのは、「旅順工科大学」の様
だ。中国人街にある昔ながらの商店も映る。映像では数少ない旧市街の様子である。ナ
レーターが「チャンチュン、チャンチュン」と、その語呂を楽しんで口ずさんでいる。
南満州鉄道の北端駅である「長春(チャンチュン)」。満州国建国の1932年(昭和7年
)に「新京」と改称された満州国の首都で満州国の滅亡後再び「長春」になった。外国
メディアには旧称が使われて紹介した。周辺が大豆の大産地でここに集散されていて、
「豆の都」とも呼ばれていた。「人口は15万人以上、この極東の地は、ヨーロッパ各地
と鉄道でつながっている。」と説明する。人口 100万人の都市を目指し建設が進められ
、1937年(昭和12年)には、人口は25万人にまで増えていた。ナレーションでムクデン
と呼ばれた現在の瀋陽は。東北地方、最大の都市。1931年の満州事変で日本が占領して
終戦までは、奉天であった。ムクデンは満州語での読み方で、欧米諸国ではよく使われ
ていて奉天駅のホームが出る。奉天は満鉄の旅順−長春間のほぼ中間で、東へは後に、
北朝鮮境界の「鴨緑江鉄橋」で、渡って朝鮮半島(釜山まで)まで伸び、西南方面へは
北京とを結ぶ交通の要所でもあった。釜山から北京までを結ぶ国際列車もありそのまま
朝鮮半島上陸が、一番の安くて便利な鉄道旅行のようだ。

210 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/29(木) 00:03:52.21 ID:akF6lsnl0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   175 麻薬の7味唐辛子

 映像には、露天掘りで有名な撫順炭鉱も映る。こちらもポーツマス条約により日本の
手に渡り、1907年には満鉄の管理下に移った。露天掘りなので、穴を掘って潜る必要が
なく、その分、安全に採掘ができた。現在は、ほぼ掘りつくされている。その後、現在
も鉄鉱石の産地の鞍山の様子である。紀元前200年頃の 前漢の時代から採掘と製鉄が行
われた、歴史ある場所だ。次に、朝鮮は当時に日本領で、国境の街、安東(丹東)に移
る。林業が盛んな場所で、丸太を道産子北馬に引かせている。これを機械で裁断し製材
していく。「増え続ける人口に、家を次々と建てていかなくてはならない」と説明する
。満州国内の日本人人口は、1934年(昭和9年)には約24万人だったのが、たった4年
の後には1938年には約52万人と2倍以上に増加。安東と北朝鮮の新義州市とを結ぶ「鴨
緑江鉄橋」に朝鮮総督府が巨額を投じ、1911年(明治44年)に開通させ中央に、線路が
通り、その両脇が歩道になった橋が完成した。この橋は東洋一の開口橋桁で、上部の一
部が90度回転し、帆の高い船が通過できるようになっている。「12の橋桁が13の橋
脚に載り、北朝鮮側から数えて九番目の一連が一日四回、ぐるっと回転して一時間半ず
つ開き、船舶を航行させていた。しかし、橋の開閉は昭和九年(一九三四)四月に停止
された。つまり、満州国開国2年後には、開閉は行われなくなって、帆船乗り入れが、
禁止された。最新の技術を駆使して造られたであろう橋が、船が通過できる1日計6時間
を人や鉄道が通過できないというのは、さすがに不便だったのだ。結構な電気代も掛か
ったであろうし。第2次世界大戦でも破壊されずに残りますが、1950年(昭和25年)、
朝鮮戦争で、中国兵を朝鮮半島に侵入させないため、米軍の空爆によって北朝鮮側の橋
が破壊された。現在も残され、「鉄橋」ではなく「断橋」と名称を替えています。撮影
には、いろいろと制約があったのであろう、あまり踏み込んだ街の様子や、人々の生活
などは収められていないが、満州国の一端は、いろいろと発見できる映像だろう。

211 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/29(木) 00:04:19.00 ID:akF6lsnl0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   176

 一味唐辛子とは、唐辛子のみを乾燥させて、粉末状にした調味料のことである。この
調味料は唐辛子のみなので、ピリッと辛く刺激が強い味である。薬味唐辛子は、唐辛子
の主原料と共に、各種の副原料を加えることで、風味をつけるとともに辛味をほどよく
抑えている混合香辛料である。調合に用いる副原料は生産者によって異なるが、以下が
よく使用される。 (1) 山椒(さんしょう) (2) 麻の実(おのみ、あさのみ)(3) 黒胡
麻(くろごま) (4) 白胡麻(しろごま) (5) 陳皮( ちんぴ、ミカンの皮) (6) 紫蘇
(しそ) (7) 芥子(けし、ケシの実) (8) 青海苔(あおのり)(9) 生姜(しょうが)
などである。そして、七味唐辛子では、に粉末状の唐辛子以外にも、多くの薬味や香辛
料が入っている調味料となる。七味というくらいですから、7種類の原料をブレンドし
ていたのだろうが、実際は7種類〜15種類と数多くブレンドして調整して売り上げ競
争の中にいる。他の原料は、ケシの実や麻の実、青海苔、紫蘇、陳皮、生姜、胡麻、菜
種、山椒など、メーカーによって様々にあると言う。唐辛子以外の原料も使っているの
で、一味に比べて、味がマイルドなのが特徴で、塩代わりの塩味にも使われている。最
近では、そうした七味唐辛子にさらに一つ原料をプラスと言う意味の、八味唐辛子とい
う調味料も発売されている。実は一味唐辛子は唐辛子のみが原料で、辛みを効かせたい
時に、麻婆豆腐などの中華料理やピザやカレーなどに使われるが、一味とはいえ幾つか
の唐辛子を利用して味付けされる。つまり七味唐辛子の辛さを弱くする工夫は、これは
日本独自の調味法で、一般的には、カレーでも中華でも、辛さを増す為に足していくの
が、一般的なのである。しかし、七味唐辛子は日本人に合わせて薬味や香辛料をブレン
ドしたものが出来て。その為、日本料理に利用された。蕎麦・牛丼、天ぷら、肉じゃが
など、料理のアクセントにしつつ、マイルドな辛さを求める料理にぴったりとなったの
だ。一味唐辛子は世界でも使われる調味料、一味と七味、この七味が満州で大流行した

212 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/29(木) 00:06:02.25 ID:akF6lsnl0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   177

 ペルーには幾つもの、部族の違い、気候のちがい、風習が違う、などの文化エリアが
多種多様あるが、主に3つのエリアに分類される。地形や気候の違いから、ペルーは、
大きく3つのエリアに分ければ。太平洋沿ぞいの海岸地帯、アンデス山脈が、横たわる
山岳地帯、そしてアマゾンのジャングル地帯と、分けられても細長い。海岸地帯では、
豊富な魚介類がとれ、日本人と同じようにタコやイカ、エビなどをよく食べられている
。代表的な料理は、白身魚やタコ、エビ、貝などをレモンやライム、赤玉ねぎ、トウガ
ラシでマリネにした「セビーチェ」がある。セビーチェの中には専門店があったり、06
月28日の「セビーチェの日」になっていたり、多くの国民から愛されている料理の1つ
である。セビーチェやパチャマンカ/調理用のバナナ/ナマズなどは、空中都市遺跡の
豊富なマチュピチュがあるアンデスの、山岳地帯は、原産のじゃがいもやとうもろこし
の料理がたくさんあって、この地域で、地面をほった穴に焼いた石を入れて、肉やじゃ
がいも、野菜、ハーブ、キャッサバイモなどを入れて、言わば蒸むし焼きにする料理が
「パチャマンカ」料理と言う話である。つまり、料理種と言うより料理法が生まれまし
たこの土の水分と火は入れず石を入れる。と言うのは、直ぐに敵に襲われたり、獲物を
狩りに行っても、焼きすぎない。つまり料理が完全に完成して食べられる利点を持つ。
わざわざ、他で火で温めて石を入れて、蒸して作るのだから、もっと大きな理由があっ
たかもしれない。夕立の様な、雹や霰で、農作物が育たないとされた土地も多いので、
そこにも理由があるかも知れない。今ではペルー全土に同じやり方はできて拡がった。
アマゾンのジャングル地帯では、じゃがいもの代わりにバナナ(野菜の仲間。あまくな
い調理用のバナナ)やユカイモ(キャッサバイモの一種)をよく食べられる。ナマズや
ピラルクという魚もよく食べられていて、たん水魚のピラルクは大きいものだと3mも
ある。ペルーには明治時代にたくさんの日本人が移住いじゅうしたため、日系移民が、
独自どくじにアレンジした料理が「NIKKEIにっけい料理」として広まっている。

213 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/29(木) 00:06:26.32 ID:akF6lsnl0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   178

 実は、じゃがいも、トマト、かぼちゃ、ピーナッツ、トウガラシなどは、どれもペル
ーが原産地である。16世紀にスペインの植民地になったことで、スペイン人がこれらの
食材を持ち帰って、世界に広めた。ペルー原産の作物が世界中へ此の時伝わって行った
。この歴史がなかったら、トマトのないイタリア料理、トウガラシのない韓国料理、ウ
コンの無いインド料理になっていた。といわれています。じゃがいもが日本に伝わった
のは、江戸時代であったが。オランダ人がジャカルタ(今のインドネシアの首都)に、
戦国時代前の早くから港は、開いていた。江戸期に、ここを経由して長崎に持ちこまれ
たのであるのだが、当時のジャカルタは「ジャガタラ」と呼よばれていたので、ジャガ
タラ→ジャガタライモ→ジャガイモになった。その前に、薩摩に、砂糖きびや薩摩芋が
持ち込まれている。此の時唐土(もろこし)の向こうとして、琉球に遠い唐土(とうの
もろこし)として船員が持ち込んだ。ペルーのとうもろこしは、色も形もバラエティー
豊かである。山岳地帯の都市のクスコ産の、ジャイアントコーンは「ペルー産の、白い
とうもろこし」と呼よばれ、一粒の直径が約2pもあって巨大粒で有名な原産地である
。見た目が真っ黒に見える「むらさきとうもろこし」は、2500年も前から栽培されてい
て、栄養も豊富であって満点だが、一緒に作らなくとも、虫などで受粉して、まばらな
クロスシングの見た目が悪いトウモロコシに変化し、よく売れないので栽培しない様に
農協なり、農作業部会は決定してるところも多い。チリの国民的ジュースといわれてい
る「チチャ・モラーダ」は、この「むらさきとうもろこし」を使ったジュースであった
。ジュースの色は黒ですが、りんごやパイナップル、シナモンといっしょに煮込んだり
、レモンや砂糖さとうで、程よい味付けしているので、子どもたちも大好きであった。

214 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/06/29(木) 00:06:49.59 ID:akF6lsnl0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   179

 ここ数年、日本でも話題になっているスーパーフードの多くは、ペルー古来の植物や
作物であるようだ。ダイエットに効くとか、美容にいい、栄養バランスがいい、といっ
た風評もたち、一気にヒットしている。こうした理由で再発見され、日本以外の各国で
もブームになりました。昔は、原産地であるペルーの人々が食べていましたが、今では
多くが、外国へ輸出され、現地での価格も高騰したため、一般的には食べられなくなっ
て、原住民には、強い軋轢も産れているようだ。栄養価の高い穀物では、「キヌア」が
ある。「キヌア」は、ペルーやボリビアが原産地。ペルーのアンデス山脈で作られてい
る。およそ富士山ぐらいの高地で栽培され、色が黒いほどポリフェノールが多く、栄養
がある。といわれている。御米と一緒に炊いたり、サラダやスープに入れたり、御菓子
の材料になったりと色々なバラエティーのある使い方が出来るのも特徴である。他にも
栄養素の詰まった混載の「マカ」、スーパーグレイン(きょう異いの穀物)といわれる
「アマランサス」、キウイフルーツの40倍のビタミンCを含む果物「カムカム」などが
あるという。日本で滋養強壮の薬として宣伝されるマカ(Maca)であるが、南米ペルー
に植生するアブラナ科の多年生植物で、根は薬用ハーブとして使われる。別名マカマカ
属名 Lepidium はギリシャ語のLepidionから来ている。その実の形から、小さな鱗片と
いう意味である。ペルーでは広くマカと呼ばれている植物はSoukup(1970)によれば記録
されている物で100種類あり うち11種類がペルーに自生する。つまり、言わば高地の、
からし大根である。インカ帝国時代から重要な食物として栽培されていて、強烈な紫外
線と酸性土壌、昼夜の温度差の激しい過酷な自然環境に育った菜の花種と言える。土壌
の栄養素を満遍なく吸い取るため、一度マカを栽培した土地は数年間不毛になるといわ
れ、高麗人参やニンニクの様に言われる。種まきは10〜11月、収穫は1年後の6〜7月、
収穫後は3ヶ月以上は、強烈な太陽光線のもと天日乾燥され乾燥したマカの根は7年間
貯蔵に耐える。保存食として用いられ栽培地は、ボンボン高原など標高4000〜5000mの
高地が適している。とされる。南米発のスーパーフードのNo1である

