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諸葛瞻と閻宇は何をしたかったのか?

1 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 18:26:22 .net
閻宇(エンウ)。

キョウイが北伐してるときに対呉を担当してた人。
おそらくキョウイに次ぐ将だったはずなのに三国志正史蜀書には
エンウの伝は一切なし。諸葛センが反キョウイに周りキョウイと
エンウを交代させようとした時に名前だけ出てきた人物

このエンウが何を考えていて、どのような人物だったかが分かれば
蜀末期の事情が浮き彫りになると思いたててみた。

2 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 18:29:40 .net
お、建てれた。

スレタイ本当は「閻宇エンウ」だけにしたかったんだが。さすがに
それだけじゃ駄目かなと思い諸葛センもつけてみた。

エンウに関しては本当に史料が少ないんだよね。魏に攻められてる時とか
何してたんだろう?謎が多いと思う。そして正史の作者とおそらく同時代なのに
正史の扱いの悪さが一番の謎だと思う。

3 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 18:32:10 .net
蛆虫

4 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 18:54:41 .net
凡庸だから扱い悪かったんじゃね?
そもそも対呉戦線を構築する気がないなら、凡庸で問題起こさない奴で十分勤まる

諸葛センが凡庸であったかはこれから議論すればいいとしても、
北伐とか攻勢に反対した諸葛センの対応考えれば、あーでもないこーでもない言って来る
姜維のような性格とは異なる人物を連れて来たと考えれば合点がいく
軍事指揮官としてはさほど切れがなく、凡庸だが温厚な人物だったと考えれば
そいつに伝が残るほどの事績がないのも不思議なことじゃないだろ

5 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:37:37 .net
障害児乙

6 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:42:23 .net
しかもいきなりの自演スタート
もう痛々しいなんてレベルじゃねーぞコレ

7 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:52:36 .net
スーパーサイヤ人3

8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:57:12 .net
>>4
けど呉だよ?すぐ裏切るで有名な呉に対して凡庸な奴を
送れないでしょ。そこそこ実力はあったと思うが。

ていうか三国志正史の蜀書だと末期の対魏方面の事は
よく書かれてるけど。対呉はほとんど書かれてないんだよな。そんなに
呉といざこざなかったんだろうか。

9 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:59:25 .net
自演で荒らす基地外蛆虫

10 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 20:01:46 .net
資料はちゃんとまとめてから勃てたんだろうな、生姜

11 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 20:48:00 .net
>>1
いますぐ死ね

12 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 20:51:49 .net
おまえが死ね蛆虫

13 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 21:11:43 .net
生姜は何円?

14 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 21:13:08 .net
また1のコントがはじまったよ

15 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 21:13:58 .net
諸葛瞻と閻宇よりも、生姜の性懲りの無さの方が気になる件

16 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 21:16:08 .net
生姜叩きはこっちでやれ
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1267254676/

17 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 21:39:39 .net
生姜死ね

18 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 22:03:31 .net
ノ::::゙、 ヽヽヽヽ ゙、
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
 ゙、::::::::-‐''""" ̄"'i
  :V;;||:::: '~ニ=ッ, r='|
  i!f !:::::      ゙、i
  i!ゝ!::::     ‐/リ
  i::/:、 :::、  /''ii'V
  ̄ハ:::::\ "''il|バ''
ショカツリョウ
諸葛亮 曰く、

>>1
障害児氏ね

19 :1:2010/03/04(木) 23:36:52 .net
まあ、諸葛センとエンウというかなりマイナー所のスレだから
ゆっくりと進めて行きたい。

多分この二人の事知らない人の方が多いだろうから、明日あたり
三国志正史蜀書から重要部分を書き出してみる。


20 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 23:41:56 .net
>>19
死ね

21 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 23:47:10 .net
新参に舐められないようにあいつらが知らないような
マイナーな武将のスレ立てました(笑)


22 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 00:04:43 .net
諸葛瞻がマイナーとかありえん、ここは三戦板だぞ

23 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 00:21:51 .net
>>8
蜀と呉のいざこざは大抵蜀が原因だから
蜀が何もしなければ波風たたない

24 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 01:00:13 .net
つうか生姜がちゃんと漢字を使い続ければ波風たたない
  *     です   +  
     n      n
 + (ヨ(* ^+^)E)
      Y     Y    *

25 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 02:07:55 .net
>多分この二人の事知らない人の方が多いだろうから、明日あたり
>三国志正史蜀書から重要部分を書き出してみる。
別に書かなくていいよ。
孔明スレでバカにされたから新参に知識をアピールしたいだけなんだろ?

それよりも頭が悪いの治さないとどうしようもないぞお前

26 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 13:22:13 .net
>>19
無理だとは思いつつも、一応お願いしてみることにする。

今までのように「○○は有能、××は無能」と固定観念を前面に出して、
正史の記述を恣意的に切り貼りする行為はやめてくれ。
それでは話が先に進まないし、いつまでたってもネタスレから脱却できない。

あなたがそれをやらなければ色々と話せることもある。

27 :1:2010/03/05(金) 20:25:58 .net
とりあえず部屋掃除してちくま文庫版三国志正史5巻が出てきたので
「エンウ」に関する部分を「トウケツ」って人の所の補足で
「諸葛セン、トウケツはキョウイが戦争を好んで功績がなく、国内が
 疲弊してるのでキョウイを益州刺史にして軍権を奪うように考えた
 諸葛センはエンウとキョウイと交代させるように上奏した」
って書いてある。
でキョウイの欄の所には
「宦官のコウコウらが宮中にいて権力を我が物とし右大将軍のエンウが
 コウコウと結託した。しかもコウコウはひそかにキョウイを廃してエンウを
 立てんと願った」

とある。これだけでかなり情報が込められてるんだよな。

28 :1:2010/03/05(金) 21:29:20 .net
やっぱ諸葛センとエンウはマイナー過ぎたか。誰も付いてこれなくなりそう。

で上で指摘されたんでとりあえずは人物の優劣抜きに語ると上の情報でまず

諸葛センとトウケツが反キョウイだと分かる。でコウコウが中央の政治を取り締まってたわけだ
実質的な権力者はコウコウ。でエンウの方からコウコウに結託したわけだろうけど。

考察としておそらくコウコウは権力だけだったからエンウの持つ兵力が欲しかったんだろうな。
でコウコウとエンウが結託した時点でキョウイは成都から離れざるを得なくなった。
下手したらエンウと戦わなきゃならなくなるから。で状況を巻き返すために北伐をせざるを
得なかったって感じなんだろうね。

29 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 21:35:45 .net
【1986オメガトライブ】'86/4〜'88/3
カルロス・トシキ/黒川照家/高島信二/西原俊次
【カルロス・トシキ&オメガトライブ】'88/3〜'91/3
カルロス・トシキ/高島信二/西原俊次/ジョーイ・マッコイ

【主な製作陣】
プロデューサー:藤田浩一
作曲家:和泉常寛
アレンジャー/サウンド・プロデューサー:新川博
作詞家:売野雅勇
レコーディングエンジニア:清水邦彦/内沼映二
コーラス:木戸やすひろ/比山貴咏史
スタジオミュージシャン:有名陣多数

【PAPAYA】
マーティー・ブレイシー(Drams)/ウォーネル・ジョーンズ(Bass)/後藤輝夫(Sax/Perc)/大阪哲也(Key)

30 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 22:09:57 .net
ご自分で引用した『(姜維の度重なる出兵により)国内が疲弊してる』についてのご感想は?
陳祗の後を受けて朝政を預かる身になった立場で、
事実として国内が疲弊し、厭戦感が蔓延していたら手を打とうとするのは当然だと思うが。
(やり方が適切だったかどうかという問題は別にあるけど。)
どうしても「反姜維」というフレーズを使いたいようだけど、
姜維の北伐に懸念を抱くことを全て「反姜維」で括るのであれば、
成都はもちろんのこと、両車騎将軍だって該当してしまうぞ。

あと、閻宇の持つ兵力って言ってるけど、それどの程度だったかちゃんと調べてから言ってる?
とてもじゃないが漢中駐屯軍には質量共に遠く及ばないよ。

31 :1:2010/03/05(金) 22:19:07 .net
国内の疲弊についてはキョウイの戦争のせいなのか
コウコウの内政のせいなのかは微妙な所だと思う。

キョウイの戦争で疲弊した部分も少なからずはあったかもしれないが。
内政がよければ戦争してても大丈夫だろうし。曹操だって戦争しまくってたけど
大丈夫だったし。

あとエンウの兵力については蜀書には載ってないから分からないが。
コウコウ、エンウについで諸葛センやトウケツも繋がってるんだから
キョウイからしたらこの勢力は…

ダジャレになってしまうので書かないが

実質蜀は2分してたんじゃないかな。

32 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 22:42:18 .net
確かに誰も追いてこれなくなりそうだな。

33 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 23:19:01 .net
違う違う行ってるだけのやつよりはましだとおもうぞ

34 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 23:57:25 .net
こりゃ誰もついてけーやw

35 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 02:01:05 .net
>>8
軍事指揮官として凡庸であるって事は必ずしも無能である事とは違うだろ

百戦して百勝するような人間ではなく、取り柄もないが
呉に喧嘩を売らないぐらいの分別はあったって事
そもそもその程度の分別も持ち合わせてない奴なら高官になる事すら難しい

>>28
>やっぱ諸葛センとエンウはマイナー過ぎたか。誰も付いてこれなくなりそう。

ってかさぁ、その上から目線は荒れる原因になるんじゃね?
正直何の関係もない俺が見てもうぜぇと思えて仕方ないわ
考察としてのレベルも限りなく低いし

>実質的な権力者はコウコウ。でエンウの方からコウコウに結託したわけだろうけど。

ソースがないやん
ソースがないなら閻宇側からアプローチしたと信じるに足るものを何か出そうぜ

>おそらくコウコウは権力だけだったからエンウの持つ兵力が欲しかったんだろうな。
>でコウコウとエンウが結託した時点でキョウイは成都から離れざるを得なくなった。
>下手したらエンウと戦わなきゃならなくなるから。

姜維や漢中駐屯の部隊が内戦を覚悟せざるを得なくなるような方針転換を
匂わせるような記述があったわけ?
あったならご教授いただきたいものだ

>で状況を巻き返すために北伐をせざるを得なかったって感じなんだろうね。

あの…
北伐の意義ってご存知ですか?

36 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 09:43:01 .net
仮に、もし仮にだが

>>1が無知蒙昧なアホを装って衆人の興味を掻きたてるスレを立て、盛り上げようと敢えて
道化を演じているのだとしても、>>1の意見に全く面白みがなくてつきあう気にならんのよな
なんせ自分の都合に良い事だけを並べるだけなんで議論にもなっていなけりゃ
進行役にもなれてない

尤もこれが表裏ない姿だとしたら脳や人格に欠陥を抱えた知的障害者でしかない

37 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 10:28:34 .net
生姜は何をしたかったのか?
を考察するスレにした方がよさそう

38 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 11:25:46 .net
【主な製作陣】
プロデューサー:藤田浩一
作曲家:和泉常寛
アレンジャー/サウンド・プロデューサー:新川博
作詞家:売野雅勇
レコーディングエンジニア:清水邦彦/内沼映二
コーラス:木戸やすひろ/比山貴咏史
スタジオミュージシャン:有名陣多数

39 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 11:28:02 .net
海外メディアにはっきり「パニック発作」とかかれましたね。やはり自閉症か。
健常者なら男子が廊下を走ったからといってパニックなど起こさない。
自閉症児に登校拒否が多い。

40 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 11:43:46 .net
こうやって関係ないレスを何度も貼れば都合の悪い流れを潰せると思ってるのか、生姜は

41 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:03:38 .net
あちこちで関係ないレスやAAを貼りまくってるのがいる

42 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:07:27 .net
いいじゃん、どうせ終わった板なんだし

43 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:17:20 .net
別に板としては終わってない
生姜の活動が終わったのかもしれないが

44 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:32:40 .net
>>37姜維sugeeeeをしたかった

― 終 了 ―

45 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:40:14 .net
ぶっちゃけこの問題について答えられる奴はここにはいないので聞くだけ無駄っていうのもあるよな。

姜維が権力を掌握した過程がわからないと姜維の敵もわからない。

46 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:47:59 .net
結論:聞くだけ無駄

― 糸冬 了 ―

47 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 12:56:38 .net
半年ロムれ糞名無し

48 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 13:24:07 .net
>曹操だって戦争しまくってたけど大丈夫だったし
これじゃ頭悪すぎて新参にもバカにされるわなwww

49 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 14:51:12 .net
>>47
お前新参か?
ケツの力抜けよ

50 :1:2010/03/06(土) 15:57:33 .net
>>35
ソースって上で三国志正史本文書いて出してるじゃん。
アレ以上のソースあるの?

分かりやすく書くと
「宦官のコウコウらが宮中にいて権力を我が物とし右大将軍のエンウ「が」
 コウコウと結託した。しかもコウコウはひそかにキョウイを廃してエンウを
 立てんと願った」

右大将軍のエンウ「が」コウコウと結託した。

って書いてあるんだよね。コウコウのほうからエンウと結託したなら
右大将軍のエンウ「と」コウコウは結託した。
になるでしょ?

51 :1:2010/03/06(土) 18:15:36 .net
さてついでに諸葛センあたりについても書いておく。

今正史の諸葛センのあたりを読んでるんだがやっぱ記述がすくないんだよな。
孔明の息子だしもっと詳しく書いてもらいたかった。なぜ歴史書なのに末期の奴らは
扱い悪いんだろう。もっと均等に書かないと。

で重要だと思うのは諸葛センの息子が蜀が負けたのはコウコウを斬らなかったからだ
って嘆いてるんだよね。つまり諸葛センの息子はキョウイのせいで蜀が負けたのではなく
コウコウのせいだと思ってるわけ。
諸葛センの息子から見てもコウコウの政治ってのは間違ってたのだろうね。

52 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 19:36:59 .net

       魅 統 教 知 総
       力 率 養 力 合
中野区    82 68 88 87 325
ぷらっと   71 86 85 80 322
アンジェ   70 81 86 68 305
学徒出陣   82 68 67 70 297
陳Q      73 62 ? 83 297
Jominian   52 79 82 78 291
宇喜多    70 60 77 75 282
八戸のぶ   66 71 56 81 274
ととのえ   60 77 41 69 247
タケノコ   43 34 89 79 245
神ツコツ   72 39 55 71 237
氷雪     68 55 34 73 230
中山幸盛   58 44 66 60 228
ひょーりみ  59 50 48 55 212
六角先生   49 49 49 37 184
◆W何とか  53 51 21 35 160
石原     31 36 37 46 150
小銀玉    19 17 59 47 142

53 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 19:37:48 .net
>右大将軍のエンウ「が」コウコウと結託した。

右大將軍閻宇 與皓協比、而 皓陰欲廢維樹宇。

漢文は成績イマイチだったが、
「右大将軍の閻宇と皓は結託して、皓は密かに維を廃して宇を立てようと考えた」
みたいな意味なんじゃないかと思うんだが。
少なくとも閻宇がすり寄って行ったと解釈できるような文章じゃないと思う。


>諸葛センの息子が蜀が負けたのはコウコウを斬らなかったからだって嘆いてるんだよね。
>つまり諸葛センの息子はキョウイのせいで蜀が負けたのではなくコウコウのせいだと思ってるわけ。
>諸葛センの息子から見てもコウコウの政治ってのは間違ってたのだろうね。

華陽国志から引いてる台詞だから当時の蜀にそういう逸話が流布していた可能性はあるだろう。
でも蜀贔屓の裴松之が喜びそうなネタだから注に採録されてる時点で印象操作を狙ってる可能性がある。
本当に言っていたとして享年二十歳以下だろう諸葛尚がどれほど政情を理解していたか分らん。

54 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 21:06:39 .net
>>53
原文だされたら。俺も中国語は知らんし。詳しくは分からないけど
あそこあたりコウコウが主語になってるのに、その文だけエンウが主語になってる
からエンウが何かしたと思うんだが。じゃなきゃ普通に「コウコウが〜〜した」ってなると思う

ただこのちくま文庫版は結構日本語おかしい所あるから断言はできないけど。

55 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 23:05:09 .net
婉曲に言っても分からんようだからはっきり言うが、
文のニュアンスから行間を読みたいんなら原文に当たるべきだし、
訳文すらあえて我田引水的に解釈しなければ閻宇から黄皓に阿ったようには読めない。
言葉尻を恣意的に解釈するのは行間を読むとも考察とも言わない。

原文はこの辺から見ればいい。
ちくま訳と併読すれば最低限の読解はできるはずだ。
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%9B%B8

56 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 23:46:24 .net
横レスだが、1が正しいと思う

57 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 01:34:45 .net
>>50
>右大将軍のエンウ「が」コウコウと結託した。

閻宇が黄皓と関係を持った事は>>53氏も出してる

右大將軍閻宇 與皓協比、而 皓陰欲廢維樹宇

から理解できるが、それが閻宇側からのアプローチの
結果とは言い切れないそれは上の文章見たら理解できるでしょ
この文章でそんな事どこにも書いてないんだから
で、ソースは何なのさ?

