【10:108】変死体
- 1 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/12(金) 09:00:10.48 ID:+X7coeI+c
- https://godtommy0913.amebaownd.com/posts/41066735
- 99 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/23(火) 17:36:38.74 ID:oZ3n4c+BY
- 海上の金貨 ・・・・086
「このミルティアデスが当時ケルソネソスから帰還後アテナイ軍の指揮に当たってい たのであるが、この男は二度までも、死を免れてきたのであった。一度はフェニキア軍 が、彼を捕らえてペルシア王の許へ連行しようと必死になり過ぎて、彼をインブロス島 まで追跡した時、インプロス島の縁故もって捕縛後も放免となった。もう一つは、フェ ニキア軍の追跡を逃れて帰国し、もはや危険はない。と思った矢先に、反対者の者らが 、彼を迎えて裁判にかけて、ケルソネソスにおける統治に専制の罪を弾劾した時である 。この弾劾裁判は、しかし、支持と反支持が拮抗する中で、成り立たない。辛くもこの 反対派の追求の中、弁舌爽やかに強力に不可避を叫ぶ声は、多くの市民の支持を得る。 こうして、無事に切り抜け民会において選出されて、アテナイ軍の司令官に任命された のである。(『歴史』巻6の104)元々、「将軍(ストラテゴス)」の職は、前508年の、 クレイステネスの改革で、新たに設置された軍事職であった。アリストテレスの『アテ ナイ人の国制』によれば、「将軍たちや、騎兵長官たちや、その他の軍事関係の役人達 の全てが、選挙や民会で 民衆の決定する仕組みと仕方で行われる」のである。この、 (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 100 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 11:18:51.14 ID:r1yQ4+xW6
- 海上の金貨 ・・・・087
紀元前 590年に、ペルシア軍のマラトンへの上陸が伝わると、直ぐに民会が開催され る。ミルティアデスの建議に従って、マラトン平野での防衛と、迎撃は決定された。が 、このアテナイの最高決定機関の民会であったが、民会で、戦争をするかどうかの最終 決定はなされたのであるのだが、地場宗教、恐らくは拝火教の流れの、ギリシャ宗教の 巫女や神主、つまり、聖職者や宗教家の意見も加付された。そこが王政とは、全然違う 処であるが、この時に、アテナイに王が居なかった訳ではない。この聖職者こそ王だっ たのである。しかし、ペルシア相手に戦うかどうか、そして、マラトンまで出かけて行 って戦うのかどうか、の決定には、大勢を見守るしかない。此の時の王とは単なる部族 の長であったり、教徒や信徒の長であり、乱立した王権の集まりの議会は、時代を超え 、残されて来た会議だったはずだ。そうした中ミルティアデスが、大きな役割を果たす 。ペルシアと戦うべし、という決定に従い、具体的な、手順と現実的内容である。基本 的に、アテナイの食糧事情は、此の時既に輸入小麦の確保がこの国の生命線であった。 黒海ルートがペルシアによって断たれる。そうしたことも、大きな説得材料になった。 (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 101 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 11:56:49.65 ID:r1yQ4+xW6
- 海上の金貨 ・・・・088
カルネイア祭は、今では、農業と軍事の祈願祭になって伝わる。およそ元々アポロン への贖罪のために開催された。と言われる。贖罪の理由は、予言者カルノスがヘーラク レイダイによって、殺害されたことによるものだ。カルノスは、アポロンのお気に入り の孫だったが、スパイ容疑をかけられて、命を落とした。この祭りは、このカルノスの あらぬ罪を着せられて死んだ彼を悼み、アポロンに贖罪するために始まった。と考えら れている。アカルナーニア人(ギリシャのエトリア)の予言者であったカルノスは、ア ポロンのお気に入りであった。しかし、カルノスはナウパクトスからペロポネソスへ、 移動する最中だったヘラクレイダイによってスパイ容疑をかけられ、殺されてしまう。 アポロンは激怒し、ヘラクレイダイの軍船を尽く破壊し、疫病を降り罹らせた。神託に よって、アポロンの怒りを知ったテーメノスは、カルノスの殺害者であるヒッポテース を追放して清め、鎮魂のためにカルネイア祭を創始した。と言う、ヘラクレイダイは字 義どおりに解釈するならば「ヘラクレースの後裔」の意であり、神話時代のヘラクレス の子孫と、その末裔を称する歴史時代の諸王家を指すが、ギリシア神話では通常、ヘラ (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 102 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 11:57:11.72 ID:r1yQ4+xW6
- 海上の金貨 ・・・・089