215 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 00:49:57.59 ID:pfp+hxwva
 人間ってのは 本能がある。此の本能を 善とするか 悪とするかで性善説や性悪説
が産まれる。宗教は、いかようにも喧伝しいかようにも言い訳を言える。例えば食べる
行為だが、人間賛歌を推し進めて食べるを賛美すれば、カニバリズムさえ賛美される。
だろう。では逆に食べるを悪とすると、自然破壊の象徴だ食べるなと死さえもしても
貫くことが美談になろう。これらを「間抜けの論理」と称される。つまり食の本質が、
どこにあるのか。宗教の本質は、なにか。が、ここで抜けているのだ。つまり性悪説も
性善説もない。性善説で生きれる社会の建設が、人の使命で、欲あらば、善く生きれる
人を育てる環境が、人間社会の掟である。これが わかって居ない。その昔から 自然
と共に共存し 仲間を増やしてきて 人は地球上に君臨してきた。その過去からも 常
に生物は生きる為の闘いだった。襲いかかり食いに来る敵を倒して、倒す為に仲間を増
やす。突然の自然災害にも、悔やまず明日を残す。それを営々生き物はやって来たのだ
。これは何時の時代にも、どこででも行われた。アメーバーの分化から 哺乳類の生殖
、植物の毒素 虫たちの共生。こうしたものが、やがて培われて出来て、自然淘汰にも
立ち向かうのだ。自然界の掟と共存できない種は生き残れなかった。猛獣や猛禽類は
確かに強かっただろう、弱肉強食の世界では、強い事は体力では無く耐力だったのだ。
それでもしかし、人間の様に大食家なら生き残れない。恐竜は大きかった。しかし、彼
らさえも、あの巨体の維持に骨はスカスカであり、筋肉も空気だらけだった。だから鳥
に進化した。虫たちも同じだ、毒をもち細菌のいる場所で、捕食して生きるのは難しい
。そこで少量の食欲で生きる小さな個体として 専用の食生活で生きる事にした。恐ら
くは、小さな木の幹でも、数百の虫、数万の細菌が生きる。それが自然界だ。人間でも
同じである、少しづつ毒素を体内に取り込み咀嚼し順化適応して今に至ったのだ。その
歴史は 重く尊い。しかし残されているのは 細胞の記録であって、頭脳の知識ではな
い。そこが本能なのである。仕方ない 無我の境地の動きなのだ。

216 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:18:59.45 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   181

 チョコレートの原料となるカカオ豆は、もともとメキシコ南部から南アメリカが原産
である。カカオは赤道をはさんで北緯20度と南緯20度の間の高温多湿な土地が栽培に適
していると云われていて、ペルーは世界第8位の生産地である。ペルーの人達は、チョ
コレートが大好きである。カカオの名産地クスコや首都リマなどの、国内のあちこちに
、チョコレートの歴史を紹介したり、色々なチョコレートを販売する博物館があるのだ
。毎年クリスマスになると、ホットチョコレートを飲むのが習慣になっている。このチ
ョコレートの原料が、カカオの実である。カカオ豆の歴史や、チョコレートの秘密につ
いて少し語れば「チョコレート」という言葉は英語だそうだ。この語源は「ショコラト
ル」というナワトル語。このナワトル語は、15世紀頃に現在のメキシコ周辺に存在して
いた「アステカ帝国」の公用語である。かつては王の飲み物として、カカオ豆を砕いて
ショコラトルの意味である「苦い水」を飲んでいた。とされる。今でこそチョコレート
=甘いものというイメージだが、かつては「苦い飲み物」だった。なぜ飲み物か、実は
カカオ豆の原産国である中央・南アメリカは気温が高く、チョコレートが固まりにくく
、当時は砂糖がなかったからだ。基本的にカカオは、北緯20度〜南緯20度の「カカ
オベルト」でしか育たなかった。近頃は、土壌改良や温度管理で栽培することは可能と
され、小笠原諸島の母島でカカオ栽培に成功している。かつて、カカオ豆をローストし
、すり潰したカカオマスに、唐辛子などのスパイスを入れて飲んでいたが、スペインが
アステカ帝国を支配してから、カカオ豆がヨーロッパに持ち込まれ進化する。ヨーロッ
パには、豊富に砂糖が集まり、気温が低いため、現在のような甘い、ブレンドカカオの
チョコレートが生まれた。
                               ‥‥by Tomy Land

217 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:19:27.39 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   182

 チョコレートはスペイン語で「チョコラテ」、フランス語で「ショコラ」と言われる
カカオは高価なもので、この苦い飲み物は「テオプロマカカオ(かみの食べ物)とされ
、どうも薬用の食品だったみたいだ。実はカカオの実の「発酵食品」かチョコとされた
。高音多湿の熱帯雨林で育つカカオの木の幹には「カカオポッド」と呼ばれるラグビー
ボール型の実がなる。このカカオポッドの中にあるのが、カカオ豆である。「カカオ豆
は茶色」というイメージだが、加工する前は白い。この白いカカオ豆を発酵させたり、
ローストすることで茶色くなっていく。チョコレートの、製造プロセスは大きく分けて
7つもの大きな工程がある。@はカカオポッドの収穫である。カカオの木の幹になって
いる「カカオポッド」と言われるレモン〜ボンカン大の実を収穫していく。「神(theos
)の食べ物(broma)」を意味されるカカオだが、昔は すりつぶし果汁として飲んだよう
だ皮を剥き中の白いカカオ豆を、カカオポッドから取り出したら、Aの発酵にうつる。
チョコレートは発酵食品なのである。木でできた箱の中にバナナの葉を敷いて、その中
に豆を入れて、4〜7日ほど置くのだ。発酵させることで、チョコレートの香りの元と
なる物質が作られるため、非常に重要な工程は産地や地域、農家によって異なっている
。その後Bの、発酵させたカカオ豆を乾燥させる行程に進む。実はこの発酵こそが色を
コーヒー豆模様にする。発酵したら茶色にそして黒ずむ。この色で、水分が約8%以下
になるまでカカオ豆を乾燥させます。昔は発酵させた後に、すぐ色々な国に輸送した。
だがそうすると腐ってしまうのだった。こうして乾燥させるまでが原産国で行われる。
                               ‥‥by Tomy Land

218 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:20:03.26 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   183

 カカオ豆はおよそだが、紀元前三〜二千年くらい前から、食されていたと言われてい
る。カカオ豆をカカオトルと言うそうで、それを高温多湿の現地ですりつぶすと液体に
なる。これが飲み物で、ショコラトルと現地ナワトル語で呼ばれた。かなり苦いもので
気付け薬として愛飲された。1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発券して以来は欧州
は食生活に於いて、大変な変化を起こした。サトウキビのプランテーション栽培である
。今では大規模農園と訳されるが、本来プランあるいはプランタン、つまり春の事で、
計画や種まきを意味する。つまり囲いの事だ。自分の持ち物として柵をする、知らしめ
ると言う事で計画経営を意味する。つまり黒人奴隷労働者の輸入である。年4回収穫が
出来るサトウキビの出現で、それを砕き生成し干して砂糖が大量に輸入に出来るように
なった。15世紀に発見された新大陸は16世紀には、欧州に多大な富をもたらした。
その富は脳内活性化であった。これまで少量の甜菜と言うダイコン種の砂糖分しか取り
得なかった人々に、大きく糖分補給をした。こうして原産国から色々な物が欧州に輸送
されると、焙炒(ロースト)の技法が産まれた。C焙炒(ロースト)の技法は、さまざ
まな化学反応が起き、ここでチョコレートはいい香りが生まれたり、こげ茶色に変化し
た。こうしてコーヒー豆同様にDローストしたカカオ豆をすり潰し、カカオマスにする
行程が試された。ローストされたカカオ豆はすり潰されて、カカオマス(cacao mass)の
ペーストになります。カカオマスはチョコレートの原料として使われます。さらに欧州
の機械文明は、Eカカオマスを圧搾し、ココアバターを抽出する製法を生み出した。
                               ‥‥by Tomy Land

219 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:21:06.01 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   184

 カカオマスを圧搾(圧力をかけて絞り出す)し、「ココアバター」の薄黄色の油分が
出てくる。このココアバターはチョコレートの口どけや食感を決める大切な成分となっ
た。ココアパウダーはオランダ人が発明した。とされる。カカオマスを圧搾し、ココア
バターを抽出したあとに出る粉が「ココアパウダー」で、これに砂糖などを混ぜてお湯
に溶かして飲むのが、ココアである。このココアの為に西洋人は大量にカカオを栽培さ
せた。これは将軍にも献上されたし、ビールを飲み干す男性に対してココアを飲む女性
が好まれた歴史がある。対して油分であったココアバターは薬品や軟膏、化粧品などの
医療品に使用されていた。当時の不衛生な環境では香りは、重要なアメニティアイテム
であったのだ。しかし西洋でオランダ人覇権からイギリスに代わり、イギリス人は貪欲
に、綿花から始まり、コーヒー豆、砂糖、カカオ、タバコ、お茶、アヘン、と次々に、
植民地経営の独占化を果たしていった。ここで、F砂糖や粉乳を混ぜて常温で固めると
言う、固形化の発明がなされ、砂糖やココアバター、カカオマスや粉乳などを混ぜて、
さらに粉砕し、固めるという近代チョコレートが出来上がった。ちなみに、カカオマス
を加えないと茶色にならずに、「ホワイトチョコレート」ができる。つまりはカカオポ
ッドが収穫され、実がとりだされ、白いカカオ豆を発酵させる手順を踏み。発酵させた
カカオ豆は乾燥させて送られ、その後、コーヒーの様に焙炒(ロースト)されて、その
後ローストしたカカオ豆をすり潰し、カカオマスにしカカオマスを圧搾し、ココアバタ
ーを抽出され、砂糖や粉乳を混ぜて固める。という一連の行程には4千年の歴史で出来
上がった行程だったのだ。チョコレートの美味しさの秘密を科学的視点でみると、「チ
ョコレートの美味しさの秘密」と言えば、香りや味もさることながら、噛んだ時の「パ
キッと感」と、その後の「トロリ感」という食感が肝である。と言われる。これは「も
なか」や「せんべい」の口当たりに感じるが、実は大きな違いがあって、後者は水によ
る溶出だが、前者チョコは、アイスクリームと同じ温度による溶出・溶解なのである。
                               ‥‥by Tomy Land

220 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/01(土) 11:21:31.23 ID:2YbuVyJCJ
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   185

 ここで少しくどいが、日本語
の「溶ける」「解ける」「熔ける」「融ける」の意味と違いを説明する。普通にとける
と言った場合、「解ける」を指す。つまり「疑問が解ける」「帯が解ける」といった、
物の開放である。これは物の形は変わらない。対して、形の変わる物を「融ける」とい
う。「雪が融ける」「アスファルトが融ける」と言った物だ。これらが限定して、高温
で液状化になるものが、「熔ける」という表現が使われる。「金属が熔ける」「蝋が熔
ける」と言った物だ。ところが、熱を伴わないものを「溶ける」と称される。さらに、
化学反応で溶けるものを「鎔ける」と称される。で、ココアバターであるが、牛乳から
作られるバターとは、分子構造や溶ける温度が異なり、それがあの絶妙な食感を生み出
している。チョコレートの食感を生み出すココアバターを構成するのは、個体状態では
、分子は「結晶」になっている。結晶は、原子が規則正しく並んでいる構造体をさす。
しかし、温度が上がると、規則正しく並んでいる結晶構造が崩れて、液体へと変化する
。乳牛乳から作れられるバターでは、冷蔵庫内の温度10℃でも、実は結晶の割合は40
%ほどしかない。残りの60%は液体状態で、40%ほどの結晶部分が何とか全体を支
えているので、固体状態を維持している。そのため、バターには「パキッと感」はない
、指で触れるとすぐに溶けて、折れないのだ。一方、ココアバターは10〜25℃で、
80%以上の結晶が存在する。指で溶けるが、バターよりもかなり固い崩れにくい。又
温度が30℃くらいで、ココアバターの結晶は急激に崩れ、35℃を超えるとほぼゼロに
なる。30℃は、人の体温より少し低いくらいだ。つまり、チョコレートを噛む瞬間は
結晶が80%以上で「パキッと感」があり、口の中でチョコレートが温められると急激
に溶け始めるので「トロリ感」が生まれるのである。この意味では、日本語の表語用解
は、全てに熱があって瓦解するが、それで「鎔ける」や「熔ける」が使われなくなった
                               ‥‥by Tomy Land

221 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/03(月) 19:10:29.90 ID:79OkcBAh0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   185

 ペルー北部の街、カハマルカは、標高2750mの山々に囲かこまれたぼん地で、インカ
帝国が栄えた街であったそうな。ここは、温泉の街として知られており、郊外の広大な
土地には、酪農風景が広がって、気楽に厳しい生活している人の生活がある。産業とい
えば、殆どなく、近くの街に降ろす、乳製品の製造が盛んである。チーズやバターなど
、欧州とは違う菌で、ヨーグルトがおいしいと大評判らしい。特にヨーグルトの種類は
、かなりに豊富にある。各戸が離れているので各家庭での温度差や空気に差があるのだ
ろう。ペルーの人達は、茹でたとうもろこしをチーズといっしょに食べたり、さまざま
な料理にチーズやヨーグルトを使う。逆にいえば、ヨーグルトは欠かせない食材なのだ
。他の国でも近くだと、習慣や食生活は似ている。主食は、海岸地帯は米、山岳地帯や
ジャングル地帯は芋である。ペルーでは主食もエリアによって違い、首都リマの近郊の
海岸地帯は、お米が主食で安心できる。まあぱさぱさで脂っこいが。刻んだにんにくや
玉ねぎを入れて、煮込みや焚くことが多く、日本のごはんよりパラパラしている。山岳
地帯の主食は、いもですが、食用のじゃがいもだけでも、この地帯では、3000種類以上
もある。というから驚きである。またジャングル地帯ではユカイモ(キャッサバイモの
一種)が主食で、味付けは微妙である。ペルーでは、大きなお皿に主食やおかずを盛り
つける「ひと皿料理」が一般的。お米を食べる地域では、ほぼ毎食が、お皿にごはんと
じゃがいもが盛もり付けられられ、毎日同じものと同じ酒で過ごす事が多い。日本は、
そういう意味では「今夜は何にする。」と訊く女性は贅沢極まりない発言であろう。ま
あ、寿司みそ醤油に ご飯に揚げ物、汁物、炒めもの、麺にふりかけ、海苔、沢庵、と
バラエティ豊富だから 日本人の食生活は 世界一の豊富さだから仕方ないのだが。