58 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 01:51:39 .net
横レスだが、>>57が正しいと思う

59 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 01:56:16 .net
そもそも>>1>>28での「考察」は閻宇が黄皓にアプローチした
結果じゃないと成り立たないんだよな

そこの肝心な所を行間を読むだのちくま文庫版の主語がどうだの
語って誤魔化してるから話がおかしくなってる訳で
そこをきちんと確認しないで考察だって言うとか意味不明だろ

60 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 10:45:38 .net
「與」は「ともに」とも読めるが、「組する」とも読める。

『右大将軍閻宇は黄皓と組し親しんだ。
そこで黄皓は姜維を廃して閻宇を立てようと密かに考えた。』


ふたりで結託して廃しようと考えたのではなく、
仲が良かったからそっちを立てようと黄皓は考えた。

こうだろう。


>>28には同意できんが。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 15:43:33 .net
諸葛センの立ち居地ってどうだったのかね?
よく諸葛センが政治の実権握ったのは最後の3年ぐらい
みたいな事聞くんだけど。孔明の息子なんだから役職以上の権力は
あったと思う。

でコウコウとの距離なんだけど。べったリだったのか、あるいはセンはセンで
多少勢力があってコウコウと手を握ったのかでまたいろいろ変わってくる。

実際諸葛センとトウケツは最後の戦いに出陣してるし。何がしたかったのか。
キョウイじゃなきゃ勝てないのは解っていたんだろうか?

62 :ホモちゃん ◆rfq0gJoXn. :2010/03/07(日) 21:25:57 .net
あう〜♪あう〜♪
            ___
          . . :´: : : : : : :ミ: 、
       / : : : : : : : :\ : : : \
      /: : : : :′: : : : : : :ヽ : : : ヽ
      .′: : : :|: : : : : : : : : : : : : : : .
      |: :| : : :イ: : : ト: : : : : : !: i:. :|
      |ノ:|: _/イト: : ト廴ヽ: : :|ヽ:. : :!
    /}:ハ: !       \、|: |: :ト:|
       |: : :V. へ  , へ  :ソ: l:. :|リ   
     ル'| : :.} xx (OO) _ xx.  }: : :| }ノ`ヽ
       |人:{人  (, ̄,,|   イ: : :ル'   {
      V ` \  ̄‖ _.ノ}:/ }   }
       }  >――r―‐<  /  / /
       | /   ミ厂 ̄{彡  `ヽノ   !
      ノ_}  个i′  `ー‐、 ∨  {
       [_ノ  {ニ}シ也 シ召 i}  ヽ二}
      {   厂 r‐y‐、  '|   `T′
      丶__ノ   ヽ. ノ   人    /

63 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 21:46:59 .net
またカタカナ君か

64 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 21:50:40 .net
懲りないな

65 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/08(月) 13:33:41 .net
まともに会話もできないアホの立てたスレでまじめに語ろうなんて人はおらんよ

66 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/09(火) 00:18:06 .net
あげ

67 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/09(火) 01:13:55 .net
>>61
センはコウコウにベッタリだよ

68 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/09(火) 22:07:06 .net
実際、閻宇って蜀滅亡の時なにしてたの?

69 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/09(火) 22:15:53 .net
おなにーだよ

70 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 08:27:09 .net
>>68
魏軍の蜀侵攻。
    ↓
閻宇が兵(兵数不明。最低8000人くらい?)を率いて成都を救援。
    ↓
永安の守備に兵2000人を残し、羅憲に任せる。
    ↓
成都陥落。閻宇が永安へ引き返す。
    ↓
事後方針で対立。閻宇が羅憲に斬られる。閻宇の兵を吸収。
    ↓
羅憲が呉の陸抗らの蜀救援を拒否して、呉を追い払う。
    ↓
洛陽に参内。司馬炎に陳寿らを推薦する。

71 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 12:18:33 .net
相応しい最後だな

72 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 14:55:59 .net
 霍峻伝に付属する羅憲の記述によると当時、黄皓が実権を握り、彼に追随するものが多数いたが、羅憲だけが同調しなかったとある。
諸葛亮伝に付随する董厥の記述をみると、諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから宦官の黄皓が
政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって政治を矯正することができなかった。ただ、樊建だけは黄皓と特に親しく往来することがなかったとある。
つまり、諸葛瞻と董厥は黄皓に追随した側の人間ということになり、黄皓のおかげで昇進したということになる。
このことは、逆にいうと羅憲と樊建以外は全員黄皓とグルだったということになる。

73 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 17:52:20 .net
>>68
閻宇が羅憲に守備を任せた後、どうなったかなんて記述あったか?
増援に向かった後の動向は不明じゃないの

>>72
郤正みたいに睨まれなかった人も、出世しない状況だからね
黄皓が政治権力を握った結果、出世や左遷といった人物の進退が彼の手に握られたのは確か
羅憲の件を見れば分かる通り、少なくとも健全、公正な状況ではなかったようだ
陳祗死後の蜀漢のガタガタっぷりはひどいね
黄皓を引き立てたのも陳祗だけど、陳祗生存中はまだ官位も低いし、押さえ込む事は出来てたようだが、
段谷の敗北+陳祗死亡+姜維の事後対応の稚拙さで、もうどうしようもなくなったような印象を受ける

74 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 20:35:24 .net
黄皓は董卓に引けを取らない英傑だな。

75 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 07:13:57 .net
>>73
永安が混乱した際に羅憲が一人を斬って収拾させたとあるけど
もし斬られたのが閻宇だったら当然明記されるだろうから
少なくとも閻宇その他の名のある者ではなかったと思う

76 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 08:47:37 .net
私も凄い短小を見た事がある…
通常サイズだと毛で隠れて全く見えなかった(汗)

勃起すると親指の第1間接くらいのサイズ…

更にビックリしたのがフェラをしていたらいきなり射精をしたんだけど
口にシャワーを当てているのかと思ったくらい、勢いと量が凄かった…

自分はビチョビチョだしベットには水溜まりが出来てた(;-_-)

77 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 11:35:09 .net
>>75
確かに何も無いのであれば、書くのは当然。
ただ、何かあったのであれば、明記しないのが当然。
陳寿にとって羅憲は派閥の先輩であると同時に、
自分を晋王朝に引き立ててくれた恩人。
本来ならば、1人斬ったという
くだりですら書くのは憚るべきだった。
羅憲が死んでいたから書けたのだろう。

78 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 11:39:44 .net
>>75
羅憲は呉軍を撃退しているが、
残された兵士は、わずか2000で相手は陸抗。
どう考えても半年持ちこたえるのは難しい。
となると、羅憲の軍は2000では無かったと考えるべき。
では、何処から兵士を補充したのかと考えると、
永安に引き返した閻宇の本隊が合流したことが考えられる。
もしそうであるならば、なぜ閻宇では無く、
副将の羅憲が軍の指揮を取ったのだろうか。
答えは閻宇が死んでいたからとなる。



但し、閻宇が斬られたというのは、こじつけに過ぎないので、俗説の域は超えないことは明らか。

79 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 12:33:52 .net
いつも思うが、この戦役の話になると何故に主将が陸抗であるかの様に語る人が多いのか

80 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 12:42:06 .net
今、ふと、思い出したので、書いておこう。
お笑いの二人組で名前(コンビ名)はわからないが、
もう10年以上も前にブレイクした(それほどではないのかも知れないが・・・)。
二人とも常にスーツ姿だったが、
片方の男がスケッチブックのようなモノを持っていて、
もう片方の男が、「悲しいとき!」と言い、
相方がそれに続いて「悲しいとき!」と言い、
スケッチブックに描かれた内容を、やはり、二人で繰り返し言う・・・というモノ。
この二人組、或る時期からすっかりテレビに出なくなり、
最初は気にしていたが、そのうち、気にも留めなくなり、
やがて、コンビ名までも忘れた。
この二人組、今、どうしているのだろうか?

81 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 13:31:25 .net
>>78
えっ?そんなどうでもいいところイチイチ説明せにゃいかんのか?文字の無駄だろ。


82 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 13:31:47 .net
アンカー間違えたw

83 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 13:38:29 .net
で、主将は誰なの?

84 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 14:53:54 .net
悲しいとき!!

85 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 20:06:51 .net
>>79
三国志末期に詳しくて陸抗に高い評価を置いてる人はジョミさんだよ

86 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 20:34:03 .net
悲しいとき!

三戦に来てしまったとき

87 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 21:41:28 .net
>>77
閻宇は黄皓と親しかったとされていて
蜀漢滅亡後に(黄皓ともども)評価された形跡はない
だから西晋以降の史書において閻宇を斬ったことを「憚る」必要はない

また別に習鑿歯が特に閻宇に遠慮する理由も見当たらないから
羅憲が閻宇を斬ったのであればそれを書かない理由はない


88 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 21:59:33 .net
>本来ならば、1人斬ったという
>くだりですら書くのは憚るべきだった。
この理屈はわからないな
一人斬って恐慌を鎮めるのは良将の事績だ。
陳寿は嬉々として恩人の手柄を書き記しただろうに。

89 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 22:41:47 .net
>>87
前半意味不明。具体的な書物がわからん。

後半は習鑿歯は閻宇に遠慮する必要はないけど、羅憲には遠慮する必要がある。

物事の中心は羅憲であって閻宇では無い。

90 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 22:44:18 .net
>>88
当然のことながら(もし切った一人というのが閻宇のことであるのならば)
という仮定が抜けているけど、文脈でわかるだろ。

そもそも永安が騒ぎになったけど一人切ったから静まったといういトピックを
三国志においてわざわざ書くようなレベルの内容かというのが根底にある。







91 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 22:47:24 .net
閻宇は荊州南郡で羅憲は襄陽。習鑿歯は襄陽だったかな。
ただ閻宇は巴西の豪族である閻氏と何らかの繋がりがあった可能性はゼロではない。

92 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/11(木) 23:22:31 .net
>>90
ごめん
羅憲の一連の活躍が記されているのは確認したら「三国志」ではなく「襄陽記」だったわ。
陳寿は何も絡んでない。


93 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 00:30:35 .net
>>83
陸抗ではないとしたら歩協では

94 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 07:08:57 .net
>>89
>閻宇は黄皓と親しかったとされていて
これは三国志姜維伝及び華陽國志劉二牧志
(確かに親しかったというより協力したという言い方だけど)

>蜀漢滅亡後に(黄皓ともども)評価された形跡はない
三国志では閻宇は「馬忠に及ばなかった後任」としてのみ書かれて
他にはほとんど記録がない

>だから西晋以降の史書において閻宇を斬ったことを「憚る」必要はない
閻宇が永安を混乱させて羅憲に斬られたからといって
それを伏せなければならない程閻宇に遠慮する理由はない
ましてそれで成功した羅憲に遠慮する必要なんてあるはずがない。


95 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 12:40:55 .net
OK,短小非童貞だが答えるぜ。
マジレスすると正直、赤ん坊ぐらいにしか勝つ自信は無い。
こないだ公衆トイレで用を足してるとき、隣に5歳〜7歳ぐらい?の男の子が立ったんだが
彼のを一瞥したら俺のより長かった。俺のは平常時3cmから4cm程度、彼のは推定5cmぐらいだった。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 15:35:11 .net
ちんぴょこ

97 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 16:38:53 .net
これは勃たざるを得ない

98 :勃起 ◆VzgxTOiYuo :2010/03/12(金) 17:37:37 .net
立つぞ!!

99 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 19:36:10 .net
このスレは呪われています。

100 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 20:55:32 .net
>>94
華陽国志は三国志の内容を補う記述が多けれども、この部分は賛同できない、
黄皓はは中常侍であり、おそらく彼の意向により諸葛瞻や董厥が重職を務めることに
なったわけだから、「ただの遣い走り」なわけが無い。
それから20年近くも前に死んだ董允の名前が出てくるのも不自然だ。
実際は董允死亡時、黄皓は黄門丞でしかなかったのは事実だけれども、
陳祗の死亡時のときも黄門令だ。昇進はしているがそれほどというものでも無い。
これはおそらく当時の巴西太守が董允の孫である董宏だったことが
不自然なほどに董允を持ち上げている理由なんだろう。董允伝は注意して読む必要がある。

101 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:04:03 .net
>>94
閻宇は馬忠に及ばなかったのは事実だけども、馬忠の職責や経歴を越える人物などそうそういない。
蜀漢にあって馬忠に比肩する人物は蒋エン・ヒイ・姜維といった大将軍録尚書事クラス。
とにかく比べる相手のレベルが違いすぎて閻宇が優秀だあったとしても、馬忠には及ばない。
閻宇が無能であったとしても、馬忠には及ばないという評価になるので、
実際閻宇がどちら側であったのかはわからない。


102 :陳湖辰蔵 ◆Rcd/XF1OWg :2010/03/12(金) 21:05:22 .net
立つぞ

103 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:14:53 .net
>>94
羅憲と閻宇についてだが、これは終始羅憲側の視点に立って考えるべき。
巴西の大姓である閻氏との関係があった場合も考慮する必要性はあるけれども、この際それは考えない。
つまり、成功したとかしないとかというのは現代人の感覚であって、もし、それがそうだったら、どうなるかというと、
副官の身でありながら、上司を斬り捨てた軍規違反者、裏切者という汚点が羅憲にはついて回るのである。
これは絶対避けなければならない。つまり遠慮する必要性がある、だけど嘘は書きたくない。だから、ああいう
微妙な表記になったと考えることも出来なくはない。陳寿の三国志を読んだ当時の人々は実際を知っているから、
あんな記述でも「あー、あの事件はこういうふうにぼかすわけね。」で理解してくれるけど、
西晋以降の人々はそんな事情を知らない。

104 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:17:18 .net
>>94
華陽国志は三国志の内容を補う記述が多けれども、この部分は賛同できない、
黄皓はは中常侍であり、おそらく彼の意向により諸葛瞻や董厥が重職を務めることに
なったわけだから、「ただの遣い走り」なわけが無い。
それから20年近くも前に死んだ董允の名前が出てくるのも不自然だ。
実際は董允死亡時、黄皓は黄門丞でしかなかったのは事実だけれども、
陳祗の死亡時のときも黄門令だ。昇進はしているがそれほどというものでも無い。
これはおそらく当時の巴西太守が董允の孫である董宏だったことが
不自然なほどに董允を持ち上げている理由なんだろう。董允伝は注意して読む必要がある。

105 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:18:15 .net
>>94
閻宇は馬忠に及ばなかったのは事実だけども、馬忠の職責や経歴を越える人物などそうそういない。
蜀漢にあって馬忠に比肩する人物は蒋エン・ヒイ・姜維といった大将軍録尚書事クラス。
とにかく比べる相手のレベルが違いすぎて閻宇が優秀だあったとしても、馬忠には及ばない。
閻宇が無能であったとしても、馬忠には及ばないという評価になるので、
実際閻宇がどちら側であったのかはわからない。

106 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:19:23 .net
>>94
閻宇は馬忠に及ばなかったのは事実だけども、馬忠の職責や経歴を越える人物などそうそういない。
蜀漢にあって馬忠に比肩する人物は蒋エン・ヒイ・姜維といった大将軍録尚書事クラス。
とにかく比べる相手のレベルが違いすぎて閻宇が優秀だあったとしても、馬忠には及ばない。
閻宇が無能であったとしても、馬忠には及ばないという評価になるので、
実際閻宇がどちら側であったのかはわからない。

107 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:20:35 .net
ぴょこたん

108 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:22:17 .net
>>93
歩協はただの西陵の荘園領主で、親から受け継いだ兵士を領有しているだけで、政治的権利を持っていない。
というより孫休により西陵督を取り上げられている。この時期の西陵督は陸抗だ。?陸胤だったかもしれん。どっちだったかな。
この時期の孫呉の軍事の大権を預かっていたのは上大将軍の朱績(施績)。
それにしても孫呉の軍政は都督と督の違いがあるのでよくわからん。

109 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:26:21 .net
クマッタ荒らすな

110 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:36:09 .net
>>94
とりあえず
×華陽國志劉二牧志
○華陽國志劉後主志
何を寝ぼけてたのだろうか

>>101
いや実際閻宇はそこそこ以上には有能だったと思いますよ
(でなきゃ姜維の後任として擁立できないから)
ただ>>77が主張するような
「閻宇が羅憲に斬られたこと」をもみ消さなければならないほど
西晋以降の史家に評価されていたとは思わないというだけで

111 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:50:08 .net
>>103前後の人の意見って、
「もしも、羅憲が閻宇を斬ったという想定が成立するのならば、諸々の記述についてこれこれの解釈が成立する」
ということしか語ってないんだよな。
「羅憲が閻宇を斬ったという想定」が、彼の論旨のどこからも導き出されない。循環論法に陥っている。

112 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:51:24 .net
荒らすな

113 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:55:05 .net
>>111
そんなの当たり前だろ・・・。

114 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 21:58:01 .net
>.113
本人?
ならばそれは自分を卑下した言葉?
普通に文献史学の見地からすれば、当たり前のわけはないんだが。

115 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/12(金) 22:03:31 .net
>>108
歩協が西陵督を取り上げられたなんて記述あったっけ?
西陵督は歩闡が反乱を起こすまでは歩氏の職務だったと思うけど。


いずれにせよ、陸抗は関羽瀬から白帝までの都督だったので、
陸抗が出てきている以上、司令官は歩協ではなく陸抗になるのは当然だけどね。

この戦役で問題になるのは、楽郷にいた施績だろうね。
最終的に胡烈が歩騎二万を率いて西陵に向かう事で陸抗は軍を撤退させるけど、
楽郷にいた施績が何かした記述が無い。
仮に施績が襄陽に軍を進め、荊州からの軍の抑えとなっていたなら、
また別の結果になったかもしれない。

116 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:08:52 .net
>>114
他人が自分と同じ土俵に立っているのが当然と考えることは独善的だなとは思うね。


117 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:10:16 .net
おっ、ジョミっちが出てきた。

118 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:12:57 .net
>>115
西陵督が歩協から陸胤→陸抗に移ったということは、取り上げられたってことなんじゃね?