ヘラクレイダイの最大の協力者、ドーリア人の王アイギミオスは、国難をヘラクレス に救われたことに感謝して、英雄の息子ヒュロスを養子とした。さらに国土を3分して 、自分の2人の息子デュマース、パムピューロスと、ヒュロスに分け与え、王の2人の 息子達もヒュロスらヘラクレイダイの帰還に協力した。しかしヘラクレイダイがペロポ ネーソスに帰還を果たしたのはヒュロスから3代後のことだった。何故だかこの祭りは 国事とされて、国家の共通意識に大事な物だった。従ってこうしてスパルタからの援軍 は、結局、マラトンの戦いには 間に合わなかったのだ。スパルタ軍の到着が、遅れて いたこともあって、将軍たちの 戦略の軍会議では、「見解が二つに分かれ、一方は ペルシア軍と戦うには、自軍の兵力が少ない。という理由での交戦することの不可を説 き、ミルティアデスを含む他の一派は、交戦すべきことを、主張した。ここは生きるか 死ぬかの決断である。司令官達は真剣に、真顔の話し合いである。住民や市民をバック に戦うミルティアデスは、占領に至っては悲惨な虐待が待っている事を、ミティアデス は知っていた。しかし、それにも関わらず、司令官たちの見解が二つに割れ、しかも、 (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 103 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 11:57:43.36 ID:r1yQ4+xW6
- 海上の金貨 ・・・・090
ミルティアデスは、軍事長官のカリマコスに、「戦えばわが祖国は独立を保つのみな らず、ギリシア第一等の国となる。」と、説得して味方につけてから、軍議を制した。 要するに、スパルタの援軍の到着をまたずに 戦うことを決定したのである。戦いを引 き延ばせば延ばすほどに,内部分裂はひどくなるとの見立てがミルティアデスにあった 。ということである。ペルシアとの戦いに勝利するまでのアテナイは、決して大国とは 言えず、国内政治は、親ペルシア派と親スパルタ派との争い、それに反僭主政がからん でいる。という状況であった。僭主政を倒して、民主政の基礎を築いたクレイステネス は、スパルタ、及びスパルタの援助、のもとで力を奮っていた寡頭派との対抗上、ペル シアと親密にしていたのだが。前 508年のクレイステネスの改革の後も、僭主派の残党 がなお健在であって、彼らは今や、クレイステネスが属した旧敵アルクメオン家と、反 スパルタ親ペルシアという一点で手を結んでいたのである。そもそも、アテナイの場所 は、全く、農作物に適していない、痩せた大地である。対してスパルタには、スパルタ 平原で、自国で、地産地消の自給生活はとりあえず出来る場所だ。アテナイのごつごつ (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 104 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 16:02:10.57 ID:QzOWcG8Q+
- 海上の金貨 ・・・・091
そうした事は、戦場での、軍議にも反映しており、それだけにミルティアデスは、ス パルタの援軍を待つという口実で、戦いを先延ばしすれば、内部分裂でアテナイは自壊 すると判断したのである。しかし、時は過ぎ、いよいよマラトン平野で、ペルシアの、 遠征軍とアテナイ・プラタイアの連合軍が対峙したのである。ペルシアの遠征軍は軽装 歩兵、弓兵、騎兵を展開した。中央部に主力を配し、陣を張る。戦いに参加したのは、 ペルシア軍25,000と推定されている。これに対して、弱小アテナイは、約九千人。一万 にも満たない、プラタイアからの援軍約千人の連合軍を足しても、半分である。その差 は2倍以上あったのだ。強制動員された臣民、対自由な市民軍の対決である。アテナイ ・プラタイア連合軍の指揮官は,ミルティアデスであったが「ミルティアデスに、指揮 当番が巡ってきた時」と、ヘロドトスが述べているように、10人の将軍は日替わりで、 全体の指揮権を持っていた。ミルティアデスは、アテナイ・プラタイア連合軍の、戦闘 隊形の横の長さを、ペルシア軍と同じにし,兵士の少なさを密集方陣の厚みで工夫した 。この時にマラトンに布陣したアテナイ軍の、陣形には次のような特異点があった。ア (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 105 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 16:02:33.65 ID:QzOWcG8Q+
- 海上の金貨 ・・・・092
ミルティアデスによるアテナイ・プラタイア連合軍の陣形は、このようなペルシアの 戦いの逆手をとったものであった。その人員によって圧倒的に不利なアテナイ・プラタ イア連合軍が、ペルシア相手に圧倒的な勝利を収めることができたのかについての考察 は後ほど行うことにして、戦いの推移を簡単に語れば。ヘロドトスによれば,「陣立て を終わり、犠牲の卦も吉兆を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足で、 ペルシア軍に向かって突撃した。」両軍の間の距離は,8スタディオン(およそ1500m) であったという。「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て、迎え撃つ 態勢を整えていたが、数も少なく、それに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるの を眺めて、「狂気の沙汰じゃ。全く自殺的な、狂気の沙汰じゃ」と罵っていた。