222 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/03(月) 19:10:56.64 ID:79OkcBAh0
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   186

 ペルー北部の街、カハマルカは、標高2750mの山々に囲かこまれたぼん地で、インカ
帝国が栄えた街であったそうな。ここは、温泉の街として知られており、郊外の広大な
土地には、酪農風景が広がって、気楽に厳しい生活している人の生活がある。産業とい
えば、殆どなく、近くの街に降ろす、乳製品の製造が盛んである。チーズやバターなど
、欧州とは違う菌で、ヨーグルトがおいしいと大評判らしい。特にヨーグルトの種類は
、かなりに豊富にある。各戸が離れているので各家庭での温度差や空気に差があるのだ
ろう。ペルーの人達は、茹でたとうもろこしをチーズといっしょに食べたり、さまざま
な料理にチーズやヨーグルトを使う。逆にいえば、ヨーグルトは欠かせない食材なのだ
。他の国でも近くだと、習慣や食生活は似ている。主食は、海岸地帯は米、山岳地帯や
ジャングル地帯は芋である。ペルーでは主食もエリアによって違い、首都リマの近郊の
海岸地帯は、お米が主食で安心できる。まあぱさぱさで脂っこいが。刻んだにんにくや
玉ねぎを入れて、煮込みや焚くことが多く、日本のごはんよりパラパラしている。山岳
地帯の主食は、いもですが、食用のじゃがいもだけでも、この地帯では、3000種類以上
もある。というから驚きである。またジャングル地帯ではユカイモ(キャッサバイモの
一種)が主食で、味付けは微妙である。ペルーでは、大きなお皿に主食やおかずを盛り
つける「ひと皿料理」が一般的。お米を食べる地域では、ほぼ毎食が、お皿にごはんと
じゃがいもが盛もり付けられられ、毎日同じものと同じ酒で過ごす事が多い。日本は、
そういう意味では「今夜は何にする。」と訊く女性は贅沢極まりない発言であろう。ま
あ、寿司みそ醤油に ご飯に揚げ物、汁物、炒めもの、麺にふりかけ、海苔、沢庵、と
バラエティ豊富だから 日本人の食生活は 世界一の豊富さだから仕方ないのだが。

223 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/06(木) 10:20:42.39 ID:dyJ3IGKKu
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   187

 ペルー人の朝食は小食で、ペルー風サンドイッチも、学校へ持って行って食べる、働
くお父さんやお母さんも、朝は、ばたばたといそがしいもの。だから毎日の朝食は、本
当にジュースやミルク、コーヒーにパンや卵たまご料理、果物くだものなどが一般的で
、日本で言う、みそ汁とご飯程度である。ま、肥えていないのが、ペルー人の特徴だが
、そこに朝食にあるのかも知れない。日本人も昔は二食生活で、9時ごろ起きて10時
の食事で3時には店が終わる4時に食事すれば、5時には遊女屋に泊まり込んで、夜食
と夜会で明け暮れる。と言うのが一般的で、夜這い風習の拡大版の潜り込み生活だった
。江戸期の日本は日照性時間単位なので、冬も夏も太陽位置が時間だったのだ。従って
冬の夜は長かったのだ。ペルーでは時間のある週末の朝なら、ペルー風サンドイッチの
「パン・コン・チチャロン」を食べる家もあります。ゆでてから、油で揚げた豚肉と、
薩摩芋のような甘い芋と玉ねぎなどを挟み込んだサンドイッチです。ジューシーで外は
カラッとした豚肉と野菜のハーモニーが絶妙に美味いのです。また、アボカドを潰して
パンにはさむ「パン・コン・パルタ」やペルー風ちまきの「タマル」も定番の味。調理
済みのものや冷凍物は外で買えますが、タマルなどは、年末年始に遊びに来る親せきや
友達に振舞われるため、家族全員で沢山作る事もあります。練ったとうもろこしの粉に
ぶた肉やとり肉、オリーブの実、赤ピーマン、人参、ジャガ芋などの具を入れ、バナナ
の葉でくるんで蒸むして作ります。ペルーの通常の食事はお母さんが子供たちによく作
るのは、「アヒ・デ・ガジーナ」のスープである。とり肉と黄色いトウガラシを使った
唐辛子のシチューのような料理で、ご飯と調理したじゃが芋と一緒に一皿に盛もって、
いただきます。見た目が黄色く、黄色いトウガラシのアヒ・アマリージョを使っている
。まあカレー味と違って香りはフルーティーで、そんなに辛くはない。

224 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/14(金) 20:15:18.68 ID:1w1yvp/+c
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   188

 同じくアヒ・アマリージョを使う家庭料理に「ロモ・サルタード」もあります。牛肉
とじゃがいも、玉ねぎなどの炒め物で、子供たちが大好きなおかずです。その他にも、
普段の食事は焼いたり煮込んだりした鳥肉や牛肉、パスタ料理、マッシュポテトなどが
一般的です。ペルーでの、ポピュラーなおやつといえば「ピカロン」であろう。材料は
カモテ(ペルー原産のオレンジ色の薩摩芋)、サパージョ(カボチャの一種)、小麦粉
、卵などを混まぜ合わせて揚げたものだ。仕上げにチャンカカという甘い蜜をかけて、
いただくと、これが美味い、甘いポテチとで言うべきで、気候のせいか水によく合う。
さつまいものドーナツである。ペルーの首都リマには、「セニョール・デ・ロス・ミラ
グロス(奇跡の主)」と呼よばれるキリストの壁画がある。この壁画は大地震が起こり
付近の家屋が崩れても、此処だけは崩れなかったそうで、熱心な信者の、病気の治癒や
治療に効果があったと言う言い伝えがあり、10月に その壁画を祝う、御祭りがある。
この日には、「トゥロン・デ・ドニャ・ぺパ」を食べる。トゥロンはもともとスペイン
のヌガーのような御菓子の名で、ペルーのトゥロンは全く違いう。ビスケット生地を、
何枚も重ねて、ここでも蜂蜜を沁み込ませ、砂糖菓子などでカラフルに 飾っている。
見た目の通りとっても甘い御菓子で、よくまあ歯が持つものだ。と感心するが、ここで
は、標高差で空気が薄く虫歯も繁殖しないらしい。そのほか、お祝いの日や人が集まる
時、ペルーでは「パリジャーダ」や「パチャマンカ」を食べる。パリジャーダは、さま
ざまな種類の肉をあみ焼きにするペルー風バーベキュー。パチャマンカは地面を掘った
穴に焼いた石を入れ、肉や野菜などの蒸むし焼き料理。ワイルドなアンデスの伝統料理
です。どちらもペルーの人々にとっては、御馳走であり、大勢食べると盛上がる。

225 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/21(金) 02:03:24.53 ID:f+Rsqo8iX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   189

 今ペルーでは公立の学校の学力を上げたり、学校の仕組みをより良くしようと、政府
や地域のコミュニティが努力している。給食もその1つである。特定の学校には給食を
出して、子どもたちが学校に行きやすくしている。この方法はアフリカでの教育援助や
東南アジアでも、よく使われる、貧困集落の教育対策である。だがペルーで違うのは、
学校は朝8時から、午後1時までなので、給食が出るのはなんと朝なのだ!朝食が出る
んです。おなかが一杯になる麦(オート)のクラッカーや飲み物など、栄養のバランス
を考えたメニューが出されています。一部ではありますが、昼食も出る学校もあります
。西洋に多くの野菜を伝えたのは、16世紀の大航海時代になって、スペイン人によって
統治が始まった事で欧州世界に食事のバラエティを産み貧困から救った。がインカ帝国
は滅亡しました。しかし当時に破壊され、西洋風に整備された街や美しい建物は残され
、そこにカトリックの教会が建てられ残る。19世紀に入って、ヨーロッパの政治体制の
変化や、南米大陸の解放運動などの影響で、その後に独立運動が起こり、ペルーも1821
年に独立を果たした。その後、日本が明治時代に、貧困や仕事不足などの理由で日本か
らの移民船の就航が相次いでが集団での日系移民としてペルーに渡ってきたのである。
現在では、ペルー渡って来て、ペルーに在住の日系人は3世、4世になっていきている
。今でも推定10万人の日系人がいるといわれていて、その規模は、世界で3番目という
。1990年にはペルーで初めて日系人のアルベルト・フジモリ氏が大統領になったことも
あり有名になった。現在ペルーでは、世界中から多くの旅行者が訪れて、観光化立国で
来ていた。最近は希少鉱物資源の鉱山が活況で、特にリチュウムの塩田が稼ぎになって
いる。さまざまな文化と、歴史が交わった文化遺産やアンデスのゆう大な自然が人々を
ひきつけてやまない。と言った処だ。

226 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:08:35.67 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   190  維新の頃の風景

 インドにスイス系のパリ国立銀行(BNP)が1848年に創設された。「1848年革命」は、
パリで革命が勃発し国王ルイ・フィリップが追放されたのだ。02月26日に、フランスは
第二共和政が宣言した。これを受けて国立パリ割引銀行から民間銀行に格下げされた。
丁度この年の01月24日に、米国カリフォルニアの鉱山の川で、ジェームズ・マーシャル
が砂金を発見したニュースが欧州でも見聞できた。ゴールド・ラッシュの始まりである
。この事は、欧州各国の革命動乱ラッシュと共に、新大陸移民の心を多くくすぐった。
鉱山掘りの民衆と、新規の儲け話に浮足立つ資本家の組織だった移住さえ起こっている
。100年以上を経て 1966年に国立商工業銀行と合併したBNPは、ソシエテジェネラル
系の、バンク・オブ・ザ・ウエスト(1874年設立)、イタリアのBNL(1913年設立)ベル
ギーのフォルティス(1822年設立)など、投資銀行がいたのである。ソシエテジェネラ
ル系は、1863年、同シンジケートのネットワークの大部分がジェネラル・クレジットを
資本金2億5千万フランで、ロンドンを拠点にしていた。トーマス・ブラッシーがリー
ダーシップをとって、ジェネラル・クレジットを創設、エジプト・近東で活躍し、運河
建設や鉄道投資をして稼いた。そんな中で、グラバーは日本にやって来て、貿易業を営
みながら、薩摩・長州・土佐の討幕派を支援し、武器や弾薬を販売したのだ。幕末維新
期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への銃売り渡しに関わっていたが、その中で
グラバー商会の販売量は突出していた。彼はのちに「三菱財閥」(岩崎家)の後ろ盾と
なり、キリンビールや長崎造船所を作ったのである。日本初の蒸気機関車の試走、高島
炭鉱の開発など行ったが、全てマセソン商会の本社が横浜に支店を出し、兵器商売を横
取りしたからであった。しかし、其の事で、兵器商売から離れ、日本の近代化に貢献し
て利益を得て生活した。日本にとってこの役割は大きく、後に1908年、グラバーは勲二
等旭日重光章を明治天皇から授けられほどの功績である。この3年後(1911年)に亡く
なったのだが、墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。

227 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:25:29.35 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191  維新の頃の風景

 当然このバリバの持つ、ソシエテジェネラル銀行に対抗したのが、上海・香港銀行で
ある。ロンドンに拠点を置いたとはいえ、バリバは、フランス・ベルギー系銀行である
。上海屈指の豪商となったサッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダードに出現し
たスペイン系ユダヤ人であった。とされる。当時の大英帝国の東方進出に協力し、まず
インドのボンベイに拠点をかまえ、やがて東インド会社が支那に阿片の密輸を開始する
と、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。19世紀半ばに、阿片戦争に破れた清朝が
上海に租界の設置を認めると、途端に時を移さず上海に進出し大商人になった。阿片を
含む物資の売買を中国販売をしたからだ。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融・
不動産・交通・食品・重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。
その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』 『ファーイー
スタン・インベストメント・カンパニー』 『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海
プロパティーズ』 『イースタン・エステート・ランド』 『キャセイ・ランド』、重機械
製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』 『中国公共汽車公司』 『中国鋼車製造
公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれていた。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、
カドーリなどと共に『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。1930年頃、
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達
男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。と言ってよかった。ここでグラバーは
武器をうる死の商人と言われる噂を払拭するかの様に、サッス―ン商会と対抗したのだ
った。つまり『上海碑酒公司』というビール会社に対抗して、バターフィルド・スワイ
ヤに近づき、三井・三菱を、渋沢栄一と引き合わている。この、仏国系バリバと英国系
のHSBC(香港上海銀行株式会社)は、熾烈なシェア争いがあった。更に、幻の合衆
国第一銀行と朝鮮銀行が存在している。これは、アメリカの名を冠したものの、ロシア
系、中東系とも言える物だった。これらは、日本の各藩が連れて来た銀行だった。

228 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/07/29(土) 20:25:55.51 ID:EATstpa4k
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   192  維新の頃の風景