119 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/12(金) 22:26:32 .net
>>118
永安元年に陸胤が西陵督になった記述があり、永安二年に陸抗が西陵都督になった記述があるけど、
歩闡は歩協の後を継いで西陵督になっているので、やはり西陵督は歩協だと思うよ。

陸抗の西陵都督は、西陵に駐屯しているという事を示していて、
西陵督よりも上位の職務だと考えている。

陸胤の方は確かに微妙なんだよね。
歩騭が赤烏十年に死んでいるので、歩協伝を普通に読むと、赤烏十年に歩協が西陵督になっているのではないかと思う。
ただそうすると、永安元年に歩協から陸胤に交代している事になる。
しかしながら、歩協が西陵から別の任地に遷っているなら、
永安の包囲に参加しているのも、歩闡が歩協の後を継いだという記述も不自然になる。

歩協→陸胤→歩協と西陵督が移ったと考えるのが良いかなぁ、と思う。

120 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:30:23 .net
カタカナはジョミさんに憧れているが、真似した形式でレスしても知識の浅さが露見してしまうだけになってしまうw

121 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/12(金) 22:41:17 .net
>>120
彼が俺に憧れているようには見えないんだけどw

122 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:45:20 .net
いや対抗しながらも憧れてるよ、奴は
ただ、奴の場合いつも皆からフルボッコにされるけどね

123 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/12(金) 22:53:37 .net
>>122
そうかねぇ。よく分からん

124 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 22:58:04 .net
>>119
そもそも歩協が西陵督になったなんて何処にも書いてないんじゃね?

125 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/12(金) 23:01:56 .net
>>124
直接的には書いてないが、「協弟闡、継業為西陵督」という一文は、
歩闡が歩協から西陵督を継いだ事を意味しているように思えるが。

126 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 23:05:44 .net
>>125
フツーに考えればそうなんだろうけど、継業プラスアルファが西陵督なんじゃね?

127 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 23:34:05 .net
軍隊は世襲なんだし、職責も世襲じゃだめなん?

128 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/13(土) 07:55:45 .net
普通は爵位と領土で、官職は継承しないものなんじゃ?

129 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/13(土) 08:34:52 .net
『三国志研究 第三号』  2008年9月三国志学会編 研究ノート 孫呉における都督について 木村正博

(中略)
そこで問題になるのが、「継業」や「襲業」といった表記で表される世兵制である。
構造としては、「元来保持していた兵」、「君主からの授兵」、「兵の世襲領兵」、「官職等の既得権益の継承」。
これらの組み合わせによるものと思われる。都督の世襲について問題になるのは「官職等の既得権益の継承」の理解である。

『呉志』巻七・歩隲伝付歩闡伝に、
(赤烏)十年(二四七)年卒、子協嗣、統隲所領、加撫軍将軍。協卒、歩キ(玉へんに機のつくり)嗣侯。
協弟歩闡、継業為西陵督、加昭武将軍、封西亭侯。

とある。先述していることであるが、歩協ないし歩闡の西陵支配と重なって、陸胤が単一拠点による西陵の都督に任命されている。
そうした状況の中で歩協が西陵の都督であったとは考えにくい。さすれば「業」は都督を指すのでは無いということになる。
「業」は官職ではなく、西陵を支配するというような実質的な既得権益を指しているものと思われる。同じ土地をを支配し兵を世襲したからといって、
都督に必ず任命されるとは限らなかったかもしれないが、彼らの職掌は軍鎮都督のそれといっても差し支えない状況であったと思われる。
そうした点から都督の任命、都督の世襲傾向というものが生み出されていったのであろう。
(後略)

130 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/13(土) 08:49:00 .net
クマッタ^^

131 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 15:13:13 .net
そこあたりのさ三国志の生活 兵隊の給料とか税金の納め方
とかがどうだったとかが詳しく解説されてるサイトとかってないかな?

どうも江戸時代の感覚で捕らえてしまう。

132 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 16:34:03 .net
>同じ土地を支配し兵を世襲したからといって、 都督に必ず任命されるとは限らなかったかもしれないが、
>彼らの職掌は軍鎮都督のそれといっても差し支えない状況であったと思われる。

この部分の日本語がわかりにくい。

同じ土地を支配し兵を世襲したからといって、「必ずしも」都督に任命されるとは限らなかった「のであろう」。
「とはいえ」、彼らの職掌は軍鎮都督のそれといっても差し支えない状況であったと「も」思われる。

こうした方がスッキリする。

133 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 16:44:52 .net
>>110
もみ消すのは陳寿だけ。そして事情を知ってる人間はあれで見当がつく書き方となっているから
陳寿的にはあれが歴史家としてウソをつかずに本当のことを書きつつも恩人に迷惑がかからないギリギリのやり方。
そして陳寿以降の西晋の歴史家は、蜀漢の事情なんて知らないから陳寿の表向きの記述でしか史実を知りえない。
知らないのだからもみ消す必要も無い。つまり羅憲が斬ったのは成都の混乱を永安にもたらした「名もない誰か」であって、
それが具体的に誰であったのかを知らないのだから、注釈のつけようが無い。

134 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 16:52:59 .net
でも習鑿歯は知っていたかもしれない。もちろん親戚の祖先が羅憲だから都合の悪い事をかくわけねーけど。

135 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:06:56 .net
 で、僕が羅憲が斬った1人が閻宇だと思うようになった理由は、第一に成都を救援に行った閻宇の消息が不明なこと。
当時の閻宇の職責は南中の霍弋と同等であって省略すべきものではないと考えた。
 第二に永安に遺した守備兵2000で、歩協の軍を撃退したばかりか、陸抗軍3万の攻撃に半年以上耐えぬいたこと。
「羅憲スゲー!」で片付けるのもいいけれども、それで済むなら逆に「んなわけねーだろ」という考えがあってもおかしくないだろう。
羅憲軍が2000だった根拠は、閻宇が成都に進発した際に永安に2000遺したと書いてあるから。
だったら時間的に考えて陸抗と対峙したときは2000で無かった可能性が高いと考えた。
羅憲が1万人を超える規模の兵士を率いていたのであれば、陸抗軍3万が永安を抜け無かったとしても、まぁおかしくは無いだろう。
となると、問題は羅憲は一体どこから兵士を集めてきたのか?という疑問にブチ当たる。
そこで初めて「羅憲が斬った一人」という記述がある一つの事実を指し示している可能性があることに気づくのである。
 まぁ、仮定に仮定を重ねたトンデモ理論なので、胸の内だけにしまっておこうかと思っていたんだけど、
はからずもこの板で同じこと考えている人がいたので「俺だけじゃ無いんだ」と思ったものです。

歴史書は説明書が無い上に、パーツが足りないプラモデルみたいなものだから、残された部分だけで組み上げると
それっぽい物しか出来上がらんのよ。





136 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:07:07 .net
>>133
陳寿が永安防衛当時の羅憲の事績に触れた箇所ってどこ?
どこにもないように見えるが。
全て習鑿歯の筆によるものだろ?

137 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:18:45 .net
>>136
まじだw。じゃあ陳寿関係ないな。習鑿歯に訂正しておくわ。

138 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:24:31 .net
ttp://maps.google.com/maps?hl=ja&lr=lang_ja&oe=UTF-8&q=%E6%B0%B8%E5%AE%89&num=50&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
これが現在の永安周辺だが、見ての通り鬼のような難所。
ここは巴東郡の東の入口にあり、長江沿いさえ抑えて置けば、巴東郡への進入を完全にシャットアウトできる。
一城の防備が十分で士気さえ維持できれば、数千で守れる地形だろう。
逆に三万もいたところで数の優勢を発揮できる場所じゃないんだ。

羅憲は巴東太守と巴東領軍の二つの職責が知られており、「江邊長吏」つまり長江沿岸の郡県高官の同様を
抑えたことから、巴東郡への統制力を維持していたとわかる。
つまり羅憲は、常備兵2000を主力として永安で呉軍を遮断したうえで、後背地に当たる巴東郡の経済力や
人的供給力を回転させて半年に渡って防衛線(というか点)を維持したと推察される。

特に不自然な点はないね。

139 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:32:51 .net
>>138
そう聞くと不自然な点は無いんだけど、肝心の地図上のどこが永安なのかわからん。
永安市じゃなさそうなのはわかった。

140 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:35:33 .net
http://sakuratan.ddo.jp/uploader/source/date126649.jpg

おそらくこの写真のどこかだと思うんだけどね。

141 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:36:32 .net
おかしいな
まあ白帝鎮で検索ですれば現在の白帝鎮や永安鎮の場所がでるよ
そのどの辺に当時の永安城があったかまでは知らないけど

142 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:40:37 .net
http://sakuratan.ddo.jp/uploader/source/date126650.jpg

これが白帝鎮か!うーん。

143 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:42:18 .net
そもそも長江の流れって三国時代と全然ちがってるんじゃね?

水経注だっけ?当時の地図みてみないとわからんわ。

144 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:44:52 .net
疫病が発生した
ある程度予備があったので戦えた
三万の敵相手にも士気を維持出来た
よって半年間守りきれた

でも問題はないな
だが仮に斬られたのが閻宇だとして何故名前を伏せたのか?
一見美談に見えるが実は醜聞ということかな

145 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:45:50 .net
流域が南北に1キロくらいずれたって地形の困難さは変わらないよ

146 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:48:08 .net
578 名前:クマッタ ◆6heAgF.FgWp2 :2010/03/14(日) 16:06:54
まあ面白ければ何でも可
つまらなければ観なけりゃいいだけの話だ

ちなみに福井作品はローレライちょろっと読んで飽きて以来ご無沙汰

wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

147 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:51:53 .net
鍾会の乱でどれだけ死人が出たんだっけ?

148 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 17:59:56 .net
ttp://michio-h.sakura.ne.jp/kaigai-ryokou-1/sankyo023.jpg

孔明たちは何で通過出来たんだろう

149 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/14(日) 18:01:49 .net
>>126>>129
継業と為西陵督は、それぞれ別の事を指していると?

呉の軍制についてはろくに考えていないから、俺が間違ってるってのはあるかもね。
この辺は、史書を洗い直した上でまた考える事にするわ。

>>138
華陽国志巴志には、呉将の唐咨がシュン忍まで軍を進めた事が載っている。
「唐咨」ってのも変な話だが、歩協と歩闡を間違えるような華陽国志だし、
誰かと間違えて書いているってのは考えられる。
いずれにせよ、華陽国志の記述を信じるなら、
呉軍は規模はともかくとして軍を永安より西に進ませる事ができた、という事になる。

150 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 18:02:53 .net
クマッタ蛆虫の巣窟

151 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 18:21:08 .net
チンチン小さいのはもちろんのこと
黒いし、仮性包茎だしカリが以上に小さい・・・
おわた

152 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 21:44:12 .net
>>149
歩協と歩闡間違えてるん?

153 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/14(日) 23:41:40 .net
帰ってきてもスレが殆ど進んでいない。
それも俺のレスを境にして。

>>152
ttp://www.chinapage.com/big5/history/hygj1.htm
原文読むと分かるけど、完全に間違えてるよ。
時期も何故か泰始二年になってる。
他にも陳祗の死が景耀二年になっていたりする。
陳祗の死に関しては、ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20090311/p2
ここで言及されてるけど。


個人的には、歩協だ羅憲だ陸抗だは良いとして、この話題で施績に批判がいかないのが気になる。
なんでみすみす胡烈を西陵に行かしてんだよ、って感じだね。

この胡烈の直接西陵に向った道は、景元二年のケ由降伏に際して胡烈が取るべきだった道だと思う。
これは王基よって批判され、実行に移されなかったけどね。
呉軍の妨害を受けずに西陵近くまで軍を進められた事で、
胡烈は内心王基の鼻を明かしてやった気分だったろう。
既に王基は死んでたけどね。

154 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/14(日) 23:48:17 .net
ジョミさんに前から聞きたかったんだけど、孔明の死後〜西晋統一までは誰が主役のストーリだと思う?

155 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/14(日) 23:58:04 .net
>>154
物語じゃないから主役というものが存在するのかどうかも分からんし、
敢えて考えてみても、諸葛亮死後〜西晋の統一までの範囲全体で特定の人物を主役とするのは難しい。
全期間を通して目立っていた奴なんていないだろうし。

それを題材に物語を作るとしたら、最初は姜維を、次いで張悌辺りを据えるのが作りやすいかもね。
ただ、いずれにせよ、その時その時目立っていた人物をその回の主役にした方がやりやすそう。

156 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/15(月) 00:13:11 .net
そっかぁ、たしかに言われてみればその二人が主役なら良い感動がありそうだな。
ちなみに、三国志関連の資料本(小説形式)のものを何冊ぐらい読破したらそこまで詳しくなれるの??

157 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/15(月) 00:24:31 .net
>>156
俺がそれほど詳しいのかと言うと分からんけれど、
副読本の類は殆ど読んでいない。
学研の歴史群像シリーズの三国志上下とか、それと同系統の戦略戦術兵器事典【中国古代偏】とかぐらい。
論文も渡邉義浩氏の「三国政権の構造と『名士』」くらいしか読んでいないね。
あぁ、川勝義雄氏の魏晋南北朝と、白帝社から出てる「西晋の武帝 司馬炎」は読んだな。
小説は一切読んでない。

基本的には、適当に史料を漁りながら思い付いた事を話してるだけだよ。
なので、俺が話している程度の事なら、そこまで中国史の知識はいらないと思う。

158 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/15(月) 00:30:15 .net
今ひととおりググってみたよ。
その中だと、個人的に1番面白そうだと思ったのが「西晋の武帝 司馬炎」かな。
三国志末期を深く書いてあるのはコレかなと思ったけど、どう?
買うかも。

159 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/15(月) 00:33:00 .net
そういや姜維伝の小説が今月でてたな。正史三国志完全版(笑)より100倍マシな出来だった。

160 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/15(月) 08:30:51 .net
>>156なら論文以外は読んだな。
白帝社の司馬炎と講談社の魏晋南北朝は読んでない人は読んで損はしないはず。
それはそうと俺も論文が読みたい。

161 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/15(月) 21:12:04 .net
>>158
>>160の言う通り、司馬炎は読んでおいて損は無いよ。
多分図書館なんかにもあるから、一度借りて読んでみても良いかもしれない。

>>160
>>157で挙げた渡邉義浩氏のなら通販で買える。
汲古書院辺りで探せば、魏晋の頃の論文が色々出てくるだろう。
高いから中身分からないまま買うのは勇気がいるだろうけどね。

162 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 00:23:07 .net
>>161
どうも
そうやって入手できるのか…
懐に余裕ができたら是非とも探してみようかな

163 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 12:20:38 .net
レッドクリフに便乗して
その後の三国志とかいう研究書っぽい題名で
その実、中身は思い入れたっぷりの殴り書きみたいな本も
どさくさに紛れて出てたな

164 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 17:08:27 .net
三国志の考察本って演義なのか正史なのかはっきりさせないのが
多いからな。特に史料のなり後期だといきなり演義からもってきたりするし。

165 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 17:19:09 .net
では、アンジェのウンコと言うのはどうだろう?
人間の老廃物、異臭を放つ汚物、そう嫌悪するものも多く見られるのは確かである。
しかし、ここでわたしは問いたい。
貴方がたの汚便と、アンジェのウンコとは、そもそも普遍的な同一性を持って語られるのであろうか?
答えは否である。
神格化されたもの(ここでいうアンジェのウンコ)は、生れ落ちた瞬間、その神格性を同時に引き継ぐ。
つまり、他人の排便を好むスカトロジーを、フェティシズムが具現化した「自分への愛」というならば、
アンジェのウンコを好むことは、すなわち「神への愛」、という前者とは全く相対する思想なのだ。

わたしは、現代社会における信仰の喪失、また慈愛精神の忘失といった問題に、
三戦板住民たち原理主義者が立ち返り、人類に最後の警鐘をおこなっているかのように感じたのである。

166 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 17:21:51 .net
二つ年下の知り合いの女の子は高1から付き合ってる彼氏がいる。自分はその子と最初
知り合った時、一応童貞は卒業していたものの、初めて恋人ができてセックスをした年齢では
ずっと遅れをとっており、当然セックスをした回数も遥かに劣るであろうことも容易に予想できる。
自分が筆おろしもののAVやエロ本で無駄な精液を垂れ流していた時、その子は彼氏とホテルで
ベロキスをし、乳を揉まれ吸われ、マンコもけつの穴も舐められ、でかいモノをくわえたり
あまつさえぶち込まれてイってたのか、と想像してしばしばぬく。彼女にしてみたいくらい
可愛い子なので尚更。

167 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 21:05:23 .net
>>160
三国志研究入門(日外アソシエーツ,2007年)の
文献目録が参考になりますよ

ただ史学書の場合基本的に魏晋南北朝で1冊なのが多いから
そこまで読む気がないと買いづらいと思う

168 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/17(水) 08:45:34 .net
>>167
どうも
南北朝時代は興味アリアリなんで、いけると思う
講談社の魏晋南北朝は非常に興味深く何度か読めたし

169 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/18(木) 23:04:08 .net
さて大体エンウの動きが分かってきたかな。なんだかんだで
最後あたり成都の救援には言ってたのか。しかし救援に言ってたのに
リュウゼンはあっけなく降伏してしまったわけだから
いろいろあったんだろうけど。

コウコウってその後も生き延びたらしいけど。コウコウからしたら蜀で実権握ってた時が
一番栄華を誇ってた時代だろうし。コウコウからしても魏に負けるのは予想外の
だったはずなんだけど。リュウゼン降伏にもいろいろ合ったんだろうな。裏に。



170 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/18(木) 23:09:19 .net
>>169
誤字脱字が多いな。
  
         by曹操(レッドクリフ)

171 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/19(金) 10:05:38 .net
イメージの虐めを患ってるの

172 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/19(金) 10:12:48 .net
クマッタ蛆虫荒らすな

173 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/20(土) 14:08:57 .net
>>169死ね

174 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/03/21(日) 01:02:25 .net
閻宇と言えば宋書州郡志だな。
荊州の南浦県について、「劉禅の建興八年十月、益州牧の閻宇が羊渠より改めて立てる」とある。
建興八年って時点で怪しさ全開だけど。

175 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/21(日) 02:53:27 .net
>>169
>大体エンウの動きが分かってきたかな。

閻宇も黄皓も、なんだかんだでいろいろあっただけで済ますな

176 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/21(日) 09:37:14 .net
クマッタ死ね

177 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/21(日) 09:58:45 .net
ハッと顔を上げると髪の短い子が椅子の上で体育座りをしてて
僕にだけパンモロ状態を見せていた。
髪の長い子は脚を組んでこっちを睨み付けてる。

えっ?えっ?と思って顔を横に振ったけど2人とも僕を見たまま目を逸らさない。
それで、やんなきゃダメなんだと思って
周りの人がこっちを見てないのを確認して振るえる手でチャックを下ろして
ちんこをぽろりと露出させてしまった。
ちんこは真っ赤になっていてローションをかぶったみたいに濡れていた。
先っぽからドクドクとガマン汁が溢れてる。
脚がガクガク震えて何もしてないのにもう逝っちゃいそうだった。
髪の短い子はハッと驚いた顔でガン見してきてリアクションが大きかった。
髪の長い子は僕の顔とちんこを見比べて蔑むような目をした。
10秒くらいだと思うがとても長く感じた。

すると目の前にまたメモ書きが放り投げられた。
うそだよ〜 とハートマークが添えられて書かれていた。
えっ?と思った瞬間女の子たちは立上がり、笑いながら手を振って行ってしまった。
慌てて僕もちんこを仕舞い何事もなかったようにした。
残っていたドリンクを一気に飲み込んだ。
足が震えたままだったがその場を逃げ出したかったので急いでマックを後にした。

178 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/22(月) 22:40:06 .net
リュウゼンの投降が徳川慶喜並の政治的判断があったとして。
コウコウはリュウゼンに降伏を勧めたんだろうか?