しかし 、「一団となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに 足る目覚ましい戦いぶりを示した。「マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。」戦 線の中央部は、「ペルシア軍は、敵を撃破して内陸に追い進んだ。」が「両翼において はアテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。」まさにミルティアデスが予想した通り (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 106 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 16:03:00.75 ID:QzOWcG8Q+
- 海上の金貨 ・・・・093
そこでは、クセルクセス王は、「わしの親衛隊のペルシア人の内には、一時に3人の ギリシア人を相手にしても、喜んで戦う。と、申し出る強つわもの者もいる。のだぞ」 と述べている。ペルシア軍は、騎兵で相手の両翼を攻めて中央に寄せ、そこを弓兵によ って、相手方の損害を招き、士気を落としたところで、中央から撃破するというもので あった。が、基本は個人の武勇に頼る個人戦であった。これに対して、ギリシア兵には 、「ホプロン」と呼ばれる 直径約80〜100cmで、つまり1m弱の 浅い鉢のような独特 の盾を持っていたのである。彼らの俗称が「ホプリタイ」と呼ばれていたのは、この盾 に由来していた。ホプロンは、腕と手の二箇所で支えるダブル・グリップ盾で、中央部 に取り付けられた。つまり握る通常の盾でなく、腕にバンドで取り付ける盾であった。 細長い革か、金属の輪によって左腕を肘まで通している。縁の部分についた紐あるいは 革の握りをもつようになっている。盾を前腕でしっかりと固定することが可能であった 。盾は身体の左側に大きく出て右側はかなり露出される。その露出された部分を、自分 の右側にいる人の盾に入れて守り、他方自分の盾で左側にいる人の身体を守り、自分の (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 107 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 16:03:21.10 ID:QzOWcG8Q+
- 海上の金貨 ・・・・094
これを防ぐのは容易ではない。ペルシア兵の槍はギリシア兵の槍よりも短いので使い やすいが、こういう戦闘戦術に長けて、充分に防御され更に、計算された攻撃には不利 であった。幾重もの槍ぶすまを作っている密集陣を、突破するのは至難の技で、ペルシ ャ軍には不可能であった。このギリシアの密集方陣の戦いとペルシアの個々の兵との戦 いの様子を、プラタイアの戦いについてヘロドトスが書いている。ペルシア兵は勇気も 力も劣らなかったが、ギリシャ人の様な堅固な武装を欠いた上に、戦法を知らず戦いの 巧みさでは、到底相手の敵ではなかったのだ。彼らは単身または十人、乃至その前後の 人数が一団となって飛び出してゆき、スパルタ軍中に突入しては、次々と討ち果たされ ていったのである。(ヘロドトス『歴史』巻9の62)結局 これは組織的に構成された力 と、ばらばらな個人の力との戦いで、勝敗は自ずから明らかであった。数時間の戦闘で ペルシア兵の戦死者は6400人であったが、アテナイ軍の戦死者は わずかに192名であり 、プラタイア軍の戦死者はそれよりも少なかったという。戦死者率は 30対1という、驚 くべき結果だった。この数値は,隊列を組んで平坦な地形で戦う重装備の槍兵の破壊力 (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
- 108 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2024/04/24(水) 16:03:42.99 ID:QzOWcG8Q+
- 海上の金貨 ・・・・095
重装歩兵の密集方陣の戦いが意味をもつのは,それが隊形を崩さず密集したまま、 整然と敵にあたる時である。コンピュータシミュレートで研究で、駆け足突撃によって ,隊列は最大で35%の、整然性を失う結果に至る。この戦い方では、威力はかなり失わ れる。さらに興味深いのは、1973年に、10人の体育大学の学生を使った実際の実験結果 で、学生に6.8kg の装備と4kgの盾を持たせた状態での隊列を組み1kmの距離を走ら せる実験が行われた。その結果では、誰一人として盾を胸の前に構えた状態で、78.5m 以上を走れなかったのである。274.3m の地点で隊列が崩壊し、最終的にゴール1,4km に到達したのは、長距離選手ただ一人だった。翌年に同じ実験を繰り返したところでも 230m 地点で、隊列が崩壊し、完走者はいなかった。つまり人力からも予想できる結果 で、このことから考えても当時のアテナイの重装歩兵がいくら丈夫であったとしても、 実験に参加した体育大学の学生よりも、3倍から4倍も重い装備をもって、1,500m も 駆け足で突撃することは、例え超人であっても、土台無理なようだ。となると、これは ペルシア軍とアテナイ軍と間違えて記述した可能性が高い。一方ペルシア軍の戦術は、 (省略されました。全て読むならスレ表示で。。。)
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