 香港を舞台にした映画は、いろいろと沢山あるが、『将軍』の原作者、ジェームズ・
クラベルによる『ノーベル・ハウス(Noble House)』は あまり知られていないのでは
ないであろう。『将軍』と同じテレビドラマシリーズだったそうで、このDVDも2枚組。
主演は若き日のピアース・ブロスナン。ジェームズ・クラベルものが割と好きな部類で
DVDは、随分前に売っていたものですが、これがもう、すごいんです。すごい事件が
次々に起きる(ネタバレしてもいいくらい歴史に忠実に書かれた)と言われている物。
最近の映画では『バトルシップ』で確か中国銀行が派手に倒されていたような気がしま
すが、このドラマでの犠牲者は日本のキリンビールのスワイヤー家の御曹司で、ビール
中国では清朝時代以降の近代化のプロセスで、サッス―ン商会を初めとする 香港のイ
ギリス植民地支配に、英国資本と関係が深かった。スワイヤー・グループの中核企業は
香港の「スワイヤー・パシフィック社(Swire Pacific Limited)」で、現在でも 香港
証券取引所に上場している。ピアース・ブロスナンは、1816年にジョン・スワイヤーが
(John Swire(1793年〜1847年)がイギリス・リバプールでスワイヤ商会(John Swire
 & Sons Limited)を創業して後、香港へ進出した頃の話の主人公として模写している。
「・・・・・よくこんなあらすじが許されたなーと思うような・・・・・。」という意見は大間違
い。現実のサッスーン商会やロスチャイルド家と敵対し、悪行をされた記録から出来て
いる。若きイケメンのタイパン、ピアース・ブロスナンのオフィスは、セントラルのジ
ャーディン・ハウスにあります。そう、あの丸い窓のビルです。1972年築の「超高層ビ
ル」という立ち位置にあった。作家のクラベルは、第二次世界大戦で王立砲兵隊に入隊
、1940年にマレー半島に従軍し、日本軍の戦争捕虜となっている『アジアン・サーガ』
シリーズを出し、ドラマ化作品や映画『大脱走』や『いつも心に太陽を』の脚本などで
知られている。まあ、麻薬批判のスワイヤー家は、災難続きの日本進出だったのだ。

229 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:15:12.12 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   190

 この大航海時代に、ペルーを荒らしまくったスペインは、数々の西洋文化をもたらし
、言語さえもスペイン語を公用語にして歴史を織りなした。スポーツの移入も同じであ
る。元々インカ文明に蹴鞠の文化はあって、領土や王の死や処刑を賭けての試合がそこ
にあったと言われる。その為か、ペルー共和国のスポーツではサッカーやバレーボール
が大好きで、ペルーで人気のスポーツといえば、サッカーである。ワールドカップ2018
ロシア大会には、9大会ぶりに5度目の出場となり、国民が熱く応援して熱狂でスタジ
アムが潰れ、死人すら出ている。男の子の多くはサッカーが大好きで、女の子に人気が
あるのがバレーボール。1965年から日本人の監督が厳しく指導したバレーのナショナル
チームがとても、強いチームになって知られた。ペルーと日本は本当に深い関係がある
。今でもペルーに暮している多くの日系移民たちは、野球も大好きだそうです。ペルー
には、国の中央にアンデス山脈があり、そこにいくつもの文明が発展していきミステリ
アスな「ナスカの地上絵」で知られるナスカ文化も、この地に栄えた。12世紀前半頃に
なって、いくつもの文明の集大成ともいえるインカ帝国が築かれて、多くの遺跡発掘が
なされた。広大なアンデス地域を統合したインカ帝国の都クスコは、南アメリカ最大の
都市として発展をとげた。また、標高2280mの 空中都市遺跡、マチュピチュは、インカ
帝国の遺跡で、誰が何の為にこんな標高の高い山中に都市を築いたのかは、今でも謎に
包まれている。06月24日の冬至の日には、世界遺産の街クスコではインカ帝国の祭りが
ある南米三大祭りの1つ、インティ・ライミと言う物だ。インティはケチュア語では、
「太陽」、ライミは「お祭り」の意味で、作物の豊作を太陽神に願うお祭りである。見
どころは、色とりどりの衣装を身につけた人々の踊りと音楽、そして7色のインカの旗
が街中にはためく。もう一つがスペインから独立した記念日である。07月28日はペルー
の独立記念日は、28・29日が国民の祝日で、7月27〜30日はすべての建物で ペルー国旗
がはためく。大統領スピーチ、パレードやライブなどで国中が各地で式典があり盛もり
上がる。

230 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:15:33.44 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191

 古代ローマの最高執政官「コンスル」は、今でいう大統領である。しかし、当時の、
最高執政官は、独裁権を持っていた。共和政成立時に2人代表官として設置されていた
。互いに同等の権利をもって、執務を交代し,その期間は1年で権力の集中がなされた
。寡頭政の復活を妨げ、国政の最高官として「政治・軍事・裁判」の最高権力を有した
上に、元老院を主宰し、兵員会の招集や法案提出を行なう事が出来た。また外国に対し
て、国家代表であり、条約・協定の執行者だった,必ず付人を随伴させた。兵員会から
選出され,前4世紀までは貴族(パトリキ)が就任していたが、この頃は、前 367年の
リキニウス法により1人は貴族、1人は平民(プレプス)から選ぶこととされていた。
ポンペイウスは、コンスルへ野心を露にして貴族代表で就任したのに対抗して、自らも
コンスルへの立候補を表明。結果、ポンペイウスと共にクラッススは平民代表として、
コンスルに選出された。クラッススは、ローマ市民1万人を食事に招待して祝い、各家
族に3ヶ月生活を持続できるくらいの食事を分配し、富を示した。クラッススは当時の
政界で、人並み以上の弁舌の才能を持っていた。ポンペイウスが市民人気の高さから、
市民集会に勢力基盤を持つのに対して、クラッススは元老院内で最も勢力を持った人物
になった。紀元前66年、当時アエディリス(按察官)であったガイウス・ユリウス・カ
エサルは、首謀者となり、クラッススを独裁官とし、カエサル自身がマギステル・エク
ィトゥム(騎士長官)となる事を企てた。反対派の元老院議員を殺害した上で、国家を
壟断しようとする計画が持ち上がったものの、未遂に終わる。紀元前65年、クラッスス
はオプティマテス(元老派)代表のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスと共に、
ケンソル(監察官)に選出されてエジプトを、私物化しようと策略した。食糧供給が、
ひっ迫していたからだ。が、カトゥルスが抗議して 辞任に追い込まれ、職共々野望も
諦めざるを得なかった。こうして、元老院の一議員としての地位に下った。

231 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:17:30.25 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   191

 同じ南米の古代文明には謎が多いが、エジプトには、かなりに解読出来た時代がある
。古代ローマの最高執政官「コンスル」は、今でいう大統領である。しかし、当時の、
最高執政官は、独裁権を持っていた。共和政成立時に2人代表官として設置されていた
。互いに同等の権利をもって、執務を交代し,その期間は1年で権力の集中がなされた
。寡頭政の復活を妨げ、国政の最高官として「政治・軍事・裁判」の最高権力を有した
上に、元老院を主宰し、兵員会の招集や法案提出を行なう事が出来た。また外国に対し
て、国家代表であり、条約・協定の執行者だった,必ず付人を随伴させた。兵員会から
選出され,前4世紀までは貴族(パトリキ)が就任していたが、この頃は、前 367年の
リキニウス法により1人は貴族、1人は平民(プレプス)から選ぶこととされていた。
ポンペイウスは、コンスルへ野心を露にして貴族代表で就任したのに対抗して、自らも
コンスルへの立候補を表明。結果、ポンペイウスと共にクラッススは平民代表として、
コンスルに選出された。クラッススは、ローマ市民1万人を食事に招待して祝い、各家
族に3ヶ月生活を持続できるくらいの食事を分配し、富を示した。クラッススは当時の
政界で、人並み以上の弁舌の才能を持っていた。ポンペイウスが市民人気の高さから、
市民集会に勢力基盤を持つのに対して、クラッススは元老院内で最も勢力を持った人物
になった。紀元前66年、当時アエディリス(按察官)であったガイウス・ユリウス・カ
エサルは、首謀者となり、クラッススを独裁官とし、カエサル自身がマギステル・エク
ィトゥム(騎士長官)となる事を企てた。反対派の元老院議員を殺害した上で、国家を
壟断しようとする計画が持ち上がったものの、未遂に終わる。紀元前65年、クラッスス
はオプティマテス(元老派)代表のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスと共に、
ケンソル(監察官)に選出されてエジプトを、私物化しようと策略した。食糧供給が、
ひっ迫していたからだ。が、カトゥルスが抗議して 辞任に追い込まれ、職共々野望も
諦めざるを得なかった。こうして、元老院の一議員としての地位に下った。

232 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:20:22.49 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   192

 こうして、ポンペイウスとクラッススの関係は、ローマ中で知れ渡ったぐらいの犬猿
の仲となっていたのだ。実際に、ポンペイウスがオリエント遠征から帰国して独裁政治
を行うだろう。との噂が出たのは、権力と人気が落ちたからだ。この際に、クラッスス
は、家族・財産を持ってローマを離れた生活したさえと伝えられている。此の時にカエ
サルの仲介によって、紀元前60年に、クラッススは宿敵ポンペイウス、及びカエサルを
交えた三者間でとの政治同盟を組むことに工作した。この合意によって、ローマの政治
は二頭交代制から三頭政治と言われた形で進んだ。コンスルの任期が終わらないうちに
クラッススは、ローマを離れ、ブルンディシウム(現:ブリンディシ)よりガラティア
を経由して、シリア属州へと入り、アンティオキアで冬を越した。と言う。クラッスス
は、ポンペイウスやルクッルスが成し遂げられなかったパルティア征服の野望を抱いた
。その正式名をルキウス・ルキニウス・ルクッルスは、クラッススの養父である。共和
政の神聖ローマの軍人で政治家であるだけでなく、美食家としても良く知られた有名人
であった。現在でも豪華な食事のことは「ルクッルス式」と呼ばれ、西洋料理にはルク
ッルスの名を冠した料理がたくさんある。実はルクッルスは執政官と云うより、軍人と
して大きな成果を上げた人物である。紀元前74年、執政官に就任にルクッルスは、紀元
前75年から始まっていた第三次ミトリダテス戦争に赴いて「カビラの戦い」でミトリダ
テス6世を破りアルメニアへ逃亡させた。またミトリダテス6世の逃亡を追いかけて、
それを匿っていたアルメニア王ティグラネス2世と戦い「ティグラノセルタの戦い」に
おいて決定的な勝利を得た。さらに「アルタクサタの戦い」でもティグラネス2世と、
ミトリダテス6世を敗走させた。このような戦果から見てもルクッルスはローマを勝利
に導いた有能な軍人で、隣国を蹂躙した執政官であったとみなして良いだろう。この、
「ブルータスよお前もか」と言ったローマ時代の頃に、美食家クルックスがいた。

233 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:20:59.34 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   193

 実際キケロは『アカテミカ前書』第二巻で、「ルクッルスは、白兵戦、攻防戦、海戦
について、またそれぞれの戦闘に必要な武具や装備について、尤も心得た優れた指揮官
であった」と評価し、キケロの証言でもルクッルスの有能さを証するものとなっている
。それでも、賄賂や忖度の腐れた議会政治の蔓延で、紀元前66年に、ルクッルスの軍隊
は、大部分が彼の命令に従うことを公然と拒否した。軍隊内反乱である。直ぐに指揮官
はポンペイウスに交替させられて、さらに略奪を重ね私腹を肥やしているという悪評も
立つようになった。此の事で結局、戦い半ばにしてローマに召還されることになった。
 こうした悪評の為、ローマに戻ってからも軍事的な功績は、評価されることなく紀元
前66年の凱旋式は、ローマ市民から歓迎されないまま催された。ルクッルスは凱旋式の
後に、全市民を自費で賄った大宴会を開いている。が、これも自身の過小評価に対する
反動から行ったのではないか。とされた。こうして元老院は、台頭したポンペイウスの
対抗馬で、ルクッルスを共和制再建の旗手に押し上げようとしたがしかし、ルクッルス
には元老院の権威を守るための政界の欲はなく、元老院議員としての議席を残したまま
にして、事実上政界から引いた。これはルクッルスは、元老院に幻滅した為だと言われ
る。ローマ市民と元老院に対するルクッルスの幻滅は、引退後これ見よがしな豪奢な暮
らしに繋がっていった。事実、クラッススとポンペイウスからは「晩年のルクッルスは
快楽と贅沢さに屈した。」として嘲笑した。と書かれる。政敵のルクッルスの贅沢さは
恰好な批判対象だった。クラッススとポンペイウスの言葉は、『プルターク英雄伝』で
著者のプルタコスが引用したものだが、プルタコスもそれを受けて、ルクッルスが年老
いて奢侈に耽った事は「年齢にふさわしからざる行為」として批判的な見解を述べてい
る。しかし、中途半端ではなく、ずば抜けた贅沢で、それはある種の伝説にもなった。
ここで後の文化や哲学にも大きな影響を残したのだ。

234 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/08(火) 21:21:38.46 ID:HpIiFNCMA
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   194