あの時点で成都にはもう諸葛センもいないし。実際はコウコウ独裁状態のはず。
コウコウが徹底抗戦を言えば出来たはずだと思うんだが。
コウコウと魏でなんか取引でもしてたんだろうかね。生き延びたぐらいだから
合ったんだろうけど。

179 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/23(火) 07:36:17 .net
>>179
家系も学問も全く触れられない黄皓が文字通りの無能だったら
そもそも独裁できるまで成り上がれないだろうから
そこそこの小賢しさ(と口のうまさ)ぐらいはあっただろう
だから緜竹落城で勝ち目がなくなったという判断ぐらいはできたと思う

またその時点で成都にいた可能性のある高級将官なんて
病気で成都に帰ってきていた70過ぎの宗預(鎮軍大将軍)と
永安から来る予定だけど消息が分からない閻宇(右大将軍)しかいない
どっちにしろ成都で迎撃して何とかなるとは思わなかったと思う

あと黄皓が権力者たりえたのは劉禅の信任あってのことだから
降伏決定後はともかくその前から魏と繋がっていたとは思わない

180 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/23(火) 19:51:36 .net
高校生の時童貞だった僕の学校にはヤリマンで有名な子が何人かいた。中でも一年下の秋代ちゃんや府中さんは超有名なヤンキーギャルで、キモオタの僕はその子達に犯される妄想で何回もオナ二ーした。ある日階段の下からパンツ見たのバレて府中さんに蹴られた。たまんなかった。

181 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/23(火) 20:59:04 .net
>>179
エンウは成都まで行けたんだろうか?いけてたらエンウ&コウコウで
なにかしら生き残り策を講じてたと思うんだが。

ところでコウコウってどうやって生き延びられたんだろう?武将とか
政治家ならその後、使い道あると思うが。宦官って生き延びさせて
その後、魏で働くとかできるんだおるか?

182 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/23(火) 21:20:15 .net
府中さんに蹴られた、たまらなかった

183 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/24(水) 02:21:02 .net
閻宇です

綿竹陥落の噂を聞いた兵士が逃げ出しちゃって開いた口が塞がらなかったんです

184 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/25(木) 20:51:55 .net
なんか荒れてるな。板全体が荒れてるのかね?
昔はもっと落ち着いた板だったんだがなにがあったんだろう?

185 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/25(木) 21:00:57 .net
ヒント クマッタ蛆虫

186 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/25(木) 22:01:40 .net
クマッタが来た六年前くらいからここは糞板と化した

187 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/26(金) 08:07:23 .net
2010年ぐらいになってからやたらあらしが増えたと思う。

188 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/26(金) 12:45:14 .net
手口がWなんとかに粘着してた奴に似てるからコテ粘着が餌を探して人里に出てきたのかも知れんな

189 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/26(金) 23:14:58 .net
昔はじっくり議論できるいい板だったのにな。

190 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/02(金) 12:12:00 .net
あげ。 そろそろ荒らしは収まったかな。

191 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/02(金) 12:36:11 .net
ブス雲先生が高岡ふぁびょるくんと百原博史に輪姦されたって本当ですか?

192 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/06(火) 21:19:15 .net
生姜の兵馬の権を早く奪って閻宇に渡していれば蜀はあと30年は続いただろうに

193 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/06(火) 23:14:01 .net
>>192
どうだろ
姜維から兵馬の権を奪うということは
専守防衛に徹するということだろうけど
後任が閻宇だったら260年ぐらいだから既に遅いと思う

せめて費褘生存中にやらないと間に合わないのでは
(でも費褘は制御できてたんだよな…郭循さえいなければ)

194 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/07(水) 06:50:09 .net
>>193
費 が生姜に制約を加えて、一万の兵しか与えなかったのは、先見の明があったと思う

195 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/09(金) 21:17:45 .net
いやあそれはどうだろう?時間がたてばたつほど魏を倒すのは
困難になるだけだと思う。

196 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/09(金) 21:55:04 .net
その間に孔明なんか目じゃないよというくらいのスーパー宰相が蜀に生まれるかも知れないという可能性に賭けた

197 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/11(日) 17:45:52 .net
攻めさせて撃退を繰り返してたら、いくら魏でも国内で怨嗟の声が高まって自滅してたんじゃないかな


198 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/11(日) 20:46:00 .net
無理でしょ。国力差がかなりあるんだから
守ってるだけじゃ勝てないよ

199 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/11(日) 23:31:01 .net
なんだかんだで呉の情勢に依存してる部分はあるよね
二宮の乱が起こらなければ、呉は国力も人材も維持したまま
魏を牽制することができたわけだし

結局、一国だけで生き残りを図るには、あまりにも国力が開きすぎて
しまっていたわけで

200 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 08:07:40 .net
孔明時代にすこしでも領土広げておけば良かったんだよな。
孔明は大勝狙いすぎたのかね。

201 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 09:33:31 .net
孔明の戦略は堅実極まりなかったために大勝ちできなかった

202 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 09:55:30 .net
山超えたとこにちょっと領土持ってても維持難しいから野戦軍の撃破を狙ってたんだろうが
お前はゲームでもやってろ

203 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 15:35:20 .net
諸葛瞻が合戦を挑まず緜竹に立て篭もり、霍弋らと連係して挟撃すれば、蜀漢滅亡は防げた

204 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 15:49:20 .net
首都防衛が任務の諸葛瞻が籠城して敵をスルー、
まだ呼んでもいない霍弋とケ艾を挟撃するのかね。

205 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 16:45:42 .net
魏も政情不安だよ
三叛の乱がもっとgdgdになれば勝てた

206 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 18:59:07 .net
外から攻めるんじゃなくて。内乱を扇動するような作戦
建てたほうがよかったのかもな。


207 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 22:19:59 .net
>>206
関東に動揺を与えるような成果を挙げるには
成功率に目をつぶって魏延案のような大冒険をするしかないだろう
(長安奪って更にプラスがあるようなことしないと)

208 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/13(火) 10:09:54 .net
魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、いつも一万の兵を要請して、諸葛亮とちがう道をとり潼関で落ち合って、韓信の故事にならいたいと願ったが、諸葛亮は制止して許さなかった

魏延カワイソス

209 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 23:12:46 .net
諸葛亮は無難な策しか取れないから

210 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 01:55:59 .net
蜀は負けたら後がないからな
段谷とかもそうだし

211 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 02:09:45 .net
スレタイに沿うなら、董厥と諸葛瞻と黄皓は馴れ合いで維持してる自分達の権力を失いくたないから、
国を滅ぼす可能性がある姜維の北伐を辞めさせたかった。
閻宇は南中と永安の都督を歴任した政治家肌の軍人で、中央に従順だったから担ぎ出されたんだろうな。

212 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 00:04:22 .net
センは国のためにやったんだろうか?
権力のためにやったんだろうか?



213 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 00:15:39 .net
>>212
諸葛瞻の政治姿勢は「諸葛瞻と董厥と樊建達はお互いにかばい合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった」
「劉禅が信任する宦官黄皓の専横にはなすすべもなく、諸葛瞻と董厥は黄皓と私的な関わりを持つようになった」

少なくとも国よりは自分の地位と権力を愛した人だったようだね。

214 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 20:31:16 .net
けど最後の戦場にはセンは出たんだよな。
死ぬのを覚悟したのか?勝てると思ったのか?

晋に投降しても出世できなかったのかな。センは。

215 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 20:44:04 .net
降服すれば琅邪王に封じると言われたが拒否して抗戦した。

まあ、陳寿は北伐にも反対し、黄皓とも激しく対立していた蜀学の儒士ショウ周派に属する人間だから、
この蜀末期の政局には自己弁護が入っているだろうね。

216 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:12:38 .net
>>215
元漢帝すら「山陽公」として処遇した曹魏が
たかが諸葛亮の息子を「王」として処遇しようとした話に
信憑性があるとは思えないのだが

あと陳寿は蜀漢の政策に口を挟めるだけの立場に至っていないから
(華陽國志でも黄門侍郎に過ぎない)
師匠に対する「贔屓」はあっても「自己弁護」はないのではないか
(そもそも譙周が黄皓と激しく対立していたのなら
263年冬に劉禅の面前にはいなかったのでは)

217 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:52:12 .net
>>214
董厥も姜維への援軍に出て、剣閣で魏と戦ってるから、
さすがに平尚書事と衛将軍を兼ねる立場で成都に残っている最高位の将軍の諸葛瞻が、
出戦拒否できる立場じゃないと思うがね。
そんな事したら、地位も権力もそのままではいられない。
出戦するも地獄、出戦しないも地獄という状況に追い込まれてたんだろうよ。

あと、晋に降伏してもせいぜい太守か将軍止まりで、
蜀で平尚書事と衛将軍を兼ねた人間にとってはそんなの屈辱だろ。

218 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 22:20:47 .net
リュウゼンが降伏を決めたのはセンが死んだからかな?

センがいる時点で降伏ってパターンもあったんじゃないか?
リュウゼンの選択としては。

そういえばリュウゼンは勝手に降伏したっていう印象が強いけど
当然降伏派閥もいたわけだよね。独断で降伏したわけじゃないだろうし。

それはセンの派閥とは違うわけか。

219 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 23:09:17 .net
>>218
降伏を主導したシィウ周を中心とした連中は、
諸葛瞻や董厥とは一線を画していた派閥だったんじゃないかね?
諸葛瞻や董厥も前線に出て戦ってるし。
諸葛瞻や董厥の派閥は、降伏したら失うものが多過ぎるから、
「降伏するぐらいなら死んだ方がマシ」な連中だったんだろ。

220 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 23:24:58 .net
>>219
いろいろ派閥あったんだろうな。

コウコウ派閥に
セン派閥
に降伏派閥

で外にキョウイ派閥。

コウコウとセンは違う派閥だけどコウコウに従ってた
みたいなもんかな。コウコウが民主党でセンが国民新党みたいな
感じだろうか。

221 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 00:09:04 .net
>>220
諸葛瞻と董厥と樊建の尚書系派閥と、黄皓の側近系派閥は別だろうね。
諸葛瞻と董厥は黄皓と付き合っていたけど、樊建は黄皓と付き合わなかったから。
でも、手は組んでいたと思うよ。
降伏を主張したのは、政治の中枢と一線を画していた文官の派閥。

222 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 00:16:54 .net
>>221
けどコウコウって宦官だし、味方がいないと権力は握れない気がするんだよな。
側近系っていっても政治関係じゃないと。

コウコウは権力握る才能がすさまじかったとしても一人では
発言権はないと思うし。宦官は役職にはついてないでしょ?

223 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 00:39:29 .net
>>222
黄皓は中常侍。皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行い、絶大な権力を握る要職。
黄皓の派閥の人間の名前が歴史に残ってないのは、
派閥に歴史に名が残るような文武の高官がいなくて、
権力はあるけど歴史的には重要でなく名前が残らない皇帝の側近や宦官が多かったからだろう。
皇帝の側近も立派な政治関係の役職。それも権力は絶大。

224 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 08:14:17 .net
>>223
その前に宦官が権力握って大変になった事あったのに
なんの対応策もとらないで宦官使ってたのかね。


225 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 14:24:05 .net
>>224
黄皓は劉禅に寵愛されていたが、董允生存中は低い役職のままで単なる使い走りだった。
陳祗が政権を握ると、昇進して政治に関与するようになったが、
あくまで陳祗は黄皓を自分が権力を握るための道具として利用するだけで、
ずっと陳祗の使い走りだった。
陳祗が死ぬと、劉禅は一気に黄皓を中常侍に昇進させ、
黄皓は政治の中枢に入った。

黄皓も董允や陳祗のような頭を押さえ付ける人物がいれば、
有能な使い走りとして役に立つ存在だったが、
誰にも押さえ付けられなくなったら悪事を働くようになった。
要は使いよう。宦官は有能な皇帝や宰相の下では有用な道具だが、
無能な皇帝の下で頭を押さえ付ける人物がいない状況では害を成すと言う事。

226 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 18:32:44 .net
>>224
皇帝にとっては、宦官というのは礼や法に囚われることなく
自分の専制的意志を政治に反映させるために都合がいい存在なんだよ。
だからいつの時代でも繰り返し権力を握る。
今の研究では、宦官は皇帝権強化に寄与する存在と認識されている。

で、礼や法によって皇帝の勝手を抑えて政治を切り回したい士大夫に憎まれて
歴史にあしざまに書かれる。
国が滅びたとき、その要因に皇帝に信任されて権力を握った宦官の存在があることは多いが、
本来は必ずしも害悪の存在ではない。

227 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 19:00:31 .net
>>226
唐や明の宦官は、皇帝ですら廃立出来る権力を持っていて、
皇帝権をかえって弱体化させたがね。
その権力も元は皇帝権強化のために与えられたものだが。
皇帝権強化に寄与すべき存在が、皇帝をしのぐ権力を振るうと言うのも皮肉な話だね。

228 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 20:25:43 .net
明の場合は朱元璋は宦官を掣肘してたろ
彼の前半は士大夫の言いなりに近かったし
後半で粛清に走って独裁制度を敷いても宦官に権力を握らせることは無かった

永楽帝のクーデター以降だよ、明で宦官が権力を得たのは


229 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 20:29:10 .net
それに明の宦官には皇帝を廃立できる力はない
逆に皇帝が失墜すると宦官も一緒に失墜する
明最大の宦官である魏忠賢も天啓帝死後は身を保てなかった

230 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 21:03:03 .net
>>227
この場合の「皇帝権」というのは皇帝個人の権力のことではないんだ。
皇帝の意志人格を体現する権威・機関のこと。
漢武帝が尚書・中書に政治的権力を持たせて以降、中書・侍中・常侍ら中朝官が
専門知識に基づいて皇帝の意志を政策化する機能を持つ(この中で宦官や外戚が活動した。
外戚は後漢で外に弾き出されるが)。
尚書は「陛下の喉舌」と呼ばれ、そこから発される詔勅は皇帝の意志と同一視されたし、
節を持って皇帝の代行として臣下の前に諮問に赴くこともあった。
(光武帝の時代に尚書台が確立して、漢代型の中央集権は完成するとされる)。
丞相・三公を筆頭とする外朝は行政機関として専門家された。
この、「皇帝の人格」を体現する機関群の整備と、内-外の役割分化によって、
初めて、漢は巨大な領域を一律的な官僚制度によって運営し、
その頂点に皇帝(権)が君臨できるようになった。
このような集権モデルは以後多くの王朝に受け継がれる。

朱元璋が中書台すら廃止して彼個人の(本物の)独裁体制を確立したのは希なことだろうけど、
国家としてはそれを継続することはちょっと無理なわけで、やはり皇帝が側近官を重んじる傾向は
受け継がれる。

231 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 21:24:15 .net
皇幇と士幇の共存と相克が中国歴代王朝のお家芸
これが機能不全に陥ると反乱や侵略で崩壊する

232 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 21:57:56 .net
外戚が弾き出されたのは宋代だと思う
魏晋南北朝なんて外戚全盛期だし

233 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 22:04:37 .net
>>230
で、結局蜀において陳祗死後の黄皓はどの程度の権力があって、
どう劉禅の皇帝権の強化に寄与したのよ?
そもそも黄皓は何してたのよ?
姜維を閻宇と交代させるのにも、劉禅の意思が介在してたのかね?