 ルクッルスは幾つかの邸宅を持っていた。ローマの郊外のトゥスクルムにも邸宅があ
ったが、それは装飾された回廊や見晴らし台からの眺望がすばらしい邸宅でホテル並み
だった。ポンペイウスがそこを訪ねた際には、その邸宅の壮麗さを褒めると同時に、夏
は快適だが、これだと冬は住めない家であると指摘した。ルクッルスは「鶴や雁でさえ
、季節で棲家を変える。あなたは私をこれらの生き物よりも劣ったものとみなしている
のか。」と笑った。と『プルターク英雄伝』には述べられる。他にも 幾つかの豪華な
邸宅を持っていて、季節ごとに棲み分けていたようである。ナポリの海際にあった別荘
には堀や池があり、そこには運河から、海水が引き込まれるようになっていた。その池
や堀で魚が飼われ、遊覧船と美女もいた。この家を訪れたストア派の哲学者のクイーン
トゥス・アエリウス・トゥベロは、ペルシャのクセルクセスが、運河を掘ってそこから
内地の湖に戦艦を引き入れようと試みたことにちなんで、ルクッルスのことを「トーガ
を纏ったクセルクセス」と呼んだ。トーガとはローマ人の纏う衣装であり、クセルクセ
スはアケメネス朝ペルシアの王だ。ローマ人でありながらクセルクセス王のような生活
をしていたルクッルスに対するこの名称は、正に当を射た表現だったと言える。また、
これがその邸宅と同じものか、あるいは一部かは分からないが、現在でもナポリにある
、カステルデローヴォが、ルクッルスによって建てられた城で、別名で卵城と呼ばれ、
今では観光地になっている。海に向かって岬のように張り出した先端にあるこの建物は
、『プルターク英雄伝』にあるナポリの邸宅を連想させるようなもので、後の時代には
要塞としても使われ、今ではその痕跡の方が多く見られる。が、いずれにせよルクッル
スの贅沢さを現代に垣間見ることが出来る建築物であることには間違いない。

235 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:16:18.68 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   195

 さらにルクッルスの贅沢さを現代でも物語っているのは、ローマにある「ルクッルス
の庭園」であった。有名なスペイン広場(坂)の上部に「ピンチョの丘」にあるボルゲ
ーゼ公園になっている場所には、当時、ルクッルスは、庭園と屋敷を築いていた。ルク
ッルスは、アジアへの遠征を経験からペルシャ文化や美術に造詣が深く、その庭では、
ペルシャ式庭園のスタイルで作庭されて、手入れがなされていた。とも言われている。
これは、邸宅そのものだけでなく、屋敷の内部に、戦役の後に中近東からの持ち帰った
膨大な美術品や書物並べられている事にも関連し、彼は非常な冒険家で野心家で興味の
尽きない科学・文学少年の学者肌の軍人だった事になる。当時のローマでもずば抜けて
、合理的で高度な資産家で、非常に豪華で、かつ贅沢であったのだろう。ポンペイウス
はルクッルスを嘲って「ローマのクセルクセス」と呼んだが、それはルクッルスの資産
が、ローマ人でありながら、ペルシアの美術品に囲まれたクセルクセス王のような贅沢
な暮らしを送っていた事に羨望を抱いていたからである。中でも器用な調理人を集めた
見事な料理は、贅沢な食事であったとされる。「ルクッルス」の名は、今でも、豪華な
食事の代名詞にもなっている。現在でも豪華な食事を「ルクッルス式」というが、これ
はルクッルスが食通としての贅沢な生活を送っていたことに起因している。ルクッルス
は良質な材料を確保するために、海水を引いた池で魚を育てるだけでなく、鳥や牛をも
、飼育していたし、野菜や果物やチーズを自家の農園で作らせていたのだ。いつでも、
新鮮な食材を得た食事が用意された。また、食事をとる部屋の装飾や、食事中の音楽や
詩文、交わされる会話、これらにふさわしい客の選別などにも、こだわって人員と物を
配置させた。

236 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:18:18.92 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   196

 つまり、「食」そのもにも注意を払っていたが、それと同時に、文化や芸術的なもの
も、食卓において実現させようとしていたのである。ルクッルスの食通ぶりを裏付ける
ような、次のようなエピソードが『プルターク英雄伝』にはある。ある日、ポンペイウ
スが、病にかかり、医師が 晩餐にツグミ(鶫)を食べるようにと命じた。だがしかし
、ポンペイウスの下僕は、「夏にはツグミは手に入りません。唯一、ルクッルスの城の
養鳥園で、手に入れられますが、ルクッルス様は、恐らく他の者のために鳥は取らせな
いのでしょう。」と言ったところ、ポンペイウスは、医師に「ルクッルスが、美食家で
なければ、ポンペイウスは死ななければならないのか。」と文句を付けて、他の入手し
やすい食材を、変えて云わせて食事をした。という逸話が記述されている。これは、ル
クッルスが単なる食通であった。というだけでなく、自らが良質で珍しい素材を求めて
、それを自らの敷地で育てていたことが、裏付けられた記述となっている。珍しい食材
は単に買い求めるだけでなく、自身で育てるのも、ルクッルス流の こだわりだった。
と思われる。ポンペイウスは、「ルクッルスが、晩年は食べることや、飲むことに拘り
、贅沢に堕した。」と、嘲笑や批判を行っていたので、どんなことがあったとしても、
ルクッルスに頭を下げてツグミを譲ってもらうことは、出来なかったに違いない。と、
後世の批評家は分析している。自分の生死が、ルクッルスの美食と贅沢にかかっており
、ツグミを譲りうけるならば、すなわちルクッルスの贅沢な暮らしを肯定したことにな
る訳で、故に、ポンペイウスは医師の言うことには構わず、より入手しやすい食材に変
えて食べることにしたのであろう。また『プルターク英雄伝』には以下のようなエピソ
ードも記されている。

237 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:18:40.03 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   197

 ある時に、ルクッルスが1人で食事をする。と言ったところ、従者は今日は1人だか
ら、いつもより簡単な食事でよいだろう。気を抜いて、判断して食卓に出したところ、
ルクッルスは、「今日は、やっとルクッルス様が、ルクッルスと一緒に食事することが
分からないのか。」と言って叱責したという。つまり、一人で料理を楽しみ、珍味でも
耽る時間があるのに、それにふさわしい豪華な食事を用意を何故できない。という事だ
ったのだ。さらに、哲学者のキケロとポンペイウスが、ルクッルスに急な訪問を申し出
た際の エピソードも記録されている。彼らは、豪華な食事を用意させては申し訳ない
と、「特別な用意は必要ない。食事は あなたがいつも食べているもので構わない。」
と釘を刺しておいた。しかも、召使に来客用の食事を指示させないようにしていたが、
ルクッルスが、「食事をとる部屋だけは 指示させて欲しい。」というので、その願い
だけは聞き入れた。そこでルクッルスは、従者に「今日はアポロンの部屋で食事する。
」とだけ伝え、三人は屋敷に向かった。それでも、ルクッルスの屋敷に着くと、次々に
豪華な料理が運ばれ、キケロとポンペイウスは目を丸くし通しだったのである。実は、
「今日はアポロンの部屋で食事する。」という指示は隠語となっていて、ルクッルスは
通常に、食事をとる部屋によって食事の費用や内容は決めていた。と言われる。この為
に、従者や召使は、部屋の指定だけでどんな食事を用意すべきか、を悟っていたのであ
る。アポロンの部屋は、この屋敷では、最も豪華な食事をする部屋で、庶民の年収が5
千ドラクマの時代に、この部屋での食事では、1回で庶民の年収の10倍の5万ドラクマ
が費やされたと『プルターク英雄伝』には記録されている。

238 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:19:07.49 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   198

 ルクッルスがもたらした食へのこだわりや贅沢は、最高の秀逸な贅沢を及ぼしていた
。食通だったルクッルスは、ローマに東方からの胡椒や香辛料は勿論、新しい食材を、
ジャンジャン取り入れ、食の革命をもたらしていた。これはルクッルスの経験した戦争
によるペルシャとの関わりから生じたもので、文化理解や憧憬によって、もたらされた
ものだった。のだろう。それは、ローマに帰還後でも、ペルシャ様式の庭園を作らせた
り、ペルシャの美術品に囲まれた暮らしをしていたことからも、望郷と憧れにこだわり
があった事が明らかである。そしてそれは、食においても同様であったと考えられる。
ルクッルスに関連した食用野菜に「フダンソウ」料理がある。フダンソウ(不断草)は
、暑さにも強く、真冬の1月、2月を除いていつでも栽培・収穫できることから付けられ
た和名であるのだが、英語名では、スイスチャード(Swiss chard)とつけられている。
葉柄や葉脈が赤や黄色、ピンク、朱色など、鮮やかな彩りが特徴であり、幼葉はベビー
リーフとしても使われる事が多い。サラダとして取り入れられてヨーロッパでは食べら
れている。このフダンソウには、「ルクッルス」という名前の付けられた物があって、
葉脈が白い品種で、これはルクッルスにちなんで命名されている。「スイスチャード:
ルクッルス(Swiss chard:Lucullus)である。又、ルクッルスはローマに、初めてのサ
クランボを持ち込んだ人物である。とプリニウスは『博物誌』第15巻30項で述べている
。博物学者のプリニウスは、ルクッルスがミトリダテス戦争に勝利する前、つまり西暦
前74年よりも前に、イタリアには桜の木がなかった。と述べている。ルクッルスがそれ
を現在はトルコ領になっているポントス王国から、船便で持ち込み、120年の間に イギ
リスにまで伝わったと述べている。 しかし、実はイタリアには、以前から、在来種の
野生のサクランボはあった可能性が 植物学者からは指摘されている。ルクッルスの持
ち帰ったものは栽培種の野生種よりも果肉の多いもので、食用に出来た新品種であった
のではないか。と考えた方が良さそうである。

239 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:19:35.67 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   199

 ルクッルスは サクランボを、ポントス王国の「Cerasus」という都市(現:トルコ領
ギレスン)から持ち帰ったので、その都市名が、Cherrry :サクランボの語源となった
。と、考えられている。これもまた、食通のルクッルスならではのエピソードである。
他にも ルクッルスは、アプリコット(杏:あんず)も 最初にローマに持ち込んでいる
。アレクサンダー大王が、杏をギリシャに持ち込んだとされているが、ローマには、ギ
リシャ経由ではなく、ルクッルスがアルメニアから持ち込むことで広がった品種がある
。アプリコット(杏)の学術名「Prunus Armeniaca」は、ヨーロッパにおいては近世に
いたるまでアルメニア(Armenia) が原産地と考えられていたためである。現在、ローマ
にあるボルゲーゼ公園は、もともとルクッルスの庭園だったところである。ここに、桜
の木や、杏の木が植えられたことから、ローマで桜や杏が普及するようになり、貴族達
の庭園にはこうした果実樹木を植えることが大流行することになった。と言う。先に、
ルクッルスはツグミも飼っていたことを述べたが「さくらんぼ」や「あんず」といった
ローマには無かった植物を持ち込み、栽培し、それを珍しい食材として食していた。と
いう、グルメのルクッルスならではの こだわりがここにはあった。と言えるだろう。
後の食文化辞典のオーギュスト・エスコフィエの記した『ル・ギード・キュリネール:
Le guide culinaire』の中には、「ガルニチュール・ルクッルス」というソースレシピ
や、「コンソメ・ルクッルス」というスープについて言及されている。これは美食家で
あった ルクッルスにちなんで付けられた 名前であり、ヨーロッパでは美食家として
のルクッルスの存在がかなり大きく、様々なところにルクッルスの名前は残っている。

240 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:41:15.36 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   200

 『ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire』以降に誕生した料理で、クッル
スの名前を冠した料理に、Lucullus de Valenciennes(ヴァランシエンヌのルクッルス
)という料理がある。この料理は1930年に、フランスの「ヴァレンシエンヌ」で誕生し
た名物料理である。葬儀の食事のために、ヴァランシエンヌを訪れた2人のパリジャン
が、牛舌の「洗練された」バージョンをオーダーしたところ、フォアグラを売り出そう
としていたシェフが出した料理とされている。料理は、燻製した牛タン、コートブイヨ
ン、フォアグラの混合物で、牛タンとフォアグラが、層になっているのが特徴である。
フランス料理に残るルクッルスの名・・・(11) Lucullus de Valenciennes「ヴァラン
シエンヌのルクッルス」(葬儀に用いられた 燻製牛タンの 厚切れのブイヨン料理)
この料理にも、フォアグラが使われており、とても華のある料理になっている。が、こ
うした高級素材が使われているのが、ルクッルスの名を冠していることの理由だろうと
思われる。美食を尽くした生活の ルクッルスについて、セネカが、「ルクッルス…が
料理を求めたのは、食欲を満たすためではなく、むしろ、食欲を掻き立てるためだった
のだ。」と、述べている。これは、大変に意味深い意見である。ルクッルスは私財を肥
やしていると批判されることになったが、政界の一線から退いて、他の政敵やライバル
を嘲笑うかのような、これ見よがしの贅沢三昧生活は、ルクッルス流の、逆説的な彼ら
に対する批判だったのでは、ないだろうか。豪勢な酒宴に明け暮れ、贅沢な食事をして
いたルクッルスの死んだ目の奥には、底知れぬ諦めと共和制ローマへの絶望が漂ってい
たに違いない。そこには厭世的な感情が漂っている。と、そう感じられるのである。

241 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:42:44.95 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   201

 ここで、しばし、クルックスの晩年を書き足したい。『プルターク英雄伝』で、ルク
ッルスの死について、言及している。ルクッルスが、人生の終わり頃には心を失って、
年齢と共に精神異常の症状を発症した。と、報告している。この原因に関してプルタル
コスは、まず、この時代の伝記作家だったコルネリウス・ネポスの説を引用している。
コルネリウス・ネポスは、ルクッルスが 年齢や病気によって 精神異常の症状を発症
したのではなく、その原因には、ギリシャ人の自由奴隷のカリステネス(Callisthenes)
が、ルクッルスの愛情を得ようと、意図的に薬物の(Pharmaka:Love potion)を投与し
ていた為に、その作用を受けて、ルクッルスは生きながらにして、心が不安定になった
のである。と述べている。だがこの意見に対して、プルタルコスは懐疑的な意見を述べ
ている。その狂気が本当に、媚薬(ファ−マカム)や(ラブポーション)の効果だった
かどうかに関しては曖昧であるとしている。その当時、キケロも追放されていて、政治
的な立場を同じくしていた親友カトーも、キプロス島に送られていた。こうしたローマ
の政治的敵の勢力の高まりに対して、自己防衛のために、ルクッルスは都合よく狂気を
装っていたのではないか。というのがプルタルコスの見解である。そうした中にあって
、特にライバルであり、政敵でもあるポンペイウスが、何度もルクッルスのエピソード
に登場し、豪華な食事をご馳走になったり、またルクッルスの贅沢な美食がなければ、
病気治療のためにツグミを手に入れられないという状況に置かれるあたりは皮肉なもの
がある。