234 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 22:55:09 .net
黄皓には、「宦人黄皓始專政」と明記されるほどの権限があった。
前後の例に照らせば、臣下からの上書は基本的に黄皓に知らされ、
黄皓は劉禅へ「助言」を行い、劉禅の意を受ける形で、内朝から外朝へ政策方針が伝達されたことになる。
これは政策の大指針や、皇帝の勅任である高官の人事考課をも黄皓が掌握していたことになる。
これを制度的に干渉できる者は確認できない。
勿論、最終的には劉禅の決断を必要としただろうが、黄皓は絶大な「専政」をしたと記される
わけだから、劉禅はかなりの程度で黄皓の判断に従ったものと思える。
すると、皇帝の意志は尚書を通して起草されて詔勅となり、
外朝の各部局(末期の平尚書事含む)はそれを執行する機関になってしまう。
諸葛瞻らは意見があれば上表しただろうが、重要なものは黄皓に口を挟まれてしまうわけだから、
政策の決定権を僅かなりとも取り戻そうとすれば黄皓に阿附するしかない。
後漢末の曹爽や王允が「権道(困難な時世に応じて便宜の方策で思想を実現しようとする道)」を取ったのと
同じ選択と言える。

勿論、劉禅、黄皓、諸葛瞻らの内心なんてものは計り知れないが。

閻宇について。
諸葛瞻らも黄皓も、姜維を更迭しようとはしたが、劉禅の勅は降りた形跡がないのが計画半ばだったのだろう。
劉禅がこの計画を全く知らなかったとしても不思議ではないが、真実は判らない。

235 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 00:08:48 .net
>>234
なるほど。外朝の宰相である平尚書事諸葛瞻・董厥と尚書令樊建も、
内朝を掌握した黄皓より力関係的に下だったんだな。
だから、「諸葛瞻と董厥と樊建達はお互いにかばい合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった」
「劉禅が信任する宦官黄皓の専横にはなすすべもなく、諸葛瞻と董厥は黄皓と私的な関わりを持つようになった」
ということになったんだな。実質黄皓は宰相をも凌ぐ蜀の最高権力者だったわけだ。

236 :234:2010/04/28(水) 00:35:13 .net
訂正。
後漢末に曹爽なわけないだろw
荀爽でした。

237 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 17:05:37 .net
キョウイがコウコウと対立したのははっきり残ってるんだよな。

リュウゼンというのは無能なんだろうけど、どのくらいの無能か
分からないね、コウコウの本質を見抜けなかったけど
キョウイを大将軍に任命したりしたのはリュウゼンなんでしょ?

キョウイが屯田するのをコウコウに申し出てるのも立場が
分からないな。キョウイの方が立場上なんじゃないのか?

238 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 17:27:14 .net
>>237
劉禅と言うのは、人に染められやすい人物だと言う評が正史にある。
有能な宰相の補佐がある間は、邪魔をせずに政治を任せる中華的名君で、
奸臣しか周囲にいない場合は、政治を混乱させる暗君になる。

姜維は漢中にあって、軍事国家蜀の軍事力の大半を掌握する実力者。
大将軍に任命されたのも強大な漢中軍をバックにした権力あってのもので、
劉禅では抑えられない存在。劉禅は費イ亡き後、
誰も抑える者のない権勢を誇る姜維を大将軍に任命するしか無かった。

成都の実質的な最高権力者である黄皓と、漢中軍の最高権力者である姜維は、
官職の上では姜維が上だが、実質的な権力では皇帝の代理人たる黄皓と同等。
姜維は敗北を繰り返していたから、漢中軍の権力は弱まってて、
宰相の諸葛瞻・董厥をも味方につけている黄皓の成都の方がこの当時は力関係的に上にあり、
姜維と漢中軍は政治的に敗北しつつあった。
だから、姜維は屯田を申し出て、成都の権力の及ばない範囲に逃れようとした。

239 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 20:18:38 .net
管仲≒孔明で桓公≒劉禅とか言われてるね

240 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 21:47:40 .net
桓公も管仲が死んでからはグダグダの暗君だったからね。

241 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 22:00:22 .net
孔明がすごいだけ?

242 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 22:03:37 .net
KOUMEI

243 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 22:19:55 .net
孔明はじっくり派閥を作る余裕があったからな。
降将のキョウイとは比べられないんじゃないの。

キョウイは結局立場的に戦争するしかなかったって
所なんだろうな。勝てば軍の発言権が増し
コウコウを無力化できただろうし。
圧倒的だった北伐前半に比べると後半勝率悪いのは
じっくりしてる余裕がなくなってたって事なんだろうけど。

244 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 22:57:22 .net
>>243
姜維は諸葛亮系の派閥の中で順調に出世して、
漢中軍という蜀の二大派閥の一つを掌握するまでに至った。
立場が危うくなったのは、成都の発言権が強くなってきたのと、
負けが込んできたから。姜維は立場を保つために戦争したわけでは無く、
自分の野心のために戦争しただけ。

245 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 00:26:13 .net
その戦争は戦略的に限定すれば利に適ってるわけだがね

246 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 00:39:24 .net
姜維が何を思って戦争したかなんて、史書から分かる事では無いだろう。
野心がどうのってのも傅子の記述にあるだけに過ぎない。

傅玄が姜維に関する例の記事の内容をいつ何処で収集したかは分からんが、
普通に考えれば姜維の郷里である天水で、時期は魏の末か晋の初めだろう。
早くても、既に姜維は魏の敵として認識されていた頃だろうし、
ある程度のバイアスが掛かっていたとも考えられる。

何にせよ、「自分の野心のために戦争しただけ」などと断定的に言うような事では無いな。

247 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 01:09:12 .net
義理も高いが野望も高いタイプに見える

248 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 12:37:23 .net
後主は歴代王朝の皇帝の中では中の下くらいでまだマシ


249 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 15:01:26 .net
>>246
姜維伝「姜維は西方の風俗に詳しく軍才を自負していたので、
羌族たちを仲間に引き入れれば西域を手中にできると考えていたが、
費イは彼の計略は僥倖を恃んだものと危ぶみ、一万以上の大軍を与えなかった」

国のためと言うよりは、自らの軍才を過信して、
功名心に駆られてそれに国を付き合わせたように見える。

250 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 15:41:28 .net
生姜は老母を見捨てる鬼畜

251 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 15:42:46 .net
段谷の敗戦は致命的

252 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 16:29:10 .net
姜維みたいな来歴でトップに立つのは不自然に見える

253 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 16:47:23 .net
生姜と鍾会の反乱が成功してれば…

254 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 17:22:50 .net
>>252
姜維は異国からの投降者とは言え、諸葛亮派の生え抜きとして扱われ、
諸葛亮死後も一貫して主流派に属し、派閥の中心人物として活動してきた。
派閥人事的には、費イの死後、主流派ナンバー2の姜維がトップに立つのは妥当。

255 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 19:59:56 .net
>>253
成功する要素が無い
内と外に敵を抱えてなるべくしてなった破滅

256 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 20:23:22 .net
>>249
惜しいなぁ。
その記述だけだとさほど説得力は無い。
姜維の戦略と、それに対する姜維の自信くらいしか読み取れないからね。


そこで反論する場合、陳寿の姜維評を出すべき。
「志立功名」とはっきり書いてあるんだな。
まぁ、結局は陳寿の感想でしかないので、それで断言できるかと言うとできないと思うけど。
陳寿からはそう見えた、という話。

功名、と言っても、負け戦ばかりじゃ功名にならないし、
実際にそうなったように国を滅ぼしても功名にはならない。
結局は、国家を繁栄させる事が前提にあるのだろうと思う。

個人的には、姜維の求めていたのは栄達や栄華ではなく栄光だろうと思う。
ただ、そんな単純じゃないだろうね。一つの行動原理で割り切れるほど人間は単純じゃないと思うし。
鍾会を煽って乱を起こさせようとしたり、魏を打倒する事への執着心が半端ではない。
色々な心情が複雑に絡み合っての戦争だったろうと思う。

257 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 20:56:15 .net
>>256
単純な人間ほど行動が粗忽になるから
姜維は単純なやつだったんじゃね?

258 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 21:15:14 .net
>>257
どう思おうと思うだけなら自由だろうね。
それが定説であるかのように語りさえしなければね。

259 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 21:23:07 .net
263年の蜀の配置は

沓中の姜維
漢城の蒋斌、楽城の王含、黄金囲の柳隠
陽安関の傅僉、蒋舒
成都→漢寿→剣閣の董厥、張翼、廖化
成都→綿竹の諸葛瞻、諸葛尚、張遵、黄崇
永安の閻宇、羅憲
南中の霍弋

でおk?

260 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 21:30:35 .net
>>259
大体そんなもんだが、廖化は張翼らとは別行動なので、一緒に括らない方が良いと思う。
廖化は張翼らが漢寿に着くより一月以上早く陰平辺りに着いていたしね。

261 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:01:17 .net
成都→綿竹の諸葛瞻、諸葛尚、張遵、黄崇

みんな文官ばかりじゃねえか。
こんな連中に軍を率いさせればいけなかったぐらい、
成都からは武官が出払ってたんだな。

262 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:04:37 .net
閻宇は永安の兵を率いて成都の救援に向かったが、消息不明。
間に合ってたら、綿竹の戦いは諸葛瞻じゃなくて閻宇が指揮取ってただろうから、
間に合わなかったんだろうな。

263 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 22:06:46 .net
そういや、緜竹に行った奴に李球もいたな。

>>261
中都護諸葛瞻、羽林右部督李球
この二人はもともと軍を率いる立場だよ。
まぁ、実戦経験が無かったであろう事に変わりは無いけど。

264 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:14:47 .net
沓中→陰平→漢寿→剣閣の姜維
漢寿の胡済、漢城の蒋斌、楽城の王含、黄金囲の柳隠、陽安関の傅僉、蒋舒
成都→陰平→漢寿→剣閣の廖化
成都→漢寿→剣閣の董厥、張翼
成都→綿竹の諸葛瞻、諸葛尚、張遵、黄崇、李球
成都の劉禅、黄皓、樊建、張紹、ケ良、張峻、汝超、蒋顕、李虎、裴儁、裴越、鐔承、譙周、郤正、張通
永安の閻宇、羅憲
南中の霍弋

265 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:18:16 .net
敗因は姜維と黄皓の連携ミスに尽きるような気がする
陳祗が後方に控えてれば段谷の負けがあっても弾き返せたんじゃね?

266 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 22:20:05 .net
諸葛瞻は中都護じゃなくて行都護だな、間違えた。

>>264
諸葛瞻が都護となった時に宗預が兗州刺史になっている。
胡済は兗州刺史だったので、この頃(261年)までに死んでいたんじゃないかな。

267 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 22:27:14 .net
蜀が滅んだ4年後の泰始四年、かつての中軍の士である王富が諸葛瞻を自称して反乱を起こした。
簡単に鎮圧されたものの、諸葛瞻を騙る事に有利があったという事だろうから、
この頃はまだ蜀漢を支持するものもいたという事だろうね。

268 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:31:46 .net
劉璿、劉ェあたりも忘れないで

269 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:36:28 .net
督漢中人事を放置したのが敗因とかどっかのスレで言われてたな

270 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 22:38:59 .net
沓中→陰平→漢寿→剣閣の姜維
漢寿の胡済?、漢城の蒋斌、楽城の王含、黄金囲の柳隠、陽安関の傅僉、蒋舒
成都→陰平→漢寿→剣閣の廖化
成都→漢寿→剣閣の董厥、張翼
成都→綿竹の諸葛瞻、諸葛尚、張遵、黄崇、李球
成都の劉禅、黄皓、樊建、劉璿、劉ェ、張紹、ケ良、張峻、汝超、蒋顕、李虎、裴儁、裴越、鐔承、譙周、郤正、張通、宗預
永安の閻宇、羅憲
南中の霍弋

271 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 22:57:01 .net
>>269
それを言ったのは多分俺だな。
どこのスレだったかは覚えていないが。

272 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:04:14 .net
>>271
伝統あるポストの人事を放置するなんてことありえるのかな?

273 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:07:17 .net
わからん

274 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:08:41 .net
生姜

275 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:14:50 .net
夏侯覇

276 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:17:39 .net
>>272
前任の督漢中が死んで、後任を決めるのに難航してる間に魏が攻めてきたのかも知れん。

277 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:18:43 .net
>>270の面子を見る限りいかにもありそうな話だな

278 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:20:38 .net
行動力が過ぎている姜維
判断力が過ぎている譙周、郤正

279 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 23:28:05 .net
>>272
伝統があると言えば伝統があるんだけど、調べてみれば分かるが、
督漢中は総司令官たる宰相が漢中にいる時は置かれない。

それに胡済が死んだのが261年だとすれば、諸葛瞻らが朝事を統べるようになり、
姜維が焦って黄皓の処刑を進言するほど追い詰められていた時期。

後任を決めるにしても、>>276の言うように難航した可能性は大いにある。

280 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:30:21 .net
焦って? 根拠は?

281 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:31:53 .net
姜維も大将軍で録尚書事だから、一応宰相なんだよね。

282 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:33:55 .net
敗戦で発言権が揺らいでるっつーことかな

283 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 23:35:01 .net
>>280
姜維から軍権を取り上げようとする動きがあり、
且つ、黄皓の処断を劉禅に進言するという性急な策に出た上、
それが原因で成都を離れざるを得なくなった事。

284 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:43:54 .net
あと、名目上は姜維が唯一の録尚書事で宰相だったのに、
いきなり平尚書事が二人も任命されて、宰相が三人になってしまって、
相対的に政界における姜維の地位が落ちたと言う事もあるかも知れん。

285 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/30(金) 23:49:24 .net
ところで黄皓の処断の罪状はどういうもの?

286 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/30(金) 23:59:18 .net
>>285
この話の載っている華陽国志には、
「大将軍姜維は黄皓の専横を憎み、後主に申し開き、これを殺そうと欲した」
とあるだけだから、特に罪状とかの記述は無い。

宦官が権力を握る事そのものに罪がある、という事なのかもしれないけどね。

287 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 00:22:43 .net
黄皓は鍾会の側近に賄賂を贈って生き延びたんだよな
世渡り上手い奴だよ

288 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 00:28:10 .net
>>287
それは演義の話。史実では消息不明。

289 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 00:39:13 .net
>>286
華陽国志ね ありがとう 調べてきた
読んだ感じ姜維は黄皓をまだ軽く見ていたように思える
黄皓がナメた事してくれたので処罰しようと言上したところ
劉禅が庇って相手にしてくれなかったので、そこで黄皓と劉禅の関係の深さを知り
危機を感じたってとこじゃないかな

290 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 01:14:46 .net
生姜マンセ

291 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 08:14:01 .net
魏の麒麟児 鍾士季マンセ親孝行 謀り事に失敗なし

292 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 08:16:37 .net
>>287,>>288
鍾会ではなくてケ艾ですね(董和伝)


>>249,>>256
姜維の真意は解らないけど

漢晋春秋に載っている費褘の発言によれば
費褘は諸葛亮の名前まで出して姜維を説得しているから
姜維の要求は費褘個人の権威では抑えられない程強かったのだろう
だから1万以下の軍で出撃させたのは両者の妥協だと思う

またどう考えても予想外であるはずの費褘暗殺があった後
わずか数ヶ月で大軍を率いて北伐を行ったことを考えれば
姜維は余程北伐をやりたかったのだと思う

293 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 13:48:14 .net
>>292
もしかして費イを暗殺した黒幕は姜維じゃねーのってぐらい、
費イ暗殺から出兵までの手際が良すぎるよな。
普通、最高権力者が春に暗殺されて国が混乱しているのに、
夏に数万の大軍を率いて出兵とか有り得ない。

294 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 13:52:25 .net
>>292
姜維は官位では費イの下なものの、諸葛亮時代とその死の直後の暫定政権ではほぼ同格の地位。
その後も実質的には旧諸葛亮派の軍人としてトップの地位にあったもんな。
元は同格で同派閥のトップクラスの実力者とあれば、費イの権威で抑えられる存在じゃない。

295 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 17:43:51 .net
春にヒイが暗殺されて夏にキョウイが出陣かあ。
キョウイがヒイを暗殺した可能性とかもあるんだろうけど

ただ単にキョウイが凄かったってだけな気もするな。
キョウイは孔明と違って戦をするときはかなり素早いから
孔明は劉備が亡くなってから北伐するのに何年かかけたけど
キョウイは三ヶ月で決断実行。

296 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 18:37:16 .net
曹爽

297 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 18:42:16 .net
曹羲

298 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 18:59:47 .net
曹訓

299 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 19:06:38 .net
>>295
出兵にも準備が必要。諸葛亮が劉備死後、北伐まで何年もかかったのは、
夷陵の敗北で失われた戦力と国力の回復と、南中の反乱の平定と、
新体制の構築に時間がかかったから。

姜維の場合は、費イが死んだだけで蜀の国力も戦力も損なわれてないから、
軍隊を動員する準備だけすれば良かった。
それでも、軍権を握って数カ月で数万の大軍を動員したのは凄い手腕だと思うけどね。
あらかじめ費イに内緒ですぐに前線の軍を動かせるよう準備もしていたと思う。

300 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 19:14:22 .net
>>293
実は費褘の許可を貰って大軍で出撃する予定だったんですぅ
とかいうよりは可能性はあるだろうけど

蜀に残っていた費褘の評判を考えれば
彼の暗殺に黒幕がいたなら全く表に出てこないことはないだろうから
さすがに蜀内部に黒幕がいた可能性は低いと思う
(姜維が単独で仕掛けたのなら言うまでもなく
仮に成都と結んでいたとしても相手は陳祇あたりだろうから
誰も批判しないと言うことは考えにくい)

301 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 03:47:06 .net
蜀は史官が居らず政策についても記録が残って居ないために資料が少ない…とか、
何を馬鹿なことをと思ったが
民主党が与党の国会も議事録や委員会における動議について記録残してないんだってなw

302 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 11:02:32 .net
上庸から攻めようぜ

303 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 14:49:29 .net
>>302
蒋エンが計画したけど、計画段階で挫折した。

304 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 15:13:55 .net
劉備が死んだ時とか孔明が死んだ時って
魏で「今がチャンスだから攻めよう」みたいな話があったけど
ショウエンとかヒイが死んだ時ってあったのかな?

特にヒイなんて暗殺されてるわけだから蜀の国内ガタガタだって
宣伝してるようなものだし。
鎌倉幕府も実朝が暗殺された時にチャンスと思われて攻められたよね。

305 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 16:57:57 .net
>>304
特になかった。劉備・諸葛亮と蒋エン・費イじゃ存在感が違い過ぎるし、
死んだところで国内が混乱するほどの独裁体制敷いてたわけじゃないから。

306 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 19:27:25 .net
ショウエンヒイ時代からすでにキョウイの名が
轟いてたって可能性はないかな?

魏にしてみたらヒイとかの慎重派がTOPの方が
やりやすかったけどキョウイみたいな好戦派
に実権握られるのは恐怖だったとか。

307 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 19:35:35 .net
轟いていたかはしらんけど、姜維は費イ時代の北伐総司令官だから
当然郭淮らは姜維を相手にして戦略を考えていただろう。
それでもって姜維は費イが死んだ年のうちに兵力を増強させた侵攻を行っているわけだから
魏が逆侵攻する暇もない。

308 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:43:35 .net
夏侯覇だけじゃなく夏侯玄も亡命してたら重用されてたろうに

309 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:47:27 .net
>>308
夏侯玄って議論と名声だけで実務能力ないやん。
そんな奴に亡命して来られても役に立たんわ。
せいぜい名誉職の九卿ぐらいじゃね?

310 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:52:46 .net
政策立案と宮廷運営能力

311 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 01:31:36 .net
世語にいう。夏侯玄は世間から人を見る目があると評価されていた。
中護軍になると、武官を抜擢し登用したが、軍門に集う武士は俊英・豪傑ばかりとなった。

312 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 03:05:19 .net
玄なんてきちゃったら扱いかねて殺害してたような気がする

313 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 03:18:50 .net
敵国の皇族なんてこれ以上無い宣伝材料だぞ
覇の代わりに車騎将軍かそれ以上は確実

314 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 03:47:58 .net
蜀末期ってそんなに人材って不足してたのかな?

315 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 05:17:16 .net
30年前に死んだ諸葛亮時代の生き残りが軍部と政府のトップに立ってて、
それ以降の時代に育った人材はほとんど伝が立った人物がおらず、
名前のみの登場。若手や中堅の層はかなり薄かったんでない?

316 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 06:28:09 .net
軍の人材は悲惨
ケ芝と宗預が互いの年齢が70超えてることを皮肉ってる
張翼も最後まで現役だったし
魏呉の健全な世代交代ぶりを考えると悲惨なんてもんじゃない

317 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 07:11:03 .net
>>315,>>316
人材そのものがいなかったわけではないだろうから
可能性1:名を上げる前に異民族との戦いで戦死した
可能性2:名を上げる前に北伐で戦死した
可能性3:名を上げる機会もないまま国が滅びた
可能性4:名を上げても抜擢してくれる者がいなかった
どれだろ

318 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 08:15:37 .net
3だろうな
滅亡時には新たな人材が輝きを放ってはいるんだよ
羅憲とか柳隠とか
しかし、彼らが北伐に同道することは無かった
将軍というのはエリートだ
何より従軍経験がなければ大兵を与えられる事は無い

蜀には人は居ても育成される土壌が無かったんだろう

319 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 09:09:51 .net
分母となる人口が少ないとか、そもそもの
抜擢システムに問題があったとかそういうのもあるだろうね
魏の場合は司馬氏の作り上げた抜擢システムの恩恵をモロに
受けてるし


320 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 19:46:45 .net
>>315
亡国に立ち会った臣は滅多なことでは伝が立たない。
特に晋に仕えた時点で、普通は資格を失う。
姜維はともかくとして、ショウ周は明白なほどの陳寿の私情。
紀伝体上の記述の濃淡から人材の厚さを伺うのは拙い。

321 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 20:12:39 .net
>>318
でも姜維自身、あまり人材育成には向いてないタイプかもとは思う
たとえ兵力のプールに余裕があったとしても
実戦指揮官を何人も投入して広範囲での作戦行動よりも
手足のごとく鍛え上げた少数精鋭での遊撃を主にしてたっぽいから

そうなると段谷の敗戦が大きな痛手になるんだよね
あれで姜維が手塩に掛けて育てたであろう実戦司令官や
北伐以来の古参兵たちの殆どが討たれたって話だし

やっぱり戦術家はいても大局で国家運営が出来る
政略・戦略家がいなくなってしまったというのが
最終的には命取りになったのかも

322 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:09:01 .net
>>315
軍の中堅どころは敗軍の将であり、功績を立てる機会もなかったのだから
名前が残らないのも仕方がないだろう。
ただ晋書や華陽国志をよめば、有為な人材は結構いるよ。
280年の呉の平定戦で活躍してたりね。

323 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:22:17 .net
>>320
伝が立たない理由はわかったが、
しかし、諸葛亮世代の次の世代の文武官で、
蜀時代に活躍した記録のある人物がほとんどいないのは、
やはりこの世代の層が薄かったからではないか?

>>322
功績を立てる機会なら、文官なら政治の実務や議論で、
武官なら反乱鎮圧や地方鎮撫や姜維の北伐などで十分にあったはず。
名前が残ってないのは、それに値する活躍をした人物がいないからではないかと思う。
蜀にいた時代に功績を挙げてて、晋につかえてからも功績を挙げた、
晋書や華陽国志に載っている人物がいたら是非教えてほしい。
呉の平定戦で活躍した蜀の旧臣とかいたら嬉しい。

324 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:26:50 .net
>>323
「諸葛亮の次の世代の文武官」ってのは、結構高い確率で蜀滅亡まで生きている世代だよ。
姜維が筆頭。
逆に、滅亡前に死んだ人間は立伝もされているし、記述も多い。

325 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:55:17 .net
蜀は北伐を繰り返してきたんだから
他国より実戦経験豊富な人材がいっぱいいると思うんだけどね。


326 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:37:13 .net
ハード面の国力、戦力は北伐連打と段谷でジリ貧
ソフト面の指導力は黄皓、諸葛瞻、董厥、樊建のおかげでgdgd
技術力に関しては蜀が最後まで一番なんじゃないかなとは思うが

これでは人材がいても滅ぶ、ということはいなかったのと同じことではないの。

327 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:42:24 .net
>>321
そういう連中の存在と支持が
姜維の発言力の源泉でもあったんだろうね

328 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:45:09 .net
>>323
ああ、誤解させてすまんかった。
俺が言いたかった「諸葛亮の次の世代」というのは、
「諸葛亮の時代の次の世代」。
つまり、諸葛亮に抜擢された連中の次の世代のことだわ。
姜維の次の世代だな。蜀末期の国の屋台骨を担っていたはずの
この世代の人物の記録がやけに少ないことが気になって仕方がない。

329 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:50:09 .net
そういや段谷で死んだ主な武将について
具体的な名前はあります?
でも、考えてみれば赤壁だってあれだけの大敗北にも関わらず
曹操軍の主だった武将は全員生還してるんだよね

330 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:55:24 .net
赤壁で死んだのは劉表系の人間だったんじゃないかな
それだとしても規模だけなら呉より上だろうし

331 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:56:17 .net
>>326
まぁ、末期は挙国一致とは言い難い状況であったことは確か
もう姜維を排斥して引きこもるか
逆に姜維がクーデターでも起こして実権を掌握するか…
陳シがいたころは彼が宮廷を押さえててくれたわけだけど

そう考えると段谷以降の姜維の行動は
自らの影響力を高めるため、疲弊を度外視しての行為にも思える
とにかく一戦でもいいから勝利を、結果を…みたいな

でもそれは成都に見透かされてて、実際の蜀征伐の際
救援要請を握りつぶされることに繋がったのかなと

332 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:59:58 .net
>>328
それだとなおさら蜀滅亡直撃世代じゃないか。
しかも、当時30-40代では記録が記されるような地位まで昇りようがない。
人の功績というのは、死んだとき、または退官したときの収支勘定で決まる。
最終的に高官となり、大きな功績を立てたと認められた人物だからこそ、
まとまった記録が編纂され、その若い頃に遡って、「こんな活躍もしてました」と書かれる。
幅広い世代の記述が少しづつずれながら重層的に書き記されることで、短い一時代の様相がやっといくらか立体的に見えて来る。
若い世代が高官に昇る前に国が滅びると、これがぶつ切りにされてしまう。

これと>>320が、亡国に「若い人材が育っていない」「小粒な人材しかいない」ように見える大きな理由。
もちろん、一般論として、有能な人材が出世するシステムが麻痺したから国が滅んだ、というのは大いにあり得るけどね。
個別の国々に適用されるかどうかはまた別の話。

333 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 23:12:23 .net
>>328
その世代的空白を埋めるのは親の権力基盤を受け継ぐ
二世・三世武将たちなんだけど
彼らが2国に比べてことごとく早世、あるいは能力不足だったというのも
人材払底の原因かも
諸葛瞻にしても本来なら姜維と共に戦ってなければならない立場だしねぇ

諸葛恪や陸抗・丁封・鐘会・陳泰・賈充らに比べると…

334 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 23:17:46 .net
諸葛瞻はアレだ…いつまで経っても監督になれそうにない
国民栄誉賞の人みたいな立場だったんじゃないのか?

335 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:09:12 .net
タイヤ、エンジン、ホイールは優秀でも
ステアリングが微妙だったみたいな

336 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:33:51 .net
ヘタに役職に就けるとボロが出たとき
経歴に傷がつくってやつでしょ

337 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:38:52 .net
>>333
× 鐘会
○ 鍾会

なんだってよ。俺も今までそっちだと思ってたが

338 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 14:38:09 .net
>>333
世襲による権力の移譲がスムーズにいかなかったのは
夷陵で荊州以来の旗本・譜代たちがほぼ全滅したのも大きいかもね

339 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 00:32:02 .net
羅憲が推薦した人達って、蜀時代は冷や飯?
それとも単に若造だから出番無し?

340 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 01:32:18 .net
羅憲が閻宇に拾われたいきさつを考えると冷や飯組じゃないかな

341 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 04:33:11 .net
>>333
そもそも受け継ぐべき基盤が荊州出身者にはないんじゃ…

342 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 12:53:41 .net
>>340
羅憲は太子舎人〜中庶子〜尚書吏部郎〜宣信校尉なんだから、中堅エリート官僚。
地方に左遷されたのは冷や飯と言えるけど、中央に残っていても高位高官ではなかった。
>>339
なので、冷や飯以前に若手〜中堅だから活躍する場がなかったんだと思う。

羅憲が推薦したのは常忌・杜軫・寿良・陳寿・高軌・呂雅・許国・費恭・諸葛京・陳裕。
三国志や華陽国志などから、彼らの蜀末の官職を書きだすと、

常忌(謁者、黄門侍郎、長水参軍、什邡県令、雒県令。父の常閎は漢中、廣漢太守)
杜軫(蜀郡功曹。譙周の弟子。父の杜雄は安漢、雒の県令)
寿良(州従事,散騎、黄門侍郎。父祖二代が犍為太守)
陳寿(観閣令史。黄皓におもねらず罷免)
高軌(不明。高翔あたりの子孫か?)
呂雅(謁者。呂乂の子)
許国(不明。本籍が南陽なので、許慈の子孫か?)
費恭(費イの次子。嫁は皇族。年齢的にも要職にはなかったのでは?)
諸葛京(諸葛尚の弟。蜀末にはおそらくまだ10代)
陳裕(陳シの次子。黄門侍郎)

343 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/12(土) 23:18:32 .net
こういうスレって急に人が消えるよな

344 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 00:00:41 .net
あげるか。

議題は閻宇の右大将軍が、右将軍のバージョンアップ版なのか、
車騎将軍が左右に分かれて設置されたように、
大将軍も実は左右に分かれて設置されてて、
そのうちの右大将軍なのか。

345 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:03:04 .net
大将軍を左右に分かれて設置のような気瓦斯

346 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:52:25 .net
てことは、姜維は左大将軍?最初は単独で大将軍だったのに降格だな。

347 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 19:00:38 .net
そういや昔むじんさんのトコでこの件について見た事あるな。

衛将軍(諸葛瞻)だけはノータッチだったのかな?

348 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 20:09:54 .net
呉側の史料で右将軍とされているものがあるから、右将軍に大を加えた者でいいだろう。

××大将軍や××左(右)将軍を省略して××将軍と書かれることはあるし、
それと思しき左右(大)将軍の例は後漢初期にある。

が、大将軍や驃騎・車騎将軍の左右分割を「左将軍」「右将軍」と省略してしまったら意味が通らない。

閻宇が、右将軍 → 左右分割大将軍 と昇進した可能性は残るが、
衛将軍諸葛瞻より高位と考えられる左右分割大将軍を漢中に派遣してしまったら、
漢中府の軍閥化解消という目的が徹底を欠くし、閻宇が左右車騎と衛将軍を越える格の持主だったとは
考え難い。

349 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 01:04:14 .net
閻宇はライ降都督から永安都督だから、諸大将軍でもおかしくない格。
しかし、永安都督に大将軍はいくらなんでも格が高すぎ。
右将軍の大将軍と考えれば、永安都督としてはまあ妥当な格だな。

350 :無名武将@お腹せっぷく:2010/08/04(水) 20:14:06 .net
あげ

351 :無名武将@お腹せっぷく:2010/11/16(火) 21:14:13 .net
ほげ

352 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/09(木) 17:25:02 .net
hige

353 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/17(月) 16:28:02 .net
諸葛瞻はお勉強では優等生だが実学の世界では凡人とゆうオチ

354 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/17(月) 17:56:39 .net
勉強ができたかどうかも良く分からないけどな。
鐘会や諸葛恪のような学識を伺わせる評判や逸話が無いし。
諸葛瞻の頭に関するエピソードは、諸葛亮が小さい頃の諸葛瞻のことを
「利発なのはいいけど、早熟じゃないかと心配してる」って、手紙に書いたぐらい。

355 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 13:27:20 .net
瞻の息子の諸葛京は県令になって評判良かったんだよね?
県令って今の日本でいうと町長くらい??

356 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 14:20:32 .net
県令は市長。県長が町長や村長ぐらい。ちなみに諸葛京は州刺史までなってる。
日本に例えると、いくつもの都道府県を束ねた関東とか九州とかの一つの地方を治める人。

357 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 16:56:09 .net
親父が偉大すぎたし、傾いた国を立て直す才覚はなかっただろうが、
二男のように適材に配されれば無難にこなせたんじゃね?
順調に出世してるし、人格等を非難される目立ったエピソードもないし。
そんな普通の優等生タイプの瞻に期待するしかなかったのが哀れ。
本人にとっても不幸だったろうよ。

358 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 17:44:01 .net
>>357
三国志本文の中で諸葛瞻のプラスの点って、書や絵がうまかったってことぐらいなんだよね。
あとは自分の地位が大事で大事で仕方ない小物って記述ばかり。

注にある評価でも「才能は無かったけど、国のために死んだ忠義は偉いね」って言われてる。

359 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 17:51:58 .net
三国志と関係ないけど信兼(信玄の弟)も書画が巧みだったそうな。
でも瞻と違って滅亡の危機に信兼は戦わずして逃げてた。
瞻は国に殉じて玉砕してなかったら後世の笑い物にされてたのかな

360 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 18:14:34 .net
>>328
30〜40代というと、瞻以外だと関統、関彝、張遵、趙広らがこのくらいの
世代だよな。大体蜀成立ぐらいから北伐期に生まれた世代というか。

同年代に杜預(222年生)や鐘会(225年生)がいる事を考えるとやっぱり層は薄いな。

361 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 18:47:43 .net
将エンの子の将ヒンとか費偉の息子(名前を失念した)とかは能力的にどうだったの?
政治の中枢には入ってないの??

362 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 19:14:09 .net
>>361
長男の蒋斌は漢城護軍・綏武将軍で、漢中防衛最大の要の漢城防衛司令官。
魏の蜀滅亡の時は、成都が落ちるまでずっと魏軍に包囲されてた。
次男蒋顕は後主伝と蒋エン伝では官位が違うけど、いずれにせよ高官。

費イの長男費承は皇帝側近の黄門侍郎で、次男の費恭は若死に。

363 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 20:26:52 .net
>>362
丁寧な回答に感謝


364 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 21:39:37 .net
領内にいい施策が発布されると諸葛瞻がやっていないことでも
民衆たちはこぞって葛候がなされたことだと瞻を誉めそやしたとあるが
親父の威光だけで自分の地位と名声が輝くのはメシウマだよなあ。

365 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 08:28:55 .net
>>364
そのせいで実績積む間もなく偉くなり過ぎて,
総大将として出陣して戦死する羽目になったのだけどね。
晋に降っていたら出世できたのだろうか。

366 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 11:27:10 .net
>>365
蜀や呉の高官で晋に降った後に仕官した人たちは、
みんなそれなりに栄達してるから、諸葛瞻もそこそこの地位には就けたんじゃないかな。

367 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 12:41:52 .net
陳寿て諸葛瞻に恥辱を受けたことあるらしいけど、
諸葛瞻は自分の地位や名声が高いことを鼻にかけて、けっこう傲慢なところがあったんじゃない?