242 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:43:25.97 ID:KPtJh0np4
  食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   202

 ルクッルスについて記述していると、竹林の七賢人の一人であった阮籍のを思い出さ
せられる。阮籍とは、魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため
、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をした人物である。阮籍は俗物で礼法
を重視した。気に入らない人物に対しては白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対し
た。という逸話がのこる。白眼とは「白目をむく」と言う事でも解る様に怒った態度を
言う。青眼とは、清々(すがすが)しいとか、清(ほほ)えましいで判るように、にこ
やかである事を言う。歩兵校尉(こうい:律令制下の官職)の役所に、酒が、大量に貯蔵
されて、思う存分飲んでいると聞いて、希望してその官職につき、竹林の七賢の一人の
劉伶と、酒を常に飲んでいた。という。このように阮籍は既成の枠に捉われない人物で
あったのに七賢人になった。以下に阮籍が詠んだ「詠懐詩」を示す。ここから、阮籍の
本当の胸の内が読み取れる。【 詠懐詩 】
 夜中不能寝  夜中寝(しず)ぬる能わず
 起坐弾鳴琴  起き坐して鳴琴(こきん)を弾(ひか)ず
 薄帷鑒明月  薄き帳に、名月の鑑(て)り
 清風吹我襟  清風は 我が襟(えりも)を吹く
 孤鴻號外野  孤鴻(ここう)は 外野に号(さけ)び
 朔鳥鳴北林  朔鳥(しどと)は 北の林に鳴く
 徘徊将何見  徘徊して、将(は)た何をか見る
 憂思独傷心  憂思(ゆう)して独り心を 傷(いた)ましむ

243 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:44:07.31 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   203

 阮籍は、常に酔っていた。が、それは 当時の偽善と詐術に満ちた社会に憂思して、
独り心を傷めていたからであった。そして 酔いながらも、常に冷め切っていた。と、
言われるのである。なぜなら、当時の偽善と詐術に満ちた者たちが 権勢をふるい驕り
高ぶっていた世の中だったのだ。阮籍とルクッルスは、必ずしも同じような人物である
とは言えない。というより、全く違った人物だったが、しかし、阮籍が、なぜ酒を飲み
続けていたのか?と考えると、ルクッルスが、そこまで贅沢に美食を追求した理由と、
酒を至宝の様に飲んだその理由は、阮籍にもルクッルスにも共に共通して、その時代の
権力者に対するシニカルな冷めきった目線があったからではないだろうか。と理解する
ような気がする。ルクッルスは、遠征の激戦の中で、私財を肥やしていると批判され、
ローマに連れ戻されることになったのだが、実際のところはどうだったのだろうか。と
疑問が残る。長期におよんだ遠征の中では、補充が途絶えたり、ローマからの軍資金が
滞ることが度々あったのだ。ルクッルスは、将軍として軍隊を維持して、ローマの拡張
の為に人生の大半を、戦いの中で費やしてきたのだった。こうした中で、占領した都市
の富を確保して、兵士に再分配し、うまく軍隊を維持し続けることも、ルクッルス軍に
とっては、重要で難しい役割だったことは間違いない。例えどんな批判があろうと生死
をさまよう軍隊は、維持する事が最大の目的の場合もある。批判によってルクッルスが
ローマに帰還した後、ポンペイウスが、軍を引き継ぐことになるが、ルクッルスには、
ポンペイウスの約半分の兵士の軍隊で、敵に対して勝利し続けていたことを考えても、
ルクッルスの戦略家としての有能さは証明されていると言えるだろう。

244 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:44:30.41 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   204

 多分に、遠征中のルクッルスにとっては、常にいつでも使える潤沢な資金を、手元に
蓄えて置くことで、戦いに勝ち続けるための軍を維持する。という目的の意味において
、彼にとって、何らかの大義に直結する事であった。しかし、それが批判され突かれた
ことで、将軍の座からも ルクッルスを引きずり下ろされ、しかも、凱旋式すら行われ
ることに対しても、異議が差し挟さまれた訳なのである。結局は、ルクッルスは、罪に
問われたり、追放させられることもなく、軍人としての役割を解任されることになるが
、こうした中で、ルクッルスは、軍のために 自らが捻出して使うはずであった莫大な
資金に、どういう訳か、個人の手元に残る運命になってしまった。この事で批判された
可能性や引退した可能性がある。引退後のルクッルスには、これ見よがしの贅沢で美食
を追求した生活を送り始めたが、それは、セネカの言う通り「食欲を満たす為ではなく
、むしろ食欲を掻き立てるため。」の料理の追求だった可能性も捨てきれない。という
のもカリステネスの薬物投与やポンペイウスの栄養の為の鳥肉や香辛料の取り寄せなど
考えると、結構に風土病的疾患は蔓延し、体調不良で食べたくない料理もあったとも、
思われる、日本には、米、水、餅、うどんと言う、味ではない食感の文化があるが、肉
が主要な西洋にあった料理は、そんなに多くなかったと思える。現に海に恵まれている
地方でも、日本の様なタコやイカ、ナマコに海藻、極めつけに毒をもつフグさえ食べる
日本は、世界広しと言えどない。芋もトマトもなく、豆とトウモロコシようなもので、
残る小麦のパンが主食であった中に焼き肉焼き魚はあっても醤油はない。となると後は
ワインにビールの肉料理でウインナーとパンにレタスと目玉焼きとおかしぐらいである
。手元に残った意味のない金銭を、批判した者たちの前で、これ見よがしに豪勢な酒宴
に使うことは、それらの批判に対して、それを凌駕する贅沢でもって応じたといえる。

245 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 13:51:33.86 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   205

 それは冷めきったシニカルな行為であった。、それゆえに、このルクッルスの姿が、
阮籍にダブるのを感じてしまう。そう考えると、邸宅や公園をペルシャ風にすることや
、あるいはペルシャからの食材を ローマに持ち込むこと。また「トーガを着たクセル
クセス」あるいは「ローマのクセルクセス」と呼ばれるようになることも、ルクッルス
の、ローマに対する嫌悪感から もたらされたもので、いっそかつての敵国のテイスト
に、耽溺した生活することいいのだ。と半ば開き直り、政敵や批判者のいる「ローマ」
という都市にいながら、彼らに抵抗し続けていたようにすら、感じられるのであった。
こうした視点からも、キケロとポンペイウスが参加した食事を検討すると、そこには、
非常に意味深いものが見えてくる。つまり、ルクッルスを 批判した政敵の、ポンペイ
ウスは何としても、意地ででもルクッルスから豪華な食事を ご馳走になってしまうと
いう、借りを作るようなことは、絶対に避けたかった違いない。一方のルクッルスは、
逆に、何としてもポンペイウスを 贅沢な食事でもてなすことで、逆説的にもポンペイ
ウスを 無言で批難しようとした。とも考えられる。つまり、ポンペイウスが批難した
、その財と贅沢さでもって、ポンペイウスは、もてなされるのであれば、ポンペイウス
は顔を潰されることになる。これをもって思想の攻防があった。ポンペイウスが、ルク
ッルスに、召使いに指示を出させないようにしてまで、普通の食事をと望んだ事は、単
に、ルクッルスが行う普段の食事を確かめたかった。という好奇心のような、一般的な
ものからではなく、むしろ、ポンペイウスにとっては、それが自分のスタンスを守る為
には何としても必要であったからに、違いないものだった。

246 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/26(土) 14:02:52.20 ID:KPtJh0np4
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   206

 しかし、「アポロンの間での食事を行う」という召使いに対するルクッルスの指示に
より、結局は、豪華絢爛な、大変な食事が準備されていることになる。しかもそれは、
庶民の年収の、10倍の金額が一回の食事で費やされる様なことになったのである。これ
はルクッルスの、「矜持」のような意志が、そうさせたのである。と思われる。現に、
この為に、いつもの「宴会以上のもの」が、明らかに準備されたのである。と考えた、
そんな料理が出たと言ったが良いだろう。それは見栄を張る。とかいうようなレベルの
ものではなくて、何としても、ポンペイウスに対して 金を使い浪費することに、経済
を説くルックルスの、説明の目的があったからである。こうして、「ルクッルスは贅沢
に堕した」と、批判ばかりしたポンペイウスは、自分もまた、自身が批判したその中に
、つまり 贅沢な宴に同席することによって 結果的にその恩恵を享受することになっ
たのである。まあ、日本で言えば、質素倹約の松平定信を、長崎帰りの幕閣田沼意次が
側用人・老中として振舞ったみたいな事であったろう。人は他人の贅沢は批難するが、
政界を引退したルクッルスには、莫大な富とその贅沢さの浪費によって逆に、批難する
者たちに、批難し続けようとしたものと思われる。それは冷めた視線であり、彼にとっ
ては、浪費し贅沢することそのものには、関心や楽しみのようなものはすでに無かった
のだろう。

247 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/31(木) 05:34:04.83 ID:hvew7XxxE
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   207

 パンとサーカスは、詩人ユウェナリス(西暦60年 〜130年)が古代ローマ社会の世相
を批判して詩篇で使用した表現である。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)
」と「サーカス(=娯楽)」によってローマ市民が満足し、政治的無関心になっている
ことを指摘した。物質主義の例えとして、独裁主義国家建設に、しばしば 用いられる
名言であり警句である。現在では、民主主義や資本主義社会でも、愚民政策の比喩とし
て用いられることも多い。日本語では「パンと見世物」とも表記され、植民地政策での
運用の鉄則とされる、帝王学中にでてくる。言わば飴と鞭の話である。地中海世界の中
で支配を確立したローマ帝国は、広大な属州を従えた。それらの属州から搾取し莫大な
富は、ローマに集積して、ローマ市民達を労働からの解放と共に批判が公けに出来る様
な公民権が出来る。その為、権力者は、市民を政治的無関心の状態にとどめるための、
「パンとサーカス」の方策を市民サービスとした。食糧の無償提供し、現在の社会福祉
政策の様な様相もあるが、あくまでも、食料配給は市民権利ではなく、為政者の恩寵と
好意であり、税収の対象でない。また食料配布が公の場で行われ、受給者は受け取りの
際には、物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクがある。この配給の仕組みによって
無限の受給対象者の拡大を防ぐ。まあ日本の生活保護が、勝手に市職員で追い払う様な
行為と、似たような感覚だろう。

248 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/08/31(木) 05:34:25.05 ID:hvew7XxxE
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   208

この警句のいう「サーカス」とは、見世物小屋で催される曲芸や動物遣いの見世物では
ない。古代ローマの競技場(現代でいうサーキット場)で行われた、複数頭立て馬車(
クアドリガ)による競技(ラテン語: circenses(キルケンセス))であり、闘技場で
行われた剣闘士試合などを含めたスポーツ観戦などの、戦闘競技の意味で用いられてい
るのである。ちなみに、オットリーノ・レスピーギの『ローマの祭』はこの「キルケン
セス」に由来する。「panem et circenses」という定型句で定着しているのだが、これ
には、いずれも対格形がある。この日本語訳としては「パンとサーカスを」のほうが近
い。実際、ユウェナリスの原文では 「パンとサーカス(見世物)を求める(optat)」
という表現になっているからだが。主格形にすれば、「panis et circenses」となる。
つまり、違うけど、意味合いとしては同じだったのである。地中海世界を支配した時の
ローマ帝国は、広大な属州を従えていたので。それらの属州から、搾取した莫大な富を
ローマに集積していく。、ローマ市民は、この搾取によって労働から解放されていくの
だが。権力者側では、搾取される農奴や、市民の政治的関心そらしに、無関心状態に、
とど置くために、「パンとサーカス」を市民に無償で提供したのである。現在での社会
福祉政策に似ているのだが、あくまでも、食料の配給は市民の権利ではなく為政者によ
る進呈や恩寵として理解されていて、また食料の配布が公の場で行われ、受給者には、
受け取る際には、物乞いのポーズと行為が強要された。一般大衆の視線の中で晒される
貧民のリスクは、かなり大きかった。この配給の仕組みによって、無限の受給対象者の
拡大を防ぐことが出来た。

249 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/03(日) 23:17:34.00 ID:5n4LsWrhx
ふざけんな ミヤネ屋 こんなリブロースのミディアムレアの
 焼けてない赤身を90歳の年寄りに食わせるから ボケになって動けない。
  大体冒険家って 山に歩けない身体で行く物ではない。オカシイだろう。
   歩けない死にそうな老人が 過去の名声をカサに引き連れて霊峰富士に登るが
    なんで ニュースなのだ。 走れない長嶋に聖火リレーさせるような醜態である

250 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/03(日) 23:19:31.17 ID:5n4LsWrhx
しっかり焼いた肉や 野菜食を 案内しろよ 細菌に弱いんだから

251 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/04(月) 00:19:17.09 ID:PttOhPLXU
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   209