368 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 12:56:15 .net
陳寿は父親の喪に服するというブランクがありながら三十台前半で代で黄門侍郎になるという、
末は九卿か侍中か尚書令・僕射かってぐらいのエリートだから、それを侮辱するってのはよほどのアホだろうな。

369 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 16:34:48 .net
>>368
しかも黄皓に屈しないで度々降格されたとされるから,
余程昇進が早かったのではないか。

もっとも成都にいながら黄皓に屈しなかったとすれば,
陳寿も結構強気な性格だったのかも。

370 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 16:43:57 .net
>>369
しかし、一番陳寿の経歴が詳細な華陽国志を見る限り、
とても順調に昇進してて、降格された形跡が全くないのな。
一年か二年刻みぐらいで降格→復帰or昇進を繰り返してないと計算が合わない。

371 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 17:13:31 .net
>>370
だとしたら,黄門侍郎まで順調に昇進したところで,
黄皓や諸葛瞻に嫌われて一気に左遷されてまくったのかな。
それだと陳寿は233年生まれで蜀漢滅亡時でも31歳だから,
20代のうちに黄門侍郎になったことになるけど。

372 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 18:21:44 .net
諸葛瞻はただのボンボンだったんだなw

373 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 18:34:23 .net
陳寿は最初に就いた官位が衛将軍の主簿。
諸葛瞻の主簿だったら3年で黄門侍郎まで昇進しなきゃいかんから、常識的に考えたら姜維の主簿と思われ。
そして、陳寿は姜維伝で、姜維の名誉回復を訴えた郤正の文章を延々と引用するという異例なことをしてる。
実は陳寿は姜維の息がかかった人間で、そのために対立派閥の黄皓や諸葛瞻に嫌われたんじゃないかというテスト。

374 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 21:30:24 .net
>>373
陳寿が姜維に近い立場だったなら、蜀での最終官位黄門侍郎は、
成都から追い出された姜維が実権奪還の為に侍中府に送り込んだってことかな。

375 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/23(日) 22:39:41 .net
郤正の姜維論はすげえ名文だよな
信者臭を感じさせないで、なおかつ姜維の立派さが良く分かる内容

376 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/24(月) 02:02:38 .net
陳寿の師匠が誰かを考えると、姜維よりには見えないな
郤正を持ち上げたのも、降伏した人にもこんなに立派な人もいますよ、みたいな

377 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/24(月) 07:24:47 .net
>>376
ただ衛将軍の主簿だったことを史実とする限り,
>>373氏のとおり姜維の故吏だったのはほぼ間違いない。
張嶷を見たことがあるというのも姜維の部下としてだろうし。

まあ姜維とも黄皓とも諸葛瞻とも仲が悪かったのかもしれないけど。

378 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/24(月) 23:30:38 .net
陳寿が姜維の主簿だったって話は、前もどっかであったな。

姜維の主簿と言えば、後は李密とか?
州従事、尚書郎を歴任した上で大将軍主簿となっている。
もっとも、彼の場合、二十歳で出仕したとすれば初出仕は243年なので、
従事と尚書郎を経ても253年以前に大将軍主簿、すなわち費禕の主簿だった可能性もあるけど。

その後の太子洗馬で蜀の滅亡を迎えているから、姜維の主簿だった可能性の方が大きそうだけど。

李密が姜維の主簿だったとすれば、彼が譙周らの集まる太子の元に行くという事は、
姜維の手足を奪う動きの一環とも考えられるね。

379 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/24(月) 23:42:34 .net
>>378
華陽国志だと、陳寿の最初の官位は衛将軍主簿なんだが、
陳寿が仕官できる年齢になってたと推測できるあたりで衛将軍やってたのが姜維と諸葛瞻の二人。
そんで、蜀が滅亡するまでに陳寿は衛将軍主簿から散騎侍郎を経て黄門侍郎まで昇進してるが、
諸葛瞻の主簿だったとしたら、諸葛瞻が衛将軍になった261年から蜀が滅亡するまでの3年間で、
散騎侍郎、黄門侍郎と昇進してなきゃいけなくて、そんな特進は無理だから、
姜維の主簿ってのが妥当だろうなと。

380 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/24(月) 23:55:22 .net
>>379
その話は分かってる。
陳寿の年齢を考えれば、姜維の主簿以外には考えられない。
同じ事を俺もどっかで言った記憶があるが、覚えてない。

ただ、ここで気になるのは「州の命に応じ」という点だな。
まともに考えれば、益州刺史の辟召を受けた、となると思うんだが、
費禕没後の益州刺史が誰であったのかいまいちわからない。
姜維は涼州刺史であったから、益州刺史にはなってないと思うんだよね。

孫盛の異同記の記述がどこまで信じられるかは分からないが、
諸葛瞻らが姜維と軍を引き離そうとした際に姜維に用意したポストが益州刺史だし。

順当に考えたら陳祗なんだろうか?
だとすれば、陳祗は自分で辟召しといて姜維の主簿にしたって事になる。
或いは、ここでいう州は涼州刺史としての姜維が辟召したって事なんだろうか?

381 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/25(火) 00:18:28 .net
>>380
蜀は劉備が漢中王になって益州牧が空席になってから、
諸葛亮が益州牧になるまでの間も益州の従事を置き続けてるから、
牧や刺史がいなくても、州の行政組織は存在したんじゃないか?
呉のようにほとんど揚州の州組織に依存しないでやってきたから、別に州の行政組織いらないって国ならともかく、
劉備陣営は荊州からずっと、劉備が州牧になって、その組織によって広域支配するって手法に慣れてたから、

382 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/25(火) 07:32:45 .net
>>378
>李密が姜維の主簿だったとすれば、彼が譙周らの集まる太子の元に行くという事は、
>姜維の手足を奪う動きの一環とも考えられるね。
晋書李密伝によれば,任官前に譙周に師事しているから,
どちらかと言えば最初から譙周側だった可能性の方が高いのでは。

もっとも譙周だって個人としては反姜維(というか反北伐)でも,
黄皓とは組んでいないから「反姜維派」じゃないでしょ。

383 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/25(火) 21:36:27 .net
>>381
蜀にしてみれば、益州がそのまま国家の領域と重なるので、
州行政と国家行政の境界がよく分からないしね。

ただまぁ、この場合、辟という字は使われず、あくまで「州の命に応じ」なので、
そもそも州刺史の辟召という形は取られていないのかもしれない。
その「州命」を出したのは誰か、という事は気になるが。

二十歳で出仕したなら252年なのでギリギリ費禕が生きている。
そうすると、費禕の命令で姜維の主簿に就くという、ちょっとよく分からない人事だね。
なぜ姜維に陳寿をつける必要があったのか、自分の属官では駄目だったのか?

>>382
あぁ、李密は晋書に伝が立ってたんだっけ、失念してた。すまない。

晋書にせよ、華陽国志にせよ、陳情事表において「少仕偽朝」とある。
「少」とは言え、十代で州従事も無いとは思うが、仮にあるとすれば、
益州刺史費禕の従事から尚書郎に移り、そこから大将軍費禕の主簿という経歴だね。
二十歳出仕としても、
そして太子洗馬となり、次代の貴公子たる地位に就いた、と。
太子洗馬としての期間が長いが、それもあるかもね。

そうだとすれば、李密が太子洗馬に就いたのは太子に侍していた譙周の影響が大きいかもね。

384 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/25(火) 21:54:05 .net
>>383
無官の若者が初出仕でいきなり蜀の実戦部隊総司令官の秘書のような重職に就くとは考えにくいから、
州に招かれて従事でもやった後に、茂才に推挙されて衛将軍主簿ってとこじゃないだろうか?

有名な人でも、州郡の属官時代の経歴がざっくり省かれてる人は珍しくないし。
たとえば、鐘ヨウが頴川郡の功曹だったり、荀ケが主簿だったりしたことは、本伝には載ってなくて、
英雄記に記載されてる。

385 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/25(火) 23:05:54 .net
>>384
まぁ、省かれてるってのはあるかもしれない。

弱冠で出仕してたら252年なので、費禕の死の直前だね。
姜維は255年に遠征先で大将軍になっているので、遅くとも255年には衛将軍主簿になっているはず。
253年は姜維は成都に帰っていないので、仮に前職があったとしたら254年正月の成都帰還以降に思える。

張嶷の戦死についても詳しく描写しているし、姜維の側にあって張嶷の死を目の当たりにしてたのかもしれないね。
そうなると254年正月か、それより以前に主簿になっているのかもしれない。

いずれにせよ、陳寿は、武について言えば徐質と王経を破った時の姜維の指揮を見ているわけだし、
文についても主簿として仕えていたのだからよく分かっていただろう。
評にある「姜維粗有文武、志立功名」この辺は率直な感想だろうね。

386 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/25(火) 23:14:33 .net
>>385
陳寿は張嶷と面識あるけど、張嶷が成都にいたのは短い期間だから、
会ったとしたらその時じゃないかと思う。

387 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/25(火) 23:59:17 .net
>>386
陳寿が張嶷と共に姜維の遠征に随行していたなら、
数ヶ月間は接する機会があったわけだし、別に成都にいる間に限定する必要は無いんじゃないか?

初対面は張嶷の成都帰還時だったとしても、益部耆旧伝の記述に至った材料はその時だけではないでしょう。
あれだけべた褒めしてるんだし、張嶷について直接色々見てると思うよ。

388 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/26(水) 01:09:53 .net
>>387
言葉が足りんかった。成都で知り合うよりは、北伐の軍中で会った可能性が高いんだろうなと言いたかった。

389 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/26(水) 11:21:21 .net
んもぅ…Jominian氏ったら、そそっかしいんだから…

390 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/26(水) 13:27:58 .net
実に素晴らしいスレだ。
神スレの予感

391 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/27(木) 07:34:09 .net
>>385
陳寿が対王経戦を見ているのであれば,姜維が蜀に帰還していないから,
翌年の対ケ艾戦(段谷)も現地で見ていることになる。
陳寿はその結果を見て姜維の北伐に否定的になったのかもしれない。

392 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/27(木) 14:30:33 .net
蜀という国家自体が、諸葛亮時代から内政と軍事の葛藤を抱えていたから・・・・
その点で、諸葛亮は割りと器用に回していたと思う
一概に姜維が悪いとは言えないが、彼の戦いは負けてはいけない戦いだったからな

閻宇は、彼自身の意図する以上に反姜維勢力に振り回された印象は強い。
姜維に次ぐ軍人だったのは、間違いないんだろう。
諸葛瞻も親の七光りというより、諸葛亮の再来を希望する人達に呑み込まれたまま
育った印象が強い。
未熟な軍事経験の割りに黄崇の進言を却下した辺りからも、自惚れてた気がする。
黄権親子は、才能あるけど蜀とは相性悪かったみたいだな・・・・・・・・・

393 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/27(木) 21:18:36 .net
ハンカチ王子みたいに周りの期待がものすごかったんだろうなあ。
孔明の息子。

394 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/27(木) 22:20:06 .net
>>392
諸葛亮は文字どおり全権を握っていたから自分の意志だけで回せたのだと思う。
もちろんそれで破綻させなかったから凄いのだけど。
姜維は政治に手が回らなかったから(出来なかったのかもしれないけど。)。

閻宇は南中、永安と重要拠点の司令官を歴任しているから実績は申し分なく,
しかも姜維とは直接の関係がないから担ぎやすかったのだと思う。

ただ>>382でも触れたけど,
姜維に反対する勢力といっても陳祗や黄皓と譙周とでは明らかに別物だから,
「反姜維勢力」というのが存在したというよりも,
姜維勢力以外は姜維に反発していたという方が適切だと思う。
(譙周の弟子である陳寿は陳祗や黄皓に批判的だし。)

395 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/27(木) 22:47:22 .net
>>394
陳祗が生きてる間は姜維は毎年出兵してて、段谷で負けても続けてたし、
大赦も頻繁に出してたけど、死んだのと同時にどっちもパッタリ止んだから、
陳祗はむしろ姜維の北伐を後押ししてた人間だろう。
姜維が狂ったように出兵できたのは、陳祗が執政してた時期だけだからな。

396 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/28(金) 02:18:16 .net
>>388
そいつはすまん。勘違いだったようだ。

>>389
その台詞で氏を付けられると、なんかこう…変な感じだ。うまく言えないが。

>>391
そういやそうだな。
255年の戦役に参加するという事は、当然の事ながら翌年にも参加しているわけだ。

自らの目で見ているのだし、この一連の戦いにおける陳寿の記述は、
少なくとも彼の目からはそのように映った事なのだろう。
ついに合流できなかった胡済の責を問うかのようなあの文章も、
事実はどうあれ、姜維の側にあってあの戦争を経験した者からはそう見えた、という事なのかもしれない。


姜維−陳祗ラインについては、昔から何度も語っているので今更細かく語らないが、
状況証拠に過ぎないが、種々の記述から陳祗は姜維の北伐に反対はしていない事が分かる。
それをどう見るかは自由だね。
蜜月のような関係だったのか、或いは互いに利用しあってただけなのか。
その辺りは妄想のし甲斐があるね。

397 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 02:49:06 .net
>>396
陳寿としては、黄皓を片腕にして、死後に権力を握るきっかけを作った陳祗と、
恩義のある姜維が結託して無かったことにいたかったんだろうって気もするが、まあ妄想の域を出ないな。

398 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 13:56:07 .net
蜀漢はまともな史書残してないから、色々と謎が多いな
姜維と陳祗の関係どころか、姜維の使った元戎の全貌も分からないし、
閻宇に至っては国家の大事に行方不明のままだし・・・・

399 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 18:22:32 .net
読んだ事ないんだけど晋書とかに三国志末期の事は書かれてるの?
晋の歴史書で人物伝なら時代的に三国志末期の事も書かれてるはずだと思うんだが。

400 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 19:10:44 .net
>>399
書かれてるよ。同じ奴でも三国志と晋書じゃ書いてる事が全然違ったりする。

401 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 23:17:08 .net
>>399
衛カン伝に書かれてる征蜀戦は三国志に載ってるそれとまるで違う印象で面白い

402 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 23:40:44 .net
魏呉からの視点がある反面、蜀視点の史書が少ないのは残念だ

403 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/28(金) 23:45:52 .net
>>402
華陽国志があるだろ。

404 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/29(土) 03:46:51 .net
>>403
華陽国志は、巴蜀限定なんだよね。
劉備は最終的に蜀へ辿り着いたが、人生の大半は中原や荊州で過ごした。
魏呉と蜀の接点の多くも中原や荊州なので、視点の比較で重要なのはこちらの方。
例えば、陶謙という人物は魏と呉で少々捉え方が違うが、肝心の蜀視点の評価が無い。

405 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/29(土) 08:30:11 .net
けどこの時代なのに歴史書ありまくってすごいよな。
日本だと日本書紀ぐらいしかないのに。しかも日本書紀の裏をとれるような
書物もないのに。

406 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/29(土) 19:53:36 .net
倭国の存在が分かるのも魏のおかげだしな・・・
そういう意味では、日本人に馴染み深い時代なのかも知れない
ただ、書いてない所は徹底的に書いてないので、もっと頑張って欲しかったw
見つかっていないだけかも知れないが

407 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/29(土) 23:01:29 .net
魏略はローマの元老院についても言及してたりする。

408 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/30(日) 13:05:07 .net
当時は西のほうから中国に着たりしなかったの?白人とかが。

409 :無名武将@お腹せっぷく:2011/01/30(日) 19:30:29 .net
高校の世界史の教科書を読めばいい



410 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/01(火) 21:00:27 .net
あげ

411 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/03(木) 07:55:38 .net
孔明の持ってたであろう組織とか支持母体って息子に継承されたのかな?

412 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/04(金) 21:21:36 .net
>>411
最終的に黄皓と組んで排除しようとした姜維は別として,
諸葛亮に信任された蒋琬や費褘や董允と諸葛瞻との逸話はないから,
人的資産としては継承されていないと思う。

というより,諸葛亮の場合支持母体以前に蜀漢そのものを支配していたから,
諸葛亮本人としては全部まとめて蒋琬に託したつもりでは。

413 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/04(金) 21:49:57 .net
>>412
諸葛瞻が歴史に残るような地位に登った時には、そいつらみんな死んでるじゃない。
諸葛亮の属官出身の董厥や樊建との共生関係は、諸葛亮の人的遺産じゃないかな?

414 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/05(土) 00:09:30 .net
諸葛亮は丞相となると自分の幕府に人材を集め、
それがほぼ国家の政治機構そのものになっていた。

諸葛亮の死によってそれは漸次解体され、その後は皇帝を頂点とし、
尚書などの朝廷の機関が政治を執り行うようになっていった。

諸葛瞻は親の影響もあって、その中で祭り上げられていったんだろう。
それを継承と呼ぶかどうかって話だが、個人的には、それは瑣末な問題かなと思う。

諸葛亮のような独裁体制は出現しなかったし、当時の朝廷自体が分裂気味だったし。
姜維にしろ諸葛瞻にしろ、かつて諸葛亮を支えていたものの一部を得ていたに過ぎないだろう。
直接に皇帝権力に取り入る黄皓の存在は、諸葛亮時代には見られなかった別の勢力と言えるだろうけど。

まぁ、継承したかどうかとかより、そういうのを全部ひっくるめて、
諸葛瞻がどういう流れの中であの地位に就いたのかを考える方が有意義かと思う。

415 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/05(土) 00:17:59 .net
諸葛亮の独裁が悪かったとは言わないが、蜀随一の有能な人物一人に権力を
集約していた事が、死後の蜀に負の影響を残した様な気もする・・・・・・
皇帝を中心に団結した国家運営をしていれば、諸葛亮死後も同体制の維持が
容易だったんじゃないかな。
現実には、諸葛亮の頭脳や手足がバラバラに残された様な状態で、彼以外には
それらを上手く連携せられなかった・・・・・・・という印象だ。
連携には、実質的な手腕が必要なので、世襲程度ではどうにもならなかった。

416 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/05(土) 00:36:17 .net
諸葛亮の作った組織は、諸葛亮にしか動かせなかったんだろうな。

蒋琬は諸葛亮より後継者に指名され、当初は独裁体制もある程度受け継いだが、
結局は権力を複数の人間に分散させる方法を蜀漢はとっていったしね。

独裁官体制の如きだった諸葛亮時代、様々な職を一人に集中させるローマ皇帝のような蒋琬時代前期、
その体制が行き詰まり、蒋琬に集めていた権力を複数の人間に分散させるようになった蒋琬時代後期。
個人的にはそんな感じで捉えてる。

417 :奇矯屋onぷらっと ◆a..l..g..o :2011/02/05(土) 01:17:08 .net
諸葛亮は日本でも造ろうとしていたのか。

418 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/05(土) 02:01:33 .net
蒋琬では、まとめきれなくなってお手上げになったんじゃないの?


419 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/05(土) 10:10:18 .net
>>418
列伝には賛辞しか書いてないけど、実際には人望や能力が足りなくて失脚したように思える
病気のせいという部分もあるだろうけど

420 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/05(土) 19:38:17 .net
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1295716725/l50

こっちいこうぜ 世界史板の正史三国志スレ

421 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 09:21:09 .net
>>413
出世した後だけではなく,子どもの頃の諸葛瞻の逸話もないから,
死後を含めて諸葛亮の家に行ったこともなかったのかなと。

ただ諸葛瞻は243年に17歳で騎都尉に,翌年には羽林中郎将になっているから,
漢中にいた蒋琬等はともかく成都にいた董允とは会っているはずなんだけどね。


422 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 20:00:15 .net
>>416
自他共に諸葛亮よりも能力に劣るという蒋琬では、最初から独裁体制は無理があったな。
「なんでコイツが後任なんだ」と思われるのは必然で、これは蒋琬の政治能力云々よりも
諸葛亮が才気で握っていた手綱が緩んだ結果だろう。

つまり、蜀という国を担うには、ただ優れた能力があるだけでは認められない。
諸葛亮レベルの能力に加え、徳や実績といった万民が納得し得るものが必要だった。
諸葛瞻が身を立てられたのも、人々が彼の能力以上にそういったものを求めていた
からだと思う。

423 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 20:12:22 .net

自民党の小泉進次郎を見ると諸葛瞻を思い出すんだけど、みんなはどう?
賛否両論だが小泉純一郎のカリスマの後継者として期待されて盛り立てられてるとこなんか特に。



424 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 20:21:51 .net
小泉純一郎自身が三世政治家で、
合肥新城での諸葛恪並の失敗をしてるからな


425 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 21:24:41 .net
周りが三下ばかりだからかも知れんが、小泉進次郎の言ってる事は大体正論で共感できる
並の能力でも有能に見えるくらい、今の国会が死んでるのかね・・・・・・

426 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 23:11:40 .net
ぶっちゃけ、口だけ立派な奴ならいくらでもいるわな。
細川護煕のような無能と無責任の両立してた奴だって、首相になる前は本でも議論でも本当の大天才に見えたし、
今の首相も十五年前は、口とパフォーマンスがすごく立派に見えたから、
首相になってほしい政治家のトップ争い常連だったな。

とりあえず、首相とは言わないまでも大臣ぐらいやらなきゃ分からん。

427 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/07(月) 02:41:12 .net
弁が立つってのは、政治家として大切。
多少大仰でも理念や目的があり、それを理論化して伝える能力は必要。
だが、それ以上に必要なのは責任と自浄能力。
大臣を経て首相になる事は、その人の経験値や成長という点からも有益だろうな。

428 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/07(月) 11:17:42 .net
>だが、それ以上に必要なのは責任と自浄能力。

これが無いくせになまじ弁の立つ奴は害悪にしかならんもんな

429 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/11(金) 12:10:41 .net
三国志の時代の人って低い身分の人はともかく高官の地位にいた人達は
毎日入浴とかしてたのかな?そもそもこの時代に風呂入る習慣とかってあったの?


430 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/11(金) 14:34:03 .net

石鹸もシャンプーも無かっただろうから、ハゲばっかだったんじゃないの?



431 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/11(金) 14:36:35 .net
体臭とかきつそうだよね。
体臭消しの香水的なものくらいはあったんだろうと思うけど。

432 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/11(金) 20:11:53 .net
香水じゃなくて香木だろ


433 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 01:46:42 .net
三国志の人物の肖像画とかあるじゃないですか(劉備や関羽、孔明、瞻等)。
あれってだいぶ後の世になって描かれたものばかりなんですか?
三国時代ないし晋の時代に描かれた肖像画ってひとつも現存してないんですか?

434 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 02:16:39 .net
妄想で描かれた肖像画しか存在しないよ

435 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 19:37:34 .net
a

436 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 21:32:48 .net
そもそも三国時代って史料どれくらい残ってるんだろう?
正史ぐらいじゃないのか?手紙とか日記とかさすがにないだろうし。
後、建物とかドレくらい当時の残ってるんだろう?墓とかに文章刻まれてれば
結構な史料になるんだが。

437 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 22:48:35 .net
>>429

5日に1度入浴。3日に1度洗髪。
身体は布でこすり、顔や髪を洗うのに米のとぎ汁を使い、
服は灰汁で洗った。

と「横山光輝三国志事典」に書いてあった。
参考文献が明記されてないので信憑性にかけるが参考までに。

438 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 22:50:47 .net
>>430
洗った方がはげる説もある。

浮浪者ははげてない人が多いらしい。

439 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/13(日) 00:19:42 .net
>>437
貴重な参考証言d
ちなみに日本の戦国時代の武将らは、サウナみたいな蒸し風呂で発汗してアカ擦りするという
入浴方法だったらしい。今考えると汚い感じがするが。

440 :Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/13(日) 10:46:14 .net
入浴の方法は礼記の内制と玉藻にある。

「五日に一度入浴し、三日に一度髪を洗う(沐)、その間にも、
 顔が汚れれば米のとぎ汁を沸かして顔を洗い、
 足が汚れれば顔の時と同じようにする。」
というのが内制にある。

玉藻には、
「入浴の際は二つの布を用意し、体の上部は絺(細布)、体の下部は綌(粗布)で洗う。
 杅(浴槽)を出ると、蒯の席で足を洗い、蒲の席を踏んで浴場を出る。
 湯上り服を着て体を乾かし、乾けば靴を履き、酒を飲む」
とある。

441 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/13(日) 15:05:07 .net
>>440

礼記なんだね。
どうもありがとう。
図書館で借りてくる。

それにしても古代中国って思ってたより清潔だなぁ。


442 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/13(日) 17:18:59 .net
>>434
じゃあ、孔明の絵やドラマなんかでよく描かれてる、カタツムリみたいな帽子かぶって羽扇持ってあおいでる姿も
後世のイメージだけで描かれてるってこと??

443 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 02:08:41 .net
孔明も鎧着てたに決まってるじゃん、というネタの漫画もあったよ

444 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 08:47:04 .net
八卦村の諸葛瞻の像も孔明みたいな帽子かぶっておんなじような格好してたな。
ただ孔明の服装と色ちがいってだけ。

445 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 10:05:08 .net
>>442
仙人みたいな格好をしているのは演義の影響だな。
ただし綸巾は当時の流行らしいが。
また書画は当時からわりとポピュラーな趣味だったので
当時の肖像画が残って無くても後世に全く影響がなかったとも言い切れない。
言い切れないだけで大半が後世の創作だろうけど。

446 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 13:33:20 .net
ちょい前に曹操の墓暴いて曹操の子孫を称する人達のDNA鑑定するとかしないとかいってたの
どうなったの?
孔明の墓の場所もはっきり分かってるんだよね?
発掘して骨から、どういう容姿してたのか
コンピューターグラフィックで再現してほしいな。

447 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 14:55:31 .net
あの場所に本当に孔明いたっけ?
5世紀くらいから行方不明とWebで見たけど・・・
あやふやな話ですまんね。

448 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 22:48:29 .net
コロッケみたいな顔だったらどうするよ・・・

449 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/15(火) 00:15:23 .net
コロッケWありえるWWW

450 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/22(火) 00:42:12.82 .net
黄皓=董卓
羅憲=曹操

451 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/23(水) 16:38:19.22 .net
孔明って定軍山に葬られてるんでしょ?
どこをどうやったら行方不明とか出てくるの?

452 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/23(水) 22:36:03.37 .net
どこを⇒グーグルで
どうやったら⇒検索ボタンを押す

で出てくるんじゃね?

453 :無名武将@お腹せっぷく:2011/02/25(金) 20:24:34.19 .net
諸葛瞻の墓って現存してるの?

454 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/05(土) 16:14:38.65 .net
最重要拠点に諸葛センを置いたのはなんでなんだろうな。
有能だと思われていたのか。人材がいなかったのか。


455 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/05(土) 22:05:24.75 .net
>>454
中央にいた諸葛瞻以外の有力な将軍がみんな姜維の援軍に行っちゃってたからってだけだよ。

456 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/05(土) 22:54:52.54 .net
羅憲とか残ってたでしょ

457 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/05(土) 23:15:06.78 .net
>>456
えっ

458 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/05(土) 23:53:45.76 .net
永安に守将がいなければ、呉に侵攻されていた。
閻宇の戦力が消えたのは、かなり痛手だったとは思うが・・・・・

459 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 00:40:42.61 .net

イメージはこんな感じであってる?


鍾 会
 ↓     トウガイ
姜 維(対魏)  ↓
        隙間   閻宇と羅憲(対呉)
        ↓
 成都 ←諸葛セン撃破 


460 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 07:31:51.21 .net
>>458
呉に逃げるなんて選択肢もあったのだから,
いっそ何郡か割譲して,援軍を借りる手もあったのでは。

461 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 09:07:42.27 .net
呉からの援軍は丁奉軍なんかが派遣されてた
ただ間に合わなかった

462 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 10:09:51.93 .net
呉を同盟国として選んだ孔明のミスだよ。同盟するなら
信用できる所としないと。

463 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 13:59:46.34 .net
>>462
じゃあ、どこと組めば良かったのか教えてくれ。
魏は漢の後継を自称する以上、絶対に組めない相手だが。
公孫氏と東西から挟撃したら良かったんかね?

464 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 14:57:22.47 .net
蜀からすると呉は信用できない国のようだが、
蜀自体、呉からしても信用できない国なので
ある意味仕方ない。

465 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 17:59:36.49 .net
絶対に組めない相手と組んでこその名政治家だろ。

466 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 19:00:02.52 .net
↑あたまワロスw

467 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 19:11:38.80 .net
>>465
じゃあ、あんたが首相になったら北朝鮮と中国と軍事同盟組んでくれや。

468 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 19:18:30.86 .net
日本の大政治家伊藤博文は日露戦争の時に
あえてロシアと同盟を組んでロシアと戦争するのを避けようとしたんだよ。
まあ日英同盟組まれてなしになったけどね。

469 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 19:18:51.67 .net
あと、ロシアとも!

470 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/06(日) 21:21:15.42 .net
>>468
伊藤の独断で勝手に事を進めたのがバレてイギリスに不信感を与えてしまい、
政府の方針として交渉中だった日英同盟が流れそうになった。
それとは無関係に伊藤の対露交渉が短期間で失敗して
後顧の憂いなく日英同盟締結に漕ぎつけた。
伊藤自身も「イギリスと組めるんならその方がいいんだ」とか言ってる。
司馬小説読み直してこい。

471 :無名武将@お腹せっぷく:2011/03/13(日) 16:55:06.75 .net
あげ

472 :無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 10:34:05.46 .net
諸葛瞻

473 :無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 16:46:21.16 .net
カタカナってまだ懲りてないんだな

474 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/01(水) 20:33:25.80 .net
あげとく

475 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/25(土) 17:14:19.27 .net
なんで魏が本格侵攻してきた時に大特急で呉の援軍求めなかったんだ?
少なくとも永安の守備隊どかして対魏に廻しとけよ

476 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/25(土) 18:16:28.03 .net
大阪市平野区のマンションで無職金玉香さん(61)と次女裕美さん(27)が殺害された事件で、長女(28)が出勤した後の24日午前、マンションの住人が母娘の部屋で大きな物音がするのを聞いていたことが25日、捜査関係者への取材で分かった

477 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/29(水) 15:21:03.84 .net
蛆虫さん

478 :無名武将@お腹せっぷく:2011/06/29(水) 15:34:31.26 .net
金玉さん(61)

479 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/09(土) 09:21:37.89 .net
>>475
援軍は求めてる。ただ呉が直接魏を攻めたので牽制にもならなかった。
永安の守備隊も閻宇が連れて行った。その後の消息が分からないけど。

480 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/11(月) 02:50:07.12 .net
荊州方面の魏軍が担当者の死去で一時的に活動不能状況になってる状況だから
江由や綿竹がもうちょっと粘ることも必要だけど、呉が上手く立ち回ってくれれば、という思いもある

481 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/11(月) 03:26:32.74 .net
呉の主力が情報入ると同時に蜀入りしてたらどうなったかな?

482 :無名武将@お腹せっぷく:2011/07/12(火) 02:05:20.66 .net
孟獲をどう書くか見たかったな公孫淵も

483 :無名武将@お腹せっぷく:2011/10/22(土) 20:46:42.70 .net
age

484 :無名武将@お腹せっぷく:2011/11/15(火) 21:29:27.78 .net
三国時代ってなんでこんなに盛り上がったんだろうね。

485 :無名武将@お腹せっぷく:2012/02/26(日) 10:32:22.09 .net
盛り上がっていた時期とそうでもない時期があったと思う

486 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/12(木) 22:28:01.14 .net
蜀が滅びてからはもはや消化試合

487 :無名武将@お腹せっぷく:2012/09/15(土) 23:09:42.18 .net
砂遊び

488 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/19(水) 00:26:23.07 .net
後半の人物がショボイと感じるのはなぜなんだろう?
単純に演義の盛り上がりに欠けるからなのかな?小説家の責任なのか

489 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/19(水) 02:02:59.16 .net
>>488
前期には演義補正がかかってるからでしかない
戦争技術にしても文学哲学にしても後期のが発達してるよ実際

490 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/20(木) 21:50:33.29 .net
晋の歴史書に三国志後期の人物とか載ってるのかな?
読んだ事ある人いる?

491 :無名武将@お腹せっぷく:2012/12/21(金) 16:31:29.97 .net
>>490
そりゃいっぱい載ってるよ
あと華陽国志っていう、益州の歴史書も現存してるけど
三国志後期を知りたいなら晋書と華陽国志は必読でしょ
センター試験の漢文で満点取れる程度の漢文力があれば、
読んでくうちにだんだんと意味が取れていくと思う
部分的に日本語訳してるサイトもちらほらあるよ

492 :無名武将@お腹せっぷく:2014/01/02(木) 00:15:12.55 .net
ho

493 :無名武将@お腹せっぷく:2014/08/31(日) 19:30:53.42 .net
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494 :無名武将@お腹せっぷく:2014/10/23(木) 19:28:10.22 .net
閻宇ね。馬忠の後任だったあたりの経歴をみるとこの人、普通に良将だったんだろうなあ

495 :無名武将@お腹せっぷく:2015/02/27(金) 22:12:11.28 .net
しかしコーエー三国志では閻宇、低評価だなあ。能力値を見るに

496 :無名武将@お腹せっぷく:2015/03/08(日) 18:55:48.87 .net
閻宇は黄皓と結託してた時点で凡将に感じるな
諸葛瞻や董厥もそうだけど

軍事でも部下の羅憲の方が有能だったから比べると見劣る

497 :無名武将@お腹せっぷく:2015/03/10(火) 06:39:24.06 .net
閻宇とお友達になったら僻地でなく都会に赴任させてくれそう

498 :無名武将@お腹せっぷく:2015/07/28(火) 09:17:14.16 .net
閻宇を記述した陳寿のポジションが見えてくるかも

499 :無名武将@お腹せっぷく:2015/08/23(日) 22:48:07.92 .net
陳寿は羅憲と同じ学問の師の同門
閻宇は羅憲の上司で黄皓と結託していた

成都降伏を聞いて左遷した派閥の上司を葬っても無理はない
記録上は成都に援軍に行く途中で行方不明にすればいいんだからな

500 :無名武将@お腹せっぷく:2015/12/29(火) 22:34:08.75 .net
陳寿も諸葛瞻をどう記述すべきか悩んでたんだろうなぁ

501 :無名武将@お腹せっぷく:2015/12/31(木) 09:10:58.42 .net
閻宇って演義だと悪者扱いな感じ

502 :無名武将@お腹せっぷく:2015/12/31(木) 12:34:18.30 .net
福田こうへい側が前事務所に和解提案へ

503 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/08(月) 16:04:59.46 .net
https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスタクシーサービス不足)(榎本沖縄空港ドナルド凍結バイト)

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(河北なぜ大阪人ヘアカラ福祉バンクビジネス

504 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/26(金) 08:22:37.58 .net
大国に囲まれたほぼ無勝の超〜賎な民は馬や船に乗って押し寄せたヒャッハーなお兄さん達に
go韓され続けたため、その末裔こそが周辺より気性の激しい△△魔となってしまったのは無慈悲
な地政学的宿命。リアル性器待つ覇者○○○○ハーンのYを継ぐ者が現在全世界に約1600万も
いるが貢献大。 恨の文化や起源主張癖は、ドラマと異なる惨めな歴史故だがお陰で若干体格は
良くなりましたとさ。あ〜キムい、キムい。

505 :無名武将@お腹せっぷく:2016/02/26(金) 11:18:47.78 .net
先日 バイキングのお店で食べていたら後から来た近くの席の子を何気なく見たら
顔、手、露出している所に白い亜鉛化軟膏ポツポツと塗っていて
たぶん水疱瘡ではないかと思われたのですが もし水疱瘡だったら 相当 非常識な親だと思い
少し腹立たしく感じてしまったんですが これってどうなんですか?

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