 この時代、食糧に関しては、穀物の無償配給が行われていた。大土地所有者や政治家
が、大衆の人気を得る為に、しばしば食糧配布を行っていた。皇帝の中にも、処刑した
富裕市民での、没収財産を手続きを以て、広く分配したネロ帝や、実際に金貨をばら撒
いたカリグラ帝の例があるようだ。食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求
めていた。これに対して、権力者はキルケンセス(競馬場)、アンフィテアトルム(円
形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合と
いった、奴隷を使った見世物を開催することで市民に娯楽を提供した。こうした娯楽の
提供は、当時の民衆からは、支配者たるものの当然の責務と思われる習慣がついてしま
うようになり、これを、エヴェルジェティズム(恵与行為)と呼ぶもので、日本で言う
守役、あるいは報徳とされたものの様になった。パンとサーカスは社会的堕落の象徴と
して、後世では、しばしば話題にされる。ローマ帝国の没落の一因とされることもある
。また、「パンとサーカス」に没頭して、働くことを放棄した者(これらの多くは土地
を所有しない無産階級のローマ市民)で、プロレタリーと呼ばれた。(プロレタリアー
トの語源)この行為で、幅広く富を求めて働く者との、貧富の差が拡大した時代とされ
、ローマ社会に歪みをもたらすことになった。しかし、これらの給付の恩寵を、実際に
受けられたのは、広大な帝国人民のなかでも、数割にも満たないローマ市民権保有者の
、なかでも都市に住んでいる者の、さらに一部でしかない。この噂や夢を追って、中央
集権や一極集中の人口移動に、繋がって行く。

252 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/04(月) 00:19:48.55 ID:PttOhPLXU
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   210

 共和政の中期、マリウスの軍制改革までは、ローマ市民はすべての男性が従軍義務が
あり、故郷で、パトロネジの庇護を受けるのは、男手を奪われ(あるいは生命を奪われ
)困窮しがちの、中小地主階層であった。彼らは軍団兵の家族で、そして 実際に配給
されるのは焼かれたパンではなく穀物(小麦粉)で、当然ながら食べるために調理器具
や燃料が必要であったのだ。帝国化してのちに、述べられるようになった「働く事を、
放棄する」というのは大げさな表現であって、召使いが不足する中で、そういう身分に
堕ちない貴婦人に対する嫌味だった。統治者側の視点からみれば、ローマにとって穀物
給付は、大貴族や皇帝が気まぐれの 恩寵的に与え始めたものではなく、前123年 ガイ
ウス・グラックスによって、細かに治安や自治の形態が検討され、提案された 穀物法(
低価格で全市民あるいは貧窮市民への売却)の提案によるのが、起源で、前58年にクロ
ディウス護民官により、初めて実施されたローマにとって伝統的な意味合いをもった、
画期的新政策であった。また、当初はポエニ戦役の勝利で、急速に拡大したローマ世界
において支配階層となっていった、大貴族・騎士階層と、ローマ近在の没落しつつあっ
た中小地主階層との、「格差問題解消」という 緊張関係宥和の、提案された法案でも
あった。もっとも、実際に穀物給付が政策として行われ始めた共和政末期には、すでに
ローマ軍政では、給付付きの志願制に変更されていた為、この穀物給付政策は、軍団兵
家族の救済といった当初の目的からそれて、遺族市民や没落市民の恩給へと変貌し、護
民官や皇帝の権威を、鼓吹する手段へと変質していった。この「パンとサーカス」政策
は、ローマ帝国の東西分割後も存続した東ローマ帝国で、しばらく維持されていたが、
7世紀のサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によってエジプト・シリアの穀倉地帯を失
うと穀物の供給を維持できなくなり、終焉した。しかしその慣習は儀式として残った。

253 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:09:16.70 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   211

 ナポレオン時代に、ネルソンはトラファルガー海戦の総指令官という特別な階級にあ
った。この時代、遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬される
のが一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦で、ナポレオンの英国上陸
を妨げた「英雄」でもあった。このことから、遺体は本国へ送還すべきであると考えら
れた。もちろん当時、冷蔵設備などは 船に備えつけられておらず、船員たちは遺体の
腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人が、ひとり入るほどの大きさの酒樽に遺体を
保存し、英国まで運ぼうとした。と言う。1805年10月21日、満タンのラム酒に浸された
ネルソンの遺体と共にトラファルガー岬を出航した。ヴィクトリー号は、同28日、ジブ
ラルタル海峡までたどり着く。しかし、その時に遺体と共に樽にたっぷり入っていた筈
のラム酒が、半分に減っていることに気づき、蒸留ワインを更に補充したという。ラム
酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、「
樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったから。」と伝えられている。
この出来事から、英海軍仕様の隠語 「Tapping the Admiral(提督の栓を抜く=お酒を
盗み飲む)」が生まれ、海軍で飲まれるラム酒を「Nelson's Blood(ネルソン提督の血
)」と呼ぶようになった。なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒
でなくブランデーだったという説(ヴィクトリー号が係留しているポーツマスのヒスト
リック・ドックヤードでは「ブランデー」と解説されている。)や、ジブラルタル海峡
の時点で、アルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコール
を大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、「ネルソン提督の血
」は200年以上経った今も、ラム酒として英海軍兵たちに愛飲されている。

254 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:12:07.53 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   212  維新の頃の風景

 インドにスイス系のパリ国立銀行(BNP)が1848年に創設された。「1848年革命」は、
パリで革命が勃発し国王ルイ・フィリップが追放されたのだ。02月26日に、フランスは
第二共和政が宣言した。これを受けて国立パリ割引銀行から民間銀行に格下げされた。
丁度この年の01月24日に、米国カリフォルニアの鉱山の川で、ジェームズ・マーシャル
が砂金を発見したニュースが欧州でも見聞できた。ゴールド・ラッシュの始まりである
。この事は、欧州各国の革命動乱ラッシュと共に、新大陸移民の心を多くくすぐった。
鉱山掘りの民衆と、新規の儲け話に浮足立つ資本家の組織だった移住さえ起こっている
。100年以上を経て 1966年に国立商工業銀行と合併したBNPは、ソシエテジェネラル
系の、バンク・オブ・ザ・ウエスト(1874年設立)、イタリアのBNL(1913年設立)ベル
ギーのフォルティス(1822年設立)など、投資銀行がいたのである。ソシエテジェネラ
ル系は、1863年、同シンジケートのネットワークの大部分がジェネラル・クレジットを
資本金2億5千万フランで、ロンドンを拠点にしていた。トーマス・ブラッシーがリー
ダーシップをとって、ジェネラル・クレジットを創設、エジプト・近東で活躍し、運河
建設や鉄道投資をして稼いた。そんな中で、グラバーは日本にやって来て、貿易業を営
みながら、薩摩・長州・土佐の討幕派を支援し、武器や弾薬を販売したのだ。幕末維新
期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への銃売り渡しに関わっていたが、その中で
グラバー商会の販売量は突出していた。彼はのちに「三菱財閥」(岩崎家)の後ろ盾と
なり、キリンビールや長崎造船所を作ったのである。日本初の蒸気機関車の試走、高島
炭鉱の開発など行ったが、全てマセソン商会の本社が横浜に支店を出し、兵器商売を横
取りしたからであった。しかし、其の事で、兵器商売から離れ、日本の近代化に貢献し
て利益を得て生活した。日本にとってこの役割は大きく、後に1908年、グラバーは勲二
等旭日重光章を明治天皇から授けられほどの功績である。この3年後(1911年)に亡く
なったのだが、墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。

255 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:12:54.61 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   213  維新の頃の風景

 当然このバリバの持つ、ソシエテジェネラル銀行に対抗したのが、上海・香港銀行で
ある。ロンドンに拠点を置いたとはいえ、バリバは、フランス・ベルギー系銀行である
。上海屈指の豪商となったサッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダードに出現し
たスペイン系ユダヤ人であった。とされる。当時の大英帝国の東方進出に協力し、まず
インドのボンベイに拠点をかまえ、やがて東インド会社が支那に阿片の密輸を開始する
と、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。19世紀半ばに、阿片戦争に破れた清朝が
上海に租界の設置を認めると、途端に時を移さず上海に進出し大商人になった。阿片を
含む物資の売買を中国販売をしたからだ。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融・
不動産・交通・食品・重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。
その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』 『ファーイー
スタン・インベストメント・カンパニー』 『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海
プロパティーズ』 『イースタン・エステート・ランド』 『キャセイ・ランド』、重機械
製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』 『中国公共汽車公司』 『中国鋼車製造
公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれていた。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、
カドーリなどと共に『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。1930年頃、
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達
男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はない。と言ってよかった。ここでグラバーは
武器をうる死の商人と言われる噂を払拭するかの様に、サッス―ン商会と対抗したのだ
った。つまり『上海碑酒公司』というビール会社に対抗して、バターフィルド・スワイ
ヤに近づき、三井・三菱を、渋沢栄一と引き合わている。この、仏国系バリバと英国系
のHSBC(香港上海銀行株式会社)は、熾烈なシェア争いがあった。更に、幻の合衆
国第一銀行と朝鮮銀行が存在している。これは、アメリカの名を冠したものの、ロシア
系、中東系とも言える物だった。これらは、日本の各藩が連れて来た銀行だった。

256 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/11(月) 01:14:56.69 ID:OfesVFuQm
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   214  維新の頃の風景

 香港を舞台にした映画は、いろいろと沢山あるが、『将軍』の原作者、ジェームズ・
クラベルによる『ノーベル・ハウス(Noble House)』は あまり知られていない作品と
言えるだろう。『将軍』と同じテレビドラマシリーズだったそうで、このDVDも2枚組。
主演は若き日のピアース・ブロスナン。ジェームズ・クラベルものが割と好きな部類で
DVDは、随分前に売っていたものですが、これがもう、すごいんです。すごい事件が
次々に起きる(ネタバレしてもいいくらい歴史に忠実に書かれた)と言われている物。
最近の映画では『バトルシップ』で確か中国銀行が派手に倒されていたような気がしま
すが、このドラマでの犠牲者は日本のキリンビールのスワイヤー家の御曹司で、ビール
中国では清朝時代以降の近代化のプロセスで、サッス―ン商会を初めとする 香港のイ
ギリス植民地支配に、英国資本と関係が深かった。スワイヤー・グループの中核企業は
香港の「スワイヤー・パシフィック社(Swire Pacific Limited)」で、現在でも 香港
証券取引所に上場している。ピアース・ブロスナンは、1816年にジョン・スワイヤーが
(John Swire(1793年〜1847年)がイギリス・リバプールでスワイヤ商会(John Swire
 & Sons Limited)を創業して後、香港へ進出した頃の話の主人公として模写している。
「・・・・・よくこんなあらすじが許されたなーと思うような・・・・・。」という意見は大間違
い。現実のサッスーン商会やロスチャイルド家と敵対し、悪行をされた記録から出来て
いる。若きイケメンのタイパン、ピアース・ブロスナンのオフィスは、セントラルのジ
ャーディン・ハウスにあります。そう、あの丸い窓のビルです。1972年築の「超高層ビ
ル」という立ち位置にあった。作家のクラベルは、第二次世界大戦で王立砲兵隊に入隊
、1940年にマレー半島に従軍し、日本軍の戦争捕虜となっている『アジアン・サーガ』
シリーズを出し、ドラマ化作品や映画『大脱走』や『いつも心に太陽を』の脚本などで
知られている。まあ、麻薬批判のスワイヤー家は、災難続きの日本進出だったのだ。

257 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:07:07.67 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   215  維新の頃の風景

グルームとパートナーシップを結び、グラバーはアーノルド商会を吸収し、「グラバー
商会」を設立し同年、グラバーは南山手3番地の借地権を獲得した。此の時の友人だっ
たアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、)は、1846年9月22日、イン
グランド・ブライトン郊外のベルノン・テラスで生まれた坊ちゃんだった。イギリスの
沿岸都市ブライトンアンドホーブの一部であるブライトンのモントピリアは、イタリア
風のリージェンシースタイルのアパートメントハウスである。中流家庭用の日本で言え
ばニュータウン式の集合住宅の事だ。ここで育ってウィルトシャーのマルボロ・カレッ
ジで学んで、この時の学友のトーマス・ブレーク・グラバーとともにグラバー商会を、
設立した兄のフランシス・グルーム(Francis Arthur Groom)の勧めで同商会に勤務する
ことになった。つまり、就職口が自国になく、兄を頼って日本にやって来たのだった。
訪日した後気に入って長崎での勤務を経て、1868年4月に支店を開設するための出張員
として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。と言う。順調にいくかと思われた
グラバー商会は、実は、ドイツ系のエドワルド・スネルのスネル兄弟やら、仕入れ本社
のマセソン商会の横浜支店やサミエル商会やフランス系アメリカ系と、商社は殺到して
横浜居留区が出来る頃には大赤字で、とうとう破産する。1870年にグラバー商会は倒産
すると、元同僚と 共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立した
。ここで、まだ高利潤があり人気だった「チッゴチィ:日本茶」の輸出と、中国紅茶の
輸入などを手掛けた。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが、業績が
思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の
輸出を続けている。

258 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:08:05.04 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   216  維新の頃の風景

 「チッゴチィ−」の銘柄は、実は八女茶の事であったが、グルームの商売の頃には、
既に嬉野茶が生産され、静岡でも育てられようとしていたころだった。そこで唐津陶器
や河内磁器も輸出した。この時の包み紙が、浮世絵の版画氏だったようだ。1897年神戸
外国人居留地内にあった、オリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターら
と共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。
ゲオルグ・デ・ラランデの設計で完成した。この新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ば
れ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエ
ンタルホテルの経営状態は悪化する。1913年に現在の阪神電鉄青木駅近くで横屋ゴルフ
・アソシエーションのあった土地をサミュエル商会に売却。1916年にはホテルの経営権
を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。1917年末、神戸外国倶楽部(神戸倶楽部)で
開かれたクリスマスパーティーに、来賓で出席したグルームは泥酔して玄関の石段で、
転倒し脳震盪を起こした。翌1918年1月2日、同じ神戸倶楽部で 開かれた新年会に出席
したグルームは、またもや泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口からの
破傷風に感染したことが原因で9日に死亡したのであった。遺言によって葬儀は仏式(
日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の
墓に葬られた。戒名は英知院具理日夢居士。妻の実家・宮崎家は、出は大牟田であって
宮崎滔天が縁戚にいた。また、数多くの革命家を輩出した黒田藩の互助会の玄洋社の、
支援もした様だ。しかし1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体と
変貌し日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれた。グルームは六甲山の開発に力を注
いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことで、趣味の狩猟で多くの動物を
殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうと
したことにあった。とされる。しかし、杉山龍丸に出会った事も大きかったようである


259 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:09:14.74 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   217  維新の頃の風景

 1895年、長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など、3つの村
から納涼遊園場敷地として借りると、まず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を
建て、その後別荘地を、外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てら
れた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。彼はスポーツマンで 神戸
の外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸リガッタ・
アンド・アスレチック・倶楽部(KRAC)の設立に深く関与した。グルームはKRACに高齢
のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立つ。
工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもと
に1903年、初の会員制ゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が発足した。グルームは植林や桟道
の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いている
。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は 100人以上を数え、別荘地一帯は
「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼
ばれた。倉場富三郎は、1871年、父・グラバーと母・淡路屋ツルとの間の子に、トミサ
ブロー・アワジヤ・グラバーがいる。イギリス系日本人で倉場富三郎で名を通し苗字に
あたる倉場はグラバーのもじりであった。1881年(明治14年)、メソジスト派キリスト
教の宣教師C・S・ロング博士によって創立された加伯利英和学校を経て学習院をに入学
した。が直ぐに中退、アメリカに渡り、オハイオ・ウェスリアン大学とペンシルベニア
大学で生物学を学び、1892年に帰国後、父・グラバーが起こしたグラバー商会から分か
れたホーム・リンガー商会に入社。同時に、長崎汽船漁業会社も設立。深紅丸という船
を輸入。日本にトロール船と底網を使用したトロール漁業を導入した。長崎魚市場の新
たな始まりである。一方、大学で生物学を学んだことから水産学者としての一面もあり
、『グラバー図譜』と呼ばれる水産動物の図譜の本を編纂したり、同じメソジスト派の
学校として青山学院(東京)、関西学院(兵庫)などの設立にも寄付している。

260 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:30:26.81 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   218  維新の頃の風景

父・グラバーよりも多才な富三郎でしたが、晩年は芳しくありません。日英のハーフで
ある富三郎は第二次世界大戦中にスパイ容疑をかけられ、不自由な生活を強制された。
さらに、愛する妻の死別と、故郷・長崎の原爆投下と度重なる不幸の結果、終戦後に、
入牢から解放されたが、身寄りもなく自死した。だがそこにやって来たのは小森氏だっ
た。小森のおばちゃんと揶揄されるが、当初に茶や生糸を扱っていたグラバーの世話係
で、佐賀の小森野を管理しさせていた下女であった。その後、日本の情勢を見て武器商
人へと方向転換し、多くの藩と取引を行いに出かけ横浜まで行ったわけであるが。明治
維新後は、蒸気機関車の開通、肥前藩との契約による高島炭坑の経営に着手し、日本の
近代化を一気に進め、晩年にはグラバー商会が破産するも、高島炭坑の経営者として、
日本の長崎に残って過ごしていた。その後も三菱財閥の相談役をしたり、国産ビールを
開発したりなど、精力的に活動した。明治の時世の頃。グラバーと日本人女性との間に
生まれた息子が、倉場富三郎だった。しかし、親子の性格は、まるで異なっていたのだ
。富三郎からグラバーに宛てた手紙には、“偉大な”父に対してコンプレックスを抱く
息子の姿が、大きく浮かび上がる。日本の近代化に貢献して、東京で栄達を重ねていく
闘魂化した経済人のグラバーと、故郷・長崎で父の影のように、ひっそり生きる事で、
自分を守る富三郎。グラバー家の愛と葛藤の日々がそこにあった。しかし友人渋沢敬三
に出会ってから、人格が変わる。渋沢敬三は、日本の実業家の祖父渋沢栄一から、渋沢
子爵家当主及び子爵位を引き継いだ、郷辣な男だった。1896年(明治29年)08月25日、
渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれるていた。敬三の下に弟が2人が
いた為に優しい親分肌があった。敦子の父、つまり母方の祖父方は、羽林家の公卿の出
であり、元老院議官を務めた伯爵橋本実梁だったのだ。第16代の日本銀行総裁、第49代
大蔵大臣(幣原内閣)を務めていて、経済にうるさい有力者だった。

261 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:31:15.87 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   219  維新の頃の風景

 渋沢敬三の父の渋沢篤二は、全く病弱であって、渋沢栄一と妻の千代の次男であった
。神田裏神保町で生まれてながらにして病弱なのは、1862年に誕生した栄一の長男の、
市太郎も同じで、長男は夭逝した。この頃こそは、全く日本中は、開国騒動の中で貧困
で食糧不足にして、一番の不景気だった。1876年、渋沢家は深川福住町に転居。1882年
、9歳の時に母に千代までが病没、その後は姉たちに育てられた。と言う。学習院を出
て、私塾龍門社を作って塾長を任せられた。当初は、渋沢栄一邸に寄宿する門下青年達
の、勉学や成果発表の場として発足したが、1886年(明治19年)に組織化された。命名
者は、栄一の旧師にして、従兄かつ義兄の尾高惇忠である。鯉が滝を登り成長して龍と
なるとの 中国の故事にちなんだ名だという。所謂登龍門の龍門社なのであった。渋沢
栄一の活躍に伴って、次第に栄一を慕った 経済界で活躍する人々が集い始め、会員数
は著しく増加していく。その中での、我が子渋沢篤二の留守居役としての起用だった。
1924年(大正13年)に、栄一が唱える「道徳経済合一主義」の下に、経済人の、知識や
徳性の向上を目的に掲げる財団法人となり、講演会、談話会を開催し、会誌の発行など
を精力的に行った。太平洋戦争中は、軍部の目があって中断を経たが、戦後には活動を
直ぐに再開させている。渋沢栄一資料館の所蔵資料の中で、判明するのは、最古の総会
は、明治22年4月7日に、曖依村荘で開催された第2回総会である。その様子は雑誌の『
竜門』 第12号に記されており、総集会には渋沢栄一夫妻を始め、渋沢篤二社長ほか 百
十数名の会員が参加し、また十数名の来客で、演説会、園遊会、演劇、という内容で、
あったことが分かっている。 この演説会では、まず 渋沢篤二社長による挨拶、次に
社員の尾高次郎、阪谷芳郎ほか17名が熱弁をふるい、最後に、渋沢栄一により「商人の
本務を示す。」と題して演説が行なわれたようだ。

262 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:31:41.52 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   220  維新の頃の風景

 この演説会の次は、渋沢栄一主催による 園遊会でこれは静かに。桜を眺めながらの
「菓子、蜜柑煮込、甘酒」から、「立食の饗応」に移り、和やかな時間が流れた。とし
午後6時の夕刻からは演劇が催され、「碁太平記白石噺」「奥州安達原」そして幕間に
「鶴亀の舞」「元禄の舞」などの、芸妓(げいし)の舞曲がありました。この総会は、
「帰るを忘れしむる程」の大盛況で終了したのが、午前1時過ぎだった。当時龍門社員
たちの熱気が伝わってくるも、渋沢栄一の不満も伝わる。又、『竜門雑誌』第24号には
、明治23年04月20日に開催された第四回春季総集会にて、余興として運動会が催された
記事が見える。同誌には、曖依村荘の庭に「球灯及各国の国旗」が装飾されたとの記述
があり、渋沢家に仕えた芝崎確次郎の日記には「惣出賑々敷候事」と、当日の賑やかな
様子が記されている。運動会は「旗奪競争、片足競争、幼年徒競争、角力、巾飛、高飛
、撃剣、障害物競走、徒競走、来賓競争、拾菓競争」などが行なわれ、入賞者には靴下
、手帳、鉛筆、サルマタ、参考書、タオルなどの賞品が授与された。社員はもちろんの
こと、子供や来賓も参加して、「観者をして或ハ笑ひ或ハ怒り或ハ驚き或ハ惜しましむ
るありてい。と、興多かりき」雰囲気であった様子が『竜門雑誌』の記事の文面がある
。『竜門雑誌』における過去に開催された総会の様子が現在までの開催場所や、プログ
ラム内容が公開されているが、一貫して渋沢栄一の考えを受けつぎ、それを広めようと
する活動であった。総会は、関東大震災や諸事情により中止されたこともありましたが
、120年の 伝統ある当財団が現在も受けつぎながら継続している。この澁澤倉庫本社の
経済啓蒙の竜門社創立は、元々は書生以下弟子や門下生の発表の場のはずであった。

263 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:32:19.34 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   221  維新の頃の風景

 この澁澤倉庫本社の経済啓蒙の竜門社創立は、元々は書生以下弟子や門下生の発表の
場のはずであった。渋沢篤二の趣味は幅広く義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真
、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と多岐にわたる。どれもこれも、
栄一にとっては、金持ちの道楽にしか見えなかった。その上1911年、篤二が芸者玉蝶の
遊女屋に入り浸りであった事で、スキャンダルとなり、問題が表面化する。これを仕掛
けたのは、配送・輸送・倉庫業務で競り合っていた、三菱の関係者であるのは間違いの
ない事実だった。1912年1月に、株主の突き上げを恐れた渋沢栄一は、篤二の廃嫡方針
が渋沢同族会で決定された。1913年1月、篤二の廃嫡が正式に届出され、澁澤倉庫取締
役会長も退任する事になる。『東京朝日新聞』は「澁澤男(爵)の廢嫡訴訟篤二氏身體
繊弱の故を以て」という見出しで「篤二氏は明治40年3月頃より脳神経を病み、暫く、
治療服薬する内腎臓炎を併発し、それよりやや異状を呈し時折暴言を吐くなどの事が、
あった。」などと伝えている。栄一は、1915年、渋沢同族会を渋沢同族株式会社に改組
し、篤二に代わり跡継ぎとなった嫡孫・敬三を社長とし、翌1916年には第一銀行頭取も
退任し完全に引退する事にした。熊本第五高等中学校、つまり今の大学に行くも、1892
年に病のため自主退学する。家長であった父の栄一の勧めより、栄一の郷里の血洗島で
蟄居謹慎という処分を命じられた。篤二と芸者玉蝶のスキャンダルは渋沢を隠居に誘い
こんで孫の渋沢敬三と共に年帰京した。帰京後は家庭に良師を招聘して、英漢および、
法律経済の学を修めたぐらいであった。東京高等師範学校 附属小学校(筑波大学附属
小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業
。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には、祖父の栄一に
よって、澁澤同族株式会社が設立されて、同社の初代社長に就任した。

264 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/09/15(金) 10:45:21.15 ID:t0grfaAAX
 食の革命・・・・・・・・・・・・食べるの起源   222  維新の頃の風景

 当初、動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していた。この敬三
に期待する祖父・栄一が、羽織袴の正装で頭を床に擦り付け、第一銀行を継ぐよう懇願
したため、第二高等学校の英法科に進学した。1918年(大正7年)、第二高等学校卒業
後、東京帝国大学経済学部入学。1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて
「ビュッヘル氏の所謂、工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業
した。しかし、1913年(大正2年)渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡し。
祖父の栄一は、突然に、敬三を後継者に指名したのだった。がこの時、他にも兄弟姉妹
あるいは、有力な門下生がいない訳ではなかったはずだったが、懇願されて、大叔父の
天下に知れた栄一卿の独断を、誰一人も、断れず、敬三も断り切れなかったのである。
1914年(大正3年)柳田國男と初めて出会い、民俗学や自然科学に魅せられてしまう。
次の年大正4年4月に、東京高等師範学校附属中学校を卒業すると同時に、渋沢同族株
式会社が設立されて、同社の社長となった。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し
、9月に同校に入学した。この当時は、大学に行く者らは殆ど有力者で、会社の代表と
なっていたのが普通であった。高額な学資の資金と新時代に知識を求めるものしか大学
に入れなかったからだ。1918年(大正7年)7月第二高等学校卒業し、9月に東京帝国
大学法科大学経済学科に入学した。この法律や万国共通法の講師に、晩年のグラバーが
いたのだった。明治維新の立役者として幕末に何を成し遂げたのか、は話していない。
ただこの時、国際裁判として中国人奴隷の横浜裁判があって、非常に大きく新聞沙汰に
なったのだ。1872年7月9日の、清(中国)の壕鏡(マカオ)から、南米西岸のペルーに
向かっていたペルー船籍の、マリア・ルス号事件だ。航海中の悪天候から帆先を破損、
横浜港に、この修理のために入港し同船の清国人(中国人奴隷)苦力231名が乗船してい
たが、過酷な待遇から逃れるために木麗(モクヒン)をはじめとする数人の清国人が、
監視の目を欺いて海中へ逃亡し、イギリス軍艦(アイアンデューク号)に救助を求めた。

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